南部アフリカ解放運動の歴史年表

南アフリカ関係事項は黒色,それ以外の国は 茶色で記載してあります.アンゴラ関係史はかなり膨大なため 青色で表記しました.

 

15世紀  

1485 ポルトガル船長ディエゴ・カム,コンゴ川南部沿岸に上陸.支配権を示すパドランという標識を立て,Angolaと命名.

1488.2.03 バートロミュー・ディアスが南アフリカ南端、喜望峰にたどり着く。

16世紀  

1531 ポルトガル,ザンベジ川沿いのセナに入植.ショナ族のモノモタパ王国を支配.モノモタパ王国は,現在のジンバブエ,モザンビーク一帯を支配する黒人王国だった.

1575 ポルトガル,アンゴラのルアンダに植民を開始.

17世紀  

1603 ポルトガル,アンゴラを支配.

1631 モノモタパ王国,ポルトガルに反乱を起こすが敗れる.

1641 オランダがポルトガルを抑え,アンゴラのルアンダを占拠.

1650 この頃,コイ・サン族がバンツウ族のひとつボツワナ人に追われて南下し、カラハリ砂漠の南に移動.

1652年6月04日 ヤン・ファン・リューベックの率いるオランダ東方会社の船団(ドロメダリア号、レイガー号、グッドホープ号など4隻),ケープタウンに上陸。テーブル湾岸に、四稜郭で五門の大砲を備えた「喜望砦」と呼ばれる砦を建設して中継・補給基地とした。

オランダ人入植当時の先住民はコイ・サン族と呼ばれ,数千年前から南アに土着していたとされる。牧畜を営むコイ人と,狩猟生活を送るサン人に分かれる.コイ人はブーア人からはホッテントット(愚か者の意)と呼ばれた.サン人はブッシュマンと呼ばれた.サン族はブーア人の支配を嫌い,カラハリ砂漠に逃散.
その後,紀元300年ないし900年頃、東北方面から現在の黒人の多数派を占めるバンツウ系黒人が南下入植した.これらはともに、白人に対し先住民族とされる。

1657年 オランダ東インド会社の入植が認められる。その後オランダの没落農民がケープ植民地を形成。自らをブーア人と名乗るようになる.先住民コイ・サン族はブーア人社会に吸収され,カラードと呼ばれる階層を形成.

1688 フランスでナント勅令が廃止される。ユグノー200家族が弾圧を逃れケープに移り住む。マレイ半島やマダカスカルから奴隷が連れてこられ、内陸への入植がすすむ。白人入植者とアフリカの土着民、アジアからの奴隷の間の混血が頻繁に起こる。

18世紀  

1705 アンゴラのルンダ王国,ザイール川上流に支国カゼンベを建設.

1740 現ザンビアのバングウェウル湖周辺にベンバ王国形成.

1779 ケープでカフィール戦争.オランダ人の農民入植者が農地拡大のために,バンツーのコザ族と戦闘.カフィールとはアラビア語で異教徒の意味,ブーア人はバンツウ系黒人をカフィールと呼んだ.

1794年 オランダ東インド会社,倒産.

1795年9月 イギリス,ナポレオンの進出に備えケープ植民地を占領.現地ブーア人とのあいだに軋轢を生む。

96 英占領軍のジョン・キャンプベル中佐,カラードからなる軍隊「ケープ・コア」(Corps)を創設.

96 オランダ東インド会社が最終的に破産する。ブーア人はオランダの後ろ盾を失い現地での自活を迫られる。

1800頃 南アフリカ東部にスワジ王国建設.

 

 

19世紀

1803 アミアンの和約.イギリスがオランダから奪ったケープ植民地をバタヴィア共和国に返還.

1806.1 英軍,ケープ植民地を再占領.ケープコアをケープ連隊(Regiment)に再編成.兵力は800人まで増強.

1807 ナタールを中心にズールー王国が,シャカ王に率いられ勢力を拡大.

1809年 イギリス総督,通行パスを保持するカラードが農業労働に従事することを認可.

1814年 パリ条約締結.ケープ植民地はイギリスに帰属することとなる.羊毛生産が奨励され,農業技術が改善されたことから,南アの生産力は急激に発展.これに伴いイギリスから大量の移民が入る。英語の公用語化やイギリス国教会の勢力伸張の一方、ブーア人は辺縁に押しやられる。

1814年 ケープ連隊はふたたびケープコアに縮小されたうえ存続.

1816年 南アフリカ北東部のズールー人が、大王シャカを中心にズールー王国を建設。

1820年 イギリス,5千人の移民を送り込む.ブーア人に優先して農地を割り当てられるが、まもなくその多くが農業を捨て,ケープタウンに集中.

1820年 英政府、コイサン族に対する人種差別を撤廃。ホッテントット条令と呼ばれる。

1824 イギリスのハウエル大尉,ズールー族シャカ王と交渉.ナタールにおける港の使用を認められる.

1828年 スールー王国内に内紛.シャカ王が異母弟のディンガーンに殺される.

1832年 南アにイギリスの司法制度が持ち込まれる.田舎に住み,英語がわからないブーア人は,二等国民として差別される. 自らをアフリカーナーと呼び,英国人への反感を募らせる.

1834年 南アでも奴隷制度が廃止される.ケープの政庁,奴隷の使用を禁止.奴隷3万5745人を解放する.奴隷労働に依存していたブーア人農園主は大きな打撃を受ける。

1834年 英国支配に反発するアフリカーナーは、グラハムタウンでの有力者会議で内陸部への大移動(グレート・トレック)を決議。

1835年 アフリカーナー、牛車を連ねて内陸部への移動を開始.最初は東方ナタール方面に進み,ズールー王国に侵入.

36.12.16 「血の河」の戦い.ボーア人がズールーの王ディンガーンの大軍を撃破.川が血の色に変わったと伝えられる。

1837年 アフリカーナー、グレート・トレックの趣旨を述べた「フォルートレッカーズ宣言」を発する。

1838年 東方に進出したブーア人,オレンジ川上流域にナタール共和国を建設.

38 孤児やリスボンの慈善院を出たものに,モザンビークの土地が分与される.実際に殖民したものはわずかであった.

1842年 イギリス,ボーア人のナタール共和国侵入を許さず,戦争に入る.

1843年 イギリス,ナタールを占領し「ナタール共和国」を廃止.国を奪われたブーア人は北方の内陸部に進む.

43 ポルトガルのジョアキン・ロドリゲス・グラサ,アンゴラより出発.3年をかけてコンゴ奥地を探検.

46 イギリス人探検家D・リヴィングストン,第一回探検.56年までの12年間にわたり,アンゴラ,ザンビアを探検.

51 イギリス,南ア東部ナタール地方に英人約4500人を入植させる.

1852年 ブーア人が,ヴァール河を越えた北の地方にあらたな植民地を形成.「南アフリカ共和国」を称する.一般には「トランスバール共和国」と呼ばれる.現在の首都プレトリアの周辺。

53 ブーア人とイギリスとのあいだにサンドリバー協定が結ばれる.ブーア人がヴァール河以北の地方に築いた国が,イギリスにより承認される.

1854年 ヴァール河以南のブーア人,イギリスの承認の下に「オレンジ自由国」を建設.いずれもバンツウ族の土地を収奪して建てられた国. 「オレンジ」はオランダ独立の英雄オレンジ(オラニエ)公の名をとったもの。

54 トランスバールに金が発見され,ゴールドラッシュとなる.

54 アンゴラ在住の商人シルヴァ・ポルト,数次にわたりアンゴラとコンゴを探検.ザンビアでリビングストンと遭遇.部隊の一部は大陸を横断しモザンビークに達する.

55 ケープのイギリス政庁,オレンジ自由国を承認.

56年 東部海岸沿いのナタール地方が正式にイギリスの植民地となる。

57 トランスバール,初代大統領マリチヌス・プレトリウス.ナタール海岸へのアクセスをもとめるが,イギリスの反対により失敗.

1860年 ナタールで綿花・砂糖・茶などのプランテーションが急速に発達.労働力確保のため、インド人年季契約労働者が大量に流入.職業選択・移動の自由を奪われ、劣悪な環境のもと苛酷な労働を強いられる。

1867年 オレンジ自由国の西部グリカランドのキンバリーでダイアモンド鉱床が発見される.

68 南部山地内の黒人小国バストランド(現レソト)がイギリスの保護領になる.

69年 キンバリーでダイヤモンドの採掘が始まる。

71年 イギリス,オレンジ自由国を占領.西グリカランドとキンバリーを奪いケープ領に編入.

72年 トランスバール東部各地で金が発見される。ヨハネスブルグが金の中心地として発達。

76 レオポルド一世,ブリュッセルに「地理上の会議」を招集.欧州列強による南部アフリカ分割を協議.

76 米国人探険家スタンリー,コンゴを探険.アフリカに対する米国の権利を主張.

77 ポルトガル海軍のエルメネジルド・カペロら,ルアンダを出発し南部各地を探検.

77.4 イギリスは,財政破綻に陥った「トランスバール共和国」を併合.金鉱山の利権確保を目指す.トランスバールのブーア人は,イギリスに対する抵抗闘争を開始.

78 スタンリー,「コンゴ国際連合」と契約.ベルギーのレオポルド二世がこの「連合」を支援.

78 イギリスが南西アフリカ(今日のナミビア)を占領,保護領とする.

78.12 イギリス,ズールー王セテワヨに保護領となるよう求める.セテワヨはこれを拒否,4万の兵士とともに抵抗の構え.

1879年 ズールー戦争

1月 ズールー戦争開始.チェルムスフォードの率いるイギリス軍1万3千人が,ズールー・ランドに侵入.

1.22 イサンドルワナに野営中の英軍を,ズールー軍1万が奇襲攻撃.甚大な被害を与える.英軍はいったん撤退を余儀なくされる.

6.04 ウルンディの戦い.英軍がズールー軍を撃破.ズールー側は1500人を失い降伏.イギリスはズールー・ランドをナタールに併合.

1879年 ズールー王国とバペディ王国が相次いで崩壊.南アの国土から黒人国家が消失.

79 ポルトガルのカペロ探検隊に加わったセルパ・ピント大尉,部隊を離れ南に向かい,プレトリアを経てダーバンに達する.

80.10.16 第一次ボーア戦争開始.アフリカーナーはトランスバール独立を目指す革命と自称.

1881年 第一次ボーア戦争

1.28 ペトラス・ユーバートの率いるボーア人部隊2千が,ナタールに侵入.レイングスネクで,英正規軍1400人を撃破.

2.27 マジュバ・ヒルの戦い.ドラッケンベルグ山地のマジュバ・ヒルで対戦.イギリス軍は司令官ジョージ・コレイを含む200人以上が殺害される.

4.05 プレトリア協定.ボーア人の抵抗を抑えるのに失敗した英国は,トランスバール独立を承認.

81年 ケープタウン在住のイギリス人セシル・ジョン・ローズ(Cecil Rhodes),「デ・ビアス鉱山会社」(De Beers Consolidated Mines)社を設立.セシル・ローズは,実際はロスチャイルド社のエージェントに過ぎなかったといわれる.(デビアス社の歴史については下記のページが詳しい. http://www.nihongo.com/ )

83.4.16 ボーア軍司令官として戦争を指導したポール・クリューガーがトランスバール共和国大統領に就任.

84 アフリカの植民地分割に関するロンドン会議.英国とポルトガル,ザイール河流域の宗主権をポルトガルに与えるロンドン条約に調印.「コンゴ国際連合」と対立.

84 南西アフリカがドイツの植民地支配下に入る。

84年 ポルトガルに「赤色地図」運動.アンゴラとモザンビクを地続きにする計画.

85.2.26 ビスマルク,ベルリン国際会議を招集.「植民地に対する新しい公法」を決議.植民地の領有権は歴史的権利ではなく,実効的占拠により規定されるとする.

85 イギリス,南ローデシア(現ジンバブエ)およびベチュアナランド(現ボツワナ)を保護領とする.

1886年9月 トランスバール共和国の中南部,ヨハネスバーグ近くのウィットウォタース・ランドで,世界最大規模の金鉱山が発見される.ト政府は財政難のため自力開発を断念.鉱区を分割し採掘権を販売.

1887年 セシル・ローズら,南ア金鉱会社を設立.金の採掘権独占を図る.

1888年

88.3 キンバリーのダイアモンド鉱山,セシル・ローズにより買収される.その後ローズは,ウェッセルトン,ヤーガースフォンテインなどの鉱山を次々と買収.デビアス合同鉱山会社が生産量の9割以上を支配するようになる.

88 ポルトガル,アンゴラを領有.

88 イギリス,ヌデベレ族のローベングラ王からローデシアの支配権を獲得.

1889年 

89 金鉱での黒人労働力確保を図るため,鉱山会議所が設立される.バンツウ族を採鉱に使役するため,コンパウンド(タコ部屋)制度が発達する.黒人労働者の賃金は白人の5%水準に固定される.

89 ニヤサランド(現マラウイ)が英保護領になる.

89 セシル・ローズ,資金獲得のため,持ち株会社「イギリス南アフリカ会社」を設立.

90 ローズ,ケープ植民地の首相に就任.金鉱地帯のイギリス併合を画策.

91 北ローデシア(現在のザンビア),英保護領となる.

92年 南ア金鉱会社,南ア合同金鉱会社に発展.世界の産金量の1/4を占めるにいたる.

93年 鉱山会議所内に原住民労働局が設置され、南ア政府の支援の下に組織的な労働力調達がおこなわれる。

94 イギリス,ポルトガルのモザンビーク領有を承認.国境線がほぼ確定.

94年 インド人商人を中心にナタール・インド人会議(Natal Indian Congress: NIC)が設立される。若き日のガンジーも創立に参加。

95.12.29 ローズの命を受けたスター・ジェームソン,500人の私兵を率いトランスバールに侵入.三日後にコマンド部隊に捕らえられ失敗に終わる.ローズ首相は引責辞任.

95 モザンビークで最後まで抵抗を続けたヴァトゥア王国のグングニャナ王,捕らえられポルトガルに送還.まもなく獄死する.この当時,白人居住者はアンゴラ9千人,モザンビークに3千人.

97 南ローデシアのショナ族,イギリス軍に対し反乱.第一次チムレンガ戦争と呼ばれる.

第二次ボーア戦争

99.10.09 トランスバール,オレンジと同盟.イギリスに最後通告.

10.12 第二次アングロ・ボーア戦争が開始.ボーア軍は西部のマフェーキングと東部のレイングスネクに攻勢.オレンジ軍がキンバリーを包囲.

11.28 英軍増援部隊1万が西部戦線に出動.モダ河の戦いで,ボーア軍の前進を食い止める.この戦いで英兵500人が戦死.

12.10 西部への進出を止められたボーア軍,中央戦線を開く.待ち伏せ,奇襲などの戦法でイギリス軍をかく乱.ストームベルグ,マゲルスフォンテインで相次いで勝利を収める.

12.11 2万1千のイギリス軍,東部戦線で反撃に出るが,ルイス・ボタの率いるボーア部隊6千人を叩けず.コレンソの戦いでは,ゲリラ戦により千人の死傷者を強いられ撤退.

12月 ポルトガルは英国とウィンザー秘密条約を結び,トランスヴァールに向かう英国兵のモザンビーク領内通過を黙認.これと交換に,英国はポルトガル植民地の領土保全を承認・保証する.

 

1900年

1.02 東部戦線で「ツゲラの戦い」.戦線は膠着し,イギリス軍はゲリラの狙撃により多大な犠牲を出し続ける.

2.27 西部戦線のボーア人主力,英軍3万に包囲され降伏.キンバリーがイギリス軍に確保される.

2.28 東部戦線で3ヶ月近く包囲されたレディースミスがイギリス軍に確保される.

3.12 オレンジ自由国の首都ブルムフォンテインが陥落.

5.31 ヨハネスバーグ,陥落. 

6.05 プレトリアが陥落.このあとド・ウェット,ドラ・レイ,ルイス・ボタらは,さらに二年間,地方でのゲリラ抵抗を継続.英軍司令官キッチナーは,ゲリラ支配区で強制キャンプ戦略を展開.ボーア人12万人を強制収容所に入れ,農家を焼き払う.2万人が収容所で死亡.

 

20世紀

1902年5月 フェレーニッヒング条約締結.第二次ボーア戦争終結.トランスバールとオレンジ自由国はイギリスの支配を受け入れる.イギリス軍の焦土作戦により,農村の荒廃をもたらし,都市でのプア・ホワイト問題を深刻にする. イギリス軍は3年近くの戦闘で5800の戦死者,2万3千の負傷者を出す.ボーア軍兵士も4千の死者を出す.

1902 巨大なダイアモンド鉱山プレミアが発見される.デビアス支配下の全鉱山の生産量と同じダイヤモンドを産出する.

1903 ボーア人の民族政党として南アフリカ党が結成される.

1904.7.14 クルーガー,亡命先のジュネーヴで死去.

1904 南西アフリカでへレロ・ナマ族の反乱.三年後にこれを平定したドイツが,自国領を宣言.先住民反乱者はカラハリ砂漠に押し込まれる.

1905年 ガンジーら,ダーバンでインド人会議を結成.非暴力主義のサチャグラハ運動を呼びかけ、インド人の要求実現を図る.

1906.12.06 イギリス,トランスバールとオレンジ自由国に自治権を与える.トランスバールではルイス・ボタとジャン・スマッツの率いる人民党が,オレンジではジャン・ホーフマイヤーの率いるオレンジ連合党が政権を担当する.

1907年 バンバタの反乱終結.これを最後に旧黒人支配者による反乱は消滅.

1908.5 植民地間の鉄道・関税協定が調印される.

1908 独領南西アフリカで,巨大なダイアモンドの漂砂鉱床が発見される.ドイツ系ユダヤ人財閥オッペンハイマーが「コンソリデイテッド・ダイヤモンド・マインズ社」を設立し,経営に乗り出す.相次ぐ新鉱の発見により,デビアス社のシェアーは4割に減少.

1910年代

10.5.31 南ア連邦憲法が成立.4州からなる連邦として,英国の自治領となる.連邦政府首相にはトランスバール人民党のルイス・ボタ,国防相には同じくトランスバール人民党のスマッツ,司法相には右派のジェームズ・バリー・ムニック・ヘルツォーク.連邦内の政治的主導権は,白人内多数者であるボーア人が握る.人民党を中心にイギリス人もまじえ南アフリカ党が結成され,政権与党となる.

10.5.31 ケープ州議会選挙で,アフリカ系のウォルター・ルブサナとカラードのアブドゥラー・アブドゥラマンが当選.

11年 鉱山労働法が制定される.鉱山における白黒間の職種区分と人数比を全国的規模で一般化するもの. 熟練労働は白人とかラードのみが就業できるとされる.最初の人種差別法(Color Bar)となる.

11年 原住民労働調整法が制定される.原住民募集に免許制度を導入.鉱山会議所による労働力独占が可能となる.

11年 ロンドンで人種統一会議が開催される.ジョン・テンゴ・ジャバヴとウォルター・ルブサナが出席.

11年 ナタール州におけるインド人の契約労働制度が廃止される。この時点でクワズールー・ナタール州では白人人口を上回るインド人が居住。主に商業活動に従事するようになる。

11.10.24 ヨハネスバーグの黒人弁護士ピックスレイ・カ・イサカ・セメ,弁護士仲間4人に呼びかけ,先住民国家の建設運動を開始.イサカ・セメはコロンビア大学とオックスフォードで学位を修得したばかりの新進弁護士だった.

1912年

1月08日 イサカ・セメらの呼びかけを受け,ブルムフォンテーンでアフリカ人指導者会議開催.部族代表,教会組織代表,著名人士らが結集.「南アフリカ先住民民族会議」(SANNC)を結成.機関紙「人民」(Abantu-Batho)を発行.

1月09日 SANNC,「すべてのアフリカ人が人権と自由のためともに立ちあがるよう」訴える.@先住民組織の統一,A民族の権利と義務についての教育,B兄弟的連帯の育成,を目的とする.具体的課題としてはカラー・バー(雇用上の人種差別)の撤廃と,議会における原住民の正当な権利の実現を掲げる. 議長にはズールー族指導者ジョン・ランガリバレレ・デューベ,書記長にはソロモン・ツセキショ・ブラーチェ.

3月 スマッツ国防省の起草になる新国防法が制定される.各州の軍が,黒人を排除した上で連邦軍に再編成される.白人内の諸矛盾を黒人との対立に転化,白人優越体制が確立していく.

4月 ジョンテンゴ・ジャバヴら,南アフリカ人会議を結成.

12月 反英・反ボタの立場をとるヘルツォーク司法相,ボタ内閣を去る.

12年 イギリス保護領と南ア国内からの労働力調達を目的として原住民労働募集公社が設立される。

12年 ノルトン・デ・マトス,アンゴラ総督に就任.「原住民労働法」を停止し,二期6年にわたり,体罰の禁止,アル中の撲滅,地方の福祉事業などに力を注ぐ.

1913年

6月19日 原住民土地法が制定される.白人への土地分配と,黒人労働力の農村からの搾り出しを目的とする.

人口の8割を占める黒人に国土の13%を割り当てる.そのほとんどは辺境の劣等地.最初は「保留地」と称されるが,のちに「バンツースタン」あるいは「ホームランド」と解消される.黒人は保留地以外での土地保有を禁止される(当時国土の7.3%を黒人が保有).また保留地での一人あたりの土地所有も制限されたことから,黒人自営農は姿を消し,白人農場で働く農業労働者か,鉱山労働者として生きることを余儀なくされる.

6月 SANNC執行委員会,緊急会議を開催し原住民土地法への対応を協議.英本国へ抗議の代表団を送ることを決定.ソロモン・プラアツェをロンドン常駐代表に指名.プラアツェは「南アにおける先住民の暮らし」を出版し,英本国の世論に訴える.

7月 ウィットウォータースランドで白人鉱山労働者によるゼネラル・ストライキ.

9月 インド系住民がゼネラル・ストライキ.その後も2ヶ月にわたり消極的抵抗闘争を続ける.

9.23 シャーロット・マセケ(Maxeke)に率いられたオレンジ自由州のアフリカ系女性が,住民パスの押し付けに抗議,消極的抵抗キャンペーンを組織する.州庁舎前の広場でパスを焼く.この闘いで多くの女性が獄につながれる.

10.21 トランスバールのインド系女性組織「サチャグライス」(satyagrahis),不服従運動を開始.ベレーニギングでは無許可の実力行動に出る.州境を越えナタールまで進出.スト中のニュウカッスル鉱山労働者を激励.

11.06 マハトマ・ガンディーに率いられた抗議の大行進.女性120名,子供50名をふくむ2千名余が行動に参加.

1914年 第一次世界大戦

1月 ウィットウォータースランドで白人鉱山労働者がゼネスト.スマッツ将軍は戒厳令を敷き,ストライキ指導者を国外追放.刑法修正を行い,暴徒による集会を禁止.

