とりあえず、ネットで日本語の資料をかき集めて、年表の形に整理しました。

申し訳ありませんが、出典は一切記載しておりません(大半はウィキペディア)。ご容赦の程よろしくおねがいします。


                                中央アフリカ共和国主部

中央アフリカ共和国は南半分がコンゴ川の支流であるウバンギ川の流域に広がる。北半分はチャド湖へ向かうシャリ川の流域である。このためかつてはウバンギ・シャリと呼ばれた。
面積は日本の1.5倍である。国土の中央を東西に分水嶺が走り、その南はコンゴ盆地の一部をなし熱帯雨林地帯である。北側はサバンナないし半砂漠地帯である。
かつては多くの住民が捉えられ、奴隷としてアラブの世界に売り飛ばされた。

1875年 ウバンギ・シャリ地方、奴隷貿易の拠点としてエジプトの支配下に入る。

1883年 ブラザヴィル・コンゴのフランス人がウバンギ・シャリ地方に進出。94年にフランス植民地に編入する。

1900年4月22日 フランス軍がエジプト軍を撃破し、ウバンギ・シャリを支配下に置く。

1910年 フランスのウバンギ・シャリ植民地(現中央アフリカ共和国)とガボン植民地、中央コンゴ植民地(現コンゴ共和国・ブラザヴィル)が連邦制を敷き「フランス領赤道アフリカ」となる。

1911年 カメルーンを支配していたドイツが、1911年から1914年にかけて西側半分を占領。

1920年代 天然ゴムや綿花のプランテーションが発達。フランス植民地主義者の激しい収奪により人口が減少。「地獄の10年」と呼ばれる。

1927年 ボカサの父が植民地政府により処刑される。彼はゴム採取会社の監視人だったが、徴発された強制労働の従事者を、会社に無断で解放したため罪に問われた。

1949年 バルテレミ・ボガンダが黒アフリカ社会進歩運動(MESAN)を結成。ボガンダはカトリック聖職者で、戦後ウバンギ・シャリを代表してフランス国民議会の議員に選出されていた。(一書に46年、また一書にブラックアフリカ社会労働党との記載)

1959年3月 独立運動の指導者ボガンダ、飛行機事故で死亡。

1958年9月28日 住民投票によりウバンギ・シャリはフランス共同体内の自治共和国となり、国名を中央アフリカ共和国と改称する。ボガンダは首相に就任。

1959年3月29日、ボガンダは西部のベルベラティの町から首都バンギへと飛行機で戻る途中、飛行機が墜落し、独立を目前にしてこの世を去る。

1960年8月15日 フランスより完全独立。ボガンダの甥ダヴィド・ダッコ (David Dacko) が初代大統領に就任する。ダッコはフランス軍の古参兵で従兄弟のジャン=ベデル・ボカサを招聘し、国軍の参謀総長とし、その編成を委ねる。

ダッコ自身は小学校の先生で、ボガンダの甥という血統だけで大統領になってしまった。親仏だったことで本命候補を抑えて大統領に推される。この時25歳。

1965年12月31日 ジャン=ベデル・ボカサ中佐による軍事クーデター。カウディージョ気質から失政と腐敗を見かねたものとされる。ダッコはボカサの顧問として国内にとどまる。

ボカサは第二次世界大戦勃発の直前にフランス軍に入り、自由フランス軍に参加、41年には軍曹に昇進して各地に転戦、大戦終結後はインドシナ戦争にも従軍した。
 22年間フランス軍に勤務して勲章を15個もらい、最終階級は大尉であった。

1966年1月3日 革命委員会が発足。ボカサが大統領に就任、独裁政治をはじめる。南アフリカ、ソ連、リビアから援助を引き出すなど、独特の外交手腕を持っていたとされる。

