1955年まで
1953年1月 1953年7月 モンカダ襲撃 1953年8月 1954年 1955年
1921年
1.06 クラウダーは戦艦ミネソタに搭乗しハバナに入る。3月15日を期して選挙をやり直すと発表。メノカルから全権を取り上げ新選挙法を制定.
3.15 クラウダーが監視役となり,やり直し選挙.JMゴメスが立起を取りやめたためサヤスが無投票で当選.
4.07 クラウダーが選挙の最終結果を確定。これにもとづき米政府がサヤスの大統領就任を承認。メノカルは国庫から2500万ドルを着服し引退.この時点でキューバの対外負債は8千5百万ペソに達し,事実上の破産状態.破産した政府はモルガンから5千万ドルを借りて急場をしのぐ.モルガンは監視役としてクラウダーを指名.ナショナル・シティー・バンクがキューバ金融界を一手に握る.
4.28 キューバのカパブランカ,世界チェス選手権で優勝.
5.20 サヤスが新大統領に就任.ハーディング新大統領の信任を受けたクラウダーは,キューバ財政顧問に就任.みずから閣僚を指名し,財政再建計画を立案.苛酷な経済再建条件をおしつける.以後の数年間に米国資本への集中進む.米国の対LA投資の1/4がキューバにあてられる.
6 ホセミゲル・ゴメス,ニューヨークで客死.
12 粗糖価格,さらに1.8セントにまで低下.この年,砂糖生産は400万トンを越えるが,市況低迷のためその後の20年間は400万トン以下にとどまる.ナショナル銀行系の砂糖会社を中心に砂糖製造業協会設立.
21年 ハバナ大学,クラウダーに名誉学位を授与.学生はこれに抗議する声明を発表.指導者にバスケット部の花形選手フリオ・アントニオ・メリャ.干渉反対を掲げるデモ,ストが続発.
1922年
2.15 カマグエイ駐留の米軍部隊が撤退。
6月 クラウダーの注意深い監視の下に新内閣が組織される。この内閣はマスコミから「正直な内閣」とあだ名をつけられる。
6月 キューバ議会、クラウダーの内政干渉を非難する決議を採択。
11 クラウダー使節団,任務を終え解散.クラウダーは引き続き駐ハバナ大使として残留,全国を視察して「清潔な政府」の建設を訴える.
12月 ブエノスアイレス大学のホセ・アルセがハバナで講演。コルドバから始まった大学改革運動の経験を紹介。終了後、参加した学生たちが学生連合指導部(Directorio de la Federacion de Estudiantes)の結成を決議。
22年 いまや数少ない独立戦争の生き残りとなったマヌエル・サンギリー、キューバの土地を外国人に売り渡すなと警告。
22年 砂糖不況のため,「外国人労働者規制法」が復活.
22年 ポーランド生まれの活動家ファビオ・グロバルト,キューバに移住し洋服屋の助手となる。ただちに精力的活動を開始.
ファビオ・グロバルト: 1905年、Bialystok(ポーランド)生まれ。ユダヤ系で旧姓はAbraham Simkovitch。ポーランド共産青年同盟の活動家となり、終身刑を宣告された後キューバに逃れる。コミンテルンから派遣されたとの情報も多い.キューバではアントニオ・ブランコと名乗ったこともある。
22年 アルフレド・ロペス,印刷工組合を基礎にハバナ労働者連盟(FOH)を結成.ホセ・マルティ人民大学を組織するなど活発な活動を展開.
1923年
1月 モルガン・トラスト,キューバに対する5千万ドルの融資で合意.キューバの米国への経済的従属はさらに強化.融資を受け取ったサヤスはただちに「清潔な政府」のメンバーを更迭.その後は最悪の売国・腐敗政権となる.
2月 メリャを先頭とする学生が大学を占拠,腐敗した無能な教授の追放,教科書の刷新,学生の自治の拡大、すべての国民への自由教育を要求する.多くの要求をかちとる.
3.18 ハバナで科学アカデミーの総会。ルベン・マルティネス・ビリェナは招待講演を行ったエラスモ・レギフェロス・ボウデト外相にブーイングを鳴らす。ビジェナは政府の腐敗を糾弾した後退場、これに13名が付き従う。
3.19 ルベン・マルティネスら、民族主義を鼓舞する「13人の宣言」を発表。時代を代表する青年知識人が名を連ねる。ミノリスタ(少数派)グループとよばれる.
ミノリスタ・グループ: ホルヘ・マナチ(Manach)、ファン・マリネーリョ、フランシスコ・イチャソ(Ichaso)、ホセ・タレト、カリスト・マソ、アルベルト・ラマー、フェリクス・リサソら。アレホ・カルペンティエールについては異説がある。
3月 ルベン・マルチネス,「ペテン師どもを権力の座から追い払うにはダイナマイトが必要だ」と宣言し地下活動に入る.
5.23 「13人宣言」署名人の一人カルペンティエールは、ニコラス・ギリェンらとはかり、ネグリスモ運動を起こす.
5月 シエンフエゴスではラレード・ブルに率いられた古参兵数百人の反乱計画.サヤスはシエンフエゴスにおもむき反乱軍と和解.
10.15 メリャを議長に,第1回全国学生大会.全国128人の学生代表が大学学生連盟(FEU)を結成.マルクス主義の影響を強く受ける。
10月 メリャ,FEUを基盤とする政治組織「キューバ反帝同盟」の指導者となる.ソ連孤立化政策反対.インド,フィリピンなどの独立運動支持を決議.人民大学運動を提起.
11.03 FEUのてこ入れを受け、ホセ・マルティ人民大学が創設される。若い左翼知識人のための結集点になる。
23年 ファビオ・グロバルトら、ハバナ共産主義協会(Agrupacion Comunista)を形成。
1924年
2.02 鉄道労働者組合結成.ただちに3週間のスト入り.メリャら,労働者と結びつきをはかり「ホセ・マルティ人民大学」の運動を開始.タバコ工場労働者の大規模なストを組織.
4.01 殖民会社「海興」の取扱う「第1回キューバ移民」の20人がハバナに到着.そのままトゥリニダーの砂糖農園に入植.その後2年間で18回の移民団がキューバに入る.
4 退役兵士への年金未払い深刻化.ベレスの率いる「退役兵と愛国者の委員会」,サヤス政権の腐敗に抗議し武装蜂起の計画.クーリッジ大統領は反乱者への武器禁輸と,サヤス政権への軍事援助を実施.反乱反乱は不発に終わり,首謀者のルベン・マルティネスは,亡命中のフロリダで逮捕され,オカラ刑務所に収容される.
6月 大統領選レースが始まる。保守党からは黒人虐殺で名を上げたメンディエタ将軍が立起。自由党からはヘラルド・マチャード・イ・モラレスが出馬。ポプリスモと民族主義的政策をかかげる.一方で50万ドルの選挙資金をばらまく金権選挙。
マチャド: 元肉屋兼家畜泥棒.独立戦争中に武器密輸で頭角を現わし,戦後は電気業界で実力者となる.ゴメス前大統領のラスビリャス州知事時代にサンタクララ市長を務め,そのひきで中央政界に進出.
7月 マチャド、社会開発を中心とする10項目公約を発表。「水道,道路,学校」をスローガンに勢力を伸ばす。
10.19 メノカルの乗るサンチアゴ行き列車が狙撃される。巻き添えで一人が死亡。
11.01 マチャドが学生の支持も得て当選.ピナル州以外のすべての州で勝利を収める。マチャドの親米的本質を知る米国の債権者と国内地主資本家層はこれを黙認.
1925年
2.15 ハバナ労働者連盟(FOH)を中心にシエンフエゴスとカマグエイの労働者組織が結集し,キューバ全国勤労者総連盟(CNOC)を結成.128団体20万名を結集する全国組織となる.カマグエイで結成大会.CNOC結成にあたり指導的役割を果たしたアナーキスト系組織PCCも勢力を拡張.
2 ユナイテッド・フルーツ社労働者の蜂起.メリャらFEUが全面的に支援.
3.13 米玖間にヘイ・ケサダ条約が締結.米国はマチャドへのプレゼントとしてピノス島に関するいっさいの権益を放棄.
5.20 マチャード,第5代大統領に就任.「自由党の大統領は再選されることはない」と宣言.国務長官にはセスペデスの息子カルロス・マヌエル・セスペデス・ケサダが就任.ハバナとサンチアゴを結ぶ総延長1144キロ,工費1億ドルの中央ハイウエイ建設に着手.さらに議事堂,オペラハウスの建築など土建屋政治を展開.政府の負債は9千万ドルから2億4千万ドルに増大.
Fonerによれば、「彼の任期の最初の2年は、多くのキューバの希望を成し遂げた。政府は、正直だった。産業保護、農業の多様化、砂糖業界を管理する法律が策定された。公共事業計画や中央ハイウエイなどの道路建設も順調に進み、多くのキューバ人に仕事を与えた」
5月 メリャは当初よりマチャドの変質を予測,まもなく「熱帯地方のムッソリーニ」と激しく攻撃.
7 マチャドと電力会社の癒着を暴露した「エルディア」紙編集長,テロリストの手にかかり暗殺.マチャドはこのあと急速に変質.テロ,拷問,脅迫などにより反対派を圧殺し独裁政治をしく.ただしFonerによれば、最初の2年間は著名人を閣僚に配し比較的清潔な政治をおこなったとされる.
8.16 ハバナ共産主義協会を中心に全国の共産主義者を集め、ハバナでキューバ共産党の結成大会兼第一回大会が開催される.コミンテルン・キューバ支部として承認される.労働戦線の組織化に力を集中.
キューバ共産党の創設者: 主な創設メンバーは、労働運動の指導者として社会党のカルロス・バリーニョ(当時74歳)、学生運動の指導者として反帝同盟のメリャ,民族派代表として愛国者委員会のルベン・マルティネス、元アナーキストのアレハンドロ・バレイロ。ほかにフアン・マリネーリョ、ヘスス・メネンデス、C.R.ロドリゲス、ラサロ・ペーニャ、ブラス・ロカ、アニバル・エスカランテ、エミリオ・ロイグら。さらに地方代表としてマンサニーリョの労働者党,移民労働者のファビオ・グロバルトら17人が参加.
9 マチャド,1ヶ月あまりのあいだに数百人の労働運動指導者を逮捕,あるいは国外追放処分に処す.
9.25 メリャ,ハバナ大学を放逐されたあとテロの疑いで逮捕.
11.27 メリャ,19日間にわたるハンストにより釈放をかちとりメキシコに亡命.
12月 保守党指導者のウィルフレード・フェルナンデス、「マチャドの計画は愛国心で満たされている」と讃え、反対者を「非国民」と非難。
1926年
4.29 砂糖生産過剰となり暴落.政府は砂糖の生産統制に乗り出す.
5.03 議会は砂糖生産量を前年の90%に制限するベルデハ(Verdeja)法を承認。環境保護のため新たなサトウキビ農地の拡大は禁止される。砂糖の対米輸出額は200万ドル以下にまで減少。
ベルデハ法の影響: 生産統制政策により米国資本の支配がさらに強化され,砂糖生産の63%が米資本の手に集中.キューバ・アメリカ砂糖会社,ユナイテッド・フルーツ社など大手4社による砂糖独占体制確立.輸出に占める砂糖の比率は85%に達する.またキューバ総生産にしめる米国系企業の割合も63%に達する.鉱業,電話,電力,鉄道,石油精製などで独占的地位を獲得.
8.13 フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルス、オリエンテ州マヤリで誕生(H.マシューズ,コンテ・アグエロらは26年説を採る).
カストロの家庭: 生家はマヤリ郡ビラン・バリオのマルカネという町の近くにあるマカナ(マナカス?)農場.父アンヘルはスペイン北西部ガリシア地方の出身。第二次独立戦争に従軍。その後再度キューバにわたり、スペイン陸軍に馬を売る業者となる.
終戦後は砂糖キビ輸送業者を表看板に掲げるいっぽう、マヤリのUF社の依頼を受け,密入国ハイチ人労働者(マチェテーロ)を送り込むエージェントとして成功した.ロシア革命後の混乱期には,亡命してきたユダヤ人を米国に密入国させるビジネスも行ったという.アンヘルの資産総額は500万ドルに達し、農園内には使用人など300家族が生活していたという.10.19 大型のウラカンがピノス島を直撃.被害を受けた米国人農園主の多くは本国へ引き揚げる.
26 マチャド,ホセ・ミゲル・ペレスPC書記長を国外追放.ホセ・ピネダ・ビラボアが書記長に就任.
1927年
3 マチャド,コーポラティスモを掲げ,議会の翼賛化に成功.大統領の再選を可能にし任期を6年に延長するように画策.憲法改悪案を議会に提案.翼賛化した議会はマチャドに再出馬を要請.
6 大統領任期を延長する憲法改悪案が成立.これを機に、議会とマチャドによる独裁体制が確立する。
6月 マチャドの居座りに抗議してハバナ大学学生を中心とする反政府行動拡大.学生幹部団(Directorio Estudiantil Universitario: DEU)を組織,地下新聞「アルマ・マテール」を発行.
学生幹部団(DEU): 当時、学生運動の主導権を握った反共・反独裁の学生が結成。アントニオ・ギテラス・オルメス,エドアルド・レナト・チバス・イ・リバス,プリオ・ソカラス,アントニオ・バローナ,イネス・セグーラらが指導。
ギテラス(アイルランド系の移民の子)は放校処分を受けたあとオリエンテ州で地下活動に入る.チバスは国外追放処分を受ける.6月 共産党影響下のグルポ・ミノリスタ,「ヤンキー帝国主義に反対して,経済的独立のためにたたかう」と宣言.
10月 砂糖保護法が成立.砂糖価格防衛委員会と砂糖輸出委員会が創設される。サフラを87日間に短縮,収穫量を4百万トンに抑える.他の砂糖輸出国が一斉放出をおこなったため効果なし.
27 マチャド,軍部の支持を得て学生のたたかいに対し強権発動で臨む.共産党や労働総同盟も反対行動を強化.ピネダPC書記長は死の脅迫に屈伏し任務放棄.ホアキン・バルデスが短期間代行したあと,メキシコ亡命中のメリャが書記長となる.
1928年
1.16 ハバナで21カ国が参加して第6回汎米会議開催.内政不干渉決議は米国の反対にあい流産.
3.05 制憲議会選挙が施行される。大統領再選を可能とする憲法改正のためのもの。カルロス・メンディエタ大佐の国民連合(Union Nacionalista - UN) は選挙をボイコット。
3.31 ハバナ大学を舞台に第2回国際移民会議が開催される.37ヶ国が参加.
4月 教授と当局者からなる大学評議会、マチャドの指示を受け懲戒裁判所を設立。アウレリアノ・サンチェス・アランゴ、エドアルド・チバス、アントニオ・ギテラスら学生活動家を放校処分とする。
6.14 アルゼンチンのロサリオで、チェ・ゲバラが生まれる.本名はErnest Guevara de la Serna.
8月 国民連合の抗議を受け、議会の半数が改選される.マチャド派が圧倒的多数を占めることとなる.マチャドは任期を6年に延ばす改憲工作を開始.
11.01 マチャド,憲法改悪を強行.自由,保守,人民党以外の政党から大統領選に立起することを禁止,最大のライバルであるカルロス・メンディエタの出馬を阻止することに成功.保守党、人民党はマチャドを推す。
11.01 大統領選挙。マチャドが無投票で再選を果たす.
28 クラウダーに代わり,ノーブル・ブランドンがハバナ駐在の新米国大使として赴任.
1929年
1.10 メリャ,メキシコ市内の路上で,マチャドの放った刺客により背後から射殺される.(これに関しては有名な「異説」があり、いずれ文章にして紹介します)。国内での闘争指導はルベン・マルティネスが担当.
3.4 フーバー.米大統領に就任.
3月 議会で米国の干渉を拒否する議員提案が可決される。「外国勢力の介入または妨害をもとめるキューバ人は、何びとといえども」終身刑に処せられるだろうというもの。米国の圧力を受けたマチャドは、この提案に対し拒否権を発動。
5.20 マチャド,対立候補の出馬を禁じた「選挙」により二期目の大統領に就任.国民党ら反対派,任期延長は無効との訴訟を起こす.マチャドは反対派を武力により弾圧.「屠殺者」とよばれる.ハバナ大学生理学教授で医学部長もつとめたグラウ・サンマルチン,文学部教授のフアン・マリネーリョ,クエルボ・ルビオらが反政府活動でピノス島監獄に投獄.
6.22 理髪師に対し資格試験を課す「理髪試験法」制が導入される.日本人排斥のねらい.8割が不合格となり,直ちに営業停止処分を受ける.
11 大恐慌到来.砂糖は半分以下に値下がりし, 2セント台を割り込む.最低記録は0.57セントまで落ち込む。対米輸出額は恐慌前の2割以下に減少.
12 ワシントンで「日玖通商暫定取極」を締結.居住と通商・航海・関税に関し,相互に最恵国待遇を与えることとなる.
1月 恐慌により政府の財政運営が危機に瀕する。政府、兵士を除くすべての公務員の賃金を一律引き下げ。
1月 大衆闘争を弾圧する新法が制定される。政党もしくは未登録グループによるデモが禁止。
3.20 労働者総同盟(CNCC),ハバナで24時間ゼネストに成功.政府は労働者総同盟を非合法化.
3月 全島で、給与支払いの遅れに抗議する教師・農業労働者の抗議デモが展開される。
4.19 最高裁,政府の反マチャド集会禁止は違憲と判断.これを機に反政府行動拡大.ハバナでは連日5万を越す集会.共産党の指導下にある全国総同盟はゼネストを指示.
4.20 製糖工場のゼネスト決行.ルベン・マルティネスの指導する砂糖労働者を中核に20万労働者が参加し,48時間のゼネストを成功させる.国内はマヒ状態に.ラスビリャス州北部海岸エンクルシハダ(Encrucijada)に設立された共産党組織に18歳の黒人砂糖労働者メネンデスも参加. 「砂糖キビ畑の将軍」と賞賛される.マチャドは「私は5分間以上のストを許さないだろう」と宣言し,弾圧に狂奔.ルベン・マルティネスはそのまま国外亡命,ソ連での結核療養生活に入る.コミンテルンの執行委員となる.
4.26 ハバナに日本公使館が開設される.
5 メノカル元大統領を指導者とする反マチャド保守派は国民党を中心に国民同盟を結成.
5.19 国民同盟、ハバナ近郊のアルテミサで創立大会。軍隊が介入し8人が射殺される.メノカルやカルロス・メンディエタなど保守党幹部は亡命,武装蜂起の準備に入る.
5.28 鉄道労働者がゼネスト入り。軍が鉄道を管理し、運営に当たる。
5.30 マチャド、国民同盟への暴力事件について全責任を負うと表明。国民同盟との関係修復を図る。メノカルは政府を批判する声明を発表。
5 官憲の監視下に大学再開,学生は入校を拒否してデモに移る.官憲の襲撃により学生一人が虐殺される.カルロス・エビアら亡命活動家はマイアミに反マチャド委員会を結成.
