年表  毛沢東のライヴァルたち

遡っていくと、いくらでも行ってしまうので、1915年以前の記事は「辛亥革命年表」として別途起こしました。そちらはこの年表と若干かぶるのですが、孫文の死までを扱うことにします。

1915年

1月 日本政府、北京の袁世凱政府に「対華21か条要求」を突きつける。(山東省のドイツ権益継承と南満州・東内蒙古の鉄道・鉱山利権の割譲をもとめる)

3月 日本が「21ヶ条要求」を強要。袁世凱はこれを受諾。日本に抗議する国民大会が開かれ3万人が参加。上海の埠頭労働者は日本郵船の仕事を拒否。

5月 袁世凱の屈服により「21ヶ条条約」が締結される。「五九国恥日」と呼ばれる

9.15 日本から戻った陳独秀が、上海で近代思想を紹介する『新青年』(初号は「青年雑誌」)を刊行。「新文化運動」を提唱し、徹底した儒教批判を行う。

日本留学中に民族主義者となり、辛亥革命後は安徽省高官となるが袁世凱に反対して日本に亡命していた。
陳独秀の運動には魯迅・胡適らの「白話文運動」(白話文とは口語文のこと)も合流。著名な作家や学者、政治家を多く生み出した。毛沢東も愛読者で投稿者の一人だった。

12.12 袁世凱が北京で皇帝即位を宣布。孫文は「討袁宣言」を発表。

12月 四川省を中心に護国戦争(第三革命)が勃発。

 

1916年

1月 袁世凱、帝政を復活し自ら皇帝に即位。国号を「中華帝国」とする。2ヶ月後に日本政府や国内各派の批判を受け退位。

以降、軍閥による北京政府の簒奪戦は延々と繰り返され、星の数ほど将軍の名が登場する。これを全部書くには別年表が必要になる。詳しくは成書にあたられたい。

5月 孫文が日本から帰国し、上海(フランス租界)で「第二次討袁宣言」を発表。

6月 袁世凱が病死する。(一節に日本政府筋による暗殺とされる)

6月 黎元洪が後任の大総統に就任。段祺瑞が総理となる。この後、北洋軍閥は、親日の安徽派(段祺瑞)と親英米の直隷派(馮国璋)に分裂。

1917年

1月 北京大学の学長に上海派の蔡元培が就任。近代科学の導入を目指す大学改革を開始。陳独秀、胡適、李大釗、周作人(魯迅の弟)などの人材を結集する。

1912年,北京大学と改称したが,当時はまだ官吏養成機関としての性格が強かった。改革によりアカデミックな性格を強めた。五・四運動の先頭に立ったのは北京大学の学生であった。

                蔡元培

1月 陳独秀、蔡元培の招聘を受け北京大学文科の主任教授に就任。「新文化運動」を提唱。白話文(口語体)の普及や儒教批判に力を注ぐ。陳独秀の北京移転に伴い、『新青年』編集部も北京に移転する。印刷発行は引き続き上海で行われた。

1月 アメリカ留学中の胡適が「新青年」に「文学改良芻議」を発表。形骸化した文語文にかわって俗語・俗字を使用し,「今日の文学」をつくろうと主張。文学革命の嚆矢となる。

2月 「新青年」翌号に陳独秀が「文学革命論」を発表。陳腐で難解な貴族古典文学を排し,社会現象を反映する平易な国民写実文学を提言する。

5.23 黎大統領、横紙破りを繰り返す段国務総理を罷免。

7.01 安徽省の軍閥張勲、北京に乗り込み、黎を下野に追い込み、清朝復辟を敢行する。これに対し段祺瑞が挙兵し、北京を奪還。張を駆逐して共和政府を復活。後任の大総統には直隷派の馮国璋が就き、段は国務総理兼陸軍総長となる。

一連の経過の中で北京政府の権威は失墜。満州には日本と結びついた張作霖、山西には閻錫山など、各地に軍閥・革命派・独立派が割拠する。

8月 孫文ら、上海から広州に移り第一次護法運動を起こす。湖南督軍譚延ガイ(門構えに凱の辺)も運動に参加。

9月 西南軍閥の支持を取り付けた孫文、広州で護法軍政府を組織。段祺瑞は、護法派の譚延ガイを罷免。

11月 広州軍政府の鎮圧に失敗した段は国務総理兼陸軍総長を辞任する。

11月 李大釗、北京大学図書館長に就任。

李大釗: 早大政治学科に留学。16年に帰国し北京で『晨鐘報』を創刊。翌年に蔡元培のすすめで北京大学教授、図書館長となる。(陳独秀が紹介した)
初期中国共産党の理論的指導者である。「フランス革命とロシア革命の比較」,「ボルシェビズムの勝利」などをたて続けに発表。十月革命をたたえ、マルクス=レーニン主義を紹介することで、中国共産主義運動の先駆者となった。
「中国の今日は、世界経済のうえでは世界のプロレタリア階級にならんとする地位に立っている」という「プロレタリア民族論」が有名。


       李大釗

11月 ロシア革命が成立。労・農・兵ソビエト政権が誕生。

 

1918年

2月 復活を狙う段は東三省の張作霖を関内に迎え入れ、馮国璋に圧力。元職に復帰する。

3月 広東政府の孫文、日本の陸士を卒業した蒋介石を作戦参謀主任に据える。

4月 湖南省長沙の第一師範で、毛沢東、蔡和森らが新文化運動に共鳴し「新民学会」を結成。のちに主要メンバーは共産党や社会主義青年団に加わる。

蔡和森はこの年にフランス留学。フランスで周恩来らと共産主義運動をはじめた。21年帰国(国外追放)して中共に入党,機関誌「嚮導」の責任者として活躍した。
レーニンの帝国主義論をより直截に導入して,「中国革命が帝国主義の世界支配と直接対峙する性質を有する」と主張。

5月 北京の段祺瑞政権と日本との間に秘密軍事協定が結ばれる。「学生救国会」成立され、全国各地で抗議行動を展開する。

日華軍事防敵協定: 日本軍の中国国内における行動を無制限とし、また中国軍を日本軍の下位におくこととする。

7月 李大釗、陳独秀とともに「毎週評論」を発行。

8月 日本がソビエト・ロシアに干渉しシベリアに出兵。

9月 毛沢東、湖南のフランス勤工倹学希望者20名余を連れて北京に来た。李大釗と知り合い図書館助理員の職を得た. 毛沢東は陳愚生の家で毎週開いていた「少年中国学会」の会合には. 必ず参加していた

18年 魯迅、『新青年』に口語体小説『狂人日記』を発表、胡適の唱えた白話文学を実践。

 

1919年 五・四運動

2月 ソ連、世界革命の実現のためコミンテルンを設立。各国に共産党を組織する活動を開始する。

3.01 朝鮮で反日民族運動「三・一マンセー運動」が発生。日本の弾圧で死傷者2万3000人を出す。

3.17 フランスへの勤工倹学留学生の第一陣89人が船で出発。毛沢東が胡南出身学生の見送りのために北京を離れ上海に来る。そのまま長沙に戻ったため、5.4運動には参加せず。

勤工倹学留学: 20年には1年間で1200名が渡仏した。彼らの多くは「勤工倹学」生と呼ばれ、中国人の経営する工場で働きながら、休日・夜間に教育を受けた。これらの教育をパリ在住中の蔡元培が支援した。(寺廣)

4.30 ベルサイユの戦勝国会議、山東省のドイツ権益を日本に譲渡することで合意。

4.01 北京の「晨報副刊」、淵泉訳「近世社会主義鼻祖馬克思之奮闘生涯」を連載。河上肇「マルクスの『資本論』」ほかの抄訳。5月には「馬克思的唯物史観」を掲載。これも河上肇「マルクスの唯物史観」の抄訳。

5.03 首都の学生代表が北京大学に集合。ベルサイユ条約の拒否を決議する。

列強が「ウィルソンの14ヶ条原則」を裏切ったことから怒りが爆発。ヴェルサイユ条約反対や親日派要人の罷免などを要求する。

5.04 中国で反日「五・四運動」が発生。北京13校の学生3千人が、天安門広場からデモ行進。一部が政府内親日派の邸宅の襲撃や焼き討ちに及ぶ。北京の軍閥政権は学生32人を逮捕し弾圧。

鄧中夏: 1894年、湖南省の生まれ。北京學生聯合會總務幹事として学生デモを指導。その後李大釗とともにマルクス主義研究会を組織。北京の共産党組織を立ち上げる。北京南西の長辛店で工人運動に携わった後上海に移り党活動に専念。30年湖北の紅二軍団政治委員。その後上海市内に潜伏するが33年5月とらえられ、9月南京にて刑死。维基百科

           鄧中夏

 5.04 陳独秀は街頭で「北京市民宣言」のビラ配りをしているところを逮捕され、3ヶ月間にわたり勾留される。これを機に急速にマルクス主義に接近。

5.05 北京市内の学生は、5月4日を国恥の日とし、ストライキやデモを敢行。逮捕された学生の釈放、売国賊の罷免、講和条約調印拒否を要求する。

5.07 北京で学生の愛国運動を支援する集会に2万人が参加。

5.07 日本が最後通牒を突きつける

5.09 北洋政府、条約締結を受諾。

5.19 北京の中等以上の学校でストライキ。代表を全国各地へ派遣し、社会各層が広範に参加する全人民運動へと発展させる。これに呼応して各地の大学が授業ボイコット(罷課)に入る。

5月 李大釗らは『毎週評論』で、「パリ講和会議は列強の盗みとったものを振り分ける会議」だと批判。『毎週評論』は学生運動の機関紙としての役割を担う。

6.01 北京政府、学生の行動を取り締まる方針を打ち出す。

6.03 全国主要都市で学生のストライキとデモ行進が決行される。「全国各界連合総会」が結成され、市民・労働者へも闘いが広がる。当局は学生1千人を一斉逮捕。

6.05 上海で「罷課」(大学スト)。これに呼応して罷市(商店スト)、罷工(労働者スト)の三罷闘争が起こる。港湾労働者は日本船の荷揚げを拒否。交通・通信労働者のストにより上海全市が麻痺状態となる。日本製品ボイコットは1年続く。

6.07 北京政府、上海での三罷闘争を受け、学生を釈放。

6.16 全国21地区の学生代表50数人が上海に集まり全国学生連合会が成立。

6.28 パリの中国代表団、政府の意向を無視しヴェルサイユ条約への調印を拒否する。(7月1日には署名)

6月 直隷派の曹錕と呉佩孚、公然と学生運動を支持し、ヴェルサイユ条約調印反対を主張。さらに北京政府による南北武力統一路線への反対を公然と表明する。

7.01 北京で中国少年学会が設立される。王光祈、李大劃、曽埼、周太玄ら七名が結成に尽力する。機関誌『少年中国』を発刊する。

少年学会は青年の政治・文化教育を目指す組織で、共産主義者と進歩派の共同で進められた。数年後には両派の矛盾が激化し瓦解。
北京ではすでに1年前から「学会」の名で定期学習会が開かれており、毛沢東も参加していたことは前述のとおり。

7月 長沙に戻った毛沢東、少年中国学会の湖南版として「文化書社」を設立。毛沢東、趙世炎、郡中夏、悸代英、察和森らが加入し、会員数は107名に遠した。

“郡中夏”が鄧中夏とすれば、彼は湖南生まれではあっても湖南グループとは無関係と思うが、里帰りしていたのか。

8月 李大釗が「私のマルクス主義観」を発表。マルクス主義の概要を紹介。批判的視点を含めてマルクス主義に対する見解を明らかにする。

9月 『新青年』が「マルクス主義専号」を出す。

10.10 孫文、五・四運動の高揚を受けて中華革命党を中国国民党に改組。革命を実践するのに有効な組織に作りかえようと試みる。

12月 直隷派のボス馮国璋が死去。実権は曹錕と呉佩孚の手に移る。

19年 ロシア人らが上海において「上海クロニクル」紙を発行。コミンテルンの隠れ蓑となる。

1920年

1月 ソ連軍が中央シベリアを確保。イルクーツクに「ロシア外務人民委員部シベリア代表部」が設置され、シベリア領内における外国の代表および政治的集団との交渉を担当することになる。ヴィレンスキーらが指導に当たる。

