中国の医療と社会保障制度

 

A 中国の医療システムのあらまし

1.旧医療制度の成立と崩壊 

新生中国では,51年の「労働保険条例」により社会保険制度が始まりました.それは医療保険だけでなく年金、生命保険、出産・生育保険、労災保険、および家族保険などをふくむ包括的なものでした.医療保険制度は、「公費医療制度」、「労働保険医療制度」から構成され、両方の対象者とも無料で医療サービスを受けることができました。

この制度の運用は中華全国総工会(労働組合連合)に委ねられ,各企業から保険掛け金を徴収し、被保険者に保険金を給付していました.

しかし文革を期に総工会の管理機能が麻痺し,このあとは各企業ごとに自己管理する「企業保険」制度に変りました.この制度では,定年退職者の年金支払額のすべてを企業で負担することになっていました.

78年以後,産業の基幹を担う国有企業の多くは近代化に立ち遅れ,長期にわたって赤字経営が続きました.企業は生き残りを図るためにリストラにより余剰人員を整理するようもとめられました.

また国有企業は定年退職者の急増により,「企業保険」の重荷を負担できなくなりました.退職者への年金や医療保険の支払額は、在職者の賃金総額の30%ちかくになりました.中には、在職者の数と定年退職者の数がほぼ同じ数という企業もありました.

80年代後半になると,国有企業の中には職員・労働者に対して給料の支給ができなくなるものも現れました.定年退職者への年金支給を停止したケースも少なくありません.

 医療保険も同様な事態に陥りました.医療費が年平均16.2%の割合で増大するいっぽう,給付のレベルは低下していきました.経営不振の企業では,経営困難を理由に長期にわたり滞納したり,支払いを拒否するという事態も生まれました.

 

2.あらたな社会保険制度の成立

あらたな社会保険制度への動きは,国有企業の改革と失業者対策という観点から開始されました.

国有企業改革を成功させ、社会の安定を維持するためには,リストラされた余剰人員の再就職を促進すると同時に、失業保険、医療保険、年金(養老保険)などの安全網を機能させ、「後顧の憂」を除かねばなりません.

このため破産した旧社会保険制度を改革し、市場経済システムに適合した新しい医療保険制度を確立しなければならなくなりました.

98年,国務院は「都市職員・労働者の基本医療保険制度の整備に関する決定」を公布しました.これにより福祉的色彩の強い労働保険制度が廃止され,「医療保険基金」と「個人口座制度」が導入されました.あらたに保険掛け金の個人負担が導入されました.さらに国家が一定の負担を受け持つことによって財源を確保し,全国統一的制度へ確立する方向を目指しました.

 

3.保険料と給付方式

新しい制度の根幹は「基本保険」です.その特徴は、①保険料への個人負担の導入,②個人口座制度,③社会保険基金制度の開設,という3点です.

保険料の構成 事業主 賃金総額の6%+被保険者 本人賃金の2%
70%30%100%
基金の構成 社会統一徴収基金個人口座

 

 

 

この制度の仕組みはなかなか複雑で,私もよく分りませんが,分る範囲で説明します.もし間違っていたらご教示願います.

保険料は旧制度では企業の全面負担でしたが,新制度では個人も平均賃金(ボーナスを含む)の2%を納付することとなりました.これは、本人の医療保険口座に積み立てられます.2%というのは大変少ない印象ですが,今後比率は引き上げられていく予定のようです.

いっぽう企業は,平均賃金の6%を医療保険掛け金として負担します.その70%は医療保険基金に納入され、残りの30%は職員・労働者の医療保険口座に繰り入れられます.したがって払い込み額は賃金の約2%という計算です.医療費を個人口座から支払った場合,いわば半額が補助されたということになります.

医療保険基金は,地方政府が主管し,その地方の掛け金をプールして運用します.運営費用については地方政府が負担します.そのほか一定の国家負担もあるようです.

つぎに給付のほうですが,労働者は一人一人「個人口座」というものを持っており,医療費が発生した場合、まずそこから支払いが行なわれます.かんたんな病気ならそれだけで済みます.しかし口座の残額を超える場合は全額が自己負担となります.

個人口座で賄えないような大病の際は,医療保険が出動することになります.医療保険には,医療費の額により足切り・頭打ちがあります.各地方政府が制定していますが,スタートラインは年平均賃金の10%前後,最高給付ラインは年平均賃金の4倍前後とされています.

医療費用が、給付スタートラインに達しない場合は,個人の医療保険口座から支払うか、または自費で支払うことになります.最高給付ラインを超えた医療費用も、全額自己負担となります.医療保険の範囲内でも,一定の自己負担はあるようです.

最高支出額は、年平均賃金の4倍までとされます.それを越えたら死ねということです.(個別の企業が積み上げる「高額医療費補助制度」というのも挙げられているが,一部外資系企業などを除き有名無実のようです)

この新制度の恩恵を一番受けるのは,これまで無保険の立場に置かれてきた民営企業や外資系企業で働く従業員です.

