ダルフール紛争

 2006年の北海道AALA総会を機に、ダルフール紛争について勉強しましたが、発表する時間がありませんでした。そのときのレポートに大幅に加筆して掲載します。資料はウィキペディア、ルモンド日本語版、国境なき医師団、そのほかのレポートを参考にしました。

ダルフール地方の概要

ダルフールとはスーダンの西部地方、チャドと国境を接する地帯の総称です。総面積493,180km2で人口は約600万人。その北半分は、ラクダ遊牧民が闊歩するサハラ砂漠です。中部にはマーラ山地があり、3,000m級の火山が聳えています。中部と南部の山麓地帯では降雨量が比較的多く、サバンナ気候を形成し、定住農耕が営まれています。

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もともとダルフール地方には、非アラブ系黒人の幾つかの種族が暮らしていました。ザガワ人は北部で牧畜を営み、中部のマッラ山地にはフール人、南部にはマサリート人がそれぞれ農耕を営んでいました。

10世紀を過ぎたあたりから、この地にもイスラム教が伝播し,ほぼすべての人々がムスリムとなりました。つまりダルフールはイスラム教徒で非アラブ系の人々が生活する地帯だったことになります。

ダルフールの名は、ダルフール中部の山岳地帯に住む黒人農民、フール人に由来しています。かつてここには定住農民を基盤とするフール王国がありました。

20世紀初頭まで、ダルフールは奴隷交易の中心地となっていました。多くの黒人が捕らえられ、西はギニア湾岸、北はエジプトなど沿岸地域へ奴隷として売られていきました。フール人とアラブ人との奴隷主が、奴隷を手に入れるため黒人住民狩りを競い合ったといわれています。

13世紀あたりから、アラブ人遊牧民がハルツーム方面からダルフール北部に進出するようになりました。

彼らはバッガーラと呼ばれました。バッガーラは遊牧の縄張りを同じ遊牧民のザガワ人と争い、一方で水や農産物の分け前をめぐり、フール人やマサリート人と争うようになります。

19世紀後半になると、英国がエジプトからスーダンに進出してきます。彼らはスーダンを植民地として併合しました。第一次大戦さなかの1916年にはフール王国も英領スーダンの一部として併合され、その歴史を閉じます。それ以来、黒人はアラブ人の風下に置かれてきました。いまも首都ハルツームあたりでは、ダルフールの諸部族はいずれも概して軽蔑の目でみられているといわれます。

 

スーダン独立と「南北戦争」

ここでダルフールの話はひとまずおいて、スーダンという国全体の流れを見ておきたいと思います。

スーダンは1956年に英国から独立しました。独立の2年後には軍事独裁政権が成立しました。当時北隣のエジプトでは、ナセルがクーデターにより軍事政権を打ち立て、スエズ運河の国有化など民族的な政策を実施していました。スーダンの軍人たちも、ナセルの路線の実践を目指したのです。

それ以降、政府はアラブ人支配の傾向がいっそう強まりました。いっぽう、エチオピアに近いスーダン南部では非アラブ系の諸民族が住み、ムスリムとは別の宗教が支配していました。そしてアラブ人優位、イスラムの押し付けに抵抗を強めてゆきました。

軍事政権成立から4年後の1962年には、はやくも政府軍とスーダン南部の間で武力紛争が起こり、それは内戦へと発展していきました。2004年に発表された国連事務総長の総括報告によれば、1956年の独立以来、スーダンでは150万人が殺されました。ほかに400万人が家を追われ、60万人の国外難民が発生しているとされます。(さまざまな説があるが、ここではルモンドの数字を用いた)

1972年から1983年のあいだに停戦期間がありましたが、1979年に南部で油田が発見されたことから、ヌメイリ大統領はアジスアベバ合意を一方的に破棄してしまいます。こうしてふたたび戦闘が再開しました。結局内戦は2002年の休戦宣言まで続くことになります。

