http://www.astrophotoclub.com/kurita.htm

200-500頃 バンツー族が西方コンゴ地域から進出してサン人を駆逐する。鉄器、陶器、農耕を持ち込む。ニアサ湖(マラウイ湖)の岸に沿って植 民。Karonga地区のMwabulamo鉄器類は南アフリカのいくつかのスタイルと類似し、鉄器の開発を象徴する。Mwabulamo陶器は、広縁・ 無装飾である。鉄製の皿はNkope地区で生産された。

1100頃 Kapeni 陶器の出現。Nkopeより薄い木の葉文様の装飾付き。

1480頃 マラウィ湖南西部にいくつかのバンツー系小国からなるマラヴィ同盟(Maravi Confederacy)が成立。地域を支配し始める。

マラヴィ同盟は最盛期には現代のザンビアとモザンビークの大部分をふくむ大帝国となった。Maravi領域の周辺には、より小さい王国群が存在した。

17世紀 最初のヨーロッパ人としてポルトガル人がマラヴィ沿岸部(現モザンビーク北部)に到達。取引ポスト場を開発する。

1780-1850 奴隷売買が大規模に増加した。東海岸在住のアラブ人が先導。

1830年頃 マラヴィ帝国が衰退。ズールー系のヌゴニ族が南アフリカ方面から進出。ヤオ族が東から進出。ともに南部に定着。北方からはNgonde族が進出。

1850頃 メイズ、自生の穀物(もろこし)に代わり主食となる。メイズは安定した作物として、16世紀にポルトガルの入植者によって導入された。

1850年 スコットランドの宣教師デビッド・リビングストン、ザンベジ川流域を探検。ビクトリア滝を発見。

1859 リビングストン、二回目の宣教旅行でマラヴィに入る。彼は内戦で荒れ果てた地域を発見している。これは奴隷獲得戦争を指すと思われる。Livingstonia の町の名は彼にちなんだもの。

1860 Yao移住者のMakanjila 国、ニアサ湖の南端に沿った強大な王国に育つ。スワヒリ語圏の海岸地帯に拡大し、特に象牙と奴隷取引を支配する。ヤオ族はイスラム教とスワヒリ文化を受容する。

1866-73 リビングストンは第3回目の探検。ニアサ湖湖の南端を旅行する。すでにこの地域は宣教師、ヨーロッパの商人と探検家に開かれていた。

1875 スコットランド自由教会が最初の伝道基地を建設。その後Karonga地区は英国人によって発達した。地元のNgonde族は、アラブ奴隷商人と闘っていた。

1877 Livingstoniaの「中央アフリカ伝導社」(後にAfrican Lakes Company)が、海岸地帯への交易リンクを立ち上げ、奴隷狩りの抑制を図る。グラスゴー(スコットランド)の本部はJohn and Frederick Moirにより運営され、ザンベジ川流域とNyasa湖畔に交易場を展開した。

1885 ベルリン会議で、ドイツのBismark首相はNyasalandの支配権を取り下げる。

1887-95 Karongaのアラブ人は、奴隷売買を抑制する英国当局に抵抗。

1889 英国と地元首長の間で保護条約が署名される。シレ(Shire)「高原保護領」が設定される。後にDistrict Protectorateと改称。

1891年 ポルトガルとイギリスの間に英葡紛争(Anglo-Portuguese Crisis)

1891年2月1日 現在のマラウイ地域が「ニアサランドおよび付属地区保護領」(Nyasaland and District Protectorate)となる。ヘンリー・ハミルトン・ジョンソンが総督となる。Blantyre が経済センターとなり、シレ高原は行政センターとして開発される。

1893 ニアサランド保護領が、「英領中央アフリカ保護領」(British Central Africa Protectorate)に改称。

イギリスの植民地経営策: コーヒーを商品作物として紹介し、ヨーロッパの移民に低価格で土地を提供し、プランテーションを開発した。
アフリカ人は徴税対象となり、支払いのためプランテーションで年に数ヶ月を働くことを『奨励される』

1898 ヘンリー・ハミルトン・ジョンソンの率いる軍隊が、マラウイ西部のヌゴニ族とザンビアの北東部を征服する。

1901 ドイツと英国は、ドイツ領東アフリカとルワンダ、ブルンディ、Nyasalandとの境界線について同意する。ドイツ領東アフリカは後に英領Tanganyikaとなり、現在はタンザニアとして独立している。

