グアテマラ年表 その4

ルーカス・ガルシア政権 リオス・モント政権 メヒア・ビクトレス政権 ビニシオ・セレソ政権 ホルヘ・セラーノ政権

カルピオ・デ・レオン政権 アルバロ・アルスー政権 ポルティージョ政権

 

ルーカス・ガルシア政権

1980年

4.19 メンチュウの母が誘拐される.数週間にわたる拷問とレイプの上殺害され,死体は山に捨てられる.リゴベルタはメキシコに亡命し,サン・クリストバル・ラス・カサスのサムエル・ルイス司教の庇護を受ける.

5・23 貧民解放軍(EGP)を中心に,FAR,ORPAの3組織が統一に合意.FARのモンサントが最高指導者に就任.事実上はEGPが掌握.反対派はIXIMを結成.URNGへの参加をめぐりPGT内部に深刻な議論.労働党は三派に分裂.カルロス・ゴンザレス書記長を擁しURNGの武装闘争路線に反対する最大の政治局派(”側近”)は3百,URNGへの積極的参加を主張するダニエル・リオス中央委員の指導する「全国指導部中核」派が2百,極左的方針をとる軍事委員会派が50と影響力を激減.

6.21 警察,キリ民党系のグアテマラ労働者全国連合(CNT)本部を襲撃.活動家27名を拉致.ほとんどが「失踪」する.

強制失踪反対デー: 現在ではこの日が民主勢力の記念日とされる。この日を境に暴力行為はエスカレート。軍による不当な拘束、強制失踪の犠牲となった人々は約45,000人に上ると推定される。グアテマラ社会は恐怖の下に置かれ、労働者は自由に集まることが不可能となる。

6 FAR,ネッスル社中米地区支配人,グッドイヤー社現地社長などをあいつぎ誘拐.

7 死の部隊,中道政党排除作戦を展開.1年間でキリ民党幹部76人と社会民主連合革命戦線(UDS=FR)幹部10名,革命統一戦線(FUR)幹部17名が暗殺される.CNUSは秘密会議にふみこまれ,指導者27名が殺され影響力を失う.

8 メキシコ,ベネズエラの両国,サンホセで会談.中米・カリブ9ヵ国への石油供給計画で合意(サンホセ協定).

8 EGP傘下のチェ・ゲバラ部隊,ウェウェテナンゴで作戦展開.

9.02 クラメール副大統領,右翼の人権侵害に抗議して辞任.

9 サンチアゴ・アティトランのカトリック放送局長,死の部隊により殺害.ゲリラ,国会宮殿に爆弾テロ

11 国連総会でベリーズ独立決議採択

12 メキシコ,全軍の半分におよぶ4万人をチアパスの国境地帯に配置.グアテマラ・ゲリラの根拠地となることを拒否.

 

1981年

81年1月

1 白色テロ組織「ESA」,イエズス会をみな殺しにすると宣言.

1.03 軍はチマルテナンゴ,ソロラ県で最大規模の反乱鎮圧作戦を実施.サンチアゴ・アティトランでインディオ祈祷師ディエゴ・クイクら町民17名を誘拐・拷問・殺害.その後の数ケ月で千5百人以上が殺害.

1 ハバナでグアテマラ国民革命連合(URNG)と愛国グアテマラ委員会(CGUP)が発足,革命諸組織の統一なる.労働党側近派の加入は中核派により拒否される.22県中16県で作戦展開.EGPは北西部を中心に各地で武装蜂起.ORPAは南西部,FARはペテンの北方で作戦を展開.

1月 レーガン,大統領に就任.まもなくグアテマラへの軍事援助を再開.

81年2月

2.18 アムネスティ・インタナショナル,ルカス・ガルシアが大統領に就任して以来3年間で5千人が暗殺されたと報告.とくに1980年1−10月に集中して3,000人が殺された.

3 国連人権委員会,グアテマラにおける人権抑圧に対する憂慮を表明.ルーカス・ガルシア政権は「政府に反対するものはすべて共産主義者」と規定して徹底的な弾圧をおこなう.

4.09 チマルテナンゴ州チュアバヒトで治安部隊により市民23名が虐殺.

5.01 労働党側近派,武装闘争への参加を正式に表明.

5 ヴァーノン・ウォルターズ,移動大使に任命されグアテマラを訪問.記者会見でルカス・ガルシア政権の「平和と自由の防衛政策を支援する用意がある」と支持.ヴァーノン・ウォルターズは元CIA副長官で,グアテマラの石油探索をおこなう国際カルテルのコンサルタント.

6 ペテンのウスマシンタ川流域で,軍がインディオ集落を襲撃.農民50名が殺害.3千5百人の農民がメキシコに逃れるが,メキシコ政府は翌月強制送還.

6 ORPAが武装闘争を開始.2百名の兵力でサンマルコス,レタルレウなどの各地の警察署を相次いで襲撃.首都では摘発により指導者3人以上が殺される.

7.1 イタリア生まれのフランシスコ会神父ツリオ・マルソー,イサバル県キリグアで機関銃により射殺.過去1年半で「失踪」あるいは殺害された8人目の司祭.

81年7月

7月 グアテマラ軍事政権,全土に戒厳令を布告.『黒い7月』と呼ばれる二つの鎮圧作戦を開始.サンマルチン・ヒロテペケ基地に配備された『イシムチェ』特殊部隊5千人が作戦に従事.

黒い7月作戦 南部海岸地帯の二つの地区を作戦対象とする.
@スチテペーケス県北部とソロア県南部にまたがるコーヒー地帯(パトゥルル,サンタバルバラ,リオブラボ,チカサオ,サント・ドミンゴ地区)
A「河口地帯」とよばれるコーヒー農園地帯.具体的には西部ケサルテナンゴ県コロンバ,コンセプシオン,チキリチャパ,サンマルチン・サカテペケス地区,およびサンマルコス県のタカナー,タフムルコ地区.

7.28 オクラホマ出身の46才になるメリノール会神父スタン・ローザー,サンチアゴ・アティトランの虐殺事件を暴露したことを理由に暗殺される.

7月 CUCの指導者で,ラジオ・キチェの人気アナウンサー,エメテリオ・トホ・メドラーノ,誘拐され拷問を受ける.CUCはメドラーノの解放のためEGPに接近.

7月 メキシコ駐在グアテマラ大使,チアパスの難民が地主に虐待されていると批判.後払いで労働させ,支払時期が来ると官憲に密告し,強制送還させる手口が横行.

7月 ORPA,「EGPがURNGの指導権を乗っ取ろうとしている」と非難.さらにEGPの冒険主義的な闘争方針を批判.作戦開始後,ORPAはマノロ司令官の死亡など多くの犠牲を強いられた.

81年8月

8月 PGT側近派,URNGとの関係を公式に破棄.

8.15 中米+パナマの6ヶ国外相会議,テグシカルパ宣言を発表.先進国の農産物買い叩き,紐つき援助の緩和を要求.

8.25 ペテン県エルアルボルトでカイビレス(特殊暴動治安部隊)により50人が殺害,数百名の農民が「失踪」.

81年9月

9.01 メンデス保健相,左翼ゲリラに誘拐される.

9.07 グアテマラ,英のベリーズ独立承認に抗議.対英領事関係を断絶.

9.21 ベリーズ独立.グアテマラはベリーズの領有を主張しイギリスと断交.

10 バハ・ベラパスに軍の大規模攻勢.2週間で千人を殺害.北部キチェでは焦土作戦を展開.インディオ15万人がメキシコに越境し亡命を求める.難民に対するメキシコ官憲による掠奪強姦事件頻発.

10 キューバの仲介により4派の合同軍事・政治組織結成へむけての協議開始.

81年11月

11月 南部海岸部への「黒い7月」作戦に続き,キチェとウェウェテナンゴ県を中心に北西部への「灰燼作戦」が組織される.チマルテナンゴに軍事基地建設.兵力は5千から1万5千に増強.ガルシア大統領の弟ベネディクト・ルーカス・ガルシア将軍が司令官就任.高地攻撃部隊の指揮をとる.

11月 「イシムチェ機動部隊」,パンアメリカン・ハイウエイ沿いにメキシコ国境近くまで焦土作戦を展開.ソロラー県北部,キチェ県東南部,アルタベラパスとバハベラパス西部でゲリラ掃討作戦を展開.「クマルカハ機動部隊」の1000名は,キチェ北部のイシル三角地帯を中心に行動.攻勢はチマルテナンゴ県とキチェ南部を中心に翌年2月まで続く.

11 米国人修道女2人を含む4人の教会関係者がソテロ教会で誘拐される.国際行動の結果,釈放が実現.

81年12月

12 翌年の大統領選に向け,与党FDPはアンヘル・アニバル・ゲバラ国防相を指名.前副大統領のロベルト・アレホス・アルスのひきいる国民統一戦線(FUN)もゲバラを支持.MLNからはサンドバル自身が立起.アラナ・オソリオ元大統領を支持する一派は,アラニスタ中央組織(CAO)を結成.のちに国民真正中央党(CAN)と改称.グスタボ・アンスエト・ビールマンを候補に指名.唯一の中道候補として国民反対連合(UNO)からアレハンドロ・マルドナドが立起.

12 ORPAの指導者で現職経済相の姪フリア・ソロルサノ(イネス司令官),銃撃戦で死亡.

81年末 キチェ県でPACs(民間武装自衛隊)が結成される。その後全国に組織が組織される。

 

リオス・モント政権

1982年

82年2月

2.09 ORPA,EGP,FAR,PGTの4組織が統合に合意.ハバナでグアテマラ民族革命連合(Unidad Revolucionaria Nacional Guatemalteca - URNG)を結成.URNGは結成宣言を発表.抑圧政策の破棄,大土地所有制の廃止,物価統制と賃金保障,原住民とラディーノの平等,すべての階層が参加する政府などをうたう.

2.13 キチェ県のアチェ族の集落リオ・ネグロの住民74人が自警団により虐殺される。チショイ・ダム建設に反対していたのが理由と見られる。軍はさらに3月13日に村を襲い、住民177名(女性70名、子供107名)を虐殺。

2.16 ルイス・カルドサ・アラゴンら、グアテマラ統一愛国委員会(Comite Guatemalteca de Unidad Patriotica - CGUP)を創設。

2.21 左派の革命勢力連合(FUR)から立起を表明したギジェルモ・アルフォンソ・ロドリゲスはグアテマラ市内において爆弾テロに会い爆死.

2.21 ゲリラが同国西部セレグア川にかかる2本の橋を爆破.メキシコとグアテマラを結ぶ高速道路が不通になる.

82年3月

3.05 ゲリラが,同国最大の新聞『プレンサ・リブレ』社主の1人を誘拐.大統領選ボイコットを呼びかける声明の掲載を要求.

3.06 グアテマラ市でゲバラ大統領候補の車が爆発し,警護隊長が死亡.

3.07 戒厳令下に欺瞞的大統領選,「人民民主戦線!」のアンヘル・アニバル・ゲバラ前国防相が当選.ゲバラは極右と結びついたコパン・グループの一員で,ガルシアの後継者。マルドナードは24%の得票.

3.10 選挙管理委員会がゲバラ候補の勝利を発表.

3.13 サラマ県アグア・フリアで準軍事組織による住民大虐殺.

3.13 国会,大統領選の決戦投票を行ない,ゲバラの当選が確定.サンドバルはまたしても敗北.

3.23 若手将校による軍事クーデター.ルカス・ガルシアを辞任させ大統領選の結果を無効と宣言.6人からなる軍顧問会議メンバーを指名.背景に米国大使館の圧力.米政府はグアテマラのクーデターについての論評を避ける.

3.24 軍事評議会,憲法を停止.亡命中のエフライン・リオス・モント退役将軍を軍事評議会議長にすえ,ドナルド・アルバレス・ルイス大統領府長官,オラシオ・エグベルト・マルドナード準将,ルイス・ゴルディリョ・マルティネス大佐らをかつぐ.リオス・モント評議会議長が大統領と国防相を兼務することとなる.

3.30 米政府,グアテマラ軍事評議会政権を承認.

3.31 ゲリラ,米大使館に爆弾を投げ込む.

3 グアテマラとメキシコの国防相,国境地帯のゲリラ対策について協議.

3月 キチェ県の北側3分の1を占めるイシュカンで、軍による大規模なEGP殲滅作戦。犠牲者数400人を超えるクアトロ・プエブロの大虐殺が実行される。生存者は山中に逃げ込み「抵抗の共同体」(CPR)を結成する。

82年4月

4.01 リオス・モントを首班とする軍事評議会成立.PRとPIDからなる人民民主戦線(FDP)のほか,前副大統領ロベルト・アレホス・アルスの結成した国民統一戦線(FUN)もリオス・モント支持を表明.リオス・モントは「死の部隊」を無力化し司法警察(秘密警察)を解散.腐敗した警察の「麻薬部隊」を統制下におくなどの改革案を提示.

4.03 政府軍,キチェ県チュル村を襲う.女性をレイプした後大量虐殺.少なくとも60人がのどを掻ききられ殺害される.

4.21 軍はキチェのアクル村を襲い大虐殺.後に23の遺体が発見される.スチテペケス県サント・ドミンゴ地区のベレン村.元軍基地跡から18人の遺体が発見される.ベレン村では80年から83年にかけて200人が行方不明になっている.EGPの組織した農民統一委員会(CUC)が,砂糖農場と綿花農場で賃金引き揚げをもとめる闘争を起こしていた.

82年5月

5.12 ゲリラ,ブラジル大使館を占拠,シルバ大使らを人質にとる.

