ポルトガル年表 (1)

(1800〜1945)

1800年以前についてはイベリア年表に一括しています

2002年11月

イベリア年表より分離

 

1800

00 ナポレオン,領土の割譲とフランスへの従属を強要.ポルトガルはこれを拒否.

01年 オレンジ戦争

3.02 スペインがポルトガルに宣戦布告(オレンジ戦争).

4 フランス軍,海路ポルトガルに到着.海上にて威嚇.

5.20 ナポレオンを支援するスペイン軍,マヌエル・デ・ゴドイの指揮下にポルトガル領内に侵入.オリベンサの町でポルトガル軍を撃破.エルバスの農園でオレンジを摘み,「リスボンまで進撃する」というメッセージとともにスペイン女王に送る.この逸話から,オレンジ戦争と呼ばれるようになる.

6 Olivenzaの後,ポルトガルはフランス,スペインとのあいだにBadajoz和平協定を結ぶ.英国船の寄港禁止,フランスへの通商特許状,オリベンサのスペインへの割譲,北部ブラジル(現仏領ギアナ)のフランスへの割譲をみとめる.

1807年 王室のブラジル遷都

10.27 西仏間で,親英派の立場をとるポルトガルの分割占領を決めたフォンテーヌブロー条約締結.

11 ナポレオンの部下ジュノー将軍,3万(10万?)の兵をひきいイベリア半島に進出.ポルトガル王室はイギリスの艦隊に頼り2千名(1万五千?)がブラジルに脱出,リオデジャネイロに亡命政権を樹立.

1811年

5月 英軍,ポルトガル各地で反撃を開始.

14年 ポルトガル,英国の事実上の占領下に入る.

1820年

8.24 ベレスフォード将軍の不在を狙い,ポルトで独立を目指す反乱.

9.01 ポルトガルの進歩派が,全国コルテス会議を招集.「スペイン1812年風憲法」を決議.ベレスフォードの帰還を拒否し,王室に帰国を要請.

9.15 ポルトに臨時政府が樹立される.

1822年

1 リスボンに全国コルテスが招集される.

9 全国コルテス,スペインの1812年憲法を範とした1822年憲法を採択.

12 ペドロ1世,ブラジル皇帝を宣言.

1823年

2 ドン・ミゲルのクーデター.22年憲法を停止.

23年 ジョアン六世の子でブラジル皇帝ペドロの弟,ドン・ミゲル,政府の実権を握る.反英勢力を結集し,「九月憲法」を廃止.極端な反動政治を敷き,反対派にはテロによる弾圧.

25 ポルトガルのジョアン六世,ドン・ミゲルを退陣させ,海外留学に送り出す.

26.4 ジョアン六世が死去.第一継承権を持つブラジル皇帝のペドロは,権力の集中を批判する世論を考慮し,権利を放棄.娘のマリア・ダ・グロリア(当時7歳)を国王に推挙.ペドロの弟ミゲルと結婚することを条件とすることで,ポルトガル側も合意.ペドロはポルトガルに新しい憲法(26年憲章)を定め,ミゲルを摂政にすえた後,ブラジルに戻る.

1828年 ドン・ミゲルとペドロの内戦

2 ドン・ミゲル,宮廷内クーデターによりポルトガルの支配権を奪取.

3 ドン・ミゲル,上下両院を解散.

5 ミゲル,三地方の代表からなるコルテスを招集し,ペドロ憲章の破棄と絶対王政の復活を宣言.

5.18 ポルトの部隊,グロリア皇女とペドロ憲章への忠誠を宣言.内戦はミゲル側の勝利に終わる.その後の反動政治により,数十人が処刑され,数千人が捕らえられ,数千人が海外に亡命.

31 ペドロ,ブラジル皇帝を退位.英国に出航.

31.3 ペドロ,自由主義者の手にあったアゾーレス諸島にわたり,亡命政権を樹立.

31 ジョゼ・マリア・コレイア・モンテロ陸軍少佐,420名の部隊を率い,モザンビークのテテを出発.現カタンガ州に達する.

32.7 ペドロ軍,ポルトに上陸・占領.ミゲル軍は直ちに包囲戦に入る.

1833年

3 ドン・カルロス,ポルトガルに行き,義理の兄弟ドン・ミゲルと行動をともにする.スペイン政府はドン・カルロスの入国を禁止する.

6 ペドロ軍,アルガルヴェに新たな戦線を開く.司令官はテルセイラ公.

6 カボ・サンビセンチで両派の海戦.ペドロ軍が勝利を収める.

7.24 Terceira軍,ファロに上陸.Alentejoを陥落.さらにリスボンに向け進軍.

9 テルセイラ軍,リスボンを落とす.その後も,上流階級,農民を基盤とする絶対主義者は農村地帯を支配.リスボンとポルトは孤立.

1834年

4 ポルトのミゲル軍,リスボン奪回のため進軍開始.ノvora-モンテの戦いで惨敗を喫する.

5 ミゲル軍降伏.ミゲルは年金をもらうことで退位に合意.海外亡命に入る.マリア2世が即位.このあとドン・ミゲル派は没落し,「9月憲法」と産業保護を主張する「9月党」と,「26年憲章」を擁護する親英派「憲章党」との対立になる.

1836年

9.08 ポルトガルで22年憲法の復活を要求する九月党のクーデター.

1837年

7.12 ポルトガルで,テルセイラとサルダーニャがひきいる憲章党の反乱.

9.20 憲章党の反乱,敗北に終わる.

38 孤児やリスボンの慈善院を出たものに,モザンビークの土地が分与される.実際に殖民したものはわずかであった.

1842年

2.10 憲章党のテルセイラとコスタ・カブラルによるクーデターが成功.親英路線をとる.

42 ポルトガルと英国,奴隷貿易の完全廃止条約に調印.

43 ジョアキン・ロドリゲス・グラサ,アンゴラより出発.3年をかけてコンゴ奥地を探検.

1846年

3.04 農婦マリア・ダ・フォンテに率いられた反憲章党(九月党)の反乱.

10.06 パトゥレイアで農民の反乱が始まる.ポルトガルの自立を恐れる英西の軍事干渉により鎮圧される.実権を握る憲章党のサルダーニャは独裁政治を開始.

1851年

5 ポルトガルでサルダーニャ元帥によるクーデター.サルダーニャはボンバル宰相の孫でドンミゲルとの内戦で戦功を挙げる.経済相に就任したフォンテス・ペレイラ・デ・メロは産業インフラの整備に力を注ぐ.革新党(旧憲章党)と歴史党(旧9月党)の二大政党制に移行.

54 アンゴラ在住の商人シルヴァ・ポルト,数次にわたりアンゴラとコンゴを探検.ザンビアでリビングストンと遭遇.部隊の一部は大陸を横断しモザンビークに達する.

56年 ポルトガル政府,「海外布教学院」を設立.植民地住民の強化に力を注ぐ.

57年 モザンビークの黒人をレウニオンに密輸していたフランス船「シャルル・ジョルジュ」号,ポルトガル官憲により拿捕される.ナポレオン三世は船舶と乗員の返還,賠償金の支払いを求める.英国が介入を拒否したため,ポルトガルはこの要求に屈する.

58 ポルトガル,20年の期限付きで奴隷制度を廃止する法律を制定.

69.2.25 ポルトガル帝国全土における奴隷制の即時廃止を宣言.

1870年 赤い地図運動

75 リスボン地理学協会設立.南部アフリカ探検のセンターとなる.

76 レオポルド一世,ブリュッセルに「地理上の会議」を招集.欧州列強による南部アフリカ分割を協議.

76 米国人探険家スタンリー,コンゴを探険.アフリカに対する米国の権利を主張.

77 海軍のエルメネジルド・カペロら,ルアンダを出発し南部各地を探検.

78 スタンリー,「コンゴ国際連合」と契約.ベルギーのレオポルド二世がこの「連合」を支援.

79 カペロの探検に加わったセルパ・ピント大尉は,部隊を離れ南に向かい,プレトリアを経てダーバンに達する.

84 アフリカの植民地分割に関するロンドン会議.英国とポルトガル,ザイール河流域の宗主権をポルトガルに与えるロンドン条約に調印.「コンゴ国際連合」と対立.

84年 ポルトガルに「赤色地図」運動.アンゴラとモザンビクを地続きにする計画.

85 アンゴラからサントメ・プリンシペに多くの黒人が「奉公人」として輸出される.年期は無視され,事実上奴隷の扱いを受ける.

85.2.26 ビスマルク,ベルリン国際会議を招集.「植民地に対する新しい公法」を決議.植民地の領有権は歴史的権利ではなく,実効的占拠により規定されるとする.

86年 ベルリン会議が開催される.アフリカ大陸の諸強による分割で合意.

87 進歩党ジョゼ・ルシアノ・デ・カストロ内閣の外相エンリケ・バロス・ゴメス,アンゴラからモザンビークに至る全ての土地をポルトガル領とする「ポルトガル領南アフリカ」の地図を下院に提示.「領土」がバラ色に塗られていた事から,マパ・コロル・デ・ロザと呼ばれる.内陸部の領有を主張する英国のセシル・ローズとの間に対立.

1890年

1.11 英国保守党政権のソールズベリー首相,ポルトガルの赤色地図計画を非難.内陸部からのポルトガル軍の撤退を求める最後通牒を送付.独・仏の支持獲得に失敗したポルトガルは,英国の要求を全面受諾.計画の断念に追い込まれる.

1891年

1.31 ポルトで共和主義者による反乱.失敗に終わる.

6 英国とポルトガルの間で南部アフリカの領土をめぐる交渉が成立.アンゴラとモザンビークの版図がほぼ完成.

95 モザンビークで最後まで抵抗を続けたヴァトゥア王国のグングニャナ王,捕らえられポルトガルに送還.まもなく獄死する.

1897 モザンビークのヌングニャーナ王国,ポルトガルにより征服される.この当時,白人居住者はアンゴラ9千人,モザンビークに3千人.

1899年

10.14 ボーア(ブール)戦争勃発.ポルトガルは英国とウィンザー秘密条約を結び,トランスヴァールに向かう英国兵のモザンビーク領内通過を黙認.これと交換に,英国はポルトガル植民地の領土保全を承認・保証する.

 

1900

1903 海外からの強い非難を受け,サントメ・プリンシペの「奉公人」制度が廃止される.この間6万人近いアンゴラ黒人が強制労働の下に置かれる.

1904 イエズス会の組織した国民党,下院に進出.この時点で国内のイエズス会員は公称200万人.

1906年

5月 ポルトガル国王カルロス一世,ジュアン・フランコを首相に任命.議会解散.

1907年

4.12 ポルトガルで労働運動興隆.ジュアン・フランコ首相は独裁体制を確立.強権姿勢で臨む.

1908年

1.21 ポルトガルで共和主義者による軍事反乱.

08年 ジョアン・フランコ首相,テロリストの手により暗殺される.

1910年 共和革命の成立

10.04 リスボンで軍内共和派の反乱.

10.05 ポルトガルで共和革命成立.マヌエル二世は国外亡命.テオフィロ・ブラガが臨時大統領に就任.共和党の臨時政権成立.象徴的な首相に教育者のテオフィロ・ブラガ.内相にアントニオ・ジョゼ・デ・アルメイダ(中道左派=ブロック派),司法相にアフォンソ・コスタ(左派),外相にベルナルディノ・マシャド(左派)が就任.アフォンソ・コスタ司法相は政教分離政策を進める.

10月 このあと,26年のサラザール就任まで,26回のクーデターが繰り返され,9人の大統領が入れ替わる.ゼネストは158回に及ぶ.

10月 国内でストが激発.1年に247件のストが発生.農村でも農民ストライキが70件以上発生.

12月 臨時共和政府,労働者のストライキ権を認める.

1910 共和政府,イエズス会その他の修道会を閉鎖.施設を国に接収.修道僧を国外追放.

1911年

4 アフォンソ・コスタ司法相,「国教分離法」を制定.教会と国家の分離,あらゆる信仰の自由,学校における宗教教育の禁止,教会財産の国有化などを決定.

5 ポルトガル制憲議会選挙.共和主義者がほぼ全議席をしめる.

5.25 政府により「全国社会福祉基金」が創設される.同年,週6日労働が法で定められる. 

8 議会による大統領選挙.ブロック派のマヌエル・デ・アリアガが,左派のベルナルディノ・マシャドを破り初代ポルトガル大統領に選出される.議会で1911年憲法成立.

10 アフォンソ・コスタ派が民主党の主流となる.党内保守派は分裂し,「共和主義国民同盟」を結成.

12月 この年の国勢調査で,ポルトガルおよび隣接諸島の人口は596万人.その後の10年間で,主として海外移民により50万人が減少.

1911年 ポルトガルで共和制に反対するコーセイロら王党派の反乱.

1911 共和政府,保守の牙城コインブラ大学に対抗し,リスボンとポルトに大学を設置.

 

1912年

1 最初のゼネストが発生.政府はリスボン市内に戒厳令を布告.「組合本部」を実力で閉鎖,労働者数百人を逮捕.

1 共和主義国民同盟,さらに分裂.アントニオ・ジョゼ・デアルメイダのポルトガル改新党とブリト・カマショの共和主義同盟の二つが誕生.

7 コーセイロ,二度目の反乱を試みる.ミゲル派もこれに加わるが,結局敗北に終わる.

12年 ノルトン・デ・マトス,アンゴラ総督に就任.「原住民労働法」を停止し,二期6年にわたり,体罰の禁止,アル中の撲滅,地方の福祉事業などに力を注ぐ.

1913年

1月 アルメイダ内閣崩壊.ポルトガル臨時政府で法相を務めたコスタが首相に就任.破綻した財政を立て直すため,税制改革に着手.「ブレーキ法」を制定し,財政支出に厳しい枠をはめる.この結果財政は黒字化する.ストに参加した労働者3千人を逮捕するなど労働運動を弾圧.新選挙法で文盲の選挙権を取り消す.有権者の数は半減.

13.9 リスボンで政府主催の「国際自由思想大会」が開催される.全ての司教区は閉鎖され,バチカンとの関係は断絶.

13年 政府,公教育省を設置.この年ポルトガルの識字率は25%に満たない水準にとどまる.

1914年

2月 ベルナルディノ・マシャド,首相に就任.対カトリック強硬派のアフォンソ・コスタに代わり,教会との関係修復を目指す.教会側も暴動激発戦術を放棄し,議会への進出を目指す.

14年 「国民労働者同盟」が設立される.インタナショナルと緊密な関係を保ちながら,全国の労働者の統一を図る.

14年 右翼民族主義組織として「ルシタニア統合主義」運動が発足.反共和派勢力を結集.フランスの右翼理論家シャルル・モーラスと,アナルコ・サンディカリストのジュリアン・ソレルをモデルとする.

1915年

1 民主党アゼヴェド・コウティーニョ内閣,労働法を制定.労働時間を職種ごとに定める.

1.23 アリアガ大統領,マシャド内閣に代わりピメンタ・デ・カストロ将軍に組閣をゆだねる.民主党に反対する全ての勢力が結集.閣僚のほとんどが軍人で占められ,右派の巻き返しと左派への抑圧が強まる.

3 カストロ,議会を閉鎖.独裁制に移行.

