キューバ年表 その(3)

1957年1月   1957年4月   1957年7月   1957年10月   1958年1月   1958年4月

58年5月  58年6月  58年7月  58年8月  58年9月  58年10月  58年11月  58年12月  59年1月

1959年2月  1959年7月  1959年10月  

 

1956年

56年1月

1.5 バチスタ,祖国の友協会幹部を招き会談.事態の平和的解決が必要と述べる.

1 カストロ,米国で獲得した資金をもとに軍事訓練を開始.3月蜂起を目指す.キューバと米国から選抜された40名の「兵士」がメキシコに結集.総勢は60名を越える.メキシコ市内の六つのアジトでバヨから爆弾製造や破壊活動について講義を受ける.ゲバラが政治教育を担当.メキシコ近郊のロス・ガミトス射撃場で射撃訓練開始. 

1 ミレト,M26の集めた千ドルを持参しメキシコ入り.アイディはマイアミで1万5千ドルの募金に成功.さらにマイアミだけでなく全米の組織化に成功し,毎月1万5千ドルの募金を確保することになる.

56年2月

2.20 祖国の友協会,オルトドクソにも対政府協議への参加を呼びかける.幹部はこの提案に積極的な姿勢を示す.

2.24 ハバナ郊外のマヌエル・ドルタ医師宅でオルトドクソ幹部会開催.主流派はバチスタとの妥協路線をとることを決定.周囲を取り囲んだM26支持者がアントニオ・ロペスを先頭に邸内に乱入,乱闘となる.政府はこの事件を利用し,M26を暴力集団と大宣伝.

2 フランク・パイスを先頭に25名からなる国内指導部結成.8千ドルを集める.ファウスティノ・ペレスがメキシコに持ち込む.セシリオ・アラスティア神父も1万ドルにおよぶ教会のカンパを寄せる.

56年3月

3.10 バチスタ,任期終了する58年までは退陣するつもりはないと声明.「市民的対話」の提案はすべて拒否される.

3.19 カストロ,「M26こそがチバスの真の継承者であり,正統派である」とし正統党との絶縁を宣言.正式に独自組織として発足.このころ武器の購入に成功.サンタロサス農場での軍事訓練開始.サンタロササス農場はメキシコ市から数キロの近郊,ポポカテペトル火山の山麓の村チャルコに位置する16ヘクタールの牧場.バヨはパンチョ・ビリャとともに戦ったことがあり,現在はエルサルバドルの大佐の代理人として働いていると嘘をつき,2万4千ドルで購入したいと地主に申し出る.購入を前提として,月8ドルの賃貸料で6ヶ月間にわたり借り上げることに成功.

56年4月

4.03 秘密警察,反バチスタ陰謀のかどでワシントン駐在武官のラモン・バルキン大佐,ボルボネト少佐ら250人の将校を摘発.軍内にクーデターを支持せず,文民統治に戻そうとする「純粋派」が存在することが明らかになる.

4.16 「純粋派」に対する捜査進む.陸軍大学の同窓生に組織された13人がリーダーとなり,ラモン・バルキン大佐を担ぐ.また前農業信用銀行頭取のフスト・カリーリョとともに反バチスタ秘密結社「モンテクリスチ」を指導.オルトドクソのルイス・コンテ・アグエロ,フェリペ・パソスらとも接触をとっていたことが明らかになる.首謀者の一人ホセ・ラモン・フェルナンデス中尉は,後にカストロ政権で閣僚会議副議長となる.

4 FEUの一派,テレビ局「チャンネル4」を占拠しようとして失敗.学生一人が射殺される.バチスタ,すべての大学と高校を一時閉鎖.これを機に,エチェベリアを中心とするFEU幹部は,組織の秘密を守りより強力な実力行動を展開するため革命幹部会を結成.警察の襲撃,波状的な街頭行動などをくりかえす.

4.29 レイノルド・ガルシアの率いる真正主義組織(OA)ゲリラ66人が,マタンサスのゴイクリア兵営を襲撃(一説にプリオの財政的支援を受けたDRコマンド).参加者は「プリオ万歳」を叫びながら営内に突入,そのまま機関銃の餌食となったといわれる.降服した蜂起参加者を射殺する写真がライフ誌を通じて世界に流される.

56年5月

5 キューバに帰国していたプリオ,バチスタによりふたたび国外追放となる.全国で一斉にプリオ派の掃討作戦展開.PSPのブラス・ロカ書記長,弾圧を逃れ北京に一時亡命.

5.8 ヘンリー・ホーランド米州担当国務次官補,「情勢は悪化しているが,経済の好調,市民の無関心,反体制力内の勢力争いが続く限り,バチスタの優位は動かないだろう」と報告.

56年6月

6.10 カストロ,コスタリカにゆき民族解放党と会談,「現在上陸部隊を訓練中である」ことを明らかにし,コスタリカ在住のキューバ人組織に支援を訴える.これを知ったキューバ政府は,彼らを取り締まるよう重ねてメキシコ当局に要請.さらに二組のカストロ暗殺チームを派遣するが,機会を作れなかったといわれる.

6.21 メキシコ連邦警察,メキシコ市内の路上を歩行中のカストロとラミロ・バルデスを逮捕.その日の内に12人の兵士が逮捕される.

6.22 カストロ,獄中から声明.メキシコがキューバ解放のため戦うものに対し友好的であることを希望すると同時に,自分たちは共産主義者やプリオの第五列ではないと強調.

6.26 内通者の通報によりサンタ・ロサス農場の摘発.ゲバラをはじめ軍事訓練中の40人のメンバーが逮捕される(一説に13名).5万6千ドル相当の武器が押収され,武器の不法所持と移民法違反の廉で27日間にわたり留置される.ラウルは難を逃れる.

56年7月

7.25 ゲリラ,カストロに同情的なカルデナス元大統領の尽力により23日後に釈放される.プリオもカストロ釈放に動いたとされる.ゲバラは共産主義者であると公言したため、釈放はさらに1カ月遅れる.バヨはさらに長期の収監となる.

7.30 カストロ,ユカタン亡命中のフスト・カリーヨをたずね援助を依頼.カリーヨは5千ドルを拠出したという.

56年8月

8.26 バチスタ政府,メキシコにおける反政府分子の活動を調査するため,情報局長官オルランド・ピエドラ大佐,保安局長官フアン・カステラノス大尉を派遣.

8 カストロ,ボエミア誌に寄稿.「メキシコで逮捕され国外追放されようとしたとき,プリオはメキシコ大統領に特別のはからいを要請した」と賞賛.

56年9月

9上旬? カストロ,不法に越境して(リオグランデを泳いでわたったといわれる)テキサス州マカレン(McAllen)のカサ・デ・パルマス・ホテルに赴きプリオ・ソカラスと会見.5万ドルの提供を受けることに成功.

9 警察の手入れを恐れたカストロ,メキシコ市を遠く離れたタマウリパス,ハラパ,ボカ・デル・リオ,シウダ・ビクトリアなどに分散して訓練にあたる.指導にはバヨの高弟たちが就く.カミロ・シエンフエゴス,米国経由でメキシコに到着しゲリラに参加.キューバ潜伏中だったミレト,ファススティノ,ニコ・ロペスらも部隊に合流.

9 カストロ,オルギン,マタンサス,サンチアゴで同時蜂起し,その間に本隊が上陸する計画を立てる.オリエンテを除く各州の地下運動の指導者,メキシコ市に集まり12月蜂起の戦術について意志統一.

9.20 エチェベリーア,メキシコを訪問し2日間にわたりカストロと会談(一説に8.29).・革命をハバナから始めるか,オリエンテから始めるか,・テロ戦術の評価,・軍の解体の戦略的重みづけ,などで議論が行われるが一致せず.カストロはDRのM26への合流を提起するが,エチェベリーアは「解散すべきはM26」と一笑に付す.19項のプログラムにもとづきバチスタ後の政権を運営することで「合意」したメキシコ協定が結ばれるが,実際はたんなるエールの交換にとどまる.一方カストロは真正党内の旧UIRメンバーにも密かに協力を要請.

9月末 カストロ,メキシコ人武器商人“エル・クアテ”の手引きでベラクルスの北200キロの漁港トゥスパンを訪れ,グランマ号を購入.資金はプリオからの1万5千ドル.グランマ号はメキシコ在住の米国人所有のクルーザー.43年製で全長25メートル(一説に11メートル).本来10人乗りのもの.当時は53年のウラカンで半ば水没状態にあった.売り手は2万ドルを要求.その後出撃に備えトゥスパンで修理にはいる.

56年10月

10 独立戦争の老戦士コスメ・デラ・トリエンテ,「市民的対話」運動を提唱.国民の支持を集めるが当局の弾圧により挫折.トリエンテは失意のうちに死亡.中道派やリベラルに対する弾圧の強化により出口を見失った国民は,カストロへの期待を強める.

10.23 フランク・パイス,カストロを訪問.「フロント組織の未成熟,貧弱な装備,内部規律の未確立などから見て行動部隊の能力は低い」として,蜂起を来年に延ばすよう要請.カストロは56年にキューバに帰るとの公約は破れないとしてこれを拒否.5日間にわたる議論の末,パイスも蜂起に同意.

10.24 帰国したエチェベリア,一連の政府幹部暗殺作戦実施を指示.カニサレス警察長官,ハイチ大使館に逃げ込んだ活動家を逮捕しようとして大使館内に侵入.銃撃により死亡.

10.28 DR,軍幹部数人に対する暗殺作戦を実行に移す.アントニオ・ブランコ・リコ軍情報部長が「モンマルトル・クラブ」で暗殺される.モンマルトル・クラブはマイヤー・ランスキー経営のトバク場.他数人が負傷.ブランコ・リコを暗殺したペドロ・カルボ・セルビアは数ケ月後に死亡.共犯のロランド・クベラ,革命後はCIAのスパイ[AMLASH]として暗躍.

10.29 当局に追われたDRの軍幹部暗殺犯10名,ハイチ大使館に亡命を求め逃げ込む.当局は犯人を追跡し大使館に乱入.銃撃戦の末,犯人を射殺.この戦闘で捜査隊長も死亡.

10 カストロ,メキシコ亡命中の親カストロ共産党幹部オズワルド・サンチェスと接触.サンチェスは侵攻作戦延期を提案.サフラの開始を待って砂糖労働者の武装スト突入,ついでゲリラ部隊の進攻という筋書きを提示.

56年11月

11.15 ミレトとテレサ・カスソがメキシコ官憲により逮捕される.

11.15 メキシコのカストロ,「M26から人民への宣言」を発表.上陸反攻が迫っているとし,全面戦争と都市部におけるゼネストを呼びかける.バヨ大佐の非難に対し「わたしの希望はキューバの誰もがわたしの到着を知り,M26を信頼するということである.これはわたしの戦略の特徴である」と応える.

11.19 カストロ,「政治的,革命的な立場からいえば,ブランコ・リコがどのような人物であろうと,暗殺は容認できない」と言明.みずからの計画として・大統領選と総選挙の90日以内の実施,・ドミニカのキューバ侵攻計画非難と断交,・56年4月事件参加軍人及び全政治囚の釈放,などを打ち出し,「もしこれらの要求が2カ月以内に実現しない場合は,M26は革命的行動を開始するだろう」と予告.「暴力的方法ではなく統一戦線を」と訴え,従来の方向に修正を加える.DRはカストロが「穏健派」に転落したとし,決定的な不信感を持つようになる.

11.19 陸軍参謀長フランシスコ・タベルニーリャ,「全土の防衛体制は完璧であり,カストロの上陸の可能性はない」と記者会見で表明.

11.21 国内の共産党,「反バチスタ勢力は団結せず,共産党のゼネスト準備も整っていない」ことから蜂起の延期を提案.メキシコに到着したフラビオ・ブラボにたいし,カストロは12月進攻を断固主張.

11.21 反乱参加予定者二人が,米国に国境を接したマタモロ近郊のキャンプ地アバソロから脱走.

11.22 メキシコ市連邦警察,ゲリラ内に潜入したスパイの手引きで武器5万6千ドル相当を押収.スパイはボゴタ以来のカストロの盟友ラファエル・デル・ピノだったと言われる.警察からの内報を得たカストロは,逮捕を逃れるため同志に避難を指示.トゥスパンに3日後に集合することとなる.

11.23 カストロ,フランク・パイスに30日の蜂起を指示.直後にメキシコ市を離れトゥスパンに向かう.

11.24 カストロ,トゥスパンに移動.武器・弾薬・食料の積み込みを指揮する一方,各訓練キャンプに集合命令を発する.

11.25 01:30am グランマ号,兵士81名を載せ嵐の中トゥスパンを出港.カストロ,出発にあたり「我々は自由になるか,殉教者となるかだ」と檄を飛ばす.船は1カ月にわたる修理にも関わらず,片方のエンジンが不調のままの状態.82人のゲリラを乗せトゥスパンを出港.50人が乗りきれずに置いてけぼりを食う.

11.27 FEU指導の学生デモ,警察と衝突を繰り返す.ただし準備不足からM26上陸作戦との連動はできず.

11.27 嵐のため二つのエンジンの片方が動かなくなり,スピードは大幅に落ちる.

11月30日 サンチアゴ蜂起開始

5:40am M26,グランマ号の上陸を敵に悟られないようにする陽動作戦としてサンチアゴ・デ・クーバなどで一斉蜂起.赤と黒の腕章をつけた数百人(AP電)が、サンチアゴの国家警察本部を襲撃.警察本部を一時占拠し焼き払う(実際は決死隊28名).さらに別動隊が沿岸警備隊本部,モンカダ兵営を攻撃したといわれる(税関と港湾本部という説もある).

正午 6時間の戦闘でペピト・テイなど三人が殺害されパイスは捕らえられるが,武器と主力の温存に成功.

11.30 セリア・サンチェスら50人はトラックとジープ5台に武器弾薬を積み,到着予定地ニケロ〜ピロンの海岸にてグランマ号を待つが,会えないまま一部は山中に逃れる. 

11.30 政府,45日間の憲法上の保障条項の停止を発表.

56年12月

1 サンチアゴの蜂起終焉.待機部隊も解散.オリエンテ以外の州では蜂起は起こらず.ハバナのDRも蜂起の約束を無視.

2日 カストロらの上陸

06:00AM カストロらを乗せたグランマ号は蜂起に間に合わず.予定地南方1.5キロ(一説に50キロ)のラス・コロラダス海岸(ロス・カユエロス?)で座礁.ラス・コロラダスはオリエンテ州西端ベリク町の南方.ベリク河口から沖合いに広がる珊瑚礁のため水深は浅く,マングローブの生い茂る沼沢地帯が続く.部隊は積み込んだ武器・弾薬・食料のほとんどを捨て3キロ先の陸地までを歩く. 

午前 沿岸の小型船がロス・カユエロス沖の干潟に座礁したグランマ号を発見し当局に通報.

午後 マンサニーリョの地方警察が出動し,上陸・襲撃船であることを確認.当局は地方警察の他砲兵大隊をニケロに集結,さらに応援部隊の増派も決める.空軍機と1千名の兵が進攻部隊の捜索にあたる.

夜 上陸部隊は近くの炭焼き小屋で一夜を明かす.オリエンテ軍管区総監ペドロ・ロドリゲス・アビラ将軍,「軍の戦闘機が,カストロをふくむM26部隊の40名を全滅した.ラウル.マヌエル・マルケスの遺体も確認された」と発表. 

3 UP,カストロ死亡と報道.バチスタはこの報道を否定し「カストロは攻撃に参加しておらず今なおメキシコにいる」と声明.

4 上陸部隊と野営地で遭遇した農民が,軍に通報.軍は包囲作戦を開始

5 04:00PM ゲリラ集団,ニケロ町郊外のアレグリア・デル・ピオでバチスタ軍の待伏せにあう.百名の地方警察部隊が砂糖キビ畑に火をつけたあと機銃を乱射.3名がその場で射殺.ほか21名が翌日までに処刑され,22名が投獄,19名が行方不明となる.

6日 生き残りは東方に進み,集結予定地のトゥルキノ山を目指す.

トゥルキノ山はキューバ最高峰で標高2千メートル。山麓に同志クレセンシオ・ペレスの実家があった。そこに住む弟ラモン・ペレス(別名モンゴ)も革命に参加する。クレセンシオはシェラを根城とする“義賊”でセリア・サンチェスらの接触により反乱への協力を約束.

6 フィデルのグル−プ、東北方向4キロのラ・コンベニエンシアにたどり着く.農家で食料を得たあと,トロ川を横切りコパル高地に達する.

上陸部隊の残党は、四つに分かれていた。
フィデルのグループは@フィデルとAファウスティノ,Bウニベルソ・サンチェスら。
ラウルのグループは @ラウル、Aアメヘイラス,Bディアス,Cレドンド
ゲバラのグループは @ゲバラ、Aフアン・アルメイダ、Bラミロ・バルデス、Cラファエル・チャオ、Dレイナルド・ベニテスの5人。(ラファエル・チャオは後に裏切る)
カミロ・シエンフエゴスのグループは @カミロ、Aフランシスコ・ゴンサレス、Bパブロ・ウルタードの3人。

8 負傷し捕らえられたニコ・ロペス,獄中で虐殺される.16日には反乱軍副官のマルケスも虐殺.ヘスス・モンタネはハバナに送られたあと虐殺される.この間にホセ・スミス,カンディド・ゴンサレスなど52名が捕らえられ殺される.

12.08 野党指導者コスメ・デ・ラ・トリエンテが死亡。

9日 ゲバラのグループとカミロのグループが合流。

13 政府軍,反乱の終結を宣言.大規模な掃討作戦を停止し兵を引き揚げる.マスフェレルの私兵団MSR(虎)は,手兵2千をオリエンテに配置し引き続き捜索活動を展開.政府はカストロが攻撃隊に参加しなかったと発表.

13 フィデル隊,エルバ高地を経由して同志テハダ兄弟の家に達する.一行はその日の内に,ギジェルモ・ガルシアの家まで達する.ガルシアの家には20人の若い農民が結集し,ゲリラへの参加を申し出る.

ギジェルモ・ガルシア: この地方の中心的活動家で,セリア・サンチェスによりM26に組織され,30日のサンチアゴ蜂起にも加わっていた.グランマ号の上陸時には、アレグリア・デル・ピオの惨劇を目撃した。そのあと隊員の救出と武器の回収にあたっていた。

13 ゲバラら8名の部隊,ロサバルの家でM26との接触に成功.(この記載については異説あり)

14日 ギジェルモ・ガルシア,連絡を受け自宅に戻りカストロと会談.その日の内にモンゴ・ペレスの家に移動を開始する.

14日 ゲバラのグル−プ、政府軍の捜索を受けるが難を逃れる。パブロ・ウルタードは病身でとらえられる。

16 7am カストロら,幹線道路ピロン=ニケロ線を横切りプリアルのモンゴ・ペレス宅に達する.ギジェルモ・ガルシアは引き続き同志の捜索に当たる。 

18 ラウルのグループ4名がモンゴ・ペレスの家に到達.

18 政府,カストロ兄弟の死を公表.副大統領は「政治的には間違っているが,カストロの反抗精神は讃えるべきだ」と発言.

19 ゲバラのグループ、ギジェルモ・ガルシアと連絡がつき、モンゴ・ペレスの家にむかう。

20 モンゴ・ペレス,マンサニーリョに出発.M26組織にカストロ生存を知らせる一方,食料・武器・弾薬の補給も要請.エウヘニア・ベルデシアら農民活動家がトンプソン軽機関銃と8丁のライフル,弾丸300発とダイナマイト9本を持ち込む. 

21 ゲバラのグループがモンゴ・ペレスのアジトに到着。

23 ファウスティノ・ペレス,全国指導部に連絡をとるためサンチアゴに派遣される.また外国人記者と連絡をとりゲリラの健在を知らせることも目的とする.

12.24 ファウスティノを迎え、サンティアゴ・デ・クーバで7月26日運動の秘密会議。シエラ・マエストラの反乱軍に対する支援策を議論。

24 カストロ,兵を集め訓辞.「もはやM26の軍は敗れることはない」と励ます.この時点で武器は7丁。

25 ゲリラ部隊、モンゴ・ペレスの家を出てラプラタ方面へ移動開始.ビカナ川をさかのぼったあと高地を越え,カリブ海岸を目指す.

25 オルギンを中心に「血のクリスマス」事件.反バチスタ派青年27人が虐殺され,死体は街路に投げ捨てられる.オルギンの地方紙,カストロ兄弟はじめ40名の兵士がシエラで抵抗を続けていると報道.

27 キューバ全国弁護士会のホセ・ミロ・カルドナ会長と「祖国の友」協会のエレナ・メデロスがホルヘ・ガルシア・モンテス首相と会見.ゲリラ隊捕虜に対する人道主義的処置を求める.

28 ギジェルモ・ガルシアにより救出された@カリスト・ガルシア,Aクレスポ,Bカリスト・モラレス,Cレネ・ロドリゲスが合流.他に3名の農民隊員も参加.

29 エウヘニアら,行軍中の部隊に武器を補充.反乱軍は29名に増強される.元教師カリスト・モラレスが農民兵士に対する教育を開始.

 

1957年1月

1.02 サンチアゴでも,15才の少年ウィリアム・ソレルがゲリラへの協力を疑われ拷問の上虐殺.死体は空家に遺棄される.ほかにも4人の少年が虐殺される。

3 ゲリラ部隊,カラカス山系のタテキエト山に達する.

4 サンチアゴ市内で、ウィリアム・ソレルの母を含め八百名の女性による抗議デモ.「私たちの息子に対する殺戮をやめよ」と叫ぶ。

13 サンチアゴ・レイ内相,訪米しマーフィー国務次官補と会談.反対派の活動を鎮圧し反共活動強化のためBRACと米国情報機関との連係を強めると声明.米国はB26爆撃機16機,M4戦車7輛の売却を認める.

1.13 米国内の反バチスタ勢力,デモやホワイトハウス前への座り込みなどの行動を展開.

15 バチスタ,公民権を停止.強圧的姿勢に転換.B26爆撃機16機を購入したと発表.

15 クシド議員,オルギン虐殺事件の犯人を実名で糾弾.軍はクシドの弟を虐殺することで応える.クシドはマイアミに亡命.

