ウルグアイ年表

1600年以前についてはアルゼンチン年表に一括

 

1600

03 リオ・デ・ラプラタ地域の最初のスペインの知事Hernando Arias Saavedra,ブエノスアイレスからウルグアイに進出.牛と馬の放牧を開始.ウルグアイにはチャルア、チャナ、ヤロ、グエンカと行った原住民がいた。特にチャルア族はヨ-ロッパ人の進出にもっとも頑強に抵抗を続けた。

24 退役将軍ベルナルド・デ・グスマン,ウルグアイ南西部リオ・ネグロ河口のソリアーノ(現モンテビデオ)にイエズス会植民地を建設.ウルグアイへの植民開始.

50 この頃ウルグアイ地方の先住民チャルア族が絶滅.

80 ポルトガル人,ブラジルより侵入.ブエノスアイレスの対岸にサクラメント植民地を建設.

 

1700

20 スペイン,ポルトガル人の進出に対抗しサンホセ要塞(Fuerte de San Jose)を建設.

26 スペイン,サンホセ要塞を拡大.サン・フェリペ・デ・モンテビデオを建設.スペイン艦隊の基地となる.農園主はブラジルから侵入した野盗集団の駆逐に成功.

50 マドリード条約締結.スペインはサクラメント(現ウルグアイ)を手に入れるかわりに,ウルグアイ川東岸地域のシエテ・ミシオネスをポルトガルに割譲.

61 マドリード条約破棄.翌年から戦闘が始まる.スペインはリオグランデ・ド・スルとサンタカタリナを占領.

76 ブエノスアイレスにリオ・デ・ラ・プラタ副王庁設置.ウルグアイ,パラグアイ,ボリビアの一部を含む.メキシコ,ペルー,ヌエバ・グラナダとならぶ副王領.モンテビデオは,副王を通さず直接スペインと交易する権利を認められる.パラグアイは辺境の地になり,ブエノス・アイレスに対し隷属的な立場に置かれる.

77 サン・イルデフォンソ条約締結.ウルグアイのスペイン帰属が確認される.

 

1800

06.8 フランス人サンチアゴ・デ・リニエ指揮下のラプラタ軍(ポルテーニョ),ベレスフォード軍を駆逐.イギリス軍はブエノス・アイレスをあきらめ,モンテビデオを占拠.ホセ・ヘルバシオ・アルティガスのひきいる民兵隊が1年にわたる抵抗戦を展開.

1807年

1月 イギリス,一万一千の兵力でモンテビデオを占領.ブエノスアイレス攻略戦の準備に入る.

07 英軍,モンテビデオを立ち,ブエノスアイレス攻撃を開始.リニエ,フアン・マルチン・プエルドンらの活躍により,市街戦ののち駆逐に成功.イギリスはモンテビデオからも撤退(レコンキスタ).スペインはソブレメンテに代えリニエを副王に任命.撤退後もラテンアメリカ初の英語新聞「南十字星」が発行されるなど影響を残す.英国文化と商品に触れたクリオージョは独立への要求を強める.

08 ポルテーニョ(ブエノスアイレス人)の支配をきらうウルグアイ,独立を宣言.

1810

3 ブエノスアイレスでリオ・デ・ラ・プラタ諸州の臨時議会(カビルド),英国の支持と独立派民兵の圧力の下で開催.コルネリオ・サーベドラを委員長として政務委員会(フンタ)誕生.アルティガスはブエノスアイレス軍に加わりモンテビデオ奪取の闘いに参加.のちに独自の東方州軍を組織.

5.25 ベルグラノ将軍にひきいられた革命軍,スイパーチャでの副王軍との戦闘に勝利.実権を獲得(5月革命).政務委員会議長にマリアノ・モレーノが就任.ブエノスアイレスを自由港と宣言.アルトペルー(ボリビア),コルドバ,パラグアイ,東方連合(バンダ・オリエンタル,現ウルグアイ)はこれに従わず.独自の動きをしめす.

1811

2月 ラプラタ副王ハビエル,モンテビデオの要塞にこもりブエノスアイレス革命委員会に宣戦布告.ブエノスアイレスと呼応した急進的愛国主義者アルティガス,東方連合(Banda Oriental)独立の闘争を開始.アルティガスJose Gervasio Artigasは当時46歳.Blandengues部隊と呼ばれる地方自警団の指導者だった.

5.18 ラス・ピエドラスのたたかい.アルティガスの軍がスペイン軍を撃破.その後,モンテビデオの包囲戦に入る.

7月 モンテビデオのエリオ軍,サクラメントのブラジル軍に救援を求める.ブラジル軍は,たちまちアルティガスの部隊を駆逐し,ウルグアイのほぼ全土を制圧.

10月 エリオ軍とブエノスアイレスが,アルティガスの頭越しに和平条約を締結.ウルグアイからアルティガス軍,ポルトガル軍,スペイン軍のすべてが撤退することとなる.

10月 アルティガス軍の兵士3千と民間人13,000人,ウルグアイ河畔のサルトを後にし,対岸のアルゼンチン領アユイ(Ayui)に移動.数ヶ月にわたりキャンプ生活を送る.ポルトガル軍とスペイン軍は協定を無視しウルグアイに残留.

1812年 アルティガス,武装解除を条件に東方州に戻ることを許される.

1813

1.31 ブエノスアイレスの三頭政府が憲法制定会議を召集.国名をリオ・デ・ラ・プラタ連合国と決め,貴族制度,拷問の廃止などで合意.自由出生法が制定され奴隷は一代限りとなる.アルティガスは会議への参加を要求するが,ブエノスアイレスは出席を拒否.

2月 東方州の代表は、アルティガスの指示に従って一連の政治的方針を提案.「13年の指示」と呼ばれる.ブエノスアイレスが統一中央集権主義を主張したのに対し,アルティガスは米国をモデルとした連合州としての再編成を主張.連邦主義者の旗頭となる.

6 憲法制定会議,東方連合のアルティガス派を追放.独立宣言や憲法制定には至らず.ラプラタ河の自由航行権と,新規開港を要求する東方連合との離反が決定的になる.

1814

2 ブエノスアイレス,副王の支配するモンテビデオに派兵.

5.16 アイルランド人ブラウンが指揮するアルゼンチン艦隊,モンテビデオのスペイン艦隊を壊滅に追込む.

6月 モンテビデオのスペイン軍が降伏.ブエノスアイレス軍がモンテビデオを支配下に置く.アルティガスはサルタを中心とする北西部を支配.ブエノスアイレス軍に対し抵抗を続ける.ブエノスアイレス政府,アルティガスを反逆者と断定,

15.1 ブエノスアイレス軍がモンテビデオより撤退.ブエノスアイレス派の自治政府「ウルグアイ東方共和国」を創設.アルティガスは東方州守護官を自任,モンテビデオ政府に対抗してアルゼンチン4州をふくむ6州を結集.北西部にもうひとつの行政組織「連邦同盟」を設立.「連邦同盟」は外港としてモンテビデオを指定し,統一関税と域内自由交易を基礎とする.アルティガスは連邦派の旗手としてコルドバ州などとともにアルゼンチン連邦内での自治権の獲得をめざす.

1816年

4月 レコールの指揮する4900人のポルトガル軍がウルグァイに侵入を開始.アルティガスの部隊は総勢2000人.(一説に同年8月,ウルグアイに対する利権を主張するポルトガル軍1万人が東方州に侵入.)

7.09 トゥクマン会議で諸州会議.スペイン国王フェルナンドに従わず独立を維持することで合意成立し,リオ・デ・ラ・プラタ連合州として独立.フアン・マルチン・プエイレドンを最高統領に選出.ブエノスアイレスの貿易独占に反対するリトラル3州と,バンダ・オリエンタルはこれに参加せず.スペインはペルーの王党派軍を派遣,ラプラタ川の封鎖をねらうが,各地で抵抗にあい敗走.

1817年

1月 アルティガス,最後の拠点となったカタランでたたかいを挑むが,敗れる.ポルトガル軍,モンテビデオを制圧.ブエノスアイレスのプエイレドン政府は,反アルティガスの立場からこれを黙認.リトラル諸州の反感強まる.アルティガスはその後4年にわたり抵抗を続ける.

1819年

5 ラプラタ連合州,中央集権的な共和国の樹立をめざす最初の憲法を採択.ラプラタ連合州内でのブエノスアイレスの支配強化に対し,アルティガスは連邦主義の立場からこれに反対.リトラル各地で封建地主を主体とする連邦派の一斉蜂起を招く.

7 プエイレドンは最高統領を辞任.ラウタロ・グループの権限により後任にロンデウ将軍を選出.エントレ・リオスのラミレス,バンダオリエンタルのアルティガス,サンタフェのロペスが手をにぎり,中央政府に公然と反抗.サンマルチンは内戦に巻き込まれることを恐れ,政府のブエノスアイレスへの動員命令を拒否.

1820年

1月 アルティガス軍,ブラジルとの戦いに敗れ壊滅.

9月 アルティガス,抵抗を断念しパラグアイに亡命.50年に亡命先で死亡.(一説に,独裁者フランシアのもとに幽閉とあるが,いかにも長すぎる.フランシアがアルティガスの再起を許さなかったということか?)

21.7 ブラジル,バンダ・オリエンタルを併合しシスプラチナ州と名付ける.

22年 ドン・ジュアンⅥ世のポルトガル帰国に伴い,ドン・ペドロⅠ世がブラジル摂政に即位.ウルグァイにも強圧政策を適用.

1825年 シスプラチナ戦争

4.19 アルティガスの部下だったフアン・アントニオ・ラバリェハ大佐(Juan Antonio Lavalleja),「33名のオリエンタレス」を組織.ブエノスアイレスからラプラタ川を渡りウルグアイに侵入.次第に同志を糾合し勢力を拡大.3000人からなるウルグァイ軍の設立にいたる.リベラ,オリベらも参加.

8.25 バンダ・オリエンタルの代表者が解放区に集まり,ラプラタ諸州のひとつとしてウルグアイの独立を宣言.ラプラタ諸州は立場の違いをのりこえこれを支持.

10.01 レコールの命を受けた副司令官マヌエル大佐,1600人の兵士を率い鎮圧行動を開始.

10.12 マヌエル軍,サランディで解放軍とラプラタ連合軍と遭遇.戦いはわずか3時間で終了.機動力に劣るブラジル軍は,戦死200人を含む830人の損害を受け,モンテビデオに逃走.

11月 ラプラタ連合,アルゼンチンと名称を変更.

12.10 ブラジル,ラプラタ連合州に宣戦布告.本格的な戦争に突入(シスプラチナ戦争).各地からアルゼンチン部隊が侵入し,12月末までにブラジル軍はモンテビデオに孤立することになる.いっぽうブエノスアイレスはブラジル艦艇により封鎖され,経済・貿易活動に打撃.

1826年

2 ラプラタ諸州,戦争継続の立場から大統領制を施行.リバダビアを初代大統領に選出.ブエノスアイレスを首都と宣言.アルベアールを新しい指揮官に任命し,1万人の騎兵を中心とする部隊をラバレハの解放軍4000人と合流させる.アルベアールは連合軍の司令官となる.

8月 ドン・ペドロⅠ世,レコール司令官を更迭.

11月 バルバセナ伯フェリスベルト・ブラントが南部軍の司令官に任命される.ドン・ペドロⅠ世は1万6000人の大軍を募り、モンテビデオの包囲を解くことに成功.ラバレハは奥地に引き,騎兵によるヒットエンドラン戦法でブラジル軍を消耗させるたたかいに転換.

1827年

1月20日 ブラジル軍9000人,ブエノスアイレス攻略をめざし,モンテビデオを出発.ウルグァイ領内からリオグランデ州までの兵站やモンテビデオとコロニアの警備のため8000人以上の兵を残置.アルベアールは自国内に撤退しそこで決戦を挑むこととする.

2.20 ロザリオ東方のパソ・ド・ロサリオ(別名イツザインゴ)で,ブラジル軍とアルゼンチン・ラバリェハ連合軍が会戦.連合軍の罠にはまったブラジル軍は壊滅.ブラジル軍の損失は戦死者200人をふくめ800人を越える.

1828年

28年初め 英国外務省のジョン・ポンソンビー卿が調停に乗り出す.バンダ・オリエンタルを独立国とすることを提案.

4月28日、イギリスの仲介によりブラジルとアルゼンチンの間でリオデジャネイロ条約が締結.ウルグァイの独立が承認される.

8.27 リオでモンテビデオ条約調印.バンダ・オリエンタルを両国間の緩衝国とすることで妥協.アルゼンチンおよびブラジルはウルグアイに対する領有権を放棄.しかし内戦時には内政に干渉する権利を保持.

10.03 ウルグアイ東方共和国(Republica Oriental del Uruguay)建国.「東方」はラプラタ側東岸地帯という意味の旧名「バンダ・オリエンタル」からとられた.この時点で人口は推定7.5万人.内2割近くがモンテビデオに集中.

10月 この結末はブラジル・アルゼンチン両国に不満を残す.アルゼンチンでは提案受入れをめぐり復員軍人の不満派により反乱,リバダビア退陣.

1829年

8.18 最初の自由主義的憲法が制定される.その後87年間にわたり効力を維持.選挙権を制限し,ローマ・カトリックを公式宗教とする.全土を9つの県に分割し広範な自治権を与える.

1830年

7.18 ウルグアイ憲法,アルゼンチンとブラジルの批准を受け公式に承認される.「33人の英雄」の一人,フルクツオーソ・リベラが大統領に就任.議会制を基礎とする統一共和国がスタートする.

独立後,牛と羊の放牧が発展.塩付け肉と皮革の製造業も発展.このため土地所有をめぐり,独立以前からの地主とアルティガス時代に土地を獲得したものとの争いが激化.旧アルティガス派はラバリェハを指導者とし,3度にわたり反乱を試みるが,敗れる.
ラバリェハがブラジルに亡命したあとも,ブラジル・アルゼンチンの干渉によりつねに内紛状態が続く.

35 フルクツオーソ・リベラの任期が終了.アルゼンチンのロサス大統領は,連邦主義を捨てウルグァイの内紛に介入.同じく「33人の英雄」の一人,ブランコ党のオリベがロサスの支持を得て大統領に就任.

1836年

7 地主層を基盤とするオリベ政権に対し,前大統領リベラによる武装反乱.ラバリェハのブラジルからの帰国をオリベが許したことに抗議したもの.リベラ派(コロラド党)はモンテビデオのイタリア系住民など,中産階級を基盤とする自由主義政党.オリベ派(ブランコ党)は地方の保守的大地主と都市の商人層など本来のスペイン系住民を基盤とする.

