ゲバラの最後のたたかい

ボリビアでの作戦開始から死まで

なぜボリビアか: ゲバラによれば、(1)カリブ諸国に比べ米国の関心が低く,干渉の危険が少ない.(2)貧しい社会環境と52年革命の記憶は,キューバ革命の思想を受け入れるだろう.(3)ボリビアは五つの国と国境を接しており,もし革命が成功すればその影響はたちまち波及するだろう.

1966年

3月 最初の先乗りとしてリカルドがボリビア入り。リカルドはコンゴのキューバ人部隊から選抜されたため、 Papi と名乗ることもある。他にもゲバラとコンゴでの戦闘を共にした多くの兵士が参加している。彼らはキャリアの証しとしてスワヒリ語の別名を用いた。

4月 ゲバラ、コンゴの闘いから戻る。

4月 ボリビア共産党員で武装闘争派のインティ・ペレド、ココ・ペレドの兄弟がハバナに入り訓練を開始。ココは本名Roberto Peredo Leigue でボリビア共産党中央委員。ほかにもロロ、ニャトなどの中央委員メンバーが参加する。

Coco and Inti Peredo, Rodolfo Saldana, Jorge Vasquez Viana らは、64年にマセッティがアルゼンチンでゲリラ活動を行った際、ボリビア領内での後衛の役をつとめた。

4月 モイセス・ゲバラ(Guevara)ら中国派がボリビア共産党より分裂、ボリビア共産党マルクス・レーニン主義を名乗る。チェ・ゲバラとは綴りが違う。

5 ゲバラの側近ハリー・ビジェガス大尉(Harry Villegas),ゲリラ部隊の参謀となる.ビジェガスはシエラ・マエストラ以来のゲバラの副官.コンゴでの作戦にも参加.スワヒリ語の偽名「ポンボ・ポホ」をそのまま用いる.

7月 ポンボがラパス入り。ゲバラのボディーガード Carlos Cuello 中尉(Tuma)も同行。タニアと共にゲバラの到着までの準備に当たる。

タニア: 本名は Tamara Bunke 国籍は東ドイツ。両親はナチを逃れアルゼンチンに移住したドイツの共産主義者。タニアはアルゼンチンで生まれ終戦後に東ドイツにわたり教育を受ける。ボランティアとして革命後のキューバに渡り、64年3月、ゲバラの直命を受けスパイとしての訓練を受ける。64年11月にボリビアに潜入し、アルゼンチン人 Laura Gutierrez Bauer を名乗った。

7月 ラウル国防相、12人の軍幹部を召集。ゲバラ部隊への参加を命じる。一向はピナルデルリオの山中で3ヶ月にわたり訓練を受ける。

12人の同志: アントニオ・サンチェス(ピナレス)、フアン・ビタリオ(ホアキン)、グスタボ・マチン(アレハンドロ)、ホセ・マリア・マルティネス(リカルド)、ダリエル・アラルコン(ベニグノ)エリセ オ・レイエス(サン・ルイス)、マヌエル・エルナンデス(ミゲル)、ヘスス・スアレス(ルビオ)など。

8月 ポンボ、共産党のマリオ・モンヘ書記長と会談.共産党と共青から17人がゲリラに参加.他にボリビア人12人も加わる.

8月 ポンボ、ペルーのゲリラ(ELN)幹部と意見交換.戦いが敗北に終わりつつあるペルーではなく,ボリビアであらたにゲリラ活動をはじめるべきと説得.ペルーのゲリラ3名はこれに同意し,ゲリラに加わる.

9月 ゲバラの指示を受けた Alberto Fernandez 大尉 (Pacho) がボリビア入り。作戦地域および連携組織の選定に当たる。

9月 Regis Debray がボリビア入り。 Alto Beni、 Chapare 県を周り、モイセス・ゲバラ派の活動家と接触。

9.28 ポンボとマリオ・モンヘの会談。マリオ・モンヘはドブレのモイセス・ゲバラ派との接触や武装闘争の準備について非難。激論となる。

10月 ボリビア共産党政治委員会が開かれる。ココ・ペレドがトゥマ、リカルドと協力してニャンカウアス(Nancahuazu)の農場を準備することで合意。

10.23 ゲバラ,キューバ国籍を放棄し,ハバナを発つ。このときはラモン・ベニテスを名乗る.

11.03 ゲバラ、マドリードからサンパウロを経由してラパス市内に入る。ウルグアイ人で米州機構の使節Adolfo Mena Gonzalez を名乗る。

リカルド・ロホは「我が友ゲバラ」のなかで「9月中旬のラパス入り」説を主張しているが、他の動きと組み合わせると矛盾が多い。この人の話は細部が異常に細かく描かれており、胡散臭い。第一、ロホは「我が友」というほどの友ではない。東大先端研の森口先生に近い口ではないか。

11.05 ゲバラ、ポンボと合流しニャンカウアスに向う。ボリビア共産党はゲバラの動きを黙殺。

11.07 ゲバラ,ニャンカウアスに入り、カサ・デ・カラミナのアジトでゲリラ戦の準備開始.この日からゲバラ日記を付けはじめる。

日記によれば、ゲバラたちはコチャバンバに行き、パチュンゴが手配した二台のジープに分乗し、ニャンカウアスに向った。旅は2日を要し、アジトに着いたのは7日夜だった。

12月初め ボリビア共産党のモンヘ書記長,ブルガリア経由でキューバを訪問しカストロと会談.これまで批判してきた武装闘争の支持とゲバラへの協力を約束する.(させられる)

12.11 医師のエル・モロ(Octavio de la Conception キューバ軍軍医中尉)とベニグノ(ダニエル・アラルコン・ラミレス、キューバ軍大尉)がニャンカウアスへ合流。

12.31 モンヘ書記長がニャンカウアスに赴きゲバラと会見.モンヘは闘いを支持する条件として,党の政治的・軍事的指導性を要求.ゲバラは、南米解放闘争はの一環として、地域的な枠を超えた次元で指導されねばならないと反論。モンヘは闘いから手を引く意志を表明。

 

1967年

1.01 ゲバラは,モンヘの要求を拒絶。モンヘはボリビア人を集め,「ボリビア共産党はゲリラ闘争には加わらない.党員・活動家は町に帰り、本来の部署に戻れ.そうしなければ除名する」と述べる.しかし参加者全員が残留の道を選ぶ。

1.01 ゲバラ,モンヘとの会談の経過を説明するために兵士を招集.

