故クリシュ・マカドゥージさんをあらためて知る

2007年8月

マカドゥージさんが亡くなってから、もう3年がたちました。今回、ふとしたことからマカドゥージさんの記事を見つけ、いろいろと貼り付けて文章にまとめました。
クリケットの世界ではずいぶん有名な人だった、というよりもう伝説の人と言っていいのでしょう。しかし私にはクリケットのことなどさっぱり分かりません。私にとっては定山渓の露天風呂でいっしょに雪見酒を楽しんだ、気軽に声をかけられるおっさんでした。そして何よりも、南アフリカ共産党の栄えある同志でした。

  

Mackerdhuj 

 

 

2004年5月、クリケットは、最も熱情にあふれたもっとも異色な使徒を失った。

南アフリカ・統一クリケット協会の最初の非白人会長クリシュ・マカドゥージ(本名はカラムチャンド・マカドゥージ)は、心不全でなくなった。彼はダーバンの病院で膝の手術を受けた。手術後の経過は順調だったが、4日目に心不全の兆候が現れた。その翌朝、激しい心臓発作が彼を襲い、マカドゥージの命を奪った。享年64歳だった。

ダーバンでクリケット協会葬が行われた。遺族は妻スミンサラ(Sminthara)、息子のプラシムとアーヴィン。

彼は、1990年代初め、アパルトヘイトが廃止されたあと、統一クリケット協会(United South African Cricket Board)の会長に就任し、クリケット界の統一に重要な役割を果たした。

南アフリカ・クリケット協会のジェラルド・マジョーラ幹事長は、「彼の死はまことに痛ましい損失である」と語った。「彼は期待を裏切ることなく、統一されたクリケット委員会を導いて、全ての南アフリカ人に国を代表する機会を与えてくれた」

現会長ライ・マリは途方もないほどの賛辞を連ねる。「南アフリカのクリケットは、構想力あふれる指導者を失った。クリシュは南ア・クリケット協会と統一クリケット協会の会長になるべく生まれてきた。彼は協会の統一に向けて決定的な役割をになった。彼の強さ、決意、精神力は我々すべてにとって霊的なものだった。彼が南アフリカを国際的な場に導き出したのだから…。彼はすばらしい人物であり、驚異的な指導者だった」


マカドゥージは1939年にダーバンで生まれた。子供のころ、彼はキングスミードでクリケットを観戦したことがある。しかし後年、彼は人種主義と不正義に抗議して英国での試合をボイコットすることになる。

一般にクリケットは白人(とくに英国人)エリートのスポーツとして知られているが、南アではそればかりではない。タウンシップと呼ばれる黒人居住区でも最も人気のあるスポーツである。ミニ・クリケットと呼ばれる独特のルールを持つクリケットは全国の黒人少年に普及している。タンボ、マンデラ、ムベキなどANCの幹部たちもみな、熱烈なクリケット・フアンである。

長いあいだ、彼はシェル石油とブリティッシュ・ペトリアム(BP)で化学技術者として働いた。しかしクリケットは、常に彼の最も情熱を捧げる対象だった。あるとき負った怪我でもうプレーできなくなったとき、彼は審判に転向し、クリケット界の運営に情熱を向けるようになる。

彼は1984年から1991年まで南ア・クリケット委員会の会長を勤めた。その委員会はメジャー・クラスのクリケット試合に参加できない黒人プレーヤーのためのリーグだった。彼はスポーツにおける人種差別を一掃することに情熱を捧げた。アパルトヘイトの時代、彼は南アフリカ・スポーツ評議会の執行委員及び、全国スポーツ会議の副議長を勤めた。

アパルトヘイト時代の非白人スポーツ界の動き: 1970年から80年代にかけて南アフリカ・スポーツ評議会 (SACOS)は、反アパルトヘイト運動を代表するスポーツ組織だった。国際的な南アに対するボイコットの動きは国民党政権にスポーツの非人種化の道を探らせた。
スポーツは人種や政治を越えるものであるという信念のもと、SACOSは白人政府のスポーツ担当者と交渉した。そして南ア・スポーツ界を統合させ、民主化しようと試みた。
交渉は挫折した。SACOSの指導者は国家から迫害され、アパルトヘイトの廃絶なしには関係の改善はありえないことが、あらためて明らかになった。SACOSはアパルトヘイトの存在する限り、黒人スポーツ選手は差別され続けるだろうと確信した。
国際的なスポーツ社会と諸国政府はこの見解に同意した。1970年代後期、スポーツ・ボイコットは、アパルトヘイトに反対する戦略の本質的な一部になった。