8 議会の半数の改選.マチャドは違憲訴訟を差し止め,国民党から結社の自由を奪うなど,強硬策に出る.アルテミサでは国民党事務所に発砲.
9.30 ホセ・ソレルの指導する学生革命幹部団(DEU)が街頭デモ.独立戦争の英雄エンリケ・ホセ・バロナ教授の決起のよびかけにこたえる。大学周囲を包囲した官憲はデモ隊に襲い掛かる。この弾圧により幹部団の一人ラファエル・トレホが射殺される.
10.01 全国で反マチャード行動が高揚.マチャドは「モスクワの命令に従う」学生を非難。憲法を停止し、反政府行動に対し「躊躇なく行動する」と声明。
10.04 マチャドは非常事態令を発動。憲法上の保障を停止。すべての学校を閉鎖.さらに3年間にわたり大学を閉鎖.
10月 闘争のなかで学生革命幹部団が勢力を伸張.マルクス主義の影響を受けた学生らは、学生幹部団から分裂.独自に「学生左派(AIE)」を結成.マヤコフスキーの詩の一節「演説はもうたくさんだ.今度は君の番だ,同志モーゼル銃よ!」をスローガンに掲げる.
学生左派の主要メンバー: ハバナ大学法学部のアウレリーノ・サンチェス・アランゴ,ラウル・ロア,ラミロ・バルデス・ダウサ,アルベルト・サウメル,ガブリエル・バルセロ,パブロ・デラ・トリエンテ,マルコス・ガルシア,チャールス・シメオン,ホセ・ボルヘス,テテ・カスソ,サルバドル・ビァセカ,(サンチェスは後に変節.ラミロ・バルデスはM26のバルデスとは別人).
11.11 ビナル・デル・リオ、サンティアゴ・デ・クーバ、サンタクララなどの地方都市で、学生が「武装デモ」を展開。
11月 すべての学校が閉鎖される。島で最も古い新聞「ディアリオ・デ・ラ・マリーナ」にも一時出版停止処分が課せられる。
11月末 米国は事態を沈静させるためブランドンに代えグッゲンハイム大使を任命.
12.28 官憲、反政府派の秘密拠点となっているとの疑いで、ハバナ・ヨット・クラブを閉鎖。
30年 米国,砂糖関税を2倍化.砂糖,キューバ総輸出の9割を越える.米国砂糖産業の資本投下は東部に集中.オリエンテ,カマグエイ両州の砂糖生産高は全体の過半を占める.
30年 スペインのガルシア・ロルカ,3ヶ月にわたりキューバを訪れ,男色にふける.この経験を元に戯曲「人々」を執筆.
1931年
1 移民入国数を制限する「歩合移民法」が議会で成立.
1.04 マチャード,チバスら学生幹部団メンバー全員を逮捕しピノス島へ送る.ギテラス,オリエンテ州で反マチャド蜂起を組織するが失敗し逮捕.
1.29 政府、「非常税」法を公布。財政危機を打開するため一連の新しい税を制定。規定の制度についても税率をアップさせるなどの措置。
1月 コスメ・デ・ラ・トリエンテら,「誠実と理解」を訴え,マチャドとの和解を図る.マチャドはこれに強権でもって応え,多数を逮捕.反政府活動の罪でピノス島へ送る.
2.14 マチャド政権、ラモン・グラウ・サンマルチンら大学教授85人を逮捕。政府の打倒を扇動し陰謀を図ったとの疑い。サンマルチンは当時ハバナ大学医学部長で生理学教授。
3 マチャドは反乱の動きに対抗してポルラと呼ばれる準軍事組織を結成.また米国の援助を得て,テクニシャンと呼ばれる拷問の専門家を多数養成,徹底した人民弾圧策に出る. またサンチアゴではアルセニオ・オルティスが反対派を次々に粛清.
ポルラ(Porra): スペイン語で棍棒のこと.残虐な拷問と容赦ない殺人の繰り返しから,こう呼ばれた.町内ごとに組織され、反対派をスパイしては片っ端から暗殺.ポラの司令官にはフェルナンデス・ロスがついた。
6.03 ラウル, ビランの農場でアンヘル・カストロの第五子として出生.
6.21 議会、憲法保証の停止を追認する。
6.30 最高裁、「非常税」に関するすべての訴訟を一括して却下。
7.09 学生革命指導部は市街地で自動車とトミーガンを使ったテロ作戦に出る.突撃隊司令官アインシアルト・カルボ、街路から撃たれ死亡。DEUの手によるものとされる.弾圧部隊は直ちに激しい報復作戦に乗り出す。
8.10 メノカル,メンディエタらの指導する国民同盟部隊,軍の一部と結託。ピナルデルリオのリオベルデに上陸し反乱を開始する.
8.14 メノカル,メンディエタら、リオベルデで逮捕される。蜂起は失敗に終わる。学生幹部会のカルロス・エビアとセルヒオ・カルボン,米国からヒバラに侵入を試みるも失敗.
9月 ホアキン・マルティネス・サエンスら、秘密結社ABCを結成。もっぱらマチャド政権の主要メンバーに対する報復テロを目的とする陰謀団体。
12.23 マチャド、1935年5月20日までオフィスにとどまると発表。
12.30 バローナらDEU学生,収容先のアタレス監獄でマチャドの突撃隊員により暴行を受ける.
31 ブリュッセルで砂糖減産に関する国際協定.キューバの割り当て生産量は3百万トンに制限される.
31 ハバナ最大のキャバレー,トロピカーナがオープン.
1932年
4 ギテラス,オリエンテ州で薬の行商をしながら蜂起の準備を進める.モンカダ兵営を襲撃し国民的蜂起の起爆剤としようと計画するが発覚しふたたび逮捕.
6 学生運動内の右派,テロ以外に問題解決の道はないとしてABCを結成.のちにポルラと結びつき勢力を伸張.大土地所有の廃止,公共サービスの国営化,外国資本の統制,労働者保護などを掲げる.主な指導者としてホルヘ・マニャッチ,ホアキン・マルティネス・サエンス,カルロス・サラドリガス.米国はマチャドに代わる政治組織の一つとしてABCを重視.
9 マチャド与党である自由党内部にも亀裂が広がる.反主流派のホセ・マルティ・バザン(イスマエリリョ),カマグエイで暗殺される. 犯人のモデスト・マイディケは中米に逃亡.
9.27 マチャド,反対派の幹部ゴンサロ・フレイレ・デ・アンデラーデ上院議員およびその兄弟二人を暗殺. さらにアギラール上院議員,ドルスとデラ・トーレの二人の下院議員も殺害.
9.28 ABC、ハバナ・カントリークラブ付近でクレメンテ・バスケス・ベリョ上院議長を暗殺。自由党バルセロ派の依頼を受けた報復行動とされる.さらに彼の葬儀に爆弾を仕掛けるが失敗.
10 議員のあいつぐ殺害に抗議の声が高まる. マチャドはグアス・インクラン副大統領とスビサレータ官房長官に罪をかぶせ,政治犯に恩赦を発表するなど懐柔策に出る.
11.04 米大統領選. 社会民主主義的な計画を掲げたルーズベルトが大統領に当選.
12 ABC,テロ活動を宣言.官僚,軍人,警官を中核に中間層・インテリを巻きこみ,社会混乱に乗じて挑発活動に乗り出す.バチスタ軍曹も密かに参加.憲法はふたたび停止され全国に暴力が荒れ狂う.
32 トロツキスト,左翼反対派グループを組織.後にABCに合流.
反マチャド革命
1 ヒトラー,ドイツ首相に就任.
3.04 ルーズベルト,大統領に就任.
3.15 ルーズベルト,就任宣誓.善隣政策を発表,LAへの武力干渉を停止するとともに,プラット修正条項の廃棄,パナマ,ドミニカへの干渉権の放棄,ハイチからの撤退,メキシコ駐兵権の放棄を決定.
3月 マイアミで反マチャド勢力が結集し革命評議会が設立される。
3月 ファビオ・グロバルト、偽造パスポートを持ちキューバに再入国。グロバルトは26年に逮捕され、30年には国外追放処分を受けていた。
33年4月
4 マチャドの私兵,白昼街頭で学生リーダーのバルデス・ダウサを殺害.これを目撃したニューヨークタイムスのルビー・フィリップスはマチャドを非難する記事を発表.
フィリップス報道の影響: ハル国務長官は「マチャドは憲法を犯している.あいつぐ殺人行為は米国世論を刺激している.米政権はかかる非人道的殺戮を看過できない」と声明.ルーズベルトはシンタス大使を呼び,マチャドの蛮行を強く非難.すべての議会代表者とともに辞任するよう迫る.
4月 ルーズベルト大統領、マチャドに書簡を送り,現状が続けばプラット条項を適用して干渉することになると警告.マチャドは,一片の手紙で辞職するようなことはありえないと拒否.
4 ルーズベルト,マチャドとの汚い関係がうわさされたグッゲンハイム大使を召還.友人で熟達した中南米関係の外交官ベンジャミン・サムナー・ウェルズをハバナ特命全権大使に任命.ウェルズはブラジル駐在時代ホモの疑いで召還された過去を持つ.
4.29 ギテラスのひきいる学生幹部団の部隊,オリエンテ州のラ・ガリニータで反乱.サンルイス兵営を奇襲により一時占拠.
5 警察,エンリケ・ホセ・バロナ教授を逮捕.
5.08 ウェルズ着任.キューバ政府に「キューバ大統領への6項目の期待条件」を提示.「米国政府の意図するところに通暁すること,米国大使の示唆や忠告に忠実にしたがうこと」などを要求する.
6 ウェルズは軍内に反マチャド派の組織を始める.トップにサンギリー,フェラー元将軍を充てる.いっぽうで野党や学生と接触しながら,マチャド退陣の方向を探る.激動する政治を背後でコントロールしたことからサムナー総督とよばれる.
33年7月
7.01 ウェルズの工作により「調停委員会」成立.米大使館で行われた第1回会合には、デラ・トリエンテを議長に,ABCのマルティネス・サエンス,ウィルフレド・アルバネスら、OCRE、国民同盟の代表が参加.
7.02 デ・ラ・トリエンテ、ディアリオ・デ・ラ・マリーナ紙に、「1901年憲法への復帰」という調停委員会の基本方向を述べる。
7.21 サムナー・ウェルズは立憲政治の復活を主張。これに対しマチャドは、「立憲政治への復活を決めるのは大統領の権限であり、自分がそれを必要であると考えればそうする」と反論。
7.25 ハバナ市内のバス労働者が便数削減・合理化に反対してストライキを開始.トラック運転手もストの準備を始める.マルティネス・ビジェナが指導していたといわれる.
7.26 政府は、全ての囚人に恩赦を与える法律を承認する。
7.27 マチャドは、国会で演説。「ウェルズ氏の調停は我々の主権を侵害することはできない。それは彼の思いつきの結果であり、米国政府の指令に基づくものではないからである」と述べ、1935年5月20日まで留任するという従来の方針をあらためて強調。
33年8月
8.01 市街電車の労働者がストライキに加わり、交通ゼネストの様相を呈する。
2日 ハバナ市内のバスターミナルが無期限スト入り.瞬く間に全市に自然発生スト.ハバナ大学では学生幹部団の指導により反マチャド実力行動.幹部会の主要メンバーはプリオ,ルベン・デ・レオン,アントニオ・デ・バロナ,リンコン・ロドンら.
4日 学生運動を引き金に全土にゼネスト拡大.共産党指導下の労働者は工場,鉄道をつぎつぎに占拠.
5日 労働者総同盟(CNOC),全国無期限ゼネストを指示.全労働者を巻き込んでゼネスト開始.反マチャドの声が高まる.
7日 レクォーナの率いる学生の一群,放送局を襲撃.「マチャドは退陣した.街に出て祝賀デモに参加せよ」とデマ放送.大統領宮殿に詰め掛けた市民の自然発生デモに警察が発砲し,死傷者90人を出す.暴徒と化した群衆は,マチャド支持者の家に火をつけ,支持者をリンチにかける.
8日 ウェルズ,ルーズベルトの書簡をマチャドに手交.ルーズベルトは「もしマチャドが退陣しなければ,キューバ兵は米軍と戦わなければならなくなる」と述べる.
8.08 窮地に追い詰められたマチャド、共産党幹部と会見,要求の全面受入れと引き換えにストを収拾することを提案.
9日 共産党の指導するストライキ中央委員会,マチャドの提案を受諾する決定.
10日 マチャド,交通関係労働者の要求を全面受諾.スト中央委員会と労働者総同盟を代表してセサル・ビラールが明日正午を期して職場復帰せよとの指令を発表.
11日 ゼネストは,中央委員会の指令を無視して続く.労働者は共産党と労働者総同盟の説得を受けつけず.
pm マチャドは軍に出動命令を下すが軍はこれを拒否.軍の一部も反乱を起こす.当時キューバ軍はそれぞれ千五百名の師団七つから編成されており,ハバナには最強の二個師団(コロンビアとカバーニャ)が配置されていた.
pm 国民連合、老フリオ・サンギリーを指揮官として反乱を開始。コロンビア兵営に赴き明け渡しを要求。エレーラ司令官が軍の武器を凍結したため,サンギリーはコロンビア兵営に隣接する空軍基地に陣取る.
12日 サンギリー,コロンビア兵営の接収を要求.アルベルト・エレーラ副大統領は警察軍やテクニシャンを動員してこれに対抗.マチャドはコロンビア兵営を自ら訪ね、将校を督励。タベルニーリャ中尉ら若手将校は反マチャドの決起を呼びかける。
正午 カバーニャス兵営のデルガド司令官,青年将校の圧力を受け反マチャドの姿勢を明らかにする.まもなく砲兵隊もエレーラの指揮を拒否.エレーラはマチャドに辞任を促し体制の維持を図る.
午後 ウェルズ,マチャドの統治能力を否定.米政府の意を受けたチェース・マンハッタン銀行のオブレゴンがマチャドと面会.ドミニカ行きの飛行機と,その後のマイアミでの生活を保証.あらためて退陣を迫る.マチャドは政権を放棄しナッソーへ亡命.エレーラが暫定大統領となる.サンギリーはエレーラが後継者となることを拒否.
夜 ウェルズは軍幹部を集め国民党首で元駐米大使のカルロス・マヌエル・デ・セスペデス・ケサダを臨時大統領に推薦.セスペデスは第一次独立戦争の英雄セスペデスの息子.
8.13 新政権には、サムナー・ウェルズの推薦を受け、ABCが参加。デラ・トリエンテ,フェデリコ・ラレド・ブル,マルティネス・サエンス,カルロス・サラドリガス,エドゥアルド・チバスらが入閣することとなる.(チバスのこの時点での所属については諸説あり)
8.14 セスペデスが新内閣名簿を発表。ABCからの入閣者はウェルズが約束したより少なかった。これはセスペデスがABCの入閣について同意していなかったことに対する抵抗と見られる。DEU,AIEは新政権に対し中立的態度を崩さず。
8.24 学生幹部会、新政権にたいする見解を発表。セスペデス=ウェルズ=ABC連合政権に対し、厳しい評価を下す。
26日 ハバナで共産党中央委員会総会.スト収拾に失敗したことから方針を再検討.ホルヘ・ビボ書記長は「大衆の力を過小評価した」と自己批判.「各地区でソヴェトを人民権力の機関とし,かつソヴェトをして頂点における権力への踏み台とせよ」と呼びかけ,今度は極左的方針に走る.
8.26 コロンビア兵営で、急進派下士官による「8月評議会」が結成される。指導者はパブロ・ロドリゲス軍曹、フルヘンシオ・バティスタ、エレウテリオ・ペドラサら。
33年9月
4日午前 コロンビア兵営に陣取る軍の下士官集団,非衛生的な兵舎の環境改善と兵員削減反対,賃金昇給などを要求して反乱.軍内上層部を駆逐し兵営を占拠.反乱はただちに全国の兵営に波及,「軍曹の反乱」とよばれる.指導者にフルヘンシオ・バチスタ・イ・サルディバル軍曹,他にパブロ・ロドリゲス,マヌエル・ロペス,フアン・エステベス,アンヘル・エチェベリアなど.
4日午後 アタレス兵営では捕虜を大量虐殺.難を逃れた将校はホテル・ナシオナルに集結.
4日夜 プリオを代表とする学生幹部団はコロンビア兵営に集結.軍曹たちとともに「キューバ革命連合」の結成を宣言.
5日午前 キューバ革命連合,元ハバナ大学生理学教授ラモン・グラウ・グラウのほかセルヒオ・カルボ(ジャーナリスト),ポルフィリオ・フランカ(ナショナル・シティ・バンクのハバナ支店長),ホセ・ミゲル・イリサリ(弁護士),ギジェルモ・ポルテラ(法律学者)からなる「5人革命委員会(ペンタルキア)」に執行権を依託.
9.06 フンタ結成を見たセスペデスは、大統領の職を辞しブラジル大使館に亡命.閣僚も運命を共にする。
7日 ウェルズ,共産主義的傾向をもつ新政府のもとで「キューバ全島が無政府状態となった.反乱者には共産主義的傾向がある」とし,ルーズベルトに軍事介入を要請.
9日 ルーズベルトは軍艦30隻をキューバとキーウェストに派遣.海兵隊と爆撃機を出動体制に入らせるが,直接介入は拒否.評議会,国軍の指揮権をゆだねるべく何人かの将校に打診するが,いずれもこれを拒否.評議会はバチスタを大佐に抜擢したうえ,国軍総司令官とする.バチスタは米軍と旧軍将校への恐怖から何の決断もできず.
10日 評議会,三日間にわたる協議の末,グラウを臨時大統領とすることで決着.議長のグラウが大統領に就任.大統領官邸のバルコニーから大群衆の前で就任の誓いをする。
10日 バチスタは入閣の依頼を固辞.グラウとつながる学生幹部会が政府の実権を握ることとなる.バヤモで蜂起を準備していた当時26歳のギテラスが行政長官(内相)として入閣,ナンバー2の地位を占める.ほか大統領府長官にラミロ・カパ・ブランカ,国務長官兼駐米大使に老マヌエル・マルケス・スターリングが就任.エドワルド・チバスは社会公共相として入閣.民族主義の旗を掲げるとともに反共,反総同盟の立場を鮮明にする.
9.10 五人評議会,5日間で統治を終了.グラウ内閣に統治を委ねる.
5人評議会(ペンタルキア)の公約: ・プラット修正条項(グアンタナモ基地を除く)を一方的に破棄すると宣言.・8時間労働に制限する労働法改定,労働省を創設,・全企業にキューバ人を5割以上雇うように強制する50%法,・新土地改革法の制定,農民に実体的な耕作地を獲得する権利,・マチャド系政党の非合法化,・女性への投票権付与,大学を貧困者に開放,
11日 ウェルズは新政府不承認を基軸とする「不安定化」戦略をとる.フェレル前陸相をあやつり政権転覆の準備.フェレルの指令を受けた将校団三百がホテル・ナシオナルに結集.バチスタ軍の包囲のなかでたてこもる.各地で将校派,バチスタ派,労働者の三つ巴の闘い.