1月 ヘルツォーグ司法相,南ア党を離脱し国民党を結成.独立とアパルトヘイト復活を主張.イギリス人優位の現状に反感を持つアフリカーナー右派を結集する.アフリカーナー労働者は労働党に結集.

1.27 オレンジ州の黒人・カラード女性集会,女性に対するパス所持の義務付け反対を決議.

8月 第一次世界大戦が勃発.ボーア人民族主義者・労働運動活動家は反戦を訴える闘いを開始.

10月 南ア党政府,第一次大戦への参戦を決定.ボーア人の一部には,ドイツの支援を得て,イギリス支配からの脱却を目指す動き.混乱を恐れるクリスチアン・ド・ヴェット,ド・ラ・レイなどボーア戦争の指導者たちは,対独参戦に反対し反乱を起こす.

1915年

1 ド・ヴェットらの反乱,連邦軍により鎮圧される.

15年 アフリカ原住民民族会議とアフリカ政治機構(カラード組織),軍隊への志願を申し出るが,政府はこれを拒否.白人反戦活動家は労働党と決別し「国際社会主義連盟」(ISL)を創立.肌の色に関係なく全国民の結集を目指す.

5月12日 南ア軍,南西アフリカに侵攻.首都ウィンドフークを占領.

7月 ドイツ領南西アフリカ,正式に降伏.

12.21 バン・リン・ディープで黒人鉱山労働者3千人が不正と不公平に抗議するストライキ.

15年 ニヤサランドで,チレンブエの率いる先住民の反乱が発生.

16年10月 英本国からボーモント調査団が入り,先住民への差別について調査.SAANCは調査団の報告に強い不満を表明する.

1917年

17年 ドイツ系ユダヤ人エルンスト・オッペンハイマー,アングロ・アメリカン社 Anglo-American Corporation を設立.現在にいたるまで世界最大の金生産会社となる.

17年 SANNC執行委員会,ジョン・デューブ,サミュエル・マクガトら分離受け入れ派はSANNCを脱退.

17年 ヨハネスバーグで国際社会主義連盟の指導の下にアフリカ産業労働者組合が創設される.

1918年

5月 ヨハネスバーグの黒人清掃労働者が就業拒否闘争.152人が「主人・使用人法」により2ヶ月の懲役刑を受ける.

7月 白人鉱山労働者と鉱山教会とのあいだに「現状維持協定」を結ぶ.鉱山における白人と黒人との職種範囲の維持が定められる.

18年 ANC傘下の南ア・バンツー女性同盟,オレンジ州を中心にパス反対キャンペーンを展開.パス携帯義務を撤回させることに成功.

1919年

1.18 第一次世界大戦終了.パリ和平会議.南アからは27万人が参戦.1万人あまりが戦死する.そのうち半数が黒人・カラード.

1.07 ケープタウンで産業・商業労働者組合(ICU)が創立される.南アにおける労働運動の中央センターとなる.議長にはクレメンツ・カダリーが就任.

2.19 パリで第一回パン・アフリカン会議.アメリカの黒人運動家ガーヴェイの「アフリカ帰還運動」が,中心となる.

6.28 南ア代表団(スマッツ代表),ベルサイユ条約において南西アフリカの委任統治権を獲得.

9月 ボタ首相,死亡.スマッツが後継首相に就任.

19年 ANC,オレンジ州での成功に引き続きトランスバール州でもパス反対闘争を展開.

 

1920年代

20年 アフリカ人留学生数十人がリスボンで「アフリカ人同盟」を結成.

20年 南西アフリカ、南アの国連委任統治領となる。

1922年

1月 鉱山会議所,経営危機を理由に黒人職種範囲の拡大を提案.トランスバールのヴィットヴァールテルス・ランド金鉱山の白人労働者がこれに反対しゼネストを打つ.労働党が支持し,「ランド・ストライキ」と呼ばれた

3.10 スマッツ,警察による秩序回復が不可能と見て,戒厳令を公布.連邦軍を投入する.労働者はコマンド部隊を編成し,これに抵抗.

3.18 連邦軍,ストの鎮圧に成功.

5月 南西アフリカでコイ族の反乱.連邦軍が出動し鎮圧.

23年4月 ランド・ストライキを闘った労働党と,アフリカーナー民族主義を標榜する国民党が,反南ア党の立場で選挙協定を結ぶ.

23年 原住民法が制定される.原住民の都市流入を規制し,都市黒人を郊外の専用居住区に登録・居住させるもの.

1924年 アパルトヘイト政権の成立

24年6月 白人による総選挙.労働党の支持を得た国民党が勝利.ヘルツォークが首相に就任し「協定政府」が成立する.「文化的労働」政策による貧困白人の救済,アフリカーナー農民への援助,黒人の統制強化を政策目標とする.「文化的労働」政策とは,公共事業の拡大と黒人追い出しによる白人雇用確保の政策.

24年 産業調停法が成立.白人の労使代表からなる「産業協議会」が,賃金・労働条件を決定するもの.

25年 賃金法制定.労組の未組織産業においても,「賃金委員会」が「産業協議会」と同様の内容で決定権を持つ.

25 アフリカーンス語を英語と並ぶ公用語に指定.

25年 アフリカ先住民民族会議,アフリカ民族会議(ANC)に改称.

26年 鉱山労働修正法が成立.鉱山会社における人種による職種決定が確定され,白人労働者の賃金も高水準が保証されることになる.これらの法改正により,労働党は存在意義を失い,国民党に吸収されていく.

26年 オッペンハイマー,デビアス社の役員に就任.30年には会長となる.

27年 原住民行政法が制定される.都市の黒人労働者を白人政府の統制の下に置き,政治闘争・労働運動を取り締まる.

27 背徳法成立.異人種間の男女交際を禁止.

29.6 総選挙実施.黒人への恐怖をあおることで勝利したヘルツォーグが第二次内閣を組織.

30.10 ANC、黒人の移動を規制するパス法に反対し大衆闘争を組織。

 

1930年代

31 アンゴラとザイールのカタンガ州を結ぶべンゲラ鉄道完成.

32.5 総選挙.第三次ヘルツォーグ政権成立.

33年3月 世界不況に対処するため,スマッツの呼びかけに応え,国民党・南ア党の超党派政権が成立.

33年 失業青年救済のため,「特殊任務大隊」が編成される.

34年 国民党と南ア党が合同し,連合党を結成.キリスト教民族主義(ファシズム)を唱えるダニエル・フランソワ・マランは,国民党から分離し純正国民党を名乗る.

35年 ナチス代表がケープタウンを訪問.マラン派はこれを大歓迎するキャンペーンを展開.アフリカーナー右派勢力のあいだに親ナチ・反黒人を旗印とする各種のファシスト団体が結成され,活動を活発化させる.

36 連合党政府,原住民代表法を制定.ケープ州の共通選挙人名簿から黒人有権者を除外.

36 原住民信託土地法成立.黒人からの選挙権取り上げの代償として,原住民指定地を国土の13%に拡大.

38.5 総選挙で連合党が勝利.第4次ヘルツォーグ内閣成立.

1939年

9.03 イギリス,ドイツに宣戦布告.南アに対し兵員15万人の派遣を要請.ヘルツォーグは中立を,スマッツは参戦を主張.

9.04 議会での投票では,80対67で参戦派が勝利.このあとヘルツォーグは首相を辞し,スマッツが二度目の首相に就任.

9.05 スマッツ,対独宣戦布告.

9.06 ANC代表,戦闘要員として兵役志願を申し出る.スマッツはこの提案を拒否.

39年 南アの対独参戦に反対する連合党右派,純正国民党に合流し「再統一国民党」を結成.

 

1940年

5 カラードとインド人,非戦闘要員として軍に編入される.黒人は,入隊を許されず.

7.12 「非ヨーロッパ人軍務サービス」が創設される.黒人も軍務にかかわることが承認される.要員数は最大時12万人に達する.兵役手当ては,カラードが白人の半分,黒人は1/3であった.

7 第一南ア旅団,アビシニアの東アフリカ戦線に派遣される.

41.8.11 ニューファウンドランド沖軍艦上で,大西洋憲章」に合意.第三項で「住民が政府を選択する権利の尊重と,強奪された主権と自治の回復」が明記され,植民地の放棄がうたわれる.

41.11 南ア軍の三つの旅団が北アフリカ戦線のイギリス第8軍に配置され,ロンメル軍団と対決する.

41年 ジョン・マークスら,「アフリカ人鉱山労組」(AMWU)を結成.幹部に南ア共産党メンバー多数がふくまれる.

42年 英国,国民党内親ファシストを国外追放.

42 戦時インフレに対抗して黒人の労働運動が高まる.アフリカ人鉱山労働者組合(NUM)が設立される.

1943年

5 北アフリカのドイツ軍.チュニスで降伏.南ア軍はさらにイタリア戦線に向かう.

7月 総選挙で第三次スマッツ内閣が成立.

8 バス料金値上げ反対の行動が,乗車ボイコット運動に発展.値上げ撤回を勝ち取る.

43年 北東部高原地帯のANC青年がアントン・レンベデを中心に結集.請願活動主体の行動から脱却し,直接行動組織への移行を試みる.ウィリアム・エンコモ,アシビ・ピーター・ムダ,タンボ,マンデラ,シスルなど60名の活動家を擁する.

1944年

9月 アフリカ民族会議青年同盟(ANCYL)が旗揚げ。民族自決の原則に基づく革命的なアフリカ民族主義を掲げる。ANCを大衆運動組織に作り変え、都市と農村の労働者、地方の農民、急進的な知識層の結合を訴える。「インヤニソ」(真実)誌を発行し、活動家の中に影響力を広げる。

10月 ANC青年同盟,二度目のバス乗車ボイコット運動を展開.「アフリカ人の主張は実現されなければならない.人民の解放のためには闘わなければならない」と宣言.

1945年

4.29 イタリア戦線のドイツ軍,降伏.

10.13 マンチェスターで第5回パン・アフリカン会議.ンクルマ,ケニヤッタなど独立連動家が多数参加.

12月 青年同盟の急進化を受けたANC,人種差別の廃止・人権の尊重・資源の平等な活用を内容とする「権利宣言」を発表.さらにインド人会議や南ア共産党との協力を打ち出す.青年同盟からレンベデとムダが全国執行委員に選出される。

45年 原住民都市地域統合法が成立。都市の白人地域での黒人の滞在を、特別の許可がない限り、72時間以内に制限する。

45年 新たに国連が成立。南アに対し、南西アフリカの信託統治領への移行を求めるが、南アはこれを拒否。

1946年

6月 インド政府(当時英領),南アに居住するインド人が政治的・市民的諸権利に関して差別されているとして,国連に提訴.国連総会は当事国間の直接交渉による解決を要請.インドは国際的人権に関する国連憲章に違反と非難,南アは,対象はインド人ではなくインド系の南ア人であり,ことは国内問題であると主張.南アの強硬な態度により事態は改善されないままに終わる.

8.04 「アフリカ人鉱山労組」(AMWU),ランド金鉱山で7万人の参加するストライキを敢行. 政府の弾圧により死者9人,負傷者1248人を出し敗北.

11 国連,南アの南西アフリカ併合要求を37対0票で拒否.国連の信託統治領とする.

46 スマッツ政権,アジア人土地法を制定.インド人の移住と土地所有を事実上禁止.この強硬策に抗議して,ドミニオン党と労働党は政権支持を撤回.

46 インド人代表法が制定される.ナタールとトランスバール州で,白人利益代表を選ぶ選挙権が与えられる.インド人青年層は,この屈辱的な「権利」を拒否。ナタールとトランスヴァールでインド人会議の主導権を握り、ANCとの共闘の方向に動く.

47年 産業界の意思を代表する連合党,黒人労働者の存在を容認した上で,白人優越体制の維持を狙う.これに対し,アフリカーナー農民や都市のプアー・ホワイトを基盤とする国民党は,人種隔離政策の断行による白人の生存維持を主張.

47年 ANC大会、タンボも全国執行委員となる。青年同盟の書記にはマンデラが就任。

1948年 国民党政権の誕生

5月 国民党,ヘルツォーグの「アフリカーナー」党と連合し総選挙で勝利.右翼アフリカーナーの単独政権が成立.マランが首相に就任.「各人種がその民族性に基づく独自の発展を目指す」アパルトヘイト体制の確立を目指す.インド人やカラードに対しても類似の政策が提示される.

アパルトヘイト政策の柱
@原住民指定地の拡大と「自治」制度の導入,A「原住民問題省」の設立による全体的統括と指導,B白人地域における黒人は専用居住区への集中させ,政治的権利を否定すること

6月 エラスムス国防相,カラードのケープ・コアと「原住民軍務部隊」の解散を宣言.すべての軍組織から非白人の排除を急速に進める.

1949年

49年6月 異人種間結婚禁止法が成立.

49年 ANC青年同盟,不服従闘争の強化をうたう「行動綱領」を採択.のちに共産主義思想の証拠として扱われる.

49年 ANC大会。青年同盟の綱領をANCの方針として採択。シスルがANC書記長に選出される。「たたかう50年代」の始まりとなる。

49年 カトー・マナー(Cato Manor)で黒人がインド人を襲撃。大規模な衝突事件となる。

49年 南ア、国連の要請を無視し南西アフリカを自国領に編入。

 

1950年代

1950年

5.01 ANC,メーデーにあわせストライキと集会を呼びかける.政府はこの集会を弾圧.死者3人,負傷者30人以上を出す.

5月 メーデー事件に怒った政府は,共産主義弾圧法を制定.共産党を非合法化し,あらゆる反政府運動を,共産主義の名の下に弾圧.非白人の公民権の拡大を要求することは「政治上の変革」であり,ストライキを呼びかけることは「産業上の変革」であり,非白人が白人専用施設を利用することは「社会上の変革」であり,賃上げを要求することは「経済上の変革」だとされ,共産主義者の行為とみなされることになる.

6.26 メーデー弾圧事件と共産主義弾圧法に抗議する集会.ANC議長ウォルター・マクス・シスル,ストライキ,ボイコット,労働停止などで抗議するよう呼びかける.この日を国際連帯デー「自由の日」とすることを宣言.その後,直接行動を激化させる.

6月 国際司法裁,南西アフリカの地位に関して南アが一方的に変更することを禁止.南アは判決受け入れを拒否.

7月 人種登録を義務付ける住民登録法,人種別に居住区を指定した集団地域法があいついで成立. 集団土地法にもとづく強制移住の開始.

50 改正背徳法が成立.異人種間の性行為が禁止される.

1951年

51年 バンツー政庁が設立される.黒人の「自治」を統制することを目的とする.

51 アンゴラ,モザンビークのポルトガル植民地,「海外州」となる.

51 リスボンにアフリカ研究センター「帝国学生の家」が創立される.植民地留学生達がセンターでの交流を通じて独立運動に目覚める.リスボン大学に留学したモザンビークのエドワルド・モンドラーネ,アンゴラのマリオ・デ・アンドラーデら,ひそかにアフリカに戻り,独立運動を開始.

1952年 ANCの不服従闘争

4.26 原住民法(パス廃止・文書統合)が成立.正式には「原住民身分証明書廃止・書類調整法」と呼ばれる。居住、就労など10種類以上もあった身分証明書を廃止して一つにまとめ、16歳以上の黒人男子に常時携行を義務づけた。63年には女子にも適用されるようになった。

4月 ANC青年同盟,マンデラとマウルヴィ・カチャリアの指揮の下にパス不携帯など不服従抗議行動を開始.この行動には南アフリカ・インド人会議も参加する.「志願者」8千人が逮捕され,うち数十人が共産主義弾圧法で裁かれ有罪となる.一方でANCの権威も急速に高まり,最大時10万人を組織したといわれる.

52 原住民労働法が成立.黒人のストを弾圧するためのもの.

52 国連総会で「南アにおける人種紛争問題」が取り上げられる.総会は南アの態度を遺憾とする声明,調査委員会に人権状況を調査させることとなる.

52 日本政府,プレトリアに総領事館を設置.

1953年

4月 総選挙.第二次マラン内閣が成立.選挙で敗れた連合党は,イギリス派の「連邦連合党」,左派の「自由党」,右派の「保守党」に分裂.

6.25 ANC議長に就任したズールー族指導者アルバート・ルツーリ,「将来の民主的な南アのための自由憲章」を提案.起草のための全人種からなる人民会議を招集.書記長には青年同盟の指導者ウォルター・シスルが就任.

53年 有権者分離代表法が成立.ケープにおける黒人利益代表の選挙権剥奪,さらにインド系・カラードの選挙権を奪うため「分離議会」の設立を図る.白人リベラル層もふくめ国民党の強引な議会運営に反発.「憲法危機」を唱え反対運動を展開.

53年 「憲法危機」との闘いの中で,民主主義者会議(白人系),カラード人民機構が設立される.二つの組織はANCやインド人会議との連携を求める. 民主主義者会議のZ.K.マシューズ教授,南ア婦人連盟のヘレン・ジョセフらが中心となり,人民会議の開催,「自由憲章」の起草作業が始まる.

53年 分離施設留保法が成立.諸施設の設置・利用に関して人種による分離が義務付けられる.

53 公共治安法が成立.これにあわせ刑法修正.

53 バンツー教育法が成立.部族語教育を通じて,黒人同士を分断管理することを目的とする.

53年 英コモンウェウズ内にローデシア・ニヤサランド連邦が創立される.現在のジンバブエ,ザンビア,マラウイにあたる.

53年 マンデラとタンボ,ヨハネスブルグで法律事務所を開業.

54.11.30 マラン首相,健康上の理由で辞任.ヨハネス・ゲルハルダス・ストレイダムが後継首相となる.

1955年 自由憲章の採択

4.18 インドネシアのバンドンでアジア・アフリカ会議.アルジェリア,モロッコ,チュニジアの独立支援を表明.

6.26 民主主義者会議,ヨハネスバーグ郊外のクリップタウンで3千人を結集し,当局の妨害を乗り越え集会開催に成功.カラード人民機構(SACPO),インド人会議(SAIC),ANC、南ア労働組合会議(SACTU)、民主主義者会議(COD)などを総結集した「人民会議」が創設される.会議は事実上の共同行動綱領である「自由憲章」を採択.

自由憲章前文  南アは黒人・白人を問わず,そこに住むすべての人々のものであり,いかなる政府も人民の意思に依拠したものでない限り,その権威を正当に主張することはできない.
われわれ南ア人民は,対等な同国人であり兄弟として,ともに「自由憲章」を採択する.われわれは,ここに掲げた民主的変革が達成されるまで,われわれの力と勇気の限りを尽くして,ともに闘い抜くことを誓う.

55 原住民法修正法が成立.都市地域の黒人に対する統制を強化するもの.

55年 リベラル派の白人女性が中心となり、人権団体「ブラック・サッシュ」(Black Sash)が設立される。アパルトヘイト政策に反対しつつ、アパルトヘイト被害者の救援にあたる。

1956年

8 登録法改正.女性にもパス持参が求められる.抗議する黒人女性が政府の建物内で座り込みの抗議行動.

12 全国で「人民会議」に対する大弾圧.自由憲章が共産主義思想であるとされ,共産主義弾圧法を適用される.ルツーリ議長らANC幹部全員を含む156人が逮捕される.

56 暴動集会法が成立.

56 産業調停法が成立.黒人労働組合を禁止し,政府が賃金・労働条件決定に関与するもの.

56 アンゴラ共産党とアンゴラ・アフリカ人統一党が合体し,アンゴラ解放人民運動(MPLA)を結成.武装闘争の展開は61年から.アンゴラの首都ルアンダの黒人市民(ブンダ族)を中心に,組織化を強める.指導者は共産主義者で医師・詩人のアゴスティーニョ・ネト.

1957年

3.07 ガーナが英領内自治領として独立.独立ブームのさきがけとなる.

9 南ローデシア(現ジンバブエ)で,ヌデベレ族のジョシア・ヌコモらによりアフリカ民族会議(ANC)が設立される.

57 マンデラら156人が「国家反逆罪」で裁判にかけられる.うち1/3は非黒人系.

57 有権者分離代表法が成立.カラードに対し利益代表選挙権が認められる.カラードの利益代表(ただし白人のみ)を選ぶ制度.60年には廃止される.

57 南西アフリカで,先住民の自決を目指す「オバンボ人民会議」が設立される.「オバンボ」は,ナミビア北部のアンゴラとの国境を形成するクネネ河流域の先住民地域.

58.8 ストレイダム首相が死亡.ヘンドリック・フルブールトが後継首相となる.「自治」の名の下に大アパルトヘイト政策をさらに進め,完成させる.

58 大学教育拡大法.黒人専用の大学の設置.

1959年

1月 バンツー自治促進法が成立.これまでの日常生活における差別を「小アパルトヘイト」と呼び,これ以後推進される領土的分離を「大アパルトヘイト」と呼ぶ.
 

大アパルトヘイトの概念
@原住民指定地を八つの種族ブロックに区分.それぞれに「自治」機構を持たせ,「仮想母国」とする.この仮想母国は公式にはバンツー・ホームランド,一般にはバンツースタンと呼ばれる.
A黒人労働者や都市生活者は,この仮想母国から来た「仮想外国人」としてみなされる.したがって本国人としての市民権は持たないものと仮想される.
Bこのシュールな母国はシュールな自治を保持するが,経済的自立が可能となる条件は皆無であり,白人政府の庇護・指導(統制)の下におかれる.そこでは前近代的な「王様」の支配が復活しており,都市住民は出身部族ごとに再編成され,封建的族長支配の枠内に押し込まれる.

4月 黒人のみの組織と実力行動を唱える一派,ANCから分離しパンアフリカニスト会議を結成.ゲリラ組織ポコを組織.大学の言語学講師ロバート・マンガリソ・ソブクウェが議長に,パトラコ・レバロが書記長に就任.背景として,相次ぐ弾圧によるANCの弱体化.

59年 ザンビアで「アフリカ人民評議会」(ANC)の戦いが激化.南ローデシアから軍が派遣され,500人以上が逮捕される.

59 首都ウィンドフークで,南アと白人の支配に抗議するデモ.軍・警察の弾圧により11人が死亡,44人が負傷.抗議運動の中でさまざまな民族組織が結集る.(オバンボ人はナミビア北部に住む種族で人口の57%を構成する。58年に「オバンボランド人民会議」(OPC)を結成。59年に「オバンボ人民機構」(OPO)に発展改組。さらに60年にはオバンボ人以外も含めた南西アフリカ人民機構(SWAPO)と改称する)

 

1960年

1.01 南ローデシアで,ANC を継承するアフリカ人民族主義政党の「民族民主党」(NDP)が設立される.

1月 フルブールト,10月に連邦制から単一共和国に移行するための国民投票を行うと発表.

2月 マクミラン英首相,南アを訪問.議会で「変革の風」を訴える演説.人種差別の撤廃を訴える.さらに滞在中ANCや自由党の指導者との会談を求めるが,南ア政府はこの要請を無視.

