メキシコ年表 その1
(フロリダを含む)
1999.9 この年表は1876年,ディアスがレフォルマ政権を打倒するまでの事項をあつかっています.それ以後1928年の国民革命党結成まではメキシコ年表 その2を,さらにそれ以後現在までについてはメキシコ年表 その3をご参照ください.
フロリダ関連事項は茶色で表記しています.いずれどうしたらよいか考えます.(2003年2月)アステカ征服 副王制開始 1600 1700 メキシコ独立戦争 サンタアナの時代 米墨戦争 レフォルマの時代
メキシコ先史
文献ごとに,年代に相当の開きがあります.「先史」なればこそでしょう.アバウトで考えておいてください.
BC 30,000 ベーリング海峡を渡り,アジア系民族がアメリカ大陸に進出.
BC 20,000 メソアメリカでの先住民の活動が開始される.
BC 12,000 ニューメキシコ~コロラド州に新大陸最古のクローヴィス文化.大型獣の狩猟を生活の基本とする.
BC 3,000 メソアメリカでトウモロコシの栽培が普及.
BC 1,700 マヤ地域の太平洋岸に,パラ=オコス式土器を用いる文化が発生.刻線文,刺突文,縄文などを特徴とする.コロンビア~エクアドルの文化が伝承したものといわれる.
BC 1,000 メキシコの大西洋側ベラクルス南方一帯にオルメカ文化が発生.
BC 500 グアテマラ・シティー近くのカミナルフユを中心とするグアテマラ南部に新たな文化が発生.200以上の神殿遺構を持つ大規模な都市遺跡.
B.C500 メキシコ南部オアハカ渓谷にザポテカ人による文明が発生。盆地の中央モンテ・アルパンに神殿が作られる。
B.C400 オルメカ文明,衰退期にはいる.
BC400 エル・ミラドール、ナクベ、カラムクルなどに先古典期のマヤ文明が誕生。建造物の規模は古典期をしのぐといわれる。
BC 200 このころからテオティワカン文明が興隆.メキシコ中部における古典時代の開始.神殿群の建設が始まる.街はピラミッドをふくむ格子形の構造で,平屋のアパートが立ち並ぶ.最盛期の人口は45万に達する.
200bc マヤの古典期前期文明。ペテン低地にティカル、ワシャクトゥンなどの祭祀センターが建設される。ティオティワカンの影響と受けているといわれる。中心地ティカルは最盛期に5万人の人口を擁する。
AD100-1500 南アリゾナのGila,ソルト・リバー谷に,穴居と灌漑設備を特徴とするHohokam文化.フェニックス近郊のスネークタウンが有名.
AD 200 ティオティワカン王国が,カミナルフユをふくむグアテマラ南部を制圧.グアテマラ高地にテオティワカンの影響を受けたマヤ古典期文明が栄える.この後数百年にわたり全盛期を迎える.
A.D534 マヤ文明,古典期前期を終え,60年間にわたる空白の時代に入る.593年に別の場所で活動が再開され、古典期後期が始まる。
アステカ文明とマヤ文明の分布
AD 600 マヤの古期後期文明が始まる。メキシコの支配を逃れたマヤ族は,ユカタン低地に進出.Palenquel,Yaxchilan,Uxmal,コパン,ワシャクトンなど低地の総人口は三百万,中心都市ティカルは五万人に達する.征服前に唯一完全な文字文明を持つが、金属性道具を持たず。
AD700 ティオティワカン文明,北方民族の攻撃を受け滅亡.その後しばらくメソアメリカは混乱.マヤ低地では各都市が覇権を争う.メキシコ湾岸ではエル・タヒン文明が最盛期を迎える.
AD 800 オアハカ渓谷のサポテカ文明,衰退期にはいる.これに代わりミシュテカ人が主導権を握る.
AD950 現メキシコシティーの北西トゥーラに都市国家が建設される。北から傭兵として進出したトルテカ人が建国したものといわれる。トルテカはユカタン半島を制圧し,チチェンイッツァー,ウシュマルなどの神殿都市を建設.
1100 トルテカ文明は衰退期にはいる.中部高原ではチチメカ人と呼ばれる北方のナワ語族の進出が相次ぐ.
1150 チチメカ族が中央高原を制圧.さらにパナマまで進出する.
1194 チチェン・イツァ山地を拠点とするマヤパンが,チチメカと結んでトルテカ王国を降し,ユカタン半島を制圧.第三次のマヤ文化が始まる.
1200 チチメカ族の一派アステカがメキシコ盆地に入る.守護神メシの名をとり国名をメシカ(Mecica)と称する.
1325 アステカ族,テスココ湖に浮かぶ島テノチティトラン(Tenochtitlan)に定着.その後テスココ族,トラコパン族と同盟し,武力で周辺諸国を制圧.
1428 アステカ人,メキシコ盆地を平定.その後,中米一帯に版図を広げる.
1440-1487 アステカ帝国,モクテスマ一世の下で最盛期を迎える.
1441 ウシ族とチェチェン族の連合軍,マヤパン王国を滅亡に追いこむ.南部高原ではキチェやカクチケルなどの多数の王国が成立.
1502 モクテスマ二世がアステカ皇帝に即位.
1500
11年 ダリエンからサント・ドミンゴへ向け航行中のスペイン船(船長はエルナンデス・デ・コルドバ・バルディビア),ジャマイカ沖で座礁.11人がユカタン半島のコスメル島に漂着.乗組員の多くは生け贄となるが,ヘロニモ・デ・アギラールとゴンサーロ・ゲレロは生き残る.ゲレロはマヤ人に戦いぶりを評価されて首長となり,マヤ人の妻とのあいだに三人の子をもうける..
1513年
3.27 プエルトリコ総督ポンセ・デ・レオン,「永遠の青春の泉」のあるビミニ島を目指し,第1回目のフロリダ探検.半島東岸に到着.
4.02 ポンセ・デ・レオン,サ・アウグスティンに上陸.復活祭(パスクヮ・デ・フロリダ)の日に上陸したことからこの地をフロリダと名付ける.南下しサーブル岬を回ったところで中断.(以下フロリダからカリフォルニアにいたる米国南部地方の年表はメキシコ年表に一括)
15年 キューバで先住民が次々死亡.労働力不足に悩まされるスペイン人は,ホンジュラス沖のバイア諸島で奴隷狩りを開始する.
1517年
2 フランシスコ・エルナンデズ・デ・コルドバ、キューバ在住のスペイン人120人を組織し、三隻からなる奴隷狩の艦隊を編成。キューバ西端を出発し,バイーア諸島に向かう.
2月 コルドバの艦隊、航海途中に嵐にあい,ユカタン半島北東部のカトーチェ岬に漂着.マヤの神殿都市を発見し「新カイロ」と命名.先住民の攻撃を受けるが撃退。装飾品を略奪する。
2月 カトーチェから海岸ぞいに南西に向かったコルドバの艦隊、カンペチェを経てチャンポトンに達する。チャンポトンで原住民の襲撃にあい57名が死亡.コルドバ自身も12ヶ所に傷を負い、キューバ帰島後まもなく死亡.同行したベルナル・ディアスによれば「持参したものをことごとく使い果たし,徒手で,しかも傷を負ってキューバへ帰った」
1518年
4月 240名が参加する第2次メキシコ探検隊が出発.ベラスケスの親族であるホアン・デ・グリハルバが指揮を執る。この遠征にはペドロ・デ・アルバラード,フランシスコ・モンテロも参加.
4月 ユカタン半島東北岸の神殿都市トゥルムに上陸.その後西岸のコスメル島近くに進み,カトーチェ、カンペチェを通過しチャンポトンに到達。ほとんど抵抗を受けないままチャンポトンを制圧.
6月 メキシコ探検隊、海岸沿いに,タバスコからホアン・デ・ウルア島(現ベラクルスの対岸)まで進み,アステカ王国の使者と接触.
11月 グリハルバの船団、大量の金製品を手に入れキューバに戻る。
11 キューバ総督ベラスケス,エルナン・コルテスに第三次メキシコ探検を命ずる.コルテスはメキシコそのものの征服を狙い,密かに大規模な船団を組織.サンチアゴ・デ・キューバ出発.ベルナル・ディアスがクロニスタとして参加.
12月 コルテス、いったんトリニダーに上陸し、戦力を補強。このときペドロ・アルバラード兄弟、クリストバル・デ・オリドらが隊に参加する。コルテスの真意を知ったベラスケスは,トリニダーの司令官に出航停止を命じるが、現地は黙殺.
12月 コルテス、ハバナに寄港し潮を待つ.このときハバナは北岸ではなく、カリブ海側に面していた。ベラスケスはハバナ当局にコルテスの緊急逮捕令を発するが、無視される。
1519年:コルテスのアステカ征服
2.10 コルテスはベラスケスの制止を振り切りハバナを出港.11隻の船,5百人の兵士と10門の大砲,16頭の馬などの布陣となる。
2月 コルテスの船団,ユカタン半島のコスメル島に上陸.二人のスペイン人生存者のうち,アギラールは通訳としてコルテス隊に参加.サマの町のカシケとなっていたゲレロはスペインへの復帰を拒否.
3月 コルテス,タバスコで原住民とのあいだに戦闘.大勝利をおさめる.このときマヤ語とナワトル語(アステカの公用語)の二つに通じた先住民女性を手に入れる.彼女はアステカ貴族の出自で、マリンチェ(ドーニャ・マリーナ)と名づけられた。アステカとの接触に当たっては、まずマリンチェがマヤ語に訳し、それをアギラールがスペイン語に訳する方式をとる。
4.22 コルテス,ウルア島に基地を定め,サンフアン・デ・ウルアと命名する.アステカ使節と接触するが,王との会見は拒否される.
5月 コルテス,ウルア島を離れ大陸側海岸にビリャ・リカ・デ・ラ・ベラ・クルスを建設.プエルトカレロとモンテホに財宝と承認依頼の文書を持たせ、スペインに向け旅立たせる。
ベラクルスの建設をアステカ征服に先行させたのは,自らを市の総司令官兼首席判事とすることで,スペイン王室の直接支配下に入り、ベラスケスの委任を解くのがねらい.部隊内のベラスケス派に対しては、最高幹部のモンテホをカビルド議長にすえる一方、反対するものを捕らえ鎖につなぐ。
5月 コルテス,ベラクルス周辺を支配するセンポアラのトトナコ族と反アステカ同盟を結び,兵員を整える.このとき建設したベラクルスは、最初の上陸地点とは別で、センポアラよりさらに北方10キロ.ベラクルスは25年に南方のアンティグア川河口に移転,さらに1599年にさらに南方,最初の上陸地であるサンフアン・デ・ウルア島対岸の現在地に移転.
8.16 コルテス,兵450名を従えアステカに向かい侵攻開始.出発にあたり自船を沈めさせ,兵士の不退転の決意を促す.ベラクルスにはエスカランテを司令官とする守備隊が残される。
8.20 コルテス軍、ハラーパから峠を越え、メキシコ中央高原に入る。
8.31 コルテス軍、トラスカラ族連合軍と最初の交戦。3千人の敵兵を撃破。その後もトラスカラ族と二回にわたり戦闘。
9.23 コルテス軍、トラスカラに入る。コルテスのスペイン国王への手紙によれば、「グラナダよりはるかに大きく、巨大な市場、宝石店、理髪店、薬屋、それに公衆浴場」があったという。トラスカラ人はコルテスへの臣従を誓い、対アステカ連合を結ぶ。軍勢は一気に数万にふくれ上がる.
10.03 コルテス軍はトラスカラを出発。アステカ人の支配するチョルーラに進み、住民の歓迎を受ける。
10.13 コルテス、チョルーラ族のアステカへの内通を疑い,奇襲により三千人を大虐殺.実際に陰謀があったか否かについては解釈が分かれている。
10 ポルトカレロの使節船がスペインに到着。コルテスのアステカ征服を知ったベラスケス派の防害のため、国王との謁見は遅れる。
11.01 コルテス軍、チョルーラを出発。ポポカテペトル山のふもとの峠を越え、ティノチテトランに向かう。
11.06 コルテス軍、ティノチテトラン湖の南端アヨツィンコに到着。モンテスーマの甥でテスココの王カカマツィンが出迎える。
11.08 コルテス,モンテスーマ二世の「歓迎」を受けアステカの首都ティノチテトランに無血入城.
11.14 コルテス,ベラクルス砦の守備隊がアステカ軍に襲われたことを知り、無抵抗のモンテスーマをとらえ軟禁する.事実上の支配権を獲得.
12月 コルテス、陰謀を立てたテスココのカカマツィン、イスタパラパ王のクイトラワク(モンテスーマの実弟)らを幽閉。
19年 ハマイカ総督フランシスコ・ガライ,アロンソ・デ・ピネーダに北米探検を指示.ピネーダはアジアへの海峡を求めて,メキシコ湾をフロリダから西進し,タンピコに達する.ミシシッピの奥地にあるという黄金豊かな国のうわさを持ち帰る.
コルテスのアステカ帝国征服
1520年
4月 ポルトカレロら、スペイン国王と接見。コルテスのメキシコ支配権を訴えるが、認められず。
3月 キューバのベラスケス総督,コルテス討伐隊を組織。メキシコ支配と財宝接収のため20隻の船、野砲10門、馬80頭、兵員1500人を派遣.ナルバーエスが司令官となる。エスパニョーラの副王は、当初討伐隊派遣を禁止するが、平和交渉団という名目で了承。
4月中旬 ナルバエス軍、サンハン・デ・ウルアに到着。センポアラを占領し,ベラクルスの守備隊に降伏を迫る.守備隊はエスカランテが戦死、残された40人をサンドバルが指揮していたが、降伏を拒否する。
5月初め コルテス、アルバラードに首都防衛を託し、70人の軍勢とともにベラクルスに向かう。これに先んじて従軍司祭のデ・ラ・メルセドがコルテスの親書を携えナルバエスに面会。幹部に金をばら撒き懐柔作戦。
5.16 右腕アルバラード,テノチティトランで行われたアステカの儀式に乱入し、神官・貴族を大虐殺.
5.23 アステカ内の反スペイン派が反乱。モンテスーマの呼びかけで戦闘は抑えられたが、宿舎は包囲される。
5.29 コルテス軍はセンポアラのナルバエス軍を夜襲。倍の軍勢に打ち勝ち、ナルバエスを逮捕。残党兵士がコルテス軍に加わった結果、軍勢は1300名に膨れ上がる.