1972年 ボカサ大統領、終身大統領を宣言。

1976年12月4日 ボカサ、「中央アフリカ帝国」を宣言。みずから皇帝に即位。「黒いナポレオン」の異名をとる。


1976年12月7日 パタセが帝国首相となる。北部の出身でボカサの妻の従兄弟にあたる。

1977年12月 国家予算の1/4に相当する約65億円(2000万ドル)をつぎ込んだ戴冠式が行われる。初代皇帝ボカサ一世を称する。

約65億円(2000万ドル)との記載はどう見てもおかしい。現在のレートなら20億円、1ドル360円の頃の話だろうか。(たしかに77年には360円だった)
 別のファイルでは「国家予算の2倍にあたる2500万ドル」との記載あり、これも国家予算12.5億円というのはあまりに安いようだ。

1978年 ボカサ、息子のジャン=ベデル・ジョルジュ皇太子を国外に追放。

1979年1月 ボカサ帝政に反対する小中学生らのデモが発生。ボカサは傭兵を用いて暴力的に鎮圧。100名の小学生をふくめ400人の死者を出す。

デモの引き金となったのは、制服着用を義務化しようとしたことだった。制服は一族の所有する工場や店の製品で、きわめて高価だったという。

1979年4月 フランス、独自の調査でボカサによる子供の殺害を確認。ボカサと断絶。帝政打倒を目指すようになる。

1979年9月 ボカサ、新たなる同盟者を求めリビアのカダフィを訪問。

9月20日 フランスの手引でクーデター。外遊中だったボカサを追放。共和制を復活する。初代大統領のダッコが政権に復帰。新憲法を制定し、複数政党制を導入する。

ボカサを追放するためにフランス軍特殊部隊が行った秘密作戦には、「バラクーダ 」作戦という暗号名がつけられていた。
作戦は夕方に開始された。まず潜入していたSDECE特殊部隊が空港を制 圧した(SDECEは現在のDGSEに相当)。次いでC-160が着陸し、ブランシオン=ルージュ大佐の率いる第1海兵歩兵落下傘連隊が戦闘配置につい た。さらに計300人以上の兵を乗せた2機の輸送機が到着した。SDECE司令官ベルナール・ドジェンヌ大佐は、待機していたチャドのジャメナ空港から飛 び立ち、まもなくバンギに到着した。
それから政府と市内要所の制圧作戦が開始され、午前0時半にはダッコ元大統領が中央アフリカ帝国の崩壊と中央アフリカ共和国の復活を宣言した。
 バラクーダというのは、元々はチャドから出発したドジェンヌ大佐のユニットにつけられた暗号名で、ピューマ・ヘリコプター8機とトランザール輸送機から編成されていた。

1981年3月 複数政党制による大統領選挙が施行される。ダッコが勝利するが、アンジュ・フェリクス・パタセ率いる野党の猛追を受ける。パタセは38%の支持を獲得。バンギにおいてはダッコの得票を上回る。野党は選挙の無効を叫びストライキを繰り返す。

1981年9月1日 国軍参謀総長アンドレ・コリンバによるクーデター発生。コリンバが国家再建軍事委員会議長に就任する。ダッコはカメルーンに亡命。(一書では、「ダッコは社会秩序の回復のためにコリンバに政権を譲った」とされる)

André Kolingba

1982年3月 パタセによるクーデター未遂事件が発生。これに連座したボジゼ情報文化相は国外へ逃亡。

1983年 ECCAS(Economic Community of Central African States)が結成される。10カ国から構成される。

1985年 コリンバ、政体を民政に移すと発表。これに備え配下の軍人に民政参加の準備を進める。

1986年11月 国民投票により新憲法採択。コリンバが大統領に選出される。

1986年 ボカサ、フランスの監視から脱出し帰国、捕らえられ死刑の宣告を受けるが、93年には釈放される。96年死亡。

1987年7月 新憲法にもとづく最初の国民議会選挙が実施される。

1989年7月 ボジゼ、ベナン共和国のコトヌーに滞在中、コリンバの要請を受けた官憲に捕らえられ拷問を受ける。

1991年7月 憲法改正により複数政党制が成文化される。これにもとづく政党法が成立。

1991年12月 ボジゼ、放免を受け出獄。政治活動を再開。

1992年10月 大統領・国民議会選挙が実施される。野党に敗れたコリンバは選挙の無効を宣言。

1993年5月15日 未払いの給与支払いを求め大統領警護隊がクーデター。交渉により鎮圧される。

1993年10月22日 再選挙が実施され、コリンバの落選が確定。アンジュ・フェリクス・パタセが大統領に就任する。ボジゼは軍参謀長に就任する.北部出身者の登用にコリンバ派は反発。国内の混乱は収まらず騒乱状態となる。

