コスタリカ年表

 数千年前から,中央渓谷を中心に人が住んでいたとされる.もともとの住民はコロンビアと同じチブチャ族やカリブ族.
BC800-1400 グアヤボに前コロンビア期の定住地.舗装された歩道,橋,円墓,水道などが遺跡として残る.
BC500 コスタリカの北部及びニカラグアの南部にチョロテガ,中央渓谷及び大西洋岸にウエタレス(Huetares),南コスタリカ及びパナマの西部にブルンカの種族が定住しはじめた.
13世紀頃,北方からチョルテカ族が進入し,太平洋岸のアコヤ半島に入植.すでに聖職者を頂点とする階級社会を形成.
15世紀後半,コロンブスが到着する直前にはアステカ帝国の先陣も到着し,南米との交易の拠点とする一方,現地住民を緩やかな形で支配していた.
いっぽう,太平洋岸はカリブ族などが小集落に散在し,漁労や小規模な根菜植物の栽培をおこなっていた.

 

1500

1502年9月18日 コロンブスが第四次航海の途中リモン湾付近に上陸。現在のプエルト・リモン近郊ウビタ島のカリアカとされる.住民(チブチャ系のビセタ族)から金細工を送られるなど歓待を受ける.ここをウェルタスと命名した後,パナマ方面に向かう.この頃コスタリカのカリブ海岸沿いには40万の先住民が生活していたが、約1世紀後にほぼ絶滅。

22 ペドラリアスの派遣したヒル・ゴンサレス・ダビラ,太平洋岸を北上,コスタリカに到達.チョルテカ系住民から金などの贈り物を受け,コスタ・リカ(豊かな海岸)と名づける.しかし熱帯病と先住民の抵抗により,本格的殖民は遅れる.

22 ダビラの部下アンドレス・ニーニョ,ニカラグアからエルサルバドルまで進出.インディオの反乱に会い,パナマに敗走.

24 フランシスコ・フェルナンデス・コルドバ,パナマからコスタリカに進出.ニコヤ湾地方を征圧.現在のプンタアレナス付近にブルセラス基地を建設した後,さらにニカラグアへと向かう.

27 コスタリカで先住民が奴隷として輸出される。ビリャ・ブルセラスは先住民の攻撃により消失。

40 アンタゴヤ,パナマよりカリ地方に進出.

40年 サンチェス・デ・バタホスの遠征隊が,コスタリカを探検.

42年 コスタリカを含むニカラグア領、グアテマラ総督府に編入される。

60 フアン・デ・カバジョン,本格的殖民を試みコスタリカに侵入.

61 カスティーヨ・デ・ガルシムニョスがロスレジェスグァテマラからコスタリカ遠征,ランデチョの町を建設.

62 グアテマラ総督府,コスタリカ州知事を派遣.カルタゴを州ととし,メトロポリと命名.フランシスコ会士及びドミニカの聖職者が,布教を開始する.コスタリカの征服ほぼ完了.原住民は激しく抵抗し,闘いのなかでほとんどが絶滅.

64 フアン・バスケス・デ・コロナド,コスタリカ知事に就任。カルタゴの町を建設.

65 コロナド,総督権征服者の称号を受け本国に帰還中,船が難破し死亡.スペイン国王は息子のゴンサロ・デ・コロナドをコスタリカ州知事に任命.

コロナドについて ニューメキシコを探検したコロナドはFrancisco Vásquez de Coronadoです。1554年にメキシコ・シティーで死去しています。こちらのコロナドはJuan Vásquez de Coronado y Anaya。おじにあたります。1523年生まれでだいぶ若い。コスタリカでは公正で適切な統治を行い、先住民との良い関係を築いたとされます。

73年 最初の植民者50家族がカルタゴに到着.

73 ベラグアス(ニカラグア,コスタリカ),パナマのアウディエンシアの廃止に伴ない,最終的にグアテマラ総督領に編入される.

74年 アングシアナ・ガンボア,太平洋岸にエスパルサの町を建設.

1600

11年 この年の人口総数19,293人.うち先住民が15,489人,メスティソを含むスペイン人が2,695人,ムラートを含む黒人が1,145人.白人入植者人口はわずか330人.鉱物資源もなく,先住民もほぼ絶滅したため,事実上無人の野となる.このため,白人自営農民中心の比較的平等な自活社会が形成される.

76年 大西洋岸の港マティーナに海賊の襲撃.その後の百年間で10回以上の襲撃に会い,廃墟となる.

85年 太平洋岸のエスパルサ,英海賊の襲撃により壊滅.その後海岸から少し離れた場所に再建される.

1700

23年 カルタゴ北東10キロのイラス火山が爆発.

37 サンホセ市建設.当初の名前はビジャヌエバ・デ・ラ・ボカ・デル・モンテ.コスタリカ商業の中心として発展.サンホセに前後して,中央渓谷にアラフェラ,エレディアなどの町が形成される.

42年 大西洋岸のマティーナ港が,ミスキート海賊の襲撃を受けサンフェルナンド要塞が炎上.

63 サンホセの北西,バルバ渓谷のクブフキーに新しい植民地エレディアが建設される.

 

1800

01年 この年の人口調査では,総人口52,591人.ラディノとメスティソが30,413人,57.9%を占める.純粋の先住民人口は8,281人.

08年 コーヒー(カフェア・アラビカ)がキューバからコスタリカに移植される.

14年 グアナカステ地方,ニカラグアを離れコスタリカに編入される.

1821年

9.15 中米連邦州独立.

11月 1ヶ月遅れで中米連邦独立の報を受けたコスタリカ,連邦内の一州としてスペインから独立することを決議.メトロポリ市の代官フアン・マヌエル・デ・カニャスがコスタリカ州統領となる.

22.1 中米連合州,メキシコ帝国への併合を決定.自由党の優勢なサンホセ,アラフェラ市は共和国としての独立ないしコロンビア併合案,保守党の優勢なカルタゴ,エレディア市はメキシコ帝国への併合案を支持し国内対立.その後カルタゴとサンホセのあいだで内乱となる.

サンホセはグレゴリオ・ホセ・ラミレス,カルタゴはホアキン・オレアムノが指導.ラミレスはアラフェラ生まれの商人で,サンホセの共和党議長.オレアムノはカルタゴの軍人で地主.大西洋岸にも権益を持つエリート.メキシコ皇帝イトゥルビデに対する忠誠を宣言していた.

1823年

4.05 カルタゴ近郊の丘オチョモゴでカルタゴ軍とサンホセ軍の戦闘.フアン・モーラ・フェルナンデス将軍の率いるサンホセ軍が,カルタゴ軍に圧勝.

6.24 中米会議開催.メキシコ帝国崩壊にともない,グアテマラ市に5州の代表が集まり,「中央アメリカ連合州」として独立することを決定.奴隷制廃止を宣言.エルサルバドルの保守派アルセ中佐が僅差で大統領に就任.チアパス州は,メキシコ残留を表明.

23 カルタゴ,大地震により壊滅的打撃を受ける.

24.7.25 ニカラグアからコスタリカに編入されたグアナカステ地方,住民投票によりコスタリカにとどまることを決定.ニカラグア側はこれを認めず.

24年 コスタリカで奴隷解放令が公布される.カルタゴ市内で解放の対象となった奴隷は65名,サンホセでは20名.

25.2 中米連邦州憲法制定.政治的には合衆国を模範とする自由主義を目ざす.コスタリカではフアン・モーラが,ニカラグアではセルダが州統領に就任.フアン・モーラは司法制度を確立し,公教育を拡大,コーヒー産業の育成に尽力.

33 この年コスタリカの金山は最盛期を迎える.輸出額の45%を金が占める.この金を用い最初の硬貨が鋳造される.その後急速に枯渇.

35 フアン・モーラの後継者ブラウリオ・カリージョが統領に就任.自由主義的な改革と新税の導入を推進.サンホセの支配的傾向に対する他都市の反感が強まる.カルタゴ・エレディア・アラフェラの三市の合同軍が反乱.サンホセを攻める.連合軍は「Leaguesの戦争」に敗れる.

38 コスタリカ,中米連邦からの離脱と完全独立を宣言.

39 コスタリカ統領ブラウリオ・カリーヨ,終身統領を宣言.教会に納めるディエスモ税を廃止し,強権の下に近代化を進める.

41 カルタゴ,地震で壊滅.

1842年

4 モラサン,反カリーヨ派の依頼を受け,エルサルバドルで5百名の兵を組織.太平洋岸のカルデラに上陸.アラフェラ県のホコテで政府軍と対峙するが,政府軍の寝返りによりたたかわずして大統領の地位を手に入れる.カリーヨはエルサルバドルに亡命.

5月 モラサン,中米連邦再建を目指し軍備を強化.このため人頭税,関税などを強化.当初モラサンを担いだ自由党からも反感が強まる.

9.15 ニカラグア,エルサルバドル,ホンデュラス3国,チナンデガ協定を結び連邦制度を復活.モラサン,コスタリカ軍を組織してグアテマラに進攻するが敗北.

11 コスタリカに逃げ込んだモラサン,反対派によりカルタゴに追い詰められたあと捕えられ,サンホセで銃殺.

12 コスタリカ,大統領制を施行.自由党のホセマリア・カストロが最初の大統領に就任.

45年 元独裁者ブラウディオ・カリーヨ,亡命先のエルサルバドルで殺害される.

48年 ホセマリア・カストロ大統領,国旗・国歌を制定するとともに、国名を「コスタリカ自由独立共和国」と宣言.現在も公式にはこの国名.

49 コーヒーの生産が急速に拡大.チリ経由でヨーロッパに運ばれる.旧来の商人・地主ボスに代わり,新興コーヒー農園主をバックにした保守党が力を伸ばす.カストロ政権を打倒し,ファン・ラファエル・モーラが大統領に就任.

1856年 ウォーカー戦争

3 ニカラグア自由党の傭兵部隊隊長ウォーカーが政府の実権を掌握.ニカラグアを除く中米4カ国の保守党は,ウオーカーを撃ち破るための連合軍を結成,「国民戦争」を宣言する.イギリスはこれに軍事援助を行う.シュレジンジャー大佐の率いるウォーカー軍,コスタリカに侵入.サンタ・ロサの戦闘でコスタリカ軍に敗れる.

4.11 ウォーカー軍を追撃したコスタリカ軍,リバスの決戦でウオーカー軍を撃ち破る.鼓笛兵フアン・サンタマリーア(ムラート)の決死の戦闘行為が有名となる.ウォーカーは,グラナダを焼き打ちしたあと撤退.このときの司令官はトマス・デラ・グアルディア・グティエレス.

11 コスタリカ大統領フアン・ラファエル・モーラが中米連合軍の総司令官となる.

57年 軍隊が持ち帰ったコレラ,コスタリカ国内でしょうけつを極める.国民の10人に一人が死亡したといわれる.戦争を開始したモーラ大統領に対する反感が広がる.

58年 ニカラグア,グアナカステのコスタリカへの帰属を承認.

59 モンテアレグレ一家が無血クーデターで政権を掌握し,モーラを追放.68年までの10年間,コスタリカを支配.軍を掌握したグアルディア将軍は政界に対する影響力を行使.

60 亡命先の米国からコスタリカに戻ったモーラは,クーデターを企てるが失敗.捕らえられ処刑される.帰国にあたり米政府はモーラへの援助を申し出たが,モーラは断固として提案を拒否したという.

63 ヒメネス・サモーラ(医師),コスタリカ大統領に就任.実権は依然グアルディアが掌握.寡頭層と軍を掌握するグアルディア将軍とのあいだに矛盾が拡大.

67年 コスタリカのカリブ海岸に,輸出用積出港としてプエルト・リモン建設.

68 ヒメネス・サモーラ,ふたたび大統領に就任.初等教育の無償化,教育内容の充実と向上を目指す法律を制定.

69 デラ・グアルディア,自由派に回り反乱.議会の推挙により大統領に就任.大地主層からなる保守派の影響を抑え,12年間にわたり事実上の軍事独裁を敷く.大西洋岸への鉄道敷設など国内開発に力を入れる.

70 サンホセとプエルト・リモン間に,鉄道の建設が始まる.中米国際鉄道会社が工事を請け負う.社長は米国人ヘンリー・メイグ.

