インディアン抵抗史年表
あまりやりたくない年表だったのですが、USA年表が一杯になってかなり読みにくくなったので、仕方なしの作業です。基本的にはアメリカの独立から1890年代のウンデッド・ニー大虐殺までということになります。西部劇がらみのネタもこちらに放りこんでおきます。
「インディアン」という言葉は、先住民諸勢力をじゅっぱ一からげにした呼称であり、そこに形成されていた個々の共同体をネグレクトした概念です。インディアンの一人一人は元はシャイアンやスーやコマンチの一員であったのが、共同体が崩壊させられてしまった結果、ノッペラボーの“インディアン”にさせられてしまったのです。日本人が東洋人といわれるのと同じことです。(日本人が自らを東洋人と呼ぶのなら、それはそれで積極的な意味があるでしょうが…)
ラテンアメリカではすでに死語になっており、使いたくないのですが、歴史用語として使用することにします。
ネットの世界でも和・英取り混ぜてたくさんの年表が出ています。私の年表は流れをつかむための足がかりとして、本格的に調べたい方はそちらを当たってください。本家の年表は政治運動・労働運動・黒人解放運動が中心となります。(2009年11月)
1700年
1763年
5.07 ポンティアック戦争が始まる。デトロイトのオッタワ族の酋長ポンティアックに指導されたアルゴンクイン族の反乱,4年間にわたりつづく.イギリスは国王宣言線を設定し,アパラチア山脈以西への入植を禁止.土地を求める植民地人の激しい反発を呼ぶ.
1766年
7.24 ポンティアックのたたかい,敗北に終わる.オタワ族とイギリスがオスウィーゴ条約を結ぶ.インディアンはアパラチア山脈の東をすべて失う.
1787年
6月 憲法制定会議,北西条例を制定.領土内の人口が6万を超えた場合,合衆国内でひとつの州となることができるというもの.法律は「インディアンの同意なくして彼らの土地及び財産を収奪してはならない」と定める。
1790年
北西領土と呼ばれていたオハイオ地域で,マイアミ族の指導者リトル・タートルが反乱。近隣部族を結集しマイアミ連合を結成。マイアミ川にジョシア・ハーマー将軍の率いる米軍を迎え撃ち、これを撃退する。翌年にはワバシュ川の戦いでふたたび米軍を撃退。(マイアミは現在のインディアナ州フォート・ウェイン近郊で現在のフロリダ州マイアミとは無関係)
1794年
8.20 「フォールン・ティンバーズの戦い」(Battle of Timbers).ウィリアム・ヘンリー・ハリソン少尉(当時21歳)の率いるワシントン砦守備隊が,マイアミ連合軍を破る.マイアミ連合は95年に降伏。グリーンヴィル協定に調印しオハイオ州の大部分を米国に割譲する。ハリソンはのちに大統領となる.
1800年
1803年 ジェファーソン大統領が「われわれが手を振り降ろしさえすれば粉砕されてしまうことをインディアンは理解すべきだ」と述べ、対インディアン強硬政策を推進。1809年
7.02 オハイオ川流域のショーニー族指導者テクムセ(Tecumseh)が,イギリスの支援を受けカナダからメキシコ湾岸にいたるマイアミ、デラウェア、ワイアンドッド、クリーク、チェロキー、スー、サックスなどの諸部族の組織化に成功.本拠地ティペカヌウに先住民統一軍を創設.白人はテクムセを“シューティング・スター”と呼ぶ。
1810年
1811年
10月 インディアナ準州知事となったハリソン,テクムセの不在を狙いティペカヌウを奇襲攻撃.これを殲滅する.テクムセは北方に逃れ、英軍に加わる。
1812年 バトンルージュの戦い。ジョージア、テネシー州に住むクリーク族が、白人開拓者に抵抗。闘いは1814年まで続くが敗北。クリーク族はフロリダに追われる。
1813年
4 議会の承認を得て,ウィルキンソン将軍が600人の兵により西フロリダのモビレ湾を占領.スペイン軍守備隊は無抵抗のまま撤退.