16 ゲリラ部隊,ラプラタに到着.この時点で兵員は22名,兵器は23挺.農村警備隊員で,地元のならず者チチョ・オソリオを捕らえる.チチョはシエラ一帯の地主ラビティ家に仕え,M26上陸部隊隊員を二人虐殺していた.

16日 3:00PM チチョの案内で,ラプラタ河口の駐屯地を見通すポイントを確保.オソリオをおとりとして利用した後射殺.

17 02:30am 4班に分かれたゲリラ部隊が襲撃開始.攻撃参加者はフィデル,チェ,カミロ,アルメイダ,ウニベルソ,クレスポ,現地で参加したファハルド兄弟の8人.

17日 3:00am カミロを先頭に兵営内に突入.この戦闘で政府軍の2名が死亡,5名が負傷・降伏,1名が逃亡,3名が捕虜となる.部隊は損害ゼロ.トンプソン軽機関銃1挺,スプリングフィールド小銃9丁,銃弾千発,他に食料品,医薬品を手に入れる.建物に放火して避難.

20 ゲリラに参加した農民エウティミオ・ゲラ(カシージャス?),政府軍に捕まり裏切る.その後政府軍のスパイとして襲撃を手引き.

21 サンチェス・モスケラ大尉の率いる政府軍精鋭部隊、シエラ・マエストラ山中に入る。ホアキン・カシラス少佐の一個中隊が後方を支援。

22 ゲリラ部隊,シェラ山中パルマ・モチャ(一説にアロヨ・デル・インフィエルノ)でサンチェス・モスケラの部隊の待ち伏せ攻撃に成功.10名以上の敵に損害を与える.

25 ゲリラ部隊,全国指導部と接触すべくマンサニーリョ方面へ移動開始.

25 グランマ号捕虜に対する緊急法廷がサンチアゴで開廷.判事の一人として参加した元最高裁長官ウルティアは「彼らの行動は40年憲法に違反せず」とする少数意見を表明.

30 ゲラの手引きを受けた政府軍,カラカス山中のゲリラに空襲.部隊はフィデル,ラウル,ゲバラの三隊に分かれアヒ山に逃げ込む.戦況に絶望した兵士の中から脱走者が出る.

1月 DRと真正党行動グループ,行動計画を作成.大統領官邸を決死隊により襲撃,大統領を殺害するほか,ハバナ市内の警察署を襲撃し武器を獲得.放送局を占拠し国民と軍部に決起を訴え,軍内の人物にクーデターを促すというもの.攻撃隊の指揮を執ったのはメノヨ.

カルロス・グティエレス・メノヨ: メノヨは第一世代に属する人物でスペイン市民戦争に参加.第二次大戦ではパットン軍団に加わる.戦後はカリブ軍団に所属.もう一人の指揮官メネラオ・モーラはギテラスの古い友人で元ABCに所属するテロリスト.その他UIR,MSR,ホーベン・クーバなどに属する雑多なテロリスト集団が結集.

1月 サンチアゴでラウル・チバス,フェリーペ・パソスなどを中心に「市民抵抗運動」を結成.ラウル・チバスは故チバスの実弟で,陸軍幼年学校の校長を務めた経歴を持ち,オルトドクソの党首を務める.パソスは初代国立銀行総裁で,国内外の経済界に広いパイプを持つ.都市部を中心に一部富裕層をふくめ広範な中流階級を組織.

1月 パイス,チバスと会見.市民抵抗とゲリラとの共闘を申入れる.「市民抵抗」はM26のフロント組織として機能するようになる.これは10人を単位とする「細胞」から構成され,カンパ集め,シェラへの物資の補給,反バチスタ宣伝,兵士の獲得,隠れ家の提供などを受け持つ.M26からはマヌエル・ライが指導に入る.

57年2月

1 マンサニーリョの活動家ロベルト・ペサント,ゲリラとの接触に成功.セリアに連絡をとる一方,医療器具と衣服若干を持込む.

1 部隊を再編成したゲリラ隊,ふたたび西へ向かい移動開始.カストロはファウスティノに加えレネ・ロドリゲスをハバナに密かに派遣.ロドリゲスは市民抵抗の指導者フェリペ・パソスの仲介でNYタイムス支局と接触.NYタイムス社は論説委員ハーバート・マシューズを送り込む.マシューズはスペイン戦争に共和派の一員として参加した経験を持つ中南米問題の専門家.

2 ハバナに潜入したファウスチノ・ペレス,M26平原(リャノ)派を形成.軍事行動を担うM26民兵団は,2年間にナイトクラブ,官庁,米国系企業などへの爆弾テロ百件,火器による襲撃3百件を実行.全国労働戦線(元PSPのダビド・サルバドルが指導),市民抵抗運動の三部門に分けM26の組織を開始する.武力挑発的な方針をうちだし,各地でPSP系活動家と衝突.バチスタは,検閲強化と警察による反対派のあいつぐ暗殺など強硬策で臨む.

7 ゲリラ部隊,1月30日に引き続きゲラの手引きによる敵機の空襲を受ける.

8 ゲラの進言で、アルトス・デ・エスピノサ峡谷内に身を潜めたゲリラ部隊を政府軍140名が包囲.

9 ゲリラ部隊,何時間かの銃撃戦のあと三つの班に分かれ包囲を突破.この戦闘で最初の農民戦士フリオ・セノン・アコスタが戦死.突破には成功したが.その後脱走者が相次ぎ,部隊は18名まで減少.士気の低下が顕著となる.カストロは不平分子を放逐し部隊を12人にまで縮小整理.

9 マシューズ,ハバナ入りし,フィデルからの連絡を待つ.

13 パイスとセリア・サンチェス・マンドゥレイ,シェラ山中ラ・モンテリア農場の山小屋でフィデルとの接触に成功.その後アイディ,エスピンとアルマンド・アルトも合流.

15 ファウスティノ,パソスに伴われニューヨークタイムスのハバナ支局を訪問.マシューズとの接触に成功.翌日にはシェラ山中に入る.パイスはマシューズとの接触に備え,サンチアゴ市内18ヶ所で爆弾テロを実行し実力を示す.

17 マシューズ,カストロとシェラマエストラの山中で会見.カストロは10人から40人の部隊がいくつか活動しているとハッタリをかます.

18 カストロ,引き続きパイスらと協議開始.パイスはカストロに亡命して運動を再建するよう勧める.これに対しフィデルは戦闘続行を主張.全国指導部に対しゲリラ支援を最優先課題とするよう強調.

19 カストロ,キャンプに戻った裏切り者ゲラを処刑.

19 ハバナに戻ったマシューズはついでエチェベリアとも会見.エチェベリアは近くバチスタ打倒のための攻撃計画を実施にうつすことを示唆.

24 NYタイムス,3日間連載で会見の内容を報道.「カストロこそシェラマエストラの主であり,バチスタはカストロの反乱を抑え込もうと思うことすらできないだろう」と論評.キューバ各紙は一斉に記事を転載.キューバ国民に衝撃をあたえる.

27 サンチアゴ・ベルデハ国防相,マシューズの記事は「空想小説」に過ぎないと反論.NYタイムスはただちにマシューズと並んで写ったカストロの写真を公表.バチスタ,高まる抗議に押され検閲制度を廃止.カストロの生存は公然の事実となる.

2月 マシューズ訪問にあわせ、カストロの書いた「キューバ人民への訴え」もM26の手で流布される.「必要とあれば10年間でもシエラで闘う.砂糖キビ畑を焼き討ちせよ,公共サービスを妨害せよ,殺し屋どもを処刑せよ,「市民抵抗」に結集せよ,革命のためのゼネストを組織せよ」と呼びかける.

2月 ハバナ駐在のガードナー米大使は、「バチスタ政権は安定しており,マシューズの記事は一方的である」と非難.

2月 米政府,中型戦車7輛をキューバに売却.

57年3月

3.11 フランク・パイスは、11月30日の反乱への参加の容疑で逮捕される。(シエラによる。ただし16日の項と矛盾する)

13日 3:24PM バチスタ暗殺を狙う50名のDR決死隊,大統領官邸を攻撃開始.配達トラックに据え付けた軽機関銃を撃ちまくって大統領官邸の正面から突入する。

3:30 決死隊が1階を確保.守備隊は2階に逃げ込む.突撃班15名が二階に突入.バチスタは二階の執務室から屋根伝いに屋上に逃亡,

3:30 エチェベリーアはラジオ・レロホ・ナシオナルを占拠,みずからラジオで「独裁者の断罪」を発表.まもなく放送は中断する。

3:30 決死隊が三階に上がろうとするが屋上からの機銃で次々に倒れる。

3:30 150名の援護隊が到着しないまま結局攻撃は失敗.コロンビア兵営から駆けつけた戦車により官邸を包囲される.決死隊のほとんどは官邸を脱出しようとして機銃掃射の餌食となる.

3:30 エチェベリアはハバナ大学構内に逃げ込もうとするが、正門の前で官憲により射殺される。

13日夜 政府軍が市内を一斉捜索。オルトドクソ指導部のペラヨ・クエルボ・ナバロ(親DR派)が暗殺される.

15 カストロ,DRの行動に対し声明を発表。「独裁者の一命など大した問題ではない.テロは問題解決の手段とはならず,自分は反対する」と批判.真の戦闘は山中でこそおこなわれるべきであり,都市での戦闘は無意味であるとする.

16 フランク・パイース,カストロのもとめに応じサンチアゴとマンサニージョでホルヘ・ソートゥスらゲリラ58人のリクルートに成功.彼らはサンチアゴの海軍基地を襲撃し,武器を獲得した後シェラに入る.グアンタナモの米軍人の息子3名もゲリラに参加.

24 ゲバラ,新兵教育にあたるが失敗.フィデル,ゲバラの新兵教育を糾弾し任を外す.後任にホルヘ・ソートゥス.ゲバラは本部付き医師となる.ゲリラは一時百名を越えるが,その多くは間もなく脱落.後にソートゥスも冒険的傾向を批判され任務をおろされる.

24日 ニューヨーク・タイムズ、「三人のアメリカ人青年、キューバ反乱軍に忠誠を誓う」と題する記事を掲載。マイケル・ガーヴィー,チャールズ・ライアン,ビクター・ビュールマンの写真が掲載される。

24 DRの生き残り,ハバナ市内フンボルト街のアジトに結集.引き続き市内にとどまって闘いを継続することを確認.フルクチュオソ・ロドリゲスを新指導者に指名.

3.30 シェル精油所の起工式に参加したバチスタ、シエラ・マエストラにゲリラなどいないと、記者団に語る。

3月 PSPのフアン・マリネリョ議長,マシューズ記者と会見.「M26の目的は高貴だが戦術はあやまっている」と批判.「PSPは武装闘争に反対する.ストライキ,デモなどの市民的戦略により,労働者,小ブル,民族ブルジョアジーの人民戦線を組織しなければならない」とする.

57年4月

2 DR,二回目の秘密会議.マスコミ向けの声明を採択.犠牲者に追悼の意を表し,裏切り者の名を公表.さらに軟弱分子の組織からの追放を決議.

4.06 ハバナ・ヒルトンがオープン。式典にはバティスタ内閣の半分が出席。

20 警察,DRアジトを襲撃.大統領官邸襲撃の生き残り4人(フルクチュオソ・ロドリゲス,J.ウェストブルック,J.P.カルボー,J.マチャド)を逮捕・虐殺.エステバン・ベントゥーラ警視総監は、これを「フンボルト7番街事件」として大宣伝.

マルコス・ロドリゲス: この作戦はハバナ大学学生でPSP党員のマルコス・ロドリゲス(マルキトス)の密告にもとづくといわれる.さらに、彼の密告によりオルトドクソ党委員長のペラヨ・クエルボ・ナバロも暗殺された.
PSPのホアキン・オルドキとディド・ブチャチャはロドリゲスを保護しプラハに送りこんだ。革命後にこの事実が明らかになり、大問題となる。

23 セリア・サンチェスとアイデ・サンタマリア,M26の米国内におけるスポークスマンであるマリオ・ジェレーナを通じCBSと接触.記者ロバート・テイバーとカメラマン,ゲリラ地区に潜入.カストロはキューバ政府に武器を送るのをやめるよう訴える。

4月 カストロ,ピコ・トゥルキノに本拠地を定め,兵たん・情報収集システムの確立に精力を集中.周囲に「解放区」を拡大.副官にアルトゥーロ・アギレラを指名.政治秘書にセリア・サンチェスをあてる.ビルマ・エスピンはオリエンテ州のM26責任者となる.

4月 米政府,軽戦車6輛と装甲車20輛の売却を承認.

57年5月

4 ホテル・ナシオナルの駐車場で自動車にしかけられた爆弾が爆発.警察の挑発行為ではないかと見られる.

9 テイバーら,ゲリラとなった米国人青年のうちの二人をともない下山.グアンタナモ基地に入る.

5.10 サンチァゴで 「グランマ号」生存者の裁判。最高8年の懲役刑を宣告される。三人の裁判官のうちマヌエル・ウルティア判事は、全員の無罪を主張。

5.14 資本家の代理人として一貫してバチスタを賛美し続けた駐ハバナ大使アーサー・ガードナー,米国内での反バチスタ・ムードの中でアイクにより更迭される.ガードナーはバチスタと親交が深く、腐敗が噂されていた。

18 シエラに新たに大量の武器が到着.自動小銃が2ダース以上、6千発の弾薬がサンチアゴのM26組織から送られる。ゲリラはウベロ攻撃の準備にはいる.

19 CBS,テイバーらの撮影したフィルムを中心に「シェラマエストラの反乱者たち」を放映.全米に反響を呼ぶ.放映をきっかけにサンチアゴの米領事館は全体として親カストロ的な立場をとるようになる.とくに領事のオスカー・グエラ,CIA要員のウィリアム・パターソンは積極的にM26との接触をはかる.

19 プリオ派,バヨ大佐の訓練を受け27名のコマンド部隊を組織する.指揮官はスペイン系の米軍退役将校.メンバーのほとんどは,DRから「大統領官邸襲撃の際戦わなかった」として非難された者.カリスト・サンチェス・ホワイト指揮のもと,米国船籍のヨット「エル・コリンティア」号でマイアミを出発.

24 サンチェスのコマンド部隊,オリエンテ州北部ニカロ近くののマヤリ海岸に上陸.シェラ・クリスタルでの拠点構築をめざす.

25 アウレリアノ・サンチェス・アランゴの組織した真正党の部隊(トリプルA),マイアミ在住のプリオ・ソカラス元大統領がパトロンとなり,武装行動を開始.ハバナ各所に秘密の武器庫を設置.

5.26 所属不明の反乱ゲリラ、マタンサスのティングアロ製糖工場に爆弾テロ。

5.27 ゲリラ,53名の兵士が防衛するウベロ兵営を80名の部隊で襲撃.二時間半の激戦の末,奪取に成功.守備隊の戦死者14人,負傷19名,14名が捕虜となる.機関銃2挺,ライフル46挺を獲得.

ウベロ兵営襲撃作戦: ゲリラ部隊初の本格的戦闘であった。この時点でゲリラは120名にまで増強されていたが、このうちの80名が戦闘に参加.指揮官はフアン・アルメイダ。戦闘でゲリラ側もフリオ・ディアスら6名が戦死,重傷2,軽傷7人を出す.アルメイダとゲバラも負傷する。
ゲバラはこの日の日記に、「敵を打ち負かすための秘密の鍵を握った」と書く。

5.27 バチスタは参謀本部会議を緊急召集し,ウベロ周辺地区の有力者をふくめた撤収を決定.

5.28 コリンティア号の部隊,豪雨の中で消耗.農民の内通を受けたバチスタ軍のカウレイの攻撃にあい全滅.24名が逮捕され,すべて処刑される.彼らは臆病ではなかったことを立証した.

5.28 反政府勢力,ハバナの発電所に爆弾をしかける.市内中心部は57時間にわたり停電.

5.31 M26支持者グループ,キューバへの武器禁輸をもとめてホワイトハウスにデモ行進.カストロの姉妹であるエンマとリディアは国連前の座り込みの先頭に立つ.

5月 グランマ号上陸者の生き残りに対する裁判.全員有罪となるが,ウルティア判事(正統党員)はただひとり判決に反対.

5月 平原派によるサンチアゴ近郊ミランダ中央製糖工場でのゲリラ戦線創設計画発覚.ファウスチノ・ペレス,逮捕される.カストロは分散主義的行動を批判.

5月 米議会で新砂糖法通過.米国内での砂糖生産に対する割り当てを増やし,キューバへの割り当てを減らす.しかし世界的な砂糖消費の増加に支えられ,キューバ砂糖の輸出は結果的に増加.

57年6月

1 バチスタ軍,シェラマエストラの農民2千家族を家から退去させ集中キャンプに隔離させる方針を発表.同時に最強の歩兵師団をシェラに送り込む.

6.03 アーサー・ガードナーの後任大使にフロリダの共和党幹部アール・スミスが任命される.スミスは国務省のすすめにしたがいNYタイムスのマシューズと会見し情報を交換.

6.04 UPIの報道によれば、シエラマエストラ制圧作戦を担当する部隊は800人規模で、米国で訓練された精鋭部隊とされる。

30 サンチアゴ市内で活動中のホスエ・パイス(フランク・パイスの弟),暗殺される.このほか市内での暗殺相次ぐ.

6月下旬 兵士の住民に対する残虐ぶりが報道され,ウェイラーの戦略村作戦の再現とする非難が高まる.バチスタは最終的にこの作戦を断念.軍はシェラマエストラ周辺の孤立した兵営をすべて閉鎖.シェラ一帯でのゲリラの実効支配が確立.

6月 米国に亡命した「自由主義行動」のロペス・フレスケ,国務省の意図を受け「第三勢力」としてのキャンペーンを開始.カストロの動きを「評価」しつつ,プリオを「革命を買おうとする腐敗した政治屋」と非難,カストロを野心にあふれた正常ならざる人物として批判.ピノス島に囚われているラモン・バルキン大佐を最大級に持ち上げる.フレスケはマシューズのインタビューに応えて「国務省がこれだけキューバの実情に通じ反バチスタ勢力に共感しているとは知らなかった」と告白.

6月 マイアミで千名を集めて反バチスタ集会.プリオが国外退去命令を無視してバチスタを非難する演説.集会後のキューバ領事館へのデモで50名が逮捕される.

6月 ゲバラ,司令官の一人に加えられる.機関紙『クーバ・リブレ』の編集を担当.

57年7月

7.04 カストロ,「市民抵抗」のラウル・チバスと自由党のフェリーペ・パソスを招聘.二人はシェラに潜入しカストロと会見.バチスタ打倒後1年以内に総選挙を実施することを主張.パソスは「共通の戦略的目標を持つ市民革命戦線」設置を提案.カストロもこの提案を受け入れる.

7 パイス,カストロ宛書簡で「新たな戦略と新たな路線」を発展させるべきと訴える.その柱として多くの活動家の結集,集中的な組織,決定権の一元化,機能分担の明確化,などを打ち出す.このため13人からなる全国指導部の結成を,具体的に委員の名を挙げ提案.(フィデル,パイス,ラトゥール,アルマンド・アルト,ファウスティノ・ペレス,ダビッド・サルバドル,カルロス・フランキ,マヌエル・ライ,フランシスコ・ゴンサレス,エンリケ・オルツキなど.パイス案ではゲリラ戦士の委員は唯一セリア・アンチェスのみ).

パイスの描いた革命の道筋: 戦術的には・全国総蜂起,・至る所に新たなゲリラ戦線の確立,・ゼネストを通じてのバチスタ打倒を提起.このため,当面の行動の中心に労働者委員会の結成(サルバドルが担当)をあげる.さらに革命政府がめざすべき政策を明確化するよう提案.文案をレヒノ・ボティに依頼する.パイスの思想はリャノ派の源流となる.

7.05 サンチアゴの米領事館,シェラのゲリラに対し,グアンタナモ基地の安全確保と引き換えにレネ・ロドリゲスに対するビザ交付などの便宜供与を申し出る.

7.12 カストロ,チバス,フェリペ・パソスの連名で「われらの目的」と題する臨時革命政府綱領(シェラマエストラ宣言)を発表.ABCや正統党との違いはまったく見られず.民主主義,民族主義,社会正義を目標に掲げ,「帝国主義」の表現を用いず米国との「建設的友情」をうたう.カストロはこの宣言をもとに正統党代表に資金援助を要請.フランク・パイースはこの宣言に不満の意を表明したという.

シエラマエストラ宣言の骨子: 米国内におけるM26のスポークスマンをつとめた反共自由主義者のマリオ・ジェレナが起草したといわれる.「現時点での唯一の愛国的行為は統一である」とし、「暴力の政治、人権の侵害、警察による犯罪を終わらせる」ための市民革命戦線の形成をよびかけ.
政治的自由の保障,市民権の確立,行政機構の確立を前提として,・内政干渉拒否・軍部の政治不介入・40年憲法にもとづく自由選挙の三原則を掲げる.また「旧地主には補償を与えた上で」未耕地を分配することを内容とする農地改革をうたう.すべての労組における自由選挙を条件とし,あらたな雇用の創出をうたった労働改革,文盲撲滅の大キャンペーンを中心とする教育改革なども盛り込む.

7.15 アール・スミス,キューバ大使として赴任.就任パーティーではBRAC創設などキューバの反共活動への熱意を賞賛.記者の質問にこたえ「正常なチャンネルを通じてなら,反政府派もふくめいかなる人々とも話し合う用意がある」と言明.

7.21 第4部隊(実際は二番目の部隊)創設.南東部への進出と根拠地づくりを委ねられる.ゲバラが司令官(少佐)となる.

7.26 第4部隊、モンカダ記念日を期して,エル・オンブリート渓谷に進出.

7.30 フランク・パイース(当時23歳),アジトを移動中サンチアゴ市内サン・ヘルマン通りのラウル・プジョルス宅で捕らえられる.死体は市内に打ち捨てられる。内通者は組織の手で処刑されるが,名前は現在も伏せられたまま.

7.31 パイスは反乱軍大佐に叙せられ,M26の軍服を着て埋葬される.葬儀デモにはサンチアゴ市民6万人が参加したため官憲も手を出せず.三日間にわたり全市が事実上のゼネスト.抗議デモはオリエンテ全体をまきこむ.