ゲバラの演説: 私は軍事顧問の立場にとどまることは出来ない.間違った謙虚さは何の益ももたらさない.軍事的にも政治的にも、私はモンヘより優れている.私には経験があるからだ.モンヘはボリビアの闘いだけを考えているが,私はボリビアのためだけではなく,大陸規模の闘いを望んでいる

1.02 ハバナの革命広場で革命八周年記念集会。カストロはゲバラが「ラテン・アメリカ解放のために遠いどこかで戦っている」と述べる。

1.08 ラパスでボリビア共産党中央委員会総会。「ゲバラに協力せず」とのモンヘの報告を承認。その旨の手紙をカストロに送る。

1.22 ゲバラ「都市の活動家への指示」を執筆。Loyola Guzman がラパスに持ち込む。

1.26 ゲバラ、モイセス・ゲバラと会見し闘争への参加を求める。当初の期待目標は20名だった。

2.01 ゲバラ、行軍演習に出発。キューバ人15人、ボリビア人12人の計27名が北方のリオグランデ河流域を探索。当初2週間のつもりだったがさまざな困難のため6週間を要する結果となった。

2.05 ボリビア共産青年同盟、書記局員のAniceto Reinaga、アントニオ・ヒメネスとロヨラ・グスマンを解任。ただし全国委員の職には留める。

2.08 ゲバラ部隊がリオグランデ川を渡る。洪水のため2人が溺死する。

2.14 ゲバラ不在のニャンカウアスのアジトに、モイセス・ゲバラと彼のリクルートしたボリビア人8人が到着。

2月末 ボリビア共産青年同盟、ゲリラ活動に留まったメンバーの全員除名を決定。

2月 ゲバラ日記によれば、ラパスの会計担当者が25万ドルを着服し逃亡する。これによりニャンカウアスへの食糧補給が途絶える。

67年3月

3.06 農民がゲリラ部隊と遭遇。後をつけた農民は、部隊がニャンカウアスに戻るのを確認して、カミリの第4師団に通報。

3.06 ドブレがラパスのホテル・スクレに到着、ブストスとともにタニアの車でニャンカウアスに向う。

3.10 農民の通報を受けた軍の捜索隊が「亜鉛葺きの家」(casa de calamina)に踏み込む。ここはゲリラの最初の作戦基地で、センターから2,3キロ先の場所であった。

3.10 レジス・ドゥブレ、シーロ・ブストス、フアン・パブロ・チャンとタニアがキャンプに到着。

ドゥブレ(Regis Debray)はゲバラの“フォコ”理論を世界に広めたフランス人ジャーナリスト。シロ・ブストス(Ciro Bustos)はアルゼンチンのジャーナリスト兼画家、フアン・パブロ・チャンは中国系ペルー人でゲリラ戦指導者。

3.11 モイセス・ゲバラが連れてきたボリビア人のうち2人が脱走。うち1人は内務省の情報提供者として働いていた人物だった。

3.11 2人はカミリの政府軍第四分隊本部に出頭。ボリビア軍と情報部はチェ・ゲバラがニャンカウアスにいることを知る。バリエントス大統領は米国に緊急支援を要請。

3.15 ラジオ放送、二人の共産ゲリラが逮捕されたと報道。彼らはまだ17人が第4師団管区に潜伏していると供述した。

3.17 政府軍第四分隊、ニャンカウアス川上流グランデ渓谷一帯に偵察機を飛ばす。警察がアジト付近の農家まで捜索に入る。

3.20 ゲバラの部隊、ニャンカウアスのアジトに戻る。レジス・ドブレらと会見.

3.20 モイセス・ゲバラに同行したボリビア人が査問を受ける。4人が部隊から放逐される。彼らは武装解除された後監禁された。

3.23 警備中のゲリラ6人が、ニャンカウアス河畔で接近した部隊に待ち伏せ攻撃をかけ、壊滅させる。

朝6時、カミリからの掃討部隊(おそらく平時中隊レベル)がニャンカウアス川沿いをさかのぼってきた。ベニグノとセラピオが率いる6人はこれを待ち伏せし一斉射撃。戦闘は6分間で終わり、7人が死亡、4人が負傷、指揮官をふくむ14人が捕虜となる。さらに60ミリ砲3基、モーゼル銃16丁、バズーカ砲2基、ウージ軽機関銃3丁、30ミリ砲1基、無線機2台を鹵獲する

3.23 ラパス・ラジオ局、「700人以上のゲリラがいることは間違いない」と報道。

3.23 掃討部隊壊滅の報に接した、米軍事顧問ミルトン・ブルズ陸軍大佐、ワシントンに飛び緊急出動を要請。米政府はただちに軍事顧問団、情報将校、レンジャー部隊の派遣を決定。

3.23 政府軍は師団規模の掃討部隊派遣を決定。第8師団がニャンカウアスに配備される。

3.24 タニアらの乗ってきたジープがカミリの車庫で発見される。車にはタニアの書類が残されていた。

3.27 バリエントス大統領がゲリラ撲滅作戦を宣言。

3.27 ゲリラは「リブレ」紙に「ボリビア民族解放軍からボリビア人民に告ぐ」との声明を送る。「リブレ」紙はこれを掲載し、世界に発信される。政府は「リブレ」紙社主をただちに逮捕。

3.27 サンタクルスにレドモンド・ウェーバー大佐とラルフ・シェルトン少佐の率いる第9特殊部隊15名の教官が到着。

3.28 陸軍,「ゲバラが国内でゲリラを組織している」と発表.軍部隊が捜索作戦を開始.AT-6戦闘機がゲリラ地域をナパーム弾で空襲.

