中南米年表 その1

1999.9 この年表は1555年までを扱ったものです.それ以降の事項については中南米年表 その2を御覧ください

先史時代から  コロンブスのアメリカ発見  コロンブスの後継者たち  コルテスのメキシコ征服  ラスカサスの原住民擁護

先史時代からヨーロッパ人の侵入まで

 

B.C30,00 東北アジアの遊牧民が、当時陸続きだったベーリング海峡をわたり北米大陸に進出。

B.C10,000 第二波のアジアからの進出。ベーリング海峡を横断して、最初のグループに加わったとされる。このグループが南米大陸にまで進出した。

B.C5000~3000 ペルー海岸地帯Moxeke, Jequetepeque, Lurin and Casma川の谷に米州最古の文明.十階建ての高さの段階状ピラミッドや多色の帯状装飾をともなう寺院(1980年代に発見).

B.C1200 オルメカ文明がベラクルス南方一帯に展開.

B.C1000~500 アラワク族がベネズエラからトリニダドを経由して大アンティル諸島に進出.

B.C850~200 アンデス東麓にチャビン・デ・ウアンタル文明.高度な石のアーキテクチャ,石の彫刻を残す.

B.C600~450 パラクスとそれに続くナスカ文明.

B.C500 メキシコ南部オアハカ渓谷モンテ・アルバンにサポテカ文明が起こる.

B.C400 オルメカ文明,衰退期にはいる.

B.C400 マヤのエル・ミラドール,ナクベ,カラクムルなどに先古典期文明が起こる.

A.D 100 メキシコ盆地にテオティワカン文明起こる.メキシコ中部における古典時代の開始.

A.D 600~700 テオティワカン文明,北方民族の攻撃を受け衰退期にはいる.

A.D 600 マヤ文明,古典期後期の開始.現ホンジュラスのコパンを中心とする.

AD 900 古典期マヤ文明,衰退期にはいる.

AD 950 現メキシコシティーの北西トゥーラにトルテカ族文明発祥.

A.D 986 ノルマン人(バイキング)ビャルニ・ヘルユルフソ(Herjurufson),北米大陸に漂着とされる.その後同じバイキングのレイフ・エリクソンが北米沿岸を探索.ニューイングランド付近をヴィンランドと命名.

1200 トルテカ文明は衰退期にはいる.中興高原ではチチメカ人と呼ばれる北方のナワ語族の進出が相次ぐ.

1325 アステカ族,テノチティトランに定着.

1400 アンデス中央部にインカ帝国(タワンティスユ帝国)が興隆.

1420 アステカ族,テスココ族とトラコパン族とのあいだに三国同盟。その後、武力で周辺諸国を制圧し,メキシコ湾岸にまで達する巨大な帝国に成長.

1440 インカ帝国がクスコから北方に向かい拡張をはじめる。

1476 インカ帝国のパチャクティ・インカ、チムー王国を打倒しエクアドル南部を支配下におさめる。

1487 テノチティトランの大宮殿が完成。

1492年時点で,原住民は数百の言葉を話す部族に分かれていた.主なものは以下の通り.

1.ナウア圏:中部メキシコからニカラグアまで
2.マヤ圏: ユカタン半島とグアテマラ
3.チブチャ圏: 中米,コロンビア西部,エクアドル北西部
4.ケチュア圏: エクアドル南部からチリ北部にかけてのアンデス山地
5.アイマラ圏: ボリビア高地
6.アラウカパタゴニア圏:チリ南部,アルゼンチン南部平原地帯
  a. マプチェ族:チリ中部渓谷
  b. ピンチュエ族:マンクペ北部,現在は絶滅
7.グアラニ族とトゥピ族:ラプラタ北部低地,およびブラジル
8.カリブ族とアラワク族:ベネズエラ,ガイアナの一部,ブラジル,西インド諸島
  a. カリブ族:クイクラ,カラパロ,ミギヤペイ(ハガミ,ワギフィティ村落共同体から分かれたもの)
  b. アラワク族:ワウラ,メヒナク,ヤワリピト
9.トゥルマイ:かつていくつかの共同体で使われた言語.現在はブラジルのポスタ・レオナルドにわずかに残る.

コロンブスのアメリカ発見

大航海時代の年代記は日付もあいまいで驚くほど誤りが多い。いろいろな人があまり原典に依拠せずに書き飛ばした記事が多いからだろう。ここでは岩波書店の「大航海時代叢書」の別巻に在る年表を基準として整序している。

1492年

4.17 クリストファ・コロンブスとカトリック両王のあいだにサンタフェ協定.コロンブスは大洋提督に任命され,発見された陸地における副王,総督の地位を獲得.発見された利益の十分の一の取得権を得る.

8.03 コロンブスのひきいるサンタ・マリア,ニーニャ,ピンタの三隻,スペインのパロス港を出発.町の有力者ピンソン家が全面支援.一族のマルティン・ヤニェス・ピンソンはニーニャ号の船長を務める.

9.06 コロンブスの船団,カナリア諸島を出港し,西へ向かう.

10.12 コロンブス,バハマ諸島のひとつに上陸.原住民ルカヤン(Lucayan)族がグアナハニと呼んでいたこの地をサンサルバドルと命名.従来ワットリング島がそれとされ,サンサルバドル島と改称された.しかし最近この説は否定的である.

10.28 コロンブス,キューバ島北岸(バリアイ湾)に上陸.その前に少なくとも五つの島を歴訪.彼の名づけた順にいえば,サンサルバドル,サンタマリア・デラ・コンセプシオン,フェルナンディナ,イサベラ,アレーナ諸島.アレーナが現在のラッグド諸島であることは間違いないが,他の島については議論が分かれている.

12.06 コロンブス,キューバからウィンドワード海峡を横切り,原住民が母なる大地(キスケーヤ)とよぶ島に上陸,上陸地点をサン・ニコラス岬(モル・サンニコラ),この島をエスパニョーラと命名.サンニコラスは,その日を記念日とする聖人の名にちなんだもの.その後島の北岸を東行.

12.22 コロンブス,アクル湾(現カパイシアン近郊)に達する.現地民約千名の歓迎を受ける.現地のグアカナガリ首長との友好関係を作る.島の西部にシバオという砂金の産地があると聞き、ジパングの訛りと解釈したという。

12.24 グアカナガリの招待を受けたコロンブスの艦隊,カラコル湾に移動.旗艦サンタマリア号が,移動中に珊瑚礁に座礁し沈没.カラコル湾は,カプアイチアンの東方にあたり,現在のリモナーデ・ボール・ド・メルあるいはエン・バス・サリーヌとされる.

12.25 コロンブスはこれを神の啓示と受けとめ,現地にナビダー(クリスマス)砦を作る.サンタマリア号の残骸が利用される.

1493年

1.04 コロンブス,ニーニャ号に乗り帰国の途につく.ナビダー砦には,ディエゴ・デ・アラーナを指揮官に,サンタマリア号乗組員39人が残留.

1.14 ニーニャ号,ドミニカ北岸プエルト・プラタを進む.サマナ半島からサマナ湾へ進み,フレーチャス(矢)湾ではシグアヨ(Ciguayos)族と戦闘を交える.

3.15 コロンブス,リスボンに到着.

3.31 コロンブス,7名のインディオを引き連れリスボンを経てパロス港に帰港.

5.04 ポルトガル,コロンブスの西インド到達の報を受けローマ法王に提訴.インディアスはアルカソバス協定にもとづき自国の領土に属すると主張.スペインは発見地が自国に属すると主張.スペインのボルハ(ボルジア)家出身のローマ法王アレクサンデル6世は,キリスト教の布教と引き換えに,スペインが発見した陸地と島々をスペインに永久に贈与し,譲渡するとする「贈与(インテル・ケテラ)大勅書」を発布.アゾレス諸島とベルデ岬諸島西方100レグアの子午線をスペインとの境界線と定める.

9 法王,「ドゥドゥム・シクイエム」教書を発布.スペインにインドへの航海権を認めるなど,全面的にスペインを支持する立場を明らかにする.

9.25 コロンブス,17隻千5百名の船団をひきいカディスを出港.第2回航海開始.コロンブスはこのとき,砂糖ときゅうりをサントドミンゴに持ち込む.