南北戦争に関しては、北海道AALAの毎年の報告の中でも何回か触れています
1990年報告: 
スーダンでは土地の寡占化と綿花プランテーション化が進む一方,北部に生じた5年ぶりのかんばつにより国民の飢餓状況が深刻となっている.89年には宗教対立をのりこえた広範な反政府組織である国民民主同盟が結成され、たたかいをひろげている.南部では黒人を主体とするスーダン人民解放軍(SPLA)が,イスラム教徒独裁に反対し武装闘争を展開.この結果南部地帯は無政府状態となり,経済システムは事実上崩壊している. 
2000年報告: こちらは相当膨大なので、直接原文に当たってください。

2003年に南北間で和平協定が締結されました。この協定では、政府と南部勢力とが国家の歳入(正確には石油収入)を分け合うことが合意されました。また6年後に、南部がスーダンに留まるか分離独立するかを決める住民投票を行うこととなりました。

しかし、ハルツーム政権が平和路線へと根本的な転換を遂げたというわけではなさそうです。アラブ優位・ムスリム優位の権威主義的な体質がそのまま温存されているということは、ダルフールでの対応を見れば明瞭です。

南部の抵抗勢力の中でも、ジョン・ガラン大佐のスーダン人民解放軍(SPLA)は和平に最後まで反対し、抵抗継続の構えを見せました。これは南部黒人の中でも多数をしめるヌエル人に対し、ガランの出身であるディンカ人が反感を持っているためといわれます(ジョン・ガラン大佐というのはかなり胡散臭い人物で、SPLAも、実体はガランの私兵集団だといわれます)

この間、ダルフールの黒人たちは蚊帳の外に置かれていました。

 

ダルフールにおける矛盾の激化

水や牧草地を求めて移動する北部遊牧民と、土地とわずかばかりの家財を守ろうとする南部農民との争い、それがダルフールの歴史である。

現在600万人がこの地に暮らしています。人口はこの20年で倍増しました。その結果、水と生活空間を求める競争がますます先鋭化しています。それまで争いごとは伝統に則って裁定されてきましたが、1980年代半ばの大干魃と飢饉以来、そのような伝統は崩れ去ろうとしています。

アラブ人とフール人の戦闘は、すでに1985年から始まっています。最初は、水と食料を求めるアラブ系部族が、あいついでフール族の村を襲撃したことがきっかけです。フール族はこれに武力で対抗しました。88年にかけて4年間続いた「第一次ダルフール戦争」は、多数の人命を奪いました。

89年11月の「和平会議」で、アラブ系部族とフール族とのあいだには、いったん休戦が成立しました。しかし、この年成立したハルツーム軍事政権は、狂信的な原理主義集団が牛耳る恐怖政治を展開しました。2000年度報告をご参照ください)

彼らはダルフール紛争に介入し、「アラブ系部族」に異常な肩入れを行いました。この対立には「南北戦争」が複雑な影響を与えています。さらに問題を複雑にしたのはチャドやリビアなど隣国の干渉です。それぞれの軍隊が「イスラム義勇軍」を名乗ってダルフールに介入しました。この結果、さらに対立は複雑化し激化していきます。

翌90年には、フール人が国軍との交戦を開始するに至ります。スーダン人民解放軍(SPLA)がフール人に軍事支援を与えました。国軍は「アラブ系」のベニ・ハルバ人を前面に立てこれに対抗しました。

96年になると、こんどは遊牧民同士のあいだに紛争が発生しました。バッガーラ(アラブ系遊牧民)のリザイガート人と、黒人系遊牧民ザガワ人の対立です。また97年から99年にかけては、西部のアフリカ系農民とアラブ系遊牧民の間で戦闘が起きています。

 

恐怖のジャンジャウィード

 これらの戦闘において先に手を出したのは、ほとんどの場合「アラブ系」の側だったといわれています。アラブ系民兵を指す「ジャンジャウィード」という言葉が恐怖とともに広まっていきました。