60年3月 シャープビル事件

3.21 シャープビルの大虐殺事件.ヨハネスブルグ近郊のシャープビルで,PAC の呼びかけたパス法反対デモに2万人が参加.群集が現地警察を包囲する.警官が無警告で発砲.死者69人,負傷者186人を出す.

3.21 同じ日,ケープタウン近郊のランガでもアフリカ人が警察と衝突.3人が死亡,50人が負傷.ANCのルツーリ議長は自らのパスを焼いて抗議.

3.31 当局は非常事態を宣言.公共治安法を初めて適用する.さらに非合法組織法を制定し,ANC,PACその他の全国会議派組織を弾圧.全国で2万人近くが逮捕される.

3月 国連安保理,反対ゼロで南ア政府糾弾決議を採択.英仏両国は棄権.

60年4月

4.05 黒人指導者への裁判.ルツーリに無期限の自宅拘禁,ソブクウェに禁固三年の判決.

4月 フルブールト,右翼アフリカーナーのデイビッド・プラットにより,頭に2発の銃弾を受けるが,奇跡的に回復.

60年6月

6.16 「ムエダの虐殺」事件.モザンビーク北部の町デルガドで,州知事公邸前に集まったデモ隊に植民地軍が発砲.600人以上の死者を出す.

6月 ヘルマン・ジャ・トイボとサム・ヌジョマらOPO急進派,「南西アフリカ人民機構」(SWAPO)を結成.

10.05 共和制移行を問う国民投票.85万対77票で成立.

11月 ANC,地下で会議を開催.武装組織「ウムコント・ウェ・シズエ」(民族の槍)の創設で合意.司令官にマンデラを指名.「注意深く選抜された政治目的に大きく利用するように計画された,目標への破壊工作」を実施することとなる.このあとマンデラはひそかに出国し,アルジェリアで軍事訓練基地の確保に動く.

60年 コンゴ,ザイール,ナイジェリアなど17ヵ国がー挙に独立.「アフリカの年」と呼ばれる.

 

1961年

61年2月

2 MPLAによる初の大規模な武装闘争.ルアンダ監獄・兵舎・放送局を襲撃し,政治犯らを解放.その後レオポルドビルに逃れる.

2 日本政府,南アとの国交回復を意思を表明.時節柄,国交は再開されず,通商関係の再開にとどまる.

61年3月

3.15 アンゴラ人民同盟(UPA)が北部に侵入.白人居住区を襲い,入植者数百人を虐殺.黒人の強制労働に抗議する闘争が暴動化したもの.アンゴラ人民同盟はホルデン・ロベルトの下でバコンゴ族を基盤に組織され,当初はアンゴラ北部人民同盟(UPNA)を名乗った.保守・反共の傾向.アンゴラ解放国民戦線(FNLA)はUPAの武装組織.

3.29 56年人民会議事件の被告30人全員に無罪の判決.「ANCが暴力を方針としているとの国側の主張は認めがたく,自由憲章が共産主義国家を想定しているとの主張にも根拠はない」とする.

3.31 ピーターマーリッツブルグで「全アフリカ人会議」開催.全国から1400名の代表が参加.9年ぶりに活動禁止令をとかれたマンデラが,抗議運動組織委員長に就任する.マンデラは南アの英連邦分離に反対する3週間の「在宅スト」を呼びかける.PACはこれを無意味かつ無謀な行動とし,会議への出席を拒否.

3月 アンゴラで大規模な報復・掃討作戦.北部では千人近い黒人が殺され,数千人が隣国のコンゴに逃亡.

3月 英連邦首脳会議.南ア,国際世論の強い抗議を前に,会議に出席しないままイギリス連邦を脱退.

4 南ア政府,日本人を法的白人と認定.居住・施設利用において白人並みの扱いを受けることになる.

61年5月 南アの英連邦離脱

5月 マンデラ,フルウールト首相に「5月31日を期して人種差別のない民主的な憲法を起草するための大会を開催する」よう要請.提案が受け入れられなければ全国で在宅ストを行うと宣言.

5.29 地下のマンデラが呼びかけた在宅ストが決行される.ヨハネスブルグをプレトリアでは黒人労働者の6割,ポートエリザベスでは75%がストに参加.しかしストは敗北に終わり,さらに多数の逮捕者を出す.マンデラは地下への潜行を余儀なくされる.

5.31 南ア,独立・単一の「南アフリカ共和国」成立を宣言. マンデラは記者会見で「政府がわれわれの非暴力的な闘争をむき出しの武力によってつぶすのであれば,われわれは戦術を真剣に再検討しなければならなくなるだろう」と述べる.

61年12月

12.07 ジンバブエの民族民主党,当局により非合法化される.ンコモら指導者は,ジンバブウェ=アフリカ人民同盟(ZAPU)を結成し武装闘争に入る. ザンビアに拠点を置き,ソ連の支援を受けるようになる.

12.09 自宅拘禁中のルツーリANC議長にノーベル平和賞が与えられる.出国を許されたルツーリは,授賞式の挨拶で,「われわれは目下抑圧に対する革命を行っている.平和と革命は簡単に付き合いにくい」と述べ,武装抵抗の容認を示唆.このあと南アに戻り,ふたたび拘禁下におかれる.

12.16 民族の槍,ダーバンで最初の爆弾攻撃.

61年 アフリカ独立諸国が集まり,アフリカ憲章を発表.アフリカ諸国は親西欧派のブラザビル・グループと,民族派のカサブランカ・グループに分裂.

61年 国民党政府、インド人をアパルトヘイト体制に取り込むことを決定。インド人が南アフリカの正式な国民であることを認める。これに伴い、政府よりの南アフリカ・インド人評議会(SAIC)が設立される。

61年 タンガニーカがタンザニアとして独立。首都ダルエスサラームでは、ニエレレの支援を受けたモザンビーク亡命者たちの組織が活発化する。

1962年

1.06 国連総会,各国に任意に武器の対南ア禁輸を求める.

1月 密出国したマンデラ,アジスアベバのパンアフリカ会議で演説.「どの民族の発展過程にも,選択が二つしか残されていないときがくるものである.すなわち屈服するか戦うかの選択である」と述べる.その後,ロンドンからアルジェリアに渡り軍事訓練を受ける.

3.28 ホルデン・ロベルト,UPAの軍事部門としてFNLA(アンゴラ国民解放戦線)を正式に立ち上げ.

4. ナミビアでSWAPO(南西アフリカ人民組織)が設立される.南アの委任統治下における白人の土地占拠・資源略奪,アフリカ人移動の禁止に反対し,民族解放を謳う.

6.25 ダルエスサラームでモザンビーク解放戦線(FRELIMO)が結成される.

世界政治」89.9によれば、タンガニーカを基盤とするMANA(モザンビーク・アフリカ人民族同盟)、ローデシアを基盤とするUDENMO(モザンビーク民主同盟)、ニアサランドを基盤とするUNAMI(独立モザンビーク・アフリカ人同盟)となっている。
別文献では、民族民主連合(NDU),独立モザンビーク・アフリカ連合(AUNM),モザンビーク・アフリカ民族連合(ANUM)の三つの解放組織が統一したものとされる.いずれかが英語読みであろう。

8.05 南アに戻り,地下で指導にあたっていたマンデラ,ナタールからヨハネスブルグへ移動中のところをポーウィックで逮捕される.

9.23 ダルエスサラームで第1回FRELIMO党大会。平和闘争も含め「あらゆる闘争手段で独立を達成する」ことを定める。初代議長には元国連職員で、シラキュース大学で人類学の教鞭をとったエドアルド・チバンボ・モンドラーネ博士(当時42歳)が就任。

11.06 国連第17回総会,南アとの外交関係の破棄,共和国製品のボイコット,輸出の全面禁止,南ア船舶・航空機のアクセス拒否を加盟国に求める決議を採択.賛成67,反対16,棄権23カ国.また,南ア政府の人種差別政策を監視するため,18カ国代表より構成される「南ア共和国政府のアパルトヘイト政策に関する特別委員会」を設置.

11.07 マンデラ,密出国と扇動の罪で5年の懲役判決.ただちにロベン島に収監される.

12.16 民族の槍,ポート・エリザベスとヨハネスブルグで発電所などに対する破壊活動.マンデラは平和的手段がすべて失われた時点でやむをえない行動と説明.PACの武装組織「ポコ」は,地方の黒人有力者に対するテロに的を絞る.ナタール州ポートランドでは二人の黒人首長が殺害される.

 

1963年

2.04 タンザニアのモシで,アジア・アフリカ連帯会議開催.

5.22 アフリカ統一機構(OAU)創立.アディスアベバに本部設置を合意.アフリカ諸国の民族解放運動を支援する決議を採択.

5月 南ローデシアで白人のみの総選挙.保守農民層の意向を反映した「ローデシア戦線」(RF)が,「統一連邦党」(UFP)に大勝.その後ZAPUはフロント組織として人民暫定評議会(PCC)を創設し合法活動に軸足を移す。

7.12 警察隊,ヨハネスバーグ近郊リボニアのリリーズリーフ農場を急襲.潜伏中のシスルら「民族の槍」幹部17名を逮捕.またこの年,バストランド(現レソト)の首都マセルの「ポコ」のセンターが警察により襲撃され,1万人のリストを押収.これに基づきメンバー3624人が逮捕され,124人に死刑判決.その後の2年間に,45人が処刑される.

8.07 国連安保理,南アへの武器提供を禁止(第181号決議).

8.08 ZANU(ジンバブウェ=アフリカ民族同盟),ZAPU から分裂(指導者:シトレ,のちムガベ)し結成宣言.ショナ族を基盤とし,モザンビークに拠点を置き,中国などの支援を受ける. ソ連=ZAPU=ANC 対 中国=ZANU=PACという図式が形成されることになる.

一方ではそれまでの政治的諸組織の改良主義的、順法的政策の拒否を、他方では急進主義、革命と武力対決の政策を意味した(ムガペの第二回ZANU大会での演説)

10.09 プレトリアでリボニア裁判が始まる.最初に被告席に立ったマンデラは,「被告席に立つべきは政府であり,私ではない」とし,罪状を否認.

10月 国連総会,106カ国の満場一致で南ア政治犯の即時釈放を求める決議.しかし裁判所はマンデラを含むANC指導者10人を無期懲役に処す。

12.31 北ローデシア(現在のザンビア)が独立を要求.ローデシア・ニヤサランド連邦解体.

12月 国連安保理,二回目の決議.兵器の生産・維持管理のための資材を含めて禁輸措置をとる.

63 南ア政府,コーサ人の土地トランスカイに「自治政府」を樹立.自治促進法のモデルケースとする.

63年 レソトでバソト国民党のリーブア・ジョナサン政権が成立。その後21年間にわたり政権を握る。

63 SWAPO,ダルエスサラームとハラレに拠点を置き,500人からなるゲリラ部隊「ナミビア人民解放軍」(PLAN)を組織.

1964年

4.23 リボニア裁判の最終弁論.マンデラが長時間にわたる陳述.

マンデラの陳述
政府は我々が他の選択をする余地を残さなかった。61年6月はじめ、長い討論の後、この国においては暴力は不可避であり、政府が我々の平和的な要求運動に武力で対応しているのに、指導者が平和と非暴力をとき続けることは間違っており、非現実的であるとの結論に達した。そのとき初めて暴力的形態で政治闘争を開始し、ウムコント・ウェ・シズウェを創設する事が決定された。
われわれの行動形態(破壊活動)は,「人命の損失を招かず,したがって未来の人種関係にとってもっとも望ましい可能性を残す」と考えられる.MKの構成員には,どんなことがあっても人々に危害をおよぼさないよう厳命が与えられている.
南アの闘争が共産主義者によるものだというのは誤りである.そのすべては,私自身の誇りとするアフリカの伝統から発したものである.
ANCの信条は一貫してアフリカ民族主義である.いっぽう共産党は,何十年にもわたりアフリカ人を人間として平等に扱う唯一の政治団体だった.政治的な諸権利を獲得し社会問題を解決しようとする闘いにおいて,アフリカ人と協力する唯一の団体だった.ANCと共産党は,白人優越主義の排除という共通の目標を持っている.
平等な政治的権利の要求が,この国の白人には革命的に響くということを,私は承知している.しかしこの恐怖が,人種間の融和と万人の自由を保障する解決の道に立ちはだかるのを,いつまでも許しておくわけには行かない.皮膚の色による政治的分割は(白黒が逆になったとしても同じように)まったく不自然なものであり,それが消滅するときは,一人種による多人種の支配も消滅するのである.
私が抱いてきた理想とは,すべての人が一緒に仲良く暮らし,平等な機会を与えられる民主的で自由な社会である.この理想のために私は生きてきた.だがもし必要とあれば,その理想のために死ぬことも覚悟している.

4.30 南ローデシアの首相に,強硬派のイアン・スミスが就任.南アと共同し,黒人独立派への抑圧を強化.

5.21 ZANUの第1回大会。中部の町グウェルで3日間にわたり開催。「ジンバブエの全アフリカ人への呼びかけ」を採択。不服従運動の強化を訴える。

6.12 マンデラ,シスル,ゴバン・ムベキ,アーメド・カスラダ,レイモンド・ムフラバ,エリアス・モツァレディ,アンドルー・ムランゲニの7人に終身刑の判決.

7月 ニアサランド,マラウイとして独立.ヘーチングス・バンダが大統領に就任.親南ア政策を進める.

7.04 ZANUによる最初の武装行動。待ち伏せ攻撃により白人を殺害。南ローデシア政府はZANUの活動を禁止する。ZANUはマラウィを拠点とし中国の軍事指導を受ける。

9.25 モザンビーク解放戦線(FRELIMO),平和的に独立を達成することは不可能との判断のものに、独立を目指す武装闘争開始.その後10年間に国土の1/4を解放.

10.05 カイロで非同盟諸国首脳会議.南アを除くアフリカ諸国が大挙して参加.

10.24 北ローデシア,ザンビアとして独立.ケネス・カウンダが大統領に就任.南ローデシアでも,ヌダバニンギ・シトレやロバート・ムガベらが武力闘争の開始を決定.

64年 バンツー労働修正法が成立.パス法違反者を白人農場で強制労働させることができるようになる.

64 リヴォニア裁判. N・マンデラ,W・シスル,その他六名のANC指導者らに終身刑宣告.

64 南ア政府,南西アフリカに本格的にアパルトヘイト政策を導入.全領土の43%を白人の所有とする.

1965年

9月 SWAPO の武装闘争宣言.ゲリラがオバンボ地方への侵入開始.

10月 国連総会,アパルトヘイトの犠牲者を救済するため,「国連南ア信託基金」を設立.

11.11 南ローデシアスミス政権による「一方的独立宣言」による白人支配下での独立強行.

65年 タンザニアでZANU中央組織が再建される。ハーバード・チテポを議長とする17名の革命評議会が組織される。

65年 ピーター・ウィレム・ボタ,国防相に就任.兵器の自力生産を重視し「国防委員会」を創設.

1966年

3.21 国連,シャープビル事件の発生した3月21日を「国際人種差別撤廃の日」と定める.

3.30 総選挙で国民党が圧勝.大アパルトヘイト政策の柱であるバンツースタン建設を推進.

4.29 ZANUゲリラ21人,南ローデシアに侵入.第二次チムレンガ戦争を名乗る(チムレンガ闘争は1896年の黒人反乱).4つのグループに分かれ、石油パイプラインの破壊,白人農民の暗殺を謀る.シノイアに潜入したグループは政府軍に包囲され玉砕するが、「28時間にわたる戦闘で航空機を撃墜し敵兵25人を殺害した」とされる。

7月 ルツーリANC議長,自宅近くで列車事故のため死亡.

8.26 警察部隊,SWAPOゲリラの前進キャンプを襲撃.50人のゲリラ部隊を殲滅.この年の末までに8人が殺され59人が逮捕され,ゲリラ部隊は壊滅.

8月 南ア警察部隊,バストランドに侵入.PANのジョン・ポケラ委員長を誘拐・逮捕.

9.06 フルブールト,ギリシャ系白人のディメトリオ・ツァメンダスにより暗殺される.ツァメンダスは精神病患者だったといわれる.後継首相には,党内極右派のヨハネス・バルタザル・フォルスター司法相が就任.

9.30 べチュアナランド保護領,ボツワナとして独立.セレツェ・カーマが大統領に就任.南ア政治難民の受け入れ,ザンビアとの交通網の整理,ソ連との関係強化など民族主義政策を推進.

10.04 バストランド保護領がレソト王国として独立.モシェシェ二世が即位.バソト国民党(BNP)のジョセフ・ロブア・ジョナサンが首相に就任.

10月 国連第21回総会,南ア政府のアパルトヘイト政策を「人道に対する罪」と非難する決議.以後毎年,同趣旨の決議が繰り返される.

12月 ハロルド・ウィルソン英首相と,イアン・スミス,英艦「タイガー」で会談.英国側は「多数は原理なくして独立なし」と主張するが,ローデシアはこれを拒否.

66年 サビンビ,FNLA より分離.アンゴラ東部のルソでアンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)を結成.中・南部オビンブンドゥ族を基盤とする.実体としては,解放闘争の分裂を狙うポルトガル支配層による分裂組織.

66年 国連総会、南アの南西アフリカ委任統治は終了したとし、国連の直接管理下に置くという決議を採択。暫定施政機関として「南西アフリカ理事会」を設ける。

1967年

2.24 ガーナでクーデター.エンクルマが失脚.

5月 SWAPO軍最高司令官トビアス・ハインエコ,当局との銃撃戦で死亡.これまでゲリラ160人が逮捕される.

6.05 第三次中東戦争.「6日戦争」の結果,アラブ側が惨敗.アラブ側はスエズ運河閉鎖と石油禁輸措置により対抗.

6.21 ヘルマン・ジャ・トイボらSWAPOゲリラ指導者37人,南アで「反テロリスト法」により裁かれる.19人が無期懲役となりロベン島に収監される.

7.06 ナイジェリアでビアフラ内戦が始まる.

8.25 ZAPUと南アANCからなる80人のゲリラが,南ローデシアでゲリラ活動を展開.南ローデシア経由で南アにつながるルートの開拓を目指す.まもなく治安部隊により殲滅される.事態を重視した南アの国家安全保障局(BOSS)は,警察部隊(SAP)とヘリをローデシアに派遣.

12 ZAPU=ANC合同部隊125人がふたたびローデシア領内に侵入.ローデシア軍は空軍と特殊空挺部隊(SAS)を投入し,ゲリラを殲滅.このあとZAPUは数次にわたりゲリラ部隊を投入したが,いずれも殲滅される.ZANUは66年以降は事実上の開店休業状態を続ける。

67年 南アとマラウィ,貿易・労働協定を締結.新首都リロングウェ建設の援助に乗り出す.

67 テロリズム法が成立.現場警察にテロ容疑者に対する裁判なしの無期限拘留権が与えられる. テロ容疑者の規定はきわめてあいまいで恣意的運用が可能.

67 トランスカイが「独立」.名目的な「自治領」が名目的な「独立国」に看板を変えただけ.国防権・外交権は南アが掌握.

1968年

3月 南ア政府,南西アフリカ防衛のため軍事力を用いる決断.これにもとづき,国防軍部隊が南西アフリカのカパンゴ回廊地帯ルンドゥに派遣される.

6.12 国連総会,南西アフリカをナミビアと呼ぶことで合意.南ア軍の即時撤退をもとめる.

7.20 FRELIMO、国内ニアサ州の解放区で第2回党大会を開催。民族解放闘争の拡大と人民権力の樹立を決める。

8月 情報局長官にC.P.コニー・マルダーが就任.

9.06 スワジランド保護領,イギリスの保護領として最後の独立. ソブフザ二世が即位.

10月 ウィルソンとイアン・スミス,英艦「フィアレス」でふたたび会談.交渉は物別れに終わる.

10月 SWAPOゲリラ,オバンボ地方に大規模な侵入.

12月 スティーブ・ビコ,「南アフリカ学生組織」(SASO)を結成.黒人意識運動を提唱.白人による救援活動を批判。識字教育や医療サービスなどを通じて黒人の自助・自立を促す「黒人コミュニティ・プログラム」を柱とする社会運動を展開。

68 政治干渉禁止法が成立.他人種政党・他人種政治活動の禁止,外国からの政治活動資金の導入禁止などが定められる.

68 南ア政府,「南西アフリカ原住民自治発展法」を制定し押し付ける.六つのホームランドの創設が定められる.

1969年

3月 FRELIMOのモンドラーネ議長、ポルトガル秘密警察の仕掛けた「書籍爆弾」の犠牲となる。マシェルが後任議長に就任。

5.12 テロリズム法に基づく最初の一斉摘発.マンデラの妻ウィニーら21名がANC再建を図ったとの容疑で拘留される.拘留期間は1年半に及ぶ.

6 ローデシア新憲法,国民投票で承認される.

69年 ZANU、モザンビークのFRELIMOとの接触に成功。以後主力はタンザニアからモザンビークに移動。

7 カパンゴ回廊地帯ルンドゥに,南ア軍地域司令部が創設される.

 

1970年代

1970年

1 ローデシアのSAS,フォート・ビクトリアでZAPUのゲリラを殲滅.このあと独立はゲリラは戦列の建て直しを余儀なくされる.

3.03 ローデシア,共和国として独立.

4.22 南ア総選挙.国民党はフォルスター首相に対し,超保守派の再建国民党(アルベルト・ヘルツォーク党首)が対立.フォルスター派が圧勝.

1971年

6.21 国際司法裁,南アのナミビア占領を非合法と判断.占領を早期に終結するよう求める.南アはこれらの国連決定をすべて無視し、居座り続ける。

11月 英国とローデシアの交渉,有権者資格の緩和で妥協.これにより黒人多数支配が実現する可能性が開ける.4ヵ月後には妥協案は流産.

12月 ナミビアで大規模な鉱山労働者のストライキ.これを弾圧するため,南ア正規軍が派遣される.

1972年

2月 南ア,ナミビアのオバンボ地方に非常事態を宣言.

3月 ワルトハイム,ナミビアと南アを訪問.フォルスターはナミビアの分割・独立を主張.

3 ZANU,部隊の拠点をザンビアからモザンビークに移動.FROLOZI(ジンバブエ解放戦線)を編成する。このあとフレリーモと中国からの軍事援助が増大.チテポが率いるザンビア残留部隊はZANLA(ジンバブエ・アフリカ民族解放軍)をなのり、北東部への侵入を図る。

12.12 ZANU,センテナリー地区の白人農園にロケット砲攻撃.

72年 フォルスター政権,国家安全保障会議(SSC)を設置.大統領の諮問機関として国防方針を事実上決定.

72年 ボツワナのオラパでダイアモンドが発見される.南ア資本により開発が進む.

72年 スティーブ・ビコら,ソウェトの高校生のあいだに「南アフリカ学生運動」(SASM)を組織.

1973年

1月 ローデシア,ザンビアとの国境を閉鎖.