第二次航海の同行者: ロドリゴ・バスティダスらが遠征に参加。ラスカサスの父も参加.

11.3 コロンブス,小アンティル諸島のドミニカ島に到着.その後グアダルーペ,サンタマリア,ネヴィス,セントキッツ,サント・バルテレミ,プエルトリコと島づたいに西進.

11.22 プエルト・リコ(原住民はボリケンと呼ぶ)を経由し,エスパニョーラに至る.ナビダー砦が焼失しているのを発見.現地民は残留部隊が黄金をもとめ,シバオ方面に出ていったと証言.

1494年

1.02 コロンブス,ナビダーから東進し,現プエルトプラタに上陸.イサベリアを建設.この間に残留部隊が全滅したことを知る.

残留部隊は黄金をもとめ内陸部シグアヨスに侵入.Maguana族と遭遇.強奪と強姦を繰り返した.これに怒ったカオナボ首長が反乱を起こし,スペイン人全員を殺害したという.金鉱があったのは北部山脈と中部山脈のあいだを走るシバオ川の上流,現在のベガ・レアル付近という.

1.20 アロンソ・デ・オヘーダ(Hojeda)の指揮する探検隊,シバオ川流域に進出し黄金を持ち帰る.

3 コロンブスがみずから率いる探検隊,シバオ川をさかのぼり1ヶ月にわたり奥地を探索.途中サント・トマス(などいくつかの駐屯所を作る.

3 カオナボ首長の本拠地がサントトマス要塞の近くにあり,そこが「黄金の地」ベガ・レアルであるとの噂が入る.コロンブスはサントトマス要塞の司令官ペドロ・マルガリート(Margarite)にカオナボ逮捕を命じる.

4 コロンブス,マルガリートが指示に従わなかったため,オヘダを隊長とする探検隊を送る.オヘーダは奸計によりカオナボ首長をとらえ幽閉.妻のアナカオナはマグアナを去り,兄弟のBehecchioが首長を務めるXaraguaに戻る.サナグアは現在のハイチ,アルティボニートのあたりとされる.

オヘダは9人の部下を引き連れシバオ川をさかのぼる.オヘダはト中Yaque川河畔では,現地首長の耳を殺ぎ落とすなどの暴行を加え,原住民から掠奪を繰り返した.カオナボの本拠地ニティ(Niti)に達したオヘダは,贈り物を捧げ,親愛の言葉を連ね,イサベリアにおける平和条約の締結を提案した.信用をかちとるために馬に同乗させた.儀式用の腕輪と称してカオナボの腕に手錠をかけた.これで一丁上がりである.

4.24 コロンブス,弟のディエゴに指揮を任せキューバ探検に出発.キューバ島南岸を西進.ジャマイカに上陸.コロンブスは,キューバをジパングと考え、さらに探検するが成果なし.(一説には中国と考えていたとされる)

6.07 ポルトガル王ジョアン2世はスペインの新大陸独占を認めた法王教書に不満.スペイン両王とスペイン北西部の町トルデシーリアスで会談.スペイン・ポルトガル間に条約締結.アゾレス諸島およびケープ諸島西方370レグア(西経50度)に線を引き,以東をポルトガルへ以西をスペインへ分割することで合意.

8 コロンブスのもう一人の弟,バルトロメが率いる補給船団,イサベリアに到着.現地で掠奪行為を欲しいままにしていたマルガリートは,ディエゴの命令に対し反乱.補給船を奪うとスペインに帰還.

9.29 コロンブス,キューバ探検を断念.ハマイカ南岸を経由してエスパニョーラ島南岸に帰還したあと,5ヶ月ぶりにイサベリアへ帰還.

10 カオナボの弟マニカトー(Manicatex)が,スペインに対して反乱.カオナボを救おうとタイノ族七千が決起するが,圧倒的な火力の前に惨敗.ヴェガ・レアルの平原は血の海となる.この戦争でタイノ族千5百人が捕虜となる.(この時オヘダの部隊は大砲数門,火縄銃200丁,猟犬20匹を保有していた)

1495年

2 コロンブス,捕虜のうち5百人をスペインに帰る船団に積み込む.探検の成果を示すことが目的だったといわれる.5百名のうち2百名が航海中に死亡,残りはセビリアで奴隷として売りに出されるが,まもなく,ほとんどが死亡.

2 イサベル女王はただちにインディオ奴隷の売買を中止させ,「インディオはみずからの自由な臣下である」と宣言.女王の提訴を受けた聴聞院は,先住民の「販売」を禁止する決定. ただし食人習慣のあるカリブ族に対しては「そうした非人間的な習慣をやめさせるため」奴隷化をゆるす.

3 イサベリアで囚われの身となっていたインディオ首長のグアティグアナ,脱走に成功.ベガ・レアルで兵を組織,プエルト・デ・ロス・イダルゴスに進出しスペイン兵に立ち向かう.コロンブス,オヘダらは銃と馬,犬の攻撃により抵抗を蹴散らす(サント・セーロの闘い).

10 故国に戻ったマルガリートらはコロンブスを誹謗.この頃多くの植民者が病死もしくは帰国したため,イサベリアのスペイン人は630人に減少.スペイン政府は元植民者ホアン・デ・アグアトを,行政視察官としてエスパニョーラ島に派遣.アグアドは職権を利用して不満分子の反発を煽る.先住民による抵抗運動も頂点に達する.この頃から先住民人口は急減を始め20〜30万の人口が,20年で5万足らずとなり,30年でほぼ絶滅する.

95  ポルトガルのペロ・デ・バルセロスとジョアン・フェルナンデス・ラブラドル,グリーンランドを発見.

95 残された先住民は恭順する.金を産出しないサラグアでは綿とキャッサバを貢納.マグアナのグアリオネ(Guarionex)首長はベガ・レアル金山での採掘活動への住民使役に従う.

1496年

3.10 コロンブス,統治の実情を政府に説明するためスペイン帰国.弟のバルトロメは総督代行に指名され,島の南岸にあらたな基地を建設するよう指示される.

6.11 コロンブス,第二次探検を終えスペインに到着.航海に同行してスペイン人225名が帰国.カオナボはじめ原住民千五百人も奴隷として本国に連行される.カオナボの乗った船はエスパニョーラを出てまもなく沈没.

8 バルトロメ,島南部に回遊.東岸にボナオ砦を,南岸のオサマ河口東岸にサント・ドミンゴを建設.

96年 スペイン,ポルトガルからカナリア諸島を奪取.新大陸への中継基地となる.先住民グアンチェ族(白人)は,その後一世紀にわたりスペイン人に抵抗.

1497年

5.2 ブリストル(イギリス)のマタイ号,当地在住のベネチア人ジョバンニ・カボットを船長としてアメリカに向け出発.

5.10 フアン・ディアス・デ・ソリスの船隊,カディス港を出発.東洋への出口を求め,コスタリカ付近に到達.北上してチェサピーク湾にいたる.アメリゴ・ベスプッチ(アルベリクス・ヴェスプシウス)が同行(この探検の実在について議論あり).

6.24 カボットの船団,アメリカ北東部海岸(ブレトン岬?)に上陸.ニューファウンドランド沖にタラの大漁場を発見.

8.06 キャボット,ニューファウンドランド探検を終え帰国.

1498年

2月 セバスティアン・カボット,北米から先住民奴隷3人を連れ帰る.

5月 コロンブスがイサベリアのアルカルデ・マヨール(市長)に指名したフランシスコ・ロルダンが反逆.スペイン人不満派を味方につけバルトロメ司令官と対立.バルトロメに追われたロルダンは,サラグアにこもり抵抗を続ける.

5月 マグア地方のグァリオネ首長と,サラグアのベエチオ首長の率いるシガヨ族がロルダンの下に結集.グアリオネはロルダンの支援を受け,コンセプシオン砦を攻撃.

5月 スペイン人追討隊400人,マグアで夜襲をかけ,グァリオネと14人の指導者を逮捕.

グアリオネの抵抗 グアリオネは恩赦を受けたあと,各地を転々とし,スペインへの抵抗を続ける.最初はベガレアル,そこから北へ向かい,山間部を支配地とするMayobanex首長の保護を受ける.バルトロメはグアリオネを捕らえ.妻を目前でレイプした後処刑.

