メキシコ年表 その2 1999.9 この年表は1876年,ディアスがレフォルマ政権を打倒してから,1928年の国民革命党結成までの事項をあつかっています.それ以後現在までについてはメキシコ年表 その3をご参照ください.1876年以前に関してはメキシコ年表 その1をご参照ください.
ディアス独裁の時代 革命の開始の時代 革命の深化の時代 革命収拾の時代 革命の保守化の時代
ディアス独裁の時代 1877年
5.02 ポルフィリオ・ディアス将軍,国会の承認を得て大統領に就任,「パンか棍棒か」(パン・オ・パロ)政策をとり「国家粛清委員会」を設立,地方警察を再編強化しレルド派をつぎつぎに粛清.30年以上にわたる独裁体制をかためる.
ディアスには金がなかった。このため軍の増強はできず、その代わりに地方の盗賊を地方警察(ルラーレス)に任命し,二束のわらじを履かせることで地方の治安の回復を狙った.
78年 ディアスのイデオローグとなったフスト・シエラ、「秩序がなければ、自由は実現されない。だから自分たちは保守的なのだ。進歩への一般的な衝動がなければ、秩序もない。だから自分たちはリベラルなのだ」と述べ、「保守的自由主義」を擁護する。
78 酋長Victorioに率いられたアパッチ族の反乱.米墨両軍を相手に,200の兵士がゲリラ戦を挑む.
79.10.15 ビクトリオ酋長,1年のたたかいのあと,メキシコ軍に捕らえられ処刑される.このたたかいをはさんで76年から86年まで,アパッチ戦争が続く.
80.12 大統領選,ディアスは腹心のマヌエル・ゴンサレスを次期大統領にすえる.ディアスは最高裁長官に横滑り.4年後をにらむディアスは,側近の仲でもっとも無能かつ腐敗した人物を選んだという.
11月 鉄道法制定.これを機に米国,イギリスの資本が洪水のように侵入.ハーストは北部の広大な牧草地を獲得,グッゲンハイムは巨大な精錬所を建設,スタンダード石油はメキシコ湾岸油田を支配.
1882年
82 グアテマラと国境条約を締結.
82 メキシコ第二の商業銀行バンコ・ナシオナル・デ・メヒコが創立される.
1883年
83 チワワ州オカンポの英系鉱山で初の労働争議.労働者代表5人が処刑される.
12月 ゴンザレス大統領,土地測量開拓法(未墾地法)制定.「土地測量会社」に査定地の3分の1をあたえる条項により,大土地所有制が発展.これと同時に,入植者への土地分譲を保証する入植法も成立.ディアス一派は国土の4分の1(日本の総面積の1.5倍)を獲得.未開墾地とはいえ,先住民の土地の収奪そのもの.
84.12 ゴンサレスの任期満了に伴い,第2次ディアス政権が成立.内閣は各派を網羅する幅広いものとなる.蔵相にはマクシミリアン政府で働いたマヌエル・ドゥプラン,内相にはレルド派のマヌエル・ロメロ・ルビオ,文相には教会派のフスト・シエラが任命される.政策的には,教会の復権を認め,再選禁止条項を反故にするなど,保守化と官僚化,独裁化が鮮明に.
85 外債処理法が成立.三年間で対外債務を完済することが定められる.
86年 カデナの反乱,失敗に終わる.
87年 憲法改正.大統領の無期限の再選が可能となる.
1888年
2 ホセ・マリア・レイバ(カヘメ)に率いられたヤキ族の反乱,最終的に敗北.カヘメは捕えられ銃殺.残党はユカタン半島に追放され,重労働の刑に処せられる.ヤキ族の抵抗はその後十年以上にわたり続く.
12 ワシントンにおいてメキシコと日本が対等の条件の修好通商条約を締結.
91年 外務大臣榎本武揚,メキシコ殖民団を組織.チアパス州ソコヌスコ郡エスクィントラ周辺の官有地をメキシコ政府から購入し、同地にコーヒー栽培に就業する日本人を殖民する計画.
1892年
6.04 新鉱山法が制定.地下資源に対する私的所有の権利が承認される.これを機に米国資本が怒涛のように侵入.
10月 大統領選に「反対勢力」として出現したクリオージョ若手エリート集団,自由主義同盟結成.その後ディアスに取り込まれ,白人優位の思想を背景にコントの実証主義を信奉する「シエンティフィコス」とよばれるテクノクラートに変身.
1893年
93 フランス人移民の子ホセ・リマントゥール,蔵相に就任.外資の大規模な導入をおこない,インフラストラクチャ部門の充実など「上からの資本主義化」を促進.ディアスはリマントゥールらシエンティフィコスと,レイエスに代表されるカウディーリョの間にたち,絶対権力を維持.
93年 企業誘致法が改正される.新規に参入した海外資本に対し,一定期間にわたり連邦税の徴収が猶予される.
94 未墾地売買譲渡法が新たに制定される.共有地分割法も強化され,国土の8分の1にあたる先住民の土地3,300万ヘクタールがつぎつぎと奪われ,土地測量会社を通じて大農園主や外国企業に譲渡.最終的に未墾地・共有地の9割が解体.農民の95%が土地なしとなる.
94 グアテマラ,国境条約を否認,軍を南部国境地方へ侵入.
95 この年の統計で平均寿命は30歳にとどまる.0歳児死亡率は323パーミリ.これはロンドンやボストンの三倍にあたる.
97.5.19 草鹿砥寅二を監督とする「榎本メキシコ殖民団」(自由移民および契約移民の計34名)が,チアパス州エスクィントラ殖民地に入る.入植地におけるコーヒー栽培営農の経験不足、スペイン語の言語の壁、生活習慣の相違、さらに本社からの経営資金が絶たれたことなどに原因して短期間で崩壊.照井亮次郎らは残留し定住.その後「墨国移住組合」の藤野辰次郎が殖民地経営に乗り出すが同様に失敗.
99.7 ソノラ州のヤキ族,ふたたび反乱.これを鎮圧したラモン・コラル知事は,残党をユカタン半島のプランテーションへ奴隷として売り飛ばす(一説に95年).
1900 1900年
12.01 ポルフィリオ・ディアス,メキシコ大統領に6期連続就任.マゴン兄弟,レヘネラシオン紙創刊.ディアス独裁反対の論陣を張る
00 サンルイス・ポトシで教会幹部による不正発覚.これを機にカミロ・アリアガらの反教会運動もりあがる.
00 メキシコ市の人口調査.住民の16%にあたる1万5千人がホームレスであると報告.
1901年
2 アリアガのよびかけで反教会運動の活動家を中心に自由主義者会議結成.ディアス・ソト・イ・ガマ,フロレス・マゴン,フアン・サラビアなども参加.自由党結党計画を採択.
01 ブラボ将軍,反乱軍の首都チャン・サンタクルスを占領.第三次ユカタン戦争終結.
01 米国人鉄道技師エドワード・ドヘニイ,タンピコ近郊で油田を発見.メキシカン石油会社を設立し,翌年より本格的採掘を開始.06年には採油量50万バレルに達する.
1904年
1 武装闘争を説くフロレス・マゴン兄弟ら自由主義者会議急進派,ディアスの弾圧によりテキサス州サンアントニオに亡命.
2 マゴン兄弟、テキサスのラレードで反ディアスの組織を立ち上げる。「レヘネラシオン」紙を創刊。
6.21 メキシコ最高裁、モレロス州ヤウテペクの農民が起こした訴訟を棄却。エスカンドン農場との間に起きたこの訴訟は、土地問題に関する激しい議論を呼ぶ。官憲は村の年長者を捕らえ、強制労働キャンプに送り込む。
6月 ディアス、大統領の任期を6年に延長、また副大統領職を復活させる。
7月 ディアス、大統領に「再選」される。副大統領にはシエンティフィコの頭目であるラモン・コラールが就任。
10月 コアウィラの大地主フランシスコ・マデーロ、政治クラブを組織。ディアス派候補の押し付けに反対する地方政治の改革運動を支持する。
04年 チワワの大地主ルイス・テラサス、州政府の実権を握り、義息エンリケ・クリールに統治をゆだねる。クリールは州内各市の市長の首を挿げ替え、独裁的なボス政治を開始。強制的な土地取り上げ法を制定し、村落の共同地に対する攻撃を開始。
1905年
1 マゴン暗殺未遂事件.マゴンはサンアントニオからさらにセントルイスに逃亡.
5.21 コアウィラ州の反ディアス諸組織がメキシコ・シティーで州民大会を開催。マデーロら自由派は、シエンティフィコの支配する保守派に多数を奪われる。保守派はまもなく支配体制側に引き込まれる。
9.25 マゴンら,セントルイスでメキシコ自由党(PLM)を結成.労働運動の指導にあたる.機関紙「再生(」レヘネラシオン)を発行.共有地の返還,8時間労働の実施などを訴える.アナーキズムの立場から3度にわたり武装蜂起を試みるがいづれも失敗に終わる.
05 副大統領制実施.ラモン・コラルが就任.大統領任期は6年に延長される.
05年 金本位制導入.同時に貨幣鋳造権も連邦政府の下に一本化.以後5年間に物価は2倍に騰貴.国民生活を直撃.平均寿命30才,乳幼児死亡率は3割,文盲率は8割に達する.
1906年
4月 マデーロ、1910年の大統領選挙に向け反ディアス派の全国ネット形成に向け努力を開始。
5月 ソノラ州のカナネア銅山で賃金差別に抗議するストライキが開始される。この銅山は米国人ウィリアム・グリーンが経営するコンソリデーティッド銅山会社(CCC)に属する。ストには1万人が参加。マゴンの影響を受けたカナネア人道自由同盟が指導.
6.01 ソノラ州知事の指令により警察が介入。
6.06 カナネア銅山のストライキが敗北に終わる。弾圧により23名が虐殺される.この弾圧にはアリゾナ州警備隊(実体はCCCの雇った暴力団)も越境して参加.
7.01 全面的な社会変革をもとめる自由党員30人がテキサスから侵入.コアウィラ州ヒメネスの街を襲撃し市民に反ディアスの蜂起を呼びかける.
7月 フアン・サラビアが指導する「メキシコ自由党組織評議会」,52項目からなる自由党綱領を著す.アリアガらに配慮し自由主義を基調としながら,労働保護,土地改革,反帝民族主義なども盛り込む.17年憲法の精神となる.
9月 自由党の全国蜂起計画が失敗に終わる。米国内の指導者の多くが逮捕される。ベラクルス州南部の小規模なゲリラ部隊は1910年まで存続する。
12.07 ベラクルス州オリサバのリオブランコ紡績工場で,賃上げ,労働時間短縮(14時間から12時間へ),売店廃止を要求しスト.これをきっかけとしてプエブラ州でも紡績工場のストが続発する。経営者がメキシコ中部全土でのロックアウトで対抗したことから、紛争はベラクルス・プエブラ全州に拡大。組合指導者はディアスのもとに争議の調停を依頼。
1907年
1.07 ディアス、労働者の要求を認めず。労働者の抗議に対し連邦軍を出動させ弾圧。
1.09 連邦軍、リオブランコ紡績工場に突入し、労働者2百名以上を虐殺.ストライキが敗北。
8月 06年の弾圧を逃れた自由党の活動家が、ロスアンゼルスで一網打尽となる。
12月 米国での金融恐慌が始まる。これは輸出価格の下落をもたらし、国内景気の停滞と国家財政の欠損を引き起こす。
07 ホセ・バスコンセロス,アルフォンソ・レイエスらを中心に「講演協会」設立.2年後に青年文芸協会と改称.シエンティフィコスの「秩序と進歩」に反対し,労働者・農民の立場にたつ知識人運動を展開.
07年 米政府、バハ・カリフォルニアのマグダレーナ湾の永久租借を要請。これをディアスが拒否したことから、両国関係は冷却し始める。
1908年
2 ディアス,米国人ジャーナリストのジェームス・クルールマンと記者会見.「今やメキシコには中産階級が育ちつつある.いまや変化のための機会である」と述べ,次期大統領選への不出馬と反対党設立の自由を声明.実際には野党活動を多少は大目に見るという程度のニュアンスであったといわれる。
3.03 クリールマン、ディアスとの会見内容を公表。クリールマン宣言と呼ばれる.次期大統領を狙い,相次ぎ後継者が立候補声明.政治戦線はにわかにあわただしくなる。
3.01 チワワ州知事クリールの所有する鉱山銀行(Banco Minero)が襲撃される。身内の犯行が疑われるが、クリールは無実の容疑者を捕まえ、刑罰を課す。
5.30 ディアス、支持者に「さらにもう一期」の要請をあげさせるよう工作を開始。
5 経営不振におちいったセントラル鉄道とナショナル鉄道(いづれも米国系)を買収し,メキシコ国有鉄道が設立される.
6.18 コアウィラ,ユカタン,チワワで体制変革を求める自由党の反乱があいつぎ発生.実際には米墨両国内での自由党指導部に対する一斉摘発の結果、一部が暴発したものといわれる。
10月 80歳となったディアス,1910年の大統領選への出馬を表明.シエンティフィコの代表ラモン・コラルを副大統領候補に指名.政権禅譲と院政継続を狙う.ディアスの声明は,与党内からも反発を招く.反ディアス派は,ヌエボ・レオン州知事のベルナルド・レジェスを副大統領とするよう主張.ディアスはこれを拒否.レジェスを軍事使節団代表としてヨーロッパに送る.
11月 フランシスコ・イグナシオ・マデーロ,「1910年の大統領の後任」を発表.コラルの排斥を主張.マデーロは北部コアウィラ州の大農場主で,もともとディアス派の幹部.エリート家族の一員で,思想的には保守そのもの.
08年 米国のピアソン財団,タンピコ南方で大油田を発見.権利をロイアル・ダッチ・シェルに譲渡.これに刺激されスタンダード石油も進出.石油開発ラッシュを迎える.米国資本は,鉱山の六二%,石油の四〇%,鉄道幹線のほとんどを支配下にいれる.
1909年
1.20 マデーロ、父あての書簡で「貧困も、監獄も、死さえも私を恐れさせない」と決意を表明。
2.02 マデーロ、ディアスに自らの書籍「1910年、大統領職の継承」を送付。全国に名の知られた反対派リーダーになる。
3月初め コラールへの禅譲は困難と見たディアス,大統領選への出馬を表明.シエンティフィコは再選クラブを結成しディアス擁立に動く.
3.11 チワワ知事クリール、土地収用政策をさらに強める。連邦政府は「1905年チワワ土地法」の凍結を試みるが、まもなく断念。
3.15 ディアス、モレロス州知事に悪名高い地主パブロ・エスカンドンを指名。強力な反対の動きを押しつぶす。モレロス州の実権は一握りの大地主の手に集中。土地の強制収用の動きが加速される。
3.25 与党の党大会、ディアス=コラールの正副大統領候補を決定。コラールと周囲のシエンティフィコスはディアスの永久独裁を主張。地方を中心とする党内非シエンティフィコスはこれに反発を強める。
4月 経済危機が深刻化。国庫の金準備は危機ラインを突破。
5月 ディアス派の非主流グループ,民主党を結成.ヌエボレオン知事のベルナルド・レジェス(Reyes)将軍を副大統領候補に指名.
5.19 マデーロと支持者たちが「再選反対党」(Partido Anti-reeleccionista)を創立.週刊紙を発行.旧レジェス派も糾合し,最大の反ディアス勢力となる.
5.29 再選反対党、反ディアス宣言を採択。翌月中旬に公表。
6.18 マデーロ、再選反対の全国キャンペーンを開始。メキシコ史上初めての野党の公然活動となる。自由党も,反ディアスの立場からマデーロ支持を決定.
7.30 アカプルコ、地震により破壊される。
8月 ディアス政府、ヌエボレオン州でのレイエス派に対する取締りを強化。
8.27 レジェスはディアスの圧力の前に動揺し,立起を辞退.レイエス派は勢いを失い、多くが再選反対党に合流。
8.31 メキシコ北東部でハリケーンによる大洪水.1400人が死亡.
9.12 モレロス州アネネキルコ(Anenecuilco)の馬調教師エミリアノ・サパタ,町議会議長に選ばれる.何千もの牧場労働者,陸地のない農民を戦闘部隊に組織.牧場を襲い,失われた土地の奪取を呼びかける.
9.30 政府、マデーロ派に対する弾圧を開始。再選反対派新聞を閉鎖し、編集者を逮捕。
10.16 エルパソの国際橋でディアスとタフト米大統領が会談。タフトはバハ・カリフォルニア州マグダレーナ湾の米海軍基地使用協定の延長を求めるが、ディアスはこれを拒否。
11.05 ディアス大統領、レイエスの欧州訪問を要請。レイエスはこれを受諾。事実上の国外追放処分。
12月 マデーロ、ディアス派の脅迫を蹴って全国遊説を再開。全土を揺るがすキャンペーンとなる。
09 国立銀行,不況と鉄道国有化にともなう負担増により経営危機におちいる.政府の引締め策に国民の不満増大.
革命の開始の時代 1910年
2.11 連邦軍、サパタを扇動者として逮捕・拘留。ディアスの義息が身請けし、メキシコシティーで秘書として雇う。
4.14 マデロ、メキシコシティでディアスと会見(最初で最後)。「子供だ、しかも弱りきった」との印象を記す。
4.15 メキシコ・シティーで再選反対大会を開催.マデロは副大統領ではなく大統領候補としてディアスと対決する決意を表明.
5月 アネネキルコにもどったサパタ、住民を率い地主の土地を強制的に取り上げ。
6.04 バリャドリとユカタンで住民の反乱が発生。流血の事態を迎える。
6.16 大統領選直前,マデーロは,反乱を扇動したとしてモンテレーで逮捕され,サンルイスポトシに収監される.これと並行して再選反対同盟の活動家5千名が逮捕され,選挙当日までに6万人が拘留される.
