アフリカン・ルネッサンス

その歴史的背景

未完のまま挫折しています 2002年

 

南ア新政権成立の意義 

およそ10年前,南アフリカ共和国は歴史上初めて真の普通選挙を実施しました.その結果,人口の8割を占める黒人の代表ネルソン・マンデラが大統領に選出されました.アパルトヘイトは基本的に消滅しました.

とりわけアフリカ大陸にとって,近代的な民主主義を政治の基本とする一大国家がアフリカ南部に誕生したことの意味は,大きいものがあります.

一,巨大な生産力

南アフリカのGDPは1360億ドルに達します.それはサハラ砂漠以南のアフリカ諸国のGDPを合わせた内の45%を超える規模です.つまり南アフリカ一国の生産力は,他のすべてのアフリカ諸国を足したのと匹敵するということです.

南アフリカには80万以上の民間企業が存在し,うち650社以上の近代的企業が株式を上場しています.首都ジョハネスバーグの証券取引所は世界9位の上場額を有しています.

このようなガリバー型の経済関係は,少なくとも当分の間続くと見なくてはなりません.この関係が壊れるとき,アフリカ大陸は欧米先進国からも見捨てられた「暗黒大陸」のくびきにつながれ続けることになります.この事実に目をつぶりながらアフリカ経済の発展計画を立てても,現実的なものとはなりません.

このガリバー型の経済関係を一方ではそのまま発展させつつ,他方では,従来型の経済侵略・支配と収奪の関係ではない,自立した平等・互恵の経済関係に変えていくことができるのか.これが新たな試みの一番の核心となります.

二,民主主義国家体制

南アフリカは,さまざまな法律制度においても,具体的な内外政策においても,まがりなりにも,基本的人権の保障を第一義とする“民主主義国家”です.国会から地方議会にいたるまで選挙制度が確立され,すべての国民が平等な選挙権と被選挙権を保証され,議会制民主主義が尊重されています.

しかし,このような国はアフリカ大陸で唯一つしかありません.そのほかの国は,程度の差こそあれ独裁国家であり,人権は抑圧されており,政治は構造的に腐敗しており,法律はしばしば無視されています.たまに選挙が行われても,それは先進国向けの茶番にしか過ぎません.

南アフリカの民主主義思想は,アフリカ諸国の支配層が信じてきた「国家の論理」と対立しています.支配者たちは,さまざまな論理で独裁を正当化してきました.しかし南アフリカ大統領マンデラは,野党指導者ケン・サロイワを処刑したナイジェリア軍事政権を許さず,敢然と非難しました.それはアフリカ人同士が,馴れ合わずに,原理・原則に立って議論する初めての経験でした.

両者は政治理念において水と油のような関係です.内政に相互に干渉せず自決を尊重するといっても,特に多くの人命や人権問題が絡む場合,あるいは他国への侵略的態度が問題となる場合,どこまで受忍するのか.批判するべきときには,どう批判するのか.微妙な問題を抱えています.マンデラの発言は,この問いかけに対するひとつの答えとなっているようです.

長期的には経済発展の中で,アフリカ大陸にも民主制度が根付いていくだろうと確信するにせよ,民主主義を基調とする南アフリカの外交は,現実には厳しい選択を迫られることになるでしょう.

三,アフリカ大陸,特に南部アフリカにおける指導性

南アフリカの変化は南部アフリカ,とくに前線7カ国と呼ばれていた国々に大きな影響を及ぼしています.

かつてアパルトヘイトの時代,南部アフリカ諸国は南アフリカの白人政権によって事実上支配され,抑圧され,収奪されてきました.時には直接の武力侵攻すら受けてきました.

同時に南アフリカとの関係は,それらの国々の経済活動の生命線でもありました.多くの国が南アフリカに食糧などを輸出し,商品を買うことで経済を成立させてきました.また多くの出稼ぎ労働者が南アフリカの鉱山などで働くことにより生計を立ててきました.

これらの国は,白人による植民地支配を受けていた歴史を持っています.そして多くの国が厳しい戦いの末に独立を勝ち取った歴史を持っています.これらの国々はアパルトヘイトの時代,南アフリカのアパルトヘイト政権の脅しを跳ね除け,南アフリカの民族解放勢力ANCを支援し続けてきました.