ジャンジャウィードというのは、「カラシニコフ銃で武装した悪魔の騎兵」といった意味の合成語です。この言葉が示しているのは、かつては槍と剣を武器とする攻撃だったのが、80年代以降、はるかに殺傷力の高い突撃銃による攻撃に変化したということです。

ジャンジャウィードにカラシニコフを提供しているのは、いうまでもなくハルツームのスーダン政府です。彼らは南部と結びついたフール人の反抗が、スーダン軍の側面を脅かすことに強い警戒感を抱いていました。

2001年以来、村の襲撃、略奪、家畜の窃盗などの事件が、マサリート族やフール族の村で多発するようになりました。ハルツーム政権御用達の山賊集団ですから、処罰は一切なされていないようで、やり放題です。

 

ダルフール解放戦線(DLF) とスーダン解放運動/軍(SLM/SLA)

2003年2月25日、ヌールが率いるダルフール解放戦線(DLF)がマッラ山地で武装蜂起しました。ヌールは正確に言うとアブデルワヒード・ムハンマド・ヌール、本業は弁護士といいますから、フール人社会においては相当のエリートでしょう。その証拠に、この時はダルフールの「アフリカ系」部族のほとんど全部が反乱軍に結集したといいます。

DLFは、ドシュカ機関銃を搭載したトヨタ製軽トラックで、警察の派出所や国軍の武器庫を襲撃しました。戦闘員はRPGロケット砲、迫撃砲、カラシニコフ銃で武装していたそうです。なかなかの装備です。ヌールの実力が伺えます。

不意を襲われたスーダン政府軍は苦戦を強いられました。そもそも、南部との戦いに集中していた軍隊は、西部には少数の兵力しか配置しておらず、その兵士も、大半がダルフール出身者で構成されていました。相当数が反乱側に寝返ったか、抵抗せずに投降したものと見られています。

ヌールは、3月には他のアフリカ系部族にも組織を拡大し、組織名をスーダン解放運動(SLM)と改称しました。その軍事部門がスーダン解放軍(SLA)と呼ばれることになります。

政府軍は、相次ぐ襲撃を前に劣勢に追いこまれました。SLAは北ダルフール州の州都アル・ファシェルに突入。空港を制圧し、航空司令官イブラヒム・ブシュラを捕らえました。

南部反体制派の連合である国民民主同盟(NDA)はSLAの加盟を承認しました。SPLAのガラン大佐もひそかにSLAに軍事支援を提供しているといわれています。これらの協議により南部と西部の同盟が形成されることになりました。

一連の事態は、ハルツーム政権にとっては、まさに国家の存立に関わる重大事です。バシール大統領は、ダルフール蜂起に対抗するため危機委員会を設置しました。まずダルフール蜂起の社会的影響を遮断し首都の動揺を防ぐため、反乱勢力のシンパと目された多くの知識人や有力者を逮捕しました。報道管制や人権の制限などの措置も矢継ぎ早に実施されます。スーダンと国境を接するチャド、リビアも作戦に協力したといわれます。

もっとも重大なことは、ジャンジャウィードを正規軍に編入し、武器を与えるとともに、作戦行動に白紙委任を与えたことです。なりふりかまわずといったところですが、この決断が、のちに自らを国際的窮地に追い込むことになります。

 

ハルツーム政権とジャンジャウィードによる「民族浄化」

2003年9月3日、チャドのデビー大統領の仲介により停戦合意が交わされました。場所はダルフールから西に向かうハイウエイの先、国境を越えたチャドのアベシェです。

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しかし、スーダン政府にはこのまま矛を収める気は毛頭ありませんでした。合意の狙いは和平そのものではなく、停戦によって反乱勢力の中に生まれた政治的分裂を利用して、反乱勢力を壊滅させることにありました。