5.14 リスボンで,カストロ独裁に反対する民主党と共和派軍人の反乱.数百人の死者を出したあと革命に成功.カストロ首相を放逐.アリアガ大統領を辞任させ,テオフィロ・ブラガを暫定大統領に選出.

8月 総選挙と大統領選挙.民主党が上下両院で過半数を占める.大統領にはマシャドが選出される.

11月 アフォンソ・コスタ,第二次政権を組織.

1916年

2月 ポルトガル,国内港湾寄港中のドイツ籍船舶を押収.うち42隻15万トンを英国に貸与.うち20隻は大戦中に失われる.ドイツはポルトガルに対し宣戦布告.

4 民主党と改進党,戦時連合政権を樹立.アルメイダが首相となり,アフォンソ・コスタは蔵相に転じる.

16年 アントニオ・デ・オリヴェイラ・サラザール,「黄金時代,その本質及び原因」を表す.フランスの右翼シャルル・モーラスのアクシオン・フランセーズに影響され,カトリック社会主義を主張する.この論文で学位を取得したサラザールは,コインブラ大学の財政学・経済学教授となる.

16年 労働・社会福祉省が創設される.

1917年

4 アルメイダ,首相を辞任.アフォンソ・コスタがみたび首相に就任.

5 ファティマでマリア出現の奇跡.カトリック教会はこれを利用し勢力回復を目指す.カトリックの政治運動組織として,「ポルトガル・カトリック・センター」が創設される.

7 アフォンソ・コスタ首相,階級闘争への共感とマルクス主義のテーゼへの賛意を表明.

9月 第一次大戦により,都市は飢餓におそわれる.パンの欠乏に抗議するリスボン市民の反乱.各地でアナーキストによるテロ.

10月 共和派の巻き返し.ポルト,リスボン,ブラガ,エヴォラの司教が一時国外追放処分を受ける.

12.05 リスボン駐留の部隊の一部が,市民の支持を得て反乱.指導者は元陸軍大佐,元ドイツ大使館付き武官で,現大学教授のシドニオ・パイス.

12.08 反乱軍が勝利.ノルトン・デ・マトス内閣は総辞職,マシャド大統領は国外に追放される.アフォンソ・コスタは帰国後逮捕される.

12月 シドニオ・パイス,全権を掌握.大統領制を廃止し議会を解散.保守派との連携を求める.シドニオ・パイスを担ぐ共和主義国民党(統一党)が勢力を伸ばす.

 

1918年 シドニオ・パイスの1年

4.09 北フランスの西部戦線に参加したポルトガル軍,リスの戦いでドイツ軍に集中攻撃を受ける.8千人以上の戦死者を出したポルトガル部隊はほぼ壊滅.残党は英国部隊に編入される.

4 パイス,憲法を改正し,直接選挙により大統領に就任.議会の多数もパイス派がしめる.パイスはカトリックとの関係を修復,王党派に接近するようになる.統一党はパイスの独裁的手法に反発し,反対派に回る.

9 総選挙.共和派三政党は選挙への参加を拒否.代わりに王党派とカトリックが大幅進出.タマニーニ・バルボザが内閣を組織.

12.14 パイス,リスボンで暗殺される.軍事評議会はカント・イ・カストロ提督を大統領に,ジョゼ・レルヴァスを首相に立て,内戦回避に向け動く.王党派はドン・マヌエル擁立に動く.北部で王党派の反乱が続く.

18年 スペイン風邪の流行で,6万人以上が死亡.さらに第一次大戦で1万人が戦死.6万人が海外移住.

1919年

1.10 リスボンとサンタレムで王党派支配に危機感をもつ共和主義者が反乱.失敗に終わる.

1.19 王党派,リスボンとポルトで王政復古を宣言.北部ではパイヴァ・コウセイロ大佐が「王国統治評議会」を結成.「北部王国」と共和派の内戦に突入.

1.22 リスボンでは直ちに共和主義者が蜂起.首都守備隊は政府支持を貫く.王党派の拠点モンサント山を奪取.

2.13 共和軍が「北部王国」の首都ポルトに入城.内戦が終結.

3月 ドミンゴス・ペレイラの率いる民主党政権が成立.シドニオ派は一掃される.

6月 ペレイラに代わり,サ・カルドゾの内閣.

8月 大統領選挙.アルメイダが大統領に選出される.アフォンソ・コスタは講和会議代表団としてパリに張り付く.

9 国民労働者同盟,労働総同盟(CGT)に改組.無政府主義者が多数を占める.

10月 改進党と統一党が合同,自由党として国内保守層を代表する.アルメイダは改進党を離れる.

19年 ロシア革命の影響を受け「ポルトガル・マルクス主義連盟」が結成される.

19年 政府,穀物の輸入制限を撤廃.貿易収支は大幅な赤字となり,通貨は暴落,激しいインフレを招く.

1920年

1月 サ・カルドゾ民主党政権崩壊.共和国護衛隊参謀長リベラト・ピント陸軍中佐が首相に就任.以後1年間で7つの内閣が交代する不安定期に入る.

4月 ピントに代わり,ベルナルディノ・マシャドがふたたび首相に就任.

5月 マシャド,ピント前首相を汚職の罪で告発.護衛隊の武装解除を迫るが,逆に護衛隊のクーデターにあい総辞職.民主党に代わり保守派の自由党が政権を握る.首相にはバロス・ケイロスが就任.

20年 アフリカ人留学生数十人がリスボンで「アフリカ人同盟」を結成.

1921年

3.06 ポルトガル・マルクス主義連盟,ポルトガル共産党と改称.CGTは無政府主義を信奉し,モスクワへの従属を拒否.

10.19 保守派の政治支配を不満とするリスボン市民が反乱.クエリョ大佐によるクーデター.アントニオ・グランジョ首相をはじめ政治要人の暗殺が相次ぎ,「流血の夜」と呼ばれる.その後列強海軍の圧力により敗退.

21 コインブラ大学の助教授アントニオ・デ・オリベイラ・サラザール,キリスト教民主主義学生センター(CADC)をバックに国会議員に当選.

21 急進的思想・運動団体として「セアラ・ノーヴァ」が結成される.「政党が改善され,より良い政治を行なうのを支援する」ことを目標とする.

22.1 共和派が権力を握る下で総選挙が施行される.アントニオ・マリア・ダ・シルヴァが首相に就任.勝利した民主党は共和国護衛隊の兵力を大幅に削減,権力機構を軍に一元化する.自由党は右翼勢力をあわせ国民党に改組される.委員長にはクーニャ・レアルが就任.

1923年

8 議会,民主党推薦のマヌエル・ティシェラ・ゴメスを大統領に選出.ゴメスは作家で当時駐英大使を務めていた.パリ在住のアフォンソ・コスタの盟友として知られる.「セアラ・ノーヴァ」の影響を受けた民主党左派は,ジョゼ・ドミンゲス・ドスサントスを中心に党の左展開を図る.

11 ダ・シルヴァ首相が辞任.ゴメスは盟友のアフォンソ・コスタを首相に指名.しかし国民党の支持が得られず内閣成立に至らずに終わる.

11 ポルトガル共産党,第1回大会を開催.ベント・ゴンサルベスが書記長に選出される.ペドロ・ソアレス,ジョゼ・マグロ,アントニオ・ディアス・ロレンソらが指導部を構成.このときの党員数は5百名.労働運動ではアナーキストに圧倒されるが,海軍の中に支持者を拡大.

23 改新党と共和主義同盟が合同,これに民主党反主流派を加え,国民党として発足.民主党をしのぐ勢力となる.

1924年

1月 国民党を離党したアルヴァロ・デ・カストロが超党派内閣を組織.通貨の安定に成功.

6月 カストロ内閣崩壊.有力指導者不在の下,民主党・国民党が夫々左右に分裂.政局はさらに昏迷を深める.

11月 民主党左派の代表ドスサントスが政権につく.公教育の無償化を打ち出すが,財政難から実現には至らず.エゼキエル・デ・カンポス農相が農地改革案を提出.

1924 労働総同盟,115組合中104の賛成で,無政府主義インタナショナルへの加盟を決議.

1925年

2 ドスサントス内閣,3ヶ月足らずで瓦解.その後ドスサントス派は党を離れ,民主左翼党を結成.

4.18 ポルトガルで王党派の反乱.

11 総選挙で民主党が勝利.ダ・シルヴァがふたたび首相の座に.惨敗した共和主義国民党は,国民党に吸収される.

12 ゴメス大統領,右派からの攻撃にあい辞任.後任大統領にはマシャド.

25年 ポルトガル,国庫破産状態となる.

25 地主・銀行家などが「経済企業連合」を結成.無政府主義者による「社会的転覆」の策動とたたかい市場経済を擁護することをうたう.

 

1926年 軍事独裁政権への移行

3 セアラ・ノーヴァ,ファシズムの危険が迫っているとし,「反ファシズム週間」のキャンペーンを組織.

5.28 第一次世界大戦の英雄ゴメス・ダ・コスタ元帥,当面の秩序維持を目的とし,クーデター計画を発動.ブラガで反乱を開始し,リスボン目指して進軍.

6.01 ダ・コスタの軍,リスボンを制圧.軍の大勢がダ・コスタを支持.ダ・シルヴァ内閣は総辞職.マシャド大統領はクーデターの指導者メンデス・カベサダスに全権をゆだね,自らも辞任.

6.03 新大統領には保守派の共和主義者オスカル・カルモナ将軍が就任.カベサダス内閣の蔵相にサラザールが入閣.サラザールは税制改革案が受け入れられなかったため三日後に辞任.

6.17 カベサダスの無能ぶりに怒ったゴメス・ダ・コスタ,再クーデターによりカベサダスを放逐.自ら権力を掌握.共和主義の立場にたつダ・コスタは右翼の支持を得られずに終わる.

7.09 王党主義者のシネル・デ・コルデスがクーデターにより全権を掌握.ダ・コスタはアソレス諸島に亡命.提督の地位を与えられる.カルモナは引き続き大統領に留任.コルデスは蔵相として政府の実権を握り,財政再建に力を注ぐ.

11 共和派弾圧を目的とした特別警察(PE)が創設される.後に改組され国家治安警察(PIDE)となる.

1927年

2.03 共和主義者,コルデス=カルモナ独裁に反対しリスボンとポルトで反乱を起こす.軍の一部もこれに加わるが2日後に鎮圧される.

2 アフォンソ・コスタ,アルヴァロ・デ・カストロ,ドスサントスらにより「共和国防衛同盟」創設.パリに本部を置き,抵抗の組織を図る.

3 カルモナ大統領,国民投票により信任される.新政府は国際連盟に1,200万ポンドの借款を要請する.国際連盟は借款と引き換えに財政管理権を要求.軍事政権は国威を損じるとして,この条件を拒否.

8 サルメント事件発生.モライス・サルメント陸軍中尉がベレン宮殿に侵入し,閣議中の大臣達を侮辱.結局サルメントへの処罰は実行されずに終わる.

1928年

4月 軍部の主導で大統領選挙実施.唯一の候補者カルモナが当選.ヴィセンテ・デ・フレイタス陸軍大佐を首相に指名.

4.27 サラザール,フレイタスの要請を受け,二度目の蔵相に就任.サラザールは,財政方針が一切の議論なく受け入れられることを条件として受諾.財政上の全権を委託され,国際連盟との借款交渉を打ち切り.自力更生路線をとる.

7.20 リスボンで市民の反乱発生.まもなく鎮圧される.

1929.10 財政収支の均衡を実現したサラザール,「全ては国家のために」というスローガンを打ち出す.

1930年 サラザールの実権掌握

1月 軍内右翼の代表ドミンゴス・デ・オリヴェイラ将軍が首相に就任.

7.04 サラザール,臨時植民地相として植民地法公布.

7.30 サラザールが,財政の建て直しに成功する中で政治の全権を掌握.自らの翼賛団体として「国民同盟」(UN)を創立.唯一の合法政党として,カトリック教会,ルシタニア統合主義者,ファシストなど雑多な右翼が結集.広報官のアントニオ・フェロが新国家の宣伝キャンペーンを展開.

11.23 サラザール,国民同盟を「政党ではなく,政治的運動団体」と規定.政党政治の排除の方向を打ち出す.また職能組合組織を土台とするコオペラティズモを打ち出し,中産階級の支持を獲得.

30 マガリャンエス・リマ,ノルトン・デ・マトス将軍らが「社会主義共和国同盟」を結成.合法的な政権交代を目指すが,政府の弾圧の前に消滅.

30 アゾーレス諸島で農民暴動.1年にわたり続く.

1931年

4 マディラ・アソレス・ギニアなど海外領で配流された将校たちが反乱.1ヶ月にわたり抵抗を継続.

5 政府の実権を掌握したサラザール蔵相,「強力な国家の異論の余地のない主権によって理解され,支配される政治的・経済的・社会的ナショナリズムの確立」を統治の目標とすると述べる.

8.26 リスボンで共和派により反独裁の反乱.このあと国内外の武装反乱運動はほぼ消失.

8月 マヌエル・ゲデスら,海軍内で共産党組織作りを開始.1ヶ月の間に,旗艦「バスコダガマ」号の水兵200名のうち40名が機関紙「アバンテ」読者となる

1932年

2月 ポルトガル共産党に対する一斉弾圧.共産青年同盟の幹部全員が逮捕される.

3.19 国民投票により新憲法が成立.官僚的軍事政府から,権威主義的文民政府へ移行.「人民独裁を基礎とする新国家」が建設される.労働総同盟は解体され,ストライキ・ロックアウトが禁止される.職能組合組織に対しては公務員,労働者,弁護士・医師などの専門職から激しい反発.

7.05 オリヴェイラ,サラザールに首相の座を引き渡す.サラザール,蔵相のまま首相に就任.独裁政治の開始.ファシズム独裁体制を敷くが,枢軸国とは一線を画す.

8月 地下の共産青年同盟が再建される.海軍の党組織も活動を再開.機関紙「赤い水兵」を発刊.共和主義者,無政府主義者も含めた反独裁統一戦線を提唱.

32年 王党派の最後のよりどころ,ドン・マヌエル二世が死去.これ以降王政復古の動きは自然消滅.

1933年

3.19 サラザールの提案した新憲法に対する国民投票.97%の賛成によって承認される.国家を共同体組合と規定.政府の指導性を定める.全ての政党・結社が禁止され,「国民同盟に全てのポルトガル人が統一される」こととなる.大統領はかざりものにされ,首相にすべての権力が集中.サラザールは「われわれはひとつの教義であり,一つの力を持っている.このような状況のもとでは,いかなる和解,移行,妥協も不可能である」と宣言.

3 リスボン市長で元首相のビセンテ・デ・フレイタス,新憲法を批判,国民同盟を全体主義政党であると非難.直ちに罷免される.

5月 海軍党組織の指導者マヌエル・ゲデス,逮捕される.この時点で海軍内には300の共産党員と700の機関紙読者.

9.23 サラザール,ストライキとロックアウトを禁止する「国民労働憲章」を公布.

33 ドイツ・イタリアの軍事顧問の協力により国家防衛警察(PIDE)が創設される.この他に民間準軍事組織「ポルトガル軍団」が組織され,12万人を結集する.