1903 英国政府の推計で 6,000人以上のアフリカ人がマラウィ南方地域に仕事をもとめて流入。

1907 英領中央アフリカ保護領、ニアサランド(Nyasaland)と改称。ニアサとはヤオ族の言葉で湖を指す。

1908 Blantyreとヘラルド港を結ぶ鉄道が完成。南アフリカのオランダ改革派教会からの宣教師、ローマカトリックの白人神父が教会を建設。

1912 Levi Mumba、North Nyasa Associatiを設立。民族主義的な理想を推進する。

1914 第一次世界大戦が始まる。Nyasalandのアフリカ人、英国に徴兵され、東アフリカでドイツ軍と戦う。

1915年1月23日 ジョン・チレンブエ、200人の支持者とともに英国の支配に対する反抗を開始する。

最も残忍なプランテーション所有者ウィリアム・ジャーヴィス・リビングストンは、彼の妻と子供たちの前で斬首され、教会前広場でさらし首にされた。

1915年2月3日 Chilembwe、黒人警官によって射殺される。抵抗は終了。副官は逮捕されて、絞首刑に処される。

John Chilembweはアメリカのヴァージニア神学校で学んだ後にニヤサランドへ帰国し、バプティスト教会の牧師を務めていた。ヨーロッパ人同士の争いへア フリカ人が巻き込まれることに疑問を抱いたチレンブウェは、部族の壁を越えて叛乱を行った。1月15日は"ジョン・チレンブウェの日"としてマラウイの祝 日となっている。

 

1929 African National Churchが設立される。

1934年2月24日 Bingu wa Mutharika (後の大統領)が生まれる。

1944 民族主義者がニアサランド・アフリカ会議を創設。最初の国民議会を開く。植民地の最初の政治運動になる。

1951年 英国政府は、南ローデシア植民地主義者の主張を受け、Nyasalandと南北ローデシアを結合する計画を発表する。三つの地域が連邦を形成する。3つの植民地の大多数のアフリカ人は連邦化に反対。白人の自由主義者も行動を共にする。

1953年8月1日 シレ高原のチョロ地区で連邦化に抗議する暴動が起こる。

10月23日 ニアサランド、既存の南北ローデシア連邦に組み込まれローデシア‐ニアサランド連邦共和国(中央アフリカ連邦)となる。連邦は、1963年まで続く。3つの地域で民族主義者が立ち上がり抵抗を続ける。

1958年7月29日 Nyasaland African Congress (NAC)のバンダ博士が帰国。Nyasaland独立運動のリーダーに就任する。南北ローデシアとの連邦を拒否し、独立をもとめる。彼は、『黒人のメシア』として有名になる。

Hastings Kamuzu Banda 公式には1896年生まれ。ニアサランドで初等教育を3年間受け、南ローデシア、南アフリカなどで働きながら中等教育を受ける。教会の援助を受けてイギリスに留学。スコットランドで医学教育を受け、テネシー州ナッシュビルのMeharry Medical Collegeで学位を取得。1945年にはロンドンで開業した。ロンドンの医院ではエンクルマやケニヤッタとの交友関係を築いた。

1959年3月3日 アフリカ会議と英国当局の支持者の間で暴力的な抗議が発生。非常事態が宣言され、アフリカ会議党は非合法化される。バンダを含む反対リーダーは逮捕される。

9月 ニアサランド・アフリカ会議、マラウィ会議党 (MCP) と改称。バンダは北ローデシアのグウェロ刑務所に勾留されたまま党を指導。

1960年4月 バンダが出獄。「連邦」の憲法改革に関するロンドン会議に招致される。

1961年7月 英国当局は、納税アフリカ人にフランチャイズを与え、新しい立法議会をつくる行政改革に同意する。

1961年8月 立法議会選挙。バンダのマラウィ会議党 (MCP)は、投票の94%を獲得する。

1962年11月 ロンドンで第2回目の憲法協議会。英政府はニヤサランドに自治権を与えることに同意。

1963年1月 Nyasalandは自主的な自治政府を認められる。

1963年2月1日 自治政府が発足。バンダが首相に就任。

1963年5月 自治領政府、新たな憲法を発布。完全な自治権の獲得を目指す。

1963年12月31日 ローデシア‐ニアサランド連邦共和国が解散。ニヤサランドは連邦から完全分離。

1964年7月6日 マラウイは英連邦の一国として独立を成し遂げる。直前の総選挙ではマラウイ会議党以外の出馬が無かったため、事実上の一党制でスタート。バンダが総督に代わり国家元首となる。バンダは首都を Zombaに移転。

