ネパール国王独裁の崩壊

ネパール民主化 その1

June2006

北海道AALA定期総会で報告  

 

このところネパール情勢が急速な展開を見せています。その背景については疎いので、とりあえず時系列的に経過だけ報告しておきます。

国王による独裁が長年続いていたネパールですが、90年初頭に国王の英断により立憲君主制度へと移行します。これに応じ、非合法活動を続けていた共産党各派が大同団結し、ネパール共産党統一マルクス・レーニン派(UML)を結成します。しかし立憲君主制度をまやかしと見る一派は、合法活動への移行を拒否し、ネパール西部を拠点としてゲリラ闘争を続けます。この一派がネパール共産党毛沢東主義派と呼ばれます。

ネパールはヒマラヤ山脈のふもとの高原の国です。耕地は少なく人口は稠密で、少数の大地主が可耕地の大半を支配し、特権支配層を形成していました。その上に国王を中心とするネパール王室が乗っかる構造になっていました。

いっぽうでインドの半植民地として経済的支配を受けていました、わずかな資本家層はインドからの資本導入をテコに産業を興し、新たな国の支配者となることを狙っていました。

前国王は開明派と呼ばれていましたが、これら新興ブルジョアジーと手を握りネパール経済を成長させるとともに、特権諸侯のしがらみから脱却し絶対主義的な権力を握ることも念頭においていたと思います。これに対し軍部主流派は旧来の特権支配層と結びついて、改革の流れを押しとどめる側に回ります。

ここまではよくある近代化のパターンです。ただし一方における国王・ブルジョア・共産党、他方における地主層・軍部という対立図式はネパール独特のものだったといえます。また、国王の権威に頼るのではなく、自らの力によって地主層・軍部の支配を打倒しない限り、真の民主化はなしえないという毛沢東派の理論にも一理あると思います。

両者の力関係は拮抗し、その後の10年間は一進一退の不安定な経過が続きました。この関係が一気に崩れ去ったのが国王一家集団殺害事件です。

この事件は、王室の晩餐会の席上で女性関係を叱責された皇太子が逆上し、国王一家をピストルで皆殺しにした後で自らも自殺した、ということで一応の決着を見ていますが、だれもそんなことは信じていません。現国王のギャネンドラが反動派軍部と結びついて、前国王派を皆殺しにした可能性が一番強いと思われます。

国王も皇太子も誰もいなくなったネパール王室は、そのギャネンドラが引き継ぐことになりました。ギャネンドラは一方で武装闘争を続ける毛沢東派にたいする攻撃を強めながら、他方でネパール会議派(ブルジョアジーを代表する政党)と共産党の弾圧に取り掛かります。

03年の初めから04年の末にかけての約2年間、ネパールの農村地帯では、封建支配層の支援を受けた軍部と毛沢東派の力比べが続きました。アムネスティ・インターナショナルによれば、毛沢東主義派に対する制圧作戦のなかで、政府側治安部隊に拘束され行方不明になったケースは、確認されたものだけで250件以上に上っています。

しかしこの大弾圧作戦によっても毛沢東主義派を壊滅させることはできませんでした。むしろゲリラは闘いの中で力を蓄え、西部サリヤン地区を中心に急速に影響力を拡大。局地的には政府軍をしのぐようになるにいたります。

04年後半、ネパール共産党毛沢東主義派は中央委員会総会を開き、「戦略的反撃の段階に移行する」ことを決定しました。その後、政権と王室への批判を強め、平野部にも進出し軍施設などの襲撃を繰り返すようになります。

05年2月1日、追い詰められたギャネンドラ国王はみずから権力を掌握し、国家非常事態宣言を発令しました。事実上は封建支配層による軍事クーデターです。

電話回線はすべて不通となりました。新聞各社の本社・工場は軍によって選挙され、徹底した報道規制が始まりました。政党活動家や人権活動家に対する一斉弾圧が始まりました。各派幹部は、逮捕を避けるためにいっせいに地下に潜行します。

一見、情勢が真っ暗になったように見えますが、事実は逆で、ギャネンドラ派にとって情勢が真っ暗になっただけの話です。もともと立憲各派にとっては合法化される10年前までは地下活動が当たり前でした。もはや毛沢東派と立憲各派をおのおのに隔てていた壁は、ギャネンドラのおかげで取り払われました。

2月末、地下に潜行したネパール共産党統一マルクス・レーニン派(UML)とネパール会議派を含む5政党が、国王の独裁に反対し共闘体制を組むことで合意しました。5党連合は毛沢東派にギャネンドラ=軍部独裁に対抗するための大同団結を呼びかけました。

この呼びかけにどう対応するかをめぐっては、毛沢東派の内部で若干の混乱があったようです。プチャランダ書記長は呼びかけに積極的応じる構えを見せましたが、毛沢東派のフロント組織である「統一革命人民評議会」は、「農村が都市を包囲する」古典的毛沢東路線に固執しました。両者の対立は、けっきょく3月末にバブラム・バッタライ評議会議長が失脚する形で幕を閉じました。(この段落は間違っています。補論で訂正しています)

それから半年あまり、地下での折衝を経て、主要七政党と毛派が十二項目の合意にたっしました。主な内容は、国際機関の監視下で制憲議会選挙を実施すること、その制憲議会で立憲君主制の在り方やその是非を問うなどです。毛沢東派からすればかなりの譲歩ですが、それだけの譲歩をしても勝てる自信があるのでしょう。ひょっとするとこの時点ですでに毛沢東派に革命のイチシアチブが移行していたのかもしれません。

4月ゼネストとギャネンドラの退陣

4月6日のゼネストに始まり、24日のギャネンドラ国王の退陣宣言で終わったカトマンズの闘いは、今後明らかにすべき多くの意味を含んでいます。新聞報道で見る限り、この18日間の闘いには明らかに二つの段階があります。