9.15 学生幹部会、スペインで新たに創られた革命的共和国と連帯すると声明。
9.16 ギテラス、「エル・パイス」紙で新政府の方向について語り、共産党と労働者の団結を呼びかける。
これまでの政府は、資本主義体制を擁護してきた。労働者と農民の利益を守ることなど考えなかった。いまや労働者は当面する状況について考えるべきだ。無意識のうちに米国企業の手先となって、この政府を打倒しようとするのは愚かなことだ。
大事なことは、現実を直視することだ。大衆が政治支配を獲得することが不可能だとすれば、労働者が直ちに必要なものを勝ち取るためには、そして、帝国主義の手先である米国企業の支配を排除するためには、この革命政府を拒否するのではなく、協力することが求められている。
もし我々がアメリカ人に介入する口実を与えるならば、そして後退するならば、全国労働総連合は「歴史」に対する責任を負わなければならなくなるだろう。9.20 政府,法令1693号を公布。労働省を設立し、労働者のために8時間労働日を確立する。法令1703号は、すべての専門家(弁護士、医師、建築家など)がそれぞれの専門家組織に所属することを義務付ける。
9.22 学生幹部会の左派、新たに「学生左翼」(Ala Izquierda Estudiantil)を結成。右翼教授の排斥運動に取り組む。
9.29 フリオ・アントニオ・メリャの遺骨がメキシコから戻る。共産党は記念デモを組織するが。警察の介入により武力衝突を引き起こす。6人が射殺され、さらに多くの負傷者を出す。
9月 急進的民族主義の立場から,婦人参政権,電力料金の4割引き下げをうちだす.料金値下げを拒否したアメリカ電力会社や米系砂糖会社の国有化,政府とマチャド派の所有する土地の農民への配分などを実施.ウェルズはこれを「共産主義的で無責任な政策」と非難.
9月 AIEはオリエンテでソビエト闘争を開始.赤軍を組織し36の製糖工場を占拠,解放区の形成をめざす.
33年10月
1日 コロンビア兵営で作戦会議.ギテラスの主張が通りホテル・ナシオナル攻撃を決定.
10.02 労働省が作られる。労働国有化法,最低賃金法などの労働立法に着手。
2日 将校団の反乱.
06 バチスタ軍の装甲車,ホテル警備にあたる将校に発砲.
08 グラウ,ウェルズに対しホテル内の米国人を退避させるよう勧告.ウェルズがこれを拒否したため攻撃開始.
12 いったん攻撃を停止して,一般市民を退避させる.
14 将校団に降服を勧告したのち艦砲射撃を再開.
16:45 将校団,処刑しないことを条件に降服.この戦闘で14人の将校が死亡、17人が負傷。
4日 バチスタ,ウェルズと密会.米国への協力を約する.
5日 ウェルズ,記者会見.「バチスタは反共であることにおいてキューバを代表する唯一の人物である.この事実はキューバにおける貿易上,財政上の利害代表者のほとんど大半を彼の支持者にさせた」と発言.バチスタ支持の意志を明確にする.
6日 政府,大学の完全な自治権を認めるとともに,国民に冷静と規律遵守を訴える.バチスタ軍は政府の指令にしたがわず,労働者や農民への敵意をむき出しにし襲撃を繰り返す.ギテラス派は左翼の支持を呼びかけるがバチスタの左翼への暴行を黙認.
10.19 グラウ大統領、フェルナンド・オルティスを招き会談。すべての革命勢力を統一し、「挙国一致政府」を創立する提案。オルティスは内閣入りは固辞するが、グラウの提案を前向きに受け止める。
10.24 ABC急進派、革命政府への支持を取りやめる。ハバナ市内では学生幹部会とABCのテロ合戦が激化。オルティスは各勢力との交渉を進めるが、相互不信、過去への恨みなどのため失敗に終わる。
10月 共産党はグラウ政権を「支配階級である米帝国主義者および国内の大土地所有の意志を代弁する偽満的なプチブル政権」とし社会ファシズム論を適応.二重権力の樹立をめざし労農兵ソビエト「国際労働者防衛隊」の創設をはかる.オリエンテでは黒人共産党員が指導するレアレンゴ18号工場が最強を誇る.ほかにカマグエイ,ラスビリャス州で30以上の製糖工場にソビエトが結成されるが,ハバナに拠点を築くことには失敗.
33年11月
11.01 ブラス・エルナンデスを先頭とする旧軍将校ら4百人,新政府の混乱ぶりをみて市内に武装挑発デモに出る.バチスタ軍は参加者ほぼ全員を捕らえた後射殺.このあと一気にソヴェトの壊滅作戦にうつる.
11.02 警官殺害事件.ギテラスら左派閣僚は一斉に辞表を提出.ギテラスは「兵士と労働者のために闘う」と宣言.兵士の反乱,労働者のストライキがあいつぐ.
11.03 ハバナでのセルヒオ・カルボ家で、諸勢力の代表と革命評議会との会談。グラウとギテラスも参加。彼らは最近裁可された大統領命令、すなわち「バチスタの逮捕、必要とあらば殺害の許可」命令を携え、バチスタの到着を待つ。バチスタは護衛一人とともに到着したが、危険を知り必死に言い抜けをして難を逃れた。グラウはバチスタの謝罪を受け入れてしまったことで、後に厳しく非難されたという。(この項はJ.A.シエラによる。正直言って、ホントかな?と思う)
11.06 学生幹部会,路線をめぐり内紛.解散を声明.
11.08 キューバ政府,民族主義的立場から「労働国営化法」(Ley de Nationalizacion del Trabajo)を制定.「雇用者の半分はキューバ人,総賃金の半分はキューバ人へ」を原則としたことから「50パーセント法」と呼ばれる.
11月8日
午前 国民同盟のラファエル・イトゥラルデとブラス・エルナンデス大佐が率いる軍の一部隊、空軍の一部と連携して反乱を起こす。これにカルロス・サラドリガスの率いるABCのコマンド部隊が合流。陰謀の背後にサムナー・ウェルズ大使。
正午 反乱軍はハバナでいくつかの警察署を制圧。二機の飛行機が大統領官邸を攻撃する。
午後 バチスタ、政府の側に立ち戦うよう命令。
11月9日
午後6時 バチスタ軍が反乱を制圧する。グラウは政府の勝利を宣言するとともに、「間違った革命家の行動」を非難する。
11.10 共産党が占拠した製糖工場はつぎつぎとバチスタ軍により陥落.共産党はさらに「ソヴェト死守」の方針を固め,犠牲をかさねる.
11.16 ボリビアとニカラグアの大使を歴任した米外交官ホーレスG.ノールズ、アメリカが革命政府を承認すべきだと主張。サムナー・ウェルズを「反革命を公然と助けている」と批判。この時点でキューバ政府を承認したのはウルグアイとメキシコだけだった。
11.24 ウェルズが更迭される。これに代わりジェファーソン・キャフェリがハバナ大使に任命される。この人事は、キューバでは、アメリカが革命政府を認めていく方向を示唆したものとみなされる。
12.01 農園主たちが「砂糖収穫(Zafra)防衛委員会」を結成。労働者のストや破壊行為からサトウキビを防衛するため、政府支持の立場を明らかにする。実際には政府というよりも、バチスタと軍に対する支持であった。
12.08 ギテラス内相、国有財産を盗むか損害を与えたものは、見つけ次第に即刻射殺されると発表。
12.18 ジェファーソン・キャフェリがハバナ大使に着任。着任の挨拶で、「今日における米外交の基本は、米国実業界との協調にある」と述べる。
12.19 キャフェリ、現地紙にたいし、「わが国の対キューバ政策はそのまま踏襲される」と述べる。
12.22 大統領官邸前広場で政府支持派の大規模なデモンストレーション。民族主義政策に対する支持を表す。
12 モンテビデオで汎米会議開催.キューバ政府は米国の干渉政策と支配を公然と非難.
12月 「評価法」(El Derecho de Tanteo)と呼ばれる新法が成立する。政府はすべての砂糖関連資産の取引について介入する権利を与えられる。これまで米国資本の製糖会社は彼らの資産を不当に安い価格で売買することで、税金逃れをしてきた。
33年 バティスタとマイヤー・ランスキーの交際が始まる。
34年1月
1.01 ルベン・マルティネス・ビジェナ,ハバナで結核のため病死.(一説に17日)
1.02 貧困な大学生に対し、授業料を無料にする制度が発足。
1.10 ジェファーソン・キャフェリ大使、革命政府に対する彼の意見をアメリカ国務省に報告。「この国の“事実上の政府”は、軍と無知な大衆によって支えられている。空想的な空約束をばら撒いているが、良識ある階級からは非効率で不正確なものとみなされ、人気がない」
1.11 グラウ・サン・マルティン、バチスタを伴いキャフェリ大使と会談。「公平な選挙を保証するため、非政治的な後継者を選出することで、野党との妥協を探る」と述べる。
1.12 ギテラス,米資本の電力合資会社を国有化すると発表.政府内部で左派のギテラスと右派のバチスタの対立が深刻化.これが革命政府の最後の布告となる.米海軍がハバナ港を包囲するなか,キャフェリー米大使の意向を受けたバチスタはグラウに退陣を迫る.(シエラによれば、キャフェリはバチスタに対し「あなたの政府の問題は、キューバの問題である。あなたがそれについて何をするかはあなたの決めることである」と答えたという)
1.14 政府,ストライキにより機能麻痺した米資本の「エレクトリック・ボンド・アンド・シェアー」会社を接収.まもなく政府が倒れたため、実際には形のみの宣言に終わる.
1.15 バチスタ大佐,コロンビア兵営に軍事評議会を招集.グラウに退陣を迫る最後通牒を突きつける.ギテラスは、「議会が大統領に指名するならば、私は受け入れる。もし軍が反対するならば、我々は軍と戦う」と述べる。
1.16 グラウ,大統領を辞任,群集を前に演説。「私はすべての国民のためにいくつかの法律を作った。私はいかなる外国大使の干渉にも屈しなかった。大会社に対抗し人々の利益を守ろうとしてきた。
1.16 ギテラス派は有効な反撃ができないまま退陣を受け入れる.バチスタの推薦により29歳のカルロス・エビア・イ・レジェス・ガビラン農相が大統領に就任するが,組閣をはばまれその日のうちに大統領を辞任.
1.17 マヌエル・マルケス・スターリング・イ・ギラルが大統領に就任.米国は戦艦ワイオミング号をハバナに入港させ威嚇.
1.18 ギテラスは31年の上陸作戦失敗後獄につながれていたカルロス・メンディエタ・モンテフールを大統領に推薦し,最後の巻き返しを図る.メンディエタは第二次独立戦争を大佐としてマセオとともにたたかったベテランで,戦後ハバナ大学医学部を卒業した変わり種.マチャドとメノカル後継を争い敗れた後保守党に接近,労働運動に理解を示し,マチャド時代に投獄された経験などから大衆的人気.しかし決断力に乏しく,バチスタの事実上のかいらいとなる.
1.19 メンディエタが臨時大統領に就任.内閣にはABC右派の大物マルティネス・サエンスも蔵相として入閣.法令408 号,公式に旧軍を解散.あらたに組織された立憲軍がこれに代わる.バチスタ大佐,「国民統一」政府を代表し「サフラ(砂糖キビの刈り入れ)がおこなわれるか,それとも血が流れるか,そのいづれかである」と宣言.以後1年半にわたり徹底した労働者弾圧を続ける.
1.20 米政府,これまでのキューバ政府敵視政策から一変し,メンディエタ政権を承認.
1.20 グラウ、ハバナを離れメキシコに向かう。その後米国に亡命.
2.08 プリオら学生幹部会はキューバ革命党(真正党)を結成。メキシコに亡命したグラウは,学生・労働者に反バチスタ闘争を呼びかける.
2 ギテラス,オリエンテに戻り組織活動を再開.同時にみずからの支持基盤として学生幹部団を中心に「ホーベン・クーバ(キューバ青年同盟)」運動を組織.共産党を離党したムハールが書記長に就任.
34年3月
3.09 米国,メンディエタ政権が「ほとんどあらゆる階層の支持を受けて成立したものである」とし,政権を承認.経済援助のための輸出入銀行を発足させ,食料,医薬品などを大量放出.
3.29 革命党ゲリラがハバナ市内で爆弾テロ。4月9日にはサンチアゴでも爆弾テロ。さらに4月21日から7日にかけハバナ市内でいくつかの爆弾を仕掛ける。
4.01 「学生左翼」のパブロ・デ・ラ・トリエンテ、雑誌ボヘミアに寄稿。「妥協、それはダントンの教えを理解できない偽りの革命家の常套手段である。革命家が必要とするものは、“大胆なれ、大胆なれ、さらに大胆なれ!”である」
34年5月
5月 ゼネストに引き続き,反バチスタ左翼の最後の反乱.
5.29 ワシントンでスターリングとハル長官との会談.友好条約を締結。モンテビデオ宣言に基づき,プラット修正を破棄することで合意.新条約ではグアンタナモ海軍基地以外のプラット条項の全てが撤廃.米国は「双方の同意がない限り,基地は撤去されない」との条項を確認させ,年間2千ドルの賃貸料でグアンタナモ基地と周辺116平方キロの永久租借権を得る.
6 共産党,ソビエト樹立路線のあやまりを自己批判。指導部は総退陣しブラス・ロカが新委員長につく.今度は反ファッショの立場の一面的強調からルーズベルトの善隣外交を無批判に評価する右翼的方針を打ちだす.共産党はあらたに合法組織として革命同盟(UR)を創立.議長にフアン・マリネーリョが就く.
ブラス・ロカ: 本名フランシスコ・カルデリーオ.マンサニーリョの黒人奴隷の子孫で製靴労働者出身.33年にはマバイで精糖労働者の闘争を指導.
6月 共産党の影響の下に、キューバ労働総同盟(CTC)を組織.委員長に28才の黒人ラサロ・ペーニャ,精糖労働者組合の指導者には同じく黒人のヘスス・メネンデス.
6月 共産党指導部から放逐された旧ルベン・マルティネス派は、ボルシェビキ=レーニン主義党(PBL)を結成.ホーベン・クーバ,学生左翼とも連携しながらグアンタナモを中心に活発な活動を展開.
6 キューバ新憲法公布.
8.24 米=キューバ間に新互恵通商条約締結.米国は自国製品の特恵項目を増やすいっぽう,砂糖の関税率は変えず.年間輸入量を固定し,キューバ糖市場の安定化と砂糖産業へのテコ入れをはかる.
34年 ピノス島の日本人入植者,「松島日本人農業組合」を結成.70名あまりが参加.
2 オリエンテに潜伏したギテラス,ハバナの大富豪を誘拐し身代金60万ドルを獲得.他に銀行強盗などで資金稼ぎ.
3 CNOCはゼネストをよびかけ,ハバナ市内において軍と対決する.学生幹部団、ホーベン・クーバ、ABCも闘いに参加。武力に勝るバチスタは,労組指導者9百人をふくむ3千人を投獄し,大学・労組を占拠破壊.労組指導者30人が無差別テロで殺害される.
3 ギテラス,オリエンテの砂糖工場でストを組織するが敗北.
4 グラウとプリオ,マイアミでキューバ革命党(PRC)を結成.「民族主義,社会主義,反帝国主義」をスローガンに掲げる.一般には真正党(アウテンティコ)と呼ばれる.真正党の労働組織,労働者委員会にトロツキストが潜入しイニシアチブをにぎる.ブラス・ロカ,グラウと接触をはかるが,グラウは会見そのものを拒否.
5.08 重傷を負ったギテラスとベネズエラ出身の革命家カルロス・アポンテ,米国を経てメキシコでグラウらと合流し,革命軍を組織しようとはかる.マタンサス東方のエル・モリーリョ海岸を出航しようとしたところを官憲に発見され射殺される.
6.30 バチスタの攻勢を前に,共産党の呼びかけにより,真正キューバ革命党,ホーベン・クーバ,国民農民党,全国労働者同盟が人民戦線について協議.
7.3 共産党,あらためてグラウに大統領選への出馬要請.グラウは共産党の解散と真正革命党への合流を要求.共産党はこの要求を受け入れると応えるが,グラウはこれを無視.
7 コミンテルン第7回大会,人民戦線戦略を決議.米国共産党書記長アール・ブラウダー,米州各国共産党の指導者として位置付けられる.大会にはキューバからブラス・ロカ書記長が出席.
10 共産党中央委員会総会.ブラス・ロカは反バチスタ反ファシズムの統一戦線を提唱.
12.11 メンディエタ,突如退陣.ホセ・バルネ・イ・ビネヘラスが臨時大統領となる.
35年 米国外交政策協会キューバ外交問題委員会,報告書を提出.「どの労働者も,少しでも金になるのであれば,賃金が安くとも喜んでその仕事に飛びつく.農業労働者は代用食を探し求め,料理用バナナ,甘藷,マランガ芋,タピオカを食べるようになる.みな次第に食事量を減らす.自分たち自身の作物を植え付けない大衆は乞食をしたり,出来る限り食物を拾い集め,また仕事を見つけることが出来れば,それを追って何処までも移動する.雨が降り始め,雨と一緒にマラリアがやってくる.医者にかかったり,薬を買う金はない」
1936年
1.10 ハバナ市長で第二代大統領の息子ミゲル・マリアノ・ゴメス・アリアスが議会により大統領に選出.
2 バチスタ,国防相兼軍総司令官に就任.
5.20 ゴメスが大統領に就任。副大統領にはラレド・ブルが就任.ラレド・ブルは元独立軍の大佐.バチスタは対立候補の老メノカルと裏取り引きし,政権の実権をにぎる.
6.13 学生左翼のパブロ・デ・ラ・トリエンテ、「今日キューバで、おそらく最も政治的な技術をもつ男」とバチスタを評価。
9月 フアン・マリネーリョ,詩人ニコラス・ギリェンら,マドリードの共和国防衛知識人会議に出席.このあと千人以上のキューバ人が国際旅団に参加.
12.23 ゴメス大統領,地方の学校をバチスタ派軍人の管理下におこうとする法案に対し拒否権発動.議会は、バチスタの武力脅迫を受けゴメスを罷免.
12.24 フェデリコ・ラレド・ブル副大統領が大統領に昇格.主要閣僚はすべてバチスタ派が占める.ラレド・ブルはサンタクララ出身で,独立戦争に参加し大佐に昇進したあと,保守党の政治家として歩む.
36 砂糖不況,各国で深刻化.キューバは2年間にハイチ人労働者8万人の内3万人を強制送還.
運動の混迷の時代 1937年
37.1 バチスタ,3ヶ年計画を発表.労働者用住宅の建設,失業手当や最低賃金の制定がうたわれる.キューバ労働者総同盟(CTC)が公認され組合結成が奨励される.医療,公衆衛生,公教育の充実,小作農の営農権保障などもうたわれる.