5月 南ア政府,オバンボとカバンゴを「自治領」とする.

11 国連第28回総会,「アパルトヘイト罪の鎮圧および処罰に関する国際条約」を採択.

11 国連第28回総会,SWAPOをナミビアの真の代表として承認.

73年 白人極右グループが準軍事組織「アフリカーナ―抵抗運動」(Afrikaner-Weerstandbeweging: AWB)を結成。黒人活動家へのテロ作戦を展開。80年代に入ってからは、さらにアフリカーナ―民族運動(Afrikanervolkswag)、白人解放運動(BBB)が形成される。いずれも実体は軍と警察によって構成された秘密組織。

 

1974年

1.14 モザンビークのベイラで白人農園主の妻が黒人テロリストにより殺害される.モザンビーク各地のポルトガル人極右人種主義者は,戦争強化・国軍反対のデモを展開.商店ストで経済を麻痺させる.

1.16 モザンビークのベイラで葬儀デモ,デモ隊が軍施設を襲撃.現地守備隊のジョゼ・ピント・フェレイラ中佐は,軍を動員してデモ隊を鎮圧.白人植民者は外相と国防相に抗議電を打つ.

3 ザイール軍,FNLAを支持してアンゴラ内戦に直接介入.背景に米国の支持.

4.25 リスボン(ポルトガル)でクーデタ発生,独裁政権倒れる.

6 中国,FNLAに武器供与と軍事顧問の派遣を決定.毛沢東思想の影響下にある米国内の左翼組織も、いっせいにFNLA支持のキャンペーン。8月にはCIAもホールデン・ロベルトへの支援を開始。

7.27 アンゴラ,モザンビークでの停戦実現.スピノラは「これからのち海外領土住民の独立の権利の承認をふくめて,アフリカの植民地独立計画を進めるあらゆる提議に応じる用意がある」と述べる.心ならずも連邦制構想の挫折を認める.

8月 南ア政府,ローデシアの国境警備に派遣されていた南ア警察部隊(SAP)の撤退を決定.

74年9月

9.07 ルサカでモザンビーク独立に関する協定調印.75年6月に完全独立.それまではFRELIMOが任命する首相の下に,FRELIMO多数の閣僚会議と,両者同数の休戦監視委員会を設置する.

9.07 モザンビークの首都ロレンソ・マルケスで白人植民者の暴動.放送局を占拠し,白人の支配するモザンビーク独立を宣言.南アが介入を見合わせたため,この共和国構想は流産に終わる.

9.14 FRELIMO部隊,首都ロレンソ・マルケスに入城.ポルトガル軍との合同監視委員会に参加.合同巡視隊を創設.ポルトガル人右翼は私兵集団「死神の竜」や「西欧文明継承独立戦線」を結成し破壊活動.

10月 フォルスター首相,デタント政策を打ち出す.黒人勢力の支持も得た上で,南アを中心とする「強力なブロック」を形成しようという構想.黒人国家で賛同したのはザンビアのみ.このあと,特に国内政治では反動化を強める.

10月 第29回国連総会,南ア代表団の信任状の受理を拒否.アパルトヘイト政策を継続する限り,南アの国際機関,国際会議への参加を許すべきではないと勧告.一方で,総会本会議でのアパルトヘイト問題の審議に,ANCとPANをオブザーバー出席させる.

11月 ローデシア政府,南アの圧力の下エドソン・シトレ、ムガペ(ZANU)とジョシア・ヌコモ(ZAPU)を一時的に釈放.

74年12月

12.04 「ルサカ会談」が開催される.スミス首相がローデシア問題解決のため招請したもの.ザンビアのカウンダ大統領,タンザニアのニエレレ大統領,ボツワナのカーマ大統領,フレリーモのマシェル議長が参加.シトレ,ヌコモのほか統一アフリカ人民族評議会(UANC)のタベル・ムゾレワ主教も参加.

12.09 ルサカ会談,武力衝突の即時中止とすべての政治犯釈放に同意.翌年の制憲会議開催を決定. ZAPU、ZANUはUANCの参加で合法闘争を進めつつ、引き続き国外からの武装闘争も継続。

12.12 南アのフォルスター首相,ローデシア国境に派遣していた南ア警察部隊の撤退を発表.このあとムガペが実権を握ったZANUは,ふたたびゲリラ闘争に戻り,白人襲撃を繰り返す.

74 ボツワナ,小包爆弾により学生指導者アブラハム・チロ殺害

74 ザンビア,小包爆弾によりジョン・ドューブ殺害

 

1975年

1.15 ポルトガル南部アルガルベ県のアルボル(Alvor)で,アンゴラ独立に関する協定調印.10月の選挙と11月の独立に向け,三つの解放組織が連携して独立政府を構成することで合意.アンゴラの側からはMPLAネト議長,UNITAのサビンビ議長,FNLAのホルデン・ロベルト議長が署名.

1.31 アルガルヴェ協定調印.三派の代表からなる暫定政府が擁立され,11月の完全独立を目指すことになる.

3月  米国務省はFNLAのキャンペーンに30万ドルの援助を行うことを決定.アンゴラ内政に干渉の構え.キンシャサの支局長はFNLAのホールデン・ロベルトにアンゴラ侵攻を指示.

3.18 ローデシア政府,ZANUのシトレ議長を逮捕.ZANU前議長ハーバート・チボテ,ルサカで爆弾テロにより死亡.この結果ムガペが組織指導を担うことになる。

3.27 FNLA(実態はザイール政府軍)、アンゴラ北部に侵入。臨時政府を宣言。MPLAと交戦状態に入る.

5 MPLAのネト議長,キューバ軍のフラビオ・ブラボ司令官と会談.軍事顧問230人を秘密裏に派遣することで合意.

6.21 ケニア政府の仲介で,三派和解の「ナクール協定」が成立.実際の事態はなんらの進展なし.

6.25 モザンビーク,ポルトガルから独立.フレリーモが政権を掌握.

6月 ローデシア制憲会議(ビクトリア・フォールズ会議)がザンビア国内で開催される.「ローデシア制憲会議」についてスミス側はまったく誠意を示さず。

7 南ア軍,ナミビアを占領しアンゴラに圧力.FNLAとUNITAの両軍も米国の援助により増強.窮地に立ったMPLAはキューバに新たな支援を要求.

75年8月

8.03 南ア軍とポルトガル人の傭兵部隊が、ナミビア国境沿いの水力発電所を防衛するという口実でアンゴラ南部に侵入.15年にわたるアンゴラ=南ア戦争の始まり.

8.09 MPLA国防相,モスクワを訪問.軍事援助を要請.ソ連はこの要請に応じ,大規模な武器輸出を開始.ザンビア,ブラザビル・コンゴを通じて流す.武器の使用法についてはキューバ人軍事顧問230人が指導.

8.09 南ア軍,ポルトガルとの共同で建設中だったクネネ河ダムの防衛のためという口実の下に,アンゴラ領内に部隊を派遣.

8.25 ローデシア制憲会議。黒人側の交渉参加者は互いに分裂し当事者能力なく,交渉は不調に終わる.

9月 解放勢力がジンバブエ解放評議会を開催。ZANU,ZAPU、FROLIZIから各4人の代表で形成。議長にシトレ、書記長にチケレマが選出される。チボテなきあとのZANLA軍の指揮権をめぐりムガペとシトレの間で紛糾。

9.17 MPLA軍,北部FNLA支配地に進撃.FNLAはCIAとモブツ政権の援助を受け反撃.カシートを奪回し,さらにルアンダに向け進撃.

9 ブラザビル・コンゴのマリエン・ナグアビ大統領,キューバを訪問.MPLA支援について協議.コンゴ川河口の港ポアン・ノア(Pointe Noir)に大規模な軍事支援施設を建設することで合意.

9月 ナミビアの首都ウィンドフークで,11のホームランドの代表が集められ,「ターンハレ制憲会議」が開催される.3年以内の「独立」を目指し憲法草案の作成に着手.(ターンハレはオランダ語で体育館の意味。体育館で会議が行われたことからターンハレ会議と呼ばれる)

75年10月 サバンナ作戦

10.7 UNITAの少年兵の部隊がアンゴラ中部ノバ・リスボアを攻撃.南ア軍事顧問16名も同行.ノバ・リスボア近郊で遭遇戦を展開.アンゴラ戦争の開始.

10.14 南ア政権,MPLA政権の成立を阻止するため直接参戦を宣言.サバンナ作戦開始.ハーデン大佐の率いる南ア軍の装甲部隊「ズル」,国境を突破しアンゴラ領内クアンガルに侵入.これに呼応してFNLAがザイールからアンゴラ北部に侵入.キューバは戦闘部隊3万5千の配備を開始.ブラザビルの支援基地に大挙進出.ルアンダ市内にも1個大隊700名の先発部隊が入る。

10.23 アルツール・デ・パイバから西に進路をとった「ズル」軍,MPLAの南部最大の拠点ハンパタを陥落.

10.28 「ズル」軍,電撃作戦により南部を席捲.南ア軍,大西洋岸のモサメデシュに到達.

10月 タンザニア − ザンビアを結ぶタンザン鉄道が,中国の協力により完成.

75年11月

11.05 FNLAは首都ルアンダ北方二五キロにまで迫る.主力はザイール正規軍で、これをポルトガル人傭兵と南ア装甲車部隊が支援。MPLAのアゴスティーニョ・ネト議長,キューバに緊急軍事支援を要請.

11.05 「ズル」軍,ナミビア国境から七百キロ侵入.ベンゲラ空港とMPLA基地を制圧.

11.07 「ズル」軍,ベンゲラ鉄道の始発駅ロビトを制圧.

11.07 キューバはただちにルアンダ駐留中の対戦車砲を持つ1個大隊を派遣し、ザイール軍部隊を押し返す。

11.10 FNLA,二度目の首都攻撃を開始.ルアンダの手前20キロの地点キファンゴンドで,キューバ人部隊のロケット砲攻撃により撃退される.さらにMPLAの追撃を受け,カシートからアンブリースへと敗走を続ける.

11.11 MPLA,アンゴラ人民共和国の成立を宣言.キューバはただちに承認.FNLAとUNITAはこれに対抗し,ウアンボで「アンゴラ人民民主主義共和国」宣言.キッシンジャー,「キューバのアンゴラへの干渉は,米国・キューバ関係の正常化に重大な影響を与えるであろう」と述べる.

11月 モブツの傭兵部隊「カビンダ飛び地解放戦線」(FLEC),カビンダを攻撃するが,MPLA=キューバ軍部隊の前に敗退.

75年12月

12.08 クアンザ河以南の制圧を図る南ア軍,「ズル」と「フォックス・バット」から選抜された第101特殊部隊がキバラに進出.キバラ南方のニア川にかかる「ブリッジ14」でMPLA=キューバ人部隊と最初の大規模な衝突.第101部隊が橋の確保に成功.キューバ軍は指揮官ラウル・ディアス大尉が死亡するなど重大な損失を蒙る.

12.19 米上院,アンゴラへの軍事介入を禁ずる決議を採択.

12.20 フォード大統領,ソ連・キューバのアンゴラら介入を非難.キューバのアンゴラ関与は,近い将来における国交回復の可能性を妨げていると警告.アンゴラ介入とプエルトリコ独立運動への支援を続けるなら,関係改善の努力を停止すると声明.

12.22 カストロ,キューバ軍のアンゴラ参戦を発表.「MPLAの指導するアンゴラが勝利すると確信し,英雄的な闘いに必要とされるすべての援助を惜しまない」と語る.「われわれはラテン=アフリカ人の国である.プロレタリア国際主義なくしてキューバ革命は存在しえなかったし,それなしにはわれわれは革命的であることをやめなければならない」と演説.その後十数年間の戦闘に延べ30万人が参加.

12.31 ピッグス湾参加者のホセ・アントニオ・プラト,UNITAに参加してキューバ軍と闘うキューバ人亡命者を募集と声明.「アンゴラが終わり次第,この軍隊でカストロをやっつける」といきまく.

12月 米国の新共産主義運動、アンゴラ評価をめぐり分裂。ガーディアン誌をはじめとする主流は、MPLA支持に回る。

75 ナタール州でブテレジにより「インカタ」が創設される.20 年代のソロモン王のもとで活動した、ズールー人の「インカタ」王国の文化復興を目指す。

75年 南ア政府,核拡散防止条約への調印を拒否.アメリカは濃縮ウラン資材の輸出を停止.

 

1976年

76年1月

1.15 OAU,最右翼のナイジェリアもふくめMPLA政権支持を決議.中国はFNLA支援を中止.

1.22 南ア軍,アンゴラからの撤退を開始.

1.27 キューバ共産党機関紙「グランマ」,アンゴラへの派兵をはじめて公式確認.この時点で駐留キューバ軍は1万5千名に達する.

76年2月

2.08 MPLA,南ア軍撤退にともない南部に進出.

2.10 「アンゴラ人民民主主義共和国」の首都ウアンボ(ノーバ・リスボア)が陥落.「UNITA政権」は崩壊.サバンナ作戦を実行したヨハネス・フォスター首相に対する国内の批判高まる.

2.12 UNITAの最後の拠点シルヴァ・ポルトが陥落.サビンビはブッシュに入りゲリラ戦を継続.MPLAは 「キューバ軍の助けにより南ア軍に勝利した」と発表.

2月 モザンビーク,首都ロレンソマルケスをマプトと改称.

76年3月

3.03 モザンビーク,ローデシアとの国境を封鎖.

3.08 フォード米大統領,キューバがアンゴラ介入を続けるかぎり復交の可能性はないと言明.

3.14 カストロ,ギニアでMPLAのネト議長と会談.キューバ軍の段階的撤退で合意.キッシンジャー,「米国はアンゴラにおけるキューバ派遣軍の存在を無期限に黙認することは出来ない.米国はこれ以上キューバの海外における軍事干渉を容認しない」と警告.カストロは,「革命は輸出できるものではない.それぞれの国の人民から発生すべきものである」と開き直り.

3.24 ルサカでフロントライン諸国会議開催

3.27 南ア,アンゴラからの撤退を完了.

76年4月

4.01 MPLA軍,ナミビア国境に達する.

4.30 カストロ,スウェーデンのパルメ首相に親書を送付.アンゴラから兵力を撤退中であり,1年以内に完了すると示唆.

5月 ムガペのZANU大会報告によれば、ZANLAがZLCのシトレ議長を反革命分子として告発。ZLCはこれを受けシトレ(前ZANU議長)を排除した。その後ZLCはZIPA(ジンバブエ人民軍)に再編成され、ZIPRA(ジンバブエ人民革命軍)とZANLAの双方が指揮権を持つこととなる。つまりムガペが指導権を握ったZANLAはZIPAへの編入を拒否し、独自路線と武装闘争路線をごり押したことになる。

 

76年6月 ソウェト蜂起

6.06 カストロ,アンゴラになお一部兵力が残留と言明.

6.16 「ソウェト蜂起」事件が発生.黒人にもアフリカーンス語教育を実施することに,生徒の抗議が広がる.「ソウェト学生代表会議」に結集した学生2万人が,オルランド高校に向け抗議デモ.警官の発砲によりヘクター・ペーターセン(13歳)ら128 名が死亡.その後各地に暴動が広がり,1週間で死者176人,負傷者1139人を出す闘いとなる.

6.17 犠牲者と家族の救援のため黒人父母の会が結成される.ブテレジ牧師が会長に就任.

6.26 政府,アフリカーンス語の導入を撤回.

76年7月

7.26 ネト・アンゴラ大統領,キューバを訪問.カストロは当分のあいだアンゴラ駐留継続と演説.

7月 国内治安法制定.50年の共産主義弾圧法をさらに強化したもの.「国家の治安や公共秩序維持を危うくする一切の活動を禁止する」ことを明記.個別の判断は司法相にゆだねられ,即決裁判,予防拘禁,検閲などが意のままに行われることとなる.

7月 南ア軍,ザンビアを攻撃.

8.13 ソウェト蜂起からの連鎖反応の形で,ポート=エリザベスで蜂起発生.5日間にわたり抵抗を続ける.

9月 キッシンジャーとフォルスター首相,チューリッヒで会談.@ローデシアにおける多数者支配の実現,AナミビアにおけるSWAPOをふくめた総選挙の実施で合意.SWAPOはこの提案を拒否.

9.24 フォルスターの圧力を受けたイアン・スミス,「二年以内の多数支配への移行」を発表.

76年10月

10月 国連第31回総会,南アの人種主義政権は正統政府ではなく,南ア人民を代表する権利を有しないと宣言.「人種差別政権における国連所決議の一貫した無視と野蛮な抑圧の継続派,被抑圧人民に武力闘争に訴える以外の手段を残していない」と,ANC,PANによる武力闘争を正当化.「アパルトヘイトに反対する行動計画」を採択.各国政府と世界の組織・市民に,南ア政府を孤立させるだけでなく,解放運動への援助を増大させるための包括的キャンペーンを要請.

10.26 トランスカイが「独立」を宣言.住民は南ア国籍を剥奪される.国連総会は宣言と同日に,反対ゼロ,棄権1,賛成134票で独立の無効を宣言.

10.28 前線諸国,武力闘争継続を唱えるムガペの説得に成功.ZAPUとともに愛国戦線(RF)を結成しジュネーブの休戦会談に臨む.

76年 ANC,武装闘争を強化.5000人をMKに組織し,軍事訓練を与える.

76年 兵器事務局と「兵器開発・製造コーポレーション」が合体し,「アームスコール」が発足.

76年 レソトのジョナサンBNP 政権、ソウェト蜂起を機に親南ア政権政策を転換。ANCとの関係改善に踏み切る。国内の反対派はレソト解放軍(Lesotho Liberation Army: LLA)を結成し、南ア政府が展開する「全面戦略」の一翼を担うようになる。

 

1977年

1.20 カーターが米大統領に就任.「人権外交」を展開.アンドリュー・ヤング国連大使を南アに派遣.

2.03 FRELIMO、独立後最初の党大会を開催。マルクス主義思想に基づく前衛党として自己規定。植民地経済からの脱却を目指す。

2月 イアン・スミスとフォルスター,ケープタウンで会談.二年以内の多数支配への移行を確認.

2月 ゲリラ,ムサミを襲撃.白人司祭7人を殺害.

3月 ZANU、モザンビークのチモイオで中央委員会を開催。@政治指導部と軍事司令部の一元化が図られる。Aムガペの党・軍事部門の支配権確立、B「マルクス・レーニン主義に基づき、毛沢東思想の諸要素を加えた科学的社会主義の採用」

3.23 カストロ,モザンビークを経てアンゴラを訪問.現地に1週間にわたり留まる.カストロはザイールのアンゴラへの干渉を非難するが,「ザイールに介入するつもりはない」と言明.この時点で海外駐留兵力は4万人にのぼる.

4.07 ザイールで反モブツの反乱がおきる.ザイールはキューバと断交.キューバ政府は「キューバ兵はザイール侵攻に加わっていない」と言明.

4 キューバ,軍事顧問200名をエチオピアに派遣.またカタンガ州における反乱を支持しザイールと断交.さらにコンゴ(ブラザビル),モザンビーク,ギネア,ギネアビサウ,赤道ギネアに部隊を駐屯.

4月 ルロフ・ピック・ボタ新外相,「マサダ精神で最後まで闘う」ことを国民に求める.

7月 ソ連偵察衛星,カラハリ砂漠の核爆発実験用施設を発見.その後アメリカの偵察衛星もこれを確認.

8月 ソールズベリーで爆弾テロ.政府軍はモザンビークのZANU基地に対する報復作戦を展開.約6千人の死傷者を出す.

8月 イギリスのオーエン外相とアメリカのサイラス・バンス国務長官,ローデシア問題解決のための「アングロ・アメリカン提案」を作成.スミス首相の退陣,移行期間中のイギリスの行政監督,政府軍とゲリラ軍の同時解体,白人資産の保障を織り込む.両者ともにイギリスに対する不信感から,この提案を拒否.

9.22 黒人意識運動の指導者スティーブ・ビコ,警察に捕らえられ,拷問の末虐殺される.

9月 マグナス・マラン国防軍最高司令官,「国家は全面戦争に巻き込まれた.兵士ばかりでなく,すべての国民が各人の役割を果たさなければならない」と声明.

10月 黒人意識運動関連の組織の活動を全面禁止.指導者の多くは国外亡命しANCに結集するようになる.

11.05 国連安保理,南ア政権に対し,国連憲章第7章にもとづく強制措置をとることを決議(418号決議).武器禁輸が各国の自発的意思ではなく強制的なものとなる.

11月 ヨハネスバーグのオフィス街ニュー・カートン・センターで爆弾テロ.負傷者17人を出す.

11.23 政府軍がチモイオのZANLA司令部を攻撃。数百人を殺害した。ZANUによれば政府軍は生物化学兵器を使用したという。ZANUはまた、ZIPA内のメンバーが攻撃を手引きしたと非難。

12.06 カストロ,アンゴラに真の和平が訪れるまでキューバ軍は撤退しないと言明.

12月 ボプタツワナが「独立」.

77 ボタ国防相と国防軍最高司令官マグナス・マランが中心となり国防白書作成.「全面戦略」路線を打ち出す.@ANCに周辺諸国のゲリラ基地を使わせない,A周辺諸国へのソ連の侵略を阻止する,B周辺諸国の南アへの依存度を維持する,の三つを柱とする.そしてこのために軍事・経済・政治・社会心理の力を全面的に動員し,南部アフリカにおける軍事覇権を確保することを狙う.

77 モザンビークに反政府ゲリラ部隊「モザンビーク民族抵抗」(Resistência Nacional Moçambicana: Renamo)が創設される.組織の実態は,南ローデシアの情報組織が,旧ポルトガル政府の秘密警察PIDEの元兵士を雇い,部隊に編成したもの.

 

1978年

2.27 サイラス・バンス米国務長官,アンゴラにキューバ兵が駐留する限り国交回復の見通しはないと声明.

3.03 ローデシアで黒人穏健派グループ(ムゾレワ,シトレ,ジェレマイア・チランら)とのあいだに,暫定政府の樹立をうたう「ソールズベリー協定」が調印される.

4月 ソールズベリー協定に基づき大量の政治犯が釈放される.このあと主導権を狙うZANUと政府軍のあいだに激しい戦闘が始まる.

5.04 南ア軍,アンゴラ領内のカシンガSWAPO難民キャンプを越境襲撃.600名以上が殺される.

5.25 ザイールのシャバ地方でカタンガ・ゲリラが蜂起.カーターはこの反乱にキューバ軍とMPLAが加担と非難.キューバ政府はこれを否定.カストロは米国の利益代表を官邸に招き,この反乱は遺憾であり停戦に向け努力すると表明.

6月 レソト,キューバとの国交を樹立.