7.31 スミス大使,サンチアゴ視察に到着.市議会で演説をはじめたとき,黒衣の女性二百人による葬儀デモが開始.スミスに「政府のテロをやめさせるよう」訴える.カサ・グランデ・ホテル(宿舎)の向かい側セスペデス公園で,警察や「虎」がデモ隊に襲いかかるところを目撃.夜のレセプションでは多くの有力者たちが,デモに参加したことを誇らしげに大使に語ったと言う.

7月 M26青年,ニューヨークの自由の女神に赤と黒の旗を掲げ,反バチスタの意志表示.

57年8月

1 ハバナでもパイスの死に抗議する大規模な葬儀デモ.自然発生的ゼネストによりオリエンテ,カマグエイ,ラスビリャスの一部では麻痺状態となる.バチスタは憲法を一時停止し検閲制を復活.チバスとアグラモンテを逮捕.

5 デモ隊に対する弾圧や,革命家の拷問による死を目撃したスミス米大使はバチスタ非難を開始.ダレスもこの声明を支持する.バチスタの意を受けたガードナー前大使は国務省に対し,スミスがペルソナ・ノン・グラータの宣告を受ける恐れがあると示唆.警察は米国人への襲撃,逮捕,国外追放を開始.ハバナ郊外のヘミングウェイ宅も捜索を受け愛犬が撲殺される.

7 双発のビーチクラフト機がハバナ近郊に不時着.乗員は自動車で逃亡.バチスタはこれをプリオによる反対派への武器供与行動として非難.

8.15 全国でM26活動家が一斉逮捕される。

8.20 ラ・クエバス郡パルマ・モチャで、フィデルの率いる反乱軍がバチスタ軍に奇襲攻撃。勝利をあげる。

20 モンカダ事件の際カストロを救出したサリア中尉,陰謀を企てたとして逮捕.1年の懲役刑を受ける.

21 スミス=バチスタ会談.両者の関係を修復.これにもとづき米国はキューバ人の亡命受入れ制限と,亡命者の国内での活動制限を強化.

8月 真正党の戦闘部隊トリプルAのカンディド・デラ・トレ,メキシコのバヨ大佐に指揮権を依託.プリオのヨット「ブルーチップ号」に武器を積みマイアミを出発.途中メキシコ警察により捕らえられ失敗.これを機にトリプルAの行動は終焉.

8月 パイスの提案に基づき全国指導部「再建」.パイースに代わる指導者として,APO以来のパイスの戦友レネ・ラモス・ラトゥール(ダニエル)を指名.「闘いはシエラにのみ限られるべきではない」と主張.革命的ゼネスト路線を堅持.全国指導部についてはその存在もふくめ異説あり.

1957年9月

9.05 シエンフエゴス海軍基地で若手海軍将校の蜂起.ハバナを中心とする反バチスタの軍内秘密結社「純潔派」の同調者サンロマン中尉が指揮する.海軍警察,国家警察と地方警察の本部を襲撃.海軍警察は反乱軍に降服し多くが反乱に加わる.オズワルド・ドルティコス・トラドら民主主義左翼も参加.初期の計画ではハバナ,マリエル,サンチアゴの海軍基地で同時蜂起.海軍司令部を爆撃し,指揮系統を混乱させたあと,大統領官邸を艦砲射撃.空軍の一部や警察機動隊も加わるはずであったが,未遂に終わる.

6 反乱軍,いったん市内を制圧.武器を市民に分配し,圧倒的な政府軍に市街戦を挑む.政府軍はB26による爆撃と戦車隊により殲滅.反乱軍300人、政府軍12人が戦闘で犠牲となり(一説に32名),逮捕者は拷問の上射殺される.

9 ゲバラの率いる「第4戦線」、待ち伏せ攻撃に成功し政府軍一個中隊140名を潰走させる.その後オンブリート渓谷のミナス・デ・フリオに新たな根拠地を創設.製パン工場を作り新聞「エル・クバーノ・リブレ」を発行する.エストラーダ・パルマとブイエシートの兵営を攻撃するが戦死者1名,負傷者3名を出し敗退.ファウスティノの組織したゲリラ隊,カストロの指示を受けないままミランダ製糖工場を攻撃するも失敗.甚大な被害を出す.

27 第8部隊所属のハイメ・ベガ大尉指揮の中隊,カマグエイ州南部をトラックで移動中,政府軍の待ち伏せにあい11名が負傷し捕虜となる.マカレーノ製糖工場に収容された捕虜に対し,連隊司令官レオポルド・ペレス大佐は虐殺を命じる.

9月 ロバート・ウィーチャ,パターソンに代わりサンチアゴ副領事として赴任.CIAエージェントとしてゲリラとの接触を追究.

9月 バチスタの弾圧強化により,平原派の活動は困難となる.アルマンド・アルト,カルロス・フランキ,ハビエル・パソスらの地下幹部は,相互の連絡をたたれアジトを転々とする.シエンフエゴス残党の一部はエスカンブライ第2戦線に合流.

9月 米国内でキューバへの武器供与に対する反対強まる.バチスタは「プリオが反乱者に武器を送るのを許しているのに,どうしてわれわれへの武器供与は拒否できるのか?」と非難.第3国からの武器輸入も考慮すると声明.

9月 米国共産党機関紙デーリー・ワーカー,「PSPは反乱軍に十分な支援をおこなっていない」と批判.

1957年10月

15 プリオ,マイアミで反バチスタ勢力の統一をめざす会議を開催.真正党からプリオ,トニー・バローナ,オルトドクソからアグラモンテ,DRからチョモーン,フリオ・ガルシア,アルベルト・モーラ.他に大学学生連合,真正行動,労働者指導部など7グループの代表が集まる.当時滞米中で会議への出席を求められたフェリペ・パソスは,カストロの代理人であったレスター・ロドリゲス(レネ・ロドリゲス?)と連名で,全国指導部に代表としての信任を求める.全国指導部はカストロへの相談なしに「曖昧な指示」を出す.パソスらはこれを信任と受け取り,M26代表として会議に参加. 会議の開催は20日までカストロには知らされず.

20 シェラへの攻撃がさらに厳しさを増す.この日マイアミ会議の開催を知ったカストロは,不快感を示す.

10.29 パティスタ大統領が憲法を停止,左翼狩りをさらに強化.

30 米国の対キューバ援助物資がニューヨークから出港したことが,支援団体の手で明らかになる.それまでの1年間にライフル3千挺,機関銃40張,ロケット砲4千発,シャーマン戦車7台,他弾薬多数がバチスタのもとに送り込まれた.

10月 エル・オンブリート渓谷のゲバラ部隊に対し,サンチェス・モスケラの指揮する軍隊が攻撃.ゲリラ基地は壊滅的打撃を受けオンブリートを放棄.その後もモスケラの部隊による攻撃が続く.エル・オンブリートから敗退したゲバラは第一線を退き,アルト・デ・コンラドの「病院」で診療に専念する.

10月 米国人ゲリラのうち最後までシェラに残ったチャールズ・ライアン,米国入りしM26支持のキャンペーンを展開.

10月 キューバ医師会の前会長アウグスト・フェルナンデス・コンデ,イスタンブールで開かれた世界医学会総会で,バチスタ政府の極悪非道を非難する演説.

10月 週刊誌「レビスタ・カルテレス」,政府閣僚のうち20人がスイスの銀行に口座を持ち,それぞれ100万ドル以上を預金していると暴露.

1957年11月

11.01 マイアミ会談,シェラマエストラ宣言とほぼおなじ内容からなる「統一のための宣言」を発表.キューバ解放評議会(フンタ)を結成.フェリーペ・パソスを議長とすることで合意.米国はこれがさらに「臨時政府」などに進展するなら,彼らを国外追放すると警告.

11.04 シエラ・マエストラで反乱軍の新聞「自由なキューバ人」(El Cubano Libre)の発行開始。ゲバラが編集長となる。

8 ハバナ市内ですくなくとも20以上の爆弾が爆発.サンチアゴでは爆弾により放送塔が倒壊.テキサコ精油の米国人技術者が宿泊していたランチョ・クラブが塔の下敷に.

11.10 アンドレス・ナサリオ・サルガンに率いられたサンクティ・スピリトゥスの真正党やオルトドクソの青年たちは,オリエンテに対抗してエスカンブライでゲリラ活動を開始.これに大統領官邸襲撃に参加しなかった逃亡者が合流.エスカンブライ戦線の創設を宣言.党派活動をしない限りにおいてすべてのセクトの参加を認める.司令官におなじ時期フリオ・カマチョの指揮するM26ゲリラもエスカンブライに戦線を開くが,メノヨはM26との共闘を拒否.この他ピナル・デル・リオのロス・オルガノス山地でも小規模のゲリラが活動.

牛食いゲリラ(カナバロス): 約40名からなるこのゲリラは、大統領宮殿襲撃の生き残りエロイ・グティエレス・メノヨとヘスス・カレーラスが率い、米軍を不名誉除隊した山師のウィリアム・モーガンが軍事指導した。無統制で,実態は山賊に近く,住民からも「牛食い」と蔑称される.カストロは「コメ・バカス(牝牛を食う連中)」と非難し,数ケ月にわたり存在を認めず.

14 カストロ,「革命評議会」に関する声明を発表.「M26はキューバ国内にとどまり,現実の革命を起こそうとしている.国民を指導する意志を決して放棄はしない.われわれだけが勝ち方と死に方を知っている.威厳をもって死ぬために人は道連れなど必要としない」と厳しく非難.

14 バチスタ政権で砂糖安定供給公社総裁をつとめるホアキン・マイヤー,「キューバを混乱から救うため」米政府の直接干渉を密かに要請.軍部の「正義派」を直接行動に立ち上がらせるよう示唆.国務省内部ではウィリアム・ウィーランド中米局長を座長として,バチスタ政権転覆計画の検討を開始.

11.29 シロ・レドンド,マル・ベルデの闘いで戦死.死後に少佐に昇格する。

11月 シエラでの作戦が困難となったカストロは,政府軍の拡散を図るため、民兵団に対し砂糖キビ農場の焼打ちなどいくつかの破壊活動を指令.ラトゥール司令官は「米国所有の企業に安全は保障できない」と言明.ニカロのニッケル鉱山を襲撃.鉱山はその後のくりかえす襲撃と電力線の切断などの破壊活動により事実上操業不能となる.

11月 ニューヨーク・マフィアのボス,アルバート・アナスタシア,マイヤー・ランスキーの指示により暗殺される.利権の配分をめぐるアパラチン会議開催.ランスキーはハバナの利権を確保することに成功.

11月 米官憲,キー諸島でゲリラ向けの武器や医薬品などをつんだヨット「フィロミーナ3号」を摘発.キューバ人31人を逮捕.このほか米国南部各地で反乱軍向けの武器が摘発される.

11月 カストロ,コスタリカで発行されているM26機関紙「クーバ・リブレ」に寄稿.ユナイテッド・フルーツ社など外国企業がのうちの多くを独占する一方,多くの農民が1フィートの土地も持たずに苦しんでいるとし,この不公平な状態を改善するためたたかうと声明.また電力会社と電話会社の接収の方向も示唆する.ゲバラによれば「決定的な変革が必要だというわれわれの意識が,具体的な形をとり始めた.農業改革の考えはより緊急な問題となり,民衆との連帯は単なる理論ではなくなり永遠にわれわれの存在の一部となった」

11 サンチアゴのCIA,M26への秘密援助開始.革命成功までのあいだに5万ドルの資金が流れたという.

1957年12月

12.06 ラロ・サルディナス大尉の率いる反乱軍部隊、エル・サルトでバティスタの軍と衝突。

7 国務省,ウィーランド・メモを政府に提出.・政府の交代はあくまでも合法的におこなわれること,・選挙までは現政権を支持すること,・プリオをもっときつく絞め上げればバチスタはもう少しうまくやれる可能性があること,・カストロの「社会主義的傾向」には注意を要することなどを骨子とする.ハバナ大使はバチスタの退陣の意志を明確にすること,軍務からの撤退,司法の権威確立などを盛り込むことを要求して対立.

10 マイヤー・ランスキーのリビエラ・ホテルが操業を開始.総工費1400万ドルのほとんどはキューバ政府によりまかなわれる。ランスキーは自ら最上階のスイートに本拠を構える.ケネディ上院議員ら,キューバを「視察」.マイヤー・ランスキーがケネディの漁色活動に協力.

14 カストロは解放評議会に手紙を送り,マイアミ協定を拒否.ゲバラらはこの手紙を大量に印刷し配布.解放戦争の決定的な政治的分岐点となる.カストロの厳しい批判を受けた解放評議会はまもなく解散.

解放評議会宛のカストロの手紙
・マイアミ協定に対し自分は一切関与していないし,相談すら受けていない.パソスらをM26の正式代表として承認したことはない.
・シエラ宣言は統一の基礎であって,統一そのものではない.海外亡命者が宣言を利用して革命の主導権を握ろうとするのは間違いである.
・マイアミ宣言は帝国主義・反動勢力・軍の野合でしかない.あらゆる形の軍事評議会,一切の形での軍の参加を拒否する.とくに革命後もバチスタ軍と協力を続けようとする態度を厳しく非難.その徹底的解体をもとめる立場を確認.
・同時に反乱軍は解放後には政治に関与しないと約し,マヌエル・ウルティア判事を将来の大統領にミロ・カルドナ弁護士を首相に推挙する.

24 シエンフエゴス蜂起に参加した海軍士官ルイス・ミランダ・レオン,軍艦「バイア・デ・ニペ」で国外脱出に成功.キューバ官憲はニューヨークに入港直前に艦上でミランダを逮捕し送還.東埠頭におしかけた亡命キューバ人は官憲と衝突,31人が逮捕される.

12月 スペイン人ジャーナリストのエンリケ・メネセス,シェラに潜入.2ヶ月にわたりゲリラと行動をともにする.3月にはマイアミに脱出し「パリ・マッチ」誌にルポを寄せる.ルポは農地改革と集団農業への熱意を伝える.また共産主義をもうひとつの帝国主義とよんで非難.ハバナのボエミア誌はこの記事を転載.

12月 英国の進歩的な作家グレアム・グリーン,キューバを訪れる.シェラマエストラのゲリラと接触を図るが果たせず.この時の経験を元に「ハバナの男」を執筆.

12月 ゲバラ,ラトゥールにあてた書簡で「自分は共産主義者であるが,フィデルはブルジョア左翼である」と評価.

12月 米国でのM26を代表する組織として4人委員会を結成.ジェレーナを長とし,カルロス・フランキ,レスター・ロドリゲス,ラウル・チバスからなる.ニューヨークではプリオの牛耳るフンタに対抗して「亡命者委員会」を創設.

12月 週刊誌「レビスタ・カルテレス」、政府高官20人がスイスの預金口座に、各々100万ドル以上を預金していると報道。このころキューバでは11,500人の売春婦が商売していた.

58年 50年代末,米国資本は鉱山の9割,公共事業の8割,鉄道の5割,砂糖生産の4割,銀行預金の25%を支配.キューバの投資から7700万ドルの利益をあげる。しかし雇用効果は人口の1%未満にとどまる。

 

1958年

1958年1月

10 官憲,ハバナ市内のM26に対する捜索活動を強化.弁護士でM26秘密幹部のアルマンド・アルト,フェリペ・パソスの息子ハビエルら都市の地下運動幹部がつぎつぎに逮捕される.カストロ,都市部で破壊活動を展開する勢力を批判する声明.チョモーンやフィゲレド・エル・チーノを先頭とする革命幹部会の生き残り,「多くの反バチスタ戦士は都市部にいるのであり,シェラマエストラが単独で革命を成就することなどできはしない」と,カストロに反論.

1.16 スミス大使とバチスタのあいだに合意成立.キューバ政府が平和的な権力の移行と反政府勢力の容認を保障したのを契機に,兵器輸出を再開するよう国務省に要請.ダレス長官はこの要請を受け兵器輸出を許可.百万ドルを超える武器援助と,三軍の共同軍事使節団による軍事訓練が施される.武器・軍用機・戦車・艦船などすべての軍事物資が米国に依存することとなる.

25 バチスタ,選挙実施を発表.オリエンテを除く全州で公民権を復活し,反対党の立起と候補者活動を認める.これを受けて真正党からは75才のグラウが「選挙を通じた平和的な方法で,祖国の回復を図る」と立起を表明.武装闘争派に衝撃を与える.カストロは,もし政府軍がオリエンテ州から引き揚げて政治犯に恩赦を与えるなら,M26はウルティアを推し立てて選挙に参加するだろうと声明.

1月 M26ゲリラ,アトランティック・ガルフ社所有のオリエンテ州ピノ・デル・アグアの精糖工場を襲撃.守備隊に20人,ゲリラ側に8人の犠牲を出す.2日後にニューヨークの本社に「農場が思い出の土地とならないよう」資金を提供するよう要求.以後砂糖農場の焼打ち作戦に対しては,軍が直接警護に乗り出す.失業を恐れる農業労働者からも強い反発.

1月 ハバナ大使館のリチャード・クッシングはM26幹部ルフォ・ロペス・フレスケとの接触を確保.CIAのジャック・スチュワートとその部下ジョン・トッピングは親カストロの路線で活動.サンチアゴ領事館はロバート・ウィーチャ副領事=アイデ・サンタマリアの線を通じてゲリラとの接触を確保.アルトやパソスの捜索に協力する.サンチアゴのCIAは革命成功までのあいだに5万ドルの資金をM26へ与えたという.

1月 ハバナ電気労組書記長でPSP党員のコフィノが馘首.電気労組がスト入りするとガス,電話労組も連帯ストに入る.バチスタは労組幹部の一斉逮捕で応える.

1958年2月

2.02 カストロ,エスカンブライ戦線を認知し,メノヨあてに連帯の手紙を送る.この手紙のメッセンジャーとなったエデルミラは,後にシェラの闘いで戦死.

2月上旬 ファウスティノ,ゼネスト準備のためハバナ市内に潜入.組織の再建に乗り出す.

2.05 ルック誌,アンドリュー・セント・ジョージ記者のカストロとの会見記を掲載.カストロは自由選挙と市場経済を保障.「われわれの革命は政治的というより道徳的なもの」と発言.「PSPはわれわれよりもバチスタに親密感を持っているようだ」と共産主義の影響を否定.ワシントンに対しては「トルヒーヨらの独裁者を支援して,LAの民主主義を圧殺しようとしている」と非難.あなたがたの送る武器は「西半球の安全を守るため」ではなく,無抵抗の市民を虐殺するために用いられていると警告.

2.08 ファウレ・チョモーン,ロランド・クベラら,エスカパーデ号でカマグエイ州ヌエビタスに上陸.陸路をとってエスカンブライ第二戦線に合流する.豊富な武器によりゲリラ内での主導権を獲得しようとするが,メノヨの激しい抵抗にあう.DRはハバナでの闘いが戦略の基本であり,市内にDRを再建することが目標とする.エスカンブライをハバナでの地下活動の単なる拠点と位置づけるが,メノヨらはゲリラ活動こそが闘いの基本だと反論.

2.13 連邦大陪審,国内において反バチスタ武装闘争を支援するプリオ・ソカラスら8人のキューバ人を,中立法侵犯で起訴.プリオはマイアミ警察に出頭した上,手錠をはめられ拘置所に移送される.カストロから革命政府大統領に指名されたウルティアも拘束される.ヒューストンでは百万ドル相当の武器などを送ろうとした9人を逮捕し物資を押収.一方キューバには禁輸をとかれた米国の武器がつぎつぎと到着.バチスタ軍の装備は飛躍的に強化される.

2.16 チョモーン,カストロをすべての組織の上にみずからをおく独裁者と非難.

2.20 スミス大使,バチスタと会見.OAS監視下に総選挙を実施するよう要求.米海軍の空母レイテ,4隻の艦船をしたがえハバナを「友好」訪問.バチスタに圧力をかける.

2.21 サンチアゴ港のシンクレア社石油タンク,ゲリラの襲撃により炎上.エア・リダクション会社の化学プラント,シアーズ・ローバック社の工場も炎上.

2.23 M26民兵隊,「政府が旅行客の安全を守ることも,治安を維持することもできないことを示すため」アルゼンチンの有名自動車レーサー,フアン・マヌエル・ファンヒオをハバナで誘拐.2日後に無償で解放.このためハバナで開催予定の自動車レースは中止に追込まれる.

2.23 M26,ニカロの鉱山会社を襲撃.通信線を切断した上守備隊を蹴散らし,グアンタナモ基地から到着したばかりの武器多数を押収.

2.24 ラジオ・レベルデ,第二次独立戦争開始63周年を記念して,シェラマエストラの「キューバの自由な領土」から放送開始.

27 NYタイムス,カストロ会見記1周年を記念しホーマー・ビガールをシェラに派遣.ビガールは2週間にわたりシェラに滞在.兵士たちは不潔で栄養不良で寄生虫に悩まされていると報告.カストロは農地改革と外国企業に対する正当な規制を望んでおり,米国のバチスタに対する武器援助に怒っているとする記事を掲載.

28 国務省,相互援助協定にもとづき米国から供与された武器は「西半球全体の防衛目的」以外に使用されてはならないとするむね訓令.

2月 ゲリラ、アルト・デ・コンラドで牛の解体処理工場や葉巻工場も開設.

2月 ブラス・ロカ,中国より帰国.「スターリンが社会の法秩序を犯したことは批判されてよいが,スターリンの歴史的な貢献は認めなければならない」と語り,公然とフルシチョフ路線を批判.これを受けたPSPは「農村における武装闘争と都会における市民闘争を支持する」と表明.M26との共闘を積極的に推進する立場に転換.国際学連議長の経験を持つリバルタと共青幹部のプラツをシェラに派遣.プラツは56年中国を訪問したこともある親中派.4月ゼネストへの参加も決定するが,平原派はPSPとの共闘を事実上無視する.