5.30 コロンブス,カディス近郊のベティス河口(グアダルキビル河?)サンルーカル・デ・バラメダ港から6隻の船をひきい第三次航海に出発.船団の乗員が集まらないため,囚人に恩赦を与えて乗組員とする.ラスカサス,第三次航海に参加し新世界に渡る.一行には後のエクアドル征服者ベナルカサルも加わる.

5 バスコ・ダ・ガマ,希望峯経由でインドのカリカットに到達.99年9月に帰国.

5 カボット,二度目の北米探検に出発.

7.28 コロンブス,これまでより南に進路をとり,トリニダド島に到達.

7.29 コロンブス、トリニダード島の沖合で南米本土(現ベネズエラ)のパリア半島を発見。

7 アロンソ・デ・カラバハルの率いるコロンブス船団の別動隊,サント・ドミンゴを目指すが接岸に失敗.西方に流されロルダンの本拠地ハラグアに上陸.部下の囚人たちは船を捨てロルダンの下に結集.武器・兵員を手にしたロルダンは反撃を開始,島の中心部ラ・ベガを落とす.

7 カボット,ラブラドルに到達.そこからメリーランドにかけて探索.チュサピーク湾岸まで南下する.

8.02 コロンブス,トリニダドを経て南米大陸に到達.パリア半島に上陸。イスラ・デ・ガルシアと名づける。その後、オリノコ河口を発見.2週間をかけてオリノコ河口のデルタ地帯を探検。

8.20 コロンブス、マルガリータ島で原住民より多量の真珠を獲得。「エデンの園」を発見したと報告。ここがアジアであるとの確信を深める.

8.15 コロンブス,南米探検を切り上げエスパニョーラに向かう.

8.31 コロンブス,バルトロメの迎えを受け,あらたな植民地サント・ドミンゴに入港.

11.25 コロンブス,ロルダンの反乱に事実上屈伏.ロルダンのアルカルデ復帰とハラグア支配権支配を承認.インディオの強制労働とスペインへの奴隷輸出を認めることで妥協をはかる.レパルティミエント制の始まりとなる.

98年 スペイン船,「食人種」カリブ族をスペインに送り,奴隷として販売.

 

コロンブスの後継者たち

1499年

5 コロンブスの原住民虐待を憂慮するイサベル女王,フランシスコ・デ・ボバディーリャをインディアス総督(コメンダドール・マヨール)に任命.エスパニョーラへの派遣を決定する。実際の到着は翌年8月。

5.16 コロンブスの第二次探検に参加したアロンソ・デ・オヘダ,真珠海岸発見の報告に接し,独自の探検隊組織を申請.宮廷はコロンブスとの契約を裏切り,オヘダに勅許を与える.アメリゴ・ベスプッチを水先案内人とする三隻の船団を編成したオヘダは,カディスを出発.フアン・デ・ダ・コサも同乗.

この三隻はまったく別の行動をとったようである。オヘーダを載せた船はベネズエラに進み、マラカイボからコロンビア北岸を探索。アメリゴ・ベスプッチの船はブラジルのレシフェ付近に到達してから、沿岸を北上。ペラロンソ・ニーニョらの船はマルガリータ島に到達したようである。

6.27 オヘダとはぐれたアメリゴ,大陸沿岸を東南に向け航行.北緯4度のサンタ・ロケ岬に達する.このあと海岸沿いにベネズエラに戻る.このことにより,インディアスが大陸であることを確信.

6 オヘーダ,オリノコ河口付近で新大陸に上陸.その後トリニダド島に到着.

8月 オヘーダ、ティエラ・フィルメを進み,パラグアナ半島近くの島に上陸(おそらくアルーバ島),家屋が水の上に建てられていたたためベネズエラ(小ベニス)と命名.その名が本土にまで拡大される.グアヒラ山脈のカボ・デ・ラ・ベラに上陸.サンタ・マルタ(サンタマリア・ラ・アンティグア)と名付け要塞を建設.サンタマルタのネバダ山地を探索.原住民のゆたかな生活に驚く.さらに内陸に黄金の国があるという現地の伝聞がエルドラド伝説をうみだす.のちにこの伝聞はムイスカ族のグアタビア湖の伝説と結びつく.

6 ペラロンソ・ニーニョとクリストバル・ゲーラの船はコロンブスの第三次航海とほぼ同じ領域を探索.マルガリータ島と本土の間の交易所としてサンティアゴ・デ・クバグアが建設される。南米最初の定住地となる。1541年の地震で破壊。海岸で,真珠の産地を発見.先住民との取引でで大量の真珠を入手する.

11.19 ビセンテ・ヤニェス・ピンソン,4隻の船団を組みパロス・デ・ラ・フロンテラ出港.南米大陸の探検に赴く.

12.18 ディエゴ・デ・レペ,ブラジル探検に出発.

1500年

1.26 ビンソンの船団,ペルナンブコのカボ・デ・サント・アゴスティーニョ(現プンタ・グルエサ)に到着.その後ペルナンブコより北上しティエラフィルメに達する.

2.14 レペ,ブラジルの南緯4度の地点まで到達.

3.08 ポルトガル,カブラルを司令官とする第二次インド遠征隊を組織.大規模な船団がリスボンを出航.

3 ビンソンの船団,アマゾン河口に達する.ピンソンはこれをガンジス河と考え,リオ・サンタマリア・デ・ラ・マール・ドゥルセと命名.

4.22 カブラルの船団,嵐に流され,南緯18度付近ブラジルのサンタクルス(現バイア州ポルトセグロ)へ上陸.ベラクルス島と名付け,トルデシーリアス条約にのっとりポルトガル領を宣言.

4 オヘダはティエラ・フィルメ航海のあと,東洋への出口を見出せぬまま,いったんエスパニョーラに立ち寄る.一時ロルダンに合流するが,まもなく仲たがい.バハマで奴隷狩をしたのち帰国.

5.01 ビンソンの船団,ベネズエラのパリア湾に到達.この後ウィンドワード海峡,プエルトリコを経由して帰国.バハマ沖で嵐に会い二隻の船を失う.

5 ブラジル発見を伝えるカブラールの使節船がリスボンに到着.

6.20 イサベラ女王,「エスパニョーラ島のインディオがエスパーニャ王の自由な臣下である」と宣言.金鉱での採掘のため先住民を酷使することを禁止.コロンブスとのあいだに結んだサンタ・フェ協定を事実上破棄.ボバディーリャ総督(Auguste-Francisco de Bobadilla, commander of the Order of Calatrava)の船団,スペインを出港.

6 アメリゴ・ベスプッチ,ブラジル探索を終え,スペインに戻る.

7 レペの船団がブラジル探検から帰国.

8.23 ボバディーリャ,植民者とコロンブス兄弟との内紛を裁定すべくエスパニョーラ島に到着.これにあわせ,ふたたび植民者の反乱.

9 ビンソンの船団,ブラジル探検からパロス港に戻る.

10 ボバディーリャ,原住民虐待の責任を問いコロンブス兄弟を解任.財宝を没収し,足枷をはめたうえ本国へ送還.

10月 ファン・デ・ラ・コサ、ロドリゴ・デ・バスティダスの船団がカディスを出航。バスコ・ヌニェス・デ・バルボアが同行する。01 フアン・デラ・コサの船団,カボ・デ・ラ・ベラ(コロンビア)に到着しマグダレナ川河口からウラバ湾へと海岸線を進行。ウラバとの交易を行う。さらにパナマ北岸のボルトベロからダリエンにかけて探検し、2年に帰国。01年 バスティダスの船団、パナマ北部のラ・プンタ・デ・マンサニージョ(現在のノンブレ・デ・ディオス付近)に至るが、船の故障によりサントドミンゴにもどる。ここでボバディヤ知事によって拘禁され、許可なしでインディアンと交易したとの嫌疑で本国に強制送還される。.その後05年,07年,09年にも新大陸にわたる。フアン・デ・ラ・コサは公開の経験を元に世界地図を発表.

11.25 コロンブス,足かせをはめられ囚われの身として本国に帰還.

12.20 コロンブス,両王と接見.両王はコロンブスの罪を否定し,その権利の復活を認めるが,具体的約束はなし.