7.08 大統領選実施.選挙干渉により,獄中のマデーロはわずか196票にとどまる.
7.19 マデーロが大統領恩赦によりサンルイスポトシ刑務所から保釈される。
9.01 再選反対党、国会に向け不正選挙の抗議行動を展開。
9.11 メキシコシティでマデロ派のデモ。群集はディアスの邸宅に投石。
9.15 独立百年の祝賀祭が開始。
9.16 ディアス、選挙が公明正大に行われたと国会に報告。
9.27 国会、ディアスの当選を確認。ディアス,8度目の大統領に就任.
1910年10月 マデリスタ反乱の開始
10.05 マデーロ,テキサスにおいて「サンルイス・ポトシ計画」を発表.選挙は不正であり,ディアスは正式の大統領とは認められないと宣言.11月20日を期して一斉蜂起に立ち上がるようよびかける.砂糖農園の囲い込みに抗議する農民を組織していたモレロス州のエミリアーノ・サパタら,蜂起参加を討議.マデロのもとにトレス・ブルゴスを派遣.(後ろの項目と前後関係が合わない。要精査)
10.06 保釈中のマデーロ,リオグランデを渡り米国領ラレードに逃走・亡命.サンアントニオ(テキサス)に拠点を構え、ただちに反ディアスの活動を開始。
10月 自由党ゲリラ、ベラクルス州南部とタバスコ州でゲリラ活動を活発化。
10月 チワワ州のマデーロ派幹部エイブラハム・ゴンザレス、武装反乱に備えパンチョ・ビリャ、パスクワル・オロスコなどの「悪漢」を仲間に引き入れる。
ビリヤは貧農の子供として生まれた。ドロテオ・アランゴと付けられたが、のちにフランシスコ・ビリャと改名.パンチョは愛称.1910年代から周囲にならず者や不満な人間を集め,銀行強盗や家畜泥棒を働く.シウダ・チワワで警察の情報屋Claro Rezaを、顔色一つ変えず殺したことでチワワ全州に名を知られるようになる。
11.14 チワワ州クチージョ・マラドで,トリビオ・アルテガらの小規模な反乱.
11.18 プエブラ州でマシモとアキレスのセルダン兄弟が反乱の陰謀.事前に摘発され,首謀者は死刑に処せられる.マデーロ自らの蜂起は失敗に終る.
11.20 午後6時を期して全国でいっせいに蜂起。マデーロはメキシコ国内に潜入しチワワに向かう。チワワ、ソノラなど北部を除くほとんどの反乱はまもなく鎮圧され、多くの参加者が即決裁判で処刑される。
11.21 パンチョ・ビリャ,28人の部下を率いチワワ州で蜂起,サン・アンドレを占拠し政府軍を撃退.
11.27 地方商人オロスコもチワワ州北部で蜂起.ペデルナレスの戦いで連邦軍を撃破。
11.27 ビリャの部隊、シウダ・チワワを攻略しようと向かう。無謀な試みの結果、テコロテの戦いで壊滅。ビリャはかろうじて逃走に成功。
11月末 モレロス州のマデーロ派、ビリャ・アヤラで蜂起。サパタも反乱に参加する。
12.01 ディアス、米政府に対しマデーロ逮捕を要請。米政府はこれを拒否。
12.04 オロスコ、シウダ・ゲレロを攻略。ディアス政権打倒を公に宣言。
12月初め チワワの反乱軍、1ヶ月にわたる戦いの末、州西部の山岳地帯の確保に成功。
12.11 オロスコとビリャの部隊がセロ・プリエトに進出。北西鉄道を攻撃するが、政府軍部隊との激戦の末撃退される。政府軍の追撃を受けたビリャは、サン・アンドレスを放棄し、山岳地帯に逃げ込む。
12.30 自由党急進派の指導者プラセディス・ゲレーロ(Praxedis Guerrero)、チワワ州ハノス(Janos)で暗殺される。
1910年 ロード・カウドレイ(Lord Cowdray)、タンピコ油田の採掘に成功。メキシコでの大規模な石油生産が開始される。
1910年 国勢調査.住居の50%が人間の居住に適していないとする.メキシコシティーは世界の主要都市中最高の死亡率を記録する。
1911年
11年1月
1.02 オロスコ軍、連邦軍の部隊を殲滅。ディアスに死者の軍服を送りつける。チワワ州駐在の連邦軍当局は政治犯の大量処刑で報復する。
1.24 米政府、騎兵隊をメキシコ国境に配置。しかしマデーロ派の活動は黙認される。
1.29 マゴンの率いる自由党,軍を組織しバハ・カリフォルニア州に侵入,国境近くの町メヒカリを占拠する.米国はアナーキスト革命を策しているとしてマゴンらを逮捕.
1月末 連邦軍、反乱部隊の根拠地となっているチワワ州西部の山岳地帯の攻略に失敗。兵を引き揚げる。反乱軍は国境の町シウダ・ファレスとメキシコ中心部とをつなぐ鉄道に攻撃を集中。さらにソノラ州の山岳地帯にも進出。
1月末 ディアス、人々の怨嗟の的となっていたテラサス=クリール一族を権力の座から引き摺り下ろす。
11年2月
2.04 米政府、マデーロの逮捕を命令。マデーロは反乱軍に対し、メキシコに入るための拠点として国境の町シウダ・ファレスを攻略するよう命令。
2月初め シウダ・ファレスに連邦軍の増援部隊が入る。マデーロの命を受け、シウダファレスの攻略を狙っていたオロスコは、いったん作戦を断念。
2.07 モレロス州トラキルテナンゴでガブリエル・テペパが最初の自由派反乱を起こす。
2.07 ビリャ、再起を狙いシウダ・カマルゴを攻撃するが失敗。
2.14 マデーロ、米当局による逮捕の危険を避けるため、シウダ・ファレスの西方で国境を越える。
2月中旬 反乱軍、クエンカメを制圧。反乱軍の支配域はドゥランゴ州東部のラグナ地方、コアウィラ州南西部にまで拡大。
11年3月
3.01 オロスコの部隊にマデーロが合流.北部第1師団の名称のもとに,解放軍として編制される.
3.06 マデーロ軍、チワワ州北西部のカサス・グランデを攻撃。いったん撃退されるが、ブスティジョスで戦列を立て直し、臨時政府を組織する。
3.06 タフト国務長官、メキシコ国境に米軍2万人の配置を命じる。米国の侵入の可能性が高まる。
3.10 モレロス州のエミリアーノ・サパタ,ブルゴスの報告を受け革命への参加と蜂起を決定.アヤラの街を襲撃.マデーロの革命を不十分なものと批判,土地と水への主権を主張するアヤラ計画を宣言.
3.15 パンチョ・ビリャがマデーロのもとを訪問。マデーロの指示を受けたビリャは、自由党軍の武装解除に成功。
3.15 トレオン州ラグナ地区の連邦軍が地方反乱勢力の蜂起により孤立する。ソノラ州ではヤキ族先住民がマデーロ派の反乱に合流を始める。
3.15 リマントゥール大蔵大臣、半年にわたる欧州諸国の訪問を終え、ニューヨークに到着。ヨーロッパでは各国と新規ローンについて交渉するが不調に終わる。国家財政はほとんど破綻状態に陥る。
3.16 リマントゥールとマデーロの部下バスケス・ゴメスがニューヨークで会談。和平の方向を探る。
3.17 ディアス政権が非常事態を宣言し、憲法上の権利を停止する。米国は外国人への適用を免除するよう要請。
3.19 リマントゥール、メキシコシティに戻り、政府方針をマデロとの妥協の道に転換させる。
3.21 連邦軍のチワワ州司令官、ディアスへの書簡で「すでに州内の辺境地帯への支配権を失った」と報告。以後州都防衛に作戦を限定。
3.24 南部のマデーロ派、ホフトラ(Jojutla)の町を奪取。マデーロ派の中でサパタが頭角をあらわす。先住民の声を代弁するサパタの運動には,多くの知識人が結集.
3.27 メキシコシティで若手将校による反ディアスのクー計画が発覚。「タクヤバの陰謀」と呼ばれる。ディアスはリマントゥールと軍事相を除く全ての閣僚を更迭。
3.30 オロスコとビリャの部隊がシウダ・チワワに向け進撃を開始。連邦軍はシウダ・チワワ防衛のため、シウダ・ファレスその他の町の部隊を動員。
3月 東海岸のプエルト・メヒコ()でドック労働者がストライキを開始。(プエルト・メヒコは現Coatzacoalcos。ベラクルスの東方に位置する港町。1900年から36年までの間プエルト・メヒコと名乗った)
11年4月
4.01 ディアスが議会を召集。農地改革をふくむ改革を提案。民衆から不評を買っている官僚をあいついで更迭。
4.07 マデロ軍、攻撃目標をシウダ・チワワからシウダ・ファレスに変更。北に向かい進撃を開始。
4.07 サパタ、チエトラを陥落。さらにプエブラ州西部のイスカールも一時制圧する。
4.12 ディアス、シエンティフィコの代表コラール副大統領を更迭し、国外に追放。
4.13 三日間にわたるアグア・プリエタの戦い。反乱軍はアリゾナ州ダグラスを越境攻撃、米国市民数人を死傷させる。米政府はこれに強く抗議。
4.15 アメリカ軍が越境し,メキシコ反乱軍と戦闘.
4.15 マデリスタ保守派のフィゲロア兄弟が、モレロス州の地主と手を結びアカプルコを制圧。急進派のサパタと対立する。
4.15 マデーロ軍と連邦軍がシウダ・フアレス南方のバウチェで衝突。2日間の戦闘の後マデーロ軍の勝利に終わる。
4.17 マデーロ軍がシウダ・フアレス郊外に出現し降伏を要求。そのまま包囲体制に入る。
4.20 マデーロ、ディアスに対し和平提案。新大統領選出までのディアスの大統領留任を認める。
4.22 マデーロ軍、チワワ州全域で一方的停戦に入る。
4.22 モレロス州でサパタ派とフィゲロア派の間にホラプラン(Jolalpan)協定が成立。フィゲロアは一時的にサパタの支配を認める。
4.29 ディアス政権幹部の間に、マデロ派との妥協を求める動き。急進的な農民革命の進行を抑えるため、上流階級の「政治的革命家」との調和を促す。
4.30 チワワ州の革命指導者はマデロの和平提案をあまりに妥協的だとして拒絶。和平会談は流産に終わる。
4月 退役将軍ビクトリアノ・ウエルタ、現役復帰しゲレーロで連邦軍の指揮を執る。
11年5月
5.04 反乱軍(北部第一師団),国境の町シウダ・ファレスを包囲.
5.05 マデーロ、ブスティージョスで反乱派指導者の会議を招集。
5.07 マデーロ、シウダ・フアレスの攻撃をやめ、南方への進軍の準備に入るよう指示。革命軍指導者はいっせいに反発。
5.08 自由党軍、バハ・カリフォルニア全土を制圧。ティフアナも陥落する。
5.08午前10時30分 オロスコとビリャ、マデーロの指令を無視しシウダ・フアレスへの威嚇攻撃を開始。これは全面的な戦闘に転化。
5.10午後2時30分 シウダ・フアレスを守る連邦軍が降伏。反乱軍,シウダ・ファレスを占領.これにより米国領を通じての物資の補給が容易になる。
5.11 マデーロ、シウダ・フアレスを暫定的な首都と宣言。ディアスは大蔵大臣リマントゥール蔵相を送り,休戦交渉.リマントゥールがディアス辞任について交渉拒否したため物別れとなる.
5.13 マデロはシウダ・ファレス守備隊のナバロ将軍に温情措置をとる。ビリャとオロスコはこの措置に不満を示す。
5.14 トレオン駐在の連邦軍、突如基地を放棄し後退。町はマデーロ派の略奪に任される。この暴動で中国人250人以上が虐殺される。
5.15 ナバロ将軍の処遇についての、マデロとビリャ=オロスコの会談は物別れに終わる。二人は抗議して、マデロとの関係を絶つ。(一説によれば、ビリャはマデーロを逮捕しようとしたが、マデーロの毅然たる態度に感服し、逮捕を断念したという)
5.16 ビリャは反乱軍を辞し、地元のチワワ州サンアンドレスに戻る。
5.18 マデーロと政府代表リマントゥール,ファレスで停戦交渉を再開.革命派の中にはディアス政権との妥協に対する強い反対が現れる。
5.19 サパタ軍,1週間にわたる激戦の末、モレロス州の鉄道の要点クアウトラ要塞を奪取.州内から政府軍を一掃.大地主に押収された土地を元の所有者に返還するよう命令。いっぽう保守派と手を結んだフィゲロア兄弟はホフトラ、クエルナバカを制圧し、州の西部を支配下に置く。
5.20 モレロス州を中心に南部各地で蜂起部隊が進撃.首都メキシコシティーでもディアス辞任を求める大規模なデモがあいつぐ.
5.20 バハ・カリフォルニアの自由党軍、土地の農民による集団的所有を宣言。
5.21午後10時 シウダ・ファレス協定締結.ディアスとコラールの5月いっぱいでの辞任が確認される。署名は夜間の車のヘッドライトの明かりのもとで行われたという。
5.23 フアレス協定がメキシコ・シティで発表される。憲法広場は反ディアスの群集であふれる。
5.24 政府部隊、メキシコ・シティーの憲法広場でデモ参加者に発砲。約200人が犠牲となる。
5.25午前 ディアス,大統領を辞任し臨時政府に権限を一任.このとき80歳.メキシコ議会は,ディアス政権の外相フランシスコ・レオン・デ・ラ・バーラ(Barra)を,正式選挙までの暫定大統領に指名.
5.25 モレロス州のフィゲロア派、革命派の指導者テペパを処刑。
5.26早朝 ディアス、メキシコシティをひそかに出発。ベラクルス経由でパリに亡命.ベラクルスを去るに当たり、「マデーロはトラを解き放った。彼がトラをコントロールできるか、こいつは見ものだ」と語ったという。その後1915年にパリで客死.
5.26 マデロは第一宣言を発表。土地改革に対する支持を取り消す。新政府の幹部人事を発表するが、自らは大統領選挙で正式に選出されるまで大統領職にはつかないと声明。地方ではディアス派の有力者がマデーロ政権に服従せず、土地をもとめる農民運動と三つ巴の対立となり混乱が続く。
5.27 チワワに向かったマデーロ軍、クチジョ・パラド(Cuchillo Parado)で連邦軍と対決。連邦軍はマデーロに従うことを拒否し戦い続ける。
5.27 ベヌスティアノ・カランサ、マデーロの議会説得によりコアウィラ州知事として承認される。
5.29 サパタと、フィゲロア兄弟の間に休戦協定が成立。フィゲロアがモレロス州の政権を担当することとなる。
5.30 クリアカンの戦い。最後まで抵抗を続けたポルフィリオ派の知事が5日間の戦闘の末に敗北。
5.31 マデーロ軍、保守党の抵抗を排し、ドゥランゴの町を制圧。
5月 カタロニア出身の印刷工で無政府主義者アマデオ・フェレス、メキシコシティでアナルコ・サンディカリスト系の労働組合を創設。その後労働運動は急速に成長する。
5月 極右のメキシコ・カトリック党が結成される。
11年6月
6.02 フィゲロアが、サパタ派の了解の下にモレロス州政府を樹立。
6.07 マデーロ,10万の支持者を伴いメキシコ市入り.10月に大統領選をおこなうと声明.レオン臨時大統領と旧議会をそのまま承認.ウェルタを最高司令官とする政府軍もそのまま温存される.
ウェルタ メキシコ史上,最も悪名高い人物.ひどいアル中だったといわれる.しかし軍事的には有能であり,ビリャもその果敢さを賞賛したといわれる.ハリスコ州出身の先住民系メキシコ人.ヤキ族やマヤ族の反乱を残酷な方法で鎮圧したことで知られるようになる.ディアスの信奉者で,彼の亡命にあたっては最後の閲兵を指揮した.
6.08 サパタがメキシコ・シティ入りし、マデーロと会談.サパタはインディオに対する土地返還を要求.マデーロはこれにこたえず,逆にサパタ軍の武装解除を要求.会談は物別れに終わる.