71年 グアルディアの下で新憲法が制定される.初等教育を義務教育とし,男女の差別なくすべて無料化.

71 ニューヨーク生まれのマイナー・クーパー・キース,叔父ヘンリー・メイグが建設中のコスタリカ鉄道会社に参加.線路脇の敷地にバナナを植え,労働者の食糧確保に充てる.

72年 鉄道建設労働者として,ジャマイカの黒人が流入し始める.

73年 コスタリカ鉄道会社と政府の間に,鉄道建設協定締結.鉄道工事に限り,外国労働者の導入を認める.

73年 中国人労働者と家族127名が,鉄道建設に入る.

74.4.02 最初の日本人移民9名が,パナマ経由で太平洋岸のプンタアレナスに上陸.その後の消息は不明.

74 コスタリカ鉄道,社主のメイグを含む5千人が病死.キースが建設を継続することとなる.厳しい労働条件に抗議し,ジャマイカからの黒人,中国人,イタリア人労働者などのストが相次ぐ.

75.7 コスタリカ政府,中国人労働者のこれ以上の入国を禁止する布告.

80 コスタリカ鉄道が開通.しかし営業は不振を極める.

82 死刑廃止,義務教育の無料化などを盛りこんだ民主主義的憲法を公布.

84 政府とマイナー・キースとのあいだに新たな契約.キースは鉄道を政府に引き渡す代わりに,99年間の使用権と周囲の広大な土地を入手する.キースはこの土地をバナナ農園として開発.

85 ベルナルド・ソトがグアルディアの後を継ぎ大統領に就任.引き続き社会制度の整備に力を注ぐ.任期中に大規模な教育改革が実施される.教育は国民合意を生み出す武器,支配者の思想を徹底する武器として期待される.

89 コスタリカ大統領選挙.ソトの指名した進歩自由党のアセンシオン・エスキバルは,立憲民主党(共和党?)のホセ・ホアキン・ロドリゲスに敗れる.当時は制限選挙・間接選挙で,有権者のほとんどが資産家・地主だったため,リベラルな路線に敵意を示す.

90 自由党は,政権移譲を実力で阻止する構えを見せる.保守党幹部のラファエル・イグレシアスは,支持者を動員して政権交代を強要.コスタリカの教科書では,「自由党,政権を保守党に無血譲渡.以後,コスタリカでは政権移行が平和的に行われるようになる」と記載.

90 コスタリカ鉄道のマイナー・キース,沿線にバナナのプランテーションをつぎつぎと作り,米国に輸出し大成功.

90 コスタリカの輸出総額の91%をコーヒーが占める.

96 コスタリカ大統領選.ラファエル・イグレシアスが当選.引き続き保守党政権が続く.

99 ボストンでユナイテッド・フルーツ会社が設立される.

 

1900年

01年 大統領選挙.後継者の当選が危ういと見たイグレシアスは自由党の一部と談合.エスキーベルを大統領とすることで,みずからの地位保全を図る.

06年 グアナカステの鉱山で最初のストライキ.

10年 共和党のリカルド・ヒメネス・オレアムノが大統領に当選.以後ヒメネスは,断続的に3期にわたり大統領を務める.

11年 バナナの輸出額が,コーヒーを上回り第一位となる.

13年 ユナイテッド・フルーツ社で最初のストライキがたたかわれる.

14年 はじめての直接選挙による大統領選.しかし議会は第一次選挙で選ばれた候補を拒否.共和党のアルフレード・ゴンサレス・フローレスを指名.

16年 第一次大戦により通商額が激減.コーヒー価格は暴落.ゴンサレル・フローレス大統領は,歳入欠陥と財政の危機を所得税の導入により解決しようとする.農園主の抵抗にあったゴンサレスは,軍を利用して強行突破を図る.インフォlルマシオン紙は所得税導入に反対し,軍事クーデターをあおりたてる記事を連載.

17.1.27 国防相フェデリコ・ティノコ・グラナドス将軍,軍の出動を拒否しクーデター.農園主たちと共謀してゴンサレス大統領を追放し,2年間にわたる軍事独裁をしく.弟のティノコも軍の最高幹部だった.

17年 ティノコ政権,当時最大のコーヒー輸出先であったドイツと親交を強める.ウィルソン米大統領は中米条約違反をタテにティノコ承認を拒否.有産階級の多くがティノコを支持するが,リカルド・ヒメネス派はクーデター反対の立場をとる.

1919年 ティノコ独裁の崩壊

5 ホルヘ・ボリオ神父,反ティノコ独裁の武装蜂起.米国の強い圧力を受けたティノコは辞任.後継のフアン・バウティスタ・キロス将軍が政権を掌握.しかし米政府はキロスをも承認せず,フランシスコ・アギラールを中心に,次期大統領選出のための投票をすみやかに実施するよう要求,装甲艦デンバーを派遣.

6 ティノコ後の国政を監視するため,米国の海兵隊員がコスタリカに到着.

20年 Julio Acosta Garciaが大統領に就任.米国政府は直ちに新政権を承認.クーデターをあおったインフォルマシオン紙は民衆の焼き打ちに会う.インフォルマシオン氏の社主は,あらたにナシオン紙を発刊.他にレプブリカ紙,ラ・プレンサ・リブレが,コスタリカの三大紙といわれる.

20 コスタリカで中米連邦の復活を意図する国際会議開催.

20年 ホルヘ・ボリオは改革党(PR)を結成し労働運動を結集.

1921年 コト紛争

2 コスタリカ,米国の支持を受け,パナマ太平洋岸のコト地方に武力侵入(コト紛争).軍事力を持たないパナマは,いったん侵入者を駆逐するが敗れ領土を失う.

3 パナマ軍,米政府の説得によりコト地方から撤退.米国は紛争を利用しチリキ,ベラグアスを占拠.その後も国境紛争は41年にいたるまで継続.

23.12.04 大統領選挙.共和党のリカルド・ヒメネスが三万票を獲得,大地主などの保守層が組織した農業党のアルベルト・エチャンディは2万5千票.キリスト教社会主義を唱える改革党のホルヘ・ボリオが1万4千票を獲得.

24.1 ヒメネスの得票率が42%にとどまったため,議会での決選投票となる.改革党との協定に成功したヒメネスが大統領に就任.リベラルな共和主義を目指す.以後12年にわたり共和党と農業党の政権が続く.改革党は労働者層の獲得に動く.

24年 コスタリカ政府はティノコ政権による債務の支払いを拒否。国際仲裁法廷に持ち込まれる。国際仲裁法廷の主判事として事件にかかわった米国最高裁主席判事タフトは、債権者が使途の正当性を立証できなければ、債務は無効であると判決。

フェデリコ・ティノコは、カナダ・ロイヤルバンク(英国の銀行)から資金を調達し、これを着服した。政権交代後、ロイヤルバンク側は債務の引継ぎと返済義務を求め、国際仲裁法廷に持ち込んだ。

27 リカルド・ヒメネス政権,改革党のホルヘ・ボリオの影響を受け,保健事業を国有化.改革党は左右に分裂,主流派は共和党へと合流.左派は後に共産党の母体のひとつとなる.

27年 この年の人口統計では,黒人が2万人に達し,人口の4%を超える.大西洋岸では,ジャマイカ黒人組織の支援により黒人のための学校が相次いで設立されるなど地位が向上.

28年 ヒメネスに代わり,農業党のクレト・ゴンサレス・ビケスが大統領に就任.

30年 大西洋岸のバナナ農園,病虫害で壊滅.ユナイテッド・フルーツ社は太平洋岸に新たなバナナ農園を開発.

31.3 マヌエル・モラの指導下にコスタリカ共産党結成.改革党左派や海岸部バナナ農園の労働運動を吸収し急成長.

32 ビケスの後継者とヒメネスが,大統領を争う.選挙に敗れたヒメネスが反乱の構えを見せたため,農業党候補は大統領就任を辞退.ヒメネスが三期目の大統領に就任.

32 ユナイテッド・フルーツ社農場で,共産党に率いられた1万5千名の労働者が大規模なスト.1ヵ月後に労働者の勝利に終わる.

33 政府の監督下にコーヒー防衛協会が結成され,価格安定,生産調整,コーヒー生産者と輸出業者との関係調整に当たる.

36 民族共和党 (PRN)のレオン・コルテス・カストロが大統領となる.

36 通貨発行権を持つコスタリカ・ナシオナル銀行が創立される.

 

カルデロンのポピュリスト政治

40 ポピュリスト的傾向を持つ民族共和党のラファエル・アンヘル・カルデロン・グアルディア,大統領に当選.共産党は人民戦線の立場からカルデロンを支持する戦術をとる.レオン・コルテス前大統領はカルデロンの急進的政策を嫌い,保守派の民主党へ移籍.

40 カルデロン,公約に基づき国立コスタリカ大学を創設.

41 コスタリカ,米国に先駆けて枢軸国に宣戦布告.ドイツ人資産を没収.

41 カルデロン,Caja Costarricense de Seguro Social と呼ばれる社会保障制度を制定.中米最初の社会保障システムとなる.

42 カルデロン,議会の多数を背景に憲法を修正.団交権を保障する労働法改正,土地法改正による貧農救済,協同組合運動の奨励などを次々に打出す.急進的政策の背景には,当時のカトリック教会トップのビクトル・サナブリア大司教の教義があったとされる.

42 米国帰りの農場主ホセ・フィゲレス・フェレール,ラジオ放送でカルデロン派,カトリック教会,共産党の「偽りの同盟」を糾弾.放送途中に捕らえられ,メキシコに追放される.亡命中にグアテマラやドミニカの社会民主主義者と交友を深め,武装蜂起の計画を練る.

43 コスタリカ共産党,人民前衛党と改称.

43年 レオン・コルテスの率いる民主党は大地主や有産階級の支持を集め急成長.

44.2 国民共和党保守派の大立者テオドロ・ピカード・ミチャルスキー,カルデロン派の支持も受け大統領に選出.カルデロンの後継者を称する.カルデロンを介し共産党とも連係を続ける.累進所得税制を採り入れた所得税法,最低賃金制度を制定するなど改革を続行.

44 フィゲーレス,大統領交替に伴なう恩赦でコスタリカに戻る.フェルナンド・カストロら民主党左派とともに民主行動党を結成.

45 ロドリゴ・ファシオ・ブレネス(法律家),カルロス・モンヘ(歴史家)ら知識人が,カルデロン政府の腐敗を弾劾.社会主義システムを取り入れるよう主張.この無党派知識人グループと民主行動党を中心に社会民主党が結成される.グアテマラのアレバロ政権,キューバの真正党政権などと連携.

46.6 フェルナンド・カストロにひきいられたコスタリカ社会民主党の2百人,サンホセで武装蜂起.ホセ・フィゲレスも加わるが,ただちに鎮圧.社会民主党はカルデロンらを共産主義者と非難,まもなくコスタリカが西半球で最初の共産主義独裁国家になると宣伝.その後も警察や共産党に対する襲撃あいつぐ.

46年 中間選挙.社会民主党は選挙裁判所の実効支配を前提条件として,選挙に参加.

47年 中米・カリブ地域での独裁国家を打倒しようと訴える国際同盟が成立.フィゲーレスもこの同盟に加わる.グアテマラ政府の援助を受け武装反乱に動く.反乱部隊はグアテマラ軍により訓練され,武器はグアテマラからフィゲーレスの農場にひそかに空輸された.

47年 翌年の大統領選を前に、共和党はカルデロンを再び大統領候補に擁立。共産党もこれを支持。保守派は新聞社主のオティリオ・ウラテ・ブランコを擁立。社会民主党も大統領選への参加を決定。フィゲーレスを候補に擁立。一方、反共和党の立場から保守派とも連携。

 

 1948年 フィゲレスの蜂起

2.04 コスタリカ総選挙が施行される。議会選挙では、共和党=PVP連合が50議席中29議席を獲得。とくにPVPは50議席中12議席を獲得する躍進。ウラテ派は選挙に不正があったと抗議。

2.10 大統領選の開票が続き、ウラテとカルデロンとの票差が開く。カルデロンは記者会見を開き、選挙の不正を告発。選挙管理委員会に投票のやり直しを求める。この間,何者かによる投票所の放火が相次ぎ,票が焼失する.

