ゲバラの最後のたたかい
1966年
5 ゲバラの側近ハリー・ビジェガス,ゲリラ部隊の参謀となる.ビジェガスはシエラ・マエストラ以来のゲバラの副官.コンゴでの作戦にも参加.スワヒリ語の偽名「ポンボ・ポホ」をそのまま用いる.
8 ポンボがボリビアに到着.共産党のマリオ・モンヘ書記長と会談.共産党と共青から17人がゲリラに参加.他にボリビア人12人も加わる.ペルーのゲリラ幹部と意見交換.ポンボは,戦いが敗北に終わりつつあるペルーではなく,ボリビアであらたにゲリラ活動をはじめるべきと説明.ペルーのゲリラ3名はこれに同意し,ゲリラに加わる.
8 モイセス・ゲバラが兵士の組織にあたる.中央委員ロベルト・ペレドをはじめペレド4兄弟も共産党を離脱し参加.ココ・ペレード,ニャンカウアス州カミリ近郊に農園を購入.ゲバラの到着を待つ.
9 ゲバラ,第2週〜11月第1週のあいだにボリビア入り.キューバ国籍を放棄し,ウルグアイ人ビジネスマンのラモン・ベニテスを名乗る.ボリビアを選んだ理由は(1)カリブ諸国に比べ米国の関心が低く,干渉の危険が少ない.(2)貧しい社会環境と52年革命の記憶は,キューバ革命の思想を受け入れるだろう.(3)ボリビアは五つの国と国境を接しており,もし革命が成功すればその影響はたちまち波及するだろう.
12 ゲバラ,ニャンカウアスでゲリラ戦の準備開始.ボリビア共産党のモンヘ書記長,キューバを訪問しカストロと会談.ゲバラへの協力を約束する.
12.31 帰国したモンヘは,ニャンカウアスに赴きゲバラと会見.国内における闘争の指揮権を要求する.
1967年 1.01 ゲリラ基地を訪れたモンヘ書記長とゲバラが会談.モンヘは闘いを支持する条件として,党の政治的指導性を要求.ゲバラは,この要求を拒絶。モンヘはボリビア人を集め,「共産党はゲリラ闘争には加わらない.党員・活動家は町に戻れ.そうしなければ除名する」と述べる.
1.01 ゲバラ,経過説明のために兵士を招集.「私は軍事顧問の立場にとどまることは出来ない.間違った謙虚さは何の益ももたらさない.軍事的にも政治的にも、私はモンヘより優れている.私には経験があるからだ.モンヘはボリビアの闘いだけを考えているが,私はボリビアのためだけではなく,大陸規模の闘いを望んでいる」
67年3月
3.17 ニャンカウアス農場,相次ぐ脱走者やスパイにより当局の摘発を受ける.部隊は準備不足のまま基地を放棄.
3.21 ゲバラ,44名の部隊でゲリラ活動開始.内ボリビア人22,キューバ人17名,他ゲバラを慕う外国人.レジス・ドブレ(Regis Debray)とアルゼンチンのジャーナリスト兼画家シロ・ブストス(Ciro Bustos)が,ニャンカウアスを訪れ,ゲリラ戦準備中のゲバラと会見.
3.23 ゲリラの二人,脱走して当局に通報.ニャンカウアスに接近した兵士7人が警備中のゲリラにより射殺.
3.28 陸軍,「ゲバラが国内でゲリラを組織している」と発表.捜索作戦を開始.戦闘機がゲリラ地域を空襲.グリーンベレーにより訓練された軍部隊が,包囲網を敷く.
67年4月
4.10 イリピティで軍と衝突.最初の犠牲者を出す.
4.11 軍,ゲリラ基地を捜索しゲバラの写真を発見.9県のうち4県に戒厳令公布.兵士2千名を動員.カミリに第四師団本部を置く。
4.12 米国軍事顧問団のマルトン・バッド大佐赴任.グリーンベレーを組織し,対ゲリラ作戦の指導を開始.
4.15 ゲリラ,敵の攻撃を避けるため二班に分かれる.
4.16 ゲバラ,民族解放軍(ELN)の結成とゲリラ戦開始を宣言.三大陸人民連帯機構書記局機関紙「トリコンチネンタル」にメッセージ発表.
4.20 ゲリラと会見したレジス・ドブレら,カミリ近郊のムユパンパで逮捕される.CIAはトマス・カラメッシネスをチーフとする秘密作戦チームをカミリに派遣,ゲバラがゲリラ戦を指導していることを確認.
4.25 ゲバラ班の副官でキューバ共産党中央委員のエリセオ・レイエス,敵の待ち伏せを受け戦死.
4.28 ボリビア陸軍のオバンド将軍と米軍,第二レンジャー大隊の創設で合意.CIAは対ゲリラ戦の軍事顧問としてロバート・シェルトン少佐(大尉?)を派遣.ニャンカウアスの製糖工場に対ゲリラ戦訓練センターを設立,ゲバラ捕獲を目的とする部隊を編成.ジョン・ウォゲルステインをチーフとし,ボリビア兵650名,米軍特殊部隊20名,キューバ人亡命者数名からなる.