6.09 保守派のベルナルド・レイエス将軍がメキシコ・シティに帰還。保守層の歓迎を受ける。
6.12 マデーロ、3日間にわたりモレロス州を訪問。地主層はマデーロを説き伏せ、サパタが公共秩序に対する脅威となっていると説得。
6.13 サパタ、地主層の圧力の下、マデーロの命を受け軍の武装解除を開始。
6.18 モレロス州の地主層、サパタのために州内が無政府状態に陥っているとのデマ宣伝を開始。
6.20 サパタ、マデーロと会談。自軍部隊の解散に同意。これにより地主層がモレロス州の全権を掌握。
6.22 ティフアナを占領したPLM軍、マデーロ軍により放逐される。
6月末 マデーロ、革命軍の解散・復員を命じる。革命軍の下層兵士のあいだで、この命令に不満が広がる。
11年7月
7月初め マデロ政権で内相を勤めるバスケス・ゴメス、旧軍勢力の台頭を恐れ、ひそかにモレロス州内で急進的な住民軍を組織する。
7月初め マデーロ、革命党に代え立憲進歩党を結成するよう提唱。革命党の大物バスケス・ゴメスはこの提案に猛反対。
7.12 連邦軍、プエブラで農民の騒乱を鎮圧。機関銃が使用され、マデーロ派農民100人以上が殺される。マデロは、軍隊の行動を支持する。左派はマデーロへの懐疑心を深める。
7.18 革命派の将校、保守党のデラ・バーラ暫定政権の即時退陣を求める。マデーロは政治に対する軍人の干渉を非難する。革命派軍人はテウアカンでマデーロと会見し、マデーロへの支持撤回も辞さない考えを明らかにし、詰め寄る。
7月 労働運動の高まりの中で、鉱山労働者の全国的な組合が結成される。
11年8月
8.02 マデーロ、バスケス・ゴメスを政権閣僚から放逐。これを機に革命軍の発言力は急速に弱体化。左派はマデーロとの絶縁を宣言。
8月初め マデーロ、サパタ派に対する強硬方針を確認。
8月初め 保守派のレイエス将軍、来るべき大統領選に向けマデーロの対抗馬として名乗りを上げる。
8.07 デラ・バーラ臨時大統領、サパタの軍隊を武装解除するためにモレロスにウエルタ将軍を送る、必要に応じて軍事力を使用する許可も与えられる。
8.11 ウエルタ軍、サパタ派勢力と最初の衝突。サパタは農民軍の再編を指示。
8.12 デラ・バーラ大統領、モレロス州政府の主権を停止。マデーロは自らモレロス州に入り、両者の和解に向け努力を集中。サパタも一時和解に応じるが、ウエルタは進軍をやめず。マデーロは調停を断念しモレロスを去る。
8月中旬 シナロア州の革命派指導者バンデラス、武装蜂起しマデーロ派の知事を追放。その後マデーロ派の反撃の前に敗れ、逮捕される。
8.27 メキシコシティで立憲進歩党の結成大会。改良主義的な綱領を採択。
8.30 サパタ、中央政権に対する開戦を宣言。
8月 オロスコ、チワワの保守派有力者テレサス・クリール(Terrazas-Creel)一家と盟約関係を結ぶ。
11年9月
9.01 ウエルタ、チナメカ滞在中のサパタを捕らえようとするが失敗に終わる。サパタはプエブラ州へ逃亡。ウエルタはモレロス州内の革命派に対し、集団処刑など徹底的な弾圧を行う。
9.02 保守派代表レイエス、メキシコ市内でマデーロ派の暴行を受ける。レイエス派は、候補の安全が確保されるまで大統領選挙を延期するよう国会に要請。
9.26 ウエルタ、モレロス州が平定されたと宣言。さらにサパタを追ってプエブラ州へ軍を動かす。
9.27 議会はレイエス派の要請を拒否。レイエスは大統領選から撤退して米国に亡命。残された保守派は戦闘開始の準備に入る。
9.27 プエブラ州潜伏中のサパタ、政府との武力闘争を宣言。
11年10月
10.08 サンディカリストの最初の機関紙「エル・ティポグラフォ・メヒカーノ」が創刊される。
10.11 最初の大統領選挙。マデーロが圧倒的多数(98%)の得票を獲得。副大統領にはホセ・マリア・ピノ・スアレス。
10.06 プエブラ州に進んだウエルタ軍と入れ替わりにサパタがモレロスに潜入し、部隊の再編成に成功。
10.08 サパタ派部隊、ホコカテペクにかかる「エル・ムエルト」橋を爆破。
10.24 サパタ、メキシコシティ都心から20キロのミルパ・アルタを占拠。
10.27 マデーロ、ウエルタの失敗を譴責。モレロス州軍司令官のポストを解任する。
10.31 マデーロ、鉄道労働者の集会で演説。労働組合の権利を認めることを明らかにする。
10.31 政府を追われたバスケス・ゴメス、「タクバヤ計画」を明らかにし、反乱の準備に取り掛かる。このあと半年にわたり、チワワ州西部を中心にバスケス・ゴメス派の小規模な反乱が相次ぐ。
10月 チアパス州チアパ・デ・コルソで農民の反乱。オアハカ州南東部のフチタンではチェ・ゴメスの率いる反乱。ほかにも全国各地で反乱が頻発。
11年11月
11.02 議会、マデロを大統領に選出。
11.06 マデーロ,大統領に就任.副大統領にホセマリア・ピノ・スアレス.国防相にはコアウィラ州知事ベヌスチアーノ・カランサが,軍司令官にビクトリアーノ・ウェルタが就任.マデロは,全国農地委員会と労働省を設立.これを通して労働,土地保有権問題に取り組む姿勢を見せる.広範囲な社会改革(特に農地改革)への期待がたかまるが,マデーロは保守派支配を維持し土地改革を反故にするなど反動化.
11.08 警察、バスケス派-レイエス派によるマデーロ暗殺計画を摘発。
11.08 政府とサパティスタの会談が物別れに終わる。これが最後の会談となる。
11.11 モレロス州で再び,砂糖キビ農場の土地取り上げに反対する農民の蜂起.サパタが指導.マデーロはサパタを「匪賊」と決めつけ,カランサを送り討伐にあたる.
11.16 オアハカでアンヘル・バリオの反乱、壊滅に追い込まれる。
11.20 北部国境地帯でレイエス派の反乱。マデロはオロスコに反乱掃討作戦をゆだねる。米政府はサンアントニオを拠点とするレイエスに対する監視を強化。
11.22 旧マデーロ派のバスケス・ゴメス、チワワ州西部で反乱を開始。Tacubaya計画を発表。
11.25 政府軍の攻撃を受けたサパタは,マデーロとの決別を宣言.プエブラ山地にあるウェウェトラン・エル・チコでゲリラ闘争を開始.
11.26 サパタ派,アヨスストラで「アヤラ計画」を発表.アシェンダによって奪われた土地と水利権の奪回,土地の再配分をうたう.起草したのは村の教師オティリオ・モンタフィオという.
11月 マデーロ派の重鎮Abraham Gonzalezチワワ州知事、内相に任命されチワワを去る。これによりチワワの大地主層が息を吹き返し、農民への攻撃を強める。
11月 オアハカの反乱指導者チェ・ゴメス、連邦軍に降伏。
ホセ・“チェ”・ゴメス: オアハカ州の先住民サポテカ族の指導者。ビリャやサパタと呼応し反乱を起こしたが敗北、山間部に立てこもり1ヶ月にわたり抵抗を続ける。降伏後、連合軍に捕らえられ、8人の仲間とともにリンチにより殺害される。サポテカ族はアステカ帝国支配前のメキシコ支配者であり、フチタンは古くから革命の町として知られ、ポルフィリオ・ディアスが革命軍の一員として蜂起した町でもある。
11年12月
12月初め シナロアの反乱が鎮圧される。
12.11 ソノーラのヤキ族先住民、政府と対立。祖先の土地を奪取し占領。29年まで紛争が続く。
12.13 メキシコ政府内に労働省が設置され、労働組合は合法化される。
12.14 レイエス将軍の反乱が終息。レイエスはメキシコ北部に潜入するがほとんど支持を集めることができなかった。
12.14 マデロ政府、軍の高級幹部の間にレイエス派の陰謀を摘発。
12.15 サパタ派の政治綱領「アヤラ計画」がメキシコシティで出版される。
12.18 連邦土地法が発効。農民に対し小規模な土地を分割で販売。最初の農地改革の試みとなる。
12.25 レイエス、メキシコ政府に対し降伏。
12月末 オリサバで織物工場の労働者のストライキが深刻化。合法化された労働組合は, 新聞Luzを発行し,政府の攻撃を跳ね返し,次々にストライキを打つ.
11年 チアパス州サン・クリストバルのエリート層,州都をトゥクストゥラから引き戻そうと反乱を起こすが失敗.
1912年
12年1月
1.04 サパティスタ軍、ヤウテペクを攻撃。モレロス州における本格的攻勢が開始される。
1.09 サパティスタ軍、Cuernavaca-Tetecala間の鉄道を爆破。電報線を寸断する。
1.17 圧制を強いていたモレロス州知事フィゲロアが辞任。これに代わり改革派が州政府の支配権を握ろうと動く。
1.19 武装した反乱は,モレロス,ゲレロ,トラスカラ,プエブラ,メキシコの各州に拡大.戒厳令が施行される。
1.20 政府、オリサバのストライキに関し工場主協会の立場を支持すると発表。その1週間後、わずかな改善を含む労使合意が実現する。
1.26 サパティスタ軍、Cuernavacaに対して強力な攻勢を開始する。
1.31 右派の反乱部隊が、シウダ・ファレスを襲撃し占拠。
1月 国家労働局が設置され、米企業との関係正常化に動く。テキサス州政府は、北メキシコへの武力干渉を連邦政府に要請。
1月 マデーロ派を称する暴力集団「ポラ」(Porra)が、メキシコシティーで活動を開始。
12年2月
2.02 バスケス・ゴメス支持者が反乱を再開。
2.02 シウダ・チワワの駐屯軍の間で戦闘が始まる。マデロはパンチョ・ビリャに挙兵の許可を与え、チワワ州西部の平定を命じる。
2.03 オロスコ、シウダ・ファレスの反乱部隊に対し降伏するよう説得する。
2月上旬 国家農業委員会が農地改革を提案する。内容は保守的なものにとどまる。
2月上旬 フベンシオ・ロブレスがモレロス州の平定作戦司令官として着任。厳しい取締りと残虐な住民弾圧を開始する。モレロス穏健派の希望はくじかれ、平和の回復の展望は消滅する。
2.06 サパティスタは、モレロスを走るすべての列車を吹き飛ばし、クエルナバカ攻略に着手すると声明。
2.09 連邦軍、反乱軍指導者デラオ(de la O)の故郷サンタマリア村を焼き尽くす。
2.10 ロブレス、サパタの親戚・関係者を逮捕。行政当局からの穏健派の追放、反乱参加者の処刑がモレロス全州に拡大。
2.15 ロブレス、サパタ派と見られる村落を次々に焼き討ち。モレロス全州で農民の強制移住を推進。
2月中旬 チワワ州の反乱が拡大し危機的状況を迎える。アブラハム・ゴンザレスは内相を辞任し、チワワ州に戻る。
2.17 マデロ政権、国家が所有する共有地(エヒード)を農民に売却するよう勧告。
2.24 マデロ政権、労働組合の結成を奨励する政策を発表。
2.26 チワワの伝統的支配者テラサス-クリール家、米国のメキシコ北部への武力干渉をあおる。(米諜報員の報告)
2.27 バスケス・ゴメスの支持者は、シウダ・ファレスの支配を実現。オロスコは、反乱を抑圧することを拒否。チワワ騎馬警官隊の司令官を辞任。
2.29 ビリャは、シウダ・ファレスの反乱を非難する。
2月 地方の騒乱が拡大。トレオンを中心とするドゥランゴ州東部のラグナ地方、コアウィラ州南西部でも新たに反乱。
2月 ロッジ上院議員とハースト新聞、「バハ・カリフォルニア州マグダレーナに日本が軍事基地を建設」とのデマ情報を蒸し返す。
12年3月
3.03 新政府部内での地位に不満を持つパスクワル・オロスコ,「マデーロはサンルイス・ポトシ計画を投げ捨てた」とし,反乱を開始.マデーロによる土地接収を恐れるハースト財閥がオロスコを支援.チワワ州のビリャは反乱に加わることを拒否。オロスコの脅迫を受け州外に逃亡。
3.02 ゴンサレス知事、チワワ州の治安回復に失敗。シウダ・チワワを放棄。
3.03 オロスコ、チワワで反乱を開始する。パンチョ・ビリャの反撃を跳ね返し、シウダ・チワワを制圧。政府を「以前の状態」に戻すよう要求。チワワの保守・反乱勢力はオロスコを支持し結集。
3.07 オロスコ反乱の報を受け、メキシコシティーはパニックとなる。マデロ政権は対策のないまま時間をすごす。Henry Lane Wilson米大使は、国務省に武器を要請するいっぽう、アメリカ人市民に国外退去を求める。
3.08 ホセ・ゴンサレス・サラス国防相、みずから連邦軍を指揮するためメキシコ・シティを出発。
3.10 オロスコ、チワワ州内の大地主の支援を受け,一気に州全域を掌握.
3.13 革命派のPLM、オロスコの反乱を支持する立場を明らかにする。
3.13 米下院、メキシコへの武器輸出に関する政府の自由裁量権を与える。タフト大統領はオロスコへの武器販売を停止。
3月中旬 オロスコ、反乱軍に対しテラサス家の土地に干渉しないよう秘密指令。これと引き換えにチワワの大地主層はオロスコへの支持を与える。
3.23午後 オロスコ派、レジャノの戦闘で連邦軍を撃破。チワワ掃討軍,壊滅に追い込まれる.追い詰められたゴンザレス・サラス司令官は自殺。マデロ政権は大きく揺らぐ。
3.24 パンチョ・ビリャ、オロスコ軍が支配するチワワ州南部のパラルを奇襲攻撃し奪取。
3.25 オロスコ、自らの計画を発表。マデロを「ヤンキーの手」によってメキシコ国旗の神聖を汚したと非難。社会改革を呼びかける。
3月下旬 マデロ、メディアに対する一時的検閲を実施。
3月下旬 サパティスタ、モレロス州の農村地帯全域をほぼ支配。プエブラを奪取。しかしトレス・マリアス、パルケ・デル・コンデへの攻撃には失敗。
3月下旬 オアハカ州東部で再び反乱が発生。チアパスにつながる鉄道を切断。
12年4月
4.01 マデーロはビクトリアノ・ウェルタ将軍に反乱鎮圧を命じる.当初マデーロはウェルタ派遣を躊躇したが,「あのグラント将軍も大酒のみだった」との周囲の説得により決断したといわれる.
4.02 メキシコと日本両政府、バハ・カリフォルニア州マグダレーナ湾に対するいかなる日本の関心も否定する。
4.02朝 オロスコ軍、パラルへの攻撃を開始。ビリャはいったんこの攻撃を跳ね返す。
4.03夜 ビリャ軍、パラルの町を脱出。
4.04 オロスコ、ビリャ軍からパラルを奪還。ビリャはパラールを逃れ、トレオンに進出したウエルタ軍に合流する。
4月上旬 サパタ軍は、モレロス州内の主要な都市を一時的に占領。永続には至らず。連邦軍はJojutlaでの大量処刑で応える。
4.12 ウエルタ軍、トレオンに到着。チワワ州連邦軍を再編成する。準備中に基地内に腸チフスが流行し、多くの兵力を失う。
4月 マデロ、大統領の直接選挙制を導入すると発表。
4月 メキシコ国有鉄道における米国人従業員のストライキが敗北。政府はメキシコ人を大量に雇い入れ、「メキシコ化」を図る。
4月 国家の土地の政府測量がほぼ完了。政府、穏和な農地改革プログラムを発表。実効性はほとんどなし。
4月 グアナフアトでの反乱が鎮圧される。
4月 サパティスタの影響を受けた反乱がプエブラ州で発生。州の南部を支配下におさめ、オアハカ州との連絡を切断。
4月 シナロア州で再び反乱が広がる。
12年5月
5月初め モレロス州でのサパティスタ攻勢が弱体化。
5月初め オロスコ、コアウィラ州のモンクロバを攻撃するが、連邦軍の駆逐に失敗。
5.05 バスケス・ゴメス、シウダ・ファレスに到着し政府を樹立。しかしまもなくオロスコにより逮捕され、国外追放される。
5.19 メキシコ南部の戒厳令が解除される。モレロス州は改革派が主流を握る議会を選出。
5.12 トレオンを出発したウエルタ、Estacion Conejosでオロスコ軍を撃破する。
5月中旬 オロスコ派内の急進派Braulio Hernandezが追放される。オロスコは保守化傾向を強める。
5.22 第二次レジャノ会戦。ウエルタの率いる連邦軍はオロスコ軍を決定的に撃滅。このあとオロスコ軍は崩壊し始める。
5月中旬 オアハカ州南部に続き、北部でも反乱が発生。serranosが州都を包囲する。
12年6月
6.03 ビリャ、ウエルタの冷酷非道ぶりに抗議。自軍をウエルタの指揮から外すと宣言。
6.04 ビリャ、ウェルタにより逮捕され、銃殺刑を宣告される。刑執行の直前(“狙え”の号令の後、“撃て”と命令される直前だったという)にマデーロの執行停止命令が届く。ビリャはメキシコ・シティーのサンチァゴ・トラテロルコ刑務所に送られる。ウェルタは移送中のビリャを暗殺するよう部下に命令したが、果たせなかったという。(このあたりは、ワクワクするようなインディ・ジョーンズの世界です)
6.15 残忍将軍ロブレス、モレロス州から移動を命じられる。
6.30 メキシコ、「史上初めての公平な選挙」により第26国会を開催。マデロは「自由、それこそは全ての問題を解決する」と胸を張る。
6月 オアハカ北部の反乱軍、Ixtepejiで連邦軍を迎え撃ち、これを撃破。
12年7月
7.06 ウェルタ、シウダ・チワワ南東のBachimbaでオロスコ軍を撃滅。
7.07 連邦軍がシウダ・チワワに入る。オロスコの軍勢は壊滅。残党はソノラ州に逃れる。
7.17 モレロス州議会、改革案を次々に決定し実施に移す。この結果、サパティスタに対する民衆の支持は徐々に失われる。
7.20 サパティスタは、連邦地区に入りParresで列車を襲撃。乗客・乗員を皆殺しにする。
7月下旬 マデロ、議会に対し、反乱が発生している地域での憲法の停止をもとめる。反対派はこれに猛抗議する。
12年8月
8.12 サパティスタ、モレロス州中部のTicumanで列車を襲い、乗客を皆殺しにする。
8.20 連邦軍、シウダ・ファレスを奪還。
8月 ストライキの波が再び襲う。政府は企業と労働者の会議を仲介するなど、労働問題改善の取り組みを強める。
8 オロスコ派がソノラ州に侵入.ファタバンボの市長だったオブレゴンは,マヨ・インディオからなる自警団を組織.