6.10 アルバラードによる虐殺事件を知ったコルテスは、ほぼ全軍を率いテノチティトランに向かう。
6.17 コルテス、トラスカラに到着。
6.24 コルテス、湖の北岸を回りテノチティトランに入る。反対派を懐柔するため、捕らえてあったクイトラワクらを解放。クイトラワクは枢密院会議を招集しモンテスーマに代わる最高指導者となる。
6.25 クイトラワクの指導する反乱が開始される。アステカ兵の果敢な戦いによりコルテス軍は街の中心部に追い込まれる。
6.29 コルテスの依頼を受け反乱軍の説得に当たったモンテスーマ、投石を受け死亡。コルテスはテノチティトランからの撤退を決断。
6.30 「悲しき夜」.アステカ軍が総攻撃.スペイン兵の半数にあたる450人とインディオ同盟軍4千人が倒れる.
7.01 コルテスらは,辛うじて包囲を突破.トラスカラに向け敗走.生存者は440人、ほかに馬が20頭。小銃は7丁。クイトラワクがアステカの王に即位.
7.07 コルテス軍、湖の北岸を回りトラスカラを目指す。アステカ軍はオトゥンパでコルテス軍を迎え撃つ。コルテス軍は激戦の末、アステカ軍指令官を倒し、包囲突破に成功。
7.12 コルテス軍、トラスカラに入り歓迎を受ける。
9 ニか月にわたりアステカ人のあいだに天然痘の大流行.ナルバエス軍から合流した黒人が持ち込んだとされる.クイトラワクを含む数千人が死亡.モクテスマの従弟(甥?)クアウテモク(急降下する鷲)がこれに代り指揮官に.スペイン軍追討は不可能に.天然痘は4年間にわたり大流行.メキシコの先住民人口はコルテス侵攻時の2500万人から10分の1に減少.
10月 コルテス,海岸線までの輸送ルートを確保。ナルバエスあての補給船を拿捕し軍備を増強。
12。28 コルテス、トラスカラ人1万を含む軍勢を率い、ふたたびトラスカラを出発.アナワク平原に進出し,テノチテトラン対岸のテスココ湖畔に陣地を設営.
1521年
3.20 軍を三つに分け、サンドバルの部隊が南方のイスタパラパを、オリドの部隊が南西部のコユアカンを、アルバラード部隊が西方のタクパを攻略することとなる。(あれだけ重大な失敗にもかかわらずアルバラードを最重要前線に位置づけた意味は重いものがあります)
4.28 コルテス,ベラクルスから持ち込んだ船材を用い、テスココで帆船13隻を進水させる.帆船はアステカ軍のカヌーを撃滅し水上戦を制覇.
5.20 コルテス、テノチティトランの包囲戦に入る。
6.23 アルバラード、タクパ提道上より市内突入を図るが、甚大な被害を出し敗退。
6.30 コルテス軍,テノチティトランにたてこもるクアウテモック軍に対し総攻撃を開始するが、アステカ軍の激しい反撃にあいいったん撤退。
7.25 南方から進出したコルテス軍、市内中心部まで進出。
7.28 コルテス軍と西方から侵入したアルバラード軍がトラテロルコ広場で合流。アステカ軍,兵糧ぜめにあい崩壊.
8.13 アステカ軍司令官クアウテモックが捕らえられる。テノチティトランは落城.
21年 ポンセ・デ・レオン,13年に続き再度フロリダ植民を試みる.レオンはタンパ付近で原住民の手にかかり殺害され,作戦は失敗.
1522年
5 コルテス,政府に書簡を送り,メキシコにおいてエンコミエンダ制の導入を認めるよう訴える.
10.15 カルロス5世,ヌエバ・エスパーニャ統治を承認,コルテスを総督兼軍司令官(アデランタード)に任命.コルテスはスペイン人の中から互選で議員を選び,市会(カビルド)を組織.
22年 コルテスはアカプルコに探検隊を送り香料諸島への中継基地建設を試みる.
22 ルイス・マリンによって率いられたスペイン人が,エスピリトゥ・サント(グアサクアルコ)の基地から出発.チアパンに侵入.
1523年
6 カルロス5世,エンコミエンダ制の導入を求めるコルテスの訴えを却下.ヌエバエスパーニャでのエンコミエンダ制度を禁止する勅令を発布.
12 ペドロ・デ・アルバラード,コルテスの命を受けオアハカ,グアテマラ征服に出発.クリストバル・オリドはホンジュラス征服に向かう.
23 旧アステカ王国領の平定,ほぼ完了.フランシスコ会のペドロ・デ・ガンテら,トラスカラで布教開始.テスココに原住民を対象とする学校を設立.
1524年
5.13 コルテスの求めに応じてマルティン・デ・バレンシアのひきいる12名のフランシスコ会士がウルアに上陸.中部・西部を中心に活動.この中の一人ベルナルディノ・サアグンは,アステカ文明の詳細なクロニクルを残す.
10 ホンデュラス遠征軍のクリストバル・オリド,コルテスに対し反乱.コルテスは5千の兵をひきいクアウテモクを連れ2年間にわたる討伐に出発.総督代理にアロンソ・デ・エストゥラダ.
24 ルイス・マリンの部隊,チアパス中央高地にのぼり、ツォツィルの要塞チャムーラを攻撃.
24 スペイン,インディアス枢機会議を設置.コルテスのヌエバエスパーニャにおける権力を剥奪する策動が始まる.王室はメキシコに徴税担当官を送り、植民地経営を国王直属下におく.
25.10 コルテス,進軍中クアウテモクの挙動に不審を抱き,カンデラリア河畔のアカラン・マヤ族の町イツァームカナクで絞首刑に処す.
25年 ルカス・バスケス・デ・アイヨン,フロリダから北上し,南カロライナ一帯を探索.
1526年
26年 王室の任命した裁判官ルイス・ポンセ・デ・レオン,メキシコ入り.コルテスの不在中にインディオ奴隷化禁止を法令化するなど征服者の権限統制を強化.コルテスはホンジュラスからメキシコに戻るが,権力の回復はならず.
12月 コルテスの部下フランシスコ・デ・モンテホ,国王にマヤ王国遠征を申請.アデランダードの承認を受け,ユカタン半島およびコスメル島の征服を許可される.
26年 フランシスコ会に続いてドミニコ会がメキシコに入る.オアハカなど南部で伝道活動.(のちにラスカサスも,ドミニコ会の一員としてチアパスでの伝道に加わる).33年にはアグスティヌス会も布教開始.
26年 ルカス・バスケス,現サウスカロライナ州ピーディ河口にスペイン人植民地サン・ミゲル・ガウダーペ建設.黒人奴隷の反抗により放棄.
1527年
9月 モンテホ,4隻の船と4百名の部下をひきい第1回目のマヤ族征服に乗り出す.グアテマラを経由してユカタン低地に入ったモンテホは,チチェン・イッツァのカシーケと同盟を結び,トルムとチェトマルを制圧.さらにユカタン半島東岸(現ベリーズ)を北上.
12 スペイン,メキシコにアウディエンシア設置を命ずる一方,コルテスを本国に召還.ポンセ・デ・レオンはコルテスを罷免し,自ら総督の地位に就く.メキシコでは領土の支配権をめぐり混乱.
12 フランシスコ会士フアン・デ・スマラガ,メキシコの初代司教に任命.人文主義をメキシコに広める.一方でアステカ族の500の神殿を倒し,2万もの偶像を破壊し,宗教書を焼きつくす.
27 ディエゴ・デ・マサリエゴス率いるスペイン部隊,チアパンとツォツィルを征服.ヌエバ・エスパーニャ総督代理アロンソ・デ・エストゥラダの指示によるもの.
27年 パンフィロ・デ・ナルバエス,ポンセが挫折したフロリダの先遣都督(アデランダード)に任じられる.500の兵を率いサンチアゴ・デ・クーバを出発.
1528年
3月 コルテス、メキシコを出発しスペインに向かう。本国に戻ったコルテスは,権益保護のため活動するも認められず.
4.14 ナルバエスの艦隊はミシシッピ河口附近であらしに遭遇し難破.フロリダにいったん上陸するもその後の探検を断念.部下のヌニェス・カベサ・デ・バカらスペイン人三人と黒人エステバンは,隊とはぐれたあと,8年間にわたり祈祷師としてインディオを相手に生計を立てながら,メキシコ湾の内陸部をテキサスからメキシコ北部にかけ放浪.
12 スペイン,サントドミンゴに続きヌエバ・エスパニア(現メキシコ)にアウディエンシア(一種の行政機関兼裁判所)を置く.奴隷狩で悪名高いパヌコ地方の総督ヌニョ・ベルトラン・デ・グスマン(エンリケ?)が議長に就任.コルテス総督に対抗し,その権利をつぎつぎととりあげ,暴政をくりひろげる.
28 マサリエゴスの部隊と,アルバラード指揮下のペドロ・ポルトカレロ部隊が,コミタンで遭遇.マサリエゴスはポルトカレロを買収し,版図を拡大.
28 コルテスの従弟アルバロ・デ・サアベドラ・セロン,アカプルコを出発し太平洋を横断.モルッカ諸島に到着.
28 モンテーホの軍がべリーズのマヤ一帯を征服.チェトマルのマヤ族がモンテーホに対し反乱.マヤに帰化したスペイン人ゲレロを司令官とする部隊をベリーズに派遣.ゲレロはスペイン軍アロンソ・ダビラ部隊の銃に倒れる.その後,モンテホ軍は大きな抵抗にはあわなかったものの,兵の半数以上を病気で失い,ユカタンからの撤退を余儀なくされる.
1529年
7.06 アウディエンシアの告発に対抗するコルテス,本国で国王と接見.ヌエバ・エスパーニャと南海の総督に任じられ,同時に南部オアハカを支配する侯爵に封じられる.しかしメキシコ全体への支配権は,実質的には剥脱される.
12 メキシコのアウディエンシア内に反グスマンの声が高まる.情況の不利を悟ったグスマン議長,アウディエンシアに辞表を提出.
1530年
1月 ヌエバ・エスパーニャ大司教フアン・デ・スマラガ,専横と先住民に対する非道に怒り,アウディエンシア議長グスマンを罷免.アウディエンシアの全メンバーを更迭.第二次アウディエンシアが発足.
7月 コルテス,オアハカ侯としてメキシコにもどる.依然全土に影響力を行使しつつ,10年にわたり領地を経営し,製糖を中心に農業を起こす.
8 インディアス試問会議,統治への干渉を強化.インディアス全体を統轄する副王をおくことを決定.いかなる形でもインディオの奴隷化を以後いっさい禁止するとの勅令を公布.
30 クリストバル・オニャーテ,ハリスコ地方に進出しグアダラハラの町を建設.
30 アウディエンシアから追放されたベルトラン・デ・グスマン,同調者5百人と新住民1万人を率い,メキシコ中央高原を北へ進む.アグアス・カリエンテ,ドゥランゴ,シナロア,サカテカス地方を探索.先住民文化を破壊し,スペインの支配下に納める.もともとアステカ王国から独立していたミチョアカンのタラスカン族は,グスマン軍に激しく抵抗.
30 サカテカスで銀が発見される.
1531年
12.09 メキシコ市近郊のテペヤックで,改宗インディオのファン・ディエゴの前に「聖母マリアが出現」.テペヤックの丘に聖堂を建てるよう命じる.原住民によるグアダルーペ信仰始まる.テペヤックはアステカ時代の地母神トナンツィンの霊場だった.
31 モンテホ(息子),ユカタン西岸に侵入しカンペチェの町を建設.
31 フランシスコ会のバスコ・デ・キロガ,メキシコ市近郊のサンタフェ・デ・ロス・アルトに原住民の手による教化村の建設を目指す.
32 バスコ・デ・キロガ,サンタフェ・デ・ロス・アルトスに、新大陸最初の病院を建設.
1532年
1月 ミチョアカン占領を断念したグスマンは,もともともアステカ王国の版図であるメキシコ中央高原の北西部に進出.現在のサカテカス州南部にグアダラハラを首都とする王領ヌエバ・ガリシアを創設,初代総督となる.グアダラハラはグスマンが生まれたガリシア地方の町の名.
32 コルテスの命を受けたディエゴ・ウルタード・デ・メンドサ,メキシコ太平洋岸を探索.
1533年
8月 グアダラハラ,度重なるチチマク族の襲撃を受け撤退.現トナラの近郊へ首都を移転.グスマンはさらにザパポン州北西部の現トラコタンに首都移転を企てる.度重なる移転に怒った植民者は,メキシコ市のアウディエンシアに告発.
33 インディアス,副王制(ヴィレイナート)に移行.新大陸のほかフィリピンをも支配下に置く.副王の実際の赴任は2年後に持ち越される.
33 第二次ユカタン遠征.シウダ・レアルを建設し原住民支配をはかる.
33 フォルトゥン・ヒメネス,太平洋岸を北上.カリフォルニアに達する.
34 インディアス会議,征服者の要求にこたえ正当戦争と身請けによる奴隷を認める.
1535年
4.17 ヌエバ・エスパニャの初代副王に,アントーニオ・デ・メンドーサが任命される.
10月 アントニオ・デ・メンドサ,初代副王として赴任.アウディエンシアは副王に対する顧問会議として機能.コルテスの特権はほぼ消失.
12月 バカら,リオグランデ川をさかのぼった後カリフォルニア湾に達する(一説では,その後ふたたびメキシコ湾側に移動).
35 コルテス,カリフォルニア地方を探索.
35 モンテホ軍,反乱した原住民の包囲を受けユカタン撤退を余儀なくされる.
1536年
4月 バカと3人の従者,8年間にわたる米国南西部放浪の末,西海岸のソノラ州でスペイン人と遭遇(一説に現タンピコ近郊のパヌコ).アリゾナの奥地に黄金で満たされた「シボラの七都」があるとのうわさを持ち帰る.
36 インディオ司祭育成を目的としてトラテロルコにサンタ・クルス学院開設.
36年 フランシスコ会士がヌエバ・ガリシアに到着.インディアンへの残忍な待遇をメキシコシティーに告発.ラスカサスとスマラガ大司教の要請を受けたメンドサ副王は,グスマンを解任・逮捕し,本国に送還のうえ投獄される.ディエゴ・エルナンデス・デ・プロアーニョがひきつづきヌエバ・ガリシアを支配.
1537年
37 メキシコ市で黒人奴隷の反乱計画発覚.
37 フェルナンド・グリハルバ,コルテスの命を受け太平洋岸を探検.反乱のため殺される.
38 北部ヌエバ・ガリシアでチチメカ族の抵抗.スペイン軍を数次にわたって撃破するも敗北に終わる.