5.28 リオス・モント,「ハート&マインド」作戦を提唱.ゲリラへの大赦を発表し停戦を提案する.URNGは「革命以外に改良の道はない」としてこれを拒否.

6.09 軍事評議会内で権力の移動.リオス・モント,三人委員会を解散し同僚二人を解任.大権をみずからの手に集中.非常事態を宣言し独裁者への道を歩み始める.都市部の暗殺停止を宣言.いっぽう民間防衛隊(PAC)を組織し,地方での反乱鎮圧作戦を強化.

82年7月

7.01 リオス・モント,全土に戒厳令を布告.原住民地域で大虐殺「ライフル銃と豆作戦」(Fusiles y Frijoles)を実行.キチェ,ウェウェテナンゴ,サンマルコス,チマルテナンゴ,ベラパス,ペテンなどの地方ではゲリラの徹底的弾圧をはかる.「魚の泳ぐ海を水ごとなくす」と宣言.その後プロテスタントのリオスモントは,米国のプロテスタント反動層をバックに次第に独裁色を強める.

7.18 プラン・デ・サンチェスの虐殺。アルタ・ベラパス県のラビナル近郊の村プラン・デ・サンチェスで住民の虐殺。60人の兵士と4人の警官が村の出入り口を封鎖。少女と若い女性20人は一ヶ所に集められ、レイプされた後殺害される。他の住民は、家の中庭に集められた後、手榴弾を投げ込まれ、さらに機銃掃射を浴びた。幼い子供たちは、死ぬまで殴られるか蹴られた。家はその後焼きつくされた。94年の発掘で、19の穴から84人の犠牲者の遺骸が発見された。

7.18 ニューヨーク・タイムズ,リオス・モントが原住民に語った「もしあなたが我々とともにいれば,私は与える.もしそうでなければ,我々はあなたを殺す」という言葉を引用.その残虐さを非難.この頃政府軍の組織した地方住民自衛パトロール隊(PACs)がゲリラを圧倒.リオス・モント在任中だけで民間人20万人が殺害され,ゲリラは山中での闘いを余儀なくされる.

7.28 非常事態宣言がさらに30日間延長される.軍当局,662の村を破壊したと発表.数万人が死亡,百万人が家を失い,15万人がメキシコに亡命.ゲリラ戦困難に.

7月 人権オンブズマンの報告(96年)によれば、この月だけで、プラン・デ・サンチェス、チチュパク、リオ・ネグロなど42件の大虐殺作戦が実施される。

8 FARはペテンの根拠地を放棄.チマルテナンゴとキチェを中心とする旧来のゲリラ根拠地に移動しテクン・ウマン戦線を結成.EGPは元のMR13の根拠地,シエラ・デ・ラス・ミナスに進出し,「11月13日戦線」を編制.

9.14 キチェ県リオ・ネグロで,PACによる住民大虐殺.

9 オスカル・メヒア・ビクトレス準将,国防相に就任.

82年12月

12.04 レーガン米大統領が中米訪問.テグシガルパでホンジュラスのスアソ大統領,グアテマラのリオス・モント大統領と会談.

12.17 国連総会,グアテマラにおける人権侵害を非難する決議を圧倒的多数で採択.原住民「平定」作戦が最高潮に達する.この年だけで1万8千の民衆が軍やパラミリタリーの手により殺害される.

12 ORPA,ガスパル・イロムが自ら指揮して,サンマルコスとウェウェテナンゴで初の本格的戦闘を展開.

 

1983年

83年1月

1.06 リオス・モント,制憲議会選挙を84年3月に実施すると発表.米国はこれを受けグアテマラへの武器援助を再開.

1.07 政府,国連決議に対抗して非常事態令を公布.観光の減少,コーヒー価格の下落,原油価格の低迷などが重なり,物価騰貴が深刻化.米国務省,77年以来停止されていたグアテマラ向け武器輸出を解禁.

1.23 政府,さらに非常事態を延長.

1 リオス・モント,ベリーズにたいしトレド地方の割譲を要求.プライス首相はこの要求を拒否すると同時に,グアテマラへの軍事援助を行う米国を非難.

83年3月

3.03 ローマ法王,グアテマラを訪問.リオス・モントは法王の恩赦要請を拒否.法王到着の前日,法王が助命を求めていた左派政治犯6名の処刑を強行.

3.07 グアテマラ訪問中のローマ法王,ケサルテナンゴで説教.インディオの権利を守るため,非暴力を前提に,みずからたち上がるようよびかける.

3.23 リオス・モント,テレビで演説し「われわれは罪を犯してきた」と「懺悔」.非常事態の内容を緩和,亡命者への恩赦と政党活動の合法化を宣言.あらたな立憲体制の実現をよびかける.MLNは「まったくの茶番」と一笑に付す.

3 ORPA,「勝利の1月闘争」を展開.軍人65人を犠牲にし武器多数を捕獲したと発表.チマルテナンゴ,ソロラ県にまたがる安定した支配区を確立.武装農民部隊としてFILを創設.

3 PGT軍事委員会派,60年代後半にゲリラ殲滅戦で活躍したマキシモ・セペダ退役大佐など3人を相次いで暗殺.PGTは事件への関与を否定.軍事委員会派はのちにURNGをも批判し,極左派の拒否派人民革命運動に合流.

83年4月

4.12 コンタドーラ・グループの4カ国外相,紛争の話し合い解決目指し中米諸国を歴訪.

4 PGT幹部のラウル・ソロルサノとマリオ・ロペス,メキシコで記者会見.URNGのゲリラ戦争路線がリオス・モントによる大量虐殺を招いたと批判.アントニオ・カストロ政治局員は「ニカラグア革命の勝利により,武装闘争による勝利が簡単に得られるという幻想が広がっているが,内外の情勢を見れば,この幻想は民主勢力の団結を著しく傷つけている」と表明.

83年5月

5 ポール・ゴーマン,米南方軍司令官に就任.2年間の在任中,国際的右翼と接触をとりながら,反共政策を強引に推進する.

5 人権団体「アメリカズ・ウォッチ」,リオス・モント政権を糾弾.「女性と子供がもっとも犠牲となった.女性はレイプされてから殺された.子供は壁に叩きつけられたり,締め殺されたり,生きながら焼かれたりして殺された.そのほかに3万5千が「行方不明」となった」と述べる.

6.29 国軍内部にクーデターの動き.リオス・モント,非常事態を宣言.

7.20 グアテマラ・エルサルバドル・ホンジュラス・コスタリカの中米4ヵ国外相,紛争自主解決目指す8項目の和平案を発表.

 

 

メヒア・ビクトレス政権

83年8月

8.06 ウェルナー米南方軍副司令官の乗艦する米軍艦,グアテマラ沖合に進出しグアテマラ軍幹部と極秘会談.グアテマラのオスカル・ウンベルト・メヒア・ビクトレス国防相,エルサルバドルのビデス・カサノバ国防相,ホンデュラスのアルバレスが参加.グアテマラのクーデターについて合意.中米反革命戦略の建てなおしをはかる.

8.08 深刻化する不況に業を煮やした軍部主流派は,メヒアス・ビクトレス国防相の指揮の下にクーデターを決行.国軍最高司令部決定でリオス・モントを解任.パナマの南方軍はクーデターを支持する姿勢を示す.

8.09 新国家元首にメヒア・ピクトレス国防相が就任.カスティージョ外相を更迭.後任にフェルナンド・アンドラーデ.6月29日布告の非常事態を解除.

8.10 ヒューズ米国務省報道官,米国はグアテマラのメヒア新政権全面支持と言明.米議会はこれを承認せず.

83年10月

10.13 米の中米問題特別委員会(キッシンジャー委員会),グアテマラ訪問.メヒア政権は1984年7月1日に制憲議会選挙,1985年中に大統領選挙を実施すると公約.

10 米州人権委員会,「軍部はすべての村を破壊し焼き尽くし,略奪している」と強い調子で非難.国連の小委員会ではグアテマラを内戦状態にあるとし,URNGに交渉権を認める宣言.

12.06 政府軍のサモラ参謀長,6年ぶりに米国から武器を購入したと発表

 

1984年

84年1月

1.03 ストーン中米特使がグアテマラ訪問.メヒア国家元首,アンドラデ外相と会談.

1 URNG,武装闘争を再開.EGP幹部3名の逮捕と処刑に抗議し,ORPAとEGPが共同作戦.大統領宮殿を襲撃しようとして,グアテマラ市内で銃撃戦を展開.FARはペテンのほかチマルテナンゴ,ソロラ,エスキントラなどで活動.

1 ORPAのシルビア・グティエレス,「統一過程が進み,政治・軍事行動において共同が飛躍的に発展した」と表明.URNG内でのORPAの比重高まる.

1 米国,グアテマラへの軍事援助再開

2 社会民主党ガルベス党首射殺体で発見.要人に対するテロあいつぐ.

84年5月

5 「自由な労働運動の発展をめざす全米協会」の支援を受けグアテマラ労働組織連盟(CUSG)結成.当初は御用組合の連合,急速に自主的な傾向を強め,10万人を組織するにいたる.コカコーラ社における座り込み闘争が国際的な注目を集める.

6.09 コンタドーラ・グループ4外相,中米4か国を歴訪.和平実現のための条約草案を提示.

7.01 軍事政権の手により制憲議会選挙実施.キリ民党が第1党となるが,国民解放運動と真正民族主義者党の極右政党が連合を組み,多数派を占める.民政移行を謳う新憲法を制定.

84年 行方不明者の家族が「相互支援団」(GAM)を結成.自助的な捜査活動を展開.国内各所に隠された私的留置場を摘発.メヒア将軍は「行方不明者の捜査は反乱行為であり,政府はこれと対決する措置を講じる」と発表.指導者2名およびその家族を殺害.その後次々に幹部が虐殺される.

84年 メキシコ,国境地帯でのゲリラの活動を防ぐため,難民4万6千人をカンペチェに移動.

 

1985年

1 URNG(FAR),エル・ペタン地方で四つの町を三日間にわたり占拠.

2 URNG,軍事闘争の新段階を宣言.

5.30 新憲法草案が議会で承認される.民政移行の方向を打ち出す.直ちに実施に移される.

5 CUSG左派はUNSITRAGUAを結成.

7 FAR,ペテン北部の外資系石油会社を襲撃,陸軍部隊と衝突.

11.03 31年ぶりに大統領選挙.米政府の支持を受けたキリ民党のヒニシオ・セレソが一位を占め,MLNのマリオ・サンドバルとの決戦投票となる.第三位には中道右派でエル・グラフィコ紙社主のホルヘ・セラーノ・エリアス.

11.12 ECと中米6ヵ国との経済協力協定が,ルクセンブルグで調印される.

12.08 決戦投票でセレソがサンドバルを破る.国会議員選でもキリ民党が100議席中51議席を獲得し、引き続き勝利.

12.17 国連総会,対ニカラグア経済封鎖の解除を米国に要求する決議を採択.またチリ,エルサルバドル,グアテマラにおける人権抑圧を非難する決議も採択.

 

ビニシオ・セレソ政権

1986年

1.14 セレソ,大統領に就任.31年ぶりの民政復帰.ニカラグア問題解決に動く.大統領就任式に引き続きセレソ・オルテガ会談.M19問題についても討議.

2 セレソ,”耳”とよばれた国家警察技術捜査部門(DIT)を解散,指導者の過去の犯罪についての追及なし.メンバーの多くは国家警察に鞍替え。

5.02 アンドレス・ヒロン神父にひきいられたエスクイントラ県ティキサテとヌエバ・コンセプシオンの農民,放棄された旧綿花畑を解放するよう要求.1万6千人の農民が土地をもとめ,ヌエバ・コンセプシオンから首都まで5日間,147キロにおよぶデモ行進.

5.24 グアテマラの保養地エスキプラスで中米5ヵ国首脳会議開催.中米紛争の平和的解決促進目指す.中米議会創設などで合意.

5 FAR,ペテン北部で数カ所の町を占拠.石油パイプラインを破壊,陸軍の中隊を攻撃.

7 ヌエバ・コンセプシオンの農民,セレソの早期返答をもとめ2万5千の集会を開催.

11 チマルテナンゴ県の農民,農地の実力占拠行動を開始.

12.29 英国との外交関係が復活.

12 セレソ,政令71号を公布.公務員の労働組合結成を許可.キリ民党系の労働組織CGTG結成.公労協は5万人を組織する.

12 米政府,麻薬ルートにキューバ,ニカラグア,パナマが関与しているとの大宣伝開始.

 

1987年

1.19 CG+SGとデクエヤル国連事務総長で構成するラテン・アメリカ紛争調査団,中米諸国を歴訪.

2.15 サンホセでニカラグアを除く中米4か国の首脳会談.

2 URNG,政府に交渉開始を申入れるが政府は拒否.

3 政府,スチテペケ県マサテナンゴで土地を占拠した農民を強制排除.以後暴力による農民圧迫が復活する.

4 公労協の賃上げ要求ストに17万人の公共労働者が参加.2週間にわたるストを打ち抜く.

6.04 グアテマラ外務省,中米首脳会議を25,26の両日グアテマラ市で開くと発表.

6 タフムルコ火山に立てこもるURNG(ORPA),ラジオ放送「人民の声」を開始.

8.06 グアテマラ・シティーで中米5ヵ国首脳会議が始まる.

8.08 エスキプラス合意2が発表される.