8.30 アラバマのクリーク族が反乱。米軍の守るミムズ要塞を襲い,500人の白人を殺害.
10.05 テームス川(ヒューロンとエリー湖を結ぶ河)の闘い.ハリソンの率いるアメリカ軍が,先住民とイギリスの連合軍を破る.英軍准将として戦闘に参加したテクムセは,至近距離から狙撃されて死亡.
11.09 バトンルージュ戦争。ジャクソン将軍の率いる植民者軍がアラバマのクリーク族500人を襲撃し殺害。
12.23 アメリカ軍がクリーク族の聖地のエスカナチャハを攻略.
12.27 ジャクソン将軍,アラバマからジョージア・テネシーに進出。ホースシュー・ベンドのたたかいに勝利.クリーク族残党はスペイン領フロリダに逃れ,現地の先住民・黒人逃亡奴隷らとともにセミノール族社会を形成.
セミノール: クリーク語で「逃亡者」の意.逃亡奴隷は「ブラック・セミノール」と呼ばれる。沼沢地帯で稲を生産するなど,独自の共同体を作り上げていた.
1814年
8.14 クリーク族とアメリカ軍の間で講和条約.米国は82万ヘクタールの土地を奪取.
1816年 第一次セミノール戦争
7.27 フロリダの先住民セミノール族が逃亡奴隷や密輸商人の聖域を提供しているとし,ジャクソンとゲインズ将軍の率いる米軍部隊がスペイン領フロリダへ侵攻.宣戦布告はなく,政府や議会の承認はまったくなし.
8月 逃亡奴隷はガルシア司令官以下300の将兵,およびその家族がアパラチコーラの旧英軍要塞に立てこもり抵抗.米軍は正規軍のほかクリーク族傭兵500人を動員して攻撃.
8月 軍艦の艦砲射撃により弾薬庫が爆発.これによりアパラチコーラ守備隊のほとんどが即死.負傷したガルシアは捕らえられ処刑される.セミノール族はフロリダ州北部に追いやられる.侵攻作戦に伴い,スペイン軍駐屯所も攻撃され,イギリス人は捕らえられ処刑される.
1817年 ジョージア移住条約が締結される。チェロキー族が土地割譲を合意。
1818年
4.07 フロリダ国境守備軍司令官となったジャクソン,独断でフロリダ侵攻を開始.スペイン総督を追放しスペイン国旗を引き降ろす.さらに親セミノールの英国人二人を処刑.フロリダのセントマークスを占拠.
18年 第一次セミノール戦争終結.ジャクソンは黒人奴隷をジョージア州の「正統な持ち主に返却」する.追っ手を逃れた何人かの逃亡奴隷は,キューバに逃れ,ハバナ近郊のグアナバコアに定着.
1820年24年 陸軍省内の部局としてインディアン局が創設される。インディアンに対しては軍事的対応がすべてとなる。
24年 チェロキー族,テネシーの白人がミシシッピを横切りアーカンソーに入植しようとするのを攻撃.政府はチェロキーをアーカンサスに強制移住させる.
27年 アーカンサスに定住したチェロキー族、近代化を図り独自の憲法を制定。最高裁判所はチェロキー族の自治を否決。
28年 チェロキー族が住むアーカンサスのダロネガに金鉱山が発見される.ジャクソン将軍は金の独占を狙う。
1830年
1830年
5.28 ジャクソン政権の下で、強制移住法(Indian Removal Act)成立.インディアンの「同化」から,軍事力を背景とする強制的退去に政策転換.ミシシッピ以東のすべてのインディアンを以西のインディアン=テリトリー(オクラホマ)に移住させ,南部を植民者の地に換える.31〜38にかけ7万4千人が移住.