38 ニカラグア征服,インカ征服の経験を持つエルナンド・デ・ソト(ハバナ総督),王室から北米探検の許可を受ける.北米征服の権利はナルバエスの死後空位となっていた.
3月 バカの物語に興味を持ったメンドサ副王,アリゾナ探検隊を組織.フランシスコ会士修道士のマルコス・デ・ニサ(Niza)を隊長とする.ニサは西海岸のクリアカンを出発.バカの黒人従者エステバンの案内でリオグランデ北方に進出.アリゾナ,ニューメキシコ州一帯を探検した後,「シボラの七つの都」のほら話を持ち帰る.シボラとは現地に住むズーニ族の伝承に基づく伝説上の島.
5.28 ソトの組織した北米探検隊,600人の兵士,200頭の馬,大量の豚を9隻の船に積んでハバナを出発.
5.30 デ・ソト,タンパ湾に上陸.フロリダ半島から北方,ジョージア地方に進む.
39 ウリョア,コルテスの出資を受けバハカリフォルニア地方沿岸に進出.カリフォルニア半島の存在を確認し領土編入.
1540年
1.06 アリゾナ探検隊の報告を受けた副王メンドサ,フランシスコ・バスケス・デ・コロナドに本格的探検を要請.
2.23 コロナドの探検隊がメキシコ西海岸のコンポステラに集結。292人の兵士,1300人の先住民部隊,数人の修道士,1,000匹の馬,600匹のミュール、牛、羊など家畜を伴う大部隊.さらにエルナンド・デ・アラルコンの率いる二隻の船が海岸沿いに北上し、陸上部隊をサポート。
ロッキーを越えカンサスの大平原まで進出するが,エルドラドは発見できず.二年後に成果なくメキシコに戻る.
3 デ・ソトの一行,ジョージア中部に進出.現地のイチシ(Ichisi)族と接触.イチシ族酋長は「お前達は誰だ?何が欲しいのか?どこへ行こうとするのか?」という三つの質問を発したという.その後遠征隊はカロライナまで進んだ後西方に向かい,アパラチア山脈を横切りテネシー州に達する.
4.22 コロナド、クリアカンで最終準備を完了。Tristan de Luna y Arellanoの率いる100 人の前衛部隊が出発。この部隊はおおむね西海岸と平行にSinaloa と Sonora地方を経由して、北方に進む。
6月 ルナの部隊、アウィクー(Hawikuh)のZuni 村に到達する。アウィクーはNizaによってCibolaの7都市のひとつとされたところ。現在の南東のアリゾナ州南東部アグア・カリエンテ、オホ・カリエンテのあたりとされる。
7.07 コロナドの探検隊、アウィクーを占領。グラナダと名づける。黄金は見つからず。コロナドはもうひとつの「都」であるトゥサヤン(Tusayan)のオピ(Hopi)村に、Pedro de Tovar の部隊を派遣。さらに
7月 コロナドの本隊はニューメキシコ州アルバカーキ近くの「シボラ」に達する。シボラの7都市は幻だったことが明らかになる。ガイドを勤めたニサは解雇される.
7月 Garcia Lopez de Cardenasの部隊が、アルバカーキから西方に進出。コロラド河の河口からグランドキャニオンまで達する。さらにアラルコンも海上からコロラド河口まで到達し、河をさかのぼる。
8月 Bigotesという先住民が東方に財宝に満ちた町があるとの情報をもたらす。コロナドはエルナンド・デ・アルバラードを東方に派遣。Alvaradoの部隊は、リオグランデ河上流域に入り、支流ペコス川流域のTiguex(現ニューメキシコ州Bernalillo の周辺)を通ってCicuique(現在のニューメキシコ州 Rowe) に向かう。
秋 コロナド、ペコス川流域のティグーに達し、リオグランデ河畔で越冬することを決断。道案内を勤めたEl Turco と呼ばれるプエブロ族先住民が、東方の大平原と、その向こうの黄金の国Quiviraについて情報をもたらす。
40 コルテス,オアハカ領の管轄権を副王に奪われ,本国との交渉のため帰国.その後もどらず.
40 第三次ユカタン遠征.シウ族とココム族の内紛を利用し制圧に成功.ナチを指導者とするココム族は全員が虐殺.子モンテホはティホーの地にメリダを建設.
1541年 ミシュトン戦争
1 コロナドの軍に徴発され防備が手薄になったのをねらい,テナマストリ(Tenamaxtli)の率いるチチメカ族がふたたび反乱.トラトルという神の出現と祖先の復活を唱える.もっとも強力に抵抗したミシュトン砦の名をとり,ミシュトン戦争と呼ばれる.反乱軍はミシュトン,ノチストランを抑え,ヌエバ・ガリシアの首都グアダラハラに迫る.
4.23 コロナド、ティグーからシキケを経由してリオグランデを下り、吊橋のあるところまで達する。現Anton Chico と Santa Rosaの中間地点とされる。そこから先は際限のない大平原(Llano Estacado)が広がっていた。
5月 コロナド、部隊長を集め今後の方針を検討。会議の結果、征服軍は シキケ に戻るべきであると決定。コロナドは小部隊を指揮して北に向かい、 Quivira を探すこととなる。会議が行われたのは、現在の Palo Duro と Tule 峡谷のいずれかとされる。
5月 Luna y Arellanoの率いる本隊は、Palo Duro峡谷からシキケのあるPecos River に最も直接的なルートをとり、塩湖を通過し、橋から30リーグ下ったところでリオグランデに出る。ここは後のニューメキシコ州サムナー砦のあたりとされる。
5月 Arellanoの部隊は、そこからリオグランデをさか上り、橋を横切り、 Cicuique に到達した。Arellanoは今やCicuiqueの住民が敵対的だと知り、ティグーでコロナドの帰還を待つこととした。
5 デ・ソト,テネシー川を下りアラバマに達する.マビラの街で原住民と衝突,激しい戦いで原住民2千五百人が死亡したとされる.その後ふたたび北西に進路をとりミシシッピ川本流を発見.アーカンソーに達する.(一説では,いったんテネシーに戻りケンタッキーへと北進.ミシガン湖に達するが中国への道を見つけることが出来ず撤退).
7.29 コロナドは30人の騎兵、徒歩の6人とともに山を越え、谷を越え、ひたすら磁石を信じて北を目指した。“Quivira川下流”(多分Arkansas)に到達。ここから東北方向に川を下り、平原に出たところをQuiviraと定めた。結局捜し求めていた黄金・財宝はなかった。
9 ミシュトン戦争,カスカン族を中心にメキシコ中央部や南部まで拡大.ヌエバガリシア最大の町グアダラハラは数千のインディオにより包囲され,壊滅寸前においこまれる.クリストバル・オナテ総督代理,副王メンドサに援助を求める.スペイン軍は,トラスカルテク人(Tlaxcaltec)とアステカ人部隊によって補強.激戦の末町の奪回に成功.ペドロ・アルバラードはノチストランの戦闘で敗れ,退却中に事故死.
1542年
2 二度にわたる討伐軍敗北の後,副王メンドサ自らの出陣でミシュトンの反乱をいったん鎮圧.テナマストレらインディオの抵抗はその後も長期にわたる.
2.14 グアダラハラ,4度目の移転.現在のハリスコ州の地に定まる.ヌエバ・ガリシアは独立性を失い,ヌエバ・エスパーニャに併合される.
4月 ティグーで冬をすごしたコロナドの探検隊、やってきた道をたどり帰国の途に着く。コロナドは越冬中に落馬し頭に傷を負う。
5.21 デ・ソト,アーカンソーのレッド川河口で原住民に襲われ死亡(一説に感冒による病死).部下はテキサス方面へ逃亡,メキシコへの陸路を求め,オースチンに達する.
6.27 フアン・ロドリゲス・カブリリョとバルトロメ・フェレーロ,カリフォルニアを探検,サンフランシスコ湾からオレゴンにいたる.
6 デ・ソトの探検隊残党311人,七隻のボートに分乗しミシシッピ川を下り,メキシコ湾に出る.ヌエバ・エスパーニャにたどり着くのは翌年となる.
9.28 ペドロ・アルバラードの副官フアン・ロドリゲス・カブリージョ・フェレ,アルバラードの死後遺志を引き継ぎ,カリフォルニアを探索.サンディエゴのポイント・ロマ・ヘッドに上陸.
10 コロナド,メキシコに戻る.これを最後に北方への探検はいったん途絶える.
11 ロペス・デ・ビリャロボス,ナビダ港を出発,フィリピンに向かう.
42 インド新法発布.インディオ奴隷化の禁止と既存奴隷の解放を確定.第35条でエンコミエンダの世襲相続を否定.メンドサ副王は,独断でヌエバエスパーニャへの適応を見送る.ペルーでは新法に抵抗するゴンサロ・ピサロの反乱が起こり,3年後に撤回.
42 息子フランシスコ・モンテホ,ユカタンの制圧に成功.メリダ市を建設.ユカタン半島東部では,なお激しい抵抗が続く.
1543年
43 ビリャロボス,フィリピン到着.皇太子にちなみフィリピーナスと命名.
43 カブリージョ,サンフランシスコからカリフォルニア州北端のメンドシーノ岬まで北上した後帰国.
44 モンテホの副官ガスパル・パチェコ,焦土作戦と住民みな殺しにより反抗の中心,チェトマル地方を制圧.バヤドリを新都と定める.
45 ヌエバ・エスパーニャにチフスの大流行.人口の1割が死亡.(一説では三年間にわたる天然痘・黄熱病で先住民の1/3が死亡)
メキシコ高原に悪性の出血熱が出現.瞬く間に先住民の間に広がる.頭痛・高熱の後黄疸と激しい腹痛が発症.最後には鼻・耳・口から出血し3,4日のうちに死に至る.この出血熱は3世紀にわたり4回の大流行を繰り返し,とくに1576年の大流行では,メキシコ総人口の45%が死亡した.原因はペストともチフスとも言われるが,不明.(Departamento de Microbiologia y Parasitologia, Facultad de Medicina Universidad Nacional Autonoma de Mexico, Mexico City)
46.11.8 征服直後のユカタン東部で反乱.マヤの神官チラン・アンバルを指導者としてモンテホの不在をねらい蜂起開始,市長や領主を拷問の上焚殺.アンバルは,伝統宗教への回帰とキリスト教徒抹殺を訴える.数ケ月後に反乱は鎮圧されるが,人口は大量に流出し荒廃.モンテホは反乱誘発の責を問われ解任,いっさいの権利を剥奪される.
46 前年のペルーのポトシ銀鉱山の発見に続き、サカテカスでも銀鉱山が発見される。
1547年
12.02 コルテス,スペイン本国のカスティリア・デ・グエスタで失意のうちに死亡.
47 メキシコの先住民人口,コルテス侵略直前の11百万から6百万に激減.
47 グアダラハラにアウディエンシアが創設される.
47 メキシコ先住民の第 1言語、Nahuatl 語の文法がアンドレス・デ・オルモス(Olmos)によりまとめられる。
1548年
48 北西部の辺境シナロアで銀山発見.続いてチチメカ族居住地の北方サカテカスにメキシコ最大のサルガード銀山発見(一説に46年).
48 ユカタン,正式にヌエバ・エスパーニャに併合.その後も反乱と弾圧が絶えず.
48 ドミニコ会聖職者フライ・ルイス・カンセル・デ・バルバストロ,タンパで布教活動中先住民により殺害される.
49 メキシコ市に次いでヌエバ・ガリシア(現グアダラハラ)にアウディエンシア設置.メキシコ北部を管轄する.
49 スペイン王室,新法35条の適応を断念.その代案として新大陸の農村を共同体に改組し,コレヒドールを配置.エンコミエンダの実権を奪われた征服者の子孫たちは,先住民を囲い込み,独自の農園(アシエンダ)を営むようになる.
インディアス新法と新大陸の行政機構
州や県レベルの行政組織は欠如しており,総督の下の行政官は,直接コレヒドールとなる.コレヒドール(代官)は各市と近隣町村を統括し,旧エンコミエンダ所領もふくめ賦役の割り当て権を与えられる.
また各市にはアルカルデ(市長)と若干名の議員からなるカビルド(市会)が置かれた.
1550年
50.11.25 ルイス・デ・ベラスコ,新副王として着任.メンドサはペルー副王に転出.
50 フライ・ディエゴ・デ・ランダ,ユカタン半島イサマルの修道院に赴任.マヤの古文書を集め情報収集にあたる.
51.3 ミシュトン戦争敗北後,10年間にわたり抵抗を続けたテナマストレら170名,ヌエバ・ガリシア司教ゴメス・デ・マラベールの下に帰順.銀山へのスペイン人の進出により生活を侵害されたチチメカ族の武装抵抗は,その後40年にわたり継続.
52年 グアナファト,パチュカでも銀鉱発見.グアナフアトは18世紀にはサカテカスを抜いて,新大陸最大の産出量を上げるようになる.グアナフアト周辺のバヒオ地方では,鉱山への食糧供給を目的とした,アシェンダ制が発達し始める.
53 王立メキシコ大学創立.
54 副王ルイス・デ・ベラスコ,スペイン国王に書簡.この中で「メスティソは大変な勢いで増加している.彼らはおしなべて性癖が悪く、大胆な悪事を働くため、黒人同様警戒を要する」と警戒を促す.
54 フランシスコ・デ・イバラ,ヌエバ・ガリシア北方のヌエバ・ビスカヤ地方(現ソノラおよびシナロア州)を征服.潅漑で造成された草地で放牧が発達.
55 銀精錬のための水銀アマルガム法がメキシコで実用化される.
水銀アマルガム法: 金・銀などを破砕し,水銀と混和する.そのまま6週間置くと,水銀は金・銀を吸着しアマルガムとなって底に沈殿する.これを煮沸すると水銀は揮発し,金・銀が取り出せる.蒸発した水銀は凝結させて再利用する.しかし一回の処理工程で水銀の1/4が失われるため,補充する必要がある.この水銀はスペイン本国のアルマデン鉱山から輸入された.
55 ヌエバ・エスパーニャ司教会議.インディオ,メスティソ,黒人が司祭に就任することを禁止.
1559年
6.11 アンヘル・デ・ビリャファニェを指揮官とするスペイン植民団,カロライナ入植を試みるが,原住民の抵抗にあい失敗.
9.24 フェリペ2世,メキシコ副王ベラスコにフィリピン征服を命令.
59年 スペイン,水銀を国家専売品目にする.