両派の対立はアルゼンチン国内対立を見ないと分りにくい.アルゼンチンではブエノスアイレスを中心として中央集権による富国強兵を図る中央派と,それに対抗する地方地主の連邦派に分かれ争っていた.この対立は連邦派の勝利に終わり,マヌエル・ロサスが独裁者の地位についた.ブエノスアイレスの中央集権派はモンテビデオに逃れた.
オリベはマヌエル・ロサスと結びついた.これに対しリベラはブラジルと結びつき,ブエノスアイレスの中央集権派を支援した.リベラ派は赤の,オリベ派は白の帽章をつけたことからコロラド党,ブランコ党と呼ばれるようになる.オリベ派の正式名称は国民党.

9.19 アルゼンチンの支援を受けたオリベ,カルピンテリアの戦いでリベラ軍を打ち破る.

1838年

6月 ふたたび反乱を起こしたリベラのコロラド党軍がオリベ政権を打倒.オリベはブエノスアイレスに亡命.

1839年

3 リベラが二期目の大統領に選出される.43年まで大統領を勤める.

10 リベラ,アルゼンチンのロサスに対し宣戦布告.フランスの支援を受け戦闘開始.ロサスの下を逃れたブエノスアイレスの中央集権派が,モンテビデオに集中.国内からオリベ派を駆逐.オリベはブエノスアイレスで戦闘継続.

40年 フランス,ロサス政権と停戦合意.リオ・デ・ラプラタ地域から軍隊を撤退させる.このあとロサスと組んだオリベ軍と,中央集権派と組んだリベラが,アルゼンチン領内で戦闘を続ける.

1842年

42年初め アルゼンチンの連邦派が分裂.ロサスに反対するサンタフェとコリエンテスの両州は,アルゼンチンからの分離を宣言.コリエンテス州をふくむリトラル地方はパラグアイの支援を受ける.(littoralは沿岸部という意味.パラナ川・ウルグアイ川・パラグアイ川流域の内陸部全体を指す)

6月 ジュセッペ・ガリバルディのイタリア人部隊,リベラに雇われ,ウルグアイへの併合をはかり侵攻.半年後に敗退.この後ガリバルディはリベラ軍の海軍司令官に任命される.

42 オリベはリヴェラ軍を打ち破る.リベラ軍はウルグアイ領内に撤退.

1843年 大戦争(ゲラ・グランデ)

2.16 オリベ軍,アルゼンチンからウルグアイ領内に侵入.各地で反撃開始し首都に迫る.ゲラ・グランデ(大戦争)の開始.ロサスは4000名の陸上部隊を派遣.司令官にはロサスの腹心で,エントレリオスの連邦主義者フスト・ホセ・デ・ウルキサ将軍(Justo Jose de Urquiza)が指名される.ブラジルのマウアー財閥はコロラド党政府へ武器・資金の援助.英国もモンテビデオへの物資供給を継続.

10 オリベの部隊はモンテビデオ郊外のセリート岬に陣を構え,モンテビデオの包囲に入る.コロラドの支配するモンテビデオは,9年間にわたりブランコ党に包囲される.アレクサンドル・デュマはこの闘いをギリシャ神話になぞらえ,「新トロイ戦争」と表現する.

1845年

1 ロサス,リトラル地方支援のパラグアイに対し交易禁止策.

9 ウルキサの部隊はインディア・ムエルタのたたかいに圧勝.敗れたリベラはブラジル亡命.モンテビデオはなお抵抗を継続.

12 英国,フランスの海軍,内陸部との通商権益を維持するため,リオ・パラナとリオ・ウルグアイの自由航行権を要求.ブエノスアイレスの港を封鎖.反ロサスの立場から,リベラ支援に回る.ガリバルディのイタリア人部隊に加え,フランス人部隊もコロラド軍に参加.

46.2 ガリバルディの指揮するコロラド党のイタリア人義勇兵部隊,モンテビデオ北西4百キロの町サルトで遠征隊を再編成.2百人の兵力で千五百人からなるロサスの正規軍にゲリラ戦を挑む.

46年 ウルキサ,エントレリオス州知事に任ぜられる.州の小麦精製事業を独占し私財を蓄積.

50 英仏両国,ロサスと条約を結び撤退.モンテビデオのコロラド党政府は風前の灯となる.

50 パラグアイ亡命中のアルティガス,85歳で死亡.

50年 ウルキサ,コリエンテスの統一主義者と私戦を開始.コリエンテスを支配下におさめる.ロサスとの関係が断絶.

1851年

5 ロサス,英仏船のパラナ川の通行を禁止.貿易を絶たれたリトラル地方の反発強まる.ウルキサはロサスの辞任を勧告するとともにエントレリオスとコリエンテスの独立を宣言.コロラド党軍との合流を目指しウルグアイに向かう.ブラジルはコロラド党政府への全面支援を決定.

9月6日 ブラジル軍は国境を突破しウルグァイに侵攻.ウルキサ軍もモンテビデオに向かう.

10.04 ウルキサ,モンテビデオを包囲するオリべ軍を駆逐.コロラド党のホアキン・スアレスが全権を掌握.戦いはブエノスアイレス州と13州連合の対立となる.ブラジル海軍はラプラタ河口を封鎖.アルゼンチンとブランコ派の連絡を断つ.

10 ウルグアイとブラジル,5つの条約を締結.(1)ブラジルの干渉権の承認.②ウルグアイに逃亡した奴隷,犯罪人の引渡し.③ウルグアイ川と支流の自由航行.④牛肉輸出の税免除.⑤ブラジルへの債務の確認.さらにウルグアイはクアレイム河以北の18万平方キロの土地について領有権を放棄.これを元にブラジルは追加融資を承認.

12月23日 ウルキサ,自己の軍を自由軍と名づけ2万7000人の兵力を確保.ブラジル軍はウルグァイで総予備として控える.

1852年

2月1日 ウルキサの合同軍,抵抗を受けることなくブエノスアイレス近郊に到達.

2月2日午前9時 ロサスの首都駐留部隊,ブエノスアイレス西方10キロのカセロス高地に陣取り,ウルキサ軍を迎え撃つ.カセロスは現在ブエノスアイレス中心部となっている.ウルキサ軍はモロン川をわたり騎兵戦を挑む.午後1時までにロサス軍は殲滅される.戦死者は自由軍400人,ロサスの軍1200人.このほか7000人が捕虜となる.

2.02夜 ウルキサ軍,ブエノスアイレス市内に突入.ロサスはイギリス公使館に行きその夜イギリス船に潜り込む.

2月 大戦争終結.コロラド=ウルキサ合同軍により,オリベ派勢力はウルグアイから全面排除される.コロラド党のファン・フランシスコ・ヒロ(Juan Francisco Giro)政権は,ブランコ党に呼びかけ「融合政策」をとる.両党が協調し経済の再建を目指す.

52年 大戦争のあと,育種技術の改良と鉄線柵の普及により急速に牧畜業が発展.スペイン(主にバスク地方)とイタリアからの移民,ブラジルからの移住により人口は急速に増加.60年には外国生まれの人口が48%に達する.

52年 モンテビデオ市内で都市ガスの供給が始まる.

53 南リオグランデ州出身のカウディージョでコロラド党員のベナンシオ・フローレス将軍(Venancio Flores),ヒロに辞任を迫る.みずから大統領に就任.コロラド党のイニシアチブの下に挙国一致内閣を組織.

55 米国とイギリスの海軍,革命運動鎮圧のためモンテビデオに上陸.

56年 フローレスに代わりガブリエル・ペレイラが大統領に就任.任期中,6回にわたるクーデターの試みを鎮圧.

57年 ウルグアイに最初の銀行が創設される.

59年 政府,国政に干渉したとしてイエズス会を国外追放処分.(65年に帰国を許される)

60年 ガブリエル・ペレイラに代わりブランコ党のベルナルド・ベッロが大統領に就任.

60 マウアー,ブラジル公使としてモンテビデオ着任.マウアー銀行を設立し,ここを基点として産業振興をはかる.

60 モンテビデオ市内で下水道の整備が開始される.

61年 政府,死亡届と墓地の管轄を教会から移す.

 

パラグアイ戦争

1863年

4 ブランコ党のアナスタシオ・アギーレ,クーデターによりベッロ政権を打倒し,みずから大統領に就任.反ブラジルの立場からコロラド党と在留ブラジル人にきびしい弾圧を加える.

9 フローレス元大統領,ミトレの支援を受け反ブランコの蜂起.パラグアイはブランコ党を,ブラジルはコロラド党を支持して内紛に介入.ソラノ・ロペス,ウルグアイの中立と安全の維持は死活問題であるとし,ブラジルの介入には対抗措置を講じると警告.

12 ブラジル,ウルグアイ居留民の安全がブランコ党政府のため脅かされているとして,フローレス軍支援のため軍事介入.

1864年

8 ブラジル,アルゼンチンの支持を得た上でウルグアイに軍を進出.アルゼンチンもブラジルの干渉を支持.この時点でウルグアイ国土の1/3を400家族のブラジル人地主が支配.ブランコ党は攻守同盟にもとづきパラグアイに援助を要請.

1865年

1 パラグアイ軍,ミシオネスを通過してブラジル領南リオグランデ州に侵入.

2.22 ブラジル・コロラド派連合軍,モンテビデオを占領.ブランコ党政権を駆逐する.

5.01 ブラジル,アルゼンチンと,ウルグアイのコロラド党政権とのあいだで三国同盟成立.5年間にわたるパラグアイ戦争始まる.

8.05 エスティガリビアの指揮するウルグァイ遠征軍6200人,アルゼンチンのミシオネス回廊を突破、ブラジルのリオグランデ・ド・スルに突入.ウルガァイアナを占領.

9.15 ウルガァイアナのパラグアイ軍,2万のブラジル軍に包囲される.エスティガリビア将軍は、戦うことなく降伏.三国同盟はパラグアイに対し和平を提案するが,ソラノ・ロペスはこれを拒否.その後コリエンテス近郊で半年にわたり小競り合いが継続.

65年 ロンドンのLiebig Meat Extract会社,リオ・ウルグアイ河畔のフレイ・ベントスでハム工場の操業を開始.製品はヨーロッパの軍隊に補給される.いっぽう伝統的な塩付け肉はキューバ,ブラジルに輸出される.

1866年

5.02 連合軍はウマイタを目指し北上作戦を開始.ホセ・ディアスの指揮するパラグァイ軍約5千は,エステロベラッコ沼沢地で連合軍の先鋒部隊を待ち伏せ.フローレス大統領の指揮するウルグァイ人部隊約2千を壊滅する.パラグアイ軍はその後本隊に圧倒され,2000人を越える戦死者を出し撤退.

5.24午前11時半 ウマイタから出撃したパラグアイ軍1万7000人,先鋒のウルグァイ軍に攻撃をかける.ウルグアイ軍を殲滅したパラグアイ軍は,ブラジル軍2個師団(約2万人)を攻撃.3時間にわたる白兵戦となる.

10月 フローレス部隊,ミトレの退陣に伴いモンテビデオに帰国.残されたウルグアイ軍兵士は200人.

1868年

3月 フローレス,大統領を辞任.ローレンツォ・バチェ(Batlle)・イ・グラウ将軍が大統領に就任.フローレスは引き続き軍司令官として権勢を振るう.

68年 フローレス,反対派により暗殺される.コロラド党は同じ日にブランコ党のベッロを暗殺.

68年 国内の羊飼育数はこの年1700万頭に達する(60年には300万頭).羊の飼育は特殊な技術を持つ新規参入の外国人農場主(hacendados)によって担われ,羊毛がヨーロッパに向けて輸出される.

69年 モンテビデオから内陸に向かう最初の鉄道が開設される.

70 国民党の反乱が始まる.闘いは2年間にわたる.

70年 印刷工を中心に最初の労働組合が創設される.

71年 農園主と牧畜業者を中心に地方協会(Asociacion Rural)が設立される.牧畜技術の改良・普及とともに,地方の伝統擁護をうたい,保守派の強固な地盤となる.

71年 モンテビデオに最初の上水道が開設される.

1872年

72年 国民党の反乱終結.両党間に和平協定.コロラド党が引き続き政府を掌握するとともに,政府機関を共同で管理すること.4つの州について国民党の支配を認めることで妥協.「共同参加」(coparticipacion)政策と呼ばれる.

72年 バチェ大統領が辞任.エジャウリ大統領(Jose Ellauri )が後任に選出される.

73年 議会選挙.カウディージョに代わり大学人など文民が大幅に進出.彼らは「73年のジロンド主義者」と呼ばれた.

75年 エジャウリ大統領,大規模な恐慌に対応できず.軍部により辞任を強制される.後継者に34歳のホセ・ペドロ・バレーラ.バレーラは政治的自由を抑え,反対派指導者をキューバに追放,武装反乱を鎮圧する.いっぽうで米国の教育者ホレイス・マンの影響を受け教育改革に着手.

76 ロレンソ・ラトーレ大佐が権力を掌握.近代国家建設に向けさまざまな施策を実行.

農村憲章: 地方協会の提案をとり入れ,家畜の保護・改良に力を注ぎ,鉄条網の輸入を免税とし農園間の境界を確定する.農園主の権利を保護することで辺境地帯にも秩序を確立.
市民登録法: 出生,死亡,婚姻の登録を政府の業務に移管.不良や失業者(失業者は浮浪者と見なされた)を厳しく処罰し,農村からの離脱を防ぐ.
また金本位制をとるとともに,関税障壁の嵩上げにより国内産業の育成をはかる.英国資本を積極的に受け入れ鉄道・電報・郵便などのインフラ整備にも力を注ぐ.

77 バレーラの起案になる普通教育法制定.学制を改革し,初等教育を無償・義務化.国立大学に医学部,数学部が相次いで創設.

78年 モンテビデオに電話回線が開設される.

79 ラトーレ,憲法に則り大統領に就任.英国資本が有力鉄道路線の建設権・経営権を獲得.このころガス・水道などインフラを中心に英国の投資が急増し,ウルグアイ経済は活発化.

79 この年の人口44万人に達する.うち1/4がモンテビデオ市に居住.このほかパイサンドゥとサルトの町が内陸の河港として発展.

80 ラトーレ,「ウルグアイは統治不能」と言い残し辞任.アルゼンチンへ亡命.マキシモ・サントス将軍が軍司令官として政権を掌握.

82 ラトーレ亡命の後最高実力者となったサントス将軍,コロラド党党首となり,国会を開催し大統領に選ばれる.  

85年 市民通婚法が制定される.公的機関に登録した結婚のみが有効とされる.