1986年 ソウェト蜂起10周年の抗議行動が全国で高揚したのを機に、スポーツの世界でも政府の欺瞞的統合政策と対決し、アパルトヘイトの破棄をもとめる声が強まった。SACOS左派は反アパルトヘイトを公然と掲げる「全国スポーツ会議」を立ち上げ、SACOSと対抗するようになった。そしてアパルトヘイトに反対する抵抗グループとの共同闘争へと進んでいった。

1987年、マカドゥージはローズ・クリケット競技場で行われた国際クリケット会議を訪れた。そして、アパルトヘイトの廃棄されるまで、南アがテスト・クリケットを出来ないようにすることをもとめて運動した。

1989年 マカドゥージはダーバンでデモに参加して逮捕された。そのデモは政府の偽りの統合政策にのっとって行われたラグビー試合に抗議するためのものだった。

1992年に南ア・クリケット協会の運営を任されたとき、マカドゥージはすばらしい経歴を付け加えた。彼は統一クリケット委員会の会長となり、1998年まで勤めた。

彼が会長に就任してまもなく。統一クリケット協会は国際舞台への復帰を果たし、国際クリケット会議の正式メンバーとなった。

国際舞台への復帰に当たってはターボ・ムベキ(現大統領)の功績が大きかったと言われる。ムベキはANCの国際部長だったときの人脈をフルに活用し、「南ア社会にクリケットがいかにポジティブな働きをしているか、黒人もふくめすべての国民がいかに励まされるか」と、手紙を書きまくった。だから、ムベキからじきじきに駐日大使就任を頼まれたら、口が裂けても「いや」とは言えなかったのである。

カッシム・ドクラット(クワズル-ナタール州クリケット連合の最高責任者)は、南アフリカのクリケットの歴史にマカドゥージが占める重要な位置をこうまとめている。

「彼のスポーツとのかかわりは、最初は闘いの中にあった。彼は、全ての南アフリカ人がスポーツにおいて平等でなければならないと信じていた。そして、非人種的なスポーツは自由な南アフリカでしか行われないだろうと考えていた」

ドクラットは語る。「それまでクリケットの試合は人種ごとに分離されていた。1991年にそれが統一されるに当たり、マカドゥージは欠くことのできない人物だった」

「彼は要の位置にあり、統一委員会の会長の職にもっともふさわしい人だった。それだけではなく、マカドゥージ自身が説得力にとむ雄弁家であり、熟練した交渉人であった。熱い議論の中に生き生きとしたユーモアのセンスを交えることは、しばしば彼の最も得意とする武器であった」


在任期間中、疑いなく最大のハイライトは2003年のワールド・カップの開催権を獲得するためのキャンペーンだった。1993年2月、マカドゥージは先任会長で白人のアリ・バチャーとともにローズ・クリケット競技場に現れ、開催国争いに加わった。

マンモス会議は12時間にわたり続いた。彼はそのあいだ精力的に活動した。競争の場でたくみに動きまわり交渉を重ねた。そして開催国の指名を勝ち取ったのである。

マカドゥージは1994年にローズ・クリケット競技場にもどってきた。そしてこの歴史的な競技場で、南アフリカが史上初めてイングランドを破った試合を見守った。1994年、ネルソン・マンデラはスポーツ運営に対する功績をたたえ、彼に大統領賞を与えた。

1997年、マカドゥージは駐日大使に任命された。そして2003年末まで大使を勤めた。彼は健康を損ね半ば引退するように職を辞した。

「クリシュは個人的魅力にあふれ、親切で礼儀正しい人だった」と、後継会長のパーシー・サンは語る。「彼は敬意を持って人に接した。決して尊大になることはなかった。だから彼は人々の心をとらえた。私もとても親近感を感じている。今日はとても悲しい日だ」

マカドゥージの前任者アリ・バチャー元会長は、「マカドゥージはクリケットだけではなく非人種的スポーツのチャンピオンだった。そして南ア・クリケットにとって傑出した大使だった」とたたえる。そしてこう付け加えた。「統一前、彼はハードライナーとして警戒されていた。しかし実際には人当たりの柔らかい、人情味あふれる人物だった」

マカドゥージの死後、2006年1月、政府は終身栄誉賞(Steve Tshwete Lifetime Achievement Awards)を追贈した。

 

Dr. Krish Mackerdhuj cricket complex opening 

UCB President Krish Mackerdhuj, Archbishop Desmond Tutu and UCB MD Ali Bacher. Standard Bank Triangular series final South Africa v Pakistan at Newlands 23 April 1998

 

マカドゥージの死後、南アにクリケット複合競技場が建設された。その競技場にはクリシュ・マカドゥージの名が冠せられた。

左:クリシュ・マカドゥージ、中央:デスモンド・ツツ、右:アリ・バチャー(23 April 1998)