37 共産党,ホルヘ・ビボ前書記長を除名し人民戦線戦術を採択.革命同盟を政党登録し革命同盟党(PUR)を名乗る.人民革命ブロックを結成し選挙にのぞむ.地方選ではハバナ市長選で惜敗するなど善戦するが,真正革命党の強烈な反共感情のため人民戦線ブロックの成立に至らず.
1938年
3 バチスタ,制憲議会を召集.グラウも帰国を許される.旧支配階級との矛盾を深めるバチスタ,ブラス・ロカと会見.共産党も統一戦線の対象をバチスタに求める.
7.18 ハバナで共産党中央委員会開催.人民戦線路線に従い,バチスタとの協調を決定.ブラス・ロカは実質上の独裁者であったバチスタを「反動陣営の中心人物ではなくなり始めた」と評価,キューバを「半民主主義的な条件」下にあると規定.「あらゆる努力を通じてバチスタの進歩的な約束を守らせるべきである」と演説.バチスタへのすりより路線に転換.人民革命同盟のホアン・マリネーリョ,ニコラス・ギリェンらあいついで入党.
9.13 共産党,ブル政権と交渉を開始.@共産党は革命を放棄し,資本主義の枠内で人民生活の向上をめざす、Aナチとのたたかいに協力する、Bバチスタは共産党を合法化し,労働団体を許可する事で合意.
9.25 キューバ共産党が合法化される。バチスタは当面最大の敵である真正党の力を削ぐために,共産党との対立を利用.
38 ハバナで第2回米州諸国外相会議開催.米州内の1国の領土の保全と,主権・政治的独立を脅かす非米州国による企ては,全締結国への侵略とみなされることを宣言(ハバナ宣言).リオ条約の前身となる.
38 バチスタ,マイヤー・ランスキーにオリエンタル公園の二つのカジノとレース場の運営を依頼.莫大な利益をあげる.ランスキーはハバナのユダヤ人ギャングのあいだで「ゴッドファーザー」と呼ばれる.
1939年
1 合法化後はじめての大会となった共産党第3回全国大会,サンタクララで開催.ブラス・ロカ書記長は「われわれは人民の前で,バチスタに対して肯定的な態度をとり,全力をもって彼の革新的施策を支援する必要を宣言する」「革命を放棄したとか,我が国人民の利益をソ連の犠牲にしている」という主張があるが,「国民的団結,ナチ=ファシストの侵略に対する我が国の防衛は人民の利益にそったものである」と発言.当時26才でシエンフエゴス市長をつとめていたCRロドリゲスも中央委員に選出.
11.15 憲法制定議会選挙.真正キューバ革命党,ABC,民主共和党,行動党からなる野党連合が76議席中41議席をしめ勝利.自由党(バチスタ派)は共産党と組んで社会民主主義連合を形成するが大差で敗北.共産党はPURと革命共産主義同盟(URC)を結成,6議席を獲得.
12 グラウ,メキシコより帰国.バチスタ支配を受け入れ,その合法性を承認.両者は反マチャド組織の流れをくむ「行動組織」の解散で合意するが,実際は逆に活動強化.
39年 バチスタ公認の下に労働者センター再建.CTALに加盟しCNOCからキューバ労働者連合(CTC)に改称.共産党のラサロ・ペーニャが圧倒的多数で書記長に選出される.指導部にヘスス・メネンデス.
39年 真正党の流れをくむ武装集団,政府による捜索を避けるため,ハバナ大学学内に偽装学生組織「アルマ・マーテル学生協会」を結成し大量流入.ボンチェスまたはピストレーロスと呼ばれる,元学生左翼活動家ラミロ・バルデス・ダウサ工学部教授の指導を受けた学生や学内活動家はボンチェス追放全学委員会(CSU)を結成しこれに対抗.委員長に工学部学生マノロ・カストロ(フィデルとは別人)が就任.共産党も武装自衛団を組織.スペイン戦争を戦った共産主義青年同盟幹部ロランド・マスフェレルを指導者に据え,CSU内に浸透.
1939年 キューバ人が所有する製糖工場は、総砂糖生産高の22%で残りを外国資本が占める。
2.09 第一回制憲議会開催.第1党の真正党はグラウを議長に推す.バチスタは民主共和党のメノカルと密約を結び,マルケス・スターリングを議長に就任させる.
6.04 学内で両派の衝突.ボンチェスのリーダーの一人モリン・ドピコが負傷.
6.09 CSUメンバーの一人が教室から出てきたところを,ボンチェスによりマシンガンで射殺される.
7.01 新憲法,第1次反乱軍憲法制定(1869.4.10)の町グアイマロで公布される.大統領の任期を一期とさだめたほか,議会多数を占める真正革命党のイニシアチブの下で,労働者の地位の保障,ラティフンディウムの廃止と大土地所有の制限,農民の保護など33年革命の諸政策を法制化したきわめて進歩的な内容.バチスタには実行の意志なし.
7.14 1期のみという野党との合意の下に,旧選挙法(制限選挙)にもとづき総選挙.メノカルの民主共和党と連合したバチスタがグラウを抑え当選.副大統領にはクエルボ・ルビオ.共産党は反ファシズムの名の下にバチスタ派と統一戦線を組み,真正党と対決.共産党はブラス・ロカら下院議員8人,自治体議員84を当選させる.マリネーリョが無任所相として入閣.マンサニーリョでは共産党員市長が実現.マンサニーリョは,市長となったパキート・ロサレスを中心にキューバで初めて共産党細胞が結成されたところ.砂糖キビ労働者全国連合(FNTA)議長のメネンデスもラスビリャス州から国会議員に選出される.
7.30 ハバナで米州外相会議開催.領土不変更と域内共同防衛の強化をうたった「ハバナ宣言」を採択.
8.15 ラミロ・バルデス,ポンチェスの妄動と闘い暗殺される.マスフェレルの指導を受けたCSUは,広範な国民の憤激を利用し学内での支配を確立.マスフェレルは,党の指導を拒否しみずから暴力路線に走り,反対派の教師数人を暗殺.CSUはその後当局の手で解散させられるが,マノロ・カストロが委員長を務める大学学生連盟を通じて学内に独裁的影響力を保持.旧ボンチェスの「革命的反乱者同盟」(UIR)とのテロ合戦が続く.
10.10 バチスタが大統領に就任.この日,新憲法が発効.新内閣の首相にはカルロス・サラドリガス・サヤスが就任.
12 革命的共産主義者同盟,共産党に代わる前衛組織として改組.フアン・マリネーリョが議長に就任.ブラスロカ第一書記,アニバル・エスカランテ第2書記,カルロス・ラファエル・ロドリゲス政治局員の4人が指導部を形成.党員数は8万7千人に達する.
40 OSSと海軍情報部,港湾保全のためマイヤー・ランスキーを通じてラッキー・ルチアーノに協力を依頼.ルチアーノは仮出獄を条件に,依頼に応じる.オペレーション・アンダーワールドの開始.
1941年
2.03 反政府派によるクーデターの動き。当局により鎮圧される。
12.9 キューバ,対日宣戦布告.11日には独伊両国にも宣戦.3千のドイツ人,千三百のイタリア人を強制収容所に送り,資産を没収.サンアントニオとサンジュリアン空軍基地を米軍に貸与.独自に対潜作戦も展開.ヘミングウエイも作戦に参加.
12.12 最初の日本人14人が敵国人活動連邦調査局によって逮捕され,ハバナ市内カスティジョ・デル・プリンシペに留置される.さらに翌年4月16日,ピノス島のカンポ・デ・コンセントラシオンに収容される.その後43年5月までに8次にわたる強制収容が行われ,300人あまりがピノス島の収容所送りとなる.
1942年
7.30 キューバ,枢軸国に対し宣戦布告.ソ連と国交樹立.
9.07 米玖間に「軍事援助にカンする秘密条約」が締結される.
42 バヨ,メキシコのグアダラハラ空軍士官学校教官となる.バヨはスペイン軍に入隊した後北アフリカなどで戦闘に参加,ゲリラ戦の専門家となる.スペイン戦争に共和派として参加した後フランスに亡命.キューバに戻っていたところをリクルートされる.士官学校退職後はメキシコ市内で家具製造工場を経営.
43.3 バチスタ内閣改造.共産党からマリネーリョにかわりC.R.ロドリゲスが無任所相として入閣.党は完全に合法化され,8万7千名の党員を持つLA最大の共産党となる.
1944年
1.01 ハバナ市内暴動状態となる.学生たちが一時大統領官邸を占拠.キューバ・ギャングのボスでバチスタの盟友ランスキー,ルーズベルトの依頼を受けバチスタと会談.大統領選挙の実施をうながす.
1.10 米国共産党のブラウダー書記長,マジソンスクエア・ガーデンで演説.「合衆国の国民は社会主義的変革に対しほとんど準備ができて」おらず,革命の課題の提起は「国民の分裂に資することとなり」「国民の分裂はもっとも反動的な勢力にのみ利益をもたらすであろう」とし,マルクス主義者の任務は「戦後も我が国経済の目覚ましい発展が鈍化しないよう,自由企業にもとづく資本主義の有効性に寄与する」ことにあると規定.「共産主義者の独自の党の存在は,もはや実践的な目的に寄与しないばかりか,より広範な統一の障害物にさえ転化しよう」と発言.共産党を解散させ「制度化された意志疎通の二大パイプ」である二大政党制のなかで「進歩的なもの」を前進させるため活動するよう提案.
1 キューバ共産党,ブラウダー主義の影響を受け人民社会党(PSP)に党名変更.党創始者の一人セサル・ビラールは強硬に反対.
6.01 大統領選実施.グラウ・サンマルティンが保守層と企業グループをバックに勝利。共産党も推すバチスタかいらいのカルロス・サラドリガスは敗北.PSPは得票を倍増.上院3,下院9名の議席を獲得.
9 CTC,真正党に対し労働者委員会との併合を提案.真正党はこれを受諾.キューバ労働総同盟(CTC)にエウヘニオ・ムハールを先頭とするトロツキスト系活動家のなだれこみ.
10 PSP第2回大会.エスカランテがブラウダーをほめたたえる報告.「ブラウダーへの書簡」をおくる大会決議を採択.
10.10 グラウが新大統領に就任。革新的政策を打出せず.バチスタは当初居座りをもくろむが,大衆の圧力により政界を引退.カジノで儲けた4千万ドルを持ってフロリダのデイトナ・ビーチに亡命.
1944年 ハバナのイエズス会高校生フィデル・カストロ,今年度の最優秀高校スポーツ選手に選ばれる.
4 ソ連の意を受けた仏共産党のジャック・デュクロ,理論誌「カイエ・デュ・コミュニスム」にブラウダー批判論文を掲載.LA各国PCは一斉にブラウダー批判を開始.
10.24 キューバ,国連に加盟.
10 ハバナ大学に入学したカストロ・ルス,UIRに加入し政治活動を開始.当時政府機関に就職するためには,いずれかの政治組織に所属して活動することが要求された.それぞれの政治組織は「軍事機構」を備えていた.一説によればカストロはヒトラーの「我が闘争」を愛読,ムソリーニの演説フィルムを見ては,鏡の前で演説の練習をしたという.
10 共産党を脱走したロランド・マスフェレルら,CSUを母体に革命的社会主義運動(MSR)を結成.マスフェレルはやがて真正党の,さらにバチスタ派の上院議員となり独自の暴力陰謀集団「マスフェレルの虎」を結成.キューバ解放までのあいだ反動の手先としてテロ活動を展開.このほか真正党の支配確立とともに,その保護を受けた暴力集団が勢力を伸張する.MSRとともに三大ボンチェスといわれた組織に,
三大ボンチェス:
・革命的社会主義運動(MSR):正式メンバーは約300名で,幹部にマリオ・サラバリア,マノロ・カストロ,ビットリオ・ビダリらが指導.反共ポピュリストとつながる行動組織で,アルゼンチンのペロンが35万ドル相当の武器を供与したほか,プリオ,コスタリカのフィゲレドなどの援助も受ける.トロツキストを自称し,綱領に・反共産党,反帝,反真正党の革命的社会主義,・UIRその他の反革命挑発分子のせん滅,・ドミニカのトルヒージョ独裁政権からの解放を掲げる.
・ギテラス革命行動団(ARG):団員約800名.ハバナ警察署長ファビオ・ルイスの後援を受け,前MSRメンバーのエウフェニオ・フェルナンデスを中心に創設.オルテガ,ゴンサレス・カルタスが率い,私設警察として猛威を振るう.エウフェニオは,まもなくグラウ政権の警察長官となる.カリブ軍団の創設に関わり団長を務める.
・革命反乱者同盟(UIR):旧ボンチェスの流れをくむ無政府主義者の組織.真正党のアレマン教育相がスポンサーといわれる.エミリオ・トロ,ヘスス・ディエゲス,カリスト・サンチェス,オルランド・ガルシアらがひきいる.トロは共産党崩れ,スペイン戦争にアナーキストの一員として参加.その後米軍の一員としてガダルカナルの闘いにも参加.45 プリオ,グラウ内閣の労働大臣に就任.労働運動からの共産主義一掃を目指す.プリオ,共産党の別働隊となっていたUIRのボス,トロに警察大学のポストと引き替えに寝返りを促す.教育相にはボンチェスの黒幕ホセ・ミゲル・アレマン.
1946年
1 PSP第3回大会.政府支持を撤回.指導部の全員がブラウダー主義の誤りについて自己批判するが,誰一人も辞任せず,党名も復帰せず.
1 真正党,AFLの指導を受けCTCにたいする多数派工作を開始.書記長制度を廃止し,5人からなる書記局制度に移行.書記局員選ではJ・アレバロとF・アギレ,ムハールが当選し多数派をにぎることに成功.
8 フィデル,UIRに接近.ディエゲスの証言によれば一時加盟していたともいわれる.
9.19 シシリアに逃亡中のラッキー・ルチアーノ、キューバのパスポートを支給される。
11.27 カストロ,医学生虐殺75周年記念集会で,グラウ政権を弾劾する演説.「マチャドとバチスタが尊敬すべき革命家たちを迫害したように,グラウはキューバ国民の希望を踏みにじり,自らを国家の恥辱に貶めた」
11.29 ホテル・ナシオナルの従業員が賃金の30%引き上げを要求してストライキ。
12.22 ラッキー・ルシアーノとランスキーがホテル・ナシオナル会談を召集.ルシアーノのもつヨーロッパのヘロインをハバナ=フロリダ経由で米国内に持込むルートを作り上げる.会議はラスベガスのバグジー・シーゲルの殺害でも合意.
会談参加者: マイアミのサント・トラフィカンテ,シカゴのジアンカーナがメインゲスト。ほかにフランク・コステロ,トミー・ルッチェーゼ,ビト・ジェノヴェーゼ,ジョー・ボナンノ,モー・ダリッツなど.全米から36人のボスが加わる。同行したフランク・シナトラが,オテル・ナシオナルへのデビューを飾る.
46 総選挙.党員数15万人に達したPSPは,20万票,10%の得票率を獲得.マリネーリョ,上院副議長に就任.チバス,オリエンテ州から上院議員に当選.
46 ニカロ・ニッケル会社,モア湾に精練工場建設.世界市場の15%を産出するにいたる.
1947年
1.20 大学学生幹部会,カストロを含む34人の連名でグラウの再選に反対する声明を発表.真正党との対決姿勢を明確にする.
2.23 ルチアーノ、ベダード街のレストランで身柄を拘束される。3月29日にはトルコの貨物船に乗りキューバを去る。
2 マノロ・カストロ議長の任期満了に伴う自治会選挙.UIRはMSR独裁の打破をめざし,右翼カトリック系学生と連合して選挙に臨む.カストロもUIRの候補者名簿に名を連ねる.MSRは共産主義青年同盟と手を結び,UIRに辛勝.新指導部にはエンリケ・オバレス,ホセ・ルイス・マッソ,アルフレド・ゲバラ(PSP党員,チェとは無関係)など.
4月 グラウの後継者と目されたアレマン教育相,非常勤職員との契約を取り決めた教育省政令「K条項」を利用,多くのボンチェスを「非常勤職員」の名目で雇用し,その年金を政治団体アレマン=グラウ・アルシナ連合を通じて着服.予算は当初の年間20万ペソから最後には数千万ペソにのぼる.カストロらは抗議の学生デモを組織.
47年5月
5.01 米国の圧力を受けたグラウ政権,CTC内の共産主義者を追放.党そのものの非合法化には踏み込まず.
5.15 再選を策すグラウの行動に反対する闘争の中で,キューバ人民党結成.真正党の右傾化と堕落に抗議し,33年革命の精神の復興と「金からの独立」をかかげる.オリエンテ州選出の上院議員チバスが総裁に就任.学生・知識人を中心に勢力を急伸.革命的暴力を否定することでボンチェスと一線を画す.ABCのマニャッチもこれを支持.共産党はこの動きを歓迎し共闘を提起するが,チバスはかたくなな反共姿勢からいっさいの既成政党との連合を拒否.
ハバナ大学生のカストロも創設者のひとりとして参加.その行動グループであるオルトドクソ急進行動(ARO)を組織.UIR系活動家がなだれ込む.
キューバ人民党(オルトドクソ党): ホセ・マルティの思想に忠実であることを目指したため,オルトドクソ党(正統派)とも呼ばれる.チバスの他ペラヨ・クエルボ,アルベルト・サウメル,ルイス・コンテ・アグエロらが指導.
5.26 MSR幹部のオルランド・レムス,UIRの実力部隊「革命的組織」にマシンガンで襲撃され負傷.「革命の名を借りて私腹を肥やすものに死を!」との脅迫状が送られる.MSRは直ちに反撃を開始.反対派活動家数人を銃撃.流血の拡大を恐れたグラウ大統領は両派を仲裁.それぞれの活動家にいくつかの政府ポストを提供し事態の解決を図る.この結果,UIRのトロとMSRのサラバリアともに少佐の肩書きを与えられ,トロが警察学校校長,サラバリアが国家警察捜査局長の地位につく.このあと政府はテロリストの支配にまかせられることとなる.
6 キューバ亡命中のドミニカの政治家フアン・ロドリゲス・ガルシアとフアン・ボッシュ,カリブ同盟から百万ドルの支援を得てトルヒーヨ打倒の軍を組織開始.事件の黒幕アレマンは35万ドルを投じる.陰謀には当初,ベネズエラ大統領ベタンクールも関与.爆撃のため米軍パイロット20数名を雇う.キューバ人千名,ベネズエラなどから2千名の志願兵を集めシェラマエストラで訓練開始.マスフェレルは「カリブ軍団」を組織し,みずから司令官となる.このほかエウヘニオ・フェルナンデス,マノロ・カストロ,カルロス・グティエレス・メノヨらが軍事指導者となる.