しかしその南アフリカが民主化された後も,南ア経済への著しい依存関係においては変わりはありません.

ボツワナやナミビアでは,南ア企業を中心に経済活動が営まれています.ザンビア,モザンビーク,ジンバブウェなどでも,南アフリカとの経済関係が生命線となっています.これらの諸国は,南アフリカとの経済関係を新たに結び直す必要に迫られています.

 南ア新政府は周辺諸国との友好・連帯を強めることとは別に,従来の経済関係は基本的に維持しながら,新たな経済関係の構築に向けてさまざまな模索を行う必要があります.

四,アフリカ大陸,中部アフリカにおける指導性

コンゴ内戦はルアンダ内戦から端を発し,モブツ政権の崩壊,モブツを倒したカビラの事実上の失脚と進む中で,敵味方も判然としないほどに入り乱れてしまいました.欧米諸国からも見放された中で,マンデラの介入はいやおうなしのものでした.

内戦を担う交戦国の中で唯一交戦主体としての主体性を保持していたのはルワンダでした.このルワンダに対抗して利権を求めてうごめいていたのがアンゴラとジンバブエでした.利権漁りという点ではルワンダも同じ穴の狢です.

経済的影響力を行使してアンゴラとジンバブエを押さえ込み,一方の当事者であるルワンダと話をつけようというのが,コンゴ談判の道筋です.結局はコンゴの分割と分け前をめぐる話ですから,きれい事ではすみません.

さらに南アフリカ自身もコンゴの地下資源,コンゴ河の水利権益に対しては興味シンシンです.たとえば南アフリカの電力公社エスコムは,大陸随一の発電可能性を有するコンゴ川に大発電施設を建造し,アフリカ南部一帯を一つの電力配給システムに統合しようという雄大な計画を発表しています.

結局のところマンデラの調停はうまく行ったとはいえません.たぶん,マンデラはこんなギラギラした話は嫌いでしょう.彼の伝記を読むと,何か崇高な目的があるときは驚くほどの柔軟さと粘り強さを発揮するが,もともとの性格はかなりのかんしゃく持ちのようです.

ネルソン・マンデラ

マンデラのしたことは周辺諸国,とくにジンバブエを押さえ込むことでした.96年6月の南部アフリカ・サミットで地域保安機構の設置が決定されました.ジンバブウェのムガベ大統領は,これを南アフリカによる軍事支配の第一歩と受け止めました.彼は「南部アフリカ地域の統合は,特定の国が政治的優越とさらなる覇権を主張するような環境においては実現しない」と抗議しますが,議長のマンデラはこれを一蹴します.

「アフリカン・ルネッサンス」とはなにか

一,「アフリカン・ルネッサンス」の背景

1997年,当時の副大統領ムベキは,外交上の基本文書となる「アフリカン・ルネッサンス―実現可能な夢」を発表しました.与党ANCは党大会でこの文書を検討.ほぼ同じ内容の「南ア外交政策に関する戦略的展望」として採択しました.

「アフリカン・ルネッサンス」という優雅な名の文書の裏には,実は絶望的というほどに厳しい問題意識が隠されていました.そこには新政府が行ったナイジェリア政府との激しい論争,ルワンダ・コンゴ問題をめぐる論争が反映されていました.もちろん,何よりもそこに反映されていたのは政権獲得後の一筋縄ではいかない国内政治・経済運営,それを乗り越えていくべき組織的主体の生みの苦しみとも言うべき混乱に関する総括です.

二,アパルトヘイト廃止直後の国内情勢

「アフリカン・ルネッサンス」の核心を把握するためには,世界のとアフリカ大陸,アフリカ大陸と南アフリカ,それ自身がひとつの経済大国である南アフリカと世界の関係についての正確な評価が必要です.

しかし,それらの関係は,実は国内にも内在していました.政治・経済・社会・文化のずべての場面で,1世紀余りにわたる白人支配を受けて抑圧的な二重構造が完成していました.