イルクーツクの動きは内戦中のこともあり情報が錯綜している。ヴィレンスキー→ヴォイチンスキーが所属していたのは「ロシア外務人民委員部」(外務省)である。一方、ロシア共産党のシベリア・ビューローも、20年4月に「東方ビューロー」を結成している(主として朝鮮人対応)。7月にコミンテルンの第2回大会が開かれ、アジアへの「中間指導機関」の設立を検討。翌年1月に共産党とコミンテルンの調整がつき、東方民族部がコミンテルンのイルクーツク書記局となる。ヴォイチンスキーの作ったルートはそのままコミンテルンに継承される。

1月 蔡和森ら、第3回の勤工検学生として渡仏。ただちに「新民学会フランス分会」の組織に着手する。後の共産党フランス支部の中心となる。

この年、ほかに二つのグループが独自に組織活動を開始した。ひとつは陳独秀の息子たちで雑誌「新青年」を通じて社会主義青年団を組織した。もう一つは、アンリ・バルビュスを通じてコミンテルンと接触した周恩来が組織したフランス共産党中国人細胞である。在巴黎組建了「旅歐少年共產黨」,由趙世炎任書記、周恩來任宣傳委員、李維漢任組織委員。

1月 陳独秀、北京を離れ上海に移る。

3月 シベリア代表部のヴォイチンスキー(維金斯基)上海クロニクルの記者を装い訪中。北京大学でロシア語を教授していたポレヴォイ(Polevoy)を通じて李大釗と接触。党設立を促す。

ヴォイチンスキー(Grigori Naumovich Voitinsky): 革命後のシベリア内戦の中で入党した現場活動家であり、中央幹部ではない。さらに言えば、コミンテルンのエージェントではなくソ連外務省のスタッフである。この時点では、いわばメッセンジャーとして先乗りしたに過ぎない。

3月 北京大学で李大釗,鄧中夏らがマルクス学説研究会を秘密裏に設立。

4月 ヴォイチンスキーが上海に入る。「上海クロニクル」新聞にソ連政府から資金援助を入れ、社の事務所にコミンテルンの東アジア事務局を設置する。(一説では「中俄通信社」という)

石川によれば、上海グループの中心は後に国民党右派の代表となる戴季陶だった。国民党内きっての理論家として上海で最もマルクス主義学説に通暁していたとされる。載季陶はその後孫文の反対を受けグループを離れた。
他に「共産党宣言」を翻訳した陳望道や李達、沈沢民、張聞天らがいる。 なおここで沈玄龍と書かれているのは沈玄廬のことか? 

7月 安直戦争が勃発。呉佩孚は曹錕と共に安徽派に対する事実上の宣戦布告。奉天派の張作霖と連合し北京を攻略。

7月 段祺瑞が失脚。安徽派は直隷派に敗れ衰退する。

8月 上海でマルクス主義研究会共産主義小組が結成される。陳独秀、李漢俊、沈玄龍、俞秀松、施存統(元アナーキスト)などが活動を強化。本部を陳独秀の家に置く。「労働界」を発行し、青年・学生の間に共産主義の影響力が広がる。

上海グループをリードしたのは李漢俊(又名李人傑)。暁星中学・東京帝国大学で学び、18年に帰国。多くの翻訳書を通じて青年たちに影響を与えた。党の結成会議は李漢俊の自宅で行われている。武漢で工作活動に当たったが意見の違いから離党。26年には国民党に参加している。27年、軍閥により殺害される。


        李 漢俊

8.22 上海共産主義小組のもとに社会主義青年団が結成される。団員が集まらないまま解散。

9月 『新青年』編集部が北京から上海の陳独秀宅に移る。上海共産主義小組の刊行物として位置づけられる。

10月 李大釗、張国焘らが北京共産主義小組を結成。このほか長沙,武漢,済南,広州などで,国外では日本,フランスで相次いで共産主義小組が結成される。

張国焘(ちょうこくとう): 江西省出身で16年に北京大学入学。当初は無政府主義者だったが、五・四運動の中で共産主義に接近。第1回大会以降、一貫して政治局員を務めた。志賀義雄的人物か。

11月 「新青年」とは別に秘密刊行物として「共産党」が発行される.

11月 上海小組、「中国共産党宣言」を制定。「共産主義者の目的は国際共産主義の理想に照らして,新たな社会を創る」ことと規定する。

11月 孫文を支持する陳炯明が広州の支配権を獲得。上海の孫文に政府の建設を要請する。孫文は広州に移り、軍政府を再建。

広東は省の名前で、首都が広州である。ただ広州を指して広東と呼ぶこともある。広東省はむかし越と呼ばれたことから、越の別字である「粤」と表現されることもある。

12月 陳独秀、乞われて広東教育委員会の委員長に就任。上海の新文化運動を李漢俊、李達に委ねて広東に赴く。

12月 東京で「日本社会主義同盟」が発足。李大釗は創立時から会員に加わる。

1920 5・4運動に影響を受けた譚平山と譚植棠、陳公博が北京大学を卒業して広東に戻り青年運動を組織する。「広東群報」を発行。

譚平山はこのときすでに33歳。広東高師を卒業し辛亥革命に参加。広東省議員になった後北京大学に入学。哲学を学んだ。譚植棠は譚平山の甥に当たる。

 

 1921年

3月 李大釗、「ロシア革命の過去、現在と未来」を発表。中央集権型の組織原理を称揚する。

3月 陳独秀の指導の下、広東共産主義小組が結成される。当初は陳独秀、間もなく譚平山が書記を務める。この年末の段階で、全国に8つの共産主義小組が結成される。

北京

張国燾 李大釗 劉仁静 鄧中夏

上海

陳独秀 李漢俊 李達

広東

譚平山 陳公博 譚植棠 包恵僧

湖北

董必武 陳覃秋 揮代英

湖南(長沙)

毛沢東 何叔衡

山東(済南)

王燼美 鄧恩銘

日本

周仏海 施存統

パリ

張申府 陳公培 劉清揚

ゴシックが21年の党大会出席者。周恩来、李立三はこの時点ではパリの社会主義青年団の所属。

4月 広州で中華民国政府(国民党政府)が成立。孫文が総統に就任する。「第一次国内革命戦争」が始まる。

6月 ソ連、ニコリスキー(ウィキペディアでは軍事諜報員とされている)とマーリン(Maring)を中国に派遣。共産党の創設を督促。

7.02 上海のフランス人租界にある李漢俊の家で第1回中国共産党全国代表大会が開かれる。全国各地の共産主義グループから13名の代表が集まり結党が宣せられた。

石川によれば、6月に上海に到着したマーリンの督促を受けて、李達が各地の共産主義グループに参集の通知を送ったとされる。
譚路美さんは陳公博の手記から会場が李達の家であった、張国焘が会議を差配していたとしている。

7.06 李漢俊の家がフランス警察の捜索を受ける。大会は浙江省嘉興の南湖の遊覧船上で続開される。

主な発言者は張国焘、劉仁静、李漢俊、李達らで、地方代表の毛沢東や董必武、陳潭秋らはほとんど聞くだけだった。李漢俊は共産党をマルクス主義理論の研究をする政党にとどめ、共感者を全て受け入れるよう主張。
北京代表の劉仁静はこの時19歳、党は労働者階級の中に建設すべきであり、社会主義革命のために闘う組織であるべきと主張。「ラジカル」な言動で持て余されたという。

7.23 陳独秀が総書記に就任(ただし陳独秀は広州滞在中で会議に出席はしていない)。李達(宣伝委員)、張国燾(組織委員)、毛沢東、董必武らが指導部を形成。 この時点で党員数は57名。

李達は湖南省出身で李漢俊と同じ東大卒。この大会で中央宣伝主任となるが、後に戦線離脱し北平大学法学院教授となる。張国燾については後述。董必武も日本留学組で、大会には武漢代表として参加している。文革を生き延び、国家副主席として生涯を終えている。毛沢東は湖南地区委員会書記に指名される。

8.11 中国労働組合書記部が成立。中国共産党が第1回党大会決定に基づいて組織した労働運動の指導機関。労働運動の組織化を最重要課題とし、湖南の安源炭坑(毛沢東ら)と京漢鉄道(張国燾・鄧中夏ら)を拠点に定める。

9月 フランスの勤工検学生が「生存権・労働権・求学権」をもとめリヨンの校舎を占拠。闘争は敗北に終わり104名が強制帰国となる。

追放者には蔡和森・向警予夫婦、李立三、李維漢、陳毅がふくまれていた。パリで闘争を指導していた周恩来は奇跡的に追放を免れた。


婚礼的女主角是向警予,男主角是蔡和森
向警予はよく撮れすぎている。修正してあると思う

12月 共産党代表大会に参加したマーリン 、桂林で孫文と会談。このあと孫文は革命ロシアとの連合に踏み切る。(マーリンはオランダ共産党員、レーニンの秘書とも言う)

12月 日本資本の経営する江西省の安源炭鉱に、工人クラブが設立される。フランスから戻った李立三が常駐し工人補習学校を創設するなど労働者の組織を強化。

李立三は湖南省生まれ。勤工検学で在仏中に蔡和森らとともに追放になる。安源闘争を勝利させたあと、武漢から上海へと移動し、総工会会長となる。


        李立三一家

21年 ヴォイチンスキー夫婦が講師となり、上海でロシア語を指導。第1期生として劉少奇ら8名をモスクワ東方大学に送り出す。 

1922年

2.  平民女校が設立される。共産党の女性幹部養成のための学校。校長は李達。陳独秀、陳望道、茅盾などが教師をつとめる。年末には閉校。

3月 マーリンは陳独秀ら党の指導部を杭州西湖に集め、「党内合作」路線を勧告する。陳独秀ら指導部は、当初これに抵抗したとされる。

3月 陳独秀、広東で孫逸仙と会談。国民党幹部とともに国民党改組計画の作成に着手する。

5月 共産党の指導下に、第一回全国労働大会が開かれる。全国のストライキは100 を超え,参加者は30 万人余りに達した。

4月 第1次奉直戦争。直隷派の呉佩孚が日本と結ぶ奉天派を打ち破る。張作霖はいったん満州まで撤退。(呉佩孚は北伐の時の敵役としても登場する)

7.16 上海で第2回全国代表大会が開かれる。会場は李達の家。この時点での党員数は195人、出席した代表は12人。二段階革命を柱とする行動綱領を確定する。

行動綱領: 当面の革命の性質は民主革命である。革命の対象は帝国主義と封建軍閥である。革命の原動力は労働者,農民,少ブルおよび民族ブルジョアの協力戦である。革命の目標は国の 完全な独立、軍閥権力の打倒を勝ち取り真の民主共和国を打ち立てることである。そのためには国民党を含めた広範な「民主連合戦線」を結成しなければならな い。

7.23 第二回党大会、中央執行委員長に陳独秀、中央委員に陳独秀、李大釗、蔡和森、張国燾、高君宇を選出。コミンテルンへの加盟を決議、

高君宇: 山西省出身。北京大学在学中に5・4運動を指導。その後社会主義青年同盟書記をつとめる。24年、広州で孫文の秘書となり、25年初め孫文とともに北京に赴くが、孫文の死の1週間前、3月6日に病死。(中国版ウィキからで、誤読の可能性あり)


       高君宇

7月 フランスより戻った蔡和森は党中央委員に選出、宣伝部長となる。向警予も婦人部長として文筆活動を行う。

機関誌「嚮導」の責任者として、レーニンの帝国主義論をより直截に導入して,「中国革命が帝国主義の世界支配と直接対峙する性質を有する」と主張。

7月 雑誌『新青年』の最終号。この後内部対立により廃刊となる。(一説にその後季刊4冊,不定期刊5冊が出され,最終号は26年7月の〈世界革命号〉とあり)

7月 日本資本の経営する漢陽製鉄所でストが打たれる。

8月 共産党が杭州西湖会議を開催。マーリンの提案にもとづき、国民党への二重加入の方針を決定。

8.23 李大釗、孫文宅を訪れ会談。共産党員として初めて国民党に加入(二重党籍)。

9.06 陳独秀が「国民党改進案起草委員」に任命される。階級未分化論と国民党=階級連合政党論を前提に国共合作の理論を構築する。

9月 湖南の安源炭鉱で、1万人が参加するストライキが始まる。李立三と新たに派遣された劉少奇らが指導。安源炭鉱は日本人の経営で、武漢の漢陽製鉄所のための石炭を産出。


