イベリア その2  スペイン人民戦争

 

1931年 1932年 1933年 1934年 1935年 1936年 1937年 1938年 1939年

 

1931年 第二共和制の実現

2. 08 ベレンゲル政権,民政復帰への見通しが立てられないまま退陣.

2.18 アスナル提督を首班とする新政権が成立.新政権は4月の地方選実施を公約,言論弾圧も軽減する.アルフォンソ13世が憲法復活と総選挙の実施を発表.

3 ハカ蜂起関係者の裁判.被告や弁護人は,プリモ軍事独裁を許した国王に非難を集中.

3 レデス・ラモス,ファシズムを賞揚する「国家の征服」誌を発行.

1931年4月 国王の退位

4.12 スペインで全国いっせい地方選挙実施.共和制支持派の大勝利に終わる.

4.13 選挙結果を待たず,各地で共和派の反乱.バルセロナでは共和派が市庁舎を占拠し,ルイス・コンパニースが共和制宣言.マドリードでもニセト・アルカラ・サモーラ・イ・トレスが共和制を宣言.バスクも同様の動き.

4.14 アルフォンソ13世は「自分が国民の愛を失っていたことを知った」という宣言を残しマルセイユへ亡命.ブルボン王朝は崩壊,平和裏に共和制に移行.

4.15 共和革命委員会,第二共和制の成立を宣言。サン・セバスティアン協定に基づき,保守党のアルカラ・サモーラを首班とする閣僚名簿を発表.内相にミゲル・マウラ,外相に急進党のアレハンドロ・レロウ,国防相にアサーニャ.

4.17 バスク国民党,新政府に対し自治権を要求.

4.25 軍隊改革法令公布.

4.28 南部地方農村労働者の失業を解決するための「自治体法令」公布.

4月 憲法制定会議招集に向け作業を開始.憲法発布までの共和制の基本方策となる「共和国憲章」公布.バルセロナではルイス・コンパニースらがカタロニア独立を宣言.

1931年5月 新政府の改革

5.06 新政府、学校での宗教教育(compulsory education)の停止を発表。

5.07 未耕地の耕作を促進するための「強制耕作」法令公布.

5.07 トレドの大僧正セグーラ枢機卿,アルフォンソ13世を讃え共和制を攻撃する教書を発表.これに怒った群衆が各地で教会を襲撃.セグーラはスペインから追放される.セグーラを支持する王党派は「スペイン革新党」を結成.反共和派の新聞「討論」は「人民行動党」を組織.ホセ・マリア・ヒル・ロブレスが党首の座につく.

5.08 選挙法改正。女性の選挙権が認めれる。

5.09 非合法だった共産党が再建される.ブリェホスが書記長,ほかにアダメ,トリリャが指導部を形成.この時点で党員数は700前後.

5.10 王党派,新政権打倒と王政復帰を求める集会.

5.16 新政府のマヌエル・アサーニャ国防相,軍部改造計画を実施.二万の現役将校の半減.16個師団を8個師団に減らし,地方の総司令官職を廃止.アフリカ派軍人の牛耳るサラゴサ士官学校の廃止などを実施.

5 新政府,農村文化普及のための教育使節団を組織.各地で右翼の妨害にあう.教会は新政府への協力を拒否.

6.28 憲法制定議会選挙.王政派が80,共和派110,社会党120,中間派100議席の構成となる.共産党は6万票を獲得するが議席の獲得にはいたらず.

一説では、社会労働党24.5%、115議席、PRR20.2%、94議席、PRRS12,5%、59議席、ERC6.5%、31議席、共和主義行動5.9%、28議席など。

6 バスクの市長会議,自治憲章案を作成し国会へ提出.政府はこれを破棄.PNV左派,バスクの完全独立を求めるバスク・ナショナリスタ行動党(ANV)を創設.

1931年7月

7月 憲法制定議会選挙の結果を受け,共和派による政権が成立.アルカラ・サモーラが首相に就任.「改革の二年間」と呼ばれた大改革を実施.

7.01 農村労働者に8時間労働制が適用される.

7.04 CNTの指導下のバルセロナ電話労働者,25日間にわたるストライキ.

7.14 憲法制定議会が開始される。

7月 セビリアの数カ所の町で共産党の指導するストライキ.一部無政府主義者も参加.

7月 カタロニア,独自の議会(ヘネラリダード)を開き自治憲章を採択.外交・関税を除く諸分野で独立した地位を要求.

7月 農業改革に反対する土地所有者,「農場所有者全国連盟」を結成.

7 軍政改革に伴いサラゴサ総合士官学校も閉校となる.これに抗議したフランコは左遷される.

8.03 カタロニア自治憲章に対する住民投票.ヘネラリダード提案が圧倒的多数で承認される.

8 農業改革案が議会に上程される.接収の範囲,補償問題などで意見がまとまらず,いったん廃案となる.

8月 マヌエル・ゲデスら,海軍内で共産党組織作りを開始.1ヶ月の間に,旗艦「バスコダガマ」号の水兵200名のうち40名が機関紙「アバンテ」読者となる

1931年10月

10.10 レドンドとレデスマ・ラモス,右翼結社「国家サンジカリスト攻撃会議」(JONS)を結成.反共・軍国主義を掲げ活動.

10.14 スペイン憲法草案の宗教条項をめぐって政府部内に紛争.アルカラ・サモーラ首相とミゲル・マウラが辞職.左派共和派のアサーニャ国防相が首相に就任.

10.17 議会は離婚の合法化法案を可決する。

10.20 共和派諸党の統治理念を示した「共和国防衛法」,議会に提出される.

11.27 労使双方の代表の協議によって労働争議の解決を目指した「混成陪審団法」公布.

12.09 ワイマール憲法を範とする第二共和国憲法が公布される.「スペインはあらゆる種類の労働者の民主的共和国である」と宣言.男女の普通選挙権,国家と教会の分離,戦争放棄,一院制議会,カタロニアの自治などを規定.この時点で国民の1/3が文盲.

12.10 アルカラ・サモーラ,新憲法に基づく大統領に選出される.レロウ外相退陣.アサーニャの指導権が確立.

12.31 エストレマドゥーラ州のカスティルブランコで,農民無政府主義者の集会.治安警察の干渉に対し農民が反撃,4人の警察隊員が殺害される.アサーニャが農民を支持する態度をとったため,軍との関係が険悪化.

1931年 イベリア・アナーキスト連合(FAI)がCNTの主流派を握る。ドゥルティが指導。アンヘル・ペスタナらトレインティスタはCNTを離れ、サンディカリスト党を結成。

 

1932年 共和革命の急進化

1.24 イエズス会の解散と財産収用令発令.

1.25 共産党系労働者,政府と軍の反動化に抗議するストを展開.

1月 離婚法制定.

1月 イベリア・アナーキスト連盟(FAI)のテロリスト,CNT系労働者を巻き込み,バジェ・デル・リョブレガで「暴動的反乱」を起こす.

2 治安警備隊司令官サンスルホ,カスティルブランコ事件の責任を問われ,税関警備隊司令官に降格される.

2月 ポルトガル共産党に対する一斉弾圧.共産青年同盟の幹部全員が逮捕される.

3.17 コミンテルンの批判を受け共産党第4回大会開催.ブルジョア民主主義革命の徹底を当面の目標とし,「ブルジョア共和国打倒」をスローガンとするセクト主義をあらため,大衆的前衛党の建設を目指す.

3.17 共産党第4回大会でホセ・ブリェホス,アダメ,トリリャの旧指導部は更迭され(政治局には留任),ドレス・イバルリが議長,ホセ・ディアスが書記長に就任.ビセンテ・ウリベ,ペドロ・チェカ,アントニオ・ミヘ、マヌエル・デルカドなどが指導部を構成.

3.27 社会党の機関紙「エル・ソシアリスタ」,ブルジョア政府閣僚への忠実な協力を呼びかける.

4 第二次の農業改革法案が議会に提出される.

5.18 国家・教会分離法が制定され,教会資産が国有財産となる.

7.05 サラザール,蔵相のまま首相に就任.独裁政治の開始.ファシズム独裁体制を敷くが,枢軸国とは一線を画す.

7 サンスルホ,各地の王党派軍人やカルリスタと協議し反革命・王政復古の計画を進める.

1932年8月 サンスルホの反乱

8.10 サンスルホ,セビリアで反乱開始.結局クーデターは失敗に終わり,サンスルホら将校144名が逮捕される.

8.24 サンスルホの反乱参加者の土地を没収する法律が公布される.

8 国会でカタロニア自治法採択.独自の政府と議会,教育制度を持つことが認められる.カタロニアはマドリード政府と対等の権限を主張.

8月 地下の共産青年同盟が再建される.海軍の党組織も活動を再開.機関紙「赤い水兵」を発刊.共和主義者,無政府主義者も含めた反独裁統一戦線を提唱.

8 オタワで英連邦会議.ポンド・スターリング経済の形成で合意.

9.09 農業改革法,議会で成立.適用範囲は南部,中部に限定され,王室財産・追放された貴族の領地,サンフルホの反乱参加者の土地が無償で収用されることとなる.

9.15 カタルーニャ自治憲章が制定される.

10.21 共産党,ホセ・ブリェホスら旧指導部を除名処分.ホセ・ディアスの指導権が確立.ホセ・ブリェホスはPSOEに参加。

10月 スペイン共産党とは別にカタロニア共産党を創設することを決定.

10 社会党内で右派改良主義のフリアン・ベステイロに代わり左派のラルゴ・カバリェロが指導権を握る。アサーニャ内閣への協力拒否の態度を明らかにする.

 

1933年 保守派の逆転

33年1月

1.08 カタロニアとアンダルシアにおいて,CNT系労働者が蜂起.イベリア・アナーキスト連盟(FAI)のテロリスト,二回目の「暴動的反乱」の試み.バルセロナ,レリダ,マドリードなどで警察や軍への襲撃を挑発.

1.11 カディス県のカサス・ビエハスで,アナーキストに呼応した「暴動的反乱」.治安警察が農民集会に踏み込み,農民を火攻めにし,逮捕した農民14人を銃殺.CNT機関紙「労働者の連帯」の報道によれば,アサーニャはカサレス・キロガ内相に「腹に一発撃ち込め」と命じたとされる.

1.12 企業弁護士アントニオ・ゴイコエチュアら,王党派の組織「スペイン改革党」を結成.ファシズム独裁型の政治システムを目指す.

1. 30 ナチス,政権をとる.ヒトラーが首相に就任.

1月 エストレマドゥラ,アンダルシア地方で農民の土地占拠闘争が広がる.1月から3月までに300件以上の土地占拠事件が発生.

2. 27 日本とドイツ,国際連盟を脱退.

33年3月

3.04 ホセマリア・ヒル・ロブレスら,人民行動党を基礎に教会・地主層などの保守派を結集.「スペイン自治右翼連合」(CEDA)を結成.祖国・家族・財産・秩序の擁護,共産主義排撃をスローガンに掲げる.

3.04 ルーズベルト,大統領に就任.善隣政策を発表.ニューディール政策に着手.

3.16 共産党,社会党や無政府主義者,UGTとCNTに対し共同を呼びかける声明.

声明の要旨: すべての勤労者はその傾向のいかんにかかわらず,反ファッショ闘争のための偉大な共同戦線に結集しなければならない.ドイツの先例はすべての人々に対して緊急の警告とされなければならない

3.19 サラザールの提案した新憲法に対する国民投票.97%の賛成によって承認される.国家を共同体組合と規定.政府の指導性を定める.大統領はかざりものにされ,首相にすべての権力が集中.

4.07 マドリードで共産党拡大中央委員会開催.反ファッショ戦線政策を再確認.

4月 地方自治体選挙.改革を推進してきた共和党左派と社会党は重大な敗北を喫する.

5月 海軍党組織の指導者マヌエル・ゲデス,逮捕される.この時点で海軍内には300の共産党員と700の機関紙読者.

6.02 宗教団体法,議会で承認される.カトリックの共和制への反感はさらに強まる.

7.28 スペインとソ連の間の外交関係が確立.

8 コミンテルン,黒人労働者国際労働組合会議(ITUCNW)の解散を決定.アジア・アフリカの民族解放運動を抑えることにより西側諸国との宥和をはかる目的.ジョージ・パドモアなど黒人活動家はこれに反発し離反.

33年9月

9.04 憲法保障裁判所の選挙.共和党左派と社会党は,またしても敗北.

9.08 エストレマドゥーラとアラゴンで,CNT系労働者の蜂起.5日間にわたり戦闘が続く.

9.12 社会党,アサーニャ内閣との協力を拒否.アサーニャ首相が辞任し,急進共和党のレルー内閣が成立.(レルーは変辺極まりないバルカン政治家で、当初はアサーニャ支持。その後CEDAと手を組み反動側に回る)

9.23 サラザール,ストライキとロックアウトを禁止する「国民労働憲章」を公布.

10.09 議会解散.マルティネス・バリオが選挙管理内閣を組織.

10.29 プリモ・デ・リベラの息子ホセ・アントニオ,ナチスに真似たファランヘ・エスパニョーラを結成.青シャツを着た党員が,街頭での労働者攻撃をくり返す.

33年11月 右翼の勝利

11.19 総選挙施行.無政府主義者が投票ボイコットを呼びかける中で,CEDAをはじめとする右翼政党が過半数を獲得.カタルーニャでも中間派が勝利を収める.アサーニャ派は100議席以下、社会党は58議席に落ち込む.共産党は40万票を獲得.

一説では、CEDA24.3%、115議席、PRR22.0%、104議席、PCOE12.2%、58議席、共和主義行動1.1%、5議席、PCE0.2%1議席など。

11.19 マラガで共和諸派,社会党,共産党の間で最初の選挙統一協定.統一候補となったカジェタノ・ボリバルが共産党初の国会議員となる.

11 バスクで自治を問う住民の自主投票が成立.アラバ,ギプスコア,ビスカヤの三県がバスク自治州を形成.

33年12月 アナーキストの一斉蜂起

12.08 CNT系労働者,カタルニアとアラゴンの30の町で武装蜂起.

12.16 アルカラ・サモーラ大統領が共和憲法反対を唱えるCEDAの組閣を拒否したため,急進共和党のアレハンドロ・レルーが首相となる.急進党とCEDAが,政策協定を結び内閣を立ち上げる.実質的にはヒル・ロブレスの意のままの政府となる.諸改革が次々に反故にされ,「暗い二年間」を迎える.

12 バスク自治法,国会に提出される.レルー政権はこれに賛成せず.

12月 総選挙総括をめぐり,社会党内の議論.ラルゴ・カバリェロに率いられる左派がプリエトの中間派,ベステイロらの右派を抑え主流となる.

 

1934年 アストリアスの反乱

1.18 アナルコ・サンジカリストを中心とするゼネスト.

2.11 ファランヘとJONSが合併.FE de las JONSを結成.ホセ・アントニオが党首につく.

2.19 ナチのオーストリア併合に抗議する連帯スト.

2月 労働者同盟,成立.

4.11 カタルニア小作契約法制定.

4.17 ファシストのテロを糾弾するスト.

4.25 プリモ時代の独裁関係者とサンフルホ反乱参加者に対する恩赦法が公布される.

1934年5月

5.02 レルー,アルカラ・サモーラ大統領と対立し辞任.急進党のリカルド・サンペルが首相となる.

5.21 サモーラの処置に反発したゴイコエチュアら王党派,ローマを訪問.共和政打倒のためムッソリーニに援助を要請.

5.26 サラザールの翼賛政党「国民同盟」が第一回大会.

1934年6月

6.05 南部を中心にFNTTの主催する,初の大農民ストライキ.共産党は積極的支援に乗り出すが,社会党はこれを無視.15日後に戦いは敗北に終わる.

6.09 憲法保障裁判所,カタルニアの小作契約法に対し違憲の決定.

6.12 共産党中央委員会総会,社会党執行委員会への統一戦線結成の呼びかけを採択.相互攻撃の中止と政治休戦を申し入れる.社会党は「労働者連合」の結成を逆提案.

7.29 サラザール,民族派サンジカリストの「青シャツ団」を追放.

8.12 バスク地方で,政府の承認を受けないまま自治体選挙を強行.

8.2 ヒンデンブルグ大統領の死に伴い,大統領職を廃止.ヒトラーが国家総統に就任.

9.08 マドリードで20万人が参加するストライキ.カタロニアの農民闘争に対する連帯を謳う.

1934年10月 アストリアスの反乱

10.01 CEDA,ロブレスを首相に指名するよう要求.サンペル政権に対する支持を取り消す.

10.04 サンペル内閣総辞職.アルカラ・サモーラはふたたびレルーを首班に指名.内閣にはCEDAから二人入閣.共和諸派,カタルニアとバスクの民族政党を含めいっせいに反発.社会党カバリェロ派は一斉蜂起の準備に入るよう指令.共産党は蜂起戦術を批判し,「労働者連合」に結集し抗議のゼネストを開始するよう呼びかける.