59 ベラスコ副王,フロリダ地方の探検と植民のためトリスタン・デ・ルナ以下1500名を現ペンサコラ湾に送る.デ・ルーナは植民地を建設するが,二年後に放棄.メキシコに帰還.
1560年
60 メキシコ司教モントゥファル,スペイン国王宛に書簡を送り黒人奴隷貿易に異議申立て.
1562年
5.01 フランスで半世紀にわたるユグノー戦争始まる.新教徒は本国を逃れ海外進出をはかる.ジャン・リボーのひきいるユグノー教徒の一団約150名,サウスカロライナに入植.
62 ディエゴ・ランダ,マヤの原住民が自分たちの偶像の秘密礼拝所をもち信仰を続けていることを知る.4千人以上を異端の罪で拷問にかける.ユカタン初代司教トラルの告発により本国に召還.
62 フランシスコ・デ・イバラ,ヌエバビスカヤ(現米国西海岸)の征服を開始.
1564年
11.21 ロペス・デ・レガスピ司令官とアンドレス・デ・ウルダネダの遠征隊,メキシコからフィリピンに向けて出発.
64 ルネ・ロドニエールのひきいる別のユグノー教徒集団は,フロリダのセント・ジョンズ河口にカロリーヌ砦を建設.一部は海賊化しスペイン軍に捕らえられる.
1565年
8.28 ペドロ・メネンデス・デ・アビレスらスペイン人千5百名,フロリダに最初の植民地セント・オーガスティンを建設.イエズス会,フロリダでインディアンへの布教開始.
9.20 アビレス,カロリーヌ砦を奪取.サンマテオと改称.ジャン・リボーを含むフランス人全員を虐殺.レビジャヒヘド(Revillagigedo),メキシコ副王の命を受けフロリダに恒久的基地を建設.
10.03 レガスピとウルダネーダ,フィリピンからアカプルコに帰航.太平洋横断往復航路が確立.王室はこれをアカプルコ・ガレオンと名づけ,メキシコ副王の独占事業とする.
66 フロリダ先住民に対し,イエズス会による本格的布教活動が始まる.
66 コルテスの息子マルチンらによる,現地支配層をまきこんだ反乱失敗.メキシコに対する王権確立.
66 フアン・パルドとホセ・ボヤーノ,3年にわたりカロリーナス(現カロライナ州)とテネシー地方(アパラチア南山麓)を探索.
67 フランス人ドミニク・デ・ウルゲス(Dominique de urgues),フロリダ遠征隊を組織.カロリーヌ砦の虐殺に対する復讐開始.
68 ウルゲス,サンマテオの町を攻撃.スペイン人を絞首刑にした後帰国.
68.9.23 サン・フアン・デ・ウルア事件.スペイン軍艦隊がサンフアン・デ・フルア停泊中のホーキンズ船隊を攻撃.ホーキンスは辛うじて難を逃れる.
69.01.25 メキシコ市とリマ市で,異端審問所の設置の勅令が発布.
1570年
70 マニラ・アカプルコ間のガレオン貿易始まる.
71.7 メキシコ市に異端審問所設置.植民地社会の精神生活を規制.
72.9 イエズス会,メキシコに進出開始.布教活動の主力を都市部における教育施設の建設に置く.
75 スペイン,債務増大のため国庫破産.支払停止令を発す.ヌエバ・エスパーニャとグアテマラのエスパーニャ人に10%税(アルカバラ)を課す.
75 フランシスコ会,フロリダでの布教活動を開始.
76年 45年を上回る疫病の大流行.
1580年
80 副王マルティネス,本国への報告で混血者(メスティソ、ムラト、自由黒人)を,ヌエバ・エスパニア国内の平和と秩序にとって危険要因と述べる.
81年 フランシスコ会のアグスティン・ロドリゲス,ニューメキシコ地方の探検・布教を開始.サンタバーバラで北に先進の文明があると耳にする.
8月 ロドリゲスの探検隊,ソコロに達する.次の5ヵ月の間リオ・グランデ地方を探検した.その後も二人の聖職者が布教活動を続ける.
82 ベルトランとアントニオ・デ・エスベーホ,ペコス川に沿いメキシコ北部とアリゾナを探検.残されたロドリゲス隊の聖職者が殺害されたことを確認.リオグランデ下航し帰国.
86 ドレーク船長,サウ・アウグスチンを襲撃.
1590年
90 ポルトガルの冒険家デ・ソーサ(Gaspar Castano De Sosa),コアウィラ州モンクローバ近郊の廃鉱アルマデンで,全ての住民を組織し,ニューメキシコに出発.副王は無許可の探検隊を警戒し,フアン・モルレーテ大尉の追討隊を送る.
91 スペイン,マニラ=アカプルコ間の貿易を禁止.
92 サンルイス・ポトシに銀鉱発見.
94 メキシコの商人が,セビリアにならいコンスラードを結成.鉱山主らを押さえ絶大な力を振るう.
95 フアン・デ・オニャテ,カンザスからカリフォルニアにいたる地域を探検.
95 グアテマラ=マニラの貿易禁止.アカプルコだけが東洋貿易をあつかう新大陸唯一の港となる.
96 セバスティアン・ビスカイノ,カリフォルニア植民を目指しアカプルコを出発.
98年 フアン・デ・オニャテ,副王モンテレイの正式な征服者としてヌエバ・メヒコ植民を許される.130人の従者,84台の馬車,さまざまな家畜を備える大遠征団.
7.11 オニャテ,サンフアンに本部を定めリオグランデ以北ミシシッピ以西の土地の領有を宣言.リオグランデ川西岸に最初の首都サンガブリエルを構える.
1600
00 ドゥランゴで原住民の反乱.
01 オニャテ,ネブラスカからミズーリ方面に進出.
08 逃亡黒人奴隷が山岳部に立てこもり「王国」をつくる.メキシコとベラクルスを結ぶ街道沿いで山賊行為をおこない恐れられる.
指導者イャンガはアシャンティ王国北西のブロンで捕らえられ,奴隷として送り込まれた.1580年頃,ベラクルス州の砂糖プランテーションから逃亡に成功.逃亡奴隷を糾合しパレンケ集落を形成.自らコンゴ王を名乗る.
10 オニャテ,ヌエバメヒコの新たな首都としてサンタフェ建設.メキシコの銀山への食肉生産基地として発展.その後オニャテは総督を辞しサカテカスに戻る.
10 徳川家康の使節を乗せたサン・ブエナ・ベントラ号,アカプルコに到着.
12 メキシコ市で黒人奴隷の反乱計画が発覚.首謀者の男女36人が大広場で処刑される.
14.1.25 伊達正宗の使者,支倉常長の一行,アカプルコに到着.その後メキシコを経由してローマへ.
16 メキシコ南部地方でサポテカ族の反乱起こる.
18 副王政府は新たな逃亡奴隷を拒否する条件で,イャンガらの自治を認める.コルドバ近くのサンロレンソ・デ・ネグロスを定住地とすることで妥協.
24.5.15 副王ヘルベスと大司教とのあいだにクリオージョ資産家の逮捕をめぐり抗争.貧民層を巻き込む内乱に発展.
33.1.01 鉱山を除くヌエバ・エスパーニャの全域で,レパルティミエント制廃止.これに代わりペオン制が発展.
44 ペドロ・ポルテル・イ・カサナーテ,カリフォルニア湾を探検.
47 カサナーテ,シナロア総督に任命され,さらにカリフォルニア探検を続ける.
48 ミゲル・サンチェス,「メキシコに奇跡的に出現せるグアダルーペの聖母の画像」を刊行.以後,グアダルーペの聖母信仰が次第に拡大.
49 タラウマラ族の反乱.
50 この頃原住民の人口は最低となる.中央高原全体で征服当時の2千5百万から百万人に減少.いっぽう黒人は5.5万人を越え,ムラートとサンボをあわせ13万人となる.メキシコ湾岸部のほか,北部鉱山地帯に分布.
50.12 アイルランド人ウィリアム・ランポート(別名ギジェン・デ・ランポルト)、異教徒として捕らえられた後、異端審問所から脱走に成功。メキシコ市内に「宣言」を貼り出す。彼は自らをニュースペインの皇帝と宣言し、スペインおよびカトリック教会からの独立を訴える。まもなく捕らえられ焚刑に処せられる。
69 ガスパル・デ・ポルトーらカリフォルニアを探検.サンフランシスコ湾を発見,サンディエゴを建設.
72 フランス人ルイ・ジョリエとジャック・マルケット,五大湖からミシシッピに出て,アーカンソーにいたる.
75 ヌエバ・メヒコ州トレビノ知事は,3人のプエブロ族呪医を処刑.先住民指導者ポープは反乱を組織.21人の聖職者をふくむ400人の入植者を殺害.サンタフェを包囲.入植者と一部先住民2,400人はかろうじて南方に避難.エルパソに新たな基地を建設.
80 サポテカ族,ふたたび反乱.テワンテペク地方の支配権を8年間にわたり確保.
80.08.11 ヌエバ・メヒコでプエブロ族の反乱.スペイン人支配者を虐殺.インディアン騎馬隊の前に劣勢に追込まれたスペインは,サンタフェ市を放棄しリオグランデ南部まで撤退.
82.4 フランスの毛皮商人兼探検家ラサール卿ロベール・カヴリエ,ミシシッピ川を下り河口に到達.ルイジアナと命名しフランス領を宣言.テキサスのマタゴーダに入植地を建設.
92.6.08 メキシコ市で大規模な旱魃.トウモロコシ不足のために先住民を巻き込んだ貧困層の暴動起こる.
92夏 ドン・ディエゴ・デ・バルガス・サパタ・ルハン・ポンセ・デ・レオン・イ・コントレラス(don Diego de Vargas Zapata Lujan Ponce De Leon y Contreras),いったんサンタフェに入る.その後エルパソに戻り,サンタフェ再征服の準備を開始.
93秋 100人の兵士,70の家族,18人のフランシスコ会士と900頭の家畜を擁するバルガスの遠征隊,サンタフェに向かう.先住民との激しい戦いの後,征服に成功.プエブロ族は内部矛盾のため有効な反撃できず.
95 チアパス州トゥクストゥラの先住民が反乱.
97.1 最後のマヤ族抵抗の地,ペテン州イツァール湖畔タヤサルのイツァール族,ウルスアのひきいるスペイン軍により制圧.
1700
02 イエズス会のエウセビオ・フランシスコ・キノ神父,アリゾナ州のコロラド川流域で活発な伝道活動.
02 イギリス,フロリダのスペイン人植民地を攻撃.サン・アウグスチンを52日間にわたり包囲.町は陥落するが要塞は最尾まで抵抗を続ける.
04 カロライナのジェームズ・ムーア知事は、フロリダ中部に侵入.帰化先住民のアパラチー教化村を破壊.数年後にフロリダの教化村は消滅.
10年 サカテカスの銀生産がポトシに追いつく。
12 チアパス州の山岳部でツェルタル・ツォツィルにひきいられたマヤ族の反乱起こる.32の先住民村落を糾合し,カンクックをシウダ・レアルと改称.ウィティウパに“アウディエンシア”をおく.翌年スペイン軍により鎮圧される.
18.11 ディベルヴィル卿ピエール・ル・モアンとビアンビル,ニューオリンズを建設.東はピロクシからモービルまで進出しフロリダのスペイン軍の前進基地ペンサコラを占拠.西はナキトッシュまで進出しスペイン軍と対峙.ミシシッピ川流域へフランス人の定着すすむ.ニューフランスの人口は5万人を越える.
18 スペイン,フランスに対抗しテキサスへの入植を強化.ナキトッシュから数マイルのアダエス(現ルイジアナ州ロウブリン)に首都を置きサンアントニオとアラモに伝道区を設置.ネブラスカからワイオミングにまで活動範囲を広げる.
19 フランス人,ペンサコラ以西のメキシコ湾岸を占領.まもなく西仏同盟が結ばれたためスペインに返還される.
21 北部ナヤリの原住民の反乱,平定される.
24 副王の命を受けたドン・ペドロ・デ・リベラ,4年間にわたりメキシコ北部辺境地帯を軍事視察.先住民反乱に対する備えを強化するよう進言.
28 ガセータ・メヒコ紙が創刊される.
35 メキシコ市でペスト流行.
40 ヤキ族の反乱.スペイン人千人以上を殺害.
40 ジェームス・オグルソープ将軍率いる英軍,ジョージアからフロリダに侵入.27日間にわたりサン・アウガルチンを包囲するが,水と食料の不足,7月の太陽,昆虫の襲撃に悩まされ撤退.その後サンマルコスを奪取.
46 タマウリパスの原住民,平定される.
46 グアダルーペの聖母,ヌエバ・エスパーニャの守護聖母となる.
61 マヤ族の反乱.指導者はイツァールの後えいとしてカネクをなのる.スペインはカネクをとらえ四つ裂きの刑に処す.
ガルベスの暴政と独立運動のはじまり
61 スペイン,フランス王室との「家族協約」により7年戦争に参戦.
62 メキシコで民兵隊が編成される.
62 西仏間にフォンテーヌブロー条約締結.フランスはルイジアナをスペインに譲渡.
63.2 7年戦争終結,またしてもフランス=スペイン軍の敗北に終わる.パリ条約締結.イギリスはハバナを返還し,代りにフロリダを獲得.フランス,ミシシッピ以東のルイジアナをイギリスに割譲するとともに,密約によりミシシッピ以西のルイジアナをスペインに割譲.
64 本国生まれのペニンスラールからなる二個連隊,常備軍として配置.総司令官にフアン・デ・ビリャルバが就任.法的に特別扱いをうけ特権団体となる.
65 カルロス3世,財政強化のため植民地経営の改革に乗り出す.カルロス3世の全権を受けてメキシコに派遣された巡察吏ホセ・デ・ガルベス,腐敗を摘発する.地元の権益を擁護するメキシコ副王と正面衝突.カルロスはメキシコ副王を更迭.
65 ユカタンでカネックの反乱.
66 民兵の徴募にたいし,ミチョアカン,グアナファト,プエブラなどで暴動.グアナファトでは約6千人が消費税課税やタバコの品質低下に抗議するデモ.パチューカのレアル・デル・モンテ鉱山では暴動によりアルカルデ・マヨールが殺害.政府は徴兵策の撤回で妥協.
67.6 新大陸のイエズス会に対し国外追放処分.メキシコだけで678名が追放されるが,このうち400名はメキシコ出身者.メキシコのエリートを育てたサン・イルデフォンソ校など23のイエズス会系コレヒオはすべて閉鎖される.