12年9月
9月上旬 オロスコ派の最後の拠点オヒナガが連邦軍により陥落。オロスコ軍は解体し、オロスコは米国に逃げ込む。
9.12 Henry Lane Wilson米大使、マデロ政権が米国市民の保護を怠っていると抗議の文書を送る。
9.15 ウェルタは酔って、「もしオロスコと同盟すればメキシコシティーをとることができた」と自慢したという。マデロはこの話を聞いて不快感をあらわにする。
9.16 モレロス州議会の主流を中道・保守派が占める。議会はこれまでの改革をすべてご破算にし、サパティスタに対する強硬方針を決定。
9.20 ソノラ州軍、サン・ホアキンの戦いで侵入してきたオロスコ軍を撃破。残党はチワワに退却する。オブレゴンはオロスコの部隊を殲滅したことで一躍有名となる.
9.22 印刷工組合のサンジカリストを中心に、「世界労働者の家」(Casa del Obrero Mundial:COM)を結成.政府系のGran Ligaに対抗し妨害を打ち破り、全国にストの攻勢をひろげる.構成員の実体は多くが労働者というより職人的性格.
9月 連邦軍の北の拠点であるトレオン周辺でふたたび反乱が広がる。セディージョ一家はタマウリパス州サンルイスで農民反乱を組織。
9月 オアハカ州の反乱勢力、ふたたびシウダ・オアハカを攻撃。オアハカ中部渓谷を席巻する。
9月 ソノーラのヤキ族の反乱が勢いを強める。
12年10月
10月中旬 マデロ、ウェルタを解役。表面上の理由は健康のためとされる。
10月中旬 サパティスタ、州議会の反動化に対し再びゲリラ活動を強める。
10.12 ベラクルスでフェリクス・ディアス(ディアス元大統領の甥)の反乱.メキシコシティではディアスに忠誠を誓うベルナルド・レイエス将軍が、ディアスを支持しクーデターを画策。
10.23朝 連邦軍がベラクルスを制圧。フェリクス・ディアスの反乱は、民衆の支持を受けないまま失敗に終わる.マデロはディアスを逮捕し,メキシコ市に連行.
12年11月
11.01 サパティスタ、「税金」の支払いを拒否する農場のサトウキビ畑を燃やすと宣言。政府によれば、このあとの3ヶ月で砂糖収穫の半分が灰燼に帰したとされる。
11月 ウッドロー・ウィルソンが、米国大統領に選出される。
11月末 内閣改造。マヌエル・ボニリャが農業担当相に就任。真の農地改革に取り組むことを宣言。
12年12月
12.26 ビリャ、弁護士に偽装し脱獄に成功。ビリャは獄中でディアスの陰謀への加担をもとめられるが、これを拒否したという。
12.03 ルイス・カブレラ国会議員、エヒード(村の共有地)を農地改革の基礎とする急進的な農地改革案を提示。
12.18 政府、労働改革に消極的な企業に対して税法上のペナルティを課すと決定。
革命の深化の時代 1913年
13年1月
1.03 ビリャ、シウダ・フアレスからリオ・グランデを越えてエルパソに入る。(一説ではノガレスから米国入り)
1.20 ビリャ、権利の回復を要求しマデロに最後通告を送る。
1月 コアウイラの州知事カランサ(前国防相)、Cienaga del Toroの自らの農園に革命派を動員し、会議を開催。
1月 マデーロ,百万ペソの使途不明金を理由にウェルタを解任.
1月末 フェリクス・ディアス、メキシコシティー刑務所に収監される。ディアスは獄中からレイエス将軍ら保守派と連絡。クーデター計画を立てる。
1月 マデロ左派の改革ブロック(Bloque Renovador)が政権主流派を占め、保守派を徹底排除する。
1月 マデロは次期米大統領のウッドロー・ウィルソンに、Henry Lane Wilson大使を更迭するようひそかに依頼したといわれる。
2.08 メキシコシティ市内に「軍クーデターが差し迫っている」といううわさが広がる。
13年2月 「悲劇の10日間」(la decena tragica)
2.09深夜 旧支配層と通じたモンドラゴーン将軍が反乱.ベルナルド・レイエス将軍とフェリックス・ディアスを刑務所から解放.レイエスが反乱の指揮をとる.チャプルテペックの国立宮殿を占拠.市街戦が続き市内は混乱.
3am マデーロに忠誠を誓うビジャール将軍が反撃を開始。国立宮殿の奪回を目指し戦闘開始。
5am ビジャール将軍が国家宮殿の奪回に成功。
7am 国家宮殿付近で激戦が展開される。この戦闘で反乱軍のレイエス将軍が戦死。政府軍のビジャール将軍も負傷し戦闘不能となる。マデーロは,いったん解任したウェルタを首都警備隊司令官に任命.
8am 反乱軍、Ciudadela兵器庫の攻略に成功。基地に立てこもり、火力を強化。
9am ウェルタ、反乱軍のルイス将軍を捕らえ、ただちに処刑。これを皮切りに反乱軍捕虜を次々に殺害する。
午後 マデロ、士官候補生たちに守られクエルナバカ(ソカロ?)に避難。この間、反乱軍の攻撃により士官候補生の1人が亡くなる。後にこの日は、文民国家に従属する軍隊の正しいあり方が確立された“Marcha de la Lealtad”(忠義の行進)の日とされ、メキシコ国軍の記念日となる。
午後 ウェルタを自らに忠実なアンヘレス将軍と交替させようと図るが果たせず。
午後 米国大使ヘンリー・レーン・ウィルソン、反乱軍よりの立場から、休戦を目指し調停を開始。背景にタンピコ油田の権益をめぐる思惑があったとされる.
2.11 政府軍、大量の重火器を用い反乱軍の拠点を攻撃。10日間にわたり、メキシコシティーの各所に火災と混乱が発生。
2.12 テキサスのColquitt州知事、政府に対しメキシコへの介入を求める。
2.12 ウィルソン大使、米政府の承認なしに、戦う両陣営を避難する声明を作成し、各国大使の賛同をもとめる。そしてマデロに対し「戦闘が続くなら米国の干渉する可能性もある」と脅迫。さらに本国政府に対し、マデーロに最後通牒を提示する権限を求める。
2.14 ウエルタが寝返る可能性があると知ったウィルソン大使は、ウエルタとの提携の道を探り始める。
2.15朝 メキシコ市内の戦線は膠着状態に陥る。各所で破壊と混沌が広がる。
2.15午前 ウィルソン大使、英・独・西の大使を巻き込み、マデロと会談。干渉の可能性をにおわせながら辞任を求める。マデロは要請を拒否した後、タフト大統領に強硬な抗議文を送る。
2.16 ウィルソンの意を受けた上院保守派議員が、マデロの辞任をもとめる。マデロ派議員はこれを非難。
2.16 タフト大統領、マデロの抗議に対しメキシコ干渉を否定する確約を与える。
2.16夕方 ウェルタ、反乱への参加を決意。ウィルソン大使に「マデロの放逐は差し迫っている」と連絡。
2.17 カランサ、連邦軍から距離を置き、コアウィラ州軍をひそかに結集させる。また反乱の可能性に備え、大量の資金調達活動を開始。最終的にはこの資金がものを言う。
2.17夕方 マデロの兄弟グスタボ、ウェルタを一時拘留することに成功。しかしマデロはいくつかの質問の後、ウェルタを解放する。
2月18日
2.18早朝 マデロ、上院保守派の辞任をもとめる再度の呼びかけに対し、これを拒否。「私は、義務を遂行するためには、必要とあれば死をもいとわない」と述べる。
2.18正午 ウィルソン大使、米国にクーデター発生のニュースを送信。この時点では未だクーデターはおきていない。
2.18 1:30pm ウェルタの軍勢、マデロとホセマリア・ピノ・スアレス副大統領、閣僚、マデロ派議員を一斉逮捕。自ら内務長官(57年憲法で副大統領に次ぐ大統領継承権を持つ)となる.マデロの兄弟グスタボは、ウエルタと昼食をともにしながら突然逮捕される。
2.18 2:00pm 教会の鐘が一斉に鳴らされ、首都での戦闘の終局を告げる。
2.18 4:00pm ウェルタ、新執行部の編成に着手。各州知事に自らが権力を掌握したむね通告。この間ウィルソン大使やフェリクス・ディアスへの相談はなし。
2.18夕方 ウィルソンが主催し、米大使館内で反乱指導者の会談が始まる。
2月19日
2.19 1:00am ウィルソンとウェルタ、フェリクス・ディアスとの間に協定が成立。シウダデラ協定、あるいは「大使館の協定」と呼ばれる。ディアスはウエルタの暫定的な大統領に賛成、ウェルタは来るべき大統領選挙でディアスを支持することを約束。
2.19 2:00am 連邦拘置所のグスタボ・マデロ、拷問により殴り殺される。
2.19早朝 事件を知ったカランサとコアウィラ州議会、ウェルタ体制の承認を拒否し、すべての州に対しウェルタに反対するよう訴える。
2.19午後 拘束されたマデロ大統領とピノ・スアレス副大統領、辞任を強要される。
2.19夕方 議会、ウェルタ軍に囲まれる中で開催。マデロの辞任を受け入れることに同意。これにより序列三位のウェルタが暫定大統領に就任することが確定。
2.19夜 ウィルソン大使、ウェルタと会見。マデロ処刑に暗黙の同意を与える。
2.19 クーデターの情報を知ったノックス国務長官は、激怒したという。
2.20午後 ウェルタ、ディアス派議員の賛同の下に、大統領就任の宣誓を行う。ウィルソン大使は米国政府に対し、新体制を承認するようもとめる。
2.21 カランサ、新体制に対する交渉を試みる。実際には蜂起のための時間稼ぎだったと見られる。
2.22 ウェルタ、各州知事に対し、彼の支配を認めなければ「厳しい処置」をとると脅かす。各州から積極的な反応はなし。
2.22 1100.PM マデーロ派の巻き返しを恐れるウェルタは,マデーロとピノをメキシコシティー近郊のレクンベリ(Lecumberri)刑務所へ移送中に暗殺.「逃げようとして射殺された」というお決まりの公式発表。
2.23 その後の数日間に84人の議員を逮捕.チアパス出身のベリサリオ・ドミンゲスら数人の議員を含む百人以上を処刑,議会,裁判所を閉鎖,独裁体制を敷く.政治的暗殺はウエルタの支配様式を示す商標となる.このとき,駐墨公使堀口九萬一(詩人・堀口大学の実父)は,マデロ大統領の家族らを身を挺して保護したといわれる.
2.23 ウェルタ、警報としてチワワのマデロ派知事アブラハム・ゴンザレスを逮捕。3月7日には「逃亡を図った」として射殺される。
2.24 ウィルソン大使、ワシントンに対しメキシコの平和と反映を予想するメッセージを送付。マデロ殺害に関しては「過ぎ去った出来事」と言い放つ。
2.24 マヌエル・チャオ、チワワ州サンタ・バルバラで連邦軍の駐屯地を襲撃。これを嚆矢として北部で立憲主義者の反乱が始まる。
2.24 ソノラ州の幹部はウェルタへの不服従を決定。マイトレーナ知事は決断にいたらず、職を辞し米国に亡命。
2.25 ウェルタ、去就のはっきりしない知事を追放。この結果、知事の多くが反乱派へと移行。
2.26 カランサ、反乱を開始。州兵を率い、抵抗を受けることなくPiedras Negrasを占領。カランサは米政府がウェルタ政権を承認したと誤解し、タフト大統領あてに抗議文を送り、反乱の準備を開始したことを明らかにする。
2.27 ウェルタ、コアウィラ州に遠征軍を派遣する。カランサは州都サルティジョを去り、ウェルタ・レヒメ(Huerta Regime)の丘を拠点と定め立てこもる。
2.28 チワワ州でも立憲主義者の反乱が始まる。サンタ・ロサリアが立憲派部隊により占拠される。
2月末 かつてのマデロ派将軍パスクアル・オロスコ、亡命先の米国からウェルタへの忠誠を表明。
13年3月
3.01 ペルー、エルサルバドル、グアテマラがウェルタ政権を相次いで承認。
3.01 ウエルタ政権、農民に対し無料で種子を配布する。
3.02 サパタ、ウェルタに対し、モレロス州の反乱は終わっていないと通告。多くの町を占拠する。
3.03 チワワの反乱部隊、州西部山岳地帯のナミキパを占拠。南方への進出を図る。
3.04 カランサ、ウェルタへの宣戦を布告。アニェロ(Anhelo)で連邦軍に戦闘を挑むが敗退。
3.04 ウッドロー・ウィルソンが米大統領に就任.
メキシコ北西部
3.05 ソノーラ州議会、ウェルタとの宣戦を布告。オブレゴンが州軍司令官に指名される。
3.05 チワワ州南部のパラルで反乱軍と連邦軍が激突。3日間の戦闘の後、反乱軍は敗退するが、連邦軍にも甚大な犠牲。
3.05 トレオン東方の町サンペドロで立憲主義者が蜂起。一時的に町を占拠。連邦軍の多くは駐屯地を放棄して退散。
3.06 連邦当局、サンルイスポトシ州のラファエル・セペダ知事を不服従の容疑で逮捕。
3.06 ビリャ、部下8人とともに夜闇に紛れ、エルパソからリオ・グランデを越えてチワワに入る。サンアンドレスで支持者を組織し武装抵抗を開始。
3.09 ビリャの最初の戦闘。テラサス家の所有するエル・カルメン農場を襲撃。住民の憎しみの的だった管理人を処刑、穀倉を農民に開ける。これを皮切りにチワワ州北西部でロビン・フッド活動を展開し勢力を急速に拡大。
3.11 ウィルソン大統領、立憲的に成立した政府でなければ承認を拒否すると声明。ウェルタ政府を承認せず.辞任と再選挙を勧告する一方,陰謀の中心ウィルソン大使を更迭.
3.11 ソノーラ州軍、NacozariとAgua Prietaを奪取。14日にはノガレスも確保。連邦軍残党は米国領内に逃散する。
3.14 サパタ、ウェルタの送った和平交渉団を捕らえ、人民裁判にかける。ウェルタ、米国記者の質問に答え、「モレロス州民2万人を強制収容所送りにするつもりだ」と語る。
3.15 ウェルタ、マデリスタに対する広範な恩赦を与えると発表。立憲主義者は反応せず。
3.16 ソノーラ州軍、Nacoで連邦軍に一時的な敗北を喫する。
3.21 カランサ、州都サルティリョで連邦軍に戦いを挑むが大敗。北方のモンクロバに退却。
3.22 ウェルタ、連邦軍の崩壊に直面し、幹部のすげ替えなど再編成に着手。
3.23 亡命から戻ったパスクワル・オロスコは,かつての敵ウェルタと手を結び紅旗派を名乗り,北部地方で残酷な活動家狩りを実行.
3.25 ソノーラ州軍、カナネア鉱山を陥落させる。これによりグアイマスから北すべてが立憲主義者の支配下に入る。利権を失った米国のカナネア銅山会社は、ウェルタを支持し、内戦に介入するよう政府に働きかける。
3.26 カランサがグアダルーペ計画を発表.反革命勢力打倒と護憲主義をかかげ,みずからをマデーロの衣鉢を継ぐ「護憲派軍の第一統領」とする.ビリャとオブレゴンもこの計画に加わるが,サパタは連合には加わらず,独自に反乱を継続.
3.28 チワワ州の立憲主義者のほとんどが、ウェルタとの対決を宣言。急進派は保守派の支配構造に対する武力攻撃を開始。政府はチワワとドゥランゴの大部分について統制権を失う。
3.30 ビリャ、サン・アンドレスの支配権を確立。
3.31 米国の支持を失ったウェルタはヨーロッパに支持を求める.メキシコ石油の55%を支配するシェル石油の母国イギリスは,ただちにウェルタ政権を承認.ドイツもウェルタ支持に積極的な立場を表明.欧州諸国の多くが、これに追随する。
3.31 メキシコシティ北方のトラルネパントラ(Tlalnepantla)で、連邦軍第21大隊がウェルタに対し反乱。北部を目指しタマウリパスに向け進軍。
3月 サンルイス・ポトシのセディージョ、「農地改革宣言」を発表。
3月 ソノラ州の南に隣接するシナロア州で反乱が広がる。ゲレロ州でも反乱が発生、ただちにミチョアカン州にも拡大。連邦軍は地方鎮圧ができないまま,村々から略奪を繰り返す.
3月 ギジェルモ・ガルシア・アラゴン将軍,ウェルタ打倒を目指すが,緒戦で敗退.この反乱に加わったカルデナスは逃亡生活を余儀なくされる.
3月 ウェルタの外国人の友人はただ二人,ヘネシーとマルテル(ともに高級ブランデー)だったといわれる.