33 社会主義的知識人のセアラ・ノバ・グループ,反独裁運動を展開.指導者は共和党員で社会学者のアントニオ・セルジオ.

1934年

1 反独裁派の労働者がファシズムに抗議するゼネストを組織.数千人が参加する.

5.26 サラザールの翼賛政党「国民同盟」が第一回大会.

7.29 サラザール,政権打倒の陰謀を企てたとして,ファシスト集団「ナショナル・サンディカリスタ」(青シャツ団)を追放.

1935年

2.18 カルモナ元大統領が大統領に就任.名目のみの大統領で,実権はサラザールが掌握.

4.30 海軍の党組織に大弾圧.200名が逮捕され,30人が有罪判決.その後も機関紙「赤い水兵」の発行は続く.

12月 海軍共産党事件の被告ら,獄中で新聞「ポチョムキン」を発行.

35 軍内共和派によるクーデター未遂事件.

1936年

5.28 海軍共産党事件の被告14人が集団脱走に成功.

5月 サラザール,首相・蔵相に加え外相・国防相をも兼務することとなる.

9 スペイン内乱勃発.リスボン港停泊中の軍艦二隻が,共和軍合流を目指し反乱.

10月 サラザール,スペイン共和政府との関係を断絶.

36年 サラザール政権,準軍事組織「ポルトガル軍団」や「ポルトガル軍団」は事実上の軍事組織で,空軍,海軍を持ち,司令官は軍将校が当たる.反体制派へのテロをもっぱらの仕事とする.

36年 サラザール政権,青年組織「モシダーデ」を創設.当初は小学生から大学生まで全ての生徒・学生を強制加入.

36 最後のゼネスト,敗北に終わる.

1937年

4.28 サラザール,義勇軍2万人をスペインに派遣すると発表.「ポルトガルは何の代償を求めることなく.フランコに協力する.フランコは必ずや勝つであろう」と述べる.

7.05 サラザール暗殺未遂事件が発生.

1938年

4.28 ポルトガル政府,フランコ政府を承認.

38 カボベルデのサンチアゴ島にタラファル監獄が開設される.56年までの20年間,政治犯が送り込まれる.

39.3 スペインとポルトガル,相互不可侵友好条約を締結.

1940

5.07 サラザール政府とバチカン,コンコルダート協定.

7.29 フランコ=サラザール会談.イベリア協定を再確認する.

40年 マルセロ・カエタノ,ファシスト組織「ポルトガル青年」の委員長に就任.

41年 アルヴァロ・クニャルらによりポルトガル共産党が再建される.中核組織を「完全非公然」化する.アレンテッジョの労働者・農民に強い基盤を持ち,30年にわたり地下活動を続ける.

1942

2.12 サラザールとフランコ,セビリアで会談.親連合国よりの中立政策を採ることで合意.

12.20 スペインとポルトガルが中立維持・相互防衛を定めたイベリアブロックを結成.

42年 サラザール,タングステン生産量の75%をドイツに売却.連合国の抗議にたいしては,アゾレス諸島の基地貸与で応える.

1943

8.18 サラザール,アゾレス諸島を連合軍に貸与する協定に調印.

43 ポルトガル共産党,「国民和解」政策を掲げ,共和党員のノートン・デ・マトス将軍を議長とする「国民反ファシズム統一運動」(MULAF)を立ち上げる.

1945

5.01 ヒトラーの死を知ったサラザール,半旗の掲揚を指示. 

 サラザール,「自由なイギリスと同じ自由な選挙による民主主義」を実現すると発表.11月に選挙が予定される.

8 MULAFを基盤に「統一民主運動」(MUD)が創設される.知識人・公務員を中心に5万人が結集し,民主化を目指す.

10 MUD活動家に対する一斉摘発.名簿に名を連ねた軍人や公務員は直ちに解雇される.

11.18 ポルトガル国民議会選挙.反サラザール派の統一組織「民主統一運動」は選挙をボイコット.

11月 ポルトガル国会議員選挙.英米両国の圧力を受けたサラザールは自由選挙を認める.民主統一運動(MUD)が結成され反サラザールのキャンペーンを展開.最終的には選挙をボイコット.サラザールは選挙後に,政治警察(PIDE)による反対派の弾圧.

45 国家保安防衛警察(PVDE),国家防衛国際警察(PIDE)に改組.さらに権限を拡大.

 

 

ポルトガル年表

(1946年以降)

2002年11月

イベリア年表より分離

1946

5.30 ポルトガル,米国との間にアゾレス空軍基地貸与協定を締結.

10.10 反サラザールを唱える軍の一部が反乱.47年4月にも同様の試み.

47 軍の一部も参加した大規模な反乱計画が暴露される.計画にはカルモナ大統領も暗黙の支持を与えていたといわれる.

47年 サラザールの忠実な信奉者で海外領首席検察官のエンリケ・カルロス・ガルバン大尉,アンゴラを視察.アフリカ人があらゆるかたちでの強制労働制度の下で駄馬のように酷使され,教育・公衆保健施設は皆無であり,乳幼児死亡率は恐るべき水準に達し平均寿命は驚くほど短いと議会報告.政府はガルバンをすべての公職から罷免することで応える.

1949

2.13 ポルトガル大統領選挙.反対派候補ノルトン・デ・マトス,投票直前に候補を降りる.MUDは投票をボイコット.サラザールのカイライであるカルモナが三度目の大統領に当選.

50 リスボン大学に留学したモザンビークのエドワルド・モンドラーネ,アンゴラのマリオ・デ・アンドラーデら,ひそかにアフリカに戻り,独立運動を開始.

1951

7.22 カルモナ大統領が死亡.大統領選挙実施.サラザールはクラヴェイロ・ロペス将軍を擁立.左翼は数学者のルイ・ルイス・ゴメス教授擁立を図るが,最高裁は彼を共産主義者と判定し立候補を拒否.中道派はフレイタス政権の閣僚だったキンタン・メイレレス提督を立てるが,投票直前に立候補を取下げ.

9.06 米国とポルトガル,相互防衛援助条約締結.

51 サラザール,新たな植民地議定書を発表.植民地を本国並みの県に引き上げ.住民は一等市民(白人),二等市民(ポルトガル語のできるムラートと黒人),その他の原住民に分けられる.

51 リスボンにアフリカ研究センター「帝国学生の家」が創立される.植民地留学生達がセンターでの交流を通じて独立運動に目覚める.

51年 抗議の声をあげ続けたガルバン大尉,逮捕・投獄される.以後9年間,獄につながれる.

54 アミルカル・カブラル,ギニアで解放闘争の組織を開始.

1955

12.15 スペインとポルトガル,ソ連が拒否権を行使しなかった結果,国連への加盟を認められる.

56年 アミルカル・カブラルを指導者に,ギニアビサウ=カポベルデ諸島独立アフリカ人党(PAIGC)が結成され,武装闘争を開始.

56年 アンゴラ共産党とアンゴラ・アフリカ人統一党が合体し,アンゴラ解放人民運動(MPLA)を結成.武装闘争の展開は61年から.

1958

3月 大統領選挙に反サラザール派の統一候補として空軍のウンベルト・デルガド退役将軍が立候補.デルガドは米大使館武官を務めたあと,民間航空会社の総支配人に就任.親米反共の闘士として知られていた.サラザール派はクラヴェイロ・ロペスを下ろし,アメリコ・トマス海軍大臣を擁立.左翼は法律家のアルリンド・ビセンテを指名.共産党は当初デルガドをCIAの手先と見ていたが,後に支持に回る.

4月 リスボンでデルガド派の選挙集会.軍が出動し,発砲による威嚇.

5.28 ブラガでデルガド派の集会.軍は会場を包囲し,集会への出席を実力阻止.

6.08 ポルトガル大統領選挙.デルガド将軍は開票の結果敗れる.公式数字では25%の得票.空軍はクーデターを準備するが,不発に終わる.

7月 共産党の指示による24時間ゼネスト,失敗に終わる.デルガドはブラジル大使館に逃げ込み抗議の声明を発表した後,そのまま亡命.

8 サラザール,内閣を改造.後継者と目されていたサントス・コスタ国防相を内閣から排除.

58 ブラジルに亡命したデルガド,スペイン亡命者と共に独立国民運動を結成.まもなくイベリア革命解放委員会と改称.エンリケ・ガルヴァンが書記長に就任.

58 ポルトガル,ヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)に加盟.

1959年

3 リスボンで,反サラザール派の陰謀が発覚.カトリック教会の左派も参加していた事が注目される.

59 ガルバン大尉,刑務所病院を脱走.リスボンのアルゼンチン大使館に逃げ込んだあと,ブラジルに亡命.イベリア革命解放委員会議長に就任.

59 サラザール,憲法を改正.大統領の直接選挙を廃止し,官僚のみを有権者とする事実上の間接選挙に移行.

1960

1.03 クニャル,ソアレス,ジョゼ・カルロスら9人の共産党最高幹部が,看守の手引きによりペニシェ要塞から脱獄に成功.サラザールは,PIDEのネベス・グラサ長官を罷免.

1961

1月 ポルトガルの豪華客船「サンタマリア号」(2万トン),600人の客を乗せ巡航中,ベネズエラのクラサオ島に寄港.エンリケ・カルロス・ガルバン大尉(当時65歳)と25名の同志が,偽装して乗り込む.

1.22 ガルバン大尉ら,大西洋横断客船「サンタマリア」号をシージャック.「サンタ・リベルターデ」と命名.この襲撃で航海士3名が死亡,8人が負傷.ガルバンは「デルガド将軍を指導者とする救国独立評議会が船を支配していると声明を発表.「ドルネシア作戦」と称する.

2.02 サンタマリア号,レシフェに入港.ブラジルに投降.ガルバンたちはブラジル政府から政治保護を与えられる.デルガドはシージャック作戦を非難.ガルバンをイベリア革命解放委員会書記長から解任.

2 MPLAによる初の大規模な武装闘争.ルアンダ監獄・兵舎・放送局を襲撃し,政治犯らを解放.

3.15 ホルデン・ロベルトの率いるアンゴラ人民同盟(UPA)が北部に侵入.白人居住区を襲い,入植者数百人を虐殺.黒人の強制労働に抗議する闘争が暴動化したもの.アンゴラ解放国民戦線(FNLA)はUPAの武装組織.

3月 アンゴラで大規模な報復・掃討作戦.北部では千人近い黒人が殺され,数千人が隣国のコンゴに逃亡.

4.13 リスボンで反サラザールのクーデター計画が発覚.ボテリョ・モニス国防相も加わっていたことが明らかになる.サラザールは国防相も兼任することとなる.

4月 カサブランカでポルトガル植民地諸国の民族組織会議創立.

11.10 ガルバン大尉,ポルトガル定期航空便をハイジャック.リスボン上空から反サラザールのビラをまく.モロッコに着陸したガルバンは国外追放処分を受ける.

11.12 総選挙実施.国民同盟党が150議席を独占.これに反対した多くの活動家が逮捕される.

12.17 インド政府軍三万,ポルトガル植民地のゴア,ダマン,ディウに攻撃開始.ポルトガル守備隊三千が応戦する.サラザールはバッサロ・イ・シルバ総督に「最後の一兵まで,死を賭して抵抗せよ」と指令.

12.18 ポルトガル軍はインド空軍の攻撃に高射砲なしに応戦.唯一のフリゲート艦「アルフォンソ・デ・アルプケルケ」号は圧倒的なインド海軍の前に座礁・大破.24時間後にバスコ・ダ・ガマ要塞に立てこもる守備隊が降伏.

12月 アレンテージョ全県で,8時間労働を要求する農業労働者のストライキが発生.共産党の指導で半年にわたり続いた後,勝利を勝ち取る.

1962

3月 政府,「学生の日」を禁止.各大学でこれに抗議する運動が盛り上がる.たたかいは2ヶ月にわたり続き,リスボン大学では警官隊が導入される.マルセロ・カエターノ学長は抗議の辞任.

6月 ゴアで捕虜となったポルトガル軍将兵,インド側の強硬な申し入れにより帰還を認められる.サラザールはヴァサロ・イ・シルヴァ総督ら帰還将校を軍籍剥奪処分とする.

62年 モザンビーク解放戦線(FRELIMO)が結成される.武装闘争は64年9月から.

1963

1.15 ポルトガル領ギニアで,カブラルに率いられた「ギニア・カポベルデ独立アフリカ人党」(PAIGC)の反乱開始.

1964

8 モザンビーク解放戦線(FRELIMO),独立を目指す武装闘争開始.10年間に国土の1/4を解放.

1965

2.13 元大統領候補ウンベルト・デルガド将軍,アルジェに本部を創設し,反政府闘争を継続.スペイン国境地帯のバダホスで国内潜入を狙っていたが,PIDEの手にかかり暗殺される.

65年 ポルトガル共産党,第6回大会を開催.新綱領を採択.「ファシスト独裁を打倒し臨時政府を樹立する唯一の道は,全国的な騒乱と人民の武装蜂起であり,しかもその蜂起には,この国の軍事国家的性格のために,軍隊の重要部分の参加と中立化とが同時に伴わなければならない」とする.そしてそのために「軍隊内に強力な革命組織を維持すること」を絶対不可欠な課題として提起する.

65 アントニオ・セルジオのセアラ・グループを中心にスイスとイタリアに亡命中の活動家が結集し,「社会主義行動グループ」を結成.

66年 サビンビ,FNLA より分離.アンゴラ東部のルソでアンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)を結成.中・南部オビンブンドゥ族を基盤とする.実体としては,解放闘争の分裂を狙うポルトガル支配層による分裂組織.

1968

9.06 サラザール,椅子から転げ落ち,脳内出血.

9.25 トマス大統領,サラザールが病気のため再起不能と発表.

9.27 トマス大統領,マルセロ・カエターノに首相代理を命じる.カエターノは前リスボン大学学長.引き続き軍事独裁体制が維持される.

68 社会党の指導者マリオ・ソアレス,捕らえられサントメ島に流刑となる.

1969年

11月 ポルトガル総選挙.穏健野党の立候補が許され,サ・カルネイロら11名が当選.共産党,社会党,カトリック左派らは,合法的組織として民主選挙委員会(CDE)を結成.カトリック進歩派の経済学者ペレイラ・デ・モウラが委員長を務める.マリオ・ソアレスはもうひとつの野党組織「連合民主選挙委員会」(CEUD)を作り選挙に臨む.野党に対し系統的な暴力が振るわれ,社会主義インタの視察団は「耐え難い妨害行為」と非難し,国外追放処分を受ける.選挙後,解散命令にもかかわらず両組織は存続・合体し,CDEを結成.

69年 メーロ・アントゥネス大尉(当時)も野党の民主選挙委員会(CDE)から立候補を図るが,軍の圧力により辞退.

1970

7.27 サラザール,二年近くにわたる闘病のすえ死亡.

9.29 カエタノ,植民地を直轄県としたサラザールの見解を否定.一定の自治権を認める発言.

10月 アフリカに向かった軍艦クネーネが任務放棄.共産党の指導によるもの.

70 経済成長率が7%に達する.しかし国家財政のほとんどが軍事費にあてられ,多国籍企業と結びついた一部の企業だけが成長の恩恵を受ける.最大の財閥ウニアン・ファブリル会社は,銀行・証券・造船・化学工業など200の会社を所有し,国民総生産の1割を占めるに至る.