8.10 URNG,政府との対話開始の用意はあるが,武装解除には応じられないと発言.

8 国民和解委員会結成.カトリック教会代表としてサカパのロドルフォ・ケサーダ司教が委員長に就任.政府代表カルピオ副大統領,野党代表ホルヘ・セラーノ(MAS:連帯行動運動),民間著名人テレサ・デ・サルコ(プレンサ・リブレ紙社主)をメンバーとする.政府,人権オンブズマン事務局を設置.最高裁でも一連の改革が始まる.

10.13 ノーベル平和賞にアリアス・コスタリカ大統領.

10 政府とURNG,マドリードにおいて和平会談開始.URNGの代表はガスパル・イロムがつとめる.URNGは政治・社会・経済問題についての意見交換をもとめるが,具体的成果はみられず.

11.05 エスキプラス合意に基づく停戦実施が期限切れを迎える.グアテマラにおいては停戦は実現せず.

11 軍部,アグアカテ村において農民22名を殺害.

 

 

1988年

1.4 国際検証委員会の調査団,中米各国を回り,合意事項の実施状況を調査.

2 一説によれば,ゲリラは5百から7百にまで減少.大規模な戦闘能力をほぼ消失.

3 独立系紙「ラ・エポカ」,反共秘密軍(ESA)により爆破,新聞記者一人を誘拐殺害. 

4.24 全国272町村の一斉首長選挙が行なわれ,キリスト教民主党が140町村を制し大勝する.

4 海外亡命者連絡会(RUOG)の代表リゴベルタ・メンチューら帰国.ただちに逮捕される.

4 グアテマラ政府,コスタリカを中米議会創設条約未批准のため非難.

5.11 極右派軍人による軍事クーデター発生.軍主力部隊により鎮圧,未遂に終わる.

5.30 マイアミで,グアテマラとベリーズの交渉が1年ぶりに再開される.

6.22 テグシガルパで中米外相会議(和平実行委員会)開催.

6.27 シュルツ米国務長官,グアテマラ訪問.和平促進を促す.

7 国連高等難民弁務官事務所(UNHCR),中米地域における難民数は50〜60万人にのぼると発表.

8.01 シュルツ米国務長官とニカラグアを除く中米4ヵ国の外相が,合同外相会議.

8.23 URNGと民族和解委員会がコスタリカで初会合.和平問題だけではなく,グアテマラの対立の基礎をなしている社会不公平についての国民的な意見交換を行なうことで合意.

88年11月 エル・アグアカテの虐殺事件

11.25 サン・イシドロ近くのシエラマドレ山中で、21人の農民が虐殺される。農民たちはチマルテナンゴ県サン・アンドレス・イツァパ郊外のエル・アグアカテ村から拉致された。逃亡に成功した農民は犯行がORPAによるものと供述。政府,ゲリラがアグアカテ村で農民22人を殺したと発表.のちに調査により政府軍自身による虐殺であることが暴露.

11.28 URNG、チマルテナンゴ県中西部で、二度にわたる待ち伏せ作戦に成功。政府軍兵士25人を殺害したと発表。事実上、農民殺害を認める。

11.29 URNG総司令部、前日の声明を翻し、犯行は政府系機関によるものだったと非難。

12月初め グアテマラ政府、二人の生存農民を米国に派遣し、ゲリラ非難のキャンペーン。いくつかの人権団体は農民の証言の信憑性に疑問を投げかける。

12.15 犠牲者が山でゲリラに殺されたのではなく、チマルテナンゴの軍事司令部302で、軍によって殺されてから山に埋められたのだとする証言が現れる。

12 コントラへの人道的援助物資輸送に,ラモン・マッタら四つの麻薬カルテルが使われていたことが,上院の調査であきらかに.

88年 公労協を中心に農民団結委員会(CUC),教員組合(STEG),CUSG,UNISITRAGUAなどが結集し労組・市民行動同盟(UASP)を結成.

88年 CIAのグアテマラ支局長,亡命キューバ人に交替.このとき支局は20人の職員を抱え,年間予算は500万ドルに達していた.予算のほとんどは高級軍人への情報提供料の支払いにあてられる.

 

 

1989年

2.09 ニューヨークで中米5ヵ国外相会議,国際監視団設置要求で合意.

2.13 サンサルバドルで中米首脳会議.1990年2月25日までのニカラグア民主化選挙実施で合意.またニカラグアの反共ゲリラ・コントラを本拠地のホンジュラスから一掃することで合意.

2 国連サンフォード委員会,最終報告を発表.エスキプラス合意を土台に中米諸国がおこなう経済再建への自主的努力を尊重しつつ必要な援助をあたえることで合意.

3.02 セレソ大統領,訪米し,ブッシュと会談.

3.26 グアテマラ市郊外の刑務所で暴動が発生.

3.29 刑務所暴動,拡大.囚人約100人が脱獄,翌日には暴動が収拾される.

5.09 前年5月に続き,空軍の一部がグアテマラ市内で反セレソのクーデターを計画するが,未遂におわる.

6.13 政府の人権オンブズマンGonzalo Menéndez de la Riva、「アグアカテの虐殺については、それを防げなかったこと、誰が行ったかを確認し得ないことで、国家に責任がある」と述べる。

11.23 中米各国の司教50人,エスキプラス合意にもとづく和平交渉再開を各国大統領によびかける.

89年 「労働・大衆行動連合」(UASP)がCNRの中心となり全国対話を推進.47の市民組織から84人の代表が参加し15の委員会に組織される.国連のオブザーバー参加のもとに,CNRとURNGとの対話が繰り返される.セレソは武装解除前の和平交渉開始を拒否.

 

 

1990年

1.29 IACHR特別調査団がグアテマラを訪問。アグアカテ事件の真相解明に当たる。

1月 政府は、武装解除の前に武装勢力に会う意思を表明.CNRに政府の代表者を送る.公式の仲裁者にサカパ司教のロドルフォ・ケサダ・トルノを指名する.国連事務総長もオブザーバーとして招聘される.

3.30 URNGと全国和解委員会(CNR)とのあいだで「政治的な手段による平和のための基本的合意」(別名オスロ合意)が締結される.文書は政府・軍との交渉に至る対話の時刻表を含む.ロドルフォ・ケサダ・トルノ大司教が和平交渉の仲裁者になり,国連のオブザーバー参加を懇願する.

5.28 URNGとグアテマラ国内の主要政党が,スペインのエスコレアルで会談.URNGの合法化と選挙参加の方向で一致.

6.15 アンティグアで第8回中米首脳会談開催.中米地峡経済共同体の創設にむけ中米経済行動計画(PAECA)を合意.セレソ,クリスティアーニは和平交渉進展への意志を表明.

8月 オタワ(カナダ)で,URNGと「農業・商業・工業・金融連絡会議」(CACIF)との間の会談.

9.12 セレソ就任後3度目のクーデター未遂事件.

9月 キート(エクアドル)でURNGと宗教セクターとの会談.

10.12 前の独裁者で大量虐殺の責任者リオス・モントが、大統領選挙立起の意向を示す。選挙管理委員会は,大統領選挙の候補者資格を否定。リオス・モントは各界の強い反対に会い立候補を断念.

10月 Metepec(メキシコ)で,URNGと労働組合・草の根運動代表者・アカデミックなセクター・協同組合・中小企業代表者との個別会談.「武装対立の政治的な解決のためには,戦争の根本的な原因に立ち向かわなければならない」ことで合意.

11.11 大統領選挙.リオス・モント時代の国家評議会議長ホルヘ・カルピオ(UCN)が,身代わり候補として立起し35%の得票を獲得,首位で決選投票に臨む.前回選挙にも立起したホルヘ・セラーノ・エリアスが,連帯行動運動(MAS)から立起し第二位を占める.セレソの失政によりキリ民党は影響力を失う.

11 セレソ,公共バスに対する援助を大幅削減.バス労働者はこれに抗議し,1週間にわたるストで応える.

12.02 サンチアゴ・アティトランの先住民村で軍によるインディオ大量虐殺事件発生.軍隊が平和的な抗議に立ちあがった民衆2,000人に向け銃撃.12人が死亡,20人以上が重軽傷.ゲリラはアンティグアの変電所爆破などで報復.政府の再調査により,軍の対応が非難され,町は自治体の管理に戻される.

12.21 米国政府、グアテマラへの軍事援助を停止。

90年 グアテマラで観光ホテルを営む米国人マイケル・デバイン,盗品の銃を故買したとして軍に連行される.死の部隊に誘拐され,拷問のすえ殺害される.後にグアテマラ情報部のアルピレス大佐の指令によるものと判明.アルピレスは長年,CIAの情報提供者として年4.4万ドルを受け取っていた.CIAはこの事実を知りながら報告せず.

 

ホルヘ・セラーノ政権

1991年

1.06 大統領選の決選投票.キリ民党の支持を得たホルヘ・セラーノが、66%を獲得し逆転勝利.有権者の6割は棄権.35年間に10万人が軍に殺され,40万人が国外亡命.

1.14 ホルヘ・セラーノ,大統領に就任.MASは議会で116議席中18議席しかない少数与党のため,キリ民党との同盟(全国中道連合:UCN)を結成し政局に臨む.

2.08 セラノ大統領,URNGとの和平会談開始を宣言。また、「米政府の命令は受けない」とし,米国からの条件付き軍事援助再開の申入れを拒否.

3月 ホルヘ・セラーノ・エリアス大統領,『完全平和のためのイニシアティブ』を発表.閣僚レベルで人権委員会(COPREDEH)をつくると声明.オスロ合意からはるかに後退したものだが,保守的な民間社会の支持を受ける.

4.26 政府とURNGがメキシコで3日間にわたり和平会談.和平協定「政治的手段による平和探究の方法」の骨子がまとまる.@政治的方法で平和への道を作り上げること.A和平協定の目標を参加型の民主主義におくこと.B文民支配の原則をつらぬくこと,について確認.

6.12 メキシコ市でLA反帝勢力の国際会議.FSLN,FMLNなどが中心的役割.中南米地域における「国際的覇権の再構築をねらう米国の「自由貿易地域構想」に対抗するようよびかける宣言を採択.

6.17 メキシコのクエルナバカでURNGとの和平対話が再開される.その後,交渉は泥沼化.

7.15 第10回中米首脳会議,サンサルバドルで開催.FMLNの武装解除促進,中米統合をさらに推進すること,中米機構(ODECA)の再活性化,中米議会創設,地域統合にパナマも加わるよう呼びかけることで合意.この会議にはベリーズ代表もオブザーバー参加.サンサルバドル宣言を発表.

7.25 メキシコのケレタロで交渉の第2ラウンド.和平会談の進め方,経済・社会・政治的な問題、および軍隊の問題について,11の課題を会談で取り上げるべきとの認識で一致.

10.10 GATT,グアテマラが103番目の加盟国になったと発表.

10.28 中米議会が発足。グアテマラのロベルト・カルピオが議長に就任。任期は1年。

10 グアテマラのケサルテナンゴで「原住民・黒人・民衆の抵抗の五百年」を記念する第二回大陸会議開催.白人主義,植民地主義,新植民地主義を厳しく批判し,真の民主主義,原住民らの人権,女性差別などについて問題提起する「シェラフー宣言」を採択.

9.11 グアテマラ,ベリーズにおける主権主張を放棄し、両国間の国交を樹立.

 

 

1992年

1月 メキシコで第五次会談.政府は人権問題で態度を硬化.人権保証をめぐり行き詰まりが続く.相互の支援グループ(GAM)やその他の大衆の組織は、会談から排除される.

1月 ヨーロッパ人観光客数人が軍により殺害される.また9歳の子どもをふくむ4人の先住民が軍により虐殺される.事態を重く見たEC諸国は,国連人権委員会にグアテマラの人権状況についての調査を要求.

2.06 EC諸国の要請を受けた国連人権委員会,31年の内戦の引き起こした人権虐待の再評価に乗り出す.

2.26 国防長官リチャードB.チェイニーがグアテマラを訪問.セラーノ大統領の人権回復のための努力を賞賛.食物と開発援助に4700万ドル,経済援助として2000万ドル,軍事援助として27万ドルを供与することで合意.

3月 戦線拡大を計ったORPAのエベラルド司令官,銃撃戦のすえ軍当局にとらえられる.軍はエベラルド死亡と発表.その後タフムルコに猛攻をかける.

5月 URNG,交渉の行き詰まりを打開するため新しい平和綱領を発表する、メキシコ計画の議論のあるいくつかのアイテムを省略する.立憲的な改革、原住民の権利、土地保有権、税制改革については従来の主張を繰り返す.しかし政府は、軍、政党、そして、ビジネス提携との戦略的な同盟を維持するためには受け入れ難いとして提案をはねつける.

7月 米国貿易委員会とAFL-CIO,労働組合の禁止を含む不公正労働慣習についてグアテマラを現地調査.

7 インディヘナ農民全国調整委員会結成.「基礎共同体を手がかりに,母なる大地を全員のために生産をおこなえる場とするために獲得,奪還するたたかい」を進めると声明.

8月 URNGと政府,民間国防パトロール(PACs)の活動を止めることに関する部分的な合意に達する.既存のPACsは残るが,武装勢力が攻勢をかけた場合のみ行動を許されることになる.またUNHCRの監視のもとにメキシコからの避難者の復帰を促進することでも合意.

9 国際司法裁,エルサルバドル・ホンジュラスの国境画定案を提示.係争地域の2/3をホンジュラスに帰属させること,現住するエルサルバドル人の権利が認められることで両国が合意.フォンセカ湾についてはニカラグアもふくめた三国の共有水面とし,エル・ティグレ島はホンジュラスに帰属させることとなる.