2.28 選挙管理委員会(Tribunal Supremo de Elecciones)、2人の賛成で、ウラテの勝利を確認。確定投票数はウラテが54,931票、カルデロンは44,438票。もう一人の委員は疑問票の数え直しなどが必要として判断を保留。カルデロンは,選挙に不正があったとして議会に無効を申し立て.

3.01 新議会が開催される。カルデロンの要請を受けた国民共和党は、選挙管理委員会が不正と腐敗を見逃したため、選挙結果に影響を与えたとし、選挙の無効を主張。PVPと大司教は、たとえ不正があったとしてもウラテの勝利宣言を受け入れるべきと主張。(一説によれば、議会はカルデロンの勝利を認め、ウラテを投獄したとあるが、これは眉唾モノ)

3.01 共和党=PVPが主導権をにぎる議会は,激論の末27対19で大統領選の無効を宣言.状況が許せば4月に再選挙を行うと決議。憲法上は選挙管理委員会は議会の統制の下に置かれ、選管の決定は議会の最終的承認を要することとなっていた。

3.02 ピカド大統領、議会の決議を受け、政権引渡しを拒否.サントス・レオン・エレーラが暫定大統領に就任.

3.10 議会の選挙無効宣言に対し,独立議会党のフィゲレスが国民解放軍の旗を掲げ武装蜂起.「6週間戦争」が始まる.共産党はカルロス・ルイス・ファリャスの指揮下に労働者武装軍を組織,政府軍に加わりたたかう.

3.12 フィゲーレスの部隊,南部のサンイシドロ・デル・ヘネラルの町を占領.カリブ海岸には,グアテマラとキューバに支援されたゲリラ組織「カリブ軍団」がフィゲレスを支持して上陸.共産党軍の抵抗を打破る.

3 ソモサ・ピカド秘密会談.ソモサはコスタリカへの直接派兵を提案.国警隊がビジャ・ケサーダに侵入.これに反対した共産党軍は,孤立したたたかいを余儀なくされる.

4.17 米国,パナマの南方軍を出動体制に.マーシャル米国務長官はピカードに退陣を勧告.人民前衛党が権力内の地位を維持するのなら,直接武力干渉すると脅迫.これを見た共和党政府は退陣を決意.共産党軍への物資補給を停止し,フィゲーレスとの停戦交渉に入る.

4.24 政府軍敗北.フィゲーレス軍がサンホセに入る.外交団が両派の調停に入る.米軍も関与し和平協定成立.ピカドとカルデロンは身分と財産の保障を条件に降伏に応じる.

4.28 ピカドが退陣。内戦終了。この内戦で,2千人が死亡.

5.01 フィゲーレス=ウラテ協定成立.政権移譲までの18ヶ月間,「第二共和国建設評議会」(junta fundadora de la segunda república)が全権を握り,国内の治安確立をおこなうこととなる.フィゲーレスは18ヵ月の間議長をつとめ、”ドン・ペペ”と呼ばれるようになる.

5.08 革命評議会成立.議長にはフィゲーレス、11人の委員がフィゲーレス派、ウラテ派の双方から選ばれる。「第二共和国」の建設を宣言。議会を停止し、1871年憲法を破棄。新たな制憲会議の招集を呼びかける。評議会は共産党,コスタリカ労働者委員会(CTCR)を非合法化する一方,40年以降の諸改革を尊重すると言明.

5月 フィゲーレス,カルデロンとの密約を破棄.旧政府幹部の資産を没収し,国外追放.左翼系活動家/文化人を捕らえ殺害.カルデロンらはいったんメキシコに亡命した後,ソモサの庇護の下に入る.

11.17 革命評議会,軍隊の廃止を決定.さらに婦人参政権の実現,黒人の全面的な市民権を承認.民間銀行・保険会社を国営化して,国による経済管理への道を開くとともに,行政事務改革を開始する.

12.01 フィゲーレス,記念式典で演説.軍隊の廃止を完了したと宣言.

12.08 制憲議会選挙。国家共和党の参加が禁止される下で、ウラテのPUNが地すべり的勝利。41議席中33議席を確保する。フィゲーレスの社会民主党はわずか4議席にとどまる。

12.11 カルデロニスタ,ソモサの支援を受けニカラグアより侵入.革命評議会はただちにOASに提訴すると同時に,「カリブ軍団」を再召集.

12.15 米州機構は侵略行為へのソモサの関与について調査.OASの圧力によりカルデロン軍は撤退.2週間で戦いは終了し,カルデロンはメキシコに亡命したあと国内に共和党組織を再建.

1949年

1月 憲法制定議会が召集される.ウラテ選出を有効と判定.

2.21 コスタリカ=ニカラグア友好条約締結.

3月 制憲議会、フンタの提示した「第二共和国憲法」草案を拒否。71年憲法の復活をもとめる。

4月 フンタと制憲議会の矛盾が深まる。国内保守派はフンタの独裁に反対しクーデターの動き。

6.20 制憲議会、市民権を規定する第10条に付帯条項「政治的義務と権利は男女のコスタリカ人すべてに共通する」を加える。これは女性が優位を占める全国教職員協会の要請に基づくもの。

8月 制憲議会、新憲法草案を最終的に確定。大統領の任期・権限に制限が加えられ、議会の権限が強化される。選挙管理委員会の議会からの独立性が保障される。ほかにも会計検査院、検察庁、住民擁護官(オンブズマン)が強い発言権・影響力を有しているところから、「七権分立」と呼ばれる。常備軍の廃止が確定される.また民主的統治を脅かす政党(共産党)の非合法化が認められる。

10.02 新憲法にもとづく国会と地方議会の選挙が実施される。

10.04 国会選挙の結果確定。ウラテの国民連合が45議席中33議席を確保。社会民主党が3議席、その他が9議席。

11.07 新憲法が発効。

11.08 革命評議会が解散.政権をウラテに引き渡す.

12.01 ウラテが大統領に就任.軍隊を廃止しベラ・ビスタ兵営を教育省に転換.兵営跡地には平和の象徴として学校が建設される.またユナイテッド・フルーツ社との契約改訂などをおこなう.

50.7.30 二つの県の地位をめぐる国民投票で、女性が初めて投票に参加。

50年 ナシオナル銀行を接収し,国立のセントラル銀行が創立される.

51.7 政府,共産党の影響下にある労働組合の解散を命令.

51.10.12 フィゲーレス、社会民主党を中核に国民解放党を結成。53年大統領選への出馬を表明.ウラテの保守化する経済政策を攻撃。

52.10 人民前衛党,「独立進歩党」の名前で選挙登録.

1953年 フィゲーレスの大統領当選

1.20 コスタリカとニカラグア,OASの示した緩衝地帯構想を受諾.

7.24 ウラテ大統領,「独立進歩党」を破壊的政治組織と宣告.投票直前に同党を非合法化する.海岸地帯のバナナ労働者は、これに抗議し選挙をボイコット。

7.26 大統領選.中央高原(meseta central)の自営農民層に支えられたフィゲーレスが65%を獲得し、国民連合党候補に圧勝.議会でも3人の女性議員をふくむ30議席を獲得。この後ウラテの国民連合党との二大政党制が確立.

8月 フィゲレスは親米・反共を党是としつつ所得税の引き上げ,UF社との契約改定,国内工業保護のための関税政策,公共事業の拡大などの進歩的政策を実施.しかし景気後退の中で目立った効果は上がらず.

53 ソモサは,フィゲーレスに支援されたカリブ軍団が,自らを暗殺しようとしたと非難.

1954年

5 フィゲーレス,米国の反グアテマラ作戦を支持し,アルベンス政権の打倒を呼びかける.

6.10 ニカラグア亡命中のピカド・ミチャルスキーの息子ピカドが400人の部隊を組織。ソモサの援助を得て,コスタリカ侵入を狙う.当時の独裁政権であったキューバのバチスタ、ベネズエラのヒメネス、ドミニカのトルヒージョ、コロンビアのロハスがピカド支持に回る。ニカラグアとコスタリカは国交を断絶.

1955年 ピカドの侵入

1.08 コスタリカ,ニカラグアが侵略を狙っているとOASに提訴.

1.11 ピカドの部隊,コスタリカに侵入.パンアメリカン・ハイウエイ沿いの町ビジャ・ケサダを占拠.米国人傭兵によりサンホセなどいくつかの都市を爆撃.市民警察はただちに予備役1万人を召集.

1.12 フィゲーレスは米州機構に調査を申請.調査団がニカラグアの関与を明らかにしたため,ソモサは計画から手を引く.米国はOASの許可の下に戦闘機4機を無償供与.

1.22 ピカドの部隊,民衆の支持を受けることができず.いくつかの戦いの末ニカラグア領内へ敗走.コスタリカはニカラグアと断交.

2 ピカド,1ヵ月に及ぶ戦闘ののち敗れ,OASの調停を受入れる.

8 コスタリカで地下の人民前衛党に指導された労働争議が発展.党は合法的政治勢力としての承認を要求する文書を発表.

56.1.09 ニカラグアとの国交正常化.友好条約調印.共同で国境監視に当たることとなる.

57年 中等教育を中心に大幅な教育改革.

58.2.02 コスタリカ総選挙。フィゲーレスは内政安定のため、国民共和党の政治活動再開を認める。国民連合党は共和党の支持を受けマリオ・エチャンディ・ヒメネスを当選させる。エチャンディはウラテ政権の下で駐米大使、外相を歴任。議会選挙ではPLNが多数派を維持。

59 ユナイテッド・フルーツ社で農業労働者のスト.

59 憲法修正。投票の義務化を制定。

59年 政府,生産協同組合の結成を奨励.以後の4年間で協同組合の数は42から218まで増加.

1961年

4月 キューバでピッグス湾侵攻事件.コスタリカの保守党政府は反革命集団の支援に加わる.

8 コスタリカ,北部3国の共同市場に対抗するため,パナマ,ニカラグアとのあいだに「特恵貿易条約」を締結.

61年 総選挙を前に、国民共和党が合法化される。内戦前の政治家が続々と帰国。このあとウラテの国民連合党は弱体化.

1962年

2.04 大統領選.フランシスコ・ホセ・オルリチ・ボルマリチ(Orlich)が、共和党のカルデロンを破り当選.国民解放党がふたたび政権を握る.PLNは議会でも57議席中30議席を維持。

63.3 コスタリカで中米首脳会議.中米宣言を発表し,キューバ系勢力の阻止を確認.コスタリカは中米共同市場への参加の意志を表明.

63年 イラスー火山,1年にわたり噴火を繰り返す.

1965年

3月 サンホセでキリ民党結党大会が開催される。

5月 ドミニカでボッシュ政権と民主主義の復活を訴えるクーデターが勝利.コスタリカ政府は反革命を支持し,ドミニカへ部隊を派遣.

1966年

2月 共和党のホセ・ホアキン・トレホス・フェルナンデス,4千票の僅差でPLNのオドゥベルを破り大統領に当選.彼の任期中,米国からの投資残高は30倍に拡大.投資の対象は果実と小規模工業から,牧畜と木材に移行.地方の零細農業は崩壊し,多くの農民が都市スラムへ移動.

66 カルデロン元大統領、トレホス大統領によりメキシコ大使に指名される。フィゲーレスが大統領に復帰した時点で辞任。

68年 アレーナル火山が噴火し,多くの犠牲者をもたらす.

69年 PVP、選挙への参加を許される。社会主義行動党と左翼連合を結成し選挙に臨む。政府はこれを黙認.

1970年

2.01 フィゲーレス,マリオ・エシャンディを破り、ふたたびコスタリカ大統領に当選.PLNは議会でも過半数を獲得。反キューバ政策の旗振りとして米国の信頼と投資を獲得.国内では,労働・福祉問題に重点をおく進歩的政策を実行.国会議長にはダニエル・オドゥベル(Oduber),副議長にはルイス・アルベルト・モンヘが就任.

2.01 PVPのリシマコ・レイバ候補は7,227票を獲得。議会では2議席を獲得。

4.30 地方自治憲章の制定。警察などを統括する中央派遣の知事制度(jefes políticos)を廃止する。

72年 エレディアに第二の国立大学が設置される.