70 共産党,武装革命行動戦線を組織,武装蜂起を開始.

1971

3月 タンコス空軍基地で共産党ゲリラによる電話線切断作戦が行なわれる.

72.10 国連総会,FRELIMO,PAIGCを交渉当事者として承認.ギニアビサウでは,この時点でPAIGCが国土の2/3を解放.

1973

1 アミルカル・カブラルPAIGC書記長が暗殺される.

6 政府の主導による海外戦闘者会議,大学卒予備役兵を結集し結成される.「唯一不可分のポルトガル」をスローガンに掲げる.アフリカ従軍中の大学卒予備役兵に,現役将校への昇格を容易にする特例措置をもとめる.

6月 カエタノ政権,1年間の士官学校における集中講義で現役将校に昇格する特権(普通は4年間)を与える.これに対し下層階級出身の若手将校に憤激が高まる.

7.10 カエターノ首相,英国を訪問.訪問中にモザンビークでの住民大虐殺のニュースが流され,カエターノは非難のデモにさらされる.

8.18 若手大尉20数名が,ビサラの将校クラブに結集.特例措置に抗議する決議をあげる.

8.25 若手大尉による第二回集会.闘争委員会の結成を決定,文部省と軍首脳に宛てた抗議文を採択.

8 ギニア総督のアントニオ・スピノラ将軍,本国に召還される.ギニア統治の実績からアメリコ・トマスの後継大統領と目される.

73年9月 国軍運動(MFA)の発足

9.05 大尉たちの代表オテロ・サライヴァ・デ・カルバーリョが,各方面に抗議文を送付.このあと,アンゴラで94名,モザンビークで106名,リスボンで190名の将校が抗議文に署名.カエタノ政権は署名者の数があまりに多いため,何らの処分もできずに終わる.

9.12 エボラ近郊で,軍の処遇に不満を持つ大尉たちが秘密集会.3人の少佐を含む百数十人が集まる.国軍運動(MFA)の出発点となる.

9.24 ギニア・ビサウ解放運動,独立宣言を発表.国家評議会議長にはルイシェ・カブラル.この時点でギニア・カボヴェルデ独立アフリカ人党(PAIGC)は7千の兵力を擁し,ソ連・東欧の軍事援助とキューバ軍事顧問を受け入れ発展.アンゴラ,モザンビークでも激しい独立運動が続く.ポルトガルの軍事費は国家予算の4割を超える.

9 臨時統括委員会を結成.「運動」の組織化が始まる.各地方に下部連絡委員会が作られ,本国ではラマリョ・エアネス少佐とヴァスコ・ロレンソ大尉,ギニアではオテロ大尉,モザンビークではマリオ・トメ少佐が中心となる.

73年10月

10.12 政府,大学卒兵士に対する特例案を撤回.

10月 国民議会選挙,国民同盟党から人民国家行動党へと名称を変えたサラザール派が,150議席を独占.CDEには地下の共産党,社会党やカトリック進歩派などが結集.全国的に選挙運動を展開するが,投票三日前にいっせいに立候補を取り下げる.選挙キャンペーン中,CDEは人民民主主義運動(MDP)と改称.引き続きペレイラ・デ・モウラが議長を務める.

73年11月

11.24 リスボン近郊のサンペドロ・ド・エストリルで臨時統括委員会と下部連絡委員会代表の合同会議.86人の将校が参加.クーデターの可能性も含め,政府への圧力を強めることで合意.「国軍運動」(MFA)を創設.統轄委員会メンバーはバスコ・ロレンソ,ビクトル・アルヴェス少佐,マルケス・ジュニア中尉(歩兵隊),オテロ,ソウザ,カストロ・ドミンゲス大尉(砲兵隊),モンジェ少佐,サルゲイロ・マイア大尉(スピノラの精鋭騎兵隊)など.政府との交渉をゆだねる軍幹部としては,コスタ・ゴメス参謀総長が第一位に選出される.第二位はスピノラ参謀次長,第三位は降下部隊のカウルツァ将軍.

11月 革命的統一行動同盟(LURA)のイナシオ・パルマ,銀行強盗事件への関与の疑いで逮捕される.

11月 国連総会,ギニアビサウに対する「ポルトガル軍の不法占領と戦略行為」を非難する決議.事実上新共和国を認知.

11月 長年反体制運動にかかわってきたヴァスコ・ゴンサルヴェス中佐,国軍運動に合流.

73年12月

12月 文民のジョアキン・モレイラ・ダ・シルバ・クーニャが国防相に任命される.陸軍相にはアルベルト・デ・アンドラーデ・イ・シルバ大将が就任.

12.21 前モザンビーク司令官で極右のカウルザ・デ・アリアガ将軍,クーデターを企てるが,国軍運動が参加を拒否したことにより流産.

12 軍人給与の大幅引き上げを含む74年度予算が国会で成立.カエタノ政権はこれをテコに国軍運動の分裂を図る.

73 海外亡命中の中道左派活動家,西ドイツで社会党結成大会を開催.

 

1974 リスボンの春

74年1月

1.14 モザンビークのベイラで白人農園主の妻が黒人テロリストにより殺害される.モザンビーク各地のポルトガル人極右人種主義者は,戦争強化・国軍反対のデモを展開.商店ストで経済を麻痺させる.

1.16 モザンビークのベイラで葬儀デモ,デモ隊が軍施設を襲撃.現地守備隊のジョゼ・ピント・フェレイラ中佐は,軍を動員してデモ隊を鎮圧.白人植民者は外相と国防相に抗議電を打つ.

1.17 コスタ・ゴメス参謀総長,モザンビークを視察.現地の国軍運動は将校180人の署名を集め,モザンビーク総督の辞任を求める.

1.23 ヴァスコ・ロレンソとオテロ,スピノラと面会し事態打開への協力を求める.スピノラは国軍運動支持の姿勢を示す.さらに自著「ポルトガルとその将来」の出版への支持を要請.

1月 国軍運動内に二つの小委員会が結成され,クーデターの準備に入る.メーロ・アントゥネス少佐が政治小委員会責任者となり,綱領の起草にあたる.軍事小委員会の責任者にはオテロ・サライボ・デ・カルバリョ大尉が就任.

74年2月

2.02 地下の「自由ポルトガル放送」,ファシストの植民地戦争の道具とされたことは,軍にとって大きな恥辱である.軍人たちがみずから解決を目指すとすれば,それは戦争終結と,ギニア・アンゴラ・モザンビークの完全独立をおいて他にない」と論評.

2.08 国軍運動(MFA),クーデターを訴える最初の回状を配布.

2.22 陸軍参謀次長アントニオ・セバスティアン・リベイロ・デ・スピノラ,著書「ポルトガルとその将来」を発表.「軍事的方法により抵抗戦争に勝とうとすることは,戦争を無限に継続し,それをひとつの制度と可能ならしめるほどの無限の資源を所有するのでない限り,最初から敗北を意味する」と主張.

74年3月 リスボン進軍

3.05 カスカイスで将校200人を結集し国軍運動の会議.社会党系の理論家メロ・アントゥネス少佐の起案になる国軍運動プログラムが発表される.出席者のうち110人がプログラムを支持する署名.空軍は慎重な姿勢を示す.

3.06 カエタノ首相,あくまで植民地を擁護すると議会で演説.「スピノラは巧みな言葉により甘いファンタジーを描いて見せたが,そのはかない光は瞬く間に煙となり,消えうせるだろう」と述べる.

3.08 アンドラーデ陸相,バスコ・ロレンソら国軍運動幹部4人をアゾレスとマディラ島へ左遷.指名された4人を含む国軍運動幹部5人は陸相に抗議し,自らを逮捕させる.佐官からも国軍運動支持の動き.政府は戦闘準備体制を発令.

3.14 モザンビークなど植民地の運営について政府と軍部の意見が衝突.陸・海・空三軍司令官,政府支持の共同声明.カエターノ首相は将軍を招集し忠誠を強制.これに従わなかったスピノラ次長を解任.さらにスピノラを擁護したフランシスコ・ダ・コスタ・ゴメス参謀総長も解任される.ゴメス将軍は,かつてサラザール独裁打倒計画のひとつに加わった経歴を持つ人物.

3.15 国軍運動のクーデター準備委員会,士官学校内で会合.バーチェットの取材によれば,とりあえず第五連隊を動かして,各部隊の反応を見ることで合意したという.

3.16 リスボン北方80キロ,カルダス・ダ・ライニャの陸軍基地で,第五騎兵連隊の若手将校と兵士が反乱を起こす.連隊長と副官を拘禁した後,リスボンを目指し進軍開始.

3.16 第五連隊部隊,リスボン北方13キロで国家防衛警察およびポルトガル軍団と接触.説得を容れ投降.若手将校33人を含む200人が逮捕される.

3.18 陸軍士官学校長アマロ・ロマオ将軍,国軍運動の謀議を黙認したかどで解任される.

4月 オテロが中心となりクー計画が立てられる.アルベスとゴンサルベスは,軍部隊の街頭進出に懐疑的な意見を出すが,最終的にオテロの計画に従う.スピノラは国家救済委員会の設置と,自らの総司令官への就任を提起.

4.25 国軍運動によるクーデター決行

0:30AM カトリック教会の経営するラジオ・レナセンサ,人民歌「グランドラ・ビラ・モレナ」を放送.これを合図に各部隊が行動開始.

3:00AM 反乱部隊,リスボン空港を占領,滑走路を封鎖.首都に通じるすべての橋と重要道路が反乱軍に抑えられる.

4:20AM ラジオ・クルベ・ポルトゥゲス,国軍運動の最初の声明文を放送.国軍の全部隊に妨害行動を禁じ,市民の外出を禁止.「こちらはMFA司令部.市民の皆さんは家から出ないで平静を保ってください.流血を避けるべく皆さんの協力をお願いします」

4:45AM ラジオ・クルベ・ポルトゥゲス,第二のコミュニケを発表.反抗的行動はすべて重大な犯罪と見なすと警告.軍以外の武装勢力に警告.「軍隊・警察のものに告ぐ.ただちに各自は持ち場に戻り,MFAの命令を待て.部下をMFAの軍人と闘わせる指揮官は厳しく罰せられるであろう」

6:00AM 反乱部隊,すべての放送局と主要政府機関を占拠.市庁舎前広場には戦車部隊が配置される.労働者たちが街頭に繰り出しMFAの兵士たちを激励し歓呼の声をあげる.

7:30AM 定時のニュースで国軍運動の声明が流される.リスボンとポルトの陸軍守備隊が決起し,数十年の圧制から祖国を解放するための反乱であることが明らかになる.

11:45am 第三のコミュニケが発表される.「こちらはMFA司令部.長期間にわたって国民を弾圧してきた体制を打倒する目的で決起したわれわれは,ポルトガル全土を制圧した.まもなく解放の時がくる」

12:00am 第4のコミュニケが発表される.「こちらはMFA司令部.現在起こりつつある歴史的事件の展開についてお知らせします.軍の報告によれば,MFAはつぎの場所を掌握しました.ポルトガル軍団本部,国営ラジオ・テレビ局,ポルトガル銀行,軍大本営,国防省,ポルテラ空港,軍事基地,……」

12:00AM 首相府,PIDE司令部,政府支持派の槍騎兵連隊司令部が包囲される.反乱軍は午後5時を期限とする降伏勧告を突きつける.民衆はカルモ広場に集まり首相府を包囲.

12:00am 共和国警備隊本部のカエタノ首相,スピノラに電話し降伏を申し入れる.

12:30am サルゲイロ・マイアの指揮するMFA部隊,共和国警備隊本部を制圧.カエタノの身柄を確保.カエタノはスピノラへの政権禅譲を主張.

5:00PM カエターノ,スピノラに政権を移譲し降伏.スピノラは国軍運動と交渉開始.

18:00pm 共和国警備隊本部へ到着したスピノラ,カエタノから政権を委譲される.

6:00PM スピノラを議長とする救国軍事評議会の設立で合意.無血革命が成功.「大尉たちのクーデター」あるいは「4月革命」と呼ばれる.

20:30pm スピノラ,MFA司令部に入る.「祖国は君らに感謝する.一ポルトガル市民として,私はMFAの諸君に感謝と賞賛の言葉を贈りたい」と述べる.

9:00PM 群集が国家防衛警察本部の建物を襲撃.警察隊員が窓から機関銃を発射し死者4人,45人の負傷者を出す.出動したMFAは市民を排除する一方,国家防衛警察に投降をもとめるが,警察側はこれを拒否.

4月26日

未明 国軍運動の宣言が放送される.7名からなる救国軍事評議会が権力を掌握し,三週間以内に大統領を互選することを明らかにする.

06:00am 国家警察長官,スピノラの電話による説得に応じ投降.

8:00AM カエターノ首相,トマス大統領,国防相と内相とともに,空軍機でマディラ島へ移送される.この後ブラジルに亡命.

9:00AM 12時間にわたり抵抗を続けていたPIDE本部が降伏.

9:30AM 軍事評議会が記者会見.席上,国軍運動の綱領が配布される.あらゆる上層権力機構の廃棄,政治警察・ポルトガル軍団・青年団の解散,権力犯罪の責任者の逮捕,政治犯の解放と検閲の廃止などがうたわれる.また1年以内に「直接・秘密の普通選挙により選出される」憲法制定会議の選挙を実施すると述べる.

13:30 スピノラ,テレビ演説.近日中の臨時政府樹立と,1年以内の総選挙,憲法制定を発表.軍人により構成される救国軍事評議会が臨時政府と並んで存続することを明らかにする.評議会の構成は対外的配慮から中間派,穏健派軍幹部を含むものとなる.海外領土の扱いについては「ポルトガル国民の総意によって決定する」と述べるにとどまる.

4.26夜 カシアス(カイシャス?),ペニシェ刑務所など各地の刑務所で,政治囚が解放される.

4.26 共産党,直ちにデモとストを開始するよう呼びかける声明.

4.28 フランス亡命中のマリオ・ソアレス社会党委員長がリスボンに到着.一万の群衆がリスボン駅に出迎える.ソアレスは,「今は復讐のときではない.国民が団結して,国家の再建に尽くそう」と呼びかける.

4.29 共産党のアルバロ・クニャルが14年の亡命生活から帰国.出迎えたソアレスとともに大統領官邸まで凱旋行進.スピノラ臨時大統領と会見.

74年5月 第一次臨時政府の成立

5.01 革命後最初のメーデー.数十万の群集がソアレスとクニャルを歓迎.兵士は胸にカーネーションをつけ行進.

5.15 ポルトガル臨時政府が成立.大統領にスピノラ,首相には反サラザール派の法律家パルマ・カルロスが就任.国防相にはスピノラ腹心のフィルミノ・ミゲル中佐.社会党のソアレスは外相に,共産党のクニャル,ポルトガル民主運動(MDP)のフランシスコ・ペレイラ・デ・モウラ,人民民主党のフランシスコ・サ・カルネイロは無任所相に就任.内閣とは別に大統領の諮問機関として国家評議会が結成され,MFAを中心に財界人,将軍連など21人から構成される.さらに首相府には,メーロ・アントゥネス少佐を委員長とする国軍運動の調整委員会が常駐し,臨時政府の動向を監視する.