             劉少奇と王光美

10月 直隷派の曹錕が「賄選」により大総統となる。呉は、洛陽を中心として独自の勢力圏確立を図る。

10月 華北最大の開欒炭坑(イギリス人経営)でスト。英国政府はイギリス資本の要請に応じインド兵を派遣、さらに北京の直隷派政権は保安隊を派遣して武力弾圧にあたる。

10.23 上海大学が成立。共産党の運営による大学。于右仁が校長、履中夏が校務長、モスクワから帰国した瞿秋白が教務長を務める。

22年 アドルフ・ヨッフェ、ソ連政府の中国駐在代表として赴任。ヨッフェはソ連外交界の指導的人物で、革命期間中はトロツキーと行動を共にした。トロツキー追放直後に自殺。

22年末 ソ連、「上海クロニクル」への援助を停止。多くのスタッフはボリシェヴィキのために動き続けた。

 

1923年

1月 孫文、「改進宣言」を発表。「連ソ容共」に転じる。この後、コミンテルン・ソ連から派遣されたマーリン、ボロジンらの助言を受け、党組織の改革「改進」が推進される。これまでの孫文専権党から、党大会を頂点とする近代政党に切り替わる。(ボロディンは23年9月の着任が確認されており、この時点での関与はありえない))

1.26 上海の孫文宅をヨッフェが訪れ会談。「孫・ヨッフェ共同宣言」が発表される。これによりソ連との連携方針が明らかになる。

「中国にとって最も緊急の課題は民国の統一と完全なる独立にあり、ソ連はこの大事業に対して熱烈なる共感をもって援助する」
 孫文は「共産主義もソピエト制も成功裡に樹立できる諸条件が中国にはない」との認識を示し、ソ連側もこれを了承。

1月 コミンテルンが「1月決議」を採択。「中国労働者階級は独立した社会勢力とはなっていない、国民党に党の独立性を保持したまま加入せよ」との指令を発する。

1.31 瞿秋白が「政治運動と知識階級」を発表。ブルジョアジーに反革命勢力と革命勢力があると主張。

瞿(く)秋白: 苦学し北京のロシア語専修館に学費免除で合格。五四運動に参加し、李大釗らが主催したマルクス主義研究会に加入している。ソ連に特派員で派遣されている間に入党。23年に中国に戻り、新設された上海大学の教授となる。一方で「新青年」の編集を担当。国民党改変に伴い党から広州に派遣される。


      瞿(く)秋白 

23年2月

2.01 中国最大の京漢鉄道(北京~漢口間)の労働者が総工会を結成。大会を鄭州で挙行する。直隷派の呉佩孚が干渉し、大会を武力で解散させる。

2.04 京漢鉄道総工会が京漢鉄道の全線で抗議ストライキに入る。

2.07 「ニ・七惨案」が発生。呉佩孚軍が出動。総工会本部のあった漢口の江岸鉄道工場で32人が殺された。ほか鄭州,長辛店などで死者40人以上,負傷者数百人,逮捕者40人以上を出す。被解雇者は1千人以上にのぼる。

2.21 第三次広東政府(大元帥府)が成立。国民党が西南地方の軍閥を結集したもの。孫文は大元帥に就任する。

2月 民族資本家が主導する「旅順・大連回収運動」が展開される。日本に対し経済絶交を呼びかける。学生・労働者もこれに賛同し運動に参加する。

23年3月

3月 北京政府、「旅順・大連回収運動」の高揚を受け、日本に対し「21ヶ条条約」の廃棄を通告する。日本はこれを拒否。

4.25 陳独秀、瞿秋白論文を受け、「ブルジョア革命と革命的ブルジョアジー」を発表。国民党に革命的ブルジョアジーを指導して民主主義革命を遂行するようよびかける。

23年6月

6.12 広州で中国共産党の第3回全国代表大会。「広範な反帝国主義民族戦線の建設」の目標のもとに、「国共合作」の方針を確認する。

マーリンと瞿秋白が階級分析に基づき国共合作の正統性を主張し、陳独秀・李大釗も同調する。
 蔡和森と張国焘ら「左派」は、「独立した労働者党を建設することは国民運動を破壊するのではなく、促進する。共産党を発展させる唯一の道は独立した行動だ」と主張。

6.20 9人の中央執行委員から5人(陳独秀、毛沢東、羅章竜、蔡和森、譚平山)の中央局を選出。陳独秀が委員長、毛沢東が秘書(広州駐在)に、羅章竜が会計に任じられた。

7月 瞿秋白、「新青年」で「新青年の新宣言」を発表。「中国の真の革命は、労働階級だけが担うことになる。たとえブルジョア革命であっても、労働階級が指導しなければ成功できない」と強調。(孫文べったりの陳独秀への批判を含意しているらしい)

7月 広州に派遣された瞿秋白、中央機関誌「前鋒」を発行。

23年9月

9月 毛沢東の根拠地の湖南省で岳北農工会が結成される。最盛期には10万余の農民が結集する。

9月 蒋介石、請われて孫文の運動に加わる。3ヶ月にわたりソ連赤軍で研修。ソ連方式に強い反感を抱き帰国する。

蒋介石は日本に留学し陸軍で実習を積む。11年に帰国後は孫文の革命運動に加わり、軍事面で支え続けた。当初は必ずしも反共ではなく、孫文の連ソ容共方針にも積極的に賛同していた(石川)

10.06 コミンテルン代表ミハイル・ボロディンが広州に到着。孫文の軍事顧問として討議に加わる。当初、瞿秋白が通訳を務める。「中国は共産主義のための諸条件がない」とし、国民革命の推進を唯一の目標とするよう主張。(柴田)

ボロディン(鮑羅廷) ユダヤ系ロシア人。生え抜きのボリシェビキ。革命後コミンテルンの工作員として各国で活動したあと中国に派遣される。
肩書はあいまいだが、対外的には中国国民党政府に派遣されたソビエト連邦の代表と見られていた。まもなく孫文の主要な政治顧問ともなった。しかしソ連政府からはコミンテルンの使節と受け取られていたようだ。
外務人民委員代理リトヴィノフは「ボロディンのことはほとんど知らないけれど、彼はソ連政府とは何の関係も無い一民間人である」と答えている(Wikipedia)
孫文死後も国民党政府顧問の座にあったが、蒋介石の上海クーデターのあと罷免され帰国している。1949年にソビエト連邦の敵であるとして逮捕され刑死。


 ミハイル・ボロディン

10.28 国民党臨時中央委員会が発足。共産党の譚平山、李大釗がメンバーに加わる。

この時、国民党は党員の再登録を実施した。その結果、広東省内の党員は3万から3千に減少する。

10月 北京の直隷派、「賄選」と呼ばれる議員買収で曹錕を大総統に選出する。直隷派は全国統一を目指し反対派(奉天派、安徽派)に圧力。

11月 軍閥を仕切る趙恒惕将軍、岳北農工会を弾圧。軍の攻撃により指導者67名が銃殺され、農工会は解散させられる。

12月 広州で国民党綱領の素案が作成され、上海執行部で討議が行われる。この討議には執行委員の他に軍の代表として蒋介石、共産党代表として瞿秋白も加わる。

12月 ソ連外交部のヴィレンスキー、中国ブルジヨアジーとの闘争をよびかけたプロフィンテルンをきびしく批判。

 

1924年

24年1月

1.20 中国国民党が広東高等師範学校の大講堂で第一回全国大会を開催。「新三民主義」を柱とする国民党宣言を採択する。国民革命と第一次国共合作の共同の最小限綱領となる。

新三民主義: 民族主義、民権主義、民生主義からなる。1,帝国主義の侵略に対して民族解放と国内諸民族の平等、2,封建軍閥の専制に反対して民衆の自由と権利、3,土地集中と独占資本を制限して民衆の福利をまもる。この内反帝・民生の問題で激論が交わされる。

1月24日 レーニンが死去。国民党大会は服喪のため2日間休会。レーニン死後も、民族統一戦線を重視するソ連共産党・コミンテルンの対中方針はそのまま継続された。

1.28 国民党員の規律厳守を規定した「党章」が採択される。ソ連共産党にならい、「民主主義的集権制度」を党の原則とする。二重党籍の問題(跨党禁止)は、最終的には曖昧に処理される。

李大釗の発言: 共産党の組織を解体することはできないので、組織を残したまま共産党員一人ひとりが中国国民党に加入する。それは国民党の政綱を受け入れたからであって、共産党の党綱を受け入れさせるためではない。加入したからには党の政綱を執行し紀律を遵守する。紀律を守らなければ懲戒すればよい。

1.30 国民党大会、役員を選出し閉幕。共産党員が中央執行委員24名中3名、17名の執行委員候補のうち7名を占める。大会後には譚平山と林祖涵がそれぞれ党中央組織部長と農民部長に任命された。ボロディンは国民党最高顧問となる。

2月 共産党が中央執行委員会を開催。「楽観しすぎてはならないが、国民党の宣言書には、国民精神が凝縮されている」と評価する。この時点で共産党員は全国で約500人。

国民党への二重加盟について多くの反対意見が出されたが、コミンテルンの意向に押し切られた(石川)

3.22 上海商業連合会の成立。中華総工会の母体になる。

5月 共産党が中央拡大執行委員会を開催。京漢鉄道スト敗北以来の労働運動の後退を克服し、鉄道・海員・鉱山など近代産業における組織を強化する。

6.16 黄埔軍官学校(正式名称は中国国民党陸軍軍官学校)が設立される。総理に孫文、校長(軍の最高指導者)に蒋介石。廖仲愷・戴季陶はそれぞれ軍校駐在の国民党代表、政治部主任に就任する。

黄埔は甲州市に隣接する長洲島の町。
ブリュヘルらソ連
軍事顧問団10名余が教官に就任し、ソ連式の教育により将校を育成する。三民主義とともにマルクス主義も教えられたという。

6月 共産党は黄埔軍官学校に積極的に関わり幹部を送り込む。

蒋介石が校長に就任し、国民党幹部の教授部副主任、政治部副主任には共産党の葉剣英・周恩来がそれぞれ就任。1期生は350人。毛沢東も安源炭鉱の労働者や秋収蜂起の農民指導者を送り込む。

6.25 ポロディン、「第三インターは中国共産党にも社会主義青年団にも,国民党に加入するよう命令した。したがわないものはすべて,規律違反とみなされる」と発言。(柴田)

6月 毛沢東、上海での党活動を開始。年末には国民党よりとの批判を受け、党務を辞任。湖南に戻る。

7.07 国民党右派から、共産党の分派活動を非難する「弾劾案」が提出されるが、胡漢民、汪精衛、廖仲愷らが「規律だけを基準とする」よう訴え、もみ消す。

7月 国民党の農民運動講習所が開設される。主任や教官はほとんど共産党員がしめ、のちには毛沢東が所長を務めるなど共産党の牙城となる。

24年9月

9月 第二次奉直戦争。直隷派に対して、奉天派(張作霖)が反攻。安徽派(段祺瑞)、広東政府(孫文)とも連合する。両軍合わせ30万の兵力が動員される。南下した張作霖の奉天軍と直隷軍が北京東方の山海関付近で激突。

10月 直隷派第3軍の馮(ふう)玉祥が、張作霖の買収工作を受けて寝返る(北京政変)。曹を逮捕・拘禁して北京を掌握。背後を衝かれた直隷派は総崩れとなる。

張作霖の買収工作は日本陸軍の示唆によるとされる。旧清朝の一族は退位後も紫禁城に籠っていたが、馮玉祥により追放される。

10月 馮玉祥、自軍を「国民軍」と改称。皇帝退位後も紫禁城に住んでいた溥儀を放逐する。さらに張作霖の同意をえて、段祺瑞を北京政府の「臨時執政」に担ぎあげる。

10月 国民党が北上作戦を宣言。広州の武力統一に乗り出す。翌年までに広東省の統一を実現。

11月 段祺瑞が復活し、北京政府の臨時執政に就任。張作霖はその下で奉天・直隷・山東・安徽・江蘇をその勢力下におく。

11月 孫文が神戸で講演。大アジア主義を説く。

日本は功利と強権をほしいままとする『西洋覇道の番犬』となるのか、それとも公理にかなった『東洋王道の牙城』となるのか」が問われている。中国だけでなく全アジア被圧迫民族の解放に力を貸すことが、アジアで最初に独立と富強を達成した日本の進路である。