67年 グアナファトなどバヒーオ地方の三つの鉱山街で,イエズス会士の追放処分に抗議する暴動.ガルベスは正規軍2個連隊を送り,厳しい弾圧策で抵抗を封じ込める.85人が絞首刑,864人が何らかの刑に処せられる.
68 ホセ・デ・ガルベス,タバコ専売制とアルカバラ税(町外れの街道筋に関所を設け,往来する貨客から税金を徴収するもの.売買税にあたる)を導入.軍事力を強化し英・露のカリフォルニア・テハス進出に備える.
69 ホセ・デ・ガルベス,北方警備の強化のためフランシスコ会士フニペロ・セラをアルタ・カリフォルニア植民に派遣.セラはまずサンディエゴに基地を建設.
75 インテンデンテ制導入.コレヒドールや市長を廃止し,12の地方に新たにインテンデンシアを配置.行政,司法,軍事の権限を大幅に委譲.各地方で民兵隊が組織され,のちの独立運動の部隊となる.経済改革進む(啓蒙の時代).
76 セラ,サンフランシスコに要塞と伝道区を建設.ついで77年サンホセ,82年サンタバルバラにも伝道区を建設.
81 スペイン,英国からペンサコラを奪還.
83 メキシコで鉱山新法が公布される.
83 英領フロリダ,スペインに返還される.
85 メキシコにアカデミア・デ・サンカルロス(美術学校)が開設される.
93 グアダラハラでクリオージョによる独立運動の陰謀発覚.
94 メキシコ市でフアン・ゲレロらによる「マチェーテの陰謀」など独立への動きひろまる.
96 英西戦争開始.本国の支配弱まる.
1800
00.10.1 サン・イルデフォンソ条約締結.スペイン,ルイジアナをフランスに譲渡.
00年 メキシコの人種別人口調査.総人口はおよそ500万で、インディオ人口がその約2分の1、混血者と白人がそれぞれ4分の1ずつを占める.白人の中ではクリオーリョが90%以上.
03.12 アメリカ,戦費捻出に苦しむナポレオンより134万平方キロにおよぶルイジアナ植民地を買収.国土は2倍に拡大.
03 イダルゴ,グアナフアト近郊のドロレスの教会区聖職者に指名.多様な中小製造業の振興を図る.同時にメスティソや先住民も含めた政治的グループを結成.
04年 カルロス四世,対英戦費捻出のため教会の対民間負債の取立て措置を強化.
06 米陸軍第6師団(ジェームズ・ウィルキンソン司令官)所属のゼブルン・パイク中尉が率いる西部探検隊.アーカンソー,レッドリバー地方を探索.
07 パイク隊,スペイン領コロラド地方リオ・グランデの源流地帯に迷い込む.スペイン軍により捕らえられ,メキシコに送られた後解放される.
1808年
8月 メキシコ副王イツリガライ,本国との関係をめぐり,クリオージョのカビルドとペニンスラール主体のアウディエンシアの調整を図る.クリオージョはフェルナンド支持とヌエバ・エスパニア代表者会議(フンタ)開催を強硬に主張.イツリガライはフェルナンド7世に忠誠を誓うが,人民政府の指示にはしたがわないという態度をとる.クリオージョに対する妥協的姿勢に不満をもつペニンスラールは結社「フェルナンド7世義勇軍」を結成.
9.15 メキシコ副王イツリガライ,アウディエンシアを開催.ペニンスラールはクーデターを起こしイツリガライを逮捕.本国へ送還.カイライ副王を立て,クリオージョの意見を実力でおさえこみにかかる.
09 メキシコ中部に旱魃.トウモロコシの値段は4倍化.
1810年
9.13 ケレタロ州のクリオージョによる政府打倒の陰謀が発覚.蜂起は当初12月8日とされていたが,現地コレヒドールの知るところとなり,逮捕のための部隊が送られる.
9.16 ミゲル・イダルゴ・イ・コスティヤ,教会で「グアダルーペの聖母万歳!悪政を倒し,ガチュピンを殺せ!」とする「ドロレスの叫び」を発し反乱を開始.警察を襲い囚人を解放し武器をとる.
ミゲル・イダルゴ(Miguel Hidalgo y Costilla): ドロレス村の白人司祭。当時すでに58歳.ケレタロ計画参加者のひとりで,ドロレス村がケレタロから80キロ離れていたため逮捕を免れた.Wikipediaによればコレヒドールの妻ホセファ・オルティス・デ・ドミンゲスが反乱に参画し、弾圧の情報を伝えたという。
9 グアナフアトではピピラの率いる原住民鉱山労働者の決起.スペイン軍がこもる要塞を襲撃するが敗北.
9.16 イダルゴの率いる群集は、ケレタロの中心都市グアナフアトを目指す。イダルゴは農民に対する人頭税の廃止、奴隷制の廃止、不当に奪われた農民の土地の返還などの要求を掲げ、民衆の反乱参加を促す。
9.23 イダルゴの率いる群集,グアナファトを占領.ペニンスラールと富裕クリオージョ数千を虐殺し,財産を略奪.さらにメキシコシティを目指し南下。
10.10 イダルゴの軍勢,行く先々でペニンスラールを皆殺しにしながら前進.5万の大軍にふくれ上がったイダルゴの革命軍は,サカテカス,サンルイスポトシ,バリャドリ(現シウダ・イダルゴ.一説に現モレリア)を落とし,メキシコシティーに接近.
10.11 ホセ・マリア・モレロス・イ・パボン神父(当時45歳),イダルゴに続きメキシコ南部で蜂起.「インディオ,ムラートその他のカーストを廃止し,すべてアメリカ人として認められよう」とする「アグアカティヨ宣言」を発表.モレロスはムラート貧困層の出身でミチョアカンで司祭を務めていた.
10.27 マディソン米大統領,西フロリダの併合を宣言.ルイジアナ州知事クレアボーン,大統領の命を受けミシシッピ川東岸のスペイン領西フロリダに軍を入れる.ペルディード川まで進み,ルイジアナ領を宣言.この間スペイン側の抵抗はなし.
10.30 反乱軍、モンテ・デ・ラス・クルーセスでスペイン軍と対決.戦闘は反乱軍側の勝利に終わるが,犠牲者の多さからメキシコ市占領を断念.
11.06 スペイン軍,反撃を開始.メキシコ市周辺の独立軍を駆逐.独立軍はバリャドリまで撤退.体制建て直しのためテキサス方面へ移動を始める.
11.26 グアダラハラのクリオージョ,ホセ・アントニオ・トレスを指揮官とする部隊を編成.イダルゴ軍に合流.
12 バリャドリで地方代表による議会結成をよびかける宣言.グアダラハラに進軍し新政府を設置,奴隷解放と,農民への土地付与を実施.これに警戒心を抱いたクリオージョたちは副王派と手を結び,弾圧の側に回る.
1811年
1.17 イダルゴ軍,ふたたびメキシコ市にむけて進出.カルデロン橋でスペイン軍を破る.反乱軍の主体となった農民・メスティソが,クリオージョまで含め白人をすべて敵視することから,民心の離反を招くようになる.
3 独立軍,コアウィラ州モンクローバで,フェリックス・マリア・カジェハの率いるスペイン軍の待伏せ攻撃にあい大敗.多くが捕虜となる.イダルゴはアメリカへ亡命しようとするが,モンクロバ近郊の砂漠で敗走中を捕えられる.
5 クリオージョのニコラス・ブラボ,独立戦争に参加.モレロスとともに決起したエルメンヒルド・ガレアナ将軍の部隊に加わる.
7.31 イダルゴは異端審問所で異教徒,反逆者の判決を受け,銃殺隊によって処刑される.彼の頭は切断され,グアナフアトで晒し首にされる.
1812年
2 モレロス,ゲリラ戦で南部に勢力を拡大.兵力は九千人に達する.メキシコ市西方のクアウトラを占拠.テウアカンに本営を設置.ほかにハリスコ州のテピクでは,マヌエル・ロサダが反乱を開始.ミチョアカン,ゲレーロ州でも反乱が開始される.
11.25 モレロス,オアハカへの攻撃を開始.当時,小学校の教師を務めていたグアダルーペ・ビクトリアはこの戦闘に初参加.
12年 カディス憲法公布.これに則り,本国議会への議員選挙が実施される.
12年 米英戦争始まる.マディソン大統領は「英国の占領を防ぐため」,スペイン領東フロリダのアミーリア島を一時占拠.
12年 アメリカ人「愛国者」,フロリダ北東部フェルナンディナで共和国を宣言.以後のフロリダ年表は米国史年表へ.
1813年
4 モレロス軍,アカプルコを占領.南メキシコの支配権を獲得.
6 モレロス,地方代表を召集しゲレーロ州チルパンシンゴにアナワク議会を召集.メキシコの将来と独立を議論.
9.13 アナワク議会,主権在民と三権分立,男子一般選挙権,カトリックの国教化,財政改革,アシエンダの分割,奴隷制とミタの廃止,体罰の禁止などを謳う決議を採択.モレロス,この時点で南部を完全解放し,首都包囲の態勢に入る.グアダルーペ・ビクトリアはベラクルス地方のモレロス軍責任者となる.
11.06 モレロスの議会,ヌエバ・エスパニアの独立を宣言.主権在民,法の前の平等をうたう憲法を起草.ベネーガス副王はイダルゴ軍を破ったカリェーハ将軍を送り,モレロス軍を各地で撃破.
1814年
1 モレロス軍,チルパンシンゴを捨てアパチンガンまで撤退.
1.22 メキシコ独立の構想を成文化したアパチンガン憲法を発表.インディオがスペイン人を追放しアシェンダを分割し,奴隷制および身分制をすべて廃止して,異人種平等の下での主権在民と普通選挙権が確立されるような国家の建設をめざす.
5 フェルナンド7世復位.クリオージョ保守派をまきこみ独立運動に巻返しをはかる.カディス憲法で定められた自治権はすべてご破算となる.クリオージョの不満は,イダルゴの再来に対する恐怖により抑えつけられる.
1815年
6 カジェハ,副王に着任.モレロス追討に全力を注ぐ.アグスティン・イトゥルビデに率いられた副王軍がモレロス軍を撃破.
12.14 モレロス,ゲレーロで捕えられ処刑される.これまでに副王軍にとらえられ処刑された聖職者は100名以上にのぼる.プエブラ州のグアダルーペ・ビクトリア(本名マニュエル・フェリクス・フェルナンデス)とオアハカのビセンテ・ゲレロがさらに抵抗を続けるが,残党の多くは山賊と化し政情不安続く.
16年 米国亡命中のスペイン共和派のハビエル・ミナ将軍,メキシコ独立運動を支援するため義勇軍を募る.
1817年 ハビエル・ミナの義勇軍
3 三隻の船,300人からなる義勇軍がニューオリンズを出発.その後ハイチに立ち寄る.
4.15 ミナ将軍の部隊,ソト・ラ・マリーナ(現在のタンピコ近郊)に上陸.オルカシタスの村で王党派の軍馬700頭を捕獲.
6.08 ミナの部隊,バジェ・デル・マイスでビジャセニョール大尉の率いるスペイン軍と交戦し,撃破.
6.14 サンルイス・ポトシに向け進軍中の義勇軍,ポスティジョ牧場に到着.
6.15 ポスティジョ牧場で義勇軍とスペイン軍が激突.義勇軍は6倍の軍勢を相手に勝利を収める.味方にも60名の犠牲者を出し,戦力は大幅に低下.
6.24 義勇軍,独立派ゲリラが占拠したエル・ソンブレロ砦に入り,合流.オルドニェス将軍の率いるスペイン軍部隊を撃破.オルドニェスはこの戦いで戦死.
7.07 ミナ軍,デル・ハラル牧場を占拠.現金140万ペソと武器を確保.
7.10 ミナ軍,レオンの町を攻撃開始.スペイン政府は最高司令官の一人リナン元帥を派遣.2,500人の部隊,14丁の大砲で義勇軍に対抗する.レオン確保に失敗したミナ軍は,エル・ソンブレロ砦に撤退.
8.04 スペイン軍,エル・ソンブレロ砦を総攻撃.ミナ軍はこれを撃退するが,活路を切り開くことには失敗.そのご三ヶ月にわたる包囲戦が展開される.
10.26 エル・ソンブレロ砦からの撤退を図ったミナ,ラ・カハ牧場で敵に包囲される.
10.27 ミナは包囲を抜けベナディト牧場までたどり着くが,捕らえられる.
11.11 独立運動家フランシスコ・ハビエル・ミナ,リナン元帥の作戦本部で銃殺される.
17年 ベラクルスで反乱軍を指揮していたグアダルーペ・ビクトリア,パルミラスでの戦いに敗北.オベハス牧場に潜伏.
19.2 スペイン,フロリダを米国に売却(オニス・アダムス条約).
1820年
20年 副王,武装解除を条件にすべての反乱者に大赦を与えると発表.この時点で独立運動はほぼ崩壊.
20年 モーゼス(モイセス)・オースチンらがテハス州に入植を計画しメキシコ政府に許可を求める.
12月 スペイン軍,イグアラのゲレーロ派掃討作戦を開始.王制主義者クリオージョのイトゥルビデが指揮を執る.イトゥルビデはバリャドリ生まれのクリオージョで,モレロス軍とのたたかいで名を上げた.
1821年
1 オースティン,副王よりサンアントニオの20万エーカーの土地への入植を許可される.方針は独立新政府に受け継がれる.モーゼスが入植を前に死亡したため,息子のステフェンがあとをひきつぐ.ステフェン・オースティンはミズーリ州の実業家で州議会議員やアーカンサス州巡回判事などの役職にあり,民兵隊の将校でもあった.さらにヘイデン・エドワーズの率いる200家族が,東部のナコグドチェス(Nacogdoches)近郊に入植.
1 イトゥルビデ,ゲレロの勢力と最初の衝突.その直後,本国で自由主義革命勃発.
1 スペイン本国で自由主義革命勃発.国王を捕え,カディス憲法の復活と議会開催を実行.メキシコの本国人と王党派クリオージョはこの憲法を認めず,フェルナンドをメキシコに迎え独立することで合意.新大陸植民地の独立を認めなかったことから,クリオージョの大勢も独立に動く.
2.24 イトゥルビデ,遠征先のイグアラ市で「三つの保証」を柱とするイグアラ憲章を発表.①革命に反対し国王を擁護する独立君主国家の樹立,②スペイン人とクリオージョとの差別撤廃,③教会の財産と特権の保障を掲げる.
3月 イトゥルビデ、イグアラ綱領で自軍の意思統一に成功。ついでゲレロ軍を合流させ副王への反乱を開始する.アカプルコを襲撃し50万ドルの銀を掠奪.