86 サントス,国民党の反乱を鎮圧.その後自らに対する暗殺計画が発覚するに及び,職を辞しヨーロッパに亡命.議会はマシモ・タヘス将軍(Maximo Tajes)を後継大統領に指名.タヘスはサントス派の軍幹部を更迭し,民政移管に備える.

86 ホセ・バチェ・イ・オルドネス(Jose Batlle y Ordonez),コロラド党機関紙「エル・ディア」を発刊.労働時間短縮,スト権確立などを主張し労働運動を積極的に支援.バチェはローレンツォ・バチェ前大統領の息子.

86年 モンテビデオの町に街灯が設置される.

90年 民政移管.コロラド党のエレーラ・イ・オベス前大統領補佐官が大統領に選出される.エレーラの権威主義的統治に対し,バチェらコロラド党内反主流派が影響力を拡大.

90年 経済危機がウルグアイを襲う.スペイン資本による国内最大の銀行が倒産.生産と建設がストップ.英国資本に依存した伝統的な生産と分配の形態に反省が迫られ,強力な国家による干渉が求められるようになる.

94年 議会,紛糾の末,エレーラ派幹部のフアン・イディアルテ・ボルダを大統領に選出.

97 政府,ブランコ党支配4県のひとつをコロラド支配に移行.ブランコ党は選挙の保障・無記名投票・比例代表を訴え,ティモテオ・アパリシオ・サラビアのもとに反乱.サラビアはリオグランデ・ド・スル州出身の牧場主.

97 ボルダ大統領,暗殺される.暫定大統領となったフアン・リンドルフォ・ケスタ上院議長(Juan Lindolfo Cuestas)は,国民党と和平協定.国民党支配州を4から6以上に増やすこと,全市民に政治的な権利を保障することを認める.

97 両党間に共同協定発効.武装敵対の歴史は終焉を迎える.すべての市民に政治的権利が保障され,国民党はこれまでの四州に加え新たに二州の支配権が与えられる.

98 議会多数派を握るエレーラ・イ・オベス,対立候補を立て,ケスタの追い落としを図る.ケスタは逆クーデターにより議会を閉鎖.国籍登録法と選挙法を制定し,ブランコ党に一定の議席を与えることで,コロラド党内の反ケスタ派封じ込めを図る.

98年 政府の経済介入が進む.国策会社としてウルグアイ東方共和国銀行(BROU)が設立される.電力会社の経営がモンテビデオ市に移管される.ブエノスアイレスに対抗してモンテビデオ港の近代化が図られる.

99 クエスタ,正式に大統領に選ばれる.1903年まで政権を担当.カトリックと対決し,外国人神父の受け入れを拒むなど活動を制限.

 

バジスモの時代

1900年

00年 ヨーロッパからの移民が進む.人口の1/3が外国生まれとなる.

02年 コロラド党のホセ・バッジェ・イ・オルドニェス,ケスタの後継者として初の民選大統領に当選.

1903年

3.01 ホセ・バチェが大統領に就任。

3.22 コロラド党とブランコ党、ニコ・ペレス協定に調印。

03年 バッジェの腹心クラウディオ・ウィリマン,ヨーロッパに渡り,4年にわたり政府統治システムについて研修.

1904年 コロラド党単一支配の確立

1.02 サラビアの率いる国民党がふたたび反乱.反乱部隊は5000名まで膨れ上がる。9ヶ月のたたかいの後,サラビアの死をもって終了.

6.22 トゥパンバエで両軍の決戦。パブロ・ガラルサ大佐の率いるコロラド軍6500名が3日間の激戦のすえ勝利。

9.01 サラビア、マソジェール(Masoller)の近くで政府軍の攻撃を受け戦死。

9.24 アセグア(Acegua)協定締結.72年以来の地域別共立体制が終了し,政権党による統一支配が実現.労働立法の制定,基盤産業の国有化が進む.この内戦による死者は1000人に達する。

05年 最初のロンドン行き冷凍船が就航.これにあわせ農村地帯での食肉冷凍工場(frigorifico)の建設が進む.

06年 国立病院における十字架像が全面撤去される.

06年 帰国したウィリマンが後継大統領に選出される.

07年3月1日 ウィリマンが大統領に就任。ブラジルと条約を結び国境線を確定.選挙法の改定などにより国民党の政界復帰を促進.

07年 公共の場での宣誓において,神への言及や聖書の使用が禁止される.

07年 離婚法が成立.両者の合意があれば,離婚が成立することとなる.

09年 学校カリキュラムから宗教教育を排除.

09年 モンテビデオ港の大規模改修工事が竣工.ウルグアイは地域の貿易センターとしてブエノスアイレスと争うことになる.

1910年

10年 大統領選挙施行.バッジェの再立起を不満とする国民党は選挙をボイコット.エミリオ・フルゴーニら独立派の社会主義者,ウルグアイ社会党(Partido Socialista del Uruguay-PSU)を結成.カトリック保守派はウルグアイ市民連合 (Union Civica del Uruguay-UCU) を結成して選挙に臨む.

10年 保守党の一部が反乱を起こすが、政府軍により鎮圧される。

10年 この年ウルグアイ人口は100万人を超える.これは40年前の2倍にあたる.首都モンテビデオにはそのうち3割が暮らす.

11年 バチェ,二期目の大統領に就任.スイスに範をとり社会改良政策をつぎつぎに実施.労働者や中間階級の要求を先取りし,労働者保護,社会保障の拡充,農業労働者への最低賃金法適用.バチェは国民からドン・ペペとよばれ尊敬される.

11年 バッジェ,造幣機能を持つ唯一の銀行BROUを国有化.公益企業を国有化することで外国への資金流出を防ぐことが狙いとされる.その後,基幹産業,電気,電話,輸送,銀行,保健,港湾業務などがすべて国有化.

産業基盤,社会福祉,教育などでの諸改革にもかかわらず,農業改革には着手できなかった.米国経済学者ヘンリー・ジョージの理論に影響されたバッジェは,累進課税と相続税の強化により土地所有が改革できると考えた.また移民を積極的に受け入れることで集約的農業への道が開けると考えた.
しかしこれらの施策は地方連合(Federacion Rural)の激しい抵抗の前に挫折し,500家族による土地寡占制にはいっさい着手できなかった.

12年 政府,国営電力会社を設立.発電と配電事業を独占.またBROUに引き続きウルグアイ・モルトガージュ(Mortgage)銀行を国有化.産業振興のため石炭・石油資源開発協会,化学産業振興協会,漁業協会も設立.

12年 離婚法に付加条項.女性の側が離婚を申し出る場合は,とくに合理的な離婚理由申し立ての必要がなくなる

12年 各県に1校の高等学校を創立.高等教育の普及に力を注ぐ.

14年 政府,英国資本の鉄道会社North Tramway and Railway Companyを買収.鉄道の国有化を目指す.

14年 失業手当制度が発足.

1915年

3.01 バッジェ後継政権としてコロラド党のフェリシアーノ・ビエラ政権が成立.バッジェの急進的政策に一定の手直し.

11月 ビエラ政権の下で8時間労働,有給休暇制度,医療費の無料化,中絶の合法化などが実現.一方で労働運動は厳しく弾圧される.

1916年

7.30 憲法改正のための制憲議会選挙が施行される.選挙ではバッジェの急進主義を批判するコロラド党カルロス・マニーニ・リオス派が多数を占め,バッジェ派は多数派の地位を失う.これまでの急進主義的改革が敗北の原因と見たビエラ大統領は,経済・社会改革の一時停止を発表.

8月 任期4年で再選なしの大統領と,任期6年の執政委員9名からなる国家政治委員会(コレヒアード)制を柱とする憲法草案の議論が開始される.

10.17 新憲法が議会で承認される。国民党が主張してきた無記名投票,部分的比例代表制,男子普通選挙権がとり入れられる.

16年 政府,高等教育の自由を承認.国立大学には「女性部」が作られ,女性の高等教育進出に門戸を開く.

16年 国家港湾管理委員会(Administracion Nacional de Puertos- ANP)が発足.

1917年

3.01 バチェの思想(バチェスモ)を体系化するための憲法改正が国民投票により成立.政教分離,基本的市民権の拡大,無記名投票と比例代表制,死刑の廃止などが盛り込まれる.

17年 憲法改正を受けてコレヒアード制への移行が正式に決定される.9人が1年づつ議長を務めるコレヒアードにより独裁制の出現を防ぐとされる.ただしコロラド党内の妥協により主要内閣ポスト(外相,内相,軍事相)の任命権は大統領に残される.またコレヒアードは大統領を補佐する国家行政評議会(Consejo Nacional De Administracion)となり,9人のメンバーは大統領によって指名されることとなる.

17年 国家行政評議会の成立にともない,第一野党の国民党に経済,教育,社会政策担当相のポストが与えられる.

17 国立大学建築学部の学生ヘラルド・マトス・ロドリゲス(当時17歳)、「ラ・クンパルシータ」を作曲。ほかタンゴ王のフランシスコ・カナーロ兄弟、エドガルド・ドナート,歌手のフリオ・ソーサなど皆ウルグァイ人といわれる。

18年 カルロス・マニーニ・リオス(新聞社主)らが,コロラド党リベラ主義派を結成.バッジェの急進主義に反発し,党創設者リベラ将軍の思想の復活を目指す.

18年 夜間勤務に対する制限法が制定される.

19年 大統領選挙でバッジェ後継者のバルタサル・ブルム前外相が当選.ビエラ大統領はバッジェと袂を分かち,コロラド党ビエラ派を形成.

19年 退職年金制度が発足.公務員を対象とした社会保険制度が発足.

1920年

9月 ロシア革命の影響を受けたウルグアイ社会党の急進派が,ウルグアイ共産党結成.翌年に第1回党大会を開催.

20 第一次大戦に続く好況.疲弊した英国に代わり,米国からの資本が大量に流入.大学まで教育が無料となり,社会福祉の充実.戦争で荒廃したフランスに100万ドルを貸し出すなど豊かな財政.スペイン・イタリアに代わり,東欧・シリア・レバノンからの大量移民を受け入れる.

20年 ルイス・アルベルト・デ・エレーラ,国民党議長に就任.以後59年の死亡まで40年間,党首の座にとどまる.

20年 労働安全法,労災保障法,週休制度が制定される.

21 婦人参政権実現.

22 ウルグアイ,ソ連を承認.

1923

3.01 ウルグアイで最初の直接選挙実施.コロラド党「中立派」のホセ・セラト(Jose Serrato)が大統領に就任.その後多くの政党が群立し,選挙のたびに合従連衡を繰り返す.各党派の間に妥協が繰り返され,改革の動きはほとんど見られなくなる.

23年 アナルコ・サンディカリスト,共産主義者が糾合し,ウルグアイ労働者連合(Uruguayan Syndicalist Union)を結成.

23年 地方別最低賃金法が施行される.実際にはまったく遵守されないままに終わる.

24年 全国選挙の準備と管理のため選挙裁判所(選管)が創設される.

24年 エレーラの保守主義に飽き足りない国民党内改革派が,急進ブランコ党を結成.ロレンソ・カルネリが委員長に就任.

25年 コロラド党内にリベラ主義派,ビエラ派に続き伝統派が結成される.フリオ・マリア・ソーサが指導したことからソーサ派とも呼ばれる.

27年 大統領選挙.党内影響力を失ったバッジェ派に代わりリベラ主義派のフアン・カンピステギ(Juan Campisteguy)が当選.

28年 国民党の一派が新たに社会民主党を結成.カルロス・キハーノが委員長に就任.

28年 政府,国立冷凍会社(Frigorifico Nacional- Frigonal)を設立.政府・地方協会・地方連合の代表からなる理事会が運営.英国資本の冷凍会社がロンドン市場へのアクセスを独占し,輸出割当を決定し,不当な買取価格設定を行うことに対抗するもの.

28年 公務員に加え,民間企業においても社会保険制度が施行される.

1929年

5.18 モンテビデオでラテンアメリカ労働組合会議が開催される.これを機に共産党が指導するウルグアイ労働者総連合(General Confederation of Uruguayan Workers)が結成される.

29年 バッジェが死亡.コロラド党内の進歩派はAgrupacion Avanzarを結成.グラウエル(Julio Cesar Grauert),ブルム元大統領らが指導.

29年 経済団体が中心となり,国家経済監視委員会を結成.国有企業を初めとする公的部門の非能率と腐敗を告発.経済活動への国家介入を制限し,社会立法を停止し,新税適用の廃止を求める.

1930

7.30 憲法公布100年を記念し,モンテビデオで第1回ワールドカップサッカーが行われる.ウルグアイが4-2でアルゼンチンを破り優勝.

30年 モンテビデオの人口,08年に比し2倍に増加.

1931年

3.01 大統領選挙.コロラド党進歩派(バチスタ派)のガブリエル・テラが保守派のマニーニを僅差で抑え当選.国民党のエレーラは記録的な大差で敗北.進歩派は国民党反エレーラ派と「豚箱協定」(Pacto del Chinchulin)を結びコレヒアードの主導権を握る.

31年 大恐慌がウルグアイにも波及.農産物価格が暴落.コレヒアードはBROUに貿易統制と外国為替の調整を委ねる.外国企業は母国への送金を禁止される.相手国が対抗措置をとったことにより,牧畜業者,輸出業者,民間銀行は大打撃を受ける.また厳格な輸入統制により国内民間企業も操業困難に陥る.

31年 コレヒアード,燃料・アルコール・セメント公社(Administracion Nacional de Combustibles, Alcohol, y Portland-ANCAP)を設立.経済危機脱出のため産業の国家統制を図る.また電力公社に電話システムの業務独占を許す.結局これらは政治利権屋の食い物にされ,経済混乱に拍車をかける.

32年 食肉産業は,さらに英国の輸入制限により打撃を受ける.家畜数は08年を下回る水準まで低下.

32年 労働者や失業者のデモが暴力的様相を帯びる.警察の弾圧による犠牲者も続出.テラは進歩派と距離を置き,財界主導の国家経済監視委員会との関係を強めるようになる.

1933年 テラ独裁政権

1月 対外債務の利払いが困難となる.コレヒアードは有効な手段を打ち出せないまま手詰まりに陥る.テラはエレーラとマニーニの支持を得て,クーデターの実施を画策.

3.13 テラ大統領、軍隊を動員し議会と政務院を制圧。

3.31 テラ大統領,自己クーデターにより議会を解散,反対派を追放.執政委員会(colegiado)を廃し独裁権をにぎる.テラ派は3月革命と呼び,左翼はマチェーテ独裁と非難.