1958年3月

1 アルメイダの第3部隊とラウルの第4部隊,シェラを出発.サン・ロレンソ南方の山中プエルト・アルトゥーロに達する.ここで両隊は分離.ラウルとアメイヘイラス副司令官はM26左派と目される67人を引き連れ国道を横断.サンチアゴ北方のシエラ・クリスタルに向かう.アルメイダはサンチアゴに接するシェラマエストラ東端のエル・コブレ地区に潜入.ファウスティノ,シェラに赴きゼネスト決行について提案.

9 上院外交委,プリオ逮捕をめぐり議論.マンスフィールド議員らは「暴力的に政権を奪った人物が暴力的に国民を支配するために,米国の武器を利用しているのに,そちらを支援し,合法性回復のためたたかう元大統領を投獄するとはなにごとか?」と噛みつく.ラボトム国務次官は「バチスタは54年に合法的に選ばれた大統領だ」と応えるが,これにたいし「その選挙がマヤカシでないというなら,ソ連も合法的であり,支援しなければならなくなる」と切り返す.

10 ラウルの第6部隊,バラグアを経てピロート・デル・メディオに至り,最初の根拠地を形成.M26,ラウル隊を母体とするフランク・パイス名称東部第二戦線の創設を宣言.当初メンバーは65名(82名説もある).

東部戦線は戦争終結までに千2百名の部隊に成長.サンチアゴ以東の大部分を支配するにいたる。9ヶ月のあいだに奇襲攻撃30回を含む250回の戦闘を実行した。戦死者160名を数えたが、敵兵約二千名を倒している。

12 フィデル,ゼネスト計画を承認.ラジオ・レベルデ,「暴政にたいする全面戦争」をよびかける「M26から人民への宣言」を発表.革命の基本をシェラマエストラ宣言と解放評議会あて文書に置き,労働者は全国労働者戦線に,一般市民は市民抵抗運動に,学生は全国学生戦線に結集するよう呼びかける.同時にオリエンテ州において「軍事的理由により」4月1日よりすべての高速道路及び鉄道の交通を遮断すると発表.「最終的攻撃の戦略は,軍事行動に支援された革命的な全面ストを基礎とすべきである」

12 バチスタ,1月合意を踏みにじり憲法上の権利(表現の自由,集会の自由,運動の自由)を停止,検閲制を復活.部分恩赦も実行せず,逆に中道派や穏健派をふくむ反対派狩りを強化.閣僚の多くがこれに抗議し辞任.

14 キューバ大使館の駐在武官付き秘書アンヘル・サアベドラ,武器輸出の情報をM26のエルネスト・ベタンクールに流す.M26のピケ隊,ニューヨークの埠頭に停泊中のキューバ向けM1ライフル2千挺を積んだ船を包囲.

14 国務省は,急遽M1ライフルのキューバ陸軍への輸出を停止.西半球にとって共通の敵と戦うためという相互防衛援助協定の精神に違反し,それらの武器を国民に向けていると批判.さらにキューバ政府が自由選挙への条件を作り上げなかったことを理由に「キューバへの武器輸出のすべてを停止する」と通告.ただしこの通告は外部にはいっさい発表されず.

15 法律家,建築家,公認会計士,歯科医,電気技師,社会福祉労働者,英国人教師,獣医などの職能団体,宗教者,親睦団体,市民・文化団体など45の全国組織からなるキューバ諸組織委員会,連名でバチスタ退陣を要求する公開状を発表.中心メンバーである全国薬剤師会,コロンブス騎士団,プロテスタント教会評議会の指導者には危険が迫る.

20 バチスタ,選挙を11月3日まで延期.官憲はバチスタ辞任を求めたハバナ弁護士協会の幹部44人の「人狩り」を開始.ミロ・カルドナ会長は辛うじて追手を逃れ米国に亡命.

23 シカゴ・マフィアの出資によるホテル・ヒルトン,厳戒の中で開業.前後してサントス・トラフィカンテのホテル・カプリも操業を開始するが,折からの景気後退とゲリラ活動の活発化のため不振を極める.

25 亡命キューバ人委員会のペドロ・ミレトらはコスタリカ大統領の了解を受け軍事物資の空輸を試みる.ミレトは進攻直前にメキシコで逮捕されたため,米国内で支援活動を続けていた.ウベルト・マトスの操縦するC46輸送機はコスタリカからメキシコ上空を経由し,シェラ山中のにわかづくりの滑走路に無事着陸.マンサニリョの元小学校教師(一説に米作農民)マトスは,そのままシェラのたたかいに加わる.

3.26 カストロ、全国にゼネストを呼びかける。シエラの全指導者に、都市部での反乱を支援するゲリラ戦の準備を指令。

27 テキサス州ブラウンズビルを出た「エル・オリオン」号(60トン),沖合5マイルで沿岸警備隊により捕らえられる.船内にはM26の制服を着たキューバ人35人と,2万ドル相当の武器・弾薬.

27 国務省,質問に答えるかたちで,ライフルの輸出停止のみを認めるが,全面停止についてはなお秘密を固持する

28 あいつぐ補給作戦の失敗に直面し,ゼネスト作戦の見直しがおこなわれる.3月31日という当初の予定は中止される.さらに作戦中止の意見も出たが,ファウスティノ・ペレスの主張に押し切られるかたちで,4月9日の実施を決定.

28 PSP,ゼネストに参加するとの声明.労働総同盟でも下部にスト参加の動きがひろがる.

31 米官憲,マイアミのホテルを襲いM26の武器を押収.

3月 DRゲリラはメノヨと決別しサンクティ・スピリトゥス周辺に別個の戦線を組織.チョモーンとクベラが指導.襲撃事件の生き残りギジェルモ・ヒメネスは,エスカンブライからハバナに潜入.学生運動を指導して非合法紙「3月13日」を発行.メノヨは残ったゲリラ部隊を「エスカンブライ第二戦線」と名付ける.かたくなに独自性を維持.

1958年4月

1 カミロ・シエンフエゴス,ゼネストを控えシェラマエストラ北方のバヤモ平原に進出.ギネア山に拠点を設営し,撹乱作戦展開.チェの部隊が後方支援にあたる.

3 スミス大使,武器禁輸を解除するよう求め,「独裁者を交代するのは簡単だが独裁制を代えるのは大変だ.キューバ人は虎に乗っている.バチスタという虎をカストロという虎に代えても解決にはならない」と国務省に書き送る.現地および国防省からの圧力を前に国務省は「非戦闘用」物資の輸出を認める.このリストにはライフル,ピストル,機銃の三脚,戦車の部品,薬きょう,飛行機エンジンなどがふくまれる.

4 国家警察,ハバナ近郊のM26アジトを摘発.トラック2台分の武器を押収.ラトゥールは「オリエンテ以外ではゲリラは著しく弱体化しており,このままでゼネストに突入すれば重大な犠牲を払うことになる」とカストロに警告.

6 バチスタは非常事態宣言を発し,司法権の独立を停止.ゼネスト参加者は厳罰に,営業を休む経営者は収監すると声明.サンチアゴ地区司令官アルベルト・デルリオは市当局者,経営者,労組幹部を召集し,ゼネスト協力者には極刑で臨むと通告.

8 ハバナ市内で連絡会議開催.DR,プリオ派,トリプルAなどの活動家も参加.目標に対する武器の絶対的不足があきらかとなったことから,プリオ派とトリプルAは参加を拒否.DRとPSPも全面参加の立場をとらず.

4.09 ゼネスト決行.午前11時を期しラジオ・レベルデで職場放棄の呼びかけ.同時に武装集団2千人がハバナ地域の戦略拠点に一斉襲撃,ハバナ郊外のコトーロやマドルーガ、グアナバコアなどで軍隊と激 しい市街戦を展開。

4.09 ピナール・デル・リオ、マタンサス、カマグエイなどでは爆弾攻撃、放送局占拠、工場占拠、鉄道占拠などの行動。ラスビリャスでは、市民・労働者がサグア・ラ・グランデで街のほぼ全域を占拠。政府軍は戦車と戦闘機を動員、大砲と機銃を無差別に撃ちまくり、力づくで奪還。

4.09 ゼネストに呼応し,ラウル,アルメイダ,カミロの部隊が一斉武装行動.アルメイダの第三戦線はエル・コブレ,ドス・パルマスなどで蜂起.第二戦線はピロート・デル・メディオからロマ・ブランカに進出.後にマヤリ・アリバに司令部を設置.

4.10 ゼネストが失敗に終わる。ハバナ市内でSIMによる人狩り.ベダド地区ではM26と軍との銃撃戦となり,M26指導者マルセロ・サラドが虐殺される.この弾圧によりM26のハバナ責任者アントニオ・ロペスはじめ92人が死亡.

4.11 ニカラグアのソモサ,イスラエルから購入した英国製装甲車30輛をバチスタに贈ると声明.

4.16 カミロ少佐,バヤモを拠点にオルギン=マンサニーリョ=ラス・トゥナス一帯を支配する第二部隊司令官に任命される(第一戦線所属で、アルメイダの第三戦戦とは別組織).

22 エスカンブライのチョウモン,バチスタを倒したあとはカストロを放逐すると言明.

25 バチスタ,スミス大使の勧告を受け非常事態を解除.憲法上の権利の停止はさらに45日間延長すると発表.

4月 ネバダ州ゲーム委員会,ハバナの発展ぶりに脅威を感じ,ネバダ州の資金をハバナに投入することを禁止.

 

ゲリラ闘争後期

1958年5月

5.03 シェラ山中ロス・アルトス・デ・モンピエの農家でゼネスト総括をめぐり全国指導部会議開催.実質的には平原派に対する査問会議.オブザーバーとして出席したゲバラが,ファウスティノとラトゥール,ダビド・サルバドールを厳しく批判.三人は指導部員を解任される.

ゼネスト総括の要点: 
@革命勢力の力量を主観主義的に過大評価し、敵の力量を過小評価した。
A準備不足、性急な召集、不十分な組織化などにより闘いが孤立した。
BFON(全国労働者戦線)はセクト主義を採り、PSPなど反体制勢力をストに参加させなかった。
C武装闘争を提起したが、必要な武器は準備されなかった

5.04 MR26の新指導体制が決定される。ファウスティノに代わる平原部の指導者にはゲリラ司令官の一人デリオ・ゴメス・オチョア,ハバナ責任者にはマルセロ・フェルナンデスが就任.カストロをM26全国幹部会の書記長とし,同時に都市民兵組織もふくむ全革命軍の総司令官とすることで一致.革命運動の政治・軍事指導が一元化される.

5.04 ファウスティノとラトゥールはシエラで新たな軍務に就く.アイデーがM26責任者として米国へ派遣され,米国内のカルロス・フランキがラジオ・レベルデの運営をまかされシエラに入ることとなる.

5.07 政府軍機,サンチアゴ近郊サンフアンの丘に作られたM26の前進基地を,1時間にわたり機銃攻撃.同時に,投降したゲリラには恩赦が与えられると宣伝を開始.「FF作戦」が始まる.

5.07 フィデル、ゲバラ、カミロの部隊をシエラに召還。第一戦線第一大隊の280名でシエラを死守する構え。ラプラタの司令部を拡充,ゲバラはミナス・デル・フリオに「反乱軍補充兵学校」を設置.政府軍の元大尉が志願兵の訓練にあたる.フアン・アルメイダの第三戦線、ラウルの東部戦線はそのまま残す。

8 アイデ・サンタマリア,M26責任者としてシェラからマイアミに派遣される.アイデはジェレーナを査問したうえ亡命者委員会議長を解く.さらに全米支援組織の一元化と左翼化に乗り出す.

10 国務省,禁輸品目をさらに緩和.戦闘用物資の輸出も「選択的に」承認することとなる.

5.24 シェラマエストラに対し掃討作戦開始.北方のブエイシト鉱山とラス・メルセデスを同時攻撃.陸,空からの攻撃を開始.

FF(カストロの最後)作戦: エウロヒオ・カンティーヨ将軍を指揮官とし,総兵力の3分の1にあたる14大隊と七つの中隊あわせて1万2千の兵を投入.航空機,フリゲート艦も動員される.その後71日間のあいだに51回の戦闘.

5.25 反乱軍、シエラ・マエストラで第1回農民会議を開催。35人の代表が参加。農地改革計画について議論。

26 マイアミのカルロス・フランキ,ラジオ・レベルデの責任者に指名され,ペドロ・ディアス・ランスの操縦するセスナ機でシェラに潜入.地雷用信管,弾薬などを持込む.

5.27 ラス・メルセデス,バチスタ軍の手により陥落.14人の守備隊は戦車と飛行機に守られた敵部隊100人の攻撃を、30時間,足掛け3日にわたり耐えたあと撤退.ブエイシトから進撃したモスケラの第11,22師団部隊もゲリラの激しい抵抗にあう.

30 B26その他の軍用機,10時間にわたりシェラのゲリラ拠点を爆撃.ラジオ・レベルデは健在ぶりを放送する.都市での爆弾テロ,ラスビリャスでのDRゲリラの行動も活発化.

5月 東部戦線でもゲリラが頑強に抵抗。二週間の間にわずか十キロしか前進することができなかった。

1958年6月

6.01 政府軍,東部戦線への攻撃を開始.

東部戦線への攻撃の特徴: シエラ・マエストラへの攻撃が地上兵力であったのに対し、東部戦線への攻撃は空爆が中心だった。シエラクリスタル山地には大量のナパーム弾、硫黄爆弾、ロケット弾が無差別に振り撒かれた。爆撃機は秘密裏にグアンタナモ海軍基地で燃料補給し、爆弾を積み込んだ。爆撃機にはアメリカ人パイロットも乗り組んでいた。

6.09 バティスタ、政府軍第18歩兵師団をシエラに派遣。師団は海上よりトゥルキノ南方への上陸を目指す。師団長ホセ・ケベド少佐は、カストロのハバナ大学時代の級友であり、カストロはケベドに帰順を促す手紙を送ったといわれる.

6.12 カストロ,ギネア山に陣取るカミロに,緊急かつ隠密に帰投するよう指令.トゥルキノ東側ラミロ・バルデスの指揮する第4部隊,シェラマエストラ西部のクレセンシオ・ペレスの第7部隊にも帰還を命じる.

14 ピノ・アギラ少佐率いる千名のシェラクリスタル討伐軍,ラウルとのあいだに停戦協定を締結.

15 政府軍第18歩兵師団,ラプラタ河口のラス・クエバスに上陸.(第17師団という説もある)

17 カストロ,トゥルキノ山西麓のラ・プラタ川流域に本部,ラジオ・レベルデ,野戦病院を設置.三百の兵でトゥルキノ山の西斜面に30キロにわたる防衛線を構築.すべての沢口に守備隊を配置.

19 政府軍,トゥルキノ包囲を完了.沢伝いに進攻を開始.モスケラの部隊はラスベガス・デ・ヒバコア,サント・ドミンゴを奪取,さらにパルマ・モチャからラプラタ川流域に出てナランハルまで進出.尾根からの狙撃で抵抗するゲリラに空からの攻撃で応酬.ゲリラは大規模な空襲の前に苦戦.

20 バチスタ政府,スミス大使を通じてT28練習機10機の供与を要求.国務省はこれを非戦闘品目に変更し供与.実際には機銃や爆撃装置などを装備して戦闘に用いられることとなる.

20 ラウルは「グアンタナモから供給されたナパーム弾が使われている.このような犯罪は全世界に暴露されなければならない」と声明.空爆を中止させるため米国人誘拐作戦(第二戦線軍令30号)を独断で開始.

6.25 モスケラ軍,エストラーダ・パルマ製糖工場を前進拠点とし,ガビロ(Gaviro)から登坂を開始.ゲリラ軍本部から歩いて4時間のラス・ベガスを落とし,サンロレンソの高台までのぼる.ケベド少佐の第18師団はナランハルを確保.スアレス・スーレ少佐の第19師団はメリーニョを確保.政府軍はポル・ラ・コスタにも進出.

6.26 東部戦線,第一次の米国人誘拐作戦を展開.グアロの米資本経営のモア&ニカロ鉱業会社(ニッケル鉱)を襲撃.米国人10人とカナダ人2人を人質にとる.さらに別の隊がモア南方70キロのUF社エルミタ精糖工場を襲い米国人1人を拉致.ラウルが犯行声明.

6.27 カストロ,コブレに進出したアルメイダの第三戦線の数十名に対してもシエラ帰還を命じる.

27 東部戦線,第二次誘拐作戦を実施。グアンタナモ市と海軍基地を結ぶ道路で民間バスを捕獲.帰投中の海兵,水兵あわせて28名を拉致し,シェラ・デル・プリアル山中パレンケ近郊に収容する.別の隊はグアンタナモ近郊のイサベル精糖工場を襲い,カナダ人管理者1人を人質にする.

28 ラウル,サンチアゴの米領事館代表に対し人質の解放と交換に空爆に対する援助を中止するよう提案.

6.28 南北の前線間の距離は,直線でわずか7キロにまで狭まる.ゲリラ二百八十名が徒歩で2時間の範囲に包囲される.カストロ,ラ・プラタの本部を放棄し,部隊を分散.

28 PSP全国委員会声明.バチスタ政権打倒のため「清潔で民主主義的な総選挙」の実施を訴える.

6.29 政府軍第22旅団の三個中隊,ビリャ・ビセンシオ少佐に率いられトゥルキノ北麓のサントドミンゴ兵営を出発.モスケラ大佐の率いる六百名の部隊が,ビリャ・ビセンシオ部隊の側面カバーのためヤラ川沿いに北上.

6.29 カストロの率いる部隊,先鋒の第一中隊を地雷で混乱させたあと,救援に来た第二中隊を阻止.この間に別動隊が第三中隊を側面攻撃.部隊は算を乱して逃走.この戦闘でゲリラは五十名以上の敵を殺し,6万発の弾薬と三十人の捕虜を手に入れる.

6.29 カストロ部隊の別働隊が、モスケラの支援部隊に攻撃.モスケラ軍はいったん攻撃を中止し,山麓まで撤退.

6.29 サンチアゴ駐在領事パーク・ウォーラム,デル・リオ司令官および空軍責任者と面接.人質解放までは空襲を中止するよう「要請」する.バチスタ政府は米国の圧力に屈し爆撃中止に同意.

6.29 バチスタの裏切りを警戒したウォーラムは,みずからシェラ・クリスタルに入る.交渉団にはモア湾会社とベツレヘム・スティール会社の責任者が同行.

6.30 東部戦線,第三次の誘拐作戦を決行。プレストン近郊のUF精糖工場とニカロのニッケル会社を襲い,さらに米国人6人を拉致.人質は計50名に達する.

1958年7月

1 スミス大使,48時間以内に人質を解放しなければ,「あらゆる可能な手段」をとるための許可をキューバ当局にもとめるとの「最後通告」を発する.

1 ウォーラム領事,ラウルと会見.ラウルは「米国製武器を装備した空軍が民間人を爆撃し続けるかぎり人質を留置する」と宣言.人質5人の解放と交換に・米政府のバチスタへの支援の停止,・グアンタナモ基地のバチスタ軍への提供の停止,・ゲリラに対するなんらかのかたちでの「理解」を示すようもとめる.

1 バチスタ派の大統領候補アンドレス・リベロ・アグエロの弟,ハバナ市内で暗殺される.

2 アイク,人質問題について記者会見.「囚われた米国人を無事に取り返すことがいちばんの目標であり,無謀な行動はしない」と語る.右派は米軍の直接介入を要求,米国内世論はM26に対して批判的となる.

3 フィデル,「恥知らずな爆撃を支援しているのは米政府であって,一般市民ではない」とし,ラジオ・レベルデを通じてラウルにただちに捕虜を釈放するよう指示.(この辺は例によってフィデルの大芝居でしょう)

4 アルメイダの部隊,ふたたび西方に進出.サンロレンソ北方のクルセ・デ・ロス・バーニョスを攻撃.近郊に根拠地を定める.アルメイダ隊を母体にマリオ・ムニョス名称東部第三戦線の創設を宣言.サンチアゴの地下組織はビルマ・エスピンを先頭にすべての戦力をゲリラ戦に投入.

7.11 05:45AM エル・ヒグエで野営中の政府軍にゲリラの銃撃.ゲリラはまもなく,ホセ・ケベド少佐の指揮する第18師団二百五十人の兵士を包囲.ヒグエ決戦が開始される.

エル・ヒグエ: ヒグエはトゥルキノ山頂より西方7キロ,ラプラタ河口より北に7キロ.ヒグエ川がラプラタ川に合流する地点.第18師団はほぼ1ヶ月かけて河口のラス・クエバスからわずか7キロ前進したことになる。
それにしても1個師団がわずか250人というのは腑に落ちない。そもそもやる気がなかったのでは?

7.11 09AM 包囲されたことを知ったケベドはラス・クエバスへの撤退を決意。1個小隊を斥候として派遣。この部隊はゲリラにより殲滅される。

7.11 その後,にらみ合いが続く.カストロはラウドスピーカーで「兵士たちよ,人民の側に立て.正義と民主主義のために戦え.前線に立たず,豪邸で私腹を肥やす者の指示に従う必要はない」と訴える.

12 東部戦線の民間人人質がすべて解放される.国務省はT26戦闘機の供与を停止することでこれに応える.バチスタを「第三勢力」と交代させようとする国務省と,バチスタ体制をあくまでも守ろうとする軍部,現地大使館とのあつれきが激化.

7.14 02:00PM 食料のつきたケベド部隊,一個中隊約100人が海岸方面に進出.ゲリラはこれを待ち伏せし,5人を殺害、21人を捕虜とし、多数の武器をろ獲.このあと本隊への攻撃も開始.

7.15 06:00AM 政府軍戦闘機,ゲリラ部隊を反復爆撃.機銃掃射と500ポンド爆弾,ナパーム攻撃が01:00PMまで続く.

7.16 さらに爆撃が再開,続行.増援部隊もラプラタ河口に向かう.

12:00AM 政府軍部隊が3日間絶食状態にあることを知ったフィデル,3時間の停戦を実施し降伏を促す.結局政府軍は降伏を拒否し,戦闘再開.

7.17 06:00AM G-4歩兵中隊,ラプラタ河口から前進開始.02:30PM ゲリラの待ち伏せにあい先頭の2小隊が壊滅,12人の死者と24の捕虜を残し,残兵は海岸方面に撤退.