00年 ポルトガルのガスパル・コルテ・レアル,ニューファウンドランド一帯を探検.確認された最初のヨーロッパ人として北米大陸に上陸.

 

1501年

 

 

 

 

5.10 ポルトガル,ゴンザロ・コエリョにブラジル探索を命じる.要請によりアメリゴ・ベスプッチも随行.

7.29 ポルトガル,ブラジルの発見と領有を宣言する勅書をスペインに送付.

8.15 ポルトガル探検隊,サンロケ岬に到達.南緯5度の地点から南下を開始.

9.03 ボバディーリャ就任後のエスパニョーラで混乱続く.王室はコロンブスの復帰要請を無視し,ニコラス・デ・オバンド(Brother Nicholas de Ovando, commander of the military Order of Alcantara)を新総督に任命.

01年 イスパニョーラで金600ポンドが発見される.

01年 スペイン人入植者,サントドミンゴに黒人奴隷を持ち込む.

01 スペイン,ローマ法王より十分の一税の受益権と聖職者任命権を与えられる.

 

01年 北米を探検したコルテ・レアル,奴隷として売り飛ばすため先住民57人を連れ帰る.帰路遭難し死亡.もう一隻の船がポルトガルにたどり着く.

 

 

1502年

2.15 アメリゴ,ポルトガルに雇われ,南米大陸を探索.

2 オバンド総督,30隻の船に2千5百名を乗せ,セビリアのサルカル・デ・バラメダ港を出発.ラスカサス,フランシスコ・ピサロもこれに同行.

4.15 オバンド,サントドミンゴに着任.エンコミエンダ制を実施.タイノ人のスペイン人への分配を合法化.スペイン政府もこの措置を追認.サントドミンゴをオサマ川西岸に移してあらたに建設.オバンドはサントドミンゴを始め15の町を建設,恒久的植民地の建設開始.イスパニョーラ島東部のイゲイ地方制圧に乗り出す.アンダルシア地方からの植民を受け入れる.ボバディーリャらはオバンドと交替し帰任の途につく.

5.11 コロンブス,エスパニョーラに寄港しないことを条件に第4次航海を許され出発.ジパングへの航路を発見するため,ジャマイカを基地とし中米を探索する計画.

6.29 コロンブス,サント・ドミンゴに到達.寄港を申し入れるがオバンドは拒否.コロンブスはジャマイカを基地としアジアへの通路探索に乗り出す.

6.30 スペインに向かう艦隊,ハリケーンに会う.30隻中25隻が沈没.50万ドルの財宝が失われ,帰任途中のボバディーリャらが死亡.

7 コロンブス,ホンジュラス沖の湾岸諸島を通過.マヤ帝国の交易商品を多数載せたカヌーの大群と遭遇.

8.14 コロンブス,ジャマイカを経由してホンデュラスのカスティリョに到達.スペイン領を宣言したあとさらに南下.

9.7 アメリゴ・ベスプッチの指揮するポルトガル船団,南緯50度まで進出するが,東洋への出口を見出せず帰国.これが新大陸"Mundus Novus"であると報告.

9.14 コロンブス,悪戦苦闘の末ノンブレ・デ・ディオス岬を通過,ニカラグア海域に入る.

9.25 コロンブスがニカラグアに上陸して,スペイン領と宣言.

11.2 コロンブス,パナマのリモン湾(現コロン)に入港.荒天続きのため翌年まで滞留を余儀なくされる.

02年 オヘダ,二度目の南米大陸探検.サンタクルスに上陸.植民地を建設.翌03年には現地での仲間割れから捕らえられ,スペインに送り返される.裁判で無罪となるが,無一文となる.

02年 ニコラス・デ・オバンド,セビリア生まれの黒人でキリスト教徒という条件で,黒人奴隷の輸入を認める.

 

1503年

1.6 コロンブス,リモン湾から西に戻り,ベレンに植民をこころみる.ベレンの名はこの日が三博士の公現祭にあたることから名付けられた(ベレンはスペイン語でベツレヘムの意).

1.20 セビリアに通商院設置(貿易移民庁)Casa de Contratacion を設置.移住,関税,輸送船団の派遣,海洋研究,植民地の商業関係の法廷,税の回収など広範な機能を付託される.新大陸との交易はセビリアのみに許されることとなる.

3.12 イサベル女王,オバンド総督の要請を容れレパルティミエント制(原住民の征服者による奴隷化)を廃止,エンコミエンダ制の導入を認可.原住民を国王の所有とし,征服者に教化と福祉を依託することとする.実際は原住民を強制労働に駆り立てる口実として使われる.同時に黒人奴隷の導入を認可.カリブ諸島への黒人「輸入」始まる.

4.16 キビアン率いるベレンの原住民,黄金の掠奪と婦女暴行に怒り乗組員を襲撃.10人が死亡.コロンブスは植民を断念.

5.10 ポルトガル政府指名の改宗ユダヤ商人フェルナンド・デ・ノローニャ,ゴンザロ・コエリョに依託し船団を組織.これに同行したアメリゴ・ベスプッチはサンビセンテに達し5ヶ月間滞在.内陸部を探索し砦を建設.

6.25 コロンブスの船団,ジャマイカのサンタグロリア(現セント・アン湾)に到着.残された二隻の船もいたみが激しく航行不能となる.乗員116人が1年間にわたり孤立.

8 コロンブスの部下ディエゴ・メンデス,丸木舟でジャマイカからエスパニョーラ島にわたりオバンドの援助を求める.オバンドは7ヶ月にわたりメンデスをティブロンに足留めにする.

9 オバンド総督,サラグアXaragua地方に遠征.サラグアはカオナボの支配する地方であったが,コロンブスによりカオナボが捕らえられた後,義理の弟ベエチオBehecchioが支配していた.ベエチオは退任し,スペインの支配を受け入れた妹のアナカオナが女王となる.アナカオナはカオナボの未亡人でもある.

10.30 イサベル女王,キリスト教徒に反抗する食人種は捕獲し奴隷化してかまわないとの勅令を発する.

12.20 ロドリーゴ・メヒア・トゥリーリョがグアアバ地方を,アニグアヤバ地方がディエゴ・ベラスケスに征服される.原住民の全面的支配権を獲得したオバンドは,これ以上の黒人奴隷をエスパニョーラに送らないよう,本国政府に要請.

03年 この年、逃亡した黒人奴隷が最初の反乱を起こしたとされる。

 

1504年

1.2 コロンブス隊に内紛.ポラス兄弟を中心に,残留部隊の半数にあたる48人が反乱.10隻の丸木舟に分乗し東に向かうが,失敗に終りサンタグロリアに戻る.

2.5 新大陸の植民者に5分の1税を課する王室令発布.

6.18 アメリゴ・ベスプッチ,ブラジル探検から帰国.「4回の航海においてあらたに発見せる陸地に関する書簡」と題する詳細な報告を作成.ロレーヌ公ルネ3世お抱えのドイツ人地理学者,アルティン・ヴァルトゼーミュレルの紹介により世界的な反響を呼ぶ.その後ノローニャはバウ・ブラジルの独占取り引き権を獲得.採伐を開始.毛織物用の赤色染料として大量に輸出したことから,サンタクルスの俗称テラ・ド・ブラジルが一般的となる.16世紀前半でほぼ枯渇.その他フアン・デラ・コーサ,2年間にわたり南米大陸北岸地方を探索.フランス人オンフレールの船団,ブラジルを探検.ブラジルの木をもちかえる.

6 メンデスの救援船,サンタグロリアに到着.

7 アナカオナの忠誠に疑惑を抱くオバンドは,ふたたびサラグアに遠征.

アナカオナはオバンド歓迎の祝宴を張った.宴もたけなわとなった時,オバンドは胸の十字勲章に手をやった.これを合図に兵士が剣を抜き,その場にいたすべての先住民を切り刻んだ.村々は焼き払われた.アナカオナはサントドミンゴまで連行され縛り首にされた.
なおこの作戦は,当時のヨーロッパ人にとっては別に残虐卑劣というのではなく,少数の味方で相手を打ち負かす時の常套手段と考えられていた.同じ年に,ファン・デ・エスキベルとポンセ・デ・レオンがイグエイHigueyのコトゥバナマCotubanamaを殺害した時も同様の手段を用いている.ヤマトタケルも似たようなことをやっている.