10.05 UGT,全国にCEDA入閣に抗議するゼネストを指令.アストリアスとカタルニアがこれに呼応してゼネストに突入.マドリード,カタルニア,バスク,レオンでは武装闘争が発生.

10.05 アストリアス地方で,「労働者連合」に結集する労働者7万人が決起.オビエドでは社会党系労働者が市役所を占拠し,治安警察と対抗.トゥロニでは共産党系が主導権を握る.鉱山地帯のほとんどが反乱部隊の制圧下に入る.フェルゲーラではアナキスト系労働者が,上部機関の反対を押し切り「労働者連合」に結集.共産党は蜂起戦術には批判的だったが,労働者連合の団結を守る立場から闘争に参加.

10.06 労働者部隊,オビエドの町を全面制圧.トゥルビアの労働者は兵器工場を占拠.一部では教会に火を放ち,29人の聖職者を含めおよそ40人を殺害したという.

10.06 アルカラ・サモラ大統領,スペイン全土に戒厳令を宣言.

10.06 カタロニアの分離主義者(エスケラ党),地方議会(Generalidad)を召集.農地改革法の骨抜き策動と,自治憲章の実施の遅れに抗議し,スペイン連邦内での独立を宣言.ルーイ・コンパニス(ゼネスト議長)はカタロニアの完全独立を宣言.

10.06 無政府主義者はゼネスト宣言を拒否.バルセロナ放送を通じ,すべての労働者に戦いをやめるよう呼びかける.カタロニア共産党は時期はずれの分離の主張を批判.政府権力との戦いを直ちに開始するよう呼びかける.

10.07 バテート将軍の率いる政府部隊がカタロニアに侵入.分離運動を押しつぶす.自治宣言は無効化され,自治政府要員は反逆罪で逮捕される.ファシストが支配するカタロニア警察(escamots)は,ゼネスト参加者に無差別弾圧.

10.07 政府,前政権により左遷されていたフランコにアストリアス鎮圧を委ねる.アストリアスの労働者は地域ごとにコミューンを組織.義勇軍を募り,軍需品工場で武器・弾薬を製造,地域の全般的管理・統制にあたる.

10.08 北上したフランコ将軍指揮の政府軍,アストリアスへの攻撃開始.

10.09 バルセロナ潜伏中のアサーニャ元首相が逮捕される.

10.10 モロッコのモーロ人部隊と外人部隊,北部海岸のヒホンとアビレスに上陸.

10.12 政府軍,オビエドを占領.2週にわたり無差別虐殺をくり返す.

10.18 労働者部隊が降伏.アストリアス革命が終わる.約3千人が殺され,アサーニャ,ラルゴ・カバレーリョらを含め約3万5千人が逮捕され,拷問を受ける.共産党はふたたび非合法化される.戦功を上げたフランコはモロッコ方面軍総司令官に昇任する.

11.11 非合法下の共産党中央委員会総会.政治犯の大赦と死刑反対,労働者階級の統一,反ファッショ人民ブロックの結成をスローガンに掲げる.社会党が提起した「労働者連合」に結集することを決定.さらにこれを「労働者・農民連合」に発展させるよう努力することで合意.2ヶ月の間に13の県委員会,150の地区委員会を立ち上げ.

11月 社会主義青年同盟,第二インタナショナル,社会主義青年インタとの絶縁,コミンテルン綱領の承認を決議.幹部のサンチアゴ・カリリョ,ホセ・カルソラらが共産党に集団入党.

12月 社会党,共産党,労働総同盟,統一労働総連合が全国連絡委員会を結成.実体としては社会党が統一行動や共同声明をすべて拒否したため,開店休業状態に陥る.

12月 共産党,アストリアスの犠牲者救援の大キャンペーンを展開.国際的にも注目を浴びる.最も残虐な軍人ドバル司令官は罷免に追いやられる.

 

1935年

1.16 レデスマ・ラモス,FE de las FONSを除名される.

1 マエトゥら,「純粋詩人とは馬鹿を意味し,たんなる詩人とは英雄を意味する」と宣言し,旧来の芸術家を批判.ロルカは「民衆とは,無垢で純潔で,あらゆる苦悩とおののきとユーモアの表現を豊かに育てる大地」と述べる.ロルカの詩は共和派の愛唱歌となる.

2.18 カルモナ元大統領が大統領に就任.名目のみの大統領で,実権はサラザールが掌握.

2月 政府、アストリアスの争議鎮圧に貢献したフランコをモロッコ軍(アフリカ軍団)総司令官に任命。

3.15 社共両党などにより政治犯救援全国委員会が組織される.死刑判決を受けた共産党のフアン・ホセ・マンソ,社会党のゴンサレス・ペニャなど20人を救うため,ゼネストをふくむ行動を提起.

3.15 新小作法が公布される.

4.06 憲法裁判所、マヌエル・アサニャを放免する。

4月 内閣閣僚の大部分が賛成し,政治犯への大赦が認められる.CEDAはこれに抗議し,政府から撤退.

5.06 CEDA,内閣に復帰.第六次レルー内閣成立.党首のヒル・ロブレスが陸軍大臣に就任.

5.17 ロブレスの圧力により,アフリカ軍団の幹部が軍の枢要な地位につく.フランコ,陸軍参謀長に就任.ファンフルが参謀次長,ゴデドが空軍長官,モラがモロッコ軍司令官.共産党はフランコをアストリアスの大虐殺の張本人と批判.

1935年6月

6.02 非合法下の共産党,マドリードのモヌメンタル映画館で公然集会を決行.講演に立ったホセ・ディアス書記長は,反ファシズム人民戦線政策を展開.

6月 共産党が中心となり「全国人民戦線」結成.共産党・共青・CGTUのほか共和左派諸党,タバコ労働者連合,UGT加盟の国家公務員労働組合などが参加.社会党と左派共和党は共産党の提案を拒否.

6月 スペイン共産党の一構成部分としてバスク共産党が創立される.

7.25 新農業改革法が議会で成立.32年の農業改革法は骨抜きにされる.

7.25 コミンテルン第7回大会開催.1ヶ月にわたる議論のうえ人民戦線テーゼを採択.

9月 マルクス主義者統一労働者党(Partido Obrero de Unificacion Marxista: POUM)が結成される。カタロニアを中心に活動を開始.共産党に反対する無政府主義者と組み,その先鋒となる.

POUM: トロツキスト政党のスペイン共産主義左翼(ICE)と労働者・農民ブロック(BOC)が統合したもの。ICEはアンドレス・ニン、フアン・アンドラーデが指導。PSOEに加入して左派を形成し、党をボルシェビキ化せよという指示に反発し、独自の革命党の建設を主張。1年前からトロツキー自身と袂を分かっていた。BOCはホアキン・マウリンが指導するカタロニアの地域左翼政党で、5千人の活動家を擁し共産党を凌駕していた。

1935年10月

10.3 イタリア,エチオピアへの侵入を開始.

10月 共産党,社会党左派に対し提案.(1)統一労働総連合の労働総同盟への併合.(2)労農連合の発展,(3)反ファシズム人民ブロックの形成,(4)両党の組織的統一への前進.

10月 連立政権内に汚職など深刻なスキャンダルが発生.与党急進党は分裂の危機を迎える.

11.13 ペニシェの港で不法漁獲の疑いで船長56人,漁師17人が逮捕される.釈放を求める闘争が拡大.1ヵ月後に全員の釈放を勝ち取る.この闘争以来,ペニシェの漁民は不屈の闘争を続ける.

11 アサーニャ,社会党に対し総選挙でのブロック形成を提案.社会党は共産党もふくめるよう要求.

12.14 急進党とCEDAの連立政権,事態収拾に失敗.アルカラ・サモーラ大統領,国会の解散を決定.

12.20 社会党,共和党左派との戦線同盟を決議.インダレシオ・プリエトにかわりフランシスコ・ラルゴ・カバリェロが委員長に就任。

12月 共産党系の統一労働総連合,社会党系の労働総同盟に集団加入.

 

1936年 人民戦線政府の成立

1.11 社会党と共産党の間に選挙協定が締結される。世界に反ファシズム人民戦線運動が広がる中の動き.

1.15 人民ブロック協定が締結される.CEDAと王党派,カトリック勢力は「ヒル・ロブレスに全権力を」をスローガンにすえる.

人民戦線: 共和党左派(IR),共和同盟と社会党を中心に共産党,サンジカリスト,トロツキスト=統一マルクス主義労働者党(POUM)もふくむ八つの政党が参加。労働総連合(UGT)、全国労働連合(CNT)、ガリシアやカタロニアの民族主義者もこれに加わる。

36年2月

2.16 総選挙で人民戦線が勝利.人民戦線268議席に対し,CEDA中心の国民戦線は156議席。中道54議席。(一説では右翼・中道派あわせて205議席)ただし得票数は僅差で,人民戦線派455万票に対し右翼および中間派450万票.アナキスト系は共和派に票を集中.

人民戦線の議席内訳は社会主義労働者党88(99)、共和主義左翼79(87)、共和主義連合34(38)、カタロニア共和主義左翼22(38)、共産党14(15)など。()内は異説

2.17 フランコ,クーデターを計画.ポルテラに選挙を無効とするよう要請.街では人民戦線内閣の即時組閣を要求する大デモが展開される.

2.18 ボルテラ政権はフランコの要請を拒否し,選挙の最終結果を待たず総辞職.

2.19 アサーニャを首班とし,共和派諸政党からなる内閣が成立.社会党・共産党は入閣せず.

2.21 アストリアス革命弾圧の張本人フランコ参謀総長,カナリヤ諸島方面の警備司令官に左遷される.ゴデドはバレアレス諸島軍司令官に格下げ。

2.23 新政府、政治犯の釈放と解雇された労働者の復職令発布.

2.26 カタロニアでヘネラリダードが再建され,コンパニースを首班に指名.

2.27 マドリードのファランヘ党事務所が閉鎖される。

2.27 共産党,ゴデド,フランコ,サンフルホ,マルティネス・アニドの4人の将軍を,ファシストと名指しして,罷免を要求する.

2.27 フランシスコ・フランコ、エミリオ・モーラ、ファン・ヤグエ、ホセ・サンフルホ将軍が対抗策をめぐる秘密協議。

2.28 モロッコ駐屯軍司令官のモーラ将軍はパンプロナの衛戊司令官に格下げ.

36年3月

3.11 ファランヘ党,社会党指導者のヒメネス・アスア暗殺を試みるも失敗.

3. 14 ファランヘ党に捜査の手が入る.指導者ホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベラが、武器の不法取引の容疑で逮捕される.政府はファランヘ党を非合法化。

3.25 エストレマドゥーラでFNTT系農民による大規模な土地占拠行動.

36年4月

4.01 社会主義青年同盟と共産主義青年同盟が合同.統一社会主義青年同盟(JSU)を結成.「マルクス・レーニン主義の諸原則の精神によって」若い世代を組織することを目的とする.書記長に社青同のカリリョ,ほか指導部にトリフォン・メドラノ,フェルナンド・クラウディンら.

4.04 マヌエル・アサニャ首相、改革法案の詳細を提示。

4.07 アルカラ・サモーラ大統領,議会の弾劾投票により罷免される.

4.13 エミリオ・モーラがゴンサロ・ケイポ・デ・リャノと会談。軍による反乱の可能性について検討を加える。

4.15 ホセ・ディアス共産党書記長が国会で演説.「フランコやゴデドといった反動的分子が,軍内にとどまっていることに,我々はがまんができない」と非難.

4.18 議会、軍の将校が秘密の政治的集会に出席することを違法と判断。

36年5月

5.01 メーデー集会.マドリードでは60万人を動員.

5.10 議会での選挙により,アサーニャが大統領となる.アサーニャの大統領就任に伴い,インダレシオ・プリエトに首相のポストが提示されるが、プリエトはこの提案を拒否する。

5.13 内相のカサレス・キローガが首相に就任.

5.20 政府、カトリック系の学校の閉鎖を命令。放火犯攻撃から保護するためとされる。

5.28 ホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベラ、武器の不法取引の件で5ヶ月の懲役刑の判決をくだされる。

5.28 市民警察、ジェステで左翼の集会に弾圧を加える。この過程で集会参加者19人が殺害される。

5.31 社会党幹部のインダレシオ・プリエト、エシハ(Ecija)の党員集会に参加中に銃撃される。

5 ファランヘ党が非合法化され,党員2千名が逮捕される.

36年6月 

6.02 議会、小作農を追い立てから保護する法律を可決する。

6.04 フランスで人民戦線内閣成立.ブルムが首相に就任.

6.09 全国統一スト。スペイン国内で100万人の労働者がストに参加する。

6 モーラ将軍らによるクーデター計画が進行.サンフルホ将軍を担ぎ,軍事独裁と左翼弾圧を目指す.北部ブルゴス方面をモーラ,ケイポ・デ・リャーノ将軍がセビリア,サリケット将軍がバリャドリ,カバネリャス将軍がマドリード,ゴンサレス・カラスコ将軍がバルセロナ,フランコがアフリカで反乱を起こすこととなる.

36年7月 

7.06 ルイス・ボリン、フランコをモロッコに移動させようと画策。ロンドンで飛行機を調達。

7.11 フランコをカナリア諸島からモロッコに運ぶための飛行機が,ロンドンを出発.

7.12 突撃警察隊(左派)の幹部ホセ・カスティリョ,ファランヘ党員により射殺される.その5時間後,スペイン革新党(王制派)指導者で右翼の大立物のホセ・カルボ・ソテロが報復・射殺される.政府はマドリードに非常事態を宣言し,スペイン革新党本部を閉鎖.

7.13 ホセ・ディアス書記長,国会で右翼のクーデター策動を激しく非難.イバルリは「アストリアス人よ,注意せよ.反動は武装しつつある.彼らが立ち上がったら,どうするかはわかっているだろう.すぐに武器を隠し場所から掘り出しなさい.そして火薬の湿気を取り除きなさい」と呼びかける.

7.16 フランコ将軍,英国籍飛行機で,密かにカナリア諸島からマジョルカ島に移動.英秘密情報員のポラード大佐が同行.

7月17日 クーデター勃発

7.17 モーラ将軍,パンプロナでクーデター開始.反乱軍はロメラーレス将軍らを逮捕し公共施設を占拠.同地一帯に戒厳令を公布.サンフルホ将軍を反乱の象徴に押し立てる.

7.17 本国でのクーデターに呼応して,モロッコのメリーリャ,セウタ,テトゥアンで軍の反乱開始.フランコを反乱の指導者に指名。

7.17 マドリードの労働者・学生が「武器をよこせ」と要求しデモ.カサレス・キロガ首相は各知事に対し,労働者に武器を渡さないよう指示.

7.17夜 マドリードの労働者,カラバンチェルの兵営武器庫を襲撃し武器を入手.バルセロナでも同様の行動が発生.

7月18日 政権交代

7.18 マジョルカ島のフランコ将軍,クーデター宣言を発し,モロッコのテトゥアンに飛ぶ.

クーデター計画全体の統括者はパンブローナのモーラ、名目上の総指揮者はポルトガル亡命中のサンスルホであった。フランコはアフリカ軍団の指揮者にとどまるが、実質的な最高実力者と目されていた。

7.18 マドリードでのクーデターは失敗に終わる.ドロレス・イバルリは「やつらを通すな」"No Pasaran"とラジオで訴える。

7.18 セビリア,サラゴサ,バルセロナなどで軍の反乱開始.カサレス・キロガ首相は状況に対処できないまま辞職.アサーニャは穏健派のマルティネス・バリオを後任首相に指名.

7月19日 政権再交代

7.19 この日もスペイン各地の50の兵営で軍の反乱.マルティネス・バリオ,反乱軍との交渉を試みるがモーラは一切の交渉を拒否。クーデターの収束に失敗したマルティネス・バリオは,就任後わずか8時間で辞職.後任の共和党左派ホセ・ヒラールは労働者の武装方針を決定.

7月20日 各地で激戦

7.20 反乱軍総司令官サンフルホを載せた飛行機が,ポルトガルからブルゴスに向かう途中墜落.サンフルホ以下全員が死亡.ヒル・ロブレスはフランスに逃亡.

7.20 モロッコの反乱軍の先陣がジブラルタル海峡を渡る.英独両国はこれを黙認.

7.20 ヒラール首相,フランス人民戦線政府のブルム首相に武器と飛行機の援助を求める.

7.20 空軍と海軍の大部分は政府支持の立場を明らかにする.労働者部隊は全国で反撃に出る.マドリードでは,労働者がモンターニャ兵営を襲撃.共和派の兵士が第6歩兵連隊と平和戦車連隊の指揮権を確保.第一歩兵連隊は,共産党の呼びかけに応じ,政府支持の立場に立つ.反乱側のカラバンチェル砲兵隊は,特別警備隊との短時間の戦闘の後鎮圧される.

7.20 バルセロナでは,ゴデド将軍を迎えた守備隊が反乱を起こす.市内各所で治安警備隊,特別警備隊、CNT義勇兵部隊との激戦をくりかえす.午後6時,アタランサナス基地の反乱軍司令部は白旗を掲げ降伏.この後カタロニア各地の守備隊もあいついで降伏.