12月 馮玉祥、孫文の上京を要請。孫文はこれに答えて北京に入り政治工作を開始。機能不全に陥った国会に代わり、全国の社会団体代表による「国民会議」を開催し、中央政治を一新せよと訴える。

12月 彭述之がソ連より帰国。「誰是中国国民革命之領導者」で、「中国労働者階級は天然に国民革命の指導者である」と主張。また二段階革命が連続して進むか否かは、社会的な客観条件に規定されるとする。

湖南省生まれだが、毛沢東らとは関係ない。北京大学で陳独秀に学び、五四運動に参加。21 年にモスクワに渡り、中国共産党モスクワ支部の書記となる。帰国後4全大会で中央常務委員となる。29年に陳独秀らとトロツキスト運動を開始。48年に海外に逃亡。トロツキストとしての活動を続けた。

24年 中国共産党の財政(石川)
この年の総収入32千元。うち党費などによる収 入は2千元足らずだった。すなわちソ連からの援助が3万元ということになる。党への直接援助の他に、労働組合やソ連政府援助の流用をあわせると10万元以 上が中国共産党に流れたと考えられる。27年には援助総額は100万元に達した。石川の試算では当時の1元は現在の750円に相当するという。

 

1925年

1.11 上海で共産党第4回全国代表者大会。国民党の影響が拡大する中で、労働運動を主軸とするヘゲモニー獲得に乗り出す。

民族革命運動についての決議: 国民党は、運動の重要な道具のひとつにすぎない。…中国の民族革命運動は革命的プロレタリアートが強力に参加し、領導する立場に立たねば、勝利を獲得することができない。
ソ連より帰国直後の彭述之が起草したといわれる。

1.22 この時点で党員数994人。出席代表は20人。14人の中央執行委員会から陳独秀、彭述之、張国燾、蔡和森、瞿秋白からなる中央局が選出され、陳独秀が中央総書記となる.

2.09 日本人の経営する上海の「内外綿紡績」で労働争議が発生。現場監督の暴力に抗議して9千人の労働者がストライキに突入。他の日系の21工場に波及し、約4万人が参加。工場側が要求の一部を受け入れて終結(3月31日)。

3.12 孫文、北京で軍閥政府と交渉中に死去。享年58歳。死因は肝臓がん。「革命なお未だ成功せず。同志なお須らく努力せよ」の遺言を残す。なお「連ソ容共」路線の継続を訴えるソ連あての遺言は、後の中華民国政府により無視された。

4.12 上海で孫文追悼大会に10万人が参加。

25年5月 五卅慘案

5月 広州で第2回全国労働大会が開かれる。「軍閥と国際帝国主義を打倒する革命」を決議。中華全国総工会の結成を宣言。166の組合、54万人の労働者を結集。

5.15 「内外綿紡績」で労働者の暴動が発生。日本人監督がスト指導者の願正紅(共産党員)を射殺する。共産党は糾弾闘争に立ち上がる。

5.18 国民党の三中全会。孫文の意志を継ぐとし、「宣言」の継承を決議。その後左右の議論が激化する。

5.24 願正紅を殉教者とする大規模な葬儀デモ。

5.28 中国国民党の上海委員会、30日に大規模なデモを決行するよう呼びかける。

5.29 青島の日本人紡績工場でストライキ。日本軍と北洋政府(実体は奉天軍閥の保安隊)の弾圧により8人の死者と数十名の負傷者、70数名の逮捕者を出す。

5.30 上海で「530事件」が発生。デモ当日朝に、学生運動指導者15人が租界警察に連行される。民衆が学生らの釈放と「租界回収」を求め、数千人規模のデモ。

5.30 共同租界当局は、英・日・米・伊の陸戦隊を投入。警察の発砲で学生・労働者に13人の死者と40人余りの負傷者が出る。(実際に発砲したのはイギリスのシーク教徒雇い兵だった)

5.31 抗議運動の中で上海総工会が成立。執行委員長李立三の指揮の下に全市20万人の労働者のストライキを行う。

25年6月

6.01 上海学生連合会はストライキ(罷課)を開始、上海総商会と上海各馬路商界連合総会に働きかけて公共租界の商店スト(罷市)を実現。

6.02 結成直後の上海総工会(委員長・李立三、総務主任・劉少奇)が全市に反帝ゼネスト(罷業)を指令。上海の22工場、青島の10工場(いずれも日本資本)でストライキが発生。

6.04 総工会と上海学連、全国学連、各馬路商界連合総会が、工商学連合会を結成。三罷運動の指導部を形成する。

ストライキ参加者は海員や港湾苦力を中心に15万人に達する。都市機能は1ヶ月間麻痺状態に陥る。6月下旬には総商会の要求によって公共租界罷市は中止される。

6. 4 中国共産党が『熱血日報』を発行。瞿秋白が編集を担当。鄭振鐸、葉聖陶、胡愈之などは『公理日報』を発行し、反帝闘争を呼びかける。

6.12 上海の「五・三〇死難烈士追悼大会」に20万人が参加。英日軍隊の永久撤退と領事裁判権の廃止を含む17項目の要求を、租界当局と北京政府に提出。

6.19 省港大罷工(香港スト)が開始される。19日に香港、21日には広州の沙面租界の労働者が「上海5.30運動支援」を掲げストライキを開始。蘇兆徴(共産党)率いるストライキ委員会の下、広東と香が連携し港湾スト。26年10月まで16ヶ月にわたり続く。

蘇兆徴: 古くからの船員活動家で、この年共産党に入党。27年の武漢国民政府では労工部長の要職についた。国共分裂後,八・七会議で臨時中央政治局に入り,ソ連に赴いたが,帰国後に病没。

6.22 奉天軍が上海に進駐。戒厳令を敷き、集会、デモを禁止し、総工会などを封鎖。この後上海の抗議行動は下火になる。

6.23 広州市内の沙面島租界を取り囲む10万のデモ行進に英仏守備隊が機銃掃射を浴びせる。52人が死亡し、120人以上が負傷。シャーキーの虐殺と呼ばれる。

6月末 沙面島の虐殺に憤激した香港の中国人労働者が広州に引き上げる。国民党政権の支援を受けた労働者糾察隊2千人が香港・広州間の交通を遮断し、香港と沙面を封鎖する。

7月末までに中国人25万人が広東省に去った。この長期ストにより香港は「臭港」「死港」と化した(石川)。
香港全体の貿易は、50%にまで落ち、海運は40%にまで減少した
。イギリス政府は経済を崩壊させないために300万ポンドの融資を行った。

6月 ロシア共産党政治局、中国(主に広東政府)への150万元の軍事援助を決定。これは4月から9月までの半年分とされる。

7.01 広東の国民党政権、大元帥府から「国民政府」に改称。汪兆銘が主席に就任。広東国民党政権は一地方政権から全国革命運動の中心勢力へと成長。(本名は汪兆銘で、汪精衛は号=ペンネームだが、中国では汪精衛と呼ばれるのが普通。この年表も以後は汪精衛と記す)

7.09 ソ連のチチェリン外務人民委員(外相)、中国の当面する課題を「どのような主権侵害からも独立かつ自由である新しい統一された民主中国の創造」と規定。

7月 南京で第6回少年中国学会開催。左右両派の対立により分裂。そのご事実上の解散に至る。

8.12 ゼネスト体制の中核をなしていた日系紡績ストの復業交渉が妥結。碼頭苦力と海員のストも総商会の介入で妥結に向かう。上海の闘いは終焉に向かう。総工会指導部は闘争を英国系企業に絞り条件闘争に切り替える。

8月 従来の諸軍を再編し国民革命軍が編成される。黄埔軍官学校の卒業生が中核を担う。

8月 国民党左派の指導者で、孫文後継者と目された廖仲愷が、広州市内で暗殺される。共産党から廖仲愷暗殺の首謀者とされた右派の胡漢民(大本営大元帥兼広東省長)は、党中央から追放され、モスクワ送りとなる。

夏 孫文側近の戴季陶、「孫文主義の哲学的基礎」、「国民革命と中国国民党」を相次いで発表。共産党の寄生政策を批判して、「純正民主主義」の徹底を訴える。

ただし戴季陶は蒋介石宛の私信で、「今日もっともよく奮闘せる青年は大多数が共産党であり、国民党の旧同志の腐敗・退廃は覆うべくもない」と告白している(石川)

9.18 上海に進駐していた奉天軍閥の戒厳司令部が総工会本部を封鎖、指導者たちを逮捕する。5.30闘争は終焉を迎える。

9.21 安源炭鉱で軍閥による大弾圧。労働者3人を殺害、組合を非合法化する。帰郷した労働者が各地で農民運動を組織する。

25年10月

10月 軍閥抗争が激化。華中まで南下した奉天軍閥の張作霖に対し、浙江軍閥の孫伝芳が反撃。反奉戦争と呼ばれる。馮玉祥の北京政府も奉天派と対立を深める。

10月 武漢の呉佩孚が武漢軍閥と組み再起。浙江の孫伝芳と連携し、「討赤」を呼号。馮玉祥率いる国民軍と対決する。(直隷連軍)

10月 呉佩孚、奉天派と和解し国民軍を標的に絞る。

このあたり、あまりの目まぐるしさについていけません。軍閥勢力のまったく思想性のない権力争いと合従連衡ぶりには呆れてしまいます。

10月 共産党が拡大執行委員会を開催。この時点で共産党員数が3千近くに達する。多くが国民党政府のメンバーとして活動。会議は「革命的民衆政権」とともに「工農商学兵代表の国民会議」と「国民革命軍の組織」などのスローガンを打ち出し、労働者の武装、労働者自衛軍の組織をすすめることを決議する

陳独秀は「革命戦争」の概念を提起。人民が武装してたちあがり、反奉戦争の指導的立場をかちとるよう訴える。瞿秋白も5.30闘争の敗北の反省から、人民の武装の問題を提起する。

25年11月

11月 郭松齢事件発生。張作霖麾下の最強部隊を率いる郭松齢が、馮玉祥と組み張作霖に叛旗を翻す。関東軍が軍事介入し郭松齢軍を鎮圧。郭松齢は銃殺される。

12月 馮玉祥、郭松齢事件により退陣を迫られる。北京を退去。西北方面で再起を狙う。

12.02 西山会議。国民党左派の排除を狙う戴季陶らが北京郊外の西山碧雲寺で会議(自称4中全会)を開き、「共産派本党党籍を取消す宣言」を発表。広東政府との対決姿勢を示す。広州の蒋介石は右派につながり、国民党左派・共産党ブロックと対立するようになる。

共産党員の譚平山、李大釗、于樹徳、毛沢東、瞿秋白、張国焘ら9人を中央委員会から追放することを決議。ボロディンの顧問解任と汪精衛の党員権停止をもとめる。

12.23 上海のソ連領事館で、コミンテルン極東局のヴォイチンスキーと国民党中央派の孫科が会談。「連ソ・容共」の原則を確認した上で、共産党員の二重加盟問題解決の道を探る。

この頃、コミンテルン極東局はイルクーツクから上海に移っている。ヴォイチンスキーも上海勤務となっている。この頃はソ連共産党内での地位も上がっていたのかもしれない。

12.24 上記に陳独秀、瞿秋白、張国焘を加え会談。共産党員が基本的に国民党のポストから離れることについては同意。完全撤退及びボロディンの広州撤退については保留となる。

譚平山を中心とする共産党の広州グループは、「孫科らは西山グループと同断」として中央の方針に抵抗。汪精衛グループと連携し国民党支配を目論む。

 

譚平山: 広東省の生まれ。教員を勤めた後北京大学に進学。5・4運動を通じて共産党に接近1920年、広東に共産主義グループ創設のため戻る。1921年の中国共産党成立以後、中共広東支部書記に任命される。1924年、中国国民党第一次全国代表大会で中央委員となり、国民党中央組織部長に就任。1927年8月、南昌蜂起に参加。蜂起失敗の責任を問われ党籍を剥奪された。