1964年9月 バンダ、外相、内相、教育相をふくむ5人の閣僚を排除。彼らは政府へのアフリカ人登用が少ないとし、バンダを批判した。

1964年 年末までにバンダは400人以上の反対活動家を逮捕する。

1965年2月 Fort Johnson が最近解雇された大臣を支持するグループによって急襲される。襲撃隊は政府軍によって撃退される。反乱部隊と元大臣たちは国外に逃げる。

1966年7月6日 マラウイ、英連邦を離れマラウィ会議党の単一政党国家「マラウィ共和国」に移行。バンダは共和国の大統領になる。反対グループは禁止され、リーダーたちは拘留される。マラウイでの人権状況に対し国際的な非難が高まる。

1967年9月 バンダ政府は南アフリカとの外交関係を樹立。 南アフリカの白人の少数党内閣を許すなという近隣のアフリカ諸国による呼びかけは無視される。

1967年10月 Yatuta Chisza前内相、反乱部隊を率い国内に侵入。反乱は破られChiszaは殺される。マラウィ会議党は民兵組織であるYoung Pioneers を結成し国内弾圧にあたる。

1968年9月 南アフリカに励まされて、バンダはモザンビーク、タンザニア、ザンビアとのあいだで境界紛争を開始する。彼はニアサ湖の全てとSongue川の北方地域の領有権を主張。

1968年 バンダ(この時すでに72歳)、独裁色を強め、度外れの人民抑圧を開始。
 

バンダは、常に自身を"終身大統領ングワジ・ヘイスティングズ・カムズ・バンダ博士閣下"]と呼称させた。全ての商業ビルにはバンダの公式写真を壁に掛けることが要求され、その他のポスターや時計、絵画など一切のものを、バンダの写真より上部に設置することが禁止された。
国民の服装を制限。女性に対しては太ももを隠すように指導し、ズボンの着用を禁じる。長髪の男性は反大統領を意味するとし、逮捕後、強制的に髪を切る。
インド人はゲットーに押し込められた。バンダ大統領を非難する発言は厳しく禁じられ、これを破ったものは多くが追放や投獄された。マラウイ社会主義者同盟の指導者アッタチ・ムパカチは暗殺された。(ウィキペディア)

1970年5月 南アフリカのフォルスター大統領がマラウイを友好訪問。

1970 バンダが終身大統領になるのを許す憲法改正が行われる。1970年から始まったマラウイ会議党の一党支配によって支配を強化。

 

1971年7月 ザンビアとの関係修復。ザンビアの高級使節団がZombaで事務所を開設することが許される。

1971年 バンダ、終身大統領となる。バンダは規則的に内閣を改造し、政敵の出現を防いだ。20万人以上を裁判もなく収監した。バンダは在任中に少なくとも3億2000万ドルを私財として蓄えた。

1971 マラウイ・ポンドにかわり、クワチャ(kwacha)が公式の通貨になる。1クワチャは、100タンバラに等しい。

1973 9月 バンダ政権、新聞とラジオ放送を統制下に入れる。バンダに批判的な国際報道をシャットアウト。『間違った情報』(国家批判)を外国人に広めることを終身刑とする。

1974年7月 ポルトガル政変(カーネーション革命、あるいはリスボンの春)が起こる。ポルトガル新指導部は、反革命派を支持し、その攻撃基地を提供したとしてマラウィと断交。

1974 バンダ大統領、首都をゾムバ(Zomba)からリロンゲ(Lilongwe)に移転すると発表。ブランタイア(Blantyre)への移動を望んでいた白人植民者の間に動揺が広がる。