新たな国の支配者たちにとっては,この抑圧的な二重構造を破壊するのではなく,これを引き継ぎ発展させるしか道はありません.なぜならアパルトヘイトは人種差別であると同時に,大企業が労働者を搾取するという階級支配のひとつの形態でもあるからです.

政治・文化の分野では,それなりの施策が打てたとしても,

以下に「戦略的展望」の要約を掲げる.

民主的で自立的なアフリカの再生

冷戦終結後のアフリカには,もはや戦略的重要性はない.放置すれば,今後アフリカはさらに辺境化していくだろう.

新生南アフリカは,これまで大湖地域,特に旧ザイールの問題解決に関与してきた.この経験は,われわれにアフリカの現実を教えてくれた.民主主義と人権を尊重するわれわれは,ときに近しい同盟国とさえ異なる行動に出なければならなかった.

大陸のあちこちで人権はあまりにも蹂躙されている.「アフリカの文化や国家主権の尊重」は,女性を抑圧し,性の不平等を維持する体制側の論法としてしばしば使われている.

こういった悪しき状況を改変していくために,南アフリカが「アフリカ大陸及び世界において有効な貢献を成していく能力を構築」し,われわれの力を最大限に発揮できるような「最良のフレームワーク」を作り出す必要がある.ここからアフリカン・ルネッサンスという構想が生まれた.

アフリカン・ルネッサンスが最終的に目指すものは,アフリカを「人類文明における対等で尊重される貢献者」として再生させることである.そのためには世界全体と自立的に交流し成長を保つことのできる経済力を構築することが最大の要点となる.

このアフリカン・ルネッサンスの考えから幾つかの行動指針が提示される.

それはたとえば国連安全保障理事会の拡張であり(南アはアフリカ諸国の支援のもとに安保理常任理事国入りをねらっている),世界銀行・IMFへの影響力行使であり,非同盟諸国運動の再定義及び現代化である(南アは2000年非同盟首脳会議の議長国となった).

二,「極左的アプローチ」への批判: 

現状の世界が「無規律でバランスを欠き,不平等」な性質を持っていることは確かだが,だからといって現存する国際的経済機構に関与することが「新自由主義的専制への屈服」だというのは「極左的な誤り」である.

南アフリカは「否応無しに国際的経済システムと結び付いた小国」であり,「相互依存関係を前提とした国際的経済協力の進展なくして南ア経済の発展もなし」という現実を認めるほかない.肝要なのは「公正で平等な新しい世界秩序」を創成するよう努力していくことである.アフリカン・ルネッサンスとは「グローバル化に対する挑戦なのである」

三,アフリカ大陸に対するイニシアチブ

 アフリカ大陸に対するアプローチとしては,主体的能力の確立と,近代民主主義の原則擁護がキーワードとなっている.

新しい世界秩序を作り上げていくためにも,アフリカ大陸における民主化の波を広げていかなければならない.また,アフリカの問題をアフリカ内部で解決していく主体的力量を確立しなければならない.

域内の紛争を自らの力で回避・予防し,他者の介入を許さないようしなければならない.それを外に向かって示すことで国際社会の対等な一員としての認知が得られる.「新たな世紀には,アフリカを辺境に追いやらせない」という,世界に向けた強いメッセージを発することができる.

そのための機構として,南アフリカはOAUを重視する.そしてこの間弱体化したOAUの再編と強化に向けて,リーダーシップを発揮しようとしている.

「戦略的展望」は,OAUを「アフリカン・ルネッサンスのための機関」に作り変えていくよう提言している.しかしその後の提言はやや抽象的なものとなる.

「進歩的で民主的な勢力」を結集して,アフリカ各国に「有能な政治的リーダーシップ」を出現させ,「大陸の刷新と統合を懼れ,それを望まない人々が積み上げる障害を乗り越えなければならない」

これだけではよくわからないが,南アフリカと南ア型民主主義を支持する諸政権によって,アフリカ大陸を指導する新しいグループを形成していこうとするものと受け取られる.当然ながらその帰結として,南ア型以外の非民主的政権は排除する可能性もふくむように思われる.