8.13 メンデスの救援船に乗り組んだコロンブス,オバンド総督の許しを得てサント・ドミンゴ入港.

11.7 コロンブス,失意の連続のうちに第4回航海より帰国.以後国から出ることなく死亡.

04年 バスティダスとコサ,通商院の許可を得てダリエンをふたたび探索.金の入手に成功。イサベル女王の奴隷狩り許可にもとづき,先住民600人を捕らえ,奴隷とする.

04年 オヘダ、この年も王室から新大陸探検の許可を得る(3回目)。しかしこの探検については記録なし。

04年 最初のフランス探検船がブラジルに到着.

04年 イサベラ女王,死去.フェルナンドがスペイン両王となる.

1505年

05年 フェルナンド王,オバンド総督に鉱山労働者として黒人奴隷17人をおくる.これらの黒人はスペインに居住し,スペイン語を話すキリスト教徒.

05年 ヤニェス・ピンソン,プエルトリコに前進基地を建設.

1506年

5.20 コロンブス,最後までインドを発見したと信じながら,失意のうちにバリャドリで死亡(54歳).弟バルトロメと息子のディエゴ,ローマにおもむき法王に陳情.スペイン王室がコロンブスの持つ権限を縮小したことに異議を申立てる.

06 ペドロ・ダテンサ(Pedro d'Atenza),カナリア諸島から砂糖をエスパニョーラへ移入.ゴンサレスが最初の製糖工場を建設.一説ではコロンブスが第二次航海の際持ち込んだと言われる.

06 フアン・ディアス・デ・ソリスとビセンテ・ヤニェス・ビンソン,アマティケ湾に到着.香料諸島に続く海峡を求め中米沿岸を北上.

1507年

3月 ヤニェス・ピンソン,目立った成果を上げられないまま,いったん帰国.

4.27 マルティン・ワルトゼーミュェル(Waldseemuller)により"Cosmographiae Introductio"が発行される.新世界に対して初めてアメリカの呼称が用いられる.

4 ローマ法王ユリウス2世,国王フェルナンドに対し教書を発しコロン家への特権授与を求める.

07年 オバンド総督,本国へ召還.進まぬ開発に関して本国首脳の査問を受ける.

07年 アフリカ人奴隷の輸入開始.この年までに原住民は6万まで減少.

 

1508年

1 スペイン,法王よりインディアスにおけるすべての教会の建設権を与えられる.フェルナンド国王,ブルゴスに会議を召集.

3 ブルゴス会議,西回りの香料諸島への航路を見つけるため,アンティジャス西方海岸の大規模な探索を決定.同時にティエラ・フィルメ地方への本格的植民を決議.

7.29 06年の中米探検の経験を買われたフアン・ディアス・デ・ソリスとビセンテ・ヤニェス・ビンソン,ブルゴス会議の決定にもとづき探検航海に出発.ホンジュラスからベリーズを経由してユカタン半島に到達.(一説に,ベラグアスからダリエン,ティエラフィルメを経てアマゾン河口にいたる沿岸を探索)

8月 オバンドの部下ポンセ・デ・レオン,ボリンケン(プエルト・リコ)占領を委任され,サントドミンゴから同島にわたる.当初現地の首長と和平協定を結び,プエルト・ビエホを建設する.

12.13 ブルゴス会議の決定にもとづき大陸(当時はニカラグアとベネズエラのあいだ)に植民することとなる.これをウラバ湾を境にティエラ・フィルメ(現ベネズエラ,コロンビア),ベラグアス(現パナマ,コスタリカ,ニカラグア)の二地方に分ける.ティエラ・フィルメはアロンソ・デ・オヘダ,ベラグアスはサントドミンゴの有力者ディエゴ・デ・ニクエサ(Nicuesa)がそれぞれ総督(コンキスタドール)に任命される.

一説によれば、この年オヘーダがコキバコア州総督として赴任。コキバキアはマラカイボ湖一帯に対する先住民の呼称。

08年 セバスチアン・デ・オカンポはキューバ島周囲を探索.

08年 オバンド総督,この間に建設された約15の町にカビルド(市議会)を創設.レパルティミエント所有者とエンコメンデーロを構成員とする.

08年 この年イスパニョーラの先住民は6万人.コロンブス到着時の20ないし30万人から激減.産金量も急速に減少.

 

1509年

1月 アロンソ・デ・オヘダ,3百名の部下をひきいサント・ドミンゴを出発.エルドラドを求めウラバ湾一帯の征服に向かう.その後の探検・植民で780人中720人が死亡あるいは脱落.

3.22 フェルディナンド王,アメリゴ・ベスプッチを王室首席パイロットに任命.

5 オヘダ,カルタヘナ付近に上陸.インディオ集落を襲撃するが,逆襲され副官フアン・デラ・コサをふくむ部下70人を失う.その後到着したニクエサの支援を受けインディオをみな殺しにする.

7月 オバンド,総督を退任.コロンブスの息子ディエゴ・コロンブスが彼に代わる第2代総督に任命される.叔父のバルトロメや弟のエルナンドをともないサント・ドミンゴに着任.サント・ドミンゴを新大陸の首都とする.この時点でスペイン人移民は1万2千名に達する.

9.13 オヘダ,ウラバ湾東岸に要塞を建設.サン・セバスティアン・ウラバと名付ける.現在のアカンディ付近といわれる.

10 勇猛な原住民カリブ族の抵抗に会い負傷したオヘダは,部下のフランシスコ・ピサロを守備隊長に任命し,エスパニョーラ島にもどる.オヘダはそのまま本国へ帰ろうとするが,帰路死亡.

10 コサの後任副総督マルティン・フェルナンデス・デ・エンシソ (Martin Fernandez de Enciso)が指揮をとる艦隊が,オヘダに代わりウラバへ向かう.

バルボア(Vasco Núñez de Balboa): この艦隊には,大量の負債を抱え逃走中のバスコ・ヌニェス・デ・バルボアが潜入していた.バルボアは過去にバスティダスの探検に加わり,事情に通じていた.ウィキペディアにはサンタマルタに住み現地参加したように記載されている。

11.14 ヤニェス・ピンソンとフアン・ディアス・デ・ソリス,ユカタン探検の旅から帰還.太平洋への水路はついに発見されず.

09年 先住民征服を合法化するものとしてレケリミエント(Requerimiento)が導入される。レケリミエントは降伏勧告状の意味で、キリスト教への帰依を求めるもの。後にブルゴス法でエンコミエンダ制度と抱き合わせで体系化される。

09年 フアン・デ・エスキーベル,ハマイカを占領.スペイン人入植の開始.特に金銀などの地下資源が見つからなかったため,カリブ諸島への原料基地としてマニオック,とうもろこし,綿などが生産される.

09 イスパニョーラ島の労働力枯渇に対応するため,フェルディナンド王の許可を得て,バハマのルカヤン島(Leucayan)から島民4万人を強制連行.Leucayan Islesの人口は1.4万人に激減.連行された人々もまもなくすべて死亡.

09 カボット,三回目の北米探検.ハドソン湾に至る.

09 エスパニョーラの入植者ラスカサス(当時25才),回心しドミニコ会にはいる.所有した原住民奴隷を解放.翌年,司祭の資格を獲得.

 

1510年

9 ウラバ(サン・セバスチャン基地)の守備隊,要塞を放棄しサント・ドミンゴに向かう途中,エンシソ船団とカルタヘナ沖で遭遇.エンシソはウラバへの帰還を命じる.

9 エンシソの船団,ウラバに達する.湾内でエンシソの旗艦が座礁沈没.上陸した隊員に原住民の攻撃が繰り返される.