4.01 ブルム元大統領,自殺.もう一人の指導者グラウエルは暗殺される.テラは多くの政治家を国外追放し,報道規制を強化.ファシズム支持の立場をとり,独裁制のもと経済再建に努める.

6 解散された議会に代わる,憲法制定会議の選挙が実施される.

1934年

3月 制憲議会が開会される。政務院制度を廃止する内容。

4.20 新憲法が国民投票により成立。いくつかの政党は、国民投票をボイコット。

8.29 ブラジルとウルグアイ両国で日本品ダンピング防止協定が成立.日本製品の輸出は事実上ストップ.

34年 新しい憲法に対する国民投票.colegiadoは正式に廃止され,大統領制に復帰する.公営企業の新規設立には議会の2/3の賛成を要することとなる.いっぽうで高利貸しの禁止,居住権,労働権などの社会的権利を承認,婦人参政権を確立.再選を禁じた憲法を犯し,Terraがふたたび大統領に.

34年 12歳以上の未成年者の労働を規制する法律が成立.出産休暇が認められる.年金制度がすべての産業・商業セクターに拡大される.

34年 新政党法施行.独裁体制を支持するもののみが立候補を許される.エレーラ派とマニーニ派が上院議席を山分け.

34年 政府,輸入・為替管理名誉委員会を設立.外貨の割り当ての制限を施行.米・英企業の買収で膨らんだ対外債務の利払いに全力を注ぐ.エレーラ派とマニーニ派による公共産業の民営化圧力が高まる.

1935年

1月 テラ大統領への暗殺未遂事件が発生.コロラド党進歩派と独立国民党の反乱。政府により鎮圧される。コロラド,ブランコ両党内進歩派と左翼による人民戦線結成の動きも流産.

35年 ウルグアイ政府,ソ連との国交を断絶.

35年 通貨切り下げ.大地主を優遇し,農産物の輸出振興に勤める.

35年 イギリスとの通商条約改定.対外債務の軽減,石炭輸入の確保,英国企業に対する優遇,ウルグアイ農産物の割り当て確保などで合意.

1936年

36年 ウルグアイ,スペイン共和国政府との関係を断絶.ドイツ・イタリアとの関係を強化.

36年 ルーズベルトがウルグアイ訪問.

36年 国営企業の業務独占を排除する法律が施行され,米英資本の参入が認めらる.

1937年

12月 大統領選挙.はじめて婦人にも参政権が認められる.コロラド党は分裂し,アルフレド・バルドミール(国防相.テラの義理の兄弟)とエドワルド・ブランコ・アセベド(義理の息子の父)との争いとなる.バルドミールが大統領に当選.バチェ派,独立国民党,急進ブランコ党は選挙をボイコット.社会党と共産党は統一候補を擁立するが及ばず.

37年 対米債務のリスケ交渉が成功.39年にはイギリスとの間でもリスケ交渉が成立.テラは英国資本から買収した鉄道・水道・ガス・市電などの公共サービス産業,石油・セメント・冷凍施設・自動車などの基幹産業を守り抜くことに成功.

37年 リオネグロ川にかかるパソ・デ・ロス・トロスの水力発電所の工事が開始される.ドイツ資本が工事を請け負う.ダムによりできあがったリオ・ネグロ湖は南米最大の人造湖となる.

37年 政府,公営住宅建設機構,国民栄養科学機構を相次いで設立.貧民救済と失業者対策とする.

1938年

3.01 バルドミールが大統領に就任。 

38年 石油販売への民間参加が認められる.これに応じ,ANCAPは精油所を建設.

1939年

1月 バルドミールが大統領に就任.民主主義復活を求める野党の要求にこたえ,34年憲法の改正の方向を打ち出す.ブランコ党と保守派はこれに抵抗しクーデターを企図するが失敗.

9月 第二次世界大戦勃発.バルドミールは国民党主流派の支持を得て中立の立場を宣言する.

12.17 ウルグアイ政府,モンテビデオ停泊中のドイツ戦艦グラーフ・シュペー号に退去を命じる.シュペー号はラ・プラタ河口沖でイギリス海軍との交戦.その後モンテビデオ港外で自沈.

1940年

6.17 バルドミールは,ファシズムを捨て,親連合国の姿勢を打出す.ファシストに対する統制を強化.12人のナチ・リーダーを逮捕する。これは一種のポーズで、逮捕者はドイツ大使館の干渉の後、まもなく解放される。

40年 政府,米軍基地の建設を認める.国民党のエレーラ派はこれに反対し,バルドミールと袂を分かつ.

41年 バルドミール,閣内から国民党エレーラ派閣僚3人を追放.エレーラを親ナチ,親フランコと非難.

1942年

2.21 バルドミール,枢軸国との断交を宣言.議会を解散。

2.23 コロラド党とバチェ派からなる国家評議会(Consejo de Estado)を設立.34年憲法の停止で合意.共産党はこの動きを歓迎するが,社会党,独立国民党はバルドミールに対する警戒感を緩めず.

11.29 総選挙施行.コロラド党のフアン・ホセ・アメサガがバチェ派の支持も得て当選.国民党エレーラ派は立候補を認められず独立国民党のみが選挙に参加.共産党と社会党は分裂したまま選挙に参加し敗れる.

11.29 同時に行われた国民投票で,新憲法が77%の支持を得て批准される.新憲法は議会を再開し,閣僚ポストのcoparticipationを廃止する.

42年 労働総同盟(Union General de Trabajadores)が結成される.

1943年

2.12 国家評議会が解散。3日後に国会が召集される。

3月1日 アメサガが大統領に就任.バジスモを復活し,賃金評議会(国家・労働者・雇用主代表をふくむ)の設立,農村労働者の年金制度設立など,社会立法を次々に制定.

45年 議会,すべての労働者に有給休暇制の実施を定める.

46年 農村労働憲章制定.農村労働者の権利を確立,同時に女性にも完全に平等な権利を保障.

46.11.24 大統領選挙.コロラド党のトマス・ベレータが当選。

1947年

3.01 ベレータが大統領に就任.

8.02 ベレータ大統領が死亡。副大統領のルイス・バチェ・ベレス(バチェの甥)が大統領に就任.ネオバジスモと呼ばれる.食糧輸出の好調に裏付けられ外貨準備は最高水準に達し,実質賃金は増加.ウルグアイは「南米のスイス」と呼ばれるようになる.

47年 全国食糧評議会が創立される.貧困者のための基礎食料を保証するために食料価格の調整にあたる.

1948年 

48年 全国農業入植協会(National Land Settlement Institute)が設立される.農地改革と新規入植者の積極的増加を狙うが,その後の資金不足から挫折する.

48 チャルア族最後の原住民が死亡.

49年 コロラド党の反バチェ派が分裂.バチェはこれに対抗し国民党エレーラ派と「愛国共存」を形成.テリスモ派に閣僚ポストを与える.バチェの政策は徐々に保守化していく.

1950年

50年 大統領選を控え,ラジオの人気パーソナリティーで反共主義者のベニート・ナルドネ,農村行動同盟連合(Liga Federal de Accion Rural-LFAR)を結成.農村同盟の指導者フアン・ドミンゴ・ボルダベリがパトロンとなる.ボルダベリは後の大統領フアン・マリアボルダベリ・アロセナの父.

11.26 大統領選挙.「統一と改革」(コロラド党)のアンドレス・マルティネス・トルエバ(Andres Martinez Trueba)が勝利.

50年 ウルグアイ,ワールドカップで二度目の優勝.

1951年

3月1日 マルティネス・トルエバが大統領に就任.執政委員会(コレヒアード)制度の復活を打ち出す.バチェ・ベレスの再登場を嫌うコロラド党保守派,復権を狙う国民党エレーラ派もこの構想を支持.

12月 国民投票により執政委員会制度(Consejo Nacional de Gobierno: CNG)復活.9名の行政委員を選出.このうちの6人が1年ごとの交替で議長を勤めることとなる.閣僚ポストも5人の省務評議員が交代で務めることとなる.

51年 労働総同盟の急進的傾向に反対する保守派が分裂し,労働総連合を結成.

1952年

3.01 CNGが発足。

52年 石油精製産業の労働者がストライキ.国家行政評議会は労働争議の深刻化に対抗して,「緊急保安措置」(prompt security measures)と呼ばれる憲法の非常事態条項を発動.

53年8月 朝鮮戦争終結.防寒服用の羊毛輸出がストップ.ウルグアイは輸出の減少から産業の収縮,労働不安を招く.

1955年

3.01 コロラド党のルイス・コンラド・バチェ・ベレースがCNG議長に就任。

9 ウルグアイ共産党第16回大会.ロドニー・アリスメンディ書記長が平和のための闘争の重要性を強調.大衆運動と労働戦線の統一,大衆的前衛党の建設をめざし,民族解放民主戦線結成を訴える.

1958年

11月 総選挙.独立国民党はバジスタとの連立を解消し,「民主ブランコ連合」(UBD)に参加.42年以来の統一を実現したブランコ党が勝利.ナルドーネの率いる地方党(LFAR)もUBDに参加.コロラド党は経済運営の失敗から世論の支持を失い12万票の大差で敗れる.独立国民党との連合に反対するエレーラ派の一部は,アドワルド・ビクトル・アエド(Haedo)のもとに正統派を結成.

58年 国会,ストライキ権と出産休暇を承認.また大学機構法を承認.国立大学の自治と教授・研究者・学生の権利を認める.

58 ラウル・アントナッチオ・センディック,パリの社会主義インター大会にウルグアイ社会党代表として参加.

1959年

3.01 93年ぶりにブランコ党による政権が発足.マルティン・レカレド・エシェゴエン・マチコテが、CNGの議長に就任。複数大統領制廃止,福祉国家反対の立場をうちだす.農牧業者の主張に沿い,保護主義政策を捨て,自由市場経済政策を開始.国民総生産は56年から72年にかけて12%低下.公務員の実質賃金は57年から67年にかけて40%低下する.

59 国民党指導者のエレーラが死亡.ワシントン・ベルトランが後継者となる.マルティン・エチェゴジェンの率いるエレーラ右派は地方党との連携を強め対抗.

59 社会党,左派が指導権をにぎり,ML主義と民主集中制を党の指針とする決定.反対派は脱落.

1960年

60 社会党,アルティガス糖業労働者連合を結成.ラウル・センディック,社会党のオルグとしてアルティガス州北部の甜菜農園労働者の組織に入る.農園労働者を動員し,モンテビデオまで国土を縦断する農民デモを組織.

60年 政府とIMFが合意書に調印.ウルグアイは通貨切り下げ,貿易自由化,単一・自由な為替市場の創設を認める.

1962年

11月 ブランコ党を中心とするUBD,2万4千票の僅差でふたたび選挙に勝利.地方党とエレーラ右派はUBDを離れ,代わりに正統派がブランコ党に復帰.コロラド党内でも「リスト14」派と「統一・改革」派の対立が深刻化.キリ民党は結成後初の選挙で第3党に躍進,社会党は大幅に票を減らす.共産党は労働者全国会議(CNT),大学生連合(FEUU)とともに左翼解放戦線(Frente Izquierda de Liberdad-FIDEL)に結集して選挙に参加.得票を大幅に伸ばす.中間派はPSUを中心に知識人などを結集し,人民連合(Union Popular)を結成して選挙に参加.

62年 この年物価上昇率は史上最高の35%に達する.さらに翌年からは50%以上のインフレが持続.

62 指導者のラウル・センディック,選挙敗北の総括をめぐり社会党を離脱,民族解放運動(MLN)を結成.武装闘争へと転換.都市ゲリラ戦術を生みだす.

1963年

3.01 ワシントン・ベルトランが国家評議会議長兼大統領に就任.与野党拮抗状況と各政党の内部分裂により,政局運営は麻痺状態に陥る.(一説にベルトランではなくダニエル・フェルナンデス・クレスポ)

7 ラウル・センディック,モンテビデオ市内の「スイス・ライフルクラブ」を襲撃し銃を捕獲.当局に追及されたセンディックは一時アルゼンチンに逃亡.

1964年

1 ウルグアイで治安措置法公布.

9.8 ウルグアイ,OAS総会の決定を受けキューバとの国交を断絶.

64年 「統一・改革」のバチェ・ベレースと,地方党のナルドーネが相次いで死亡.

64年 あらたな労働センターとして全国労働者会議(Convencion Nacional de Trabajadores-CNT)が結成される.

64 ビート農園労働者,第2回目の縦断行進.

1965年

8 銀行従業員,48%の賃上げを要求しストライキ.他企業の労働者50万人がこれに合流.政府は緊急保安措置を宣言し弾圧.ついで国家公務員20万人が6割賃上げを要求しスト入り.

12 ブランコ党,ストによる混乱の責任は共産党とその背後のソ連にあると非難.ソ連大使館の閉鎖も示唆.コロラド党の反対により,実行されず.

65 MLN,はじめてトゥパマロスの名を用い,バイエル社のプラントに爆弾.トゥパマロスはインカ抵抗闘争の英雄ツパマロ(ツアク・アマルー)の名を取ったもの.

65年 過剰融資と大量の投機から銀行危機が発生.

65年 政府,経済停滞を突破するため,進歩のための同盟の勧告に応じ,10ヵ年開発計画を策定.しかし実際にはまったく始動せずに終わる.

1966年

8 ブランコ党の自由貿易政策による輸出促進を主張する畜産業者の代表アルベルト・ウベルが持ち回り大統領に就任.9人大統領制廃止をもとめる80万の請願を組織し,国民投票に持ち込む.コロラド党もこれを支持し,投票の結果憲法改正案が成立.評議会制を廃止し,5年を任期とする単一大統領制にあらためることとなる.これまでの3対2のコパルティシパシオンも廃止され,閣僚・地方自治体首長もすべて任命制となる.さらに新規に経済企画庁,社会福祉銀行,ウルグアイ中央銀行が設立される.高校教育が義務化される.

11.27 改正憲法にもとづく大統領選.コロラド=バジスタ連合は元国鉄総裁として有能・誠実を評価されたオスカル・ディエゴ・ヘスティード退役将軍(Gestido)を統一候補とする.ヘスティードはコロラド党内保守派の支持もとりつけ勝利.副大統領にエル・ディア紙社主のホルヘ・パチェコ・アレコ(Pacheco Areco).

12 トゥパマロス,警察と最初の衝突.武器移送中のマリオ・ロバイナ,カルロス・フローレスが射殺される.