7.27 国連安保理が決議第432号を採択。南ア軍の進出基地となっていたナミビア領内ウォルビス湾の軍事使用禁止を求める。

78年9月

9.03 ZAPU,保養地カリバに潜入.ローデシア航空のバイカウント旅客機を,SA−7ミサイルにより撃墜.乗客・乗員合わせ59人が死亡.

9.10 ロンドンのランカスター・ハウスで,南ローデシア(ジンバブエ)の憲法制定会議が始まる.ZANU,ZAPUは会議をボイコット.

9月 ムルダーゲート事件発覚.情報局長官C.ムルダーが絡んだ国家安全保障局(BOSS)の公金不正使用事件.フォルスター首相は責任を迫られ辞任.

9.28 ピーター・ボタ前国防相が兼任のまま首相に就任.柔軟外交から強硬路線へ転換.アパルトヘイト国家を軍事力で防衛する「全面戦略」(Total Strategy)を展開. 軍事費は一挙に3.5倍化.政府諮問機関である国家安全保障会議(SSC)を,アメリカ並みの決定権を持つNSCに改組.BOSSは国家安全保障省(DONS)に改組される.
 

全面戦略の内容
軍事戦略: 周辺諸国のANC基地を越境して直接攻撃する.ANCに味方する前線諸国には直接・間接に攻撃を加える.
外交戦略: さまざまな取引条件を提示し,周辺諸国に不可侵条約を結ばせ,「共通の敵」と闘うよう仕向ける.
経済戦略: 南部アフリカ銀行を設立し,周辺諸国の南アへの経済的従属を強化する.そのことで政治的従属をも促す.

9月 国連安保理,435号決議を採択.ナミビア独立のスケジュールを決定する.国連の信託統治国たる南アは,この決議受け入れを拒否.
 

国連安保理435号決議: @南ア軍のナミビアからの撤退、A国連平和維持軍の派遣、Bナミビア独立のための制憲議会選挙実施を柱とする。

10.19 ローデシア軍,バイカウント機撃墜に対する報復作戦.ルサカ近郊のZAPUゲリラ司令部を襲う.

 

78年12月

12.21 ランカスター会議,総選挙と新政権の骨格で合意.

12月 ZANU,燃料タンクに対する攻撃.ローデシア軍もモザンビーク領内の経済施設への報復攻撃を開始.

12月 南ア,ナミビア「制憲議会」選挙を強行.親白人組織「民主ターンハーレ同盟」(DTA)の勝利を発表.DTAは白人の共和党とヘレロ族など10の部族の代表の連合体。

 

1979年

1月 南ローデシアで一人一票制を定めた憲法草案が国民投票にかけられ成立.

2月 ZAPU,二度目のバイカウント撃墜作戦.乗員・乗客97人が死亡.

3.06 ナミビア駐留の南ア軍,アンゴラとザンビアに越境し,三日間にわたりSWAPOゲリラ掃討作戦.ザンビアはSWAPOへの公然たる支援を中止.

3.13 ローデシアふたたびザンビア領内に入り報復攻撃.ヌコモ議長の住宅を急襲.

4.17 ローデシアで初めて1人1票制の総選挙が行われる.ZANU,ZAPUの不参加にもかかわらず投票率は64.5%に達する.ムゾレワの統一アフリカ人民族評議会(UANC)が勝利.

5.04 南ア政府,「ナミビア暫定政府」の樹立を宣言.「制憲議会」を「国会」とすると発表.国連はこれを認めず.

6.01 「ジンバブエ・ローデシア」共和国が成立.ムゾレワを首班とする内閣が成立.ZANU,ZAPU,OAUはこの政権を承認せず.アメリカ,イギリスも経済封鎖を解除せず.

7.03 南部アフリカ開発調整会議(SADCC), 第一回準備会議を開催.南アへの経済従属からの脱却と,黒人諸国による経済同盟結成を目標とする.

8月 ルサカで英連邦首脳会議.全当事者の合意に基づく憲法の制定,イギリスの監督の下の総選挙をもとめる.サッチャー英首相もこれを受け入れる.

79年9月

9.10 ロンドンのランカスター・ハウスで南ローデシア独立交渉.モザンビーク,ザンビア両国の圧力の下ZANU,ZAPUも参加.

9.10 ネトMPLA議長死亡.ドスサントスが後継議長に就任.

9.22 南ア,大西洋上で最初の核実験.人工衛星からの分析では約3キロトンと推定され,南ア・イスラエル・台湾の共同開発といわれる.

5月 全国鉱山労働者組合(NUM)が結成される。25万人を組織し、国内反アパ運動の中核組織となる。

10.28 南ア空軍,2日間にわたりアンゴラを爆撃.

11.29 ボータ首相,財界指導者との会合で「星座構想」(Constellation Initiative)の具体案を提示.「星座」の由来は,南ア周辺諸国を衛星に見立て,その中心に南アが座るというもの.

79年12月 ローデシア停戦の実現

12.07 ランカスター・ハウス協定締結.総選挙から独立に向かう手順で合意.

12.12 暫定管理のためイギリスのソームズ総督がソールズベリーに赴任.

12.21 ローデシア領内での相互停戦,国境を越えての軍事行動の禁止,20日以内のゲリラの集結などで合意成立.

12.29 ローデシア国内での戦闘が終結.

12 ベンダが「独立」.三つ目の「独立国」となる.

79年 政府,原住民労働法と産業調停法を廃止.黒人労働組合を合法化し,職種留保制度を撤廃するなど,経済的側面でのアパルトヘイト緩和措置を取る.これは一方では,熟練労働力不足の解消を求める白人経営者層の要求に沿うものでもあった.

79年 レソトのジョナサン首相は,南アの干渉に対抗するため,バソト国民党の独裁体制を敷く.非合法化された野党「バソト会議党」は,南アの援助を受け軍事組織「レソト解放軍」(LLA)を結成し対抗.

 

1980年

1月 MKゲリラ,プレトリア近郊の「ボルカス銀行」を襲撃.人質をとって立てこもり,マンデラの釈放を要求.警察は強行突入し,ゲリラ3人を射殺.

2.27 南ローデシア総選挙.ロバート・ムガペの率いるZANUが57議席を獲得.ジョシュア・ヌコモのZAPUは20議席,UANCはわずか3議席で敗北.ZANUは多くの票を銃の脅迫によって獲得したといわれる.

2月 レソト,ソ連と国交を樹立.ANC関係者5千人以上を含む難民1万人以上を領内に置き,ANCへの政治支援を宣言.一方で輸出入の9割を南アに依存.南アへの出稼ぎ労働者は15万人を越える.

3月 国連事務総長,ナミビア=アンゴラ国境非武装地帯の設置を含めた包括的和平提案を発表.

4.18 南ローデシア,「ジンバブウェ共和国」として独立.ムガペが新首相に就任.新政権成立にともない,事実上ローデシア軍の傭兵部隊だったRENAMO のコントロールは南ア軍へ移る. このほかほとんどの戦闘部隊隊員は南アに移籍.

4月 南部アフリカ開発調整会議(SADCC),ジンバブエを迎え9カ国(タンザニア,ザンビア,マラウイ,モザンビーク,ジンバブエ,アンゴラ,ボツワナ,レソト,スワジランド)で発足.南ア政府の提唱する「南部アフリカ経済同盟」構想に対決する姿勢を示す.

4月 ケープタウンで,カラードの中学・高校生が人種による教育予算差別に反対し授業をボイコット.白人1に対し,カラードは1/3,黒人は1/13だった.

4月 MKゲリラがヨハネスブルグの警察署を襲撃.

5.23 ジンバブエのムガペとモザンビークのマシェルが会談.両国の関係強化で合意.

5月 SWAPOはゲリラ部隊の中から選抜し,ソ連の援助を受け「ナミビア人民解放軍」(PLAN)を編成.コマンド部隊がオバンボ地域での破壊活動を強化.

80年6月

6.02 MKゲリラ,ヨハネスブルグ近郊の「南ア石炭・石油・ガス公社」を襲撃.石炭液化工場のタンク7基を破壊.

6.03 南部アフリカ諸国,国連事務総長のナミビア和平提案を支持すると表明.

6.13 南ア軍,SWAPO基地を叩くためアンゴラに侵入.ミラージュなどの航空機と,装甲中隊,空挺中隊,砲兵部隊などの大部隊を投入.国境から260キロの鉄道駅ルバンゴまで到達.3週間にわたる作戦でアンゴラ兵90人,ゲリラ380人を殺害.

6月 南ア特殊部隊20名,モザンビークに侵入.マプト近郊16キロのマトラのANC基地を攻撃.タンク爆破に対する報復作戦.メンバー多数を殺害.

80年7月

7.01 南西アフリカの「与党」DTAが閣僚会議を設置.ダーク・マッジ(白人、共和党委員長)議長が「首相」に就任.南ア政府は「ナミビア自治政府が発足」したと発表.

7.30 南ア軍,ふたたびアンゴラに侵入.

7月 ヨハネスブルグで黒人公務員が賃上げを要求しストライキ.

80年8月

8.01 「ナミビア自治政府」の下に南西アフリカ地域部隊(SWATF)が発足.

8.04 ジンバブエとモザンビークが通商協定に調印.

8.11 南ア軍,ロビト港の石油施設を破壊.ロビトはアンゴラ第二の都市で,ベンゲラ鉄道の終点.

8月 ピク・ボタ外相,ワルトハイムあて書簡でSWAPOをナミビア構成メンバーの一員と認めたうえで,アンゴラ・ザンビアの基地撤去,武装解除を求める.

8月 南ア工作員,ハラレでANC指導者ジョー・グクァビを暗殺.オリバー・タンボ議長は,「もはや目には目をの立場をとらざるを得ず,白人指導者の暗殺も辞さない」と警告.

80年9月

9.03 ジンバブエ,ジョー・グクァビ暗殺に抗議し,南アとの外交関係を断絶.ただし通商関係は存続.

9月 南ア軍,アンゴラ領クアンド・クバンゴ州マビンガを確保.ここをUNITAの拠点として提供.ザンビアと海岸を結ぶベンゲラ鉄道を破壊し,ザンビアへの経済的圧力をかける.相次ぐ鉄道破壊により,内陸諸国は外界へのルートを断たれ,南アへの従属を余儀なくされる.

10.20 国連が窓口となってナミビア独立交渉が開始される.独立移行事前会議(PIM)の設置で合意.

10月 南西アフリカ領軍が創設される。18〜25歳の全ナミビア人に兵役義務を課す。

11月 ZANUとZAPUがブラワヨ近郊で交戦.内乱寸前の状態となる.

80年 マランが国防大臣に就任.軍最高司令官にはコンスタンド・ビルジョアン将軍が就任.「不安定化工作」の名の下に,周辺諸国に対する公然たる軍事侵略を開始する.南部アフリカの黒人多数支配国家が絶えず混乱と危機に陥る状況を作りだすことにより,白人支配の優位性を立証するのが狙い.

 

19 81年

81年1月

1.16 レーガンがアメリカ大統領に就任.アフリカ問題担当国務次官補となったチェスター・クロッカ,「南アにも受け入れられる改革の積み重ね」を柱とする「建設的関与」戦略を打ち出す.

1.25 マダガスカル沖合いの島セーシェルで,南ア軍傭兵が関与した政府転覆計画が発覚.

1.29 南ア軍,モザンビークのマトラを爆撃.12名が死亡.

1.30 南ア軍(偵察コマンド部隊),モザンビーク領内に侵入.首都マプト近郊のANC マトラ基地を爆撃.12人が死亡。

1月 大統領諮問評議会が設置される.黒人を除く各人種から指名された人物がメンバーに入る.黒人以外の人種取り込みを狙ったもの.インド人会議とインド系ANC活動家は,評議会設置に抗議し、南ア・インド人評議会(SAIC)選挙へのボイコット闘争を展開.

81年2月

2.17 前線諸国首脳会議が開催される.南アの軍事攻撃を一致して糾弾.

2.20 ジンバブエ,ソ連との外交関係を樹立.

2.21 ソ連,モザンビークに対する経済援助を発表.

81年3月

3.02 OAU閣僚会議,対南ア経済制裁を呼びかける.

3.06 国連,対南ア経済制裁を決議.

3月 アンゴラ軍,マビンガ奪回作戦を開始.

81年4月

4.14 米国務省のチェスター・クロッカー国務次官補が南アを訪問.南ア政権支持の意向を伝える.

4.16 前線諸国首脳会議,レーガン政権の南部アフリカ政策を批判する共同声明.

4.19 非同盟諸国外相会議,対南ア経済制裁の実施を国連に呼びかける決議を採択.

4.23 西側5カ国からなるコンタクト・グループ(米,英,仏,西独,カナダ),ナミビア問題で共同声明を発表.

4.30 国連安保理で,対南ア禁輸問題の採決.アメリカとイギリスが拒否権を行使.

81年5月

5.14 ピク・ボタ外相,アメリカを訪問.レーガン大統領と会談.レーガンは南アに対する「建設的関与」政策を提示.ナミビア独立とキューバ軍撤退をリンクさせることで,事実上,南アのナミビア占領継続とアンゴラ侵略に支持を与える.

5月 アンゴラ軍のマビンガ奪回作戦,失敗に終わり,クイト・クアナバレまで押し戻される.

6月 ボタ,アメリカを訪問しレーガンと会談.アンゴラにおけるソ連とキューバの脅威を強調.ナミビア独立とキューバ兵撤退をリンクさせる戦略で合意.

7月 MKゲリラ,プレトリア近郊の発電所に爆弾攻撃.

7.25 ナミビア駐留の南ア軍,アンゴラに侵入.

7月 レソトの非合法野党「バソト会議党」の軍事組織「レソト解放軍」(LLA)が,マセル近郊の石油貯蔵施設に迫撃砲弾を打ち込む.LLAの実体は南ア軍特殊部隊.

81年8月

8.01 南ア軍が同時多発攻撃.ジンバブエの首都ハラレ(旧ソールズベリー)では,車両爆破によりANC駐在代表ジョー・ガビ死亡.ボツワナの首都ガボローネ(Gaborone)では,車両爆破によりANC主要メンバー殺害.

8.23 南ア軍,アンゴラ南部でSWAPO掃討作戦「オペレーション・プロテア」を展開.1万4千人が作戦に動員される.

8.24 クサンゴンゴのSWAPO北西戦線司令部を制圧.

8.26 「ブラボー」部隊がオンギバのSWAPO北部戦線司令部を陥落.ソ連軍兵士を捕虜とする.

9.06 プロテア作戦が終了.アンゴラ側では,ゲリラとアンゴラ軍あわせ千名が死亡.ソ連軍事顧問4人が死亡,1人が捕虜となる.

8月 SWAPO幹部はキューバ兵がゲリラを直接支援していると言明.

8.26 OAU議長,アンゴラに侵入した南ア軍の即時撤退を要求.

8.29 国連安保理,ナミビア問題で議論.南ア軍のアンゴラ撤退を求める決議案は,アメリカの拒否権発動で成立せず.

8月 MK,ダーバンで爆弾攻撃.

81年9月

9.11 今年三回目の前線諸国首脳会議.アンゴラ・ナミビア問題でOAUに支援を要請.

9.14 国連ナミビア問題特別総会,非同盟諸国提案の対南ア制裁決議を採択.

9.24 コンタクト・グループ外相会議,ナミビア独立の原則で合意に達したと発表.SWAPOはこの提案を拒否.

9月 MK,プレトリア近郊の空軍基地フォールトレッカーホーグテにMKの迫撃砲攻撃.

81年10月

10.16 アフリカ東部・南部11カ国が,特恵貿易地域(PTA)の設立で合意.

10.26 南ア軍,アンゴラを攻撃.

10月 ナミビアのウィントフク近くの鉱山でストライキ。翌月には精肉工場の労働者200人がストライキ。

81年11月

11.01 南ア軍,アンゴラに侵入.潜入した特殊部隊が石油精製所を破壊.20日間にわたりアンゴラ領内で掃討作戦.

11.25 南ア軍情報部,セーシェルのアルベール・ルネ政権打倒を狙い傭兵部隊を送りこむが失敗.

81年12月

12.01 南ア軍,モザンビークに総攻撃.5週間で11波にわたる襲撃.

12.18 ジンバブエでムガペ暗殺を狙う爆弾テロ.ZANU本部が爆破され,7人が死亡,90人が負傷.首謀者はムガペの警備隊長ジョフリー・プライス(白人).プライスは計画失敗後,ただちに南ア亡命.

81年 旧ローデシア政府の黒人傭兵部隊レナモ、南アの支援を受け,息を吹き返す.兵力は1万に達し,モザンビーク各地で「不安定化工作」を展開.司令官アルフォンソ・ダラカウは,「85年までにフレリーモを打倒する」と述べる.

 

1982年

1月 南ア軍,アンゴラ南部に侵入.国境から310キロの地点まで進行.南部住民16万が国内難民となり北部に避難.

2.12 ムガペに反感を持つ南部のZAPUの一部が南アと結託し,反乱を起こす.

2.17 ムガペ,ZAPUの閣僚三人を解任.ZANUの単独政権へ移行.

2月 南アとスワジランド,「テロリズムと転覆活動」を一掃するとの条項を含む不可侵条約を締結.これに基づきすべてのANC基地を国内から追放.条約の存在は,2年間極秘とされる.

2月 ドスサントス議長とキューバ外相イシドロ・マルミエルカが会談.南アが越境をとめれば,キューバ撤兵という条件で合意.

82年3月

3月 南ア軍,ザンビア.ボツワナ,ジンバブエへも侵攻.

3.14 ロンドンのANC本部に爆弾テロ.

3.30 南ア軍の「バッファロー大隊」45名が,国境線のアンゴラ西南端のカンベノ・バレーのSWAPO基地を奇襲攻撃により殲滅.ゲリラ250人中201人を殺害.

3月 南ア政府、兵役義務条件の改定を発表。60歳までのすべての白人を民間部隊で軍事訓練し、軍務につけるようにする。

5.03 SWAPO,コンタクト・グループ提案の受け入れを正式に拒否.前線諸国はSWAPO支持の立場を再確認.

6.07 マグヌス・マラン国防相、南ア軍兵士の数がこの7年間で50倍となったと発表。40万の兵員と80万の予備役を抱えることとなる。しかし実態としては悪名高い第32大隊を筆頭にほとんどが「戦争の犬」と呼ばれる雇い兵集団。

6.24 ムガペ首相官邸にロケット弾が打ち込まれる.

6 スワジランドの首都ムババネで,車両爆破により2名のANC代表部員が殺害される.

7.25 南ア軍,ジンバブエのソーンヒル空軍基地を攻撃.ハンター戦闘機8機,ホーク戦闘機4機など虎の子の13機を破壊.

82年8月

8.17 マプトで,ルス・ファーストが,小包爆弾により殺害される. ルスはジョー・スロヴォの妻で,ジャーナリスト.

8.17 セーシェルで,81年に続くクーデター未遂事件.南ア政府の関与が疑われる.

8 レソトで,ANC幹部クリス・ハニを狙ったテロ.車両爆破により1名が殺害されるが,クリス・ハニは難を逃れる.

8月 モザンビク国境近くのジンバブエ領内で,政府軍と元ローデシア軍兵士のゲリラ部隊が遭遇戦.政府軍は白人3人を殺害.このゲリラ部隊は,ジンバブエ=モザンビーク間の鉄道破壊を目的としていたといわれる.

8.02 南ア軍,アンゴラ南部に侵入.

9.27 アンゴラと中国,外交関係を樹立.

9月 ジンバブエ,モザンビークのRENAMO掃討のため部隊を派遣.この時点でレナモは10/12州に戦線を拡大,

11.03 IMF、国連総会決議を無視し、南アに11億ドルの借款を認める。

11.27 ブッシュ副大統領,アフリカ諸国歴訪.ナミビア独立とキューバ軍撤退のリンケージを目論む.アフリカの31ヶ国外相は「一体化」策動を非難する共同声明で対抗.

82年12月

12.08 アンゴラと南アが初の接触.ナミビア問題を討議.

12.09 南ア軍の特殊部隊,レソト領内の11ヶ所のANC拠点をヘリで襲撃.この攻撃で42 名が死亡.南ア政府,この攻撃はANC 事務所の破壊を狙ったものだと主張.

12.09 南ア軍とレナモ,モザンビークのベイラ港を攻撃.石油貯蔵所を破壊し3500万ドルの被害をもたらす.

12.11 カストロ,「現時点でアンゴラ撤兵の意思はない」と言明

12.17 20カ国が参加し,東部・南部アフリカ特恵貿易地域(PTA)首脳会議が開催される.

12月 アンゴラのロドリゲス内相と南アのボタ外相,カボベルデで秘密会談.

12月 南ア国防軍、ANCと連帯するレソト王国の首都マセルを空爆。貯水池や石油関連施設を破壊。

82年 軍事費膨張から,南ア国内経済は破綻.1年で394件のストが発生する.南ア政府は治安司法省を新設し,闘争の弾圧を強化.

 

19 83年

1.09 中国の趙紫陽首相がジンバブエを訪問.

1.18 DTA,南ア行政長官の強権発動を拒否.ダーク・マッジ暫定内閣は総辞職.これにより「自治政府」は崩壊し,南アによる直接統治に復帰.南アはDTAに代わるものとして,多党会議(MPC)を編成.

1月 MPLA内部で権力の移動.ドスサントス派がネト前議長派を排除.アメリカ,南アとの交渉による解決を目指す.

2.20 前線諸国首脳会議.南ア軍のアンゴラ撤退を強く求める決議.

2月 ウィリー・ファニーカーク新行政長官がウィンドフークに赴任.新たな反SWAPO連合の形成を目指す.

83年3月

3.02 モザンビークのマシェル大統領,ソ連を訪問.

3.18 モザンビークの反共軍事組織MNR(レナモ)、国土全域に戦線を拡大.南アの放送局はレナモが亡命政権を樹立したとの報道を大々的に流す.

3 リスボンで「前線諸国との国際連帯会議」開催.

83年4月

4月 反アパルトヘイトグループを結集して統一民主戦線(UDF)が発足。タウンシップの自治組織シビックや青年・女性団体など600 を超える組織を傘下に持つまでに発展。財政的には、EC のアパルトヘイト犠牲者向け基金「カギソ・トラスト」(KT)に支えられる。インド人組織も参加し、重要な役割を果たす。

4.24 ソ連代表団,モザンビークを訪問.

4.26 FRELIMOの第4回党大会。モザンビークを社会主義国と規定。「不安定化戦略」の開始の下で経済目標が未達成に終わったことが確認される。

4.29 パリで,ナミビア独立支援国際会議が開かれる.アメリカと南アを非難する宣言を採択.

83年5月

5.20 プレトリアのオフィス街にある空軍情報部前でMKによる自動車爆弾.死者17人,負傷者188人.

5.23 南ア空軍,モザンビークの首都マプトを報復空爆.ANCメンバー41人とモザンビーク軍兵士17名が死亡.南ア政府,攻撃目標はANC基地に絞られていたと釈明するが,実際には無差別爆撃だった.