もうひとつの反乱勢力、「正義と平等を求める運動」(JEM)は停戦を受け入れませんでした。JEMは北ダルフール州を中心とする非アラブ系遊牧民のザカワ人を基盤としています。指導者のハリル・イブラヒム(博士)は、かつてのイスラム原理主義扇動家トゥラビの影響を受けているといわれます。

ジャンジャウィードは、停戦交渉をしりめに、村々の襲撃を続けていた。ジャンジャウィードの攻撃について、目撃者の証言は一致しています。夜明けとともに、国軍ヘリが空中に姿を現します。そして村を目がけてミサイル焼き銃弾を打ち込みます。

やがてヘリによる空からの援護射撃のもとに、ジャンジャウィードが突入してきます。村は焼き打ちにあい、家畜は略奪されます。道路は封鎖され、逃げることも出来ません。

結局和平は成立しませんでした。2003年12月16日に停戦期限が終了し戦闘が再開しました。

スーダン政府は逆襲に転じました。反乱軍の中心地は制圧され、SLAの司令官アブダラ・アバカルは殺害されました。すでに2006年2月時点での概算で18万人が殺害され、100万以上の人々が家を追われ、10万人以上の女性と子供がチャドに避難しました。

ジャンジャウィードは難民に対しても容赦しませんでした。逃げる人々を追いチャド国境を越えて攻撃を加えました。国境に展開していたチャド軍の兵士と衝突し、4月の銃撃戦ではチャド兵10人以上が殺されました。この衝突ではジャンジャウィード側にも70人の死者を出したといわれます。

2004年2月9日、バシール大統領は戦闘の「完全勝利」を宣言しました。そして「軍事作戦終了」を発表しました。しかし戦闘が終了することはありませんでした。ジャンジャウィードは、数百人単位で市民の大量虐殺を繰り返しました。

国連監視チーム報告(4月): シャッタヤ管区では23のフール人の村が略奪された。村は地面が見えるまで燃やされ、完全に無人化している。その一方、わずか500メートル離れたアラブ人系の居住地はまったく無傷である。
エコノミスト誌レポート(5月): ジャンジャウィードは多数のモスクに放火し、破り捨てたクルアーンの紙切れの上で排便した。

SLAは新たな司令官ジブリル・アベルカリム・バハリのもと、依然1万人以上の勢力を保っているといわれています。南部のSPLAはSLAを軍事支援するだけでなく、直接ダルフールに進入しているとも言われ、これをめぐってSLA内部に対立が生まれているとの情報もあります。

 

国連と国際社会の「人道的」介入

このような事態に対し、国際社会もようやく注目するようになりました。国際危機グループは飢餓と疾病により35万人以上に死の危険性があると発表しました。実情が明らかになるにつれ、スーダン政府に対する見方も厳しいものとなっています。

スーダンがこれまでの南北戦争もふくめ、人権侵害に関しては折り紙つきの国だったことも背景にあります。またルアンダ内戦での大量虐殺に対し国際的対応が遅れたことへの反省もありました。

2004年3月、国連はダルフールで進行中の「民族浄化」を公然と非難しました。アナン事務総長は「ぞっとさせられるぐらい現実的な」大量虐殺の危機」と警告。さらに踏み込んで、「国際的な軍事介入もあり得る」と述べました。アメリカのパウエル国務長官もスーダンとダルフールを訪れ、スーダン政府にジャンジャウィードへの支援を止めるようもとめました。

国際的圧力を受けたオマル・ハッサン・アル=バシール大統領は、「紛争は単に小競り合いだ」と反論しましたが、20万人も死者が出る紛争が「小競り合い」だとは、とうてい通る話ではありません。

またアルバシールは「ダルフールに対する国際的な懸念は、実際にはスーダンがイスラム国家であることを嫌い、それを否定しようとしたものである」と反撃しました。これは米英両国などと対決する姿勢を示すことでイスラム諸国の支持を得ようとしたものです。しかしこの論理も、迫害の対象であるフール人らが同じムスリムであることを考えると、説得力を持ちません。

