ルワンダの歴史

大変ご好評を頂いている「ルワンダの歴史」をひとまとめにしました。

 

ルアンダ・ウルンディ王国の時代

第一次世界大戦以前はいいでしょう。

第一次大戦後に宗主国が変わり、統治体制が新たに編成されたことが、94年内戦へと結びつく遠因となっているので、そこだけは押さえておいたほうが良いと思います。

ドイツ領東アフリカは、ウガンダとルワンダ+ブルンディに分割されました。東側のウガンダはケニアと接しているためにイギリス領になりました。西側は「ルアンダ・ウルンディ」国として一括され、コンゴを支配するベルギーの委任統治下に置かれました。

ベルギーはツチ人ムタラ・ルダヒグワ国王(ムワミ)にすえ、王制を敷くことになりました。ルダヒグワムタラ3世を名乗り、ベルギーのカイライとなりました。

ベルギーは国内における直接の目下としてツチを利用し、多数派のフツを支配させたのです。ここで2つの点を押さえておく必要があります。

ツチはエチオピア人やケニアのマサイと同じく鼻筋の通った顔で、フツは団子っ鼻です。しかし2つの 人種は長いこと混血しているので程度問題です。より本質的な違いは、フツは定着農耕民で、ツチは遊牧民だということです。そしてツチはフツの社会に後から 入り込んできた人々だということです。

もう一つ、2つの種族は長い間に混交して、一つの言語、ひとつの文化を形成しているということで す。宗教的にもカトリックが多数を占めるということで相違はありません。これは欧州列強によって人為的に国境が引かれたアフリカ諸国の間では珍しいことで あり、むしろ単民族国家と呼ぶべきだろうと思います。

ベルギーはそういう社会に身分制を引き込みました。士農工商のうち士族にツチを、農民にフツをあてたのです。これから話がややこしくなっていくわけです。

すごく単純化すると、会社の会長は外国人、現地会社の社長と役職員はツチ、労働者がフツというわけです。

 

ルワンダ共和国成立の経過

話は一気に下って1960年、「ゴールデン60’s」というわけでアフリカの植民地が一斉に独立 し、民族主義の波がルワンダにも押し寄せてきます。こういう場合、普通はフツ人エリートのなかから反乱するものが現れて、フツ人を糾合しつつ独立闘争に立 ち上がるとしたものですが、ルワンダではそうならなかった。カイライといえども我が君主、守らなくてはという意向が強く働いたようです。

しびれを切らせたフツがまず蜂起します。これが60年11月、「万霊節の騒乱」と呼ばれる暴動です。フツの指導者がツチに捕らえられ暴行を受けた、さらには殺されたという噂が広がるにつれ、大騒ぎになりました。フツ人の暴行が始まり、多くのツチ人が殺されました。多くのツチが暴行を恐れて国外に逃避しました。

この暴動には変なところがあります。支配者であるツチがどうして国外逃亡しなければならないのか、そのへんがどうも良く分かりません。例えば隣のブルンジもツチが少数支配していた国ですが、ここではフツ人が1人殺すと、10人殺すという形で支配を維持しました。

もちろんルワンダでも報復はかなり大規模にやられたようですが、それでもツチ人のかなりの数が亡命したという事実は残ります。

もう一つの変なところは、ベルギーがフツ人支持に回ったというところです。ベルギーから派遣された弁務官ロジスト大佐はフツを利するためにさまざま な行動をとったようです。そもそもルワンダ王国の機構はフツ人多数派を支配し制御するためのマシーンであるはずです。それを自ら壊しに回るというのは、ど う考えても変です。

これから先は私の想像ですが、王国政府内のツチ人に反植民地主義と独立の動きがあり、その動きを阻止するためにフツ人をけしかけたのではないかとい う気がして仕方がありません。これは決して突拍子もないアイデアではなく、隣のコンゴでルムンバ政権を打倒するためにベルギー政府がとったさまざまな手練 手管を知っているからです。

ところで、コンゴは正確に言うとベルギー領ではありませんでした。ベルギー政府ではなくベルギー王レオポルトと王室の私有財産でした。ベルギー王室はコンゴの最大の株主であり、地主であるに過ぎません。実際の経営はフランスに任されていました。

その後の動きはこうです。

暴動の陰にベルギーがあると見た国王キゲリ5世は、ベルギーに抗議し独立の動きをみせます。この動きを受けたベルギー当局は、クーデターにより王制を打倒します。そして国民投票により共和制を樹立します。つまりフツ族の反乱は当初からベルギーの差し金と見たほうがスッキリ理解出来ます。

