37年8月 FBIが三つの州でルチアーノのアジトを襲撃。その後フーバー長官は、ギャングとの宥和を図る
37年 父ジョセフ,第32代大統領フランクリン・ルーズベルトから駐英大使に任命される.その後,証券取り引き委員長を歴任.彼はアイルランド系で酒密売で財をなし,シカゴ系ギャングと深い関係を持つ.
ジョセフ・ケネディの評価: ルーズベルトはジョセフを「これまで知ったうちで指折りの悪辣で不快な人間の一人」と評価。トルーマンは「わが国のどの分野の大悪党にも引けをとらない悪辣な男」と評す。
37年 ケネディは大腸炎と診断され、ステロイド治療を始める。10年後、ステロイド乱用により副腎皮質機能が低下するアジソン病と診断される。
40 OSSと海軍情報部,港湾保全のためマイヤー・ランスキーを通じてラッキー・ルチアーノに協力を依頼.ルチアーノは仮出獄を条件に,依頼に応じる.オペレーション・アンダーワールドの開始.
42
44 キューバ・ギャングのボスでバチスタの盟友ランスキー,ルーズベルトの依頼を受けバチスタと会談.大統領選挙の実施をうながす.
46年 JFK,退役後勤めた新聞社を僅か1年で退職.ボストンの11区から下院議員選挙に立候補.9人の対抗馬を退け,29歳の初当選.
46年 オズワルド、17歳で海兵隊に入隊、日本の厚木基地配属となる。
47年 カジノ「フラミンゴ」を経営し、ラスベガスのボスだったバグジー・シーゲルが暗殺される。ランスキーの指令によるものといわれる。
47 シカゴ・ギャングのジアンカーナ,ダラスを制圧するため手下を派遣するが失敗に終わる.先乗りのジャック・ルーベンステイン(通称ルビー)は対警察工作の要員として残留.ストリップ小屋の経営者となる.
48 エルミニオ・ディアス・ガルシア,ドミニカの独裁者トルヒーヨに殺し屋として雇われ,キューバ人ロヘリオ・エルナンデスをメキシコ市内で暗殺.その後犠牲者の名を自らの偽名として用いるようになる.
50 シカゴから派遣されたロセリ,ラスベガスのボスに伸し上がる.
51年 上院に「州間通商での犯罪調査委員会」が設置される。委員長の名をとりキフォーバー委員会と呼ばれる。委員会は800人から証言を求めた後、「マフィアと呼ばれる全国的な犯罪シンジケートが存在し、コステロやランスキーらが権限を握り管理している」と結論。
52 イースタン航空のパイロットであるフェリー,ルイジアナ民間航空パイロット隊を組織.
1953年
1 ケネディ,下院議員を3期勤めた後マサチューセッツ州上院議員に当選.民主党右派の若手論客として頭角を現わす.弟のロバート・ケネディは,マッカーシー委員会の専属職員となる.
10 米政府はアルベンス政権転覆のためCIA幹部のリチャード・ビッセルらを送り込む.ハントもスタッフの一人として参加.
53 移民・帰化局,マルセロを好ましからざる外国人として国外追放を命じる.マルセロから賄賂を受けたイタリア外務省が,マルセロはイタリア人とは認められないと通告したため,追放を免れる.
54.5 グアテマラ侵攻作戦発動.CIAの指揮者にはエベレット・ハワード・ハント,副官にガイ・バニスター.
1955年
55 オズワルド,フェリーの運営する民間航空パトロール隊に見習いパイロットとして入隊.
55 トラフィカンテ,ハバナに居を構え,本格的進出を開始.
1956年
56.1 ケネディ,「勇気ある人々」を出版.ピューリツァー賞を受ける.
56 マルセロ,グアテマラで画策しニセの出生証明書を獲得.
56 キューバ=マイアミの麻薬ルートにDEAの捜索が始まる.シンジケートはニューオリンズのカルロス・マルセロを新たなルートに指定.
1957年
1.30 ジョン・マクラレンを委員長とする労組の不正活動と組織犯罪の調査を目的とする委員会,上院の全員一致で設置が決まる.委員会は,トラック運転手労組「チームスター」とその指導者ジミー・ホッファがマフィアと汚い関係にあることを暴露.ニューオリンズをヘロインの総卸し基地と断定.JFKが委員として活躍.委員会首席顧問のロバート・ケネディが追及の先頭にたつ.
5.16 エルミニオ・ディアス,トルヒーヨに依頼されコスタリカ大統領ホセ・フィゲロアの暗殺を企てる.警察に摘発され目的を果たせないまま,一時拘留される.革命後はレスカテ・グループの一員として国内で反革命活動を続けるが,62.12月米国亡命.
10.25 アルバート・アナスタシア,ニューヨークのパーク・シェラトン・ホテルでトラフィカンテと会談.直後ホテル内の理髪店で銃弾を受け、蜂の巣にされる.
マフィアの内紛: アナスタシアはコステロに代わりニューヨークのコミッションのドンの座を狙っていた。ライバルはビト・ジェノヴェーゼだった。アナスタシアはキューバへの割り込みを巡りトラフィカンテらと衝突していた.この事件の前、フランク・コステロが自宅前で狙撃されたり、アナスタシアのボディーガードだったスカリーゼ兄弟が暗殺されるなど、暴力事件が相次ぐ。
11.14 アパランチンでギャングの秘密会議が開催される.警察の摘発により59人が逮捕される.ウィリアム・ロジャーズ司法長官は動こうとしないFBIに代わり「組織犯罪に対する特別班」(SGOC)を作り摘発に当たる。
アパランチン会議: ニューヨーク州の小さな町で、ギャングのボスの一人ジョー・バーバラの屋敷があった。この屋敷に全米15州から63人のボスと労組指導者が集まった。パレルモで行われたシチリア・マフィアの「クポラ」との秘密会談を受け,米国での麻薬販売フランチャイズ権の割り当てについて討議.
57 元FBIシカゴ支局長で,ニューオリンズ市警の副本部長を勤めた経歴をもつガイ・バニスター,ニューオリンズに探偵事務所を開く.
1959年
1 キューバ新政府,フランク・スタージスを閣僚級のギャンブル取締官に任命.スタージスは米国人でM26に参加.当初よりCIAとつながりを持っていたといわれる.のちにディアス・ランスとともに革命を裏切り亡命組織の一員として暗躍.トラフィカンテは米国内で逮捕状が出ていたため帰国できないまま残留.
8.8 キューバ当局,カジノを押収.トラフィカンテとランスキーの弟ジェーク・ランスキーも身柄を拘束されトリスコルニア外国人収容所に容れられる.その後釈放され,国外追放処分を受ける.マイアミに本拠を定めたトラフィカンテはCIAやキューバ人亡命者との関係を利用し麻薬密輸で急成長.
11 オズワルド,ソ連に亡命.レーダー勤務で知り得た極秘情報をソ連に提供する用意があること,再びアメリカに戻る意志のないことを表明,市民権の放棄を文書で提出.その後マリナ・ブルサコーワというミンスク出身の女性と結婚.彼女はコムソモルのメンバーであり,伯父イリヤ・ブルザコーバはソ連内務省の大佐だった.
1960年
2 ジアンカーナの愛人ジュディス・キャンベル,J.F.ケネディと深い関係になる.
4 スタージス,ゲリー・ヘミングスとともに国際反共旅団を結成.亡命キューバ人から傭兵を徴募.ノース・カロライナのCIA基地キャンプ・ピアリは“ザ・ファーム”と呼ばれ亡命者訓練センターとなる.ルイジアナ州ポンチャートレーンにも訓練基地を開設.ボッシュが指導に当たり,主としてMIRR部隊が訓練を受ける.武器の調達に関してはキューバ革命前から密輸に関わっていたスタージスが担当.トラフィカンテの組織を利用して入手.
5.1 CIAのスパイ飛行機U2,スベルドロフスクでソ連ミサイルにより撃墜.パワーズ飛行士は,ソ連に「亡命」したオズワルドがレーダーの極秘情報を流したためと言及.
8.18 NSC,CIAに対しルムンバ暗殺を指示.CIAは技術部長ジョセフ・シュレイダーをコンゴに派遣.シュレイダーはボツリヌス毒素を持参し,現地のCIA責任者に手渡す.
8 CIA,カストロ暗殺計画にとりかかる.ビッセル副長官から「汚い仕事」の指示を受けた保安局長シェフィールド・エドワーズ大佐,マフィア最大のボスであるシカゴのジアンカーナと接触するため,工作支援部長ジェームス・オコンネルに安全器(フィクサー)を探すよう指示.オコンネルは元FBI捜査官で暗黒街に顔が効くロバート・A・メイヒューと接触.メイヒューはハワード・ヒューズの個人顧問としてCIAとの連絡役を勤めていた.この頃は私立探偵事務所を持ち,ギャングとの関係も深かった.ガイ・バニスターは彼のシカゴ時代の上司にあたる.