7.17 バティスタ、ラ・プラタへのさらなる戦力投入を決断。海軍部隊を上陸させ、空軍の戦闘機を導入し戦闘拡大を図る。

18 東部戦線での遅れる人質解放を見たフィデル,4人の伝令を8日をかけてラウルのもとに走らせる.ラウルはその日のうちに軍関係の人質全員を解放.結局,空爆は3週間にわたり中断される結果となる.

18 BRAC,ハバナで一斉摘発行動.「共産主義者」7名を逮捕.

7.19早朝 重砲と艦砲,航空機に援護された海軍増援部隊が,ケベド部隊の救出を目指しラプラタ海岸に上陸.これを迎撃したゲリラとの戦闘が24時間続く.

7.19 2:30pm 「海岸から侵攻を試みた別の連隊はおびただしい数の死者を出し、無数の捕虜を奪われている」

7.19夜 「彼らは前後左右からの攻撃を受け、任意で投降する者が相次いでいる」(カストロのケベド宛て親書)

7.19 11pm カストロ,敵軍の指揮官がかつての級友ケベドであることを知り,停戦と話し合いを申し入れる.(この辺りの記述はちょっと芝居がかっています)

7.20早朝 ゲリラはアンドレス・クエバス他3人の犠牲者を出しながらも,撃退に成功.政府軍は戦死者17人、捕虜21人を出し撤退。

7.20 06:00AM  ケベドは,夕方6時までは降伏はしないと通告.

7.20 キューバの反政府派,カラカスで会議.「革命的市民戦線」結成.M26の他,真正行動(プリオ派真正党),DRおよびFEU,市民抵抗,真正党反乱派(トニー・バローナ派),労働統一,モンテクリスティ・グループ,独立民主党などPSPを除く8党派全てが結集したカラカス宣言を採択.ラジオ・レベルデは武装反乱をもとめるカラカス協定のテキストを繰り返し放送。

カラカス合意の骨子: カストロの指示にもとづきマヌエル・アントニオ・バローナが起草。武装蜂起を唯一の戦略として承認.シェラ以外のたたかいも評価する一方,米国に対する批判を明確にうちだす.解放後は自由選挙により民主的政府を樹立することとし,共同候補としてウルティアを推薦する.プリオはこの人選に反対したといわれる.

7.21 01:00AM  第18師団が降伏を受諾.ここまでに41人が戦死、将校・兵士あわせ146名(一説に220名)が投降.ゲリラは11日間にわたる空襲に耐えながらの激戦を勝ち抜く.

7.21 カストロの説得に応じたケベドは,そのまま反乱軍本部に残留。部下に「軍のもっとも基本的な任務は祖国の永遠の利益のため戦うことだ」と説得.反乱軍に加わって戦うよう呼びかける.その後さらに1ヶ月にわたり最大規模の戦闘が展開される.

7.24 ゲリラ,ラスベガスで国際赤十字の立会いの下捕虜253人を解放.(一説に2週間後)

7.26 シェラマエストラで臨時革命政府の綱領発表.・外国の内政干渉拒否,・文民制度の確立,・1年後の選挙実施を柱とする.このあと急速に反乱軍への資金援助が増加.バカルディ会社のボッシュは百万ドルを寄付したといわれる.

28 バチスタ,グアンタナモ基地の給水をまかなうヤテラス水源地と水道管の防衛任務を放棄.米海軍,水源確保のため海兵15人をキューバ領内に配置.カストロは「米軍の駐留そのものが違法であり,キューバの主権侵害であるが,水の供給を妨害することはないと保障する用意がある」と声明,カルロス・フランキを使節に立て米国との水面下の交渉にはいる.

29 カストロ指揮の第一部隊と,サンチェス・モスケラ中佐指揮の政府軍最精鋭,サント・ドミンゴで二度目の対決.勢いに乗るゲリラ軍は敵千名をせん滅,4百名を捕らえ,壊滅的打撃をあたえる.モスケラは頭に重傷を負い撤退.

7.29 チェ・ゲバラとシエンフエゴスの率いる反乱軍,ふたたびラス・ベガスを占領し敵兵百名以上を捕虜とする.「マリアナ・グラハレス名称女性部隊」もバチスタ軍を再三打ち破る.

7月末 PSP,ゲリラにパイプを持つCRロドリゲス政治局員とフラビオ・ブラボ社青同書記をシエラ・クリスタルに派遣.ラウルの歓迎を受ける.ついでシエラマエストラに赴きフィデルと会見.カラカス宣言に関連しバチスタ後のキューバについて話し合いを持つ.

7月 モンテクリスティ・グループのフスト・バリリョ,「ピノス島作戦」を開始.マイアミで武器・人員を募集し,ピノス島収監中のバルキンの脱獄を図る.カリリョは計画実現のためCIAに援助をもとめ接近.

7月 CIAがフィクサーとなってシェラへの援助物資投下作戦開始.おそらくは人質解放の交換条件.

7月 エスカンブライでメノヨの第二戦線とビクトル・ボルドンのM26ゲリラが共同行動をとるようになる.

1958年8月

1 米国,バチスタの頭越しにヤテラスの海兵撤退を決定.

7 反乱軍,死者27名,負傷者50名を出す激しい戦闘ののち,ラス・メルセデスを再確保.千人以上に出血をあたえ4百人以上を捕虜にする.シェラマエストラから敵軍を一掃する.フランク・パイス東部第二戦線に対するバチスタ軍の攻撃も失敗.76日間で6回の決戦(サントドミンゴ,メリーニョ,ヒグエ,第二次サントドミンゴ,ラスベガス,ラス・メルセデス)をふくめ30回の戦闘.政府軍はハリケーンに伴う悪天候もあり,作戦続行を断念.ゲリラは戦車二台をふくめ500もの近代兵器を手に入れる.この敗北により軍は完全に意気沮喪.ディアス・タマヨら軍上層部のあいだでバチスタに代わるフンタを形成する秘密計画が検討開始.

10 ラジオ・レベルデ,親バチスタのペプシコーラなどに対し不買運動を提起.ヒルトン・ホテルに爆弾.

12 フィデルとチェの立会いのもと,サオ・グランデでラス・メルセデス戦の捕虜169名が引き渡される.バチスタ軍の攻勢は終了.死傷者は千名にのぼり,捕虜も400名に達する.ゲリラは戦車二台をふくめ500もの近代兵器を手に入れる.

16 エスカンブライのゲリラへ武器弾薬を補給するための飛行機が,グアンタナモ海軍基地付近に不時着.米海軍が出動し操縦士のウィリアム・ホーメルを救出.ハバナ大使館を経由して米国内に護送される.キューバ政府はいっさい干渉できず.ホーメルはこれまで28回の補給作戦を成功させたと告白.

最終攻勢の時代

18 カストロ,ラジオ・レベルデで2日間,連続十時間にわたり戦闘の総括を展開.「問題は手に持つ武器の数ではなく,君たちの額に輝く星の数である」というホセの言葉を引用し「この言葉はわれわれにとって深遠な真理となった」と声明.「ゲリラ戦争の時代は終わり,陣地戦と機動戦に移らなければならない」と宣言.「攻勢に移れ」と題する指令書を発表.それぞれ80名からなる六個の部隊に進攻作戦開始を命ずる.

19 カストロ,農村から都市を包囲する戦略を打ち出す.オリエンテ以外の州の決起をキーポイントと考えた反乱軍はピナルデルリオ及びラスビリャス攻略作戦を決定.カミロ少佐に対して「(アントニオ・マセオに倣い)部隊をピナル・デル・リオまで移動し反乱軍の戦略目標を実行せよ」と指令.この時点でゲリラ勢力は8百人に達する.

20 ラジオ・レベルデ,反乱軍の勝利を宣言.

20 カミロのアントニオ・マセオ名称第二部隊65名(一説に82名),エル・サルトを出発,ピナルデルリオをめざす.

21 シェラにおける最後の闘いとなったパルマ・モチャの戦闘,政府軍の敗北に終る.政府軍はシェラ・マエストラ南麓一帯から完全撤退.

8.21 夜9時,ゲバラに対し出発命令が下る.ゲバラのシロ・レドンド第8進攻部隊150名,オリエンテ州から潜行開始.戦略目標は@ラスビリャス州で敵を撹乱しマヒさせる,A西部からオリエンテに向かう一切の交通を遮断すること。

8.21 カミロのアントニオ・マセオ部隊20人は、ゲバラ部隊の右翼を援護しつつ最終的にはピナル・デル・リオのゲリラとの合流を目指す.ゲバラは南部沼沢地帯を進み,カミロはバヤモの西を北上し沼沢地帯の北部を進撃.

28日 バチスタ大統領、政府軍に対する軍事制裁を停止するよう米国に要請。

29 フアン・アルメイダ部隊,ふたたびエル・コブレに進出.ラウルの第二戦線に続き,マリオ・ムニョス東部第三戦線を名乗る.

8月 CIA秘密工作員スタージス,プリオの紹介でペドロ・ルイス・ディアス・ランスとともに反乱軍への物資補給作戦に加わる.飛行機で遭難するが,1ヶ月にわたる潜伏の後ロバート・ウィーチャの手引で脱出に成功.ウィーチャはサンチアゴ副領事でCIAの現地責任者.

8月 デビッド・フィリップス,CIA担当官としてハバナに赴任.大使館とは関係を持たず,デビッド・フィリップス商会を創立し,人脈づくりを精力的に行う.ベシアーナもこの時期に徴募される.

8 バチスタ軍,グアンタナモ基地へのびる水道管の防衛任務を放棄.これに代わり海兵隊が防衛の任務に就く.カストロはこれを内政干渉として激しく抗議.カストロは「米軍の駐留そのものが違法であり,キューバの主権侵害であるが,水の供給を妨害することはないと保障する用意がある」と声明,カルロス・フランキを使節に立て米国との水面下の交渉にはいる.

1958年9月

9.04 シエラ・マエストラで、女性兵士からなるマリアーナ・グラハレス小隊がつくられる。

9.09 米当局,ローダーデール港に停泊中のヨットを捜索.大量の武器弾薬を押収し,乗組員30名を逮捕.

9.09 カマグエイ州ラ・フェデラルに進出したゲバラの第8部隊、政府軍の待ち伏せに遭い二人の命を失う。三人を倒し、四人を捕虜とする。

9.13 フェリクス・トレス(PSP)に指導されたラスビリャス州ナルシサの製糖労働者がマキシモ・ゴメス部隊を組織しゲリラ戦を開始.

9.14 ゲバラの部隊、バラグアの手前アギレラで敵に捕捉される。空襲の中、沼沢地帯を進み、政府軍の防衛線を夜間強行突破し脱出に成功。政府軍地上部隊はこれを知りながら行動せず。

15 カストロ,バチスタ軍兵士への呼びかけを発表.相次ぐ脱走兵に業を煮やした参謀本部が,軍律強化を発表したことに応えたもの.

16 カストロ,亡命者委員会を米国における唯一の正式代表として再編.議長兼広報担当にルイス・ブッシュ,組織担当責任にホセ・リャヌサ,財務責任者にアイデー・サンタマリアを指名.ラウル・チバスを解放区の財務大臣としてシェラに召還.

9.18 反乱軍は、独立戦争発祥の地ヤラにバティスタ軍を迎え撃退する。

9.20 カミロの部隊、バラグア付近で停滞。バラグアから南に延びる鉄道路線がバチスタ軍の防衛線となっており、これを突破できないまま、1週間を費やす。

21 カミロのマセオ部隊,ラスビリャスに入り,パネーケの指揮するマルセロ・サラド北部M26部隊と合流.(この記載は怪しい。実際に接触するのはもう少し後だと思う)

9.21 東部第二戦線,マヤリ・アリバ東方の町ソレダードで第1回武装農民評議会を開催.

シエラ・クリスタルにおける解放区作り: 土地証書を発行し,地主への地代の支払いを禁止する.道路や電話線の敷設をおこなう一方,町ごとの農民委員会を作ることで50万人の住む1万2千平方キロの地域に実効支配を確立.アウグスト・マルティネス・サンチェスを行政官とする,共同体を建設.「スルコ」紙を1万5千部ずつ発行.師範学校を建設し「人権宣言」を印刷.財務も一本化し予算統制を図る.12の「病院」が建設され,乳幼児死亡率を劇的に下げる.

9.27 ラウルの第二戦線とアルメイダの部隊が、セルロ・ペラドの政府軍基地を襲撃し1個師団をせん滅.25人を殺害,師団長のネルソン・カラスコ中佐を捕らえる.

セルロ・ペラド(Cerro Pelado)の戦い: エストラーダ・パルマ製糖工場から4キロにあるエル・セルロ・ペラドの政府軍第17兵営を包囲.ブラウリオ・コロノウ大尉の部隊が口火を切り,ペドロ・ミレトの砲兵隊が砲弾を撃ち込む.このあとエドゥアルド・サルディニャス少佐のシモン・ボリーバル名称第12部隊が切り込む。複数の部隊の統合したはじめての大規模作戦となる。マリアナ・グラハレス名称女性部隊も実戦に初参加.

9.27 カミロの部隊、アシエント・デ・バラグアで敵の布陣に関する情報を獲得。鉄道防衛線を渡り、25キロ先の中央ハイウエイに出る。さらに徴発したトラック数台に分乗して北上、ラスビリャス州東北部の山地へと向う。

9月 CRロドリゲス,再びシエラマエストラを訪問.多くの党員の反対を押し切りM26とのあいだに相互援助協定を結ぶ.CRロドリゲスはそのままシェラ・マエストラに常駐.同行した共産党幹部のルイス・マス・マルティンは,その後ラウルの片腕として行動をともにする.

9月 英国,バチスタに対し戦車15台,戦闘機17台を売却することで合意.反乱軍は英国製品のボイコット,支配区内の英国資産の接収で応える.

 

1958年10月

8 カストロ,サンチアゴ作戦実行は時期尚早と判断.みずからはシェラにとどまり,当面の目標を北部平野部制圧に決定.ラス・トゥナス,オルギン,プエルト・パードレ,ヒバラ方面の作戦のためシモン・ボリーバル東部第4戦線をあらたに編成.デリオ・ゴメス・オチョアが司令官となる.オルギンを中心に,カウト川以北のオリエンテ州を作戦地域とする.

10.08 フィデル、アルメイダに対して金に糸目をつけず武器弾薬を集めるよう指示.アルメイダは新たに三つの部隊を編成し,サンチアゴへの圧力を強める。

8 ゲリラによる米系企業への襲撃あいつぐ.国務省はエルネスト・ベタンクールを通じ「襲撃が続けば重大な決意を迫られることになる」と警告.ウルティアらも米系農場へ「脅迫状」を送ることをやめるようもとめる.

10.08 カミロの部隊,40日の行進の末,サンクティ・スピリトゥス北方バンブラナオ山中の村ホボ・ロサドに達する.ここで活動を展開していたフェリクス・トーレス指揮のマキシモ・ゴメス部隊(PSP),60名あまりとの接触に成功.

10.08 カミロ、PSPとともにラス・ビリャス北部戦線を形成.ラス・ビリャス北部のラ・ビクトリア山地に根拠地を建設。病院、武器爆弾工場、新聞局と放送局などが作られる。ゲリラに買収された地元の警察は一連の行動を見て見ぬふり.

10.09 メノヨ,ゲバラ部隊の接近に対しその真意をただすためボルドンをシェラに派遣.カストロと会談したボルドンは,帰還後,会談の内容を報告しないまま,直ちにゲバラ部隊に合流すべく活動開始.このためメノヨはボルドンを「反逆者」として逮捕.さらにゲバラに対し文書を送り目的を問いただす.ゲバラはこの文書を黙殺.

10.09 反乱軍、ラウル・カストロの第二戦線、フアン・アルメイダの第三戦線に続き第4戦線を創設。デリオ・ゴメス・オチョアが司令官となる。

10.10 カストロ,ラジオ・レベルデで選挙ボイコットを訴える.「誰も選挙には参加できないだろう.敢えてやろうとする者は撃たれるであろう」

10.10 第一次独立戦争開始90周年を記念し,反乱軍の法令第3号として「農地改革法」発表.「土地を耕す者へ」の原則をうたう.ソリ・マリンが起草し、地主への国家補償も明らかにされる.

10.15 ゲバラの部隊、トリニダからサンクティ・スピリトゥスに向かう国道を北上。エスカンブライを目指す。

16 ゲバラの第8部隊,45日間の行進の末エスカンブライのDRゲリラ支配区に入る.メノヨらはゲバラの侵入を拒否.

14 ラスビリャスの「複雑な状況」を知ったカストロ,カミロにゲバラと連絡を取りながら,現地にとどまり,エスカンブライに圧力をかけ続けるよう指示.

21 ゲバラ,チョモーンと会見.メノヨらを山賊とみなすことで一致.ただしゲリラ勢力の統一を任務とするゲバラは,メノヨらとの接触を開始.

22 スミス大使,「ラウルは学生時代ホモだった」との情報を国務省に報告.

10.26 ゲバラ,トリニダーとサンタクララを結ぶ要衝ギニア・デ・ミランダの兵営を襲撃し,バチスタ軍を山間部から駆逐.

26 東部戦線のゲリラ,ニカロ鉱山の米国人を誘拐.国務省の非難声明に対しカストロは「米国の友人と争うつもりはない」と釈明.

10.30 ラウル,クリスタルを出てオリエンテ総攻撃作戦に参加.

10.31 ワシントンのキューバ大使館で、セオドア・ルーズベルトの業績を祝賀するレセプシオン。ダレス国務長官は妻を伴いキューバ大使夫妻と会食。バチスタ支持を印象づける.このとき、同席したウィリアム・ポーリー(実業家)に,特使としてバチスタ退陣を説得するよう依頼したといわれる.

10月 カマグエイではビクトル・モーラがカマグエイ戦線を組織.西部のピナル・デル・リオでもデルミデイト・エスカローナにひきいられたピナル・デル・リオ戦線がゲリラ活動を開始.

10月 M26系「全国労働者戦線」とPSP系の「CTC民主化全国委員会」が協定,全国統一労働者戦線を結成.

10月 イスラエル,バチスタへの武器供与を停止.

1958年11月

1 ゲリラ,マイアミ発バラデロ行きのハバナ航空機をハイジャック.オリエンテに向かうが着陸に失敗.ニペ湾のプレストン農場付近に墜落.乗客の大多数が死亡.カストロは犯行とは無関係と声明.

11.02 大統領選を前にして,反乱軍が周囲で同時多発行動。サンチアゴを包囲.アルト・ソンゴ駐屯地を陥落させる。

13:30PM サンチアゴからの連絡路確保を計ろうとした軍の車両部隊が、エル・クリストで第9部隊の手により捕捉される.2時間にわたる戦闘の末,装甲車を含むほとんどの車両がゲリラ軍に落ちる.

3 大統領選.御用政党の進歩行動党のアンドレス・リベロ・アグエロが大統領に当選する.(一説にバチスタ政権の副大統領アンドレス・ドミンゴ・モラレス・デ・カスティーリョ)対抗馬として真正党の老グラウ,保守系の自由人民党からカルロス・マルケス・スターリングが,政府の財政援助を受けて立起.ハバナでは75%が,サンチアゴでは98%が投票を拒否するなど,選挙そのものが国民の総ボイコットにより破綻.

3 カストロ,大統領選に呼応して総攻撃を指示.全国でサボタージュと武装蜂起があいつぐ.オリエンテでは交通網を寸断,バヤモ,マンサニーリョ,オルギンなどの兵営を襲撃.陥落させる.脱走兵は次々とゲリラに参加.第二戦線はバラグア湖畔に進出.メリャの町を解放.

5 第二戦線に属するエル・アルポンの第17部隊,マンサニーリョ発オルギン行きのDC3をハイジャック.マヤリ・アリバの秘密滑走路に着陸させる.

6 カストロの仲介により,DRとの農業改革,軍事協力についての合意成立.カミロの中部戦線,ラス・ビリャス州で道路・橋梁の破壊工作を開始,国土の両断に成功.

7 ゲバラ,「統一」の努力を断念.メノヨらの勢力を将来にわたって交渉の相手としないことを決定し,DRに通告.DRとの統一のため交渉にはいる.革命の性格や主導権をめぐる激しい議論の末,ゲバラとロランド・クベラのあいだにペドレーロ協定締結.DRはゲバラの指揮を受け入れることになる.この協定の受け入れをめぐり,DRは二派に分裂.反ゲバラ派はハバナでの活動に移る.

15 ラウルの部隊,グアンタナモ近郊イミアスの街を奪取.政府軍の負傷兵25名を米軍基地へ送りつける.

17 カストロ,最終攻勢を指示したあとシェラマエストラの本部を閉鎖.兵3百で「ホセマルティ部隊」を編成し平原部に進出.「サンチアゴ作戦」を開始.

17 アイクから特使に指名されたポーリー,バチスタ退陣とラモン・バルキン(モンテクリスチ事件でピノス島収監中)を首班とする臨時政府の擁立を骨子とする計画策定.

20日 ギサの攻防戦が始まる。

1:00am ホセマルティ部隊,バヤモとギサを結ぶモンテ・オスクロの橋を爆破,ギサ攻撃作戦を開始.ギサ兵営駐留の部隊は4個師団規模で,当時政府軍最精鋭といわれた.

6:00am 政府軍のB26爆撃機4機が反乱軍陣地を爆撃.

08:30AM 兵営を包囲したあとギサ=バヤモ間をパトロール中の敵兵に銃撃.二週間にわたる激戦開始.

9:00am バヤモまで20キロのシェラ山麓のギサ兵営への攻撃開始.

10:30AM Tー17戦車を含むバヤモの増援部隊と衝突.本格的戦闘となる.

04:00PM 戦車,兵員輸送トラックなどが地雷で次々と破壊される.

06:00PM 増援部隊,いったん撤退.

21 バヤモからシャーマン戦車に護衛された部隊が進撃.待ち伏せた反乱軍とのあいだに激戦となる.戦車部隊はギサ兵営まで入ることに成功.ゲリラは道路周辺からの撤退を余儀なくされる.

22 AM バヤモからシャーマン戦車を戦闘に第二派の増援部隊.空からの援護を受け,反乱軍を追いつめる.反乱軍はいったん山中へ撤退.

22 PM 体勢を立て直したゲリラ,再び道路を襲撃し遮断.

23 政府軍コロホ経由のルート確保を試みるが,ゲリラの攻撃にあい失敗.