事情を知らない西側諸国なら、民衆を弾圧する封建的な王制よりは民主的な共和制のほうが優れていると見るでしょう。それがベルギーのやり口なわけです。そもそも王制を押し付けたのはベルギー王室なんですけどね。

 

というわけで、今や目障りとなったツチを追い出して、フツに政権を与える。どうせフツになんか運営できっこないから、名目だけ独立を与えてもフランスやベルギーの思うままに操れるだろうと踏んだのでした。

割りを食ったツチ人は、多くの人が殺され、あるいは「ディアスポラ」として国外逃亡を余儀なくされました。服部正也さんの「ルワンダ銀行総裁日記」に出てくるグレゴワール・カイバンダ大統領は随分善人に描かれていますが、彼の治世のもとでも多くのツチが迫害されていたことは忘れてはいけないでしょう。

 

厄介な隣人ブルンディ

ルワンダとブルンディは双子の兄弟みたいな関係です。同じ国であっても不思議はないほどです。ともにベルギーの支配のもとに少数派のツチ人がフツを 抑えつける形で政権を維持していました。同時に独立しましたが、ルワンダにはフツの政権が、ブルンディにはツチの政権が誕生しました。ところがルワンダで フツがツチを抑圧した以上に、ブルンディではツチが暴力的支配を強めました。そこから逃れたフツはルワンダでツチいじめに回りました。

ところがルワンダを追い出されたツチはブルンディには行かずにウガンダやケニヤに亡命しました。ルワンダのツチ人にとってもブルンディは暮らしやすい所ではなかったようです。

ルワンダのフツ人政府にとっても事情は同じです。ブルンディで何か起こるたびに反ツチ的雰囲気が蔓延し、ルワンダの国内事情も悪化します。より融和的な政権は、より強硬な勢力に交代していきます。

73年にクーデターが起こり、カイバンダは放逐され、ハビャリマナが大統領に就任しました。ハビャリマナは反ツチ姿勢を強化し、ツチ人60万人が国外生活を強いられる事になりました。

 

ルワンダ愛国戦線(RPF)の結成

ルワンダを逃れたツチ人が向かったのはウガンダでした。しかしそこでは難民キャンプに押し込められ、自由な活動はできなかったのです。

当時ウガンダを支配していたのは、イディ・アミンという将軍でした。アミンという人物は我々の世代にはちょっと名の通った「奇人・変人」でした。身長193cmの巨漢で、東アフリカのボクシング、ヘビー級チャンピオンという経歴の持ち主。イギリス軍のコックから成り上がり、クーデターで左派政権を打倒した後、国民30万人を虐殺したと言われます。「黒いヒトラー」、「アフリカで最も血にまみれた独裁者」、「人食い大統領」などの異名を頂いています。

79年になるとアミン独裁政権はムセベニの率いる「国民抵抗運動」により打倒されてしまいます。実はこのムセベニの部隊にかなり多くのツチ人が参加 していました。ツチなくして勝利はなかったくらいの活躍でした。それは同じ時期に闘われたレバノン内戦でのパレスチナ人の活躍を思い起こさせます。

ポール・カガメもその一人で、彼は物心ついた頃からの難民キャンプ育ちです。ムセベニのウガンダ民族解放軍(UNLA)で頭角を現し、ムセベニの片腕と呼ばれるほどの地位まで上り詰めます。しかし所詮は外人部隊であり、アミン追放後はだんだん厄介者扱いされるようになります。

やはり祖国に帰るほかない、と思い始めるのも当然でしょう。彼らは80年に創設された国家統一ルワンダ人同盟を母体にゲリラ部隊「ルワンダ愛国戦線」 (RPF)を結成します。87年のことです。RPFは装備にあたりアメリカの援助を求めました。これは相当思い切った決断です。ルワンダは旧ベルギー領ですが、実質的な宗主国はフランスです。いっぽう亡命先のウガンダはイギリス領ということで、アメリカとは何の関係もありません。

カガメアメリカにわたり、陸軍指揮幕僚大学で軍事訓練を受けました。そして内戦が始まると、RPF最高司令官として戦闘の指揮をとるようになります。

 

ルワンダ内戦の始まり

80年代に入るとコーヒーの国際価格が暴落しました。従来のコーヒー輸出国に加え、新興国が争ってコーヒー生産に参加したための値崩れです。ネスレ などの多国籍企業はこれを見て徹底的に買い叩きました。「コーヒー飢餓」が世界中で出現し、農民がバタバタと倒れていきました。