72年 コスタリカ社会党( Partido Socialista Costarricense)が創設される。

73年 フィゲーレス大統領,「協同組合発展のための国立機構」(National Institute for Cooperative Development :INFOCOOP)を設立.既存あるいは新規の協同組合に信用,技術協力を提供.理事7人のうち4人は協同組合員自身が選出することとなる.

1974年

2.03 大統領選.国民解放党のダニエル・オドゥベルが、国民統一のフェルナンド・トレホス・エスカランテを破り当選.野党は候補者の一本化に失敗。人民前衛党は合法組織「社会主義行動」からマヌエル・モラ・バリベルデ書記長を立起させる.

2.10 北朝鮮と国交樹立.

5.08 オドゥベル,大統領就任.外交政策を大きく転換.米銀行の特権制限,キューバ制裁の撤廃,チリ軍事政権非難などを掲げる.オドゥベルはフィゲーレスとともに民主社会党を創設した人物.

8.12 コスタリカ政府,北朝鮮通商代表部に引揚げ要求.

1975年

3.09 フィゲリス前コスタリカ大統領,米CIAとの協力関係を認める.

5 議会,左翼政党を禁止した憲法の反民主主義的条項を削除する決議を全会一致で採択.人民前衛党,20年ぶりに合法化.

4月 ブラックUB社社長の自殺をめぐるスキャンダルが明らかになる.SECの発表によれば,UB社はバナナ輸出税免除を求め,ホンジュラス大統領ロペス・アレリャーノに合計250万ドルの贈賄を行った.UB社の取引は1週間停止され,株主の告訴が相次ぐ.アレリャノは軍部により退陣を迫られる.コスタリカ大統領オドゥベルは,UB社が贈収賄にかかわったもののリストを公表しなければ,すべての契約を破棄すると警告.

1977年

2.21 コスタリカ,キューバと外交関係再開.

10月 ニカラグアで反ソモサ闘争が激化.オドゥベル大統領は,サンディニスタに暗黙の支持.国境地帯は事実上サンディニスタの聖域となる.

1978年

2.05 大統領選挙,保守系野党4党が統一に成功。キリ民党を中心にカルデロニスタ共和党、人民連合(Partido Unión Popular)、民主改革党(Partido Renovación Democrática)が参加。「統一」のロドリゴ・カラソ・オディオ候補が50%を獲得。PLNのモンヘ候補を破り当選.

9.12 カラソ大統領,ニカラグア空軍機がコスタリカに越境爆撃と非難.

9.15 コスタリカ,ニカラグアの脅威に備えベネズエラとのあいだに相互防衛協定調印.

9.17 ニカラグア外務省,ベネズエラ・コスタリカ両国がニカラグアを攻撃と非難.

9.27 国連総会で,カラソ大統領が平和大学設立の提案.

11.10 ニカラグア国家警備隊,コスタリカ国境を越えてFSLNゲリラ掃討作戦を展開.コスタリカはこれに抗議し国交断絶.

11.22 OAS,コスタリカ・ニカラグア国境紛争で緊急理事会開催.調査団派遣を決定.

11.26 OASの調停,ソモサの強硬な態度の前に失敗に終わる.

1978年 この年,平均寿命は70歳に達し,乳児死亡率は20/1000まで低下.識字率は9割を超え,賃金労働者の3/4は社会保障でカバーされ,失業率は5%にとどまる.コーヒーの生産技術向上と国際市場の好況とによるもの.公務員は5万人に達し,全労働者の1割を占めるようになった.

 

1979年

5.29 パストラの率いるFSLN南部戦線,コスタリカ領内からニカラグアに進出.この部隊にはコロンビア社会労働党の「ボリバール旅団」,パナマの国際旅団もくわわる.

6.16 コスタリカで国家再建政府委員会(JGRN)を樹立,セルヒオ・ラミレスが代表となる.混合経済,政治的多数主義,非同盟政策を三通の柱とする基本政策を発表.

8 FSLNを一貫して支持したコスタリカのカラソ大統領,初の公賓としてニカラグア公式訪問.

79年 コーヒーの国際価格が,生産過剰により急落.輸出不振のため,国際収支は6億6千万ドルの赤字を計上。経済成長率は10%からマイナス2.4%に落ち込む.さらにオイル・ショックにより輸入製品の価格が高騰し不況下のインフレ.実質賃金は大幅に減少.公共料金も大幅値上げ.さらに対抗策として打ち出した景気振興策が裏目に出て,対外債務は40億ドルに膨らむ.

80年 労働者の生活困難が深刻化.これに対応し労働運動が激化.年間60件以上のストライキが発生.市民警察はスト中のバナナ労働者に発砲するなど弾圧姿勢を強める.

80年 国連平和大学がサンホセ郊外に開設される.

1981年

2.13 米国務省,バーノン・ウォルタースをLA諸国に派遣し,キューバ,ソ連などがニカラグアを通じてFMLNに武器を供給している「証拠」を示す.(いわゆるエルサルバドル白書)

2.23 ゲンシャー西独外相,ケサダ・コスタリカ外相と会談.エルサルバドルの民主勢力強化で一致.

3.17 サンホセで米軍人を狙った爆弾テロ,米海兵隊員ら6人が負傷.コスタリカ治安当局は,左翼ゲリラ組織のグループを逮捕.

5.11 コスタリカ政府,ゲリラ組織のテロ活動をあおったとして,キューバとの断交を発表.

9月 政府,対外債務の利払い停止を発表.IMFの管理下に入る.賃金は凍結され,通貨切下げ,福祉の切り捨てが強行される.基礎食糧への価格維持政策も停止される.

10.29 コスタリカ国内機,ニカラグア右翼に乗っ取られサンホセ空港に着陸.コスタリカ政府は犯人の要求に応じ拘留中の右翼6人を釈放.乗取り機はエルサルバドルへ向かう.

81年 カークパトリック米国連大使,コスタリカが経済援助の強化と引き換えに「防衛協力」を受け入れたと述べる.カラソ大統領はこれを全面否定,カークパトリックに謝罪を求める.カーティン・ウィンザー駐サンホセ大使はカラソを「精神異常者」とこき下ろす.

81年 経済情況はさらに悪化。インフレ率は82%となり、国民一人当たり収入は15%減少、労働者の平均賃金は42%減少。カラソ大統領は経済苦境の中で、米国の反ニカラグア・キャンペーンに加わる決断.これを機に,米国からの援助額は急増.

81 ニカラグア国境地帯での緊張に備え,準軍事組織「コンドル軍団」が創設される.翌年には「コブラ軍団」も創設.パナマ国警隊による訓練を受ける.

 

1982年

1.19 米国のイニシアチブにより中米民主共同体設立(エルサルバドル,ホンジュラス,コスタリカ,ベネズエラ,コロンビア).ニカラグアとエルサルバドルのゲリラ包囲を目的とし,共同行動をとることで合意.

2.07 大統領選。国民解放党のルイス・アルベルト・モンヘ・アルバレスが59%の得票を得て当選.国会選挙でもPLNが33議席を獲得.モンヘは外相,内相に米大使館と関係の深い二人を指名.外相はフェルナンド・ボリオ,内相にはアルフォンソ・カーロが就任.内相はニカラグア国境地帯を含め警備に当たる地方警察を管轄する.さらに協同組合発展相のポストを新設.INFOCOOP長官ラファエル・ロハスを大臣に指名.

2.14 レーガン,CIAの1千9百万ドルの対ニカラグア秘密作戦承認.

2月 ミスラサータのブルックリン・リベラ,コスタリカに亡命しパストラらと合流.ミスラサータはニカラグアの先住民組織で,元は親サンディニスタ組織だったが,コントラと協同しゲリラ闘争を行うようになった.

4月 コスタリカ国境沿いに,民主革命同盟(ARDE)結成.エデン・パストラ(元FSLN),ロベロ(MDN),フェルナンド・チャモロ(UDEL),リベラ(ミスラサータ)などの寄り合い所帯.CIAは毎月40万ドルの支援を供与.パストラはサンホセで記者会見し,「FSLNはソ連,キューバにあやつられた裏切り者,暗殺者集団である」と非難.

5月 モンヘが大統領に就任.この年の経済成長率は,オイル・ショックのあおりとコーヒーなどの輸出価格の低迷からマイナス7.3%に達する.対外債務は26億ドルにたっし深刻な経済危機.緊縮政策の結果,失業率は10%を上回る.モンヘはIMF支援と引き換えに米軍特殊部隊の軍事顧問の受け容れ,コントラの基地黙認を迫られる.

82年7月 航空会社ビル爆破事件

7.03 ホンジュラス航空のサンホセ事務所で爆弾事件.ラ・ナシオン紙は犯人がニカラグア・ナンバーの車に乗っていたと報道.プレンサ・リブレ紙は外交官プレートをつけた赤の車だったとする.

コスタリカのマスコミ
ただ1局の国営テレビを除き,すべて資産家の経営する民間組織.特に三大紙はサンディニスタに関して系統的にデマを撒き散らした.

7.22 ホンジュラス航空爆破事件に関して,コロンビア人が反テロリスト法で逮捕される.

7.27 ホンジュラス航空爆破事件との関連で,コロンビア人の証言に基づき,ニカラグア外交官三人が拘留される.三人は即日国外追放となる.

11.09 エルサルバドルのゲリラ組織PRTC,コスタリカ松下電器会社の小菅徹二社長の誘拐を図る.

82末 退役兵を主体とする右翼が,コンドル,コブラ軍団を中核に「国家緊急人民組織」(OPEN)を結成.世界反共連盟の支援を受けたもので,エルサルバドルのORDENを手本にする私兵集団.

ジョニー・カンポス公安副大臣
OPENのメンバーは民主主義に対する信仰が試されたものでなければならない.したがって共産主義者の参加は許されない.
カルロス・セレドン市民警察中佐
「OPENはこれまでの警察予備隊や国家防衛隊とは異なり,民間的かつ政治的性格の強いものである」

 

1983年

1.8 パナマのコンタドーラ島で,メキシコ,パナマ,ベネズエラ,コロンビアの4カ国外相会議.紛争の平和的解決に向けて調整開始.「域外国の干渉を廃止,中米紛争を東西対立の文脈においてとらえず,関係国の対話・交渉による問題解決の必要性を訴える共同声明」を発表.①中米地域への外国の干渉の停止,②すべての軍事援助の停止,③エルサルバドル内戦の停戦交渉開始,④ニカラグア政府とコントラとの対話を訴える.

1月 米国,多額の資金援助を背景に,国営となっている銀行業務の自由化を強く要求.議会・国民解放党はこの開放圧力に強く反発.ウィンザー大使は「21世紀を発達した国として迎えるため,国民解放党はもう少しプラグマチックな考えを持つべき」と主張.

2.14 コスタリカ,ホンジュラス,エルサルバドルの中米3国外相,ニカラグア情勢に関して討議.

2月 カンポス公安副大臣,OPENに1万の市民が結集したと報告.公安省の管轄下に,「民主主義を揺るがそうとする策謀を打ち砕く」ため,週末を利用して軽火器の取り扱い,救急処置などの訓練.米国の援助を受けたかとの質問に関しては,「国家機密」として回答を拒否.

1983年3月 コントラの侵攻開始

3.13 コントラ兵士1千5百名がマナグア北方100キロの地帯に降下作戦.侵攻にあたってはホンジュラス軍が全面支援.

4.10 パストラ,ARDE司令官に就任.真正サンディニスタ革命をとなえ反革命攻撃を開始.サンフアン川運航中の船舶を攻撃.CIA中南米作戦部長クラーリッジは,パストラを南北二つのコントラ軍の指導者と位置づける.

4月 ホンジュラス航空爆破事件の「犯人」,証言が虚偽に基づくものであることが判明し,釈放される.

5.05 コスタリカ,OASに対しニカラグア国境地帯への平和部隊派遣を要請.

5.19 ニカラグア国境地帯でニカラグア政府軍とARDEの間で激戦.コスタリカ当局の発表によれば,死傷者300人以上を出す.国民解放党内の左派は、左翼政党の人民同盟、労働組合、一般市民によるコントラの国外追放の要求を背景に、中立を維持するようモンヘに迫る.