9.14 メイヒューは連絡役にマフィアのボス,ジョン・ロセリを選ぶ.ロセリは本名フィリッポ・サッコ.ジアンカーナの弟分で西海岸に派遣され,ラスベガスとロスを縄張りとするボスとなる.第1回会談がビバリーヒルズのレストラン,ブラウン・ダービーでおこなわれる.ロセリは政府の正式代表との会見を要求.これを受けてロセリとオコンネル,NYのプラザホテルで会見.暗殺計画の推進で合意.CIAは暗殺の成功報酬として15万ドルを提示.ロセリはジアンカーナとトラフィカンテを計画に加える一方,マイアミのケニルワース・ホテルに作戦本部を設置.キューバ人亡命者との協議を開始.ヒットマンの安全な逃亡を考慮において,射殺ではなく毒殺を第一選択とすることで合意.
10.20 ジアンカーナと太いパイプを持つ民主党の大統領候補ケネディ,「自由の戦士」である亡命キューバ人への支援,キューバの在米資産の凍結,カリブに於ける共産主義の脅威に対し米国,LA諸国,ヨーロッパの同盟国の一致した行動を訴える.
10 ジアンカーナの愛人キャンベルに対する盗聴事件発覚.CIAの揉み消し工作にたいしFBIは警戒感.
10 シカゴ・ギャングの一味でCIAのエージェントでもあるリチャード・ケイン,ハバナ訪問.カストロ暗殺計画を持ち込む.
11月 大統領選挙の投票。得票率は49.9%対49.6%、票数では11万票余の差でケネディが勝利。
60年 マルセロ,ダラスに進出.地回りのカンピシ一家を支配下におく.代貸しをルイジアナ生まれのジョゼフ・シヴェロが勤める.
60年 イースタン航空パイロットのデビッド・フェリー,乗客にホモ行為を迫り首になる.彼にはもともとホモの傾向があり,二つの神学校を「不品行」を理由に退学となった経歴をもつ.フェリーはCIAの契約情報員としてキューバ・ゲリラへの空輸を担当.
1961年
1.20 ケネディ,米大統領に就任.ロバート・ケネディ,司法長官に就任.組織犯罪・不正取引摘発課をスタッフを4倍化.
1 ルムンバの乗った飛行機,バクワンガ(カタンガ)に向けて飛行中故障.エリザベートビルに不時着.ルムンバに反対する原住民に捕らえられ殺害される.
4.4 ロバート・ケネディ,移民・帰化局に対しカルロス・マルセロのグアテマラへの強制送還を命令.
4.7 ビッセル,トルヒーリョ暗殺を指示.暗殺部隊にマシンガンをおくる.
4 CIA,情報秘匿のため作戦本拠地をマイアミからニューオリンズに移す.バニスターと同じビルにハントが指揮するキューバ革命委員会も入居.キューバ人代表は元バチスタ政府高官のセルヒオ・アルカチャ・スミス.フェリー,キューバ革命評議会の正式メンバーとして指導に当たる.フェリーとアーカチャのひきいる亡命キューバ人により,ルイジアナ州ユマの兵器庫襲撃・強奪事件.CIAの指示によると言われる.
4 フェリー,イースタン航空から3週間の休暇をとる.恐らくはピッグス湾事件に参加.その後,両大戦従軍受勲者の会ニューオリンズ支部でケネディを激しく非難する演説.
5.30 CIAに通じる一部軍人,トルヒーヨの車を海岸沿いの高速道路で停車させ射殺.事前に計画を知ったケネディは中止を指示するが現地はこれに従わず.
6 NSCあてに国家安全保障活動メモ(NSAM)55号を送付.戦時と否とを問わず,軍事的活動の総責任は統合参謀本部議長(当時はライマン・レムニッツァー)にあると明示.
6 マルセロ,ニューオリンズへ舞戻る.デビッド・フェリーが密入国の飛行機を操縦したといわれる.
9 トラフィカンテ,ホセ・アレマンとの会談の席上ケネディの死を予言.ホセはミゲル・アレマン元キューバ教育相の子で,マイアミでビジネスを営む一方FBIの情報員を勤める.
11.29 ケネディ,キューバ侵攻失敗の責任でアレン・ダレス長官を更迭.ジョン・アレックス・マコーンを後任に指名.ケネディはCIA本部落成式で「諸君の成功は公表されない.しかし失敗は喧伝される」と演説.
12 カストロ暗殺計画実行部隊「W機動班」班長であったエドワーズ保安局長解任.後任にウィリアム・ハーベイ.ビッセルはカストロ暗殺計画を秘匿するため,エドワーズからハーベイに委ねる.
61年 ホッファ,背任横領罪で起訴.いったん無罪となるが,陪審員に対する脅迫が摘発され,陪審員工作罪で8年の刑を受ける.
1962年
62年2月
2 A.ダレスについでさらにチャールズ・カベル副長官,ビッセル作戦本部長を解任.リチャード・ヘルムスを後任作戦本部長にあてる.カベルはハワード・ヒューズのコンサルタントに就任.ビッセルは統合参謀本部につながるシンクタンク,防衛分析研究所(IDA)に職を得る.
2 FBIの元シカゴ支局長ガイ・バニスター,ニューオリンズ中心部のラファイエット街531番地に私立探偵事務所を開設.フェリーを調査員として採用.仕事の内容はすべて反カストロ工作ニューオリンズの有名人であり実業家でもあったクレイ・ショーが事務所に頻繁に出入り.
62年3月
3.22 FBI,ケネディの女友達ジュディス・キャンベルと暗黒街のボス,ジョン・ロセリとサム・ジアンカーナとの関係を察知.フーバー長官はケネディとの昼食会の席上,ケネディにこの事実を明らかにし,事実が明らかになれば重大な危険を招くだろうと警告.ケネディはジュディスとの仲を断ち,ジアンカーナとの関係を切る.フーヴァー長官はさらに,ジュディス・キャンベルがジアンカーナの情婦であり,マリリン・モンローがマフィアとつながっていることを知らせたという.
ケネディの女性関係: FBIの調査によれば,ケネディは大統領在任中だけでジュディス・キャンベル,マリリン・モンローなど少なくとも32人の女性と関係していた.ロバートも兄とともにモンローと関係していたといわれる.
3 フェリー,マルセロの顧問弁護士ウレイ・ギルに法律調査員兼報告書作成係として雇われ,マルセロの裁判にかかわる.
4 CIA,カストロ暗殺を毒殺から射殺計画に切り替える.ハーベイ,前任者エドワーズを介しロセリとマイアミで接触.NYにロセリ,オコンネルを呼び,あらためてキューバ・コネクションの再開を指示.ロセリは計画からメイヒューとジアンカーナを排除,ハーベイから引き渡された武器弾薬をマイアミのキューバ人に分配.
5 メイヒュー,ジアンカーナの依頼で愛人宅に盗聴器を仕掛けるが発覚し逮捕.CIAはFBIに圧力をかけ起訴を取り下げさせる.
6.13 オズワルド,米大使館に帰国を申請.何の障害もなく認められ,帰国費用を貸与される.オズワルドは妻とともにニュージャージー州ホボーケンに上陸.海軍の情報担当幹部ヘンリー・ブルトン提督は,オズワルドをアセットとして使うことを企画.
62年8月
8.4 マリリン・モンロー(Monroe,Marilyn),かかりつけの精神科医に「政府の最高級レベルの,極めて重要な職にある人物たち」と性的関係をもったと告白.その直後に全裸死体で発見される.睡眠薬バルビタールを47個飲んでいた.
8 オズワルド,CIAの推薦を受けFBIインフォーマーとなる.チャイルズ・ストーバル社という海底や海岸線の地図を作成する国防省関連会社に就職.
9 マルセロ,ニューオリンズに会議を召集.ケネディ暗殺計画を明かす.同じ頃,ジミー・ホッファもプラスチック爆弾によるロバート・ケネディ暗殺を計画.
9 オズワルド夫妻,ダラスに移住.ジョージ・モーレンシルツをボスにおく白系ロシア人社会迎えられる.モーレンシルツはブルトン提督の妻を介してオズワルドの受け容れを承諾.
モーレンシルツ(Mohrenschildt)の経歴
モーレンシルツは「白系ロシア人で元フランス情報員.旧貴族」と自称するが,38年渡米時のパスポートではロシア生まれのポーランド人となっている.終戦まではポーランド大使館職員を務める一方,OSS事務所へ採用申請を提出(採用はされず).米陸軍省やナチの秘密エージェントなどと交際していたとされる.
終戦後,テキサス大学で石油工学の修士号を得る.この間,共産党シンパの嫌疑で海軍情報部の調査を受けている.