Ange Felix PATASSE

1996年4月18日 国軍の一部兵士が給与遅配に抗議して反乱を起こす。この後5月、11月にも反乱が発生。

12月1日 旧仏領アフリカ4ヶ国首脳が共同調停に入り停戦合意。停戦合意実施のため、アフリカ6ヶ国で構成されるアフリカ仲介軍(MISAB)が派遣される。

1997年6月 アフリカ仲介軍と反乱派兵士との間で戦闘となる。

1998年4月 国内治安安定のため、国連中央アフリカ共和国使節団(MINURCAT)が結成され、MISAB の活動を引き継ぐ。多国籍軍の駐留のもと行政機構が整備される。

1998年11月 MINURCATの支援のもと,国民議会選挙が平穏裡に実施される。

1999年9月 大統領選挙が施行され、パタセ大統領が再選される。

2000年2月 MINURCATが撤退。これに代わり国連平和構築事務所(BONUCA)が設立される。

2001年5月28日 コリンバ派の兵士によるクーデター未遂事件が発生。コリンバはウガンダへと逃亡した。

10月 ボジゼにも関与の疑いがかけられ、軍参謀長の職を解かれる。

2001年10月 フランソワ・ボジゼ(Francois Bozize)元参謀長を支持する部隊が、大統領親衛隊との武力衝突。

Francois Bozize

11.08 政府軍はリビア軍の支援を得てボジゼの拠点を攻撃。ボジゼは北のチャドに逃れた。

2002年10月25日 ボジゼの勢力が1週間にわたりバンギを攻めたが敗退。

2003年3月15日 ボジゼ、パタセ大統領の外遊中に権力を掌握。自ら「大統領」を宣言し,1995年憲法を停止。「国家暫定評議会」を設立する。チャドのイドリス・デビ大統領や MINURCAT がポジセを支援する。

ここはどうもよくわかりません。選挙で選ばれた大統領をクーデターで追放する行動がなぜ「国際的な支持」を得たのでしょう? ただ、その後の行動を見ると、ポジゼが比較的「民主的」な大統領であった可能性はあります。

2003年9月 ボジゼ暫定政権、「国民対話」を実施。(対話の中身や形式は不明)

2004年12月5日 国民投票で、複数政党制を保障する旧憲法の復活が承認される。

ボジゼ与党の国民集合クワ・ナ・クワ(KNK)、パタセ前大統領の中央アフリカ人民解放運動 (MLPC)、コリンバ元大統領が率いる中央アフリカ民主連合 (RDC) が主要3政党を構成。

2004年 北部オーハムペンド州とオーハム州で、反政府武装勢力「民主復興人民軍」(APRD) が活動を開始。

2005年5月 新憲法にもとづく大統領選挙,国民議会選挙を実施。決選投票では、得票率64.6%を獲得したポジゼが大統領に当選。

2006年 ムスリムのジョトディアが反政府勢力の統一民主勢力連合を結成。ジョトディアは10年間にわたりソ連で教育を受けた人物で、帰国後は外務省の中堅幹部を務めていた。