 

4.運用の実態  

ここまで制度の仕組みだけ聞いていると,それなりにうまくいっているような気にさせられます.昨年,労働・社会保障部医療保険司は「医療保険の加入者が1億647万人に達した」と発表しました.北京では「企業従業員総数の90%以上をカバーしている」といわれています.保険司は「基金の収支バランスもとれ、医療負担の急激な増加や不当な医療費請求などの抑制にも効果を発揮している」と自画自賛しています.

しかし,これは実態とは相当かけ離れているようです.同じ頃, 『中新網』はまったく逆の結果を示しています.報道によれば, 医療保険に加入している人はわずか3%で、残り97%の人は完全な自己負担です.自己 負担額は3000億元に達しました.

国民医療費を見れば医療・社会保障の貧困は歴然です.医療費のGDPにおける割合は5%足らずに過ぎません.どんなに優れた制度を作ろうとこれでは仏作って魂入れずです.同報道は,「国有企業の職員に対する医療保障は経営不振に陥っている.ニーズの度合いに応じた保障,個人負担部分の軽減、法律面での支援が不足している」ときびしく指摘しています.

政府予算における医療・公衆衛生関係費の比率は,改革・開放以降年毎に低下しています.この結果,国民医療費に占める国庫支出の割合は劇的に低下しています.

80年代初頭には、国民医療費の36%を政府がカバーし,国民負担の割合は23%にとどまっていました.しかし2000年には,政府負担は15%にまで低下し,逆に国民の個人負担割合が60%を越えるようになっています.しかもこれは,曲がりなりにも保険によりカバーされている都市住民の話で,農村ではもっとひどいことになっています.

政府機関が行なった「第3回国家衛生サービス調査分析報告」 によれば,医療サービス利用率は過去10年で10%以上低下しています.国民の36%(都市部では47%)が病気になっても病院へ行かず、自分で薬を買って治療しています.とくに 消費者のニーズが高い高額医療費や介護費などの基本的な保険制度は未だ整備されたという状況にありません.

「報告」はその理由として次の三点を挙げている
(1)低い医療保障カバー率: 都市住民の50%以上、農村住民の80%以上は何の医療保障も受けていない。この10年間で,都市住民の1/4が各種医療保険から離脱した.その多くは労働医療保険の廃止に伴うものであり,失業・レイオフなどで職場を離れた人々である. (2)医療費の高騰: 医療費は平均収入の伸びを上回る速さで高くなっており、食費と教育費に次ぐ出費になっている. (3)低所得層の問題: 低所得層において「入院すべきだが入院していない」人の割合は41%に達する.


この間隙を縫って猛烈な勢いで成長しているのが民間保険です.とくに医療費が年平均賃金の400%を越えるような重病にかかった時には,これが唯一の頼みの綱です.中国では現在、300近くの民間健康保険があり、都市人口の約半数が保険の加入を考えているといわれます.予測では、今後3年でこれら民間保険の加入者は76%に上るとされています.

  

B 中国の医療・公衆衛生状況

1.医療機関と患者の数

病院は全国7万個所,ベッドは297万床。医師184万人、看護師124万人。看護師の数は日本の約1/10程度. 点滴や静脈注射などが主な看護業務となっています.外来受診者数及び入院患者数は、日本よりはるかに多いが,入院費が高いため平均在院日数は極めて短くなっています.

2.死因統計

おもな死因は、①悪性腫瘍,②脳血管障害、③呼吸器病、④心臓病の順.悪性腫瘍のうち①肺癌、②肝癌、③胃癌、④大腸癌、⑤食道癌が主要なものとなっていますが,農村部では肝癌が一位となっています.

自殺者は毎年200万人.次第に増えていて、今や10万人に23人となっています.若い世代が多くを占め,急激な社会変化が原因と考えられています.精神科病院は公立・私立あわせ2000に過ぎず,精神科医も14,000人と少ないです。

4.伝染病の克服

中国で伝染病対策に従事した吉倉氏によれば,ポリオが根絶されたのは90年代に入ってからのことです.根絶が遅れたのは流動人口が多いこと,もう1つは未登録児がかなりの数に上ることです.ポリオ以外の伝染病についてははるかに困難です.一つには地方において医師の教育レベルが低いこと,もう一つは「大変貧乏」なことです.

省の間には大きな経済格差があります。注射器を購入するお金さえありません.WHOは「ディスポ化」を強調しますが,場所によっては,一度使ったディスポ製品を洗ってもう一度使っているようです.