結局スーダン政府は4月8日、JEMも対象にした包括的停戦に合意しました。しかしアルバシールにしてみれば、2ヶ月前に完全勝利宣言した相手と停戦などは屈辱そのものだったはずです。

 

アフリカ連合(AU)の監視団派遣

停戦合意に基づきアフリカ連合(AU)とEUが停戦監視団を派遣しました。とくにAUはその存在意義をかけてダルフール問題を重視しています。

AUのコナレ委員長は「紛争の正当化はできない」と警告し、AUとして停戦監視団とは別に黒人系住民の保護をも任務とした平和維持軍の派遣を一時検討しました。しかしこれは虐殺を否定するスーダン政府の同意を得られず、監視団の警護のみの役割の軍隊の派遣を決定し、ナイジェリア軍兵士150人を送り込みました。

2004年8月、ナイジェリア軍だけでは不十分と判断したAUは、さらにルワンダ軍150人を派遣しました。そのとき民間人の保護も任務のひとつに付け加えられました。

ルワンダ共和国の大統領ポール・カガメは、「もし民間人がそのとき危険な状態にあることが確証されれば、私たちの軍は確かに介在し民間人を保護する兵力を使用するだろう」と宣言しました。ルワンダ虐殺を経験した当事者としての痛切な思いが伝わってきます。

現在では6,000人のAU平和維持隊員がダルフールに駐留しており、事態の沈静化に大きな役割を果たしています。しかし一方で、SLAやJEMの反主流派はAUに対する反感を強め、平和維持隊員を狙い撃ちしているとも言われています。

 

窮地に追い込まれるスーダン政府

2004年7月17日、反政府勢力はジャンジャウィードの武装解除などの6項目の約束が守られていないとして、和平交渉からの離脱を表明しました。

その1週間後、アメリカ議会は両院合同決議を採択しました。決議はダルフール紛争をジェノサイドであると宣言し、それに終止符を打つ国際的な努力を結集せよとの呼びかけでした。ブレア英首相は軍事介入を除外しないと述べ、ジャクソン最高軍司令官はイギリスがおよそ5000の兵士を集めることができると語りました。欧州連合は、スーダンに対し制裁を課す可能性があると発表しました。

ただし米国には、アルカイーダを支援する「テロリスト国家」のひとつであるスーダンをこの際叩きたいという本音があります。クリントンが好色疑惑の最中に、突如スーダンの製薬工場をミサイル攻撃した事件は、記憶に新しいものがあります。

7月30日、国連安全保障理事会は、制裁を前提としてスーダンの政府に30日の期間を与えました。

 

国際社会がとるべきスタンス

アラブ連盟は決議に理解を示しつつも、スーダン政府を追い詰めることがないよう理解を求めました。中国も制裁に消極的でした。

中国の立場は微妙です。スーダン政府にダルフール問題の平和的解決をもとめる一方、AUの国際監視団にも支援を送っています。また国連諸機関を通じて現地の住民への直接支援も行っています。スーダンに石油権益を持つため制裁に踏み切れないのではとの見方もありますが、解決のためのあらゆるチャンネルを空けておこうというのが基本なのでしょう。その立場はアラブ諸国にも、アフリカ連合にも共通しています。

ルモンド紙によれば、欧米系企業はスーダンの石油にまったく関与していない。ナイル石油会社という企業連合が生産にあたっているが、その構成比は、中国天然气集団公司が50%、マレーシア企業ペトロナスが30%、インド国営企業ONGCヴィデッシュが25%、スーダン国営企業スダペットが5%である。ロシアや日本の様々な企業の得たライセンスは、20年間凍結状態にある。

たしかにダルフールの事態はきわめて緊急で、強力な国際的介入がもとめられています。しかし歴史的に見れば、それは1956年の独立以来、200万人が殺され、400万人が家を追われ、60万人の難民が発生しているスーダン内戦の一こまなのです。またそれは「飢餓の80年代」、「絶望の90年代」といわれたアフリカ大陸全土での無政府状態と大量虐殺の流れの一こまでもあります。