Michel Am-Nondokro Djotodia

2006年1月 北東部で反乱勢力が政府軍を攻撃。アムネスティは反撃に出た政府軍、特に大統領警備隊が住民を虐殺したと非難。

2006年10月 反政府武装勢力の活動が活発化する。ビオラなどの街を占拠する事件が頻発し,多数の国内避難民が発生する。

11月 ベナン在留中のジョトディア、ボジゼ大統領の要請を受けたベナン軍により拘束される。

2007年 政府と反政府勢力の間で和平合意が結ばれる。反政府勢力の武装解除と引き換えに、政府は資金援助などを提供するという内容。

2007年 和平合意に基づき、北東部の治安・人道状況改善のため,EU部隊(EUFOR)が派遣される。

2008年2月 ジョトディアが解放される。解放にあたりボジセ政権との和平交渉への参加を約束する。

2009年3月 EU部隊(EUFOR)が任務を終了。国連の「中央アフリカ・チャドミッション」が引き継ぐ。

2010年12月 「中央アフリカ・チャドミッション」も期限切れで撤退となる。

2011年1月 大統領選挙が実施され、ポジゼが再選を果たす。

 

2012年

9月 ボジゼ大統領の退陣を求める武装勢力がセレカ連合(Seleka)を結成。平和と正義の愛国者同盟(PJCC) 統一民主勢力連合(UFDR) 中央人民民主戦線(FDPC) 国家保全愛国者同盟(CPSK) の4者が連合。代表をUFDRのコンボが務める。ジョトディアはUFDRの代表。

セレカはサンゴ語で連合・同盟を意味する。セレカ連合を構成する各団体はいずれもイスラム勢力で、指導者ジョトディアもイスラム教徒である。
イスラム教徒は人口の10%ほど。ほとんどは元々の住民ではなく、北方の国から戦火や飢餓を逃れ移り住んだ人々である。
 米下院外交委員会アフリカ問題小委員会での証言によれば、セレカ系民兵の数は推定2万5000人、そのうち9000人はチャド、スーダンなどからの民兵。指導者クラスの中には中東湾岸諸国などでビジネスを営んでいる者もいる。

12月 セレカがバンギに向けての行進を開始する。北部および東部の広域を掌握し、兵力は2万人に達する。

12月 北の隣国チャドは、ボジゼ大統領の要請を受け軍を派遣。セレカの進軍を止めようとはかる。

多分この記述は不正確だと思われる。チャドはイスラム教徒を主体とする国であるが、何よりも中部アフリカ諸国経済共同体(ECCAS)の輪番議長国であり、その立場から紛争を避けようと動いたと思われる。
ただ、現場でそれに類似したような動きがあったことは想像に難くない。

12.21 中部アフリカ諸国経済共同体の緊急首脳会議.セレカの武装襲撃を非難。

12月26日 首都バンギ(Bangui)でボジゼ大統領派のデモ。フランス大使館前で暴徒化。

これはよく理由の分からないデモだったらしい。ウィキペディアによれば
 デモ隊は米国大使館前で抗議の座り込みをしていた。そこでは平和を求めるシュプレヒコールのみだったが、フランス大使館前に移動すると、物を投げて建物の窓を壊したり仏国旗を引き下ろしたりした。
デモ隊は、フランスがセレカの勢力拡大を阻止しないことに不満を示した。
参加者の1人は「昔からフランスはすぐにわれわれを見捨ててきた。もうフランスなど必要ない。大使館をたたんで出て行っても構わない」と話した。

12月27日 国連安保理、「平和協定を破壊し、国の安定と国民の安全に脅威を与えた」とし、セレカによる武装襲撃を強く非難する声明を発表。占拠した都市からの撤退を求める。

12月28日 ガボンに駐屯中のフランス兵士180人と、チャドのフランス軍ヘリコプター2基がバンギに到着。

12月30日 中央アフリカ国内のフランス軍兵力は600人に達する。空港に隣接したフランス軍駐留基地に配備され、現地フランス人と外交機関の保護に当たる。

12月30日 アフリカ連合のボニ・ヤイ議長がバンギを訪問し、ポジゼと会談。ポジゼは「反政府武装勢力の連合体セレカと連立政権を樹立し、前提条件なしでセレカと交渉を行う」と言明する。