6月 黒人意識運動の流れを汲む「アザニア人民機構」(AZAPO)が中心となり「民族フォーラム」(NF)が結成される.

83年8月

8.02 UNITA,南ア軍の支援を受けモシコに総攻撃.1週間にわたる激戦となる.

8.15 南ア軍,UNITAを側面支援するためアンゴラ領内に進出.空軍機8機が国境から500キロのカンバンガを爆撃.(一説では国境から50キロ北のカンガンバ)

8.20 議会選挙ボイコット運動を契機に,多人種を横断する連合組織,「統一民主戦線」(UDF)が結成される.傘下に600 以上の組織をかかえ,55年の人民会議の再開を目指す.地域支部の組織化を旺盛に展開した結果,構成メンバーは200万人に達する. 議長にはカラードの聖職者アラン・ブーサックが就任.
 

アラン・ブーサックの後日談
アラン・ブーサックはカラードの拠点西ケープで,オランダ改革派教会の牧師をつとめていた.90年代に入って,白人女性と不倫関係を結び,妻と離婚し教会を離れる.さらに虚栄心と上昇志向がANC活動家の不信を買い,94年総選挙ではカラードからも黒人層からも見捨てられる.新政権樹立後,ジュネーブの国連大使に指名されるが,デンマークからの支援資金を使い込んだことがばれ,懲役6年の刑を受ける.

8月 レソト解放軍(実体は南ア軍特殊部隊),ヒルトンホテルに立ち寄ったジョナサン首相の暗殺を企てるも失敗.

83年10月

10.11 アンゴラのジョルジュ外相が国連総会で演説。南ア軍5千名がナミビア国境から250キロ奥まで侵攻していると非難。

10.17 南ア軍,みたびモザンビークの首都マプトを攻撃. 陸軍司令部やANC情報部事務所を襲撃.

11.02 人種別議会と大統領評議会の是非を問う国民投票実施.

11.08 UNITA,アンゴラ航空機を対空ミサイルにより撃墜.

11月 ナミビアでDTAにSWAPO民主派も加わった「多党会議」(MPC)を設立.

12.19 アンゴラの要請にもとづき安保理が開かれ、南アの即時無条件撤退を求める第545号決議を採択。米国は決議を欠席する。

12.22 南ア軍,545号決議を無視し、6回目の大規模な越境攻撃となる「アスカリ作戦」を開始.機械化旅団三個、歩兵戦術部隊4個、航空機100機により、国境から250キロのカッシンガを占拠。クネネでアンゴラ軍と5日間にわたり直接対決.

12.25 南ア,アンゴラとナミビアでの1ヶ月停戦を提案.

83 南アの白人準軍事組織「自警団」が活動を活発化.黒人活動家を暗殺し,死体の首を切断するネックレス刑が頻発.

 

19 84年

84年1月

1.03 南ア軍とアンゴラ=キューバ軍,クベライで対決.南ア側の勝利に終わる.アンゴラ側の324人,南ア側の21人が死亡.

1.03 アンゴラ,南アの1ヶ月停戦案を受け入れる.

1.05 南アの指令により,レソトにバソト民主同盟(BDA)が結成される.レアブア・ジョナサン首相=バソトランド国民党(BNP)政権に対する反対運動を展開.

1.06 安保理決議第546号、南アにすべての軍事行動の即時停止とアンゴラからの撤退をもとめる。

1.11 SWAPO,南アに停戦交渉の再開を呼びかける.

1.13 アスカリ作戦終了.南ア攻撃部隊は撤退,占領部隊は引き続きアンゴラ領内に残る.

1.16 南アとモザンビーク政府の合同委員会,「不可侵条約」に関する交渉を開始.南アはMNR支援停止と引き換えにモザンビークのANC支援停止を迫る.

1.18 アメリカ,南ア,アンゴラの三国,ナミビア問題に関する秘密交渉.アンゴラが南ア軍撤退後の空白を利用しないことで合意.ヌジョマSWAPO議長は反発するが,アンゴラ側に押さえつけられたという.

1.31 ボタ首相,アンゴラからの南ア軍撤退問題で,アメリカから保障を取り付けていると発言.

2.16 南アとアンゴラ,兵力引き離しに関するルサカ合意.撤退後の南アンゴラがSWAPOに利用されないようにするための「統合監視委員会」の設置が決まる.

2.27 スワジランド,南アと不可侵条約を締結.ANC活動家の国外追放を始める.

84年3月

3.01 SWAPO初代議長トイボヤトイボが釈放される.

3.01 南ア,アンゴラからの駐留軍撤退を開始.

3.16 モザンビーク=南ア国境のヌコマティで,マシェルとボタ首相の会談.南アの攻撃に屈したフレリーモ政権,「モザンビーク共和国政府と南アフリカ政府の不可侵・善隣条約」(ンコマチ協定)を締結.ANCはモザンビーク当局により武器を押収され,国外追放となる.条約締結後も,レナモは破壊活動を停止せず.

3.17 ドスサントス・アンゴラ大統領,キューバ訪問.

5.25 SWAPOの襲撃が激しさを増す.有名無実化した統合監視委員会が廃止される.

5.28 ボタ大統領,2週間にわたりヨーロッパ9カ国を歴訪.政治的安定を印象付けようとする.ロンドンでは反アパの1万5千のデモで歓迎される.

5月 国連ナミビア理事会の報告。ナミビア国内の南ア軍は10万人を超え、ナミビア人口の8%に達する。アンゴラ攻撃が準備されるときはさらに数が増す。

84年6月

6月 南ア軍,SWAPOの協定違反を理由に,アンゴラからの撤退を中止.国境沿いに第32大隊(バファロー大隊)が展開され、ナミビア軍事組織「コエボエト」が前面をになう。

6.28 SACTUメンバーほか2名,アンゴラのルバンゴで手紙爆弾により死亡.

7.25 カボベルデでナミビア行政長官ファニーカークとSWAPOのヌジョマが初の直接会談.SWAPOは国連決議435号に基づき即時停戦と独立に向けての行動開始を求めるが、南ア側はアンゴラ問題とのリンクを求め、話し合いは平行線をたどる.

8.17 国連,南ア新憲法を国連憲章違反と判断.無効決議を採択.

8月 カラードとインド人議会の選挙。UDFは大規模なボイコット運動を提起する。

84年9月

9.03 人種別三院制議会が設置される.従来の白人議会(178議席)のほか,カラード(85議席),インド人(45議席)も国政への参加を認められる.黒人の国政参加権は無視される.議会選挙はカラード,インド人のほとんどがボイコット.

9.04 シャープビルで,三院制議会に抗議する黒人の行動.警察の弾圧により20人が死亡.各地での暴動により9月だけで60人が死亡.

9.14 首相制が廃止され,行政を含め強い権限を持つ大統領制に移行.ボタが初代大統領に就任.

9.17 南ア軍に支援されたUNITA,アンゴラ南部での軍事行動を展開.南ア軍は5日間にわたり直接軍事作戦.

9月 NUM,合法化以後初の大規模なストライキ.数次にわたるストをふくむ戦闘的な運動により,組合員を23万人にまで拡大する.

12月 反アパルトヘイトの指導者デズモンド・ツツ主教にノーベル平和賞が与えられる.

10月 相次ぐ抗議行動に対処するため,国防軍が地区に導入される.

10.03 モザンビーク政府,南アの仲介によりMNRとの全面停戦合意.

11月 南ア政府,アンゴラがSWAPOをコントロールできなければ,ふたたび大規模な攻撃を行うと警告.

11.02 MNR,和解交渉を一方的に中止.

12月 秋からの抗議行動で死者は千名以上に達し,逮捕者も1万3千人となる.平和的運動に限界を感じた活動家がANCに結集するようになる.

84 南ア軍コマンド,ボツワナに奇襲攻撃.3名が死亡.

 

1985年

85年1月

1.03 MNR,交渉打ち切りを宣言,ふたたびゲリラ活動を活発化.

1.31 ボタ首相、議会演説で「アパルトヘイトは今や時代遅れとなった」と述べる。黒人だけに義務付けられていたパスを廃止し、全人種に共通の「身分証明書」を発行することを明らかにする。

85年2月

2.13 ボツワナの首都ガボローネで,南ア軍による連続テロ作戦.南ア亡命者の自宅が爆破される.

2.14 UNITA,10日間にわたりアンゴラ北西部で作戦展開.

85年3月

3.11 ツツ大司教、ニューズウィーク紙に「ボタ政権の改革構想の見通しは悲観的」と語る。

3.14 ガボローネで,車両爆破により南ア亡命者が殺害される.

3.21 ケープ州ウイテンハーグで,シャープビル事件25周年の記念行動.警察の発砲により19人が殺害される.

3.29 南ア政府,反アパ団体に三ヶ月間の集会禁止令.

3月 アンゴラとソ連とのあいだに経済協力協定が締結される.

85年4月

4.15 国際世論の指弾を浴びた政府,異人種間結婚禁止法・背徳法・分離施設留保法などの悪名高い差別法を廃止.しかし施設などの実態はそのまま維持される.

4.27 アングロ・アメリカン社,黒人労働者1万3千人を一斉解雇.

5.14 南ア軍特殊部隊,カビンダの石油施設を攻撃するも失敗.デュ・トイ隊長は負傷し捕虜となる.

5.22 MNR,モザンビーク領内における軍事行動を再開.

85年6月

6.12 MK,南ア政府に協力するケープタウンのカラード議員を襲う.

6.14 ボツワナのガボローネで,南ア軍コマンドの奇襲作戦.ANC活動家12名が死亡. ボツワナ当局はANC活動家は数人で,残りは一般市民だったと発表.

6.16 ソウェト蜂起9周年記念集会が開かれる.集会禁止令を押し切り6千人が参加.

6.16 ザンビアのカブエで,250人の代議員が出席し,一週間にわたりANC第2回全国協議会開催.「流血を停止させる唯一の道は、我々が戦争に行くこと」と述べ、「戦いの年」を宣言,対人テロも辞さない「人民戦争」戦略を採用.

6.17 南ア,MPC(親南ア派6政党による多党会議)を土台にナミビア暫定政府を再発足させる.外交と防衛、治安を除く行政権が移譲される。国連はこの政府を無効と宣言.

6.28 南ア軍,2日間のアンゴラ越境作戦.オバンボのSWAPOゲリラ基地を攻撃.ゲリラ700人の8割を殺害.

6.29 MNR,政府軍の車両を攻撃,37人を殺害.

6月 アメリカ上院,UNITAとFNLAへの支援を禁止した「76年クラーク修正法」の廃止を決議.これを受けたレーガン政権は,CIAを通じての援助計画を検討.

85年7月

7.02 南ア軍特殊部隊,ルサカのANC事務所に爆弾テロ.

7.21 ヨハネスブルグの黒人居住区で抗議運動の高まり.東ケープ,ヨハネスブルグ,ヨハネスブルグ東部の工業地帯など36地区に非常事態宣言がだされる. 非常事態宣言はシャープビル事件以来25年ぶり.軍・警察に令状なしの逮捕・拘留が認められる。

7。26 国連安保理、南ア新規投資の全面禁止など6項目にわたる制裁決議。米・英は棄権。

85年8月

8.13 UDF、すべての刻人の参政権、統一した南ア、全政治犯の釈放、非常事態の廃止など10項目の要求を発表。

8.15 各地で抗議行動が暴動化.ソウェトに夜間外出禁止令が公布される.

8.22 ボタ大統領,国民党青年大会で演説.「われわれは国際的な圧力に屈して,アパルトヘイトの改革に踏み出してはならない」と述べる.

8月 政府,UDF幹部多数を逮捕.

8月 ナタール州では、ブテレジ(Mangosuthu Buthelezi)に率いるインカタ運動(Inkatha)が「自警団」を組織。UDF との間で対立を深め、タウンシップでの両者の衝突に発展。イナンダではインド人居住区が黒人により襲われる。

8月 モザンビーク政府軍,MNRのバナナハウス基地を襲撃.南アのルイス・ネル外務次官のバナナハウス訪問を証明する文書を入手.

8月 欧州でANC と白人代表の秘密会談始まる.断続的な非公式会談が,89 年8 月までに欧州各地で前後30 回にわたり続く.

8月 ヨハネスブルクの英字紙が世論調査。主要都市では黒人の40%がANCを支持、マンデラの支持率は76%に達する。

85年9月  アンゴラ軍の85年大攻勢

9月 ケープタウンでも抗議行動が拡大.

9.01 南ア政府、対外債務の年内支払いを停止すると声明。南アからの資本の逃避が続く。保守系のビジネス・デー紙、ボタ大統領の退陣を要求する論説。

9.09 レーガン、南ア警察・治安組織に対するコンピュータ輸出の禁止など3項目の制裁措置を発表。

9.13 南ア最大の鉱山会社アングロ・アメリカン社のギャビン・ラリー会長,ルサカでタンボANC議長と会談。

9.16 極右「保守党」のトゥルーニヒト党首、「ゴム弾ではなく実弾をぶちこめ」と主張。

9.16 アンゴラ軍,東部と南部の制圧作戦を開始.

9.19 UNITA,アンゴラ東部の拠点カゾンボを放棄し,南部へ撤退.アンゴラ軍東部戦線はこれを追撃し南部に進出.

9.30 アンゴラ軍,UNITAの最大拠点マビンガに30キロに迫る.南ア空軍,1週間にわたりUNITAを近接支援.

9.30 モザンビークのビエイラ治安相,バナナハウス文書を暴露.南ア政府は事実を認め,ネル外務次官を更迭.

9月 全国鉱山労組がストライキ決行。27万人が参加するが、当局の弾圧により2日間で中止に追い込まれる。

9月 レーガン政権、南アに対する経済制裁措置を発動。これまでレーガンは制裁を行わず、建設的関与(Constructive Engagement)に止めていた。GM、ATT、IBM、モービルなど米大企業は依然取引を継続したことから国際的非難が強まる。

9月 南ア政府,外債120億ドルの返済不能を発表.

9月 国鉄車両、駅での差別など「プチ・アパルトヘイト」が緩和される。翌月にはホテル、レストラン、映画館の差別が解消される。

85年10月

10月初め アンゴラ軍,マビンガを落とせないまま撤退.ソ連兵10,キューバ兵56人を含む千名の死者を出す.

10.07 国連安保理,度重なる国境侵犯で南ア政権を非難する決議.

10.12 白人野党の進歩連邦党のザイル・スラバート委員長,ANC代表と会談しアパルトヘイト廃止の共同声明を発表.

10.25 非常事態宣言が延長され,さらにケープタウンその周辺に拡大される.

10.29 南ア軍,アンゴラの旅客機を撃墜.

85年11月

11.16 ガボローネで,ANC活動家の車両に爆弾テロ.4名が死亡.

11.29 南ア軍,ジンバブエに対し越境攻撃.

11.30 NUMを中核とし南ア労働組合会議(COSATU)が結成される.政府・軍・警察の激しい攻撃の中で,組織人数は50万人に達する.

11月 国連安保理の南ア制裁決議,米英の拒否権発動により否決.

85年12月

12.02 MPLA・PT第二回大会開催.反政府ゲリラとの対決を宣言.

12.06 国連安保理,南ア軍のアンゴラ侵攻による被害に対し賠償を求める決議.

12.7 ルサカで,小包爆弾によりANCメンバー負傷.

12.10 アメリカ政府,UNITAに対する1500万ドルの支援を決定.

12.12 アンゴラ軍,ふたたびマビンガに迫る.南ア軍は,越境しUNITAを支援.アンゴラ軍は2500人の死者を出し撤退.

12.20 南ア軍特殊部隊,ふたたびマセルのANC事務所を攻撃.一般市民を含む9人を殺害.

85年 UDFの発展を受けたANC,黒人以外の人種にも組織を開放.アパルトヘイト廃止後の政権の受け皿となることを目指す.

 

1986年

86年1月 レソトのクーデター

1.12 南ア軍,アンゴラ南部で作戦展開.

1.12 南ア,レソトを経済封鎖.

1.15 レソトでクーデター.親ANC政策を続けていたレソトのジョナサン首相は,官邸を警察に包囲され,事実上の軟禁状態に置かれる.

1.20 警察長官ジャスティン・レカンヤ少将が全権を掌握.ただちにANC活動家を国外追放.

1.24 レカンヤ司令官,南アとの関係改善の意思を表明.南ア政府はただちに国境封鎖を解除.国王モシェシェU世は南アとの関係緊密化を好まず、軍事政権を担う軍部保守派と対立。

1月 サビンビ,アメリカを訪問.レーガンらの歓迎を受ける.

1月 黒人の大学への入学制限が廃止される。

86年2月

2.18 アフリカ担当国務次官チェスター・クロッカー,上院外交委員会で証言.CIAによる千5百万ドルのUNITAへの秘密軍事援助を認める.上下両院の情報委員会は援助を停止するよう求める.

2.18 ヨハネスブルグ近郊の黒人居住区アレクサンドラで大規模な暴動が発生.治安部隊との衝突で数百人の死傷者を出す.

2.25 ボツワナ,ANCのゲリラ規制で合意.国内のANC事務所は閉鎖される.

2月 日本の外務省,ANCと初接触.

2月 UNITA,ザイールとCIAの支援を受けアンゴラ北部で攻勢.ルアンダ東方200キロのカマバテラの奪取に成功.さらにダンバも制圧.

86年3月

3.05 アレクサンドリアで機動隊の弾圧により7人が死亡。

3.07 非常事態が9ヶ月ぶりに解除される。この間の逮捕者は約8千人。死者は政府発表で1150人に達する。

86年4月

4.08 前線諸国首脳会議が開催される.アメリカのウニタ支援を非難する声明.

4.23 ボタ大統領,パス法および30の関連法の廃止を宣言.パス法違反で拘留されていた黒人を釈放する。これまで毎年25万人がパス法違反で拘留されていた。

4月 UNITA軍,ダンバから西に進み,大西洋岸まで到達.ルアンダは三方から包囲される.

4 マプトで,車両爆弾.50名が負傷.

4月 英紙,「アメリカがアンゴラ反政府ゲリラに対空ミサイル供給」と報道.

5.01 メーデーが事実上のゼネストとなる。半年前に結成されたCOSATU(南ア労働組合会議)は全土100か所で集会。全国鉱山労働者連合(NUM)は25万人が全国スト。

86年5月

5.19 英連邦諸国の賢人グループ使節団が南アを訪問.南ア軍は使節団滞在にあわせ,ボツワナ,ザンビア,ジンバブウェで同時攻撃.ボタ大統領は「今後も攻撃の用意がある」と発言,軍事支配力を誇示する.

5.20 前線諸国6カ国外相会議,対南ア経済制裁の声明.

5.19 南ア軍がボツワナ、ザンビア、ジンバブエに対して越境攻撃。空軍機による爆撃のあと特殊部隊が地上に降下し、ANC拠点を攻撃。ザンビアでは首都ルサカ近郊15キロのANC本部を攻撃。このときルサカには英連邦49カ国の「南ア問題調査団」が滞在中であった。

5.27 国連のアフリカ特別総会.アフリカの経済復興策などを協議.

5月 南ア軍,アンゴラ南部での作戦を拡大.

86年6月

6.05 南ア海軍,モサデメシュの外港ナミベに奇襲作戦.ミサイル艇が湾内に侵入し,オイルタンク2基とソ連フリゲート艦2隻に損傷.

6.09 ウニタ,カビンダの石油施設を攻撃.

6.04 UDF、ソウェト蜂起10周年の統一行動を呼びかけ。南ア政府は記念日を前に、教会行事も含めすべての集会を禁止する命令。

6.12 南ア政府,3月に解除したばかりの非常事態をふたたび宣言.さらに治安・公安二法を制定し,弾圧姿勢を強化.この日1日だけで1千名以上を逮捕・拘留した。

6.16 ソウェト蜂起10周年記念日.全土がゼネスト状態に入る.

6.16 国連,パリで「人種主義の南アに対する制裁に関する世界会議」を主催.

6.18 米下院、米企業や投資の引き上げ、貿易の停止を盛り込んだ南ア制裁法案を圧倒的多数で可決する。

6月 ロバート・マクブライド,ダーバンのバーに爆弾を仕掛け,白人女性3人を殺害.彼は一匹狼のテロリストといわれる.

6月 アンゴラ軍,昨年に続く大攻勢.アンゴラ・キューバ軍のほかSWAPOの7千人,ANC千人が参加.ルエナから南方200キロのカンガンパに進出するが,ウニタのゲリラ戦で消耗.こう着状態に入る.

86年7月

7.02 NUMがストに入る.

7.07 国連ナミビア会議が開催される.会議ではキューバ軍撤退問題とリンケージさせるアメリカの政策に批判が集中.

7.30 MK,ヨハネスブルグの軍基地前で爆弾テロ.

86年8月

8.10 南ア軍「バッファロー大隊」,クイト・クアナバリ空軍基地を奇襲攻撃.燃料・弾薬備蓄を破壊.制空権を失ったアンゴラ軍は戦線維持が困難となる.

8.12 国民党全国大会.対黒人強硬派がさらに進出.

8.19 法秩序相,この2年間における弾圧による死者が1776人に達したことを明らかにする.

8.24 ナミビアの首都ウイントフークで,SWAPO闘争20周年を記念するデモ.1万2千人が参加.

86年9月

9.08 ハラレで第8回非同盟諸国首脳会議,「南部アフリカ特別宣言」を採択.前線諸国外相会議の呼びかけに応え,対南ア経済制裁を呼びかける.さらに「南部アフリカ連帯基金」の創設を提起,南部アフリカ諸国への支援を強化.

9.8 ANC事務所爆破.

9.10 カストロ,ジンバブエで開かれた第8回非同盟諸国首脳会議に出席の後アンゴラ訪問.ルアンダで3千のキューバ人を前に「キューバ軍4万人は,南ア軍がナミビアとアンゴラから撤退するまでとどまる」と声明.

9.10 カストロ訪問にあわせアンゴラ軍の攻撃再開.戦車が渡河し,続いて二つの大隊が進撃するが,対戦車ミサイルの反撃に遭い甚大な被害を出したあと後退.

9.13 同様の作戦を繰り返すが,再び進出に失敗.

9.17 国連ナミビア特別総会.南アのナミビア不法統治を非難する決議.

9月 アメリカ,ECに続き,日本も対南ア経済制裁に参加.

9月 日本政府,ひそかに南ア政府外相ボタを招請. 国連ナミビア総会は,日本の立場を非難する声明.この年、日本は南アの最大の貿易相手国になる。

10月 アフリカーナーの精神的拠り所となってきたオランダ改革派教会、「人種差別は罪である」との声明を発表。アパルトヘイト派は教会を脱会する。

10.19 マシェル大統領を乗せたTu134機が,南ア領内で謎の墜落.マシェルほか9名が死亡.

10 南ア軍,クイト・クアナバレの飛行場を破壊して撤退.