病院は「ディスポは廃棄している」と言うのですが,ゴミ箱を見ますと,薬瓶などは捨ててあるのに,注射筒がどうしても見つかりません。どこかで回収しているのでしょう。

現在大きな問題は予防接種によるB型肝炎,C型肝炎の感染,HIV感染の拡がり,ハンセンなどの問題です。麻疹にしろ,B型肝炎にしろ,すべて注射器を使います。不用意に麻疹などを根絶しようとすると,逆に予防接種によってこれらの感染症が広がるかもしれません.

5.医療供給システムの問題

中国には個人開業医はいません.病院がプライマリ・ケアも受け持っています.受診料は通常4元,たとえば3日間の解熱剤と抗生物質を投与されたとして、薬代は8-20元ほどになります.大学の助教授や教授では7元、上海や北京の私立では60元のこともあります.それでも千円足らずです.

医師の人件費が安いために医療費が抑えられているのでしょう.しかし安ければ良いというわけでもありません.

金銭的な問題から診断や治療が制限されることがあります.病気の種類によっては保険で承認されていない薬剤が必要となったりしますが,この場合は患者が自己負担をしなければなりません.

事例① 28歳男性が前腕を骨折して2週間入院。医療費は5000元(65,000円)で、給与の約10倍.これを入院時に納める必要がある.親戚や友人に工面してもらった.
事例② 5歳の白血病小児。入院加療だけでなく、退院後にも2-3万元の経費がかかる見込み。両親は担当医と相談し、自宅で経過観察することとした。

また脳腫瘍が疑われた場合,日本ではMRIが行われるのが一般的ですが,中国でMRIを行なうと,一般労働者の一ヶ月の給料がすっ飛んでいきます.このためCTだけの判断で手術することも少なくないようです. 

これは噂話の類でしょうが,医療費を先払いしないと手術しないという悪徳医師,逆に病院を医療ミスで訴えて医療費の支払いを免れようという不良患者も続出しているとのことです.

以下に,佐藤貴子さんのページから引用させていただきます.

同じような話は韓国でも耳にしました.いずこも同じで,陽気の話を除けば,医者の悪口くらい害のない話題はないということでしょうか?

しかし医師の所得も決して多くはありません.医師の大半は大学病院や公立病院に所属し、国家公務員となります.月給はボーナスをふくめ1500~2000元といいます.日本円だと二万円くらいでしょうか.これに対し、タクシー運転手の月給は5000~8000元,外国合弁企業は5000~15000元と遥かに高いのです.このことから若手医師を中心に病院をやめて、給料の高い製薬会社や外国に流れてしまうケースが増えてきています.

ちょっと下世話な話(02年の医学界新聞特集座談会)
森岡 医師の生活は豊かですか。 酒谷 私がいた6年の間に,かなり豊かになりました。95年当時は,病院全体でマイカーを持っていた人は4人でしたが,私が帰る2001年には,各医局の半分以上の方が持っていました。マイカー通勤や,週末のドライブが当たり前になりましたね。 森岡 医師の地位が高くなったかな。 酒谷 患者さんからの個人的なお礼がけっこうあるのでしょうか。

 

 C 社会保険制度の難題と展望

社会保険基金の財政は大変苦しい局面を迎えているといわれます。一番の危機が年金保険制度です.定年退職者人口の急増に直面し「僧多粥少」(ものが少ないのに、分配を願う人が多い)の状況にあります.医療保険制度も,高額医療ケースの続出により赤字に転落する恐れがあるとされます.失業保険基金の財政も楽観的ではありません.

とくに社会保険掛け金の徴収難により基金の収支バランスが崩れ始めていることが大きな問題です.すでに各地方の社会保険基金が赤字に転落する恐れが表面化しているようです.

国有企業100社に対するアンケート調査(99年)によると,保険料や医療費・年金の支払いが「ない」と答えた企業は,わずか3社です.社会保険料を納入していない企業,被保険者に年金、医療費を「支払わないことがある」とこたえた企業が49社もあります.その未払い金額は約10億円に達し,全対象100社の支払うべき保険料の2割を占めるするそうです.

残りの48社は空欄のままとなっています.それらのほとんどが未払いが「ある」と考えられます.要するにほとんどの国有企業は掛け金をまともに払っていないということです(厚生省社会保障・人口問題研究所).

 

小康社会は,ある意味で「アゲゾコ」社会です.とにかく人口が多いので絶対数で見ていくと分りませんが,日本並みに縮尺してみれば,まだ多くの人たちが途上国並みの生活レベルにありことがわかります.

中国指導部は,いまやそのことを理解しており,革命的改革が必要なことを理解しています.これからの動きに注目していきましょう.

 

文書作成にあたっては,下記論文を参考にさせていただきました.

中華人民共和国国務院報道弁公室 「中国の労働と社会保障状況」

沙 銀華 「中国社会保険制度の改革-固有企業改革の「お守り」-

第3回国家衛生サービス調査分析報告 04年12月

佐藤貴子さん 「中国の医療」

医学界新聞特集座談会「中国の医学・医療と日中の医学交流」