13年4月
4.01 ウェルタが国会で施政方針演説。「ふたたび平和を確立する。たとえそれがどんなにコストがかかっても」と述べる。ウェルタの強硬方針をめぐり、フェリクス・ディアスの間に分裂が拡大。議会ではウェルタの提案した対ヨーロッパ借款をめぐり激しい議論が展開される。
4.14 ロブレス将軍が、ふたたび連邦軍モレロス州司令官に着任。州知事就任を議会に強制する。議会はこの要求に抵抗する。
4.17 ロブレス、反対派議員を一斉逮捕し、知事に就任。サパタ派と改革派に対する残忍な弾圧を開始。
4.18 サパタ、ホナカテペク(Jonacatepec)を襲撃。2日間にわたる激戦となる。連邦軍のアギラール将軍はサパティスタに加わる。これを知ったウェルタは、州内有力者を集め、「政府はモレロス州の人口をゼロにしてもかまわない」と脅す。
4.19 コアウィラ州モンクロバで反乱勢力の会議。ソノラ州、チワワ州、コアウィラ州の反乱軍が、立憲主義政府の創設で基本合意。カランサのグアダルーペ計画を基本線とする。
4.19 ウィルソン大統領、ジャーナリストのウィリアム・バイアード・ヘールにメキシコでの実情調査を依頼。調査に当たっては、ウィルソン大使との接触を回避するよう求める。ヘールがメキシコ入りしたのは6月1日。
4.20 反乱軍、シウダ・ドゥランゴの包囲を完成。第一次シウダ・ドゥランゴ決戦の開始。
4.22 立憲主義者部隊、タマウリパス州シウダ・ビクトリアを攻撃するが撃退される。
4.22 ウェルタ政府、兵士の給料を5割アップすると通告。しかし新兵は集まらず。
4.23 サパタ軍、クアウトラ(Cuautla)を包囲。
4.23 反乱軍、シウダ・ドゥランゴに突入するが、戦闘は敗北に終わる。連邦軍は捕虜をただちに処刑。
4.23 ディアス派のガルシア・グラナドス、内閣府長官を辞任。ウェルタは政府内のディアス派をつぎつぎに追放。
4.23 カランサ、ウェルタ政権から派遣されたいかなる和平交渉の代表も即座に逮捕すると発表。
4.26 カランサ、立憲主義者の紙幣発行を承認。しかし反乱軍の資金確保には役立たなかった。
4月 ウエルタ、航空機を用いた戦闘を学ばせるため、士官50人をフランスに派遣。
13年5月
5.01 メキシコシティで初の大規模なメーデー集会。サンディカリストを中心とするCOMが影響力を拡大。
5.02 オブレゴンの指揮するソノーラ州軍、州南部に進出。3週間の戦闘でエンパルメ、ナコ、アラモスを奪取するが、グアイマスの戦いに敗れ、いったん北部に撤退。
5.03 ウェルタ政権、メキシコシティ内の言論弾圧に乗り出す。反対派の新聞社を襲撃しスタッフを逮捕。
5.03 サパティスタ、Cuautla-Ozumba間の鉄道を攻撃。列車を破壊する。
5.04 サパティスタ、Yautepecを攻撃。
5.06 メキシコに利権を持つサザンパシフィック鉄道,カナネア銅山会社,ドハニー石油会社など米系資本がウェルタ支持に動く.ロビーを通じて「ウェルタ以外にメキシコ政治を安定できる人物はいない」とウィルソンに提案.
5.09 オブレゴンの率いるソノーラ州軍、サンタ・ロサで連邦軍と戦闘。3日間の激戦の末撃破する。
5.09 オロスコの率いる連邦軍が、トレオンを出発しチワワ州遠征に向かう。
5.09 ロブレス、すべてのモレロス州民に都市に移住するよう命令。田舎で発見された人間は、見つけ次第射殺すると恫喝。そして若年男性は根こそぎ連邦軍に徴兵することとなる。この命令により地主など地元有力者もロブレスから離反するが、恐怖が全州を支配する。
5.10 ウエルタ、米国の承認を求める圧力として、ウィルソン米国大使との定期協議を中断。(Are you silly?!)
5.17 ウィルソン大統領、ウエルタ体制の承認を拒否すると発表。「それが存在するという事実にのみ基づいて対処する」と述べる。私的には「私は屠殺屋(butcher)の政府を認めない」と罵ったという。
5月後半 米財界が二度目の提言。「米国は両者を調停し、自由な選挙で選挙されるどんな大統領でも承認する」ことを提案。
5.25 ウェルタ、COMの集会を弾圧し指導者を逮捕。COM指導者の多くは逮捕を免れ地下に潜行。
5月末 ウェルタ、国家労働仲裁事務所を設立。
5月末 連邦軍がコアウィラ州でカランサ軍の掃討作戦。作戦は所期の目的を達成しないまま中断。
5月末 連邦軍、ソノーラ州グアイマスに上陸し北進を開始。ソノーラ軍を支持するフランス人パイロットのDidier Massonが、グアイマス港に停泊中の連邦軍軍艦を空から攻撃。世界で最初の軍艦に対する空幕となる。
5月末 サパティスタは、ゲレロ州でほぼ完全な作戦行動を確保し、プエブラ州へも進撃。
5.30 サパタ、ウエルタとオロスコにたいする抵抗を訴えアヤラ綱領の修正案を提起。再集中キャンプ作戦に対する戦線を再構築する。
13年6月
6.03 立憲主義者の部隊がマタモロスを攻撃。連邦軍駐屯部隊を撃破する。
6.06 議会の常設委員会、ウェルタによる臨時議会の召集要請を拒否する。
6.07 立憲主義者はサカテカスをとる。ウェルタはこれに激怒。
6.08 対ヨーロッパ債務の支払期限を2日前にして、ウェルタは2千万ポンドの借款を新たに起債。実際には600万ポンドのみの融資に終わる。
6.13 カンペチェ知事カスティージョ・ブリト、ウェルタに反旗を翻す。北部以外の州で初めての州単位の離反。
6.13 ウィルソン大統領、ウィルソン大使のウェルタ政権承認の要求を拒否。「米国政府は、ウエルタが自由な選挙を誓ったときにのみ、ウエルタの体制を認め、対立を調停する」と提案。
6.13 大統領の特使William Bayard Hale、「ヘンリー・レーン・ウィルソンがウエルタのクーデターを援助した」と告発。これを受け、ウィルソン大統領はウェルタ政府不承認の立場を明確にする。
6.15 ウエルタ、フェリクス・ディアスとの「大使館の協定」を事実上破棄。全ての権力を彼の手中に掌握する。
6.17 反乱軍、シウダ・ドゥランゴへの第二次攻撃を開始。3日後に連邦軍は敗退。立憲主義者はシウダ・ドゥランゴを占領して、報復と略奪を展開。
6.25 オブレゴンの軍、サンタマリアで連邦軍を撃破。連邦軍はグアイマスに封じ込められ、ソノーラ州のほぼ全域が州軍の支配下に入る。
6月末 チワワ州の反乱軍、州都チワワとシウダ・ファレスを除く全州を支配下に置く。反乱軍の中でパンチョ・ビリャが最大の勢力を確保する。
6月末 フェリクス・ディアス派のデ・ラ・バラ外相が辞任。
6月末 ウィルソン大統領、カランサとの最初の接触を試みる。これは派遣されたデル・バジェ特使の不適切な言動により失敗に終わる。
13年7月
7.04 カランサは、立憲主義者の軍を7つの地域部隊に編成。北西部(ソノラ州)をオブレゴンが、北東部(コアウィラ州)をゴンサレスが、中部(サカテカス州)をナテラが率いることとなる。
7.09 ウェルタ、地方警察を騎馬憲兵隊として再編成。エリート部隊へと育成を図る。
7.10 オロスコの率いる連邦軍、シウダ・カマルゴとMapulaで立憲主義者を破り、反乱軍の首都モンクロバに迫る。カランサはコアウィラを離れ、ソノーラに向かう。(ソノーラに到着するのは9月20日)
7.12 メキシコシティーで最初の大規模な反米デモが行われる。
7.13 「内政への関与」を非難され罷免されたウィルソン大使、メキシコシティを離れる。
7.15 オロスコ、サンタロサリアで立憲軍と対戦し撃破する。
7.16 連邦軍がサカテカスを奪回。
7.19 William Jennings Bryan国務長官、ウィルソン大統領へのメモ。メキシコで秩序を回復させるために調停役となることを提案。
7月末 ウィルソン大使、ワシントンに戻りウィルソン大統領と会見。和平回復のために、メキシコへの全面的な侵攻を提案する。ウィルソン大統領はこの提案を無視。
7.21 立憲主義者、コアウィラ州南部のトレオンに対する攻撃を開始。戦いは10日間に及ぶが、立憲派の敗退に終わる。
7.22 オロスコ、シウダ・チワワに入り、連邦軍の守備を強化する。
7月 英国政府、メキシコ大使にライオネル・カーデンを任命。親ウェルタ・反ウィルソンの立場を鮮明にする。このあと米英関係は緊張を強める。
7月 オブレゴン南方への圧力を強め、グアイマスを迂回してシナロア州に進出。
7月 米国、メキシコからの反乱軍の進出を恐れる。テキサスなど南西部諸州はメキシコへの武力干渉を求める。
7月 ビリャ、チワワ州北西部のアセンシオンに進出。フェリクス・テラサス将軍の率いる政府軍に対しかく乱活動を展開。3回にわたる列車強盗などで、多数の戦利品を獲得。コアウィラ州から移動してきたカランサとの接触を求める。(この時点でビリャの軍は、まだ立憲派の正規軍としては承認されていなかった)
13年8月
8.02 ウエルタ、「米国がメキシコの内政に干渉するなら、それがいかなる形であっても、武力をもって抵抗する」と述べ、ウィルソン大統領の「休戦と自由な選挙」の提案を拒絶する。
8.04 ウィルソン,自らの提案を説明するため、大統領個人の特使としてジョン・リンドをウェルタのもとに派遣.リンドはベラクルスに入り、「ウェルタ自身が出馬しない正直な大統領選挙をするなら,カランサとのあいだで仲介の労をとる」むね申し出る.
8.12 メキシコシティ入りしたリンド特使と、ウェルタ政権のガンボア外相の間で会談が始まる。
8.16 交渉が決裂。ウェルタ政権はリンド提案を全面拒否、「米国がメキシコ内政に干渉した」と告発。
8.16 米国からの財政支援を拒否したウェルタ、各地の軍司令官に地域からの資金徴発を命令する。政府は毎月600万ペソに上る財政赤字に苦しみ、深刻なインフレ・スパイラルが始まる。
8月中旬 コアウィラ州に展開した連邦軍、モンクロパからさらに北方に攻勢をかける。
8月中旬 ヘンリー・レーン・ウィルソン大使、辞任を強制される。
8.19 ロブレス、サパタの支配するモレロス南東部のウアウトラを占拠。サパタは和平交渉団メンバーを殺害した後、闘わずに町を去る。
8.25 イシドロ・ファベラ元議員、カランサの戦列に加わり、議会メンバーにウェルタとの断絶をもとめる。
8.26 ビリャ、チワワ北西部からふたたびサンアンドレスに侵入。豊富な武器・弾薬で連邦軍を圧倒。カランサはビリャに対し、オブレゴンの配下に入るよう指示するが、ビリャはこれを拒否。カランサは,ビリャの干渉を嫌いソノラ州に移動,オブレゴンの部隊に合流.
8.26 メキシコシティでの各種の工作に失敗したリンドは、いったんベラクルスに撤退。12月30日まで滞在し、情勢の展開を待つ。
8.27 ウィルソン大統領、両院合同会議で演説。「注意深い待機」(watchful waiting)の方針を宣言する。反乱軍だけでなく、ウェルタ軍への武器販売も禁止。
8月 連邦政府は、全ての男子生徒に軍服を着るよう命令。徴兵官が町に出動し若者を片っ端から徴兵。
13年9月
9月初め ソノラ州に隣接するシナロア州で、二週間にわたり激戦が展開される。立憲主義者は州都を除く全てを確保。
9月初め ウエルタ、Zamaconaを代表とする使節団を米国に派遣。妥協の道を探るが、米政府はこれを無視。
9.04 ロブレス将軍、「休暇」を理由にモレロスを離れる。
9.05 米国海兵隊がソノーラ州に上陸。ヤキ渓谷の外国人の避難活動にあたる。
9.13 ロブレス将軍、モレロス州における指揮権を正式に剥奪される。モレロス州における連邦軍の勢力は弱体化し、主要都市以外の全域をサパタが掌握。
9.13 ウェルタ、フェリクス・ディアス派の最後の閣僚となった教育相を解任。議会はこれに反発。
9.16 ウェルタが議会演説。立憲的に選ばれた後継者に政権を譲るため、鋭意努力すると述べる。
9.18 議会、政府の出した後継教育相の人事を投票により否決。Belisario Dominguez上院議員は、ウェルタを厳しく批判する演説。政府との対立姿勢を鮮明にする。
9.20 カランサ、ソノーラ州の州都エルモシージョに到着。ここを暫定的な首都と宣言。オブレゴンを正式に北西部軍司令官として任命する。
9.24 カランサ、社会的改革と新しい憲法の制定を呼びかける。
9.24 右翼のカトリック党、無党派のガンボア外相を大統領候補に指名。米政府もこれに暗黙の支持を与える。
9月末 サパタは、作戦基地をゲレロ州北部へ移動する。
9.26 チワワとドゥランゴの反乱勢力の指導者が集まり、パンチョ・ビリャを革命軍司令官に指名。ビリャは反乱勢力を北部師団(Division del Norte)として編成。北西部軍と対等の立場に立つ。
9月末 メキシコ政府、石油工業の国有化を提案する。この提案は主として米国に向けられたものであったが、タンピコ油田の利権確保を狙う英国も、これに不快感。
9.29 ビリャ軍、アビレスを占拠。
9.30 500.PM ビリャ軍、トレオン攻撃に着手する。
13年10月
10.01 900.PM ビリャ軍攻撃にパニックとなった連邦軍は、ほとんど闘わずしてトレオンを放棄。(12月にはふたたび連邦軍の手にもどる)
10.02 ビリャの部隊、トレオンを攻略。ビリャはトレオンの執政者を名乗る。
10.04 サパタ、軍令を施行。軍事的組織として規律を強化する。
10.05 シナロア州の反乱軍、州都シウダ・シナロアを陥とす。反乱軍のカルマゴへの攻撃は撃退される。
10.07 連邦軍、テキサスとの境界の町Piedras Negrasを奪還。コアウィラ州東部および北部の立憲主義者は州外に駆逐される。
10.08 ドミンゲス上院議員、メキシコシティー警察によって誘拐・殺害される。ドミンゲスは2週前に、議会での演説でウェルタを激しく批判していた。
10.09 議会メンバーは、ドミンゲス失踪事件の調査を要求し、議事堂に立てこもる。
10.10 300.PM ウェルタ、議会を解散し議員85人(一説に110人の議員全員)を逮捕・投獄。軍事独裁体制を確立する。これにより米国政府の承認を受けることは、実質的に不可能となる。
10.10 米下院、メキシコの封鎖あるいは侵攻の可能性について討議を開始する。
10.11 Carden英大使、ウェルタに対する信任状を提出。ウェルタの国会議員逮捕を公式に容認する。これに対しウィルソン大統領は激怒したといわれる。
10.20 ビリャ、チワワ州平定作戦を開始。ビリャのもっとも輝かしい軍功とされる。
10.21 ウィルソン,メキシコ革命を外国資本の意向に沿うものとしようとするのはきわめて危険と述べ,イギリスの内政干渉に警告.英国のグレー外相は、米国がメキシコに対してもつ特別の利害を承認。「英国は米国の対メキシコ政策に追随することに合意する」と述べる。
10.23 立憲主義者、モンテレーを攻撃。2日後に敗退。
10.24 米政府、英国との合意をもとに、他国政府に対しウエルタ政権の承認を留保するよう要請。ヨーロッパ諸国のウェルタ承認に対抗し、対メキシコ強硬政策に対する国際的支持の総結集をはかる。
10.26 ウェルタ、不正選挙により大統領に選出される。あまりにも投票率が低く、不正がひどかったことから、選挙は無効とされ、再選挙は9ヶ月にわたり延期される。
10.24 カランサ,ソノラ州エルモシージョ(Hermosillo)で臨時政府の樹立を宣言.亡命から戻ったマイトレーナ州知事との間に確執が起こる。
10.27 ウェルタ、15万人からなる連邦軍体制を承認。戦争体制維持のため輸入税を5割アップ。
10月末 保守派の指導者フェリクス・ディアス、ベラクルスで米国領事館で亡命者保護をもとめる。
10月 メキシコ北部を根城とする米国人企業家、メキシコからの分離を公然と議論し始める。
11月 ビリャ、サパタに手紙を送り、農地改革の実行を誓う。サパタはこれを喜び、特使を送り返信。階級敵に対する人民裁判と処刑を勧める。
13年11月
11.01 ビリャ、シウダ・チワワの降伏を要求する。
11.05 ビリャ、シウダ・チワワへの攻撃を開始。6日間の戦闘で陥落できず、甚大な損害を出し退却。
11月初め 連邦軍、大部隊を送りトレオン奪回を目指す。
11.07 ウィルソン大統領,ウェルタ政権退陣要求の声明(Circular Note).さらに外国政府に対しても、米国が「必要とあれば介入する」とし、武力干渉する可能性を示唆。ウエルタは「アメリカの内政干渉を拒否し、全土の平定まで大統領職にとどまる」と声明.
11.10 ウィルソン大統領、カランサとの交渉を求め、ノガレス(メキシコ)にウィリアム・ヘールを送る。カランサは軍事的な解決を主張して譲らず。米国の干渉を厳しく拒否する。
11.13 ビリャ、騎兵部隊を率いひそかにシウダ・チワワからシウダ・フアレスに向かう。
11.14 シナロア州の反乱軍、州最大の都市クリアカンを占領。その後マサトランの攻撃には失敗。タマウリパス州の反乱軍はシウダ・ビクトリアを包囲戦のすえ陥落させる。激しい攻防でシウダ・ビクトリアは廃墟と化す。
11.14 Carden英国大使とヨーロッパ外交官、ウエルタと会見。米国の退陣要求を受け入れるよう説得する。英国に依拠し米国と対決しようとしたウェルタの戦略は崩壊。
11.15 200.AM ビリャの部隊、列車に乗りシウダフアレスに忍び込む。駐屯軍はビリャの奇襲にパニックとなり、正午までにシウダフアレスから逃げ出す。この戦いで政府軍将兵ら3000人が捕虜となる。
11.19 ヘール大統領特使、なんらの成果を得られぬまま米国に戻る。ウィルソンは、カランサに対して武器禁輸を課す。
11.19 ビリャ,ファレス市近郊のティエラ・ブランカでホセ・アイネス・サルバドール将軍の率いる政府軍を破る。
11.23 シウダフアレスを出発したビリャ軍、Tierra Blancaで連邦軍と対戦。圧倒的な火力で押しつぶす。
11.27 米政府、「ウェルタを辞任させることが米国の基本政策である」と発表。しかし、カランサが干渉に反対したことから、武力干渉の口実を失う。
11.27 ビリャ軍を恐れる連邦軍は、シウダ・チワワを捨て退却中に崩壊。多くの兵士が砂漠を横切ってオヒナガ方面へ逃れる。
11.30 ソノーラ州ナコの上空で、両軍から雇われた飛行機同士が遭遇。パイロット(ともに米国人)がピストルで撃ち合う。世界初の空中戦となる。
11月 「悪魔の辞典」の作者アンブローズ・ビアス、メキシコに入り立憲主義者の隊列に加わろうと図る。12.26に最後の手紙を記し、その後消息を絶つ。一説ではビリャにより処刑されたという。
13年12月
12.01 ビリャ軍の北部師団,シウダ・チワワを無血で占領。チワワ州全域を手中に収める.