最近、EU諸国でもアフリカの持続的発展に向けた援助・投資の重要性が論じられるようになりました。直接には、おしよせる不法移民への対応ということですが、結局、その論理は同じことです。アフリカ大陸が全体として底上げされない限り、ダルフールが解決したとしても、第二、第三のダルフールが出現することは火を見るより明らかです。

国際社会は、もしダルフールの緊急性を論じるのなら、過去50年にわたる大量虐殺に対して無関心であったことの反省を踏まえるべきでしょう。それによってこそ、スーダン政府に対する要求は説得力を持ったものになるでしょう。

 

問題解決の展望

2005年1月、政府与党の国民会議党と南部のスーダン人民解放運動(SPLM)が民族団結政府を創設することで合意しました。アルバシールが引き続き大統領に就任、拒否権を持つ第一副大統領にジョン・ガランが就任します。

8月にガランがヘリの墜落事故で死亡。国内に緊張が走りますが、SPLMは政権に残留し、ガランのパトロンであるウガンダのムセヴェニ大統領も平静を呼びかけたことから、むしろ和平過程を強化する結果となりました。

9月には新政府の閣僚が首都ハルツームで宣誓を行いました。アフリカ連合のアルファ・ウマール・コナレ委員長は、「新政府は治安確保に取り組む能力があると確信している」とのべ、これを歓迎しました。

ただ先にも述べたようにSPLM/SPLAは南部の武装勢力の代表ではありますが、南部政治勢力の代表とはいえません。本格的な和平の実現後は、エリトリア亡命中の国民民主同盟(NDA)などすべての政治勢力の参加がもとめられることになるでしょう。

スーダンという国家にとっては、南北戦争の歴史的解決が本筋の議論です。今その解決に向けてようやく先が見えてきたというのが現状です。おそらくは南北戦争が和解の過程をとる中で、ダルフール紛争も解決の糸口を見つけることになるでしょう。

 

補 ダルフール和平に向けた最近の動き

2006年5月、ナイジェリアアブジャで、スーダン政府とスーダン解放軍(SLM)多数派が和平協定に調印しました。アフリカ連合が仲介に入り成立したもので、和平に向けての大きな前進といえます。反政府勢力の説得にゼーリック国務次官ら外交幹部がおもむくなど米英両国も協力しています。

スーダン政府は調印に際して、アフリカ連合の平和部隊7,000人に代わる、国連部隊の受け入れを認める構えも見せたといわれます。

しかし反政府勢力のうち、「正義と平等運動」(JEM)とスーダン解放軍少数派の2派は和平協定に調印しませんでした。「勝利の分け前」に対する不満があるようだとされています。

現地の状況は和平協定締結後にむしろ悪化しています。旧反政府ゲリラの一部が野盗化したため治安が極度に悪化しているといった事情もあるようです。7、8月の2カ月だけでも、人道支援関係者計11人が殺害されました。

8月31日、国連安全保障理事会は、ダルフール地方に2万人規模の国連平和維持活動(PKO)部隊を展開する決議案を採択しました。アフリカ連合軍の任務が9月30日に終了することに対応したものです。しかしスーダン政府はいまだこれに同意していません。中国、ロシア、カタールはスーダン政府が同意していないとして棄権しました。いっぽうで中国は懸命に、PKO受け入れを説得しているとの情報もあります。

9月末、結局アフリカ連合の駐留部隊が再々延長を決めました。国連はAU部隊に物質的後方支援を提供する予定になっています。この会議にはアナン国連事務総長およびスーダンのバシル大統領も出席しました。バシル大統領はダルフールでの大規模な人道危機を否定し、人権団体が支援欲しさに現地情勢を誇張していると非難したそうです。