11 バルボア,ウラバ対岸(パナマ北岸)への基地移動を進言.エンシソはウラバを放棄し,原住民がダリエンと呼ぶ川(現アトラト川)の河口にあらたな基地を建設.サンタ・マリア・デ・ラ・アンティグア・デル・ダリエンと名付ける.原住民との接触を巧みにおこなったことから隊内でのバルボアの権威が高まり,エンシソは放逐される.帰国したエンシソ、バルボアに恨みを抱き、失脚させる為に画策。

11 バルボア隊に合流していたベラグア総督ニクエサは,バルボアに放逐され,ウラバを離れる.このあとふたたびベラグア進出を試みる.プエルト・ベリョ西方チャグレス河口にノンブレ・デ・ディオスの町を建設.同地方進出の拠点とする.その後ベラグア地方征服の途上パナマで行方不明となる.

11 ドミニコ派,エスパニョーラ島に上陸,原住民の救済運動を開始.この頃原住民は,苦役と伝染病でつぎつぎに絶滅.

10年 フェルナンド王,サントドミンゴの鉱山にスペイン在住のアフリカ人奴隷250人を送り込む.ブラジルの砂糖農園にも黒人奴隷が送り込まれる.

奴隷制度の開始: 一説に,08年にスペイン王室の公認する最初の黒人奴隷が輸入,10年にはポルトガルが西部・南部のアフリカ人(Ibos, Senegalese, Bambaras, Aradas, Congolese, Dambas)奴隷貿易を開始,とあるが,ちょっと信用できません.
いつから奴隷が持ちこまれたか,誰が最初で,どこが最初?奴隷貿易はいつから?など諸説紛紛です.奴隷制についての権威ある総説を見た上で確定したいと思いますが,とりあえずそのまま突っ込みますので,お互い矛盾している記述があるかもしれません.

10年 ポルトガル,インドのゴアを占領.翌年にはジャワ,スマトラに進出.

 

1511年

6 ディエゴ総督,金産出量減少とインディオの減少による苦境を打開するため,キューバへの遠征を企画.ディエゴ・ベラスケスを指揮官に任命.

10.15 新大陸にアウディエンシア設置の勅令発布.ディエゴ総督の権限をけん制し植民地支配を統轄するため,サント・ドミンゴに最初のアウディエンシアが設置される.

12.25 ドミニコ会のアントニオ・デ・モンテシーノス,サント・ドミンゴでのクリスマス・ミサにおいてスペイン人入植者の原住民虐待を激しく非難する説教.インディアス論争の発端となる.ラスカサスは原住民が重労働に耐えがたいとし,黒人奴隷の輸入を提唱.

11年 プエルトリコでインディオ首長連合の反乱.征服軍のうち70名が死亡.ポンセ・デ・レオンはインディオ大虐殺.サンフアンを建設し知事となる.その後,スペイン人による虐殺と疫病により原住民6万が絶滅.

1512年

3 エスキーベルらと行動をともにしたナルバエス,ハマイカでの成功を断念し,ベラスケスのキューバ征服隊に加わる.

12.27 カトリック王フェルナンド,神学者と法学者をブルゴスに招集。30条からなるブルゴス法を公布.植民地統治の細則を定める.

エンコミエンダ制は,インディオ教化を目的とするとして権限をさらに明確化.原住民に勧降状(レケリミエント)を認めさせ,キリスト教への帰依を義務付ける.レケリミエントを受入れた原住民は,自由な人間と認め奴隷化を禁止する.酋長その他上流階級には,従来の制度と権利をゆるし,共有地(エヒード)も認められる.現地ではほとんど無視される.

12年 首席王室パイロットのアメリゴ・ベスプッチ死亡.フアン・デ・ソリスが後任に就任.

12年 イスパニョーラ島に司教区が創設される.カパラ(Caparra)に最初の司教が到着.

12年 ラスカサス,従軍司祭としてキューバ征服に参加.広大なエンコミエンダを手に入れる.

12年 サント・ドミンゴで天然痘の大発生.その後の二年間で先住民人口の三分の一の命を奪う.労働力不足に対応するため,サントドミンゴ西部(現ハイチ)の砂糖農場に黒人奴隷が送り込まれる.

12年 グアテマラ高地でアステカ帝国と同盟したカクチケル族と,キチェ族との間に戦争が勃発.

 

1513年

4.18 プエルトリコ総督ポンセ・デ・レオン,第1回目のフロリダ探検.花が咲き乱れていることから「フロリダ」と命名する.中部東岸に上陸したあと,南下しサーブル岬を回ったところで,カルサ族の激しい抵抗にあい中断.(以下フロリダからカリフォルニアにいたる米国南部地方の年表はメキシコ年表に一括)

7.27 スペイン王室,ティエラ・フィルメをカスティリャ・デル・オロ(黄金のカスティリャ)と改称.総督兼総司令官に,グラナダ包囲戦やアフリカの戦争で勇名をはせたペドラリアス・ダビラ(正式にはペドロ・アリアス・デ・アビラ)を任命.ペドラリアスは1440年生まれで既に70歳を越えていた。

9.01 バルボア,カレタやコマグレなどの首長と親交を結ぶ.現地で耳にした「西南の海とその沿岸の黄金」をもとめ,190名からなる探検隊を組織.アクラを出発.のちにインカを征服するピサロも,隊員として同行.

9.25 バルボア隊66名,クアレクア族の抵抗を撃破しながら進軍.サンブラスから山脈を越え,パナマ地峡を横断.最後の丘から太平洋岸を望む.

9.29 バルボア隊,太平洋岸に到達.サンミゲル湾と名付ける.バルボアが報告のため本国へ送ったインディオが,「このあたりの川は砂金で一杯である」と述べたため,以後カスティリャ・デ・オロと呼ばれるようになる.

10 帰国したエンシソ,バルボアの「悪業」を告発.これを受けた本国は,バルボアのダリエン支配を認めず.エンシソはその後,地理学者として名をはせ,彼が新世界で観察した動植物の解説書「スマ・デ・ゲオグラフィア」を発行(1519年).

13年 ポルトガル王室,アフリカとブラジルとの奴隷貿易に最初の許可証を発行.

1514年

1.18 バルボア,ダリエンに帰投.探検隊は,帰路,先住民の首長トゥバナマを捕らえ,莫大な身代金を獲得.

4.12 ペドラリアス,17隻の艦隊(一説に19隻),千4百名の兵をひきいバラメダを出港.船団にはエンシソも同行.さらにフェルナンデス・デ・オビエド,ベルナル・ディアス・デル・カスティーリョらが加わる.遠征の参加者にエルナンド・デ・ソト、フランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバ、ディエゴ・デ・アルマグロら。

6.21 ペドラリアス,キュラソー島、サンタマルタを経てダリエンに着任.バルボアを司令官の地位から更迭し軟禁.自らカスティリャ・デ・オロ行政区の総督となり、王命によりティエラ・フィルメの統治を宣言。

14年 ペドラリアス、黄金を求め,これまでバルボアが親交を結んできた首長を一人残さず逮捕・拷問.原住民数十万が虐殺される.

9 フアン・デ・ソリス,香料諸島への出口を求め南米東岸を南進.17年にはラプラタ河口に達するが,原住民とのたたかいで戦死.

14年 法王レオ10世,奴隷制度および奴隷貿易を非難する回勅.

14年 ラスカサス,キューバに拝領した自らのエンコミエンダを返還.原住民虐待を批判する説教を開始.

1515年

10.08 フン・デ・ソリスをパイロットとする探検隊がレペを出発.ラプラタ川河口を目指す.河口からパラナ川=ウルグアイ川合流点までさかのぼる.現地で先住民に襲撃され,探検隊は全滅.

15年 ラスカサス,キューバを離れスペインに戻る.原住民虐待反対のキャンペーンを張る.

1515年 プエルトリコ黒人奴隷による最初の反乱発生.

1515 スペイン船,新大陸から最初の砂糖の積み荷を持ち帰る.

1516年

1.23 カスティーリャ=アラゴン両王フェルナンド五世死去.フェルナンド五世の外孫にあたるフランドル人カルロスが,王位を継承することとなる.実際にカルロスがスペイン入りしたのは17年で,それまでヒメネス・シスネーロスが摂政として国政を司どる.

5 ペドラリアス、サンタ・マリアの司教、フアン・デ・ケ ベードの仲裁によりバルボアを解放する。さらに娘の一人をバルボアに 嫁がせることとする。

9.04 フアン・デ・ソリスの探検隊,指導者を殺され,残党がスペインに帰投.