49年米国帰化後は,石油探査に関わりCIAと関係を持つインタナショナル・コーポレーション・エージェンシーに加わる.カラカス滞在中にはソ連大使館と接触.
50年代に億万長者の娘と結婚,みずからダラスの石油業界の有力者となる.57年に政府地質調査団の一員としてユーゴに入る.CIAとのつながりが発覚し,スパイ容疑で国外追放処分を受ける.
その後,CIAのコンタクトとしてアフリカ各国を訪れた.ピッグスワン事件のときはグアテマラのCIA軍事訓練所に滞在していた.
ダラス近在の白系ロシア人社会のボスとして君臨.妻のジーンは4番目の妻.(ただし彼はその場その場で,かなり異なった経歴を述べており,真偽の証明は難しい)10 ミサイル危機.
1963年
63年1月 CIA武闘派との対立激化
1 ケネディ,ソ連政務次官と会談しキューバの今後の取扱いについて検討.ラスク国務長官,「キューバを侵略しないという約束はもはや無効」と声明.
1 アル中になったハーベイ,作戦責任者のポストを外される.スパイ戦の専門家で極右のメキシコ支局長デビッド・アトリー・フィリップスが頭角を現わす.
1月 フィリップス,諜報組織”オペレーション40”創設.幹部にスタージスとボッシュ.
2.28 公民権に関する大統領特別教書を発表.
2 フロリダの警察当局,アルファ66と革命回復反乱運動(MIRR)の訓練基地を捜索.移民局は不法滞在者の摘発に乗り出す.事情を知ったケネディはFBIを派遣し「ノーネーム・キー」の基地を摘発,武器を押収.
3.20 オズワルド,「ヒデル」の偽名を用い通信販売でイタリア製カルカノ6.8ミリライフル銃と拳銃を購入.購入先はシカゴのクライン・スポーツ用品店、価格は,本体と照準器込みで19ドル88セントであった.この時の住所はフォートワース(一説にダラスのニーリ・ストリート).
3.29 ケネディ,アルファ66などのキューバ襲撃を中止するよう指令.
3.31 この日オスワルドの「謎の裏庭写真」が撮影されたという.片手にカルカノ・ライフル銃,腰には短銃を吊り,左翼系機関紙「ワーカー」と「ミリタント」紙を振りかざしている.妻マリナは被写体が間違いなくオズワルド本人であると証言(マリナ自身が撮影したという説もある)。ウォーレン委員会はこれを真実と認定。しかし写真の詳細な検討から,今日では顔を切りぬいて貼り付けた合成写真であることが明らかである.
63年4月 亡命キューバ人団体との決別
4.1 オズワルド,「キューバから手を引け,カストロ万歳」と書いたプラカードを掲げ,キューバ公平委員会のビラをまき,ダラス市内をデモ.
4.2 キング牧師ら,アラバマ州バーミンガムで人種差別反対のデモを開始.
4.6 オズワルド,ダラスでの仕事をやめる.
4.12 “オズワルド”,ダラス在住のエドウィン・ウォーカー陸軍少将を狙撃.失敗に終わる.少将はジョン・バーチ協会幹部の超保守派.ウォーレン報告によれば,自宅の書斎で机に座っていた将軍を約40フィート離れたフエンスの上から狙撃したと言う.
4.23 マクジョージ・バンディ補佐官,対キューバ関係の正常化を目指すレポート「キューバの選択」をケネディに提出.CIAの対キューバ隠密作戦本部「タスクフォースW」では,これと並行してカストロ暗殺計画がジョン・マコーン長官にも知らせぬまま進行.
4.24 オズワルド,妻をダラスに残しニューオリンズに転居(一説に27日).
4.24 ホワイトハウス,ケネディが11月に南部を歴訪すると発表.
4 ケネディ,革命評議会への公的援助を停止.ミロ・カルドナ議長は「新侵攻計画の約束を裏切った」と米政府に抗議し辞任.政府は侵攻計画の存在そのものを否認.
63年5月
5.01 モーレンシルツ,デュバリエとのあいだに地下資源開発協定を結ぶため,ハイチにわたる.
5.01 ロバート・ケネディ,CIAに「キューバに対して取り得るあらゆる手段のリストを提出するよう」指示.
5.09 オズワルド,ウィリアム・ライリーの経営するコーヒー製造会社に保守係として就職.叔母の家を出て月65ドルのアパートに移る.2日後には妻子もダラスから移住.ライリーはもっとも好戦的な反カストロ団体として知られる「自由キューバ委員会」のメンバーであり,組織の財政面の大物支援者である
5.10 カストロ,ABCテレビのインタビューに答え「捕虜の釈放と,亡命者組織への援助停止は,両国の関係改善にとって二つの好ましい徴候」と発言.
5.10 マイアミでCIAの指導の下に亡命者組織の一本化が図られる.指導者にはロバート・ケネディ司法長官の友人といわれるピッグス湾参加者のエンリケ・ルイス・ウィリアムス.
5.26 オズワルド,キューバ公平委員会(FPCC)に入会とニューオリンズ支部設立を要請.みずからFPCCのニューオーリンズ支部代表を名乗る。
5.27 連邦最高裁,マルセロを強制送還した移民・帰化局の決定を支持.
5 ジミー・ホッファ,陪審員を買収,恐喝し裁判に勝つ.司法省は陪審干渉容疑であらためて起訴.
63年6月 マフィア取締りの強化
6.5 ケネディ大統領,ジョンソン副大統領,コナリー・テキサス州知事の三者の協議で11月のテキサス遊説が決まる.その後9月になって旅程を1日伸ばすこととなる.当初の予定では自動車パレードは「有益ではあるが時間的な問題から不可能」とされていたが,あらためて実施することとなる.
6.15 NSC,対キューバ新作戦を承認.CIAはキューバ政府内の内通者AM/LASH(ロナルド・クベラ・セカデス)を利用したカストロ暗殺計画を実施に移す.彼には高圧ジェットの毒薬を内蔵したボールペンが手渡される.フロリダでの反カストロ武装行動に対する取り締まりは,実質上野放しとなる.
6.30 米国の学生グループ,キューバの招きを受け,プラハ経由でハバナ入り.政府は参加者の帰国後旅券を没収.
6 ロバート・ケネディ,ジアンカーナを完全監視下に置く.
6 ケネディ,ジョンソン,コナリーの三者会談.大統領のテキサス訪問を決定.
6 オズワルド,ニューオリンズの埠頭でキューバ公平委員会のビラを配る.ビラに書かれた事務所の住所はニューオリンズ,キャンプ街544番地.ラファイエット街531番地のガイ・バニスター探偵事務所とは入口が違うだけで建物は一緒である.
63年7月 対ソ連デタント路線の展開
7.19 オズワルド,ライリー社を退職.その後は競馬の胴元である叔父ダッツ・マレットの下で集金人として働く.
7 マイアミの反カストロ・グループ,ニューオリンズ北方のラコームのキャンプでゲリラ訓練開始.土地の所有者は元ハバナのカジノ経営者でトラフィカンテやランスキーと関係の深いマイク・マクレーニー.
7 大気圏内での核実験を禁止する部分核停条約締結.軍部やCIAは条約に反対の意を表明.ケネディ,ワシントンのアメリカ大学で講演.「われわれはソ連に対する態度を変えなければならない,疑惑が疑惑を呼ぶ悪循環を断ち切らなくてはならない」と表明.
63年8月 オズワルドのビラまき事件
8.01 FBIと地元警察,ポンチャントレーンに立ち入り.1トンを越えるダイナマイト,90センチ砲,ナパーム弾など多数を捕獲.キューバ人9名,米国人2人を拘束.米国人の一人は武器商人で極右団体ミニットメン創始者の一人,リッチ・ロークリ.
8.05 オズワルド,カルロス・プリンギア(Bringuier)と面会.ブリンギアの証言によれば,オズワルドは反カストロ・グループの軍事訓練にあたりたいと提案したとされる.ブリンギアはハバナ生まれのキューバ人で、ニューオリンズで洋品店を営むいっぽう、主にハバナ大学の出身者で構成された学生幹部会(DRE)に属していた。
8.09 オズワルド,ニューオリンズの中心部カナル通りでカストロ支持のリーフレットを配布する。駆けつけたプリンギアの一派と乱闘となる.警察はオズワルドを治安妨害の嫌疑で逮捕.
8.09 オズワルドは,警察署でFBIのエージェントを呼ぶように要求.FBI捜査官ジョン・クイグリーがオズワルドの申し出により事情聴取。結局オズワルドは罪を認め10ドルの罰金、ブリンギエールは無罪放免となる。
8.14 オズワルド,市内の目抜き通りで3回目のビラまき.
8.17 地元テレビ局が両者を呼び討論番組を組むなど,ニューオリンズの新聞やテレビで大々的に採り上げられる.オズワルドは2度にわたって地元の放送局WDSUのラジオ番組に出演。ブリンギエール、地元右翼団体のエド・バトラーらと番組の中で議論。
8 サイラス・バンス陸軍長官,ピッグス湾事件に参加した亡命キューバ人の陸軍への取り込みにあたる.担当官にアレクサンダー・ヘイグが就任.