30年 北部の部族は移住に応じるが,部分的に農耕を営んでいた南部のインディアン五部族は,強制移住令に抗議し抵抗・反乱.Chickasaw [1832], Choctaw [1830], Seminole [1832-1842], Cherokee [1835], Creek [1832]
30年 連邦最高裁のジョン・マーシャルは先住民の土地所有権の正当性を認める.ダロネガ金鉱山の独占を狙うジャクソンはこの判決を黙殺.「必要が語る時,法もときには沈黙せねばならない」と弁明.
1832年 北西部アイオワ州を中心とするサック(ソーク)族とフォックス族,強制移住に反対し同盟し,ブラックホーク戦争を起こす.蜂起は3ヶ月にわたるが、最後はバッド・アックスの虐殺で終わりを告げる.サック族は カンザス州及びインディアン準州に追い込まれる。
1832年 セミノール族のフロリダからの退去を定めたペインズ・ライディング条約が締結される。これに抗議したオセオーラが蜂起。第二次セミノール戦争が発生。戦いは41年まで10年間にわたり続く。
1835年
3 米政府とセミノール族とのあいだにペインズ・ランディング条約が締結される。セミノール族は、3年以内にフロリダから退去するよう命令される。(このような強制は“条約”の名に値しない)。これを拒んだオセオラは一族を率いて立ち上がる。
3月 フランシス・デード少佐の率いる二個小隊が,オセオラの待ち伏せ攻撃を受け虐殺される.オセオラは7年間にわたり抵抗を続ける.
12月 オセオラ、キング砦とウィクスラーチをあいついで攻撃。そのごエエヴァグレーズの沼沢地に撤退し抵抗を継続する。
1836年 テキサスがメキシコとの戦いに勝利。ヒューストンが,テキサス共和国大統領となる.2万5000人のインディアンが州政府の統治下に置かれる。
1837年
12.25 オキーチョビー湖東岸の戦い.ザカリー・テイラー大佐が千名の部隊を率いセミノール族を殲滅.指導者オセオーラは白旗を掲げ降伏.指導者を失ったセミノール族の抵抗は急速に弱まる。テイラーはその後さらに二年にわたり掃討作戦を続ける.
37年 メキシコ当局、アパッチ族の頭皮に懸賞金をかける。賞金稼ぎがアパッチを大虐殺。Mimbrenosグループの指導者Mangas Coloradasはアパッチの抵抗を組織し、頭皮剥ぎの無法者を駆逐。
1838年
1.30 オセオラ、モルトリのマリオン砦で獄死。
10月 強制移住法に最後まで抵抗したジョージア州のチェロキー族,オクラホマへの転住命令を受け入れる.これによりアパラチア山脈からミシシッピ川までのあいだはほぼ完全に白人の物となる。
10月 チェロキー族は千3百キロに及ぶ「涙の街道」を激寒のなか5ヶ月かけて移動.この間に寒さと飢え、病気により1万2千人のうち,4千(一説に8千人以上)が命を失う.
1840年
1841年 白人植民者がサンタフェトレイルを通じテキサスからニューメキシコ方面に進出。これに抵抗するカイオワ族は幌馬車隊を襲撃。
1842年
8.14 第二次セミノール戦争が終結。カルサ族はこの闘いで絶滅.3824人の先住民・黒人がアーカンソーに移住させられる.一部はひそかにキューバ゙へ移住したといわれる.米軍の延べ動員数は20万人におよび、兵士1500人が傷病を負い,2千万ドルの戦費を費やす.
1845年 テキサス共和国併合。南西部のインディアン2万5千人が米統治下に入る。コマンチ族1万5千人とアパッチ族は米国への統合を拒否し、10年間にわたりゲリラ戦を展開する。
1848年
1.24 カリフォルニア州サクラメントの近郊サッター・クリークの製材所附近で金を発見,ゴールドラッシュを迎える.