10 グアテマラとメキシコのあいだで難民帰還協定成立.帰還者を偽装ゲリラとみなす軍の一部や「民間パトロール隊」が帰還者への襲撃を繰り返す.

10.16 リゴベルタ・メンチュウ,ノーベル平和賞を受賞.政府は彼女がゲリラの一味であり,平和の名に値いしないと反対.

10.30 グアテマラ、エルサルバドル及びホンジュラスの大統領はグアテマラ宣言に署名。中米連邦結成の方向を確認。ニカラグアは後に提案を承認するが、コスタリカは拒絶。

12月 4万5000のグアテマラの難民が、メキシコからもどる.メキシコ国内の難民組織,「恒久委員会」が帰還キャンペーンを組織.国連難民高等弁務官が財政支援.

 

 

1993年

1.20 メキシコに避難していた難民のうち第一陣約2,500人が,約10年ぶりに帰国.

1.22 URNG,セラノ大統領の和平提案を部分的に評価し,1991年秋から中断している和平交渉を再開すると発表.

2.01 首脳会議での合意に基づき従来の中米機構を改組,中米統合システム(SICA)として発足.部分的ながら域内の人事交流,交通の自由化を実現.中米議会はSICAの傘下組織となる.コスタリカは参加を保留.

2.23 メキシコ・シティーで和平交渉が再開される.両者がともに新しい和平協定案を提示するが,ともに相手の提案を拒絶する.ケサダ司教は交渉の行き詰まりを宣言する。

2月 国連人権委員会,難民の帰国と国際人権基準の検証をふくむ和平協定を結ぶよう,セラーノ政府に圧力.この提案では,難民は一時的に土地を与えられることとなるが,元の土地への帰還は許されず.難民は「抵抗人民共同体」(CPR).に結集し和平会談に参加.

4.01 グアテマラ、エルサルバドル及びホンジュラスは、中米自由貿易地帯をめざす「北の三角」統合協定に調印。商品と人々の自由な往来が許される。ニカラグアも後に協定に調印。コスタリカは参加を拒否。

8 コロテナンゴ(ウェウェテナンゴ州)で農民統一委員会(CUC)の活動家が襲撃される.1人が死亡3人が負傷.

  

カルピオ・デ・レオン政権

93年5月

5.25 国際原住民年にあたり第一回国際原住民サミットが,グアテマラ国内チマルテナンゴで開催される.国連親善大使に選ばれたメンチュウらが中心となり準備さ

れる.セラーノ大統領は憲法を一時停止し,会議を強制中止させる.参加者はこれを無視して会議を続行,活動家は検閲制度を拒否し街で会議のニュースを配布.

5.25 セラノ大統領,独裁政治の実現をねらいフジモリの向こうを張った自主クーデター(アウトゴルペ)を企てる.憲法の停止と議会解散などを発表.

5.26 憲法裁判所,セラノ大統領の事実上の戒厳令に違憲の判断下す.

5.28 米国,人権虐待が続けば6700万ドルの援助プログラムを中止すると通告.米国貿易事務所は,セラーノ政権が大衆の抗議行動やストライキを禁止し,民間メディアの活動を停止したことについて,貿易優遇を停止することも考えると述べる.

5.29 議会,セラノ大統領の即時退陣を要求する声明を発表.最高選挙管理委員会も,セラノの国民投票実施要求を拒否.

5.31 グアテマラの議会・経済・労働各界代表,セラノ大統領辞任要求で一致.セラーノは保守勢力もふくむ広範な反対で退陣に追い込まれる.

5 米国市民マイケル・デバインを殺害したウーゴ・コントレーラス大尉に懲役20年の判決.コントレーラスは脱獄に成功.原告側証人関係者二人が殺害され,一人が重傷.

93年6月

6.01 セラノ大統領,軍の圧力で事実上解任.その後国外亡命.

6.06 議会,人権オンブスマンをつとめたラミロ・デ・レオン・カルピオを臨時大統領に推挙.セラーノの残り任期を委任することとなる.デ・レオンはURNGとの本格的対話に乗り出す.依然無傷の軍はURNGへの攻撃を強化し国内民主化を防害.デ・レオンは前大統領候補ホルヘ・カルピオの従弟にあたる.

6.14 CERJ創設者アミルカル・メンデス,強制徴兵は憲法違反とし,エンリケス国防相を告訴.

6.18 グアテマラ議会,副大統領にアルツロ・エルブルヘル元最高裁長官を選出.

6.29 エンリケス国防相,強制徴兵を向こう6カ月間停止すると発表.翌日の陸軍記念日演説でデ・レオン大統領もこれを確認.

6月 CNRが解散.これに代わり政府平和委員会(COPAZ)が設置され,URNGとの交渉を続ける.社会学者ヘクター・ロサダ・グラナドスが委員長となる.

7 ジャーナリストで前大統領候補のホルヘ・カルピオ・ニコル,郊外を自動車走行中にパラミリタリー約20名に襲撃され,射殺される.その後デ・レオン大統領は人権オンブズマン時代の進歩的姿勢を放棄.

93年8月

8.03 市民自衛警察(PACS),ウェウェテナンゴで原住民多数を虐殺.当局は容疑者12人を拘留.

8.22 ゲリラがチチカステナンゴ県チュポルの軍基地を攻撃.

8.26 デ・レオン,議会解散と最高裁判事全員の辞職を要求.

8.28 国防相,徴兵制の停止を再度確認.このあと強制徴募は事実上消失.

93年9月

9 ハーベリがグアテマラ国防省前で第一回目のハンスト決行.

9 デ・レオン大統領,腐敗追放キャンペーンを開始し,議会や最高裁と対決.汚職議員の追放を発表.ロボ議長を先頭とする保守派議員はこれに抗議し議会をボイコッ

ト.憲法裁判所は追放を違憲と判断.改革派議員はロボが職務を放棄したとして解任,アルトゥーロ・ソトを後任議長に決定.ロボは辞任を拒否.議会内で両派の乱闘.

11月 デ・レオン政権と議会が和解,憲法改革で合意に達する.

 

 

1994年

94年1月

1.10 デ・レオン政権とURNGがメキシコシティーで接触.91年の和平交渉の枠組みについて再度合意.政府はURNGの武装解除を前提とするこれまでの態度を軟化.参加型民主主義を和平の最終目標とすることで一致.文民管理の原則についても合意.市民協会を通じて政府以外の民間人も参加.

「中米最後の内戦国」への国際介入
交渉の枠組みが国際的に拡大したことが新合意の最大の特徴.URNGと政府の調停者はケサダ枢機卿から国連事務総長に交代.国連の仲介のもとに国連調停案をベースとして交渉することとなる.また和平を推進するため「友好国グループ」が創設される.構成国はノルウエー,メキシコ,ベネズエラ,コロンビア,スペイン,米国.

1.30 大統領と議会,憲法を改正し8月に議会選挙を実施すること,10月に最高裁判事を改選することで合意.軍人の反人権行為は,新しい刑事訴訟法に従い一般法廷で裁かれることとなる.

1.30 大統領任期を5年から4年に短縮,汚職追放を中心に議会を改革するなどの憲法改正案,国民投票で信任される.

2.8 最高裁,政府情報機関の職員ノエル・デ・ヘスス・ベテータに懲役25年の判決.ベテータはミルナ・マック殺害事件(90年)の犯人とされた.

2 デ・レオン大統領,議会と妥協し憲法改正の国民投票.

94年3月

3.29 「政治的手段による平和探究の方法」を改訂.日程の期限について明確化.「人権に関する包括協定」が調印される.国連、コロンビア、ベネズエラ、スペイン、メキシコ、米国そして、ノルウェーが実施過程を支援することで合意.この憲章は最終停戦合意を待つことなく,ただちに施行されることとなる.同時に和平協定の成立期限も設けられるが,後にこの期限は破棄される.

「人権協定」の骨子
国内に人権委員会を創設し,国連人権使節団の監督のもと人権侵害事例に関する調査権を与える.国連人権使節団は人権侵害の事例について調査し,国軍,URNG陣営を問わず,国内を自由に移動できる広範な権限が与えられる.強制徴兵制度が停止され,完全な自発意志に基づく市民警察が創設される.死の部隊など秘密弾圧機構は解体される.

3 デ・レオン大統領,軍情報部長を官房副長官に任命.これまでの軍部排除の方向と逆コースをとる.

4.01 ゴンサレス憲法裁判所長官,帰宅途中を狙撃され死亡.大司教は人権擁護活動家の生命が脅かされる事態に遺憾の意を表明.

4月 民間参加の窓口となる「民間セクター会議」(ASC)が創設される.モンセニョル・ケサダが議長に就任.ASCの役割は、和平交渉そのものより,政治・経済・社会問題で「とらわれない提案」をすることにある.

5.07 新教育相にAlfredoTayTocoyが就任,トコイはキチェ族,グアテマラの最初の先住民閣僚となる.

5.31 軍と警察の共同捜査でホルヘ・カルピオを殺害したPACメンバー4人を逮捕.裁判所はまもなく証拠不十分で釈放.

5 メンチューら,世界の先住民族問題の解決にあたる常設機関として,「平和のための先住民イニシアチブ」を結成.

94年6月

6.13 オスロで停戦交渉.「再定住計画」で合意が成立.国内外に散った百万人以上の難民に対して,社会復帰と活力ある地域再建の機会が保障されることになる.地下組織「人民抵抗共同体」が公認され,市民権を完全に保障される.

6.17 オスロ会談で、「難民再定住計画」(オスロ協定)が発効.政府は国際援助も利用しながら,難民の復帰と居住可能な環境を整備する義務を負うこととなる.

6.20 ラビナル郊外のプラン・デ・サンチェスから19体の遺体が発見される.十年前に軍に虐殺されたもの.PAC,退役中尉ディアスを殺害.ディアスは81年に起きたラビナルの虐殺について証言する予定で,口封じの目的だったと思われる.

6.23 国連、政府とゲリラ代表,「真実委員会」(CEH)の設置で合意.正式名称は「人権侵害と暴力行為がグアテマラ人民にもたらした被害に関する歴史的究明委員会」.三人委員会(いわゆる真相委員会)を組織し告発された事例に対する調査を開始.ドイツ人Christian Tomuschatofが議長を務める。

6.25 ホルヘ・カルピオ殺害犯裁判で軍幹部の関与を訴え続けたカルピオ未亡人に死の脅迫.未亡人は一時米国亡命.

6月 人権組織より「真実委員会」への不満が高まる.真実委員会の任務は、戦争犯罪に対し個人的よりむしろ制度上の責任を確定することにあり,人権侵害者に対する法的行動がふくまれていないとされる.

94年8月

8.15 新憲法下で初の議会選挙実施.リオス・モントの率いる共和戦線(FRG)が,80議席中32議席を獲得し第一党となる.ほかに中道右派の国民進歩党(PAN)も進出.投票率は21%.デ・レオン大統領の権力はさらに弱体化.

8.24 コアテペケ県"LaExacta"農場の労働者が労働法の遵守を求め占拠.農場主は79名を解雇.闘争のなかで労働者が次々と暗殺される.

9.15 政府とURNG,和平交渉再開で合意.

9.15 大司教区人権局,"LaExacta"の虐殺は農場主と組んだ警察の仕業と発表.デ・レオン大統領は再調査を指示.裁判所は23人の警察関係者を釈放すると同時に,警察の農場への立ち入りを禁止する.

9.19 国連総会、国連検証委員会(MINUGUA)の創設を決議。

94年10月

10.12 キチェ県の警察署長,PACメンバーの逮捕を命じたあと暗殺される.

10 ハーベリがグアテマラ政庁前で第二回目のハンスト決行.米テレビ局はエベラルドが生きて逮捕されたことを示すCIA資料を暴露.

11.21 国連検証委員会(MINUGUA)がグアテマラで公式に立ち上げられる.三月の人権協定にもとづく検証作業を開始する.200人の人権モニターと60人の市民警察オブザーバーから構成され、人権状況と警察の行動の監視に当たる。

11 バス代値上げに反対する学生デモ.参加者の学生マリオ・サンチェス・ロペスが警察に捕らえられ虐殺される.

12 カルピオ・デ・レオン大統領,元軍情報部長の官房副長官を解任.

 

 

1995年

1.04 パトロールカー購入代金水増しなどの疑惑がもたれたパリジョ内相が解任される.

1.31 ケサダ枢機卿,ASC議長を辞任.カトリック教会はASCから撤退する.このあとASCは事実上無力化.

1 リオス・モント,国会議長に就任,大統領選立候補を声明.国内のテロ活動ふたたび活発化.

2 国連,8月合意に向け交渉プログラムを提起.

3.23 米下院情報特別委員会のトリセリ議員,CIAが雇っていたグアテマラ情報機関員が,米国人殺害に関与していたことを明らかにする.

3.31 メキシコ市で政府とURNGとの平和交渉終了.34年の対立に終止符を打つ和平合意に署名する.多民族・多文化・多言語社会の理解のための「原住民の権利とアイデンティティー憲章」が成立.

先住民憲章の骨子
政府はマヤ,シンカ(Xinca),ガリフナ族のアイデンティティーを承認.宗教,伝統,言語を尊重することを公約.先住民の比率が高い地域では,バイリンガルの判事が任命され,先住民の言葉が公用語として用いられることも決められる.先住民の土地の天然資源は先住民の所有権の元に置かれること.

3.31 デ・レオン大統領は人種差別を違法とする法律の制定を約束.同時に人種差別につながりうるいっさいの法律を廃棄すると表明.「グアテマラの夜明けが始まった」とロドリゴ・アストリアスは述べる.