25年 この年、広州で「被抑圧民族連合会」、「ベトナム青年革命会」、「台湾革命青年団」などが結成される。

 

1926年

1.04 広州で中国国民党第二次全国代表大会が開かれる。代表278名のうち左派と共産党員が168名をしめていた。蒋介石は北伐の実行を力説。ソ連軍事顧問団のキサンガは北伐が時期尚早であると反対。

第2回大会。しかしヴォイチンスキーの判断で右派にたいする譲歩・妥協が行われ、中央執行委員会には7名の共産党員にとどまる。
しかし9名の常執中では左派が3名、共産党が3名で優位を握る。また党内各部人事では、譚平山が組織部長、林祖涵が農民部長、毛沢東が宣伝部長代行となる。
軍における影響力も強く、第1~6軍の殆どで党代表・政治部主任を共産党員が占めた。

1月 第二次全国代表大会で新人事が決まる。左派が躍進したことから「左派による勝利の大会」と呼ばれる。親共派の汪精衛が最高得票を獲得。国民政府主席、国民党政治委員会主席、国民政府軍事委員会主席、各軍総党代表を兼任し、政治と軍事の最高責任者となる。左派の支援も受けた蒋介石は、第2位で中央執行委員に選出される。

1月 馮玉祥、国民党に加入し反乱を起こす。ソ連は国民軍を広東と並ぶ革命勢力とみなし、軍事顧問団の派遣や武器の援助を行う。蒋介石はソ連の二股膏薬に不信感を抱いたとされる。(石川)

2月 蔡和森、モスクワの党支部で「中国共産党の発展史」を講義。

2月 北京で共産党が中央特別会議を開催。陳独秀は病気のため欠席し、李大釗、瞿秋白らが主導。北伐作戦への支持を明らかにする。

現在のもっとも主要な任務は、広州国民革命勢力の進攻を準備すること、農民工作を強化することである。
とりわけ北伐の過程ににおいて労農の革命的同盟の基礎をきづき、国民革命の全国規模での勝利を達成することである。

26年3月

3.13 コミンテルン第六回拡大執行委員会、「中国問題についての決議」を採択。「四民ブロック論」を提起する。

国民党を「労働者・農民・インテリゲンチャ・都市民主層の革命的ブロック」とし、国民革命軍を馮玉祥の国民軍とともに「革命的民主主義的な民族的軍隊」の基盤と位置づける。
それを前提に、共産党に民族ブルジョアジーとの統一戦線維持を命じる。

3.18 北京の学生デモ。政府軍の発砲により47人が死亡。事件の責任を取り段祺瑞が引退。

学生デモは、馮玉祥の国民軍と戦う張作霖に対し日本など列強が公然と支援していることに抗議したもの。
この後、奉天派支配のもとで直隷派との連合政府が成立するが、いずれも短命に終わる。(この年だけで5回の政権交代)

3.18 中山艦事件が発生国民党海軍局所轄の軍艦「中山」が、蒋介石の承認なしに黄埔軍官学校の沖合に航される。蒋介石は「自らを拉致しようとする国民党左派・共産党のしわざ」と判断したという。

3.20 蒋介石、広州市内に戒厳令を敷き、中山艦艦長の李之竜(共産党員)をはじめ共産党・ソ連軍事顧問団関係者を逮捕。ソ連人顧問団の居住区と省港罷工委員会を閉鎖、労働者糾察隊の武器を没収する。

3.21 蒋介石、李之竜以外の共産党員を釈放し、ソ連軍事顧問団の住居とストライキ委員会の建物に対する包囲を解く。

3.22 ソ連領事館と蒋介石が接触。蒋介石は「今回の事件はソ連に反対するものではなく、個人的な問題から起こった」と弁明する。

江田によれば以下のとおり
 おりしも広州で事件に遭遇したソ連共産党派遣のブブノフ使節団は、蒋介石との折衝のすえ、北伐に反対していた軍事顧問団の召喚などの蒋の要求を受け入れ、統一戦線の維持をはかった。
石川によれば以下のとおり
使節団はソ連軍事顧問団の越権行為を認める。さらに北伐の早期開始を容認し、そのために省港ストの収束方針を承認。 

3.23 汪精衛はソ連の蒋介石への妥協に反発。すべての党職を離れる。5月には妻を伴いフランスへ逃れる。

3月 使節団から説明をうけた上海の党中央は、「中国革命勢力の統一」の名のもとに譲歩を表明せざるをえなかった。(小林)

3月 ソ連軍事顧問団は、国共合作を維持する立場から蒋介石の行動を是認。首席顧問キサンカ(Kisanka)とロガチョフ(Rogachev)を召還する。

3月 唐生智、長沙(湖南省)で軍閥の長としての覇権を確立。省長代理として国民政府、呉佩孚の双方に覇権の承認を求める。

唐生智は当時37歳。保定陸軍軍官学校を卒業し、湖南省南部を地盤に覇権争いに加わった。長沙の省長の追放に成功し、軍閥として独り立ちした。

3月 毛沢東が「中国社会各階級の分析」を発表。陳独秀を批判する。

4.16 蒋介石の主導で国民党二期二中全会。国民党の要職から共産党員を排除する「党務整理案」を決議。蒋介石は国民政府軍事委員会主席に就任。

26年5月

5.01 第三次全国労働大会。組織労働者124万人,699の工会組織を代表。蘇兆徴,李立三,項英,劉少奇らを執行委員に選出。

5.08 呉佩孚、北京を制圧。その後奉天軍と和平を結び、国民党の北伐軍の進攻阻止に力を集中する。

5月 北伐を目指す国民革命軍が編成される。蒋介石が総司令に就任。北伐先遣隊が湖南省の唐生智支援に入る。

5月 呉佩孚、唐生智の湖南省支配を認めず、征討軍を派遣。唐生智は湖南省南部に退く。反撃のため国民党軍への加入を決断。第八軍として国民革命軍に編入される。

5月 広州に帰着したボロジン、共産党の頭越しに蒋介石と協議をおこない、「党務整理案」を共産党に受け入れさせる。

26年6月

6.04 共産党、「中国共産党の中国国民党に致す書」を発表。「党内合作か党外合作かの合作方式は固定される必要はない」とのべて、国民党からの脱退を公然と主張する。

6.04 国民党の中央執行委員会臨時全体会議が開かれる。蒋介石が国民党主席(中央執行委員会常務委員会主席)のポストも獲得。「迅行出師北伐案」および「任蒋介石国民革命軍総司令案」を可決。「帝国主義と売国軍閥を打倒して人民の統一政府を建設する」ため、北伐作戦の開始を決定。

26年7月

7.01 国民党政府、「北伐宣言」を発表。国民革命軍動員令を発する。

北伐軍は全8軍、25師団編成。総兵力は10万を数えた。第1軍のみが黄埔学校卒業生を主体とする近代的軍隊で、残りは軍閥の部隊を再編したものであった。これに対抗したのは湖南の呉佩孚軍25万、江西の孫伝芳軍20万、彼らの背後には張作霖軍35万が控えていた。

7.07 国民政府が「国民革命軍総司令部組織大綱」を公布。蒋介石の独裁権力が明文化される。

7.09 北伐軍本隊が広州を出発。

7.11 呉佩孚軍、湖南の省都長沙を撤退。北伐先遣隊と唐生智の第8軍が制圧。

7.12 共産党、ヴォイチンスキー参加のもと、上海で第四期二中全会をひらく。「軍事運動決議案」を採択。「武装闘争の工作に参加し、進歩的な軍事勢力を援助し、反動的な軍閥勢力を壊滅させ、しだいに労農大衆の武装勢力を発展させるべき」とする。

ヴォイチンスキーの名は、1920年、共産党創設時以来の登場となる。その後一旦帰国して、26年からコミンテルン極東局長として上海に赴任したようである。その後27年の上海クーデターに伴い帰国したものと思われる

7.12 第四期二中全会では、蒋介石突出後の国民党の再評価も討議された。「国民党左派(汪精衛ら)と連合し反動派(孫科ら)を攻撃し、中間派の発展を防ぎ、彼らが右を離れて左に就くように迫る」との方針を採択。中間派には「新右派」(戴季陶や蒋介石)がふくまれている。

蒋介石を「反動」ではなく「中間派」としたのはヴォイチンスキーの指示とされる。彼は「社会の勢力の中で、現在はまだブルジョアジーを敵視できない。ときにはまだ中間派を援助しなければならない」と主張した。
決議には「ブルジョアジーが将来の敵であり、あるいは一年か三年後の敵であることはわかっているが、現在は友軍、しかも有力な友軍と見なさないわけにはいかない」との苦渋の表現。

7月 広東の国共合同「国民革命軍」が北伐戦争を開始する。 

北伐の基本戦略: 湖南・湖 北の呉佩孚軍を基本打撃対象とし、江蘇の孫伝芳を第二次対象とする。西路軍(唐生智)が先鋒となり長沙から武昌を狙う。中央軍(蒋介石)は西路軍の右翼を 守るとともに本拠地の広州を防衛する。東路軍(何応欽)は中央軍の右翼を防衛するとともに、福建方面で積極防衛を図る。
作戦の策定には新任のソ連軍事顧問ブリュッヘルがあたる。

26年8月

8.07 瞿秋白、「北伐の革命戦争としての意義」を書く。革命戦争たる北伐の過程でプロレタリアートがヘゲモニーをかちとる必要性を強調。「嚮導」はこの論文を掲載せず。

8月 陳独秀、党機関紙『嚮導』に「北伐論」を発表。民衆を無視しかねないものとして批判的に取り扱う。

陳独秀は「国民革命軍の北伐を論ず」を発表。
1.北伐は一種の軍事行動であって、中国民族革命の全的な意義を代表するものではない。
2.投機的な軍人・政客の権勢欲のためのものとなりかねない
3.北伐の意義を「防禦戦争」に限定し、戦費を民衆から調達してはならない。

8月中旬 北伐軍、湖南省の主要部を制圧。

8.25 汀泗橋・賀勝橋の闘い。湖北省咸寧近郊の汀泗橋で3日間にわたる激戦。葉挺の率いる4軍独立団が呉佩孚軍と対決。第七、第八軍が戰場左翼で吳軍を壓制する。

8月 上海のヴォイチンスキーと瞿秋白が広州に入る。現地のボロディンらと会談し蒋介石との妥協を説く。現地は左派の指導権を回復することを主張。

26年9月

9月 広州の共産党と国民党左派、汪精衛復帰のキャンペーン(迎汪運動)を開始する。

9.09 唐生智の率いる西路軍(国民革命第八軍)が漢口と漢陽を占領。長江を挟んで武昌の呉佩孚軍と対決。

9.09 蒋介石は張静江に打電。国民政府の常務委員が広州から武漢に移動し、政治権力を掌握するよう要請。

蒋介石は西路軍の総指揮をとる唐生智を警戒し、広州政府が武漢に移転することにより、唐生智が自らのライバルとなることを阻止しようと図った。

9.12 蒋介石、上海の陳独秀に対し汪精衛の帰国に賛成しないように要請する。これを受けた上海の共産党中央は、コミンテルン極東局と合同の会議を開催。「迎汪は倒蒋を目的とせず汪蒋合作を目的とする」と決定。

9.16 蒋介石と唐生智が直接協議。臨時政務会議を設置して湖北省の支配を委ねることで合意。

9.23 スターリン、モロトフ宛に「漢口はやがて中国のモスクワになるだろう」と書き送る。

9月 馮玉祥の軍、綏遠省で挙兵。陝西省方面へ攻勢をかける。

9月 イギリス砲艦、長江上流の万県に砲撃を加える。

26年10月

10.03 蒋介石、共産党の中立方針を受けた上で、汪精衛の復帰をもとめる態度を明らかにする。

10.10 唐生智の率いる西路軍が武昌を占領。湖南・湖北から、呉佩孚軍(直隷派)を駆逐する。呉佩孚軍はまもなく壊滅。

西路軍軍事顧問テルニーによれば、
1.唐生智は蒋介石にとってかわろうとしてしていた。 2.そのためにソ連や共産党に接近しようとしていた。 3.上海の孫伝芳と交渉し蒋介石の敗北を画策した。
以上の事実を踏まえ 4.テルニーは蒋介石を支持し唐生智の権力拡大に反対である。