10 UNITAのサビンビ議長は訪米し「第三世界の解放者」として歓迎される.ウニタは,サビンビ訪米に合わせ,カビンダ攻撃作戦.

86年11月

11.13 南ア軍,SWAPOの雨季攻勢に対抗しアンゴラ侵攻.

11.21 モザンビーク政府,マシェルに代わりジョアキン・シサノを新大統領に選出.

11.26 ウニタ,カングンベを陥落させる.

12.10 南ア政府,黒人「暴動」への報道規制を強化.

86年 南ア国内では,この1年間で千人が殺害され,2万人が不当に逮捕され,そのうち未成年者が8千人をしめる.殺害の形態も残虐化し、古タイヤを首と足にはめたうえで、ガソリンをかけて焼き殺す「ネックレス刑」が急増する。

86年 ニアンガ,イナンダ地区で,ホームランドへの移住を拒否した住民10万人を,軍警察が強制移動.

86年 ボタ政権,「戦時経済法」を制定.基幹産業600社に対し軍隊を配備,一切のストを禁止.

86年 原住民(パス廃止・文書統合)法が廃止される.しかし住民登録法,集団地域法などアパルトヘイト体制の根幹をなす法律はそのまま存続される.

 

1987年

87年1月

1.08 南ア軍,SWAPOに対する掃討作戦.

1.10 南ア軍,5日間にわたりアンゴラ領内で作戦.

1.26 南ア軍,アンゴラに侵入.モングアでアンゴラ軍とのあいだに激戦となる.

1.28 タンボ議長,シュルツ国務長官と会談.シュルツ国務長官の「南アフリカに関する諮問委員会」,建設的関与の政策は失敗に終わった.いまやANCと接触すべきであると勧告.

1 ハラレで,車両爆破テロ.

1 モザンビーク政府,世銀・IMFの勧告を受け入れた「経済復興計画」に着手.RENAMOの兵力は2万人に達する。

2.20 国連安保理,対南ア経済制裁決議を採択.日本政府は棄権に回る.

87年3月

3.16 NUMの指導する鉱山スト.7千人が参加.

87年4月

4.03 アンゴラに侵入した南ア軍機が撃墜される.

4.19 タンボ議長,日本を訪問.中曽根首相と会談.中曽根首相は制裁には言及せず,ANCの武装闘争を非難するにとどまる.

4.23 UDFの呼びかけた在宅ストに10万人が参加.

4.8 ガボローネ,車両爆破で3名死亡,2名負傷.

4.21 FAO,ナイロビで総会.南部アフリカ,特にモザンビークで食料不足が深刻で,4百万人が飢えの危機にあると報告.

4.22 アンゴラ領内に侵入したアメリカ機が撃墜される.

4.25 ナミビアのカプリビからヘリでザンビアに侵入した南ア軍特殊部隊が,オートバイでリビングストンのANCビルを襲撃.

4月 外務省の外郭団体アフリカ協会,ANCのタンボ議長を招待.中曽根首相が直接会見。その後日本における連絡事務所の設置を許可.

87年5月

5.06 白人議会の総選挙.ボタの率いる国民党が圧勝.さらに国民党を上回る右翼の保守党が勢力を伸ばす.

5.14 ハラレ,テレビに仕掛けられた爆弾により,ANCメンバーの妻が殺害される.

5.17 ハラレのANC事務所が爆弾攻撃を受ける.

5.29 南ア軍,マプートのANCアジトを襲撃.3名が死亡.

6.10 南ア政府,ソウェト記念日を前に,非常事態の延長を発表.

7 南ア軍大規模侵攻「モドゥラー作戦」開始.米国はザイール経由でUNITAに物資補給.

7月 セネガルでANCとの対話集会が開かれる。南ア側からスラバート進歩連邦党前党首を団長に各界代表61名が参加する。

8.09 NUM全国ストを展開.鉱山労働者の40%にあたる35万人が参加.史上最大の規模となる.3週間のストを貫徹し23%の賃上げなど多くの成果を獲得する。

8.14 アンゴラ軍の87年大攻勢が開始される.大部隊がクイト・クアナバレから出発.ウニタの拠点マビンガに向かう.

8月 ドスサントス大統領,キューバを訪問.キューバ兵撤退とナミビア問題のリンケージを認める方向で合意.

9.10 マビンガ北方15キロのロンバ川をはさんで両軍が対峙.

9.13 南ア軍,第一回目の渡河作戦を阻止.

9月 バンクーバーで英連邦首脳会議.サッチャーはANCをテロリストと断定する演説.

10.03 アンゴラ軍,二度目の渡河作戦にも失敗.甚大な被害を受け,クイト・クアナバレ方面に撤退.南ア軍,モドゥラー作戦を「フーパー作戦」に切り換え,戦闘をさらにエスカレート.クイト・クアナバレの確保を目指す.

10.31 南ア軍,カシンガのSWAPO前線司令部に攻撃.SWAPO部隊はほぼ壊滅.キューバはアンゴラ軍の要請に応え増派を決定.SWAPOゲリラの後方支援に当たることになる.SWAPO支援にあたっていたアンゴラ軍はクイト・クアナバレに集中.

87年11月

11.09 南ア軍,クイト・クアナバレ攻撃を開始.アンゴラ軍とキューバ軍9千が,500台の戦車,ミグ戦闘機など600機の航空機で応戦.

11.11 南ア,初めて軍がUNITAを助けるためアンゴラ領内に侵入していることを認める.

11.14 ボタ大統領,クイト・クアナバレの前線司令部を訪れ戦況を視察.

11月 国連総会,ナミビアの独立を決定.南アが反対すれば制裁で応じることを決議.

12月 南ア軍,クイト・クイナバレの制圧を断念.撤退を開始する.

87 ザンビア南部のリビングストンで,南ア軍の攻撃.4名が死亡.

87年 黒人に対しタクシーの営業許可が出される。これに伴い、タクシー業界は非常に熾烈な競争の場となる。各地にタクシーの組合(association)が設立され、この組合間の対立が暴力を伴うようになり、 「タクシー戦争」(Taxi War)と呼ばれるようになる。

1988年

88年1月

1.20 ルサカのANC事務所が爆破され,4名負傷.

1.28 クロッカー国務次官補,アンゴラのペドロ・デ・カストロ外相と予備折衝を開始.

1 ハラレのANC事務所に手榴弾による攻撃.車両に仕掛けられた爆弾で南ア亡命者が負傷.ジンバブエ西部の町ブラワヨで,車への爆弾テロでANCメンバー2名が死亡.

88年2月

2月 政府,革命を企てたとしてCOSATU、UDFなど反アパルトヘイト諸団体の政治活動を禁止.

88年3月

3.23 南ア軍,クイト・クアナバレに5回目の集中攻撃.制空権を確保したキューバ軍が,南ア軍に決定的な損害を与え防衛に成功.南ア軍は50機の航空機,47台の戦車,数百の兵を失い後退.キューバはこの闘いをアフリカのヒロンと讃える.

3.27 ブリュッセルのANC事務所の外で,不発弾が発見される.

3.28 南ア軍特殊部隊,ガボローネのANCに対するテロ.4名が死亡.

3月 CIA,ANCにかんする秘密報告.全国執行委員会メンバー27人のうち17人を共産党員と推測.しかし国内での共産党の影響力は小さいと判断.

88年4月

4.17 マプト,車両爆破でANCメンバー1名が死亡.

4 制空権を奪われ戦線が総崩れとなった南ア軍,アンゴラからの撤退を発表.

88年5月

5.03 ロンドンでアンゴラ停戦会議始まる.アフリカ担当国務次官チェスター・クロッカーを議長に,初めてアンゴラ政府,南ア,キューバの4者がそろい交渉開始.

88年6月

6.26 SWAPOゲリラを支援するキューバ軍に,南ア軍が砲撃.

6 ガボローネで,SADFメンバー2名が捕捉される.

88年7月

7月 アンゴラ,南ア,キューバの三政府代表,「14原則」の合意に達する.国連独立移行支援グループ」(UNTAG)の設置と,ナミビア人への権力の委譲で合意.同時にSWAPOの停戦協定遵守も盛り込まれる.

8.08 4ヶ国会議,南アとキューバ軍のアンゴラ撤退,ナミビア独立で合意.ヌジョマSWAPO議長は協定遵守の意向を明らかにする.

8.31 アンゴラ領内の南ア軍,撤退を完了.

10 黒人の地方行政官制度が作られ,選挙が実施される.ANC 支持派はこれをボイコット.

11.15 4ケ国,ナミビアの独立とキューバ軍のアンゴラ撤退で合意.UNITAのサビンビ議長は,「ブッシュはキューバとソ連のアンゴラ支援が続くかぎり米国も支援を続行することを約束した」と語る.

88年12月

12.09 マンデラ,ケープタウン郊外のパール刑務所に移される.政府は,武装闘争の放棄,共産党の排除,多数支配原則の放棄の三条件に固執し,釈放を拒否.

12.22 国連決議435号可決,ナミビア独立実現方式を定めた「ナミビア合意」成立.キューバとアンゴラ政府とのあいだに撤退の日程に関するとりきめ.

12.23 キューバ,南ア,米国の三国代表,国連でアンゴラ和平協定に署名.ナミビアの独立が承認され,キューバは91年までに軍を段階的に撤退させることとなる.

12月 サッチャー,マンデラとの会見を求める.これをANCからの切り離し工作と見たハラレのタンボは,会見を拒否.即時釈放を求める.

12月 リビングストンで車両爆破.2名が死亡,13名以上が負傷.

 

1989年

89年1月

1. 10 キューバ軍,アンゴラからの撤退開始.450人からなる第一陣をラウル国防相以下が出迎える.

1月 タンボ議長,89年を「人民の権力のための大衆行動の年」と宣言.タンボの宣言に呼応し,ロベン島の政治囚が長期ハンストを開始.

1月 ボタ大統領,脳卒中で倒れる.療養のため1ヶ月のあいだ政務を離れる.クリス・ヘユニが大統領代行に就任.

1月末 政府,UDF幹部ら900人を釈放.

89年2月

2月 国民党,療養中のボタに代わりデクラーク教育相を党首に指名.

2月 UDFとCOSATU傘下の労組が連合し,「大衆民主主義運動」(MDM)が結成される.不服従運動を開始.

89年3月

3.01 ナミビア暫定政府が解体される.UNTAGが治安・行政管理に当たる.

3月 マンデラ,政府あてメモを提出.政府の「三条件」を拒否.同時に「国家利益を各人種の利益の上におき」,正常化交渉に臨む用意があるとあきらかにする.

3月 サッチャー,一週間にわたりアフリカを訪問.ナミビアで,南アのSWAPO攻撃を厳しく非難,マンデラが釈放されるまで南ア訪問はできないと語る.同時に南アの「分割統治」の可能性を示唆.

3月 マンデラ,サッチャーが「意見の違いのもかかわらず」,反アパの立場をとっていることを歓迎するメッセージ.

89年4月

4.01 国連特別代表マルティ・マティサリがウィンドフーックに赴任.南ア政府代表のルイ・ビナール行政長官と共同管理に当たる.

4.03 SWAPOゲリラ千名が国境を越えいっせいに侵入.南ア軍の発砲により250名が死亡.

4.08 ヌジョマ議長,ナミビア北部のゲリラに停戦命令を出す.

4月 サッチャー,ゴールドフィールドでアフリカーナー幹部と接触.仲介乗り出しを否定.

4.28 ルサカの「大統領委員会」,マンデラ・メモを原則として了解.

89年5月

5月 ブッシュ,ツツ大司教を団長とする南ア黒人代表団と会見.国務省のハーマン・コーエン・アフリカ問題担当官,アパルトヘイトは「乱暴な人権蹂躙」だと非難.南ア人すべてが同一の政治的権利を保障されるよう,公然と主張する.

5月 ANC,南ア軍レーダー基地を砲撃.

89年6月

6.12 ナミビア難民4万人の帰国事業が始まる.

6.22 アンゴラ和平を協議するアフリカ20ヵ国首脳会議開会.アンゴラ政府(MPLA)とUNITAが24日午前零時を期して停戦することで合意.

6月 デクラーク,ヨーロッパ諸国を訪問.サッチャーは「南アに新しい状況が生じた」と,デクラークを評価.

89年7月

7.04 ボタ大統領,拘禁中のマンデラと会見.秘密裏に大統領官邸に入ったマンデラと懇談.ただしこの時点で,ボタはすでにレームダックとなっていた.このときマンデラが提出した文書は広く流布され、ANCの公式文書として扱われた。とくに共産党との関係について詳説している。
 

ANCと南ア共産党との協力は1920年代にさかのぼる。協力は常に人種的抑圧と公正な社会を求める闘争に厳しく限定されてきた。
ANCの構成員の中にさえ、一度ならずこの協力に反対し、ANCから共産党員を追放しようと欲した人がいた。その中には大きな尊敬を集め、影響力を持っていた人もいた。これらの行動に固執したものたちは、最後には追放されるか、絶望して脱退して行った。
実際それは我々に自殺を迫るものである。信義を重んじる人間が共通の敵の依頼によって生涯の友を見捨て、なお人民の間で一定の信頼を保持しようとできるだろうか。誰がこのような裏切り者の自由の闘士を信用するだろうか。

7月 デクラーク,国民党連邦大会で五カ年計画を発表.人種差別を終わらせ,民主主義憲法を導入すると公約.ただし,「集団の権利」を保障することで,白人支配の維持を目指す.ボタは党の要職から全面排除される.

7.24 FRELIMO第5回大会,RENAMO(モザンビーク民族抵抗運動)との戦いの状況を報告。10万人が破壊・テロ分子によって殺害。国民1500万のうち国外難民70万、国内難民170万人、550万人が食糧援助の必要な状況にあるとする。一方で社会主義政策に対する国民の反感に配慮し、マルクス・レーニン主義への言及を党の綱領より削除.

89年8月

8.21 ジンバブエのハラレでOAU総会.「平和的手段による解決を優先させる」とする「ハラレ宣言」を採択.これ以後の南アの闘いの基本路線となる.

8月 病気療養中のボタ大統領,辞任を発表.

89年9月

9.06 総選挙.国民党が引き続き第一党となるが,支持率は48%にとどまり,右翼の保守党とリベラル派の民主党が前進.

9.06 欺瞞選挙に抗議するデモが各地で展開される.ケープタウンでは2万人のデモが警官隊と衝突.30人以上が死亡.

9.13 ツツとボーサクのよびかけにより,ケープタウンで黒人の抗議行進.当局は事実上これを黙認.

9.14 サム・ヌジョマSWAPO議長が帰国.

9.14 国内改革をうたうFW デクラークが、大統領に選出される。

9.20 デクラーク,議会で就任演説.平和解決を志向するいかなるグループとも話し合うと述べる.

89年10月

10.10 ANCの幹部シスル,カトラダ,ゴヴァン・ムベキら8名が釈放され,ルサカへのパスポートを渡される.

10月 海水浴場,公園,洗面所,レストランなどでの隔離が大幅に緩和される.

89年11月

11.07 ナミビア制憲議会選挙.SWAPOが41/72議席を確保し勝利.民主ターンハレ同盟は21議席を獲得.

11.19 ブテレジとインカタ党,王の即位20周年を祝う集会を組織.ダーバンでズールー族7万人の大集会.(ブテレジは王の叔父に当たる)

11月 ベルリンの壁,崩壊.

11月 マンデラ,黒人資産家リチャード・マポンヤと会見.国有化は黒人への権力委譲を実現する最良の手段ではないと示唆.

89年12月

12.13 マンデラ,ふたたび大統領官邸に呼ばれ,デクラークと初めての会談.

12月 デクラーク,内閣メンバーを集め山荘で会議.東欧諸国崩壊後の共産党の扱いについて協議.

12月 ゴヴァン・ムベキ,「労働者階級の目的は自らが作り出した剰余価値を支配することである」と述べる.

89 ザンビアで二回にわたる爆破テロ.2名が死亡.

89 南ア軍関係者を中核として,雇い兵組織「Executive Outcomes: EO」社が設立される. 99年には解散を宣言。

 

1990年

1月 マラン国防相,国防軍内部に「市民協力局」と称する秘密殺人組織が存在すると,デクラークに報告.テレブランシュ(Eugene Terre Blanche)に率いられたこの組織は、「嵐の鷹」とよばれる戦闘部門を有していた。

90年2月 マンデラ釈放

2.02 デクラーク,議会で演説.ANC,PAC,SACP を合法化.UDF、COSATUなど33の反アパ組織に対する規制を解除する。暴力犯でない政治囚を全員釈放,死刑執行を全面廃止.さらにマンデラの釈放も明らかにする.また人種を問わずすべての南アフリカ人が平等な権利を持つ憲法の制定、68年以来の非常事態宣言の早期解除の方針も明らかにする。

2.11 ネルソン・マンデラ,釈放される.

2.15 ヨハネスバーグでマンデラ歓迎集会.10万人が結集.

2.16 ザンビアのルサカでANC全国執行委員会開催。南ア国内のオリバー・タンボ議長らは参加せず。声明ではデクラークの措置の積極性を評価しつつ、代表団を結成してデクラークとの交渉を開始することを明らかにする。またウォルター・シスルを国内工作の責任者に指名。「民族の槍」についてはナタールなどでの暴力行為が続く限り、防衛組織として存続させるとする。また国際社会に対しては引き続き経済制裁を行うことを求める。

2.25 マンデラ,キングス・パークでのインカタ大集会に参加.10万人を前に民族和解を訴える.ANCのズールー族幹部ハリー・グワラは,ブテレジとの一切の妥協を拒否.

3.26 ヨハネスバーグ南方のセボケンでANCのデモ.警察の襲撃により,12人が死亡.

3月 ナミビア,正式に独立.SWAPOのヌジョマが初代大統領に就任.

4月 デクラーク=マンデラ会談.新憲法制定に向けた予備交渉について合意.

5.02 政府とANC代表団,グローテシュールの大統領官邸で予備会談.抑圧法の撤廃と国家非常事態の解除などで合意.グローテシュール・メモを発表.

6.07 デクラーク,4年間続いた非常事態宣言を解除.ナタール州ではさらに4ヶ月延長される.

6月 ANCのマンデラ議長,マイアミを訪問.地元政治ボスはいかなる歓迎も拒否し,デード郡への黒人観光客立ち入りを三年間禁止する.二ヶ月前にマンデラがキューバを讃える演説をしたことへの報復.

90年7月

7.19 MKの参謀長ジョー・スロヴォ,ANC全国執行委員会で,武装闘争の中止を提案.

7.22 セボケンでインカタのテロ.ANC活動家を中心に30名の死者を出す.

7.25 警察,マック・マハラジらANC地下軍事組織を摘発.南ア共産党の陰謀として大々的に宣伝.

7.29 合法化された南ア共産党,ソウェト・スタジアムで5万人の集会を成功させる.

7 ブテレジ,政党活動の自由化を受けインカタ自由党(Inkatha Freedom Party: IFP)を旗揚げ.「ANCと共産党の独裁を許さない」と宣言.軍・警察と組んでANCへのテロを強化.のちの真実委員会の報告では,三年間で4,756人を殺害.

7月 ブテレジ,イギリスの右翼系シンクタンクで講演.「ANCは権力を奪い,未完の課題に取り組む決意を固めている」と警告.

7月 イタリア政府の仲介で、ローマにおいて政府とRENAMO(アフォンソ・ジャカマ議長)との直接交渉を開始.

90年8月

8.06 プレトリアで政府=ANC会談.ANC は武装闘争の休止を宣言.

8.09 インカタの「自警団」,トランスヴァールのプレトリアなどでテロ活動を拡大.1ヶ月のあいだに約千名が犠牲となる.ほか政府の暗黙の承認を受けた保守派黒人が「ヴィジランツ」(Vigilantes) と呼ばれるテロ集団を形成。主に黒人居住区でアパルトヘイト体制に反対する個人や集団の抹殺を図る活動を展開。

90年9月

9.13 インカタ武装勢力,黒人通勤者の乗った列車を襲撃.26人を殺害,100人を負傷させる.ANCは準軍組織「自衛部隊」を組織し,ロニー・カスリルズ執行委員に武器供給をゆだねる.

9 ナタールのANC 支持者とIFP 支持者間の対立PWV へ飛び火する(南ア)

9月 デクラーク,ワシントンを訪問.ブッシュは「第三勢力の証拠に関心を持っている」と伝える.

10.18 モザンビーク政府とMNR,停戦で合意.

11 モザンビーク,新憲法を制定.国名をモザンビーク人民共和国からモザンビーク共和国へ改称.複数政党制や三権分立、大統領の直接選挙制度などを規定.

11月 マンデラ,情報機関がアフリカ人の虐殺を組織していると非難.

11月 レソトのレカンヤ軍事政権、モシェシェU世を退位させ、息子のレツィェV世を擁立。国内保守層はこの措置にいっせいに反発。軍はこれと対抗するため、南ア政府への依存をさらに強める。

12月 ANC,ヨハネスバーグで全国協議会を開催.代議員1600名が権力の移行形態について議論.タンボは経済制裁の見直しを主張.

12月 モザンビーク政府とRENAMOとの部分的停戦協定が成立.

 

1991年

1.29 ダーバンのロイヤル・ホテルでマンデラとブテレジが会談.平和を促進し,殺戮をやめ,合同監視委員会を設立することで合意.その後の三ヶ月で,インカタはさらに400人を殺害.

2.01 デクラーク,人種登録法・土地法・集団地域法の廃止を宣言.

2月 ウィニー,ストンピーらの誘拐・殺害事件で出廷.

91年4月

4.01 マンデラとブテレジがふたたび会談.マンデラは黒人同士を戦わせるという政府の狙いについて警告.ブテレジはこの警告を否定.

4.05 マンデラ,デクラークに書簡.暴力行為に責任がある閣僚・警察幹部を更迭しなければ,交渉団を引き揚げると警告.デクラークはこの要求を拒否.ANCは,代表団の引き揚げとゼネストをふくむ大衆行動を公表.

4月 デクラーク,欧州諸国を訪問.「アパルトヘイトを撤廃し,文明世界にふたたび加わった」と宣伝.新たな投資を求める.

4月 南ア白人政権を支持していたレソトのレカンヤ軍事評議会議長が辞任に追い込まれる。

91年5月

5.1 MPLAとUNITAのあいだにビセッセ合意が成立.アンゴラ停戦合意.

5.25 キューバ軍のアンゴラからの撤退完了.

6月 人口登録法が廃止される。デクラーク大統領はアパルトヘイト終結を宣言。

6月 元軍情報将校ニコ・バッソン大尉,南アの週刊誌「ヴリィエ・ウィークバラッド」に投稿.軍上層部が暴力とトリックの計画により,黒人反対派を動揺させたと暴露.さらにこの計画は,カト・リーベンバーグ国防軍司令官が立案したことも明らかになる.

91年7月

7.02 ダーバンでANC全国総会.代議員2千人が参加.新議長に就任したマンデラは,政府との交渉を「人民への権力委譲に導く継続的な闘い」と規定.「組織の活動期間の中でもっとも困難で,複雑で,魅力的な時期」と強調.