12月31日 セレカ、バンギから180キロの都市を襲撃し制圧。これまでに少なくとも10の都市を掌握し、ポジゼの辞任を求める。

12月31日 チャドのデビ大統領、中部アフリカ諸国経済共同体(ECCAS)の決議を尊重し、直ちに双方が敵対行為をやめることを求める。

声明の内容: バンギから70キロ離れたダマラがレッドラインである。中央アフリカに派遣されたECCASの多国籍部隊は、代価を惜しまずにレッドラインを越える行為を阻止する。

 

2013年

1月 ガボンのリーブルビルで、中央アフリカ諸国の仲介により、政府とセレカ連合との交渉が合意に達する。戦闘は一時小康状態となる。

リーブルビル合意: ボジゼ大統領のもと、挙国一致で和平プロセスを進めることで合意。大統領の2016年までの任期までの留任,1年以内の国民議会解散と総選挙の実施が定められた。また野党代表を首相とする挙国一致内閣の設立も合意された。

2.03 合意に基づき、野党からニコラ・チャンガイ首相が選出され挙国一致内閣が成立。セレカからもジョトディア第一副首相(国防担当)など閣僚数人が選出される。

3月 セレカ連動、ポジセ政権への攻撃を再開。3月20日を期限とする最後通牒を突き付け戦闘準備を整える。

3月22日 ポジゼ大統領、南アフリカ訪問を切り上げ帰国。

3.23 セレカ、首都バンギに向け進撃を開始。

3.23 フランス軍部隊150人は、バンギのムボコ国際空港を確保する。

3.24 セレカ連合の尖兵が大統領府付近に進出し銃撃戦を展開。ボジゼ大統領は隣国コンゴ民主共和国へと脱出(一説にカメルーン)。

3.24 セレカがバンギ市内を制圧。各所で略奪行為が続く。この間の戦闘で、現地に展開していた南アフリカ兵13人が死亡する。

            セレカの進攻 地図

3.24 アフリカ連合はセレカの首都制圧を非難し、中央アフリカ共和国の加盟資格を停止。加盟国に対し「結束した断固たる行動」を求める声明。

3.25 セレカはミシェル・ジョトディア(Michel Djotodia)を暫定大統領に指名。ジョトディアは議会と各政府機関の解散、憲法の停止を宣言し、3年以内に選挙を実施するまでは「法令」に基づき自 身が統治すると発表。チャンガイ首相が政権を担うこととなる。

3.25 フランスの要請を受け国連安保理の緊急協議。クーデターを非難し「追加措置」も辞さないと警告する。

3.25 パン・ギムン国連事務総長、セレカを非難。「深刻な人権侵害の報告もあり深く憂慮する」と声明。

3月28日 ジョトディアが軍と警察のトップと会見。大統領としての承認を取り付ける。

3月31日 チャンガイ新内閣が成立。ジョトディアは引き続き国防相を務めることとなる。

4月3日 チャドで中部アフリカ首脳会議が開かれる。ジョトディアを大統領として承認せず、包括的な暫定評議会の設置をもとめる。さらにジョトディアが構想した3年間ではなく18ヶ月以内の選挙実施を求める。

4月4日 ジョトディアは首脳らの要求を受け入れ、暫定評議会を設置すると発表。

4.12 アントニオ・グテーレス国連難民高等弁務官がコンゴ民主共和国北部の難民キャンプを視察。「およそ3万7000人が中央アフリカから逃れてきた。これらは3月25日のバンギ制圧を機に避難した人々である」と述べる。

4.13 105人からなる暫定評議会が成立。ジョトディアを暫定大統領に選出する。ジョトディアは、18ヶ月後の大統領選挙には立候補しないことを表明する。

4.13 セレカ、バンギで武装解除作戦を展開。旧国軍兵士や市民の抗議に対して発砲。その後反セレカ派の摘発に乗り出す。

4月 ジョトディアはアフリカ連合の要求を受け入れ暫定評議会を設置。暫定評議会の支持を受けあらためて大統領に選出される。

5月2日 この日付の報道では、「コンゴ民主共和国に避難している難民は4万人となり、新たにカメルーンに1024人、チャドに6728人避難」とされる。

中央アフリカはそれまでむしろ難民受入国だった。コンゴ難民とスーダン難民あわせて1万7000人、ダルフール西部地区の内紛での難民が4000人など。これらの難民がセレカの中核を形成した可能性もある。