4 ベラクルスに潜伏中のグアダルーペ・ビクトリア,蜂起開始.本国の自由主義革命に反対する保守派もメキシコ独立を支持.イトゥルビデを指導者とすることを承認.
8.24 イトゥルビデ,スペイン革命により新総督となったフアン・デ・オドノフと会見.「メキシコ帝国」の独立を認めるコルドバ協定締結.
9.15 イトゥルビデ,メキシコ市に入城.無血制圧に成功.スペイン軍はベラクルス港内のサンフアン・デ・ウルア要塞に守備隊を残し撤退.
9.27 スペインの旧王室代表とイトゥルビデ側の代表が,コルドバ条約に署名.イグアラ憲章の方向でメキシコの独立を認める.条約にはヨーロッパに適当な君主候補がいない場合,クリオージョが国王となる可能性も含まれる.
9月 38人の上流人士からなる統治評議会が作られ,制憲会議が組織される.
21年 スペイン軍に捕らえられていたニコラス・ブラボ将軍,新政府により大佐に任じられる.
1822年
1 ステフェンはコロラド川とブラソス川の下流を選び,米国人300家族とともに移住.その後メキシコ新政府はスペイン政府の発行した開拓許可を取り消す.
2 制憲議会開催.スペイン前国王フェルナンドにメキシコ国王就任を望むがフェルナンドは辞退.スペインへの復帰を求める。
4 オースチン,メキシコ市で政界工作.新政府は彼の開拓権を認めただけでなく,開拓地における行政官(エンプレサリオ)の地位を与える.
5.19 国王のなり手を失った制憲議会は,イトゥルビデを皇帝に選出する.
7.22 イトゥルビデが皇帝に即位。アグスティン1世を名乗る。イトゥルビデは議会を解散し独裁制に.君主制に反対したグアダルーペ・ビクトリアは逮捕される.
12 グアダルーペ・ビクトリア,脱獄しベラクルスで蜂起.ベラクルス港駐在の司令官アントニオ・ロペス・デ・サンタアナは,メキシコ共和国の独立を宣言.ビクトリアと組んでイトゥルビデに対する反乱開始.ビセンテ・ゲレーロもブラボ将軍と組んで反乱.
1823年
3.19 イトゥルビデ,ベラクルス軍との戦闘に敗れ退陣.ビクトリアが手配した英国の護衛艦H.M.S.で亡命.代って3人の軍人からなる臨時政府樹立.メキシコ共和国成立.
7 中米諸国,メキシコより分離独立.
1824年
4.10 グアダルーペ・ビクトリアが,ゲレーロを破り初代大統領に当選.憲法制定議会開催.コアウィラのミゲル・ラモスら連邦派と,教会,大地主,軍人たちから成る中央集権派とのあいだで激しい論争.
グアダルーペ・ビクトリア
メキシコの初代大統領.本名はマヌエル・フェリクス・フェルナンデス.モレロスの軍に加わるまでは,田舎の小学校の教師を務めていた.7 イトゥルビデ,国内にもどり反乱を試みる.サンフアン・デ・ウルアのスペイン軍も,これに呼応して戦闘を開始.結局反乱は失敗に終わり,イトゥルビデは捕えられ銃殺される.
8 ビクトリアとニコラス・ブラボ,ペドロ・セレスティノ・ネグレテよりなる三人委員会創設.
10.04 グアダルーペ・ビクトリアが大統領に就任.副大統領にはブラボが就任.新憲法公布.19の州と四つの直轄領から成るメキシコ合衆国連邦となる.モンテスキューの思想を取り入れるが,教会の特権には手をつけず.英国の財政支援を受け,国庫財政を確立.奴隷制を廃止,政治囚への恩赦,教育充実に力を注ぐ.
1825年
11 スペイン最後の砦サンフアン・デ・ウルア要塞が陥落.ビクトリアはスペインとの休戦に成功.駐屯軍は本国に帰還.
25 君主制の実現を主張するルーカス・アラマン蔵相,スペイン派との親交を疑われ解任される.
1826年
12.21 メキシコ人がテハス州のエドワーズ所有地に対し所有権を主張.メキシコ政府は,この申請を受け入れ,エドワーズを国外追放に処す.エドワーズらは,この命令を無視.ナコグドチェスを占拠し,フレドニア独立共和国を宣言.独自の憲法を制定.200人の軍とチェロキー族の支援部隊を結成.
26年 新支配層がエスコセース派とヨルキーノ派に分裂.両派の内紛つづく.
エスコセス(スコットランド人の意味)は,大都市・鉱山を握る白人有力者,教会などを基盤とし,スペイン支配時代の伝統を引き継ぎながら,中央集権主義と富国強兵政策を推進しようとする.ブラボ副大統領を筆頭とする.
ヨルキーノ(ニューヨーク人の意味)は,都市中間層と地方の新興地主層を基盤とする.米大使館の強い支持を受け,米国式自由経済と連邦主義を主張した.ゲレロを筆頭とする.ビクトリアが両派の調整役となる.1827年
1 メキシコ政府軍,「フレドニア共和国」を制圧.
12 スペイン人に対し第1回目の国外追放令.クリオージョ支配確立するが,行政能力は大幅に後退.政府の徴税能力は財政支出(1800万ドル)の半額にとどまる.このためビクトリアは英国に財政援助を求める.連邦政府の行政能力が低下するにつれ,州レベルでのカウディージョ支配が台頭.
27 メキシコで金融危機を引き金に,ブラボ副大統領とエスコセス派が反乱を起こす.ホアキン・アレナス神父らスペイン派の反乱の陰謀も摘発される.ビクトリアを支持するサンタアナの部隊とゲレロの部隊が共同し,まもなく鎮圧に成功する.ブラボはエクアドルに亡命.
27年 スティーブンは,ふたたび外交能力を発揮し,メキシコで禁止されていた奴隷労働をテハスに限り認めさせることに成功.奴隷制のもとに綿花栽培を開始.十年後には2万人に達する.
28年 大統領選挙.グアダルーペ・ビクトリアの行政能力を見限ったサンタ・アナは,ゲレーロを押し立てる.みずからは最高司令官の地位に納まる.ビクトリアはベラクルスに引退.その後中央政治にはいっさい関与せず.
1829年
4 ゲレロ,大統領に就任.保守派のアナスタシオ・ブスタマンテ将軍が副大統領に就任することで,両派のあいだに妥協が成立.
7 スペイン,メキシコ奪回をめざし攻撃開始.スペイン軍三千名がタンピコ要塞を占領.司令官はイシドロ・バラーダス将軍.
8 ゲレロ政権,サンタアナの部隊をタンピコに派遣.サンタアナはスペイン軍と直接対決せず,包囲・持久作戦に出る.
9.15 メキシコ,奴隷制廃止を宣言.奴隷制をとる米国人入植者を制限するためとされる.
10 スペイン軍に伝染病患者が続出.戦闘力を失ったスペイン軍は降伏し撤退.
12.02 スペイン軍排除で力を得たゲレロ政権,奴隷制度の廃止を含む改革を立法化.ただし最大の支援者である米国に配慮し,奴隷禁止令からテキサス地域を除外.
1830年
1 ブスタマンテ副大統領,反乱を開始.チルパンシンゴの決戦で勝利.ゲレロ大統領を追放し大統領につく.ルカス・アラマンを内相兼外相に迎える.アラマンは輸入繊維製品に2割の関税をかけ,これを財源として興業銀行(バンコ・デ・アビオ)を拡充.サラヤやオリサバの織物産業の育成,牧畜業を中心とする農業,鉱業の活性化を図る.また欧州列強との債務再交渉などに着手.
4 ブスタマンテ,連邦主義者の後ろ盾として暗躍したポインセット米公使を追放.米国人のテキサスへのあらたな入植を全面的に禁止.軍隊を派遣し,国境警備隊による関税を義務づける.これに対し入植者からはテハスのメキシコからの分離を主張する声が高まった.
31年 ゲレーロ,南部で自由主義者を結集し反乱を起こすが敗れ,処刑される.ブスタマンテ政権の中央集権的政治姿勢に対し,連邦主義者と州を牛耳るカウディージョの反感が集中.
32.1 サンタアナ,ゲレーロの処刑に抗議.反ブスタマンテの立場を明らかにし,ベラクルスで反乱を開始.まもなくブスタマンテは退陣を余儀なくされる.
1833年
4.01 サンタアナ,連邦派の支持を得て大統領に就任.政権を自らになうことなくベラクルスに引きこもる.統治をゆだねられた副大統領バレンティン・ゴメス・ファリアスは,教会・軍の特権廃止,教会財産の押収,教育の世俗化など植民地時代からの封建的遺制を排除し,自由主義による発展を目指す.
33年 テキサス,自治州に昇格.独立した州としては認められず,隣接するコアウイラ州に従属することとなる.米人入植者,サンフェリペで大会を開きテキサス州法の制定を決議.オースチンはメキシコにとどまるよう説得.
33 カリフォルニアで先住民の反乱.何千頭もの牛を殺し一斉逃亡.
1834年
4 軍部や教会は,ファリアスの急進的改革に危機感を抱き,各地で反乱を起こす.サンタアナはファリアスを引退させ,みずから大統領執務に復帰.議会を解散し改革法令を廃止.ホセ・ルイス・モラ,ロレンソ・デ・サバラなどの自由主義者は,国外亡命を余儀なくされる.その後20年間で36人が大統領につくなどメキシコ政界は混乱を極める.
34年 オースチン,住民代表としてサンタアナ大統領と会見.交渉の結果移民制限法の撤回は認められたが,テハスの州昇格は拒否され,オースチンは反乱を企てたとして拘留される.
1835年
6.30 憲法改正と中央集権化に反対するテキサスの米国人入植者,コアウィラ・テキサス自由州を宣言.
10.1 独立を求めるテキサスの米国人,ゴンサレスで蜂起開始.
10 保守・中央集権派による議会,憲法改正要綱発表.テキサス州を含む連邦州政府の独自性を否定し,大統領の任期を8年に延長.
11 サンタ・アナ,6千の兵をひきいテキサス反乱の鎮圧に向かう.オースチンはサンアントニオでフアン・セキンの率いるメキシコ軍への攻撃を指揮.
12.20 テキサスの米国人,メキシコからの分離と自治の権利を宣言.テキサス独立戦争が始まる.
1836年
2 エル・アラモ砦に立てこもるトラビス中佐指揮下の米兵182名,サンタアナの率いる3千の兵に包囲される.サンタアナは「一人の捕虜も出すな」と皆殺し作戦を指示.
3.2 Washington-on-the-Brazosで完全独立を宣言.デイビッドG.バーネットを暫定大統領に,サム・ヒューストンを軍事司令官に,オースティンを米国特使に選出.オースチンは米国への特使に任命され,ワシントンで独立軍への軍事援助と将来の米国への併合を求める.
3.6 アラモ砦,2週間の攻防の末陥落.デイビー・クロケットら守備隊は全員玉砕.
4.21 サン・ハシント(現ヒューストン近郊)のたたかい.ヒューストン将軍指揮下のテキサス軍が奇襲攻撃.これによりメキシコ軍は殲滅,サンタアナは捕虜となる.
6 サンタアナは釈放と引き換えにテキサスの分離独立を認めるベラスコ条約に調印.メキシコに帰ったサンタアナは条約の無効を宣言しマンガ・デ・クラーボに引退.
7月 ゲインズ将軍,テキサス独立に伴い,「先住民による不測の事態に備え」Nacogdochesを占領.
10 テキサスで最初の州統領選挙.ヒューストン将軍が小差でオースチンを破り当選.オースチンは州務長官の任につく.
12 スペイン,メキシコと平和友好条約を結び,メキシコの独立を承認.
1937年
3 米国,テキサスの独立を承認.
4 ロンドン亡命中のブスタマンテが戻り,ふたたび大統領に就任.アラマンは米国の力の増強に脅威を抱き,ラテンアメリカ諸国が団結して対抗するよう訴える.
1838年
3 メキシコ市の暴動で財産をうしなったフランス人菓子パン職人,店がメキシコ兵士によって破壊されたとしてフランス王に訴える.フランスは損害賠償として60万ペソ(3百万フラン)を要求.
7.12 フランス軍,メキシコに宣戦布告(菓子戦争).軍艦を送り,ベラクルスを封鎖.対岸のサンフアン・デ・ウルア要塞を砲撃した後,ベラクルスに上陸.
7 テハス戦争以来退役していたサンタアナは義勇軍を募り,ベラクルスでフランス軍と戦闘.砲弾で落馬し左足をうしなう.ベラクルスを占領されたメキシコ政府は,60万ペソの支払いに応じ,フランス軍は撤退.
39 テキサス共和国,サム・ヒューストンを初代公式大統領,スティーブン・オースティンを国務長官に任命.
40.2 第一次ユカタン戦争(カスタ戦争)が始まる.連邦主義者のイマン将軍,ユカタン州の独立を宣言.バヤドリの町を占拠.サンタアナにより鎮圧,3年後に復帰.
41 グアダラハラでもブスタマンテに反対する反乱.
41 サンタアナ,メキシコ市を占拠しブスタマンテを追放.
1842年
9.27 サンタアナ,ベラクルスで失った左足を掘り起こし,メキシコ市に運び国葬に処す.
10.19 米太平洋艦隊,「戦争開始の誤報」を受けカリフォルニア州モントレーに強制入港.やがて引き上げる.1週間後にはサンディエゴでも同様のエピソード.
42年 バンコ・デ・アビオ,閉鎖に追い込まれる.ルーカス・アラマンの尽力であらたに産業庁が設置され,興業経営者と農牧業者の組織が試みられるが,財政難から破綻.
1843年 サンタアナ,大統領となる.メキシコ共和国政治組織基本法(憲法)制定.大統領の権限が強化され事実上の独裁制に移行.
8.23 テキサス共和国のサム・ヒューストン大統領,米国に併合を求める.サンタアナ,米国によるテキサス併合の動きに対し警告.
1844年
44 カトリック保守派のマリアノ・パレーデス・アリジャガが反乱に成功.サンタアナをハバナに追放.パレーデスは対米強硬姿勢を貫く.
44 タイラー大統領,上院のテキサス併合条約承認を待たず,「テキサス住民をメキシコから保護するために」軍を派遣.議会の問責決議に対しては,「予行演習であり,デモンストレーションに過ぎない」と強弁.
44 米大統領選.「テキサスの再併合,オレゴンの再占領」を訴える民主党のポーク(James K. Polk)が当選.ポークはテキサス共和国の合邦希望を受け入れると宣言.