5.16 臨時政府,当面の政策について閣議了解.「協調組合主義国家機構を段階的に廃止し,新しい政治的・経済的・社会的現実に適応した行政装置を持ってそれに置き換える」とする.基本線は国軍運動綱領とまったく同じ.

5.24 最低賃金法が成立.同時に高額賃金は一時的に凍結される.この決定は農業労働者,家事手伝い,零細企業には適用されず.

5.25 ロンドンでギニアビサウ独立に関する交渉が始まる.ポルトガル代表のスアレス外相は,軍事休戦と国民投票による帰属の決定を提案.ギニアビサウ側は「我々は今では90カ国から独立国として承認されており,WHOにもFAOにも加盟を認められている.国連総会ではポルトガル非難決議が90対6票で可決されている.いまさら自決権など必要ない」と,これを一笑に付す.

5月 ポルトガル旧体制派,サ・カルネイロを指導者に人民民主党を結成.のちに民主社会中道党と改称.極右派は,これとは別にキリスト教民主党を結成.

74年6月

6.01 共産党の影響下にある労組中央組織が「ストライキのためのストライキ反対」をスローガンに集会とデモ.約1万のデモ隊には,国軍運動兵士も多数参加.労働省前の集会では主催者代表カナイス・ローシャが「労働者は,国軍運動とも同盟を一点のあいまいさもなく,いま表明した」と演説.アベリノ・ゴンサルベス労相(共産党)は,労働組合が「模範的ともいうべき円熟した現実主義路線に立ってその活動を進め,経済混乱と民主勢力の分裂に通じる日和見主義と冒険主義に対し,断固たる拒否の態度を明らかにした」ことに対し喜びの意を表明.

6.05 ルサカでFRELIMOとの交渉開始.「自決」の形態論にとどまるスアレス外相と権限委譲の形態論を念頭に置くFRELIMO側との間で,交渉は最初から暗礁に乗り上げる.

6.11 スピノラ,植民地問題について発言.完全独立を認めず連邦制の維持に固執する.

6.11 スピノラ,腹心のシルヴェリオ・マルケスをアンゴラ総督に任命.アンゴラ現地の国軍運動はこの人事を拒否.MFA本部が現地の動きを支持したことから,この人事は流産.これに代わり救国軍事評議会のローザ・コウティーニョが任命される.

6.19 アゾレス諸島に滞在中のスピノラ,MFA幹部に秘してニクソン米大統領と会談.スピノラは軍事を含めたモザンビク問題での支援を要請.アンゴラ独立運動への対応について意見を調整.のちにスピノラ自身が語ったところによれば,ニクソンはポルトガルが左傾し,とことん行き着くところまで行くことを望んでいたという.その実験が失敗すれば「ポルトガルはヨーロッパの左傾に対するワクチン注射になる」と述べた.

6 ポルトガル,ソ連・東欧諸国とあいついで国交回復.

74年7月 第二次臨時政府の成立

7.05 パルマ・カルロス首相,国家評議会に対し首相の権限拡大を要求.拡大されるべき「権限」として,3ヶ月以内に大統領選挙を実施する権限,総選挙を1年半延長すること,閣僚選任権の集中の三点.

7.07 国政評議会で,パルマ首相の提案をめぐり議論が開始される.否定的な意見が多かったことから,パルマは「提案が承認されなければ辞任」と脅迫.

7.07 スピノラ,リスボンで演説.国軍運動の任務は終わったと述べる.

7.08 政府,大統領府と国家評議会の対立激化.国家評議会,徹夜の議論となる.

7.09 国家評議会,閣僚選任権以外の「権限」付与を拒否.首相権限の拡大を目指したパルマ・カルロスは敗れ辞任.マリオ・フィルミノ・ミゲル国防相を含むカルロス派の三閣僚も辞任.スピノラはフィルミノ・ミゲルを次期首相に推薦.

7.11 各紙,スピノラ大統領がフィルミノ・ミゲルを首相に選出したといっせいに報道.これに対し国家評議会は態度を硬化.

7.12 国家評議会,スピノラの指名を覆し,バスコ・ドス・サントス・ゴンサルベス大佐を新首相に選出.

7.17 国家評議会,反革命に備え,国土治安作戦司令部(COPCON)を創設.「ポルトガル本土における治安作戦の指揮・調整」にあたることとなる.司令官にはゴメス将軍,副司令官(兼リスボン地区司令官)にはオテロ・デ・カルバリョ大佐が就任.同時に准将に昇格.

7.18 大統領官邸でゴンサルベス首相の就任式.スピノラは「この国の声なき大衆は自由をわがものとし,それを守らなくてはならない」と演説.ゴンサルベスはスピノラ,ゴメスが国軍運動綱領作成にかかわっていた事を明らかにするとともに,スピノラによる綱領破棄の企てを許さないことを明らかにする.

7.19 ゴンサルベス内閣が発表される.国軍運動の中心人物メーロ・アントゥネス大佐,ビクトル・アルベス少佐が無任所相として入閣.その他17閣僚中7人が軍人となる.クニャルは無任所相として留任.政府内外で共産党の比重が高まる.

7.24 1933年憲法第一条を廃棄.海外領土の独立権を承認する.国家評議会委員で「赤い提督」と呼ばれるアントニオ・アルバ・ローザ・コウティニョが,最大の難関といわれたアンゴラの臨時高等弁務官となり,独立交渉にあたる.

7.25 ソアレス社会党委員長,「ポルトガルの発展のために国民はもっと働かねばならない.だが労働の結果が,少数の金持ちを富ませることにならないように,臨時政府はしっかりと見張るべきである」と述べる.また共産党のクニャルは,「政府は労働者に経済危機の代償を払わせることにならないように処置を講ずるべきである」と警告.

7.27 アンゴラ,モザンビークでの停戦実現.スピノラは「これからのち海外領土住民の独立の権利の承認をふくめて,アフリカの植民地独立計画を進めるあらゆる提議に応じる用意がある」と述べる.心ならずも連邦制構想の挫折を認める.

74年8月

8.02 ワルトハイム国連事務総長,リスボンを訪問.ポルトガル海外領問題について協議.

8.04 ポルトガル政府とワルトハイムが共同声明.ギニアビサウの独立を承認する方向で一致.ギニア・ビサウ主権承認に関する協定調印.

8月 ポルトガル民主運動,国軍運動の協力のもとに全国で識字運動を展開.夏休みを利用して数千の学生・教師が田舎に出かけ,識字キャンペーンを展開.この時点でポルトガル農民の識字率は50%だった.

74年9月 スピノラの辞任

9.07 ルサカでモザンビーク独立に関する協定調印.75年6月に完全独立.それまではFRELIMOが任命する首相の下に,FRELIMO多数の閣僚会議と,両者同数の休戦監視委員会を設置する.

9.07 モザンビークの首都ロレンソ・マルケスで白人植民者の暴動.放送局を占拠し,白人の支配するモザンビーク独立を宣言.南アが介入を見合わせたため,この共和国構想は流産に終わる.

9.10 スピノラ,テレビ演説でギニア・ビサウ独立承認を宣言する.この中で,「ポルトガルの声なき大衆の皆さん,全体主義的過激派から身を守るために立ち上がりましょう.彼らは複数政党制を破壊し,打倒したばかりのファシストと同じように弾圧的な,新たな左翼独裁体制の確立に向けて社会的混乱を操作しているのです」と演説.事実上反革命を呼びかける.

9.11 スピノラ演説を機会に,国軍運動に対する右翼の運動が復活.全土に「声なき多数よ,スピノラを支持せよ.過激主義者にノーを!」のポスターが張りめぐらされる.

9.14 FRELIMO部隊,首都ロレンソ・マルケスに入城.ポルトガル軍との合同監視委員会に参加.合同巡視隊を創設.ポルトガル人右翼は私兵集団「死神の竜」や「西欧文明継承独立戦線」を結成し破壊活動.

9.15 スピノラ,カボヴェルデのサル島で休暇中,極秘にザイールのモブツ大統領,アンゴラ解放国民戦線(FNLA)のホールデン・ロベルト議長と会談.アンゴラへの対応を協議.ポルトガルが宗主権を維持した上でFNLAが支配権を掌握することで合意.この会見の直後,FNLAがアンゴラ北部に大規模侵入作戦.

9.25 政府,120日間以上空家のまま放置された家の占拠を認める.その後の半年間にリスボンで3千戸,全国で2万戸が占拠される.

9.26 基金募集を口実に闘牛ゲームが開催される.在郷軍人協会の主催で,共産党本部近くのリスボン闘牛場で開催.「海外領土万歳」のシュプレヒコールが繰り返され,列席したスピノラには拍手と歓声が,ゴンサルベスには野次と非難が集中.大会終了後,場内放送で「声なき大衆のデモ」を呼びかけ,プラカードを持った闘牛士が先頭に立つ.群集は数百メートル離れた共産党本部に向かい,共産党の防衛隊と対峙.軍が出動して暴動を鎮圧する.

9.26 「声なき大衆」,28日夜に闘牛場で「過激主義者ノー!」の集会を行うと発表.スピノラに通じる情報省のオソリオ少佐はこの申請を承認.MDP,社会党,共産党は直ちに抗議行動を展開.

9.27 リスボン各紙は一致してデモの禁止を要求.リスボン知事もデモは認められないと声明.スピノラは「表現の自由」を守るため,デモは許可されるべきだと主張.デモに反対する新聞の発行を禁止すると発表.

9.27 MDP,左翼諸党と労組の支持の下に緊急アピールを発表.リスボンに向かうすべての交通を遮断し,人民的管制下におくようもとめる.左翼系のラジオ・クルベは市民に「バリケードを築け」と呼びかける.鉄道労働者,バス労働者は運行を止め,地方からの動員をバリケードで阻止.クニャル書記長は,「反動が牙をとぎ,噛みつこうとするなら,その前に奴らの牙をへし折ってやる」と演説.

9.27昼 国軍運動調整委員会,スピノラに対しデモ禁止を要求.スピノラはこれを拒否.

9.27夕 オテロ司令官,「声なき多数」派による暴動に備え,すべてのラジオ・テレビ局を占拠.放送内容については干渉せず.

9.27夜 サン・ベント政府宮殿で緊急閣議が開催される.大多数の閣僚はデモの禁止を主張.その後サン・ベレム大統領宮殿に移り,改めて軍事評議会が開催される.この会議はスピノラを議長として,軍事評議会のほか国軍参謀総長と陸軍参謀長も参加.スピノラはゴンサルベスの辞任を要求するが,ゴンサルベスはこれを拒否.

9.28深夜 途中からCOPCONのゴメス司令官とオテロ副司令官も招集される.スピノラはオテロに,バリケード設営の呼びかけを続けるラジオ・クルベ・ポルトゥゲスの閉鎖,全放送局の共和国警備隊による占拠を命じる.オテロはそれらがすでにCOPCONによって占拠済みであるとし,警察との交替を拒否.

28日深夜 COPCONの攻撃を恐れたスピノラ,オテロを閣議から解放.

9.28未明 COPCON司令部に復帰したオテロ司令官,ただちに部隊を展開.市内要所のすべてをCOPCON配下の兵士により確保.ポルトガル行動運動(MAP)を襲った部隊は,ゴンサルベス暗殺を狙う狙撃隊を摘発.

9.28朝 社会通信相サンシェス・オソリオ,国営放送を通じ声明を発表.デモは予定通り実行されると述べ,バリケードの撤去とリスボンへの自由通行回復を命じる.ボイス・オブ・アメリカは,今夜の「声なき多数派」のデモにはポルトガル全土から30万人が参加すると報道.

9.28正午 スピノラ,デモの中止を発表.

9.28午後 MDP,逮捕者名簿を発表.カウルザ・デ・アリアガ,ペレイラ・デ・カストロ,バルビエリ・カルドゾの三将軍.中級将校12人が含まれる.さらにポルトガル第二,第三の財閥や植民地の右翼など300人が逮捕される.

9.29 エスプレソ紙,陰謀の全貌を曝露.スペインから大量の武器が持ち込まれ,左翼のテロを装ったゴンサルベス暗殺も計画されていた.

9.29 国軍運動,謀議に参加した救国軍事評議会メンバーに辞任を迫る.陸軍司令官シルベイロ・マルケス,空軍司令官ディオゴ・ネト,同副司令官カルバン・デ・メーロが辞任.残ったのはコスタ・ゴメス,海軍参謀長ピニェイロ・アゼベド,副参謀長のコウティニョのみ.

9.30 11:30AM スピノラ,テレビで大統領を辞任すると声明.「わが国は混乱と無秩序に陥り,平和と進歩に奉仕する真の民主主義を築くことはできない.したがって私は辞任する」と述べ,演説の中で「声なき多数」を励ます.これに代わりコスタ・ゴメスが大統領となる.ゴメスは,ゴンサルベスの首相留任を発表.スピノラは救国軍事評議会も辞任.これにあわせ,閣僚内スピノラ派のフィルミノ・ミゲル国防相,サンシェス・オソリオ社会通信相も辞任.

9.30 大統領宮殿前で三万人の大集会.コスタ・ゴメス,ゴンサルベス,アントゥネスを歓迎.

74年10月

10.01 MDP,「この闘争は,真に大衆が動員されたとき,どれだけのことができるかということの,輝かしい範例であった.今回の事件はわが国の情勢とチリとの相違を,重ねて証明した.我々には,一方に主要な進歩的勢力の団結があり,他方に人民と軍隊の団結がある」と声明.

10.02 COPCON部隊,進歩党(旧連邦運動)本部を摘発.60ミリカノン砲50門,同砲弾5千発,バズーカ砲50門,装甲貫徹・焼夷性ロケット弾,軽自動銃200挺と弾薬10万発,各種手榴弾900発の明細書を発見.さらに即決裁判で処刑するものと,競技場・闘牛場に収容すべき人物の名簿.チリ・クーデターの実行マニュアルなども発見.処刑名簿には国軍運動の幹部も数多く含まれる.

10.02 同じく陰謀に参加していた自由党のジョゼ・デ・アルメイダ・アラウジョ委員長,書記長のアントニオ・フィゲリドはいちはやくスイスに逃亡.

10.22 ゴンサルベス内閣,制憲議会法案を発表.75年3月に選挙を行うと決定.

10.25 第五師団,地方での反共キャンペーンに対抗するため,「文化の動員」キャンペーンを開始.学校や道路の建設に協力し,村の生活水準の向上に努力する.

10月 メロ・アントゥネス,経済計画を策定.「経済は破産寸前であり,政治的・経済的安定が不可欠であり,そのために計画は改良主義的・現実主義的なものにならざるを得ない」とする.産業資本の50%が政府の統制のもとに置かれ,銀行その他大企業の一部が国有化される.

10月 MFA,戦線拡大に伴い機構を改変.救国軍事評議会,調整委員会メンバーに加え,COPCON幹部,閣僚軍人を加え20人会議を創設.

10月 社会党,労働組合連合の主導権を共産党が握っていることに不満を表明.ソアレスは,連合を唯一の労働代表として公認するのなら閣僚を辞任すると脅迫.これにサ・カルネイロも同調.スピノラ派は,この対立を利用し,調整委員会が共産党に牛耳られていると宣伝.