ルワンダも例外ではありません。コーヒー栽培というのは零細農民でも気軽に手が出せる商売ですが、逆にダメになった時は悲惨です。当然政治に対する 不満も募ります。政府も債務に追い立てられ、内部矛盾も深まります。そこへ持ってきてIMFが厳格な構造調整プログラムを押し付けたので、国内はめちゃく ちゃになります。

90年10月、RPFが侵攻作戦を開始しました。ウガンダ国境地帯に橋頭堡を確保しますが、RPF側も後が続かず膠着状態に入ります。事態は最悪です。しかも人口は増え続け、92年には750万人に達しました。人口密度はアフリカで最高となります。

2年後の92年7月、ルワンダ政府とRPFの間で停戦協定が結ばれました。とにかく戦闘をやめないことには国が持たなくなってくたのです。そして翌93年8月にはタンザニアのアルーシャにおいて和平協定が結ばれました。これはRPF部隊の国軍への編入、ツチ人の政治的権利の保証などを織り込んだもので、周辺国や国連が後押しして成立したものでした。

国連はこの和平協定を実現するために安保理決議を採択しました。決議に基づき、国連ルワンダ支援団(UNAMIR)が派遣され、監視に当たることになりました。しかしこの協定はフツ人強硬派の怒りを呼び起こしました。彼らは共和国防衛同盟(CDR)を結成しツチへの憎悪を煽るようになります。

 

大虐殺への序曲

フツ人の憎悪に火をつけたのはまたしてもブルンディでした。93年にツチ人の軍部が民族和解を打ち出し、フツ人を首班とする政権が誕生しました。しかし93年10月、その政府を軍内強硬派がぶち壊し、ふたたびツチ人支配体制を復活させたのです。

これに抗議するフツ人との間で凄惨な殺し合いが始まりました。約3万人のツチ、約2万人のフツが殺されました。30万人のフツが国境を越え、ルワンダへ逃げ出しました。逃げ出しただけならいいのですが、避難先のルワンダで、今度は反ツチ感情を煽る役を果たしたのです。

共和国防衛同盟は彼らを利用し、民兵組織「インテラハムウェ」を作り上げます。民兵の数は3万人に達しました。そして組織的なツチ抹殺のシナリオを実行に移し始めます。

彼らに武器を与えたのはフランスとベルギーでした。どのくらいそれぞれの政府の中枢部が事態を理解していたかは定かではありません。しかし4000万トンの小火器がベルギー経由でポーランドからルワンダへ流れ込んだこと、それを止めようとする動きがなかったことは間違いないようです。彼らはRPFをアメリカの尖兵と考えていました。そしてアメリカに対抗して旧植民地の既得権益を守ることを最優先に考えていました。

CIAはそれらのすべてを知っていました。そして94年はじめには「最悪のシナリオだと50万人が死ぬ」と予測しています。もちろんクリントン大統領も知っていたはずです。

94年3月、大虐殺作戦が始まりました。キガリ南方のブゲセラでラジオに扇動されたフツ人がツチ数百人を虐殺します。そして大統領殺害事件へとつながっていくのです。

 

大虐殺作戦のあらまし

すでに3月から大虐殺事件が始まっていたにせよ、そのピークは4月6日の事件以後のことです。

4月5日、タンザニアで東アフリカ各国首脳の会談が行われました。会議を終えたルワンダの大統領は政府専用機でルワンダに戻りました。飛行機が着陸 しようと高度を下げた時、突然地対空ミサイルが発射され、飛行機は撃墜されました。大統領は即死しました。あらゆる状況から見て、フツ人過激派組織による 犯行であることは疑いの余地がありません。

過激派の放送局は、「ベルギーの平和維持軍が撃墜した」とのキャンペーンを開始しました。そして翌日には首相も殺害します。この時、首相の警護にあたっていた国連PKOのベルギー軍部隊の10名も襲われ、拷問の末虐殺されます。

それから先は無政府状態となり、過激派による政敵虐殺が相次ぎました。民兵部隊は大虐殺作戦を一気に展開しました。9日にはギコンド多数の児童が教会に集められ、国連監視団の面前で虐殺されました。15日には東部の町ニャルブイエでツチや穏健派フツ2万人が境界に集められた後、虐殺されました。虐殺にはカトリック教会司祭も関与したといわれます。

こうして政府軍、民兵組織(インテラハムウェ)と暴徒化したフツ民間人が、ツチと穏健派フツに対するジェノサイドを展開。4月だけで少なくとも20万人以上の犠牲者を出しました。国連の平和維持軍本部さえも攻撃の対象となります。