47年7月
7.6 CTC第5回大会.役員選挙で共産党員活動家が圧勝し,労働者委員会派を一掃.労働者委員会はパナマで「労働組合評議会」を結成.ムハールが議長に就任.真正党政府はテロリストを用い活動家を弾圧.
7 FEU役員選挙.カストロはUIRの支持を受け書記長ポストに立起.大学を暴力支配するMSRを激しく非難.選挙はMSRの勝利に終わり,委員長にはカストロの旧友エンリケ・オバレスが就任.カストロはMSR武闘派に生命を狙われることになる.
7.20 フィデル,MSRと休戦協定を結びカリブ軍団に参加.オルギンの総合技術研究所に送られ戦術の学習.
7.29 オルギンで基礎訓練を受けたカストロら侵攻作戦参加者1200名は,4隻の船に分乗しカマグエイ州北岸の無人島カヨ・コンフィテス島に上陸.2カ月間にわたる本格的な軍事訓練を開始.
7.30 プリオ,内相に転じCTC乗っ取り策動を開始.プリオの指示により官憲がCTC本部を占拠.CTC正統派を名乗るA・コフィーニョに会館の管理権を委ねる.
8 UIR,MSR両派の抗争,ピークに達する.高速で走行する車からの狙撃などが相次ぐ.ハバナ警察総監は,暗殺や脅迫などにより1年間に5人も交代.
47年9月
9.2 リオで開かれた米州会議の席上,トルヒーヨはキューバ政府が陰謀に加担していると非難.米国も国際法に違反し,カリブ海の緊張を強めるとして反対.
9.2 MSR派の警察,トロ暗殺を謀るが失敗.
9.12 トロ暗殺を謀った警察官,UIRの手により殺害.サラバリアはトロ逮捕に動く.
9.15 マリアナオ警察署長宅で食事中のトロ,MSRのガンマンに包囲され射殺される(一説にハバナ市内のオルフィラ街).3時間に及ぶ銃撃戦と,妊婦を含む数人の殺害はラジオで中継され,市民を驚かせる.サラバリアは職権乱用の罪で懲役30年の判決.なおサラバリアは61年にいったんカストロにより釈放されるが,ふたたび捕らえられ懲役30年の判決を受けたという.
9.25 米国の圧力を受けたグラウは進攻計画の摘発を指示.アレマン所有の牧場からは大量の武器が押収される.
9.27グラウ,ヘノベボ・ペレス・ダ・メラ政府軍総司令官に対しカヨ・コンフィテスの部隊を解散させるよう命令.ハバナからの指示で軍事作戦は中止となるが,カストロらには知らされず.作戦参加者の多くは,その後コスタリカにわたりカリブ同盟を結成.ホセ・フィゲーレスの政権獲得を助ける.さらにグアテマラにわたり民族派政権を援助.
9.28 海軍の攻撃に対しマスフェレルは抵抗することなく降服.マリオ・サラバリアは資金を一人占めして遁走.逮捕を逃れたアウロラ,ベルタ,ファンタスマの三隻もオリエンテ州ニペを出港後まもなくモア沖でキューバ海軍に捕獲される.ファンタスマ号に乗ったカストロらは,ゴムボートで脱走.最後にはフカのいる海を泳いでヌエイビタスに上陸.脱走に成功.その日のうちにハバナ大学に到着.
9.29 ハバナ大学で政府の屈服を非難する集会.カストロ,グラウの裏切りを強く非難し,退陣を求める演説.学生は労組の支持を得て48時間ストに突入.数週間にわたり街頭行動を繰り広げる.
47年10月
10.9 ギャングの元締めアレマン教育相に対する糾弾の声が高まる.アレマン解任を求める学生スト決行.フィデルは政治ギャングの何人かを名指しで非難.以後マスフェレルに命を狙われることになる.アレマンは2千万ドルをスーツケースに詰めてマイアミに亡命.(一説によればアレマンは大蔵省に3台のトラックを乗りつけ,キューバの保有する現金をすべて詰め込み,ヨットに乗ってマイアミに逃げたという.その額1億7千万ドルとされる)
10.13 ソカラス内相,PSPが指導権を掌握するCTCは違法であり,全権をCTC正統派に委譲すると声明.これに反対する活動家1千名以上を逮捕.各地でテロを組織.
10 フィデル,法科学生連合副議長に選出.立候補に当たって共産青年同盟の支持も求める.アルフレド・ゲバラやリオネル・ソトなどの共産党員とも親交を深める.
11.6 カストロとリオネル・ソト,マンサニーリョにある独立の象徴「デマハグアの鐘」が独立戦争開始記念日のセレモニーとしてグラウにより利用されようとしていることを知る.彼らは共産党員市長と共謀し,鐘を持ち出しハバナに運ぶ.鐘はキューバ市内を行進した後大学構内に安置されるが,グラウの意を受けたボンチェスによりふたたび持ち出される.
1948年
1.22 ヘスス・メネンデス・ラロンド,労働者に対するテロル反対の集会を各地で展開中,マンサニージョ駅頭で地方警察の現役大尉により射殺される.遺体は国会議事堂に安置され数十万人の市民が弔問に訪れた.カストロは議会での追悼集会で演説したという.
48年2月
2.11 グアンタナモで学生に対する警察の暴行事件.これに抗議してハバナ大学学生の大規模なデモ.市街電車に火をつけるなど暴動に発展.警察は実力で学生をキャンパスに押し戻す.学生はキャンパス内に機関銃を備え付けるなど行動をエスカレート.
2.12 学生は警察幹部の処分を求め抗議デモ.先頭に立ったカストロは警察に襲われ負傷.
2 カストロ,法学部学生自治会委員長に選出.「学生行動」誌を発刊しマノロ・カストロ派との闘争を展開.
2 プリオ,大統領選立起のため閣僚を辞任.カトリック教会は真正党を支持.オルトドクソは「誠意か金か?」をスローガンに,日曜夜の定期番組を通じたチバスのカリスマ的人気により急速に勢力を拡大.選挙にあたっては(1)土地を土地なき農民へ,(2)中央銀行の創設,(3)社会保障の拡充を訴える.
2.22 マノロ・カストロ,ハバナ市内の路上で射殺.彼は当時グラウ政権の国民スポーツ局長にまで昇進していた.MSRは犯人としてフィデルを告発.
2.25 マノロの甥の証言でフィデルら4人は殺人の容疑者として逮捕されるが,無罪が証明され即日釈放となる.カストロは「マノロを口実にしてわれわれに対する反対運動を煽っている」とマスフェレルを非難.犯行にはマスフェレルが絡んでいたと声明.
48年3月
3.15 一時国外逃亡の機会をねらうカストロ,アルゼンチンのペロニスタ青年同盟が呼びかけた第1回LA反帝学生会議に協賛.ベネズエラ,パナマの学生組織にも呼びかけ賛同を得る.ハバナ大学構内で準備会開催.カストロの提起で,近くボゴタで開催予定の第9回米州外相会議を糾弾する決議.
3.29 中南米学生会議総会に向けての企画会議が,OAS総会に合わせボゴタにおいておこなわれることになる.大学学生連盟のエンリケ・オバレス委員長を始め,カストロ,アルフレド・ゲバラ,ラファエル・デル・ピノの4人が代表としてボゴタに派遣される.ボゴタ入りする前にベネズエラでベタンクールと会見,学生会議への協賛を取り付ける.
3.31 カストロら,ボゴタ到着.エンリケ・オバレス大学学生連合委員長と,会議での主導権をめぐり争うが敗れる.
48年4月
4.9 カストロ,ガイタン暗殺事件に遭遇.警官隊に対する反乱に加わる(詳細は北アンデス年表).
4.13 カストロら,密かにハバナ帰還.一切のコメントなし.
48年6月
6.01 大統領選.真正党のプリオ=ギジェルモ・アロンソ・プホルが90万票を獲得,民主党はバチスタの自由党と社会民主連合を結成.リカルド・ヌニェス・ポルトゥオンド=グスタボ・クエルボ・ルビオ(自由党)を候補に立て60万票を獲得するが敗れる.正統党のチバス=エミリオ・オチョア(30万票)をやぶり当選.プリオはポルトゥオンドをマチャド゙の後継者と攻撃.国会議員選挙にはデイトナ・ビーチで賭ばく場の経営者となっていたバチスタも自由党から立起,国内不在のままラスビリャスから上院議員に立候補し当選,政界復帰を果たす.共産党はフアン・マリネーリョが大統領選に立起し14万票を獲得.上院の議席を失うが,9名の下院議員を確保.
6.6 学内警察のオスカル・フェルナンデス警部,暗殺される.彼は死の直前カストロに撃たれたと証言.これを支持する証人も現れる.カストロは無実を主張.後に証人は警察に嘘を強制されたとして証言を翻す.
48年9月
9.9 学生が組織したバス運賃値上げ反対闘争.暴動状態に発展.大学に戻ったカストロらが街頭行動を指導.バス数台を焼いて気勢を上げる.UIRはトロ殺害1周年を記念して街頭で盲動を繰り返す.この闘争を通じてUIRは学内における主導権を獲得.
9.30 ハバナ大学内でトロ死亡1周年記念集会.カストロもトロを評価する演説を行う.
10.10 プリオ,大統領に就任.旧グラウ派に対する粛清開始. 汚職絶滅をかかげ公務員1万人を更迭.会計検査院を創立し腐敗・汚職の発生を抑えようとはかる.選挙法を改正し投票券に写真を張り込むなど選挙不正を阻止しようとはかる.
11 キューバ歴戦中のメジャーリーグ選抜チーム,ハバナ大学と対戦.フィデル投手はカーブを主体にメジャーリーグを3安打無得点に抑える.ニューヨーク・ジャイアンツは5千ドルで契約を提示するが,カストロは弁護士への道を選ぶ.
1949年
1 運転手組合,ストにはいる.カストロに率いられた学生は闘争委員会を結成.バス代値上げを拒否して街頭行動を続ける.大学学生連合執行部は引き続きアルフレード・ゲバラを中心とする社会主義青年同盟=UIR連合が掌握するが,オルランド・ボッシュ医学部自治会委員長をリーダーとするFEU=MSRの巻き返しも強まる.反UIR委員会はのちに革命幹部会の母体となる.さらにオルトドクソ派のウエルタス,カトリック派のマノロ・アルティメとラスコが一派を形成.なおボッシュは,後に反カストロ組織「オメガ7」の幹部となり,ケネディ暗殺にも関与.
1 旧グラウ派に対する汚職追及裁判が始まる
3上陸した米海軍水兵がハバナ市中央公園のマルティ像によじ登り小便をかけるなど冒涜.カストロの指導する学生が抗議行動を展開し,マスコミが大々的に取り上げる.バトラー米大使の謝罪とマルティ像への献花により落着.
4 学生連盟幹部,MSRにより暗殺される.プリオは暴力集団幹部の官職登用により抱き込みを図る.「暴力団協定」と呼ばれるようになる.
5 プリオ,国立銀行を設立し,通貨供給と国家財政の統制にあたらせる.初代総裁オスカル・ガンスは33年8月7日の民衆虐殺の当事者の一人.
7 クエルボ・ルビオ副大統領がグラウ派裁判の判事の一人に選出される.
9 ラウル・カストロ,ハバナ大学法学部に進学.リオネル・ソトの勧誘を受け社会主義青年同盟に加わり活動開始.このころ大学は,MSRが退潮した後アルフレド・ゲバラの率いる社会主義青年同盟が前進し,オルランド・ボッシュとヘゲモニー争いとなる. さらにUIRとつながるオルトドクソ(ウエルタス),新興のキリスト教学生組織(マノロ・アルティメ,ラスコ)らも加わり混乱.
9.30 オルトドクソ青年部(マックス・レズニック書記長)と社会主義青年同盟(アルフレド・ゲバラ)は「9月30日委員会」を結成し,暴力集団に対抗する闘いを始める.
10.12 カストロ,同級生の兄ラファエル(バスケットボールのチームメートという)を通じて知り合った名家の令嬢ミルタ・ディアス・バラールと結婚.父はバネス市長を務めバチスタの遠縁にあたる.ラファエルは後にバチスタ派の青年組織の幹部となる.バチスタは結婚祝いに千ドルを贈ったという.
11 9月30日委員会の集会開催.これに出席したカストロは暴力集団を弾劾し,「自分もその罠に落ちていた」と告白.その後暴力集団の報復を恐れ米国に一時潜伏.フロリダに豪勢なハネムーンを送る.
49年 プリオ,反共のヒステリー状況の中で労組幹部をつぎつぎにパージ.抵抗を続ける指導者を暗殺,脅迫,リンチなどで活動不能に追込む.共産党は半非合法となり,機関紙「オイ」工場は襲撃され閉鎖に追込まれる.
49年 米国の銀行家フランシス・・アダム・トゥラスロウ(Truslow)を団長とする復興開発銀行の調査団,キューバ経済を視察し「経済再建と発展のための」トゥラスロウ計画を提出.労働者の権利を剥奪し,搾取と収奪の強化,賃金カット,人減らし合理化などを柱とする「経済改革」を打出す.国民の反発を恐れたプリオは勧告の受け入れを事実上見送る.このため米国からの反発を買う.この頃までに米国の投資は徐々に減少,新規投資は鉱山や石油精製,観光に向けられるようになる.キューバ国内資本が砂糖,金融では優位となる.砂糖は依然GNPの1/3,輸出の85%を占めるが,その輸出先は,恐慌前8割を占めた米国が5割強に減少しヨーロッパや日本が増加.土地を持たない砂糖農業労働者は60万人を越え,全労働者の1/3を占めるに至る.
6 議会選挙.真正党は反共反バチスタ,親カトリックの姿勢を打ち出す.移動レントゲン車の地方への導入,オリエンテに第二の国立大学を建設するなどの公約を掲げ勝利.またハバナ海底トンネルの建設,路面電車の撤廃など自動車社会への移行を推進.公務員は大幅に増加し22万に達する.議会の最大野党はスアレス・フェルナンデスの率いる民主党が握る.オルトドクソ党は批判政党の地位にとどまり,真正党の右からの揺さぶりと,共産党員の集団入党により,左右分裂の危機を迎える.
7.22 グラウ裁判に関する証拠を集めた倉庫が爆弾を仕掛けられ,証拠書類がすべて「焼失」.その後グラウ裁判は事実上停止.その後自らも汚職を旺盛に展開.公務職はすべて自らのとりまきに配分.
8 政府,機能停止した「オイ」印刷工場を接収.
9 フィデル,ハバナ大学を卒業.法学,社会科学,国際法の学位を取得.ただちに貧困者のための弁護士活動を開始.オルトドクソの下院議員として出馬を準備し始める.この頃からUIRとは距離を置き,その戦術を批判するようになる.
11.12 シエンフエゴスで反政府デモに参加したカストロ,警察により逮捕されサンタクララに連行される.
11.13 チバスは全国放送でカストロ逮捕を非難.拘置所前には群衆が詰めかける.まもなく釈放されたカストロは激烈な反政府演説をおこない,全国に報道される.
12 サンタクララでカストロに対する裁判が始まる.カストロは自ら弁護をおこない,政府こそが裁判で裁かれるべきと主張,無罪をかち取る.
50 バチスタ,キューバに戻り単一行動党(PAU)を結成.ハバナ近郊のクッキネスに居を構え,大統領選出馬に備える.PAU青年部の指導者にはラファエル・ディアス・バラルトが就く.
50 ムハール,CTC書記長となる.傘下に25の労組連合と1600の単組.砂糖労組書記長のホセ・ルイス・マルティネスと鉄道労組書記長のハビエル・ボラニョスがCTCを牛耳ることとなる.ARG(ギテラス)は運輸労組連合を掌握.これに対しオリエンテに地盤を持つMSR(マスフェレル派)はマタンサスに「デ・ラ・フェ・アトム」を結成.ペロン派は武装組織「アトラス」を結成.スリ・カスティージョは砂糖労働組合FNTAを牛耳り,プリオ反対の立場で労働争議を引き起こす.彼はCIAのエージェントであり,AFL/CIOから資金の提供を受けていた.砂糖労働者は苗植え,施肥,刈り入れの間のみ雇われるだけだった.PSP党員とシンパは組合役員から系統的に排除される.キューバの失業率は7%以下に抑えられる.
50 ランスキー,バラデロにカジノ付きのインタナショナル・ホテルを建設.
1951年
6 裁判所,政府の「オイ」工場接収を違法と判断,返還を命じる.警察はこの決定に対抗しただちに工場の閉鎖を命令.
7 チバス,アウレリアーノ・サンチェス教育相が,公費を流用してグアテマラに土地を買ったと非難.真正党は証拠を示せないチバスをうそつきとするキャンペーンを一斉に展開.
8.5 チバス,放送の最中38口径のスター拳銃で腹部を撃つ(死亡は16日).最後の訴え「正統党の同志よ,前進せよ.経済自立のために,政治的自由のために,そして社会正義のために.政府内部に巣くう泥棒達を叩き出せ.キューバ人民よ,立ち上がれ,前進せよ.キューバ人民よ,覚醒せよ.これが私の最後の警告だ」
8.16 チバス,入院先の病院で死亡.正統党はロベルト・アグラモンテを後継候補に指名.正統党への支持は爆発的に増加し政権獲得が有力に.カストロ,カヨ・ウエソ地区におけるオルトドクソの候補者に指名される.父アンヘルはオリエンテにおけるオルトドクソの有力なパトロンとなり,兄のペドロはオリエンテから立起.カストロはバスコンセロスの新聞「アレルタ」を使ってプリオ非難のキャンペーンを展開.真正党は34年初めに三日間だけの大統領となったエビアを候補とする.バチスタ,大統領選への参加を表明するが大衆的支持はなし.
9 カストロ,ハバナ中心部の貧民街ラ・ペルサを撤去し市民広場を作る計画に反対し,市民運動を展開.この市民広場は現在の革命広場.
10 オルトドクソの権力掌握を阻止するため,米国務省とCIAはバチスタにクーデターを勧める.バチスタは陸軍情報部のペレス・クーギル(Perez-Cougil)をフィクサーとしてクーデターの準備を開始.参謀本部(コロンビア兵営内)のガルシア・トゥノン,カバニャス連隊のタベルニーリャ,オリエンテ連隊のチャビアーノ,戦車隊のサンチェス,空軍のラルビアら元軍曹仲間と権力掌握の陰謀を開始.学生の組織にはデラフェとマスフェレルがあたる.
12 「ボエミア」誌の世論調査では,オルトドクソ党が先行.バチスタは両者からはるかに遅れ三位にとどまる.
51年 世銀,キューバに関する調査報告.キューバは砂糖産業を縮小しないで産業を多角化し,砂糖に対する依存度を落とすこと,さらに国内消費向けに現在輸入している広範な食料,原料,消費財の生産を発展させること,結論として「単一の作物に依存する現在の静的な経済を,多様化された動的な,成長する経済に変えること」を勧告.
1952年
52年1月
1.28 カストロ,内部告発を元に,プリオが公費を使って豪邸を建てていると非難.また財界や軍上層部との癒着を糾弾.兵士たちにみずからの農場で無償労働させていた事実を暴露.会計裁判所(連邦行政裁判所)にプリオを告発.翌日の「アレルタ」紙にその全貌を掲載.プリオは在任中9千万ドルの公金を横領したといわれる.