12.08 ビリャ、乞われてチワワ州知事となる。テラサスの息子を始めとする反革命分子を逮捕。テラサス、クリールらの大農園を収用し、牛などの家畜を米国に売却し豊富な軍資金を獲得。革命軍各部隊のなかで最大の戦力を誇り、貧民に食料を配布するなど「善政」を敷く。
12.09 連邦軍、トレオンを奪還。
12.12 チワワの連邦軍残党、国境の町オヒナガに到着。サルバドール・メルカド将軍の下に戦列を再構築する。
12.26 ジョン・リード、チワワに潜入しビリャの軍と行動を共にする。パンチョ・ビリャと会見し、翌年4月には「メキシコ革命」をレポートする。(リードは後にソ連に入り「世界をゆるがせた10日間」でロシア革命を報道。一躍有名になる。その後アメリカ共産党創設者のひとりとなる。詳しくは米国年表を参照のこと)
12月 ヨーロッパの銀行家、ウェルタ政権に対するこれ以上の融資を拒否。
12月 フランスで訓練を受けた連邦軍航空部隊が活動を開始。
1914年 14年1月
1.01 立憲主義者、ヌエボラレドを攻撃。2日後に甚大な犠牲を出し敗退。
1.02 ウッドロー・ウィルソン、ウエルタが米国に宣戦布告しようとしているとの情報を受け取る。
1.04 立憲主義者、オヒナガの連邦軍を攻撃するが敗退。ビリャ軍はリオグランデを渡り、テキサス州プレシディオに越境したあとオヒナガを背後から衝く作戦をとる。
1.05 ビリャ、「戦争映画」を作成するMutual Film Corporationとのあいだに独占契約を結ぶ。契約料は25,000ドル。(彼が映画製作者のために戦闘や処刑を実演したというのは作り話である)
1月初め バハ・カリフォルニア州Ensenadaに駐屯する連邦軍部隊が暴動を起こす。
1.06 メキシコシティのカトリック教会、ウエルタの認可のもとで、メキシコをイエスの聖心に捧げる。(意味不明)
1.07 カランサの要請にもとづき、ビリャはチワワ州知事を辞任する。しかしその後も事実上支配を継続。
1.11 ビリャ、激戦の末連邦軍を撃破し、オヒナガを奪取。チワワ州全域がビリャの支配下に入る。メルカド軍は川を渡りテキサス側に逃亡した後、米軍により武装解除される。
1.12 ジョンJ.パーシング将軍、ビリャを訪れるためにメキシコ領内に入る。オヒナガで会談が行われる。
1.15 ウエルタ、対ヨーロッパ債務の利払いを停止。ヨーロッパ諸国の支持は失われ、メキシコの信用は崩壊する。
1月末 オブレゴン軍、エンパルメの近くで連邦軍に決戦を挑むが、決定的勝利にはいたらず。
1.28 英国のグレー外相、「欧州列強はウエルタの辞任を要求する」とし、米国に共同歩調をとるようもとめる。ウィルソンはヨーロッパの干渉を警戒し、この要請を拒否。
1.29 サパティスタ部隊、Tlahuacを攻撃。
14年2月
2.03 ウィルソン大統領、カランサに対する武器の禁輸を解除。メキシコ国内の大地主・経営者・教会指導者は、米国との対立を恐れ、ウエルタに対する支持を撤回するようになる。
2月初め ユカタン州のAbalaで先住民の反乱が発生。
2月中旬 エルパソの国際橋で、ビリャとヒュー・スコット将軍が会見。
2.22 ウィルソン,北部革命軍を交戦団体として承認するとともに,ウェルタ政府と革命軍双方への武器輸出を禁止.タンピコの石油王ドハニーはウェルタ政権への利潤配分を拒否.
2.17 ビリャ、英国人ウィリアムH.ベントンを処刑する。ベントンはシウダ・ファレス在住の地主で、反革命派の中心人物であったとされる。ビリャは英国の抗議に対し「自衛」行動だったと主張するが、誰も信用せず。
2.17 ウエルタ、農業省を設立。農業改革に意欲を示す。
2.23 ビリャ、処刑されたゴンザレス知事の遺骸をシウダ・チワワに移送し州葬を執り行う。
2月下旬 カランサ、エルモシージョからシウダ・チワワに移り、シウダチワワを臨時政府の首都と宣言。
2月下旬 英国政府、ウェルタに対する信任を取り消す。ドイツは英国に対抗しウエルタを支持。
2月 フェリペ・アンヘレス将軍、ビリャの部隊に加わり軍事参謀長となる。
14年3月
3月初め 軍事物資の補給で優位に立ったサパタ,ビリャ,オブレゴンら立憲派の部隊は、国土の3/4を支配。ウエルタは全ての戦線で明かに敗勢となる.ウェルタの確保するのはメキシコ市周辺とベラクルスのみとなる.
3.11 ウェルタ、大衆の支持を求め、農地改革の準備を命令。
3.12 モレロス州に配備された連邦軍、ホフトラ(Jojutla)で暴動を起こす。これにより連邦軍の指揮系統は寸断される。
3.14 サパタ、ゲレーロ州の州都チルパンシンゴへの包囲作戦を開始。23日から総攻撃に移る。
3.15 立憲主義者がメキシコ各地で総攻撃を開始。北西軍のオブレゴン、北東軍のゴンサレス、中部軍のビリャがいっせいに南下を開始。さらに中央部、南部でも反乱が相次いで発生。
3.20 チワワから南下したビリャ軍,中部高原に入る鉄道の要衝トレオンへの攻撃を開始.トレオン郊外のBermejillo、Mapimi、Tlahualiloを相次いで陥落。
3.23 ビジャ軍、トレオン郊外の要衝への攻撃を開始。
3.26 Gomez Palacio、激戦の末ビリャの手に落ちる。引き続き夕方からトレオン攻防戦が開始される。
3.26 ゴンサレスの率いる北東軍、タンピコの包囲を開始する。
3.28 チルパンシンゴがサパタ軍の手に落ちる。サパティスタはゲレーロ州政府の支配を確立。
3月末 ウェルタ、すべての連邦公務員に軍服の着用と軍事訓練を義務付ける。
14年4月 米軍のベラクルス占領
4.01午後 ビリャ、トレオン市内からいったん退却。夕方から激しい砲撃を加える。
4.02 連邦軍、トレオン防衛を断念。砂塵の中を南方に去る。この戦闘で連邦軍は5,000人の兵士を失い、反乱軍にも1,700名の死者を出す。ビジャ軍が家屋をしらみつぶしに索敵したため、多くの市民が戦闘で巻き添えとなる。
4.03 ビリャ、廃墟となったトレオンの町に入城。カランサは白人を目の敵にするビリャの作戦に対し非難。
4.05 ゴンザレス軍、タンピコ総攻撃を開始する。8日にはイトゥルビデ橋の戦闘で敗退。この後、タンピコ攻撃を断念し、モンテレーに向かう。
4.06 サパタ、連邦軍ゲレロ州司令官Carton将軍を、「人民の敵」と断罪し処刑。
4.08 サパティスタ、ゲレーロ州イグアラを占領。
4.09午前 タンピコの連邦当局,タンピコで米国船ドルフィン号の船員2人を逮捕。彼らが戦闘地域へ無断で立ち入り、港湾設備を損壊したとの容疑.
4.09午後 地元の連邦当局は、米海軍のメイヨー提督に手違いを詫びるなど迅速に対応する。しかしメイヨーはこれを拒否し、ウェルタ政権の公式な謝罪および賠償金を求め、最後通告を発する。
4.10 ウィルソン大統領、メイヨー提督の立場を支持すると声明。これに対し、ウェルタは米国海軍の要求にあいまいな態度をとる。
4.12 連邦当局、謝罪要求を公式に拒否。これを受けたメイヨー提督は、タンピコ上陸作戦の準備を開始。ウィルソンは、米国大西洋艦隊をメキシコ沿岸に送り、大規模な演習により力を誇示する。
4.12 ビリャ、トレオンの北西部に残存する連邦軍と対決。サンペドロでの激戦の末、壊滅させる。残党は砂漠に逃れた後四散する。
4.12 カランサ、シウダ・チワワに首都を創設。政府機構を立ち上げる。
4.14午後 ウェルタ、米国の干渉反対の立場で、内戦を一時停止に持ち込もうと図る。ウェルタは、「それは災難だろうか? 否、それは我々にとって絶好の出来事である!」と述べたという。
4.15 米国上院、全会一致でウィルソンの強硬路線に対する支持を与える。ボーラ上院議員は、「アメリカ合衆国の旗がメキシコで翻るなら、それは決して降ろされることない。これはパナマ運河へ向かうアメリカ合衆国の行進の始まりである!」と歓喜したという。
4.15 ビリャ、サンペドロに入城。メキシコ北部における連邦軍の主力は消滅する。
4.15 ビリャ、ウェルタ派のチワワ州知事チャオの処刑を承認。カランサは処刑の中止を命令する。ビリャはこの命令を受け入れるが、カランサの干渉に対し不快感を強める。
4.15 ソノーラのマイトレーナ知事の所有する、エルパソの「Correo del Bravo」紙、カランサを「農地改革の敵」と非難。ビリャとサパタを支持する立場を明確にする。(いろいろ裏事情はありそうですが…)
4月中旬 サパタは、州都CuernavacaとJojutlaを除くモレロス州のすべてを実質的に統括下に置く。
4.18 モンテレーに転戦したゴンサレス軍、1週間にわたる決戦の末、モンテレーの確保に成功。これを見たヌエボラレドの連邦軍は戦わずに撤退。
4.18 ウィルソン、ウエルタに最後通告を突きつける。
4.19 1230.AM ベラクルス駐在の米領事、「ドイツ船Ypiranga号が、ウェルタのための軍事物資を積んで、21日に入港予定」と打電。これを受けたウィルソン大統領は、大西洋艦隊のベラクルスへの急派を命令。
14年4月20日
4.20 ウィルソン大統領、タンピコ事件への対処のため、臨時の軍事力増強を議会に求める。
4.20 300.PM ウィルソンは下院との合同会議で、メキシコに対する武力行使を承認するよう求める。彼の演説は、スタンディング・オベイションで受け入れられる。しかし上院のロッジとルート議員は、慎重な態度をとり決議の引き伸ばしを図る。
4.20 ウィルソン大統領、ドイツ船「イピランガ」(Ypiranga)号が武器を積んで、ベラクルスに入港を図る」との報に接し、軍による実力阻止を決意。
14年4月21日
4.21 200.AM ウィルソン、イピランガ号の積荷おろしを阻止するため、ベラクルス税関の即時押収を命じる。
4.21 1120.AM 海兵隊6千名がベラクルスに出動,フランク・フレッチャー提督の率いる上陸部隊が港湾設備を占拠。
4.21 1230.PM 米軍と連邦軍との間に戦闘が開始される。翌日までに米兵19人と、メキシコ兵200人以上が戦死。市民126人が巻き添えとなる。その後1年間にわたり(一説に1ヶ月)米海兵隊が港を占領.セイラー服の色にちなみ、「青シャツ隊」と呼ばれる。
4.21午後 メキシコ議会、ウェルタに非常大権を与える。ウェルタは直ちに政治犯に大赦を与え、全ての反乱軍にアメリカの攻撃に抵抗するよう訴える。このあと反米運動と一過性のウェルタへの支持が盛り上がる。
4.21 パンチョ・ビリャとサパタ、カランサに対抗する勢力の結集を図りAguas CalientesのConventionを開催。
14年4月22日
4.22 1100.AM 海兵隊、ベラクルス市の占領計画を完了。タンピコの米国市民が避難を完了。
4.22午後 米議会上院もメキシコに対する実力行使を承認する。
4.22午後 ウェルタ、米国との国交を断絶。高級外交官全員を国外追放。
4.22 ウェルタ,アメリカとの外交関係を断絶.政府は連邦軍に反乱軍との戦闘を中止させ、メキシコシティ防衛のため前線から撤収させる。
4.22 ラテンアメリカ全土で米国の干渉に対する憤激が高まる。各地で自然発生的な反米デモが発生。カランサも米国のベラクルス占領を強く非難。ウィルソンは国際的に窮地に立つ.
4.23 ビリャ、秘密裏に米政府と接触。ベラクルスの占領を支持すると伝える。
4.24 ウィルソン政権、メキシコとの戦争の可能性を議論する。リンドレーM.ギャリソン米国防相は、米軍を即時メキシコシティに向け進軍させるよう提言。ウィルソン大統領は、軍の全面的な動員を承認する。
4.25 アルゼンチン、ブラジル、チリが、メキシコ危機の調停を申し出る。
4.25 米国海軍のパイロットが、ベラクルスの近くで初めて軍事行動に参加。
4.25 アルゼンチン、ブラジル、チリの各国、米国とメキシコの紛争調停を申し出る。
4.26 ベラクルスの米軍、占領地区に戒厳令を公布。地元当局は行政への協力を拒否。
4.27 米海兵隊,ベラクルス市内の軍事制圧を完了。市庁舎に星条旗を掲げる。
4.28 米航空分遣隊の2部隊がベラクルスに入る。それぞれの部隊はAB-3カーティス飛行艇5機から編成され、海軍艦艇の上空保護にあたる。
4.28 米軍、ベラクルス近くのサンファン・デ・ウジョア要塞を占拠。政治犯多数を解放する。
4.30 フレデリック・ファンストン准将の率いる第五歩兵旅団、ベラクルスに上陸。海兵隊駐屯部隊に合流。海兵隊から占領任務を引き受ける。
14年5月
5.01 青年将校ダグラス・マッカーサー、ベラクルスの米軍に送られる。まもなくメキシコ領内への偵察行動に参加し何回かの銃撃戦を経験。
5.02 ファンストン将軍、正式にベラクルス行政官に就任。まず市民を動員しての大規模な清掃作戦に取り掛かる。民政府は学校組織を確立し、売春婦を逮捕、街からやくざものを一掃する。
5.07 ファンストン将軍、ベラクルスからメキシコシティーへの進軍を提案する。
5月初め サパティスタ、モレロス州のJojutlaを陥落させる。
5.04 シナロア州に接するテピク州(現マヤリト州)北部のAcaponetaを陥落させる。5月中旬にはCiudad Tepicも反乱軍の手に落ち、メキシコ第二の都市グアダラハラへの圧力が強まる。
5.06 シナロア州マサトランで、立憲主義者の飛行機が、沖合い待機中の米国太平洋艦隊を攻撃。ハワード提督は強硬な抗議。
5.09 パンチョ・ビリャを英雄として描いた映画「ビリャ将軍の生活」がニューヨークで公開される。若干の場面にはビリャ本人も登場する。
5.11 ベラクルスの戦闘で犠牲となった米兵士の葬儀がニューヨークで行われる。ウッドロー・ウィルソンは、「我々は人類に貢献するためにメキシコに乗り込んだ」と述べる。
5.11 立憲派のパブロ・ゴンザレス将軍、タンピコへの攻撃を開始。13日には攻略に成功。
5.11 ビリャ、コアウィラ州南部の掃討作戦を完了。州都サルティーリョに対する決戦の準備に入る。
5.17 ビリャの騎兵軍団がサルティーリョ北方のパレドンを攻略。ビリャは連邦軍の将校を処刑し、それを見ながら昼飯を平らげたという。
5.20 アルゼンチン、ブラジル、チリの三国が仲介したナイアガラフォールズ会議が開催。米墨両政府とカランサ派が協議を開始。カランサ派もウエルタ派もアメリカの武力行使を戦争行為だと非難.ウエルタ派は“侮辱と無礼”に賠償など一切払わないとアメリカを一蹴する.会議は7月2日まで断続的に開催されるが、和解には至らないまま終了。
5.20 北東部における最後の連邦軍拠点サルティーリョ、ビリャ軍の進攻を目に放棄される。
5.27 サルティーリョのビリャと、立憲派東北軍のパブロ・ゴンサレス将軍が会見。ビリャはゴンサレスにサルティリョを明け渡す。
5月末 ウェルタ、政権の支柱となっていたカトリック教会の日刊紙「エル・パイス」を閉刊。
5月末 ウィルソン大統領、メキシコにおける農地改革を支持すると発表。立憲派との接点を求める。
5.27 ベラクルスに揚陸を果たせなかったイピランガ号、プエルト・メヒコに入港し、ウェルタ政権向けの軍事物資の揚陸に成功。
5.27 ウエルタ政権、メキシコ市内での対抗勢力を抑えるため,サンディカリストの拠点となっていた「労働者の家」(COM)を閉鎖。これに抗議する労働者の主力部隊は「赤色部隊」を編成.反ウェルタの地下闘争を展開.指導者のアントニオ・ディアス・ソト・イ・ガマ,ラファエル・ペレス・テイラー,ミゲル・メンドーサ,オクタビオ・ヤーンらはサパタ軍に参加.