1850年
1851年
51年 合衆国とスー、シャイアン、アラパホなどの有力部族とが「ララミー条約」を結ぶ。西部に向う入植者を襲うインディアンに手をやいた政府は、多額の金を渡すことで輸送路の安全を約束させた。のちに条約は白人側に都合良く解釈・改定される。
51年 米国領となったニューメキシコでゴールドラッシュ。鉱山での虐待に抗議し、アパッチの指導者Mangas Coloradasがふたたび蜂起する。マンガスは12年にわたり抵抗運動を続けるが、63年に米軍に捕らえられ殺される。
1854年
54年 グラットン中尉の率いる騎兵隊30人がインディアン居留地に砲弾を撃ち込む。これに抗議するインディアンは騎兵隊全員を殺害。
54年 白人猟師によるバッファローの乱獲が始まる。15年ほどでバッファローはほぼ絶滅。インディアンたちは土地と引き換えで得た金で食料を購入するが、悪徳白人商人により深刻な飢餓がもたらされる。
54年 白人の大平原への進出に対抗し、コマンチ、カイオワ・アパッチ、クロウ、シャイアン、アラパホ、オセージ、ソーク、フォックス族が同盟。
1855年
55年 アイダホに住むオウヒの率いるヤキマ族が、ワシントン州境で蜂起。白人入植者を襲う。
55年 第三次セミノール戦争が始まる.小規模な抵抗が三年にわたり続く.
1860年
1860年
61年 ネバダ州ピラミッド・レイクの戦い。ヌマガの率いるパイユート族が白人居住地を襲撃。2度の戦闘のあと鎮圧され保留地へ移動。
1861年
4.12 南北戦争が勃発する。
61年 シャイアン族と白人がワイス砦で条約を締結。カンサス、コロラド東部における伝統的なバッファロー狩猟地を白人に明け渡す。
61年 アリゾナ・アパッチのチリカフア(Chiricahua)グループが米軍に対し蜂起。指導者のコチセ(Cochise)は巧みな戦術で米軍を翻弄。10年にわたり抵抗を続ける。
1862年
7 議会,ユニオン・パシフィック鉄道とセントラル・パシフィック鉄道に対し大陸横断鉄道の建設認可.
8.18 サンティ・ダコタの叛乱が発生。ミネソタ・スー族のサンティー・ダコタ部族が、リトル・クロウ、マンケート、ビッグ・イーグルらに率いられ蜂起。白人農場、商人交易所を襲撃。23人を殺害、女性10人を捕虜とする。さらにリッジレイ砦を襲撃し、兵士数十人を殺害。
ダコタ族: ダコタ族はスー族の一つ。ミシシッピ流域で生活していた。銃を手に入れた周辺部族に圧迫されて西に移動。サンティー・ダコタ族がミネソタ周辺、テトン・ダコタ族がそれより西方に分布する。いずれの部族も乱獲によるバッファローの激減で飢餓に苦しんでいた。
8.20 リトル・クロウ率いる700人のダコタ族は再びリッジレイ砦の襲撃。砦からの砲撃により100人の死者を出して退却。その後、近隣の白人入植者を襲い1ヶ月のあいだに女子供を含む400人(一説に700人)を殺害する。
9月初め ミネソタ初代知事ヘンリー・H・シブリー将軍が、ミネソタ義勇部隊1,500名を組織し救援に向かう。
9.22 州政府義勇軍がダコタ族を打ち破る。その後の掃討作戦で2,000人を逮捕、306人に絞首刑を宣告する。リトル・クローは国境を越えカナダに逃亡。
12.26 リンカーン大統領の調停で判決の大部分が無効とされるが、36人が絞首刑を執行される。リトル・クロウは翌年ひそかに舞い戻るが、白人により射殺される。
62年 自営農地法(ホームステッド・アクト)制定.5ヶ年間定住し開拓に従事した青年男子に対して160エーカーの公有地を無償で払い下げることを定める.西部の開拓が一気に進展.西部農民はこの後,北軍支持に回る.