63年9月 キューバとの秘密接触開始
9.02 ケネディ、「ベトナムから手を引くべきだという意見には同意できない。遠い国の出来事のように見えるが、これは重要な戦いだ」と語る。ケネディは9日には「南ベトナムが共産勢力の手に落ちれば東南アジア全体が危うくなる」と述べ、南ベトナムへの援助を続ける意思を示す。
9.03 ケネディ,「90マイルしか離れていないキューバに対する軍事行動をも正当化できないわれわれが,9千マイルも離れた東南アジアでの戦争を果たして正当化できるのだろうか?」と演説.ベトナム軍事顧問団1万5千人の引き揚げ計画を発表する.(前日の記載とかけ離れた内容であり、真偽を確認しなければならない)
9.07 カストロ,AP特派員ダニエル・ハーカーと会見.CIAの暗殺計画に関連して「われわれは米政府と闘い,同じ方法で対応する用意が出来ている.米政府がテロリストどもを援助してキューバの指導者を排除するつもりなら,彼らの身も安全でないことを考えるべきだ」と発言.
9.10 ホスティ。オズワルドがダラスを離れニューオーリンズに移ったことを報告。ニューオーリンズのFBI捜査官クイグリーも、9月23日に同様の報告。
9.17 ダラスのタイムズ・ヘラルド紙の社説,「ダラス市民は1960年の選挙の時にはケネディに投票しなかったし,1964年にも彼を支持することはないであろう.しかし,我々は心を込めた招待者でありたい」
9.17 オズワルド,メキシコ行きの観光ビザを取得.オズワルド,ニューオリンズ北方の州議会選投票所でデイブ・フェリー,クレイ・ショーらとともにいるところを目撃される.マリア・ロレンツの証言によれば,この頃オルランド・ボッシュ宅で会談.ディアス・ランスらとともにオズワルドも出席.ダラス行きの話題で花が咲いたと言う.
9.18 ケネディ側近の一人で駐ギニア大使のウィリアム・アトウッド,カルロス・レチュガ国連大使と秘密裏に接触.カストロはアトウッドをハバナに呼ぶように指示.ケネディも黙認を与える.カストロ,数千人におよぶソ連軍事顧問を送還.政治囚を釈放するなど対米デタントにむけたジェスチャーを示す.
9.23 オズワルドの妻子,ニューオリンズからダラスに向かう.ダラス郊外のアービングに居を構える.
9.24 オズワルド,バスでニューオリンズを出発,ダラスへ向かう.
9.24 フィリップス,ダラスで秘密会議を召集.ベシアーナやオズワルドが参加.
9.25 マクラレン委員会,ジェノヴェーゼ一家の幹部ジョゼフ・ヴァラキを聴問.バラキは証言で全米委員会の存在を明らかにする.委員長はマイヤー・ランスキー,委員はマルセロ,ジアンカーナ,トラフィカンテ,ガンビーノなど.
9.25 ”オズワルド”,ダラスからオースチンにはいる.選抜徴兵事務所で海兵隊からの不名誉除隊の取り消しを要求.オズワルドはこの日,ダラスからメキシコへ向かう.(以下”オズワルド”は,複数の偽オズワルド)
9.26 ダラスの新聞,ケネディが11月22日にダラスを訪問すると一斉に報道.
9.26 ”オズワルド”はバスで国境を超えてメキシコに入る。
9.27am10 ”オズワルド”,メキシコ市に到着.その足でキューバ大使館に行き、ビザを申請。キューバ大使館はソ連のビザも必要と告げ、いったんオズワルドを帰す。
9.27PM ”オズワルド”,ソ連大使館を訪問しビザを申請.対応したソ連大使館の現地職員シルビア・デュランは申請書の受け取りを拒否.”オズワルド”はその後キューバ大使館に回り,ソ連行きのトランジット扱いとして、あらためてビザの発行を申請.
CIAはこのとき、”オズワルド”がKGBエージェントのバレリー・ウラジーミロビッチ・コスチノフと会見した事実を突き止めている.この時点でCIAの対キューバ作戦本部はメキシコ市に置かれ,フィリップスがCIAメキシコ支局長,ハントは支局長代理となっている.
9.27 ”オズワルド”,メキシコ市内のホテル・デル・コメルシオに、この日から6日間続けて宿泊.このホテルは反カストロ派亡命キューバ人のたまり場として有名.
9.28 ”オズワルド”,再びキューバ、ソ連大使館に足を運ぶ。
9.30 ”オズワルド”,みたびキューバ大使館を訪問.ビザ発行を強要する.デュランの応援に出動したエウスビオ・アスクエ領事が彼を追い出す.
9 トラフィカンテは非公式な会談の席で「ケネディは抹殺されるだろう」と語る.また,同席したジミー・ホッファに対し「ケネディは来るべきものを受け入れることになるだろう」と語ったという.(アレマン元教育相の息子ホセ・アレマン・グティエレスの,78年の議会での証言による)
63年10月
10.2 ケネディ、マクナマラ国防長官とテイラー統合参謀本部議長による撤退計画を承認。「65年までにすべての米国人をベトナムから退去させる」とし,63年末までに軍事顧問1万6千のうち千人を撤兵させる方向をうちだす.国家安全保障行動メモ(NSAM)263号として残される.ケネディは、当面、この計画は発表しないよう命令。
10.02 “オズワルド”,ビザ受給の目的を果たせないままメキシコ・シティーを去る。朝のバスでダラスに向かう。
10.03午後2時過ぎ “オズワルド”,ダラスに到着。妻子の住むアービング街には戻らず,YMCAに宿泊.
10.03 第三の“オズワルド”,妻子とともにダラス南方700キロのアリスに出向き.地元のラジオ局に就職を依頼する.面談の席で「メキシコから戻ったばかりで,アリスにはたまたま立ち寄っただけ」と語る.結局交渉は不調に終わる.(妻はアービングの自宅から出ていないことが確認されている.さらに子供が生まれたのは10月20日のことである)
10.04 オズワルド,パレードの通り道インダストリアル・ブールバードに面する某会社に求職するが断られる.
10.14 オズワルド,自宅とは別にO.H.リーの変名で市内オーク・クリフ(Oak Cliff)にアパートを借りる.
10.15 オズワルド,テキサス教科書会社(TexasSchoolBookDepository)の受注記入係として採用される.翌日から勤務開始。
10.24 ケネディ,アトウッドの知人でフランス人記者ジャン・ダニエルとホワイトハウスで会見.カストロとの会見のため米国内で準備中のダニエルに対し,キューバとの関係改善の可能性を検討するよう示唆.
10.25 オズワルド,メキシコ市を発ちダラスへ向かう.ダラスではモーレンシルツと会い,テキサス教科書会社への就職を斡旋される.ルース・ペインの自宅へ入居.
10.31 ケネディ兄弟,フーバー長官を昼食に招き非公式に退陣を勧奨.
10月 民主党リベラル派の大物アドレイ・スティーブンソン国連大使が、ダラスを訪問。右派のデモ隊から暴行を受ける。
63年11月
11.01 南ベトナムで軍事クーデター。
11.01 ”オズワルド”,フォートワースの銃器店で弾薬を購入.
11.04 ”オズワルド”,スポーツ・ショップにライフルを持込み,望遠照準器用の穴を開けさせる.
11.04 マルセロの密入国を巡るニューオリンズ連邦裁の公判開始.
11月初め ジェームズ・ホスティ、2度にわたりオズワルドの妻マリナに接触。ホスティはFBIダラス支局の捜査官で彼自身が陰謀に関わっているとの説もある人物。
11.08 ”オズワルド”,青果店で189ドルの小切手を現金化.
11.09 ”オズワルド”,リンカーン・マーキュリー自動車会社の新車展示場を訪れ,係員とともに試運転する.この会社はテキサス学校図書配給会社の角を右に曲がったところにあった.“オズワルド”は130キロの猛スピードを出し,蛇行運転など荒っぽい乗り方をした.彼はセールスマンに”ソ連の車はないか,車はソ連のボルガに限る”とけんかを売る.いっぽう「近くかなりの大金が入る予定」とも話す.実際のオズワルドは車の免許証はなく,運転できない.さらに,この日オズワルド本人は,終日アービングの自宅で家族とともに過ごしたことが確認されている.
11.10 オズワルドはFBI支局にホスティを訪れる。ホスティが不在のため、受付にメモを託して帰る。ホスティの証言によれば、メモの内容は「家族に近寄るな。直接自分の所へ来い」というものだった。しかしメモを受け取った受付の女性は、「メモの内容はホスティが言うようなものではなかった」と証言している。
11.15 ロレンツの証言によれば,彼女の他ボッシュ,スタージス,ディアス・ランス,オズワルド,ゲリー・ヘミング,サンポール兄弟(キューバ国民運動)が車に分乗し,ニューオリンズからダラスに向かう.ダラスではルビーが一行を迎えに出る.