1 軍の佐官クラスにバチスタを担いでクーデターを起こす計画進行.オリエンテでクーデター計画の噂が飛びかう.バチスタ派幹部のペドラサ元警察長官(35年3月8日のゼネストで弾圧の張本人をつとめた),クーデターを企てたとして逮捕.プリオは軍首脳に捜査を指示するが,捜査局長がバチスタ派だったため,真相解明できず.
1 選挙を前にオルトドクソの優勢が明らかになる.民主党のペラヨ,クエルボ・ルビオ,バスコンセロスもオルトドクソとの統一を望む声明.民主党の受け入れをめぐり,オルトドクソは二派に分かれる.民主党との統一を拒否する派にはサウメル・イグレシアスやマテレサ・フレイレ・デ・アンドラーデ.彼らは後にカストロの行動を支持.
52年2月
2.12 UIR活動家のラメラス,プリオ派のコッシオ・デル・ピノ記者を暗殺.実際はクーデターの陰謀を発表しようとしたデル・ピノのバチスタによる処分.
2.19 カストロ,プリオが政治暴力集団に毎月1万8千ペソを払い,その幹部2千人を公職に就けていると暴露.
2 オルトドクソ,議会選挙候補者リストを発表.カストロは候補から外される.その後AROを基盤に猛烈な巻き返しを図り,立候補を認めさせる.
2 PSP,第7回党大会を開催.大統領選では正統党が受け入れるか否かを問わず,無条件に正統党を支持することを決定.
2 ラウル・カストロ,フラビオ・ブラボ社会主義青年同盟書記長の勧誘を受け加盟.
52年3月 バチスタのクーデター
3.2 バチスタ,フロリダから帰国.ただちにクーデターの準備を開始.52年労働運動のデラ・フェやMSRのマスフェレルは大学内で暴徒を組織.
3.7 アウレリアノ・サンチェス・アランゴ外相と米大使とのあいだで米・キューバ相互防衛援助条約を調印.キューバは援助された物資を「米国の同意を得て西半球の安全のため有効に使用する義務」を負わされる.これによりキューバ軍の装備は一気に近代化.反対派弾圧のため軍事情報機関(SIM)を創設.長官マヌエル・ウガルデ・カリリョ大佐は拷問執行の専門官も養成し徹底的な反対派弾圧にあたる.保安警察もエステバン・ベントゥラ・ノボ長官のもと無制限の全権をふるう.
3.10 2:40am バチスタら,ラファエル・カサルス・フェルナンデス少佐,ラファエル・サラス・カニサレス中尉らの支持を受けコロンビア兵営第六ポストに侵入.参謀総長を含む将軍たちを逮捕し兵営を占拠.1時間後には全国の主要基地を掌握.警察と海軍は引き続きプリオに忠誠を誓う.ハバナ大学に結集した活動家は,反クーデターのため武器の引き渡しを迫るが,プリオはこれを拒否.プリオはハバナを離れ,政府支持の東部の部隊に連絡を取ろうとするが途中で断念.バチスタは大統領官邸を戦車で包囲し,プリオ大統領に辞任を迫る.プリオは辞任しメキシコ大使館に亡命.プリオは国外逃亡の際政府資金1千万ドルを持ち出したと思われ,うち5百万ドルが反バチスタ活動に使われたと思われる.彼の取り巻きが持ち出した政府資産は総計2千万ドルと推定される.
3.11 バチスタ,「腐敗と暴力の横行を絶ち,プリオが4月15日に予定していたクーデターを予防するための行動」とし,「革命的政府が法と秩序,正義を実現するまで」軍部が権力を掌握すると声明.アンドレス・ドミンゴ・モラレス・デル・カスティーリョを臨時大統領に据え,みずからは「革命政府」首相に就任,40年憲法の停止を宣言.6月に予定された大統領選を中止,すべての政党の解散と憲法による保証の停止を命じる.タベルニーリャらクーデターに功績があった戦車軍団が政権の中枢を占めタンキスタと呼ばれる.SIM長官にはアントニオ・ブランコ・リコ中佐が就任.反対派への残虐な取り締まりを始める.バチスタはただちにウィラード・ボーラック米大使および在ハバナ軍事顧問フレッド・フック大佐に対し相互防衛条約の遵守の意向を表明.PSPはただちにクーデター反対の態度を打ち出すが,党幹部の何人かはバチスタを支持し政権に参加.
3.12 ウォール・ストリートはバチスタに好意的な論説を掲げる.地主,資本家,マスコミはバチスタ支持を打ち出す.カトリック教会もバチスタ支持の方向.まもなくスペイン,バチカン,カナダ,スイス,英国がバチスタ政権を承認.トルーマンはバチスタ支持と軍事援助の開始を言明.憲法裁判所,「革命は権利の源泉である」とし,バチスタに憲法を一時停止する権利を与える.アグラモンテは反乱を企てたとして投獄される.
3.12 議会内最右派の共和党,バチスタ政権への参加を決定.他の野党自由党と民主党もまもなくバチスタ支持をうちだす.
3.13 カストロ,「バチスタの行いは革命ではなく,野蛮な権力の簒奪である」と非難.「革命ではなく銃声を」と題した声明文を作成.「鎖につながれて生きるのは,恥辱と不名誉の海に身を沈めて生きること.祖国のために死ぬことこそが生きる道である」と訴える.アレルタ紙に送るが掲載を拒否される.
3.14 FEUのアルバロ・バルバ,エドゥアルド・アルト,ホセ・アントニオ・エチェベリアら,反対派の統一を呼びかける声明を発表.マスフェレルは反バチスタの姿勢を転換,MSR活動家に抵抗をやめるよう指令.
3.15 オルトドクソの代表,ワシントンのOASを訪れ,各国がキューバの民主主義を守るため,国際的介入をするよう求める.
3.16 オルトドクソ党,警察が包囲する中でチバス追悼集会.カストロは謄写版刷りの新聞「告発者」を撒き,「バチスタが武力で政権を奪ったのなら,武力によって追い出されるべきだ」と演説,直接行動を呼びかける.バチスタは,オルトドクソの行動は民族の尊厳を傷つけるものと非難.
3.21 キューバ政府,ソ連と断交.
3.22 ミゲル・アンヘル・デラ・カンパ新外相,米大使に対し新政府の承認を要請.米国は共産主義との絶縁,PSPの非合法化を迫る.
3.24 カストロ,バチスタがクーデターにより「憲法と政治形態」を踏みにじったと憲法裁判所に告発.緊急裁判所に対しては,「バチスタが暴力を目的達成の手段とし,社会治安法の6か条を犯して」おり,規定により通算108年の禁固刑に相当すると断罪し,逮捕状の発行を要請.裁判所はこれを拒否.カストロは次のように裁判所を糾弾.「キューバに裁判所があるならば,バチスタは当然処罰されなければならない.もしバチスタが処罰されず,引き続き国の主人であり,行政権と司法権を持ち,多くの生命と農場の所有者であるならば,キューバに裁判所は存在しない.もしそうだとすれば,あなた方は裁判官の服を脱ぎ,その地位を辞すがよい」
3.27 CIAと陸軍の要請を受けたトルーマン大統領は新政権を承認,経済・軍事援助を約束する.
52年4月
4.5 閣僚評議会,クーデター正当化の声明を発表.「この革命は1927年に始まり,40年憲法により規定された革命的伝統の延長線上にある」と強弁.
4 アベル・サンタマリアら,反バチスタのグループを形成.ガリ版刷りの機関誌「ソン・ロス・ミスモス」を発行.アベルは地方の製糖工場で働いたあと,職と教育を求め47年ハバナに出る.ポンティアック自動車の子会社で会計係として働きながら,オルトドクソ党に接近.妹アイデーと同居する25番街のアパートは,クーデター後反バチスタ青年のたまり場となる.同志ヘスス・モンタネ・オロペサとボリス・ルイス・サンタ・コロナはGM子会社の会計係.メルバ・エルナンデス(法律家)はアイデーの友人でボリスのガールフレンド,ほかにハバナ大学中退のペドロ・ミレト(測量技師),ラウル・ゴメス・ガルシア(教師,詩人,黒人),メルバの親友エルダ・ペレス(弁護士)ら.(ペドロ・ミレトがアベル・グループだったかどうかは未確認.コロナとアイデーが婚約していたという説もある)
4 バチスタ,ソ連との国交を断絶すると発表.
52年5月
5.1 コロン墓地で暗殺された労働運動指導者の追悼式.アベルのグループとカストロが出会い意気投合.
5.5 カストロとアベル,モンタネ,マタンサス州コロンの街にマリオ・ムニョス・モンロイ医師を訪ねる.ムニョスは当時40歳,アマチュア無線の免許を持ち,軽飛行機のパイロットでもあった.秘密ラジオ放送の知識を持っていたため,ハバナ大学内からの放送の可能性を探る.
5.8 ハバナ大学構内でギテラス虐殺17周年記念集会.「抵抗と国民解放運動の自由放送」と名づけ集会のラジオ放送を試みるが技術的困難のため失敗に終わる.
5.20 カストロ,「ソン・ロス・ミスモス」を「告発者」と改称.みずから編集責任者となり,ハバナ大学内の配布ルートを開拓.ペドロ・トリゴ,ニコ・ロペス,ペドロ・ミレト(ハバナ大学学生)などを組織.
5.20 国民革命運動(MNR)結成.指導者のラファエエル・ガルシア・バルセナはハバナ大学哲学科教授.DEU創設メンバーの一人でかつ真正党創設メンバーでもある.オルトドクソ結成にあたってはチバスと行動をともにし,幹部の一人となる.高級軍事学校(Escuela Superior de Guerra)の講師(心理学,社会学,哲学)を6年つとめたあと,クーデターにより辞任.他の幹部にエバ・ヒメネス,マリオ・ジェレーナ,フェルナンド・サンチェス,フアン・マヌエル・マルケス,ファウスティノ・ペレス,アルマンド・アルト,ジョー・ウエストブルックなど.さらにサンチアゴのMNRにはフランク・パイス,ビルマ・エスピンらが結集.
5 ピナル・デル・リオ州アルテミサで,ホセ・スアレスが反バチスタ宣言を発表.スアレスはカストロの旧友でオルトドクソ青年同盟の活動家.彼の呼びかけに応え,ラミロ・バルデス,シロ・レドンド,フリオ・ディアスが結集.支部はグアナハイの町にも拡大.この年の末には250名に達する.
52年6月
6.25 オルトドクソ青年同盟,バチスタの欺瞞選挙をボイコットするよう呼びかける.同時に「われわれは革命的路線を支持し,街頭での直接行動を支持し,政府に対する公然たる戦争を支持する」と声明.オルトドクソ本部はこの声明を拒否.
6 エウフェニオ・フェルナンデスの率いるカリブ軍団2千名がグアテマラで侵攻作戦を準備中との噂が流れる.オルトドクソ秘密会議,革命組織の創設の必要性については一致するが,具体的な話は進展せず.
52年7月
7.27 プリオらによる,ハバナ潜入と主要軍事施設の爆破計画,未然に摘発される.この計画にはコスタリカのホセ・フィゲーレスも関与.
7 バチスタはクーデター反対のデモに対抗し,大学閉鎖,無差別逮捕,検閲制度,指導者の暗殺などで対抗.オルトドクソ内での活動に見切りをつけたカストロは,各地の小グループと連絡を取り地下組織を結成.
8.16 コロン墓地でチバス追悼集会.オルトドクソ青年同盟(マックス・レズニック書記長)の呼びかけに応え,数千の青年がハバナ大学から墓地までを行進.主催メンバーからはずされたカストロらのグループは,オルトドクソの方針を批判し「政治的解決ではなく革命を」と訴える「告発者」を配布.
52年9月
9 SIMによりカストロ派の活動家が一斉検挙,ビラや印刷機も押収される.軍事行動組織は厳密な地下活動にはいる.軍事責任者ペドロ・ミレトがハバナ大学構内で射撃訓練を開始.
9 カストロ,アベルのグループにARO各支部のメンバーを加え会談.AROからはフアン・マヌエル・マルケス,アントニオ・ロペス,セルヒオ・ゴンサレス,ロベルト・メデロス,ヘラルド・サンチェスらが参加.カストロは合法活動を続けながら1200人の組織を作り上げる.
10 SIMによりカストロ派の活動家が一斉検挙,ビラや印刷機も押収される.組織は厳密な地下活動にはいる.軍事責任者ペドロ・ミレトがハバナ大学構内で射撃訓練を開始.カストロは合法活動を続けながら1200人の組織を作り上げる.
12 プリオとオルトドクソ党代表のエミリオ・オチョア,モントリオールで会談.反バチスタで共同する方向を探る.
12 カストロとアベル,アルテミサを訪ね反バチスタ・グループと会談.アルテミサ側からは創設メンバーの他ハイメ・アコスタ,レネ・ガルシア・コリャソらが参加.アルテミサの7支部,グアナハイの4支部から各10名の武装組織メンバーを選抜・訓練することで合意.ラミロ・バルデスが担当することになる.
52年 議会の多数派はスアレス・フェルナンデスの率いる民主党が握る. 大学はMSRが退潮した後アルフレド・ゲバラの率いる共産青年同盟が前進し,オルランド・ボッシュとヘゲモニー争いとなる. UIRとつながるオルトドクソ(ウエルタス),新興のキリスト教学生組織(マノロ・アルティメ,ラスコ)らも加わり混乱.
1953年
1 オルトドクソ党内のホセ・パルドとエミリオ・オチョアに率いられた一派,真正党との合流を主張.ロベルト・アグラモンテ(ハバナ大学社会学教授)は,これをオルトドクソの党是に対する裏切りと非難.武力によらない「市民抵抗」を呼びかける.
1.27 ホセ生誕百年を記念し「百年青年同盟」を組織.メンバーは2千を数えるにいたる.ハバナ大学で集会.500名(一説に数千)のデモ隊がたいまつを持って街に繰り出しバチスタ政権に対する抗議デモを展開.
53年2月
2 フィデル,オルトドクソ青年同盟からリクルートした165名の作戦部隊を結成,オリエンテ州で兵営を攻撃し反乱を起こす計画を建てる.みずからが指揮官に,副官にはアベルをあてる.これにモンタネ,ホセ・ルイス・タセンデ,レナト・グイタルト・ロセル(サンチアゴ在住),ペドロ・ミレト,オスカル・アルカルデ(製薬工場支配人)が指導部を形成.カストロは,ARO活動家で養鶏業を営むエルネスト・ティソル・アギレーラを仲間に引き入れる.ティソルは鶏卵をマイアミに輸出していたことから,武器密輸が可能と判断された.ほかに主要メンバーとしてフアン・アルメイダ(黒人の煉瓦職人)など.バヤモ襲撃隊が別に組織され,マリアナオ支部の青年25人が選抜される.指揮官にはAROのマヌエル・マルケスとアントニオ(ニコ)・ロペス.アベルのアパートをアジトに謀議を重ねる.
2.14 先月警官の狙撃を受けた学生が死亡.これに抗議する集会は革命的民族主義運動(MNR)のもとに3万人が結集.デモは市内で焼打ちなどの行動.バルセナは軍とのパイプを通じて無血クーデターを試みる.警察当局,カストロを治安妨害の罪名で告訴.
2 ラウル,社会主義青年同盟の代表としてウィーンで開かれた第4回世界青年・学生祭に出席.その後ブカレスト,ブダペスト,プラハなどを歴訪.
53年3月
3.18 オルトドクソ指導者の一人でオリエンテの砂糖地主のフェルナンデス・カサス,11月実施予定の選挙に立候補すると表明.
3.20 政府,政情不安を理由に選挙を来年6月1日に延期すると発表.
3.30 13人のアメリカ人「トランプいかさま師」(cardsharps)がハバナで逮捕される。
4.05 MNRの「聖週間の陰謀」が発覚.軽武装の50人がコロンビア兵営に突入,反バチスタ派将校と結託し兵営を占領して反乱する計画.67名が逮捕されうち13名に有罪判決.バルセナは懲役三年の刑.参加者のうちフランク・パイス,ビルマ・エスピン,ペピト・テイらサンチアゴ組,ファウスティノ・ペレス,アルマンド・アルト,フェルナンド・サンチェス,マリオ・ジェレーナらはM26に合流.エバ・ヒメネス,ジョー・ウエストブルック,ファウレ・チョーモンなど主流派は,DRに合流していく.
5 カストロとチソル,サンチアゴを偵察旅行.グイタルトの紹介で東部郊外の「エル・シボネー」農場をチソル名義で借りる.ここから鶏卵輸出の名目でマイアミと交通をとり,武器を密輸入しようと計画.6月からはアベルを住まわせ武器弾薬を備蓄.
53年6月
6.02 プリオとパルド,モントリオール宣言を発表.40年憲法にのっとり臨時政府を樹立し,43年の選挙法を遵守して選挙を行うとするが,実際の方法については言及せず.実際には国内での蜂起をねらっていたとされ,カストロ派のフアン・マヌエル・マルケスも関係していたといわれる.グラウはこの宣言に反対することで党内の主導権を回復し,大統領選への出馬をねらう.アウレリアノ・サンチェスはプリオにもグラウにも反対し独自に武装闘争路線を開始.フェエルナンデス・カサスとカルロス・マルケス・スターリングはグラウとは別に選挙への参加の道を探る.
6.06 ラウル,欧州から帰国.そのままSIMにより逮捕.獄中でフラビオ・ブラボ社会主義青年同盟書記長と面接し,社会主義労働党へ入党.
6.20 ラウル,当初蜂起路線に批判的立場をとるが,タセンデの説得を受け蜂起に参加することを決意.
6 カストロ,アルテミサ・グループから30名を選抜.モンカダ襲撃隊に加える.
7.01 グイタルト,バヤモにアジトを確保.バヤモ兵営襲撃にはペドロ・ベリス,ウーゴ・カメホ,アンドレ・ガルシアらハバナのマリアナオ地区細胞の活動家があてられる.
7.21 アイデとメルバ,武器を隠し持ちあいついでサンチアゴ入り.
7.22 ラウル・ゴメス・ガルシア,「モンカダ宣言」の草案を起草.「自由と人間の尊厳を愛するキューバの若者たちは不滅の反乱を起こすことによって立ち上がる.過去の腐敗と現在の欺瞞との狂ったつながりを断ち切るのだ」
7.24 カストロ,全メンバーにハバナを発ちサンチアゴに向かうよう指令.フィデルの車は夜半にハバナを離れる.これに前後して約130名がサンチアゴに向かう.
7.25 ラウル,ミレト,タセンデらハバナ組が列車で到着.市内のホテルに分散.ニコ・ロペスとオルランド・カストロのひきいるバヤモ襲撃隊30名も現地に集結.
6PM カストロ,バヤモに到着.バヤモ攻撃隊25名と打ち合わせ.バヤモ班の目標は,オルギンの連隊本部からの増援部隊をカウト川の線でくい止めることにあった.
10PM: バヤモを発ちサンチアゴに向かう.