3.28 ゲバラ日記によれば、「我々は半径120キロメートルの範囲内で2,000人の兵士に囲まれている。ナパームによって我々の世界は狭められつつある」

3.30 ムスタング戦闘爆撃機がゲリラ地帯に集中爆撃。

3.31 ゲリラ部隊、ニャンカウアス撤退を決断。44名の部隊で遊撃戦を開始.内ボリビア人22,キューバ人17名,他5人.

部隊の編成: 本隊、前衛隊、後衛隊に分ける。ミゲル指揮の前衛隊に11人(ベニグノ、パチョ、ロロら)、ゲバラ指揮の本隊23人(アレハンドロ、インティ、ニャート、ネグロ、アルトゥーロら)。ホアキン指揮の後衛隊13人(ブラウリオ、ルビオ、マルコス、メ ディコ、ウォルターら)。

 

67年4月

 

ゲバラの足跡

 

4.01 前衛隊が出発。ついで3日には本隊と後衛隊も出発。南方のムユパンパを目指し、ニャンカウアス河の奥地へと進む。(ムユパンパに向かったのはドブレらを逃走させるためだったとの説あり)

4.04 軍当局、投降した2人をガイドとしニャンカウアスの基地を占拠。ブラウリオ(イスラエル・レジェス中尉)の日記を発見する。

4.10 ゲリラ部隊、イリピティ(Iripiti)で15人の政府軍部隊と遭遇.二度にわたる待ち伏せ戦法で1人を倒し3人を負傷させ11人を捕虜とする。(死者は8人とも11人とも言う)。さらに大量の武器を捕獲。この戦闘で最初の犠牲者を出す.ヘスス・スアレス・ガヨルGayol、通称ルビオ。キューバ軍大尉でキューバ砂糖省の前次官だった。

4.11 軍,ゲリラ基地を捜索しゲバラの写真を発見.9県のうち4県に戒厳令公布.兵士2千名を動員.カミリに第四師団本部を置く。ヘリによるゲリラの索敵作戦が続けられ、周辺の山にはナパーム弾が落とされる。

4.12 対ゲリラ戦の専門家のマルトン・バッド大佐がパナマの南方軍本部より赴任.米国軍事顧問団の下にグリーンベレーを組織し,対ゲリラ作戦の指導を開始.

4.13 軍事顧問団の指揮官ミルトン・ブルス、ワシントンから戻り、ラパスに作戦本部を設置。

4.15 ゲリラの全部隊がベリャ・ビスタに集結。前衛隊・本隊はムユパンパ方向を目指す。ホアキン(Vilo Acuna Nunez少佐)の率いる後衛隊はベリャ・ビスタ 地域にとどまることとなる。

4.16 ゲバラ,キューバ紙「トリコンチネンタル」にメッセージ発表.民族解放軍(ELN)の結成とゲリラ戦開始を宣言.

「トリコンチネンタル」は、正式には三大陸人民連帯機構書記局の発行する機関紙。「一つ、二つ、三つ、さらに多くのベトナムを」とのくだりが有名。実際には前年、ボリビア出発以前に書かれていたもの。

4.17 ホアキンの率いる後衛部隊17名、事故により本隊との接触を失う。

4.18 ゲバラ部隊、ムユパンパ攻撃を断念。政府側農民を加えた掃討部隊が迫ってきたことから、北方への移動を開始。ホアキン隊はそのままムユパンパ付近に潜伏する。

4.19 タイムライ フ社の特派員を偽装したCIA要員ジョージ・アンドリュー・ロス(イギリス系チリ人)がゲバラとの会見に成功。ゲバラはロスの素性を疑いつつドゥブレとブストスの脱出を託す。

4.20 Regis Debray (Danton)と Giro Roberto Bustos (Pelado) ら,ムユパンパで逮捕される.

4.20 CIAはトマス・カラメッシネスをチーフとする秘密作戦チームをカミリに派遣,ゲバラがゲリラ戦を指導していることを確認.

4.21 ボリビア軍当局、ドゥブレとブストス、ロスが戦闘で死んだと発表。

実際には殺害は実行されなかった。偶然ムユパンパに居合わせたボリビア人ジャーナリストが彼らを撮影し、雑誌に発表したため、当局はドブレらの殺害を断念したという。

4.25 ゲバラ隊の副官ロランド、Taperillas で敵の待ち伏せを受け戦死.ロランドの本名はエリセオ・レイエス大尉。キューバ共産党中央委員であり、部隊の政治委員(コミッサール)であった。ゲバラ日記によれば「ゲリラ兵士の中で最も傑出した人物」だった。

4.27 ボリビアのラジオ放送、“ダントン”(ドブレ)らが、カミリ付近で逮捕されたと報道。生存が確認される。

4.27 ボリビア人兵士ロロ(Jorge Vasquez Viana)、Monteagudo 近くで偵察行動中に負傷し逮捕される。カミリの病院で「エドゥアルド・ゴンザレス博士」の尋問を受けた後、Choreti病院へ移される。

4.28 ボリビア陸軍のオバンド将軍と米軍,第二レンジャー大隊の創設で合意.対ゲリラ戦の軍事顧問としてロバート・シェルトン少佐(大尉?)を派遣.