1975 1月1日 リロングウェは、公式にマラウイの新しい首都になる。

1978 独立以来最初の議会の選挙。しかし全ての候補はバンダ大統領によって選ばれたMCPのメンバー。バンダは候補資格として英語に堪能であることをもとめた。

1980年4月 9つの南部アフリカ諸国(アンゴラ、ボツワナ、レソト、マラウイ、モザンビーク、スワジランド、タンザニア、ザンビアとジンバブ エ)によって、南部アフリカ開発調整会議(SADCC)が設立される。(92年に南部アフリカ開発コミュニティ(SADC)に発展改組)

1980年代初期 サイモン&ガーファンクルの 「いとしのセシリア」をラジオ放送で流すことを禁じた。愛人のセシリア・タマンダ・カザミラとの関係が悪くなり、セシリアに帰ってきてくれるよう懇願する内容の歌詞が気に食わなかったためとされる。

1983 第2回国会選挙。今回も全てMCP候補者で指導者になりそうな人物は注意深く取り除かれる。選挙中に4人の反対活動家が殺される。

1986年7月 モザンビーク政府、反政府ゲリラ「モザンビーク反乱軍」(Renamo)を援助したとしてマラウィを非難。

1986年10月 モザンビークのマシェル大統領が飛行機の墜落事故で死亡。バンダによる陰謀との疑いが高まる。首都マプトのマラウィ大使館は民衆の攻撃を受ける。

南ア政府は、墜落現場で発見された文書を示し、モザンビークとジンバブエによってマラウイに対する陰謀が企てられていたと主張。

1986年12月 マラウイとモザンビークが安全保障合意に調印。対RENAMOで共同することとなる。RENAMOの人質50人がマラウィで解放され、モザンビークに帰還。

1987年2月 バンダ大統領、アパルトヘイト政策を続ける南アフリカとの貿易・政治対話ボイコットをもとめる近隣諸国の要請を拒否。

1987年4月 バンダ大統領、国会を解散する。翌月行われた選挙は、みたびMCP候補が独占する。

1987年6月 バンダが内閣を改造。3人の著名な大臣が解任される。

1987 11月 モザンビーク軍がマラウイの民間航空機を撃ち落とす。10人が死亡。マラウイとモザンビークの間の緊張は高まる。

1988年1月 バンダ大統領は、もう一度議会を解散。

1988年7月 モザンビークのJoaquim Chissano大統領、国際メディアに対し、「RENAMOの基地がマラウィにあるとの報道は正しくない」と語る。

1988 9月 南アフリカのボタ大統領が、マラウイに公式訪問をする。

1988 12月 マラウイとモザンビーク、2年間のモザンビーク内戦中に逃れた65万人の難民の帰還協定に調印。

1990 マラウィをかんばつと不作が襲う。

1990年 代初期 テレビ放送が許される。

1991年 イギリス政府がバンダ大統領の圧制を認めないと表明。

1992年 国内のカトリック教会が離反声明。司教は公的にバンダを有罪と宣告し、抗議のデモ行進を奨励。人権状況を憂慮した多くの援助提供国が、援助を一時停止する。

1993 バンダ大統領が重病となる。バンダは終身大統領をあきらめることに同意する。

1993年年6月14日 国際的圧力を受け、複数政党制移行への国民投票が実施される。3分の2近い得票を得て多党制導入が決定される。

1993年 悪名高い服装制限が解除される。

1994年5月17日 大統領選挙が実施される。統一民主戦線 (UDF)代表のバキリ・ムルジ(南部イスラム系ヤオ族出身)がバンダに圧勝。バンダは政界からの引退を表明(この時実に98歳!)

1994年5月21日 バキリ・ムルジ(Bakili Muluzi)が大統領に就任。直ちに政治犯を解放し言論の自由を確立する。

1995 バンダ、1983年に4人の反対政治家の殺害を支持したとして告訴されるが無罪となる。

1997年11月25日 バンダ、南アフリカ共和国の病院で肺炎のため死去。101歳であったと言われる。マラウィは国葬を行う。

1997年 女性活動家バンダ「持続可能な飢餓撲滅のためのアフリカ賞」を受賞。

1999年6月15日 ムルジ大統領が民主同盟とマラウイ会議党の候補を破り再選される。

選挙後の大規模暴動: 北部のキリスト教徒は選挙結果に抗議し、ムルジの出身部族であり、イスラム教徒であるヤオ族へのテロを行う。200箇所近いモスクが放火の被害を受ける。