25 歩兵1個師団,Tー17戦車に守られ14台のトラックで進撃.ゲリラは先頭の戦車を地雷で破壊したあと,隊列を両側より攻撃.ギサ兵営より出動した1個師団も到着し激しい戦闘となる.

06:00PM 政府軍,すべてのトラックを放棄し,2台の戦車の周りに集まる.

10:00PM ゲリラ部隊,道路中央に塹壕を掘る.これにより敵の戦車は行動不能となり狭い範囲内に閉じこめられたことになる.

27 02:00AM ゲリラの1個中隊,敵陣内に切り込み.

05:00AM バヤモからシャーマン戦車に先導された2個師団が新たに到着.

06:00PM 政府軍,道路の確保に成功.トラック部隊を救出する.これを追撃したゲリラはハイウエイとの合流点で再び待ち伏せ攻撃.敵多数に被害を与える.

28 カミロ,バンブラナオで労農評議会を開催.反乱軍の指揮下に春の砂糖キビ刈りをおこなうこと,そのために武装農民組織を結成することを決定.

29 05:00AM バヤモの他マンサニーリョ,ヤラ,エストラーダ・パルマ,バイレなどから動員された部隊が,三つのルートから同時にギサ入りをめざし行動開始.コロホ・ルートの部隊は2時間の戦闘後敗退.バヤモからの部隊は進撃に成功し,ギサから2キロの地点に野営する.サンタリタからコラリーリョを経由して進攻してきた部隊は,いったん押し返されギサ東北方面に迂回.

06:00PM ゲリラ,敵の遺棄した戦車を修復.これを先頭にして2個小隊がギサ兵営に接近.

29 政府,当面の目標をラスビリャス制圧におく.戦車を伴う重装備の増派軍2千が,エスカンブライに向かう.

11.30 02:00AM 戦車に乗り込んだゲリラ突撃隊,兵営正門前で政府軍の斉射にあい,戦車を遺棄して敗退.

04:00PM ゲリラと増援部隊とのあいだに激戦が続く.増援部隊の苦戦にギサ確保をあきらめたギサの部隊は,急速撤退.

09:00PM ゲリラの斥候,ギサ市内に入り敵軍の逃亡を知る.ホセ・マルティ軍は航空機,砲兵に支援された数波の支援部隊を撃退.二週間にわたりる激しい戦闘ののちギサを確保.政府軍は116人の死者,80人の負傷者を出し撤退.反乱軍は戦車1台,ライフル94丁,大砲3門,バズーカ砲1門,トラック14台を獲得.反乱軍側の死者は10名前後にとどまる.

11月 ハバナで全国カトリック会議開催.革命の過激化に反対する決議.資本家の立場に立ち革命派攻撃を強める.

11月 モンテクリスティのアンドレス・スアレス,ハバナ市内でCIAと会見.ピノス島作戦への協力をとりつける.

1958年12月

4 アントニオ・バローナ(トニー),「第三勢力」の蜂起を計画.これによればバローナが空路カマグエイに潜入,反バチスタ派軍人を糾合して反乱を開始,カストロ派に対抗しようとする.プリオ,ミロ・カルドナのほか国務省トップも密かにこの計画を支持.

12月6日

6 マヌエル・ウルティア,カラカスからの飛行機でギサに到着.飛行機はベネズエラ革命政府から反乱軍に贈られた武器と弾薬を満載.

6 エスカンブライのゲリラ,ゲバラの指揮下に戦線統一.人口8万を擁するキューバ第4の都市サンタクララの包囲作戦を開始.山間部の孤立した兵営を次々に落とす.メノヨの部隊は最後までM26の指導を認めず,小競り合いをくりかえす.

12月9日

9 ポーリー,極秘裏にハバナ入り.バチスタと3時間にわたり会見.退陣とデイトナへの亡命を勧めるが,バチスタは「私と私の家族が生きてこの島を出ることなどありえない」とこれを拒否.ポーリーは11月にも特使としてドミニカを訪問.トルヒーリョに退陣を迫るが失敗.

9 ホセマルティ部隊、バイレの町を奪取.サンチアゴにつながる要衝サンルイスも陥落。バヤモ平原の政府軍要塞は次々と降伏,あるいは逃亡.ラウルの部隊は北部一帯を解放した後,サンチアゴ東方から海岸に出る.

10 バチスタ,フンタ結成に動いたディアス・タマヨら軍幹部を逮捕.ポーリーの計画を封じ込める.

10 1,400万ドルをかけたホテル・リビエラが完成.建設費14百万ドルのほとんどはキューバ政府が調達.コパ・ルームで開かれたオープニングにはジンジャー・ロジャースが出演.マイヤー・ランスキーはジンジャーを「腰をくねらせるのは出来ても,歌はからっきし」と評した.この頃キューバには一万人を超える売春婦がいたといわれる.

12 ポーリーの動きを知ったラジオ・レベルデ,「キューバ人は自ら問題を解決する力を持っており,外国の干渉は許せない」と声明.

14 ゲバラ軍,サンタクララ東方17キロのファルコン橋とカラバサス鉄道橋を爆破.国土を二分し,東部からサンタクララへの支援ルートを絶つ.ファルコン鉄橋を破壊したオルランド・パントッハは、後にボリビアで戦死。

12.15 チャルコ・レドンド鉱山の反乱軍本部にオリエンテの部隊司令官が集結.最終攻撃の意思統一.

12.17 ゲバラの部隊、フォメント要塞への攻撃を開始。3日間(数時間という説もある)にわたる激戦となる。

17 スミス大使,ワシントンより帰任.バチスタと会見し,来るべきリベロ・アグエロ政権を支持することはできないとの見解を伝える.バチスタが国を去ることによってのみ,あらたな中道政権を結成し,カストロの権力獲得を防ぐことが出来ると説得.バチスタは彼が国を去れば軍が崩壊すると反論.

12月19日

12.19 ゲバラ軍,フォメントの兵営を陥落.さらにヒグアニ、カイマネラ、マヤヒグアの町を陥落させる。フォメントでは現地の革命勢力との協力により,革命市政が創立される.兵の多くはそのままゲリラ部隊に参加.

19 フィデル,コントラマエストラ近郊ボンファイクのたたかいで政府軍を撃破.政府軍はサンチアゴに向け潰走.反乱軍,ヒグアニ郊外に最高司令部を設置.ウルティアを迎える.

12月21日

21 ゲバラ軍,サンタクララに向かう中央高速道路の要衝カバイグアンとグアヨスを同時攻撃.カミロ軍はプラセタス,レメディオス,カイバリエンを次々と制圧し,サンクティ・スピリトゥスに至る.

21 CIA,米当局の干渉を避けるため,メキシコのメリダ空港を使いピノス島作戦を実行することを決定.

12月22日

22 カミロ,北部海岸に出てヤグアハイの兵営を包囲.アントニオ・チョン大尉を指揮官とする政府軍が激しく抵抗したため,攻略に10日間を費やす.

22 カストロ,ラジオレベルデを通じ演説.「我が国のことに干渉したりOASに解決を依頼するなどの策動は,もはや無意味となった.独裁者の暴力に無関心だったものが,今頃心配してもおかど違いだ」と米国の策動を非難.

12月23日

23 タベルニリャ将軍,スミス大使と会談.カンティーヨを長とするフンタの創設を提案.米国の支持をもとめる.これより前,タベルニリャの意を受けたフロレンティノ・ロセル大佐はハバナ市内のM26指導者ペペ・エシェメディアと秘密会談.カンティーヨのほかウルティア,バルキンとカストロの推薦する民間人2人から構成される軍民評議会構想を提案する.バチスタは密かに脱出用の飛行機の調達を指示.

エウロヒオ・カンティーヨ: タベルニリャとつながる軍の若手エリート。当時、サンチアゴ軍管区司令官兼統合参謀本部議長としてオリエンテ州一帯の権力を一手に集中していた。

23 第一軍,サンチアゴ北西の最後の政府軍拠点パルマ・ソリアーノに対する総攻撃開始.4日間にわたる戦闘の後これを確保.テキサコの精油施設を占拠.フィデル,ラウル,アルメイダ三軍が合流.サンチアゴの本格的包囲を完了.グアンタナモ基地の正門前には亡命をもとめる難民が殺到する.

23 アレン・ダレスCIA長官,NSCで「バチスタの辞任は時間の問題であり,カストロが勝利すれば共産主義者の進出は避けられないだろう」と報告.

12月24日

24 カストロ,将校団の提案を受け「米国の支持するフンタは受入れられない」とするいっぽう「カンティーヨとの会談を望む」と回答する.

24 カンティーヨ,カストロに会見を申し入れる.カストロは提案を受諾.(ボナチェアによれば,カストロからカンティーリョに接触し援助を求めたという).

24 サンタクララ東方の都市サンクティ・スピリトス,ゲバラ軍により一時占拠.ゲバラはその足でサンタ・クララへ向かう.

25 サンタクララ周辺の町が,すべて反乱軍の手に落ちる.政府軍は,地方の支配を放棄し全兵力をサンタクララに集中.

政府軍の布陣: サンタクララを本部とする第三方面守備隊が1600人いた。これを不足と見たハバナの参謀本部は、17輛の装甲列車に4百人の兵士と百万ドル相当の武器弾薬,装甲車を積載してサンタクララに派遣した.これに警察官300人以上、航空基地の100人など総勢約三千人以上が配備されていた。

12月28日

サンチアゴ

反乱軍,サンチアゴ決戦の準備を完了.政府軍の反応を待つ.

夜8時,カンティリョがヘリコプターでカストロ軍の陣営(パルマ・ソリアーノのオリエンテ砂糖工場)を「友好訪問」.カストロと4時間にわたる会見.会見にはラウル・チバス,ビルマ・エスピン,セリア・サンチェス,ホセ・ケベドらM26メンバーの他,カトリック教会関係者などが同席.

カストロ=カンティーヨ会談の内容: カストロは「権力はM26が掌握する。評議会構想は受け入れない」と強調.カンティリョは「軍部革命運動を創設,M26を無条件に支持するとともに.31日には軍を革命に導く」と話し理解を求める.カストロは,31日午後3時を期してサンチアゴの軍民が蜂起.革命宣言を発して名誉ある軍人の参加を求めると同時に,革命勢力が市内を制圧し合同する,というプランを提示.カンティーヨの独自行動に関しては・バチスタの逮捕,・カンティリョが他の将軍や米大使との関係を断つこと,・反乱軍に相談なしにクーデターをおこなわないことの三条件を提示.サンチアゴ攻撃の一時停止についてのみ合意.

サンタクララ

12.28 午前5時,M26の二個小隊が密かにサンタクララ市内にはいる.反乱軍から武器の供給を受けた市民が蜂起.街路にバリケードを築き,モロトフ・カクテルによる待ち伏せ攻撃で政府軍を撹乱.市街は白兵戦となる.空軍はゲリラの根拠地に向け無差別爆撃.

12.28 市内の戦闘を市民にゆだねたゲリラ部隊は、サンタクララ郊外の要塞の多くを陥落.最大の基地カピロ要塞では,ロセル・レイバ大佐の指揮する守備隊が19両の軍用車両と最新兵器,将兵400で応戦しこう着状態となる.

12.28 ハバナからの装甲列車の指揮を預かった司令官は,任務を放棄してヨットでマイアミに逃亡.

12.28 政府軍、サンクティ・スピリトゥスをふたたび確保。ゲバラ軍を背後から狙う。ラウル軍がゲバラ支援のためサンクティ・スピリトゥス攻略に急派される。

12月29日

サンタクララ

29日 早朝から反乱軍の総攻撃.郊外のラスビリャス大学ではDRが蜂起し,大学を占拠.ゲバラは大学を司令部として包囲戦にはいる.

29日 3百のDRコマンド部隊が市内に突入.市民の蜂起を得て数千の政府軍を相手に,市街戦を展開。市内中心部の制圧に成功.

29日 バチスタ軍はサンタクララ市街への無差別爆撃を開始.B26が貧民街をナパーム攻撃.市民3千人が犠牲となる.米国のマスコミはゲリラが敗走と報道.

その他

29 カンティリョ将軍,ハバナ入りしバチスタと会談.カンティリョの報告を受けたバチスタは,軍事評議会の設立に同意.カンティリョは6日に軍事評議会を発足させる計画を立て,それまでカストロが動かないように工作.米軍事顧問団はカンティーヨの「誠意と信頼性」に対し疑問を表明.

29 トニー・バローナ,セスナ機でカマグエイのキング・ランチに着陸.軍と接触がとれないまま,M26部隊に武器を奪われる.

12月30日

サンタクララ

30 第三方面守備隊が守るカピロ要塞をMR26とDRの混成部隊が攻撃。ゲバラの精鋭部隊は、装甲列車の部隊に的を絞る。

30日 装甲列車の司令部はハバナへの撤退を決断。22両の装甲車輌は、サンタクララ中央駅を出たところで脱線、立ち往生する。これはゲリラが前もってレールの固定をはずしていたためであった。

30日 中央駅周辺に待ち伏せたゲリラは,バズーカ攻撃で装甲を打ち抜き、さらに火炎瓶を浴びせる。まもなく装甲列車の部隊は全面降伏。

30日 カピロ要塞をめぐる激しい攻防が終日続く.

30日 CBSは政府軍の発表をうのみにして「ゲリラがサンタクララから敗走」と発表.さらに共同通信は「政府軍はゲリラを追撃し,全土の支配権を確立」と配信.

その他

30 西方に進出したラウル軍のアルマンド・アコスタ部隊,サンクティ・スピリトゥスの攻略に成功.

30 バチスタ,政権維持を断念.カンティーヨに対し自らの辞任とカンティーヨの後継指名を伝える.

30 サンチアゴの米領事館,在留者の帰国計画を発動.バチスタの二人の息子,ニューヨークに脱出.高級軍人やSIM,警察幹部は出国をはかりパニックにおちいる.

30 CIA,モンテクリスティと接触.軍事作戦を中止しピノス島の看守を買収しバルキン脱出を図るよう提案.10万ドルを手渡す.

12月31日

31 ゲバラ部隊,市内のほとんどを制圧.バチスタ軍最後の拠点カピロ丘陵,革命軍の手に落ちる.

31 ラウル軍,グアンタナモを陥落させる.

31 グエル首相,米大使館を訪れスミス大使と会談.バチスタ退陣とフンタの創設を告げ,新政府への軍事援助を要請する.国務省はバチスタの後継者への軍事援助を拒否.

31 カストロはサンチアゴ軍司令官レゴ・ルビド大佐に決起を督促するが動かず.カンティリョの話しが空約束であったことに気づく.

31 CIA,メノヨの第二戦線がカストロの機先を制してハバナを占拠するよう援助することを決定.B26機がエスカンブライへ武器,兵員を補給.国務省はこの作戦を黙認.

31 バチスタ,政府指導者を集め,コロンビア兵営で「ニューイヤー・イブ」のパーティーを開催.パーティーのたけなわに大統領辞任と亡命の意を表明.

 

1959年

1月1日

2am バチスタと家族たち,コロンビア兵営から3機の飛行機に分乗してドミニカに向かう.

2am カンティリョは軍民評議会を組織,カルロス・ピエドラ最高裁長官を臨時大統領に指名.米国は新政府支持のジェスチャーを表明.

8am カンティリョの臨時政府樹立の情報を得たカストロは,ラジオ・レベルデで「サンチアゴ市民への宣言」を発表.「夕方6時までに軍は降伏せよ.6時以降の外出を全面禁止する」と最後通告.全将兵と国民への指示を発表.

サンチアゴ市民への宣言: ハバナでクーデターがあったようだが,この動きはM26とは関係ない.混乱や思惑は許されない.…95年革命の屈辱を繰り返してはならない.評議会は圧制者の共犯である.バチスタやムハールが国を去っても,あなたの息子たちを殺した犯人が,武装したまま街を自由に歩いているあいだは戦争は終わっていない.革命シー!軍政ノー!

9am スミスを代表とする各国大使団,コロンビア兵営のカンティーヨを訪問.大使館に亡命をもとめているものの安全確保を要請.

10am カストロ,カミロには直ちにハバナに向かいコロンビア兵営を確保するよう命令.ゲバラにはラ・カバーニャ要塞に陣取る軍幹部と停戦交渉にはいること,マタンサスの要塞を占領した後ハバナに進撃するよう指令.フィデルはただちにアルメイダの部隊とともにサンチアゴに向け進軍開始.サンチアゴを見下ろすアルト・デ・エスカンダルに進出.ウベルト・マトスが攻撃作戦司令官となる.

その他の地域への展開: カマグエイのモーラには全州を支配下におくこと,中央ハイウエイ,カマグエイとサンタクルス・デル・スル,ヌエビタスを結ぶ幹線を封鎖するよう命令.ベラルミノ・カスティーリャニはマヤリ攻略を,ラウルにはグアンタナモ攻略を,サルディーニャスにはオルギン攻略を,ゴメス・オチョアにはラス・トゥナス攻略を指令.

午前 カンティーヨはサンチアゴ軍司令官ホセ・レゴ・ルビド大佐にカストロとの停戦交渉に入るよう指令.

11am ハバナの街でM26支持者のデモ発生.たちまち市街は暴動状態となる.

3pm エルネスト・ベタンクール,キューバ大使館を「接収」.ニューヨークの総領事館,マイアミの領事館もM26が乗っ取る.

6pm 米政府,キーウェスト所属の潜水艦2隻と駆逐艦2隻をハバナ沖合の領海外に派遣することを決定.海兵隊を出動体制に入らせる.

8:45pm PSPはラジオ・ユニオンを占拠.フアン・マリネーリョがゼネスト支持の演説を行う.

10pm カストロとルビド大佐とのあいだに停戦交渉成立.軍は無条件降服に同意.カストロはウォーラム米領事と会食.米国は革命政府とのあいだになんの困難も生じないだろうと発言.

1月2日

1am カストロ,モンカダ兵営に入る.5千人のバチスタ軍は無抵抗のまま降服.カストロ,臨時革命政府の成立を発表.大統領にあらためてウルティアを指名.

2日朝 カストロ、軍部支配地域での戦闘の継続と陰謀を打ち砕くための「革命的ゼネスト」を呼びかける.

2日 サンタクララのレオンシオ・ビダル兵営に立てこもっていた軍,ゲリラの前に投降.

2日 カミロ軍がヤグアハイからサンタクララに到着.ゲバラとカミロが短時間の打ち合わせ.フィデルの指示に基づき。ゲバラ軍はハバナ都心のラ・カバーニャ兵営,カミロはキューバ最大のコロンビア兵営を解放することで意志統一.カミロはそのままハバナに向け出発する。

2日 ゲバラ、カリスト・モラレス大尉をサンタクララ守備隊長として残し,まもなくハバナに出発.

2日 カンティーヨ,ピノス島収監中のバルキンを呼び戻し,フンタ議長に据えることとし,米軍事顧問団の賛同を得る.

2日 バルキン,腹心のボルボネト大佐,M26のアルマンド・アルトらを従え,囚人服を着たままコロンビア兵営に降り立つ.

2日 バルキンはフスト・バリリョと協議後ただちにカストロに和解の申入れ,カンティーヨを含む軍・警察・SIM幹部の逮捕を指令.カンティーヨはのちに革命政府により15年の懲役判決を受ける.

2日 カミロ,夕方までにコロンビア兵営に到着.兵営の明け渡しをもとめる.ゲバラはラ・カバーニャ兵営で軍代表との交渉に入る。

 

1月3日

3日 ゲバラ,軍代表のエルナンデス大佐と交渉し、5万ペソとマイアミ行のセスナ機の提供と引き換えに軍の投降を実現.バルキン,活動を停止.

3日 カストロはサンチアゴを臨時首都とする.ウルティア,サンチアゴの臨時政府大統領として宣誓.フィデルをキューバ軍最高司令官に指名.サンチアゴ軍司令部,悪質なテロリスト40人を即決裁判の上処刑.他にも多くの手先が私刑で殺されたと言う.

3日 フィデル、ラウルをサンチアゴ地区司令官として残し,国土縦断行進に出発.

3日 ロランド・クベラ司令官に率いられた革命幹部会ゲリラ,ハバナ大学を占拠.兵舎を襲いライフル500丁,機関銃6丁,弾丸8万発を奪ったあと大統領官邸に突入.メノヨの第二戦線もハバナ入りし,郊外の兵営のいくつかと警察署,ホテル・ナシオナル,カプリなどの豪華ホテルを占拠.

1月4日

4日 行進中のカストロ,ゼネスト中止を指令.ハバナ空港再開.キーウェスト行きのフェリーは2千名近い米国人を乗せ出港.米軍は出動体制を解き艦船を撤収.5日間にわたる各地での演説の中で,PSPも含む完全な出版の自由,これまでの反乱軍布令の完全実施,戦犯の裁判実現,米軍事使節団の撤退を明言.

4日 サンチアゴ臨時政府のウルティア,内閣名簿を発表.米大使館は「親米反共の方向を持つ,なかなかよい政府である」と評価.メキシコ,ベネズエラ,ブラジルなどはあいついで新政権を承認.

主要閣僚の顔ぶれ: 首相にホセ・ミロ・カルドナ,外相にアグラモンテ.内相にルイス・オルランド・ロドリゲス(反バチスタで発禁となった新聞社主,正統党員),蔵相にルフォ・ロペス,国立銀行総裁にフェリペ・パソス,大統領補佐官にラウル・チバス.M26からの入閣は国防相のアウグスト・マルティネス・サンチェス,農相のウンベルト・ソリ・マリン,教育相アルマンド・アルト,不正蓄財者財産回収相ファウスティノ・ペレス,法相(新革命法担当相)にオスワルド・ドルティコス・トラドの5人にとどまる.しかしエウヘニオ・アルメゲイダスが警察長官,米国人フランク・スタージスが閣僚級のギャンブル対策担当官に指名されるなど暴力装置を把握.モンテクリスティのカリリョは産業開発銀行総裁に就任するが,プリオ派,DR,メノヨ派,PSPは政権から排除される.