66年 アブラハム・ギリェン(ペンネームはArapey)、モンテビデオの「アクシオン」紙に、「都市ゲリラの戦略」を発表。チェ・ゲバラの農村ゲリラ戦略を評価しつつも都市ゲリラの重要性を強調。ギリェンはグアダラハラの出身でスペイン人民戦争のベテラン。

1967年

3.01 ヘスティード,大統領に就任.バジスタの主張を一部取り入れ59年以前の発展モデルへの復帰を試みる.民族工業保護政策の強化をもとめる資本家との矛盾拡大.

7 OLAS大会開催.ウルグアイ共産党はキューバと共同イニシアチブをとり,アリスメンディ書記長が副議長を務める.

10 ヘスティード大統領,OAS首脳会議に対する抗議の高まりに対し戒厳令発令.国家行政委員会制をふたたび廃止.

11月 ヘスティード,バジスタモデルを断念.テラ政権時代の経済政策を立てたセサル・チャルロネ(Charlone)を経済金融相に迎える.チャルロネはIMF提案を受け入れ,単一為替市場に復帰,通貨の大幅切り下げを断行.この年物価上昇率はついに100%を上回る.

12.06 ヘスティード大統領,心臓マヒで急死.パチェコ・アレコ副大統領が昇格.

1968年

1月 パチェコ大統領,PSU他の左翼グループに対し「立憲体制の破壊と武装闘争を企てている」と非難し,活動禁止を命令.さらに機関紙などの出版活動も禁止する.

5月 パチェコ・アレコ,内閣改造により既存政治家を排除.銀行家,外国企業の弁護士,畜産業者を入閣させる.ハーバード出身のマネタリスト派アレハンドロ・ヴェグ・ビジェガスを経済企画庁長官に指名.ブラジル型経済政策をうちだす.

6.01 パチェコ,賃金・物価凍結令を宣言.賃金問題評議会を廃止.これに代わり,基礎食料価格の安定を目的に生産性・物価・収入管理委員会(Comision de Productividad, Precios, e Ingresos- Coprin)を創設.物価は前年比183%まで増加.

6.13 賃金凍結に反対し,CNTを先頭にスト闘争が広がる.パチェコは深刻なインフレと不況で生じた社会不安に対し,非常事態を宣言。社会党,アナーキスト連盟など6政治組織に解散命令.国立大学へ警察導入するなど大衆運動の徹底的な弾圧と左翼政党への攻撃で対応.

7 トゥパマロス,ライフルクラブに潜入.1ダースの自動小銃を奪取.

8 大学自治の侵害に反対する学生デモに,警察の発砲.学生(Liber Arce)が死亡.首都人口の6分の1に相当する20万人が葬儀デモに参加.新聞記者など中間層もストで呼応.労働者に対する軍の直接弾圧開始.首都圏を管轄する第1軍区司令官のリーベル・フレーニ(Liber Seregni Mosquera),これに抗議し辞任.

8 トゥパマロス,テロ活動を開始.電力公社総裁で右翼の実力者ペレイラを誘拐.

12 政府は緊急保安措置を発令(事実上の非常事態宣言).司法・立法両権力に対する行政権の介入を宣言する.

1969年

1.21 モンテビデオで抑圧に抗議する暴動が発生。一人が死亡。

3.15 政府、非常事態を停止。

4.28 MLN反乱軍、ラ・パロマの海軍基地を攻撃。

5月 労働者のストが頻発。ニケ月以上にわたり混乱。

6.24 ロックフェラー米特使の訪問反対のデモやスト.都市ゲリラの動きで政情不安.政府は限定的非常事態を宣言。

7.07 MLN反乱軍は、モンテビデオで警官1人を殺害。

10.08 トゥパマロス,パンドの町を一時占拠.

11 トゥパマロス,イタリア人企業家ガブリエル・ペレグリーニを誘拐.身代金として6千万ドルを獲得.

69年 ウルグアイ革命武装勢力(Fuerzas Armadas Revolucionarias Orientales: FARO)が結成される。キューバから軍事援助を受ける。

1970年

4 トゥパマロス,特別警察幹部のモランを射殺.

5 トゥパマロス,海軍基地を襲撃し武器を奪取.

5 ツパマーロスのよびかけで,LAゲリラ組織の調整会議開催.ベネズエラFALNのダグラス・ブラボは統一指令部構想を提案するが否決.都市ゲリラ戦術が優位を占める.

7.31 トゥパマロス,USAID職員(警察顧問)ダン・ミトリオーネ(Dan A. Mitrione)をCIAスパイとして処刑(映画「戒厳令」のモデル)

8.10 ダン・ミトリオーネの遺体が発見される.

8 センディック逮捕.ウルバーノが代ってトゥパマロス指導者につく.センディックは翌年脱走に成功するが,73年ふたたび逮捕.

10 トゥパマロス,米外交官,英大使などをつぎつぎに誘拐.

11 トゥパマロス,共和国銀行を襲撃.405万ドル相当を奪取.

1971年

1.08 トゥパマロス,イギリス大使ジェフリー・ジャクソン(Geoffrey Jackson)を誘拐.

2月  コロラド党左派のセルマル・ミチェリーニ(Zelmar Michelini)上院議員とウーゴ・バタジャ(Hugo Batalla)上院議員が「リスト99」を結成.中道勢力と左派の結集を呼びかける.これにこたえ,キリスト教民主党,社会党,共産党など22の政党が加盟する拡大戦線(Frente AmplioーFA)が結成される.トゥパマロスの公然組織3月26日独立運動も参加.反帝反寡頭制をスローガンとする基本綱領を採択,議長に元第1軍区司令官のリベル・セレーニ退役将軍が就任.

2 トゥパマロス,ブラジル領事アロンソ・マレス・ディアス・ゴミーデを誘拐.身代金として2千5百万ドルを獲得.

9.06 センディックほかトゥパマロスの106人,刑務所から40フィートのトンネルを,掘り脱獄に成功.翌月にはほぼ全員が再逮捕.最高刑務所からは女性活動家38人が脱獄に成功.

9.09 パチェコ,全軍を対ゲリラ活動に投入すると宣言.

9.09 トゥパマロス,誘拐中のイギリス大使を釈放.

10月 政府とMLN反乱軍、総選挙を前に軍隊敵対行為の一時休止に同意。

10月 パチェコは再任を禁止した憲法の改正に失敗.これに代わりボルダベリーが立候補.国民党リベラル派は,ウィルソン・フェレイラ・アウドゥナテ上院議員の「祖国のために」(Por la Patria-- PLP)を支持.国民党エレーラ派は,タカ派のマリオ・アゲロンド将軍を押す.

11.28 大統領選挙.開票が途中で中断されるなどの「ハプニング」の末,ボルダベリが約1万票の僅差で勝利.議会選挙では、コロラド党が100議席中41議席、国民党が40議席という僅差となる。

フアン・マリア・ボルダベリー(Bordaberry) ナルドーネの地方党に属する活動家として政治的キャリアを開始.のちに国民党に移り上院議員となる.そしてコロラド党に移り大統領候補に選ばれるという,政治的にはかなり節操のない人物.

11.28 拡大戦線のセレーニは30万票(18%)を獲得.首都では31%の支持.トゥパマロスは選挙にあたって休戦を宣言し,拡大戦線支持のポーズをとるが,その後選挙での勝利は幻想となったとし,さらに武力挑発を強める.

1972年

3.01 フアン・マルティ・ボルダベリ・アロセナが大統領に就任.少数与党のためマリオ・アゲロンドの率いる国民党エレーラ派,統一・改革のバチェ派,サンギネッティ派と手を結ぶ.

ホルヘ・バチェ・イバニェス: ルイス・バチェ・ベレースの息子.産業界の大立物としてより保守的な立場. 
フリオ・マリア・サンギネッティ・カイロロ: 後に民主化後初の大統領となる.ボルダベリ政権では教育・文化相を勤める.

4 トゥパマロスの活動家25人がふたたび脱獄.トゥパマロスは総選挙以来6ヶ月の「休戦」を破棄すると宣言.

4.14 トゥパマロス,元内務次官,海軍将校らを「処刑」.さらに「死の中隊」と恐れられる治安部隊の軍人を暗殺.

4.15 議会,「内戦状態」を宣言。トゥパマロスを交戦団体と認定.すべての市民的自由を停止し,ボルダベリ大統領に戦時非常大権を委ねる.

4.17 ボルダベリ,警察をはじめとするすべての治安機関を軍の指揮下におく.軍・警察など3万5千人を動員し、ゲリラ根絶を名目に民主勢力への弾圧を強める.共産党員8名がモンテビデオ市内で軍により虐殺.そのほか多くの活動家が逮捕,拷問を受ける.

7.10 政府,厳格な国家保安法を公布.

7.11 「内戦状態」宣言を停止。この作戦でゲリラ300人と政府軍兵士50人が死亡。

9 センディックを初めとする,トゥパマロス幹部,一斉に逮捕され組織は壊滅.軍部はゲリラ根絶に続き政治腐敗一掃キャンペーンを展開.ゲリラを押えこんだ軍部の内政干渉強まる.

72年 サンギネッティ教育相,国家教育評議会(Consejo Nacional de Educacion- Conae)を創設.初等・中等・高等教育の改革を推進.大学理事会の選出方法を,秘密・強制投票による選挙に改める.

72年 統一・改革派,経済開発五ヵ年計画を発表.保護政策を放棄しネオリベラリズムを採用.この後,外国資本系列の金融・商業グループの影響力が強化される.

 

軍事独裁の時代

1973年

2.09 陸軍と空軍,ボルダベリの民間人国防相指名に反対し反乱.放送局と港湾を占拠.統一・改革のホルヘ・バチェを逮捕.

2.10 軍部,一連の政治・社会・経済改革案をふくむコミュニケを発表.政府に実行を迫る.海軍は当初大統領に忠誠を誓うが,後に反乱側に傾く.

2.12 ボルダベリ大統領,軍部とボアッソ・ランサ協定(Boisso Lanza)を結ぶ.

2.13 ボアッソ・ランサ協定にもとづき国家保安会議 (Consejo de Seguridad Nacional--Cosena) が設置される。三軍総司令官と統合参謀本部長の軍人4人,国防相,内相,外相,民間人3人よりなる。これにより軍の顧問としての役割と政治的決定過程への参加が保証される.コセナは大統領を越える権限を持つこととなり,事実上の軍政に移行.

4月 議会,軍部の提案した国家安全保障法を拒否.軍の権限逸脱と行き過ぎに不信を抱き,軍による拷問事件の調査に乗り出す構えを見せる.コロラド党のパチェコ派とブランコ党のアゲロンド派は,ボルダベリ=軍部支持に回る.

6.27 ボルダベリ大統領,軍部の意向に沿い議会を閉鎖.すべての政党の活動を停止,反対派の新聞を閉鎖.軍と警察に秩序維持のためのあらゆる手段をとる権限を付与,軍部独裁に道を開く.

6.28 全国労働者協議会(CNT),抗議のゼネストに突入.2週間にわたり工場占拠闘争を続ける.

6.30 25人からなる国家評議会が設立される。

7.01 軍部,モンテビデオを占領。ストを実力で粉砕.大学を占拠.共産党など左翼政党を非合法化.

7月 軍部,「国家保安憲章」を公布.国家存立の危機にあっては,国家主権は人民に属するものではなく,国家の生き残りという大義に由来すると宣言.

8.11 全国労働者会議(CNT)、ゼネストを呼びかける。軍部は全国労働者会議(CNT) と拡大戦線を解散させる。その後の10年間で公共部門の労働者一万二千人,民間セクター労働者5千人が,労働・政治活動を理由に馘首される.40万人がアルゼンチンなどに亡命。

8 トゥパマロス,「一時的敗北」を認め,戦線再構築の必要を確認.

11 ボルダベリ,軍の圧力を受け国家評議会を設置.議長には副大統領のデミチェリ(Alberto Demichelli Lizaso)が就任.

12 社共両党と11の学生・労働団体を非合法化.コロラド党,ブランコ党,キリ民党は「活動停止状態」となる.

1974年

3.15 ブラジリアでガイゼルの大統領就任式.ピノチェト議長・バンセル・ボリビア大統領・ボルダベリ大統領と軍事ブロック結成について協議.

5.21 チアッペ陸軍総司令官によるクーデター失敗.国家安全保障会議事務局長のグレゴリオ・アルバレス将軍,軍の政治評議会議長に就任.この事件を通じて逆に軍部の政権への支配が強まる.

74年 アレハンドロ・ベグ・ビジェガスがふたたび経済金融相に任命される.保護貿易主義を徹底して排除.小さな政府と公営企業の民営化を推進.為替自由化とドル化の徹底により国際金融センターへの転換を主張.

1975年

1.01 国家保安会議,すべてのマルクス主義政党を永遠に禁止すると発表.

10.20 モンテビデオでラテンアメリカ軍部関係者会議開催.コンドル作戦について協議.

12.23 政府,共産党組織の破壊を完了したと発表.

1976年

1.11 軍部,拡大戦線議長のセレーニ将軍を逮捕.その後8年にわたり身柄を拘束.

6.10 軍部,ボルダベリに辞任を要求.

6.12 軍部,ボルダベリを追放.デミチェリ国家評議会議長を臨時大統領に昇格させる.デミチェリは憲章第一号を公布.総選挙の無期限延期を宣言.

6.27 軍部,国会を解散.21人の軍人と25人の市民からなる国家評議会を設立.大統領はその任命制によるとする.

6月 軍部,全国労働者連合を非合法化し,拡大戦線議員を追放.左翼政治家の大量逮捕や投獄,大学への介入や学生・教職員の逮捕,拡大戦線加盟政党の非合法化,新聞・ラジオ・雑誌の検閲,そしてさらに保守政党をも活動停止処分に.

7.14 国家評議会,最初の大統領に文民のアパリシオ・メンデスを任命.

7.16 国際法律家協会(ICJ) 、ウルグアイにおける人権侵害を非難する決議。アムネスティ・インターナショナル,ウルグアイの人口あたりの政治犯の比率は地球上のどの国よりも高いと述べる.国民500人に一人が投獄され,国民の1割にあたる30万から40万の人々が国外亡命するという暗黒政治となる.

7月 コンドル作戦.拡大戦線の創設者セルマル・ミチェリーニ(Zelmar Michelini)と国民党のエクトル・グティエレス・ルイスが,亡命先のアルゼンチンで,相次いで殺害される.

8.08 ビジェガス蔵相が辞任.公営企業の民営化に反対する軍内利害関係者の抵抗があったとされる.

9.01 アバリシオ・メンデス,大統領に就任.66年と71年の国政選挙に参加したすべての人物に対して,政治活動を禁止する.

9月 米議会は人権問題を理由にウルグアイへの軍事援助を停止する決議.