4.28 CIA、ニャンカウアスの製糖工場に対ゲリラ戦訓練センターを設立。ボリビア兵650名,米軍特殊部隊20名,キューバ人亡命者数名からなるゲバラ捕獲部隊を編成する.指揮官にはジョン・ウォゲルステインが任命される。

5.05 ドブレとブストス、セスナ機でカミリからサンタクルスに身柄を移送される。ゲリラ組織のリーダーとして軍事法廷にかけられるためと発表される。

5.07 ロロ、「友人」と称する偽ジャーナリストと会見した後、Choreti 病院から連れ出される。その後の行方は不明。

5.07 ボリビア鉱山労組の指導者フアン・レチン(革命政府の元副大統領)、偽造パスポートで入国を図り、アリカ(チリ)で逮捕される。

5.08 ゲリラ隊がニャンカウアス河畔で待ち伏せ攻撃。政府軍兵士3人が死亡し、10人が捕虜となる。(他文献での確認できず)

5.11 ロストウ大統領補佐官,ジョンソンに「ゲバラが南米のどこかでゲリラ活動を開始した.場所については捜査中」と報告.未確認だが確度は高いとされる。(以後、ロストウの大統領宛メモは繰り返し登場する)

5.15 後衛部隊、逃亡したモイセス・ゲバラ派兵士の通報により攻撃を受ける。この戦闘でマルコス(Comandante Sanchez Diaz)とビクトル(ボリビア人)が死亡。

5.24 後衛隊から Pepe (Julio Velazco) が脱走。政府軍に捕らえられ射殺される。

5.29 第4軍管区司令部、ロロがカミリの病院から逃亡したと発表。

5.30 ゲリラ隊がエル・エスピノで政府軍に待ち伏せ攻撃。2人を殺害し4人を負傷させる。

67年6月

6月 亡命キューバ人フェリックス・ロドリゲス,CIAより南米における対ゲリラ秘密作戦に参加するよう指示を受ける.任務は“エドワルド・ゴンサレス”とともにボリビア軍を助けて,ゲバラたちを追いつめ捕らえること.カバーネームをフェリックス・ラモス・メディナとする。

6.02 後衛隊がコロラド岩で政府軍と遭遇戦。マルコス(Antonio Sanchez Diaz キューバ人)とビクター(Casildo Condori ボリビア人鉱夫出身)が戦死する。

6.06 Huamuni の鉱夫会議、ゲリラと連帯するデモ行進。

6.07 ボリビア政府、全土に非常事態宣言を発する。

6.10 ゲバラ隊、後衛隊との合流するため北に向かう。サンタクルス方面を目指しリオグランデを渡る。

6.13 ゲバラ隊、ロシータ川に沿って下り、第8師団管区に入る。

6.19 ゲバラ隊がビリャ・モロコスの村を占拠。行商人を装っていた軍スパイ3人を捕らえ、村を“解放”する。ゲバラは歯科医となり村民を治療。

6.19 モロッコ村でリクルートされた青年パウリーニョ、市街地のネットワークと連絡をとるためコチャバンバに派遣されるが、村を出てすぐ、軍により捕らえられる。

6.23 鉱夫と学生のあいだで相互防衛協定が結ばれる。鉱夫は鉱山を「自由の領土」と宣言。ゲバラらのゲリラと連帯するため,シグロ・ベインテ(20世紀)鉱山で鉱山労働者総会開催.

6.24 軍は,秘密裏にレンジャー部隊を派兵。夜明を待ってシグロ・ベインテとHuamuniに突入。サンフアン祭にあたっていたことから「サンフアンの虐殺」と呼ばれる。

これも情報は入り乱れている。①公称21人,実際は70名近くの死者を出す ②Cataviの鉱夫40人が殺され、100人以上が負傷。

6.26 軍は解放された兵士の情報によりフロリダ(一説に Piray)で待ち伏せ攻撃。この戦闘でトゥーマが殺され、ポンボが負傷する。軍も死者3人、負傷者2人を出す。

6.26 コスイギン首相,キューバを5日間にわたり訪問.ラテンアメリカ諸国共産党の合法的な活動を無視してゲリラ闘争を行うことについて批判.

6.30 ボリビア軍のオバンド総司令官、ドブレの証言に基づき、「我が軍が直面しているのはベトコン以上に完璧に訓練されたゲリラ部隊である」と述べる。

67年7月

7.06 ゲバラの部隊、コチャバンバとサンタクルスを結ぶ国道まで進出。 Pena Coloradaと Cuevasを通過してサマイパタに迫る。

午後8時30分 ゲバラ隊、奪取した自動車による電撃作戦を敢行。40人の守備隊を拘束し、Samaipata の街を一時占拠。食物と医薬品を確保する。その後安全な根拠地をもとめ南に向う。

一説では、ゲリラは7日にラス・クエバスで道路を封鎖し、電話線を切断した後、通りかかったバスを乗っ取った。そしてそのバスでサマイパタに入り、1時間にわたって街を占拠した、とされる。
どちらが本当かは分からないが、ラテンアメリカにはほら吹きがたくさんいるということは分かる。

7.09 ホアキン隊、軍と二度にわたり衝突。Serapioが待伏せで殺害される。

7.10 ドブレが軍事法廷で証言。ゲリラの目的が南米大陸に戦争を引き起こすことにあると述べる。

7.14 ボリビアの反動連合政権から二政党が脱落。政権は危機を迎える。軍は政府の動向に関係なく、独自行動を強める。

7.20 後衛部隊、ニャンカウアスのTicucha付近で戦闘。戦闘中に若いボリビア人2人が脱走。

7.23 脱走ゲリラがChuayacoで捕らえられる。

7.26 ゲバラの部隊、Pampa Torunosで政府軍部隊に対する待ち伏せ攻撃。1人が死亡、1人が負傷。

7.27 ゲバラの部隊、Corralonesで政府軍部隊に対する待ち伏せ攻撃。2人が負傷。

7.30早朝 トリニダー中隊が、モロコス河畔でゲバラの野営地を奇襲する。政府軍4人を殺害するが、部隊の退却をカバーしたリカルド(キューバ人)とラウル・キスパヤが撃たれ死亡。パチョ(キューバ人)が負傷し捕らえられる。

7 LA連帯機構(OLAS)第1回大会,ハバナで開催.ゲバラからのメッセージが紹介され,「武装闘争が,LAにおける革命の基本」と宣言.カストロは閉会演説でベネズエラ共産党の路線を日和見主義ときめつける.ボリビア共産党はOLASの路線に反対し,ゲバラとの関係を絶つ.