7.20 アストリアスでは,反乱軍が県都オビエドを確保するが,周辺部およびサンタンデルは共和派が支配.バスクでは,海岸部の工業地帯を共和派が確保,グアダラマ山地,エブロ川流域は反乱軍が支配.アンダルシアでは,鉱山などいくつかの拠点を除き反乱軍が制圧.共和派はゲリラ闘争で抵抗を続ける.ガリシアとスペイン領モロッコ,カナリア諸島,バレアレス諸島(ミノルカを除いて)など海外領は反乱側が確保.

7.20 マドリード,バルセロナ,バレンシアでは反乱軍は降伏,モロッコとカディスとセビリアで抵抗を続ける.

7.20 英国労働党、人民戦線政府に対する支持を表明。

7.21 CNTを中心とする反ファシズム義勇軍中央委員会が,バルセロナの行政を掌握.

7月22日 政府が主要部を確保

7.22 パリ駐在のカルデナス大使,フランス人民政府のブルム首相と会見.爆撃機20機を始め鉄砲・弾薬の輸出を求める.ブルムはいったんこれを了承.

7.22 バレンシアの反乱軍,無抵抗のまま政府軍に降伏.

7.23 ロンドンで英仏首脳会談.不干渉委員会の設置で合意.

7.23 カタロニア共産党がスペイン共産党から分離。社会党カタロニア支部,社会主義者同盟,プロレタリア党の4政党と合同し,カタロニア統一社会党(PSUC)を結成.結成と同時にコミンテルンに加入.CNTに対抗する形で労働者を結集.

7.24 グラナダが反乱軍の手により陥落する。

7.24 エミリオ・モーラ将軍の支配区ブルゴスで,国民防衛最高評議会(フンタ)が結成される。サンスルホの事故死を受け、カバネリャス将軍を議長にすえる.南方軍と共同しマドリードを南北から挟撃する計画を立てる。

7.24 反ファシスト民兵委員会が中核となり無政府主義者軍団を創設。ドゥルティの率いるCNT部隊3000人はバルセロナからサラゴサに進出。ゴデド将軍の反乱と対決。アラゴンのカスペでの戦闘のあと、正規の陸軍士官のアドバイスによりサラゴサ攻撃を延期し、Pina de Ebroで待機。

7月25日 モロッコのフランコが生き残る

7.25 マドリッド,バルセロナなどの主要都市では,労働者が武装して反乱を鎮圧する.民兵部隊は一気に5万人に達する.この反乱で5万人が処刑あるいは暗殺された.

7.25 フランスの作家アンドレ・マルローはただちに戦いに参加.国際義勇軍飛行隊長として政府軍を支援.

7.25 フランコに率いられたモロッコ方面軍約5万人は,その後も反乱を継続.3年近くにおよぶスペイン内乱始まる.ドイツ空軍司令長官ゲーリングは「共産主義を阻止するため,そしてドイツ空軍の技術を試すため」フランコへの援助を開始すると声明.モロッコ軍に輸送機20機を供与.

7.25 フランスのブルム内閣臨時会議,英国や国内右派,ルブラン大統領からの不介入要請を受け,スペインへの軍事援助を否決.

7.26 アドルフ・ヒトラー、フランシスコ・フランコ将軍に軍事援助を与えることに同意したと発表。

7.26 コミンテルン、反ファシズムのスペイン国際旅団を創立する決議。

7.27 ドイツとイタリアの飛行機がモロッコに到着.4日間にわたり反乱軍兵士の本土空輸を実施.その後ドイツの援助は,ピーク時でコンドル軍団を中心に6千名に達する.一方,イタリアは最大時10万の軍を派遣する.

7.29 ドレス・イバルリ,ラジオを通じて世界へ訴える.「スペインの民主主義が滅びたら,その結果は,我々のだれもが避けたいと願っている戦争の勃発となるだろう」

7.30 フランコ援助に赴いたイタリア軍爆撃機9機がモロッコに到着。ほかの三機はフランス領モロッコに不時着.

36年8月 フランコ軍の上陸

8.01 フランス,スペイン戦争への不干渉政策を発表.

8.02 CNT,FAI,無政府主義青年連盟の共同論文「無規律を組織しなければならない」が発表される.私有財産,国家,軍隊,階級を即時廃棄し,無政府コミューンを樹立するよう呼びかける.戦争に背を向けるものとして,共産党の激しい非難を浴びる.

8.02 共和国政府,所有者の放棄した企業の収容と労働者管理を発令.

8.04 反乱軍、エストレマドゥーラの要衝バダホスを奪取。

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8.04 ロンドンで不干渉委員会創設交渉が合意に達する.

8.06 ソ連,条件付きで不干渉委員会に参加表明.

8.06 フランコがスペイン本土に上陸.セビリャに本部を設立。モロッコから輸送された兵員は1万にのぼる。フランコは反乱軍側の全権を掌握し,総司令官,元首と首相を兼ねた国家首長,単一政党「統一ファランヘ」党首となる.

8.07 米,英,仏,あいついで内乱に不干渉を宣言.コミンテルンは「スペインをファシズムの墓場とせよ」と呼びかけ.国際旅団には政治信条の違いを乗り越え3万5千人が参加.

8.07 モラ将軍,1週間以内にマドリードを占領すると発表.フランコは自軍を北上させ、北部のモーラ軍と連絡するよう命令。

8.08 フランス政府、スペインとの国境を閉鎖。義勇兵がスペインへ入国するのを停止する。

8.10 インダレシオ・プリエト、ラジオを通じて赤色テロを中止するよう訴える。

8.11 ヤグエ中佐の指揮する反乱軍機甲部隊が300キロ北上。メリダの町を奪取。ポルトガル国境沿いのバダホス地区は孤立する。

8.12 最初の国際旅団義勇兵が、スペインに到着する。

8.12 バダホス決戦が開始される.要塞に立てこもるPuigdendolas指揮下の共和国軍民兵6千に対し、在郷軍人2千とモロッコからの正規兵750が攻撃。

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Ildefonso Puigdendolas

Badajozの虐殺

8.15 フランコ軍,バダホスを占領.人民戦線の民兵や市民二千人が闘牛場で虐殺される.この後数日間にわたり強盗、虐殺、強姦が繰り返される。ヤグエは「バダホスのブッチャー」と名づけられる。

8.15 スタンリー・ボールドウィン英首相、スペイン共和国への武器輸出を禁止すると発表。

8.17 共産党,フランコとの戦いを「反ファッショ闘争における世界の前衛」と位置づける声明.国際支援を訴える.

8.18 反ファシズムの闘いを呼びかけた詩人フェデリコ・ガルシア=ロルカ,グラナダ近くのビスナル村で反乱軍に捕らえられ銃殺される.

8.20 サラマンカ大学総長で,スペインを代表する知識人ウムナーノ,米紙特派員とインタビュー.「モーラに5千ペセタを寄付し,アサーニャに愛国的行為として自殺を勧めた」と語る.アサーニャはただちにウムナーノを罷免.

8.24 ドイツとイタリア,不干渉委員会に原則的同意を表明.

8.26 国家主義者当局は、支配地区における徴兵制度を導入する。

8.27 ソ連大使ローゼンベルグ,マドリードに赴任.

8.28 ファシスト軍、最初のマドリード爆撃。

8.30 無政府主義者が指導する土地耕作者連合(FTT),「決して土地,家畜その他の財産の分配を認めてはならない.我々は没収した土地全体を集団化する移行だからである」と主張.

8月 共産党,民兵部隊「第五連隊」を組織.連隊長は石切工エンリケ・リステル.政治委員はビットリオ・ビタリ.

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Enrique Lister

 

36年9月 マドリード包囲

9.01 ブルゴスの国防評議会,ウムナーノをサラマンカ大学総長に指名.

9.04 ヒラール内閣は総辞職.社会党のフランシスコ・ラルゴ・カバリェロを首班とする内閣が誕生.カタルーニャ,バスクの民族主義者も主張を超えて参加.共産党も閣僚二人(ビセンテ・ウリベ農相とヘスス・エルナンデス)を送り込む.

9.05 フランスとの国境地帯に位置するイルン(Irun)がフランコ軍の手に落ちる.ファシスト軍は国境を閉鎖。

9.07 ホセ・アギーレを首班とするバスク自治政府が成立.工業資本家が実権を握る自治政府は,労働問題・農業問題に手をつけず,正規軍組織活動を危険視し妨害.さらに集会を禁止,出版の自由を保障せず.

9.09 ヨーロッパ27カ国が,ロンドンで,スペイン不干渉委員会第一回会議.スペイン政府はドイツ・イタリアの干渉行為に関する文書を提出.会議はこれを無視しつづけ,共和政府に対する支援の制限のみを強制する.

9.10 ウリベ農相,農地改革案を閣議に提出.ファシスト地主から没収した土地を農民に無償分配することを提案.これに対し共和派は反対,社会党は国有化を主張.

9.17 トレードが反乱軍の手に落ちる.共産党は民兵組織を共和国軍として正規軍化し,指揮系統を一元化するよう主張.

9.21 国家主義者将軍は、一致してフランシスコ・フランコを国家元首に推挙する。

9.23 ソ連,共和国政府への援助を発表.

9.25 アルバレス・デル・バヨ、国際連盟で共和国擁護を訴える演説。

9.26 第五連隊,「すべての家とバリケードを敵を粉砕する要塞に変えよう」と指令.首都決戦の準備に入る.

9.27 カタルニアのヘネラリダードにPSUC,CNTが参加.閣僚を送り込む.CNTの強力な要請により,POUMも参加が認められる.アナーキストは,UGTとCNTが指導権を持つ「全国防衛評議会」の結成を訴える.のちに「労働組合政府」構想へと発展.

9.27 フランコ軍,トレード周辺の支配を確立し包囲網を狭める.首都マドリードはフランコ軍により包囲される.

9.29 サラマンカでモーラとフランコらが会見.両者の合意を受け、ブルゴスの反乱軍最高評議会は,国民政府(ブルゴス政府)の樹立を宣言.フランコが政府主席,大元帥(Generalismo)に就任.

9.30 共和国政府,民兵の軍隊化と人民軍創設令を発令.

36年10月 国際義勇軍の参戦

10.01 フランコがブルゴスに入り、軍政双方における全権を掌握。ソ連を除く諸外国との共存を訴える.

10.01 共和国政府、バスクの自治を承認する。

10.01 ラルゴ・カバリェーロ内閣,バスク自治法を発令.

10.03 フランコ、内閣に相当する「統治専任評議会」を組織。閣僚メンバーには彼の兄弟(3人の将軍、外交官一人)を含む。

10.07 政府,反乱軍参加者の土地没収と国有化などを定めた土地改革法を公布.社会党の主張に沿ったもの.土地耕作者連合(FTT)は,土地の分配ではなく集団化を主張.各地で暴力的な集団化を強制.新たな利権とボス支配を持ち込む.この結果多くの農民が耕作を放棄し,農業生産の減退を招く.

10.07 反乱軍総司令部,「兵員数は15万に達し,最新の武器で武装している」と発表.モーラは自軍の四個隊列に加え,マドリード市内に「第五列」が控えていると語る.

10.07 ゲルニカでバスク議会開催.民族主義党のアギーレを首班とし,共和派,社会党,共産党をふくむバスク自治政府の樹立を宣言.

10.07 ソ連代表,干渉行為がただちに中止されない限り,不干渉協定を離脱すると声明.

10.09 国際旅団の将兵650人がアリカンテに到着する。

10.10 人民軍(民兵隊)創設.最初の6個旅団のうち4旅団は共産党の組織した「第五連隊」所属.

10.12 ウムナーノ,ミリャン・アストレイ将軍を批判.自宅に軟禁される.その後まもなく死亡.

Miguel de Unamuno y Jugo: 98年の世代」を代表する思想家で詩人。真のスペインの思想・国家・人民のあり方について模索し続けた。実存主義的な思想家として知られ、「南欧のキルケゴール」という呼称もある。サラマンカ大学終身総長、国会議員を努めスペイン内戦では反戦を貫いた。

10.12 ソ連からの最初の支援物資がスペインに到着。

10.14 最初の国際義勇軍,バレンシアのアルバセテに到着.その後内戦を通じ3〜4万人が国際義勇軍に参加.他に非戦闘要員として2万人が参加.

10.16 ソ連,不干渉協定のいっぽうで独,伊の軍事援助が存在する以上,協定に拘束されず共和国政府を援助すると声明.

10月中旬 イベリア・アナーキスト連盟,「アラゴン評議会」を結成.アスカソが首班となる.中農から土地を没収,農民から金を没収.物品引渡し券に代える.

10.22 共和国軍のホセ・ミアハ将軍、マドリードの防衛担当司令官に任命される。

10.23 バレラ将軍が率いる反乱軍第4旅団,マドリードに対する進撃を開始.

10.23 政府,国際義勇軍の創設を承認.その活動を許可.ソ連政府,共和国政府の武器購入権を承認すると声明.

10.25 ベルリン・ローマ枢軸成立.11月には日独防共協定.

10.25 スペイン銀行からの金510トンがソ連に送られる。

10.27 ソ連,労働者の募金約5千万ルーブルを集めたと発表.

10.28 バレラ軍,マドリード包囲網を10キロにまでせばめ,市内を射程距離におさめる大砲群を設置.

10.29 ソ連製戦車がマドリードの共和国軍に出現.

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ソ連製T26戦車

 

10月末 CNT,政治不介入の原則を保留しカバリェロ内閣への参加を決定.「国家と政府は,CNTの参画によって民衆を弾圧することをやめるだろう」と声明.自由共産主義青年連盟は政府参加を激しく非難するキャンペーン.

10月 サラザール,スペイン共和政府との関係を断絶.準軍事組織「ポルトガル軍団」や青年組織「モシダーデ」を創設.

36年11月 最初のマドリード決戦

11.01 国家主義者部隊、マドリードの西方および南方郊外に到着する。

11.02 国家主義者部隊、マドリッド西方郊外のブルネテを陥落。

11.03 CNTから4人がラルゴ・カバリェロ内閣に入閣.ガルシア・オリベールが司法相に,女性幹部フェデリーカ・モンセニーが厚生大臣に就任.正規軍の創設に賛成を表明し,指揮権・階級など軍事規律も承認.地方でも「アストリアス主権評議会」に加入するなど,一定の積極的変化をみせる.

11.06 フランコ軍、マドリードの包囲を開始する。

11.06 共和国政府はマドリードからバレンシアへ移転.共産党員以外のすべての閣僚が,カバリェロと行動を共にする.共和派のミアハ将軍を議長とする人民戦線防衛評議会が創設され,マドリード防衛にあたることになる.戦略の策定にはソ連から派遣されたゴリエフ軍事顧問があたる.戦争委員には共産党のアントニオ・ミヘ政治局員,公安委員には統一社会主義青年同盟のカリリョ書記長が就任.

11.07 バレラ軍約二万がマドリード総攻撃を開始.西側三方面から突入を図る.マナンサス河にかかるマドリード入口橋に突入した部隊は,民兵隊に迫撃戦を挑まれ,いったん撤退.

11.08 マドリードに最初の国際義勇軍が到着.ドイツ人のハンス・カーレ大隊,フランス人のコミューヌ・ド・パリ大隊,ベルギーのエドガル・アンドレ大隊,ポーランド人のドンブロフスキー大隊.のちにはドイツのテールマン大隊,イタリアのガリバルディ大隊,フランスのアンドレ・マルティ大隊が加わる.さらにアラゴンのアナキスト指導者ドゥルティも3千の兵力で防衛軍に参加.詩人ラファエル・アルベルティは「マドリードはあなた方の名によって偉大になり,光り輝いている」とたたえる.

11.09 ファシスト軍の先陣が大学町付近に到達.カサ・デ・カンポ公園に侵入.第五連隊の三万と,青年同盟の三万が前線防衛にあたる.大学校舎から狙撃する民兵と反乱軍が,一つ一つの建物の中で白兵戦を演じる.夕方までに,国際旅団が大学の確保に成功.

11.09午後 第11国際旅団からなる第一縦隊と,カタロニア統一社会党により構成された第二縦隊が敵陣に向け前進.イバルリは「マドリードはファシストの墓場となるだろう.やつらを通すな!」(No Passaran!)を連呼する.

11.10 モロッコ軍,トレドとプリンス橋で二度にわたり民兵の防衛線を突破.その後,国際旅団の夜襲を受け,甚大な被害とともに押し戻される.マドリ−ド空襲団とドイツのコンドル兵団による強力な空襲攻撃.

11.10 国際不干渉委員会、「スペインに対するいかなる外国干渉の証拠も存在しない」との結論を出し閉幕。

11.11 ソ連製飛行機が共和国軍に出現.その後内戦中に,軍用機806機,戦車362両,装甲自動車120台,大砲1500門を売却.その料金としてスペインの保有金のほとんどを受け取る.