1977年

2.24 バンス米国務長官,人権抑圧が続くかぎりアルゼンチン・ウルグアイへの軍事経済援助を削減・停止すると発表.

3.01 アルゼンチン・ウルグアイ,米国の軍事援助を拒否すると声明.

8.09 評議会,1981年に民政移管を実現すると発表.それまではコロラド・ブランコ両党の活動は禁止されることとなる.憲法が成立した後,両党の合意のもと1選挙区一人の候補者が立起を許されるとされるが,その後も軍の拒否権は留保される..

1978年

78 アルバレス議長退陣.軍部はさらに極右化.反政府勢力の弾圧を専門とする国家情報機関,ESEDENA創設.

78年 政府,外資導入を促すため「クローリングペグ」システムを導入.ペソの下げ幅を抑制する政策.これにより大量の外資が流入する.国内での激しいインフレのためペソは過大評価され,輸出は停滞.後の対外債務増大の原因となる.

 

1980年

4 メキシコで拡大戦線,国民党(ブランコ党)などによりウルグアイ民主戦線(CDU)結成.

7.10 政府,政治集会を7年ぶり認可.

9 軍部,ピノチェトにならい軍事支配の固定化をめざし,国家安全保障会議の維持,大統領非常大権の容認,国家安全保障会議とコロラド,ブランコ両党による大統領の任命からなる「民政移管計画」をもりこんだ憲法草案を発表.国民投票にかけることを提案.コロラド,ブランコの2政党に限り,政党活動を許可.

11.30 軍部提案に対する国民投票実施.軍の広範な介入の余地を残した案に対し,国民は反発.64万(43%)対88万票(57%)の大差で否決される.軍部,ふたたびいっさいの政治活動を禁止.

軍の憲法草案に対しては,左右を問わずほとんどすべての政治勢力が反対した.コロラド党のバチェ・イバニェス,国民党のウィルソン・フェレイラ,カルロス・フリオ・ペレイラ,ルイス・アルベルト・ラカジェ・デ・エレーラの率いる国民党エレーラ派,パチェコ主義者の残党,拡大戦線などなど.

80年 厳しい緊縮政策により,物価上昇率は40%に低下.GDPもわずかながら上昇傾向に転じる.社会保障には大なたが振るわれ,実質賃金は10年前の50%にまで低下.

1981年

7 共産党の機関紙再発行をめざした4人の活動家が逮捕.

8.02 ウルグアイ国民評議会,グレゴリオ・アルバレス・アルメリーノ退役陸軍中将を次期大統領に指名.

9.01 アパリシオ・メンデス大統領に代り,アルバレスが大統領就任.任期を5年から3年半に短縮.84年11月に直接選挙による大統領選挙をおこなうと発表.三軍政治委員会(COMASPO)は,ブランコ党(国民党),コロラド党,市民連合の3党代表と,政治活動を取り締まる新しい法令の草案について協議.

9.18 共産主義青年同盟が主催する大学改革をめざす秘密集会,官憲に踏み込まれ45名が逮捕.

81年 軍事政権,専門職協会法を制定.部分的に労組活動を求める.組合を同業職組合化,企業内組合化し政治活動から遠ざけようとする.

 

1982年

82年初め 選挙に先立ち政党法が制定され,コロラド,ブランコ,市民連合の3党が合法活動を許される.市民連合 (Union Civica--UC)は,71年に創設されたカトリック保守系の小政党.

11.28 9年ぶりに国会議員選挙が実施される.コロラド,ブランコ両党内で軍事独裁反対派が圧倒的な勝利.

11月 メキシコに始まった金融危機がウルグアイを襲う.政府は通貨の「クローリング・ぺグ」制度を廃止.多量の海外資金を受け入れた企業・金融機関はたちまち返済不能に陥る.

82年 ペソ切り下げにもかかわらず年間物価上昇率は20%にまで低下.いっぽうGDPは2年間に20%低下し,国内産業はほぼ全面崩壊.失業率は17%まで跳ね上がる.74年オイルショック以来の対外債務は,国際的な高金利により雪だるま的に膨らみ続ける.

 

1983年

5.01 労働組合連絡会議(Plenario Intersindical de Trabajadores-PIT),メーデーのデモ行進を認められる.また非合法化されたCNTの旗をふたたび掲げることを許される.このあとPITは,CNTの伝統を引き継ぐ姿勢を明確にし,PIT-CNTと改称.学生も全学連の後身として公共教育のための学生社会・文化協会 (Asociacion Social y Cultural de Estudiantes de la Ensenanza Publica-ASCEEP)の旗のもとに,デモ行進を許される.

5.20 カルロス・スペイン国王,ウルグアイ訪問.

8.02 軍政当局,従来合法と認めてきた三政党の活動停止を布告.ふたたび反動化を強める.PIT-CNTは「民主的反撃」を呼びかける.

9.25 モンテビデオで軍政に抗議し選挙の早期実施を要求する2万5千人のデモ。

11.27 左翼政党を含むすべての政党が,民主主義の完全な回復,政治的制限の全面撤廃,全政党が参加する総選挙を要求して大デモンストレーション.市民30万人を結集。

12月 政府,米大使に転出したベグをふたたび経済金融相に任命.

83年 政府,金融危機回避のため不良資産の買支えにまわる.財政赤字は巨額となり対外債務の増加に拍車をかける.

 

1984年

1.18 軍政当局,労働総同盟を非合法化.

3月 PIT-CNT,セレーニ将軍の解放を要求しゼネスト.市民ぐるみのストライキにより,8年ぶりの釈放を実現.軍部はセレーニ将軍の選挙立候補をふくむ政治活動を禁止.

6.27 コロラド党,ブランコ党など諸政党と市民団体が呼びかけ,市民ゼネストが決行される.民主主義,自由,無条件の選挙実施をもとめる.これに呼応しアルゼンチン亡命中のブランコ党党首ウィルソン・フェレイラが,逮捕命令を犯し帰国.

7.06 軍部とコロラド党,ブランコ党,拡大戦線を中心とする諸政党間で,民政復帰にむけ条件交渉始まる.交渉会場には軍政に対し比較的中立を保った海軍の将校クラブが選ばれる.

7月 軍部,亡命先から帰国したウィルソン・フェレイラを逮捕.ブランコ党は,途中から交渉をボイコット.

8.04 軍事政権とコロラド・拡大戦線・UCの三政党(Multipartidaria),「海軍クラブ協約」を締結.同年11月最終日曜日の投票,85年3月の民政移管で合意.軍部は政権からの離脱,国家安全保障会議(COSENA)の大統領諮問機関への格下げ,政府決定に対する拒否権の放棄などを受け入れる.共産党は依然公式には非合法のままとなる.

8.20 政府,ウルグアイ訪問中のソアレス前スペイン首相に国外退去命令.

9月 民政復帰のための準備機関として国家和解計画 (Concertacion Nacional Programatica-Conapro)が発足.多党間の調整機構として運営される.コナプロ内の作業グループは,民政復帰後に①組合活動と団体交渉の制限を廃止,②組合活動を理由に馘首されたすべての公共セクター労働者の職場復帰,③定期昇給の実施による購買力の回復を実現するよう提言.

11.25 13年ぶりに大統領選を実施.メディアと首都の有力産業を支配するコロラド党のフリオ・マリア・サンギネッティ・カイロロ候補が41%を獲得し当選.ブランコ党は34%.拡大戦線はセレーニの身代わりにホセ・クロットギーニが立起し21%の得票.

11.25 国会議員選挙。コロラド党が41議席を獲得し第一党となる。拡大戦線は上院で6/30,下院で21/99の議席を獲得.UCは2.5%にとどまる.

11月 共産党のアリスメンディ書記長,モスクワでの亡命生活を終え帰国.軍政のあいだ国外亡命していた50万人(人口の17%)が次々に帰国.

84年 ベグ蔵相による経済たてなおしは失敗.累積対外債務は30億ドルに達する.

 

1985年

2月 民政移管を前に,軍による再クーデターの動きが広がる.労組はゼネスト体制を確立し,軍の動きに備える.

3.01 民政移管.コロラド党(保守党)のサンギネッティが大統領に就任.この時点で49億ドルの対外債務を引き継ぐ.

3.01 最初の施策で共産党の合法化と機関誌「エル・ポプラール」の発刊許可.続いて労働組合の団交権,スト権に対する制限法を撤廃.共産党の影響下にあった労働者全国評議会(CNT)の復活も認める.

3.08 議会,野党提出の恩赦法案採択.センディックを含むトゥパマロスの活動家全員を恩赦.軍政期間の人権侵害に対しては一切の言及なし.

5 ウルグアイとアルゼンチン,経済・社会統合を目指しコローニア宣言に署名.

8 ウルグアイとブラジル間に一般協定委員会開催.

10.17 ウルグアイ,キューバおよびニカラグアと正式に国交回復.

12 ラウル・センディック,ホルヘ・サバルサらを指導部にトゥパマロス党大会.合法闘争路線を採択し,武闘なしの社会主義達成を目標として設定.政治結社「トゥパマロス民族解放運動」(Movimiento de Liberacion NacionalTupamaros --MLN-T)として再出発.党員は3千人に増加.当局はこの政党を公認せず.

 

1986年

4.01 コロラド,ブランコ,拡大戦線,UCの間に合意成立.債務危機を突破するため,単一の経済・社会発展計画に調印.サンギネッティは共産党とも不可侵協定(Co-Co Pact)を締結.

4.15 GATT新ラウンド準備委,閣僚会議開催地をウルグアイのプンタデルエステに決定.

4 ウルグアイ,キューバとの経済・文化交流を再開.

6.17 労働総同盟の呼びかけによる24時間ストが成功.

7.26 トゥパマロス,「もし政府や人民が軍部の虜となるなら,非平和的戦略をとる必要が生まれる」と声明.

8月 旧「リスト99」系のウーゴ・バタジャ,拡大戦線内で中道左翼系の結集を目指し,人民統治党(Partido por el Gobierno del Pueblo-PGP) を結成.ウルグアイ10番目の政党として登録される.PGPは拡大戦線の得票の4割,下院議員21人中11人,上院議員6人中3人を占めていた.

8 サンギネッティとコロラド党,軍人および警官の人権犯罪を不問とする国家制裁権失効法案を議会に提出.トゥパマロスに適用した法令とほぼ同一の内容.成立に必要な66票に対し,賛成は55票にとどまり恩赦法は不成立に終わる.

9.15 GATT閣僚会議開催.日本の倉成外相が「ウルグアイ・ラウンド」と呼ぶことを提案.

9月 議会国民党,重大な人権侵害に関係したものに限定して裁判をもとめる法案を提出.コロラド党もこれに応じ下院で成立.しかし上院は人権侵害を限定することに反対し,国民党案を否決.

9月 Busquedaによる世論調査.モンテビデオ市民の圧倒的多数は軍隊がいまだに国家権力の一部を担い続けていると考えていることが明らかになる.

11月 サンギネッティと国民党のフェレイラ委員長の間に紳士協定.このあと議会で予算案が通過する.

12 司法当局,人権侵害容疑ではじめて二人の元軍人に出廷を命じる.軍首脳部は出廷を強要しないとの立場をあきらかにする.

12 政府の再提出した「国家制裁権失効法」が,激しい審議の末成立.軍政時代の人権侵害容疑者360人について,現在進行中の捜査を全面停止することが決まる.

12 大赦法制定,人権侵犯軍人360人を釈放.拡大戦線はこれに反対し,法律を国民投票にかけるようもとめる請願署名運動を展開.人権活動家,知識人,芸術家などな広範な人々が立ち上がり,55万筆を集める.これは法定数である有権者の4分の1に達する.

アムネスティ・インタナショナルの調査では,軍政時代に32人が「消滅」し,数千が迫害や拷問を受けた.

 

1987年

12 キリ民党と人民統治党(PGP)は,連合内でのポストをめぐる不満と左傾化に対する批判から戦線に距離を置く.拡大戦線は,中道派と急進派の内部争いにより勢力を弱める.

1988年

12.17 大統領選挙にむけ拡大戦線(中道左派と左翼13政党)はリベル・セレーニ議長を推す.これに対しPGPは党首バタージャを推し,PDCもこれに乗る.PDCはひそかに国民党との連立を求めると同時に,拡大戦線に対してはセレーニとバタージャが一位,二位協定を結ぶよう申し入れる.戦線内の左翼勢力は,単一政党への発展を期待する立場からこの提案に反対.

88 アリスメンディ共産党書記長死亡.労組指導者出身のハイメ・ペレスが後任書記長に就任.この時点で党員数は7,500.ただし労組には引き続き強い影響力.

88 ふたたびインフレが亢進.85%のインフレのなかで対外債務も67億ドルに膨らむ.

 

1989年

2 PDC,拡大戦線から正式に離脱.3月にはPGPも離脱.

2 トゥパマロス民族解放運動(Movimiento de Liberacion NacionalTupamaros --MLN-T),政党として承認される.11月の大統領選に参加するためトゥパマロスとPVP,PST,MROが人民参加運動(MPP)を結成.

人民参加運動(MPP)の諸政党: 人民勝利党(Partido por la Victoria del Pueblo--PVP) ,ウルグアイ独立革命運動(Movimiento de Independientes Revolucionario Oriental--MRO),社会主義労働者党(PST). MROは61年に結成されたキューバ派の組織.PSTはトロツキストの組織.

89年4月

4.16 86年に成立した軍人大赦法(国家制裁権失効法)の存続の適否を問う国民投票.有権者の85%が投票に参加.反対派は53対49%で敗れるが,モンテビデオでは54%が存続反対.(一説では57対43%の対さ)

4 自由党左派のアルバ・ロバージョら,拡大戦線に参加.

89年5月

5 拡大戦線,新たに左翼小政党5団体を迎え14党の連合として再発足.

新拡大戦線の構成団体
主要な政党としては①人民拡大戦線運動(MPF)=旧社会党,セレーニ直系.②拡大戦線統一派(CUFO),③人民統治運動(MGP)=PGP主流派と別れ拡大戦線にとどまった分派.④コロラド党アルバ・ロバージョ派,⑤民主進歩党(PDA)=共産党のフロント組織.⑥ブランコ党進歩派人民運動(MBPP).他にプレゴン運動,国民党行動運動(MAN)など.
さらにトゥパマロスなど人民参加運動(MPP)の4グループ,3月26日運動(M26),統一運動「アセンシオの叫び」,PDCの分派が参加.