1845年
3.03 米国議会両院,メキシコの抗議を無視しテキサス併合と准州昇格をきめる合同決議案を採択.
3.28 メキシコ政府,米国との国交断絶を通告.ワシントン駐在の大使を召還.「テキサス共和国」を一時的な反乱政権だと宣言.テキサス独立を承認した講和条約を事実上破棄.領土奪回への意欲を示す.
3月 メキシコ政府,テキサス共和国に対して,独立を認める代わりに、いかなる国との合邦も禁止する条約の締結を提案.テキサスはこれを拒否.
7月 テキサスで住民投票.合邦が承認される.
8月 テキサス政府とアメリカは、アメリカ軍のテキサスへの駐留について合意.
8月末 ザカリー・テイラー少将(Zachary Taylor)が占領軍司令官に任命される.メキシコはリオグランデ川を国境線とする講和条約を批准せず、リオグランデ川とヌエセス川の間を自国領と主張.このためテイラーはヌエセス河岸にとどまる.
9 メキシコは紛争の平和的解決を話し合うためのアメリカ外交使節の受け入れを決める.ポーク大統領,ジョン・スライデルを団長とする秘密交渉団をメキシコへ派遣.テキサス=メキシコ境界の確定,ニューメキシコ,カリフォルニアの買収(最高3千万ドル)を目指す.公的債務のデフォルトをめぐる交渉で行詰まる.
秋 メキシコで政変.穏健派とみられたヘレラ大統領が武闘派のパレデスに追放される.パレデスはそのまま大統領となり、両国関係は一挙に緊張.
12.29 テキサス,公式に米国に合併.メキシコは武力により失われた領土の奪還を果たす可能性があると宣言.
45 米人冒険家フリーモント,カリフォルニアで独立工作を開始.
1846年
1 パレーデス,大統領に就任.ルーカス・アラマンを理論的指導者とする.アラマンはイグアラ計画の復活,君主制の実現をもくろむ.米国は保守派パレーデスの大統領就任に不満をもつ
1.13 ポーク大統領,テイラーにリオグランデ川北岸まで進軍するよう指令.テイラーは3000の兵士を進め,リオグランデを挟んでマタモロス市の対岸に「テキサス砦」を設営.海軍にリオグランデ川河口の封鎖を依頼.海軍で封鎖作戦の指揮をとったのが,後に日本に来航するペリー提督.
1月 マトモロスの守備隊長メヒアはテイラーに撤退を要求.攻勢を含む軍事的措置がとられる可能性があると警告.テイラーは「アメリカ大統領の命令がなければ撤退できない」とするいっぽう,防衛措置以外はとらないと確約.
メキシコ戦争の経過
1846年4月
4月 メキシコ政府,アンプディア将軍を国境軍司令官に任命.マタモロス守備隊を6000人に増強.これにより兵力はテイラーの2倍となる.
4.24 メキシコ軍総司令官マリアーノ・アリスタ,リオ・グランデ川の渡河を命令.トレホン麾下の2000の兵がランチョ・デ・カリシトスで渡河.ブラウンズビルの北方25マイルに駐屯中のソーントン大尉の率いる騎兵隊を襲撃。この攻撃でアメリカ騎兵14名が殺害され残りは捕虜となる.
4.26 海兵隊は電撃作戦によりタンピコ,アルバラドの港を確保,ベラクルス港を封鎖.メキシコ軍総司令官アリスタは戦争状態を宣言.
4月 国務省の命令を受けたジョン・C・フリーモント中佐(一説に大尉),60人の探検隊を率いてカリフォルニアに入る.サクラメント入植地のサッター砦でメキシコからの独立運動を工作.(カリフォルニア征服の経過については米国年表に記載)
1846年5月
5.01 テイラー軍,メキシコ軍迎撃のためポイントイサベルに向かう.マタモロス守備隊は,司令官不在となったテキサス砦を砲撃.司令官のブラウン少佐が戦死.メキシコ軍司令官アリスタは,テキサス砦に戻ろうとするテイラー軍をパロアルトで待伏せ.テイラー軍はメキシコ軍の撃退に成功.
5.02 テイラー軍,ラ・カサ・デラ・パルマでメキシコ軍を撃破.メキシコ軍はマタモロスに撤退.テイラー軍は,国境を越えないまま待機.
5.08 メキシコ軍,リオグランデ河畔のテキサス州パロアルトに進駐した米軍を「越境」攻撃.米兵16人を殺傷.
5.11 ポーク大統領,5月8日の事件を取り入れた戦争教書を議会に提出.ポークは「メキシコがアメリカの国土の上にアメリカ人の血を注いだ」と煽る.ポークは当初,スライデルとの交渉を拒絶したことだけを理由に,敵意を正当化する教書を提出するつもりだったといわれる.
5.13 米国,メキシコ軍のテキサスへの「越境」を口実に宣戦布告,米国・メキシコ戦争始まる.リンカーンらのホイッグ党は「弱国に対する強盗戦争」とポーク大統領を強く非難.ニューイングランド勤労者協会は「メキシコ戦争は軍人や奴隷主やヤマ師どもがメキシコの領土を食いもにしようとするための戦争に過ぎない」と批判.
5.18 アメリカ軍はマタモロスに入城.アリスタは100マイル南のモンテレイに撤退.
5 カンザス州のレヴェンワース砦で米西部軍が創設される.司令官はスティーブン・ワッツ・カーニー大佐.第1ミズーリ山岳連隊・第1騎兵大隊・ミズーリ山岳騎兵隊からなる約1500名の「西部軍」部隊を編成.さらにモルモン教徒を中心に約1000名1個大隊を編成.
6 スティーブン・カーニー大佐の西部軍は,ニューメキシコとカリフォルニアの占領に向かう.
6.14 ウィリアム・アイダに率いられるサクラメント地方の米国移民250人,カーニー軍侵攻に呼応し反乱.ジョン・フリーモントが裏で組織.ソノマに駐屯していたメキシコ軍200人を攻撃し排除.
6.18 アイダ,アルタ・カリフォルニアを領土として「カリフォルニア共和国」(Bear Flag Republic)を樹立したと宣言.手作りのカリフォルニア共和国旗を掲げる.
7.05 海軍准将ジョンD.スロートの率いる米国艦隊,マゼラン海峡経由でカリフォルニアに到達.首都モンテレーを占拠し,米領カリフォルニアを宣言.その後海兵隊がサンフランシスコ・ソノマ・サッター砦を無血占領.星条旗が掲揚されカリフォルニア共和国旗は下ろされる.その後スロートは病に倒れ,ロバート・ストックトン海軍准将に交替.
7月末 西部軍,カンザスからラスべガス・テコロテ・サンミゲルを抜け,コロラド州南部のベント砦に到着.「住民の保護」のためニューメキシコに突入することを宣言.これに対しサンタフェの軍事総督マヌエル・アルミホは「国土防衛のため一身を捧げる覚悟で戦う」と宣言.
46年8月
8.08 ペンシルバニアのデイビッド・ウィルモット下院議員,「メキシコから獲得されるどんな領土でも奴隷制度を禁止する」という条約の修正条項(ウィルモットProviso)を法案提出.議会で激論となるが,否決される.
8.17 ストックトン提督,カリフォルニア併合を宣言.
8.18 西部軍約4000はサンタフェに無血入城.ニューメキシコ州(東半部)がアメリカ領となったことを宣言.アルミホは買収され,戦わずに町を去る.
8月末 カーニー,騎兵隊300を率いてカリフォルニア占領に向かう.歩兵部隊を中心とする残余の部隊はドニファンの指揮のもとメキシコに向かう.ドニファンはウールの指揮する第二軍との合流を果たすためモンテレイを目指し南下.
9.25 カリフォルニアについで,テキサスからザカリー・テイラー将軍の軍が侵入,モンテレーを占領しさらにチワワに進む.カーニー軍は,ザカリー軍支援のためトメまで南下.その後カリフォルニアに向かう.
10月 ジョン・ウール司令官の下,5月以降募集の志願兵による第二軍が編成される.
10月 ロスアンジェルスで米国支配に対する反乱.守備隊は町を追われる.
11月 ニューメキシコから進軍したカーニーの部隊,アリゾナ州サンパスカルでインディアンに襲撃され、重大な被害をこうむる.ストックトンの率いる海兵隊部隊は,カーニーを救助しサンディエゴまで護送.
1846年12月
12.25 エルパソ・デル・ノルテ(現シウダ・ファレス)のメキシコ軍とドニファンの部隊が,エル・ブラジートで遭遇戦.メキシコ軍は敗走.ニューメキシコ全土が米軍により制圧される.
12 打ち続く敗戦に不満をもった自由主義派によるクーデター.指導者のバレンティン・ゴメス・ファリアスは,ハバナ亡命中のサンタアナを呼び戻し大統領とし,自らは副大統領に就任.総司令官となったサンタアナは,激戦の末,いったんテイラー軍の撃退に成功.(一説では米国軍の前に敵前逃亡しながら,メキシコ市に「凱旋将軍」として帰還)
46 オレゴン協定成立.米加両国の境界を北緯49度とすることで合意.
1847年
1.05 征服されたばかりのニューメキシコ州タオスで,プエブロ・インディアンとカトリック信者による反乱計画が発生.ベント州知事らは襲撃され暗殺される.サンタフェの駐屯部隊はヘンドレイ大尉の率いる小隊を送り鎮圧.本軍からもプライス大佐の1個大隊がニューメキシコに戻る.民衆がカトリック教会に立て篭もり抵抗したため,プライスが建物を砲撃.立て篭もったカトリック教徒全員を殺戮する.
1.10 ストックトンの海兵とカーニーの部隊,リオサンガブリエルとラメサの戦いでメキシコ人反乱軍を撃破しロスアンジェルスを奪還.フレモントのカリフォルニア義勇軍は,メキシコ人叛徒とカウエンガ和平条約を結んだ後ロスアンジェルスに入る.
2 ストックトン准将,カーニーの統制に従わず.フリーモントもストックトンを支持.米国政府はカーニーを支持.カーニーはフレモントを逮捕し,不服従の罪により軍籍を剥奪.連邦政府は三人にたいし帰国命令を出しメイゾン大佐を臨時総督に任命.
2.22 サンタアナ軍,北部から侵入したテイラーとウールの合同軍とブエナビスタ農場で決戦.数の上では圧倒的優勢だったメキシコ軍が大敗を喫す.その後戦線はこう着状態となる.
2月 ミズーリ州からの志願兵を主体に第三軍が編成される.AlexanderDoniphan大佐に率いられ,ニューメキシコからメキシコ領内に侵入.ラス・クルセス,シウダ・ファレスでメキシコ軍を撃破.チワワ州のサクラメント河畔での会戦ではメキシコ軍を撃滅.
1847年3月
3.09 戦線膠着にいらだつポーク大統領,ウィンフィールド・スコット将軍にメキシコ・シティ占領を命じる.スコット軍1万3千人が,軍艦および輸送艦150隻で,ベラクルス近郊のコラド海岸に無血上陸.その後3週間にわたりベラクルスとサンファン・デ・ルアに陸海からの砲撃を集中.
3.29 スコット軍,ベラクルスを陥落.メキシコ市に向け進軍開始.
4.17 スコット軍,ベラクルスからシウダ・メヒコにつながるセロゴルド山で,メキシコ軍と衝突.メキシコ軍は有利な地形にもかかわらず,米軍の砲火の前に敗走.
5.15 プエブラ陥落.メキシコ市は孤立状態となる.
8.19 スコット軍,首都南西9マイルのサン・アウグスティンに到着.サンタ・アナの率いるメキシコ軍主力と対決.2日間の戦闘の後メキシコ軍は敗退.
9.08 モリノ・デル・レイの戦い.メキシコ軍は敗退.
9.13 チャプルテペックでアメリカ軍は勝利.シウダ・メヒコを見下ろす丘を確保.チャプルテペク防衛にあたった士官学校学生は全員玉砕.民衆に「ニーニョス・エロエス」と称えられるようになる.
9.14 メキシコ市,スコット軍により占領.ブラボ司令官は捕らえられる.
9.14 メキシコ政府はケレタロに移転.サンタアナは首都陥落の責めを負い辞職.その後もプエブラに駐留していたアメリカ軍を襲撃するなど抵抗を続ける.米政府は国務省事務官長(chief clerk)ニコラス・トリストをメキシコに派遣,条約交渉に当たらせる.
10月 ゲリラ戦で抵抗を続けるメキシコに米国の兵站線がしばしば脅かされるようになる.米軍はモンテレイ,マタモロスで抵抗するゲリラを見せしめ処刑.
11 サンタアナ,ジャマイカをへてコロンビアへ亡命.マヌエル・ペーニャ前外相がケレタロ政府首班となる.保守派のアラマンを中心に国家再建にあたる.24年憲法を復活させ国内混乱を収集しようと図るが,各地でインディオの反乱があいつぐ.
12月 グアダルーペ・イダルゴで和平交渉が開始される.米国はニューメキシコとカリフォルニアに対し1500万ドルを支払い、下カリフォルニアの割譲要求を取り下げるなどの妥協案を提示.
47年 第二次ユカタン戦争(カスタ戦争).ユカタン地方の東部・南部で砂糖キビ農園の拡大と土地収奪に抗議するマヤ族キンタナローの蜂起.ベリースの英軍の支持も得た反乱軍は,翌年半ばには半島の4/5を制圧.
1848年
1.28 アルタ・カリフォルニアのサクラメント近郊,サッターズ・クリークに金山発見,ゴールドラッシュを迎える.
2.02 トリスト特使とペニア新政府との間にグアダルーペ・イダルゴ講和条約締結.メキシコはテキサスからカリフォルニアにいたる北部領土約240万平方キロを1825万ドルと引き換えに譲渡.これはメキシコ領土の52%に相当.
2 サポテカ族出身のインディオのベニト・ファレス,オアハカ州知事に就任.
3.10 グアダルーペ・イダルゴ講和条約が米上下両院で批准される.5月30日発効.
49 政府,ユカタンの反乱平定に乗り出す.三人の指導者があいついで暗殺され,反乱軍は劣勢に追いこまれる.8年間の戦いの間にユカタンの人口は半分に減少.何千もの避難者が英領ホンジュラスに逃亡.
49 メキシコ戦争の英雄ザカリー・テイラー将軍,ポークの後継者として大統領に就任.
50 「1850年妥協」が成立.テキサスにおける奴隷制の維持が認められる.
50年 カリフォルニア,アメリカの31番目の州となる.