11.15 ブエナベントゥーラ・ドゥルティの率いる,カタロニアのアナーキスト部隊3千が、共和派軍支援のためアラゴンからマドリードの前線に参加.その他,スペイン各地から9つの支援部隊が到着,直ちに前線に参加する.

11.15 コンドル軍団(航空機部隊)が初めて戦闘に参加。

11.16 フランコ軍,マンサナーレス川を越え,市内に突入.大学町で1週間にわたる市街戦.アナーキスト部隊は拠点とされた大学内の橋を放棄し逃亡.

11.18 ドイツとイタリア,フランコ政権を承認.英国とフランスは不干渉路線に固執.

11.19 Casa de Campo地域で部下を再組織しようとしたドゥルティは、内部の裏切りにあい,射殺される.当初アナーキスト軍は敵の狙撃により死亡と発表した。Anthony Beevor ('The Spanish Civil War', 1982)では、同志のピストルの誤発により死亡とある。ドゥルティはリッツホテルに作られた臨時の手術室で息を引き取った。遺体はバルセロナに運ばれた。バルセロナの葬儀デモには市民30万人近くが参加した。

11.20 ファランヘ党指導者のミゲル・プリモ・デ・リベラ、アリカンテで処刑される。

11月末 ファシスト軍,マドリード占領をいったん断念.包囲・持久作戦に切り替える.

11月 人民戦線側に逮捕されたホセ・アントニオ,アリカンテで処刑される.

12.01 ブエノスアイレスで平和のための特別汎米会議.ファシズムへの共同対応を討議.ルーズベルトは西半球の共同安全保障を提案.21ヶ国の参加により米州相互防衛条約成立.カルデナス大統領が提案した「米州諸国は互いの内政・外政に干渉しない」という主権尊重と不干渉の原則は,米国の同意を得て採択.

12.13 ファシスト軍、マドリードから東北方面に向かうラ・コルニャ街道の切断を図る。その後1ヶ月にわたる攻撃に失敗、作戦は中断される。

12.16 POUMのアンドレス・ニン、共和国政府から駆逐される。共産党はカタロニア政府に対してもPOUMの排除を求める。

12.17 カバリェロ政府,「アラゴン評議会」による自治を承認.共産党は強く反対.

12.22 イタリアからのファシスト「義勇軍」(実体は軍隊そのもの)がスペインに到着する。

12月中旬 共産党中央委員会,「勝利の八つの条件」を採択.・人民戦線政府の指導性,・徴兵制実施,・軍事規律の確立,・工業の国有化と軍事産業の創出,・産業経済調整評議会の創設,・労働者の生産管理,・農業生産の奨励,などを骨子とする.

12 スターリン,モロトフ,ウォロシーロフの連名で,ラルゴ・カバリェロあてに親書.「フランコ支配地域でのパルチザンの組織化が急務となっている」と訴える.また,農民・中小資本家,共和派との同盟を重視し,特にアサーニャの意向を尊重するよう勧告.「多くの側面でスペイン革命はロシアの進んだ道とは異なっている.議会的な道が,スペインにおいては効果的な革命的発展の順序となりうる」

12月下旬  オウエル,ジャーナリストとしてバルセローナを訪問.その後民兵としてPOUM市民軍に参加,アラゴン戦線に配置される.

36年 ポルトガル軍団が創設される.準軍事組織で,空軍,海軍を持ち,司令官は軍将校が当たる.反体制派へのテロをもっぱらの仕事とする.

 

1937年

1.06 米国のルーズベルト大統領、スペイン共和国への武器の輸出を禁止。

1.12 ビルバオで無政府主義者の反乱。バスク自治政府により鎮圧される。

1.14 バルセロナで社会主義革命を支持するFALとPOUMの決起集会とデモ。

1.17 反乱軍,地中海岸マラガへの攻撃を開始.ドイツの軍艦が海上封鎖し,避難民に艦砲射撃.イタリアの戦闘機が爆撃を繰り返す.地上戦ではイタリア正規軍8千が戦闘に参加する。

2.05 反乱軍、マドリード東北方面のラ・コルニャ街道への攻撃を断念し、マドリード東南方面のバレンシアを結ぶハラマ川(Jarama)への攻撃を開始する.

2.08 ゴンサロ・ケイポ・デ・リャノ将軍の率いるファシスト軍がマラガを占領.正規軍の拡充・整備をためらうラルゴ・カバリェロ政権に対する不満が高まる.

2.12 国際旅団がハラマでファシスト軍と対決、前進を阻止する。ハラマの闘いは1カ月にわたり,共和国側2万五千,フランコ軍側2万の死傷者を出すが,決着はつかずに終わる.

2.14 共和政府所在地バレンシアで,軍備増強を求める共産党系のデモ.カバリェロは,共産党の政権からの排除を狙い,イベリア・アナーキスト連盟(アラゴンを支配)との関係を強化.「労働組合政府」のスローガンを打ち出す.

37年3月 カバリェロと共産党の絶縁

3.05 共産党中央委員会拡大総会,「労働組合政府」のスローガンに反対し,社会党との合同,二大労働組織の統一を緊急課題として掲げる.またPOUMの政権からの排除を求める。

3.08 反乱軍、マドリード周辺の第4次作戦としてグアダラハラ攻撃作戦を開始する。主力はイタリアからの特別派遣軍3万5千人。これを、モスカルド大佐が率いるスペイン人部隊1万5千人が側面援助する。航空機70、トラック2千、戦車80台が参加するハラマ河を挟んでの激しい重装備戦となるが、共和国軍は共産党系の部隊の活躍でこの攻撃をしのぐ。イタリアからの労働者義勇軍ガリバルディ大隊も加わる.

3.18 ベルゴンツォリ将軍の率いるイタリア軍,多数の投降者を出しグアダラハラより敗走.人民軍は南部戦線のポゾブランコ方面でも戦果を上げる.この後フランコ軍はマドリード制圧をいったん断念.北部海岸地帯(アストリアス、サンタンデル、バスク)に作戦の重点を移す。

3.28 人民戦線を構成する諸党派,「労働組合政府」のスローガンに反対の立場を表明.

3.29 社会党執行委員会,「労働組合を新しい革命の神様として,諸政党にとって代えようとすることは誤りであり,拒否しなければならない」と通達.

3.31 モーラ将軍の率いるファシスト軍,ドイツの新たな支援を得て,バスクのPNV自治政府の拠点への攻撃を開始.ドゥランゴが爆撃され,ビルバオ包囲作戦が開始される.まもなくモーラ軍に代わりドイツ軍がバスクの戦闘の前面に立つようになる.

3月 カタロニア政府,人民軍の編成に合意.政党が独自の部隊を持つことを禁止する.FAI参加の活動家は,私兵集団を作り,バルセロナの街を暴力的に支配していた.実際に編成に着手するのは8月まで遅れる.

37年4月 ゲルニカ爆撃

4. 01 ファランヘ党,エディーリャを新指導者にすえ,フランコに対抗.フランコはエディーリャを逮捕し死刑を宣告.(後に減刑)

4.16 社会党執行委員会と共産党中央委員会の共同書簡.両組織の連絡機関を設置する協定を結んだと発表.

4.19 フランコ,政党統一令を発する.これによりファランヘ党にカルリスタ党が併合される。

4.23 社共両党の連絡機関の内容が明らかにされる.中央だけでなく各地方,各地域で連絡委員会が設置され,週2回の会議が定例化されることとなる.カバリェロ政府内でもアルバレス・デル・バヨ外相が統一に賛意を示す.

4.26 ドイツ空軍のコンドル軍団(ハインケル・型爆撃機,ユンカース52型爆撃機,メッサーシュミット戦闘機)が,バスク地方の古都ゲルニカの町を三時間にわたり爆撃.人口7千の町で,死者1600名,負傷者900人.建物の3/4が破壊され,火災は三日間にわたる.フランコ将軍はバスク軍が自ら破壊したと発表.ピカソはパリでこの惨状の報を知り,その夏のパリ万博スペイン館のために超大作『ゲルニカ』を制作.

4.28 政党統一令に基づき,ファシスト+保守諸党が合同し「統一ファランヘ」党を結成.フランコ自ら党首におさまる.書記長には義弟のセラノ・スニェルが就任.

Falange Espanola Tradicionalista y de las JONS: Falange EspanolaとJONS(ともにファシスト組織) はそれより前に合体しており、今回はそれにカロリスタの流れをくむ伝統党が合併したもの。JONS は「国家組合主義攻撃団」の頭文字をとったもの。

37年5月 バルセロナ事件

5.01 この日予定されていたUGTとCNTの統一デモは,両派の対立が激化したことにより中止される.

5.03 カタロニア州政府の治安部長ロドリゲス・サラス,バルセロナ電話局に受信妨害と盗聴の疑いで立ち入り捜査.電話局を占拠したFAI活動家は捜査隊に発砲,銃撃戦となる.CNTとFAIは市内各地にバリケードを作り,市街戦の構えをとる.

5.04 アナキストとトロツキスト,州政府からPSUC閣僚を罷免するようもとめる.POUMは,スターリニストによって支配される自治政府を打倒し,革命評議会を創設するよう呼びかける.市街戦で約400名が死亡,千名が負傷.

5.05 カタロニア首相ルイス・コンパニース,PSUC閣僚を退陣させ,CNTとの和平を図る.マドリード中央から派遣されたCNT幹部がFAI説得に当たる.

5.05 共和国政府のフランシスコ・ラルゴ・カバリェロ首相、バルセロナに治安警察部隊を派遣。

5.06 PSUC閣僚に代わりあらたに閣僚に指名されたカタロニアUGTの指導者アントニオ・セセ,アナキストにより暗殺される.バレンシアの中央政府は海軍を出動させ,反乱の鎮圧を命じる。

5.08 CNT,武装闘争の停止を声明.

5.09 共産党,バレンシアで政府の方針変更を訴える大集会.

5.10 共和国軍、バルセロナのアナキスト民兵を武装解除する.さらにアラゴンへも共産党員将校ポサスが派遣され,民兵組織を武装解除.

5.11 フランコ政府に派遣されたドイツ大使ファウペル,フランコと会見.会見後,「バルセロナの市街戦はフランコのスパイによる挑発の結果である」と打電.

5.13 政府閣議.共産党はPOUMの解散を要求.カバリェロとアナキスト系閣僚はこれに反対.これに抗議する共産党系閣僚とネグリン蔵相は退場.カバリェロ,UGTとCNTよりなる新内閣結成を狙う.社会党指導部は「共産党を抜きにして,あるいは反対して国を指導することは不可能」と宣言.

5.14 内閣は分裂し,カバリェロ内閣が崩壊.カバリェロ,アサーニャ大統領に辞表提出.

5.16 共産党の支持を受けたファン・ネグリン蔵相が首相に就任.ネグリンは元医学部教授で社会党右派(プリエト派)に属する.ソ連への金の発送責任者としてソ連政府と親交を結んでいた.

5.17 ネグリン内閣が成立.社会党員3人,共産党員2人,共和党員2名,カタロニア民族主義者1名,バスク民族主義者1名よりなる.陸相には社会党右派のプリエトが就任.軍事指導の一元化を目指す.社会党左派は排除される.アナキストは新内閣への参加を拒否.

5.29 人民戦線空軍機,戦艦「ドイチュラント」を爆撃.ドイツの戦艦はアルメリアを報復攻撃.

5.30 UGT全国委員会開催.カバリェロを支持してきた執行部に厳しい批判.労働者諸政党の統一の政策に対する支持を決議.五月暴動を非難し,ネグリン政府を完全に支持.「スペイン社会党との伝統的な諸関係を維持し,スペイン共産党との兄弟的な結合を確立すること」を宣言.

37年6月 バスク陥落

6.01 CNT全国委員会総会,ネグリン政府との協力を支持する決議.

6.03 フランコと並ぶファシスト軍の指導者モーラ将軍,乗っていた飛行機が墜落し死亡.

6.16 戦線の分裂と挑発を続けるマルクス主義統一労働党(POUM)が非合法化される.バルセロナのPOUM本部が閉鎖され,指導者アンドレス・ニンら40名が逮捕される.

6.18 共産党の戦時第二回中央委員会総会.マルクス・レーニン主義に基づくプロレタリア統一党の結成について,集中的に議論.イバルリは「もはや合同についておしゃべりすることをやめ,直ちに合同の実現にとりかからなければならない」と演説.

6.19 バスク地方の中心地ビルバオがファシスト軍の手に落ちる.ビルバオは石炭、鉄鉱の集中地帯であり、製鉄、造船、重機などの生産設備が集中していた。バスク全域を制圧したファシスト軍は,自治を剥奪し,バスク語を禁止する.

6.20 ニンは「フランコのスパイ」としてソ連秘密警察のエージェントにより殺害される.その後の裁判で12人について反乱軍との関係が証明されたという.(でっち上げでしょう。スターリンのいつもの手口だ)

6.24 米国の黒人歌手ポール・ロブソン、ロンドンのアルバート・ホールでスペイン戦争についてスピーチ。

6.26 ビルバオを制圧した反乱軍はサンタンデルへの攻撃を開始。

6.27 社会党のラモン・ラモネダ,執行委員会を代表し,共産党との統一を強調する演説.党の合同に関しては明言を避ける.

7.01 カタルニャとバスクを除く全国48名の高位聖職者が、連名で、フランコを支持する書簡を発表。

7.05 サラザール暗殺未遂事件が発生.

7.06 マドリードの共和国軍が大規模な反攻を開始。ビセンテ・ロホ参謀総長が率いる9万の軍が、160門の大砲、200機の軍用機、130代の戦闘用車両を動員し、マドリード西方に進出。15キロのブルネテ村を奇襲攻撃し奪回.その後20日間にわたる争奪戦が展開される。函館出身の国際義勇軍戦士ジャック・白井もこの時の戦闘で死亡.

7.25 政府軍は、フランコ軍側の空爆の前に2万5千の死者を出しブルネテを撤退.反乱軍はサンタンデル作戦を一時中止しマドリード包囲網再建に全力を集中する。

7 バレンシアとマドリードで国際作家大会が開催される.ネグリン首相は「スペインの兵士はスペインの大義とともに,人類の大義のために闘っている」と挨拶.

37年8月

8.06 フランコ軍がマドリードを砲撃.

8.10 ネグリン政府,アナーキストの支配する「アラゴン評議会」の機能を停止.リステルの部隊が集産化農場を解体し指導者を投獄.

8.14 ナバラ旅団とイタリア軍を主力とする反乱軍、サンタンデル侵攻作戦を再開。

8.17 社会党と共産党,16項目にわたる共同行動綱領を結ぶ.

8.25 ファシスト軍、北部海岸の要衝サンタンデル港を制圧。バスクの北部海岸地帯を完全制圧.反乱軍はさらに労働者部隊の拠点アストリアス州に向かう。

8.27 ローマ法王庁が、独・伊・ポルトガルに続いてフランコ政権を承認.

8.28 フランコ軍の航空部隊、マドリードに初の爆撃。

9月 共和国軍,アラゴンで反攻作戦を開始.リステルの部隊がキント,ベルチテを攻撃。

37年10月 北部戦線の全面的敗北

10.01 リステルの部隊、ベルチテを一時占領するが,フランコ軍の前に敗退.

10.17 カバリェロ、ネグリン政権に対する反対の立場を公式に明らかにする。

10.21 北部最後の共和派拠点、アストリアス州ヒホンとアビレスがフランコ軍の手に落ちる.北部の海岸線はすべてフランコ軍が掌握.労働者たちは山岳ゲリラとなって闘いを継続.

10.25 人民戦線政府はバレンシアからバルセロナへ移転.

11.12 CNT、人民戦線政府からの脱退を決定。

11.13 共産党中央委員会,バレンシアで第三回戦時総会を開催.北部での敗北を総括.カバリェロとバスク自治政府の怠慢が,敗北を招いたとする.

11.21 ヒホンの陥落を見た英国政府,ブルゴスのフランコ政権に通商代表を派遣.

11.29 日本,反乱軍政府を承認.

12.02 ファシスト側のスペイン新政府が成立する.フランコが総統に就任.

12.08 ファシスト軍航空部隊がバルセロナに対し爆撃を開始。

12.14 共和国軍、アラゴン奪回作戦を開始。

12.21 共和政府軍,スペイン人兵士のみ4万の編成で,アラゴン南部の山岳地帯の町テルエル(Teruel)攻略作戦を開始.二ヶ月にわたる激戦となる.

 

1938年

38年1月 フランコ政府の成立

1.07 共和政府軍,多大の犠牲を払いテルエル制圧に成功.

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テルエル攻防戦(Wikipedia)

 

1.28 イタリア空軍によるバルセロナ空襲開始.

1.30 統治評議会が廃止され、文民をふくむフランコ内閣が成立.王党派2,カルリスタ2,ファランヘ2,軍人2,無党派2,よりなる編成.内相となったセラノ・スにェルが「大義弟」(Cunadisimo)として、内閣を統括する。

2.22 テルエル作戦終結.フランコ軍10万がテルエル奪還に成功.政府軍は1万の兵を失い敗退.この作戦でプリエト陸相の無能ぶりが明らかになる.