62年 J・E・カールトン将軍がナヴァホ族にニューメキシコの居留地へ強制移住を命令。ベアボンチートの率いる部隊がこれに抵抗し反乱を起こす。
62年 アパッチ族のゲリラ活動が活発化する。マンガス、コロラド、コーチーズらの指導者が10年間にわたり服従を拒否。クルック将軍指揮下の騎兵隊抗争を続ける。
1863年
1.17 ミンブレノ・アパッチ族の酋長マンガス・コロラドスがアメリカ軍により逮捕される。
7.01 ゲティスバーグの闘い。北軍が圧勝し南北戦争は終結に向かう。
63年 ネバダ州で、ベア・ハンターの率いるショショーニ族が白人入植者を襲撃。P・E・コナー大佐指揮の義勇兵は、200人以上を虐殺し報復。
63年 ワイオミング北部のパウダー川流域に金鉱が発見される。この地域はララミー条約でバッファロー狩猟地として保障されていたが、米軍はこれを無視し、オグララ族居留地の中心部ビッグホーン山脈の麓にフィル・カーニー砦を建設。
1864年
11.29 コロラド高原のサンド・クリークで、J・シヴィントン大佐指揮のコロラド義勇第三騎兵隊700人が、シャイアン族の野営地を攻撃。無抵抗のシャイアン族約200名が虐殺される。このとき停戦交渉が進行中であり、シャイアン族は無抵抗であった。この
この事件は映画「ソルジャー・ブルー」のモデルとなる。報告によると、死者の内訳は、女・子どもが110人、男が53人とされる。死体は頭皮が剥ぎ取られ、指輪を奪うために指を切断し、陰嚢は「小物入れにするため」切り取られた。
12月 シビントンの部隊がデンバーに帰還。当初大歓迎を受けたが、真相が明らかになると非難が集中した。
64年 ナヴァホ族が降伏。約560km離れた居住区に移動。この「ロング・ウォーク」の間に6千名が死亡。
1865年
1.29 サンド・クリークでの先住民への無残な殺戮のニュースが全国に報道され、軍を指揮したチヴィトンに非難が集中する。
3月 連邦議会による実態調査の聴聞会。シヴィントンは政治生命を断たれるが、事前に退役していたため軍法会議による懲罰は免れる。
4.09 南北戦争が終結。直後にリンカーン大統領が暗殺される。
9月 コロラドのインディアン、ビーチャー島の砦を攻撃。G・A・フォーサイス将軍率いるコロラド民兵部隊を包囲するが、9日間の戦闘のあと敗退。
65年 サンドクリークの虐殺を逃れたシャイアン族のブラック・ケトル酋長、リトル・アーカンソーで停戦に応じる。
65年 ダコタ州西部に住むオグララ・スー族、ブラケット橋で白人を待ち伏せ攻撃。第一次スー戦争開始.レッドクラウドの率いる反乱軍は勝利を重ねる。
1866年
12.21 レッド・クラウドの率いるオグララ・ダコタ族(ワイオミング・スー族?)にシャイアン、アラパホの一部が加わり、フィル・カーニー砦の建設中の軍兵士を待ち伏せ攻撃。ウイリアム・フェッターマン大佐の指揮する81人の部隊を殲滅し、全員を殺害する。
66年 オレゴン州の北パイユート族、パウリナに率いられ白人入植者を襲撃。G・クルック大佐の救援部隊と戦闘となる。数回にわたる戦闘の末、パウリナが戦死し降伏。
1867年
8月 ワイオミングのフィルカーニー砦近郊で、森林伐採中の白人入植者と護衛部隊がラコタ・スー族の襲撃を受ける。ワゴンボックスの戦いと呼ばれる。(66年の記載との異同は?)