11.15 ダラスの事前調査に訪れたアドレイ・スチーブンソン国連大使,右翼のデモ隊に囲まれ,やじられ,ツバを吐きかけられる.
11.16 ”オズワルド”,射撃練習場でカルカノ銃を試し撃ち.隣の射的に射撃し口論となる.この射撃場には20日,21日にも現われる.この他床屋,食料品店,銃器店などにつぎつぎに姿を現わしてはトラブルを引き起こす.
11.18 ケネディ,ワシントンのアンドリュー空軍基地を出発.マイアミ,テキサス訪問に.亡命者組織より死の脅迫が送られる.ケネディはマイアミで開かれた汎米新聞編集者協会での演説で,カストロらを一握りの陰謀家集団と非難し,真の革命を望むキューバ国内の革命的集団を励まし,「西半球にもうひとつのキューバを作らせることは断じてありえない」と強調.その一方「米国はどんな国に対してもその国のあるべき経済政策について命令するつもりはない.どんな国にも,その国民の必要性と意志に応じて独自の経済制度を形成する自由がある」と述べる.また,キューバがソ連に対して主権を回復し,近隣国の政府転覆への活動をやめるなら「すべてが可能になり,われわれは友情と支援の手を差しのべるだろう」と語る.
11.18 シークレット・サービスのダラス支局長フォレスト・ソレルズ,パレード径路に変更を加える.
11.19 ケネディ,マイアミを出発しワシントンに戻る.
11.20 ディーリ広場を巡回中の警官,グラッシー・ノールの柵越しにライフルを構える数人の男を発見.捕獲に失敗.
グラシー・ノール(grassy knoll): 「草に覆われた円い丘」といった意味で、事件後の報道の中から生まれた造語。ディーリープラザの西の端、公園に隣接した区域。背後の鉄道線路、駐車場、物資集積場とを仕切る柵の目隠し用として植えられた木立に包まれているため、このように表現された。
11.20 ジャン・ダニエル,カストロと会談.ケネディがデタントを目指す意志のあることを伝達.ダニエルによればカストロはケネディの言葉を「ひとことも聞き逃さぬように熱情的な関心をもって」聞き,「わたしはケネディが正直に話していると信じよう.わたしはまた,今日,正直さを表わすことは政治的にも意義深いことだと思う」と語る.
63年11月21日(以後ダラス現地時間)
10:00 匿名のビラがダラスの通りにまかれる.ケネディの二方向からの顔写真に「反逆罪で指名手配」と題し,悪口を書き連ねたもの.
11:00 ケネディ,アンドリュース空軍基地からサンアントニオ空港に向け出発.
13:30 ケネディ,サンアントニオに到着.ジョンソン副大統領が出迎える.
16:40 ケネディ,サンアントニオからヒューストンに到着.ヒューストン・コロシアムで演説.
23:00 ケネディ,ヒューストンを出発.フォートワース空港に到着.
63年11月22日
朝 ダラス・モーニング・ニュース紙,「ようこそダラスへ大統領」という見出しで黒枠付の全面広告を掲載.スポンサーは狂信的右翼団体ジョン・バーチ協会で責任者はバーナード・ワイズマン.ワイズマンはH.L.ハントの別名と思われる.
朝 ケネディ,フォートワース商工会議所の主催する朝食会に出席し,その後空路でダラスへ.
7:15a.m. オズワルド、同僚の車に乗り、大きな袋を持って会社に入る。同僚には「カーテンの軸」と説明。
午前11時
11:30 スナイパーがグラッシー・ノールに配置される.証言によれば,スナイパーを乗せた車の運転手はルービーだったとされる.
11:30 オズワルド、事務作業中の1階からエレベーターで上の階に上がる。
11:37 ケネディをのせた大統領専用機,ダラスのラブ・フィールド空港に到着.
11:45 教科書倉庫ビルは昼の休憩時間に入る.5階のエレベーター前で上りのエレベーターを待つオズワルドが目撃されている,
11:50 ケネディ夫妻らを乗せたオープンカー,ラブフィールド空港から市内に向け出発.大統領の車にはジョン・コナリー州知事夫妻が同乗、同州選出のリンドン・B・ジョンソン副大統領が後続の車で同道する。
11:50 オズワルド,6階にいるところを目撃される.その後一人の従業員が6階で昼食を摂る.この10分間,6階にはほかに誰もいなかった.
午前12時 暗殺の瞬間
12:25 証言によれば,教科書会社ビルの6階に二人のスナイパーが配置.
12:29 自動車パレード,メーン通りからヒューストン通りへ折れる.
12:30 ザプルーダー・フィルムによれば、エルム通りへのコーナーを回って,陸橋方向へ41メートル進んだ地点で,丘からの第1発がケネディの首に命中.続いてダル・テックス・ビルからの第二発目が,右肩下に命中.同時に教科書会社から発射された弾丸はコナリー知事の右肩口を直撃.右胸に貫通し右手首,左股に傷を与える.4発目はダルテックス・ビルから発射されたが大きく外れる.5発目は丘から発射され,ケネディの右後頭部を撃ち抜く.ここまで6秒間.
ザプルーダー・フィルム(Zapruder film): エイブラハム・ザプルーダーは現場近くで婦人服製造会社を経営していた。当日は、ベル・ハウエルの高級8ミリ・カメラを持参し間近でパレードを撮影していた。
12:30 ダラス署長カリー,現場から4マイル離れたパークランド病院へ急行するよう指示.パークランド病院では,12名の医者をふくむ救急病棟のスタッフが緊急体制をとる.
12:32 丘の方向に向かった警察官は,ニセの証明書を提示したシークレット・サービスを見逃す.後にこの警官はウォータゲート事件の犯人の一人バーナード・バーカーを,にせシークレット・サービスと断定.
12:33 ビルの捜査に入ったベイカー警察官とビルの責任者トゥルーリー,2階食堂の自動販売機の前でコーラを買っているオズワルドを発見.警官は,のちに”彼は興奮したり,おびえているようには見えなかった”と証言.その直後,女子事務員も2階事務所でオズワルドを目撃.
12:35 教科書会社の捜査で,二人の新聞記者のほか陸軍諜報部のジェームス・パウエル大佐が発見される.
12:40 ダル=テックス・ビルで二人の男が逮捕されるが.間もなく釈放される.ビジネスマン風の男は,のちに37回の逮捕歴をもつギャングの一味であることが明らかになる.
12:40 “オズワルド”,教科書ビルの非常階段を駆け下りて裏口から出てくるところを目撃される.彼が口笛を吹くと,ヒューストン通りのほうから黒人の運転するステーションワゴンが進んできて,その男を乗せて走り去ったという.その直後,教科書ビルは封鎖される.
12:40 公式の証言によれば,その後オズワルドは,教科書会社の七ブロック先でバスに乗車.いったんバスを降り,タクシーに乗車しようとするが,他の女性に車を譲る.別のタクシーに乗り,北ベクリー通り500番地に向かう.そこで車を降り,数ブロックを歩き自宅に戻る.
12:41 ケネディとコナリーを乗せた車がパークランド病院に到着.「銃創患者,白人男子,受け付け番号4740号」に対し,直ちに気管切開が試みられる.このとき喉頭突起付近に銃弾の射入口が認められたという。
12:45 ノウルの裏手の鉄道に留まっていた貨車の中から三人の浮浪者が逮捕されるが,間もなく釈放.このうちの一人はハワード・ハントではないかといわれる.
12:45 警察無線によれば,容疑者は「やせた白人男性,体重約70キロ,身長180センチ,年齢は30才前後。ライフルを所持しているとみられる」と配信される.
12:50 大統領護衛官フォレスト・ソレルズ,射殺現場に復帰.
午後1時 オズワルド逮捕まで
13:00 ケネディ,パークランド病院で死亡を確認される.この時病院内にルビーがいたことが証言されている.シークレット・サービスはメリーランド州のベセスタ海軍病院へ遺体を移すと主張.医師団の反対を押しきる.
13:00 テキサス教科書倉庫ビルの捜索班、6階南東角の窓の前に段ボール箱が積み重ねられているのを発見。窓の前の床に3個の発射済み薬包が落ちていた。
13:07 いったんアパートに戻ったオズワルド,拳銃を持ってふたたび外出.テキサス劇場に歩いて行く.アパートの女主人の証言では,部屋の前にパトロールカーが低速で接近,クラクションを鳴らしてからゆっくりと走り去ったという.