38年3月 アラゴン決戦

3.09 反乱軍政府,労働憲章を公布.家父長的な労働者保護が謳われる。

3.13 ドイツ,オーストリアを併合.英国はこれを黙認.

3.12 アサーニャ大統領,各党代表者会議を招集.プリエト陸相が公然と降伏を唱え,アサーニャも動揺を示す.共産党などが一斉に非難開始.

3.16 イタリア空軍がバルセロナを再度爆撃.無差別爆撃で数千人が死亡.

3.16 バルセロナで共産党,統一社会党による戦争継続を訴えるデモ.

3.18 フランスでレオン・ブルーム内閣がふたたび成立。ネグリンはただちにパリに飛び,武器供給と国境再開を要請.ブルムもこれを了承.スペインとの国境を開放。

3.18 共産党,戦闘継続を訴える宣言.UGTとCNTがともに賛意を示す.

3.28 インダレシオ・プリエト陸相、ファシスト軍との和平交渉を開始するよう要求する。ネグリンはラジオ演説で陸相との意見の不一致を明らかにするとともに,敗北主義者に反対し10万人の義勇兵補充運動の開始を宣言.

3.30 フランコ軍,アラゴン戦線で総攻撃開始.エブロ川に沿って東南に進む。

38年4月 カタロニアの孤立

4.05 ネグリン,内閣を改造しプリエト陸相を罷免.自ら陸相を兼任.CNTも閣僚一人を送り込む.

4.05 フランコ,ブルゴスに移動.「カタルニア憲章」の無効を宣言.

4.08 フランスのブルム内閣,わずか1ヶ月で崩壊.反共派のダラティエが首相に就任.

4.15 アラゴンから南下したフランコ軍,ビニャーロス(Vinaroz)を占領し地中海に達する.エブロ川を境にカタロニアを包囲.共和国政府支配地域は2分される.バレンシアとマドリードはカタロニアと切り離されたまま抵抗を続ける.

4.16 英国とイタリア,「スペイン戦争終結後,イタリアが軍隊を引き揚げる」ことで合意.英国はこれと交換にイタリアのエチオピア併合を認める.スペインに対する干渉が,これにより全面的に容認される.

4.22 フランコ政府,報道法を公布.新聞の検閲を法制化.

この他に非教会婚と離婚の禁止、地方自治権の廃絶、男女共学の禁止、死刑制度の復活、休橋教育の義務化など時代錯誤的な立法が次々に打ち出される。

4.28 ポルトガル政府,フランコ政府を承認.

4.29 ロンドンで三日間にわたり英仏会議が開催される.両国参謀本部が陸海防衛でより緊密に共同することで合意.

4.30 ネグリン政府,13箇条からなる「平和綱領」を発表.事実上の講和の呼びかけ.スペインの完全独立,いっさいの外国軍事力の排除,国家体制についての国民投票の実施,報復行為の禁止などを謳う.

4月 ルーズベルト大統領,共和派支配区に落とされている爆弾がアメリカ製であることを認める.同時にそれが「完璧に合法的」なものであると述べる.それまでに,デュポンの子会社「アトラス・パウダー」社は,ドイツに6万発の爆弾を販売していた.

5.23 共産党中央委員会,マドリードで第4回戦時総会.ネグリンの13個条綱領を支持.イバルリは「斬壕の向こう側にいる人も含めて,すべてのスペイン人が団結する」よう呼びかける.フランコは「ファシスト支配区の住民のうち4割は信用できない」と述べる.

5月 プリエトと社会党執行部,事実上の無条件降伏を呼びかける.社共の連絡委員会は機能停止.

6月初 フランコ軍,レバンテへの攻撃を開始.

6.13 フランスのダラティエ内閣,ふたたびスペイン国境を封鎖.

6.16 フランコ軍,レバンテの中心都市カスティリョンを占領.

38年7月 最後のエブロ河渡河作戦

7.06 フランス政府,共和国政府がフランスに保管していた金の凍結を発表.

7.14 フランコ軍,バレンシアとサグントへの攻撃を開始.アルデマンでも反乱軍の攻撃が開始される.

7.24 バルセロナで最高軍事会議.最後の決戦としてエブロ川を強行渡河する総攻撃が決定される.指揮官にはモデストとリステルの二人の共産党員.

7.25 共和国政府軍10万,50キロの戦線にわたって五つの橋を架け,エブロ川をわたる.共産党の指導する第35師団は,先鋒として25キロにわたり進出.4つの町を奪取し,2千5百名を捕らえる.最大時にはさらに敵戦線内に40キロ進出.戦闘は12月まで続く.

8.17 カタロニアとバスクの民族主義者,ネグリンの軍需産業接収策を不満とし,内閣を離脱.これに代わり統一社会党のホセ・モイスとバスク民族行動党のトマス・ビルバオが入閣.

38年9月 ソ連の戦線離脱

9.03 ファシスト軍、エブロ川から進出した共和党軍をガンデサで撃破する。

9月初旬 ネグリン,スイスでファシスト幹部アルバ公と秘密会談.不調に終わる.

9.15 ミュンヘン近郊のベルヒテスガルテンで,ヒットラー=チェンバレン会談開催.

9.21 ファン・ネグリン、国際旅団がスペインから撤退すると発表。

9.25 ゴデスベルクでヒットラー=チェンバレン会談が再開.英仏の対独宥和政策が頂点に達する.スターリンはこれを機にスペイン戦線からの撤退と,対独宥和策に切り替え.

9.26 ルーズベルト大統領,ヒトラーに平和の訴えを送る.

9.29 チェンバレン,ダラディエ,ヒトラー,ムッソリーニの4首脳が,ミュンヘン条約に署名.

9.30 ミュンヘン合意に基づくチェンバレン-ヒトラー平和宣言が発表される.

9.30 ソ連がスペイン共和国政府への援助を停止.

9 19ヵ国,30人の代表で「第4インタナショナル」結成.メキシコ亡命中のトロツキーが指導.

38年10月 国際義勇軍の解散

10.01 ドイツ軍,ズデーデン地方に進出.10日間で占領を完了.ポーランド軍はチェコから譲渡されたテシェン地区を占領.

10.02 ネグリン,放送を通じてフランコに講和を呼びかけるも無視される.

10.04 国際旅団の全部隊が第一線を退く。ネグリンは国際連盟に対し,連盟の監督の下に外国人義勇兵を引き揚げることを提案し,同意を受ける.

10.28 バルセロナでPOUM指導者に対する裁判が始まる。

10月下旬 フランコ軍,ふたたびエブロ戦線での攻撃を開始.

11.15 バルセロナで国際旅団の送別式.共産党のイバルリは「あなた達は歴史であり伝説である」と挨拶.

11.15 社会党執行委員会,右派のフリアン・ベステイロは「事態は国際的な陣営によって救われる以外にない.そのために陣営を整理すべき」と主張.共産党との絶縁を迫る.

11.16 エブロ川で最後の決戦。敗れた政府軍はエブロ川を渡り退却.この間の作戦で7万の兵が戦死.

11.19 フランシスコ・フランコ、ドイツに鉱業開発権を与える。

11月 フランコ,ブルゴスにおいて第一内閣を組閣.

12.06 フランス=ドイツが平和共同声明を発表.

12.23 フランコ軍がカタルーニャ進撃を開始.この時点でファシスト軍34万に対し,政府軍側は9万を残すに過ぎなかった.

 

1939年

39年1月 カタロニア陥落

1.05 共和国軍、エストレマドゥラで反攻を開始。フランコ軍の反撃の前に壊滅。

1.15 イタリア軍,カタロニア第二の都市タラゴナを占領.

1.20 共和国政府,バルセロナを離れ,フィゲーラスへ逃れる.フィゲーラスで最後の国会.13個条綱領を確認.

1.26 フランコ軍がバルセロナを制圧.アサーニャ,ネグリン,コンパニース,カバリェロらは徒歩でフランスに逃れる.共和軍兵士25万,市民25万がフランスに逃れる.

39年2月 人民戦線政府の抗戦放棄

2.04 フランコ軍ヘロナを占領.

2.06 ネグリン,トゥールーズの領事館内に共和国臨時政府を樹立.

2.09 フランコ軍,国境線に達する.これによりフランスへの逃亡は不可能となる.

2.09 フランコ総統,「政治的責任に関する政令」を発布.「国民運動」に反対する破壊活動をおこなったものの責任を追及するというもの.この政令により27万人が捕らえられ,うち10〜20万人が処刑され,1万人が獄死した.国外に亡命した共和派は25万といわれる.

2.11 ネグリンら政府閣僚,マドリードに到着.ファン・モデストとエンリケ・リスターアサーニャ、アントニオ・コルドンら共産党員将校を軍幹部に指名。アサーニャはマドリード行きを拒否.

2.23 マドリードの共和国国防委員会司令官カサード大佐,反共平和を唱え,共産党機関紙「ムンド・オブレロ」を発禁処分とする.ネグリンはこれを黙認.社会党右派のフリアン・ベステイロは共産党と離縁し,人民戦線を放棄したうえで,英国の仲裁を仰ぐよう主張.

2.25 人民戦線政府が抗戦放棄の声明.

2.27 英国とフランス政府,フランコ政権を正式に承認.ネグリン政府に対し外交代表の引き揚げを通告.

2.27 アサーニャは大統領を辞す.抵抗を呼びかけるネグリンとアルバレス・デル・バーヨ外相は,共産党閣僚とともにバレンシアに飛ぶ.

39年3月 マドリードの降伏

3.02 ネグリン,抵抗継続の決定.中南部の軍を強化する指令.

3.03 海軍でフランコ派の反乱.カルタヘナ軍港がフランコ派の手に落ちる.市内では政府軍が反乱を制圧.

3.03 フアン・ネグリン、マドリードに政府の再建を図る。

3.04 セギスムンド・カサード大佐,ネグリン政府に対するクーデターを起こす.「処刑のない平和の保障が得られないうちは,スペイン人民は武器を捨てないだろう」と宣言.マドリード市内はカサード派と共産党の内戦となる.アナーキスト部隊の指導者,シプリアノ・メラ将軍はカサードにつき共産党と戦う.

3.05 カサードとフリアン・ベステイロが中心となり,国防評議会を設置.アリカンテとカタロニアの残党もカサード支持を唱える.ネグリンと共産党は評議会との協定締結を試みる.

3.05 海軍艦船,共産党員を監禁し,チュニジアに向け出航.

3.06 マドリード共和国軍司令官のホセ・ミアハ、国防評議会の支持を表明。

3.07 共和軍第一連隊のルイス・バルセロ司令官(共産党員)、ネグリンの指示を受けマドリードの奪還を目指す。

3.08 共産党軍、マドリードでの戦いで敗退。バルセロは捕えられ処刑される。

3.12 ネグリン、飛行機でマドリードを後にする。そのままフランスへ亡命.

3.15 ドイツ,ハンガリー,ルーマニアの連合軍がチェコスロバキアに侵入.ドイツ軍はプラハを占領.スロバキアは独立を宣言.

3.16 ドイツ,チェコをボヘミア=モラヴィア保護領として併合すると発表.その後,スロバキアも独立を否定され,ドイツの保護領になる.

3.17 スペイン=ポルトガル不可侵条約(イベリア協定)調印.

3.21 イタリア軍二個師団,モロッコ部隊.外人部隊を含むファシスト軍がマドリード市内に突入.

3.21 チェンバレン,下院で演説.ポーランドの独立が侵されるようなことがあれば,英国とフランスは全権力をあげて援助すると述べる.

3.22 リトワニア,メーメル地方をドイツに割譲.

3.27 フランコ,日独伊防共協定への参加を表明.

3.28 共産党との内戦を制したカサード将軍,無条件降伏の要求を受け入れる.

3.29 フランコ,マドリッドに入城.フランコ,内戦の終了を宣言.内戦による戦死者10万人,フランコ軍のテロによる犠牲者20万人,捕らえられたものの総数は200万人に達した.さらにアナキストによるテロの犠牲者も2万人に達した.400万人が家を失い,農産物は激減.30万の共産党員を始め,多くがメキシコなど国外に亡命.

3.30 最後に残されたバレンシアも,無条件降伏に応じる.

3.31 スペインとドイツとの友好条約締結.

1939年4月

4.01 フランコの戦勝式典.ローマ法王は「カトリックの勝利」と讃える祝電を送る.フランコは元首兼首相に就任.

4.01 米国,フランコ政府を承認.

4.06 チェンバレン首相,下院で演説.ポーランド=英国相互援助協定の成立を発表.フランスをもふくめた三国同盟の成立を目指す.

4.07 イタリア軍,アルバニアに侵入.

4.13 チェンバレン,ギリシャとルーマニアの国境を保全すると声明.フランスも同様の声明を発表.ルーズベルトは今後10年間,平和を保つよう,ムソリーニとヒトラーに要請.

4.28 ドイツ政府,1935年の海軍合意を非難する声明.

4.29 ドイツ政府,ポーランドに覚書を送り,34年の不可侵条約の破棄を通告.ダンツィヒの返還,東プロシアとの連絡鉄道・道路における治外法権を要求.

1939年5月

5.08 スペイン,国際連盟から脱退.ドイツ・イタリアとの関係を深める。

5.19 スペイン不干渉委員会解散.

5 スターリン,ソ連を守るためナチとの妥協に動く.リトビノフを更迭し,モロトフを新外相に指名.

7.26 米国務長官,駐日大使あての通達で対日通商条約の破棄について示唆.

7.30 フランス政府,共和国政府から委託されていた金をフランコ政府に返却.

1939年8月

8.23 独ソ不可侵条約発表.世界の反ファシズム勢力に衝撃をあたえる.

8.24 ルーズベルト,平和を求める覚書をヒトラーあてに送る.

8..25 英国・ポーランド合意が成立.

9.01 ドイツ軍,ポーランドに侵入.第二次世界大戦の開始.

 

イベリアおよびヨーロッパ その3

第二次世界大戦  第二次大戦後の欧州  イベリア半島の民主化  ソ連・東欧の崩壊

第二次世界大戦

 

1939年

9.01 ドイツ軍,第一次大戦で失った領土の返還を求めポーランド侵攻開始.第二次世界大戦勃発.

9.03 英国とフランス,ドイツに宣戦布告.ルーズベルトは戦争不介入を宣言.

9.04 フランコ政府,世界大戦に対し中立を声明.

39年 社会党右派のフリアン・ベステイロ、ファシストにより逮捕される。翌年、収容所内で死亡。

1940年

1.26 労働組合統一法施行.労組は解散され,「垂直労働組合」(シンジケート)という翼賛団体に統一されることとなる.

3.01 政府,「秘密結社および共産主義者取締法」を公布.

5.07 サラザール政府とバチカン,コンコルダート協定.

6.12 イタリアが枢軸国としてヨーロッパ戦争に参戦。フランコは「非交戦国宣言」を発表し局外中立の方針を破棄。枢軸側への共感を示す.

6.14 パリ陥落.フランス第3共和制崩壊.ナチスはビシー政府とのあいだに休戦条約締結.

6.14 スペイン,パリ陥落に便乗し国際自由都市タンジールを占領.

7.29 フランコ=サラザール会談.イベリア協定を再確認する.

9.27 独・伊・日三国同盟条約がベルリンで締結.ハンガリー,ルーマニア,スロバキア,ブルガリアもこれに加わる.スペインとポルトガルは同盟加入を留保.

10.17 ドイツと近い関係にあるセラノ・スニェルが,フランコ政府の外相に就任.

10.23 ピレネー山麓の南仏アンダイで,フランコとヒトラーが会談.フランコはヒトラーの参戦要請を拒否.ただし原材料補給基地としての役割をはたすことで合意。スペインの貿易額の25%を対独貿易が占めるようになる。

11.04 スペイン,タンジール国際地区を自領に編入.

1941年

1.12 北アフリカ戦線が本格化.

1.24 民間鉄道を吸収し,スペイン国有鉄道設立.

2.12 北イタリアのボルディゲラで,フランコとムソリーニが会談.フランコはムソリーニの援助要請に慎重な姿勢を示す.ムソリーニもスペインの覇権主義に懸念を示したという。

5.05 セラノ・ヌニェルの外相転出後空席となっていた内相ポストに軍出身のガラルサが就任。これを機にフランコ政権内でファランへ党と軍部の対立が表面化する。

6.22 ナチス,不可侵条約を破棄しソ連侵攻開始(バルバロッサ)作戦.ルーマニアもベッサラビア奪回作戦を開始.米国・英国はソ連に対する援助を決定.

6.24 フランコは独ソ戦派遣のための義勇軍「青い旅団」を召集.ファランへ党がイニシアチブをとり、5万(一説に1万8千人)の兵を送り込む.最終的に6千人が戦死.

9.8 レニングラード包囲戦開始.

9.25 フランコ政府,全国産業公社(INI)を設立.

12.08 真珠湾攻撃。米国は第二次大戦への参戦を決定。

1942年

1.20 ナチス,ユダヤ人の大量虐殺を開始.