8月 W・S・ハンコック将軍、「蜂起の準備をした」との嫌疑で、カンザス州ポーニー・フォークのシャイアン・ラコタ族の集落を急襲する。計画を事前に知ったインディアンたちは脱出。米軍は集落に火を放ち引き上げる。
67年 南部平原諸部族と合衆国政府との間で、敵対関係の解消を目指すメディスン・ロッジ・クリーク条約が締結される。
1868年
11月 スー族のレッド・クラウド、政府とのあいだに和平条約。ブラックヒルズとプラット川の統治権を確保する。米軍はフィル・カーニー砦を放棄し、ボウズマン街道は閉鎖される。
11.27 ジョージ・アームストロング・カスター率いる第7騎兵隊、ワシタでシャイアン族数百人を無差別に虐殺する。ワシタはオクラホマ州のワシタ河河畔。ブラック・ケトルの率いる南シャイアン族の残党が野営していた。カスターはこの集団に対し無警告で攻撃をかけた。カスターはインディアンから「長髪の女殺し」と呼ばれるようになる。
69年 コロラド州サミットスプリングで騎兵隊がインディアンを襲撃。
1870年
1870年 ユージン・M・ベイカー少佐指揮の部隊が、ブラックフォートのピエガン族集落を襲い、女子供ら173名を虐殺。
71年 テキサス州ソルト・クレーク・プレーリーで騎兵隊がインディアンを襲撃。
1872年
72年 テキサス州マクラレン・クリークで騎兵隊がインディアンを襲撃。
72年 モドック戦争が発生。北カルフォルニアで居留地への移住を拒否したモドック族が反乱。米国軍に抵抗するが鎮圧され、多くが処刑された。
72年 10年間にわたり抵抗を続けた、アリゾナ・アパッチのコチセと米軍との間に和解成立。チリカフア族の現生活地が新たに居留地に指定され、そのまま生活を続けることを許される。この居留地はコチセの死後没収される。
1873年
73年 南北戦争後の不況が全国を襲う。失業者は西部の鉱山を目指し殺到。
73年 軍司令官のシャーマン将軍、竜騎兵と呼ばれていた平原駐屯軍を、騎兵隊として強化し恒久化する。南北戦争後は10個まで拡大され、西部の平原及び南西部族平定戦争に投入される。
73年末 サウス・ダコタのブラック・ヒルズで金鉱脈が発見される。第7騎兵隊のカスターを司令官とする探検隊が組織される。一帯はOglala スー族(Sioux)の居留地でバッファロー狩猟地だった。スー族はこの山を聖なる山(パ・サパ)と呼び、信仰の対象としていた。
1874年
6.27 クワハディー・コマンチ族の青年指導者クワナ・パーカー、コマンチ族、カイオワ族、南部シャイアン族の連合軍を率いて反乱。テキサスのアドービ・ウォールズ交易所を襲撃する。半年後に降伏。
7.20 カイオワ族ローンウルフがコマンチ族と手を組みパロ・ デュ砦に立て篭もる。ウィリアムシャーマン将軍は総力戦を宣言。
10.24 カイオワ族のローンウルフ、サタンタ、ビッグ・ツリーら、クアナ・パーカー率いるコマンチ族と連合し、テキサス北西部で白人の開拓地や牧場を襲撃。レッドリバーの戦いで騎兵隊の前に敗れ降伏する。
10.24 サタンタが降伏。パロ・ デュ砦の戦いが終わる。
74年 カスター中佐指揮の調査隊、地理学者、カスター専属の新聞記者など総勢1,200人を引きつれブラック・ヒルズに入る。カスターは、この地域を金鉱地としても酪農業地域としても最適と評価。この報道に釣られ多くの白人が入植する。
1875年
1月 米政府、スー族に対しブラックヒルズの買取または賃貸を提案するが、価格面での折り合いがつかず決裂。
1月 シャーマン将軍は平原部族に76年1月末までに保留地に入るように命令。応じないものは合衆国に敵対する者とし、武力で制すると通告する。
3月 クルック中将の率いる相当部隊約千人がワイオミングに出動。クレイジー・ホースはゲリラ戦を挑み撤退を強いる。
5月 フェッターマン砦で体制を立て直したクルックの部隊がふたたび出発。
5月頃 先住民戦闘部隊はローズ・バット北方100キロ、リトル・ビックホーン川沿いのティーピーに駐屯する。連邦政府の報告では北部シャイアン族120人、ハンクパパ・ダコタ族(サンティー・ダコタ族を含む)260人、オグララ・ダコタ族240人、ミニコウンジュウ族150人、サン・アーク族110人、その他のダコタ族120人、合計一千人が結集する。