7月26日
3:00am 市内各所に分宿した135人の青年が,シボネイ農場に集結完了.フィデルが集結の目的と目標を説明.大学生4人と無線技師1人が不参加を表明し脱落.
4:30am 26台の車に分乗し,フィデルら95人のモンカダ兵営襲撃班,ラウルら10人の裁判所占領班,フリオ・レイエス,ラウル・ゴメス・ガルシアらの放送局占拠部隊.アベル,ラウル・ゴメス,メルバ・エルナンデス,アイデ・サンタマリア,マリオ・ムニョスら21人の市民病院班に分かれ出発.(一説に123名16台)
5:00am バヤモ襲撃隊,攻撃を開始.最終参加者は22名.ラウル・マルティネス・アララを指揮官とし,3つの班に分かれ兵営を攻撃.衛兵の機銃掃射にあい敗退.マルティネスの弟マリオを始め12人が死亡.革命行進曲の作者で黒人詩人のアグスティン・ディアス・カルタヤ,カストロの盟友ニコ・ロペスらは逃げおおす.
5:15am 襲撃隊,モンカダ兵営前に集結.モンカダ襲撃班は,カストロが指揮する軽装備の第一隊45人と,重火器を装備する第二隊50人に分かれるが,第二隊は道に迷い戦闘に参加できず一説に最終的な戦闘参加は111名14台).ラミロ・バルデス,ホセ・スアレス,モンタネ,グイタルト,タセンデら8名からなる特攻隊を先頭に突入開始.本隊は先頭車がエンストしたため(一説に縁石に乗り上げ横転)兵営内に入れず,機関銃をもった営外巡察隊と衝突.その後ただちに非常ベルが鳴り,敵の反撃開始.ギタルト他3人がその場で死亡.戦闘中の死亡者は9名に達する.市民病院班は制圧に成功し,兵営に向け射撃開始.バヤモ襲撃隊も30名中20名が射殺され惨敗.
6:00am カストロ,撤退を決断.ペドロ・ミレトとフィデル・ラブラドルら狙撃隊の擁護を受けながら撤退.裁判所班も制圧に成功するが,銃の故障のため攻撃に参加できないまま撤退.放送局占拠班も目的を果たせないまま撤退.軍は撤退に失敗した市民病院班に銃火を集中.
7:00am カストロらが,シボネイ農場に集結.40人(60〜70人説もある)中20人は降服を主張.アルテミサ・グループを中心に19人が,さらに抵抗を続けるためサンチアゴ東方30キロのグランピエドラ山(標高1250メートル)に出発.同行したメンバーはフランシスコ・ゴンサレス・フアン・アルメイダ,アルマンド・メストルら.
8:00am 市立病院班,弾丸消耗により反撃不能となる.
9:00am 軍,市民病院に突入.反乱終結.入院していた地元新聞編集長の密告により,一人を除く全員が逮捕.軍は逮捕者を次々と拷問・虐殺.犠牲者はラウル・ゴメス・ガルシア,ボリス・ルイス(アイデーの婚約者)など.
10:00am バチスタ,休養先のバラデロからハバナに戻り,コロンビア基地に作戦本部を設営.閣僚会議を招集しキューバ全土に非常事態を宣言.刑務所における囚人の権利を規定した刑務所法を一時停止し,捕虜虐殺を合法化.マルティン・ディアス・タマヨ将軍をサンチアゴに派遣.
3:00pm ディアスは捕虜の虐殺を命令.アベルのほかグイタルト,タセンデら病院班のほぼ全員をふくむ40名(一説に67名)が拷問ののち殺害.現場入りした週刊誌「ボエミア」の記者マルタ・ロハス,フィルムを持ち隠しハバナに向かう.
6:00pm 米国務省,「国際契約を忠実に守り米州諸国の内政に干渉することを控える」と声明.
7月27日
7.27 サンチアゴ軍司令官アルベルト・デル・リオ・チャビアノ大佐,「最新の戦闘武器を身につけた400〜500名が襲った.敵はレミントン自動小銃にダムダム弾を使用,陸軍病院にいた三人の患者の腹をナイフで切り裂いた」と報告.
7.27 バチスタ,コロンビア兵営で演説.モンカダ襲撃者のうち33名が戦闘で死亡と発表.「襲撃は海外に亡命した反体制グループによって計画かつ組織され,資金提供を受けたもの」と非難.(一説によれば「この暴動はプリオ政権の下で共産分子と結託していた連中の雇い兵によるもの」と声明).カストロら19名,グラン・ピエドラ山中を黒人の農民に助けられながら彷徨.
7.27 バヤモ襲撃隊のほとんどが逮捕される.逮捕者はみずからの墓穴を掘った後射殺される.生き残りのニコ・ロペスはグアテマラへ,カリスト・ガルシアはコスタリカへそれぞれ亡命.襲撃参加25名中14名が死亡.
7.28 サンチアゴ大司教エンリケ・ペレス・セランテス,市の有力者の支持を受け反乱者の救出に乗り出す.モンカダ司令官チャビアノ大佐と会見し,反乱者虐殺に抗議.投降者の処刑をとりやめるよう要請.
7.29 セランテス大司教,投降者の処刑中止を認めさせ,カストロを殺さないと約束させる.「流血はもうたくさんだ」と題する声明文を発表.陸軍との合意について宣伝.これを受けて32名の襲撃隊員があらたに投降.逃亡中のラウル,サンルイスで検問にかかり逮捕される.翌日には身元が判明するが,セランテスの尽力により虐殺を免れる.
7.30 レイナルド・ベニテスは足の銃創が悪化,ヘスス・モンタネは偏平足のため歩行困難となる.さらにマリオ・ラソが誤ってみずからの肩を撃つ.カストロは二人の護衛をつけて負傷者をサンチアゴに送り出す.部隊は9名に減少.
7.31 「ボヘミア」誌記者マルタ・ロハスの撮影した拷問・虐殺の写真がボエミア誌を飾る.反乱兵に対する国民的同情が高まる.
7.31 ここでカストロ,オスカル・アルカルデ,ホセ・スアレスの3名を除く6名は投降することとなる.三人はサンチアゴから10キロのカネイ村郊外セビリャにあるフランシスコ・ソテロ・ピーニャ所有のエル・シリンドロ農園に潜伏.
7月 PSP,モンカダ襲撃と時を同じくしてサンチアゴで全国大会開催.蜂起とはまったく関係せず.軍情報部はPSP本部を捜索し,機関誌「オイ」の発刊を停止.
7月 ブエノスアイレス大学医学部を卒業したゲバラ,「米帝からラテンアメリカを解放するために闘う」と言い残し,家をあとにする.
53年8月 カストロ逮捕
8.1 カストロの部隊,カネイでなじみの農場主と会い,情勢の変化を知る.カストロは部下一人を連れ北を目指すこととする.
8.1 仮眠中のカストロら,地方警察軍の捜索隊16名により捕獲.カストロと離れた他のメンバーもほぼ同時に逮捕.反乱終結.捜索隊を指揮したペドロ・マヌエル・サリア中尉は53才の黒人.ハバナ大学で学びカストロと面識があった.虐殺を恐れたサリアは,モンカダの軍本部への引き渡しを拒否.サンチアゴ軍副司令官のアンドレ・ペレス・ショーモント少佐の指示を受け,市警察のビバック留置所に連行.チャピアノは帰隊したサリアをただちに懲戒免職.
8.2 バチスタ,サンチアゴを訪れ,部隊を閲兵.マセオ連隊に栄誉十字賞を贈る.大聖堂ではセランテスの執り行う死者のためのミサに数千人が参列.
8.2 カストロ,サンチアゴ刑務所から北部郊外のボニアト刑務所(一説にシボネイ農場の近くマンプリーバ監獄)に移される.全国弁護士協会を代表してウンベルト・ソリ・マリンがカストロの弁護に乗り出す.
8.10 米共産党「デイリー・ワーカー」紙,モンカダ事件に関し「共産党はその闘争の基盤を大衆行動のうえにおく.冒険的な一揆主義は大衆闘争に反するものであり,人民が望む民主主義的解決に反するものである」と論評.
8.30 PSP全国執行委員会より全機関宛の書簡.カストロと一線を画す立場から「暴力団と妥協した無差別の,プチブルに特徴的な一揆的,冒険主義的,絶望的」な試みと最大級の非難を浴びせる.政治局員ホアキン・オルドキはカストロらを「売春婦の子供たち」と罵る.
53年9月
9.21 サンチアゴでモンカダの生き残り122名に対する第1回公判開催.弁護士22名,法医学者6名が担当.記者6名が入廷を許される.裁判所の要所には完全武装の兵士百人が警護.さらにその周囲を千人の兵と機甲部隊が取り囲む.フィデルは武装行動をとるに至った経過を説明し,プリオとの関係については否定.
9.22 第二回目の公判.被告人による拷問・虐殺告発があいつぎ,バチスタのイメージは損なわれる.カストロは,弁護士の資格において弁護人席に着くことを求め,許可される.カストロ,同志70名を逮捕・拷問の上虐殺した兵士を殺人罪で告発.
9.23 公判が不利に展開することを恐れたバティスタは,カストロをボニアト監獄の独房に押し込め,「精神錯乱状態」にあるとする医師の診断書を裁判所に提出.弁護士をふくむ外部との接触をいっさい断って,病気を理由に欠席裁判を続ける.セランテス大司教は軍に対し恩赦を訴える.
9.23 SIM長官マヌエル・ウガルデ・カリリョ大佐,共産党は解散させられ,もはや影響力を失ったと声明.
9.26 第三回公判カストロ不在のまま開廷.メルバ・エルナンデスは,健康であることを主張したカストロの手紙を判事宛に提出することに成功.
9.27 手紙を受け取った判事が法廷医を派遣.完全な健康状態にあるとの報告を得て,カストロの出廷を認める.
53年10月
10 バチスタ,PSPを非合法化し,幹部を一斉逮捕.党は政治局員を10人から5人に縮小.亡命中のブラス・ロカ書記長に代わりエスカランテが指導権を掌握.ほかにホアキン・オルドキ,セベロ・アギレ,マヌエル・ルサルド.PSPの日和見主義に反対する青年は,トロツキズムに接近.
10.6 フィデル以外の被告に判決.オスカル・アルカルデ・バルス,ティソル,ラウル,ペドロ・ミレトの4人が首謀者とされ禁固13年.他の生き残り20名に対し10年,3名に3年の判決.裁判所はハバナ市内のカバーニャス刑務所への収監を指示する.メルバ,アイディは禁固7カ月の刑で女子刑務所に収監.
10.13 バチスタは裁判所の指示を無視し,26名の囚人をピノス島のモデロ監獄に収監.メルバとアイデーはグアナハイの刑務所に収監.ピノス島の収監者はミレトを中心にイスラエル・タパネスとラウルが指導部を形成.モンカダの犠牲者ラウル・ゴメス・ガルシアの名を冠した図書室で学習を開始.
10.16 サンチアゴ市民病院内の看護学校の一室を仮法廷としてカストロに対する裁判.完全武装の兵百名が周辺を警戒.ハバナ弁護士会が指名したハバナ市支部長のホルヘ・パグリエリは,弁護を許されず.官選弁護士と報道を禁止された記者6人のみが出廷を許される.カストロは3人の判事,2名の検事を前に,ヨーロッパ近代思想を論拠に「歴史は私に無罪を宣告するだろう」と弁論.彼の弁論は地下出版され全国に流布する.
10.18 カストロは禁固15年を宣告され,ピノス島へ収監.カストロ,刑務所内で「アベル・サンタマリア記念イデオロギー学院」を開き,思想学習を強化.獄中でグループを形成したメンバーはモンタネ,アルメイダ,レドンド,ラミロ・バルデス,ホセ・スアレス,フリオ・ディアス,アベラルド・クレスポ,エンリケ・カマラ,アンドレス・ガリシア,ロセンド・メネンデス,レイナルド・ベニテス,イスラエル・タパネス,レネ・ベディア,アルマンド・メストル,フィデル・ラブラドル,エドワルド・ロドリゲス,オルランド・コルテス,フランシスコ・ゴンサレス,ガブリエル・ヒル,ホセ・ポンセ,アグスティン・ディアスなど.
10.28 バチスタ,1年後の11月1日に総選挙を行なうと発表.報道検閲と市民権の制限を解除する.バチスタ,セスペデス勲章をエクトル・トルヒーリョ大統領(ラファエル・レオニダスの弟)と,ペルーの独裁者マヌエル・オドリアに贈る.
53年11月
11.02 政府、PSPを非合法化。非合法下のPSP,グアテマラ支援のキャンペーン活動を大々的に組織開始.オスマニ・シエンフエゴスら旧オルトドクソ系の青年が社青同(PSP系)に大量加入.
11 メキシコのモンテレーで反バチスタ派の会談.プリオの他アロンソ・プホル,エミリオ・オチョアらが出席.具体的な方針の一致なし.
11.23 治安当局,ハバナ大学とカリスト・ガルシア病院を襲撃.学生活動家を一斉検挙.
11.27 学生左翼出身のAAA活動家マリオ・フォートゥニー,軍関係者によりハバナ市内で射殺される.最高裁は軍人であっても一般裁判にかけることが出来るとし,バチスタ政権を窮地に追い込む.
53年12月
12.24 選挙管理委員会,政党登録を開始.グラウ,大統領選への出馬の意志を表明.プリオらのモントリオール・グループは選挙への参加を拒否.PSPを含む左翼勢力の選挙組織「国民統一戦線」の登録申請は却下される.
12 プリオ,非米活動調査委員会より共産主義者の嫌疑を受ける.
53年 革命前最後の国勢調査.国民一人当たり所得はラテンアメリカ諸国中5位,テレビ普及率では1位,自家用車普及率では第3位.米国資本は電話・電力で9割以上,鉄道で5割以上,製糖業で4割を占める.その一方で,国民の1/4が文盲.都市部を除く地域では42%にのぼる.報告は「都市と農村をふくめて,キューバ全体で水道があるのは住宅戸数のわずか35%,屋内便所があるのは28%にすぎない.また農村の住居の3/4は掘ったて小屋(ボイオ)に住み,54%がトイレなしで小屋掛けカワヤも持っていない.97%が冷蔵庫なし,水道なしが85%,電気なしが91%.牛肉を常食するのは4%,魚は1%,卵は2%,パンは3%,ミルクは11%,生鮮野菜は1%以下.医師は2千人に1人.「農村の大衆は医療を受けられないことが度々ある.多数の子どもが寄生虫に感染し,ひどく苦しみ,苦痛のうちに死んでいく」と告発.さらに学齢期児童の就学率は56%,地方自治法では39%,オリエンテの砂糖地帯ではわずか27%にとどまる.農地のうち8割が遊休地.労働力の1/4が常時失業.
53 バチスタ,ランスキーにカジノ運営を個人的に依託.ランスキーはモンマルトル・クラブを根城に辣腕を振るう.彼の息のかかったカサ・マリーナは13才の男女を提供することで有名となる.
53 フランク・パイス,ペピト・テイら,FEUOを母体に「東部革命行動」(ARO.オルトドクソ急進行動とは別組織)を組織.反バチスタの地下活動を開始.モンカダ襲撃との時間的関係については不明.モンカダに参加したグイタルトとの直接関係はなし.パイスはバプティスト教会牧師の息子で,元国立師範学校の学生自治会委員長としてFEUO創設に関与.卒業後はサンチアゴのバプティスタ高校の教師をつとめる.
53 アルゼンチン出身の青年医師アルフレード・ゲバラ・リンチ,革命を求めラテンアメリカ各地を放浪,ボリビアからグアテマラに赴く.現地で原住民系のイルダ・ガデアと同棲.彼女の紹介でモンカダの生き残りニコ・ロペスとも知り合う.
54年1月
1 米下院代表団,ハバナ訪問.バチスタ体制に支持を与える.米政府はキューバに対する「善意」として,ニカロとモアのニッケル鉱山に対し4千3百万ペソの投資を発表するいっぽう,キューバに対し更なる自由化を迫る.PSP,ニカロへの投資は「善意」どころか,米国の利益にしかならないと批判.
1 政府の緊縮政策に抗議しストライキ相次ぐ.
54年2月
2 選挙登録を開始.ムハールの労働党と民主党,グラウの真正党が登録を行う.オルトドクソ右派のフィコは辞任し,変節漢のカルロス・マルケス・スターリングと交代.
2.20 メルバとアイディ,グアナハイの女子刑務所を釈放される.フィデルらの釈放と,反政府文書の作成・配布に動き始める.
54年3月
3 ハバナの大学学生連合,グアテマラ人民との連帯を求める大規模な集会を開催.サンチアゴではフランク・パイス,ペピト・テイ,フェリックス・ペーニャらのオリエンテ州大学学生連合(FEUO)が連帯活動を強化.
3 キューバ・グアテマラ委員会結成.オルトドクソ党左派幹部のドワルド・コロナが議長に,委員にはフアン・マリネーリョ,C.R.ロドリゲス,フラビオ・ブラボなどPSP幹部が入る.
4 PSP第7回大会開催.「搾取者と被搾取者との矛盾は激化しつつある.帝国主義者と支配階級,政府はこの状況を解決しようとしないし,またしようとしても出来ないだろう」と規定.中央委員会名でパンフレット「労働者階級・民族とサフラ」を発行.選挙に関しては,「グラウを支持することは現体制そのものを支持することにつながる」とし,グラウ不支持を決定.決議ですべての政治犯の釈放を求める.
54年5月
5 バチスタ政府,11月1日に選挙を実施すると発表.同時にプリオなど反政府活動家に対する恩赦を発表.モンカダ・グループは恩赦の対象から取り除かれる.
5 グアテマラ侵攻開始.エチェベリアの率いるFEU,フランク・パイス,ペピト・テイらの率いるオリエンテ学生連合(FEUO)は義勇兵を募り始める.
6 PSP組織担当書記ホアキン・オルドキ,砂糖労働者,タバコ労働者,港湾労働者などのあいだに民族解放民主戦線の運動が前進していると報告.
54年7月
7.17 内務省,カストロの妻ミルタ・ディアスの解雇を発表.ミルタは兄が内務次官だった関係で職を得ていたが,フィデルには通告せずにいた.ミルタはこれを機にカストロと離婚に踏み切る.ミルタは間もなくオルトドクソの政治家エミリオ・ヌニェス・ブランコと再婚.
7 アウレリアノ・サンチェス,チバスの自殺はスタンドプレイに過ぎなかったと発言.この発言を期に真正党とオルトドクソの関係断絶.オルトドクソはラウル・チバスを党首に据え,選挙への条件付き参加の道を探る.
7 ボエミア誌,獄中のフィデルとの会見記を掲載.
7 進歩行動党,自由党,民主党,統一行動党(バチスタのでっちあげた政党)の推薦を受けたバチスタ,大統領選への出馬を表明.
9.21 ゲバラ,メキシコにたどり着く.ゲバラはメキシコの病院で常勤のアレルギー担当医師となるが,薄給を補うためラティナ通信社のカメラマンのアルバイトをして生活する.後にイルダ・ガデアもメキシコに出て,ゲバラと結婚.