14年6月
6.16 ウィルソンはカランサ派にたいし、メキシコシティーへの進撃を一時停止するよう求める。カランサはこの提案を拒否。
6.23 ビリャ、カランサの承認なしにサカテカスを攻撃し占拠。カランサはビリャへの弾薬・石炭の供給を制限することにより制裁。
6.24 アメリカとメキシコが議定書を交わす.タンピコ紛争終結.
6 ビリャ,中央高原への入口サカテカスを陥落.オブレゴンがグアダラハラ,ケレタロを占領.形勢は一気に革命派有利に傾く.革命成立後の指導権をめぐりカランサ=オブレゴンとビリャとの対立激化.
6月初め ソノーラでマイトレーナ知事とオブレゴン将軍の間に激しい確執が発生。このためソノーラ州軍の南下は一時ストップする。
6.02 サパタ、モレロス州最後の連邦軍拠点となったクエルナバカを包囲する。サパタはメキシコシティとの連絡を切断した後、軍をメキシコシティに向け前進させる。
6.08 ビリャ、カランサの統制権を承認した上でカランサとの交渉を開始。しかしカランサはビリャの軍司令官としての権限を認めず、直属部隊を解散し、「正規軍」に編入するよう命じる。
6.10 カランサ、ビジャを無視し、ナテラ司令官の指揮する北部中央軍にサカテカス攻撃を命じる。
6.11 ナイアガラ会議、カランサの暫定政権を当事者として承認。
6.11 ナテラの率いる中央軍がサカテカスへの攻撃を開始。3日後に撃退される。
6.13 ビリャ、立憲派内の役職を辞任すると発表。カランサは直ちにこれを受け入れる。
6.14 ビリャ派の将軍が集まり、ビリャを再び擁立。同時にカランサを厳しく非難。ビリャの指導を受けサカテカス攻撃を開始することを決議。
6.16 カランサ暫定政権の代表が、ナイアガラで米国代表と秘密会談。ウェルタ政権打倒に当たり、いかなる米国の調停も援助も不要であると通告する。
6.16 ビリャ軍、サカテカス包囲に入る。
6.19 サカテカス近郊でビリャ軍と連邦軍守備隊との小規模な衝突が発生し始める。
6.22 ビリャ、サカテカス戦線に入り、直接の指揮を執る。周辺部の連邦軍守備隊はしらみつぶしに攻撃され壊滅。サカテカス基地は孤立する。
6.23 1000.AM ビリャ軍、サカテカスを見下ろすエル・グリートの丘を奪取。
6.23 100.PM 恐怖におびえる連邦軍は、サカテカスからの脱出を図り、血路を開こうとするが、そのたびに多大な犠牲を出し跳ね返される。
6.23 午後 反乱軍顧問のアンヘレス将軍によれば、「私は、芸術的なまでの作戦の成功に喜び、絶滅していく彼らを見た」 しかし、まもなくビリャ軍による連邦軍兵士の組織的虐殺を制止に回る。
6.23夕方 戦闘が終了。連邦軍は死者9千名を出し、町は廃墟と化す。反乱軍にも3千名の犠牲者。
6.25 ビリャ、サカテカスからさらに南に進もうとするが、カランサは石炭などの供給を止め進行を妨害。ビリャはカランサとの対決を決意する。
6.26 ベラクルスの米軍民政府、非メキシコ人売春婦の市内からの退去を命令。
14年7月 第1次世界大戦勃発
7.02 ナイアガラ会議が閉幕。ウェルタ政権の重要人物は争って海外亡命に入る。
7.04 トレオンでカランサ派とビリャ派の会談.北東軍司令官パブロ・ゴンサレスの調停によりトレオン協定締結.会談の過程でカランサと彼以外の指揮官との立場の違いが浮彫りとなる.
7.05 ウェルタ、議会を再開。議会はウエルタを大統領に選出.
7.06 オブレゴンの率いるソノラ州部隊,シナロア州からグアダラハラに進出。グアダラハラ北西のOrendain、El Castilloで連邦軍を壊滅させる。
7.08 オブレゴンの率いるソノラ州部隊,グアダラハラを攻略。さらにメキシコシティへと迫る。これを見たウェルタは
7.08 グアダラハラ陥落の報を受けたウエルタ大統領、政権維持を断念、政府軍の存続を条件に大統領辞退陣に合意する.辞任の意思表明において、米国の干渉と、それに基づく国内の不和を非難する。
7.08 カランサとビリャ、メキシコの将来構想で合意。
7.14 第1次世界大戦勃発.石油会社は「ドイツ軍の脅威に対抗する」ことを名目にマヌエル・ペレイアス将軍を雇い,タンピコの権益を防衛させる.
7.15早朝 ウェルタの家族、メキシコシティからプエルト・メヒコへ脱出。その後ベラクルス経由でヨーロッパ亡命.
7.15午前 ウェルタ、議会宛に辞表を提出。後任にはフランシスコ・カルバハルが暫定大統領として就任。
7.17 「第一統領」に就任したカランサ,タンピコ石油会社に対し輸出税を払うよう命令.
7.19 サパタ,ビリャとの合意を下に修正アヤラ宣言を発表.アシェンダの徹底的解体が実現するまで軍事行動を続けると宣言.カランサと旧政府軍,メキシコ市をサパタ軍から防衛することで合意.
14年8月
8.15 カランサ,オブレゴン指揮下の北西軍団とともにメキシコ市入り.
8.16 ウィルソン大統領、ポール・フラー特使をサンタ・ロサリアに送りビリャと会談。政府の樹立を待って引退するよう訴える。ビリャもこの提案に同意。
8.20 カランサ、議会により暫定大統領として指名される。
8.20 カランサ,銅山会社とウエルタとの採掘契約を破棄.あらためて革命政府への採掘料納入を命ずる.
8.23 カランサの使節団,モレロス州を訪れサパタと会見.サパタはアヤラ宣言を政府方針とするよう要求.会談は物別れに終わる.カランサはサパタ派のメキシコ市駐在代表を逮捕,決定的対立にはいる.
14年9月
9.05 フラー特使、メキシコシティーでカランサと会見。カランサは米国との協調を誓う。
9月上旬 軍事相に就任したオブレゴン、チワワのビリャを訪問。二人でフォート・ブリスのパーシング将軍のもとを訪問。
9.23 カランサの既成体制維持の姿勢が明らかになる.ビリャは「メキシコ国民に対する宣言」を発表.あらゆる革命勢力が結集してカランサから権力を奪取するようよびかける.
14年10月
10.01 暫定大統領のカランサ,メキシコ市議会を開催.旧支配層との妥協を強める.革命派は一斉に反発.
10.12 革命に参加した各部隊の代表者よりなるアグアス・カリエンテス会議開かれる.ビリャはサパタ派と組んで多数派工作に成功.カランサ派を押し切り,サパタの「アヤラ計画」を革命の共同綱領として採択.カランサとビリャの同時退陣を決め,エウラリオ・グティエレス(元鉱山監督)を臨時大統領に指名.革命派内部の紛争はさらに激化.
14年11月
11.05 グティエレス,カランサに「5日以内に全ての権力を引きわたせ」とする最後通告.ビリヤに正規軍総司令官の地位が与えられる.
11.12 アグアス・カリエンテスの会議が終了。エウラリオ・グティエレス将軍を大統領に大統領に選出。
11.19 カランサは最終通告を拒否.ベラクルスへ避難したのちビリャにたいし宣戦布告.カランサへの忠誠を誓うオブレゴンとパブロ・ゴンザレス将軍が,カランサ軍に合流。
11.23 米海兵隊と第五歩兵旅団,何の補償も受けないままベラクルスから最終的に撤退.タンピコの石油資本家は反ビリャの立場からカランサ支援に向かう.
11.26 サパタ派,ビリャとカランサがあい争う隙にメキシコ市に無血入城.
14年12月
12.04 北部軍のビリャとサバタ派が国土を制圧.ビリャが首都入り.
12.07 メキシコ市でサパタとビリャ,グティエレスによる三者会談.サパタ派が首都防衛にあたることで合意.
革命収拾の時代 1915年
15年1月
1.06 ベラクルスのカランサ派は,アヤラ計画を織り込んだ農地改革令,最賃法,石油資源保護法などの制定(グアダルーペ計画補足)で巻き返しをはかる(1月6日法).COMにたいし闘争参加のよびかけ.シケイロスもカランサ軍に参加し大佐まで昇進.カルデナスはカリェスの軍に加わる.
1.15 グティエレス,革命後の混乱の中でカランサとの秘密交渉を開始.ビリャはグティエレスの処刑を指令.グティエレスは「革命の破産」を宣告.職務放棄し逃亡.ビリャ派のロケ・ゴンサレスが執行責任者となる.既存国家制度の徹底的破壊を求めるサパタ派の非妥協的態度により作業は停滞.
1.20 タンピコ油田の支援を受けたオブレゴン,ベラクルスより反撃開始.サパタ派はほとんど戦わずして敗走.モレロス州に引きこもる.
1.28 オブレゴンの部隊,メキシコ市を占拠.
15年2月
2 メキシコに権益を持つ米資本家と米カトリック教会,米国に亡命したエドワルド・イトゥルビデ前メキシコ連邦区長官の擁立を画策.カランサは報復措置として,ユカタン半島のプログレソ港を封鎖し米資本所有のシサル麻出荷を停止.
2 オブレゴン,COMの活動再開を許可.メキシコシティー在住の労働者8千人以上を「赤色旅団」として組織.
15年3月
3.1 カランサ,米鉱山会社に対し印紙税と所有税を新設.
3.6 米国務省,カランサ政権は米国人の財産と声明を脅かす危険があると声明.ウィルソンは派兵の可能性を示唆.
4.06 オブレゴンはビリャを追撃しグアナフアト州に進出.バヒーオ地方セラヤの町でビリャ軍と激突.オブレゴン軍は第一次世界大戦で開発された戦術,市街周域を溝と鉄条網で包囲.5日間にわたるビリャ軍の反撃をはねかえす.
4.15 6千の兵をうしなったビリャ軍は,鉄道のレールをはがしながら,北部に向け敗走.オブレゴンの部隊も1,000名の犠牲者を出す。
6.15 ビリャ軍,レオンで3万5千の兵により反撃を試みるも敗北.以後正面戦遂行能力を喪失.チワワ州内のゲリラ戦に移行.カランサによる国内統一実現.
7 全国をほぼ平定したカランサが大統領に就任.オブレゴンは,軍事相に任命される.ビリャとサパタは地方でゲリラ戦を続ける.
8月 国際調停のための会議がワシントンで開催される.ナイアガラ会議に参加したアルゼンチン・ブラジル・チリのほか,グァテマラ・ボリビア・ウルグァイも参加.
8.30 オロスコ、エルパソで拘留中に脱走。追撃したテキサス・レンジャーズにより射殺される。
10.09 ワシントン会議,カランサを事実上のメキシコ大統領として承認する.
10.19 米国政府、カランサにとってかわる勢力は消滅したと判断.対独接近を防ぐためカランサ政府を事実上認める。
10.20 米国政府、反カランサ勢力への武器輸出を禁止する.オブレゴン軍は、ビリャ追討の目的に限り米国内への一時的移動を認められる。これによりカランサ派のテキサス州への侵入は消滅する。
10月 カランサ派の兵士を含むメキシコ人武装勢力が、テキサスの米国からの独立を求め侵入。米国人25人、メキシコ人およびメキシコ系米国人150人を殺害。「サンディエゴ計画」と呼ばれる。
11.01 ビリャの部隊、アグア・プリエタ(アリゾナ州ダグラスの対岸の町)で最後の戦闘。プルタルコ・エリアス・カリェスの率いるカランサ派軍と2日間にわたる激戦の末壊滅。
11月 ソノラ州のビリャ派の残党もエル・モシーリョの戦いで壊滅。
12 ビリャ,武装闘争の終了を宣言.
12 カランサの軍,サパタの本拠地モレロス州を制圧.
12月 パスクアル・オロスコ、エルパソで保釈中に脱走。プレシディオ(テキサス)の近くでテキサス・レインジャーズによって殺される。
1916年 16年1月
1.10 ビリャ,チワワ州サンタ・イサベルで列車を襲撃。乗りあわせた米人鉱山技師ら17人のうち一人を残して殺害.この列車はチワワ市とクシ鉱山を結ぶ鉄道を走っていた。ビリャはアグア・プリエタの戦いで米軍がカリェス軍を支援したと知り激怒したという。
1.13 メキシコへの侵入を企てたウェルタ,エルパソ近郊のフォート・ブリス基地で捕らえられる.その後アルコ-ル性肝硬変で獄死.
1.19 カランサ,地下資源に対する主権を宣言.ベラクルスとタマウリパスにおけるマリタイム石油会社の採掘権を凍結.カランサ軍はドハニー石油会社の施設を占拠し労働者を自軍に徴兵.ランシング国務長官は,「石油が国有化される場合には,危険な事態が起きることをカランサに通告せよ」とシリマン大使に訓令.
1 COM,武装勢力を背景に首都での労働攻勢を強める.カランサは,赤色旅団を解散に追いこむ.
2月 カランサ政府,憲法草案を公表.
16年3月
3.09 朝3時 ビリャの部隊485人、二手に別れニューメキシコ州コロンバスに侵入。一隊は町の中心部に入りホテルの宿泊客数人を殺害。別の隊は近郊のFort Furlong野営地を襲撃。攻撃を受けた野営地では、朝食を準備していたコックだけがフライパンと包丁で抵抗したという。ビリャは米国政府のカランサ承認に抗議しこの行動を組織したといわれる。また一説によれば、メキシコ人数人が"petrol bath"に漬けられた後に焼きころされた事件への報復だともいわれる。
3.09 米側の発表によれば、ビリャの襲撃により市民9名をふくめ米国人17名が殺され、ビリャの攻撃部隊も67人の死者を出した。さらに米軍の追撃によりビリャ軍は100名の死者を出しメキシコ領内に逃亡したとされる。
3.09 ニューメキシコ州選出のアルバート・ベーコン・フォール上院議員、米国軍50万のメキシコへの進出・占領を求める。
3.15 ウィルソン大統領,ジョン・パーシング将軍指揮下の陸軍6千名により「ビリャ懲罰隊」を組織,国境を越えた追討を認める.
3.15 コロンバスを出発したジョン・パーシング将軍、リオグランデ川を渡りメキシコ領内に進入。ビリャの追討作戦を開始。討伐隊には若き日のジョージ・パットンも大尉として従軍。捕虜に対する野蛮な行為で有名となる。
3.24 米政府とカランサ政権、議定書を交換。ウィルソンはこれを懲罰行動が許されたものと解釈。
3.29 パーシング軍とビリャ軍が遭遇戦を展開。ビリャは足を負傷し逃亡。
3月 カランサ、メキシコ大統領として憲法制定会議を召集。
4.08 パーシングの部隊6,675名、国境から500キロの地点まで進出。
4.12 パーシングの部隊、チワワ州パラル(国境から800キロ)でカランサ軍と衝突。メキシコ人100人あまりが死亡。
4.25 パーシング軍、リオグランデから南に35マイル、チワワ州Casas Grandesで、モルモン教徒の植民地跡に現地本部を設置。「政治的および地形的理由のため」、それ以上の前進を留保。
4.29 米国のスコット将軍と、カランサ政府の軍事相を務めるオブレゴンが、テキサス州エルパソで会談。米軍のメキシコからの撤退条件について交渉。
5.05 Cinco de Mayoを祝し、ナビダ・アルバレス中佐の率いるメキシコ人武装集団約80人がテキサス州グレン・スプリングスを襲撃。工場の守備に当たっていた米兵三人を殺害。さらにBoquillasの町で商店を略奪し民間人二人を誘拐する。
5.05 Langhorne少佐の指揮する米軍がメキシコ人強盗団を追跡。略奪された物資の一部を回収し、数人を殺害。この後米政府は、現地による越境「緊急追跡」作戦を承認。
5.11 スコット・オブレゴン会談は、米国がビリャの追跡権に固執したため物別れに終わる。カランサは国境地帯の兵力を1万に増強し、パーシングの部隊の南下に対抗の構えを見せる。
5.22 カランサは米国に長文の抗議文を送り、越権行為を激しく非難.各地で抵抗あいつぐ.
6.08 ウィルソン大統領、州軍を連邦軍に編入し、メキシコ国境に向け動員。
6.18 ウィルソン、国家警備隊(National Guard)10万人の動員命令。
6.21 カランサ、米軍はいかなる場合でも国境を越えてはならないと述べる。
6.22 カサス・グランデスから偵察に出た騎兵部隊二個小隊、南方のカリサル(Carrizal)でカランサ軍400名と衝突。この戦闘でチャールズT.ボイド隊長ら14人が戦死し、残り23人は捕虜となる。カランサ軍でもフェリクス・ゴメス将軍が戦死。米墨間は一触即発の危機を迎える.
6.23 カランサは捕虜を直ちに解放し、エルパソに送還。危機を回避.
16年7月
7.04 カランサ、米国との和平交渉を提案。
7 COM,ゼネストを組織.カランサは実力阻止し,COMを解散に追込む.
9.04 米軍撤退に関する交渉が再開される。当面、両者が現状のまま凍結することで合意。
9.16 ニューロンドンで米墨会談が始まる。その後、フィラデルフィア、アトランティックシティに場所を変えマラソン交渉となる。
10月 ビリャ、国民に対する呼びかけを発表。「メキシコはメキシコ人のもの」と述べ、パーシングの率いる侵入軍に抵抗し追い出すよう訴える。さらに、外国資本の鉱山や鉄道を収用すること、外国人の土地所有を禁止することを求める。
11.21 カランサ,ケレタロに制憲会議を召集.ビリャやサパタを排除し,自らの支持者だけで憲法を決めようとする.議会はオブレゴン.ムヒカ将軍ら改革派が主導権を握り,憲法草案は農業の改革(第27条)を含む革命的なものとなる.また第123条には8時間労働・最低賃金制・労働者の団結権などを詳細に明記した労働基本権を規定した。憲法89条に大統領の権限の強化が明文化された。
11.24 米墨政府,米懲罰軍の撤退などの議定書に調印.