16年 ラスカサス、インディアスの改革に関する覚書「14の改善策」を著し、摂政ヒメネス・シスネーロスに上申する。シスネーロスはラスカサスの提案を受け入れ,スペイン植民地への奴隷輸入を禁じる.また原住民虐待の実態調査団を派遣することとなる.

9.17 ラスカサスは「インディアスのすべてのインディオの保護官」に任命されエスパニョーラに赴任.ヘロニモ会を主体とする調査団も派遣されるが、何の成果もないまま帰国。

16年 エスパニョーラ島に最初の砂糖工場建設.黒人奴隷の密輸入が増加.金山監督官はカルロス一世に砂糖を送り,奴隷輸入の必要性をアピールする.最初の砂糖輸出となる.

16年 解放されたバルボアは、南海発見という快挙と本国への財宝の献納という賄賂で、本国王府から「南海のアデランタード」の称号、およびパナマ・コイバ総督の官位を受ける。バルボアはペドラリアスの許可を得てアクラに進出.ここを基地として地峡を横断し太平洋岸に進出.サンミゲル湾内の真珠諸島に前進基地をもうける.船を作り,出港を待つが,風向きが不良のため,いったん出航を見合わせる.

16年 ペドラリアス,コスタリカのニコヤ地方にエルナン・ポンセらを派遣し探索にあたらせる.

16年 フランシスコ会、現在のベネズエラ領クマナに伝道のための教会設立。結局先住民教化に失敗し撤退。

16年 ポルトガル,ペルナンブコに最初の基地・交易所を建設.同地方に砂糖栽培が開始される.

1517年

2.09 エルナンデス・デ・コルドバ,バイーア諸島に先住民狩り.嵐にあいユカタン半島に漂着.マヤの神殿都市を発見し,「新カイロ」と命名.(このあとアステカ帝国の征服に関してはメキシコ年表へ)

9 カルロスが,カルロス1世として国王即位.

17年 ラスカサス,スペインに戻り,カルロス一世と会見.ハイチの農園主に先住民を解放させ,その見返りに黒人奴隷12人の輸入ライセンスを与えるようもとめる.

1518年

8.18 イスパニョーラの砂糖工場の労働力導入要請に応えるため奴隷供給請負制度発足.植民者の要望を受けたカルロス一世は,勅許状を与え奴隷貿易を許可.28の砂糖農場に黒人奴隷の輸入権が与えられる.ブレサ公ガレヴォ,インディアスの精糖工場や鉱山へアフリカ人奴隷400人を送る申請.カルロス一世はこれを許可.

アシエント制度
当時,アフリカの奴隷貿易はポルトガルが独占していたことから,自前で奴隷を調達できないガレヴォは,ポルトガルの下で業務を仕切っていたジュノバのロランド・ド・グヴェノーに権利を丸投げ.その後,スペインは英・仏・蘭などにも契約権(アシエント)を委譲.

11.18 エルナン・コルテスがメキシコ探検に出発.

1519年

1.15 バルボアの部下ガラビト,バルボアの裏切りをペドラリアスに密告.ペドラリアスは,ピサロをアクラに送り,バルボアら4名をふたたび反逆者として逮捕.

1.21 バルボア,ペドラリアスにより斬首の刑に処せられる.その後ピサロはエルドラドをもとめ,コロンビア北岸を漂泊.アナデス,サンタクルスの町が建設される.

2 コルテス,ユカタンに上陸しアステカ攻撃を開始.

8.10 ポルトガル人マゼラン(フェルナン・デ・マガリャンエス),カルロス1世の後援を得て世界一周航海を開始.5隻の船団265名でサンルーカルを出港.トロ・デ・オロの下を通ってセビリアを後にする.

9.15 ペドラリアス、ダリエンから太平洋側に本拠地を移す。パナマ市が建設されダリエンの住民が移転。パナマは先住民の言葉で「魚が豊富」という意味.

19年 ペドラリアスの命を受け,エルナン・ポンセ・デ・レオンとフアン・デ・カスタニェーダが,コスタリカの太平洋岸を探索.

19年 ハマイカ総督フランシスコ・ガライ,アロンソ・デ・ピネーダに北米探検を指示.ピネーダはフロリダから西進し,タンピコに達する.ミシシッピの奥地にあるという黄金豊かな国のうわさを持ち帰る.

19年 エスパニョーラの先住民首長エンリケ、バオルコ山中に立てこもり、スペイン人に対する抵抗を開始。たたかいは14年におよぶ。多くの黒人逃亡奴隷がエンリケと行動を共にする。

1520年

7月 コムネロスの反乱が発生.

10.21 マゼランの艦隊,マゼラン海峡を発見.11月28には海峡を通過し太平洋へ出る.

10.23 カルロス1世,神聖ローマ皇帝に即位しカルロス5世と称する.財政のバックは西南ドイツの巨商,とくにフッガー家にゆだねられる.フッガー家は新大陸(ベネズエラ)に投資する.

20 バハマ原住民,イスパニョーラでの強制労働の結果,絶滅に追い込まれる.

20 カルロス1世,エンコミエンダ制の廃止を宣言.のちに植民者の圧力におされこれを事実上容認する態度に代わる.ラスカサス,ベネズエラでの伝道活動を開始.2年後に失敗に終わる.

20 エスパニョーラからの砂糖の輸出が始まる.この年島内には六つの砂糖工場.その後の十年でさらに34まで増加.

20 このころまでに、ベネズエラのクマナ(パリア半島の西端)からイスラ・デ・マルガリータにかけての真珠用カキ養殖場は、奴隷狩りによる先住民の減少により廃れる。先住民が山に立てこもり抵抗を続けたため、ベネズエラの開発は遅れる。

 

1521年

3.16 マゼラン,フィリピンに到着.

4.26 マゼラン,フィリピンのマクタン島攻略を試みる.マクタンの首長ラプラプ,マゼランの攻撃を打ち破り殺害.

8.13 アステカ軍,最後の決戦に敗れ崩壊.スペイン,コルテスをヌエバ・エスパーニャ総督(アデランタード)として承認.

21 ポンセ・デ・レオン,二回目のフロリダ探検.カルサ族により殺害される.

1522年

9.08 フアン・セバスチアン・デルカーノ,マゼラン艦隊の生き残り18名をひきいセビリアに帰還.途中ポルトガル軍にも攻撃を受ける.

10.15 コルテス,王室との交渉の結果ノバ・イスパニア(ヌエバ・エスパーニャ=メキシコ)総督に任命される.

22 エスパニョーラで最初の黒人奴隷による反乱発生.製糖所の略奪やプランテーションの襲撃を繰り返す。この後30年間で10数回の反乱が起こる.とくに32,37,48年の反乱が強力だった.

22年 フアン・デ・グリハルバ,タバコをスペインに持ち込む.

22年 ローマ法王の回勅オムニモダ(Omnimoda),修道会聖職者に新世界の先住民への福音伝道を委任.

22 ラスカサス,エスパニョーラから本国に戻る.5年間にわたりベネズエラを原住民強化の実験台とするよう働きかけるが,結局失敗に終わる.ドミニコ教会に加入しふたたびエスパニョーラに入る.

1523年

7月 カルロス1世,バリャドリ議会を召集.コルテスの覇権に対する警戒がひろがる.ロドリゲス・デ・フォンセカは,コルテスに先を越されぬよう香料諸島への船団派遣を請願.フォンセカはイサベラ女王の教誨師で,カスティリャ枢機会議の議長としてインディアス行政の中心を担ってきた人物.

23 アンドレス・ニーニョ,中米の太平洋岸を北上.フォンセカ湾に達する.フォンセカは当時の司教ロドリゲス・デ・フォンセカの名をとったもの.

23 ジョバンニ・デ・ヴェラザノ,フランス王フランソワ一世の命を受け,カロライナからノヴァ・スコティアに至る沿岸を探索.

23 キューバで砂糖栽培が始まる.

1524年

8.01 カスティーリャ枢機会議の管轄の下にあったインディアス会議,国王直属下のインディアス枢機会議(コンセホ・デ・インディオス)に昇格.以後3百年にわたり植民地経営を一手に集中,LA統治の最高機関となる.通商院は枢機会議のもとに入り,貿易関係業務のみに権限を縮小.枢機会議の最初の決定は,インディオ奴隷化を条件付きで許可することであった.