6.02 クワハディー・コマンチ族が降伏。多くのインディアンがフロリダ刑務所に投獄される。
6.16 クルックの部隊、モンタナ州のタング河畔のローズ・バットでクレイジー・ホースの待ち伏せ攻撃を受ける。6時間の戦闘で部隊は重大な損傷を受け、後退を余儀なくされる。
6.25 カスターの部隊210人がティーピーに突入。待ち構えたインディアンの餌食となる。民間人の新聞記者、クロウ族の斥候隊を含め全員が殺害される。
1876年
1月 ウィリアム・シャーマンが「総力戦宣言」を発表。移住に応じないインディアンに対する大規模な掃討作戦を宣言する。
76年 クレージー・ホースがシャイアン族の女性と結婚。当局の立ち退き命令を拒否しスー族とシャイアン族連合軍のリーダーとなる。
2月 第二次スー戦争が始まる。米政府、軍による武力行使を決定。インディアンの冬季狩猟を条約違反と見なし討伐軍を派遣。シッティング・ブルやクレージー・ホースは3千名におよぶ大規模な部族連合軍を編成し待ち構える。
3.17 連合軍、パウダー・リバーの戦いで騎兵隊を撃退する。
6.17 クレージー・ホース、ジョージ・クルック将軍の軍とローズ・バッド川での遭遇戦。再び勝利する。
6.25 クレージー・ホース、シッティング・ブルの率いるシャイアン族の部隊と合流。スー・シャイアン連合軍約2500名がコロラド州リトル・ビッグホーン河畔で、ジョージ・アームストロング・カスター将軍指揮下の第7騎兵隊主力を待ち伏せ。
6.26 リトル・ビッグホーンの戦い、インディアン連合軍の勝利に終わる。カスターをふくむ264名の第7騎兵隊主力が全滅.
8.02 ワイルド・ビル・ヒコック(Hickok,JamesButler)が背後から撃たれて死ぬ.
76年 アリゾナ・アパッチのチリカフア族保留地が廃止され、ニューメキシコの不毛の地サン・カルロスに移転を迫られる。ジェロニモは一団の支持者とともにメキシコに逃れ反乱部隊を組織するが、まもなく敗北。
1877年
1月 ネルソン・マイルス将軍の率いる討伐軍が、クレージーホースのグループ約千名を包囲。クレージーホースは4ヶ月にわたり抵抗を続ける。
5.06 クレージー・ホース率いるスー族が降伏する。シッティング・ブルは手勢を率いカナダへ逃亡。
9.07 クレージー・ホース、獄中で「逃亡しようとして」殺害される。
10.05 アイダホでジョーゼフ酋長に率いられたネズパース族(オレゴンのネ・ペルス族?)が反乱。4ヶ月にわたり米軍の追跡をかわし逃走し続けたが、餓えと疲労の為カナダ国境近くで降伏。
77年 合衆国政府はスー族に交渉使節を派遣し@ブラックヒルズ他多くの土地権利放棄、A北部狩猟権放棄、B交換条件として生活保証、についての条約を締結。平原インディアンの抵抗は終焉を迎える。
1878年
3.27 ミネソタのダコタ族反乱の指導者リトル・ウルフが降伏。
78年 バノック族長バッファロー・ホーンとパイユート族長エガン、アイダホ・オレゴン州境付近で白人入植者を襲撃。O・ハワード将軍指揮下の部隊により鎮圧される。
1879年
79年 アイダホのショショーニ族とバノック族、白人入植地を襲撃。シープ・イーターの戦いと呼ばれる。E・S・ファロー中尉指揮の部隊により制圧される。
79年 コロラド州で、鉛鉱山が発見される。白人鉱夫が保留地に流入。ユト族長ダグラスに率いられた一団が蜂起し監督官N・C・ミーカー他を殺害する。
1880年
1880年
80年 全ての部族が保留地へ強制移住させられる。居留地内の土地は劣悪で、不安定な気候、劣悪な給水事情がインディアンを苦しめる。
80年 先住民のあいだにゴーストダンスの流行が始まる。白人の滅亡と絶滅に瀕したバッファローや死んだインディアンたちの復活を祈り、老若男女が踊り続けた。
1881年
7.14 ビリー・ザ・キッドが保安官に射殺される.21歳
7.19 カナダのサスカチュワンに逃亡していたシッティング・ブルがノース・ダコタのバフォード砦に出頭。
10.26 アリゾナ州のOK牧場の決闘で,保安官ワイアット・アープ(33)が,ドク・ホリデー(30)の助けでクラントン一味を破る.