2.12 サラザールとフランコ,セビリアで会談.親連合国よりの中立政策を採ることで合意.

4.10 イギリス軍,ドイツ空爆を開始.

8.16 ベゴーニャ事件が発生。ファランへ党急進派が、バレラ陸将の参加する集会に爆弾を投げ込む。フランコはバレラ陸将とセラノ・ヌニェルを共に罷免、親英派のホルダナ将軍を外相に据える。

9.13 スターリングラードの決戦始まる.

11.08 ルーズベルト,フランコに書簡を送り,「スペインの政治体制を問題としない」と伝える.

11.08 米軍,北アフリカのカサブランカに上陸.

12.20 スペインとポルトガルが中立維持・相互防衛を定めたイベリアブロックを結成.

42年 共産党ホセ・ディアス総書記が亡命先のソ連で謎の死亡。これに代わりドロレス・イバルリDolores Ibarruriが総書記となる。

共産党は保守層までふくめた「幅広い国民同盟」を提唱。党の活動家は南米を経由してスペイン国内に潜入。秘密組織を再建する。

 

1943年

1.08 フランコを総統とする国家元首法制定.

2.02 極寒の中3カ月におよんだスターリングラード決戦.ドイツ軍の敗北に終わる.ソ連軍は大規模な反攻を開始.

5月 フランコ,米国紙記者と会見.「フランコ体制はキリスト教的・権威主義的ではあるが,全体主義ではない」と語る.

7月 イタリアでムソリーニが失脚する。ドイツ軍特殊部隊がムソリーニを救出し、サロ共和国をでっち上げ、ムソリーニを首相に据える。ムソリーニはさらにスイス経由でスペインへの亡命を図ったが、反ファシストパルチザンに捕らえられ銃殺される。

9月 陸軍中将全員の連名でフランコの辞任を促す文書が提出される。フランコは中将たちとの個別面接で切り崩しに成功。

10.03 スペインが,「非交戦国」から「中立国」に再宣言.対ソ戦争に参加しているスペイン義勇軍の引き揚げを要請.さらにタングステンの対独輸出の自主規制に動く。

1944年

1.28 アメリカがスペインに対する石油禁輸を宣言.スペインは連合国の圧力でドイツへの鉱物輸出を制限.

10月 フランスが連合国軍により解放される。共産党系のレジスタンス・ゲリラ(マキ団)がピレネー山脈を越えて侵入するが、いずれもフランコ軍の手により壊滅させられる。

44年 スペイン共産党ナンバー2のヘスス・エルナンデスがチトー派として追放され、ウリベがナンバー2となる。さらに指導部のモンソンとキニョネス、カタロニア統一社会党のコモレラも反党分子として排除される。

第二次大戦後の欧州

1945年

3.19 王位継承権者ドン・フアンが「ローザンヌ宣言」を発表。君主制の復活、憲法と人権・自治の尊重を説く。

7 フランコ,「スペイン国民の憲章」を布告.表現や通信の自由の保障を謳ういっぽう,カトリックを国教と定める.

8.02 ポツダム会議最終日,反フランコの宣言を発表.

8.03 メキシコで共和国議会開催.マルティネス・バリオをアサニャの後任大統領に指名。ネグリンは首相を辞す.共和同盟左派のホセ・ヒラールが組閣を委ねられる。メキシコは亡命共和国を承認.

9.16 スペイン軍,タンジールから撤退.

11月 ホセ・ヒラールの亡命政権内閣が成立。プリエトら中間派が主導権を握る社会主義労働者党は、共産党とつながる30人を追放。政府にも共産党との絶縁を迫る。

メキシコのヒラール亡命政権が国際影響力を喪失した後、47年にロドルフォ・リョピス(社労党左派)が独自の亡命政府を形成したが、半年後に挫折した。さらに共和派のアルバロ・デ・アルボルノスが別の亡命政権を立てたが、もはや誰からも相手にされなくなった。

1946年

2.09 国連総会,スペインの加盟拒否を決議.

2.22 反フランコのレジスタンス活動家クリスティーノ・ガルシア,スペイン国内で処刑される.

3.05 米英仏三国,フランコを非難し,政治犯釈放とファランヘ党の廃止,自由選挙と議会の復活を求める共同声明.

12.12 国連総会,「フランコ・ファシスト政府」を国連のどの機関にも入れず,各国はスペインから外交官を引き揚げることを勧告する決議.米国は棄権に回る.

1947年

3.31 国連総会はスペインを独裁国として国連諸機関への参加を拒否.

7.06 国家元首継承法,国民投票により成立.フランコが終身国家元首として君臨することとなる.スペインをカトリックの伝統に基づく王国と規定、後継者となる国王はフランコが指名することとなる。

1948年

8月 バスクの洋上のヨットで、ドン・フアンとフランコの直接会談が行われる。ドン・フアンは社会労働党との共闘を見限り、フランコとの妥協路線に転換。

11月 フランコ,ドン・フアンの子(アルフォンソ13世の孫に当たる)フアン・カルロスを将来の国王に指定.自ら養育に乗り出す.

48年 マキ団による武装抵抗が終了。レバンテ、ガリシア、アストリアスなどでゲリラ闘争を行うが、2200人の戦士が犠牲となる。この後地下活動に移行し、サンチャゴ・カリリョが国内組織活動の責任者となる。

1949年

4.4 NATO条約に12か国が調印.ポルトガルの加盟も承認される.

1950年

5.15 NATO理事会,集団的防衛軍創設方針を決定.

11.04 国連,スペイン排斥決議を解除.各国がスペインと外交関係を持つことを承認.この前日,中国軍が朝鮮戦争に参戦したことが要因となったとされる.

50年 社会党アントニオ・アマトが国内総書記に指名される。スペインに戻りバスクで社会党組織の再編成。53年に逮捕される。

1951年

3.01 バルセロナで学生と鉄道労働者が反政府スト.これを機にバスクやマドリードでも労働者のストライキ.

3 米国とスペイン,国交を回復.フランコ政権は国際的な孤立から抜け出すことに成功。

7月 米海軍のシャーマン提督がスペインを訪問。フランコに対し海軍基地の貸与を要請。

1952年

バスク民族主義党(PNV)の青年部が,非合法政治結社・行動(EKIN)を結成.ETAの母体となる.

1953年

8 フランコとローマ法王ピウス12世,和解協約(コンコルダート)を結ぶ.

9.26 米国とスペインとのあいだに相互防衛協定,経済援助協定,基地貸与協定の三協定が締結される.協定に基づきロタに海軍基地、サラゴサ、モロン、トレホンに空軍基地が建設される。4つの基地に6700人の米兵が配置される。フランコは「共産主義の脅威を警告してきたわれわれの外交の成果」と演説.

54年 共産党内で国内派のサンチャゴ・カリリョ、フェルナンド・クラウディンとモスクワ派のウリベ、イバルリが対立。

1955年

12.15 スペインとポルトガル,国連への加盟を認められる.これに対しソ連は拒否権を行使しなかった。国連加入に前後してIMF、IBRD、ILOへの加入も認められる。

1956年

2 マドリード大学の学生が「学生自由集会」の開催を要求しストライキ.政府は法学部閉鎖で応える.

2月 共産党のエンリケ・ムヒカ、ラモン・タマメスによる2月事件。全国学生会議を呼びかける宣言が配布された。フランコ派のスペイン大学生組合SEUを倒す。学生達は内戦後初めて教育省に示威行動に出た。翌日ファランヘ党員により大学が襲撃された。 学生達は示威行動に出、ファランヘ党員と出くわし、若いファランヘ党員が負傷、緊張状態となりファランヘ党員が暴力に訴えた。首謀者は逮捕され、大学は閉鎖、学長は解任、教育大臣が更迭されフランコ体制で大学の自主性は完全に失われた。

4.07 スペイン,モロッコ独立を承認.

6月 スペイン共産党,スターリン批判を期に,王党派やカトリックもふくめた「国民的和解」の政策を採択.イバルリがカリリョを支持しウリベを放逐。

1957年

10.16 スペイン領モロッコのモロッコへの返還協定が締結される.

11 モロッコ人武装集団がイフニに侵入.スペイン軍の出動により1ヵ月後に駆逐される.

1958年

4.01 Ifni,モロッコに返還される.

5.17 「国民運動基本原則法」が制定される.ファランヘ党は「国民運動」と改称.この後ファランヘ党は政治的機能を失い.休眠状態となる.これに代わりカトリックの半秘密結社「オプス・デイ」が勢力を伸張.

5 スペイン,IMFと国際復興開発銀行への加盟を認められる.

1959年

12.15 米国との間に経済援助協定調印.以後,米国の資本流入が拡大.スペイン経済は飛躍的発展を見せる.

12.21 アイク,スペインを親善訪問.

59年 EKINとPNVとの論争が激化.EKINの武闘派により「バスク祖国と自由」(Euskadi Ta Askatasuna−ETA)が結成される.

59年 ガルバン大尉,刑務所病院を脱走.リスボンのアルゼンチン大使館に亡命.

1960年

1.28 国外で共産党第6回大会が開かれる.サンチャゴ・カリリョの主張する「国民的和解」政策を確認.カリリョは書記長に選出される.旧幹部の一部はこれを不満として党を離脱。

60年 議会主義のバスク民族主義党を不満とし,急進派が「バスクの祖国と自由」(ETA)を結成.母体はビルバオ大学の急進派学生.

1961年

7 ETA,政府軍兵士が乗った列車への爆弾テロ未遂事件.警察は容疑者数百人を逮捕,拷問にかけ懲役20年の重刑を科す.

61年 社会党のアントニオ・アマト国内総書記、独裁打倒のため共産党、民主的王党派との連合を提案。共産党との 協力拒否の国外派と衝突する。アマトの没落によりラモン・ルビアルらが国内の指導者となる。

1962年 反フランコ闘争の高揚

4月 アストリアスで労働者のストライキ発生.ビルバオやカタロニアにも波及.地下組織「労働者委員会」が活動を開始.

5.04 フランコ,非常事態宣言を布告.人民解放戦線(トロツキスト)の地下組織が弾圧を受け約100人の活動家が逮捕された。

5.09 知識人23人の署名による,報道の自由と経済の安定を求める声明.学生や労働者は反独裁に闘争を切り替える.

5 ETAの第一回総会.ETAは「バスク民族解放のために結成された非宗教組織であり,武装闘争も含めたあらゆる手段を用いる」ことが宣言される.

6.05 ミュンヘンで反フランコ派による「ヨーロッパ会議」開催.スペイン国内からも,王党派,キリ民党などから80名が参加.共産党は排除される.会議は,人権の保障,労働運動の自由,ストライキ権,政党結成の自由などを要求.参加者は帰国後逮捕され,カナリア諸島に監禁される.

62年 共和政府亡命政権のマルティネス・バリオ大統領,死亡.亡命政府は事実上消失.

1963年

4.20 共産党執行委員フリアン・グリマウ,内乱中の犯罪行為を理由に死刑となる.内外で抗議運動.

11.14 バルセロナのモントセラート修道院長,反フランコ発言により解任される.

1964年

9.30 102人の知識人が,報道制限とストライキ弾圧に抗議する書簡を政府に提出.

64年 共産党内で論争。フェルナンド・クラウディン、ホルヘ・センプルン、フランシスコ・ビセンス、フェデリコ・サンチェスが右派として追放される。反対派はスペイン共産党(ML)を結成。

1965年

1.08 マドリードにおける大学闘争.47名の学生逮捕.

1月 キリスト教民主主義統合を企図した,マドリードにおけるロス・モリャーノス会議.

1966年

3.15 新聞および出版法,公布.検閲制を廃止する.ただし発禁の権利は留保.

11.22 国家組織法が議会に上程される.国家元首の他に首相の職を置く提案.

12.14 国家組織法,国民投票により可決される.

66年 ETA内紛.モスクワ派幹部4名を除名し,毛沢東思想と極左主義を叫ぶようになる.議長に22歳のエチェバリエタを選出.EKIN以来の幹部エムパラントサは運動を離れる.除名組はスペイン共産主義運動を結成.

1967年

1.17 米軍水爆搭載機,アルメリアのパロマレス沖に墜落.

1 マドリード大学における学生運動に警察が介入.学生数千人による抗議行動.

3.15 政府,出版法を公布.言論活動に種々の制限が加えられる.

67年初 ETA,地下で総会開催.「民族解放バスク社会主義運動」と改称.従来の民族主義路線を脱し,マルクス主義的社会主義運動を標榜.

7.1 欧州の三つの共同体が統合,EC発足.

9 フランコ後継者と目されたムニョス・グランデス,病気のため現役を退く.後任副首相にはルイス・カレロ・ブランコ海軍提督が就任.

67年 社会労働党の指導するビスケーの2万5千人の金属産業労働者のストライキ。ラモン・ルビアル、エンリケ・ムヒカらが逮捕される

67年 カタロニア社会主義統一党内の毛沢東一派が分裂。スペイン共産党(国際主義)を名乗る。

67年 ETA議長のエチェバリエタ,治安部隊との銃撃戦で死亡.ETAは報復として,治安警備隊の政治担当部長マンサナス警部を暗殺.フランコ政府はバスクを中心に非常事態を宣言,600人以上の活動家を逮捕.

1968年

3.15 地下で影響力を拡大してきた共産党系の労働者委員会に対し,大弾圧が行われる.

8月 スペイン共産党,ソ連のチェコ侵入を公然と批判.

10.12 スペイン領ギニアが独立.ポルトガル領ギニアも赤道ギニア共和国として独立.

12 カルリスタ,ドン・カルロスの5代目にあたるカルロス・ウゴの擁立を図る.フランコはカルロス・ウゴを国外追放に処す.

68年 人民社会党(PSP)が大学を基盤に非合法地下活動を開始。代表はエンリケ・ティエルノ・ガルヴァン。党をマルクス主義と規定。

68年 ETA,武装闘争戦術を採用.サン・セバスティアンの警官を暗殺.実際に行動したのは武闘派のETA軍事戦線 (ETA Militar--ETA-M).政府は戒厳令を敷き200名を逮捕.主流派のETA政治・軍事戦線(ETA Politico-Militar−ETA-PM)は合法政治活動とゲリラ活動を結合する戦略.

1969年

1 マドリード大学で学生8千人が集会.反フランコ独裁のスローガンを公然と掲げる.

1.24 マドリード,バルセロナで学生運動が盛り上がる.政府は戒厳令を敷き弾圧に乗り出す.バスクでは反フランコ派神父と学生が共同行動をとる.

7.22 フランコが,ファン・カルロスを後継国家元首に指名.

7月 政権中枢部の絡んだ汚職,マテサ事件が発覚.

69年 ETAによるパンプロナ監獄襲撃未遂事件.当局は1953人を逮捕.

 

イベリア半島の民主化

1970年

3.25 アストリアスで鉱山労働者1万人の参加するストライキが成功.

11.21 ビルバオ,サンセバスチャンの両司教,ETA活動家の死刑回避を要請.

12.03 ブルゴスでETAによるマンサナス警部ら殺害事件の軍事裁判が始まる.

12.14 バルセロナのモンセラート修道院における知識人の死刑反対宣言.

12.28 ブルゴス軍事裁判が結審.主犯格の6人に死刑が宣告される.

12.31 フランコ,国内外の世論の抗議により懲役30年に減刑.

70年 ETA−PM,民族主義・武装闘争路線のETA−Vと左翼路線のETA−VIに分裂.

1971年

10.19 労働者委員会に対する第二次大弾圧.

71年 カリリョに対抗してソ連派がスペイン共産党([―\会議)を結成する。

72年 社会労働党のトゥールーズ大会で国内派(フェリペ・ゴンザレス、ニコラス・レドンド、パブロ・カステリャーノら)が国外派(ロドルフォ・リョピス)に勝利。両者は正統性を求めて社会主義インターで争い国内派が支持を得る。

1973年

6 フランコの懐刀ブランコ副首相が,新設された首相職に就任.独裁政権への不満がさらに高まる.ブランコ,就任演説の中でETAの壊滅を宣言.

12.20 カレロ・ブランコ首相,ETA−V(ETA-M?)の車爆弾により暗殺される.

12 ETA−VI,スペインの共産革命同盟と合併.ETA−Vはますますテロリズムに傾斜.革命愛国労働者党(LAIA)とバスク労働者委員会(LAB)はETAとの絶縁を宣言.

73年 エンリケ・リステルがカリリョに対抗してスペイン共産主義労働者党(PCOE)を結成。リステルはソ連亡命中ソ連赤軍でレニングラード防衛線を闘い、キューバ革命にも参加。ソ連軍のチェコ侵入を支持し、カリリョと袂を分かつ。86年にカリリョが解職されるとともにPCEに復党。

73年 共産党左翼反対派のマルガ・サンスら労働者共産党(Partido Comunista de los Trabajadores)を結成。

1974年 

1.04 ブランコに代わりアリアス・ナバロ内相が首相となる.

1月 モザンビークのベイラで極右人種主義者が,戦争強化・国軍反対のデモを展開.軍と衝突.