8.02 ロドリゲスがラパスに到着する。現地にゲバラ対策チームを設定。同じく亡命キューバ人のグスタボ・ビジョルドも作戦に加わる。

8.04 後衛部隊を脱走したボリビア人兵士2人が、軍に捕らえられる。二人の案内で、根拠地の洞窟が摘発される。発見された資料により都市ネットワークが洗い出され、Loyola Guzman らが逮捕される。

8.09 後衛部隊のしんがりをつとめたペドロ(Antonio Jimenez Tardio)がイナウで殺害される。

8.12 政府系の新聞プレセンシアは「二名の捕虜の自供により、ニャンカウアスの武器弾薬貯蔵庫二ヵ所(デル・オッソとアロヨ・デ・ラス・ピエドラス)を接収した」と報道。

8.17 ボリビアの放送局、ニャンカウアスの4つの洞窟から証拠文書が発見されたと報道。

8月下旬 ホアキンの率いる11人からなる後衛隊、モロコス河畔のマシクリに辿り着き、農民オノラート・ロハスと接触。ロハスはManchego の連隊に密告。これに基づきマリオ・バルガスの率いる1個中隊が出動。

8.30夜 政府軍第12歩兵部隊が密かにマシクリに到着する。ロハスに対し、リオ・グランデ川の船着き場プエルト・マウリシオに誘導するよう指示し、対岸に散開し待ち伏せに入る。

このあたり地名が錯綜している。Masicuri がリオグランデの河畔なのかその支流であるモロコス川(マシクリ川?)の河畔なのか分からない。プエルト・マウリシオは船着場であり、部隊の渡河地点であるが、Vado del Yeso とする記載もある。Vadoは浅瀬の意味らしい。

8.31 ホアキン隊はロハスの道案内でプエルト・マウリシオに到着。渡河を開始したところに一斉射撃が加えられる。渡河中の7人がその場で射殺される.

ホアキン: 本名フアン・ビタリオ・アクーニャ・ヌニェス、キューバ軍少佐。ブラウリオ: 本名イスラエル・レイエス、キューバ軍中尉(黒人)。アレハンドロ: 本名グスタボ・マルチン、キューバ軍少佐。マルコス: 本名アントニオ・サンチェス、キューバ人。タニア: 本名アイデー・タマラ・ブンケ・ビダー(国籍は東ドイツ)。モイセス・ゲバラ(ボリビア共産党中国派指導者)。ポロ: 本名アポリナール・アキノ・キスペ、ボリビア人。ウォルター・アランシビア(ボリビア人)など

8.31 まもなくエルネスト(フレディ・前村)、エル・ネグロ(本名ホセ・レスティトゥート・カブレラ、ペルー人医師)も捕虜となり、拷問の末殺害される。ホセ・カスティージョ・チャベス(パコ)がただ一人生きて捕虜となる.なおオノラート・ロハスは69年7月14日にELNによって「処刑」された。

8月末 この頃からゲバラの健康状態悪化.日記にいわく、「いかなる支援もなく、農民の闘争への参加もない。戦意は落ちている。願わくはこれが一時的な状況であらんことを」

67年9月

9.01 ゲバラ隊、オノラート・ロハスの家に到着するが、無人状態のため撤収。翌日のラジオでホアキン隊の全滅を知る。

9.03 マシクリ河畔のYajo Pampaで、ゲバラ隊と軍の分隊との間に衝突。政府軍兵士1人を殺害。この後ゲバラ隊は再び北上を始める。

9.03 フェリックス・ロドリゲス,アルナルド・サウセド大佐とともにラパスからバジェ・グランデ入りし,パコの尋問を開始.

9.07 プエルト・マウリシオの近くでリオグランデに浮いていたタニアの遺体が発見される。

9.08 バリエントス大統領、タニアの遺体をキリスト教の儀式にのっとって埋葬するよう指示。実際には他のゲリラ同様、まとめて埋められた。

9.08 政府軍、ゲバラ隊がプエルト・マウリシオから西方に向って逃亡したと判断。 Chuchial 方面に探索の手を伸ばす。

9.15 ボリビア政府,ゲバラを捕らえたものに4,200ドルを与えるとするビラを周辺に撒布.

9.15 押収資料に基づき、都市支援組織のリーダーLoyola Guzman と教員シンパ数人が逮捕される。ラジオは「ゲリラの報復を恐れたロヨラが二回にわたり自殺を試みた」と報道。

9.18 ゲリラに物資を補給しようとした共産党系活動家15人が,東南部山岳地帯で捕らえられる.

9.21 ラジオ放送、「アカ」が Aguaditas and Palmitasを占拠したと放送。

9.22 ゲバラの部隊,アルト・セコ村にはいる.インティ・ペレドがゲリラの意義について演説した後,多量の食料を購入.夜半に村を後にする.

ジョン・リー・アンダーソンの記録によれば、Cheは代金を払うことなく食料雑貨店から食物をとった。これはアルト・サコの村長が、バジェグランデの政府軍にゲリラの位置を知らせるために抜け出したことが分かったためとされる。

9.22 ボリビア外相ゲバラ・アルセ,OASにゲバラの活動の証拠を提出.押収された書類,筆跡鑑定,指紋照合,写真などから,部隊はキューバ,ペルー,アルゼンチン,ボリビアの活動家の混成であることを示す.ゲバラ・アルセは、「我々はどんな時にも、誰にも、我々の祖国を盗み出させるつもりはない」と強調。

9.24 ゲバラの部隊,アルト・セコ近郊のロマ・ラルガ牧場に到着.事前に情報を知らされた村人はすべて逃走.ゲバラの病状は悪化し部隊は疲労.(一説にリオ・サンタ・エレナ)

9.25 第4師団司令部、カミリからバジェグランデに移動。近隣村落に対しどんな情報でもVallegrandeに送るよう命じる。

9.26早朝 ゲバラ部隊はラ・イグエラ村(La Higuera)に入る.