10月 アレンテッジョ地方の地主は政府への非協力の意向を明らかにし,耕作を放棄.同地方の農民の82%が職を失う.失業した農民は次々に農地を占拠.COPCONは農民支持の立場から土地紛争に介入.

74年11月

11.02 自由集会の権利を認める法律が制定される.

11.05 MFA総会,新政策を採択.政策の特徴を,社会主義への「傾斜」と表現.

11.05 選挙法制定.コスタ・ゴメス大統領は「独裁制が復活することはありえない.政治権力は民主的制度によって選出された集団組織によって行使されるだろう」と演説.

11 民主社会中道党の総会,極左勢力の襲撃により流会.

74年12月

12.09 総選挙に備え,国勢調査が実施される.

12.23 オテロ司令官,6月にスピノラとモザンビーク問題について話し合い,スピノラが「ニクソンや南アに軍の派遣を要請することも考える」と述べたと暴露.スピノラはマスコミ各社に「オテロの陰謀」と反論する声明を送付.

12.31 国軍運動調整委員会,オテロ司令官の発言を全面的に支持.スピノラの人格も含め否定するコメント.

12月 ポルトガル共産党大会.MFAとの共闘を強調し,「プロレタリア独裁」の表現を削除.平和革命路線をとることを決定.

12月 労働中央組織のあり方をめぐり,単一制を主張する共産党と,複数制を主張する社会党・人民社会党が対立.組合員の一般投票では,単一労働組織案が多数を占める.

 

1975

75年1月

1.15 ポルトガル南部アルガルベ県のアルボルで,アンゴラ独立に関する協定調印.アンゴラの側からはMPLAネト議長,UNITAのサビンビ議長,FNLAのホルデン・ロベルト議長が署名.ポルトガル側からはコスタゴメス,ゴンサルヴェス,アントゥネスが参加.

1月中旬 ポルトで民主社会中央党(CDS)大会.極左勢力が武装襲撃.

1.20 単一の労働組合中央組織設立に関する新労働組合法が承認される.労働組合中央組織をめぐり,社会党は閣僚引き上げを辞さずと強硬化.

1.28 MFA,労働組合連合を「唯一の組合」として公認.国軍運動が単一化の方針を決定した結果,社会党もこれを了承.MFAと共産党の関係がさらに深まる.

1.31 アルガルヴェ協定調印.三派の代表からなる暫定政府が擁立され,11月の完全独立を目指すことになる.

1月 ベジャ県エルダーデ・デ・オウテイロ農場で,不在地主の土地への「ヤマネコ収容」が始まる.半年のあいだに土地占拠闘争は全国に広まる.政府はこの「収容」を事実上容認.

1 労働組合連合,メーデー以来の規模となるデモを実施.労働者はルイスナヴェ,セテナヴェの造船所や電力会社の工場を相次いで占拠.

1 共産党に指導された歩兵師団,アンゴラ出兵命令を拒否.軍幹部の怒りを買う.

1 ソアレス外相,ソ連を訪問.グロムイコとの会談に際し,MFAと連携した共産党が政権を握るのを阻止するよう要請したと伝えられる.

75年2月

2.17 MFA総会開催.共和国大統領は国会だけでなくMFA総会の信任を得ることを必要とすると決議.実質的にスピノラの大統領再任への道を絶つ.

2.17 オポルトの軍司令部,右翼のテロリスト組織「ポルトガル解放軍」がスペインでクーを計画していると報告.

2.18 国軍運動調整委員会のピント・ソアレス,「内戦の脅威に関する典型的に反動的な流言」を流したとして,社会党・人民社会党を厳しく非難.カルネイロ人民社会党委員長は「ポルトガルは内戦寸前にある」とテレビで発言.社会党幹部は「国家を内戦から救う」決意を公然と語る.

2.20 MFA,アントゥネスの経済改革計画を承認.ゴンサルベスら左派は,銀行と企業の国有化を強く主張.

2.25 この日を期して右翼によるクーの情報が流れる.MFAとCOPCONは,前後5日間にわたり厳戒体制を敷く.

2 キリ民党の大会,極左勢力の襲撃により流会.極左勢力は大学内でも暴力行為を繰り返し,民主運動の権威を傷つける.

75年3月

3.06 フランスの左翼カトリック系新聞,スピノラがCIAの協力のもとにクーを計画していると報道.

3.07 セトゥパルで人民民主党の大会.左派社会主義党,革命行動統一連合などの極左集団2千名が大会を襲撃.MFAと主要政党は一斉に極左の行動を非難.

3.08 右翼政治家とシャンパリモー財閥一族など大企業主が会談.極左テロリストがイースターに大虐殺をたくらみ,ブラックリストを作成しているとのうわさについて討議.

3.09 右翼政治家と資本家,スピノラを訪れ,ブラックリストの存在をたずねる.スピノラはフランス情報機関から送られたブラックリストを提示.両者は11日クーデター決行で合意.空軍幹部もこれに合意.

3.10 スピノラ,深夜タンコスの空軍基地に入る.

3月11日 スピノラ派のクーデター 

9:00AM 空軍の一部が反乱開始.リスボン北方120キロのタンコス空軍基地を司令部として確保.スピノラが指揮権を統括.

10:45am T6練習爆撃機2機,輸送ヘリ8機に40人の降下部隊が分乗.リスボンの第一砲兵連隊の攻撃に向かう.さらにノルダトラス輸送機3機に分乗した落下傘部隊120人が後に続く.彼らは砲兵連隊が反乱を起こしたため鎮圧に向かうと指示されていた.

11:00AM スピノラはさらに,モンテ・レアル基地のF86戦闘機二機に,リスボンのCOPCON司令部,第一軽砲兵連隊本部の各上空を威嚇飛行するよう指令.

11.50AM リスボン空港へのロケット弾による攻撃開始.守備にあたっていた第一軽砲兵連隊は,最初の攻撃で15人が負傷,うち1人はまもなく死亡.

12:00AM ノルダトラス輸送機で運ばれた空挺部隊数百人が,空港を占拠.第一軽砲連隊との銃撃戦に入る.市民が空挺部隊を包囲,武器を捨てるよう要求.軽砲連隊は市民に武器を手渡す.空挺部隊の下級兵士は,呼びかけに応え次々に武装解除.

12:00AM リスボン中心部のカルモ兵営で,共和国警備隊の反乱が始まる.反動派反乱部隊が,国軍運動から派遣された指揮官を逮捕,警備隊本部を確保.反乱軍に加わる.まもなくビルを包囲した労働者は,ビルの出入りを統制下に置き,さらに封鎖することに成功.

0:30PM キンタニリャ中佐を指揮官とするタンコスの空挺部隊,アビオカル輸送機三機に分乗し,モンテレアル基地に着陸.統制下におこうとするが,地上要員は激しく抵抗.部隊はそのままタンコスに引き返す.

0:30PM 軍人の指揮する二組の民間人部隊がヘリでラジオ・クルベを襲撃.発電機に機関銃を打ち込んで放送を麻痺させる.部隊の主力はシャンパリモー財閥の一族.COPCONはこれに代わり国営放送を占拠,第五師団がクーの陰謀を非難する放送を開始する.

1:00PM GNR反乱部隊,リスボン北西郊外のモンサントTV送信塔を襲撃.すでにCOPCONが防衛していたため,攻撃を断念.

午後 共産党員と労働者は,リスボンとオポルトを結ぶ道路を封鎖,テージョ川の橋にバリケードを築く.さらにカルモ広場の共和国警備隊本部ビルを包囲し,通行を阻止する.

14:00pm 降下部隊と砲兵連隊との間に和解成立.上層部が虚偽の指令を出していたことが明らかになる.この情景はテレビで一部始終全国に放映される.

3:00PM スピノラから出動要請を受けたサンタレン騎兵学校長サルゲイロ・マイア大尉,タンコスにとびスピノラを説得.

3:30PM クーの失敗が明らかになる.スピノラ,キンタニリャら16人の将校は,三機のヘリに分乗しスペインに亡命.スピノラはその後さらにブラジルに亡命.

夕方 国軍運動,スピノラの企てたクーデターは失敗に終わったと声明.スピノラの軍籍を剥奪.制憲議会選挙は4月末に延期される.後の調査委員会の発表によれば,陰謀に参加したのは将軍5人,大佐18人,少佐27人,大尉33人,少・中尉42人など163人という大規模なもの.

夕方 ゴンサルヴェス首相,テレビ演説.「われわれの本当の敵が保守反動勢力であることを忘れないでほしい」と訴える.

3.12 MFA総会開催.救国軍事評議会,20人会議,国政評議会の諸組織が革命評議会に集中することになる.さらに革命評議会はMFA総会に直結することとなる.総会代議員は240人に増加,立法権も併せ持つこととなる.

3.13 MFA,28人からなる「革命評議会」を創設.政府の行動を監視する機能を持たせる.事実上の軍事政権への移行.議長にはコウティニョ海軍提督が就任.

3.14 ゴンサルベス政府,銀行と保険会社の国有化を決定.これを皮切りに重要産業の国有化が矢継ぎ早に打ち出される.

3.15 革命評議会,銀行と証券会社の国有化を決定.

3.19 革命評議会,4月25日に選挙を実施することを決定.クーデターに加わった社会民主中道党は,選挙への参加を拒否される.

3.25 ゴンサルベス,内閣を再編成.国軍運動8人,社会党・社会民主党・共産党から各2人,MDP1人,無党派5人.

3.27 MPLAとFNLAがふたたび衝突.交戦状態に入る. 米国務省はFNLAのキャンペーンに30万ドルの援助を行うことを決定.アンゴラ内政に干渉の構え.キンシャサの支局長はFNLAのホールデン・ロベルトにアンゴラ侵攻を指示.

1975年4月 制憲議会選挙

4.01 制憲議会選挙開始.ソアレスは第一声で「社会党だけが国軍運動を共産党の奴隷に落ち込ませ,「第二のキューバ」になることを救うことができる」と強調.

4.10 MFA総会,75年の新政策を改定.「社会主義への傾斜」を「社会主義への移行」と改める.いかなる外国のモデルにも従わず,民族の自主性を尊重すること,あらゆる形態の独裁体制を拒否すること,複数政党制を堅持することを柱とする.

4.11 MFA,各政党間との個別交渉で「憲法に関する協定」を締結.選挙結果のいかんにかかわりなく,国軍運動が引き続き国の支配勢力であることを確認.首相は議会が不信任することを許されず,国防相,内相,経済計画相の三つのポストは国軍運動が指名する,などを内容とする.12政党のうち6党が協定に応ずる.

4.15 ゴンサルベス政府,農民の土地占拠闘争を事後承認する法令を発令.地主が国外逃亡した場合,賃金不払いが1ヶ月以上続いた場合は収用が認められる.また未耕作地に対して農業労働者が介入して,耕作する権利も認められる.

4.16 ゴンサルベス政権,電力14社・石油5社・ポルトガル航空をふくむ運輸部門4社などを国有化.破産に瀕した企業を救済するのが目的.さらにセメント,鉱山,石油化学,タバコ,醸造,造船などについても国有化を検討.

4.24 コスタ・ゴメス,「社会主義的な道を汚すことなく,自由の行使に必要な複数政党制を約束する政党を選ぼう」と演説,事実上社会党支持を訴える.

4.25 ポルトガルで制憲議会選挙が実施される.投票率は91%に及ぶ.登録政党12の内五つの政党が議席を獲得.社会党が38%を獲得し第一党となるが,ゴンサルベスは引き続き首相の座にとどまる.共産党は13%を獲得.中道保守の人民社会党(26%)に続き3位となる.ポルトガル民主運動は支持票のほとんどが社会党に流れ,4%と惨敗.

4.29 オテロ司令官,外部から武力干渉を受ければ,「大衆を動員し,人民と腕を組んでゲリラ戦を始める」と述べる.

4月 アレンテッジョで農地の占拠が進行.無政府状態に陥る.

75年5月 レプブリカ事件

5.01 リスボンのメーデー中央集会をめぐり社会党と共産党が対立.共産党はソアレスの演説を実力で阻止.

5.02 社会党,メーデーでのソアレス排除に抗議するデモ.「社会主義万歳,独裁制に反対」を叫ぶ.

5.09 セメント,セルロイド会社が国有化される.

5.13 タバコ会社が国有化される.

5.15 「レプブリカ」事件が発生.ポルトガル社会党の事実上の機関紙「レプブリカ」で,共産党系労働者が編集長の罷免を要求し篭城.労働者委員会がこれを全面支援.政府・社会党・共産党の対立が激化する.

5.19 「レプブリカ」紙編集部とマリオ・ソアレス,社屋に突入を試みるが,労働者に阻止される.MFAが仲裁に入るが失敗.

5月 カトリック系のラジオ・レナセンサ,局内の無党派左翼系労働者により接収される.左派の牙城となる.

5月 COPCONと第五師団が中心になり「民衆とMFAの同盟」のプログラムを作成.ゴンサルベスもこの路線を支持.

75年6月

6.16 レプブリカ紙編集長,新聞の発行継続を断念.社屋を管理中のMFA革命評議会は,これを労働者委員会に明渡す.

6.19 アルフェイテでMFA総会開催.社会党系のヴァスコ・ロレンソは,複数政党制の確認とNATOへの参加を主張する政治行動計画を発表.共産党側は強い反発を示す.

6.21 革命評議会,「MFAの政治行動計画」を採択.農場と工場の接収と労働者管理を全面的に承認.「国軍運動の課題は社会主義社会の建設によってのみ達成される.“社会主義社会”とは,生産手段の集団所有化によって実現される無階級の社会である」とする.また国会の機能については,「憲法の草案の起草にのみ存し,それを逸脱して国家の誠意・行政活動に対する公的な介入行為に走ることは,形態の如何を問わず固く禁じられていることを公然かつ明確に声明する」

6.25 フレリーモ結成13周年を期し,モザンビークが正式独立.

6月 リスボンの地下鉄が国有化される.

1975年7月

7.05 カポベルデ共和国,独立を宣言.カボベルデ諸島とサン・トメ・プリンシペ諸島が独立を達成.将来のギニアビサウとの合併を視野に置く.

7.08 MFA総会が続開される.COPCONと第五師団系はヴァスコ・ロレンソに対抗し,「民衆とMFAの同盟」のガイドブックを発表.直接民主主義による軍人と労働者の政治権力の奪取を示唆する.ゴンサルヴェスと共産党系は,議会制を補完するものとしての意義を認めるが,労組など既存組織の役割を重視.

7.09 国軍運動,「人民権力」の樹立を目指す方針を採択.労働者・農民・地域住民・一般兵士の委員会を創設し,これを人民会議に発展させるというもの.各方面からの反発がいっせいに巻き起こる.

7.10 MFA総会決裂.レプブリカ問題,修復不可能となる.社会党は「民衆とMFAの同盟」に反発し,二人の閣僚を引き揚げる.

7.17 社会党に続き人民社会党も閣僚を引き揚げる.これに伴いゴンサルベス内閣は総辞職する.

7.18 社会党,ポルトでゴンサルベスに対する抗議集会を開催.共産党は会場にバリケードを築き集会阻止を図るが失敗.

7.19 社会党,リスボンで反ゴンサルベスの大規模なデモを企画.政府の妨害により実現せず.