10.15 広州で、中国国民党の中央委員・各省・各特別区市・海外総支部の聯席会議が開かれる。汪精衛に対する復帰要請が、党員全体の意志として決議される。

10.22 蒋介石、国民政府を広州に残し国民党中央を武漢へ移転するよう主張。

10.23 共産党による上海蜂起。直前に中止となり、失敗に終わる。

10月 コミンテルン、「上海を占領するまでは、土地運動を先鋭化してはならない」との指示を送る。(柴田)

10.28 連席会議が終了。国民党各派及び共産党は、奉天派への配慮から慎重な態度をとり、武漢への移転は見送られる。

唐生智に対する共産党は上海と広州とで分かれる。広東では唐生智を投機的で危険な人物と評価。上海の共産党中央は 1.唐生智は民衆運動を圧迫した事実が全く無い。 2.汪精衛復帰に賛成している ことを重視し、
 唐生智を左傾させ、蒋介石を牽制し、汪精衛復帰への道をひらく方針を出す。

26年11月

11.07 蒋介石の度重なる要請を受けた広州の国民政府および国民党、武漢移転の方向を打ち出す。

11.08 蒋介石の率いる直属部隊と第7軍(軍長・李宗仁)が江西省都南昌、九江を制圧。孫伝芳軍の前に苦戦し、1万を超える戦死傷者を出す。

11.16 国民政府の四人の部長(大臣に相当)、および宋慶齢ら国民党の要人が武昌に向かう。ボロディンもこれに随行する。国民党要人不在となった広州では親共産党の李済深が省権力を掌握。

李済深: 85年生まれだからこの時すでに41歳。職業軍人にして辛亥革命以来の革命家。北伐においては広州守備をつとめた。上海クーデターでは蒋介石を支持したが、次第に蒋と対立するようになり、国外に亡命した。
日中戦争全面勃発に伴い党籍を回復し、抗日戦争を闘った。
1948年、李は中国国民党革命委員会を結成し、中国共産党との政治的連携を強化。中華人民共和国の建国が宣言されると、中央人民政府副主席に就任した。


      李済深

11.22 モスクワでコミンテルン第七回中央執行委員会全体会議が開かれる。蒋介石は代表(邵力子)を送り、「ソ連共産党とコミンテルンの指導のもとに、その歴史的役割を完遂する」ことを明らかにする。

11.28 共産党代表の譚平山がコミンテルンで報告。「一定の条件下で民族ブルジョアジーとも連合する必要がある。国民党中間派が左へ歩みより、左派との提携の可能性が生まれている」と評価する。

11.30 スターリンが中国委員会で演説。「きたるべき権力は、反帝・非資本主義の過渡的な権力だ」と規定。またブハーリンは、「後進国革命は労働者階級の決定的な影響のもとにおかれ、ソ連と密接な連係をもつ小ブル国家が成立することになる」と演説。

11月 馮玉祥の軍、西安に進出。陝西省の大部分を制圧する。

11月 北伐軍が占領した湖南・湖北省で労働者・農民の運動が急拡大。湖南の農民協会員は140万人、湖北省総工会は30万人の労働者を結集する。

26年12月

12.07 江西省南昌近郊の廬山で「廬山会議」が開かれる。蒋介石と国民政府・国民党の代表が参加する。

廬山会議は蒋介石と共産党との関係にとり、一つの転換点となった。このあと蒋介石は態度を変化させ、武漢移転に公然と反対するようになる。

12.09 福建省の省都福州が北伐軍により制圧される。

12.13 国民党中央の先遣隊が武漢に到着。中国国民党中央執行委員会及国民政府委員の臨時聯席会議が武昌で開催される。国民政府と中央党部の武昌への移転が完了するまでは、臨時聯席会議が国民党の最高職権を行使すると決議。

招集者は徐謙(司法部長)。ほかに孫科(孫文の長男)、陳友仁(外交部長)及び政府顧問のボロディンが出席する。

12.16 コミンテルン中央執行委員会総会、「中国情勢の問題にかんする決議」(12月テーゼ)を採択。中国共産党の任務として、「農村革命をいっそう発展させ、帝国主義との妥協の間で動揺している中間派を、徹底的に批判すること」を掲げる。

これにより、共産党四期二中全会で決定された蒋介石との妥協路線は、公式に破棄される。ただしこのあとも水面下では、ヴォイチンスキーによる妥協の動きが存続する。

12月 湖南・湖北の農民協会、半年で40万から160万に拡大。各地で武装し北伐軍を側面支援。一方で農民のアナーキーな動きに警戒感が強まる。

12月 コミンテルンの機関誌「インプレコール」が、ロイの論文を掲載。中国革命の急進化を訴える。国民革命がただブルジョア民主主義革命として成 功しただげでは,帝国主義に打撃を与えることができない。「プロレタリアートのりーダーシップのもとで中国革命は直接社会主義のための闘争に導かれるだろ う」と述べる。

 

1927年

27年1月

1.01 「武漢国民政府」が正式にスタートする。

1.03 武漢政府の臨時連席会議、3月に国民党中央総会(二期三中全会)を開催すると決定。軍(蒋介石)からの権限回復を図る。

1.03 南昌の蒋介石、臨時連席会議の正統性を認めず。広州から武漢に向かおうとする譚延主席代理を引き止め、政治会議臨時会議を開催。(ガイは門構えに豈)

臨時会議は二期三中全会の南昌開催を決定。また、中央党部と国民政府は“暫時”南昌に留めおくと決議する。しかしその後、南昌在留の党中央委員の多くが武漢に移ったことから、蒋介石の正統性は薄れる。

1月初め 漢口の英租界で反英闘争が激化。英兵と民衆との間で流血事件。民衆は実力で両租界を占拠。武漢政府は英租界臨時管理委員会を設置し、租界を接収する。その後、江西省の九江でも英租界が接収される。租界接収の動きを見た列強は、最大の租界を抱える上海に軍を結集。

武漢の労働運動指導者だった劉少奇は「労働者は企業を倒産させるという要求を掲げ、賃金を驚くべき水準に引き上げ、一方的に労働時間を1日4時感以下に短縮した」と述懐する。また農民運動は土地没収や地主の迫害を常態化させ、食料米の流通を阻害した。(石川)

1.20 漢口に到着したボロディン、ロイターに答え、「中国は資本主義以下である。窮乏を社会主義化することは不可能だ。スープを味わう前にデザートについてあれこれ思いわずらうことはない」と語る。(柴田)

1月 ロイがコミンテルン代表として広州に入る。

マナベンドラ・ロイ: インドの労働運動家で、コミンテルンの中執として中国に派遣された。ロイは過去にメキシコに亡命し、そこでボロディンと知り合い入党している。

1月 毛沢東、「湖南農民運動視察報告」を発表。初めて農村からの武装革命路線を主張する。

27年2月

2.11 共産党、上海地区代表大会を開催。二回目の武装蜂起について議論。「ストだけではなく、暴動を準備」し、上海を奪取することを決議。

2.18 国民革命軍、杭州を占領。

2.20 中華全国総工会は代理委員長に李立三を選出し,秘書長に劉少奇を選出した.

2.21 上海総工会代表大会の呼びかけによりストライキを開始。参加者は35万人に上る。ブルジョアジーは罷市で呼応せず、国民党の幹部も協力を拒む。

2.22 共産党、第2次上海蜂起を指示。臨時革命委員会を立ち上げる。蜂起は失敗し、戦死者四十数名、逮捕者三百数十名を出す。

2.24 上海総工会は労働者に復職を指示。「復業して大衆的な暴動を準備せよ」と呼びかける。

2月 この後共産党は第三次蜂起を目指し、労働者糾察隊の編成強化と民衆政権の母体としての市民代表会議の結成を目指す。

2月 国民政府とイギリスが外交交渉。イギリスは漢口と九江の租界を中国に返還することで合意。

2月 瞿秋白、「国共合作」政策をめぐって陳独秀指導部、とりわけ彭述之と対立。パンフレット『中国革命の争論問題』を作成する。

このパンフレットで、革命はブルジョアジーとプロレタリアートが領袖権(ヘゲモニー)を争奪しあう段階にあると主張した。さらにソヴィエト方式で「平民共和国」を樹立せよと呼びかける。

27年3月

3.07 譚延ガイ、南昌をでて武漢に到着。国民党二期三中全会を開催。蒋介石は中央執行委員会常務委員会主席と政治会議主席からの辞任を通告する。

この経緯についてもウィキペディアは怪しい。まず蒋介石により事実上、国外追放されていた汪兆銘が政府の方針を決めているかのような記載である。日時も異なる。

3月 蒋介石、国民党右派と手を結び、各地で農民運動・労働運動を弾圧。

蒋介石は、軍事力で安徽省や浙江省をおさえ、南京や上海などの大都市を確保し、豊富な資金源を後盾に武漢に対抗しようとはかる。

3.12 上海で第一回臨時市民代表会議が開催される。労働者100,商人50,その他50の配分。

3.13 武漢政府では潭平山が農政部長職を,蘇兆徴が労工部長職を取った形で,共産党が武漢政府の労農政策を,今やすべて取り仕切るに至る。

3.17 国民党二期三中全会、中山艦事件後の暫定的機構を廃止し、中央執行委員会を設置。汪精衛、蒋介石をふくむ九名の常務委員が選出される。国民革命軍総司令に与えられていた独裁的権限は否定され、軍事委員会が主権を掌握する。労工部長、農政部長には共産党員が就任。国共合作は、国共両党間の対等の同盟へ変更される。

3月 国民革命軍、浙江軍閥の孫伝芳が支配する南京を占領。攻防戦の中で、外国領事館・住宅・教会が襲われ英・仏・米人6名が殺害される。(南京事件)

3月 英・米両国軍による南京報復作戦。軍艦が南京を砲撃し、軍民2000名が死亡。(南京砲撃事件)

英・米・日・仏・伊は国民革命軍に武力干渉を突きつけた。若槻内閣の幣原外相は、1.武力干渉は事態を紛糾させるだけ、2.蒋介石のような人物を押し立てて時局を収拾させるべき、と主張。 幣原は蒋介石の派遣した戴季陶と接触し、すでにその意志を確認していた。

3.20 北伐東路軍が松江を占領、先頭部隊の第一師団が上海近郊の龍華に到着する。

3.21 上海市民代表会議常務委員会は蜂起とゼネストをよびかける緊急命令を発出、同時に上海総工会もゼネスト命令を出す。いずれも共産党上海委員会(周恩来)の策定した第三次武装蜂起計画に基づいた行動。

0PM 正午を期して全市80万の労働者がストライキにたちあがる。

1PM 労働者の蜂起がはじまる。労働者部隊は警察署や電話局、兵器工場や鉄道駅の接収に成功。奉魯連軍の司令部がある閘北では、激戦となる。

3.22 9AM 北伐軍の先鋒が上海に入る。第2回市民代表会議が開会され、「上海特別市臨時政府」を樹立。政府委員19名が選出される。

6PM 奉魯連軍の最後の拠点である上海北駅が陥落する。

3.23 第1軍の本隊が上海に入る。ここまで租界への攻撃はなく、外国軍との衝突はなし。

3.24 国民革命軍の第2,6軍が孫伝芳軍を駆逐し南京に入る。一部が外国領事館や教会を襲撃し外国人数人を殺傷する。英米の砲艦が南京城内を報復攻撃。死者多数を出す。

蒋介石は日本政府に急使を送り、南京事件の誠意ある処理を約した。日本政府は報復に同調せず、蒋介石と国民政府内の過激分子粛清について密約した(石川)。

3.26 第1軍に続き、蒋介石が上海に到着する。共産党が頼みとする薛岳の第一師団を郊外に分散移転させ、上海を事実上の軍政下におく。

3.29 蒋介石が市政府の職務開始を阻む。国民党やブルジョアジーの政府委員も着任を拒否。

3.30 武漢の国民党中央、南京駐留中の第6軍(左派系)に対し蒋介石の逮捕を密命する。蒋介石は第6軍(親武漢)を南京市外に移動させ、代わりに上海の第1軍(直系)を配備。