アフリカにとってまず基本となるのは,世界経済への一人前の参加資格を獲得して,世界市場に参加する中でアフリカ経済の立て直しを図ろうとする戦略である.OAU改革は,その線上に位置づけられており,世界情勢の急速な変貌に適応できなくなった既存の諸機構を抜本的に改造することである.そしてアフリカ大陸の国家と政治の在り方を根本的に変革することである.

 

アフリカ民族会議を構成する諸集団の変化

ANCは「教養と財産」を持ったアフリカ人「市民」の組織として出発した.60年代以降地下闘争,海外での活動,ゲリラ闘争などを展開してきた.この間南ア共産党の活動家を積極的に受け入れ,幹部の多くが共産党員で占められるようになった.

80年代に入って,労働組合(COSATU),反アパルトヘイト組織,教会組織,住民組織(シビック)などが統一民主戦線を結成し,国内での戦いを発展させた.これらは全体としてANCに結集するようになった.ANCはこうした草の根組織の活動家を受け入れ著しく大衆化し,それ自体が統一戦線組織であるかのように多様化した.

ツツ大司教のKTに代表される反アパルトヘイト組織は,国際社会から多額な援助資金を受けていた.それらは80年代を通じて非白人コミュニティの社会サービス給付を支えていた.

ある意味で異常な発達を遂げた非政府組織は,民主化後にその役割を終え,新たな方向を模索している.ANC政府とは,「協力的独立」という新たな関係を結んでいる.

シビックは,住民自治組織として新政府との関係を強め,政府を支える一方の柱となっている.しかし政府の下請けとならず,自治を守りながら政策にもコミットしていくという難しい立場を迫られている.

南アフリカ労働者会議(COSATU)は,反アパルトヘイトの困難な戦いの先頭に一貫して立ってきた.特に中核労組としての鉱山労働者組合(NUM)は,もっともANCに忠実で戦闘的な組合として戦いの展望を切り開いてきた,新政府成立後,労働争議は一気に増加したが,その後指導部の統制が確立している.市場原理に基づく新経済政策の実施に伴い,政府・資本家との矛盾が強まっているが,歴代ANC書記長を輩出するなど,依然としてANCのもっとも強固な基盤である.

97年7月,カロラスANC書記長代行は,「ANCは今後とも,アフリカニスト,ソシアリスト,ナショナリストといった様々な進歩的イデオロギーの住処であることを望んでいる」と発言している.

インド系ANC党員は,ガンジー左派の時代から最も強固で確信を持ち,ANCの指導的幹部であった(多くは南ア共産党員).ANCの当初の行動はガンジーの非抵抗運動に学んだものだった.ソウェト虐殺事件以来,一時沈滞した闘争にふたたび火をつけたのもインド人活動家だった(1981年のインド人評議会選挙に対するボイコット運動).

インド人社会は,ウガンダでのインド人追放事件の影響もあり,新政府樹立にあたっては距離をおく構えだった.しかし最近では自らの民族的アイデンティティーを前面に出すなど,国家的統合へ向けての新たな動きを示している.

現政権には4人のインド系閣僚がおり,人口に占める割合からすれば,インド系社会の影響力は大きい.今後,南ア,インド,マレーシアを軸とする環インド洋地域協力連合(IOR-ARC)が強化されるに従い,ますますその役割も大きくなるだろう.

 

経済政策の動向

 

ムベキは,かなりの国内の抵抗を押し切り,「成長・雇用・再分配―マクロ経済戦略」(GEAR)を策定した.財政的蓄積のない現段階では「南ア経済の将来を民間企業に託す」以外に道はないと見定めてのことである.

もちろん,これまでの白人大企業の思うままにさせるという意味ではなく,ANCの活動家を積極的に経済活動に進出させ,競争的共存を図るなど,市場原理の下でも,社会的・民主的要素を貫く努力が併行して行なわれている.

96年,GEARの実施にあたっては,民主化交渉の功労者であり,一時はマンデラの有力な後継者と目されていたラマポサANC書記長が,政界を引退してみずから財界に転出した.

GEAR導入の背景には,国際経済関係の激変がある.何点かに触れておく.