6月 アメリカ国際開発局(USAID),いくつかの立法措置と引き換えに2億ドルの経済援助をおこなうと提案.議会は連続20時間にわたる討議の末,援助の受け容れを決議.銀行の民営化推進に向け動き出す.

7.19 ニカラグアを除く中米4ヶ国外相会議,グアテマラにおいて開催.コンタドーラ・グループの提案を元に,外国軍事顧問の削減,または全面撤退など8項目の中米和平案を発表.レーガンは提案を無視し,フォンセカ湾での軍事演習を発表.

8.23 ETAテロリストのヒメネス,コスタリカで逮捕される.米国務省報告によれば,彼はパストラの「家」をスケッチしているところを不審尋問されたという.当局はヒメネスがサンディニスタの依頼を受けコスタリカで破壊活動をしようとしていたと発表.コスタリカ,スペイン政府はニカラグアに対する態度を硬化.

9.8 パストラ派の双発セスナ機,民間専用のサンディーノ国際空港を爆撃,対空砲により撃墜されるが,管制塔などが全壊.直後にニカラグアを訪問したコーエン,ハート両上院議員,飛行記録などから爆撃がCIAの指示によるものであることを確認.

9.15 モンヘ大統領,コスタリカの永世的,積極的,非武装中立に関する大統領宣言」を発表.大統領宣言に対する国民投票を実施.83%が軍創設に反対,77%は武器購入にも反対.

大統領宣言
軍隊を復活させないこと,近隣諸国の内戦に介入しないなどの一般的義務条項に加え,とくに,
国を交戦当事者の作戦基地に使わせない義務を付け加え,これを強調.
具体的には,(1)当事者へのあらゆる支持と援助の禁止,(2)軍事輸送の領土通過の否認,(3)当事者との通信用無線施設の否認,(4)当事者のための徴募用事務所開設の阻止,(5)国内に侵入してくる戦闘員の武装解除,隔離,留置などの義務.

9.25 米政府,ゴーマン米南方軍司令官をコスタリカに派遣.コスタリカ北部国境地帯への「戦闘技術者」千名の派遣と,道路・橋梁・飛行場建設用のための工兵隊の受け入れをモンヘに迫る.議会はこの提案を拒否.

9.28 パストラ部隊,コスタリカ国境地帯のペニャス・ブランカでパンアメリカ・ハイウェー上のニカラグア税関を爆破.続いてコスタリカ側の税関も破壊.「ラ・ナシオン」紙は,コントラがコスタリカから出撃し,攻撃後コスタリカに戻ったことには目をつぶり,事件をニカラグアの挑発として描き出す.反共デマに踊らされた(振りをした)モンヘ大統領は,これをニカラグアの仕業として激しく抗議.

9.30 「ラ・ナシオン」紙,ペニャス・ブランカ事件を引き会いに,「モンヘは中立宣言を再考しなければならない」と主張.

9 米下院,コントラ援助法案を小差で否決.一方上院情報委員会はCIAの秘密工作を承認.CIAはコスタリカに本拠をおき,サンホセの放送局を買収,FDNの機関紙「ニカラグア・ホイ」を発行.75万部を発行するコスタリカの有力紙「ラ・ナシオン」を影響下におくなど反サンディニスタ・キャンペーンが大々的に展開される.

10 ベイルートの海兵隊基地が車爆弾により破壊される.米議会はこれに対応し,反テロリズム法を可決.低強度戦争に備え,特に各国警察の準軍隊化を促進.警察内にCIAを送り込むことが合法化される.

83年11月 非武装・中立宣言

11.17 中立宣言式典.米国は宣言に対し正式な見解を発表しなかったが,ウィンザー米大使は式典を欠席することで不快感を表明.

11月 米議会,反テロリスト援助計画(ATA)を承認.爆発物の発見と処理,人質の情況に応じた安全管理,テロリストと同調者の摘発など各国警察への「技術」援助に対し,500万ドルの予算がつけられる.計画に基づき各国の保安責任者が「招待」され,2週間のゼミナーを受講.

11月 米国防総省のフレッド・アイクル次官補,ニカラグアとの国境地帯を視察.「クリスマス前には米技術者100人が入り,道路や防衛施設を建設することになるだろう」と漏らす.この発言には抗議が殺到.モンヘはプロジェクト停止の発表を余儀なくされる.

12.06 コスタリカ,ラングーン事件に抗議し,北朝鮮と断交.

12.17 反対連合に参加した4党により、キリスト教社会統一党(Partido Unidad Social Cristiana:PUSC)が結成される。

83年 米国からの援助額は,80年の1,600万ドルから,83年度2億ドルへと急増.コスタリカ政府予算の3分の1に達する.多くがひも付き援助で,コスタリカの政策決定に深刻な影響を与える.

83 コスタリカの人民前衛党、ニカラグア問題をめぐり分裂。マヌエル・モーラはあらたにコスタリカ人民党(PPC)を結成。

 

1984年

1.11 キッシンジャーを座長とする超党派の「中米問題特別委員会」,「中米は米国にとってゆゆしい事態となっている」と報告.西半球へのソ連進出阻止を最終目的とし,米軍の軍事的プレゼンスを背景とする政治的圧迫,予防クーデターの積極的承認をふくむ「民主主義と社会改革」の推進を提唱する.

1.17 コスタリカの保守系紙La Republica, ETAメンバー6人がパナマに入国,その後消息を絶ったと報道.

2.17 コスタリカの情報保安本部,ETAのグループがコスタリカ入りしたとの情報を確認.

2 米政府,キッシンジャー報告を受け「中米の民主主義,平和および開発に関するプログラム(CAI)」を提案.60億ドルの資金援助と輸出入銀行の貿易信用,保険のための20億ドルを設定.当面エルサルバドル,コスタリカ,ホンデュラス,グアテマラの4ヶ国を対象とする.

3.12 米国務省,「ETAの目的はパストラ暗殺」というFMLN脱走者の発言をリーク.

3.31 ホンジュラスで中堅・若手将校らによるクーデター.3百万ドルにのぼる汚職を理由にアルバレスの軍籍を剥奪したうえコスタリカに追放.

84年4月 コントラの第二次一斉侵攻

4.12 ARDE,コスタリカよりサンファン・デル・ノルテに侵入,「サンフアン・デル・ノルテ自由共和国」を宣言.「臨時政府の用意ある」と声明.8千人以上のFDN雇い兵,ニカラグア北部に一斉侵入.

4.16 ニカラグア国家再建政府,「コスタリカ領土の公然とした利用は最悪なものとなっている.ニカラグア領ケサーダ市やバラス・デル・コロラドなどの病院・保健センターが、傭兵侵入者によって使用されている」と非難.

4.17 ニカラグア政府軍,3千の兵力を南部国境地帯に結集.サンフアンデルノルテを奪回しARDEゲリラを追い詰める.コスタリカ,国境侵犯とニカラグアを非難.

4月 米国防総省,コスタリカへの軍事援助として760万ドルを要請.これは前年比三倍の増加となる.

公開された機密文書によれば,この援助は「コスタリカを,より明確に公然と反サンディニスタの立場に立たせるため」に使用された.この文書では,「米国がコスタリカに軍事援助を与えることで,国内,国際的非難が起こるかもしれないが,ニカラグアを侵略者として描き出すことにより,その危険は回避できる」と述べる.

5.15 サンホセでニカラグア・コスタリカの外相会議.国境地帯の監視と,武力衝突防止を目的とする合同委員会設置など,6項目を盛りこんだ協定に調印.会場周囲では対ニカラグア戦争反対の5万人デモ.

5.30 パストラ,ニカラグア領内のラ・パネカで記者会見.旧ソモサ派が主体となっているFDNとの協力をあくまで拒否すると声明.この席に仕掛けられた爆弾でパストラは重傷,米紙記者リンダ・フレイザーなど7人が死亡,他にコスタリカ人など27人が重軽傷.その後CIAの援助も打切られる.ホンデュラスではFDNに内紛.ベルムデスと対立したフランシスコ・カルデナルはホンデュラスを追放され旧GN勢力の指導権が確立する.

5 米議会,CIAのコントラへの資金援助を凍結.これに代り,シングローブ世界反共連盟会長がフィクサーとなり民間ベースのコントラ支援が活発化.市民軍事援助機関(CMA)を結成,NSCが資金を提供.

6.1 国務省のリークを受けたABC放送,サンディニスタが国際テロリストを雇ってパストラを暗殺しようとしたと放送.報道によれば,サンディニスタと連帯するETAのテロリスト6人が,パナマ=キューバ経由でマナグア入り,ジャーナリストを装ってカミノ・レアル・ホテルに駐在.パストラの記者会見にも出席しているとする.他社はこの報道に追随せず.

84年7月 反共の大立物ピサの登場

7.25 FDNとARDE,パナマにおいて会談.FSLN打倒をめざす共闘協定に調印.

7月 米大使館と結びついた右翼,アンヘル・エドムンド・ソラーノ公安相らにたいする攻撃を開始.商工会議所会頭のベンハミン・ピサ・カランサ,公共安全相のソラーノを共産主義者と断罪.更迭を求める.さらにマナグアとの国交断絶を要求.8月末までに行動が起こされなければ資本家ストも辞さないと脅迫.ナシオン紙はソラーノに親サンディニスタのレッテルを貼り,罷免を要求する大キャンペーンを展開.

ソラーノ 中立派を代表する政治家.コスタリカ領内におけるコントラの取締りを強化.マスコミがポコソル村へのサンディニスタの攻撃をでっち上げた事件では,ニカラグアのボルヘ内相と直接会談するなど,紛争の拡大を予防するため努力してきた.
ピサ 「自由コスタリカ運動」の創設者.シングローブ将軍の主催する世界反共連盟にも加盟する狂信的右翼組織.

8.05 アルフォンソ・カーロ内相,ナシオン紙と会見.モンヘがニカラグアに対する立場をあいまいなままにしたいのなら,アルマンド・アラウス第一副大統領にその席を譲るべきだと述べる.

8月中旬 モンヘ大統領,主戦派のアラウスではなく中立論者のアルベルト・ファイト第二副大統領を解任.ソラーノ公共安全相を解任.新たにピサ自身を後任に指名.一方でモンヘに退陣を迫ったカーロ内相も更迭.後任には国民解放党内左派のエンリケ・オブレゴンを指名.大統領府長官も中立派のダニロ・ヒメネスを指名.

9.7 CG・中米合同外相会議,パナマで開催.第二次修正案を「中米における平和と協力のためのコンタドーラ決議」として提案.当初ニカラグアはコントラの攻撃中止がまず優先と難色を示すが,のちに一転して決議受け入れを表明.デスコト外相はCGの中米和平案に無条件で署名すると声明.

9.28 CG・中米および西欧12ヶ国外相会議,サンホセで開催.CG支援とヨーロッパの中米援助増額を発表.

9月 ピサ公共安全相,モンヘ大統領のヨーロッパ歴訪中に,独断で米大使と交渉.市民警察の米特殊部隊による訓練を依頼する協定締結.憲法への抵触の疑いがあるにもかかわらず,モンヘへの事前通告はなし.帰任したモンヘは協定を破棄できず.

9.11 コスタリカのユナイテッド・ブランズ社のプランテーションで農業労働者が10週間におよぶストを開始.ユナイテッド・ブランズ社は太平洋岸のプランテーションからの撤退を決定.

10.05 シュルツ国務長官,国連総会に出席した中米諸国外相と会談.コンタドーラ和平協定の一部修正を求める米国の立場を説明.

10月 CIAの「暗殺マニュアル」についてのスキャンダルが露呈.CIA幹部フェルナンデスが当事者として譴責される.その後フェルナンデスはCIA支局長としてコスタリカに派遣され、ベンハミン・ピサと密接な協力関係を作り上げる.

84年 モンヘ,「連帯法」に署名.労働者が賃金の5%を拠出,経営者が同額を拠出するシステム.これにより総人件費の8%あまりを天引きし,これを基金として運用.