5.11 ロストウ大統領補佐官,ジョンソンに「ゲバラが南米のどこかでゲリラ活動を開始した.場所については捜査中」と報告.
67年6月 鉱山労働者の虐殺
6 亡命キューバ人フェリックス・ロドリゲス,CIAより南米における対ゲリラ秘密作戦に参加するよう指示を受ける.任務は“エドワルド・ゴンサレス”とともにボリビア軍を助けて,ゲバラたちを追いつめ捕らえること.
6.24 オルロのカタビ鉱山でスト.これを支援し,ゲバラらのゲリラと連帯するため,シグロ・ベインテ(20世紀)鉱山で労働者総会開催.労働者反乱の再発を恐れる軍は,秘密裏にレンジャー部隊を派兵,サンフアン祭の夜に襲撃.この弾圧で公称21人,実際は70名近くの死者を出す(サンフアンの虐殺).
6.26 コスイギン首相,キューバを5日間にわたり訪問.ラテンアメリカ諸国共産党の合法的な活動を無視してゲリラ闘争を行うことについて批判.
7 LA連帯機構(OLAS)第1回大会,ハバナで開催.ゲバラからのメッセージが紹介され,「武装闘争が,LAにおける革命の基本」と宣言.カストロは閉会演説でベネズエラ共産党の路線を日和見主義ときめつける.ボリビア共産党はOLASの路線に反対し,ゲバラとの関係を絶つ.
8.31 ホアキンの率いる11人からなる別動隊,密告にあい,モロコス河畔の基地を奇襲攻撃される.女性ゲリラ,タニア・グチェレスなどほぼ全員が待伏せにあい射殺.ホセ・カスティージョ・チャベス(パコ)が捕虜となる.この頃からゲバラの健康状態悪化.
67年9月
9.3 フェリックス・ロドリゲス,アルナルド・サウセド大佐とともにラパスからバジェ・グランデ入りし,パコの尋問を開始.
9.15 ボリビア政府,ゲバラを捕らえたものに4,200ドルを与えるとするビラを周辺に撒布.
9.18 ゲリラに物資を補給しようとした共産党系活動家15人が,東南部山岳地帯で捕らえられる.
9.22 ゲバラの部隊,アルト・セコ村にはいる.インティ・ペレドがゲリラの意義について演説した後,多量の食料を購入.夜半に村を後にする.
9.22 ボリビア外相ゲバラ・アルセ,OASにゲバラの活動の証拠を提出.押収された書類,筆跡鑑定,指紋照合,写真などから,部隊はキューバ,ペルー,アルゼンチン,ボリビアの活動家の混成であることを示す.
9.24 ゲバラの部隊,アルト・セコ近郊のロマ・ラルガ牧場に到着.事前に情報を知らされた村人はすべて逃走.ゲバラの病状は悪化し部隊は疲労.
9.26 部隊はラ・イグエラ村(La Higuera)へ移動.ここでも村人がすべて逃走.午後1時から追手との銃撃戦となり,ペレド4兄弟のひとりでボリビア人最高幹部のロベルト・ココ”・ペレドが死亡.他にアントニオ:キューバ人,フリオ:ボリビア人も死亡.ゲバラは村を出た後,道路沿いにリオ・グランデ川方向に向かうよう指示.ロドリゲスはレンジャー部隊をエスペランサ基地からバジェグランデ方面に出動させるよう要請.センテノは訓練が終了していないと出動を渋る.
9.26 ドブレに対する軍事裁判,カミリで開始.ドブレは全面自白.
9.27 レンジャー部隊,ゲリラの脱出を防ぐためサンアントニオ川に沿って包囲網を形成.部隊からはぐれ衰弱したゲリラ兵士ガンバが捕らえられる.
9.29 センテノ大佐,第二大隊の出動に同意.650人がバジェグランデに到着.
9.30 ゲバラの部隊,リオグランデ南方バジェ・セラノ渓谷で軍の包囲網にはいる.
67年10月
7日 ゲバラ部隊,ケブラダ・デル・ジューロ(デル・ジューロ? エル・エーロ? デル・フーロ? チューロ?)のravineに野営.
10月8日
About 12 p.m.: ゲリラ17名がジューロに潜んでいるとの報告を受けたレンジャー部隊は,未明に現地に突入.プラド大尉配下の一部隊がゲリラと接触.この戦闘でアントニオとオルトゥーロ(いずれもキューバ人)が死亡.ゲバラとウィリーは包囲を突破しようと試みる.この時ゲバラは下腿に負傷.
1:30 p.m.: ゲバラ最後の闘いがケブラダ・デル・ジューロで始まる.部隊の指揮はボリビア人鉱夫のシモン・クーバ・サラビア(ウィリー)がつとめる.彼の後ろについたゲバラは数度にわたり下肢に銃弾を受ける.サラビアはチェを担いで銃火を避けようとするが,ふたたび激しい銃火に見舞われ,ゲバラのベレーが吹き飛ばされる.サラビアはゲバラを置き,銃火に向かうが,包囲され大量の銃弾を撃ち込まれる(一説によればサラビアは生きたままゲバラとともに捕らえられたという).ゲバラは銃撃を続けるが,片腕が利かないため弾丸は地面に当たるのみ.間もなくふたたび右足を撃たれ,銃は右腕もろとも吹き飛ばされる.