2.12 ナバロ首相,議会で演説.政治結社の自由など開放政策を打ち出す.「2月12日精神」と呼ばれる.フランコはこの提案を無視.

4.25 ポルトガル国軍運動によるクーデター決行

7.12 フランコ,静脈血栓で入院.フアン・カルロスが国家元首代理を務める.

7.29 パリで共産党や共和派小党,スペイン労働者党、人民社会党(エンリケ・ティエルノ・ガルヴァン)にカルロス党(王党派のカルボ・セレル派)を加え,スペイン民主評議会を結成.

9.02 フランコ,ふたたび国家元首に就任.

9 カタロニアのアナキストが処刑される.

9 ETA,マドリッドの治安警察官の溜まり場であったカフェ・ローランドを爆破.民間人を含む12人が死亡,80人が重軽傷.この事件をきっかけとして,ETAは大衆闘争中心のETA−PMと,武装闘争のみを求める過激グループのETA−Mに分裂.

10.29 フランコ,政務に復帰.自由化を唱える情報観光相を罷免するなどの強硬策に出る.これに抗議する政府高官20人が辞任.第二次アリアス・ナバロ内閣が成立.

12.23 スペインで,政治結社自由法が制定.一部の政党が活動を許される.

74年 フェリペ・ゴンザレスが社会労働党書記長になる。党をマルクス主義、社会主義から社会民主主義に転換。ハヴィエル・ソラナはゴンザレスの片腕となり、のちにNATO事務局長となる。

 

1975年

4.14 反フランコの民主集合プラットフォーム。共産主義者運動、民主左翼、労働者革命組織、スペイン社会民主連合などと結成。独裁制からの民主的決別を唱える「和解宣言」を発表.その後スペイン民主評議会に発展改組。

4.25 「和解宣言」を支持し,恩赦と政治的自由を求める運動がスペイン北部で盛り上がる.政府は北部地方に非常事態宣言.

6.18 スペイン社会党,民主主義左派を中心に「民主勢力結集綱領」を作成.

6.28 政府公認の職場委員を選ぶ選挙.労働者委員会など反フランコ勢力が圧勝.

9.18 ETAと「愛国的反ファシズム革命戦線」(FRAP)の活動家10人に死刑判決.

9.27 ブランコ首相暗殺に関わった,ETA活動家二人とFRAP活動家三人が処刑される.メキシコは国交断絶.他14カ国の代表がスペインから引き揚げる.ECはスペインとの自由貿易協定交渉中止を勧告.

10.16 モロッコ王ハッサン,スペイン領西サハラの併合を目指し「緑の行進」を開始.35万人が参加.

10.30 フランコ,静脈血栓による心不全症状が悪化し,再入院.ファン・カルロスが臨時国家元首に就任.

10月 共産党系の「民主評議会」と社会党系の「民主勢力結集綱領」が,連絡委員会を設置.

11.14 フアン・カルロス元首代行,サハラ領有権の放棄を発表.

11.20 フランコ総統,三回にわたる手術も奏功せず死去.82歳.

11.22 カルロス王子が国王に即位し王政復古.

75年 ETA−PM,社会主義愛国者調整組織(KAS)を結成.政治活動と武装闘争の両立をはかる.テロや誘拐事件については過激派と変わるところなく,さらに内部対立が続く.指導部はヨイエスら離脱した幹部をも暗殺の対象とする.

75年 CNTが再建される.内戦以来の矛盾が噴出し,政治的影響力は皆無となる.

 

1976年

1.29 民主評議会と民主勢力結集綱領合同.「民主勢力調整組織」を設立.

1 ナバロ首相,政治改革案を発表.国会を二院制とし,政党・結社の自由を認める方向を明らかにする.

2.26 スペインのサハラ統治が終了.

2月 カリリョ書記長、非公然に帰国。

4.28 アリアス・ナバロ首相,民主化計画を発表.

6 全政党の活動が合法化される.ただし共産党は除外される.

6 ベルリンでヨーロッパ共産党会議.スペイン,フランス,イタリアの共産党代表がソ連共産党に対する批判をおこなう.

7.08 ナバロ首相,辞意を表明.国民運動事務局長のアドルフォ・スアレス・ゴンサレスが新首相に就任.民主中道連合政府が成立。

7.28 共産党、イタリア・ローマの芸術劇場で民主化過程への参加を表明。国内外の党員名を発表。

7 カリリョ共産党書記長,帰国.合法化に向け,半ば公然と活動を開始.

9.10 スペインのスアレス首相,77年選挙を含む新政治改革案を発表.

9.22 欧州議会,スペインに対し共産党を含む全政党の合法化要求を決議.

10月 国内で地下活動をしていた党員に党員証を発行。

1976年12月

12.06 民主勢力調整組織が拡大した民主団体会議,対政府交渉団結成.共産党、社会主義労働者党、キリスト教民主派などが結集。

12.06 マドリードで社会党第27回大会開催.

12.10 国内の主要な政治団体のトップが参加した『九人会』が発足。

12.10 カリリョ書記長,マドリードで記者会見.国民投票を前に共産党の合法化を訴える。

12.11 ETAがオリオル国家評議会議長を誘拐。

12.15 スアレス政治改革案に対する国民投票.圧倒的多数が支持.民主的反対派は棄権を呼びかける。

12.22 カリリョ書記長ら党指導部7人が逮捕される。その夜にはマドリード市内中心部でカリリョ釈放をもとめる数千人のデモ。

12.30 カリリョ書記長,世論の盛り上がりの中で1週後に釈放される。その場の非公式記者会見ですべての政治囚の大赦をもとめる。

12.30 政府、治安裁判所を廃止すると発表。

 

1977年

1.24 スペインで極右グループが弁護士事務所を襲撃.5人が殺害される.

1.26 弁護士5名の葬儀が行われ、カリーリョが公衆の場に姿を見せる。

2.11 スペイン共産党、内務省に政党としての登録を申請。内務省は判断を留保。

2.18 社会党や人民社会党などが合法化される.共産党の合法化は見送られる.

2.27 スアレス首相と、カリーリョ書記長が秘密会談。

3.02 マドリードでマルシェ,ベルリンゲル,カリリョの初会談.ユーロ・コミュニズム路線を確認.

3.30 労働組合結成の自由を認める法律が公布される.これにより官製の「垂直組合」は消滅.

4.09 スペイン共産党が合法化される.25万人の党員が姿を現す。海・空両大臣はこれに抗議し辞任.

4 ETA−PMの政治部門となる大衆連合(HB)が結成される.ブロウアードとムグルサの二人が最高指導者につく.バスク民族のスペインからの独立を目指し,共産運動グループなどとともにバスク左翼党(EE)を結成.

5.13 スペイン共産党前書記長のドローレス・イバルリ(パショナリア)が亡命先のモスクワより37年ぶりに帰国

77年6月

6.15 スペインで41年ぶりに自由な総選挙が行われ,民主中道連合が47%,166議席を獲得し,上院・下院で第1党となる.社会労働党は34%,118議席,共産党は171万票(6%),19議席を獲得(一説に9.3%、20議席).フランコ派の大衆同盟は16議席と惨敗.

6.15 人民社会党はアンダルシア社会党などの地域左翼運動と連合を組み、816582票、4.46%、6議席獲得。その後ガルヴァンはPSOEとPCEの支持を受けマドリッド市長となる。

6.15 バスク地方ではバスクの自治権を要求する左派勢力が勝利.バスク左翼党(EE)はナバラを除く3県で上下院議員各1名ずつを当選させる.ETAーPM内の過激派「ベレチアック」は,組織内で孤立した結果,ETA−Mに移籍.

77年7月

7.24 スアレス首相,経済緊急計画を発表.

7 ソ連共産党,カリリョを名指しで批判.

10.08 政府と各政党,経済危機打開のためモンクロア宮殿で会談.政府,激発するテロに対し,全政党による「救国協定」を訴える.

10.27 政府と各政党,「モンクロア協定」に調印.スペイン共産党もこれに参加.

11.09 カタルニアで自治政府が発足.

12 スペイン議会,バスクにおける暫定自治政府の設立を承認.

 

1978年

4.19 合法大会としては46年ぶりとなる第9回党大会がマドリードで開催される。レーニン主義を放棄した「テーゼ15」を採択

10.31 新憲法が議会で可決される.

12.06 憲法を問う国民投票.大多数の賛成で成立.

78年 人民社会党が社会労働党に合流。6議員が加わる。

1979年

5月 社会労働党のマルクス主義削除を提案。ゴンサレスは信を問うためいったん辞任。

10 バスクの帰属を問う住民投票.自治憲章第28回党大会で、が圧倒的多数で承認される.

3.01 総選挙。共産党は大都市を中心に前回を上回る200万票で23議席を獲得。

4.03 48年ぶりとなる地方選挙が実施される。共産党は大都市部で勝利。

9月 社会労働党が臨時大会。マルクス主義削除をきめる。ゴンサレスは自らの再選を果たす。党の象徴が本と金槌から拳とバラに変わる。左派は社会労働党を離れ社会主義左翼(IU)を結成。

79年 毛沢東派のスペイン共産党(国際派)が192330票、1.07%を獲得。翌年、激しい内部危機で解散。

79年 社会労働党、マルクス主義傾向を一掃。

1980年

1.26 イタリア・スペイン両共産党書記長が,ソ連のアフガニスタン侵攻とサハロフ国内流刑を非難する.

1月 バスク議会の選挙.ETAのテロ活動が活発化.1ヶ月で20人の犠牲者を出す.

7月 スペイン共産党第10回大会が開かれる。分派が事実上承認され、カリリョ書記長のユーロ・コミュニズムを中心に、改革派(レノバドレス)、超改革派、ソ連派(アフガン介入を支持したことからアフガノスと呼ばれる)が分派を形成しあらそう。

80年 カタロニアの分離主義者の組織Terre Lluire(自由の大地)が結成される.一連の爆弾テロを行う.

80年 親ソ派のスペイン共産党([―\会議)と労働者共産党(PCT)が統合し統一スペイン共産党(PCEU)を結成。

1981年

2.23 テヘロ中佐の率いる治安警察隊が,軍事政権の樹立と君主制の全面復活を要求して国会議事堂を占拠.内閣閣僚と議員350人を人質にする.

2.23 バレンシアでは方面軍司令官ミランス・デル・ボッシュ将軍が、非常事態宣言をだしてバレンシア市を掌握。

2.23 国王ファン・カルロス1世、国民向けテレビ放送でクーデタを非難。

2.24 反乱部隊が投降し,クーデターは失敗.

2.27 民主主義と憲法体制擁護を訴える約300万人のデモ。デモの先頭にフラガ国民同盟党首からカリーリョ共産党書記長までが並ぶ。

7.28 第10回党大会が開かれる。カリーリョ書記長再選。党大会の場でカリーリョ書記長は党内の親ソ派を攻撃。

10.24 スペイン共産党本部、バスク共産党(スペイン共産党バスク支部)を解散処分。バスク革命党合併支持派16名を懲戒処分とした。

11.10 バスク共産党のレルチュンディ書記長が離党。このあと党地方議員41名が抗議の辞任。

1982年

1.26 カタルーニャ統一社会党(PSUC)がユーロコミュニズム派と少数派に分裂。少数派は統一社会党viuを形成。

5月 スペインがNATOに加盟。欧州諸国の反対のため政治機構にのみの参加となる。

7.02 スペイン・アメリカ友好防衛協力協定が締結される。スペイン国内の基地から核兵器を撤去することで合意。

10.28 スペイン総選挙の結果,「変革のためにPor el Cambio」を掲げた社会労働党が上下両院で単独過半数を獲得。ゴンザレスが首相に就任.

10.28 共産党、選挙で23議席から4議席に後退。

11.06 カリリョ書記長が辞任、カリリョの推薦を受けたエラルド・イグレシアスが書記長に就任する。カリリョは執行委員のポストにとどまる。

カリリョはフランコの流れをくむ右派と組んだモンクロア協定に固執した。その結果労働者に耐乏を強いる、米軍駐留にも反対しないなどの宥和戦術をとり国民の信頼を失った。(緒方)

11.14 知識人や芸能人の共産党員が大量脱党。

11月 ゴンサレス首相、「社会的な統合」の方針を発表.テロ戦術を放棄することを前提に獄中,あるいは国外亡命中のETAメンバーに大赦を与える.これを機に,フランス政府は,バスク人テロリストの取締りに積極的にあたる意思を表明.

12月 共産党全国協議会、総選挙結果を総括する。「社会の中へ戻る」というスローガンを掲げ、議会内の活動に過度に集中したことを反省。カリリョは総括の方向に反対し、大衆集会などの場で公然と指導部を攻撃、マスコミが競って取り上げる。

1983年

5月 スペイン共産党、ゴンサレス社会労働党政権の政策に反対し、政治変革を求める広範な左翼との共同を求め、「左翼の結集」路線を打ち出す。カリリョ一派はこれを右翼偏向と批判。

7月 ゴンサレス政権、EC入りを目指し「再工業化白書」を発表。ECの経済環境に適応するための産業構造の転換を打ち出す。製鉄、造船、繊維などの危機産業を整理し、成長部門への集中を図る。

12.18 共産党第11回大会。「革新の代案」を提起。社会労働党に対する批判を明確にし、そのために議会外の活動を重視する。イグレシアス書記長を再選。カリリョ一派は党大会に向けた政治文書起草委員会への出席を拒否。党指導部に対して「社民主義、清算主義」と非難。「大衆運動の自主性と複数性をいかなる留保もなく承認」したことから、果てしない不毛の討論が続く。

1983年後半 ETA-Mの分派「スペイン・コマンド」,マドリードで市民警察,軍隊のメンバーを射殺.ETAは誘拐,強盗,経営者からの「革命税」などで潤沢な資金を獲得.この時期に勢力がピークに達する.

1984年

1月 イグナシオ・ガジェゴらソ連追従派が「新党」結成に踏み切る。「プラウダ」紙はガジェゴを「スペインの共産主義運動、労働者運動のベテラン」と賞賛する紹介を掲載。ガジェゴはソ連を訪問して指導部との間で共同文書を交わす。

このころソ連の干渉の下に反党組織の離合集散が繰り返された。統一スペイン共産党(PCEU)のイニシアチブで共産主義者統一会議が開かれ、カタルニア共産主義者党、PCE再建運動、PCE再建統一運動その他の小グループが統一しスペイン人民共産党PCPEを結成した。組織人員は約1万人とされる。大会にはソ連共産党の公式代表が参加する。

2.26 カリリョ、党内には二つの潮流がある。一つは指導部を中心とする右派で、一つは自分を中心とする左派だと述べる。カリリョはみずから確立した自主独立の「ユーロ・コミュニズム」を投げ捨て、ソ連に追随しながら党の指導権奪還を狙う。

3月 共産党、党の統一と正常化をテーマに中央委員会を開催。党正常化提案が全党討議にかけられる。カリリョ派は孤立を深める。

4月 ソ連共産党との関係修復を求め、シモン・サンチェス国際関係責任者がモスクワを訪問。ソ連は会談は約束するが日程を定めず引き延ばす。

6月 労働者委員会の第3回大会。「経済社会協定」拒否の態度を確認する。書記長に共産党執行委員のマルセリノ・カマチョを選出。

10月 政府・経団連・労働総同盟の三者か2年間の経済成長、インフレ抑制、賃上げの制限に関する協定(AES)を締結。労働者委員会は調印を拒否する。

84年 反テロリスト解放グループ(GAL)結成.右翼テロリストの秘密組織で,実体は私服の市民警察.結成に当たってはスペイン内務省が関与.主にフランス国内でテロリストに対する復讐テロを実行した.

84年 大衆連合(HB)の指導者ブロウアード,反テロリスト解放グループ(GAL)によって暗殺.以後,GALは多くのETAやHB関係者を暗殺.この事件をきっかけに,「汚い戦争」と呼ばれるETAとGALの暗殺合戦が始まる.