12.17 カランサ大統領、米墨議定書の受諾を拒否。
12 サパタの軍,カランサ軍を駆逐し,モレロス州を奪還.
16年 ウェルタ,テキサスからメキシコへの侵入をはかるが,米国に捕えられ,獄死.
16年 原油日産量,10万バレル台にのり輸出を開始.
1917年 1.28 懲罰軍,11ヶ月の捜索活動にもかかわらずビリャ逮捕を果たせず,何らの成果もえられぬまま追跡を打ち切り,メキシコから撤退.背景に欧州大戦参戦の動き.
1.31 新憲法成立.アヤラ綱領の精神をとりいれ,二院制を柱とする代議政治の原則,三権分立,地方自治の尊重,基本的人権の尊重,労働基本権(8時間労働,同一労働同一賃金,労働者の団結権,ストライキ権)などを認める.教会の土地を没収し,教育への干渉を禁止するなど画期的な内容.いっぽうで大統領の弾劾条件を厳格化し,大統領に布告の形での実質的立法権を与える(第89条)など独裁への可能性も残される.
17年2月
2.05 最後の懲罰部隊がリオグランデを越え、米国にもどる。米兵30人がこの作戦で死亡。国境に集結した米軍も、第一次大戦への参加に備え解散。
1.31 パーシング軍、 ビリャを捕らえることなくメキシコから撤退。
2 カランサ,石油を不可譲の国有資源であると宣言.新憲法を遡及的に適用して米英石油企業の油田に対する土地所有権を期限付の使用収益権に切り換えようとする.ウィルソンは強硬に抗議.
2月 オブレゴンは憲法制定の手続きに不満を表明.国防相を辞任.
3.11 カランサ,4年の任期で大統領に再選される.オブレゴンは事実上政界を引退.故郷でウサギ豆の栽培事業を再開.
3.13 ウィルソン大統領、ヘンリーP.フレッチャー特使をメキシコに派遣。新政権との関係の全面改善を目指し交渉に入る。
3 ヨーロッパ戦線で追い込まれたドイツ,メキシコ駐在大使チンメルマンにたいし,米国との戦争に勝てば旧領土の回復を保障するという条件で,同盟関係に入るよう工作を指示(チンメルマン覚書事件)
4.06 米国,ドイツに宣戦布告。第一次世界大戦に参戦.
4.13 カランサ,原材料の輸出に対し10%の増税.さらに石油・鉱山会社の持つ特権を廃止.
17年5月
5.01 カランサ,メキシコ大統領に就任,革命は終えんにむかう.
5月 サパタのかつてのイデオローグでアヤラ計画の起草者モンタフィオ,敵前逃亡を図り処刑される.サパタの周囲はソト・イ・ガマ,メンドサ・シュベルトフェーゲルなど労働者軍団が固める.
10 ロシア革命成立.
11.25 パンチョ・ビリャ、1,000名の部隊を率いチワワを一時制圧。
11 カランサの軍,ふたたびモレロスを制圧.
1918年
3 サルティーヨ市でルイス・モロネスの指導する労働者地域連合(CROM)結成.労働者の家を母体にアナーキスト,サンジカリスト,IWW系などの寄合い所帯.政治結社として労働社会党を結成(3年後に分裂).オブレゴンと癒着を強めながら急成長,翌年には150万人を組織するにいたる.
18年 セントルイスのマゴン,防牒法違反でとらえられ,カンザスで獄死.
1919年
4.10 サパタ,チナメカの農場で暗殺される.犯人はカランサの放った刺客ヘスス・グアハルド。サパタを死に追いやったカランサに対し市民の抗議が集中.ソト・イ・ガマら労働者軍団は,カランサとの対抗のため、いったん政界を引退したオブレゴンとの同盟を求める.
6.01 アルバロ・オブレゴン、1920年の大統領選挙に立候補すると発表。「カランサの機関車に引っ張られるのは御免だ」と言明.立憲自由党から支持を受け全面対決の姿勢をとる.
6.15 パンチョ・ビリャの部隊、テキサス州エルパソに回りこんだ後、シウダ・ファレスを渡河攻撃。
9月 カランサは「次期大統領には文民出身者を選ぶべきで,軍人を選んではならない」として,イグナシオ・ポニリャスを推薦.ボニリャスはマサチューセッツ工科大学卒で前駐米大使.しかしスペイン語ができなかったといわれる。反イグナシオ陣営はメースターとアダ名する。
11月 ビリャと行動をともにしていたフェリペ・アンヘレス、カランサ軍によって捕らえられ処刑される。アンヘレスは、マデロ時代からの有能な革新派軍人として知られていた。
12 CROM,政治組織として労働党を結成,ルイス・モロネスが党首となる.労働省の設置,労働法の承認などを条件にオブレゴンを大統領として推薦.このほか国民協同党,ユカタン社会党がオブレゴン支持を表明.
19年 国民社会党より分離,独立した一派がメキシコ共産党結成.米国でもリード,片山潜らにより共産主義労働者党結成
1920年
3月 反イグナシオの闘いが高揚.鉄道労組は選挙遊説における鉄道移動を妨害.全国で山猫ストライキが続発.カランサはこれに対し強圧策で臨み、サボタージュする労働者を逮捕または射殺.
3 カランサ,労働組合の争議鎮圧を口実にソノラ州に連邦軍を派遣.ソノラ州知事アドルフォ・デ・ラ・ウエルタはソノラ独立共和国を宣言.
20年4月
4.02 カランサは容疑を捏造し、オブレゴンをメキシコ・シティーに召喚、逮捕をはかる.オブレゴンはソノラ州に逃亡.
4.09 ウエルタ知事とソノラ州軍司令官プルタルコ・エリアス・カリェスら,アグア・プリエタ計画を発表.オブレゴンを押し立て,カランサ大統領打倒を宣言.
4.20 オブレゴン、カランサに対する反乱を宣言。
4.23 ソノラ州の立憲自由軍,カランサに対し宣戦布告.ふたたび内戦となる.ビリャ,サパタ派もデラ・ウェルタ=オブレゴン派を支援.
20年5月
5.07 オブレゴンの立憲自由軍,メキシコ市に進攻開始.連邦軍主流は対抗の意思なし.
5.08 ベラクルスでの臨時政府樹立を図るカランサ,31台の客車を連ねた特別列車を編成.国家資産を積みこみに向け旅立つ.
5.14 移動途中,ベラクルス州知事が反乱軍につく.これを知ったカランサは,馬に乗り山中に逃げる.
5.21 プエブラ州のトラスカラントンゴで反乱軍の攻撃を受け射殺される.(一説に,プエブラ・シェラのルドルフォ・エレラがカランサの宿舎を襲い殺害)
5.25 立憲自由軍が全土を掌握.デラ・ウェルタが臨時大統領に就任.
20年6月
6 デラ・ウェルタ,サパタ派のマガーニャと停戦協定.7月にはビリャ派とのあいだにも停戦.
6 サパタ派の理論家,ディアス・ソト・イ・ガマ,政府の支持の下に農民国民連合(CNC)結成.土地の再分配を標榜する全国アグラリスタ党創立.
7.28 デラ・ウェルタ、パンチョ・ビリャとの停戦交渉に成功。ビリャは政府軍に降伏しチワワ州に広大な農地を与えられる.農園内に学校や銀行を作るなど貧農の立場に立った事業を展開したといわれる.
9.05 大統領選挙.オブレゴンが他候補を圧倒して勝利.革命は最終的に終えん.デラ・ウェルタは蔵相に就任.
12.01 オブレゴン,大統領に就任.「わたしは一政党のためではなく,全国民のために政治をおこないたい」と声明.
20年 カリェス軍の幹部カルデナス,ウアステカ州の軍司令官となる.外国石油会社の贈賄攻勢を拒否.
20年 チアパスの大土地所有層が革命軍事政権に反乱を起こし勝利.「マパーチェ」と呼ばれる政権を確立.これに対し中小農民はチアパス社会党(Partido Socialista Chiapaneco)を組織,旧カランサ派の将軍カルロス・ビダルを押し立て州政権を奪取する.このあと社会党は,エリート層が支配する行政府の中に制度的に組み込まれていく.
革命の保守化の時代 1921年
21 公共教育,芸術省設置.メキシコ大学総長のバスコンセロスが大臣に就任.文盲追放運動開始.農村学校を教会に代るものとして位置づけ,教育に対する教会の影響を排除.壁画運動などインディヘニスモ文化運動が高揚.
21 CROMと決別したサンジカリストを中心に労働総同盟(CGT)結成.ミチョアカンではロシア革命の影響を受けソヴェト結成.
21 この年採油量は2億バレルに達し,世界生産の25%を占め,米国につぐ第二位となる.
1922年
22 片山潜,コミンテルン代表としてメキシコ入り.共産党の組織強化にあたる.亡命先から帰国したシケイロス,リベラ,オロスコらを中心に技術・芸術家革命組合結成.組合員の多くは共産党に加盟,シケイロス,リベラ,ゲレロが党執行委員に就任.
22 連邦議会選挙.立憲自由党候補の大多数が選挙間際に国民協同党に転向し,立憲自由党は壊滅.これを機に政権は大きく右旋回.
1923年
7 ビリャ,パラル市で「旧友」の手により暗殺される.背後に米国との妥協を求めるオブレゴン=カリェス派の策動.ビリャを支持するデラ・ウェルタは,オブレゴンに対する不信を強める.
8 オブレゴン大統領,ハーディング大統領とのあいだに「紳士協定」(ブカレリ条約).石油産業など米国の既得権を事実上容認し,それとひきかえに米国のメキシコ政府承認を実現.国民協同党を先頭とする議会はこれに反発,立憲自由党のデラ・ウェルタを大統領候補におす.
9.03 米国,オブレゴン政権を承認.
12.07 デラ・ウェルタ,ベラクルスで革命宣言.内戦再発.
12.13 オアハカを中心とする東部および東南部の軍部首脳と海軍,ウェルタを支持するオアハカ計画を発し反乱に参加.国軍将校の半数がウェルタ支持に回る.たたかいは当初ウェルタ軍優位のうちに進む.
1924年
1月 米政府、オブレゴンに対する軍事援助を開始。
2.06 連邦政府軍,アグラリスタ党と労働党に組織された労働者・農民に支えられ各地で反撃に成功.反乱は7千の死者を出し終結.
3.12 デラ・ウェルタ、フロリダに亡命。
3月 オブレゴンは反乱に参加した少佐以上の全ての将校を軍法会議にかけ銃殺.
5.07 ペルーのアヤ・デ・ラ・トーレ,亡命先のメキシコでアブラを結成.
7 大統領選.アグラリスタ党から立候補したカリェスが勝利.米国は当初中立の立場からのちにカリェス支持に転換.労働党は議席の5分の1を確保,モロネスを商工大臣に送る.CROMの組織員数は2百万に達する.
11.30 カリェス,大統領に就任.米国との「紳士協定」を破棄.農地を所有する外国会社は50%以上の株数をメキシコ政府に引き渡すこととした「外国人土地法」,外国籍会社のもつ油田の権利を50年以下とする「石油法」を制定.
12 米国内に対メキシコ主戦論高まる.クーリッジ大統領は開戦を狙うが,上院の反対により成立せず.
1925年
1 カリェス,17年憲法制定以前に外国企業にあたえた石油利権について,既得権を認める(事実上の無条件降服)ことで米国との妥協成立.
8.28 アメリカと8年ぶりに国交を回復.
12.19 エヒド法改正.農民の勤労意欲を高めるため,特定の公共地を除いて土地をエヒド構成員個人に対しても分配できるようになる.さらに潅がい施設の拡張,農業学校の新設などインフラ整備にも力を注ぐ.
25年 宗教の自由を守るための全国同盟結成.カトリックの復権をはかるキャンペーン開始.
25年 バスコンセロス,「宇宙的人種」を発表.すべての人種の血を引くメスティソが未来の世界をになうべき人種であると主張.
1926年
2.11 カリェス、カトリック教会の外国人聖職者の逮捕と国外追放を命じる。
4.21 メキシコの司教会議、教会の取り扱いに関する憲法規定を非難。
5.24 カリェス,鉱山,油田を国有化.外国資本の会社はそのまま.
5 カリェス,ニカラグア護憲派のサカサと会談.革命勝利後は中米各国と連合し,メキシコの指導下に入ることを条件に,軍事援助を与えることで合意.
6 カリェス,1917年の憲法の宗教規定を全面実施.宗教行事の禁止,教会立学校修道院の閉鎖,外国人聖職者の追放,聖職者の削減などを断行.
6 メキシコ市教区のホセ・モラ・イ・デル・リオ大司教,教会の既得権をうばう17年憲法に反対の意向を表明.政府は教会への弾圧を開始.
7.3 法皇ピオ1世,メキシコ市全体を破門に処す.
7.31 教会,僧職者ストライキに突入.反憲法キャンペーンを開始.政府の弾圧に抗議しいっさいの宗教儀式を停止.
12 オブレゴンとカリェス,再選を禁止した憲法を改正.「直接継続的再選の禁止」にあらため,任期を4年から6年に延長.オブレゴンの28年大統領選への出馬を合法化.
26年 軍の使命,軍紀などについて定めた軍隊法成立.軍の非政治化をはかる.公務員年金局創設.軍を除く唯一の組織勢力である官僚の政府へのとりこみを狙ったもの.
26年 石油生産,この年だけで21%と大幅に減少.21年のピーク時に較べ3分の1に低下する.石油会社の国有化への恐れと,世界的増産による原油価格の低下が原因.
26年 カリェスの農地改革に対する消極的姿勢から,アグラリスタ党は崩壊.これに代わり15州農民同盟の代表が全国農民連盟を結成.急進的姿勢を強める.
1927年
1.01 クリステーロの代表レネ・カピストラン・ガルサ,「国民へ」という宣言を発表.「戦いのときが来た.勝利のときは神にゆだねられた」と述べる.ハリスコ州で"Viva Cristo Rey"を叫ぶ流血の反乱が始まる.これに対し,正規軍のほかアグラリスタ民兵隊,社会防衛軍(地方有力者の私兵集団)が対抗.政府軍の圧勝に終わる.ハリスコの連邦軍司令官ヘスス・フェレイラは「これは作戦というより狩に近い」と述べる.
1 メキシコ,米国の強硬姿勢の前にニカラグア護憲派支援を断念.
2.11 政府,教会財産の国有化を決定.ローマ法皇,メキシコを破門.
2.23 クリステーロ,グアナフアト州サンフランシスコ・デル・リンコンで,初めて連邦軍を撃破する.クリステーロ軍の中にヘスス・デゴジャド(薬剤師),アリステオ・ペドローサ(神父)などの英雄が輩出.その後,ハリスコのサン・フリアンでは,精鋭の騎兵部隊を撃破する.
3 土地収用に批判的な小農をまきこみ,「クリステロの反乱」が拡大する.プエブラ,オアハカ,ハリスコ,ミチョアカン,グアナファト,サカテカス,ナヤリト州を中心に反乱.政府は軍とアカシャツ隊と呼ばれる民兵組織で対抗.
4.19 ホセ・レジェス・ベガ神父の指揮する部隊が,現金輸送列車を襲撃.一般乗客51人を含む乗員を乗せたままガソリンで焼きつくす.クリステーロへの社会的同情は,この事件以後消滅.
6 オブレゴン再選に反対する勢力,マデロの旗印に由来する再選反対党を結成.アルヌルフォ・ゴメス将軍を大統領候補におす.フランシスコ・セラノ将軍も反オブレゴンの立場を明らかにし,再選反対党とは別に国民革命党から立起.
8 クリステーロの反乱はほぼ終焉.戦士の一人ビクトリアノ・ラミレス(文盲の牧童)は脱獄し,追跡隊員14名を殺害したことからエル・カトルセと呼ばれる.
10.03 国民革命党のセラノ将軍ら,クエルナバカで反乱開始するが連邦軍の前に敗北.セラノほか13名は移送中に射殺される.
11.4 ゴメス将軍による再選反対党の反乱も敗北.ゴメスはハラパ近郊の山中で捕らえられ,翌日コアテペケで銃殺.
27年 リベラ,ソ連旅行の後トロツキーに近づき共産党を離党.
1928年
7.01 オブレゴン,無競争で大統領に選出.
7.17 教会派の26才の画学生レオン・トラル(ホセ・トラル?)が,市内のレストランで開かれた大統領就任パーティーに潜入.オブレゴンに写生を偽って接近、銃弾5発を顔面に浴びせ射殺.
9.01 カリェス前大統領,メキシコにおける独裁制の終焉を宣言.この国の政治はもはやカウディーリョにゆだねられてはならず,「法の支配」によって治められるべきことを強調.
9.25 議会,エミリオ・ポルテス・ヒルを向こう1年間の暫定大統領に選出.実権はカリェスの手に集中.
12.01 ポルテス・ヒル,暫定大統領に就任.ただちにCROM攻撃を開始.指導者のほとんどが投獄され,組織は事実上崩壊.
12.08 カリェスは政界第一線からの引退を発表する一方,自らの翼賛政党をめざし国民革命党の組織委員会を結成.
12月 ヒル大統領の乗っていた客車がダイナマイトをしかけられ横転.本人は助かる.
12 政府,外国人土地法,石油法を改正.事実上米国に屈服.
28年 カルデナスはミチョアカン州知事に就任.学校,道路,潅漑のためのプロジェクトを拡張.社会的進歩のための統一戦線グループを結成し,農民,労働者,学生を結集する.
28年 クリステーロ,元陸軍将軍エンリケ・ゴロスティエタ(自由主義者でフリーメーソンのメンバー)を高給で雇い,総司令官に任命.地方での戦線をかろうじて維持.