54年10月
10 真正党を中心とする野党勢力,グラウを擁立して選挙にのぞむ.政府PSPを非合法化.PSPはグラウを支持せず,グラウの名前に×をつけて現体制に反対の意志を示す戦術を提起.オルトドクソは40年憲法の復活,無条件の選挙権付与,全政治囚の釈放などを選挙参加のための条件としてバチスタに提示.これらがバチスタにより拒否されたことから選挙への参加を見送る.
10.28 グラウ候補,サンチアゴで打ち上げ集会.聴衆はグラウの演説を聞かず,「ビバ・フィデル,ビバ・カストロ」のコール.
10.30 ニューヨークで「歴史は私に無罪を宣告するだろう」の印刷完成.地下活動により広範に流布.原稿は獄中のフィデルからメルバの元に,果物の果汁を使って書き送られる.
10.31 グラウ,突如として選挙戦からの離脱を表明.選挙管理委員会に立候補の辞退を通告.
11.1 大統領選はバチスタへの信任投票となる.バチスタの得票数は全投票数を上回る.首相にホルヘ・ガルシア・モンテス.その後大統領選総括をめぐり真正党分裂.プリオらの武装蜂起派が主流を占めるようになる.真正党グラウ派は「共和国の友」協会(SAR)を結成.バチスタとの「市民的対話」を通じて政治への影響力維持をはかる.コスメ・デ・ラ・トリエンテ,ミロ・カルドナらが主宰.プリオは真正主義機構(OA)を結成.バチスタ打倒のための実力行動に踏み出す.プリオ政権の教育相だったアウレリアノ・サンチェス,反バチスタ武装組織「トリプルA」を結成.
54年12月
12.6 政令1618号発令.カルデナスとコチノス湾とを結んで国土を横断する運河建設の計画.パナマ運河の再来を恐れる広範な人々の反対.カマグエイでは砂糖労働者が,シエンフエゴスでは医師会が反対運動を開始.FEUは反対集会を呼びかける.エドワルド・コローナの率いるラテンアメリカ協会,マリオ・リバドゥリャの率いるオルトドクソ青年部,マックス・レズニックなどが相次いで反対の意思表明.
12.7 ハバナのマセオ公園でバチスタ独裁に反対するFEUの集会.これに参加したカミロらは,警察の暴行により負傷.
12.20 COCO放送,CMQテレビなども運河構想反対の論陣を張る.
54 ニューヨーク警察,プリオが隠匿していた武器を押収.国外追放を避けるため当局とのあいだに,反対派への援助を停止する協約を結ぶ.
55年1月
1.23 モラレス臨時大統領,秘密布告を発し,軍の関係が疑われる犯罪を一般裁判所で裁くことを禁ずる.さらに27日の最終閣議では政令1875号を発令.これにより,共産主義者とみなされたものは教育機関,労働組合などあらゆる公職から追放されることとなる.
1.23 政府,運河構想を断念.
1.27 軍事評議会,解散.翌日には上・下院が成立.真正党からは反グラウ派16名が下院に18名が上院議員に就任.グラウはミラマールの自宅に軟禁される.
1.28 ホセ生誕102周年.政府は一切の集会を禁止するが,サンチアゴではマルティ学生同盟の500名がデモを試みる.
1 地下のPSP,党大会を開催.民主民族戦線政府の樹立を掲げる.
1 服役囚の母親委員会,恩赦を要求する運動を開始.これに引き続き「政治囚のための関係者による恩赦委員会」が活動開始.カストロの姉リディアが運動の中心となる.
55年2月
2.1 バチスタ,任期4年の大統領に就任.副大統領はラファエル・グアス・インクラン.就任式にはニクソンが出席しバチスタに祝福を与える.大統領選出にともない,米国は相互防衛条約にもとづく軍事援助顧問団(MAAG)の派遣を開始.
2.8 ムハールらCTK幹部はバチスタ支持を公然と表明.交換条件に労働組合費の強制徴収を認めさせる.PSP全国委員会,国民民主戦線政府を作り,現在の危機を民主的に解決するよう国民に訴える.また,CTK幹部のバチスタへの合流を非難.組合費の強制徴収を拒否するよう呼びかける.
2 砂糖労働者50万人が参加するスト,CTCの統制を乗り越え無期限ストに発展.サンタクララではピケ隊が国道を封鎖,各地でバチスタ反対デモ.
2.24 コスメ・デラ・トリエンテ,カルロス・マルケス・スターリング,マヌエル・アントニオ・デ・バローナ,ルイス・コンテ・アゲーロ,マックス・レズニックら広範な著名人による恩赦を求めるアピールが発表される.カストロ釈放をもとめる運動が全国で高揚.収監されたカストロのもとには,バチスタ政権の閣僚や現役の大佐などがつぎつぎと面会に訪れる.
2.24 オルランド・レオン,ホセ・アンヘル・フェルナンデスら労組活動家,相次いで暗殺される.
55年3月
3.10 カストロたちの恩赦を求める決議案が上下両院に提出される.バチスタは「フィデリスタたちが二度と新たな反乱を起こさないと約束すれば恩赦を与える」と公約.カストロは「自由を取り戻すためにいくばくの名誉も捨てるつもりはない」と声明.無条件の恩赦を要求.
3 運河構想に反対したカマグエイ州の独立戦争のベテランたちが,陰謀を企てたとして逮捕.
3 キリ民党の流れをくむ急進国民運動創設.指導者にアマリオ・フィアーリョ,マリオ・ジェレーナら.
55年4月
4.14 官憲,ハバナ市内のプリオ派秘密拠点を摘発.M−1ライフル12丁,ガランド銃数丁,手榴弾1500発,弾薬2万を押収.
4 アレン・ダレスCIA長官,キューバを訪問し治安状況につき視察.「キューバには筋金入りのアカが約2万5千人いるが,老練な政治家であるバチスタが完全に統制している」と報告.BRAC(共産主義防止局)創設にむけ精力的に動く.
4 新聞に対する検閲解除.各紙は一斉にカストロ恩赦を要求するキャンペーン開始.ハバナなどの都市で恩赦を要求するデモが連日展開される.刑務所管理委員会はカストロに30日間独房入りの処分.
55年5月
5.2 下院,恩赦法を可決.翌日には上院も採択.
5.6 バチスタ,「母の日に敬意を表して」恩赦法に署名.ガルシア・モンテス首相,大統領が恩赦法に署名したと発表.
5.15 カストロらモンカダ参加者29名全員が釈放.出獄後ハバナで正統党指導者や学生連合などをふくむ群衆の大歓迎を受ける.ラウルはただちにメキシコにとび,ホテル・インペリアルに居を構え,同志の結集に当たる.
5.15 バチスタ,共産主義防止局(BRAC)の創設を声明.発足にああたってはCIAの全面協力.アーサー・ガードナー大使も精力的に動く.ガードナーは,トルーマン政権の商業次官をつとめた反共の闘士.
5.21 オルトドクソ,カストロの示唆も受けて政治宣言を発表.「経済危機は社会的危機をもたらした.政治家や官僚は反対派を弾圧する一方,私腹を肥やし腐敗している」と述べる.当面の要求として・40年憲法への復帰,・野党や亡命者の政治活動の保証,・市民への攻撃の中止,・検閲の廃止を掲げる.
5.24 政府,オルトドクソのテレビ,ラジオ番組放送を禁止.ペドロ・ミレト,逮捕される.
5.29 「ボヘミア」誌,バチスタを非難するカストロの談話を掲載.政府はカストロの大衆集会での政治的発言を禁止.
55年6月
6.1 バチスタ,恩赦を受けた活動家をふたたび逮捕,死の脅迫などで弾圧.市内各地で犯人不明の爆弾騒ぎが続発. カストロの身にも暗殺の危険が迫る.姉リディアのアパートにはラウル,モンタネ,メキシコから戻ったニコ・ロペスが警護に就く.
6.10 警察,ハバナのAAA地下組織指導者ホルヘ・アゴスティーニを暗殺.アゴスティーニはスペイン人民戦争の参加者.グラウ政権の下で海軍大臣を務め,カヨコンフィテスの計画にも参加.
6.12 ハバナ港近くのファクトリア通りのアパートで,全国から80名が参加して「7月26日運動全国指導部」会議が開催される.バチスタ政権の合法性を厳しく追及し,モンカダ虐殺の責任を問う.いっぽうで若者によるテロ戦術を敵を利するものと批判.「武装闘争は革命にとって必然ではない.大衆運動が蜂起を上回る成果を上げることもある」と述べる.
6.15 カストロ,アゴスティニ殺害の容疑で政府を告発.
6.15 政府は親カストロ派のラ・カレ紙の発行を禁止.ラウルを爆弾事件の犯人として指名手配.
6.17 カストロ,ラウルに対しメキシコ大使館に亡命を申請するよう指示.キューバ国内に残留したミレトが侵攻作戦準備の責任者となり,資金カンパや兵士の選抜などに従事することとなる.
6.24 ラウル,一足先にメキシコ亡命.
6 PSPはカストロの即時蜂起路線を批判.工場,地域に「生活防衛とCTU民主化のための委員会」を形成する一方,広範な反バチスタの国民民主戦線を結成するよう呼びかける.カストロ評価をめぐりPSPのオズワルド・サンチェス,C.R.ロドリゲスらは執行部の硬直した姿勢を批判.
55年7月
7.1 BRAC発足.FBIはバーナード・バーカー(ハバナ生まれの米国人.ウォーターゲート事件の被告の一人)などを通じてSIMにテコ入れ.
7.7 カストロ,メキシコへの亡命を決意.別れの挨拶はボエミア誌に掲載される.「私はキューバを離れようとしている.平和的闘争の機会がすべて閉ざされたからだ.マルティの信奉者として,私は闘いで権利を手にすべき時が来たと想う」という「政治家への公開状」を発表.
7 アントニオ・マセオを記念する学生デモに警察の発砲.ニューヨークのウォルドーフ・アストリア・ホテルでウェイターをしていたカミロ・シエンフエゴスもデモに参加し銃弾を足に受ける.
7.10 ラウル,メキシコ市に到着.エンバラン通り49番地のマリア・アントニア・ゴンサレスの家をアジトとして活動開始.マリアはメキシコ人と結婚したM26シンパのキューバ人女性.グアテマラで活動していたニコ・ロペス(バヤモ襲撃の生き残り)が戦線に復帰.ニコの紹介でグアテマラで活動をともにしたアルゼンチン人青年医師エルネスト・ゲバラも活動に参加.当時ゲバラはペルー出身の女性活動家イルダ・ガデアと結婚し一児をもうけていた.アメヘイラス,ポンセ,ウニベルソ・サンチェス,アルコスらはコスタリカ経由で戦線に合流.
7.17 カストロ,妻のミルタと離婚.ミルタは間もなくオルトドクソの政治家エミリオ・ヌニェス・ブランコと再婚.
55年8月
8.1 ハバナでオルトドクソ青年部活動者会議開催.カストロはメキシコからメッセージを送り「屈服か革命か」と問いかける.オルトドクソ青年部はカストロの訴えに熱狂的に応える.
8.8 カストロ,「キューバ人民に対する第一宣言」を発表.土地改革,工業化,米国系の電力・電話・ガス会社の国有化,公営住宅建設促進と家賃引き下げ,税制改革などを掲げる.「M26は党内分派ではなく”チバス主義”の革命的機構である」と,その結成をあきらかにする.フィデル,メルバへの手紙の中で「われわれの運動は野心的な社会計画を持っている.それはまず何よりも貧しい人々,搾取されている階級の利益を擁護するものである」と述べる.マチャド時代からの正統党幹部フアン・マヌエル・マルケス,国民革命運動(MNR)のファウスティノ・ペレスやアルマンド・アルトなどが合流.
8.11 プリオ,3年ぶりにハバナに戻る.市民的対話に参加すると表明.
8.15 エチェベリアらハバナ大学学生によるバチスタ暗殺計画発覚.プリオの支援を受けていたことが明らかになる.プリオは合法的な方法で政権を獲得する方向に転換すると声明.
8.15 全国から500の代議員を集めオルトドクソ全国大会.「市民的対話」への参加をめぐり議論.指導部は参加の方向を探るが,M26の影響を受けた若手党員は「革命路線」の採用を要求.カストロは大会にあてたメッセージの中で「即時総選挙実施の可能性を信じるものは,よほど純真なのか馬鹿なのかのどちらかだ.党はいまこそ国民の立場に立って明確で前進的な方向を打ち出すべきだ」と呼びかける.ファウスティノ・ペレスはマイクを奪い「革命路線=武装蜂起とゼネスト,に対するもっと明確な支持を表明せよ」と叫ぶ.大会は一切の交渉や妥協を拒否する決議を採択.
8.28 デラ・トリエンテ,ホルヘ・マニャッチらの呼びかけで「市民的対話」運動始まる.マチャド時代の「対話」運動の再現をねらったもの.バチスタは一切の対話を拒否.
8 フィデル,アルベルト・バヨ大佐と接触,軍事訓練への援助を求める.バヨはキューバ生まれで当時65才.ウエストポイントを卒業したあと12年間にわたりスペイン軍の一員としてモロッコの戦闘に参加する.スペイン戦争のときは共和軍の一員として戦う.その後40年代にはカリブ軍団に参加,ニカラグアの反ソモサ闘争にも加わる.その後「ゲリラ戦のための150の問題」を著す.メキシコ空軍学校の教官をつとめたあと,当時は家具販売業を営む.
8 フランク・パイス,メキシコでカストロと会見.AROのM26への合流で合意.M26国内指導部の責任者となる.サンチアゴ市内で警察への爆弾攻撃などの破壊行動を開始.サンチアゴ大学学生のレネ・ラモス・ラトゥール,ビルマ・エスピンらが参加.マンサニーリョのAROメンバー,セリア・サンチェスも市内に地下組織を結成.M26の支援にあたる.オルトドクソ青年同盟はレネ・アリーニョを先頭にDRとの接近を計る.
55年9月
9 ペドロ・ミレト,パイスとセリア・サンチェスに案内されニケロの上陸予定地点を偵察.その後ミレトはメキシコにわたりオリエンテの状況について説明.
9 オルトドクソ指導者の一人フアン・マヌエル・マルケス(当時40才),メキシコに亡命し,M26に加わる.このほか婚約中のヘスス・モンタネ,メルバもメキシコ入り.
55年10月
10 資金の欠乏に悩むカストロ,バヨの示唆を受け米国の観光ビザを獲得.フアン・マヌエル・マルケスをともない東部のキューバ移民社会を7週間にわたり汽車で歴訪.
10.23 カストロ,ニューヨークに到着.彼の影響を受けキューバ人三団体(キューバ移民および亡命者の民主化運動委員会,ニューヨーク・オルトドクソ委員会,キューバ市民運動)が結集,「ニューヨーク7月26日クラブ」を結成.パンフレット「歴史は私に無罪を宣告するだろう」の普及運動を開始.
55年11月
11.1 カストロ,ニューヨークのパームガーデン・ホールで800人のキューバ人在住者を相手に演説.「来年,われわれは解放者となるか殉教者となるかであろう.キューバ人が望んでいるのはたんなる支配者の交代ではないし,抽象的な自由や民主主義でもない.それは政治・経済の全般にわたるもっと根本的な変化だ」と訴える.同時にテロと暗殺を非難し,総選挙の実施を訴える.
11.6 カストロ,ユニオン・シティーでFBIに一時拘束され尋問を受ける.その後FBIはM26に対する系統的調査活動を開始.
11.20 カストロ,マイアミのフラグラー劇場で千名のキューバ人を相手に運動への支援を訴える.さらに27日にはキーウェスト,翌月7日にはタンパで演説.この旅行で9千ドルのカンパを獲得する.「7月26日愛国クラブ」がニューヨーク,ワシントン,ブリッジポート,シカゴ,フィラデルフィア,ユニオンシティー,マイアミ,タンパ,キーウェストの各地で結成される.のちにはバカルディ社主のボッシュから百万ドルにのぼる資金提供を受ける.
11.27 FEU,植民地時代の8学生虐殺事件記念統一行動を提起.全国十数箇所で大衆動員に成功.サンチアゴでは警官の攻撃により十人が負傷,50人が逮捕される.
11.29 FEU,学生の大量逮捕に抗議し,3日間の連帯学生ストを提起.
55年12月
12.1 内務省,すべての集会を禁止.
12.2 FEU,集会禁止令を破り大学から「対話運動」幹部の家まで街頭デモ.
12.4 ハバナで開催中の野球チャンピオン決定試合に学生が乱入.「バチスタ打倒」の旗を持ってフィールド内を駆けめぐる.
12.5 M26と連動する「マルティ生誕百周年女性市民戦線」のデモ隊が警察と衝突.多くの女性が殴られ逮捕される.
12.7 アントニオ・マセオ殺害記念行動.禁止令を破り全国で展開.カマグエイ州シエゴ・デ・アビラでは警官に襲われたオルトドクソ青年同盟の活動家ラウル・セルバンテスが死亡.同地で大規模な葬儀デモ.
12.10 キューバ政府の抗議を受けた米移民局,カストロの滞在許可を取り消しビザを失効させる.カストロはバハマのナッソーに移り,「キューバ人民への第二宣言」を起草.その後メキシコに戻り,蜂起の準備にとりかかる.
12.12 FEU,14日を「国民的抗議の日」とし,政府の弾圧に抗議しすべてのキューバ人民が5分間だけ職務を放棄するよう提起.闘いは当局に押さえ込まれるが,国民のあいだに強い印象を残す.
12.20 砂糖キビ労働者25万人のストライキ開始.7.26運動,革命幹部会,共産党など左翼諸派がストに連帯.FEUオルグが全国農場に散らばる.労働者は地方警察や軍と戦いながら,12の町を確保,中央からのすべての交通を遮断,13の砂糖工場を閉鎖に追い込む.ラス・ビリャス州では軍事衝突に至る.FEUは製糖労働者との連帯デモを連日にわたり展開.
12.30 バチスタ,農場主の反対を押し切り,砂糖労働者の要求を受諾.
12 アントニオ・エチェベリアら,武装闘争が不可避的なものとなったと規定.警察との衝突をくりかえすなかで武装自衛隊を組織.革命幹部会(DR)と名付け,革命闘争の中核に据える.主要メンバーにフルクトゥオソ・ロドリゲス,ジョー・ウェストブルック,ファウレ・チョーモンら.
55 バチスタ,これまで所有していたワシントン,コンスタンシアの二つの砂糖農園に加えアンドラ農場を購入.米国企業を除く砂糖生産高で第6位になる.さらに一族の所有する農場の大株主となる.また業界21位となるクーバ・エスパノ銀行を創設し妻を筆頭株主に据える.さらに放送・出版界, 観光・ホテル業界, 建設・土木業界でも大手の地位を占めるようになる.
55 トラフィカンテ,ハバナに居を構え,本格的進出を開始.ハバナはLA最大の売春・歓楽都市となりバチスタ一家の懐をうるおす.