3:30 p.m. 兵士が近づいたときゲバラは叫んだ.「撃つな,わたしはチェ・ゲバラだ.殺すより生かしておいたほうが役に立つ」ゲバラは逮捕され拘留される.
夕方 センテノ大佐の命を受けたプラド大尉,ゲバラを7キロ離れたラ・イゲーラに後送.まもなく捕らえられた5人のゲリラもラ・イゲーラに送られる.軍現地当局はゲバラが戦闘で死亡と発表.続報でもゲバラが死亡し遺体を軍が管理と発表.軍首脳はこの報道を確認せず.W.G.ボウドラー,ロストウあてに「8日の戦闘での死者にゲバラが含まれているか否かは不明.9日に二人の負傷者が確認されたが,その内の一人がゲバラである可能性もある」と報告.
10月9日
6:15 a.m.: フェリックスとホアキン・センテノ・アナヤ大佐とともにヘリでラ・イゲーラ入り.
10 am: 米政府とCIAはゲバラをパナマに連行し尋問することを強く主張するが,ボリビア政府はゲバラに宣伝の機会を与えることを恐れ,現地での処刑を指示.正午にゲバラはラ・イゲーラの小学校の教室内で射殺される.
5:30 p.m. チェの遺体はビジャグランデに運ばれ解剖される.ビジャグランデの二人の医師が「胸腔内の銃創からの出血による死亡」と診断.その後同志6人とともにバジェグランデの共同墓地に埋葬される。
ビジェガス,残っている5人の戦闘員を集め,闘争継続を誓う.米軍顧問とボリビア軍部隊の追跡を逃れる.もう一人のキューバ人生存者はダリエル・アラルコン・ラミレス(通称ベニグノ).
ロストウ,ボリビア人がゲバラを捕らえたと報告.逮捕にあたった部隊は米軍の訓練を受けた特殊部隊であったことも報告.オバンド将軍,ゲバラの死を公式発表.ゲバラの父は彼の死を明白な証拠なしとして否定.
10.11 ロストウ,ジョンソン大統領宛に報告.「ゲバラは99%死んだものと思われる.彼は生きて捕らえられ,短い尋問のあと,オバンド将軍の命により処刑された.彼を追いつめ捕らえたのは,グリーンベレーに指導された第二レンジャー大隊である.彼の死はラテンアメリカのゲリラたちに深い衝撃を与えるだろう.
10.13 ロストウ,ゲバラの死に関する一切の疑問は解消された,と報告.
10.14 アルゼンチン警察の職員,ボリビア当局の要請によりラパス入り.保管された指紋とホルマリン漬けにされた「ゲバラの手」の指紋とを照合.合致することを確認する.
10.15 カストロ,ゲバラの死を確認.バリエントス大統領,ゲバラの遺骸はバジェグランデの秘密の場所に埋葬されたと発言.
10.16 ボリビア陸軍,ゲバラの死に関するコミュニケを発表.「ゲバラは8日午後8時に負傷が元で死亡」とする.
10.18 カストロ,革命広場に集まった百万近い民衆を前にゲバラへの弔辞を発表.「彼の生涯は歴史の輝かしい一ページであった」「たぐい稀な軍事的才能はかれをゲリラ戦の芸術家に押し上げた」
1968年 3 ビジェガス,逃走に成功しキューバに帰還.その後軍務を継続し,アンゴラ戦争にも指揮官として参加.准将に昇進.
6 ゲバラ暗殺時に内相をつとめたアントニオ・アルゲーダス,ゲバラの日記(原本ではなく,タイプ複写したもの)をキューバに売却.レネ・バリエントス政権を批判するとともに「ゲバラの動機は理解できる」と発言.さらにボリビア政府内におけるUSエージェントの役割を暴露.
7.2 ゲバラ日記,ハバナで刊行.アントニオ・アルゲーダスは,日記をキューバに渡したことが問題となり,この後,ラパスの街頭で暗殺される.
7.22 ゲバラ日記の出版とアルゲーダス暗殺をめぐり政情混乱.全土に非常事態宣言.
7.28 ELNの生き残りギド・”インティ”・ペレドらペレド兄弟,チリで第2次ELNの結成を宣言.「グランマ」紙に「われわれはふたたび山に戻る」を発表.
1969年
1 ELN指導者インティ・ペレド,ゲリラ闘争再開と声明.
7 コチャバンバのELN基地,政府軍の襲撃を受け壊滅.ビクトル・ゲラ副司令官らが殺害.
9.08 ELNのインティ・ペレド司令官,ラパス潜伏中を襲われ警察との交戦の末,射殺される.その後弟のオスワルド・チャト・ペレドがゲリラ闘争を継続.
12 チャド・ペレドの指揮するELN,現金輸送車を襲撃.