7.23 ヴァスコ・ロレンソ,歩兵学校で60人の将校を召集.第五師団の解体,MFAの立法権の否認,ゴンサルヴェス首相の更迭を決議.

7.24 MFA総会,ヴァスコ・ロレンソらの決議案を否決.オテロ派,ゴンサルヴェス派,ヴァスコ・ロレンソ派の分裂が明らかになる. 

7.25 MFA革命評議会,議会に代わりゴンサルベスとゴメス大統領,オテロの三頭政治に移行することを決定.事実上の軍事独裁宣言.

7月 農地改革法の草案が起草される.

1975年8月 ゴンサルベスの失脚

8.06 北部では反共集団による暴動が頻発.共産党やMDPの事務所に対する焼打ち,活動家への暴行事件が相次ぐ.

8.07 革命評議会内の反共産党派9名による「九人文書」が発表される.中心人物はMFAの最高理論幹部メロ・アントゥネス大佐.「革命的前衛」の考えは否定され,「広範で強固な社会集団による支持,社会主義移行のための国家計画」が提起される.結論として「現在の国政指導部によっては実現不可能であり,一部を入れ替えたところでそれは変わらない.現指導部が信頼性にかけ,統治能力に乏しいことは明白だからである」とし,総退陣を要求.

8.08 ゴンサルベスが首班となり,「非政党内閣」が発足.政党党員はすべて除外される.ゴンサルヴェスの独裁傾向が強まる.ゴンサルヴェス派はアントゥネスの評議会からの追放を図るが,コスタ・ゴメスの判断により停職処分にとどめる.

8.13 「9人文書」に対抗し,オテロが中心となり「COPCON文書」を発表.この文書はアントゥネス文書が右翼勢力を復活させ,革命プロセスを破壊するだろうと批判.そもそも総選挙を実施したこと自体が間違いだったとし,ブルジョア社会における選挙そのものを否定.九人文書の言うように,政府内部で政治的同盟を維持できたとしても,それだけで社会主義建設が前進するものではない.国軍運動と人民の同盟を基礎に,「人民大衆による自主的で系統的な機構を樹立」し,村・工場・都市居住区に評議会を作り,この評議会が「真正の権力機関と」なることによってのみ,社会主義は可能である」とする.

8.17 オテロとアントゥーネス,「九人文書」に一部修正を加えることで妥協が成立.ゴンサルベスは孤立した形になる.

8.25 共産党と革命左派が革命統一戦線(FUR)を結成.革命の主導権掌握を狙う.

8.27 オテロ,社会党系勢力と結託.ゴンサルヴェス追い落としを図る.ゴンサルヴェスの最大の拠点である第五師団兵営がCOPCONにより占拠される. 共産党系官僚の多くが政府機関より追放される.

8.29 ゴンサルベス,三人委員会を辞任.ゴメス大統領はピニェイロ・デ・アゼヴェド海軍中将を首相に任命.ゴンサルベスは国軍参謀総長に就任.政府の右傾化を警戒する軍人はオテロ,ローザ・コウティーニョ海軍提督,カルロス・ファビアン陸軍参謀長を中心に左派の団結を固める.

8.30 九人委員会は,ゴンサルベスの国軍参謀総長就任にも反対.公然右派のモライス・イ・シルバ空軍参謀長もこれに同調.アントゥネスがモライスを受け入れたことで,オテロとの関係が決定的に分かれる.

1975年9月 「団結した兵士は勝つ」

9.02 国軍運動総会に先立ち,陸・海・空軍の個別集会が開催される.陸軍集会ではゴンサルベスの総参謀長任命反対,国軍運動総会の編成替え要求などが決議される.海軍集会はゴンサルベスの任命を支持.空軍集会は,モライス・イ・シルバ将軍が選んだ代議員のみで開催.ゴンサルベス拒否だけでなく,総会出席メンバーを将軍指名の将校だけで構成することとなる.

9.05 各軍総会の状況からゴンサルベスは陸軍参謀総長就任を断念.空軍が総会代議員を参謀長任命としたことから国軍運動総会は無意味となり,これ以降機能を停止する.

9.07 ゴンサルベス内閣(第五次臨時政府)が総辞職。

9.08 ポルトで将校1人,兵士二人が覆面姿で記者会見.あらたにSUV(“団結した兵士は勝つ”)を結成したと発表.席上,SUV代表は「階級闘争における団結を堅持し」,軍内反動派と闘うと宣言.SUV内,特に憲兵隊には,「革命的プロレタリアートと革命的諸隊の党」(PRP=BR),人民民主統一党(UDP),革命的統一行動同盟(LUAR),プロレタリア党再建運動(MRPP)などの極左集団が主導権を握り,反共産党攻撃を強める.

9.10 陸海軍の兵士千五百人が,ポルト市内をデモ.労働者や住民組織数千人が合流.

9.19 アゼベド海軍大将,各政党の了解を取り付け組閣に成功.九人グループ・社会党・人民社会党から構成される第6次内閣が発足.軍人5,社会党4,人民民主党2,共産党1,無所属2人よりなる。共産党は名目的に公共事業・環境相のポストを与えられる.共産党は入閣にあたり,「政府への参加は政府の内外で反労働者的政策とのたたかいを控えるという意味ではない」と声明.

9.19 第6次臨時政府が発足.コスタゴメス大統領,「我々は革命の危機を無事に乗り越えた」と演説.

9.21 スペインのバスク人ゲリラ5人への死刑判決.リスボンでは極左勢力が処刑に抗議し,スペイン大使館に乱入.

9.24 南部農民が中心となり,農業改革を要求する大集会.南部の大農場では,MFA左派に指導された土地占拠闘争が展開される.

9.25 SUV,リスボンでデモ行動を展開.陸海軍兵士5千人が参加.これに市民・労働者ら1万人が合流.SUVの組織は4つの軍管区全体に根を張り始める.革命的下士官組織(ORS)はSUVへの合流を決定.復員兵士らも相次いで参加.海軍のローザ・コウティニョ,陸軍参謀長のカルロス・ファビアン,COPCONのオテロ准将がSUVに対する暗黙の支持を与える.

9.26 政府,SUVを取り締まらないCOPCONに対抗し,大統領直属の国軍仲裁部隊(AMI)を編成.特別攻撃隊,海兵隊,降下部隊の各一連隊に,アンゴラの特別奇襲部隊の元兵士を加えた精鋭部隊となる.COPCONはAMIの命令に服することを拒否.

9.26 ニューヨーク・タイムズ、CIAが社会党へ資金援助を行なっていると報道。社会党はこれを否定する。

9.29 アゼヴェド首相,AMIに対し左翼の拠点レナセンサ放送局の占拠を命じる.一説では、「ニュース放送を左翼の支配から外すため、全放送局の占拠を命令」する。

9.29 AMIはチルス連隊に出動を命じるが,連隊はこれを拒否.その後,カスカイス対空砲部隊が放送局を占拠.

9.29 オテロを先頭に立てたデモ隊が大統領宮殿を包囲し,放送局占拠に抗議.

9.29 抗議が受け入れられなかったオテロは,放送局に赴き対空砲部隊に撤退を求める.

1975年10月

10.01 放送局占拠が解除される。

10.01 ゴメス大統領,3日間にわたりソ連を訪問.ソ連は新政府を全面支援.

10.02 社会党、「極左分子によるクーデターは未然に防止された」と発表。

10.04 アゼベド首相、内乱の危険を強調する演説。

10月初め EC,ポルトガル新政府に対する援助を決定.

10.07 政府,労働者の賃金を凍結すると発表.これに抗議する金属労働者が労働省を包囲.

10.07 ポルトで一部兵士が砲兵連隊本部を占拠して反抗。

10.16 ポルトの占拠兵士、無処罰を条件に占拠解除を受け入れる。

10.24 COPCON、全土に警戒態勢をしく。

10.24 エボラ選出の共産党国会議員ディニス・ミランダ,大地主からの土地収用により小麦の生産量が1.5倍になったと報告.

10.25 右翼によるクーデターの情報が流れる.情報源は空軍内部の革命監視委員会(共産党系)の入手したもの.COPCONはリスボン市内にバリケードを構築.

1975年11月 反革命の成功

11.03 革命監視委員会,7日にクーデターが発生するとの情報を入手.厳戒態勢に入る.政府側はこれらの動きをCOPCONによる革命準備と見て警戒を強める.

11.07 放送局占拠に抗議する労働者が社会情報省を占拠.大臣の辞任を求める.共和国警備隊が出動するが,労働者は座り込みを解かず.

11.07 国軍仲裁部隊(AMI)の指令を受けた降下部隊60名,反政府の論陣を張るラジオ・レナセンサを占拠.放送設備を破壊する.

11.08 海兵隊,全員集会を開催.ラジオ・レナセンサ襲撃に抗議し,海兵隊員をAMIから引き揚げる決議.AMI降下部隊員も集会を開き,AMIからの引き揚げ,COPCONの指揮下に入ることを決議.後全部隊がCOPCONの指揮下に入る.さらに降下部隊の商工30人が部隊を離脱し,部署変更を申し出る.隊員は給料未払いのまま除隊を命じられる.

11.09 モライス・イ・シルバ空軍司令官,AMI降下部隊に対しタンコス基地への出頭命令.部隊はこれを拒否.連隊将校130人のうち123人が強制除隊となる.

11.11 アンゴラ,MPLAがアンゴラ人民共和国の独立を宣言.FNLAとUNITAはMPLAへの抵抗を続ける.

11.12 SUV系の建築労働者,賃上げを要求してストライキ.制憲議会を包囲し,アセベド首相と閣僚を36時間にわたり軟禁状態に置く.COPCONは介入を拒否.

11.14 ポルトで,建設労働者の封鎖作戦に抗議する社会党などのデモ.デモ隊の一部が労働者委員会のビルに放火.

11.15 政府,建設労働者の要求に屈服.賃上げを認める.

11.16 建設労働者の勝利を祝う20万人の大デモがリスボンで行なわれる.

11.16 アセベド首相ら政府指導者,「極左による政治不安」を理由に一時リスボンを離れる.政府機能は停止状態に陥る.議会も首都離脱の議論を開始。

11.18 共産党系の新聞「オ・セクロ」,左翼軍事情報機関の解散,オテロとファビアンの解任を求めた「大佐計画」の存在を暴露.

11.19 共産党とポルトガル政治運動選出の議員が,議会内で「大佐計画」抗議のデモを敢行.

11.19 降下部隊の下士官委員会,オテロと会見.「オテロこそ本物の左翼軍人の鏡」と賞賛.

11.20 アゼベド首相,「政府に対する軍の支持を大統領が保証するまで」(一説には、革命評議会が政府の安全を保障しうるようになるまで),一切の政府活動を停止すると発表.オテロ司令官の更迭を要求する。

11.20 COPCONのライフル1千丁が行方不明となる.オテロはこれらの銃が「しかるべき人物の手にある」と発言し,火に油を注ぐ.社会党のマリオ・ソアレスと人民社会党のサ・カルネイロはオテロ・カルバリョとカルロス・ファビアンの解任を要求.政府と議会のポルトへの移転を提唱.

11.20 国家防衛警察に属する二つの部隊,アンゴラ出兵の命令を拒否.

11.20 SUV,国家防衛警察の捕らえた二人の兵士を無断で解放.

11.21 AMI特別攻撃隊のジャイメ・ネベス大佐,「いつでも攻撃開始の用意ができている」と記者会見で述べる.

11.21夜 革命評議会が開かれる.SUVの行動を事実上容認してきたオテロ・デ・カルバーリョ,リスボン軍管区司令官を解任され、少佐に降格される.後任に「九人文書」署名者の一人バスコ・ロレンソ大尉が任命される.ただしオテロはCOPCON司令官の地位にはとどまる.AMIの特別攻撃部隊は解散されることとなる.

11.22 リスボン軍管区内21の主要部隊で,いっせいに会議が召集される.特別攻撃隊,騎兵・戦車学校,カスカイス対空砲隊の三つを除いて,バスコ・ロレンソの指揮下に入ることを拒否.両派のにらみ合いが続く.

11.22 第一軽砲兵連隊,ファビアン陸軍参謀長も出席し軍旗宣誓式.「我々の全力を挙げて,ファシズムに反対し,民主主義と人民権力のために,社会主義革命の勝利のために戦い抜く」と宣誓.

11.22 オテロ・デ・カルバリョ,「この政府は国の統治はそっちのけに,もっぱら左派の排除に血道をあげてきた」と非難する声明.

11.22 クニャル,マリオ・ソアレスに危機打開のための話し合いを提案.マリオ・ソアレスは直ちに拒否.

11.23 ロレンソ大尉,部隊の支持がないことを理由に首都司令官就任を辞退.

11.23 リスボン市内で社会党の大デモが展開される.マリオ・ソアレスは「共産党と国軍左派が支配権を握れば国家は麻痺する」と警告.共産党を名指して,「我々は選挙で諸君に勝った.街頭でも武器をとって諸君に勝つだろう」と演説.

11.24夜 右翼と地主勢力,リスボンと北部をつなぐすべての道路と鉄道を封鎖.

11.25 左派の反乱と敗退

0:30AM 革命評議会,バスコ・ロレンソのリスボン軍管区司令官任命を再確認する決定.陸軍参謀長にはラマリョ・エアネス中佐を准将昇格とあわせ任命.オテロとファビアンは全ての役職から更迭される.

4:00AM 降下部隊がいっせいに反乱.タンコスの降下部隊司令部,モンテレアル第五空軍基地,モンティジョ第六空軍基地,モンサント管区空軍司令部を占拠.さらにリスボン中心部の空軍総司令部を占拠.リスボン軍管区空軍司令官ピニョ・フェレイレ将軍を監禁.革命的左派の政権樹立を要求.

04:30am 陸軍参謀長エアネス,大統領の名において戒厳令を公布.自らの指示で作戦部隊をモンサントに派遣し,降下部隊を排除.この時点でオテロは大統領宮殿に拘留されたまま.

12:00AM ジャイメ・ネベス大佐の特別攻撃隊,騎兵学校の戦車の支援を得て,憲兵隊司令部を攻撃.降下部隊に共感する若干の部隊,憲兵隊,第一軽砲兵連隊などが,連帯の行動を起こす.反乱部隊はリスボン国際空港および北からの首都への進入路を管制下におく.これに呼応した労働者のストライキ.

3:00PM オテロ,大統領府に召喚される.その後,大統領府内に軟禁され,外部との連絡を絶たれる.

5:00PM COPCON司令部,バスコ・ロレンソの命によりアマドラ特別攻撃隊が収用.着任したラマリョ・エアネス中佐は,オテロ司令官を除く上級将校全員を逮捕.特別攻撃隊本部に連行.

11.25 海兵隊,憲兵隊,第一軽砲兵連隊,陸軍行政学校などは決起の訴えを拒否.共産党は「一揆主義的方針」を厳しく非難.諸部隊における統制回復の努力を訴える.

11.26 軍は本格的に出動し,反乱を鎮圧.SUV派将校・下士官・兵士100人を逮捕.これを期にSUVも衰退に向かう.

11.26 共産党首脳部と政府首脳部との会談.共産党はクーデターに参加していなかったと強調.さらに「9人文書」を今後の路線として承認すると断言.同時に,人民社会党と結び右傾化した社会党を批判.