13:15 オーククリフ地区東10番通りをパトロールしていたJ・D・ティペット巡査のパトカー,暗殺容疑者の人相手配に酷似した人物を発見.「オズワルド」はドアを開けて近づいてきたティペットに,短銃を発砲.4発が命中してティペットは即死.「オズワルド」はパットン通りからジェファーソン通りへと走り去る.なおティペットはジョン・バーチ協会の会員だった.
13:16 10番街404でティペットが銃撃されたとの第一報。市民がパトカーの警察無線で連絡したもの。
13:22 ティペット殺害犯についての目撃証言。30歳前後、5フィート8、黒い髪、やせ形、白いジャケットに白いシャツ、濃い色のズボン。
13:22 教科書会社ビル6階南西の階段に積み上げられた箱の間に、望遠鏡付きボルト・アクション型のライフルを見つける。第一発見者ワイツマンは、7.65 モーゼル(Mauser)ボルト・アクションだったと述べる。
13:29 警察無線,ティペット殺害事件と大統領暗殺事件の容疑者の人相手配がそっくりであることを伝える.
13:40 ダラス警察,目撃者の証言に基づき,ティペットを殺害したのは黒髪の男,凶器はS&Wの38口径と発表.
13:45 オズワルド,西ジェファーソン街の映画館テキサス劇場に切符を買わずに入場.目撃者ジョニー・ブルーワー(付近の靴屋の店員)が警察に人相とともに通報した.
13:53 警察,テキサス劇場を包囲.マクドナルド巡査ほか数名の警官がブルーワーの指摘によりオズワルドを発見.
午後2時
14:00 オズワルド,数分間の格闘の後逮捕される.「これで完了」と言ったという.逮捕後の警官の扱いに対しては強く抗議.
14:15 オズワルドを乗せた警察車両がダラス署に到着.ただちにウィル・フリッツによる第1回尋問が開始.オズワルドは犯行を否定,警察に強く抗議を続ける.またこの間,オズワルドは署内にいたFBI捜査官ジェームズ・ホスティを認め声をかける.
14:30 ケネディの遺体,病院から空港に到着.特別機でワシントンへ向かうこととなる.
14:38 ジョンソン,ラブフィールド空港に待機中の大統領専用機内で宣誓.第36代大統領に就任.
午後3時 オズワルドが犯人に
15:00 連邦地裁,マルセロに無罪の評決.
15:15 マスコミ,オズワルドの逮捕を一斉報道.
15:54 NBCのビル・ライアン,オズワルドがケネディ殺しの最有力な容疑者として尋問中と全国放送で報道.
16:00 パークランド病院の医師団が記者会見。医師は銃弾がのどから入り頭部に抜けたことを示唆。
16:30 ダラス担当FBI捜査官ホスティーが「事件の容疑者」なるメモを発表.容疑者の特徴はオズワルドと酷似.ダラス市警は尋問へのホスティーの立会いを要請される.
16:45 ティペット殺しの目撃者ヘレン・マーカムによる面通し.オズワルドは他の被疑者と年齢,服装があまりにも違うことに抗議.
17:00 フェリー,マルセロの公判を終えた後,車で500キロ離れたヒューストンに向かう.自らの供述によればヒューストンでアイススケートをするため.
17:05 特別機,ワシントンに到着.ジョンソンは,さらにヘリでホワイトハウスに向かう.
18:30 ティペット殺害事件について,判事による罪状認否.
夕刻 ダラス警察捜査班のシーモア・ワイツマン巡査ら,現場で凶器7.65ミリのモーゼル銃を発見.同時にカルカノの空の薬莢が三つ発見される.
午後7時 ルビーの行動開始
19:00 ダラス市警,オズワルドをティペット殺害容疑で告発.
19:00 ケネディの遺体,ワシントン空港からメリーランドのベセスダ海軍病院に送られ検死を受ける.検死時のレントゲン・フィルムと証拠写真報告は極秘扱いとされ,88年まで未発表.
19:00 ルビー,拳銃を所持してオズワルドが取り調べを受ける部屋のあるダラス市警の3階まで侵入.部屋には入れず.
20:55 指紋採取とパラフィン・テスト(硝煙反応)が実施される.
21:40 フーヴァー長官,全情報員を総動員して大統領暗殺に関する情報を集中するよう指示.
23:00 検死が終了。1発が後頭部より前方に貫通、背中に銃弾1発が命中、体内にとどまるが心臓マッサージにより体の外にこぼれ落ちたとされる。
23:30 ダラス警察署長ジェシー・カリー,部下の反対を押しきりオズワルドを記者会見に出席させる.記者がオズワルドにケネディ殺しの犯人と疑われていることについて質問,「大統領が殺されたというのも初耳だ.私は誰も殺していない」とオズワルドが答えたため記者会見は中断.オズワルドは自分が「責任を背負い込まされた“おとり”である」と叫び,報道陣に”弁護士を呼んでくれ”と訴える.この席にルビーも居合せる.
カストロはキューバの関与を否定.「ケネディの死を喜んでいるのは,彼の対キューバ外交の弱腰を非難していた極右,反動だけ」と声明.
63年11月23日
00:23 オズワルド,署内の留置所に収監.
01:30 ケネディ故殺に関する罪状認否.オズワルドは重ねて弁護士との接見を要求.
01:35 ダラス市警,オズワルドをケネディ殺害容疑で告発.本人は一貫してすべての容疑を否認.2日間延べ18時間にわたる尋問は口述記録も尋問調書もとられていず,弁護士も同席せず.
04:00 クライン,ライフルを買った人物をオズワルドと確認.
深夜 ダラス地方検事ヘンリー・ウエイド,セイモア・ワイズマン巡査の証言に基づき凶器はモーゼルと発表.その後マンリカ・カルカーノ銃と変更.ワイズマンは精神病院に収容される.
10:30 尋問再開.
13:00 フェリー,ヒューストンのアイススケート場に姿を現わすが,スケートはせず電話連絡に集中.
13:10 オズワルド,母親および妻と面会.
午後 ダラス市警、マリナの住むアービングのペイン夫妻宅を捜索。「裏庭写真」のネガを押収。
16:00 ダラス市警,郡保安官の引き渡し要求を拒否し続けた後,郡拘置所へ移送することをいったん決定するが,交通事情を理由に翌日に延期.この間ルビーは拘置所前でオズワルドを待ち受ける.
17:30 ダラス弁護士会会長ルイス・ニコラスとの面会.
18:00 第五回目の尋問.「裏庭写真」を見せられ,「自分ではないが,顔は自分だ.これは重ね合わせ写真だ」と証言.この写真は翌年2月,ライフ誌の表紙を飾る.
19:15 オズワルド,尋問を終え,独房に戻る.
21:30 第6回目の尋問.オズワルドはメキシコに行きソ連大使館を訪ね,キューバ行きについて交渉したことを認める.
22:00 フェリー,ヒューストン東南75キロのガルベストンの街に到着.
23:44 フェリー,ジャック・ルビーと電話で連絡.その後恐らくはヒットマンを乗せ,メキシコまで飛行機で往復したものと思われる.
メキシコのFBI情報員「D」,米大使館にオズワルドがキューバから資金をもらっていると通報.のちに「D」はニカラグアの特務と判明.
63年11月24日 オズワルドの射殺
01:15 フーヴァー長官,ロバートに代わり司法長官代理となったカッツェンバック次官に面接.犯人をオズワルドと断定.ワシントンへ秘密裏に移送するよう主張.
午前11時 ルビー,オズワルドを射殺
11:10 郡刑務所への移送準備が始まる.
11:18 ルビー,ウエスタン・ユニオンのオフィスを出て,警察署に向かう.
11:21 オズワルド,市警の留置場から1マイル離れた郡刑務所に移送するため市警ビルの地下に現われる.記者団の中から飛び出したルビーに腹部を狙撃され、一発の銃弾で致命傷を負う.
11:44 パークランド病院に担ぎ込まれたオズワルドの手術開始.
12:52 ケネディ大統領の葬儀が始まる.国会議事堂前に群集20万人が集まる.
13:07 オズワルド,意識を回復しないまま死亡を確認される.ケネディの葬儀の最中に「オズワルド殺害」のニュースが流れる.
11.23 オズワルドを殺害したジャック・ルビー(53歳)、「オズワルドの公判にジャクリーン夫人が呼ばれ、法廷で証言するところは気の毒で見るに耐えなかったので犯行に及んだ」などと動機を供述。
11月24日
11.24 ニューオリンズ市警,仲間の密告に基づきフェリーの捜索を開始.フェリーはニューオリンズと連絡をとり,ケネディ暗殺の容疑をかけられていることを知る.
11.24 ティペット殺害事件の目撃者ワレン・レイノルズ,犯人は別人と証言したあと,何者かに襲われ瀕死の重傷を負う,回復後,彼は前言を翻してオズワルドが犯人だったと証言する.