イゲラ村の状況: 村人はゲリラが地域にいると前に警告されていた。すべての男性が逃げ去り、残っている村人は、ゲリラの質問に対し、大部分の人々が近隣のJahue町にお祭りに行っているとかたる。

9.26 イゲラからの報せを受けたバジェグランデの軍はGalindo の中隊を派遣。村の出口で待ち伏せる。

1pm 斥候隊が村を出たところで政府軍の待ち伏せ攻撃を受ける。銃撃戦で3人が死亡。

Roberto (Coco) Peredo: ペレド4兄弟のひとりでボリビア人リーダー。ゲバラに継ぐ位置を占めていた。ミゲル: 本名Manuel Hernandez キューバ軍大尉。フリオ: 本名Mario Gutierrez Ardaya ボリビア人学生運動指導者。

午後 残りの部隊はイゲラの村に留まり応戦する。ゲバラは、村を離れたあとリオ・グランデに通じる道に沿って避難するよう命令する。

9.26 ゲバラ、リオグランデ河畔のジャングルの中で部隊を再編成。17人が残る。日記に「我々のこの度の損失は実にきわめて大きい」と記されている。

部隊は17名に減少。1人(ベニグノ)が負傷、一人(モロ)が重病状態だった。二人(カンバとレオン)が戦闘中に逃亡。カンバについては、部隊からはぐれ衰弱し捕らえられたとする説もある。

9.26 ラパスの政府・軍はラ・イゲーラの戦闘を重要な勝利と評価する。

9.26 フェリックス・ロドリゲスは、ココ・ペレドの死を確認し、ゲバラが近くにいるものと判断。レンジャー部隊司令官のZenteno大佐と会見。La Esperanzaの本部からVallegrandeに第二大隊を派遣するよう要請。Zenteno大佐は部隊の訓練が完了していないとし、行動を保留。

9.26 カミリでドブレらに対する軍事裁判が開始.ドブレは全面自白.

9.27 レンジャー部隊,ゲリラの脱出を防ぐためサンアントニオ川に沿って包囲網を形成.ゲリラが彼らが考えたほど強くないとわかり、レンジャー部隊は出動の準備を始める。

9.29 センテノ大佐,第二大隊を出動させる.ロドリゲスも同行。650人がバジェグランデに到着.

9.30 ラ・イゲラの南方バジェ・セラノ渓谷でゲバラ部隊への包囲網を完成.政府軍に加え,第2レンジャー師団が要所を押さえる。

9.30 ゲバラ日記にいわく「今月の特徴はこれまでと変わりない。しかし政府軍の活動はより有効になっている。農民は我々を支援せずに情報提供者となっている」

67年10月

10.03 ラジオでAntonio Domin-guez Flores (Leon) と Orlando Jimenez Bazan (Camba)の自供が報道される。レオンは大統領の演説を信頼して自発的に出頭したと供述。

10.07夕刻 ゲバラ部隊,サンアントニオ川沿いケブラダ・デル・ジューロ(Quebrada del Yuro)の谷間に野営.(Churro渓谷との記載例あり)

10.07 深夜12時30分 老農婦がヤギを追って野営地に入る。異常な物音を聞いた農婦はただちに軍に通報。された(一説ではゲリラは農婦を拘束したあと解放。農婦はその足で軍に通報とあるが、不自然である)

10.08未明 情報を得た政府軍数個中隊が、翌朝までにゲリラ部隊周囲の包囲を完了。

10月8日

11:30am プラド大尉配下のレンジャー部隊(2個中隊184人)が突入.この戦闘でゲリラ4人が死亡。

アントニオ: 本名 Orlando Pantoja、キューバ軍大尉。パチョ: 本名 Alberto Fernandez、キューバ軍大尉。アルトゥーロ: 本名 Rene Martmez Tamayo、キューバ軍中尉。Aniceto Reynaga ボリビア青年共産同盟活動家。

About 12 pm 何回かの小競り合いが繰り返される。ゲバラとウィリーは包囲を突破しようと試みる.この時ゲバラは下腿に負傷.

ウィリー: ボリビア人でポトシ鉱山の鉱夫出身。本名はシモン・クーバ・サラビア。ゲバラ最後の場面で、弁慶役をつとめた。

1:30 p.m.政府軍が機関銃攻撃を開始。ゲバラ最後の闘いが始まる.

このあたりの経過はまるで見てきたような話で、講談話として聞いておいたほうがよいでしょう。
Simon Cuba, an excellent shot, was in the lead and firing nonstop. Behind him came Che, who also fired until several bullets got him in the legs.
In a heroic display of loyalty, Cuba picked up Che and tried to carry him on his back out of the line of fire.
But another volley wounded Che again, knocking off his beret.
Cuba then propped him up on the ground and decided to keep on shooting, although he was encircled at less than ten yards' distance.
All the rangers concentrated their fire on him. Che was now in an impossible position, but he tried to put up a last stand. He leaned against a tree with one hand and operated his M2 with the other. He couldn't keep it up for more than a few minutes. He was wounded again in his right leg and another bullet hit the trigger of the M2.
The gun jumped out of his hand, its stock split open, and the bullet went on to pierce his right forearm. He was surrounded and taken prisoner."
「オー、ジーザス・クライスト」です。

3:30pm 兵士が近づいたときゲバラは叫んだ.「撃つな,わたしはチェ・ゲバラだ.殺すより生かしておいたほうが役に立つ」

ゲバラとウィリー、エル・チーノが逮捕され拘留される.エル・チーノは本名Juan Pablo Chang、中国系ペルー人。

Inti Peredoら他のメンバーは火線を突破し逃亡に成功。

4pm ゲバラ、プラド大尉の下に送られる。プラドはバジェグランデの地区司令部に打電し指示を仰ぐ。Zenteno大佐はゲバラと他のすべての捕虜をLa Higueraへ移送するよう指示。ゲバラは毛布の上に寝かされ、7キロ離れたLa Higueraまで移送される。ウィリーは後ろ手に縛られたまま歩かされたという。

夕刻 一行はラ・イゲラに到着。ゲバラは学校の教室に監禁される。夜半になってさらに5人のゲリラが連行される。(当初、軍はゲバラが戦闘で死亡と報告)

夜 軍現地司令官のセンテノ大佐、ゲバラが戦闘で死亡と発表.続報でもゲバラが死亡し遺体を軍が管理と発表.軍首脳はこの報道を確認せず.