一,ロメ協定の廃止と世界貿易機構(WTO)による一元化

80年代の反アパルトヘイト闘争の時期,ANCやUDFその他の組織は,実質的に外国からの援助によって成り立っていた.しかし民主化達成のあと,これらの援助は激減した.新生南ア政府は,アフリカ諸国とEUとの経済協力機構であるロメ協定への加入を希望したが,皮肉にも南アフリカが経済大国であるという理由で,正式加盟は認められなかった.

ロメ協定は,アフリカ諸国が独立した60年代以降,ヨーロッパ・アフリカ経済関係の根幹となってきた.しかし70年代に入って先進国間貿易が主体になってくるにつれ互恵的な意義はなくなり,EU諸国にとっては協定そのものが重荷となってきた.いわゆる「援助疲れ」である.

2000年に期限が切れたあと,一種の激変緩和措置として新協定が締結されたが,その内容は「アフリカ放棄」といってよいほど希薄なものであった.

その結果,否応なしにWTO世界標準に経済体制を移行せざるを得なくなった.さらに環インド洋地域協力連合(1997)など地域経済機構との接触をもとめているが,この際も市場経済と開放経済は必須条件となる.

二,地域経済フレームワークの複層化

GEAR導入は,必要に迫られてというばかりではない.それは南ア,ひいてはアフリカ経済全体の発展の展望とも関わってくる.

南アフリカが環インド洋地域協力連合を通じてアジア世界に連結され,さらにAPECを媒介として環太平洋世界と結び付いていくという上行的な連鎖,南部アフリカ地域経済圏を南アを連結器とすることで,世界経済関係の網の目に包摂させていく連鎖がアフリカ・イニシアチブの核心となっている.

アメリカとの二国間関係の強化,対ヨーロッパ,対アジア関係の再編と進展など,あちこちに飛んでいって経済関係を結ぼうとする政策は,多少の自嘲をこめて「バタフライ戦略」とよばれている.

  南アフリカが成長を達成していくために必要な生存圏の大きさは,既存のアフリカ経済の狭い枠に収まらない.新たな地域経済圏の枠組みが必要となっている.(環インド洋経済圏構想)

 

ムベキ大統領の経歴

1942年にトランスカイで生まれる.父はANCの闘士でマンデラとともに終身刑に処せられていたガボン・ムベキ(元上院副議長)

14歳で共産主義青年同盟に加入し,ロンドン大学の通信学生として経済学を学んだ.

1962年に南ア共産党の指令で亡命,1966年にはサセックス大学で経済学修士号を取得している.1970年にはソ連に送られて軍事訓練を受け,レーニン校では極めて優秀な成績を収めたという.

1979年,最年少で南ア共産党政治局員に任命されたが,非正統の議論を展開したため解任された.後任のハニは後に共産党書記長に就任して1993年に暗殺される.

1975年スワジランドでANC次席代表,1978年ナイジェリアのANC代表を歴任した.ルサカ本部に戻ってからはタンボ議長の政治担当書記や情報部長を務めながらその右腕として活躍.1989年には外交部長に就任している.

ムベキ

1990年に民主化交渉が始まった当初はANC交渉団の主席.1991年には一旦政局の表舞台から姿を消した.交渉団主席には,ANC書記長に就いたラマポサがあたる.

1993年,ウィニー・マンデラを中心とする党内ポピュリスト勢力の支持を受け,党幹部が推す候補を大差で破りANC議長に就任,マンデラ後継の最有力となる.94年の新政権では第一副大統領に指名され,第12代ANC総裁の座を射止めた.

洗練された所作と話術は有名で,優れた知的能力と戦略的思考で党内外に知られており,彼の行政手腕に対する評価は特に経済界で高い.

1997年暮れにマンデラが提案したインカタ自由党(IFP)との統合案を蹴り,さらには,時期は明言していないものの,南ア共産党及び南アフリカ労働組合会議(COSATU)とのANC連合を解体する意志を明らかにした.これはANCを統制のいきとどいた政策立案・遂行集団として純粋政党化していこうとする姿勢の現れといわれている.

1997年3月,ムベキは副大統領府の人員を大幅に拡充し,復興開発計画の策定作業を開始.7月には各界24名からなる副大統領府評議会を設け,政策のすり合わせ作業に着手した.マンデラはムベキのことを「実質上の大統領」と呼ぶようになった.