クラウディオ・ソラノ・セルダス神父
「連帯」運動の先頭に立つ.「階級憎悪を前提とする労働組合運動を否定し,労働者と経営者の「連帯」を主張.コスタリカ経済界からだけでなく,グアテマラ,イスラエル,チリ,米国(USAID経由)より支援を受けているという.
「連帯」
40年代,興隆する労働運動を前に,会社側が対抗して作った共済組合の名称.一時廃れたが,70年代に入り,教会右翼指導部と企業側の肝いりで復活した.5年間に労働組合は325から191に減少.一方で,「連帯協会」は98から649に増加.さらに「連帯協会」が賃金改定交渉までおこなうようになり,組合つぶしと企業主義育成のための有力な手段となる.

 84年 米政府の援助により,市民警察の装備は飛躍的に増強.サンホセの中心部でも,オリーブ色のジープ(警察車両)に乗った海兵隊戦闘服スタイル(警官服)の警官が,M16を肩に濶歩し始めた.それまではパトロール警官は丸腰だった.

 

1985年

2月 市民警察から選抜された45人が,ホンジュラスの米軍訓練センターで,二ヶ月にわたる対テロ工作コースを受講.帰国後,教官として市民警察の訓練に当たる.

2月 協同組合数は464に増加.うち83は労働者協同組合(連帯).生産協同組合はGDPの11%,総輸出の15%を担う.

3.26 コントラ傭兵グリバリーの証言によれば,この日コスタリカ市民警察は,ブラジル製手榴弾72発を含む武器をコントラに供給.

3 選挙をボイコットしたニカラグア反政府勢力,コスタリカで会談.コントラとの対話開始,再選挙などを求める.

4.1 NSC公開文書によれば,元エデン・パストラ部隊を中心に南部戦線を再編成することとなる.新しい指揮官たち(ホセ・ロベロ,セバスチアン・ゴンサレス)はいずれも麻薬との関係が強く疑われる.

4.24 コスタリカ警察,ニカラグア国境附近にすむ米国人ジョン・ハルの農場(暗号名:プランテーション)を襲撃.米国人のほか英国人2人,フランス人1人をふくむコントラの雇い兵16名を,中立制定法違反で逮捕.

4月 大統領府長官ダニロ・ヒメネス,「イスラエルと米国の支援を受け,警察内に対テロ作戦部隊が組織された」と報告.詳細は明らかにせず.コスタリカ国内で,コントラの基地化,市民警察の常設軍化,グリーンベレーによる訓練に対する抗議が広がる.

85年5月 クルシタス事件のでっち上げ

5.07 米国,コスタリカ国家警備隊訓練のため,軍事顧問としてグリーンベレーの「特殊部隊移動訓練チーム」24人を派遣.市民警察内の「稲妻大隊」(Batallon Relampago)750名の訓練に当たる.ニカラグア国境附近のキャンプで対ゲリラ戦の訓練をくりかえす.4月の一ケ月のみでM16小銃4千丁が渡されたという.米国の軍事援助は年間1千万ドルに達し,国家警備隊は8,000人に達する.「市民警察」(!)は事実上の常備軍化.市民警察内にはもうひとつ,400名からなる対テロ作戦部隊が編成されたが,こちらのほうの詳細は不明.

「ナシオン」紙の記事
グリーンベレーによる三ヶ月の訓練後,稲妻大隊A,B中隊の卒業アルバムには次のような寄せ書きが綴られていた.
「卒業式に参加した375人の誰もがこう思った.我々は誰であるか?,兵士である!,と」
彼らはピストルで訓練された特殊警察部隊とは違う.彼らは.50口径のM16小銃とM60マシンガンで完全装備し,M2,M3榴弾砲,迫撃砲,対戦車砲,武装ヘリを保持した.
ピサ公安相は言う.市民警察の総勢5千5百人が同じような訓練を受けることを楽しみにしている.

5.09 国内世論の高まりを受けたグティエレス外相,米のニカラグア経済制裁に同調しないと声明.

5.28 コスタリカ市民警察の兵二人が,国境地帯のラス・クルシタスで射殺される.コスタリカ領内から出撃したコントラ部隊が,ニカラグアの国境警備隊と交戦.その後コスタリカ領内に逃げ込む.これに応戦したニカラグア部隊との銃撃戦で死亡したもの.コスタリカ政府はただちに非常事態を布告.

5.29 マスコミはいっせいに,クルシタス事件をサンディニスタの侵略姿勢の表れと報道.サンホセのニカラグア大使館には暴徒が押し寄せる.米州機構,事件の責任者を特定できず.両国の冷静な平和的交渉を求める.

5.29 モンヘ大統領,クルシタス事件はニカラグアによる計画的攻撃と断定.ニカラグアとの関係を凍結.マナグア駐在コスタリカ大使を召還.ピサ公共保安相は米政府に武器の緊急供与を要請.武器は10日以内に搬入される.

5.30 フィゲーレス元大統領,クルシタス事件について発言.「事件の責任がサンディニスタにあるというが,それは完全に証明されたとは思えない.むしろ,それは国際的に作り出された策略の一部分のようにみえる」

85年6月 

6.4 ニカラグア政府,ホンジュラスとコスタリカとの国境に非武装地帯の設定を提案.両国ともこの提案を拒否

6.26 オルテガ大統領,モンヘ・コスタリカ大統領に書簡を送り,両国国境沿いに独自に非武装地帯設けると表明.

6月 翌年2月の大統領選挙を前に,大統領候補者が決まる.与党国民解放党(PLN)からコスタリカ大学教授オスカル・アリアス・サンチェスが立候補.野党のキリスト教社会統一党(PUSC)は,カルデロン元大統領の息子ラファエル・カルデロン・フルニエを候補に指名.

息子は反動勢力の代表
 カルデロンは中立政策に反対.ニカラグアとの断交,レーガンとの関係強化と「防衛能力」の増強を主張.「もしニカラグア=ホンジュラス間に戦争が始まれば,市民警察部隊をホンジュラスに派遣し,ともに戦うべきである」と主張した.
なお,カルデロンは同じ名の元大統領の子息.その名付け親はニカラグアの独裁者ソモサ・ガルシア.

85年7月 

7 ルイス・タムズ,コスタリカ駐在米大使に就任.CIAサンホセ支局長にはフェルナンデスが就任.タムズは極右派でサンタフェ文書の起草者の一人.フェルナンデスは「暗殺マニュアル」の執筆者とされる.タムズはコントラ南部戦線の建てなおしのためコカイン・コネクションと接触をはかる.89年コスタリカ政府よりペルソナ・ノングラータの宣告を受ける.

7 サンホセのニカラグア大使館,CIAの一味と思われるものにより襲撃.コスタリカを紛争に巻き込もうとする策謀の一環.

7月 4月に逮捕された二人の英国人傭兵,ピーター・グリバリーとジョン・デーヴィス,ラス・クルシタス事件が米国の手によって演出されたと示唆する証言.

傭兵の証言
我々はコントラの南部戦線で無給で働いていた.地元の警察は一貫して我々の活動を支持してきた.しかし今回,彼らは「命令が変更になった」と言い訳しながら,我々を逮捕した.
我々ははコスタリカ・コントラ・ネットワークの末端兵士である.南アで傭兵として活動した後,アラバマに本拠を置く民間組織「市民軍事援助」(CMA)を通じてリクルートされ,CIA契約エージェントとして活動していた.
コントラへの補給は,エルサルバドルのイロパンゴ空軍基地から送られ,ジョン・ハルの牧場などいくつかの滑走路に到着した.この輸送は,完全に米軍の管理下にある.(この主張は,後にイラン=コントラゲートの裁判で確認された)
逮捕の直前にCIAから与えられた指示は,「ロス・チレスの町を砲撃した後,ニカラグア兵士の死体を「植える」ことで,ニカラグア侵入事件をでっち上げ,米国の干渉を誘発せよ」というものだった.
コスタリカ政府は,コントラの飛行場建設を黙認するなど,事実上コントラに加担してきた.その一方でコントラを支持していないと誇示するため,サンホセのコントラ指導者を時折逮捕して見せた.その多くはまもなくひそかに釈放され,「クーリングオフ」期間のあいだ,コスタリカを離れた.我々も時間をおかず釈放されるものと思っていたが,米政府が無視し続けるので,記者会見をおこなうこととした.

85年8月 

8月 サンサルバドルの歓楽街で,FMLNゲリラによる海兵隊員襲撃事件.米議会は対外援助法の第660項(外国警察への援助の禁止)を凍結することに合意.コスタリカ国家警察の準軍隊化にゴーサインが出される.

9月 大統領選を前にした世論調査では,メディアの支持を背景にしたカルデロンが圧倒的優勢に立つ.劣勢のアリアス陣営は投票態度を決めていない下層階級の要求に合わせ,年間2千の住宅建設,2万5千の新たな仕事を発掘すると公約.中立維持と中米紛争の話し合いによる解決,コントラ支援政策の停止を訴える.対内的にはIMFの計画に従いつつも,社会福祉制度を維持するという訴え.

85年11月

11月 中立宣言二周年記念集会.「情報の自由防衛委員会」(CODELI)に結集する知識人が中立政策を支持する発言.列席したサンホセ大司教ロマン・アリエッタは宣言を祝福.モンヘは大統領宣言を立法化する意向を表明.

11月 米大使アーサー・ルイス・タムズは記念集会を欠席.集会直前のテレビ・インタビューに姿を現したタムズは,サンディニスタが「国境なき革命」を意図していると強調.さらにサンディニスタを支援するキューバとソ連が,すでに国境の北側に配置されているとし,その脅威を強調する.

11月 マスコミ,「情報の自由防衛委員会」とフィゲーレスに対する攻撃を開始.中立を唱えることは「国際共産主義の手先になる」ことと主張.「サンホセ駐在のニカラグア大使レオネル・アルグエージョからフィゲーレスにあてた手紙」なるものを公開.フィゲーレスをニカラグアの第五列であるかのように描き出す.後に通信内容および,消印,署名などから偽造文書であることが発覚.

12.10 各国の平和団体,宗教団体等のメンバー約300人よりなる「中米の平和のための行進」がパナマを出発.サンホセでは自由コスタリカ運動(MCRL)の襲撃を受け15名が負傷.警官は4時間にわたる暴行を見守る.

自由コスタリカ運動(MCRL)
世界反共連盟の指導を受けて創設された. 現職の公共安全相であるピサを党首とする反共準軍事組織.ピサは,数千名の兵士(OPENのこと)を持つと豪語.

12月 MCRL,ニカラグア大使館前での挑発デモを繰り返す.

85年 米国の市民警察への軍事援助は,81年の30万ドルから1千万ドル強にまで増加.コスタリカ領内のARDE軍千5百の他,コンドル,コブラ軍団にも豊富な武器供与.

85年 IMF統制下にもかかわらず,対外債務は依然45億ドルに上る.しかし豊富なアンダーグラウンド・マネーで民間経済は持ちなおす.一説では,80年代の10年間で14億588万ドルの米国からの援助を受けた.これは国民一人当たり援助額としてはイスラエルにつぐもの.

 

1986年

2.02 大統領選.アリアスが52.3%,カルデロンが45.8%を獲得.議会選挙では,国民解放党が57議席中29議席を獲得,議会の過半数を握る.この選挙から人民前衛党(元の共産党)も選挙への参加を認められる.サンホセ,リモン,プンタアレナスでそれぞれ一議席を獲得.

2.06 グティエレス外相,ニカラグアとの外交関係凍結を解除すると発表.

2.13 任期切れを目前にしたモンヘ大統領,昨年5月の国境地帯での衝突以来,凍結状態にあるニカラグアとの外交関係正常化を発表.さらに国際監視団による国境地帯の警備も提案.ニカラグアのオルテガ大統領は,これに賛成するとともに,非武装地帯の設置を逆提案.

2.24 コスタリカとニカラグア,コンタドーラ・グループの援助を受け,国際監視・査察団の派遣で合意.米国はこの交渉を一貫して無視.

2.27 CG・SG外相会議,プンタデルエステで開催.ニカラグア・コスタリカ国境に国際監視団を創設することを決議.

3月 両国合意を無視し,米陸軍工兵部隊186名が国境ぞいのコスタリカ領内に入り,滑走路の整備工事を開始.さらにニカラグアのヘリがコスタリカ領内からの攻撃により撃墜される.