4 ガリ国連事務総長を迎えたグアテマラ大統領宮殿で爆弾テロ.

6.16 メキシコシティーで,社会・経済の協定に合意.

6.29 マヤ人代表,先住民に関するコペンハーゲン会議に出席.先住民を代表する恒久的フォーラムを国連に設けるようもとめる.

7 人権活動家を中心とする左翼勢力,選挙に向け新グアテマラ民主戦線(FDNG)を結成.

8.09 グアテマラ・アビアテカ航空の旅客機がサンサルバドルの東60キロで墜落.乗員乗客65人全員が死亡.

8.22 URNG,停戦を発表.パナマで政府の平和委員会,グアテマラおよび中米議会代表と会談を持つとする.会談において主な政党の代表者は、11月12日の選挙結果を受け、和平会談のもたらすどのような協定でも遵守すると誓う.これまでURNGは選挙をボイコットしてきた.

95年10月

10.05 グアテマラの軍パトロール,難民の再定住したジャングル村に銃撃.少なくとも10人を殺し36人に重傷を負わせる.この村は1年前,アルタ・ベラパス州に入った441名の難民によって作られ,Xaman村と名づけられた.94年に6,000人以上のグアテマラの農民が帰国したが,まだ多くの難民が殺害を恐れてメキシコに残留している.

10.05 カルピオ大統領は、直ちに特別調査委員会の編成を発表.国防相は,パトロールの25人のメンバーが自衛行動をとったと発表.これによれば,パトロール隊は村へおびき寄せられたあと待伏せ攻撃を受け,3人が負傷し6人が行方不明となったとされる.

10.20 アルベンス元大統領の遺体を迎え,国家宮殿で慰霊祭.その後,数千の市民がアルベンスの遺骸を墓地に葬るデモに参加.未亡人マリア・ビラノバが民主主義を訴える演説.彼は71年,亡命先のメキシコで死亡.遺骸は妻の故国エルサルバドルに葬られていた.

10月 国防相と軍最高司令官が,サマン事件の責任をとり解任される.軍隊は原住民の村に入ることを禁じられる.

95年11月

11.04 マシンガンで武装した二人組がリゴベルタ・メンチュの滞在先を襲撃.姪の長男(2歳)を誘拐する.

11.12 大統領,国会議員・地方自治体の総選挙.大統領選ではPANのアルバロ・アルスー・イリゴージェン(前グアテマラ市長)が36.5%を獲得,第一位で決選投票に臨むこととなる.2位には極右のグアテマラ共和戦線(FRG)のアルフォンソ・ポルティージョ.FDNGのホルヘ・ゴンサレス・デル・バジェは選挙前の予想を大幅に上回る8%を獲得,4位に入る.

11.12 総選挙は,45年ぶりに全政治勢力が参加する選挙となる.約20の政党が参加.PANはバスに住民を乗せ投票に動員.無料で食事を与えたという.

地方での選挙の状況: マヤ族の組織NukujAjpopも選挙に参加する.URNGの妨害がなかったにもかかわらず,ほとんどの農民は選挙に参加せず.識字率が低いこと,原住民の候補がいないこと(19人の大統領候補はすべて白人)が理由となっている.コバンの北東部州の原住民は,FDNGに投票しないよう圧力を受ける.

11.15 国会議員選の大勢判明.与党国民進歩党(PAN)が80議席中42を獲得し単独過半数を占める.FRGは21議席を獲得し,野党第1党となる.左翼系の新グアテマラ民主戦線(FDNG)は6議席を獲得し第三位にはいる.当選議員には人権活動家のニネス・モンテネグロ,マヤ族指導者のロサリナ・トゥジュクら.これまで議会の主流を占めたDCGとUCNは腐敗ぶりが明らかになり惨敗.

12.27 日本の海外経済協力基金,農村地帯を対象として社会基盤プログラムのために、三百万円のローン(多分この金額は間違いだろう).国の1000万人の住民の50パーセント以上は世界銀行の「絶対貧困者」に分類される.特に先住民地域に貧困が集中.

 

アルバロ・アルスー政権

1996年

1.07 大統領選,決選投票.アルスーが51.22%を獲得.ポルティージョを2%差で下し当選.FRGはグアテマラ市とペテン以外のすべての地方を制する.投票者数は、36.88%,特に農村,原住民地域で低かった.

1.20 アルスーが大統領に就任.原住民や女性に対する差別,犯罪や貧困とたたかうと宣言.COPAZ.委員長にEGPの元指導者グスタボ・ポラスを任命.アルスーは任期中に高級陸軍士官の半分を予備役に編入。

2.20 Azru大統領は、メキシコでURNGリーダーに会った.

2.27 人類学者,首都から50マイル北西のキチェの高地アグア・フリアで,軍の秘密墓地を発見.167人の大衆の火傷した遺骸を発掘.彼らは1982年4月に軍にさらわれ殺された.この虐殺は当時の支配者エフライン・リオス・モント将軍の,左翼に対する「焦土作戦」の一部だった.

3.19 URNGとアルバロ・アルスー政府,攻撃的な軍事行動と対ゲリラ活動作戦を停止することで合意.和平交渉計画の残り部分の作業を急ぐことで合意.農地改革が最大の懸案として浮上.

3.30 URNG,一方的な即時停戦を発表.

4.17 不法占拠者数百人が,グアテマラの警察緊急対応部隊を待伏せ攻撃.隊長が殺害され将校3人も負傷.

5.06 メキシコ外務省において政府とURNGが協議.農地改革と社会経済問題に関する国連仲介案について合意.「社会経済および農業問題に関する憲章」が成立.貧農に対し土地を与えるための土地基金が発足.これまで不法占拠された土地に対する権利も保障.医療と教育に対する政府資金を1.5倍化することも約束される.農地改革そのものは触れられず,多くの農民が失望.この時点では詳細は明らかにされず.

96年6月

6.13 政府,先住民と種族の権利に関するILO条約の受け入れを公式に発表.これは武装勢力の主要要求のひとつだった.

6.20 ワシントン・ポストによれば,グアテマラの平均的な原住民の少年の学校教育は1.8年,文盲率は55.3%.少女は0.9年,81.2%にとどまる.これに対し,非先住民の男子は4.5年,23.6%.女子は4.0年,37.1%.

7.26 フランスNGOの「国境なき教師」(EcolessansFrontiers),アルタ・ベラパスの県に定住したホンジュラス帰還者コミュニティで学校出席を改善するためのプロジェクトを開始.欧州委員会はECU220000の支援を承認.

8.04 政府,最後の30,724のメキシコ難民を,97年度中に本国へ送還する計画を発表.ここまで、31,635人の大衆がすでに帰還.

8.09 政府、正式に民間防衛パトロール(PAC)の解体を開始.コロテナンゴ(ウェウェテナンゴ県)では,700人の隊員が武器を軍隊に返却.PACはこの点で202,702人の要員と15,500の兵器を保有.それにはM-1ライフル、M-1・M-2カービン銃、12口径ショットガン,7.62-直径モーゼル・ライフルが含まれていた.

9.02 人権オンブズマン、プラン・デ・サンチェス、チチュパク、リオ・ネグロの大虐殺に関して報告

9.19 政府とURNG,メキシコシティーで和平協定のための最終予備合意に署名.「民主社会における市民権と軍の役割強化に関する法律」成立.そのほか民族の言葉で裁判を受ける権利,地方官僚の任期制などでも合意.

軍に関する規定
@97年末までに軍要員46,000人を2/3に縮小,99年までに軍事予算も2/3に縮小.A軍の任務は国境線の防衛に限定される.B国内の治安は内務省の管轄下におかれ,新たに創設される国家市民警察(PNC)に移管される.C移動軍警察とPACは廃止される.準軍事組織は解体される.D公安問題については公共防衛局に移管され,裁判権も移る.文民統制の下にあらたな情報機関が設置される.

10.19 ORPAのラファエル・バルディゾン・ヌニェス副司令官が逮捕される.彼は車椅子の84歳の老婆を営利目的で誘拐.600万ドルの身代金を要求していた.その手紙を家族に手渡すところを捕らえられる.対話は停止され,ガリ国連事務総長はゲリラを非難.

10.28 URNG,バルディゾンを放逐する.交渉責任者のガスパル・イロム(ORPA最高司令官)は外される.恒久停戦に関する提起を行ない,交渉の再開を強くもとめる.

11.15 軍当局,パトロール隊の最終廃止を発表.

96年12月

12.04 オスロで和平協定が成立。武装勢力は正式に武器の使用を放棄することに合意.反乱軍の武装解除と部隊の解散のタイムテーブルが確定される.停戦協定を構成する三つの合意のなかで最初に実施された合意となる.

12.07 ストックホルムで,「立憲的な改革および選挙システム改正の協定」に署名.これまでの合意内容を憲法に反映させるための手続きとその保証について合意.また選挙資金の上限,政党財源の監視,軍兵士に対する投票権の付与などをふくむ.

12.07 ストックホルムで,両者による多民族・多文化・多言語社会宣言が締結される.スペイン語をふくむ二言語併用教育システムの作成で合意.(グアテマラには23の現地語があるとされる).原住民の言語が公用語化され,法廷においても使用可能となる.

12.12 マドリードで,「URNGメンバーの合法的生活への編入のための基盤に関する合意」が成立.財政援助、奨学金、トレーニング、住宅、健康管理などが保障される.この合意ではゲリラ戦士だけでなく,軍兵士についても恩赦が認められたことから,人権活動家の間に強い不満を生み出す.

12.19 グアテマラ議会,「国民和解の法律」を承認.政治的目的にともなう攻撃について「刑事責任を消す」ことを認める.政府・武装勢力グループとも,この提案を支持.30年の内戦の間の犯罪の多くに恩赦が与えられる.ただし国連協定に示された大量虐殺、拷問、強制的失踪などの人権侵害事件は取り除かれる.人権グループは違法な拘留、即決処刑が大赦に含まれた点について批判.

12.20 和平協定に,人権の侵害について,「真実を発見するためのグアテマラ社会の奪うことのできない権利」が認められる.

12.28 米州開発銀行、社会・コミュニティ開発計画に対し9230万ドルの拠出に同意.

12.29 政府とURNG,グアテマラ市で包括的和平協定に調印.URNG部隊は国家警察に編入されることとなる.憲法と選挙法の改正についても合意.10,000人の大衆が国家宮殿前で,永久和平協定の署名を祝うために繰り出す.和平協定は1億500万ドルの国際支援を受け,URNGは政党に転換する.

内戦の犠牲者
36年に及ぶ内戦の総死者は15万人,他に5万人が行方不明のまま.10万人の女性が寡婦となり,25万人が孤児となる.百万人が家を逐われ,公式に認められただけで45万人がメキシコに難民として逃れる.犠牲者のほとんどは原住民.

12.29 URNGリーダー(パブロ・モンサント、ロランド・モラン、カルロス・ゴンザレス、ホルヘ・ロサル)、グアテマラに入り、1週間にわたり滞在。新グアテマラ民主戦線(FDNG)をはじめ各団体と接触。ORPAのガスパル・イロムは、最近の誘拐事件との関係で参加を自粛。

 

1997年

1.02 URNG代表団、ペテンのゲリラ・キャンプを訪問。モンサントは約300人の戦闘員を前に、来るべき変化に備えよと演説。「以前、私はここに来た。歩いて山に入った。それはあなたがたと戦争の計画を相談するためだった。いま、私は軍ヘリコプターにのってあなた方のところに来た。それは我々が戦った相手そのものだ。12月29日からは、それは平和の乗り物になったのだ」

1.02 モラン司令官、キチェ県イシュカン(Ixcan)郡カンタバル村で、オットー・ペレス・モリナ将軍とリゴベルタ・メンチュの呼びかけた平和植樹祭に参加。「平和は、記憶を持つ...我々は、忘れることができない。復讐を要求しないために、二度と起きてはならない過去の出来事から学ばなければならない」

1.04 ロランド・モラン司令官、新聞社のインタビューに答え、「我々は政党登録に必要な5,000人の加入者を確保することができると確信している。URNGは政党として、グアテマラ社会の全ての民主的、進歩的、愛国的な階層との同盟を作るつもりだ」と述べる。

1.10 中国,国連安全保障理事会において,グアテマラの和平協定を観察するため国連が155人のオブザーバーを送ることに反対の立場を明らかにする.グアテマラが台湾を支持していることに対する報復行動と見られる.

1.11 ゲリラ組織との和平合意検証のための国連軍事監視団派遣決議案,中国の拒否権発動により安保理不成立.グアテマラ政府はこれに変わる監視団派遣をOASに要請.

1.20 交渉の後,中国は決議案に対する反対の立場を翻す.国連軍事監視団(MINUGUA-MOG)の創設が決議される。スペインのホセ・ロドリゲス将軍を司令官とし、16カ国132人の軍事オブザーバー、13人の医療スタッフにより構成される。

1.29 グアテマラ市駐留の兵士千名が,兵力削減に抗議し兵舎に立てこもる.

3.03 UNRGは、公式に武装解除し始める.3,614人の兵士が武装解除に応じ,1,818丁のライフル・ピストル,およそ100kgの爆薬、409発の地雷が手渡される.

4.07 ローマカトリック教会の人権事務所が後援する「歴史の記憶を回復する計画」,30年の内戦の間、グアテマラでおこなわれた人権虐待の証拠集めを強化する.