11.27 降下部隊指導部,タンコスの司令部に出頭し降伏.

11.27 政府,COPCONを解体.軍に防衛権限を移動.COPCON高級幹部全員が逮捕される.ファビアン参謀長は辞意を明らかにする.

11.27 MFAは上級将校による革命評議会を残し機能停止.革命評議会においてもコウティニョ議長が退陣.19人のメンバーのうち左派の4人が更迭され,うち二人は逮捕される.

11.28 共産党政治委員会が覚書を発表。ここ数日間の出来事は「軍の左派勢力と全革命勢力の敗北であり、反動勢力の前進であった」と総括。

11.28 社会党全国書記局、「クーデター主義の敗北と民主主義の勝利」を確認する声明。

11.28 政府、機能再開を発表する。

11.30 軍で大規模な粛清.逮捕者はオテロを含め400名に上る.750人の将校が職を解かれる.

11.30 共産党機関紙「アヴァンテ」が論評,「4.25の精神にたち帰り,革命の戦利品を守る」よう呼びかける.クニャル,「党は直接にも間接にもこの冒険主義的行動に一切関係していない」と言明.ただし統一革命戦線に属する少数の党員が行動に参加したことは認める.

75年12月

12.07 クニャル共産党書記長が当面の課題について演説.反乱の失敗について,「軍事行動の一貫した計画もなく,集中的な指揮もなく,明確な政治目標もない.それでどうしてクーデターや蜂起を語れるだろうか」と批判.11.25以降の情勢について,「労働者大衆は新たな現実を理解しなければならない.我々の団結のあり方,闘争の形態を改める必要があることを理解しなければならない」とし,「可能な限り広範な反ファシズム統一戦線」を提起する.

12.10 メーロ・アントゥネス,ファシズム復活の道を阻止するためには,国軍と人民諸組織との同盟を守ることが重要と述べ,社会党などによる国軍運動撤退論を拒否する.アントゥネスは11.25反乱に多くの共産党員が加わっていた事実を指摘しつつ,それが党中央の統制を逸脱した行動であったことも認める.

12.11 革命評議会,憲法改正に向け主要政党の話し合いを開始する呼びかけ.

12.14 二回目のポルトガル農民大集会.左派が大結集し,土地改革の要求を突きつける.

12.16 諸政党の会談が開かれる.民主社会中道党のフレイタス・ド・アマラル委員長,「平和と公的秩序の維持ため,しばらく軍部が公生活へ参加するよう」呼びかける.各党もこれを了承.

12月 人民民主党の前書記長エミリオ・ゲレイロ,カルネイロの反共路線に反発し離党.議員80人中21人が無所属となる.

 

1976

1.04 ポルトガル政府,南部に限定した農業改革案を提示.

1.14 革命評議会,新憲法草案を制憲議会に提示.

1.20 オテロ・デ・カルバーリョ司令官,11月反乱への関与の疑いで逮捕される.二ヵ月後に釈放されるが,その後も事実上の軟禁状態に置かれる.

2.26 MFAと諸政党,新憲法草案について合意.文民統治への権限移行期を4年間置くことが確認される。9人文書の骨子が生かされたものとなる.

3.05 オテロが仮釈放される。

3.06 各政党が総選挙立候補者のリストを提出。

4.02 ポルトガル議会,新憲法を採択.発効は25日。

4.07 西独ジャーナリストギュンター・ワルラフ、スイス亡命中のスピノラによる反乱計画を暴露。スイス政府はスピノラに国外退去を命令。

4.21 共産党のクニャール書記長、共社連合政府を呼びかける。

4.25 新憲法による第一回総選挙.社会党が35%で引き続き第一党となる.第二党の人民民主党は24%.旧サラザール派の民主社会中央党が前回の2倍近い15%を獲得し三位に入る.共産党は2%得票を減らし4位に後退.

「世界政治資料」には異なる数字が示されている。4位ではあるが得票率は前回より2%増となっている。ただし前回4%強を得票した「ポルトガル民主運動」が今回は候補を立てず共産党を支持したことを考えると2%減とも言える。地域別で見るとエヴォラ、ベジャ、セトゥパルの南部三県で43〜44%を得票し、リスボンでも20%を超える得票であるのに対し、北部では数%の泡沫政党にとどまっている。

4月 選挙直前,ポルトで社会主義インター開催.ブラントが中心となり,社会党へのてこ入れ.

1976年6月 大統領選挙

6.27 ポルトガル大統領選挙.MFAのエアネスが社会党と人民社会党の支持を受け,62%を獲得し圧勝.オテロが16%,アゼベドが14%.エアネスとオテロを批判した共産党のオクタヴィオ・パトは7%にとどまる.当初,共産党はソアレスを候補に推すが,ソアレスはこれを拒否.左派軍人グループはアゼヴェドを推すが,アゼヴェドは選挙前日,心臓発作で倒れる.

7.17 インドネシア,東チモールの領有を宣言.

7月 アゼベドが大統領選出馬のため辞退したことに伴い,首相にはソアレスが就任.社会党の単独政権体制に移行.共産党を排除し,大衆運動の抑圧を図る.

7月 新農地改革法成立.農民により占拠された土地の多くが旧地主に返還される.これと併行して労働者が占拠した企業の多くも旧所有者に返還.

8月 革命評議会,軍の任務と評議会委員の兼任を禁止.これによりMFAの軍人は軍の要務を外される.

10.22 労働組合の全国総会。全国労働組合連絡会議が圧倒的多数を占める。

11.05 ポルトガルのロペス・カルドソ農相,農地改革の骨抜き化を批判し辞任.

11.25 IMFと国際金融機関による援助が開始される.7億5千万ドルの借款が行なわれるが,緊縮予算を押し付けられる.アフリカから60万人が帰国,兵士10万が復員.インフレは25%,失業率は15%にまで達する.

12.12 ポルトガル統一地方選実施.社会党33%,人民民主党24%,右派16%.共産党は「連合人民」選挙戦線として15%を獲得。

 

1977

4 ソアレス政権の執行能力への不信感を強めるエアネス大統領,連立の可能性を探るが,ソアレスはこの提案を拒否.

7 ポルトガルで農地改革法制定.当時の農相の名をとり,バレト法と呼ばれる.南部の土地約2割が中小地主に返還される.

8.25 ソアレス首相,緊縮経済対策発表.

12.08 政府,IMF提案受け容れを求めるが,議会はソアレスを不信任.ソアレス内閣は総辞職.エアネスはソアレスに連立政権の樹立を指示するが,社会民主党(前人民民主党)はこれを拒否.ソアレスは右派の民主社会中道党と連立政権を組む.

1978

4.24 社会民主中道党,農地の全面返還を要求し閣僚総引き揚げ.

4.25 「ディアリオ・デ・ノティシアス」紙による「これまで最もよく統治した政府」を問う世論調査.カエタノ28%,マリオ・ソアレス9%,ゴンサルベス8%,サラザール7%,アゼヴェド3%.

8月 ソアレス,土地・労働問題に対処できず.エアネス大統領はソアレス首相を解任,議会外から実業家アルフレド・ノブレ・ダ・コスタに組閣を命じる.

12.12 ダコスタ政権の経済再建政策,社会党の支持を得られず否決される.ダコスタ政権崩壊.エアネスは社会民主党のモタ・ピントに組閣を命じる.議会では保守二党からの支持,社会党の棄権により信任される.ピントは旧サラザール政権の閣僚や財閥代表を内閣に加え,右よりの再編成を図る.緊縮政策と物価自由化,石油価格の引き上げなどにより,労働者の生活は破綻に追い込まれ,インフレ率も24%に達する.退職金は凍結され,社会福祉政策は打ち切られる.健康保険制度実施は棚上げとなり,労働者住宅の建設は中止される.一連の事態の中で,保守党と手を組むエアネスが影響力を拡大.一方で社会党との溝が深まる.

1979

3 ピント内閣の予算案,議会で否決される.

6月 ピント内閣,総辞職.

8月 エアネス大統領,マリア・デ・ルールデス・ピンタシルゴを初の女性首相に任命.実体としては総選挙までの暫定内閣.

12 二回目の総選挙が実施される.右翼勢力は民主同盟を結成し議会の過半数を制する.社会党と民主社会左翼同盟の同盟と,共産党とポルトガル民主運動の組んだ統一民衆選挙戦線は,大敗を喫する.

1980

1 サ・カルネイロの率いる民主同盟内閣が発足.社会民主党,サ・カルネイロの民主社会中道党,人民王制党が参加.カヴァコ・シルヴァ蔵相は,公務員の大規模な人員整理と国有企業への補助金削減,公共部門の支出抑制を実施.

2 社会党,党員拡大運動を提起.これを通じてソアレス派の支配力が強まる.

5.01 メーデー.政府打倒を叫ぶデモに150万人が参加.

6月 労働組合連合,「政府に抗議する日」を提起.24時間ゼネストが決行される.

7月 政府,農民の管理していた農地32万ヘクタールを接収し元地主に返還.農民35万人が土地取り上げに抗議するデモ.

10 ふたたび総選挙.民主同盟は国民の安定願望を背景に引き続き134議席を獲得,議席の過半数を維持.社会党は74議席,共産党は41議席にとどまる.

12.04 サ・カルネイロ首相,大統領選挙の前々日に事故により死亡.

12.06 大統領選挙.社会党,共産党に推されたエアネスが,50%を獲得し再選を果たす.民主同盟の推したソアレス・カルネイロ将軍はサラザール政権との繋がり,アフリカの強制労働キャンプとの関わりが指摘され,41%の得票にとどまる.オテロは一部左翼の支持を受け立候補するが落選.極右はカルヴァン・デ・メロ・ビレス・ヴェロソを候補に立てる.

80 極左テロリストグループ「4月25日民衆勢力」(FP・25)が結成される.銀行強盗や暗殺を含むテロ活動を繰り返す.

1981

1 サ・カルネイロの後任に,カエタノ時代の合法野党の所属議員だったフランシスコ・ピント・バルマセンが就任.緊縮財政と民営化政策により,インフレ率を16%に押さえ込む.この年さらに土地の再接収が進行.2万5千ヘクタールが接収され,1万ヘクタールが小農の手に返還される.

4.25 民主同盟,憲法改正と革命評議会の解散を求める.

5 ピント政権を大統領よりと批判する社会民主党右派が分裂.モタ・アマラルの政権支持派と,カヴァコ・シルヴァの右派にわかれる.

8 右派の突き上げに会い,ピント・バルマセン内閣が総辞職.

9 昏迷の末,ふたたびピント・バルマセンが組閣を命じられる.ピントは憲法改正を正面に打ち出す.共産党その他の左翼は強力な反対運動を展開するが,社会党は舞台裏での取引により憲法改正を事実上容認.

1982

8 共産党などの反対を押し切り,憲法改正案が議会を通過.ただし国防法改正案は否決される.

8.12 民主同盟の要求に社会党も同調.革命評議会は解散に追い込まれる.

10.30 エアネス大統領,改正憲法を発布.MFAへの言及は憲法から除外され,革命評議会は閉鎖される.その機能は国政評議会,憲法裁判所,最高国防委員会に振り分けられる.「社会主義への移行」という革命の目的は,「民主的法治国家への移行」に書き換えられる.また「MFAと政党の同盟」は,複数政党制の尊厳の保障にとってかえられる.

12 地方選挙で野党が勝利.民主同盟は過半数を割り込む.これを期に民主社会中道党のフレイタス・ド・アマラル委員長は,ピント内閣への忠誠を放棄.

12 この年の国際収支赤字は,GDPの14%,32億ドルに達する.対外債務は13億ドル,物価上昇率は34%,失業率は15%に達する.

1983

12 新国防法による軍首脳部の任命をめぐり,エアネス大統領とピント内閣が激突.これによりピント内閣は崩壊.ピント派幹部が政界から引退.社会民主党内には,社会党との連立を主張する意見が強まる.

12 社会党と社会民主党が連立政権を樹立.ソアレスがふたたび首相に就任.

1984

6 政府の反テロ警察,オテロを逮捕.オテロは革命の成果防衛のための組織「グローバル・プロジェクト」を組織.その地下組織として武装市民機構(ECA)が作られ,FP・25とも関係していたといわれる.

9 EC外相会議,スペインとポルトガルの加盟を承認.農作物の自由化には10年間の過渡期間が設定される.

84年 社民党委員長に右派のカヴァコ・シルヴァが就任.シルヴァは社会党との連立を解消,ソアレス内閣崩壊.

1985

6.12 スペインとポルトガルのEC加盟調印式.

10 総選挙が施行される.国の近代化を訴えた社民党が30%を獲得し,第一党となる.社会党の得票率は前回36%から21%にまで低下.票の多くはエアネスの新党民主革新党に流れる.

11 社会党のソアレスが大統領選挙に出馬したため,委員長交代.モザンビーク出身の富豪アルメイダ・サントスが後任の委員長となる.サントスを嫌う多くの党員が社会党を脱退,

1986

1.26 大統領選挙の第一回投票.右翼からはフレイタス・ド・アマラルが立起.第一位となるが過半数に届かず.社会党のソアレスが25%を獲得し二位となる.スピノラもソアレスにつく.エアネスの民主革新党は社会党左派のフランシスコ・サルガド・ゼーニャを擁立.共産党,アントゥネス派もゼーニャを推す.革新派軍人を組織した「4月25日協会」は,ピンタシルゴを候補に立てる.

2月 ソアレス,左転換し,統一左翼の代表として大統領選に勝利.大統領就任後はふたたび中立姿勢に戻る.

86 社会党大会.一時党を離れた左派が大量に復党.ヴォトール・コンスタンシオが書記長に就任.ロペス・カルドソ前農相,ピンタシルゴも入党を認められる.

1987

4 カヴァコ・シルヴァ内閣に対する不信任案が可決される.民主革新党がイニシアチブを握り,社会党・共産党もこれに同調.

4 ソアレス大統領は左派政権の誕生を認めず,総選挙の道を選ぶ.さらに「エスプレソ」紙に,「社民党が総選挙で大勝するだろう」と予言.

5 オテロ,極左テロリストグループ「4月25日民衆勢力」(FP・25)とかかわりがあったとされ,懲役25年の実刑判決を受ける.

7 総選挙でカヴァコ・シルヴァ首相の率いる社会民主党が255議席中149議席を獲得.地すべり的大勝利.74年革命以来最初の単独政権となる.民主革新党はほぼ全滅.共産党も三分の二に減らす.社会党は激減した前回と同じ得票率.

1988

1.23 共産党のクニャル書記長,「ソ連・東欧の現実についての情報が不足し,認識が不正確だった」と反省.

4 オテロ,獄中会見で共産党を非難.「共産党は,11.25のあと革命を裏切り,私を陥れた」と発言.

1989

5 オテロ,理由不明のまま釈放される.

1991

1.13 大統領選挙.社会民主党と社会党の推すソアレスが,70%の得票を獲得し再選を果たす.社会民主中道党のバジリオ・オルタが14%,共産党のカルロス・カルバーリャスが13%,人民民主同盟のカルロス・マルケスが2.6%.

10 統一地方選.社会民主党が過半数の票を獲得し圧勝.

1993 リスボンで日本発見450年祭が開かれる.