4月 コントラ支援のための飛行場が完成.シコード米軍退役少将の会社によって運営される.モンヘは「コントラへ支援の役目が終わった後でのみ着陸できる」という条件で,飛行場の使用について暗黙の了解.

86年5月 アリアスの大統領就任

5.08 アリアス,コスタリカ大統領に就任.中米和平と国内経済再建が新政権の二大課題と演説.コントラの領土利用を拒否するとともにコンタドーラ提案の遵守を宣言.列席したCG・SG首脳,中米和平の早期調印や紛争の域内自主解決等8項目からなる「サンホセ宣言」を発表.オルテガは警備に対する不安のため列席不可能となる.

5.24 グアテマラのイニシアチブによりエスキプラスで中米首脳会議開催.中米和平条約を提示.また将来の中米地域での政治・経済・社会問題について協議するための中米議会の創設を内容とする「エスキプラス宣言」を採択.ニカラグアは米国がコントラへの援助を終結しないかぎり調印しないとこれを拒否.米国の圧力による4国の反動化で成果無し.

5 アリアスは,イラン・コントラゲート事件で弱体化したコントラの取り締まりに乗り出す.幹部の逮捕(実際は短期拘留のみ)や病院の閉鎖などを次々と実施.パストラ派は最終的に解体し残存部隊はFDNに合流,パストラは戦線離脱.

6.6 CG+支持グループ+中米5ヶ国よりなる13ヵ国外相会議,パナマで開催.CG,中米5カ国に対しあらためて和平協定案を提示するが.軍備削減などで対立.合意に至らないまま散会となり「中米和平条約」への調印は凍結.

7.28 ニカラグア,コントラへの基地提供を理由に,国際司法裁にコスタリカとホンデュラスを提訴.二国内でのニカラグア反政府勢力の軍事活動を禁止するよう求める.

86年9月 アリアス,コントラと対決

9.09 アリアス,米政府に対し,国境地帯のジョン・ハル農場(飛行場)を閉鎖すると通告.これを受けてNSC内でノース,エイブラムス,タムス大使の緊急会議.

ノースの発言
アリアスを呼びつけてこう言ってやる.「もし作戦を実施するなら,8千万ドルの経済援助を停止し,レーガンとの会談予定もキャンセルしてやる」と.
アリアスにそう言ってくれ,この考えはポインデクスター国家安全保障担当補佐官も支持していると.

9.10 コスタリカ市民警察,ジョン・ハルの農場を急襲.ドラム缶77本のガソリンを押収し,滑走路を閉鎖する.アリアスは作戦の概要を説明するとともに,これ以上のコントラの活動を許さないと表明.

9.22 アリアス大統領,訪米しレーガン大統領と会談.米国のコントラ援助を批判.「あなたがたがコントラ援助を強化すれば,その分オルテガはソビエトからせしめるでしょう」.

11.02 イラン・コントラゲート事件が発覚.

1987年

2.09 中米和平再検討のため,EC,CG,中米5ヶ国による外相会議,サンホセⅢ開催.ヨーロッパ諸国はCGへの支援と地域紛争の政治的解決への支援を表明.

2.15 サンホセⅢにつづきニカラグアを除く4ヶ国による中米首脳会談開催.コスタリカのアリアス大統領,「中米における確固たる持続的な平和を樹立するための手順」を発表.ニカラグア総選挙に対する監視をふくむ中米和平構想を提案.

8.07 第2回中米首脳会談で「エスキプラス2合意」成立.レーガン提案を捨て,アリアス提案を骨子とする.①和解のための対話,恩赦②戦闘の停止,③民主化手続き,④自由選挙,⑤反乱勢力への援助停止,⑥国際的監視と検証などをうたう.「中米における確固たる恒久的和平樹立のための手順」と呼ばれる.日本を含む西側諸国も「合意」を積極評価.

10.13 アリアス大統領,エスキプラス2合意達成への貢献によりノーベル平和賞授賞.

10月 レーガン,任期の切れた米大使の後任を指名せず空席のままとする.

 

1988年

3.18 コスタリカ,パナマでの紛争に備え,国境警備を強化.

5.30 アリアス,グアテマラのセレソ大統領と元ベネズエラ大統領のペレスに,パナマ問題打開で調停要請.

6月 8ヶ月の空白の後,ウッドワードが米大使として赴任.

11月 サンホセ駐在のウッドワード米大使,「政府は共産主義者にもっと厳しく対応しなければならない.憲法を改正し,共産主義者の往来を制限し,破壊活動に対する刑罰を強化し,労働組合指導部から共産主義者を排除しなければならない」と述べる.USIAは「共産主義の脅威」に対する広報活動をさらに強化.

 

1989年

2.01 アリアス大統領,コスタリカ領内で反パナマ政府ゲリラをCIAが訓練することを容認.パナマ国境地帯に米兵740人が入り,道路整備などにあたる.実際には道路整備を名目としたパナマ侵攻の軍事訓練.

9月初め CIAは、コントラとパナマ人のゲリラ・グループを組織.「パナマ国内で不安定を引き起こし,アメリカの介入を正当化する一連の事件を引き起こす」ために、コスタリカ領内の基地で彼らを訓練.

10.27 米州サミット,コスタリカで開催.アリアス大統領は,非民主主義的であるとの理由によりキューバ,パナマ,チリ,ハイチの4ヵ国をパージ.オルテガに対してもあからさまな差別待遇.オルテガは抗議し中途でボイコット.

12.12 中米5ヵ国首脳会議,米によるコントラへの非軍事援助を,コントラ解体のために充てるよう求めた13項目宣言を発表.

 

1990年

1.22 エンダラ・パナマ大統領,コスタリカ訪問.アリアス大統領は、パナマがコスタリカに見習って軍隊を廃止するように提案.米国による軍隊廃止の動きを側面援助.

パウエル米軍統合参謀本部議長は、「パナマにかかわるなら、ノリエガを排除するだけで問題は終わらない。・・・第一の目標はノリエガおよび国防軍を絶滅する。それが成功すればわれわれが文民政府を樹立し、新しい警備軍(軍隊ではない)を創設するまでこの国を管理する」計画であったと,パナマ侵攻の真の目的を述べている.

1月 OAS会議.メキシコ、ニカラグア、エクアドル、ペルー、チリなどは米軍の即時撤退を要求.アルゼンチン、ボリビア、ブラジル、コロンビアなどは、米軍侵攻を批判しつつ、ノリエガの退陣がパナマの民主化に貢献すると主張.コスタリカは、ホンジュラス、グアテマラ、エルサルバドルとともに独裁者ノリエガの責任を強調.米軍の侵攻に遺憾を表明するいっぽう,米軍の即時撤退要求案が承認されないようにうごく.ニカラグアが提案した米軍即時撤退要求案は賛成18、反対11で、絶対多数の21票に達せず不成立.

2.04 大統領選.社会キリスト教統一党(PUSC)のラファエル・アンヘル・カルデロン・フルニエ候補が51%の僅差で勝利.議会でもPUSC が多数を占める.国民解放党は経済面での失政を問われ敗北.対外債務は返済不能な額まで増大.人民前衛党はバナナ地帯での党勢衰退で,サンホセを除き全滅.

ラファエル・アンヘル・カルデロンの新政策
前回選挙で打ち出したコントラ支援や,対ニカラグア開戦論などは引っ込める.経済苦境の打開と親米政策への回帰を唱える.国内的には所得再配分の強化と貧困者向け住宅の建設を掲げるなど,国民解放党と大差なし.

6.08 「コスタリカ民主化の父」とうたわれたホセ・フィゲレス元大統領が死去.

6月 カルデロン,IMFの緊縮計画を受け入れ.公的債務の縮小と海外資本の優遇政策を強める.大衆的抗議とストが相次ぐ.

10.24 アリアス元大統領夫人のマルガリー・アリアス,次期大統領選への出馬を表明.

 

1991年

4.08 IMF,コスタリカの努力を評価し,あらたに1億2千万ドルの借款に応じる.

4.22 コスタリカでマグニチュード7.4の地震が発生.死者50名.

6月 生活困難に抗議する労働者のゼネスト.7月にももうひとつのゼネストが決行される.

8月 コスタリカで洪水,多大の損害を与える.4月の噴火とあわせ,インフラが損傷されたことが,経済困難に拍車をかける.

91年 ILO結社の自由委員会,連帯が労働組合活動を妨害していると裁定.必要な法改正などの手立てをとり,労働者の団結権と団交権を保証するよう求める.

92.2 政府,ドルの国内市場の解禁を初めとする外国為替規制緩和措置.

1993年

3.08 4人の元コントラ兵士が,サンホセのニカラグア大使館を占拠.大使をふくむ25人を人質にする.ウンベルト・オルテガ司令官とラカヨ大統領府長官の解任を要求.

3.21 占拠犯,身代金25万ドルの支払いを受けて人質を解放,ドミニカ共和国やニカラグアに逃亡.

4.26 最高裁判事19人が誘拐される.誘拐犯は2千万ドルの身代金を要求するが,政府は要求を全面拒否.

4.29 誘拐犯,人質を解放した後逮捕される.

5.17 ルイス・アルベルト・モンヘ元大統領ら18人,公金横領と権利濫用の容疑で告訴され,審理が開始される.

6月 議会,カリブ海と太平洋とを結ぶ横断鉄道の建設計画を承認.

7月 日本,IMFの第三期構造調整計画への出資を撤回.

1994年

2.06 大統領選.民族解放党(PLN)のホセ・マリア・フィゲーレス・オルセンが,49.7%を獲得し当選.フィゲーレスはドン・ペペ元大統領の息子.キリスト教社会統一党(PUSC)のミゲル・アンヘル・ロドリゲス・エチェバリアは47.5%.国会議員選ではPUSCが29でPLNの28議席を上回る.他に少数政党が計4議席を確保.人民前衛党(PVP)も1議席を確保.

4.05 メキシコとコスタリカ,自由貿易協定を締結.2005年までに両国間の関税を撤廃することを確認.

5.08 ホセ・マリア・フィゲーレス,大統領に就任.

94年 市民警察憲章が制定される.政治活動への不参加とプロフェッショナル化が謳われる.また人権への配慮も求められる.

 

1995年

4 財政赤字,GDPの7%に達する.フィゲレス大統領,世銀と第三次構造調整計画で合意.公務員の8千人削減,教員年金制度見直し,消費税の10%から15%への引き上げを骨子とする財政改革案を提示.

9.21 コスタリカ,IMFと包括的信用供与受け入れで合意.

9 消費税引き上げ法案,可決される.教員,公務員はストライキを展開.

9 コスタリカとニカラグア,国境線での密輸防止のため協力を強化することで合意.

11.29 IMF,7,500万ドルのスタンドバイ・クレジット(債務保証のための信用状)の供与で合意.

12 経済成長率は前年の4.3から2.5%に低下.逆にインフレ率は13.5から22.5%に上昇.失業率も増加するなど,深刻な経済困難.

1996年 政府,市民警察を再編.公共保安省の管轄下にすべての警察部隊を一本化.国境警備隊,地方警察,市民警察が「公共保安隊」に再編成される.

1997年

3 マイアミ地裁,麻薬取り引きの罪でコスタリカ人リカルド・アレムに13年の懲役判決.アレムは二人の国会議員,最高裁判事職員一人,一人が麻薬関連活動に加わっていたと暴露.

4 コスタリカ議会,麻薬問題特別委員会を設置.麻薬に関連する腐敗の調査に乗り出す.当局,年間8トンのコカインを押収.グアテマラ人ホセ・メサなど670人を逮捕.過去最高記録.

5.08 中米サミットがサンホセ宣言採択、閣僚級の定期協議を新設する。

97年 インテル社,中央渓谷にマイクロプロセッサー組立工場を建設.他社もカスタマー・サービスの窓口を開くなど,ハイテク企業が集中するようになる.

 

1998年

1 最高裁,麻薬疑惑の判事がアレムから金銭を受けていたことを認めたとして解雇.

2.01 大統領選,野党キリスト教社会統一党(PUSC)のミゲル・アンヘル・ロドリゲス・エチェバリアが,PLNのホセ・ミゲル・コラレスを破り当選.開放経済政策を踏襲。議会はPLNが第一党となる。

3.19 サンホセで西半球貿易相会議開催.FTAA構想の推進で一致.