4.17 武装勢力,Tajumulco火山の周りから最後の内戦地雷を撤去.これまでエスキントラ、Huehuetenengo、ペテン、キチェ州の戦闘地帯から1500の地雷を撤去する.

97年5月

5.23 CIA,情報公開法に基づきグアテマラの54年クーデターに関する文書,およそ1,400ページを公表.この中には「殺人マニュアル」をふくむ「PBサクセス作戦」関係の文書数百点も含まれる.

5.27 URNGの武器引渡しと解散が完了。軍の遊撃警察(PMA)も,解散の手続きが予定通り進行.MINUGUA-MOGは解散。

5.31 NYタイムズ,CIA公開文書のうち「殺人マニュアル」の抜粋を掲載.

殺人マニュアルのさわり
「凶器は出来るだけ手近にあるものを使え.たとえば金槌,斧,レンチ,ドライバー,火箸,包丁,電気スタンド,などなど」 「刃物を用いるときは頚椎の切断がもっとも確実である.体を刺す方法は心臓を貫かない限り確実ではない」 「殺害は道徳的なものではないので,道徳を持ち合わせている人物にやらせるべきではない」などなど.

97年7月

7.30 軍服を着たGGPのメンバー,コロンバ・コスタ・クカ(Quetzaltenango)のインターアメリカン・ハイウエイを封鎖.

7.31 グアテマラで国連真相解明委員会発足.米政府にCIAやペンタゴン資料の全面公開を求める.

8.03 人類学者が帰還した難民を非難.これによれば,帰還者は少なくとも13の古代のマヤ人都市を占拠し,農耕のために遺跡を破壊している.

9.03 重装備の警察隊が三つの亡命者キャンプを襲撃.家を焼き農民二人を射殺.

10.30 ダニロ・パリネージョ・ブランコ元内相,元内務次官マリオ・メリーダ大佐,国家警察長官サルバドル・フィゲロア,上訴審で無罪判決を受ける.彼らは,市民虐殺の件により下級審で懲役10年の判決を受けていた.また死の軍団の司令官カルロス・ベナンシオ・エスコバルも30年から10年に刑期を短縮.

97年11月

11.5 URNGのホルヘ・ソト(パブロ・モンサント)書記長の顧問弁護士マリオ・ガルシア・ゴンサレス,公共バスに乗車中を襲われ,指を切り落とされる.

11.11 URNGのリカルド・ラミレス,最近のURNG活動家に対するテロに抗議.トリエージョ財団によれば,この間少なくとも25人の元ゲリラが襲撃される.国連監視委員会(MINUGUA)も調査に乗り出す.

11.12 サンカルロス大学法学部学生,学生を虐殺した警官が釈放されたことに抗議して最高裁前でハンスト.人権オンブスマンのフリオ・エドワルド・アランゴは事件の再調査を約束.

 

1998年

1.29 グアテマラ市長オスカル・バーガー,バス運賃の引き上げを発表.

1月 パナマ政府、前大統領ホルヘ・セラーノを引き渡すようもとめたグアテマラの要請を拒否。

1月 グァテマラ、法王ヨハネ・パウロ二世のキューバ訪問を機に、キューバとの復交に踏み切った。ドミニカ共和国(同年4月)も続いた。

4.23 人権擁護活動家のフアン・ヘラルディ司祭補(大司教直属の人権事務所長),内戦中の軍部による人権抑圧を4年にわたり調査.犠牲者の無数の証言をまとめた著書「グアテマラ:歴史の想起−決して二度と」を発表.同報告書は,5万5000件を超える人権侵害事件を告発し,人権抑圧事件の80%は軍部によるものとした.またURNGによる人権侵害も全体の7.3%になるとしている.

ヘラルディ報告: 報告は次の言葉で結ばれる。「しかし探索はこれで終わりではない。証言がその生まれたところに戻り、資料となり、行事や記念碑として形作られ、不確かな記憶の役割を確固たるものにし、社会の再建につながるべきである」 
ヘラルディによる歴史の再生の仕事は歴史究明委員会に受け継がれる。

4.26 ヘラルディ,サンセバステイアン教会内の自宅で,鈍器で殴られた死体となって発見される.この日人権レポートを公表する予定だった.「ジャガーの裁き」と称する右翼集団が犯行を声明.

フアン・ホセ・ヘラルディ・コネデーラ神父
22年12月27日グアテマラ・シティでイタリア系家族の下に生まれた。グアテマラ神学校で哲学を、米国ニューオリンズで工学を学んだ。46年聖職者となり、グアテマラ国内各所で主任司祭をつとめ、貧困者や先住民と接触を深めた。
64年ベラパスの司教、74年キチェの司教に就任。サン・ベニート人材育成センターを設立し、先住民リーダーを育てた。70年代、先住民言語の重要性を訴えマヤ語放送局を2つ開設した。80年、エル・キチェ住民39名が首都で人権侵害事件を告発し、スペイン大使館に逃げ込んだところを虐殺された。ヘラルディはこれを非難するコミュニケを発表した。また軍当局に赴き、彼らの分別を呼びかけた。
81年、バチカンを訪問し、法王にグアテマラの現状を説明した。軍当局は空港で国内立ち入りを禁止。ヘラルディは帰国できないまま、82年ルカス・ガルシア政権の崩壊までコスタリカで亡命生活を送った。
84年8月、グアテマラの大司教次席に就任。88年にゲリラ・政府・市民からなる国民和解委員会に参加した。その後大司教区人権事務所を設け、「歴史的記憶の回復プロジェクト」を始めた。 

7.22 当局,同じ敷地内に住むオランテス神父をヘラルディ殺害事件の容疑者として逮捕.教会と人権委員会はオランテス逮捕に強く抗議.

8月 URNG,最終的な登録必要条件を完了し合法政党への移行を完了.

98年9月

9.11 URNGのリカルド・ラミレス・デ・レオン書記長(前司令官ロランド・モラン),心臓発作で死亡.ホルヘ・ソト書記次長(前司令官パブロ・モンサント)は,「グアテマラとURNGはその最も立派な息子を失った」と語る.ラミレスは1962年にシエラ・デ・ラ・ミナスの最初のゲリラ運動に加わったベテランであり,1971年にEGPを創設した.

9.11 西部メキシコ国境地帯での豪雨で死者20人超える

9.16 議会,和平合意の履行のため憲法改正(47項目の改正)について,約1年に及ぶ審議の末議決.

9.17 ヘラルディ殺害事件で,死因究明のため埋葬されている遺体を掘り起こす.

9月国防相将軍エクトル・バリオス,和平協定の実施が完了し,15,477人の兵士が減員され,19の大隊が解散され,4つの軍管区が閉鎖されたと報告.残っている31,500人の軍隊人員は国家主権の防衛に専念することとなる.

98年10月

10.15 国連開発計画,人口(1100万人)の61.2%を占めるマヤ系先住民の89.5%は貧困で,また彼らの79.5%は極貧状態にあると発表

10.19 URNG,来年の総選挙に向けて政党登録申請を提出.

11.30 グアテマラの法廷,269人(うち子供107人)が虐殺された2つの事件について,PAC(市民自衛パトロール)メンバー3人に対して死刑の求刑.この虐殺は1982年3月13日(サラマ県アグア・フリア)、9月14日(キチェ県リオ・ネグロ)に実施された.被告らは少なくとも3人を殺害したとされる.生存者の証言によれば彼らは他にも二つの大規模な虐殺事件を起こし,416人を殺していた.

12.20 恩赦反対同盟,労働者センター,和平合意2周年記念集会に欠席すると表明.この日発表が予想される政府の大量恩赦に抗議したもの.

 

1999年

99年1月

1.08 世界銀行、US$2300万のローンを承認.貧しいコミュニティの市場へのアクセスを容易にするプロジェクト.土地ファンド・プログラムは、グアテマラの政府と和平協定の優先事項であった.

1.12 サカパ県労働者評議会のマノロ・モラレス執行委員,武装集団に襲われ死亡.モラレスはサカパ市長カルロス・バルガスの建設工事をめぐる不正疑惑を告発していた.

1.22 憲法改正の国民投票の早期実施を求める,URNG,FDNGなどのデモ隊,高速道路を一時占拠.

1.26 国立会計院の調査で15万ドルに及ぶ会計不正が発覚.バルガスは職務を停止される.公務員労連は警視総監に,モラレス殺害の容疑でバルガスを調査するよう要請.労働総同盟(UTG)のホセ・ピンソン議長,バルガスにはサカパ地区の労働者8名の殺害計画があったと告発.

99年2月

2.16 ヘラルディ司祭殺害の容疑者オランテス神父の公聴会が開催される.グアテマラ紙「シグロ・ベインティウノ」,FBIによる「司祭の血痕などの調査の結果,犯人は2人以上で,自宅の2か所で暴行を加えられた」と報道.

2.17 オランテス神父,7ヶ月にわたる拘留の末,証拠不充分として釈放される.

2.26 歴史の真相委員会(CEH),18カ月におよぶ調査の結果を,3,600ページに上る報告書「グアテマラ:沈黙の記憶」にまとめ国連に提出.内86ページにわたるサマリーが公表される.委員会は軍をマヤ人に対する大量虐殺で非難.犠牲者の記憶を保存して、家族に損失を補償し,国内の人権強化のステップを勧告する.個人名の公表を控えたことについては,批判が出される.

調査報告の要旨
米国が援助し訓練したグアテマラ軍が,20万人以上の大量虐殺を実行した.もっとも被害の大きかったのは北部のキチェとアルタ・ベラパス地方,西部のウェウェテナンゴ州.犠牲者の1/4は女性.原住民が83.3%,メスティソが16.5%.
また委員会は八千件の人権侵害ケースを調査.事件の93%が軍・政府組織とパラミリタリーによるものだった.主な援助主体はCIAで,具体的な指示は軍情報部によるものだった.4万2千人が人権を侵害されその内2万9千人が死亡.またゲリラによる人権侵害も3,4%あった.

2.26 調査委員長でドイツの法律家クリスチャン・トムシャート,「これらの事件は現場指揮官のやりすぎとかミスというようなものではない」と発言.「少なくとも80年代半ばまで,米国の政府および民間機関の職員が,この国の社会経済構造を維持すべく圧力をかけていた.CIAは不法なゲリラ作戦を支持していた」と糾弾.

2.26 トムシャートの言葉はヘラルディへのオメナヘで締めくくられる。「多くのグアテマラの勇敢な人々の、疑いもなく深遠な努力の成果として報告が完成し、新しいグアテマラの土台を築くことが出来た。我々の記憶の一番最初に列せられるべきは、フアン・ホセ・ヘラルディ・コネデーラ神父である」

2.26 「調査報告」の発表が行われた国立劇場では,犠牲者の関係者など2千名が起立して喝采.「正義,正義!」を連呼する.大統領や政府関係者は最前列に座ったまま沈黙を守る.

2.28 ニューヨーク・タイムズ,「グアテマラで起きた悪夢」とのコラムを掲載.真実委員会の報告書「グアテマラ:沈黙の記憶」を公表すべきだと声明.

2月 82年にパラミリタリー組織市民自衛軍がキチェ県で原住民269人を虐殺した事件で,控訴審は手続きの不備を理由に,死刑を言い渡した一審判決取り消しの判決.

99年3月

3.1 ワシントン・ポスト紙,真相究明委員会の仕事は歴史的なものと評価.CIAがグアテマラとのかかわりを隠そうとしていることについて「我々にも真相究明委員会が必要」とコメント.

3.1 選挙裁判所(TSE),憲法改正案の国民投票を5月17日に行うと発表.

3.11 クリントンと中米諸国との首脳会談がアンティグアで.

3.12 URNGのホルヘ・ソト幹事長,「真相委員会報告」に関して犠牲者とその家族に深く陳謝.

3.21 Minugua,軍の人権侵害者たちはまだ粛清されず,停戦協定は守られていないと発表.

ミヌグア報告
98年の一年だけで,当局関係者による170件のレイプ,10件の拷問,8件の非人道的扱い,109件の権力乱用,19件の脅迫事件が確認された.また報告の中でヌエバ・サンタロサ市長ペドロ・ガルシア・アレドンドが「社会浄化」作戦の責任者として名指し批判される.
ガルシアはグアテマラ共和戦線(FRG)党員で,ルーカス・ガルシア政権の下で第六コマンド部隊長,国家警察の特別捜査部隊長官を歴任し,政治家や労組指導者,学生などの「排除」に関わった.

3.25 人権のための法的活動センター(CALDH),96年和解法はジェノサイドには適用されないとして,ルーカス・ガルシアとリオス・モントの人権侵犯に関する裁判を

要求.3 大司教区人権委員会(ODHA),エクトル・バリオ国防相の辞任を要求.「ヘラルディ殺害事件に関して再三嘘をつき,大臣として要求される倫理的資質に欠ける」というもの.ODHAは犯人は大統領近衛部隊(EMP)によるものと示唆.

3 オランテスの取調べにあたったオットー・アルドン元捜査官,「国連検証団(Minugua)が,マリオ・オランテス神父の逮捕を求めてきた」と発言.

99年5月

5.09 URNG,初の党大会開催.全国執行委員会と政治評議会,名誉裁判委員会を選出.党幹部のアルノルド・ノリエガは,今回の大会により政党としての登録要件を満たすことになると発表.次回の選挙には新グアテマラ民主戦線(FDNG),発展のための真正統合党(DIA),民主左翼連合(UNID)と共同して闘うことになるとする.この連合は新民族同盟(ANN)と名づけられ,アルバロ・コロムを統一候補として大統領選を戦うことになる.