10.08 10人が戦闘を生き残る。ポンボが指揮を執り、二つのグループに分け脱出を試みる。

 

10月9日

6:15AM フェリックスとホアキン・センテノ・アナヤ大佐とともにヘリでラ・イゲーラ入り.(センテノがイゲラまで行ったかどうかは未確認)

ロドリゲスは三脚付きのカメラで文書を撮影。その後校舎に入り、「恐ろしい光景」を目撃する。ゲバラは埃だらけの教室に後ろ手に縛られ、両足を結び合わされ横たわっていた。彼の横にはもう一人のゲリラが転がっていた。髪はぼうぼうで「ゴミの塊」のように見えた。足には靴の残骸の皮の切れっ端が付いていた。ロドリゲスはゲバラと並んで写真を撮った。それはCIAによって保管されている。

10AM ボリビア軍幹部はゲバラの扱いを協議する。即決で処刑することを決定。

協議の内容: ボリビアは死刑制度がないため、裁判になれば死を科すことはできない。さらにゲバラを起訴すれば、その裁判は世界の関心を集め、ゲバラとキューバに好意的な宣伝が行われる可能性がある。
このため即決で処刑し、公式には戦闘中に負傷し死亡したということにする。米政府とCIAはゲバラをパナマに連行し尋問することを強く主張するも容れられず。

1:10 p.m ゲバラ、ラ・イゲーラの小学校の教室内でMario Teran空軍軍曹により銃殺される。これに前後して二人の捕虜ウィリーとエル・チーノも射殺される(エピソードが種々流布されているが信用できない)

5:30 p.m 遺体はヘリコプターでVallegrandeに運ばれ、市民に供覧される。

 

10月10日

10.10 ボリビア軍当局、アメリカに対し「ゲリラの生存者はいない。チェ・ゲバラが10月8日の死亡者の中にいたかどうか分からない」と公式回答。

10日 W.G.ボウドラー,ロストウあてにメモを送付。「8日の戦闘での死者にゲバラが含まれているか否かは不明.9日に二人の負傷者が確認されたが,その内の一人がゲバラである可能性もある」と報告.

この記述は、9日の朝、ロドリゲスがバジェグランデに飛び立つ直前の情報であろう。ロドリゲスが目撃しているにもかかわらず、翌日になってもアメリカ政府当局が事実を把握していないのは、ロドリゲスがバジェグランデに帰らない限り情報を発信できなかったからと推測される。ラパス現地の大使館が公式に事実確認するのは、はるか後のことになる。

10日 オバンド将軍,ゲバラの死を公式発表.9日の午後1時半に死亡したとしたため、8日の戦闘中に死亡したとのZenteno大佐の発表と矛盾する。

10日夕 ゲバラの遺体、市民への供覧を終えた後司法解剖に付される。マルタ騎士団病院の医師が遺体を解剖し死亡診断書を作成。

死亡診断書の概要: 氏名・エルネスト・ゲバラ・リンチ、およそ40才。死因は胸部および四肢の9個所の銃創。死因は胸部の傷とそこからの出血とされた。遺体には防腐処理が施された。(両前腕を切り落としたのがこのときかどうかは不明))

10日 ニューヨークタイムズは、ボリビア軍幹部がゲバラの死を公式に確認したと報道。10月8日日曜日に戦いにおいて殺されたとされる。

10.10 ゲバラの父は殺害を証明する証拠がないとし、彼の息子の死を否定する。Cheの弟で弁護士のRoberto Guevara de la Sernaが、ブエノスアイレスからサンタクルーズに向う。Gente誌とArgentinean TVのリポーターが同行。

10日 ゲバラの遺体は、同志6人とともにバジェグランデの共同墓地に埋葬される。

(10日分の記述はいずれも時間的な前後関係が確定できません)

10月11日

10.11 4.30a.m Che、Williとチーノーの遺体はマルタ病院から運び出され、市内某所に埋められる。(現在では街の南方の飛行場に埋められたことが確定されている)

10.11 ロストウ,ジョンソン大統領宛に報告.

11日メモの要旨: 今朝、我々は、99%、ゲバラが死んでいると確信する。ゲバラは生きて捕らえられ、短い尋問の後、オバンド将軍の命により処刑された。
ゲバラの死はラテンアメリカのゲリラたちに深い衝撃を与え、攻撃的でロマンチックな革命家の時代の終わりをもたらすだろう。

10.11 ゲバラの弟がバジェグランデに到着。遺体の確認を求めるが、現地が上級の承認を求めたため、ラパスに向かう。

10.11午後 Barrientos大統領、ぶら下がり記者会見で、ゲリラ・リーダーが緊急に埋葬されたこと、その名前は決して明らかにされないと断言する。

10月12日

10.12 ロベルト・ゲバラ,ラパスでオバンド将軍と会見。オバンドは遺体がバジェグランデで火葬されたと告げ引渡しを拒否する。ロベルト・ゲバラはブエノスアイレスに戻り記者会見。「もし火葬されたなら、Vallegrandeの住民とほぼ100人の報道関係者が気づいたろう。なぜなら彼らはどんなことでも見失うまいと緊張していたからだ」

10.12 4人の生存者グループが、Mizque川とリオ・グランデの合流点で捕らえられ、直ちに殺害される。(一説に14日に Cajonesで殺害)

エル・モロまたはムガンバ: 本名 Octavio de la Conception キューバ軍軍医中尉。 チャパコ: 本名Jaime Arana、ボリビア共産青年同盟活動家。 エウスタキオ: 本名Lucien Galvan、ペルーELN活動家・無線技師。 パブリト: 本名Francisco Huanca、ボリビア農民。

10.12 ポンボの率いる6人のグループはEl Naranjalで政府軍と戦闘。兵士5人を殺害し包囲網の突破に成功。その後の長い逃避行に入る。

10.13 ロストウ,ゲバラの死に関する一切の疑問は解消された,と報告.