3.31 コミンテルンが緊急指令を打電。「公然たる闘争は(諸勢力の相互関係がすでにきわめて不利になっていることにかんがみ)当面採用してはならない。武器は引き渡してはならない」とする。また武力による租界突入を禁止し、労働者糾察隊の銃刀器の携行も禁じる。

江田によれば、スターリンやブハーリンは北伐の続行を優先し、そのため蒋介石を、国共合作と統一戦線の枠内にとどめようとした。これをうけたヴォイチンスキーはクーデターの直前まで蒋介石との妥協を主張していたとされる。

3月 北伐軍は長江一帯を制圧、広東、広西に加え、湖南、湖北、江西、福建、浙江、安徽、江蘇の9省を支配下に収める。

3月 北伐作戦の中で共産党員は5万8千人に達する。労働組合員は28万人、農民組合には1千万人が組織される。

27年4月

4.01 汪精衛が亡命先のヨーロッパからモスクワ・シベリア経由で上海へ到着。

ウィキペディアでは、「蒋介石の招電に応じ再び帰国。武漢政府の反蒋活動を阻止することを承諾し、蒋は汪の中央常務委員、組織部長への返り咲きを支持した」とあるが、信用出来ない。

4.04 蒋介石、「共産党分子はデマを流し、団結を損なっている。これ以上の撹乱行為は反革命だと言わざるを得ない」と発言。

4.05 スターリン、「蒋介石など右派も帝国主義者と闘っており、今決裂する必要はない」と演説する。

4.05 汪精衛が上海で陳独秀との共同声明。両党の友好関係と国共合作継続を確認。また蒋介石への信頼を表明。蒋介石攻撃を非とする電報を武漢に打電する。その後武漢に向かう。

中国共産党は,国民党が中国革命に不可欠のものであることを承認する。中国が必要としているのは、あらゆる被圧迫階級からなる民主独裁を樹立して反革命に対処することであって,プロレタリアート独裁を樹立することではない

4.06 共産党上海地区委員会が活動分子会議。「もし蒋介石が糾察隊の武装を解除しようとすれば、すべての労働者がストにたちあがり、蒋介石軍の武装を解除する」とし、武器隠匿を拒否。

4.06 7カ国外交団がソ連大使館への監督強化を要請。張作霖の軍隊が北京のソビエト大使館を強制捜査し。李大釗ら共産党員を逮捕。重要書類を押収する。

4月 リトヴィノフ外務人民委員代理は、コミンテルン代表を大使館から締め出すようソ連共産党政治局にもとめる。

4月 英日両軍が上海を砲撃。

4.08 スターリン、蒋介石あてにみずからの肖像写真を送り、「中国国民革命軍総司令官蒋介石氏の勝利」を祝う。

4.08 国民党中央、産業の中心地である南京への遷都を決定。

4.09 蒋介石、南京に移動。クーデターの準備に入る。左派系の集会を弾圧、さらに国民党の江蘇省党部を襲撃する。

4.11 広州でも蒋介石派の部隊による左派弾圧が行われる。現地の国民党軍司令部はこれを黙認。

4.12 蒋介石が「上海クーデタ」を起こす。上海の暴力組織(青幇・紅幇)が総工会委員長の汪寿華を暗殺。共産党組織、労働者組織を襲撃。デモに立ち上がった労働者を軍が銃撃。その後、蒋介石隷下の第26軍が労働者糾察隊の武装解除に乗り出す。この衝突で糾察隊員300人が死亡。小銃3千、機関銃20などの武器が押収される。

4.13 上海総工会が26軍にデモ。軍の発砲でさらに多数の死傷者。軍は総工会本部を占拠し左派・共産党系組織の解散を命令。その後広州でも同様の弾圧。

この後、上海は驚異的な発展を遂げる。人口は300万人(東京・大阪は200万人)、消費電力も東京を上回る。バンドには高層建築が林立。女性は摩登(モダン)な旗袍(チャイナドレス)で着飾る。活字、映画文化などが花開き、繁華街は電飾で不夜城と化した。(石川)

4.17 武漢の国民党中央、蒋介石をすべての職務から解任。党からも除名し、逮捕令を発行する。

4.17 蒋介石、南京在留の党役員を集め国民党中央政治会議と中央軍事委員会を組織する。

4.18 南京に胡漢民(孫文とともに働いた古参幹部)を主席とする独自の国民政府が樹立される。蔡元培(元北京大学学長)らが蒋介石政府の支持に回る。蒋介石は共産分子の粛清を宣言。

4.26 北京のソ連大使館から連れ去られた中国人20人中、李大釗をふくむ19人が処刑される。

4.27 武昌で中国共産党第5回全国代表大会。出席者は80名余りとされる。陳独秀の投降主義を批判するコミンテルンの中国決議を受け入れ、方針転換を目指す。この時点で、党員数5万8千人。労働者が6割、農民2割、知識人2割の構成。女性党員も8%を占める。

蔡和森は党の革命的自立を訴える。毛沢東は農民を組織し武装させ、農民の闘争を迅速に強化するよう主張。
瞿秋白は上海クーデターを許した陳独秀指導部の責任を問うパンフレット『中国革命における争論問題―第三インターか第〇インターか 中国革命のメンシェヴィズム』を配布。

27年5月

5月 軍事的敗北を重ねた呉佩孚、北京政権を放棄し、四川省へ逃走する。これに代わり張作霖が実権を掌握。

5.09 第5回全国代表大会、29人の新しい中央委員会を選出。一中全会で、陳独秀ら7人の中央政治局委員、周恩来ら4人の政治局候補委員を選出。常務委員は陳独秀、張国燾、蔡和森、瞿秋白。総書記に陳独秀、秘書長に周恩来を選出する。

周恩来は,武漢政府内の共産党組織で中央軍事部長の職に就く。ただし武漢政府内にあっては単に「名目上」の地位にすぎない。

5.21 譚平山、ボロディンの指示を受け湖南省に入り、農民運動の抑制を図る。(柴田)

5.30 コミンテルン第八回執行委員会総会、「中国問題についての決議」を採択。主な内容は①土地革命の断固実行、②武漢政府と国民党の再改組、③共産党員2万人の武装、④労働者・農民5万人の国民革命軍への加入、⑤反動的な武漢の将領の処罰など(石川)

石川の記述:トロツキーは武漢国民党の反動化を警告するが、スターリンは国民党を通じた土地革命を想定し、中国収産党に武漢政府への協力を求める。この論争はスターリンの勝利に終わった。
この総会決定について、柴田は異なった読み方をしている。
 「農村革命こそ中国革命の新段階の基本的な内容である。現在もっとも重要なのは,下から農業問題の革命的解決をかちとることだ」とし、「中国共産党の内部でしばしば農民運動の“行き過ぎ”に,危虞の念があらわされた」と指摘。

5.31 スターリンはみずから電報を共産党に送り、 武漢政府とともに土地革命を展開し、労働者・農民を武装させるよう提起する。(5月指示)

5月 唐生智麾下の第8軍、長沙で省総工会、農民協会、共産党諸機関を襲撃。1週間にわたって処刑を繰り返す。(馬日事変)

5月 上海政変に乗じ、日本が第一次山東出兵を行う。

5月末 共産党の拡大政治局会議でボロディンとロイが対立。国民党顧問のポロディンは、国民党左派を弁護し労農運動のゆきすぎを非難。国民党武漢政府の「民衆運動過激錯誤取締法令」を擁護する。コミンテルン中執のロイはこれに絶対反対を唱え、労働者・農民革命の一層の推進を唱えた。(柴田)

 

27年6月

6.02 ロイが汪精衛と会談。スターリンの「5月指示」密電をリークし決断を迫る。汪精衛はこの密電を見て共産党排除を決断したという。

石川によれば、汪精衛は、いったんはソ連の支援増強を条件に5月指示を受け入れたが、約束された支援が滞ったことから離反したとされる。

6月 ボロデインはロイの行動を怒り、スターリンあての電報でロイの召還を要求, 党中央党員の大多数もこれを支持。(柴田)

6.10 馮玉祥が武漢政府、南京政府と相次いで会談。蒋介石の側に立ち、武漢側に蒋介石との協力と労農運動の抑制を求める。

6.17 武漢政府はコミンテルン指令を警戒し、共産党の排除に動く。ボロジンの顧問職を解き、二名の共産党員部長にたいしても辞職を迫る。

武漢政府は1500万ルーブルの援助を求めたが、200万ルーブルしか得られず。このため中央政府における汪精衛の地位は一気に弱体化する。(石川)

6.29 漢口駐屯の国民党軍第35軍が反共宣言。労働組合を占拠し、総工会労働者糾察隊を解散に追い込む。

6月 張作霖、「安国軍政府」大元帥に就任。みずから北京政権を握る。

6月 日本政府、英・米の同調を得て第一次山東出兵。2ヶ月後に撤兵する。

 

27年7月

7.02 趙世炎が逮捕処刑される。

趙世炎: 四川省出身。北京の高等師範附中に進む。5.4運動に積極參加。李大釗らの紹介で加入新思想的團體“少年中國學會”。法文專修館で學習法語。その後勤工学生としてパリに渡り、周恩来らと少年共産党を組織。書記となる。帰国後、党活動家として各種闘争を指導。死亡時は上海總工會黨團書記、代理中共江蘇省委書記。5大会で中央委員。


     趙世炎

7.03 共産党が中央拡大会議を開催。「国共両党関係決議」を採択。「中国国民党は国民革命を指導する立場にある。労働者・農民などの民衆団体は、すべて国民党党部の指導と監督をうける」など全面屈服の方針を提起。

最大時6万の党員が1万に、200万の労組員が3万に減少。1千万の会員を誇った農民協会は、大部分が瓦解する。

7.05 武漢政府内で会議。武漢政府中の国民党左派と共産党との決裂。国民党左派は共産党の排除に乗り出す。

7.12 陳独秀は国共合作に失敗した責任を問われ、「右傾日和見主義」の批判のもとに総書記の職務を停止させられる。張国燾が代理責任者となる。瞿秋白も責任を問われ排除される。臨時中央常務委員には李維漢、周恩来、李立三、張大富が就任。

李維漢: 湖南省出身。新民学会の創立者の一人。 1919年フランス留学生としてパリにおもむき,周恩来らとともに中国共産党パリ支部を創設。

7.13 譚平山ら共産党員の武漢政府幹部がみずから退去。第一次国共合作は崩壊した。この後党指導部は広州に向かう

ウィキペディアの記載は「蒋介石秘録」によるものらしいが、冒頭に「5月に蒋介石中国国民党からの共産党分離を決定し、汪兆銘が主にその実行部隊であった」と書かれるなど間違いが多い。
一方で汪兆銘が共産党排除の意志がなかったのに、共産党が勝手に脱退し汪兆銘を罵倒したため、やむを得ず排除したかのように書かれていて、叙述自体が矛盾している。
中国共産党の行った行動なので、基本的にはそちらの文献をベースとするべきであろう。

7.15 武漢の国民党中央が会議を開催。汪精衛は5月指示の存在を明らかにする。会議は党・政府・軍における共産党員の職務停止を決議する(武漢分共)。第一次国共合作は終わりを告げる。

7.24 共産党臨時常務委員会、「武漢の反動時局に対する通告」を発し、「秋収蜂起」を呼びかける。

7月 スターリンのモロトフあて書簡。「中国共産党の中央委員会には簡単なやさしい要求がある。それはコミンテルン執行委員会の指令を達成することだ」と盲従を求める。(石川)

27年8月

8.01 国民革命軍内の共産党派だった葉挺(4軍独立団長)、賀龍(20軍軍長)、朱徳らの部隊が江西省の省都南昌で蜂起。「中国国民党革命委員会」の名義で「革命の政党」を受け継ぐことを宣言。周恩来、譚平山が政治指導にあたる。中国人民解放軍の建軍記念日とされる。

反乱勢力は「南昌起義」を唱えた。蜂起には国民党旗をかかげ,革命政府構想には宋慶齢ら国民党左派をも含んでいた。(ただし本人の承諾なし)

8.04 南昌蜂起が失敗に終わる。広東での政権樹立を狙い南下を開始するが、3日間の行軍で兵士の1/3以上が逃亡。

沿道には全く農民運動はなく、加うるに反動派の宣伝のために、くく沿道の農民は、噂を聞いて逃亡していた。食物と飲料は全く買うことができず、ひどい時には一日一杯の粥すら食べることができなかった(李立三)