1985年

3.05 共産党が執行委員会と中央委員会を連続して開催。カリリョ派中央委員19人は執行委員会の「統合提案」を拒否。

3.28 共産党員市長のコルドバ市で、第2回非核自治体国際会議を開催。

3.29 共産党が全国協議会を開催。現党員数を67,808人と発表。@11大会後の活動の総括、A社会労働党の右傾化に対する評価、B党の正常化と再建、を課題とする。報告では社会労働党と一線を画すこと、無党派左翼を結集し統一リストも念頭に置くことを提起。

3.29 カリリョ派は会議をボイコットし、マドリードのホテルで指導部を非難する記者会見を開く。党指導部は全国協議会を中断し執行委員会、中央委員会を開催。

3.31 カリリョ、共産党執行部と中央委員会からの退任要請を拒否。

4.04 共産党中央委員会、カリリョら19人を指導部から解任。カリリョを党議員団スポークスマンのポストから外すことを決議。続開された全国協議会では、賛成209、反対0、棄権3で可決される。当面党籍は残し反省を促すこととなる。

4月 共産党、カリリョの拠点だったマドリード、バレンシア、ガリシアなどで臨時党会議を開催し、党中央に結集する新指導部を選出。8万6千の党員、160人の共産党員市長のほとんどが中央に結集する。

5.06 レーガンがスペイン訪問。平和団体調整委員会の呼びかけで全国20都市で約100万人が抗議集会に参加する。

6.16 カリリョ一派、法務省あてに「新党」を登録。

6月 労働者委員会(共産党系)と労働総同盟(社会労働党系)の二大労組の呼びかけによる年金改悪反対の統一行動。全国50か所で100万人が参加するデモ。ストライキには400万人が参加する。

10.10 共産党書記局、カリリョらの「スペイン共産党(革命的マルクス主義)」の政党登録に際して、これらが共産党と無縁のものであることを確認する声明。

1986年

1.01 スペインがEC加盟を果たす。社会労働党はECの一員としてNATOの義務を果たす、NATO脱退は再び孤立につながると宣伝。

3.12 NATO残留の可否を問う国民投票。残留賛成が60%、反対が40%となる。ただし闘いを反映して、残留に@軍事機構への不統合、A核の配備、貯蔵、搬入の禁止、B駐留米軍の暫時削減の三条件がつけられる。ほぼ700万国民が反対に投票したことになる。

3.13 作家アントニオ・カラ率いるNATO撤退市民プラットフォームと共産党は米軍基地撤去運動をさらに続けると声明。当面6月の総選挙に力を集中することとなる。

4.18 エンリケ・リステルのスペイン共産主義労働者党、共産党に再合流。共産党は「共産主義勢力の統一」の名の下に反党分派の和解・受け入れを進める。

4.27  統一左翼プラットフォームが結成される。社会主義労働者党以外のほとんどの左翼組織を結集する。主な政党として共産党、カタロニア統一社会党、社会主義行動党、共和主義左翼、カルロス主義党など。(緒方靖夫氏によればスペインでは、「共産主義」を党名に冠する組織が選挙登録政党だけでも20にものぼるとされる)

6.22 統一左翼として最初の総選挙。4.6%、7議席を獲得。PCEのそれまでの議席より3増となる。統一左翼はイグレシアス共産党書記長を議長とする政治委員会を編成して戦った。活動家の8割を共産党員が占める。

7月 アメリカ軍基地を巡る交渉が開始される。トレホン、サラゴサ、モロンの三空軍基地とロタの海軍基地が対象となる。とくにトレホン空軍基地はマドリードからわずか40キロに核兵器搭載が可能なF16戦闘機が72機配備されている。

11.02 マドリードで米軍基地撤去を求める1万2千人のデモが行われる。

12.04 授業料無料化を求め、高校生ら10万人がストライキ。17日にはさらに規模が拡大し100万人が参加するストライキとなる。若者の8人に一人が経済的理由で高校進学を断念する状況が背景となる。さらに青年層の失業率は50%に達する。またフランスでの学生運動の勝利が刺激となった。

12.13 「基地撤去、平和、非核化」をもとめる百万人署名運動が開始される。

86年 カタロニアの統一社会党はユーロコミュニズム路線をかえず、カタロニア・イニシアチブに合流する。

86 報告によれば,およそ200人のテロリストがフランスの隣接した地方でバスク人社会に潜み,テロリスト任務のための聖域としているとされる.

 

1987年

1.20 高校生100万人が4日間にわたりストライキを決行。エル・パイス紙の世論調査では、国民の67%が学生の闘いを支持。

2.18 政府、貧困家庭の学費免除など総額500億円相当の高校補助を約束する。

3月初め アストリアスで炭鉱労働者が政府の石炭政策転換に抗議してストに突入。このあと国鉄労働者、学生が相次いでスト入りする。

3.13 4万人の農民が決起。道路にオレンジやレモンをばらまき封鎖するなど、農業破壊政策に抗議。

3.15 マドリード・トレホン間の平和行進に10万人が参加し、基地撤去をもとめる。

6月 地方選挙。社会労働党議員2700人が落選。統一左翼はゴンサレスの合理化政策に対する反感を背景に7.18%を獲得する。失業者数は400万人、失業率は21.5%で、西欧諸国の平均に比べ2倍以上に達する。

10.25 全国主要8都市で「基地撤去要求」でデモ。マドリードでは12万人を結集する。社会労働党員であるマドリード市長もデモに参加する。

10月 共産党中央委員会、「共産主義者の統一について」と題する決議を採択。ガジェゴ派との再統一に乗り出す。

11.10 共産党が対テロ防止協定に調印したことで統一左翼に亀裂が生じる。

11.14 米西条約自動延長拒否の通告期限となる。スペイン政府は、現行条約の自動延長はないとアメリカ政府に通告。

11月 UGT書記長を始めとする労組出身の社会労働党国会議員が、ゴンサレスの自由主義政策に抗議して辞任。

12.05 改進同盟(進歩連合)が統一左翼との提携を放棄し解散。カルロス主義党もIUを去る。

87年 ETA,バルセロナのスーパーマーケットに爆弾テロ.市民24人が死亡.

87年 ETA,サラゴサの市民警察の住宅に爆弾テロ.5人の子供を含む11人の家族が犠牲となる.

87年後半 スペイン,フランスでETA-Mの一斉摘発.多くの年上のメンバーの逮捕,武器,爆薬の貯蔵所の発見.

87年後半 バルセロナの米国公館職員クラブ,領事館が手榴弾で攻撃される.分離主義テロリスト組織「自由の大地」が犯行声明.

1988年

1月 共産党とガジェゴ派との再統一をめぐる協議が開始される。@個人でも集団でもすべての共産主義者の統一。A不一致点、異なる見解の放棄は求めない、B大会の代議員数は各組織の党員数に比例させる。

1月 社会労働党大会。UGT系代議員は「金持ちをより金持ちに、貧乏人をより貧乏人にする」政府の方針を批判。

1月 1年半の交渉を経て、トレホン空軍基地のF16戦闘機72機の全面撤去で合意。

2月 党大会を直前に控え、ヘラルド・イグレシアスが共産党書記長を辞任。「党書記長という役職のドラマ性を減らす」とし、書記長の3年ごとの輪番制、二期連続の禁止などを提案する。

2.19 共産党第12回大会が開かれる。フリオ・アンギタ・ゴンサレスに交代する。アンギータは「闘う党への立て直し」を強調。党の団結と民主集中制をすすめると述べる。この時点で党員数は最大事の23万から6万に減少。機関紙は日刊5万から週刊2万に減る。

フリオ・アンギータは大学の歴史の先生で、フランコ時代に秘密党員となった。民主化されて間もない1979年、彼はコルドバ市長に当選し、「赤いカリフ」の異名をとった。アンダルシア地方での共産党支持率は17.8%に達した(全国平均は6.9%)。7年にわたってコルドバ市長を勤めたあと、党再建を託され、88年2月の党大会で共産党書記長に就任した。アンギータはアンダルシアに強力な共産党を作りたいと考えており、書記長就任を固辞し続けてきた。

2月 CCOOとUGTのトップ会談が開かれ、労働者の生活防衛を始めとする共同声明を発表。

12.14 社会労働党の経済社会政策への反感が強まる。CCOOとUGTは24時間の全国ゼネストを実施、約800万人が参加。IUに対する支持が高まる。

88年 ガジェゴ、共産党に復帰。8000の活動家や多数の指導者らが行動を共にする。反PCEグループはガリェゴを解職、PCPEの名の下にIUをはなれる。

GALの実態が暴露される.政権の関与が明らかになり内相らが実刑判決を受ける.

西仏当局,フランス在住のETAメンバーは,合同捜査により1/4〜1/5に減少したと発表.

1989年

1月、国民同盟党大会、党名を「国民党(PP)」に変更、フラガにかわって若いアスナールを党首に選出

2月 IUの第1回全国大会。IUは「政治的・社会運動」として規定され、コーディネーター(議長)にはPCE書記長のフリオ・アンギータが選出された。

アンギータは運動再建の鍵となる統一左翼の強化を主張した。彼は社会労働党との正確な関係を打ち立てるのに心を尽くした。彼のモットーは“programa, programa, programa”であった。つまり個別の計画ごとに協定を結ぶべきであり、システムとして縛るような協定はいけないということである。

10月 総選挙でIUは9.07%、17議席を獲得し、得票数で第3位、議席で第4位政党となる。UGTはPSOE支持をとりやめる。

11 大衆連合(HB)のもうひとりの指導者ムグルサ,GALにより暗殺.

1990年

4月 スペイン共産党第6回全国協議会。アンギータ書記長の提起した「左翼の統一強化」を訴える決議を採択。

90年 IUの単一政党化の動き。PCEその他の参加政党から権力をIU組織に移動することが決まる。

90年 石油価格の高騰から世界経済が後退期に入る。

1991年

12月 PCE第13回党大会が開かれる。IUの政党化について議論が紛糾。アンギータ書記長の判断により見送られた。

91年 カリリョは政治から引退。残党はPSOEに吸収される。

1991年

92年 バルセロナ・オリンピックとセビーリャ万国博覧会が開かれる。期待した経済効果なく、財政赤字が膨らむ。

92年 IUが政党として登録。保守の国民党にも連携を働きかける。

92年 IU内に、新左翼と呼ばれるグループが出現。ニコラス・サルトリウス、 ディエゴ・ロペス・ガリド、クリスティナ・アルメイダら著名な人物が多く、マスコミを通して影響力を拡大。

93年 総選挙。PSOEは過半数割れ。カタルーニャの「集中と統一」の閣外協力により政権を維持。IUは9%の得票率を維持。

1994年

94年 雇用契約自由化などに対して、再び二大労組の抗議ゼネスト。

95年 革命的共産主義者同盟(トロツキスト)の一部が結成した選択左翼がIUに参加。選択空間を形成する。その後革命的労働者党POR、新クラリダー(澄明)などのトロツキストがIUに参加。

96年3月 総選挙。PSOEは経済危機、腐敗醜聞、テロで得票を激減させ、国民党に政権を渡す。IUは約11%を獲得。新左翼はIUを離れ新左翼民主党となる。

1998年

10 ETA,一方的に休戦を宣言.30年間でおよそ800人がテロの犠牲となる.

12月 第14回共産党大会が開かれる。アンギータは心臓発作のため共産党書記長を辞任する。フランシスコ・フルトスが書記長に就任。

98年 カタルニア統一社会党が中道よりに移行。これにともない「カタロニアのイニシアチブ」が分裂。左派は「統一左翼と選択」(EUiA)を結成。IUとの同盟関係を維持する。

1999年

12.03 ETA,1年余りにわたる停戦を破棄すると声明.

12.20 マドリードから約200キロのカラタイユド付近で,爆発物(計950キロ)を積載したトラックを発見.ETAが首都マドリードでの爆弾テロを計画していたことが発覚.

99年 ユーロ導入。これによりEUの中でも高い経済成長率を達成

99年 アンギータ、二度目の心臓発作。IUの議長がアンギタからフランシスコ・フルトスに交代。反国民党の立場からPSOEと協力するようになる。

 

2000年

1 ETA,爆弾テロ活動を再開。マドリードで爆弾テロ.スペイン各地でテロに抗議するデモ.

2.22 バスク地方,ETAによる爆弾テロ.政治家ら2人死亡.

3.12 総選挙投票.与党・国民党が下院で過半数を制して勝利.IUは反国民党の立場からPSOEと協定を結ぶが得票率を5%に減らす。議席は20から8にまで低下する。

6.04 ETA,国民党所属のバスク市議を射殺.

6.25 バスクで車爆弾.住民7人が負傷.

8.08 バスクで爆弾テロ.1人死亡.マドリードでは車爆弾で11人が負傷.

8.20 バスクで爆弾テロ.二人が死亡.

9.13 ETAメンバー18人が逮捕される.

10月 IU定期大会。フルトスの対抗馬として立候補したガスパル・リャマサレスが僅差で勝利。PSOEとの共闘路線から独自路線(エコ・ソーシャリズム)への転換を図る。

 

2001年

3.09 ETA,エルナニで車爆弾を爆発させる.警察官二人が死亡.

01年 IUの路線が混迷。社会主義行動党がIUを去る。その後数年のうちに共和主義左翼などがIUを離脱。

2002年

02年 ユーロ景気により失業率が11%まで低下。

2003年

3.11 マドリッドのアトーチャ駅など10ヶ所で同時爆弾テロ。191人が死亡し、約1500人が負傷。事件直後、アスナール首相はバスク組織ETAの仕業だと発表。

3.13 国政選挙。社会党が劇的な逆転勝利。IUは5%の得票で3議席、ICVとあわせ5議席にとどまる。

4.03 警察当局はマドリード市南部郊外でテロの容疑者のアパートに突入。爆弾が爆発し、国際手配していたチュニジア人ら7人と警官1人が死亡。

3.15 サパテーロ新政権は、直ちに外交政策を転換し、欧州との関係改善に努めるとともに、イラクからの派兵を引き上げると発表。

5.21 スペイン軍のイラクからの撤退完了。

03年 選挙の敗北を受けたIU大会。調整者にはガスパール・リャマザレスが49%で選出される。PCEと共産主義者青年支持のエンリケ・サンチャゴが38%。

2004年

9.09 サパテロ政権、フランコ時代に訴追された人々の名誉回復を図る「省庁を越えた委員会」を設置。スペイン領内で3万人以上の人間が、内戦時代に殺され、共同墓地に埋められているとされる。

9.28 スペイン政府、カトリックに関する教育を選択制とし、学科としての評価をしない方針を打ち出す。サパテロ首相は「スペインを近代化し寛大な社会にするために、世俗の考え方を守っていく」と述べる。教会の幹部は、「世俗主義からの激しい攻撃」、「原理主義的世俗主義」、「世俗主義による教会への最大の攻撃」などと非難。

11.20 フランコ死去25周年に当たり、8千人の市民が反ファシズムのデモ行進。行動中、11人の青年が逮捕される。

2005年

1.27 スペイン政府は、「内戦の子供たち」への賠償金支払を決定。600人余に年6千ユーロが支払われる。60人はスペイン国内で避難し、残る540人のほとんどはロシアとメキシコへ亡命。また「子供たち」を受け入れた、メキシコのカルデナス元大統領の追悼式も行われる予定。

2.09 マドリードのコンベンション・センターでETA(バスク祖国と自由)による自動車爆弾事件。少なくとも43人が負傷。

9.29 国境の町セウタで、多数がフェンスを乗り越えて不法侵入を試みる。5人が死亡、数十人が負傷。

05年 PCEのアンヘレス・マエストロが赤い潮流とともにIUを離脱。

2006年

3.23 ETA、暴力行為の永久的(permanente)停止を行なうと発表。

3.30 スペイン国会下院は、カタルーニャ自治憲章改革草案を承認。

07年 バレンシア選出のIU議員イサウラ・ナバロ、リャマザレスを支持。バレンシア共産党と絶縁。

07年 選択空間(トロツキスト系)がIUより離脱。

2008年

3.09 総選挙。社会労働党が勝利。IUは100万票に届かず惨敗。96年の21議席から2議席まで低落する。リャマザレスはIU議長を辞任する。

08年11月 IUは第9回大会。左翼再建計画を承認。PSOEの左派や議会外左翼との連携を追求することとなる。カヨ・ララが議長となる。

09年11月 共産党大会。IUからの撤退動議は13%の支持にとどまる。フランシスコ・フルトスに代わりホセ・ルイス・センテリャが書記長に就任。対立候補はなく85%の信任を受ける。

09年 リーマンショック後の不況。失業率は20.5%、25歳以下では40%に達する。人口の20%が年収7,753ユーロの貧困線以下の生活。(Spanish Communist Party seeks to re-found United Left

10年1月 IU全国大会、種々の社会組織が参加(専門家組合、近隣集合、同性愛支持グループなど)さらに労働者委員会と労働者総連合オブザーバ参加。共和主義左翼はIUに復帰する。議長に共産党代表のカヨ・ララが就任。「変革の受け皿となりうる左翼の再建」をスローガンに掲げる。

2011年

5.15 格差拡大への抗議と是正を求める大規模デモ。スペイン各地で13万人が参加する。

5.15 1千名の若者はそのままプエルタ・デル・ソル広場を占拠。マスメディアが「5月15日運動」と名付ける。

5.17 警官隊が出動し、プエルタ・デル・ソル広場の若者を排除。夕方までに数千人の若者が再び占拠する。

5.26 バルセロナでも警官隊の排除行動。若者が再びカタロニア広場を占拠する。

6.13 若者たちがプエルタ・デル・ソル広場での占拠を終了するという「決議」を上げ自主退去。

11月 総選挙。経済不安の中社会労働党が大敗し、国民党がふたたび政権につく。IUはICV−EUiA、アラゴン主義者連合、バットザールなどと組み、得票を71万増やし、得票率を倍近くの6.92%に引き上げた。この結果一気に二桁の11議席を獲得。バスクでは民族主義左派連合のAmaiurが7議席を獲得、民族主義右派を抑えて第一党になった。

 

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