11月25日
11.25 フェリー,ギルに伴われニューオリンズ地方検事局に出頭.オズワルドとの関係や容疑を全面否定.二日間にわたる尋問記録は機密扱いとなり,ウォーレン委員会にも報告されず.(77年に一部公開)
11.25 ワシントンで国葬.聖マシューズ教会でのミサの後,遺体はアーリントン墓地に葬られる.
11.26 ジョンソン大統領,暗殺事件の捜査はFBIに集中すること,CIAなどほかの部局はFBIに協力するよう指示.司法省もふくめた政府は,オズワルドを単独犯とし暗殺動機をめぐる推測を遮断することで一致.
11.27 FBI,マルセロと面接.マルセロはオズワルドやルビーとの関係を全面否定.
11.29 ジョンソン大統領,行政命令11130号により,「ケネディ暗殺事件に関する大統領委員会」を設置.最高裁長官アール・ウォーレンを委員長に据える。
63年12月
12.03 UPI,政府筋がオズワルドを単独犯とすることで意志統一していると報道.
12.06 ウォーレン委員会,第1回の秘密会合.
12.08 FBI,フェリーに関する調査をいっさい中止.
12.13 ロバート・ケネディ,キューバへの旅行を解禁を提案するが,国務省の反対により流産.
12.16 米国,船主に対しキューバへの物資輸送を禁止.
12.19 LBジョンソン,アトウッドを通じた対話の窓口を「凍結」
12.19 左翼紙「ナショナル・ガーディアン」紙,オズワルド犯行説に疑問を呈するマーク・レインの論説を発表.国際的な反響を呼ぶ.
12 フィリップス,ベシアーナと会見.メキシコに行ってG2幹部で従弟のギジェルモ・ルイスに接触するよう指示.さらにルイスを買収し,”オズワルド”のキューバ大使館訪問と彼の親カストロ的態度について証言させるよう指示.
1964年
1.27 ウォーレン委員会,オズワルドの妻マレナがKGBのエージェントであると疑う.(会議録による).コナリー知事,「ライフ」誌上で「大統領にあたった1発目と自分にあたった弾とは別」と発言.ウォーレン委員会はこの証言を無視.
2 ティペット殺害の現場を目撃し,犯人はオズワルドではないと証言したベナベデスの双子の弟が何者かに襲われ射殺される.「別人説」を主張したもう一人の目撃者ハロルド・ラッセルも事件から3年後,警察官に射殺される,
3.12 ヘルムス,ウォーレン委員会首席顧問リー・ランキンと面接.「委員会はオズワルドがCIAエージェントではなかったという私の意見を信じなければならない」と発言.
3月 ダラスの裁判所、「犯意のある殺人(murderwithmalice)」として、ルビーに死刑を宣告。ルビー側は上級審に「ダラスでは公平な裁判が受けられなかった」と訴える。
3 ジョンソン,NSAM288号に署名.263号の計画を全面否定しベトナム戦争エスカレーションへ乗り出す.
4.27 ウォーレン委員会顧問ノーマン・レドリック,「われわれの目的は,完全な正確さで事実を解明するのではなく,オズワルドが単独で犯行をおこなったという,仮定の結論に肉付けをすることにある」とするメモを残す.このメモは10年後に公開.
5.15 「ライフ」誌,チームスター労組のボス,ジミー・ホッファの発言を暴露.「理想的なやり方は,奴を南部のどこかでやるのだ.そうすれば,かならず偏見主義者の仕業に見える」
8.02 国防総省,米駆逐艦がトンキン湾で北ベトナム魚雷艇の攻撃を受けたと発表.北ベトナム基地を報復爆撃.
64年9月 ウォーレン報告発表
9 ケネディの愛人マリー・マイヤー,自宅で変死.直後にジェームス・アングルトンCIA防牒部長が彼女の日記帳をもちだし破棄.
9.24 ウォーレン委員会,オズワルドをこの犯罪にかかわる唯一の実行犯とする報告を発表.10ヶ月以上にわたり51回の聴聞会が持たれ,数千の記録に目が通され,552の証言が採集されている.すべてのマスコミがウォーレン説を支持.
11.03 ロバート・ケネディ,ニューヨーク州選出上院議員として政界に復帰.
65.4.22 ロバート,遺族の権利を利用し,ケネディの剖検証拠などを自らの手元に移管.
66.10.31 ロバート,ケネディ遺品を政府に返還.この時点で重要な証拠が大量に紛失.
66 ケネディ暗殺への政府の関与疑いを主張するマーク・レインの「ラッシュ・トゥ・ジャッジメント」,全米ベストセラーとなる
1967年
1.3 収監中のルビー,肺塞栓症(一説ではガン)を起こし、収容されたパークランド病院で死亡.
2 ルイジアナ州ニューオリンズの地方検事ジム・ギャリソン,オズワルドがFBIと契約を結んでおり,ダラスではジェームス・ホスティーの下に,ニューオリンズではジョン・キグリーの下に統轄されていたことを突き止める.「ケネディを暗殺した複数の犯人を割出し,逮捕は時間の問題となっている」と発表.
2 ギャリソンの発表の4日後,第一容疑者のデビッド・フェリーが自宅で死体となって発見される.検死の結果は脳内出血.現場からタイプされた二通の遺書が発見される.
2 フェリーの有力な友人でギャリソンがコンタクトしようとしていたエラディオ・デル・バリェ,駐車場で死体となって発見.死体は至近距離から心臓を射抜かれた後,頭から首までオノで割られていた.デル・バリェはマイアミ在住の亡命キューバ人.バチスタ時代は国会議員をつとめる一方軍情報局のエージェントとしても活動.またトラフィカンテとも深い関係を持ち汚い仕事に従事.革命成立と同時に米国に亡命,直ちに反革命活動を開始.反カストロ組織の有力なパトロンとなる.
3.1 ギャリソン,クレイ・ショーを逮捕.クレイ・ショーはニューオリンズに大きなビルをもつ実業家で,反カストロ団体と深いつながり.クレイ・ショーへの裁判開始.連邦政府はいっさいの協力を拒否.クラーク司法長官はクレイ・ショーはすでにFBIの調査により潔白を証明されていると声明.ジョンソンもウォーレン委員会報告を再調査するつもりはないと声明.大統領の死体検案書等も,国家記録保存所によって提出を拒否される.CIAはヘルムズ長官を先頭に揉み消しに奔走.
3 移民帰化局から国外追放の警告を受けたロセリ,自らの保身のためドリュー・ピアソン,ジャック・アンダーソンと会見.匿名の条件の下にカストロ暗殺計画,自分とCIAとの関係を明らかにする.アンダーソンはニューヨーク・タイムスにCIAとマフィアの協力によりおこなわれた一連の作戦を暴露.ボブ・ケネディは,ある場面で作戦の一部を知ったが,作戦を中止するよう指示したと表明.ヘルムスはジョンソン大統領の要請に応じ,エドワーズ大佐から自分宛てのメモのコピーのみを提出.62年5月付けのこのメモは,暗殺計画が中止されたことを知らせるもの.ヘルムスは,ハーベイの実行した毒殺計画ばかりでなく,彼自身の企画したAMーLASH作戦についても言及を避ける.
1968年
6.05 民主党大統領候補となったロバート・ケネディ,カリフォルニア州予備選挙で勝利.
6.05 ロバート、ロスのホテルで行われた祝勝会の席上、パレスチナ人サーハン・サーハンの手で暗殺される.
11 ニクソン,マクガバンを破り大統領に当選.
69.7.16 次期大統領選における,民主党の有力候補エドワード・ケネディ,深夜に帰宅の途中,チャパキディック島に架かる橋で交通事故を起こす.謎の自動車に体当たりされ,車ごと転落させられたといわれる.この事故で助手席に居た女性秘書が溺死.
70 ルイジアナ州の地方検事選挙.ギャリソンが大勝.ギャリソンはさらに徹底的にケネディ暗殺事件を調査すると公約.
1971年
7 連邦司法省,ギャリソンを収賄の疑いで逮捕.
7 ロセリ,詐欺の疑いで当局の追及を受ける.裁判所は5年の刑を判決.弁護士は,ロセリが愛国者であり,カストロ暗殺のため生命を張って国に奉仕した「冷戦の英雄」であることを理由に減刑を主張.CIAとの関係については国家安全上の機密として発言を避けながら,アンダーソン記者に情報をリーク.アンダーソンは暗殺作戦の首謀者としてオコンネルとハーベイ,CIAとマフィアの仲介者としてメイヒューを実名で暴露.
71 ホッファ,ニクソン大統領の指示で特別恩赦となる.
1972年
6.17 鉛管工グループ,民主党本部に侵入.捕らえられた犯人は「マクガバン候補がカストロやホーチミンから資金をもらっている証拠を握るため」侵入したと「自白」.グループのメンバーはロランド・エウヘニオ・マルティネス,ビルヒリオ・ゴンサレス,フランク・スタージスらキューバ反革命分子から構成.指揮をとったハントは逃亡に成功.