52.10 保守派,グアダラハラでオスピシオ計画発表.アラマンは国家の統一と建て直しのため,これまでの行きがかりを捨てサンタアナの復帰を要請するよう主張.
1853年
4.15 保守派によるクーデター.
4.20 保守派,ベネズエラ亡命中のサンタアナを呼び戻し4度目の大統領に据える.サンタアナは国会を廃止し,「終身独裁官」を名乗る.
6.02 財政再建にあたったアラマン死去.その後サンタアナは浪費を繰り返し,国家を破産に追い込む.
6 サンタアナ,自由主義者に対し弾圧.アカプルコの関税長イグナシオ・コモンフォルト,ミチョアカン州知事メルチョル・オカンポらが国外追放.ファレスも逮捕投獄.その後ニューオーリンズに亡命.
9 ユカタンの反乱軍降服.一部はさらに長期にわたり抵抗を続ける.捕虜の多くはキューバへ奴隷として売却される.戦争による犠牲者は全人口の半分25万人におよぶとされる.
10.15 カリフォルニア在住の米国人冒険家ウィリアム・ウォーカー,アパッチ・インディアンからメキシコ人を保護するという名目で,遠征隊を組織.サンフランシスコから出航.バハ・カリフォルニアに向かう.
11.03 ウォーカーら,ラパスに上陸.「バハ・カリフォルニア独立共和国」を宣言.ウォーカーは自ら大統領を名乗る.
12.30 米国,ヒラ川南方のラ・メシージャ地方760万ヘクタールをメキシコより割譲させる.交渉にあたった米国特使の名を取りガスデン協定とよばれる.同時にテウアンテペク地峡の自由通行権,コロラド川とカリフォルニア湾の自由利用権を認める.補償金はわずか一千万ドル.サンタアナは秘密裏に交渉を進め,補償金を着服.
53年 カリフォルニアを中心に,神出鬼没の義賊,ホアキン・ムリエタのウワサが広がる.
1854年
1.18 ウォーカー,ソノーラ州の併合を宣言.
3.01 サンタアナの背信行為を前に反対勢力が大同団結.アユトラ宣言を発し,南部山岳地帯で反乱を開始.
アユトラはゲレーロ州の町で,指導者の一人フアン・アルバレスの牧場があった.反乱計画そのものは,米国のルイジアナに亡命していたオカンポ,レルド,ファレスら若手自由党員の手になるもので,「自由主義・共和主義の原則に基づく制憲議会」を召集するよう訴えたもの.フアン・アルバレスと,コモンフォルトを指導者に担ぐ.
アルバレスはモレロスのかっての部下で,インディオと黒人の血を引く.政界の大立者だったが,サンタアナに冷遇されたことから反乱に加わったといわれる.5 メキシコ軍に追い詰められたウォーカーは,サンディエゴ近くの国境で米当局に降伏.中立法違反で裁判にかけられるが,まもなく無罪となる.
レフォルマの時代
1855年
8.09 サンタアナ,辞職しベラクルスからベネズエラへ亡命.
8.13 自由党軍,メキシコ市に入城.革命成功.
10.04 アルバレスが臨時大統領となる.政権の主体をファレス,オカンポ,ミゲル・レルド・デ・テハダなど若手改革派がにぎる.第一次レフォルマ開始.33年のファリアス改革プランを下敷きとし,中央政府の権限縮小および軍・教会の勢力削減を推進する.反乱に加わったディアスは,わずか25歳で,ナヤリート州イストランの町長に指名される.
11.14 法相に就任したファレス,軍人および僧侶の裁判上の特権を廃止しようと「ファレス法」を提出.①教会による土地所有を,教会に直接関係するものに限定し,その他のものは売却させる.②出生,結婚,死亡などの登録に関する教会の権限を取り上げる.③聖体拝受のための課金を禁止する.
12月 ファレス法が保守層の猛反発を食い流産.ファレスは教皇ピウス9世により破門される.アルバレスは事態を収拾できないまま辞任.これにかわりコモンフォルトが大統領に就任.蔵相となったオカンポは聖職者の投票権を禁じる法案を提出.
56.6 ファレス法に代わり,教会の土地問題に絞ったレルド法が公布される.共同体と教会の土地所有を禁止し,競売を強制する.この時点でカトリック教会は国土のほぼ半分を所有.同時にインディオの共有地(エヒード)も強制売却させたことによりインディオの貧困化をうながす.共有地(エヒード)を奪われたインディオとこれを扇動する教会の反乱ひろがる.
1857年
1月 ミゲル・レルド,保守派の抗議を前に辞任.
2.05 57年憲法制定.改革諸法の他,三権分立,共和制,二年毎に選ばれる一院制議会,連邦制などを定める.サンタアナ独裁の教訓から,議会の権限を大幅に強化するとともに,言論・出版・信仰の自由を保障する.教会法制定.教会の不動産所有を禁じ,教会が信者から謝礼を受け取ることを禁止.ローマ法王ピウス9世,メキシコ政府を非難する声明.この頃からコモンフォルトと急進派のファレスのあいだに確執ひろがる.
7 新憲法に反対する保守党はタクバヤ計画を発する.これに同調する首都駐屯部隊の蜂起.自由党政府崩壊.反乱部隊は,軍と聖職者の支持を得て議会を解散,コモンフォルト大統領とファレスを逮捕.コモンフォルトは,辞任ののち米国に亡命する.メキシコ入りしたスロアガは大統領就任を宣言.
8 首都を追われた改革派は,ケレタロからグアナファトに逃れ臨時政府を樹立.脱獄に成功したファレス最高裁長官が大統領に選出される.3年にわたる「改革戦争」に移行.
57年 ユカタンで「物言う十字架崇拝」運動による反乱.テカシュとバカラールの町を襲撃しラディーノ千人を虐殺.チャン・サンタクルスを首都とし教会中心に行政制度を確立.ベリーズのイギリス軍の暗黙の支持も受け40年間にわたり半独立状態を確保.
1858年
1月 スロアガ将軍,大統領就任を宣言.ただちにレルド法を無効と宣言.
5 グアナファト,保守党軍により陥落.ファレスは米国に亡命し臨時政府樹立.
59 保守派に内紛.スロアガにかわりミラモンが大統領就任.
1860年
10 米国大統領にリンカ-ン就任.
12.23 ファレス,米国の支援を受けベラクルスへの上陸に成功.レルド法をさらに徹底したレフォルマ法を公布.教会の十分の一税の廃止,教会財産の無償没収を宣言.ほかに修道院の閉鎖,婚姻登録の世俗化,共同墓地管理の民事移管,宗教的祭日の廃止などを盛り込む.
1861年
1.01 ベラクルス政府,内戦に勝利.国庫は破産状態.
3 ファレスは大統領選挙に勝利.外国債権者はいっせいに債務支払いを要求.ファレスは全ての対外債務返済の一時停止を宣言.
4 米国で南北戦争開始
5 ファレス,治安悪化に対処するため地方警察(ルラーレス)を設置.のちにディアスによって弾圧機構として整備.
7 メキシコ議会,2年間の対外債務支払延期を決議.
10.04 ナポレオン3世,オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世を通じてフェルディナンド・ヨーゼフ・マクシミリアン大公(フランツ・ヨーゼフの弟)にメキシコ皇帝即位を依頼.
10 英,仏,西の主要債権国,ロンドン会議を開催,対外債務の支払いを求め,武力干渉と関税差し押えを決定.
12.14 スペイン艦隊がメキシコのベラクルスに到着.占領開始.
1862年
1 三国同盟軍,債務不履行を口実にベラクルス港を占拠.メキシコ国内の保守派はこれに呼応して決起.
2月 イギリスとスペインは,ファレスの新提案を受入れ撤退.フランスはそのまま居残り,カイライ政府を立て干渉戦争準備に入る.
4.16 フランスがメキシコに宣戦布告.フランス軍,メキシコ市をめざし進軍.プエブラまで進出.
5.05 イグナシオ・サラゴサ将軍のひきいるメキシコ軍は,プエブラに侵攻したフランス軍を迎えうち撃破.(この日はメキシコの祝日となっている)フランス軍はいったんベラクルスへ撤収.保守派はフランス軍に内通し,君主制の樹立をめざす.
1863年
3 フランス,3万6千を出兵し再度侵攻を開始.プエブラ包囲作戦を開始.
5 プエブラの抵抗もやぶれる.亡命先から帰国し参戦したコモンフォールト前大統領,プエブラの戦いで戦死.
5 ファレス,プエブラ陥落を受け首都を避難することとする.
6.07 フランス軍,メキシコ市を無血占領.ファレスは,チワワ州パソ・デル・ノルテ(現シウダ・ファレス)で米国の支援のもとに4年間にわたる抵抗運動を続ける.南部ではアルバレスやディアスが抵抗を開始.
6 フランス軍,保守派による臨時政府を樹立.ただちにナポレオン3世の計画にもとづき,マキシミリアンを迎えるための交渉(ミラマル協定)に入る.
10.3 メキシコの保守党の代表派遣団,オーストリア・ハプスブルグ家のフェルディナント・マキシミリアン・ジョセフ大公と面接.メキシコ皇帝となるよう要請.
1864年
4 マキシミリアン,メキシコ皇帝となることを受諾.ナポレオン3世と会見し,メキシコ側の負担で,引き続きフランス軍が駐留することで合意.
6.12 皇帝マキシミリアン一世とベルギー人の妻マリー・シャロット・アメリー・レオポルディン(カルロタ皇后)がメキシコシティーに到着.自由主義者に理解を示し,国内保守派と対立.米国はマクシミリアンを承認せず,モンロー主義の立場からファレス政府を支持.
10月 ユカタン州南部の市パリサダの町でフランス軍と市民との戦い。市民の約半数が戦死するが、多くの犠牲を出したフランス軍はビジャエルモッサへの進軍を断念。
65.11 ファレス,内戦が終了するまで大統領にとどまると宣言.南北戦争を終えた米国は本格的なメキシコ支援に乗り出す.
1866年
2.12 米国,マクシミリアン大公の承認を拒否.フランスにメキシコ撤退を迫る.
3 プロシアとの対応に追われるナポレオン3世は,米国の圧力に屈し,撤退に応じる.
10 ポルフィリオ・ディアス軍,南部で蜂起しオアハカを占領.マクシミリアン,メキシコ市を脱出しケレタロにたてこもる.
11 Sedgwick将軍の率いる100人の部隊,盗賊を追跡しメキシコ領内マタモロスに侵入.米政府は彼の行動を否定し,ただちに撤退を命じる.
1867年
2.19 共和国軍,政府軍に対する攻撃作戦を開始.
3.12 フランス,メキシコからの撤退を完了.ファレス,米兵3千をやといいれ,イグナシオ・サラゴサの指揮の下に反撃に成功.
5.15 皇帝派最後の拠点ケレタロの戦い.マキシミリアン皇帝と保守派指導者は捕えられる.ファレス,みたびメキシコ市入り.
6.14 マクシミリアン,「国家反逆の罪」で新生メキシコ共和国の軍事法廷により死刑判決.
6.19 マキシミリアン皇帝,銃殺される.保守派のミラモン,メヒア将軍も同時に処刑される.
7.15 ファレス,共和制の復活を宣言.財政再建のため革命軍を解散し経済復興に力を集中.軍の勢力削減と財政再建の観点から常備軍を3万から1万に減らす.このため将兵から恨みを買う.
自由主義者の経済政策
過去の支配的経済システムを破壊することに集中.結果としてはレッセ・フェール型経済政策を通じて,一次産品の輸出を基調とするモノカルチャー的産業構造に収斂.輸出産業以外の国内産業は破綻.景気は好不調の波が大きくなり,農民は土地を,労働者は職を失う.12 ファレス,軍不平派の代表ポルフィリオ・ディアスを破り大統領に再選.初等教育の無償,義務化を定めた公教育組織法公布.教会から大衆教育を切り離す.
ディアスは護憲戦争の十数年を協力で忠実な自由党軍幹部としてつらぬく.二回負傷,三回捕らえられ脱走に成功.9回の戦闘でフランス=保守党軍に勝利.
ファレスのメキシコ凱旋の際,そっけなくされたのが原因で仲たがいしたという.68.2 大統領選に敗れたディアス,軍を退き,オアハカ州ラ・ノリアの農場に引きこもる.
68年 フアレス、憲法改正案を提出。大統領権限の強化を図ろうとするが、独裁政治への回帰との反対が強まる。
68 チアパスのサンフアン・チャムーラで「われわれ自身のキリストを崇めよう」をスローガンにインディオの武装蜂起.一時1万3千人を結集するが軍により鎮圧.
1871年
6 メキシコ大統領選,ディアスがファレスの対立候補として立憲党から立起するも敗北.急進派のセバスチャン・レルド・デ・テハダも立候補.選挙後はファレス政権の下で最高裁長官(副大統領格)となる.セバスチャンはミゲル・レルドの弟.
8 ディアス,ラ・ノリア宣言を発し武装反乱を起こすが敗北,逮捕される.各地で解雇された革命軍軍人を中心とする反ファレス派の反乱.革命勢力はファレス派,レルド派,ディアス派に分かれ角遂を続ける.
72.7.17 ファレス,心臓発作で死亡,レルド・デ・テハダが後継大統領に就任する.その強権的手法と対米従属の姿勢に対し,自由党内の反発が広がる.ディアスは大赦により出獄.
73.1 37年以来建設を続けてきたメキシコ=ベラクルス間の鉄道開通.
74 メキシコ金星天体観測隊の隊長として来日した土木省次官ディアス・コバルビアス,「日本旅行記」を発表.日本の政治、経済、社会状況など多岐にわたり考察・分析し,日本人メキシコ移民の導入を進言.
75 ソノーラ州で,ホセ・マリア・レイバ(カヘメ)に率いられたヤキ族の反乱.ホセは自由党の幹部として護憲戦争を戦ったベテラン.レルド派とディアス派の分裂に乗じ,ソノーラ州の実権掌握を図る.大規模な反乱はまもなく鎮圧されるが,その後も98年まで散発的な抵抗が続く.
1876年
1 レルド大統領の再選に反対しオアハカ州で反乱組織.「効果的な民主主義」と州の自治拡大を柱とする「トシュテペック(Tuxtepec)計画」を発表,米国亡命中のディアスを首領にすえる.
7 大統領選挙.レルドが再選される.ディアスはオアハカで蜂起開始.
11.21 マヌエル・ゴンサレスの率いる反乱軍が,トラスカラ州テコアクで政府軍を撃破.レルドは米国亡命.米国はこれに介入しニューメキシコに侵入.