10.08 コスタリカ,国連安保理の非常任理事国に選出される.

98年 労働組合連合,「ILO結社の自由委員会」に,「連帯」による団交の妨害などの不当労働行為を提訴.

1999年

5月 コスタリカとニカラグア,サンフアン河沿いの係争地の帰属について交渉を開始.

12月 米国務省人権白書によれば,コスタリカ在住ニカラグア人は約15万人.このほかにほぼ同じ数の不法入国者がいるものと推定される.多くが90年以降の経済難民で,居住区はスラム化.

12月 今年度のGDPは8.3%の伸びを示す.観光産業の成長を背景に,昨年度に続き好況が維持される.

99年 アメリカとの麻薬取締協定が締結される.コスタリカの警備隊が米軍と大西洋、太平洋で共同パトロール.対麻薬対策でココ島(国立公園)の使用を米軍に認める.同島はほとんど米軍事基地となりつつあるとわれる.

2000年

4.13 米政府,リベリア空港を反麻薬作戦にしようと働きかける.公共保安省がこれに強硬に反対した結果,米国は計画を中止.エルサルバドルのコマラパ空港で代替することとなる.

4月 ロドリゲス大統領,コスタリカ電力会社と電話会社の部分民営化計画を発表.労組の強い反対に会い計画は流産.

7.29 全国バナナ労働者会議(CONATRAB)が,農薬(Nemagon)による健康被害の補償を求めて,サンホセでデモ.ハイウエイ8カ所を封鎖.組合によれば,70年代に二万人近くが被害を受けたとされる.

12.15 フジモリ政権の幹部モンテシノス、脱走に成功。コスタリカに亡命する。

00年 コスタリカとニカラグア,サンフアン河を国境とすること,両国の自由航行権を承認することで合意.

 2001年

9.21 ロベルト・ロハス外相,同時多発テロ直後のリオ条約会議で,アフガン報復攻撃を全面的に支持すると発言.

11月  ロドリゲス政権、「中米統合再活性化緊急行動計画」を発表。中米統合に前向きな態度に転じる。

2002年

2.03 大統領選挙.与党キリスト教社会連合党(PUSC)のアベル・パチェコ・デ・ラ・エスプリエジャと,「持続可能な発展」を訴える国民解放党(PLN)のロランド・アラヤが対決.第三候補となった市民行動党(PAC)オットン・ソリスの予想外の健闘で,史上初の決選投票に持ち込まれる

4.07 大統領選挙の決選投票.アベル・パチェコとロランド・アラヤの一騎打ちとなる.パチェコが58%を獲得し当選.初めて,二期連続してのPUSC政権となる.

パチェコ: 精神科の医師で、1955年のニカラグアからの侵攻事件に関係し亡命.その後帰国して政治活動を再開した人物.テレビ番組コメンテーターとして名をあげた。パチェコはPUSC内では非ロドリゲス派に属する。

4.11 サンホセでOAS首脳会議.コスタリカ政府は、会議中に発生したベネズエラのクーデターについて,チャベス政権自体に責任があるとして,クーデター政権を容認する動き.

4月 国連人権委員会.コスタリカはアメリカ主導の「キューバの人権問題非難決議案」に賛成.

7月 米政府,「コロンビア計画」に基づいて米艦船15隻を長期間寄港させる要請.コスタリカ国会では憲法に抵触するとの批判.4日間にわたり激しい討議が続く.アリアス元大統領は、「別に他国の軍隊と戦う目的ではなく、麻薬取締の目的であるから、米軍の寄港は認めるべきである。もっと財政赤字などの重要な問題を討議すべきである」と発言.

9月 パチェコ大統領、憲法に環境保障に係る章を挿入するよう議会に提案。議会での審議は進まず。

9月 南アで地球サミット開催.コスタリカのパチェコ大統領は環境問題に触れるのみで、これをもたらしている先進資本主義国の横暴などを指摘せず.

他のラテンアメリカ諸国の発言
ベネズエラのチャベス大統領は、「人道基金」の創設を訴えた.財源として世界の軍事費の10%,発展途上国の対外債務の10%を同基金に回すことを提案.
キューバのペレス・ロケ外相は、発展途上国の経済発展のために国際金融取引に0.1%の取引税(いわゆるトービン税・年間4000億ドル)を課すこと,世界の軍事費の50%(年間4000億ドル)を国連開発基金に回すこと、発展途上国の対外債務金利の免除(3300億ドル)、先進国のGNPの0.7%の発展途上国開発への援助の即時実施を訴える.

10月 コスタリカ政府,米艦船の長期寄港を承認.同時に,米軍の兵員がパスポートなし、ビザなしで自由にコスタリカ領内に入国できる処置が取られる.

12.01 リモンのスタンダード・フルーツ社(ドール)で1500人の労働者がストライキ.労組指導者アレックス・アヤラの解雇撤回と団結権の尊重を求める.

02年 国会選挙。キリスト教社会連合党(PUSC)19、国民解放党(PLN)17、市民行動党(PAC)10、解放運動(ML)5、コスタリカ改革党(PRC)1となる。

2003年

2月 市民行動党が分裂。反ソリス派は「愛国ブロック」(BP)を結成。

3.23 パチェコ大統領はイラク戦争について「正義と専横の間にあって、自分は正義の側に立つ」と強調。米国支持を明確にする。国内では中立の国是に反するものとの批判。

 2004年

1.30 移民当局官憲300人が、サンホセ西郊ラ・カルピオ地区でニカラグア人不法移民の抜き打ち取り締まり作戦。約200名を拘束。最高裁憲法法廷はニカラグア人の「比護申請」は、一部に不正捜査と人権侵害があったとし、当局に対し賠償金の支払いを命じる。

3.27 PLN党大会開催。アリアス元大統領が06年大統領選への出馬を表明。

3.29 コスタリカ政府、1年前から亡命していたベネズエラ労働者総連盟のオルテガ議長に出国勧告。 オルテガがマイアミで反チャベス活動に参加したことを理由とする。オルテガは勧告を拒否。勧告はうやむやのままとなる。

3.29 第60回国連人権委員会(ジュネーブ)でキューバ糾弾決議が採択される。キューバのペレス外相はコスタリカを、同委員会における米国の「従僕」であると発言。

3.31 パチェコ大統領、「従僕呼ばわりするといい。コスタリカは過去もこれからも“人権”の忠実な下僕かつ擁護者であり続ける」と反論。

4.25 エレディア県エル・バンブサルのUF社所有地で土地占拠行動。農民112名が当局により排除される。この作戦で一人が死亡。排除された農民は、サンホセ市内の教会を占拠する。

5.01 パチェコ大統領、国会で演説。中南米二位の経済成長率(5.6%)、輸出の16%の増加、貧困層比率の低下(2002年の20.6%から2003年の18.5%へ)を強調。得意の医療・教育・福祉分野では、とくに中学の就学率の向上(2002年の69.2%から2003年の 76.6%へ)と退学率の低下(2002年の12%超から2003年に3.9%へ)をアピールする。

8.12 コスタリカ最高裁憲法法廷の諮問を受けた7人委員会(判事、検事、法科大学、弁護士代表と3人の原告からなる)、対イラク同盟への参加は憲法に反し、国連のあり方に反し、国際法に違反していると答申。

9.08 コスタリカ最高裁憲法法廷、イラクへの軍事介入を支持する同盟国に参加するのは、憲法違反であるとの判断。政府の2003年3月19日における合意事項を無効とする。政府に対して、ホワイトハウスのサイトで公表している協力国のリストからコスタリカを外すよう命じる。判決は即時発効し過去にさかのぼるため、コスタリカがアメリカを支持した事実はなかっ たことになる。

9.08 ロベルト・トバール外相、「決定を遵守し、早急にコスタリカをリストから除くよう外交文書を送る」と述べる。

9.15 2週間で8閣僚が相次いで辞任.パチェコ大統領,あらたに4閣僚を任命.

9.19 ホワイトハウス、「善意の意思の同盟」=イラク占領軍の参加国リストから、コスタリカを除く。「コスタリカ国民の懸念を最大限真剣に受け止め」た措置とされる。

9.22 ミゲル・アンヘル・ロドリゲス前大統領がOAS事務総長に就任。

10.01 フランスのアルカテル社からの賄賂疑惑が発覚。コスタリカ電力公社の元総裁は、携帯電話の4万回線の施設設置のさい、ロドリゲスが賄賂を要求したと証言。「契約の見返りに2400万㌦を受け取った。ロドリゲスはその6割を要求した」と証言。ロドリゲスは「事務総長選挙の費用として個人的に約14万ドルを借りた」と認める。

10.06 コスタリカ議会、ミゲル・アンヘル・ロドリゲスOAS事務総長に対する辞任勧告を採択。パチェコ大統領に対し、ロドリゲスが辞任を拒否する場合はOASに提議するよう要請。

10.06 国会決議を受けたパチェコ、「自ら無実を証明しない限り、容赦はしない」と応える。また外相は「OAS事務総長としての免責特権がある」という見方を全面的に否定。

10.08 ロドリゲスOAS事務総長、コスタリカ大統領就任中の汚職疑惑の発覚により辞任。在任期間はわずか23日。帰国したのちに自宅拘留処分となる。

10月 同じくキリスト教社会党のカルデロン元大統領、国立病院の医療機器を買うための政府借款にからむ賄賂事件で逮捕される。

11.27 パチェコ大統領、米州機構の事務総長候補について言明。政治倫理問題でフローレス前エルサルバドル大統領の支持を再検討すると発表。ホンジュラス大統領リカルド・マドゥーロも同様な懸念を示していると述べる。

12.25 コスタリカ司法当局、選挙運動に関する不適切な贈与の疑いで、アベル・パチェコ前大統領に対する捜査を開始。

 

 2005年

 2.04 コスタリカ議会は、スイスに在住するホセ・マリア・フィゲーレス元大統領の国際手配・逮捕を命じた。

歴代大統領が軒並み: フィゲーレスは、国会の公共支出に関する委員会から再三出頭を求められてきたが、帰国を拒否し続けてきた。理由は2001年から2003年までの間、「顧問料」の名目でフランスの国際通信会社Alcatelから総計91万ドルを受け取った疑い。アルカテル社はコスタリカ政府とのあいだに1憶4900万ドルの契約を成立させている。
他の二人の大統領、ラファエル・アンヘル・カルデロン、ミゲル・アンヘル・ロドリゲスは、外国企業から契約のコミッションを得たとして入獄中である。

5.21 コスタリカ新政府のブルーノ・スターニョ外相、パチェコ前大統領の戦争への支援決定は憲法違反であるとし、対イラク同盟国リストからの除外をライス国務長官に要求。

 2006年

2.05 大統領選挙。アリアスが僅差で勝利する。

5.08 オスカル・アリアスが大統領に就任。「我々は十字路に来ている」とし、自分の不幸を他の責任にしてユートピアを追い続けるのをやめるよう訴える。会場外では、自由貿易協定と電信電話の民営化に反対する抗議行動。

 2007年

6.07 中国がコスタリカと国交樹立、コスタリカは台湾と断交。

10.07 コスタリカ、中米5ヵ国・ドミニカ共和国との自由貿易協定を問う国民投票。僅差で可決。協定そのものは04年に調印済み。

 

 2008年

 

 2009年

3.18 アリアス大統領、キューバとの外交関係回復を発表、47年ぶりとなる。

7.09 コスタリカでホンジュラス政変調停、セラヤとミチェレッティの直接交渉は実現せず不調に終わる。

10.05 コスタリカのカルデロン元大統領が在任中の収賄容疑で禁固5年の判決。

 

  2010年

2.07 コスタリカ大統領選挙、与党国民解放党のラウラ・チンチジャ前副大統領が当選

11.03 コスタリカがニカラグア軍が自国領に侵入したとし米州機構に緊急調停を要請。

 

 

 

 2011年

 

 

 2013年

8月22日 コスタリカのラウラ・チンチジャ大統領、ニカラグアがグアナカステ県の領有を要求したとして、反ニカラグアのデモを組織。