81年 ジェロニモ、Cochiseの息子とふたたび反乱を組織。アリゾナとソノーラ(メキシコ)で襲撃を繰り返す。
1882年
4.03 ジェシー・ジェームス,仲間のロバート・フォードに射殺される.34歳.
8月 アパッチ族、南部アリゾナ・ニューメキシコの居留地に押し込まれる。これを嫌うジェロニモ一味は居留地を脱出しメキシコに逃亡。米政府に反旗を翻す。
9月 ジェロニモ、ジョージ・クルックの軍に降伏。居留地に戻される。
82年 インディアン人権協会が設立される。
1885年
5月 ジェロニモ、再度逃亡を図る。
1886年
3.27 ジェロニモの率いるアパッチ族ゲリラが降伏.直後部下30人余りを連れて再逃亡.クルックの後継者ネルソン・アップルトン・マイルス将軍が捜索にあたる。
9.04 マイルス指揮下の騎兵隊、アリゾナ州のメキシコ国境付近スケルトン渓谷でジェロニモを逮捕。その後ジェロニモはフロリダ、アラバマ、オクラホマの軍刑務所を転転とする。
1887年
87年 連邦政府、ドーズ法(一般土地割当法)を制定。インディアン社会に土地私有制度を導入し、これまでの狩猟中心の生活から農耕社会への転換を促すことを目的として制定される。これまで各部族の共有財産として扱われていた土地を各人に分割所有させ、成人男子への80エーカーの土地分与をおこなう。同時にこれまで非課税であった居留地に税が課されることになる。
1890年
1890年
12.15 シッティング・ブルに対し、暴動を扇動したとして逮捕状が発行される。シッティング・ブルは逮捕を拒否し射殺される。
12.29 ウーンデッド・ニーの大虐殺。サウスダコタ州パイン・リッジ保留地内のウーンデッド・ニーにおいてゴースト・ダンスが高じ興奮状態のインディアンと彼らを武装解除しようとした兵士が衝突。ビッグ・フット酋長以下のラコタ・スー族の女性や子供を含む約300名が虐殺される。
90年 合衆国政府はこの国におけるフロンティアは消滅した≠ニ国勢報告書の中で宣言。
1898年
98年 米議会、ブラックヒルズの代償として9000万ドルをスー族に支払う決定。
1934年 ドーズ法廃止。それまでの50年間で、インディアンの所有地は1億4千万エーカーから5千万エーカーに減少。
1934年 インディアン再組織法(Indian Reorganization Act) が制定される。部族による土地の共同所有及び管理、インディアン独自の文化の保存、育成をはかる。@土地取引に対して原則禁止、A政府資金を貸与、B大幅な自治権、を骨子とする。
1924年 インディアン市民権法。全てのインディアンに米国の市民権が付与される。1953年 連邦議会、インディアンに対する「管理終結」の決議。インディアンを居留地から都市へ移住させることを目的としたリロケーション政策が実行される。
1975年 連邦政府、管理終結政策を改め、インディアン自決及び教育援助法を制定。