11.26 大統領選挙および国会議員選挙.国民党のラカジェが,コロラド党のバチェ・イバニェスを破り当選.22年ぶりの国民党政権となる。共・社など6党で構成される拡大戦線は大躍進.モンテビデオ市長にはタバレ・バスケスが37%を獲得し当選.共産党を主体とする「民主進歩党」は11議席に倍増.

ルイス・アルベルト・ラカジェ・デ・エレーラ: 母方の祖父はブランコ党委員長を40年にわたり務めたルイス・アルベルト・デ・エレーラ.曽祖父エレーラ(Juan Jose de Herrera)はブランコ党政権時代の外相.
バチェ・イバニェス: コロラド党内主流派バチスモ連合の指導者.曽祖父のLorenzo Batlle y Grauは1868-72,大叔父Jose Batlle y Ordonezは1903-07, 1911-15,父Luis Batlle Berresは1947-51に大統領をつとめる. 

 

1990年

1 パラグアイのアンドレス・ロドリゲス将軍とウルグアイのサンギネッティ大統領とのあいだにパラグアイ・パラナ・ウルグアイ川水路システムについての合意成立.

2 首都モンテビデオでタバレ・バスケス革新市政発足.18人の地区行政官を指名,交通料金の4割引下げなどを実施.

タバレ・バスケス: 社会党中央委員。首都モンテビデオの貧しい地区で国営石油(ANCAP)の労働者の家庭に生まれ、苦学の末医学部を卒業。85年から大学医学部腫瘍学科で放射線部長(教授).大学スポーツ・リーグ会長、サッカー・クラブ「プログレッソ」の会長も務めた。

3.01 ラカジェ政権発足.「ラテンアメリカのシンガポール」を目指し開放経済政策を採る.オフショア銀行法を承認.米軍の侵攻したパナマに代わるマネー・ロンダリングのセンターをめざす.コロラド党と国民共存協定を締結,4人が入閣するなど,両党は合同への動きを強める.

5 ラカジェ,国防相に対し内政干渉の禁止をふくむ新しい国軍憲章の作成にとりかかるよう指示.恩赦法への立場を明らかにしないまま,自らの腹心を海軍,空軍の司令官に据える.軍部はこの人事に反発.

7 ラカジェ,スイスではなく「南米のシンガポール」を目指すと声明.国立商業銀行を売却.電話公社,国営航空,アルコール専売,郵便などについても民営化が検討開始.

7.25 PIT-CNT,民営化と政府の高圧的姿勢に抗議して,6時間のゼネストを決行.

12 ラカジェの引き締め政策にも関わらず,この年のインフレは130%に達する.経済状況はますます悪化.貧富の差の拡大と失業者の増加を生む.ブランコ党の支持率はラカジェ当選時の38%から21%に低下.コロラド党との国民共存協定によりかろうじて政権を維持.この間拡大戦線タバレ・バスケスの支持率も35%から30%に低下.

 

1991年

3.26 ウルグアイとブラジル,アルゼンチン,パラグアイの4カ国.アスンシオン条約(1995年1月から4ヵ国間貿易に関税を課さない市場統合条約)締結.メルコスールが発足.拡大戦線は条約内に軍事協力が織り込まれていることに強い警戒心を表明.

4 退役将軍連,トゥパマロスと共産党の復活を警告し,国民に「赤の脅威」に備えるよう訴える.陸軍司令官ギジェルモ・デ・ナバ中将は,この発言を利用し政治家工作を行う.

5 労働者,引き締め政策に抗議し24時間ゼネスト.ラカジェ就任後三回目のゼネストとなる.

5 米国とウルグアイ,マネー・ロンダリングを規制する協定調印.

6 モンテビデオ市長バスケス,ラカジェの名代としてキューバを訪問し相互交流5カ年協約を締結.

9 議会,ラカジェの民営化法案を僅差で承認.ラカジェの支持率は11%にまで低下.これに対しバスケスの支持率は53%に達する.拡大戦線の支持率も国民党を越え第二党となる.

1992年

1 ラカジェの議会運営がゆきづまる.ラカジェは内閣改造で危機乗り切りを図る.

2 世論調査によれば国民の54%がラカジェの民営化政策に反対.

5.10 与党国民党の「進歩派」,党を離れ新党を結成すると発表.

92年 議会で16カ月にわたり審議された民営化法案の32の条項のうち5つの条項が、国民投票により72%の反対多数で否決される.国営の電気通信会社ANTELは外資の手に渡ることを免れ、現在では南米の三大企業の一つになる.

1994年

8.28 憲法改正案の国民投票.63%の反対多数で否決される.この改正案は選挙制度や社会保障給付の見直しを内容とし,拡大戦線もふくめた議会によって可決されたもの.

8 フィルトロ病院労働者のデモに対し,警察が発砲.1人が死亡,50人が負傷.裁判所は警察の行き過ぎを認める.

11.27 ウルグアイ大統領選.コロラド党のサンギネッティが返り咲きを果たす.拡大戦線+キリ民党などで構成する「革新連合」(EP)候補で前モンテビデオ市長のタバレ・バスケスは28%の支持率を獲得するが,コロラド=ブランコ連合に僅差で敗れる.

1995年

1.01 メルコスール協定発効.

3.01 第2次サンギネッティ政権が発足。

10.13 カストロ議長,ウルグアイを公式訪問.

95年 93年末から行方不明だったチリの薬剤師エウヘニオ・ベリオス,死体が海岸で発見される.ベリオスは92年,レテリエル事件の関係者として召喚されたあと,軍部の手引きでウルグアイに潜入していた.

96年 バスケス,セレーニに替わり拡大戦線の議長に就任.

1997年

4.15 ウルグアイ最高裁,軍政時代の犠牲者調査の開始を決定.

4.15 最高裁,「軍は証拠隠滅のため犠牲者の遺体を埋めなおしている」とするラファエル・ミチェリニ上院議員の告発に基づき,兵営内の捜査開始を決定.軍は最高裁の調査を拒否.

5.22 モンテビデオで軍政時代の行方不明者の真相究明と虐殺犯の裁判を要求する3万の沈黙行進.

 

1999年

3 世論調査,拡大戦線の選挙組織である進歩会議(EP)が32.5%でトップ.以下ブランコ党27.9%,コロラド党27.1%,社会民主主義の新空間(NE)6.1%.EP大統領候補にはモンテビデオ前市長のタバレ・バスケスが有力視される.

4.12 「エル・オブゼルバドル」紙,「ウルグアイ経済は既にドル化されている」と強調.国内投資の89%はドル建てであり,高級品店や、ショッピングセンターでは商品の価格表示がドルのみになっている.

4.25 ウルグアイで,10月の大統領選を前に新聞社の世論調査.左翼拡大戦線のタバレ・バスケス前モンテビデオ知事の支持率が一番高く34%.国民党のラカジェ前大統領の支持率は29%.サンギネッティ与党のコロラド党ホルヘ・バチェの支持率は28%.共産党を中心とするヌエボ・エスパシオが6%.

10.31 大統領選の第一次投票.拡大戦線あらため「進歩主義の会」のタバレ・バスケスが40%を獲得.コロラド党のホルヘ・バチェが31%,国民党のルイス・ラカジェ候補(元大統領)は三位(21%)にとどまる.

11.09 ブランコ党(国民党),左派政権の誕生を阻止するため,コロラド党のバチェ候補を支持することを決める.

11.28 ウルグアイ大統領選決選投票.国民党の支持を受けたホルヘ・バチェ(72歳)が52.5%の得票で当選.バスケスは44.5%に得票を伸ばすが届かず.

 

2000年

3月 ウルグアイで,コロラド党のホルヘ・バチェ新政権が発足.財政支出削減、農牧畜産業の強化、輸出拡大等を通じた伝統的手法により、経済の安定と活性化をはかる。当初より,原油価格高騰,ユーロ安,米と羊毛の価格下落で貿易赤字・財政赤字増大で苦しい選択を迫られる.

3月 ウルグアイ地方選挙.モンテビデオ市長には拡大戦線のアラナが再選される.

6月 行政改革と規制緩和を柱とする「第一緊急法」が成立。

 

2001年

2月 バチェ,国民の反対を押しきり,鉄道およびモンテビデオ港のコンテナターミナルの民営化.

12.28 石油製品・アルコール・セメントの生産・流通・精製を行う国営企業ANCAPの民営化法が成立.ANCAPの労組1200人と退職した元組合員800人が,国民投票をもとめて62万人(有権者の1/4)の署名収集を開始.

 

2002年

1月 「燃料・アルコール・セメント公社」(ANCAP)と民間企業との提携を実施する法律が発効。原油輸入及び製油部門の民営化をめざす。

4.23 バチェ大統領,キューバと外交関係を絶ったことを明らかにする.「キューバ国民が平和と自由をもてるようになるまで」国交を断絶すると述べる.キューバ政府は「米国にひざまずく政策」と反論し,カストロ議長はバチェ大統領を「卑劣なユダ」と呼ぶ.

4月 アルゼンチン人預金客が大量の外貨引き出し。

5.22 政府の提案した財政安定化法案(増税パッケージ法案)が議会で成立。

5.29 ウルグアイ政府,増税と新税・公共事業の民営化を含む経済措置.これをみたIMFなど国際金融機関は、総額31億ドルの融資を決定.

6.18 IMF,ウルグアイ政府からの緊急融資申込み15億ドルを承認.南米全域へ危機が波及するのを防ぐためとする.

6.20 ウルグアイ・ペソが,アルゼンチン・ペソに連動し下落,為替バンド(クローリング・ペッグ)制から自由変動相場制へ移行.国内のドル化がさらに進む.ペソの価値は70%も低下.企業も大量のドル負債を抱え、賃金レベルは35%低下.失業率は15%を超え、政府は公務員給与の支払いを滞納するなどで国民の不満が高まる.

6月 政府、IMFが融資の条件とした一層の財政削減政策を盛り込んだ国家会計報告法案を議会に提出。連立与党の国民党の反発を受け、政局は混乱。

02年7月

7月 ベンシオン経済相が混乱の責任を取り辞任。アチュガリ上院議員が新経済相に就任。

7.30 ウルグアイ議会、銀行システム安定化基金法を可決・公布。国内の公的銀行の外貨建て普通・当座預金の全額保証、定期預金の満期の最大3年間延長等を内容とする。

7.31 ウルグアイ政府、国会決議に基づき銀行業務の一時停止を発表。

7月 アルゼンチン危機の影響を受けたウルグアイ,金融危機に陥る.外貨準備は1ヶ月で15億ドルから6億ドルに急減.カントリーリスクは1月の216から2195に上昇.

7月 アレマン銀行で不正な預金が摘発される.捜査の過程で,外国への資金逃避に多くの高官、政府関係者が関わっていた事実が明らかになる.

02年8月

8.01 オニール米国財務長官,「ウルグアイは銀行組織再建へ第一歩を踏み出した」と評価.追加融資とウルグアイ救援を示唆する.これを受けて、ウルグアイ政府は銀行業務を再開。

8.01 公共交通機関の労働者がスト入り.約300人が16商店を襲う事件が発生.

8.02 政府は銀行業務の一時停止,預金引出し制限を実施すると発表.

8.02 IMF・世銀・米州開発銀行からウルグアイに,GDPの16%に相当する総計40億ドルの借款.繋ぎ融資として米国から15億ドルの緊急融資が承認される.IMFは予算の厳格化、公立銀行貸付規制を含む銀行法の改革を要求.

8.02 IMFはウルグアイに15億ドルの救済融資を供与する決定.アチュガリ経済相はこれに基づき、「銀行システム安定化基金法」を作成し議会に提出。

8.04 議会は「銀行システム安定化基金法」承認.ドル建て定期預金に関して,25%は1年間、35%は2年間、残り40%は3年間の凍結というもの.

8.04 IMF、世銀、米州開発銀行は、議会の承認を受け、ウルグアイへの救済融資15億ドルを供与すると発表。米国政府は両国際金融機関の融資実行までの期間、同額を『つなぎ融資』としてウルグアイ政府へ提供すると発表.

8.05 IMF支援決定を受け、銀行業務が再開される。15億ドルの緊急支援のうち8億ドルは世銀と米開銀からの新規融資、7億ドルはIMFにて承認済の30億ドル融資の先払い.

8.08 IMF,ウルグアイへの融資を5億ドル増額、合計28億ドルとし、内8億ドルを数日間以内に実行する。他に世銀と米州開発銀行IDBから計10億ドルの融資が承認済み、又、12日にはアメリカ財務局からの15億ドルの『つなぎ融資』が実行押される。国際格付け会社のスタンダード&プアズは「ウルグアイ政府はアルゼンチンの犯した誤りを繰り返さなかった」と批評.

8月 電話公社(ANTEL)の携帯電話部門(ANCEL)の株式売却に対し、国民投票を求める署名が法定数に達する。政府は国民投票を避けるため、民営化方針を撤回。

9月 IMFの指導に基づく国家会計報告法、経済再活性化法が相次いで成立する。

11月 バチェ大統領,均衡財政のための省合併などの政策を提案.ブランコ党の一部がこれに抗議、4人の閣僚が辞表を提出した。

12月 GDPは1年間で11.0%の減少。99年以降4年連続のマイナス成長で合計20%の低下。物価上昇率は25.9%、実質平均賃金はマイナス10.7%、失業率は19.8%と、いずれも過去最高を記録。為替レートが大幅に減価したため、GDPに対する公的債務の割合が、01年末には50%程度であったものが、02年末には90%を超えるにいたる。

 

2003年

1.24 モンテビデオのバス、タクシー労働組合が,賃上げと料金値上げを要求し24時間ストライキ.

3.17 IMF理事会が開催され、約3億ドルの引出しが承認される。条件として、中期的債務維持可能性を確保する観点から債務再編が必要とされる。

3月 「平和のための委員会」、報告書を議会に提出。政府として始めて軍政時代の行方不明の事実を公式に認める。

4月 「償還期が1年以上の外貨建国債につき任意の債務再編(Debt Swap)を行う」とする大統領令が発表される。公的債務の約半分にあたる外貨建国債53億ドルについて、償還期限5年繰り延べを柱とする借り換えプラン。

5.15 国際金融機関の9割が結集する債権者集会、政府の借り換えプランを承認。。IMFとのあいだで債務借り換えの合意。格付け機関はこれを受け、長期外貨建てレーティングをCC からSD(selective default)へ引き下げ。

5.29 ウルグアイ政府、国内外の債権者のほぼ9割が同意したことを受け、債務再編を完了したと発表。サムライ債(300億円、金利2.2%、2006年償還)については償還期を5年(2011年まで)延長し、金利は2.5%に引き上げることとなる。

7.11 IMF理事会、約2.1億ドルの引出しを承認。“健全な”マクロ経済政策の実施や債務交換の成功を評価。

12.07 ANCAP民営化の是非が国民投票で問われる.62.2%が,外国企業または外国資本との「提携」はどんな小規模であっても認めないとする.この結果03年1月法は廃止されることが決定。

12月 GDP、2.2%のプラス成長となる。

 2004年

2.20 IMF理事会、約1.4億ドルの引出しを承認。一方で、構造改革の取組みが引き続き必要とされた。

7月 拡大戦線の創立者リーベル・セレーニが死去。

9.21  ウルグアイ所在のリクルート会社,チリの新聞に広告を掲載し元チリ軍兵士を募集.イラク駐留米軍の傭兵となる予定.