7月 ジョトディア政権が暫定憲法を公布する。

8月18日 宣誓式が行われ、正式にジョトディアが大統領に就任。ジョトディアは「私が権力を獲得するために武力を使わざるを得なかった最後の同胞になることを望む」と述べ、また大統領選への不出馬を誓う。

8月 国連安保理、「中央アフリカは完全な無秩序状態に陥りつつある」と警告。

9月13日 ジョトディア、セレカの解散を宣言。これに反発する戦闘員は武装解除を拒否。各地で反乱が発生し。国内が無政府状態に陥る。

元々、反政府勢力の寄り合い所帯であるだけでなく、民兵には約束された賃金が支払われなかったことから、軍規の乱れや離脱が相次いだ。
これに対しジョトディアは正統性を確保のため、セレカの武装解除を打ち出した。これに戦士の多くが反発し、傍若無人の妄動を繰り返すようになった。
ジョトディア自身、もはや武装集団の行動をコントロールできないと認めている。

9月 キリスト教徒はアンチ・バラカと呼ばれる自警団を組織し、セレカ残党と対決。戦闘は宗教間の衝突の様相を呈し、多数の死者を出す。さらにボジゼ前大統領派も独自の武装攻勢を強める。

12月6日付UNHCR発表によれば、避難民は約47万人(国外7万人、国内40万人)に達した。また戦闘ごとに数百名の単位で犠牲者が発生している。

9月 北西部ウハム州でアンチ・バラカによるムスリム住民の虐殺が拡大。元セレカ部隊も反撃し大量虐殺を繰り返す。さらにナナ・マンベレ州、南西部のロバイエ州にも戦火が広がる。

バンギ北方300キロの州都ボッサンゴアには、ウハム州全域から避難民が集まる。カトリック教会には4万人、街の反対側にはムスリム住民4,000人が残留。にらみ合いを続ける。

Anti Balaka

11月 フランスとアフリカ連合が軍事介入。残存勢力との間で小規模な戦闘が行われる。

12.04 ルモンド紙がフランス軍の作戦計画の概要を報道。仏は安保理決議を待たず、本国からの動員を含め準備を開始する。(作戦名は'SANGRIS'(サングリ)、中央アフリカの森林に生息するエキゾチックな蝶の名を冠したとされる)

主要作戦は、
@首都バンギの防衛。セレカと、キリスト教徒自警団(Anti-Balaka)の間に割って入る。
A北西部のカメルーン、チャドと回廊を確保

12.05 バンギでキリスト教徒によるイスラム教徒の大虐殺。少なくとも300人が死亡(赤十字)する。

12.05 中央アフリカ共和国への軍事介入を認める国連安保理決議が全会一致で採択される。国連憲章第7章に基づき「中央アフリカ支援国際ミッション」(MISCA)が編成されることとなる。さらにMISCAの支援の名目でフランス軍にも権限が付与された。

第7章というのは「強制力による紛争解決」を定めた章。
具体的には、すでに中央アフリカに展開する「中央アフリカ展開多国籍軍」(FOMAC)を国連の下に移行させることとなる。FOMACは中部アフリカ諸国経済共同体(ECCAS)により構成され、管轄はアフリカ連合があたる。
作戦期間は12ヶ月。人員は原員の2500名から、3600名に増強される。

12.06 フランスのオランド大統領が記者会見。「事態は非常に恐ろしい状況になっている」とし、@7日夜までに当初の想定よりも400人多い兵士を派遣、A国連に権限を委任する兵員を1600人に増やすと発表。

会見での主な発言内容: 民兵組織が女性をレイプしたり、病院の患者を殺害したりするなど、まるでギャングのような行動をしている。
彼らを武装解除させることが仏軍とアフリカ部隊の任務になるだろう。現在行われている残虐行為や大量虐殺をすぐにやめさせることができると私は信じている。 
長期的には再び国を安定させ、適切な時期に自由で民主的な選挙を実施することが目標となる。