まず最初は、民主化運動を進めてきた主要7政党が呼びかけた全国無期限ゼネストです。これは20日まで2週間続きました。このゼネストは、最初は独裁に抗議する「市民ゼネスト」で、それ自体で権力打倒を目指すような性格のものではなかったようです。

商店が閉められたり、労働者が勤務を拒否したりしても、大規模な集会やデモは不可能でした。報道によれば、「人々はマーケットなどに殺到し、日用品の買いだめに走る」などしていますが、これはある意味で正常な市民的反応です。

ところが20日に突如、大規模なデモが展開されます。非常事態が宣言されている中での反政府デモですから、相当まなじりを決した行動です。現にこのときは治安部隊の鎮圧行動により、少なくとも3人が死亡、50人が負傷するという事態が発生しています。

たいていはこれで大騒ぎにはなるものの、しばらくは体制の立て直しと街頭デモの再組織に時間を要するものです。

ところが1日置いた22日には、それを上回る10万人のデモ隊が出動。しかも今度はカトマンズの王宮のすぐ近くまでに迫ります。このときの警察の対応が奇妙です。報道によれば「警察はゴム弾を撃ち、竹の棒でデモ隊殴り、数百人がけがをした」とされています。

つまりデモ隊は数百人のけが人が出ようと物怖じしない決意を持って行動に立ち上がっています。それに対して警官隊は完全に及び腰、というより逃げ腰の対応になっています。これから先は推理になりますが、デモ隊の主役がもはや変わっていたのではないでしょうか。

それを示す間接的証拠が、毛沢東派が6月2日に首都カトマンズで繰り広げた一大デモです。毛沢東派は最大限動員を呼びかけ、全国から10万人を動員しました。共同通信は20万人と報道しています。集会ではギャネンドラ国王をあらためて非難するとともに、「君主制を廃止し共和制を」というスローガンが唱えられたそうです。

22日のデモが終わった直後、主要7政党は「25日にカトマンズで100万人規模のデモを行う」と発表します。「100万人」というのは、今度で決めるという意気込みです。今まで物陰で息を潜めていた群集がいっせいに街頭に飛び出しました。もはやカトマンズの街頭という街頭が解放区状態になっています。

「100万人集会」を明日に控えた24日、ついにギャネンドラは屈服しました。彼は国王の座にはとどまるものの、「国家の主権・行政権を国民に戻し、4年前に解散させた議会を再開する」と声明しました。そして政治の表舞台から身を引くことになります。こうして3年半続いた国王独裁の試みは、全面的な敗北に終わることになりました。

毛沢東派はこれを予期していたかのように、26日には一方的停戦を宣言しました。

1ヶ月おいた5月26日には、新政権と毛沢東派の和平交渉が始まりました。新政権はこれに合わせて収監中の約千三百人の毛沢東派メンバー全員を釈放しました。

交渉が始まった当初、合意までの道のりはかなり遠いものと思われていました。反ギャネンドラで合意したとはいえ、前国王時代には政府与党対ゲリラ部隊として軍事的に対決してきた関係であり、決して友好的なものではなかったからです。

ところが交渉はあれよあれよという間に進展し、わずか3週後の6月16日には、包括的休戦合意に達してしまったのです。ギャネンドラ=軍部独裁体制が崩壊したことよりも、むしろこちらのほうが驚きでした。

毛沢東派というと、これまで私たちにとってはマイナスイメージが強烈でした。名前こそ共産党ですが、実体としては反文明主義のカルト集団のように思っていました。カンボジアのポルポト派、ペルーのセンデロ・ルミノソ、フィリピンのシソン派新人民軍です。ネパールと国境を接するインドの西ベンガル州などでも、中国派のゲリラは左翼政権を支持する民衆に野蛮なテロを繰り返してきました。

しかし、少なくともこれまでのところ、ネパールの毛沢東派はこれらゲリラ集団とは明らかに一線を画しています。

16日に包括的休戦合意が成立した後、主要7政党と毛沢東派が共同で記者会見を行いました。会見ではあたかも毛沢東派のプチャランダ書記長(本名プスパ・カマル・ダハル)が座をとり仕切っているようだったと報道されています。

プチャランダはまず、昨年11月の12項目合意を基礎とし、完全和平実現へ向けた歴史的な8項目の包括的休戦合意が成立したと宣言しました。その内容として、「国会と毛沢東派支配地域の“人民政府”を解散した上で、1カ月以内に共和制を柱とする暫定憲法と暫定政府を発足させる」ことが明らかにされました。この暫定政権には毛沢東派も全面的に参加します。

そしてこの暫定政権の下で、制憲議会選挙に向けた準備が進められることになるわけですが、その期限は必ずしも明らかにされていないようです。特権支配層と国軍が今後どう出てくるのか、このまま暫定政権の支配の下にとどまるのか予断を許さない状況の下では、当然の措置でしょう。

新政権は二つの共産党、国民会議派、前国王派などの寄り合い所帯です。誰が復興のイニシアチブを握るかにせよ、政局運営は困難を極めたものとなるでしょう。事実上の宗主国であるインドがどういう態度をとるかも微妙なところがあります。

10年以上にわたる事実上の内戦状態で、これまでに約1万2500人が死亡しています。国民はまず何よりも平和と安全を希求していると思われます。同時に封建的大土地所有のくびきからのがれ、この国を覆う貧困からの脱却と、国際機関の援助漬けではなく自主的な、そして持続可能な経済発展を望んでいると思われます。

プチャランダは「和平プロセスが成功すれば、21世紀の歴史的な新しい実験となるだろう。5−10年で発展と繁栄を達成できると思う」と語っています。大いに期待したいものです。