10.04 拡大戦線が主催するセミナーに、アルゼンチンとブラジル政府の高官が出席。「拡大戦線の勝利は約束されている」とし、バスケス候補を次の大統領と言及。バチェ現政権はに対する不快感を露わにする。

10.31 大統領選挙と同時に行われた国民投票の結果、水資源は公共財産であり、民営化してはならないという条項を盛り込んだ憲法改正案が、64.5%の賛成多数で承認される.

10.30午後 10 時 バスケス候補は勝利宣言.選挙事務所となった7月18日通りのホテル・プレジデンテ前に10万人が結集.

11.01 上院、下院議員選挙の結果が判明.上院議員選挙では 30 の全議席が改選され、EP/FA が 16 議席を獲得、PN が 10~11 議席、PC が 3 議席.下院も 99 の全議席が改選され、EP/FA が 52 議席、PNが 35 議席、PC が 10 議席、その他が 2 議席.PCは1割政党へと凋落.

11.08 拡大戦線党の議員28名(上院7名、下院21名)は月々の歳費を2万ペソ(約8万円)に抑え、差額は連帯基金として積み立てると声明.

11 バスケス大統領が組閣を開始。ダニロ・アストリが経済・財政相に指名される。対外債務の支払などで国際金融機関との約束を遵守し、公営企業の部分的民営化や国家独占分野への民間参入を認めることを明らかにする。同時に、内政問題への外国からの圧力や干渉は許さないと発言。

12.07 バスケス次期大統領、EP-FA-NM(進歩会議-拡大戦線-新多数派)の会合で閣僚名簿を発表。

主な閣僚メンバー 牧畜農業漁業相:ホセ・ムヒカ上院議員(70)。元ツバマロス民族解放運動の指導者で、ゲリラ名「ペペ」。政治犯として14年間収監された経験を持つ。 産業エネルギー工業相:ホルヘ・レプラ。ウルグアイ・テキサコ社の社長。 国防相:アスセーナ・ベルッティ(75)。独裁時代に政治犯の弁護をつとめ、軍部と真っ向から対決した。 開発・社会参加相(新設):マリナ・アリスメンディ。共産党指導者で元書記長の妻。 厚生相:マリア・フリア・ムニョース。 

12月 経済成長率は12.3%に達する(GDPは約132億ドル、一人あたりのGDPは4,078ドル)。牛肉を軸にした輸出の好調に支えられ、過去半世紀の間で最高の伸び率を記録。しかし98年の水準には到達せず。輸出総額の8割近くを食肉、皮革、羊毛、繊維、コメなど農業関連産品が占める。ウルグアイ産牛肉の輸出のうち7割超が米国向けとなる。

12月 公的対外債務総額は110.6億ドル。これは対GDP比82%に相当する。

 

 2005年

1.14 バスケス次期大統領がブエノスアイレスを訪問、キルチネル大統領と会談。過去の軍事独裁政権時に行方不明となった市民に関する真実を調査することで一致。

2.10 バスケス、カストロ議長を大統領就任式に招待すると発表。アメリカの40年にわたるキューバ制裁を「断固として」否定する。

2.11 レイナルド・ガルガーノ次期外相がブラジルを訪問。ルーラ大統領に対し、ウルグアイの対キューバ政策は急激に変わり、直ちに同国と外交関係を確立すると言明。国連人権委員会でのアメリカのキューバ非難キャンペーンを支持しないことを明らかにする。

2.15 上院議長にホセ・ムヒーカ、下院議長にノラ・カストロが就任。ノラ・カストロは元学校教師。ツパマロスの一員として12年間獄中にいた。ムヒーカは新政権で農牧水産大臣に就任することになっており、15日間のみの議長となる。

2.28 カストロ議長、健康上の理由によりバスケスの就任式の出席を中止。フェリーペ・ペレス・ロケ外相が代理で参列する。

3.01 タバレ・バスケス(65歳)が新大統領に就任。大統領就任時の演説の中で、野党勢力との合意による「変革」を掲げ、優先課題として社会問題を挙げて「社会緊急国民支援計画(Panes)」を発表。2年間で約1億ドル(105億円)を投じて食料、教育と医療サービスを3本柱とする貧困対策を公約。また軍政時代(1973~85年)に行方不明者になった約180人の活動家に対する人権抑圧事件の真相究明を公約。

3.01 バスケス新大統領、就任後の初仕事としてキューバとの国交を回復。

3.30 ウルグアイ政府と世銀、今後5年間で総額7億5,000万ドルの融資で合意。

4月 政府は、IMFとの間で3年間にわたる新規融資プログラムを合意。

4月25日 約200名のブラジル人農民がウルグアイ産コメの輸入を阻止すべく国境沿いの町アセグアにて道路封鎖。ウルグアイのコメ農家が補助金を受け、結果的にブラジル産よりも安い価格のコメを輸出していると主張。

6.25 バスケス大統領、マリア・クラウディア・ガルシアの殺害事件(1976年)について、赦免法の対象から外す。クラウディアは詩人フアン・ヘルマンの義理の娘にあたる。

7.16 ボルダベリ元大統領、29年前に4人の政敵、2人の議員、2人の左翼ゲリラをアルゼンチンに連れ去り、殺害したことを認める証言。

11.30 民間の農場で、共産党の活動家ウバヘスネル・チャベス・ソサとフェルナンド・ミランダ(一説にアルピノ・ベガ)の遺体が発見される。現場には軍政時代に2つの監獄があった。二人は75年、軍政時代に行方不明になっていた。

12.03 首都モンテビデオの郊外にある陸軍第13大隊の基地で、軍政時代の政治犯のものと見られる遺体が発見される。ゴンサロ・フェルナンデス官房長官に匿名で届いた手書きの地図が手がかりとなった。

12.12 ウルグアイの人権団体「平和とサービス」(Serpaj)、軍事独裁政治の責任を免責する「時効法」の廃止を要求。

12.24 ウルグアイ共産党、リベラ県の共同墓地で軍政時代の行方不明者35人の遺体を発見。遺体はナイロンの袋に入っていた。現場はモンテビデオから500キロ、ブラジルとの国境の近く。

12月 05年のGDPは167.96億ドル、一人あたりGDPは5,081ドルとなる。牛肉を中心とした農産物の輸出の好調に支えられ、経済成長率は6.6%の高い成長率を記録。これは04年の過去半世紀の間で最高の伸び率(12.3%)に続くもの。貧困率は04年の32.6%から29.8%へ減少。 

 

 2006年

1.18 ウルグアイのアルゼンチンとの国境にあるフライ・ベントスに、フィンランド・スペインの合弁企業が、製紙工場の建設を計画。これに対しグリーンピースが抗議行動。動機付きのゴムボートで乗り付け、「公害はごめんだ」のポスターを広げる。対岸のグアレグアイチュ、コロン市では住民が橋を封鎖。

この計画は、両国の国境をなすウルグアイ河の河畔フライ・ベントスに、フィンランドのBotnia社とスペインのEnce社がジョイントで、2つのプラントを建設するというもの。共同建設主スペインのEnce社は沈黙を守る。

1.25 アンヘル・ベルトロッティ軍司令官、「ヌンカ・マス」(軍政による弾圧被害者の団体)の主張が認められるなら、「過去の対立を繰り返すかも知れない」と発言。

2006年3月 「製紙工場」紛争

3.01 ウルグアイ政府、ラテンアメリカ統合連合(ALADI)に書簡を送付。橋梁封鎖による経済的損失を訴える。

3.01 公私を問わず公共の使用に向けられる閉鎖空間を禁煙とする。これは中南米では初めてで、世界でも5番目である。

3.01 キルチネル、バスケス大統領に対し90日間の工場建設工事停止を求めたが、未だ返答がないと述べる。

3.01 公共施設の屋内での喫煙が全面的に禁止となる。

3.02 バスケス大統領、キルチネルの提案に対し理解を示しつつも、まず橋の封鎖を解くようアルゼンチンにもとめる。

3.03 エントレリオス州知事、環境団体に対し橋梁封鎖解除を求める。環境団体は国、州政府からの要請に応じず、封鎖を続行する旨表明。

3.11 バチェレ大統領の就任式のためチリを訪問したバスケスとキルチネルがサンチアゴで会談。アルゼンチンが環境団体に橋梁封鎖解除を要請し、ウルグアイは環境影響調査のため最高90日間、工場建設の停止を要請することで合意。

3.14 ウルグアイとベネズエラ、石油、牧畜、住宅、コンピュータ、医療などに関する12の協定を締結。またウルグアイは、ブラジルを経由してベネズエラとアルゼンチンを結ぶ延長8000キロの巨大ガス輸送管計画(工費約200億ドル)に関心を表明。

3.20 Botnia社、ウルグアイ、アルゼンチンの両大統領の要請に応じて、最大90日間、建設を中断すると発表。環境への影響を調査するため、「あらゆるデータを提供する用意がある」とする。グアレグアイチュ、コロンの市民が橋の封鎖を解除。

3.27 Botnia社、建設工事の中止は最長10日にとどまるだろうと発表。アルゼンチン側は反発。

3.28 アルゼンチン、ウルグアイ側の共同声明案が具体性に欠けているとし、首脳会談の延期を発表。

3.31 ウルグアイの控訴審、元独裁者フアン・マリア・ボルダベリと元外相カルロス・ブランコに対する裁判を再開。二人は1976年に、セルマル・ミチェリーニとエクトル・グティエレス・ルイスの二議員とトゥパマロス・ゲリラ二人をブエノス・アイレスで殺害したとして告訴されていたが、裁判は05年に棚上げにされた。

2006年4月

4.01 バスケス大統領、発展と変革のための国家プロジェクト「生産的ウルグアイ」計画(Uruguay Productivo)を提案。メルコスールとの統合を深めるとともに、メキシコ、アメリカとの通商関係を重視するとし、等距離外交に軸足を移す。

4.06 両国大統領の会談が延期になったことを受け、アルゼンチンのグアレグアイチュー市民が、ウルグアイに向かう道路の封鎖を再開する。

4.07 ウルグアイ政府、製紙工場建設問題に関するアルゼンチンとの交渉を中断。メルコスール特別共同市場審議会(紛争仲裁裁判所)および米州機構(OAS)に持ち込むと発表。メルコスール裁判所の議長国アルゼンチンは、本問題は二国間問題であるとして提訴を受理せず。

4.09 アルゼンチン大統領府、フィンランドのBotnia社が建設中の製紙工場問題を国際司法裁判所に提訴すると発表。

4.10 アルゼンチンのタイアナ外相、環境団体に対し、橋梁封鎖を解除するよう通達。

4.11 世銀が委託したカナダ人有識者による環境影響調査書が提出される。オランダ系金融機関INGは、セルロース工場へ融資しないことを決定。環境団体に通達。

4.18 コロン(アルゼンチン)の商店主など30名のグループがバリケードを破壊し、強制的に封鎖を解除する。

4.18 エウヘニオ・ベリオス殺害に関わったトマス・カセジャら3人のウルグアイ軍人が、アレハンドロ・マドリッド判事の要請に応じチリ当局に引き渡される。野党はいっせいに反発。

4.19 バスケス大統領、「メルコスール特別共同市場審議会の開催を要請したが、何も返答がない」とし、議長国アルゼンチンを批判。ブエノスアイレスで開催予定のメルコスール労相会議を欠席すると表明。

4.20 アスンシオンでパラグアイ、ボリビア、ウルグアイ大統領がミニサミットを開催。チャベスも参加する。ボリビアのガスをパイプラインを通じてパラグアイとウルグアイに供給するエネルギー統合プランの推進で合意。パイプラインは、ボリビアのタリハ州ビジャモンテスを起点とし、チャコを横切ってプエルト・カサドに達し、そこからタンク船によってパラグアイ河、パラナ河でウルグアイに運ぶ計画。

4.20 小国サミットに出席したタバレ・バスケス大統領は、「南米の大国がエネルギー統合の展開を決めて、あとで小国に伝えるようなやり方は好ましくない。小国も主人公を演じるべきだ」と述べる。

4.21 マンデルソンEU貿易担当委員、製紙工場問題が地域への投資に大きく影響すると警告。

4月 ウルグアイ国内における世論調査。セルロース工場建設に対して、支持が76%、反対が14%、その他10%。

5.01 グアレグアイチューとフライ・ベントスにかかる橋で、製紙工場建設に抗議する8万人の集会。

5.03 バスケス大統領、訪米しブッシュと会談。メルコスール依存型の貿易構造の脱却を目指す。

5.04 アルゼンチン、製紙工場建設が国境協定に違反しているとし、ウルグアイを国際裁判所に正式提訴。アルゼンチン側の強硬態度により、問題は暗礁に乗り上げる。国内ではメルコスールに対する失望感が強まり、脱退あるいは準加盟国化を求める意見が出される。

7.19 ハーグ国際司法裁判所、セルロース工場建設の中止をもとめるアルゼンチンの提訴を、証拠不充分として斥ける。同時に両国に対話を求める。

7.21 第30回メルコスール首脳会議、アルゼンチンで開催。ウルグアイのバスケス大統領は、セルロース工場問題でキルチネル大統領と会談を持つが、妥協に至らず。

8月中旬 米国とのFTA締結をめぐり、国内外で議論がおこる。ホセ・ムヒカ牧畜・農業・漁業相は、「米国よりも日本とのFTA締結に努力を集中すべきだ」と述べる(ほとんどナンセンス)。ブラジルのアモリン外相、米国とのFTA協議開始はメルコスールからの脱退を意味すると警告する。 

12月 バスケス政権、IMF債務を繰り上げ完済したと発表。

 

2007年

3月 ウルグアイのバスケス大統領が、国会で施政方針演説。貧困層は04年の22.5%から19%に減少。とくに児童の貧困問題が大きく改善されたとする。今後の課題として、消費税減税を含む税制改革、健康促進と予防を重視する全国的な医療改革、公正な社会をめざす「公正計画」などを掲げる。