5.15 新グアテマラ民主戦線(FDNG)の副議長,未確認の攻撃者によって暗殺される.国民投票の間に暴力を受けることを恐れる民衆は一斉に棄権に走る.

5.16 URNGとの停戦合意の内容を取り入れた憲法改正が成立.

5.18 国民投票日の朝,首都南部の住宅街で手榴弾攻撃.市民3人が死亡,27人が負傷.

5.18 和平協定実施のための憲法改正国民投票.兵員数を50,000から33,000まで減らすことに危機感を抱く右翼層は,改革計画を流産させようと動く.投票の50.63%は計画に反対.信任は40.40%にとどまる.登録した有権者のうち81.45パーセントが棄権.原住民のリーダーは人種差別主義者の策動を非難.

99年7月

7.26 控訴裁判所,軍事法廷に80年代の人権侵害事件150件に関して裁判のやりなおしを命じる.これらの裁判は2度にわたり棄却されてきたが,国際人権団体は判事構成が偏向しており,証言者の事情聴取が不十分なことを指摘していた.アムネスティ・インターナショナルによると何万もの人権ケースは未解決のままであり,高級軍当局者はこれまで一度も有罪判決を下されなかった.

7.30 国連難民高等弁務官事務所、メキシコ国内の難民に対する援助プログラムを終了すると決定.この時点で40,000人が祖国に帰還.残る22,000人はメキシコへの残留を希望.このためメキシコ政府は残留難民に対し市民権を付与.

8.13 グアテマラ法廷,1995にXamanで起きた先住民11人の虐殺事件で,軍兵士25名に最高5年の懲役刑の判決.検察官は25人全員に死刑を求刑.アムネスティ・インターナショナルは,軍が証拠に干渉し、裁判官に贈賄し、証人を脅迫したと報告.

9月 デルモンテの子会社BANDEGUA,農民900名を解雇.このうち350名が不法に「ランキン2農場」内に残留し,CUCの支援の下に自活生活を続ける.

10.13 マリオ・オランテ神父が国外亡命.オランテス神父は,2月に釈放されたあとも何者かからの脅迫を受けていた.ヘラルディ事件を担当する主席検事も,死の脅迫を受け米国に亡命.

10月 前PAC司令官,1982年3月のリオ・ネグロ大虐殺で死刑を宣告される.

10月 54ページからなるメモがワシントンDCで浮上.軍隊によって逮捕された183人の写真と履歴が記載されている.グアテマラの保安当局から密かに持ち出されたものといわれる.暗殺団の日記と考えられるが,実際にその確実性を証明されず.

99年11月

11.07 大統領選と総選挙.米州機構(OAS)はグアテマラ選挙監視団を派遣.投票率は40ないし45%.自由で公正な選挙と評価される.しかし大都市の外ではほとんど運動なし.大量の原住民の大衆は登録されずに終わる.

11.08 大統領選の大勢が判明.エフライン・リオス・モントの率いる極右グアテマラ共和戦線(FRG)のアルフォンソ・ポルティーヨ・カブレーラ(元国会議員)が有効投票の47%を占めてトップ.前グアテマラ市長で与党PAN(国民進歩党)のオスカル・ベルヘル(ベルシェ?)は30%.

11.09 議会選挙の大勢が判明.FRGが64議席で単独過半数を占める.これに対しPANは37議席にとどまる.新民族同盟は12%の得票率で,初の先住民議員をふくむ10議席を獲得.

11.10 グアテマラ共和戦線,グアテマラ市で国民進歩党(PAN)により投票が妨害されたとして,選挙無効を最高選挙裁判所に提訴.

11.12 エル・キチェ地方裁判所,検察は軍司令官に合計240年の求刑.6つの殺人につきそれぞれ30年,2つの誘拐につきそれぞれ20年.判決は合計30年となる.有罪の評決は三回目の公判が終了した時点で宣告された.

11月 民間自衛パトロール隊(PAC)の元メンバーは、11件の殺人,7件の誘拐について起訴された.彼はこのほかに合計155件の犯罪―強盗、強姦、放火の容疑を持っていた.

99年12月

12.21 アウロラ国際空港(グアテマラ・シティ)でクバーナ航空機(DC10=乗員乗客約275人)のオーバーラン.一般家屋(11戸)を巻き添えにし,死者26人,負傷者は73人.

12.26 大統領選の決選投票.共和戦線のポルティージョがグアテマラ市を含むほぼすべての選挙区で勝利.

12月 リゴベルタ・メンチュー,軍政時代の歴代軍トップのエフライン・リオス・モント、オスカル・ウンベルト・メヒア・ビクトレス、フェルナンド・ロミオ・ルーカス・ガルシアを,人権侵害でスペインの法廷に告訴.80年のスペインの大使館に対する軍隊の襲撃,スペイン人聖職者4人の殺害,拷問について訴える.

 

 

アルフォンソ・ポルティーリョ政権

2000年

1.14 右派の「グアテマラ共和戦線」のアルフォンソ・ポルティーリョが大統領に就任.国会議長にはFRG総裁エフライン・リオスが就任.ポルティリョは医療・教育の改善を訴えるいっぽう,前与党PANを軍と癒着し先住民に対する人権侵害を助長したと非難.またヘラルディ事件の解明を誓う.

1.22 警察は軍隊将校を逮捕.司教ヘラルディの殺人容疑で起訴.同時に殺害者を手引きしたとして司教のコックを逮捕.

1.27 集団墓地で内戦時代の拷問犠牲者とみられる約50遺体を発掘.

4.27 バス料金値上げ抗議のデモ隊に警官が発砲 1人死亡3人負傷.

4.29 グアテマラ南西部のトドス・サントス・クチュマタンで,地元住民が日本人観光グループを襲撃.グアテマラ人のバス運転手と日本人1人が死亡した.現地では,先進国への臓器売買が横行しているとされ,外国人が子供をさらいに来るという噂が流れていた.

00年5月

5.14 帰還難民の町サンタマリア・ツェハで放火事件.地方住民協同組合小売店を焼き尽くす.村人によると,軍の支持を受けた「バンダ・ネグラ」という集団が脅迫文を提起的に送りつけていたという.この日は難民の復帰の第6回の記念日だった.

5.24 グアテマラの14の州を代表する原住民女性1,000人が,差別の終結,権利の保護,識字,社会計画の実施を要求しデモ行進.

5.27 リゴベルタ・メンチュー,彼女を含む人権活動家に対する脅迫が突然増加していると抗議の談話.最近2週間だけで10人以上のジャーナリストをふくむ200人が脅迫を受けたという.

5.29 米州開発銀行,64%のグアテマラ人,81.6%の原住民が1日2ドル未満の極貧線以下にあると報告.

6.13 原住民活動家のデニス・ベッカー,世界銀行と米州開発銀行を,彼女の両親と他の民衆の死に対する共謀の罪で告発,補償をもとめる.IDBと世界銀行は、1982年にリオ・ネグロのダム計画に資金を供給した.これが大虐殺を誘発したというもの.

00年8月

8.08 カトリック系団体,内戦時に国軍が先住民児童400人以上を誘拐したと報告.政府軍,準軍事組織,左翼ゲリラを非難.子供たちの運命は知られていないが,外国人を専門に人身売買する組織に売り飛ばされたという.

8.10 ポルティリョ大統領,内戦中の人権侵害に対して責任があると認め,大虐殺事件の調査、殺人者の起訴,犠牲者の家族への補償を誓う.

8.23 世論調査で,75%がリオス・モントの議長解任を支持.その85%はリオス・モントを国家犯罪の主犯と見ていると答える.

12.06 米州人権裁判所,「グアテマラ政府はエフライン・バマカ・ベラスケス(エベラルド)の殺人に対して責任がある」との裁決を下す.

12.11 全国市民警察(PNC)の大部隊,ペテン県サンタ・エレナのサンタクララ農場から占拠農民二千人を強制排除.15人が負傷し,44人が逮捕される.農民は10月はじめからこの農場を占拠していた.農民組織の全国調整委員会は,治安活動を非難,不法占拠者を支持する声明.

 

2001年

1.14 エフライン・リオス,国会議長に再選される.

3.21 ヘラルディ暗殺事件を担当する三人の判事の一人ハスミン・バリオス・アギラールの家に二発の手りゅう弾が投げ付けられる.他の裁判官にも無数の脅迫.

4.24 リオス・モント,議長としての立場を利用して税法を改変したとの嫌疑.カストロ判事は訴えを却下する.

01年5月

5.04 「グアテマラ逮捕者・行方不明者の関係者協会」(FAMDEGUA)のアウラ・エレナ・ファルファン委員長,二人組みに襲われ,45分にわたり銃口を突きつけられ脅迫を受ける.

5.05 米国修道女バーバラ・アン・フォード,2人の若い男性によってグアテマラ市の第9地区で殺される.

バーバラ・アン・フォード
ニューヨークの「慈善の姉妹」のメンバーとして,グアテマラで20年働いて来た.看護婦の資格を持つ彼女は,1989年以後健康管理者としてキチェ司教区で働いてきた.フォードは武装闘争の犠牲者に対する精神的ケアや,潅漑・飲料水プロジェクトで献身した.
同時に,米国国際開発局(USAID)およびオランダ政府の資金提供を受け,内戦の間に虐殺された犠牲者の遺体を掘り出す仕事にかかわっていた.それは虐殺者を裁く法廷のために証拠を集める仕事だった.ヘラルディ司教の調査員として働いたこともある.
彼女は,農村地帯で頻繁になった容疑者の不当な取り扱いに反対するキャンペーンに精力的にかかわった.また中央政府の努力不足を強く批判していた.

5.07 グアテマラの人権団体「相互援助グループ」(GAM),フォードの殺害は政治的動機にもとづく非合法な処刑であると声明.当局は車窃盗団による殺人事件だと発表.しかし質問に答えた調査官は,政治的犯罪かもしれないと示唆.

5.08 警察はフォード殺害の疑いで3人の男性を逮捕.しかし2日後にこの連中は釈放される.

01年6月

6.06 大虐殺の行なわれた20の村の代表者からなる「公正と和解のためのグアテマラ協会」,リオス・モント他4人の将軍に対する訴訟を起こす.1982年に行なわれたこの大虐殺では,市民1,400人が犠牲となった.対象となった村は,チマルテナンゴ県サンマルチン・ヒロテペケ,バハベラパス県ラビナル,ウェウェテナンゴ県ネントンとサン・フランシスコなどである.

6.08 グアテマラの裁判所,ヘラルディ司教暗殺の犯人として,軍将校3人に懲役30年の有罪判決.

ヘラルディ裁判判決
被告は前軍情報部長のバイロン・ディスラエル・リマ大佐,彼の息子で前大統領参謀部スタッフのバイロン・リマ・オリバ大尉,同じく大統領参謀部スタッフのホセ・オブドゥリオ・ビジャヌエバである.さらに裁判所は,犯行隠蔽の罪で聖職者のマリオ・レオネル・オランテスにも有罪判決.軍の最高幹部が人権侵害で有罪となった最初のケースとなる.
裁判所は検察当局に対し,さらに上級の軍人についても調査を続けるよう指示.具体的には大統領参謀部長のルディ・ビニシオ・ポスエロス・アレグリア大佐,次長のフランシスコ・エスコバル少佐,作戦部長のエドワルド・ビジャグラン・アルファロをさす.

6.08 ホセ・コフルン裁判長,電話で死の脅迫を受ける.コフルンはこの日,ヘラルディ司教暗殺事件で,三人の軍人に有罪判決をくだしていた.コフルンは「私は逃げ出さないで国にとどまる」と述べる.

6.11 アムネスティ・インターナショナル(AI)で働く米国市民バーバラ・ベック,ホテルの自室内で襲われ誘拐される.非常階段のドアがオートロックの為外せず,犯人はベックを階段に置き去りにする.

6.25 グアテマラの解散された民間自衛隊(PAC)元メンバーの約30人,キチェ県Chajul市の先住民居住区LosCimientosを襲撃.住宅に放火し,女性を強姦,子供を誘拐した後,数日間にわたり占拠.同区域は内戦中にPACが占拠.キチェ族を追い出しイシル族が住んでいた.内戦終了後,土地所有権をめぐり両者間に紛争が続いていた.

01年7月

7.31 付加価値税増税に抗議する群集がスチテペケス県パトゥルルでハイウエイを封鎖.警察との衝突で警官一人が重傷.24人が逮捕される.

01年8月

8.01 グアテマラ市の米大使館前で学生の抗議行動.ブシュネル大使の人形を燃やす.

8.01 付加価値税を10から12%に上げる法律が発効.数万の抗議デモが展開される.デモには労働団体ばかりでなく,産業・金融協会(CACIF)や商業会議所も参加.同時にCACIFは商店ストも実行.グアテマラ市西部のトトニカパンでは,市民が市長や国会議員の家,税務署,銀行,ラジオ局などに火を放つ.ソロラ県ロス・エンクエントロスでは,群集がインターアメリカン・ハイウエイを封鎖.警察と衝突.フティアパ,プエルトバリオス,チキムラでは商店の9割がストに参加.コスタ・スルでは砂糖業者が,12キロにわたり900台のバス・トラックを連ね抗議行動.警察はデモ終了後,残ったデモ隊に攻撃.205人を逮捕.

8.02 Cobanで2,000人のデモ.一部参加者は公共の建物を襲撃.85人が負傷,45人が逮捕される.

8.02 官憲当局,Totonicapanに30日間の戒厳状態を発令.軍部隊を送り込む.

8.03 国連グアテマラ監視団(MINUGUA),Totonicapanでの対話と憲法の復興を求めるコミュニケ.