10.14 アルゼンチン警察の職員,ボリビア当局の要請によりラパス入り.保管された指紋とホルマリン漬けにされた「ゲバラの手」の指紋とを照合.合致することを確認する.

10.14 ベネズエラ中央大学の学生がゲバラの死とアメリカの介入に抗議するデモ。

10.15 バリエントス大統領、ゲバラの遺灰がVallegrandeの秘密の場所に埋められたと語る。

10.15 カストロ,ゲバラの死を確認.バリエントス大統領,ゲバラの遺骸はバジェグランデの秘密の場所に埋葬されたと発言.

10.16 ボリビア軍当局がコミュニケを発表。軍部隊と「アカ」の集団との間で戦闘が発生した。場所はラ・イゲーラ。集団を率いていたのはゲバラで、他のメンバーとともに死亡した。死亡時刻は10月8日午後8時前後である。遺体が保持していた日記の筆跡鑑定によりゲバラであることが確認された。

10.18 ラパスのダグラス・ヘンダーソン米大使、ゲバラの死を公式に確認すると国務省に打電。検死報告と指紋分析のレポートを添える。

10.18 CIAの総括文書がゲバラの敗因となったミスを指摘。

ゲバラの死とボリビアでのゲリラの敗北にはネガティブな要因と数多くのミスが絡んでいる。ゲリラ部隊にゲバラがいることは、攻撃にあったとき、彼とほかの指導者を守る可能性を排除する。ゲリラは死ぬか逃亡者として生きながらえるかの選択しか与えられていなかった。ゲリラが農民たちに依拠していたというのも誤解だった。もう一つはボリビア共産党に対するゲバラの過信である。この党はできたばかりで、未熟で、強い指導力もなく、トロツキスト系と親中国派に分裂していた。ボリビアでのゲリラの失敗は、軍の功績ではなく、ゲリラ指導部自身の誤りのためである。

10.18 カストロ,革命広場に集まった百万近い民衆を前にゲバラへの弔辞を発表.「彼の生涯は歴史の輝かしい一ページであった」「たぐい稀な軍事的才能はかれをゲリラ戦の芸術家に押し上げた」

ゲバラの生涯をかけた帝国主義との闘いと、彼の理想は将来の革命世代を鼓吹するだろう。彼の生涯は歴史の輝かしい一ページとなるだろう。彼の並外れた軍事的能力と並びなき人徳は、彼を「ゲリラ戦争の芸術家」にまで高めた。まもなく「彼が人生と知性を捧げた芸術は滅ぼし得ない」ことが明らかになるだろう。ゲバラを殺したものは失望するだろう。

11.13 6人グループ、La Cabanaで発見される。エル・ナト(本名Julio Luis Mendez、ボリビア人で農民出身、ペルーのELNに所属)が背骨を打たれ動けなくなる。

11.15 6人グル-プがMataralまで達する。ナトは同志に懇願し命を絶つ。

12月 5人グループがコチャバンバ近くまで達する。Inti PeredoとUrbanoが市内に入り脱出の準備に着手する。

 

1968年

2.22 インティ・ペレドを残し、残りの4人が脱出。ボリビア人ガイドEfrain QuicanezとEstanislao Villcaが案内し、徒歩でアンデス山脈を横断しチリ領内に入る。アリカの125マイル南の地点でサルバドル・アジェンデ上院議員が迎え、タヒチに連れ出す。

ポンボのほか、ウルバノ、ベニグノ(本名 ダニエル・アラルコン・ラミレス、キューバ軍大尉)とダリオ(ボリビア人活動家)

3 ポンボら4人がキューバに帰還.ポンボ(ハリー・ビジェガス)はその後も軍務を継続し,アンゴラ戦争にも指揮官として参加.准将に昇進.

6 ゲバラ暗殺時に内相をつとめたアントニオ・アルゲーダス,ゲバラの日記(原本ではなく,タイプ複写したもの)をキューバに売却.レネ・バリエントス政権を批判するとともに「ゲバラの動機は理解できる」と発言.さらにボリビア政府内におけるUSエージェントの役割を暴露.

7.2 ゲバラ日記,ハバナで刊行.アントニオ・アルゲーダスは,日記をキューバに渡したことが問題となり,この後,ラパスの街頭で暗殺される.

7.22 ゲバラ日記の出版とアルゲーダス暗殺をめぐり政情混乱.全土に非常事態宣言.

7.28 ELNの生き残りギド・”インティ”・ペレドらペレド兄弟,チリで第2次ELNの結成を宣言.「グランマ」紙に「われわれはふたたび山に戻る」を発表.

1969年

1 ELN指導者インティ・ペレド,ゲリラ闘争再開と声明.

7 コチャバンバのELN基地,政府軍の襲撃を受け壊滅.ビクトル・ゲラ副司令官らが殺害.

9.08 ELNのインティ・ペレド司令官,ラパス潜伏中を襲われ警察との交戦の末,射殺される.その後弟のオスワルド・チャト・ペレドがゲリラ闘争を継続.

12 チャド・ペレドの指揮するELN,現金輸送車を襲撃.