なお、「蒙昧無知な一般の住民がラジオの煽動によってマチェーテやクワなどで隣人のツチを虐殺した」というイメージは不適切です。「国家権力側によ る非常に周到な準備が行われ、前半6週間に犠牲者の80%が殺害されるという、極めて高い効率で虐殺が行われていることは明らかだ」と、ウィキペディアは 主張しています。

 

国連の不思議な対応

大量虐殺に対する国連の対応はぶれまくりました。ぶれた理由を一概に非難はできません。とにかくそういう時代だったんだというほかないのかもしれません。何が正しくて何が間違っているのかを誰も言えない時代ではありました。

とくにソマリアでのアメリカ特殊部隊隊員の虐殺と、それに続くクリントンのソマリア撤退命令は、「世界の正義を誰が守るのか」という疑問を抱かせるものでした。

ベルギーは隊員10名の虐殺を受け国連軍からの撤退を決めました。安保理はベルギー軍の撤退を受け、軍事要員を270名に縮小しました。一番増強しなければならないときに撤退命令を出したのですから、現場は大混乱します。ある意味でそれが100万人大虐殺を招いた最大の原因とも言えます。

5月に入ると現地の状況が大変なことになっていることが分かってきました。安保理はUNAMIRを再増員することを決め、各国に計5,500名の軍事要員派遣を求めましたが、時すでに遅しです。もう殺されるべき人の殆どは殺されていました。

 

ルワンダ愛国戦線の全国制覇

4月7日、事態の容易ならざることを知ったRPFは、全軍に対してキガリへの進軍を命じました。すでに軍としての統制もモラルも失っていた政府軍は、RPFの前に崩壊していきます。7月4日には首都キガリがRPFの手に落ちます。そして16日には政府軍の最終拠点であったルヘンゲリが陥落。18日にはPRFカガメ司令官が戦争終結を宣言するに至ります。

ここまでに総人口約730万人中、100万人が殺害されました。さらに25万人から50万人の成人女性や少女が強姦されました。周辺国には約210万人が流出しました。国内では貧困層の比率が78%に達しました。

7月19日、新政府の樹立が宣言され、フツ穏健派のビジムングが大統領に就任します。カガメは副大統領兼国防相のポストに就きました。新政府はただちに出身部族を示す身分証明書を廃止しました。

政府軍と民兵はタンザニア方面とコンゴ方面に逃亡していきます。

 

フランス軍の出動

この頃になってフランス軍が「トルコ石作戦」と称して出動してきます。NAMIRの動員が遅れていた安保理の要請を受けたものでした。フランス軍の行動も不可解なものでした。虐殺を止めるよりも虐殺部隊のコンゴへの脱出を手助けすることに目標を置いているかのようにも見えます。

フランス軍の作った回廊を抜けて多くのフツ人が国外に逃れます。彼らはコンゴ領内のゴマに巨大難民キャンプを形成します。5千名に達したUNAMIRも、主として難民キャンプの治安維持を担うようになります。

国際ニュースにはあたかもRPFが虐殺を行い、それを逃れた人々がゴマに集まっているかのように報道されました。「国境なき医師団」が活躍し、国際支援の多くがルワンダ国内ではなくゴマの虐殺者集団に集中して行きました。

ポル・ポト派のタイ領内キャンプが難民キャンプとして国際支援を受けたカンボジアの事態の再現です。さぞかしRPFは歯ぎしりしていたことでしょう。

 

国内復興の開始

白を黒と言いくるめるような国際キャンペーンにもかかわらず、ゆっくりと、しかし着実にルワンダの復興は進んでいきます。ルワンダ政府は報復やリンチを禁止し、難民に帰還を呼びかけます。その一方で国際機関に対しジェノサイドの告発を行います。国連安全保障理事会は、ルワンダ新政府の要請を受けて、ジェノサイドや非人道行為を行った者を訴追・処罰するためのルワンダ国際戦犯法廷を設置しました。

大きく情勢が切り替わったのは96年のことです。3月にはUNAMIRが解散し、ルワンダ新政権に復興の課題が全面的に委ねられるようになりました。緊急人道支援から復興開発援助への切り替えが始まりました。

10月にはコンゴ内戦が始まりました。国際支援で食いつないでいた難民キャンプ=フツ過激派基地は、ルワンダ軍、ブルンジ軍、およびコンゴ反政府軍 の攻撃対象となりました。同じ時期、タンザニアに逃れていた難民にも退去命令が出されました。これに呼応して、ルワンダ政権も戦争犯罪者であるかいなかの 判断を保留して、難民の帰還を無制限に認めるようになりました。