7.04 ANC全国総会,6年ぶりに新役員を選挙.50人の全国執行委員のうち,インド人が7人,カラードが7人,白人が7人選出される.辞任したンゾーに代わりCOSATU委員長シリル・ラマポザを新事務局長に指名.組織内非マンデラ派の力を示す.

7.18 英国の「ガーディアン」紙とヨハネスバーグの「ウィークリー・メール」紙,治安警察の極秘文書を元に「インカタ・ゲート」事件を暴露する.「警察,ANCを阻止するためインカタに献金」という記事で,ダーバンの秘密銀行口座を通じて,政府がインカタへ資金を提供したことが明白に.

7.28 フロック法秩序相,インカタへの資金供与の事実を認める.デクラークはこれを機に,アパルトヘイトを推進してきたフロックとマラン国防相を解任.ただし閣僚ポストは残す.

7月 「ウィークリー・メール」紙,国防軍によるインカタ暗殺者の秘密訓練の事実も暴露.さらにクワズールー・ナタールで、南ア警察による黒人警官のテロ訓練が行われたりしていたことが明らかになる。 マンデラ,「武装闘争は停止したが,武装解除はしていない」と発言.

91年9月

9.10 デクラーク=マンデラ会談.デクラークはANCの秘密軍事施設団が武装を維持していることに抗議.

9.13 ヨハネスバーグのカールトン・ホテルで全国平和会議開催.24の政治組織とデクラーク,マンデラ,ブテレジら主要指導者が参加.会場周囲では武装したインカタ支持者がデモ.

9.14 全国平和会議,国民和平協定(NPA)に調印.暴力の監視メカニズムの設立で合意.

9.20 インカタとANCのあいだに激しい銃撃戦.

10月 ハラレで英連邦首脳会議.マンデラはデクラークの変節を非難.

12.20 ヨハネスバーグの世界貿易センターで,2日間にわたり民主南ア会議(CODESA)開催.19政党の代表228人が出席.憲法制定組織の設立などの基本原則を議論.右翼アフリカーナー政党やブテレジなどは欠席.会議は冒頭から,ANCの武装維持を非難するデクラークと,インカタへの資金供与を非難するマンデラが激しく応酬.

12.21 デクラーク,「必要な場合,10年間は権力を維持できるだろうが,犠牲が大きすぎる」と述べる.マンデラは「この機会を利用せずに過去の強がりにこだわれば,未来を否定することになる」と述べる.

91年 南ア,これまで拒否していた核拡散防止条約に加盟.国際原子力機関の査察受け入れを発表.

 

1992年

2月 議会補欠選挙.国民党は地盤の選挙区で,ANCとの会談を拒否する保守党に敗れる.

3.17 デクラークの提起した「憲法改正に関する国民投票」,白人のみの選挙で行われる.政府の改憲の方針が,68.7%で支持される.

4.13 マンデラ,ウィニーとの離婚を発表.ANC書記長ラマポサとウィニー派の関係が険悪となる。

5.15 民主南アフリカ会議の第二回総会が開催される.デクラーク政権は単純多数者支配を避けるため,「スイス・モデル」や「ドイツ・モデル」などさまざまな「権力共有」方式を提示.

92年6月 ボイパトンの虐殺

6.16 ソウェト蜂起の記念集会.交渉の行き詰まりを打破するため,「根こそぎ大衆行動」を提起.

6.17 「ボイパトンの大虐殺」事件.重武装のインカタ集団が,ボイパトンのヴァール指定居住区に侵入.ANC 支持者45人が殺害される.顔を黒く塗った白人警察関係者の「第三勢力」('Third Force')と呼ばれる秘密部隊が行動を指揮.

6.18 マンデラ,ボイパトンを訪れる.「マンデラ.銃をくれ」ともとめるプラカードに迎えられる.マンデラは「私たち黒人を殺している政権と交渉を続ける理由が説明できなくなった」とし,交渉の中断を求める.

7.15 国連安保理.ANC・南ア政府・インカタから事情聴取.犯人の逮捕と裁判を呼びかける決議を採択.マンデラはボイパトンの虐殺を「民主運動に向けられた国家テロ」と非難.南ア政府の甘言に各理事国がだまされないよう警告.

7月 政治暴力の中心がPWV 地域からナタール州に移る。ホームランドの一つであったクワズールーの警察組織(Kwazulu Police:KZP)が、南ア政府の指示を受け様々な手段を通じて暴力事件に関与。

92年8月

8.03 ANC,南ア史上最大規模のゼネストを決行.400万人以上の労働者がストに参加,プレトリアでは10万人の集会.

8月 ジョー・スロヴォ,「アフリカン・コミュニスト」紙で国民党との連合政権構想について分析.「白人兵や公務員は,民主的政府を不安定にする可能性があるが,ANCは彼らを守り,権力を分かち合って,自分たちの側にひきつける力を持っている」と主張.パロ・ジョーダンやロニー・カスリルズ,ハリー・グアラらANC「左派」は,裏切りと非難.

8月 全国人的資源委員会が発足。政府・財界・労組から同数の代表者が選ばれ、労働問題を協議する枠組みとなる。10月には同様の構成で「国民経済フォーラム」が設置される。両者は95年には合同し、全国経済開発労働問題評議会(NEDLAC)として再発足。新政府における政策決定の枠組みを提供する。

92年9月

9.07 ANCの組織したデモ隊,「国境」を越えシスケイの首都ビショに迫る.シスケイの軍警察の発砲で,28人が死亡.これを機に,ANC内の大衆蜂起派は影響力を弱める.

9.10 ウィニー,ANCの公職からの辞任を発表.同時に「自分に対する悪意のある動き」を非難.

9.26 世界貿易センターで,マンデラとデクラークのトップ会談.国民の団結を基盤とする憲法会議の設立と,過渡的な政府の樹立についての合意が達成される.ANCは合意と引き換えに白人官僚の地位保全と,国民党=ANCの連合政権構想を受け入れる.この妥協は「日没条項」と呼ばれ,ANC内部で激しい議論を呼ぶ.  

9.28 アンゴラでMPLAとUNITAの合同暫定政府(FAA)が発足.

9.29 FAAの下に,MPLA,UNITA両派が参加する複数政党制選挙が実施される.

92年10月

10.04 フレリーモとレナモ,ローマで包括和平協定に調印. 独立以降の内戦だけでも、60〜100万人の国民が殺害され、300〜500万人が国の内外で難民となる.国民一人あたりのGNPは60米ドル.総人口のおよそ60%が極貧状態.

10.05 アンゴラ総選挙でMPLAが圧勝.UNITAはこれを不満としてFAAを離脱.

10月 インカタと右翼アフリカーナー政党,二つのホームランド指導者が「南アフリカ関係者グループ」(COSAG)を結成.民主南アフリカ会議を廃止することで合意.デクラーク政権とインカタとの分裂が決定的となる.デクラークがインカタに対して毅然とした態度をとったことにより,暴力行為は急速に減少.

10月 ブテレジ,英紙「ザ・タイムス」と会見.「中央集権制を採用する国では,おそらく内戦が避けられないだろう.しかしズールー族は独立のために戦い,おそらく成功するだろう」と語る.

92年11月

11.12 UNITA,戦闘に突入.アンゴラ内戦が再開される.

11.17 ANC執行委員会,2日間にわたりジョー・スロヴォの提起した「日没条項」を討議.ウィニーは「国民党のお偉方は,絹のシーツを守るため,ANCとベッドを共にしようとしている」と攻撃.

11.18 ANC執行委員会,80人の執行委員中62人の発言を受けたあと,スロヴォの提案を承認.

11月 ゴールドストン判事,治安部隊の不法行為の詳細を明らかにする.

12月 政府とANC,5日間にわたる実務交渉.政権構想について原則的に合意.

12月 ピエール・ステイン将軍,「軍の各部隊がANCを分断するために秘密活動を展開し,一連の虐殺にかかわった」とする報告をデクラーク宛てに提出.デクラークはこの報告に基づき,軍幹部6人を早期退役させる.

12 国連,包括和平協定への署名を受けONUMOZを設置.国連開発計画(UNDP)のアルド・アイエーロ(イタリア人)を事務総長特別代表に任命.政治部門、軍事部門、選挙部門、人道部門の4部門で活動を開始.軍事部門は,両軍合わせ約9万人の兵士を国軍へ統合する作業開始.

 

1993年

1 モザンビークで,ONUMOZの監督下に国家から独立した自治機関として、選挙裁判所と全国選挙管理委員会が設置される.

2月 ANCと政府,新政府構想について原則合意.@人種を問わない総選挙により,5年を任期とする政府を選出すること.A政権は総投票数の5%以上を獲得したすべての政党で構成すること,を柱とする.

3月 24の政党が参加する協議会開催.政府=ANCの新政府構想を基礎にして,移行手続きを詰める.

3.23 デクラーク,議会で演説.74年以降,秘密裏に核爆弾7発を開発したこと,90年にそれらすべてを分解して破壊したことを明らかにする.この声明は,ANCに核兵器を渡さないという意思の現れであることから,デクラークが白人政権の維持を断念したものと受け止められる.

93年4月 クリス・ハニの暗殺

4.1 多党間交渉フォーラム(MNF)開催.CODESA の後継,移行手続き整備.

4.10 南ア共産党書記長クリス・ハニ,ヨハネスバーグ近郊のボクスバーグで,ポーランド系白人の手により暗殺される.クリス・ハニはMKの司令官を務め,黒人民衆のあいだで最も人気のある指導者だった.

4.10 クリス・ハニ殺害に抗議してケープやナタールで蜂起,略奪が始まる.白人数百人が緊急出国の動き.マンデラは暴動を停止し,白人の出国を思いとどまるよう説得するテレビ演説.

4.24 病気療養中のタンボ前議長,脳卒中の再発により死亡.

5月 保守党(フィルディ・ハーツェンバーグ委員長)を中心に,白人右翼の統一組織「民族戦線」が結成される.前国防軍司令官コンスタンド・フィリューン将軍が議長に就任.独立アフリカーナー国家の創設を目指す.

5.06 日本政府,モザンビーク国際平和協力隊を組織.自衛隊員約50名の派遣が開始される.その後8月には,15名が「モザンビーク国際平和協力隊」として派遣される.

93年6月

6.03 政党協議会,94年4月の総選挙で合意.保守党とインカタ自由党は協議に加わらず.

6.25 ユーゲン・テルブランシェの率いる右翼白人組織AWBの三千人が,カギ十字の旗を掲げ世界貿易センターを襲撃.装甲車が入り口のガラスを突破,暴徒がビル内に乱入.

6月 控訴院で,ストンピーラテンアメリカの誘拐・殺害事件に対する判決.ウィニーに対する有罪が確定.執行猶予付きの2年の禁固刑の判決.

7.23 マスクをつけた黒人男性5人が,ケープタウンのセント・ジェームズ教会に乱入.無差別発砲により11人を殺害,多数を負傷させる.後の捜査により,PACの軍事部門APLAの地方支部が関与していたことが判明.

9月 デクラーク政権,選挙準備のための「暫定執行評議会」(TEC)の設立に同意.

10月 デクラーク、マンデラの両者にノーベル平和賞が与えられる。

10 兵士たちの武装解除の難航,選挙人登録文書の準備の遅れなどから総選挙が1年間延期される.

11月 ANCの内部にマクロ経済研究グループ(MERG)創設.経済顧問ヴェラ・ピレイを座長に,「民主主義事業」計画の作成を開始.

12月 MERG、財閥が中小企業の育成を阻んでいるとし、反トラスト法の制定を主張。その後、5大財閥に対する態度が経済政策の重大な争点となる。

93 南部アフリカ開発共同体(Southern Africa DevelopmentCommunity: SADC)が発足。反アパ・南ア解放を目指したSADCC を改組し、南部アフリカの地域機構となる。94には南ア,95にモーリシャス,97年にDRCが加盟する。

 

1994年

2 ONUMOZ,4部門に加えあらたに文民警察部門を設置.

94年3月

3月 民族戦線,インカタ自由党とともにシスケイとボプタツワナの二つのバンツースタンが選挙ボイコットを宣言.

3.11 選挙立候補の締切日.民族戦線のフィリューンは,選挙運動への参加を決定.ブテレジはボイコットを貫く.

3月 ボプタツワナで,ボイコットを唱える独裁者ルカス・マンゴペ放逐の動きが強まる.マンゴペの依頼に応え,フィリューン将軍は私兵部隊をボプタツワナに送る.首都マバトに乗り込んだAWB部隊は,市内で黒人を無差別殺害.傍若無人の振る舞いに怒ったボプタツワナ軍は,マンゴペを監禁し,AWB部隊を鎮圧.

3.16 フィリューン将軍,AWBの妄動に嫌気がさし民族戦線から離脱.手兵の自由戦線党から選挙に出馬することとなる.右翼の分裂により,軍事反乱の危険は薄らぐ.

3.18 ゴールドストン判事,インカタと南ア警察を結ぶ「恐ろしい犯罪活動のネットワーク」を報告.警察ネットワークがインカタと共謀して民間人の案雑、虐殺、不法な銃の横流しに関与していたことが暴露される。

3.28 インカタ自由党支持者がANC 本部(旧シェルハウス)を襲撃.ANC 警備員と衝突.マンデラは「たとえ人を殺すことになっても,ハウスを守らなければならない」と指示.警備隊員は警告射撃のあと群集に向け発砲.この衝突で8人が死亡.

3.29 ブテレジ,「われわれはANCとの最後の戦いに入る」と宣言。

94年4月 総選挙とANCの勝利

4.03 英紙「デイリー・メール」,英国人35万人を南アから脱出させる緊急計画が実施されると報道.

4.08 クルーガー国立公園でマンデラとブテレジの会談.ものわかれに終わる.英紙「サンデー・タイムズ」は,「南アは内戦に入る準備を整えた」と報道.

4.10 キッシンジャーとカリントン元英外相らの調停団が南ア入り.3日間にわたる調停工作,不調に終わる.

4.18 サッチャー,ナイジェリアの独裁者オバサンジョなどから説得を受けたブテレジ,条件付で選挙への参加を受諾.

4.19 プレトリアでマンデラ,デクラーク,ブテレジの三者会談.ブテレジの要求を丸呑みする形で合意が成立.

4.24 ヨハネスバーグでマンデラ候補の打ち上げ集会.6万人が参加.

4.27 南ア国民議会選挙.400議席中ANCが252議席を獲得.国民党は西ケープで過半数の得票.カラードの70%を結集.インカタはナタールで51%を獲得.PAC(クラレンス・マクウェツ委員長)は1.4%の得票にとどまる.

4月 90 年からの約4 年間で政治暴力に関わる死亡者数は1 万4000 人に上る。しかし選挙後は、政治暴力は劇的に減少。

5.10 マンデラ,大統領に就任.第一副大統領にはタボ・ムベキ,第二副大統領にはデクラークが指名される.マンデラはアフリカ統一機構(OAU)加盟の方針を明らかにする。

5月 マンデラ,組閣に入る.首相にあたる大統領府長官には,カラードの大学教授(哲学)ジェイクス・ガーウェル.ブテレジが内相に就任.国民党には4つのポスト.国防相にはMK司令官ジョー・モディセ(白人),国防次官にはロニー・カスリルズ(白人)を指名.シリル・ラマポザは閣僚就任を謝絶し憲法草案作成に集中.

6月 新政府、経済再建のための基本方針として「復興開発計画」(RDP)を発表。アパルトヘイト期に歪められた社会・経済構造を是正し、差別政策がもたらした黒人大衆の貧困を軽減することを、政府の最重要課題とする。また「市民社会」(civil society)の積極的な参加を計画成功のための基本条件と定める。

8月 南ア、南部アフリカ開発共同体(SADC)へ加盟。

9月 マンデラ,国民党が非協力的だと非難する演説.

10. 27 モザンビークで両派の参加する複数政党制選挙.フレリモが勝利する.シサノ大統領が53.3%、RENAMOのジャカマ議長が33.7%の得票となる.レナモは武装闘争を再開せず,選挙結果を受け入れる.

10月 南ア軍に編入された元MK兵士三千名,厳しい訓練に不満を表明,原隊復帰を拒否.

11.20 アンゴラ両派のあいだに「ルサカ合意」が成立.停戦,戦闘地域の兵力引渡し,捕虜の釈放,国連平和維持軍の受け入れなどで合意.

12月 ブルームフォンテーンでANC第49回大会が開催.「日没条項」に関する歴史的総括を行う.バントゥーロ・ホロミサ,パロ・ジョーダン,ピーター・モカバ,マック・マハラジ,ウィニー・マンデラの五人を最高幹部会に選出.

12月 アパルトヘイト政策下の人権抑圧に対する真相を解明するための「真実和解委員会」が設置される。

1995年  

95.1 ジョー・スロヴォ,ガンのため死亡.スロヴォは白人で共産党元委員長.海外亡命中はMK参謀長だった.

95.11 民主的地方選挙を実施。

95年 ヨハネスブルグがアフリカ大陸における麻薬犯罪の「首都」と化す。278 の国際犯罪のシンジケートが進出、マリファナ生産、コカイン・ヘロインの輸入・再輸出の拠点となる。

95年 南ア全体の失業率は29.3%、黒人の失業率は36.9%に達する。ジニ係数は0.65と高水準で、人口の13%を占める白人が、所得シェアでは59%を占める。

 

1996年

2 真実和解委員会(TRC)が発足.ツツ大司教が議長に,メソジスト教会のアレックス・ボレイネが副議長に就任.

2月 南アの5大財閥が結集する「南アフリカ財団」が、ネオリベラリズムに基づく経済再建計画を提出。

3月 COSATUなど主要労組が共同で『社会公平と雇用創出』を提案。財界主導の経済計画に対抗。

3 マンデラ,ウィニーとの正式離婚の申し立て.

5.09 デクラーク,国民党が国民統一政府から閣僚を引き揚げると発表.ロロフ・メイヤーはこれに従わず,国民党を離れる.ブテレジは内閣を離れず,内相の座にとどまる.

5 ファイナンシャル・タイムズ紙,不法移民の増加と高いままの失業率,犯罪の増加と政府の公約不履行により,海外資本の国外逃避が進む.

6月 南部アフリカ開発共同体(SADC)の首脳会議.政治防衛安全保障機関を設置.ムガペ大統領はこれを独立した機構としハラレに本部を置くよう主張するが,マンデラはこれを拒否.ムガベは「南アの政治的優越と覇権」をもたらすような環境では、南部アフリカ地域の統合は実現し得ないと批判。

6月 政府、復興開発計画(RDP)に代わる新たな経済政策として、『成長・雇用・再分配―マクロ経済戦略』(GEAR)を発表。ケインズ主義的手法を捨て、財政赤字の削減や民間投資環境の整備など極めて新自由主義的な色彩が濃いもの。COSATUは強い不満を示すが、財界は支持を表明。

7 ロロフ・メイヤー,元ANCのパントゥー・ホロミサら,新党「統一民主運動」を結成.

7月 黒人経営者団体など10団体が結集し、黒人財界会議が結成される。

9 コンゴ第1次内戦(〜97 年5 月カビラ政権発足)

10 ラマポサのチームが作成した憲法草案,議会に上程される.

10月 財閥系持株会社のジョニーズ工業会社(Johnnic)が株式を譲渡。黒人の所有となる。会長には前ANC 書記長ラマポサ(C. Ramaphosa)が就任。

11 ANC政権,「半期実績調査」の発表にあたり深刻な経済政策の誤りを自己批判.

 

1997年

2月 人種差別を禁じる新憲法が発効する。

4 ウィニー・マンデラ,女性同盟議長に選出される.女性同盟はウィニーをANC副議長に推薦.

4月 EU、途上国を対象とする特恵貿易制度であるロメ協定に、南アが加盟することを限定条件つきで承認。

6月 ムベキの政治顧問マビンベラ(Vusi Mavinvela)を中心に、ANCの長期構想となる「アフリカン・ルネッサンス―実現可能な夢」を作成。

6月 政府、週45時間労働を基本とする労働法改正案を提出。COSATUなどは週40時間を要求し200 万人規模のストを実施。

7 カロラスANC書記長代行,「今後とも民族主義者,社会主義者,アフリカにストといったさまざまな進歩的イデオロギーの住処であることを望む」と発言.UDF、COSATUとのいわゆる「ANC連合」を継続させる意思を表明。

8月 デクラーク、政界からの引退を表明。

11 真実委員会,ストンピー殺害事件の審理を開始.ウィニー・マンデラ,「ツツは,ピク・ボタを抱擁している」など,真実委員会を激しく非難する発言.死刑制度の復活を唱える.

12月 マフィケンでANC第50回大会.タボ・ムベキをマンデラの後継総裁に決定.ムベキの「アフリカ・ルネッサンス」構想がANCの公式方針として確認される.また「南ア外交政策に関する戦略的展望」も採択される。

タボ・ムベキ: ムベキはマンデラの同志ガボン・ムベキの息子。1942 年にトランスカイで生まれ、14 歳で青年同盟に加入し、ロンドン大学の通信学生として経済学を学んだ。1962 年に党の指令で亡命、1966 年にはサセックス大学で経済学修士号を取得している。1970 年にはソ連に送られて軍事訓練を受け、レーニン校では極めて優秀な成績を収めたという。1979 年、最年少で南ア共産党政治局員に任命されるが、意見を異にし解任される。その後タンボANC議長の右腕として活躍し、1989 年には外交部長に就任。1990 年、民主化交渉開始に伴いANC 交渉団の主席となるが、一時失脚。1993 年、ウィニー・マンデラの支持を受けてANC全国議長に就任。新政権では第一副大統領に指名される。

12.19 。ムベキ、マンデラの打ち出したインカタ自由党(IFP)との統合案を拒否。さらに南ア共産党及び南アフリカ労働組合会議(COSATU)とのANC 連合を解体する意志を明らかにする。

 

1998年

98.6 南ア共産党,第10回党大会を開催.GEARへの批判が相次ぐ.来賓として出席したマンデラは,政府批判を続けるならANCとの絶縁を考えるべきと警告.ムベキもマンデラの発言を全面支持.

98.8 コンゴ第2 次内戦とその広域化(アンゴラ,ナミビア,ジンバブウェの参戦)

8月 真実和解委員会、ボタ元大統領に有罪判決を下す。

10.26 真実和解委員会(TRC)最終報告書提出.ANCの残虐行為にも厳しい批判が浴びせられる.

1999年

99.1 エグゼクティブ・アウトカム 解散(実質的にはサンドラインに引継がれる)(南ア)

99.6 第2回の総選挙が実施され、ANCが圧勝する。マンデラが退任し、ターボ・ムベキが新大統領に就任。

2000 以降 アフリカ人による白人農場襲撃激化:土地政策をめぐる問題(ジ)

 

2004年

6月 第三回総選挙が実施され、ムベキが大統領に再任される。