6.23 ニクソン,CIAに「ピッグス湾事件が漏洩する恐れがある」として,FBIに圧力をかけるよう示唆.
72年 財務省国税局、脱税容疑でランスキーを逮捕・起訴。FBIはこの経過に一切関与せず。
72年 FBIのフーバー長官が死亡。
1973年
7 アトランティック・マンスリー誌記者リオ・ジャノス,ジョンソンと会見.ジョンソンは大統領になって初めて「われわれはカリブ海でとんでもない”殺人株式会社”を経営していた」ことに気づいたと発言.@ケネディ暗殺はある陰謀の一部である,A私はオズワルドの単独犯行説を一度も信じたことはない,と発言.
73 ルイジアナ州地方選挙.ギャリソンは元連邦裁判事の対立候補に敗れる.
73 CIA契約員でルビーらと武器密売にかかわったこともあるトマス・エリ・デービス,二度にわたってオズワルドの名をかたって行動したことを認める.その後謎の死を遂げる.
74 ヒューズから盗みを働いたとして解雇されたメイヒュー,ヒューズがカストロ暗殺計画においてCIAとかかわっていたと証言.
1975年 チャーチ委員会発足
1.3 コルビー,フォード大統領の求めに応じ,外国指導者の暗殺計画を含む非合法活動の完全な調査報告を提出.
2 ケネディ兄弟,キング暗殺事件などの真相解明を求める草の根組織「市民調査委員会」発足.ノーベル賞受賞者のライナス・ポーリングなどが名を列ねる.
3.01 議会上院に、CIAやFBIなど政府機関の情報分野での活動を調査する委員会が設けられる。委員長にフランク・チャーチが就任。外国要人の暗殺計画についても調査に乗り出す。
3.01 下院にも「情報活動調査特別委員会」が設けられ、パイクが委員長に就任.
3月 CBSテレビ,「フォード大統領がCIAにたいする情報活動調査の行過ぎに警告した」と報道.
6.24 ロセリ,チャーチ委員会でFBI証人として第1回目の証言.
7.19 ジアンカーナ,チャーチ委員会からの聴聞会に召喚されたあと,FBIの監視するシカゴの自宅で7発の銃弾を頭に受け死亡.ジアンカーナは74年以降4回にわたり大陪審で組織犯罪について証言を求められ出頭.間もなく凶器となった消音装置付きの22口径のピストルが発見されるが,犯人は逮捕されず.
75 元CIA幹部ビクター・マーチェティ,クレイ・ショーとフェリーがCIAのエージェントだったと証言.チャーチ委員会,捜査の手をCIA幹部にまで広げる.ヘルムズ長官は当時西半球部長であったフィリップスを引退させ,波及を防ぐ.
75 ヘルムズとハーベイ,委員会で証言.マフィアとの関係については両者とも否定,後に偽証罪に問われる.カストロ暗殺計画については「カストロとその政権を排除するのが作戦の目的であり,そのための手段に制限はない」と開き直る.また63年10月に,デスモンド・フィッツジェラルドSAS班長をパリに派遣し,クベラと面会させたこと,その際クベラの信用を得るためケネディ政府の代表を装わせたこと,AMーLASH作戦の実行にあたってマコーン長官の裁可を得なかったことを認める.ハーベイは61年1月,「ホワイトハウスが二度にわたって『海外指導者の排除のため“処刑能力”を創出せよ』と指示を出してきた」とのビッセルの発言を紹介.さらにビッセルが自分にその任務を与えたと証言.委員会は,CIAがルムンバとトルヒーリョ暗殺を企てたと認定.
75 マフィアのボスでロセリの友人ジョン・マルティノ,非公式な会話の中で彼がCIAエージェントであること,暗殺計画について知っていたことを明かす.「最初の計画ではテキサス劇場に全員が集結し,オズワルドを外国に連れ出した後抹殺することになっていた.オズワルドがミスを犯したため,計画はだめになった.ルビーが彼を殺さなければならないことになった」と語る.マルティノはこの後間もなく死亡.会話の記録はダラス・モーニング・ニュースに掲載される.
1976年
4.23 ロセリ,チャーチ委員会で第2回目の証言.
8.7 ドラム缶に詰められたロセリの死体,マイアミ北方ダムファウンドリング湾の海上で発見.死体は縛られ射殺された後バラバラにされていた.
8.21 ワシントンポスト紙,ロセリが4月頃に政府に極秘情報を流していたと報道.
11.2 カーター,フォードを破り大統領に当選.
11.15 下院,暗殺事件特別委員会を設置.ルイス・ストークスが委員長に就任.ケネディ大統領とキング牧師暗殺に関しての見直し調査を開始.
76年 チャーチ委員会報告が発表される。第5分冊が「ケネディ大頭領暗殺事件の捜査:情報機関の行動について」と題される。陰謀説の支持者さらには陰謀の存在を疑う米国民の疑惑を完全に払拭できたとは思っていない、と述べる。
1977年
3 委員会はホセ・アレマンがワシントン・ポスト紙に語った情報に注目し,証言を求める.ホセ・アレマン,委員会聴問で詳述.会話の中でトラフィカンテは一つの犯罪が計画されつつあると述べ,ホッファが計画の指揮者とにおわせた.さらにアレマンは,自分がこの情報をFBIに伝えたにもかかわらず,無視されたと証言.トラフィカンテは小委員会での証言でカストロ暗殺計画に加わった事実を認め,「愛国心に基づくものだ」と強弁.
3.30 米下院暗殺事件調査特別委の証人,ジョージ・デ・モーレンシルト(Mohrenschildt),パームビーチの友人宅で散弾銃により「自殺」.彼はこの日特別委員会スタッフのガエトン・フォンジから事情聴取を受ける予定だった.妻のジーンは監察局による自殺の評定を拒否.「彼は委員会に出頭する前に,それを好まない人により除去された」と主張.
4月 ジーン・モーレンシルト未亡人、もう一枚の「裏庭写真」を下院委員会に提出。63年4月5日の日付で「わが友ジョージへ リー・オズワルドより」の書き込みがある。これはオズワルド自身の筆跡と鑑定された。委員会は「裏庭写真」を本物と判定。
1978年
78.2.3 F.スタージス,CIAが組織し資金を供給した元キューバ人将校の暗殺活動結社「オペレーション40」のリーダーであり,CIAに国内での暗殺計画を持込まれたこともある,と証言.後に全面否定.ヘルムズは「スタージスが契約工作員であったことを認める.
78 元CIA財務局幹部ジェームス・ウィルコット,暗殺問題調査委員会で証言.オズワルドが軍隊にいた時,彼をソ連に対する二重スパイとして採用したことを認める.
78 下院暗殺調査特別委員会の調査官,エドウィン・ロペス,メキシコを訪問.元キューバ大使館職員シルビア・デュラン,面接に対し,”オズワルド”は偽物であったと証言.アスクエものちに彼がにせのオズワルドだったと証言.
78 リバティ・ロビー社の発行する「スポットライト」紙,「ハントはケネディ暗殺の当日ダラスにいた」と報道し,ハントの事件への関与を示唆する記事を掲載.ハントはスポットライト紙を告訴.
1979年
79 ヘルムス,下院で証言.クレイ・ショーがバニスター一味とともにCIAのエージェントとして活動していたことを認める.元CIAエージェントのビクター・マーチェッティはヘルムスがクレイ・ショーに対するギャリソンの捜査に何度か警告を発し,揉み消しを図ったと証言.さらにヘルムスがショーを,フェリーらケネディ暗殺部隊との窓口(コンタクト)としていたと述べる.
79.7.17 下院特別委員会,調査報告を発表.慎重な表現ながらウォーレン報告を否定.暗殺は複数でおこなわれたものであること,オズワルドとデビッド・フェリーの関係を認定するなど踏み込む.委員会はマルセロ,トラフィカンテらがケネディ暗殺に関わった可能性を認めるが,CIAの関連を証明することは出来ず.
80 英作家アンソニー・サマーズ,「陰謀」を発表.CIA主犯説を打出す.
83年 ニューオリンズのカルロス・マルチェロ、おとり作戦により刑務所に送り込まれる。ランスキー、最後まで自由の身のまま病死。
85.2.6 スポットライト紙が名誉を毀損したというハントの訴えに対し,マイアミ連邦地裁は無罪の評決.
88 ケネディ検死時のレントゲン写真が解禁となる.25年ぶりに写真を見た当時のレントゲン技師は「私が撮影した写真ではない」と断言.
97.8.15 フランスのルモンド紙,危機委員会の議事録を報道.ケネディ米大統領が,戦争回避に決定的な役割を果たしたとする.またカストロ首相が68年に共産党中央委員会(非公開)で行った演説内容も公開.演説の中でカストロはソ連への不信感をあらわにする.