4日 DR,新内閣は一部政党による独占であり,全革命勢力の結集をうたったカラカス宣言に違反と非難.大統領官邸居座りを図り武装を強化.チェはチョウモンと交渉,実力行使を示唆し明け渡しを強制.

4日 英大使は記者の質問に答え、カストロを「マルティとロビン・フッドとガリバルディとキリストをすべて足したような人物」と表現.

1月5日

5日 ウルティア,ハバナの大統領官邸に入り執務開始.18ヶ月以内の選挙,ギャンブルの禁止,「清潔な米国人」のみに居住を認めると声明.最初の命令としてカストロを軍最高司令官に任命.

5日 スミス大使,大統領官邸を訪問.亡命者の安全の保障をもとめる.

5日 コロンビア兵営を確保したカミロ,地方行進中のカストロに合流.首都の状況を報告.

1月6日

6日 ゲバラははDRの妄動を拒否.ゲリラ部隊をハバナ市内の治安維持に出動させる.「家に戻らないものは射殺する」と威嚇し,治安を回復.カストロは革命幹部会を「つねに運動に反対し続けたオポチュニストであり,デマゴギーである」と非難.演説の中で治安維持のため民兵隊の創設を宣言.

6日 PSP,特別声明「バチスタ独裁を倒して前進せよ」を発表.この中で@反乱軍を新軍の核とする,A小作人に165エーカーの土地を分配する,Bキューバ新市場を社会主義国に求める,C40年憲法を回復し総選挙をおこなう,などを提案.

1月7日

7日 米国,新政権を承認.スミス大使は,この決定を公然と非難.

7日 ホテル・リビエラのマイヤー・ランスキー,宿泊客の安全を見届けた後ハバナを離れる.

8日 カストロ,ハバナに凱旋. コロンビア兵営で数万人を前に演説.「盗みや暗殺をしたことのない兵士は引き続き軍にとどまるが,暗殺に加わったものはどんな理由があれ銃殺刑執行隊から逃れることは出来ない」と発言.また,DRによる大統領官邸居座り策動を厳しく非難.DRは武器を引き渡し投降.

9日 共産党、機関紙「オイ」を復刊.ラサロ・ペーニャなど幹部が次々帰国.

10日 ダレス=アイク会談で,ダレスはスミス更迭を主張し認められる.抵抗を続けたアール・スミス米大使辞任.ブラドック参事官がボンサル着任までの代理大使となる.

10日 ディアス・ランス,空軍司令官に任命.スタージスも空軍大尉に任命される.

民主主義革命の時代

59年1月

11 ソ連,革命政権を承認.外交関係は依然断絶したまま.

1.11 全国でバチスタ派幹部と警察に対する軍事裁判が始まる。サンティアゴ・デ・クーバでは、市民虐殺に加担した警官とマスフェレルの私兵団メンバーなど75人が処刑される。

12 アイク,後任大使としてコロンビア,ボリビア大使を歴任したベテラン外交官フィリップ・ボンサルを指名.

1.13 カストロは、「バティスタ体制の全ての悪漢が裁判にかけられる」と断言する。

14 カストロ,プラット修正は完全に消滅した.もう身を売ることもなければ,脅しに屈伏することもない」と発言.はじめて公然と反米的態度を明らかにする.

15 メキシコ市弁護士協会から,大量処刑の問題で,キューバ全国法律学会に対し強い調子の警告.

15 「真実報道作戦」がヤマに達する.数千人が逮捕され公開裁判を受ける.6月までに悪質なもの550人が死刑を執行され,官僚の半分,最高裁判事40名のうち36名がパージ.

16 ヒルトン入りしたカストロ,米国に対しバチスタ派の「戦犯」の送還と彼らが国庫から奪った財産の返還を要求.ヒルトン・ホテル前で市民とカストロとの即席対話集会.群衆の呼びかけに応え「もし米国が海兵隊を送り込むなら,20万人のグリンゴが死ぬことになるだろう」と叫ぶ.

17 ミロ・カルドナ首相,革命後の混乱と軍に対する政府の無力を理由に自発的辞意を表明.フィデルがみずから首相となるよう勧告.

21 大統領官邸前の中央公園(革命広場)で戦争犯罪人を糾弾し米国の干渉に抗議する80万人の集会.人民弾圧に加担し先頭になって実行した者たちの処罰を要求し,摘発活動を中傷する米国内反動層の態度を非難する.

カストロ演説: 「米国人は暴虐の政治を小説や映画の中のことのようにしか見ていないのではないか?これまで米国人がバチスタの犯罪に嫌な顔をするのを見たことがあったろうか?その彼らがなぜ今,合法的な裁判に嫌な顔をするのだろうか」と反論.「敵はわれわれに対する侵略の下準備をしている.中傷の目的はつぎの行動のための地ならしだ」と警告.キューバは政治的のみならず経済的自由も要求するとし,米国の内政干渉を非難.

23 カストロ,みずから政府代表団をひきいカラカスに赴く.空港には2万の群衆が迎える.カストロはベネズエラ国民の支援に感謝を表明する.国務省はこれをカリブにおける米国の覇権に対する「ナセル流の野心」と警戒.ベタンクールとの会談でカストロは3億ドルの借款を申し出るが不調に終わる.

1.23 ハバナのスポーツ・スタジアムで、バチスタ軍元少佐ヘスス・ソーサ・ブランコに対する公開裁判。ウンベルト・ソリ・マリン、ラウル・チバス、ウニベルソ・サンチェスが裁判官を務める。18,000人の観客と300人のリポーターの見守る前で、死刑を宣告。

1.23夜 約100人の黒衣の女性が、反革命家に対する処刑に抗議するデモ。

26 カストロ,プリオの政界復帰を拒否.

26 アレン・ダレス,「山岳地でのゲリラに対して必要なのは対ゲリラ戦であった.戦車や重火器はこのたたかいには無効である」とキューバ内戦を総括する.

27日 米国、キューバから34人の軍事アドバイザーを撤退させる。

30 ロランド・クベラに率いられたハバナ大学医学部学生,校舎を占拠.学部長と評議員を追放.

1.31 ハバナの軍事裁判所、前バティスタ軍大尉ペドロ・モレホンに対し、「暗殺、殺人、強盗、扇動、傷害」の罪で死刑を宣告。

1959年2月

2 共和国基本法(憲法)が公布される.40年憲法を復活させ、一部手直ししたもの。40年憲法は52年のバチスタによるクーの後、効力を停止されていた。

2 ロランド・クベラ,大学学生連合委員長に就任.学園内の「大掃除」を宣言.

3 サンチアゴに飛んだカストロ,五年以内に国内から失業者がいなくなるだろう。キューバの生活水準が数年内に米国やソ連を追い抜くだろうと演説.

5 大学学生連盟,ハバナ大学全体を占拠.バチスタ派教授を追放し,講義の民主化に着手.

6日夜 カストロ,MR26右派の拠点,ハバナのシェル石油労働組合の集会で演説.演説は全国にテレビ放送される.カストロは,スト戦術をもてあそぶ革命騒ぎを戒め,当面もっともきびしい課題となっている農業改革への支持を訴える.具体的には

@貧農,事実上の農業奴隷を農業改革によって救済,
A農村から都市への失業者の大量流入の防止,
B農村の購買力向上による国内消費市場の開発,
C関税制度の改革による国内工業の保護とドル流出の防止を訴え,
労働者階級にとっても農業改革が最大の課題であることを強調.

7 政府,チェ・ゲバラを共和国市民として承認すると発表.公職就任の道を開く.M26左派,ゲバラの静養地であるハバナ郊外のタララに「革命計画調整局」を設立.最高責任者はアントニオ・ヌニェス・ヒメネス,幹部にゲバラ,アルフレド・ゲバラ,ビルマ・エスピン,オスカル・ピノ・サントス,セグンド・セバリョス,セリア・サンチェスらが名を連ねる.カストロのための「影の内閣」として農地法の抜本強化,革命法の強化案を検討.

9日夜 カストロ,PSPの拠点である全国砂糖労働者組合で演説.@砂糖生産の確保,A国産品奨励による工業の保護と外貨節約,B農業改革への早期着手,が革命成功のためさし迫った課題であることを強調.百万の失業者の雇用の問題が最大の懸案であり,カジノの閉鎖は現在は出来ないと表明.

11 キューバ国務省,バチスタ軍の訓練にあたっていた米三軍の顧問団の即時撤退を要求.顧問団は同月内に撤退完了.

12 カストロ,観光会社の圧力に妥協し,カジノ再開を認める.ただし重い課税,「片腕の海賊」やスロットマシンの禁止,係員や出入りの米国人は米大使館から「善人」であることの証明書を貰うことなどを条件とする.ウルティアはこの決定に抗議して辞表を提出するが慰留される.

13 ミロ・カルドナはカストロに地位を譲り辞任.駐西大使に転出.

15 米国内で革命裁判にたいする批判が強まる.カストロ,ロータリークラブで演説.「何者もこの地に介入できない.なぜなら,主権とはわれわれに与えられた行為ではなく,国民として当然の権利だからである」と発言.

16 カストロが首相に就任.大統領官邸前の大衆集会で数十万人を前に演説。「もし米国がキューバとの良好な関係を望むのなら,最初になすべきはキューバの主権を尊重することである」と発言.

24 カストロ,サンチアゴで演説.革命政府が農民のための包括的な土地改革法の準備をしていることをあきらかにする.

2.22 ハバナ市内でマスフェレルの私兵団メンバーと警官隊が銃撃戦。2人の警官と一般人が傷つく。

2.28 カストロ、総選挙が2年内に行われると発表する。

2月 キューバのエージェントのロリエ,ベルギーに900万ドルの武器を発注.

1959年3月

3 政府,クーバ電話会社(ITTの子会社)を管理下におき.電話料の23%引下げ実施.その後生活必需品の価格統制,バチスタ派の私財没収,公務員に対するヤミ手当や幽霊公団の廃止,税制の改革など矢継ぎ早に実施.

5 共和党内の思惑で発令が遅れたボンサル新大使,ハバナ着任.信任状提出を前にコヒマルにカストロを訪れ会談.

5 グラウ・サンマルチン元大統領,米国にグアンタナモの海軍基地を返還するよう要求.

6 カストロ,テレビ演説で「米大使と心からの友好に満ちた対話をした」と発言.さらに4月に新聞協会の招きで米国を訪問する予定と発表.悪化する米国の感情に配慮.

6 家賃法制定.市内の空家の強制売却を指示,家賃の3〜5割引下げ実施.米国人しか入れないバーや専用海岸の一般国民への解放も実施.

7 カストロ,反革命分子が米国の援助を受け武装組織を準備していると警告.

10 米国家安全保障会議秘密会議を開催.キューバ革命後の対応について協議.カストロ殺害の可能性,「キューバに別の政権」を樹立させる可能性も検討される.

13 カストロ,ハバナの大衆集会で総選挙を提起するが,大衆は「選挙よりもまず革命を」と議会制度そのものの廃止をもとめたという.この結果選挙は無期限延期となる.

3.19 「レボルシオン」紙、処刑行動の終了をもとめる。この日までに「戦犯」483名が銃殺隊によって処刑された。

19 トニー・バローナ,家賃法を非難.法秩序の「復活」と60日以内の総選挙を要求.

20 CIA評価委員会のキューバ問題特別調査班,「カストロはモスクワ志向型の共産主義者ではない」との結論.A.ダレスはこの報告を握りつぶす.

3.24 聖週間が始まる。この間、軍事裁判と処刑は停止される。

3.26 反革命分子によるカストロ暗殺計画が摘発される。ロランド・マスフェレルとエルネスト・デ・ラ・フェが企てたとされる。逮捕者はロベルト・コラル・ミラモン(喫茶店のオーナー)、ロベルト・ロペス・パス(前バティスタ軍兵士)、ロベルト・ペレス・メレンス、ホセ・ソーサ・モヘナとアンドレス・アランゴ・チャコンの5人。

26 アレン・ダレス,「カストロがもっと協調的姿勢を示さないと,議会は砂糖割り当てを削減することになる.そうなるとカストロは困ったことになろう」と脅迫発言. 

3月 トルヒーヨ,カリブ海諸国のもとめに応じていつでも派遣できる「反共特殊部隊」構想を公表.カストロはこれに対抗し「我が国こそLAの革命の源泉であり,トルヒーヨ打倒のために義勇軍を募れば,誰一人キューバの島にとどまろうとするものはいないだろう」と発言.

3月 エスカンブライ第二戦線のメノヨ,ひそかにトルヒーヨと連絡をとり反カストロ武装行動を計画.

3月 カストロ,米国内での革命裁判批判に対し記者会見を開き反論.「かりに米国人がキューバで起こっていることが気に入らないというのであれば,海兵隊でも上陸させればよい.その場合には20万人もの米国人が命を落とすことになるだろう」と発言.

3月 M26機関紙「レボルシオン」,文学や芸術を扱う「ルネス」(月曜版)の発行を開始.ラウルやゲバラの日記,マルクス・レーニンに冠する評論,トロツキーやサルトルなどを次々と掲載.

1959年4月

2 カストロ,テレビ記者会見.キューバは徹底して民主主義を守るし,共産主義者の政治的自由も守るが,その故にこそキューバは共産主義ではないし,第二のグアテマラにはならないと声明.反共宣伝を反革命の前触れとして警戒するよう呼びかける.

4.08 マリフアナ密売人エリベルト・ベルテマティ・ロドリゲスに対して死刑が宣告される。

9 カストロ,ハバナで演説.当分の間選挙を延期すると発表.「真の民主主義は腹を空かせた人とたちのあいだからは生まれない.民衆の最低生活が実現でき,民衆が読み書きできるようになり,自分の権利と義務を知るようになって初めて真に民主的な選挙を行うことが出来る」と発言.

4.13 カストロ暗殺計画に関わったアラン・ロバート・ナイ(Nye)に対する公判。7時間の審議の末に死刑の判決。ただし米国に帰ることを条件に刑の執行を留保。ナイについては別レポートをご参照ください。

14 ボンサル大使,カストロと会談.「冷戦のただなかにいる今,キューバが中立主義を打ちだそうとしていることに,米国は深い憂慮をおぼえる」と警告.同時にワシントンへは「民衆が政治をただしカストロを叩き出す可能性があり,銃砲をかまえる必要はまだない」と報告.

15 カストロ,米新聞編集者協会の招きで,10日間にわたり米国を非公式訪問.ルフォ・ロペス蔵相,フェリペ・パソス国立銀行総裁,レヒノ・ボティ経済相などが同行.セントラル・パークで3万人の聴衆を前に演説するなど各地で熱狂的な歓迎.国務省は自らの承認を得ない勝手な行動に不快感を表明.上院外交委員会では「両国の完全な平等のうえに初めて友好関係が実現するだろう」と発言.国連関係者との会見では「キューバ革命は”輸出向け”ではない」と発言.アイクは対面を回避しジョージアにゴルフにでかける.

19 カストロ,ニクソン副大統領と非公式会見.「われわれは共産主義者ではなく,共産主義に賛同もしていない」と述べる.即時選挙実施の質問に対しては「飢えと失業と不正義をなくすことなしに民主主義は実現しない」と拒否.ニクソンはカストロを「共産主義に対して余りにもナイーブ」と評し,会談後,カストロ打倒をアイクに進言.そのためのキューバ人ゲリラの養成を提唱.

19 カストロ,CIA関係者の要請でフランク・ベンダーと非公式会見.ベンダーは本名ゲリー・ドレチャー,第二次大戦中に亡命したドイツ人.CIAの中南米反共ネットワークのフィクサーを務めていた.

21 政府,バラデーロなどのプライベート・ビーチを国民に解放.

22 パナマ革命行動運動(MAR),キューバでの訓練のあとベラグアス県に上陸.タバサラ山地のエルトゥーテ山にたてこもる.OAS,潜入部隊のうち87人がキューバ人と発表.米国の武力援助により鎮圧.

23 カストロ,ニューヨークの外交会議で演説.「キューバ経済の健康を回復するため,民間資本の受入れには慎重に対処する」とし,「民間資本に頼るのは,ガンを治すのに赤チンを塗るようなもの」と発言.

26 カストロ,米国訪問に引続き2週間にわたり南米歴訪.

4月 カマグエイ司令官ウベルト・マトス,反乱軍の機関誌「ベルデ・オリボ」を舞台とした共産主義者の活動を批判.

1959年5月

1 ゲバラ,サンチアゴで土地改革に対し人民の支持を訴えるメーデー演説.

5.02 ブエノスアイレスで第1回の「21カ国経済会議」が開かれる.クビチェックの提案に基づくもので,経済・開発問題に絞った中南米21カ国の首脳会議.初の国際会議に出席したカストロは,LA共同市場の創設を提案.「社会暴動が共産主義政権の誕生につながるのを防ぐため」,米国に対し10年間で300億ドルの対LA包括援助を要求.

カストロ演説のさわり
ある国が政治的に不安定であるとすれば,それは低開発の原因ではなく結果である.その国が民主的に改革を進めようとしても,財源がなければ政治的混乱に陥らざるを得ない.投資家はそれを嫌うだろう.彼らは民主的政権による混乱よりは軍事政権による安定を望むだろう.
果たしてアメリカの言うように投資条件を整えることと民主主義的制度は両立しうるのだろうか.もし両立しないのなら,武力によってでも投資環境を整え,民主的理想は捨て去るべきなのだろうか.

7 カストロ,OAS総会からハバナに戻る.空港でボンサル米大使と会見.両国関係の修復に向け会談を行うことで合意.

17 カストロ,農地改革法に調印.第一次農地改革法公布.土地の所有を最大四百ヘクタールに制限.個人でも会社組織でもそれ以上の土地は保有できないこととなる.借地農,不法占拠農民の土地所有権を認める.接収された土地と国有地の協同組合への移譲.外国人の農場経営禁止などをもりこむ.内容は穏健だが,いっさいの抜け道を塞いだ実施要綱.この時点で米国の5大砂糖会社はキューバに2百万エーカーの土地を保有,可耕地の3/4が外国人の手に.農地改革法前文.「キューバ農業の発展とは,自然資源のいっそう有効な利用と産業の成長,多角化を意味する.それはキューバの低開発の原因である単一作物生産方式の克服を意味する.大土地所有制と,その下での粗放耕作に代えて,集約耕作,先進技術の利用にもとづく大規模生産,そしてそれを可能にする協同組合方式がわれわれの希望である」

17 農地改革の実施を保障する機関として農業改革局(INRA)設置.「革命計画調整局」のスタッフがそのまま横滑り.農業協同組合の監督権,農村における保険,住宅,教育,金融などについて「必要な一切の措置を命令し,実施する」強力な権限を与える.農業にとどまらず工業部門も創設するなど,事実上第二の内閣を形成する.カストロが総裁に,アントニオ・ヌニェス・ヒメネスが事務局長に就任.ヒメネスはもと大学教授でシェラマエストラのゲリラに参加した司令官の一人.ゲバラを先頭とする軍左派が全面支援.ゲバラはみずから工業化部長に就任.INRAの予算で10万人の民兵隊が創設され,砲兵学校,対空,対戦車砲隊が新たに組織される.INRAは高速道路の建設,農民住宅に投資し,接収した農場を管理するようになる.評価をめぐり政権内部の矛盾強まる.ウルティアはラウルが共産主義者に担がれ政権奪取を狙っているとして,フィデルにラウル解任を迫るが,カストロは拒否.

21 カストロ,農地改革に対する批判に応え「われわれの革命は資本主義的なものでも,共産主義的なものでもない」と表明.

22 PSP合法化.ブラス・ロカ書記長は全国委員会総会で,革命を「愛国,民主,民族,農業,人民進歩」革命と規定,カストロ支持を表明.一方カストロは全国TV放送で「PSPが賃上げを扇動し,反革命行為をあおっている」と非難.M26は労働総同盟に対抗しサルバドルを議長とする労働ヒューマニスト戦線を結成.

25 PSP最大の拠点,砂糖労働者全国同盟が定期大会開催.役選ではM26が圧勝,PSPは全滅.大会はPSPを非難する決議を上げた後PSP本部へ反共デモ.

5月 ニクソン,ペプシ,スタンダード石油,フォード自動車,ユナイテッド・フルーツ社の代表と会見.大統領戦での支援を要請するとともに,当選後にキューバ政府を転覆すると密約.

1959年6月

4 土地改革法実施.政府,米国資本の米砂糖会社の所有地260万ヘクタールなど1年間で全農地2800万エーカーの4割にあたる1300万エーカーを接収,10万家族に土地を分与.1400の農業協同組合,2千の「人民の店」,1200の専門学校を設置.これにより半封建的な大土地の所有は消滅.さらにINRAは独自に10万の民兵を組織.

5 ドミニカのキューバ大使館,暴徒により襲撃.館員二人が負傷.

5 フロリダ選出のスマザース上院議員,キューバ糖の輸入割り当てを削減するよう提案.

6 新教育法制定.カトリックの経営する学校を公立に変える方向を打ち出す.

9 サンチアゴで爆弾テロ発生.14人の反革命陰謀グループが逮捕される.その後爆弾テロはハバナ,カマグエイへと拡大.

10 ハイチでキューバ大使の公用車に機銃掃射.大使は難をまぬがれる.

11 米政府,ボンサル大使を通じて農地改革法に抗議.「キューバ政府が国際法の下で公共目的のために外国資産を接収する権利を否定するものではない」が,農地接収に対する補償を適正なものとしすみやかに支払うよう要求.首相官邸を訪れたボンサル大使に対し,カストロは「米大使が来たからといって首相が要らぬ心配をするような時代は終った」と発言.

12 M26右派のソリ・マリン農相,正統党のアグラモンテ外相,ルイス・ロドリゲス内相,フリオ・ペレス保健相,エレメ・メデロス厚相の5閣僚,ペドロ・ルイス・ディアス・ランス空軍司令官らが土地改革法の修正を要求し辞任.ソリマリンの後継農相にはM26生え抜きのペドロ・ミレト.

14 キューバ政府,米国の抗議を拒否.「即時の補償は不可能であり,土地所有者は政府公債を受け入れるべきである」と返答.

14 亡命ドミニカ人・ゲリラの乗ったベネズエラ国籍C・46機(一説にDC4),キューバを出発.ドミニカ軍機を偽装しトルヒーヨの別荘所在地コンスタンサの飛行場に強行着陸.56人が空港での交戦後山中に入り武力抵抗.2日後に敗北し全員逮捕.