これで一気に難民の帰還が加速されることになります。

 

国際援助による経済の回復

私はよく知らないのですが、お茶も紅茶も原料は同じで、そのまま蒸せば緑茶になり、発酵させると紅茶(Black Tea)になるようです。放っとけば実がなるコーヒーに比べると、お茶は茶畑作りから始まって加工まで結構手間がかかるようで、ある程度の資本がないと経 営できないようです。コーヒーは中小零細のフツ人が携わっていて、内戦前の4割程度まで減少してしまったのですが、それに代わって茶の大規模農園が発達し ました。(ただしコーヒーも、高級豆生産の戦略が奏効し、10年にはふたたび最大輸出品目となっています)

98年は、経済回復が軌道に乗った年となりました。国際社会は大量虐殺を許した後ろめたさもあったのか、積極的な援助を行いました。3月にはクリントン大統領がルワンダを訪問。「ルワンダに対し適切な対応を行わなかった」と謝罪しています。

IMFは90年に続いて二度目の構造調整プログラムを組みますが、前回の破壊的プログラムに比べれば、はるかに成長重視型の姿勢をとるようになりました。とくに農村部の過剰人口を都市で吸収するための意欲的プログラムが組み込まれるようになりました。

これらが円滑に進行したのは亡命していたツチ系の知識人が帰国し、受け皿となったことが大いに力を発揮したためです。政府も彼らを歓迎しその力に依拠しました。こうして98年のGDP成長率は13%を記録し、内戦前の水準にまで回復しました。

治安の回復と経済再建の進行を見た人々は大挙して帰国するようになります。内戦時代に海外へ脱出したツチ族200万人近くが戻りました。その後も経済成長は7%前後を維持、09年には重債務貧困国の枠組みから脱出するに至ります。こうしてルワンダは「アフリカの奇跡」とまで呼ばれるようになります。

 

民主主義の発展

カガメ政権は、経済成長を背景に民主主義的制度を拡充して行きました。99年には国民和解委員会と国民事件委員会が設置され、ツチとフツの 和解に向けた制度づくりが前進しました。女性の権利が飛躍的に拡大されました。遺産相続制度が改革され、女性の遺産相続が認められるようになりました。 2010年には女性議員が全体の過半数を占めるようになります。これは世界ではじめての経験でした。

03年には大統 領の直接選挙制を柱とする新憲法が制定され、8月の選挙でカガメが大統領に選出されました。政府の規律は高い水準で維持されており、世銀は「世界ガバナンス指標」の汚職対策分野で、ルワンダを中・東部アフリカでトップと評価しています。

社会開発も大きく前進しました。初等教育就学率は95%に達し、修了率も55%に伸びています。予防接種率は98%と、サブサハラ・アフリカで最高水準に達しています。

フランスとの確執

06年11月、フランスの裁判所は、ハバリャマナ元大統領らの殺害容疑でカガメ大統領に対する逮捕状を発行しました。これは世界の世論を憤激させま した。逮捕したいのはフランス政府でしょう。ルワンダ政府はフランスと断交しただけでなく、これまで対外関係から配慮していたフランスへの積年の恨みを爆 発させます。

ルアンダ政府の調査委員会、@フランス政府はジェノサイドの準備が行われていたのを察知していた、Aフツ民兵組織の訓練を行ってジェノサイドに加担 した、Bフランス軍の兵士自身も暗殺に直接関与した、と非難する長文のレポートを発表しました。ルワンダを断罪するはずが、今やフランスが被告席に立たさ れる羽目になりました。

2010年2月にはサルコジ大統領がルワンダを訪問しました。彼は前政権への支持について「大きな判断の誤りがあった」ことを認めることになリました。

ルワンダ、最近の動向

いい数字もあれば悪い数字もあります。ただ全体としてすごい前向きなのは、大使館のホームページを見れば一目瞭然です。いろんな国の大使館のホームページを見ましたが、これだけ日本語で充実したページを作っているのはルワンダしかありません。

その大使館のホームページによれば、2012年はGDP8.6パーセントの成長を記録し64億ドルとなりました。ただし、輸入は輸出額の3倍となっており、経済の脆弱性は依然克服されたとはいえません。国家歳入の約5割が外国からの援助資金によって占められ、累積債務は10億ドル近くに達するなど、援助なしでは立ち行かない状況は続いています。