12.06 アフリカ連合(AU)、MISCAの兵員動員目標を当初予定の3600人から6000人に引き上げる。

12.22 バンギでセレカの支持者数千人が、戦闘員の武装解除を進めるフランス軍に抗議するデモ。

12.07 フランスとアフリカ連合が軍事介入。フランス軍200名が西部の都市ブワル(Bouar)に展開。

数か月にわたる暴力にうんざりした住民たちは、ダンスを踊り、警笛を鳴らし、鍋をたたいて大歓迎した。そして部隊に「ありがとう!」「私たちを助けて!」などと声をかけた

 

2014年

1月11日 中部アフリカ諸国経済共同体(ECCAS)が緊急首脳会談を開催。.事態打開能力を失ったジョトディア大統領・チャンガイ首相の辞任を勧告。

1.11 ECCASの勧告を受けたジョトディア大統領とチャンガイ首相、混乱の責任を取り辞任する。バンギ市内での暴動はむしろ激しさを増す。

辞任発表後数時間のうちに少なくとも5人が死亡。市内で群衆が店のドアを壊し略奪が相次ぐ。店の多くはイスラム教徒が経営していたもの。略奪を行った者の中には食人行為に及んだ者もいたという。

1.11 ジョトディア、ベナンに亡命。国家移行評議会(CNT)が、国民議会議員の間接投票による暫定大統領選挙を組織することとなる。

1.20 国家移行評議会、暫定大統領としてバンギ市長のカトリーヌ・サンバ・バンザ(現バンギ市長)を選出する。

1956年生まれ。父はカメルーン人、母は中央アフリカ人。バンギで育ち、フランスに留学。情報工学、保険関係法などを学び、1990年、バンギに戻る。アリアンツグループでのポストを経て、保険代理店業を起業する。
2003年、ボジゼによる政変ののち、「国民対話」の共同議長を努める。アムネスティにも加わり、紛争が続いたアフリカ中央部、大湖地方で人権活動に尽力した。
2013年1月にバンギ市長に就任。その2カ月後にセレカ勢力が政権を転覆した。
8歳、3児の母。夫のシリアーク・サンバ・パンザも政治家。コリンガ政権、ボジゼ政権など、複数政権で大臣を歴任している。

1.20 EU外相会議、500名規模のEUFOR部隊派遣を承認する。

1.22 国連安保理で事務総長の派遣した特別代表が中央アフリカの状況を報告。

子供と武力紛争担当のゼルーギは双方の武装勢力に18歳以下の少年兵6千人が加わっていると報告。
紛争下の性的暴力担当のバングーラは、昨年はじめからセレカの4530件以上の性暴力があったと報告。
 「国際人道法が順守されない状況が続けば、最悪の結果になる」と強調した。

1.23 サンバ・バンザの大統領就任式。両派に武装解除と和解を呼びかける。大統領選挙、国民議会選挙の実施を柱とする民主化プロセスの実施を目指す。

Catherine Samba-Panza

1.23 演説の直後にFACA(国軍)兵士が各国の報道陣の目の前でイスラム教徒の男性に襲いかかり惨殺する。(直前の大統領の演説では「国内の治安回復に貢献する兵士を誇りに思う」と語られていた)

1.24 UNOCHAが内戦による被害状況を報告。これまでの犠牲者は約931人、また避難民は約120万人に達する。

1.27 アンドレ・ンザパイェケ首相を首班とする暫定内閣が発足。閣僚には7名の女性、3名のセレカ派、1名のアンチ・バカラ派が含まれる。国防大臣にはテオフィル・ティマンゴア将軍を任命。

2.08 バンギで武装勢力間の衝突。9日までに少なくとも11人が死亡。

1.30 元セレカの武装集団が、バンギの北180キロのシブート(Sibut)を制圧。フランス軍が奪回作戦に乗り出す。

1.30 安全保障理事会、平和維持部隊の活動とEU派遣部隊に武力行使を認める決議を全会一致で採択。