18 キューバを出発したゲリラの舟艇部隊約250名(一説に140人),ドミニカ北部海岸のマイモン,エステロオンドに上陸する.進攻部隊はキューバ人2人をふくむ5名の捕虜を残して殲滅.参謀役のキューバ人デリオ・オチョアも逮捕される.トルヒーヨ,亡命キューバ人を集めカリブ反共産主義軍の国内での軍事訓練開始.

26 キューバ,ドミニカと断交.

27 ウルティア,テレビに出演し共産主義への反対を表明.カストロは「共産主義と呼ばれたくないからといって反共主義を唱えるのは,必ずしも尊敬できる行為とは言えない.共産主義を容認するものではないが,共産主義者も革命の同盟者である」と反論.

29 ディアス・ランス空軍司令官,ヨットでマイアミに亡命.カストロ,国家経済の撹乱者は死刑に処すると声明.

30 ウルティア,ディアス・ランスの裏切りを非難.カストロとの不仲説を否定する一方「政府内には共産主義者は断じていない」と強調,間接的にカストロの容共姿勢を牽制.

6月 ゲバラ,3ヶ月にわたる世界歴訪に出発.ソ連では50万トンの砂糖購入契約を締結.また今後5年間,毎年50万トンの砂糖と石油,小麦,科学製品とをバーターする契約も締結.さらに長期借款協定の締結にも成功.

1959年7月

2 トニー・バローナ,マイアミに亡命.反カストロ・キャンペーンを開始.

3 カストロ,テレビで演説.「共産主義と呼ばれたくないからといって共産主義者を非難するのは,必ずしも尊敬できる行為とは言えない」

13 ディアス・ランス,上院国家安全保障小委員会でキューバにおける「共産主義の浸透」について証言.「カストロは共産主義者であり,国の支配のすべてを共産主義に委ねてしまった」と攻撃.

13 ウルティア大統領,テレビの会見で「共産主義者がキューバに恐ろしい害を与えている」と非難.

16 大臣の大量辞任に対し内閣改造.ウルティアはカストロに対しPSPとの絶縁,ラウル,ゲバラなど左派の排除を要求.ポストの配分をめぐりカストロとウルティア大統領との反目が表面化.

16 カストロは「レボルシオン」紙に辞任を発表.午後8時20分から2時間にわたるテレビ演説で「ウルティアは革命的な法律の成立を妨害した.さらにディアス・ランスと接触し,キューバの革命家に「共産主義者」のレッテルを貼り外国からの攻撃を誘った」と非難.同時に「共産主義は自由を抑圧するものであり,自由をみずからの大義とみなすわれわれと相容れるものでない」と主張.目下の問題をめぐり大衆に支持を訴える.放送終了後ただちにウルティアは辞表を提出.

17日 アルマンド・アルト教育相を議長に政府閣僚会議が開催され,ドルティコス法相を後任大統領に選出.

オスバルド・ドルティコス・トラド: シエンフエゴスの弁護士で,元全国法律家協会副会長.ドルティコスは30年代後半に共産党の学生委員会に参加した経験があり、M26内では親共左派を代表する一人とみられていた。
革命中は9月蜂起に参加して捕らえられ,釈放後M26に参加.シエンフエゴスの責任者としてエスカンブライ戦線の後方支援にあたった.カストロはミロ・カルドナを大統領に推薦しようと考えるが,ゲバラらの説得によりドルティコスの就任を承認したという.

23 労働総同盟,カストロの首相復帰を求めるゼネストを提起.各地の農民がハバナ市内をカストロ支持のデモ.

26 革命広場で百万人集会.カストロは首相復帰を承諾.

7月 ゲバラの「ゲリラ戦争」が出版される。

7月 ゲバラ工業相,キューバ政府特使として各国歴訪中に日本を訪れる.池田通産相などと会談.「かつてグアテマラで起こったアメリカの介入やクーデターなどの事態は,キューバでは起きないだろう」と発言.その後秘密裏に広島の原爆資料館を訪問する。

7月 プリオ,ホセ・アレマン・グティエレスら,キューバを離れフロリダに向かう.真正党は国内に秘密組織「救援隊」(レスカテ)を結成.

7月 NYでソ連見本市.出席したミコヤン副首相兼貿易相と列席したヌニェス・ヒメネスINRA事務局長はハバナで見本市を開く可能性について話し合ったとされる.

1959年8月

4 マイアミ空港に寄港中のキューバ機2機が破壊される.

7 キューバのカトリック教会,司牧教書を発表.カストロの非民主的姿勢を非難.

8 キューバ当局,ホテル・ナシオナルなどのカジノをあいついで接収.滞在中のトラフィカンテとランスキーの弟ジェーク・ランスキーを麻薬密輸の疑いで逮捕,トリスコルニア外国人収容所に収容.その後ジャック・ルビーの工作により釈放され,国外追放処分を受ける.マイアミに本拠を定めたトラフィカンテはCIAやキューバ人亡命者との関係を利用し麻薬密輸で急成長.

10 ドミニカの放送局,キューバ人民に反革命をよびかける.

10 サンチアゴでOAS外相会議開催.第一議題のトルヒーヨによるベネズエラ大統領暗殺未遂事件では,全会一致でドミニカに対するドミニカに対する武器禁輸と国交断絶を決議.第二議題の「中南米における共産主義浸透増大とその対策」では,米国が「キューバは中南米全域に共産主義革命を拡大させるためゲリラ部隊を訓練している.中南米諸国はこの脅威を放置すべきではない」と訴える.キューバのロア外相は「ソ連と友好関係を維持したからといってキューバの主権が損われることはない.キューバは米国と紛争解決のために話し合う用意がある」と反論.結局,キューバを暗に非難し「米州の理想とする代議制民主主義の原理」と人権尊重の主張を入れたサンチアゴ宣言を採択.キューバはこの決議に抗議.メキシコなど8ヶ国は,キューバの受入れ可能な決議に変えるよう要求,さらに民主制の確立,内政不干渉の原則も折り込むべきと主張.これらの併記を認めさせる.

13 マイアミから武器・弾薬,ドミニカから雇い兵を積んだ大型機がキューバ中部に着陸.政府軍の反撃により捕獲.バチスタ派の将兵やトルヒーヨの募集したスペイン人傭兵が大量に逮捕される.

14日 一説によれば、政府当局は反乱を企てたとして約4,000人を逮捕。

20 キューバ政府,米企業の経営するキューバ電力会社に対する料金支払いを3割削減.

8月 CIA,ラテンアメリカ危機に対応する「影の軍隊」を作るようアイクに進言.亡命キューバ人に飛行機からの反共ビラ撒布を指示.

8月 エスカランテ,党創立34周年記念式典で演説.PSPは一貫してカストロの闘争の支持者であったと強調.ただし具体的な事実はいっさいなし.

1959年9月

8 ゲバラ帰国.

14 ハバナのコロンビア兵営,学校に衣がえするため教育省に引き渡し.

9月 中立系の「ボヘミア」紙による世論調査.国民の90%が革命を支持,革命反対は1.3%にとどまる.

9月 キャンプ・デービッドでアイクとフルシチョフの会談.「平和共存」路線をうたいあげる.

9月 CIAは侵攻に備え,すべての情報関係部署にキューバ関連の情報提供を求める.フィリップス,CIAのハバナ担当員として赴任.大使館員は名乗らず,市内にフィリップス商会を設立.近くのベルリッツ会話学校を隠れ蓑に,反バチスタ反カストロ派の組織にあたる.のちにアルファ66のリーダーとなるアントニオ・ベシアーナもこの時期フィリップスにリクルートされる.

9月 民兵隊に手渡すためFAL小銃など大量の兵器がベルギーから輸入される.元バチスタ軍将校のホセ・ラモン・フェルナンデスがヨーロッパ諸国を回り,武器購入に奔走.

9月 スタージス,サンチアゴのCIA支局と連絡を取りながらキューバを脱出.ディアス・ランスと合流.カストロの愛人マリア・ロレンツ,スタージスの手引きにより反カストロ・グループに加入.

9月 カストロ「単一の産品である砂糖,単一の市場である米国への依存という構造を変え,経済と市場を多様化する正しい政策をとらなければならない」と発言.

1959年10月

10.7 カストロ,ゲバラをINRAの産業局長に指名.

10.07 PSP大会開催.党綱領改訂.ソ連共産党と中国共産党を同列に置き,毛沢東の路線を支持.親ソ派のCRロドリゲスは「オイ」編集長に格下げ.ブラス・ロカ書記長「さまざまの民主的,民族解放的諸課題がすでに実現され,その他の課題が進展しつつある以上,党のあたらしい綱領が必要である」と述べ,「今日,革命の指導権をにぎっているプチブル急進派のもっとも進歩的な部分は,将来プロレタリアートに進化していき,社会主義的観点を取り上げ,社会主義革命への移行過程のなかでも先進にとどまるであろう」と述べ,社会主義への発展の見通しを示す.PSP,中国国慶節にエスカランテを代表とする代表団を派遣.

10.11 ピナル・デルリオとカマグエイに,10日間のあいだに3回にわたり空襲.ピナル・デル・リオのナイアガラ精糖工場に爆弾2発を落とす.砂糖畑に被害.キューバは防空作戦実施のため,イギリスにジェット戦闘機を発注.

10.16 米国,イギリスのキューバへのジェット戦闘機輸出計画に抗議.イギリスはのちに計画を撤回するが,米国の干渉との関係は否定.

10.16 アレクサンドル・アレクセイエフ,ハバナ市内のホテルでカミロと接触.カストロへの紹介を許される.アレクセーエフは前アルゼンチン駐在一等書記官(後に第二代キューバ大使),キューバへはタス通信記者の肩書きで入国.

10.17 カストロ,ゲバラとともに親共派とみなされていたラウル・カストロを国防相に任命.アグラモンテ辞任後空席となっていた外相には米州機構大使のラウル・ロアが就任.ラウル・ロアは30年代に学生左翼で活動し,一時共産党にも加入したがその後は反ソ派.国民革命運動に参画した後M26に参加,左派の一員として活動.アウグスト・マルチネス・サンチェス国防相を,M26右派のマヌエル・フェルナンデスに代え労相に任命.

10.17 FEU役員選.前執行部は工学部学生のペドロ・ルイス・ボイテルを推薦.ボイテルはクーデター以来の闘士.革命成功後,亡命先のベネズエラから帰国.自治会の再建に努力した.カストロ派はDRのロランド・クベラを医学部に入学させ,議長候補として立起させる.クベラはラスビリャスでゲバラとともに戦い,革命後はプラハ駐在武官として派遣されていた.カストロ,全学連選挙当日にあたり,レボルシオン紙に声明を発表.革命防衛のためすべての人々が団結すること,そのため学生は犠牲的精神で奉仕するよう呼びかける.事実上,クベラへの投票を促す内容.

10.19 カマグエイのアレグレ精糖工場に2発の爆弾が落とされる.

10.19 空輸作戦の殊勲者でカマグエイ州の軍司令官ウベルト・マトス少佐,「共産主義者の影響力の増大」に抗議し辞任。ラウルの国防相就任に反対し部下数十人とともに辞表を提出.マトスはディアス・ランスと近い関係にあり,みずから大土地を所有.

10.20 マトス,公然たる反乱を組織し始める.カマグエイ州の将校のほとんどと労働総同盟指導部がマトス支持に回る.M26機関紙「レボルシオン」編集長カルロス・フランキらもこれに加わり,カマグエイの学生組織は21日のマトス支持集会をよびかける.左派の拠点INRAは、農地改革を妨げようとする地主層と結託した陰謀として公然と断罪.民衆は市内でマトス糾弾デモを開始.

10.20 ロランド・クベラ,大学学生連合委員長に当選.ボイテルは立候補を辞退するが,かなりの批判票を集める.クベラは大学の管理権移譲を教授会に迫る.

59年10月21日 マトスの逮捕劇

8:30am カミロ・シエンフエゴス,カストロの指令を受けカマグエイに急派.双発のセスナ機でカマグエイに到着.マトスとの面会を求める.軍はカマグエイ郊外の要衝を確保.

10:00am カストロ,カマグエイ市内に進入.丸腰のまま民衆に「兵営に向かえ」と呼びかける.

0:00pm マトス,シエンフエゴスとの会談の後,無抵抗のまま降服.武装農民はマトス派の将校ら38名を逮捕.

4:00pm 空軍機,マトスと15人の将校を乗せハバナに到着.カバーニャス基地に拘留される.

6:00pm ディアス・ランスとフランク・スタージス,マトスと呼応し,マイアミからB25爆撃機でハバナ市街を空襲.開催中の全米旅行業者年次総会におけるキューバの権威失墜を狙う.第一波ではビラを撒き,第二波では道路を機銃掃射.第三波で群衆めがけて手りゅう弾を落とす.二人が死亡,45人が負傷.その後,数次にわたりハバナ爆撃.30名が死亡,50名が負傷.ディアス・ランスはFBIの捜査に対し,ビラをまいただけと強弁.

革命急進化の時代

10.22 ラスビリャスで走行中の旅客列車を飛行機が機銃掃射.列車には乗客が満員だった.

10.24 カストロ,ハバナ空襲など一連の事件に関連し米国を非難.当局はマトスの陰謀に加担したとして,アドバンス紙とディアリオ・デ・ラ・マリーナ紙を発刊停止処分.

10.25 オリエンテ農地改革委員会議長のマヌエル・アルティメ,カマグエイ事件をきっかけに反カストロ闘争に立ち上がる.シェラマエストラにたてこもるが敗北.ハバナのイエズス派教会に駆け込む.アルティメは元PSP党員を父に持つ精神科医.農民運動に参加する中でM26に加入した経歴を持つ.

10.26 カストロは百万人を集めたハバナ爆撃抗議集会で演説.「外国の独占企業は,キューバの利益にならないことをしている.だから彼らはわれわれの革命に対し中傷活動をおこない,内外の敵をすべて結束させようとしているのである」と米国を公然と非難.労農学10万人よりなる武装民兵制を提起する.これは全国革命民兵組織(MNR)に発展.

10.26 ニ機の軽飛行機がナイアガラとビオレータ精糖工場を空襲.

10.27 シエンフエゴスの単独操縦するセスナ機,カマグエイからの帰路行方不明となる.カストロが捜索の陣頭指揮にたつ.

10.28 トルコと米国,核弾頭ミサイル「ジュピター」15発のトルコ領内配備で合意.

10.29 新鉱業法公布.米国系企業の利権廃棄,米国系鉄鋼・鉱山会社所有地接収を規定.

10.30 大学当局はFEUとの学内共同管理案を受諾.運営の実権はFEUが握ることとなり,自治は形骸化.クベラは学生民兵隊を組織するいっぽう,ラテンアメリカ各地の学生組織との連携強化に努める.クベラは高級車にいかがわしい女性を乗せて走り回るなど,この頃から革命の威信に傷を付ける.ボイテルは後に反革命分子として逮捕され,獄中でハンスト死を遂げたと言う.FEU代表団,中国を訪問.

10月末 アレクセーエフ,ヌニェス・ヒメネスに伴なわれゲバラやカストロら要人と会見.ミコヤン副首相列席の下ソ連見本市を開催することで意見の一致を見る.カストロは国交回復は時期尚早と判断.「レーニンが言っているように,国民と政府は共にあらねばならない」と付け加えたという.

10 アイゼンハワー大統領,キューバへの秘密作戦を定めた国務省とCIAの計画を承認.この計画には海と空からの襲撃作戦,国内の反革命ゲリラへの支援が盛り込まれていた.(カークパトリック文書による)

1959年11月

3 M26機関紙「レボルシオン」,ソ連との貿易拡大をのぞむと主張,ソ連貿易博覧会の開催とこれにあわせたミコヤンの訪問を提案.政府は,メキシコ滞在中のミコヤンに訪問を正式招待.

5 CIA副長官C.P.カペル将軍,上院国内安全小委員会で証言.「キューバの共産党員はカストロを共産主義者とはみなしていない」

5 米国務省,カストロ転覆のためキューバの反対勢力に対し支援要請.政府はカストロの反米姿勢がLAにおける米国の権威を傷つけ,共産主義者の利益となると判断.キューバ国内の反カストログループに,革命を挫折させるようはたらきかけることをきめる.ジェームズ・ノエル,CIAの現地トップとしてハバナの米大使館に赴任.30名の部下を率いて反革命運動の組織と訓練に当たる.

7 アルティメ,潜伏先のイエズス教会から「アバンセ」紙にカストロ宛の公開質問状を投稿,一面に掲載される.その後アルティメはCIAの意を受けた神父の協力で米大使館に亡命.

8 各労組が一斉にCTC第10回全国大会の代議員3500名を選挙.全国各地で150万人の労働者が投票.その結果M26派が代議員の9割を獲得.タバコ労働組合からはPSPのラサロ・ペーニャらが選出されるが,M26は選挙の不正操作と抗議.アウグスト・マルティネス・サンチェス労働相がみずから調査に乗り出す.

13 米政府,英政府に対し,キューバに戦闘機15機を売却しないよう圧力をかける.

18 第10回労働者総同盟全国大会開催.カストロは歓迎あいさつの中で「革命の防衛だけが唯一の基準であり,統一と団結は労働者の義務」と強調.PSPをふくむすべての党派の労働者が団結するよう訴える.ORITからの脱退を決議.大激論の末,給料の4%を経済発展のため拠出する決議を採択.役選ではPSP幹部のラサロ・ペーニャ書記長が更迭されるとともに,多数派を占めていた「ムハール主義者」は一掃される.ダビド・サルバドルが書記長に就任.執行委員全員がM26メンバーで占められるが,7人がカストロ派,残りの20人は反共主義者.

20 革命裁判所設立.一般裁判とは別に,反革命活動に対する裁判を管轄することとなる.

22 PSP党員の執行委員会入りについては,カストロの強い意向を無視して33産別のうち27が拒否.「慎重さも団結もなにも立証しなかった…労組幹部の利己主義と革命への無関心」を批判したカストロ演説にはM26右派代議員から野次が集中.激怒したカストロは大会を「恥ずべき見せ物」と非難.

26 政府の左傾化に抗議し平原派指導者のファウスティノ・ペレスとマヌエル・ライ公共事業相が閣僚を辞す.

26 INRA工業化部長ゲバラ,国立銀行総裁に就任.フェリペ・パソス前総裁はスペイン大使に転出したあと米国に亡命.ヒメネスINRA事務局長はゲバラが国立銀行総裁に就任するとその副総裁になるなど,政府機関に進出し従来の閣僚スタッフにとって代わるようになる.通貨残高を64%増加させるなど調整インフレ政策により資金を捻出.一方で投機を厳しく制限することで市場の安定化を図る.フォートノックスの保有金を売却し,スイスとカナダの銀行にあらためて預金.

26 ゲバラの副官ラミロ・バルデス情報管理総本部(DIER)の長官に就任.DIERは軍事情報と秘密警察を統括する部署.次官にはマヌエル・ピニェイロ・ロサダが就任.社会主義路線が明確になると同時に,十万人を越えるキューバ人がマイアミに亡命.その多くは中間層労働者.

28 カトリック教会,議会の再開を求める集会.20万人が動員される.カストロは集会に出席し,早期選挙を約束.

29 キューバ新石油法公布.石油精製会社への統制を強化.政府へのロイアリティーは10%から60%に引き上げられる.新鉱業法公布.米系企業の接収決定.米政府硬化.

1959年12月

12.1 ソ連博準備のため,政府関係者が入国.

12.9 マトスにたいする公開裁判開始.コロンビア基地内の映画館が会場となる.セルヒオ・デル・バジェ少佐が裁判長に.他ウニベルソ・サンチェス,ギジェルモ・ガルシア,デルミディオ・エスカロナ(ピナル軍司令官)が判事を務める.5日後の判決でマトスは懲役20年の刑に.

12.10 ハーター国務長官「もしキューバが静かな状態にならなければ,キューバ糖の割り当てについてなんらかの行動をとるかもしれない」と示唆.ヨーロッパ歴訪中のヌニェス・ヒメネス農業改革局長の交渉に圧力をかけ失敗させる.

12.11 CIA西半球部長J.C.キング大佐,A.ダレス宛に秘密勧告書を提出.「フィデルの排除に徹底した考慮を払うこと.たとえば弟のラウルにせよ仲間のチェにせよ,一般大衆に対してフィデルほどの催眠的な魅力は持っていない.多くの消息通によると,フィデルの消滅(CIA用語で殺害)は現政権の没落を大いに加速させるものと信じられている」と述べる.ダレスはこの報告に基づき,アイクに対し「カストロ抹殺に十全の配慮をたまわりたい」と勧告.キングは陸軍情報部(MIS)出身でCIA内部でもタカ派として知られる.彼の背後にはトゥルヒーリョの親友と自称するフランク・ベンダー(別名ボールディング将軍)がいて,アイビー出身のリチャード・ビッセルに対抗.

12.12 キューバ政府,翌年始めにハバナでソ連博が開催されると発表.

12.15 フルシチョフ,ハバナでソ連貿易博を開くため準備使節団を送ると発表.

12.16 カストロ,もし米国が砂糖の輸入割り当てを停止すれば,キューバは産業の国有化をおこなうだろうと発言.

12.17 軍当局、クリスマスの期間中に、反革命分子に対する処刑を中止すると発表。

12.23 不動産投機禁止法制定.

12月 国家安全保障会議はみずから秘密活動担当委員会(通称5412委員会)のなかに対カストロ工作を研究する特別グループを編成するいっぽう,CIAにたいしキューバ政権転覆の計画立案を指示.CIAは亡命キューバ人を準軍事組織に組織し,キューバ国内に潜入させ,反カストロ派の指導権をとる計画を策定.CIA内にも「機動班」が編成され,リチャード・ビッセル作戦担当副長官(元エール大学教授)が担当となる.ビッセルも秘密工作の実際をフランク・ベンダーに依頼.

1959 米軍,イタリアとトルコにミサイル基地を建設することを決定.アイクは「ソ連が,メキシコやキューバにミサイル基地を作ることと同じくらい挑発的な行為だ」と批判.

 

 

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