8.06 政府,トトニカパンでの非常事態を解除.

01年9月

9.03 グアテマラ東部のチキムラ,サカパでの干魃が深刻化.子供を中心に数十人が死亡.政府はこれに便乗して付加価値税の引き上げを発表.大衆の抗議を呼ぶ.

 

2002年

3.11 デルモンテの子会社農場で,解雇後も闘争を続けていた農民の指導者ペレス・ゴンサレスが殺され,セシリオ・メンデスが逮捕される.

4.29 リゴベルタ・メンチュー財団のスタッフ,ギジェルモ・オバエがグアテマラ市内で暗殺される.彼は翌日に公判が開始される95年のサマン虐殺事件を調査していた.

12.05 カルロス・デ・レオン検事総長,グアテマラ市内で撃たれる.車に6発の銃弾を撃ちこまれるが逃亡に成功.彼は5月の就任以来,人権侵害事件や麻薬取引の捜査を積極的に推進した.

12.11 大口径の銃とマチェーテで武装した目出し帽の6人が,エフライン・バマカの妹の家を襲撃.

 

 

 

2003年

6.14 リオス・モント、選挙キャンペーンでラビナルを訪れる。住民らは投石を始めリオスモントを追い出す。

7月 リオス派の群集(元パラミリタリー),リオス・モントの大統領就任を求めて,グアテマラ市で大規模なデモ.米大使館は一時閉鎖に追い込まれる.自警団員は相次いで人権活動家を襲撃.2000年以降,少なくとも18人が暗殺される.

11.03 元民兵が経済補償を要求。政府は数十万人の元民兵に5700万ドルを支払う補償法を制定。

11.10 グアテマラ大統領選挙.右派の大国民同盟(GANA)オスカル・ベルシェ(元グアテマラ市長)が37%で一位となる.二位は中道左派の全国希望同盟(UNE)アルバロ・コロム.FRGのエフライン・リオス(77歳)は3位にとどまる.URNGはアストゥーリアス(ガスパル・イロム司令官)を大統領選に立候補させる。

12.01 グアテマラで国連グアテマラ人権監視団(MINUGUA)の撤退に関する合意.今後1年をかけて国連OHCHRに業務を引き継ぐこととなる.

12.28 大統領選の決選投票.オスカル・ベルシェが大統領に当選.

 

2004年

3.08 グアテマラ裁判所,昨年7月のジャナリスト殺害に絡む容疑で,エフライン・リオスに対し自宅拘禁と国外出国を命じる.

5月 米国と中米諸国の自由貿易協定CAFTAが調印される。その後国会での批准が難航する。

9.15 グアテマラで女性殺害事件が増加.国連人権委員会が捜査強化のための財政増大を政府に求める.

11.06 元自警団員が,軍政時代の給料支払いを求め,道路、港湾、空港などをブロック。グアテマラ市南部のハイウエイが封鎖される.警察は催涙ガスで強制排除.政府は数十万人の元民兵に5700万ドルを支払う補償法を制定。

12.10 拷問や大量殺人の責任者アルバレス元内務大臣が、メキシコ州トラルネパントラに潜伏していることが発覚。亡命グアテマラ人など多数が、アルバレスの住居前で抗議。

12.12 メキシコ連邦裁判所、アルバレスに逮捕状を発行。すでにアルバレスは逃亡。

04年 1年間に秘密墓地から162の遺体を回収。CONAVIGUAが13年前に発掘活動を初めて通算2857の遺体を発見した。グアテマラ市民戦争は200万人の死者と行方不明者を出した。

 

2005年

2.05 グアテマラ憲法裁判所、1982年グアテマラ北のペテン州ドス・エレスのコミュニティで300人を越える人を殺した容疑の、16人の軍人の裁判を取り消す決定。「国家和解法」を適用したもの。「拘留者及び行方不明者の家族会」は、この法律は大量殺人、拷問、、誘拐の責任は免責されないと主張する。

2.09 グアテマラ憲法裁判所、元民兵に対する経済補償を憲法違反だとする判決(二回目)。彼らは正規軍を助けた「市民自衛パトロール」のメンバーで、人道に対する罪を犯しており、補償法は憲法に違反しているとする。

2.12 グアテマラ人権団体、計画的大量殺人(ジェノサイド)を認めないまま、犠牲者数千人の家族に対する補償を定めた政府の決定を拒否。「歴史解明委員会が報告した時点で、民族、種族、宗教を抹殺しようとする殺人が行われたことが明らかになったはずだ」と非難。

2.24 メキシコ・グアテマラ首脳会談。投資貿易の拡大やトラックの相互自由通行などで合意。

3.08 米政府、対グアテマラ軍事支援を1980年以来25年ぶりに解禁。

3.10 グアテマラ、ホンジュラス、ニカラグアおよびエルサルバドルの4か国首脳会談。中米諸国の統一ビザとパスポートの発給で合意。刑事事件の協力体制を作ることでも一致。

6.14 ベルシェ大統領、「今年初めから5ヶ月の間に3595人が殺害された。内戦が終了して以来、最悪の時期になっている」と語る。生きながら焼き殺すなど残虐さも特徴。

6.15 ガスパル・イロム司令官(65歳)が心肺不全で死去。イロムは本名ロドリゴ・アストゥーリアス。ノーベル文学賞の受賞者ミゲル・アンヘル・アストゥーリアスの息子。

7.19 フアン・ルイス・フロリド検事総長、任期中に1570万ドルを横領したとして、アルフォンソ・ポルティージョ前大統領に逮捕命令。亡命中のメキシコに引渡しを求める。

7.19 ステイン副大統領、中部高地のプラン・デ・サンチェス村に赴き、82年の大量虐殺事件について公式に謝罪する。これは米州人権裁判所の判決を受けて行われた。この事件はリオス・モント元将軍の指揮の下にゲリラ掃討作戦の一環として行われた。7月18日に村に入った政府軍は、住民270人を虐殺した。

7.28 中米、ドミニカ共和国との自由貿易協定CAFTAが、わずか2票差で下院で承認される。

10.05 ハリケーン「スタン」が中米を襲う。グアテマラ西部で大規模な土砂崩れが発生。住民1000人以上が土砂に飲み込まれる。

10.09 遺体収容作業のためパナバ村に出動した陸軍兵士、道路を封鎖した地元先住民により救助活動を拒絶される。パナバ村のエスキーナ村長は、「土砂崩れが起こった場所で、1990年に、13人が軍隊に殺害された。兵士を村に受け入れることは出来ない」と話す。

12.23 ベルシェ大統領、マヤ先住民の2つの村で内戦の犠牲者に一人当たり千ドルを手渡す。医療センターの建設、奨学金の提供もおこなわれる。

12.14 グアテマラ人権諮問委員会、内戦時に軍警察や治安当局が犯した拷問、殺人に関する膨大な書類を発見、首都に持ち込む。

 

2006年

1月 ベルシェ大統領、少年犯罪グループ(マラス)による事件で、1月中に約350人が犠牲になったと発表。

1月 グアテマラ政府、2005年の1年間にマキラドーラの縫製企業51社が倒産し3万8,000人が失業したと発表。中国企業の台頭の影響とされる。

2.09 米州人権法廷、82年のプラン・デ・サンチェス虐殺事件に関して、犠牲者1人当たり2万5千ドルを支払うよう命じる。

プラン・デ・サンチェスの虐殺: 82年7月18日、兵士と民兵の合同部隊がプラン・デ・サンチェス村に侵入。村人に暴行・拷問を加え、建物に連れ込んで手榴弾を投げ込む。317家族の女性と子供が殺害される。山中に隠れていた男性たちは難を免れるが、その後も隠れ続けたという。

2.22 スペイン最高裁、リゴベルタ・メンチューの訴えを受理。グアテマラにおける「大量殺人」と「人権侵害」について、調査を始めることを決定。

4.19 グアテマラの「先住民族農民全国調整委員会」(CONIC)、全国抗議行動を組織。エスクィントラ県マサグア市では、デモ隊が警察に山刀や投石で立ち向かう。この衝突で約10人が負傷、30人が逮捕される。首都グアテマラシティーでも2000人以上がデモに参加。

4.20 オスカル・ベルシェ大統領、「外国投資を損ない、雇用を減少させる行動に対しては、容赦ない対応を命じる」と声明。

4.26 グアテマラで数百人の女性が参加し、「性的暴力に反対する女性行進」が行われる。40の女性団体と人権保護団体が構成する「11月25日コーディネーター」が主催。グアテマラ人権監視センターによると、今年だけで581人の女性が殺されたが、裁判になったのはわずか一件。

4.28 グアテマラで「麻薬対策のための中米国防、内務大臣会議」が開催される。オスカル・ベルシェ大統領は、国内犯罪組織に対抗するため、「軍と市民治安組織1万1000人を主要都市に配備する」と言明。グアテマラでは、犯罪組織の暴力行為により、2005年に5500人以上の死者を出している。人権団体は、国内治安に軍が参加するべきではないと反対。

5.10 グアテマラのオスカル・ベルシェ大統領、「チャベス大統領の干渉は、中米の指導者にとって我慢できない」と言明。エルサルやニカラグアなどで左翼野党が首長を握る市町村に、優遇条件で石油を提供するなどの行為が内政干渉に当たるとする。

 

2007年

2月 グアテマラ・シティーで、中米議会の議員(エルサルバドル選出)が殺害される。容疑者の元警官は刑務所内で「処刑」される。

11.05 大統領選挙。アルバロ・コロム候補(社会民主党)が得票率52.82%を獲得。当初優勢と見られた愛国党(PP)のオット・ペレス・モリーナ(得票率47%)を破り当選。

選挙の争点: ペレス(退役将軍)は強硬な治安対策を主張し当初は優勢に立つ。アルバロ・コロムは社会民主党のほか左翼政党を結集し「国民希望」を結成。新自由主義と一線を画し、貧困克服・治安改善・保健衛生などの「100日計画」を発表する。

 

2008年

3.25 サカパ県にて麻薬密売人同時の銃撃事件があり、12人が死亡。

5.09 弁護士ロドリゴ・ローゼンバーグが暗殺される。コロム大統領が、暗殺事件の背後にいたとの情報が流れる。コロム大統領の退陣を求める動きが高まり、一方で支持派も街頭での支援のデモを行う。

ローゼンバーグ事件: ローゼンバーグは、ムサとその娘の殺害事件を調査していた。ムサは、国家資金を運用しているグアテマラ農村開発銀行の執行委員を務めていた。彼は巨額な違法取引の隠蔽工作への協力を拒否し、このために殺害されたという。
ローゼンバーグも「死の脅迫」を受けており、生前に「殺される危険と、殺された場合の大統領私設秘書官と大統領の関与」を告発するビデオを撮影していた。

5月 農民組織CONICは、コロム大統領の辞任を求める動きを非難するとともに透明性のある調査を要請。

9月 環境活動家ユリ・メリニ、銃弾を浴びて重傷を負う。メリニは鉱山開発問題などについて告発を続けてきた。

11.08 サカパ県にて、ニカラグア人観光客15名と1名のオランダ人の乗ったバスが焼かれる。

11.30 ウエウエテナンゴ県のサンタ・アナ・ウィスタでの密売人同士の抗争で、17人が死亡

12月 ミルナ・マック財団、「グアテマラにおける<新しい戦争>の枠組みの中での、不安定と治安面での統治能力の喪失」を発表。

強力に武装した犯罪組織が現在の「戦争」の主役である。彼らはコミュニティ・リーダー、新聞記者、政治家、そして司法当局者を脅迫し、殺害し続けている。マラスやパンディジャス(ならず者)も武装し、首都の街区で恐怖をまき散らしている。グアテマラにおいて正式に所有されている火器は25万丁にのぼるという。これ以外に違法に所持されていると思われる火器が約80万丁存在する。2008年1月から11月に約5000人が殺害され、ここ5年間の平均で10万人につき46人が殺害されている。とくに公共交通機関、バスの運転手や助手の殺害が目立っており、ここ14ヶ月で155人の運転手が殺害された。

 

2009年

2月 コロム大統領、就任後12ヵ月経ってキューバを初めて訪問。キューバ侵攻時の反革命基地提供につき謝罪した。帰国後、キューバへの謝罪がグァテマラ国民の総意ではない、として厳しい非難を受ける。

3月31日 武器弾薬の管理に関する法律が可決される。議員や役人などの無制限の武器の所持の特権を認めるザル法。

3月31日 首都で先住民族組織によるデモ。農民の抱える債務の解消を求める。

3月25日 グラディ・モンテロソが誘拐、拘束された上に拷問を加えられる。

4.01 コロム大統領の与党UNEと、前ベルシェ大統領のGANAが連立で合意。

5月9日 弁護士ロドリゴ・ローゼンバーグが暗殺される。コロム大統領が、暗殺事件の背後にいたとの情報が流れる。

ローゼンバーグは、企業家であるムサ氏とその娘の殺害事件の調査に関与。ムサは、国家資金を運用しているグアテマラ農村開発銀行の執行委員を務めていたが、その中で巨額な違法取引の隠蔽工作への協力を拒否したために殺害されたという。
ローゼンバーグは生前に「殺される危険と、殺された場合の大統領私設秘書官と大統領の関与」を告発するビデオを撮影しており,これが公開されたもの。

5.09 コロム大統領の退陣を求める動きが高まり、一方で支持派も街頭での支援のデモを行う。農民組織であるCONICは、コロム大統領の辞任を求める動きを非難するとともに透明性のある調査を要請。