24年 最初の王室関税官がメキシコに到着.

26年 メキシコで最初のスペイン人都市,トラスカラが建設される.

1527年

27年 ペドラリアス,パナマを引き払いニカラグアのレオンに移住.

27年 メキシコ市に最初のアウディエンシアが置かれる.いったん機能停止するが,新任法務官を迎え,30年に再発足.

27 ラスカサス,サントドミンゴで「征服史」の執筆開始.

28.3.27 カール5世が,ヴェルザー家にベネズエラ開発権を与える.ヴェルザー家には四年間の期限つきで黒人奴隷の貿易権も与えられる.

28 コルテス,ヌエバ・エスパーニャ総督の地位を解かれる.メキシコは王室直轄となる.コルテス,自らの地位保障を求め,スペインに渡る.

29 インディアス枢機会議,ヌエバ・エスパニア(現メキシコ)に副王制をしくことを決める.アウディエンシアは副王に対する評議会として再編成.

29 サラゴサ(Zaragoza)協定.太平洋上のトルデシージャス線は東経145度に定められる.

29 メキシコで造られた最初の砂糖工場。

30 コルテス,スペイン王室との交渉の結果、ヌエバ・エスパーニャの支配権を放棄.その代償として「オアハカ谷の侯爵」に任命される.

30 メキシコで銀が発見される.

31 この年のイスパニョーラにおける原住民数はわずか600人.

31 ニカラグアのペドラリアスが死亡.

31年 イスパニョーラにおける砂糖の輸出高が,金と肩を並べる.

32 ポルトガル,フランス人植民者を駆逐しサンビセンテに植民地を建設.

33.11.15 ピサロ,2万のインカ軍を敗走させクスコを占領.インカ帝国滅亡.征服者はスペイン国王から統治の全権を委任され(エンコミエンダ制),略奪と虐殺を繰り返す.

34年 イグナチウス・ロヨラら,プロテスタントによる宗教改革に抗してイエズス会を創設.戦闘的な伝道活動を展開。

34 インディアス会議,征服者の要求にこたえ正当戦争と身請けによる奴隷を認める.

35 ペドロ・デ・メンドサ,ペルー貿易の中継地としてブエノスアイレスを建設.千5百人の入植者とともにブエノスアイレスに上陸するが,その後伝染病などのため植民を放棄.

36 ラスカサス,グアテマラにわたり原住民への伝導開始.

37 ローマ法王パウロ三世,インディアンも人間であり,カトリック信仰を理解する能力を持つと宣言.

37 ピサロ,クスコに入る.

1538年

38 ラスカサス,グアテマラからメキシコへ移る.翌年スペイン本国に戻る.

38 ボゴタの町が建設される.

38 パナマに新大陸第三のアウディエンシアが置かれる.いったん廃止され64年に再確立.

38 ブラジルに最初の黒人奴隷が到着する.

39.5.28 ソトが,フロリダに上陸.

39 ローマ教皇,イエズス会の創設を認可.イエズス会はポルトガルのコインブラに神学校を創設。軍隊式階級編制をとり、ロヨラが自ら「将軍」となる(41年)。

1540年

40 黒人奴隷貿易を認可するアシエントがいったん中断される.再開は81年.現地の強い需要を背景に英・蘭などの密貿易が盛んになる.

40 ペルーに最初の砂糖工場が建設される。

41 リオグランデの探検者カベサ・デ・バカ,白人が住むという原住民のうわさを頼りにアスンシオンから内陸に向け出発.クスコに達する.

41 ピサロ,リマで暗殺される.

42 ラスカサス,スペイン人による先住民への虐待を記録した報告書を,カルロスに提出,先住民の保護を求める.

42.11.20 カルロス1世,インディオの人口激減に憂慮.植民者と通じた評議員を追放し,インディアス会議を再編成.インド新法公布.これに抗議する征服者の反乱が各地で起きたため,3年後に撤回.

インド新法の骨子
征服者のエンコミエンダ所有を厳しく制限,奴隷化の禁止と既存奴隷の解放を定める.とくに35条で権利の世襲を禁止し,エンコメンデーロの保有する先住民は,その死後に王室直轄に戻すものとする.

1543年

6 「新法」,改訂増補されてバリャドリで公布.

43 スペイン唯一の新大陸貿易港となったセビリャに,新大陸貿易の商人ギルド(コンスラード)創立.彼らの出資によるフロータス制成立.年2回決められた時期に護衛艦に守られた船団(ガレオーネスとフロータ)を組むこととなる.本格的実施は50年以降.

フロータスはメキシコ行きの船団で,春にセビリアを出航.プエルトリコ・エスパニョーラ・サンチアゴ・トルヒージョなどに寄港した後ベラクルスに入る.ガレオネスは夏に出航し,マルガリータ・カルタヘナに寄港した後プエルトベリョに到着.ペルーから持ち込まれた財宝を積む.
両者は翌年3月にハバナで合流し,合同艦隊を編成しスペインに戻る.

43 ラスカサス,チアパスの司教に任命される.

43 リマとグアテマラにアウディエンシアが設置される.

44 最初のペルー副王バスコ・ヌニェス・ベラ,リマに到達.ゴンサロ・ピサロは副王に反乱.

45 アルト・ペルー(ボリビア)のポトシ,メキシコのサカテカスにあいつぎ銀山発見.鉱山ではレパルティミエント制(強制有償労役制)が一般的となる.

45 トレント公会議がはじまる。64年まで20年間にわたり断続的に開催。

47 チアパスのラスカサス,スペインに帰国.国王に対し征服者の横暴の阻止とインディオ保護を訴える.

48 ペドロ・デラ・ガスカ、ゴンサロの反乱を鎮圧しペルーを平定。

48年 イスパニョーラの先住民人口,500人以下となる.

1549年

2 インディアス会議,新法35条の適応を断念.その代案としてラスカサスの意見をいれ,新大陸の農村を共同体に改組し,コレヒドールを配置.エンコミエンダの実権を奪われた征服者の子孫たちは,先住民を囲い込み,独自の農園(アシエンダ)を営むようになる.

インディアス新法と新大陸の行政機構
州や県レベルの行政組織は欠如しており,総督の下の行政官は,直接コレヒドールとなる.各市にはアルカルデ(市長)と若干名の議員からなるカビルド(市会)が置かれた.
コレヒドール(代官)は各市と近隣町村を統括し,旧エンコミエンダ所領もふくめ賦役の割り当て権(レパルティミエント)を与えられる.たとえインディオ自身の意志であっても,公共目的以外の賦役(servicio)は禁止された.

6 ラスカサスの影響を受けたルイス・カンセル,フロリダにおける平和的改宗化に乗り出すが,現地でインディオの手にかかり死亡.

49 ブラジル総督府,サルバドル(バイア)に設置.インディオ狩のバンディラにより,ブラジルの版図拡大.

1550年

4.16 カルロス一世,インディアス会議の進言を受け新法を公布.アメリカ大陸征服事業の一時停止を命令.会議ではエンコミエンダの世襲制をめぐり,バスコ・デ・キロガ(ミチョアカン司教),ベルナル・ディアス,ラスカサスらが論戦.

8.15 ラスカサスと神学者デ・セプルベダとのあいだに「バリャドリー大論戦」.セプルベダはインディオの野蛮さを訴え「戦争」の正当性を主張.ラスカサスの「インディアスの破壊についての簡潔な報告」を刊行し反論.

50 スペイン,フロータス制度を開始.新大陸との貿易を厳重な統制下に置く.セビリアを唯一の貿易港とし,商務館(カサ・デ・コントラタシオン)を設置.年2回,50隻の船団に編成して新大陸とのあいだを往来することとなる.ガレオンはカルタヘナ=プエルト・ベリョ=ハバナ,フロータスはキューバ北側を通りベルクルスに向かう.そしてハバナでガレオンと合流.輸出品に法外な値を付けたことから,密貿易が横行.カリブのオランダや,英国の植民地が密貿易の基地として発展.また新大陸でもベネズエラ,ブエノスアイレスが密貿易の中継基地として発展.

53 メキシコにサンパウロ大学創立.72年にはリマにもサンマルコス大学.