8.07 共産党、漢口の日本租界で中央委員会を開催(八七会議)。出席者が不足し「緊急中央会議」となる。配置されたコミンテルン代表ロミナ-ぜ (Besso Lominadze)が演説。「コミンテルンの指導と大衆の要求から離れ、改良主義となり党の独立性を失った」と、従来の方針を批判。

瞿秋白は陳独秀に「空前的妥協的機会主義路線」のレッテルを貼り厳しく糾弾。張国焘は回想で、「陳独秀にすべての責任を転嫁するという筋書きは瞿秋白がポロティンと相談して作りあげたもの」と述べている(中屋敷による)
察和森は「誤りの責任は(陳独秀個人ではなく)政治局全体が負うべきである。そうでなければ自己の誤りを粉飾することになる」と発言。

8.12 臨時中央政治局、「全党同志に告げる書」を発表。南昌蜂起に呼応して湖北・湖南・江西・広東で「秋収蜂起」(秋の収穫期に蜂起)を決定。

闘争の指導者には湖南の農村活動家・毛沢東が任命された。毛沢東は「鉄砲から政権は生まれる」と主張、蜂起路線を捨て軍事路線へ転換するようもとめたという。

8月 孫伝芳軍の追撃に移った蒋介石軍、徐州の闘いで惨敗。蒋介石は下野を宣言する。

27年9月

9月 瞿秋白が臨時中央政治局常務委員兼中央指導者に任命される。

ソヴィエトのスローガン: 「革命の高潮」の中で、実行スローガンへ引き上げられた。「広州ソヴィエト」や「海陸豊ソヴィエト」のように、中心都市ばかりか県レヴェルの政権に冠せられたが、多くが短命に終わった。

9.09 毛沢東の率いる湖南蜂起が始まる。軍事作戦を正面に据えたことに対し、党中央は厳しく批判。

9.09 国民党の最高機関として中央特別委員会が招集される。南京と武漢の国民党が統一。みずからの正統性を批判された汪精衛はこれを不満として引退を言明。下野した蒋介石が遠隔操縦することとなる。

9.19 湖南蜂起が失敗。残党1500人が南方に撤退し井崗山(セイコウザン)に立てこもる。井崗山は湖南・江西の省境をなす山岳地帯。

9月 南昌蜂起部隊、広東までの間に国民党の攻撃を受け壊滅・四散。

9月 無役となった蒋介石が私人の資格で日本を訪問。田中義一首相らと会談を重ねる。

蒋介石は、日本が「かつてのソ連のごとく」北伐を支援してくれるようもとめたが、北支の権益拡大を狙う日本側は確たる言質を与えなかった(石川)

 

27年10月

10月 井崗山の毛沢東は、緑林・土匪を取り込み「工農革命軍第1軍第1師第1団」を組織。「三湾改編」(軍と党の一体化、財政公開、軍隊内民主主義)を実施。共産党中央の指導を無視。

10.24 共産党機関誌として「ボルシェビキ」が創刊される。編集委員会主任は瞿秋白。32年まで存続する。

11月 共産党の「第一次左傾路線」が始まる。瞿秋白、「間断なき革命」論を提起。さらに武装暴動路線を推進する。左派国民党を僭称することをやめ、共産党のもとにソヴェートを建設する方針を決定。

11月 毛沢東、長沙蜂起敗北の責任を問われ、政治局候補委員から解任される。

11月 広東省陸豊・海豊にたどり着いた南昌蜂起軍の残党がソヴェートを名乗るがまもなく殲滅される。

12.11 葉剣英の指揮する部隊は広州で蜂起、広州コミューンを樹立。この時武装勢力に初めて紅軍の名が付けられる。その後国民党軍の包囲を受け数千の犠牲を出して全滅。

葉剣英: 黄埔軍官学校の教官となり、周恩来の影響を受ける。27年に30歳で入党。広州蜂起後は国外逃亡、モスクワで軍事科学を学ぶ。

112月 共産党の都市武装蜂起がことごとく失敗に終わる。残る拠点は毛沢東の井岡山だけとなった。以後2年間にわたり、中国の革命運動は沈滞期を迎える。

2月 コミンテルン、瞿秋白の極左路線を公然と批判する。

 

1928年

1月 蒋介石が国民革命軍総司令官に復帰。2月には党の軍事委員会主席、3月には中央政治会議主席も兼任する。

国民革命軍の再編: 共産党・左派の占めていた軍は吸収併合され、4つの集団軍に統合される。第1集団軍・蒋介石、第2集団軍・馮玉祥(河南)、第 3集団軍・閻錫山(山西)、第4集団軍・李宗仁(広東)が守備範囲となる。総勢は60万に達し、北方部隊合わせて20万を圧倒する。

2月 第9回コミンテルン執行委員会、一連の武装蜂起作戦を総括。中国を「資本主義的革命」段階と捉え、「ソビエト化された農民地域を形成し、土地革命を実践し紅軍を建設する」ことを革命の主要任務とすると決定。

周恩来ら党中央幹部とソ連留学生らは、毛沢東を「保守主義者」あるいは「遊撃主義者」として厳しく批判。

2月 共産党臨時政治局が拡大会議を開催。「湖南省党の指導は完全に中央の戦術に違反している」として、省委員全員を罷免。彰公達、毛沢東は政治局員候補からも外される。

28年4月

4月 蒋介石が第二次北伐を開始。「軍閥、帝国主義打倒」の目標は破棄される。北伐軍は4軍構成で、第1軍は蒋介石、第2軍は馮玉章(もと直隷派軍閥)、第3軍は閻錫山(山西軍閥)、第4軍は李宗仁(広西軍閥)となり、軍閥混成軍の様相を呈す。

4月 日本軍、居留民保護を名目に第二次山東出兵。第6師団5千人が省都済南に派遣される。

28年5月

5.01 向警予、武漢の漢口租界で逮捕され処刑される。享年33歳。

中国語ができないが、うっすら分かったのは、向警予は蔡和森の病気療養中に彭述之と出来てしまったらしい。張国焘が間に入って、26年にモスクワで離婚することになったようだ。


      向警予

ついでに瞿秋白夫人の楊之華も美人である。

向警予とともに女性幹部として活躍している。(武漢の5全会に參加,當選為中央委員,並擔任中央婦女部長)

5.03 済南事変発生。済南に進出した北伐軍と日本軍が衝突。日本側の砲撃により中国側軍民3千人以上が死傷する。日本軍も230の死者、日本人居留民に16人の死者。北伐軍が撤退迂回したため、済南は1年にわたり日本の占領下に置かれる。

済南事件はその後の対中侵略の雛形となった。①出先機関が事件を拡大・激化、②軍中央・政府が後追い、③世論が「暴支膺懲」論で後押しというパターン。いっぽう①中国国民の主要敵は英国から日本に移り、②蒋介石の親日方針は解消され、③英米両国が日本を批判的に見るようになった。(石川)

5月 井崗山の毛沢東部隊に朱徳の軍隊(南昌蜂起の残党)2千人と湖南南部の農民軍(秋収蜂起の残党)が合流。兵力1万の紅軍が誕生する。「中国工農紅軍第4軍」を称する。軍長に朱徳、党代表に毛沢東、政治部主任に陳毅が就く。

陳毅: フランス留学中に愛国運動に参加し21年に強制送還。南昌蜂起に葉挺の幕僚として参加し、その後朱徳と行動を共にする。

28年6月

6.03 張作霖、特別列車で北京を脱出。奉天に向かう。

6.04早朝 張作霖を載せた特別列車、奉天駅直前で爆破される。後に関東軍の謀略であることが明らかになる。

6.08 国民革命軍(北伐軍)、北京に無血入城。天安門に孫文の肖像が掲げられる。この時点で軍勢は200万人にまで膨れ上がる。

6.15 国民政府、北伐と全国統一の完成を宣言。南京を首都とし、北京は北平と改称する。

6.18 共産党の第6会大会。国内での開催が困難となりモスクワで行われる。党員は最大時の6万人から1万数千に激減。

現在の政治情勢は、革命の高潮期と高潮期の谷間にあり、党の全体的任務は進撃ではなく、大衆を獲得し、暴動を準備することである」と規定。党の建設、労農運動、紅軍、根拠地の建設について全般的に方針を打ち出す。

28年7月

7.11 共産党第6回大会が閉幕。出席代表142人が23人の中央委員を選出。ソ連における第一次五ケ年計画の成功を踏まえ、中国でのソヴィエト建設を展望する。中央政治局の上海移動を決議。

7.19 モスクワで第六期中委第一次会議。向忠発、周恩来、蘇兆征,項英,察和森からなる中央政治局常務委員を選出。中央総書記に向忠発が就任。毛沢東はあらためて中央委員に選出される。瞿秋白は「左傾妄動主義」と批判され、総書記の職を解かれるが、中国代表団団長としてモスクワ留任

向は湖北の労働者出身。武漢の総工会で活動した後、27年にモスクワに派遣される。第6回党大会で、モスクワ在住のまま中央総書記に抜擢された。1880年生まれで22年の入党、この時すでに42歳。武漢の労働者出身で学歴はない。スターリンが労働者出身の指導者を就けるよう指示したとも言われる。
向忠発というのは不思議な人物で、28年に総書記となったにも関わらず、李立三が蜂起に失敗し、失脚するまでモスクワにとどまった。国内での闘争指導は
李立三(政治局常務委員・宣伝部長が代行する。31年の初頭に中国に戻ったが、国民政府に捕らえられるまで党を指導した気配はない。李の飾り物だった可能性がある。

7月 張作霖の息子張学良が東3省保安総司令となる。国民党と手を結ぶ道を選択。

10月 南京国民政府発足。「訓政綱領」を発表。6年間の党独裁期(訓政期)を経たあと憲政に移行するというもの。蒋介石が主席に就任。実際は新軍閥連合。軍閥の長は各省主席に就任。

11月29日 張作霖の後をついだ張学良、国民政府に帰服を宣言する。易幟を断行。東3省にも青天白日旗が翻ることになる。国民政府は張学良を東北辺防軍司令長官に任命し内政の自治を承認する。

11月  上海に中国共産党中央政治局が開設される。周恩来が執務する。商店を装い、1931年まで存続。蔡和森は病気のため解任、李立三が政治局員に昇格

11月 党中央が臨時政治局拡大会議を開催。毛沢東は政治局員候補から解任され、湖南省委員の資格も剥奪される。

12月 井岡山で土地法が公布される。すべての土地を地主から没収して、家族数に応じて再分配する。農地管理のため土地革命委員会が組織される。革命根拠地が湖南の他、江西、福建省にも広がる。

 

1929年

1.14 国民党軍が井岡山を制圧。紅四軍は山間部を転戦しながら戦力を温存。江西省南部に移動。

2.07 上海の党中央(周恩来名)、朱徳、毛沢東に対して紅軍を離れ、上海に移動するよう指示。ゲリラ闘争を過小評価するコミンテルン流の認識にもとづく判断とされる。

2.09 紅四軍主力、江西省瑞金北方で追撃部隊を撃退。その後独立第二、第四団と合流。

3月 桂蒋戦争。蒋介石が軍事指揮権を中央に集中しようとしたことから各軍閥が反発。広西派軍閥との間に戦争。

5月 西北軍の馮玉章が叛旗を掲げ、10月には同じく宋哲元が叛旗。12月唐生智が叛旗。

5月 張学良軍、ハルビン領事館の一斉手入れを実施。総領事と館員30人あまりを逮捕する。その後中東鉄道(シベリア鉄道の満州通過部分)の接収に踏み切る。ソ連は国交断絶を宣告。

5月 ソ連から帰国した劉安恭が紅四軍の臨時軍委書記兼政治部主任となる。毛沢東は指導部を外され、“療養”生活に入る。

この辺りから、紅軍内部をめぐる経過についてはかなり眉唾になってくる。毛沢東は九郎判官義経みたいに描かれ、周恩来の責任も注意深く消し去られている。

5月 アグネス・スメドレーが上海に来る。大阪朝日新聞の尾崎秀実と接触。同じ年、エドガー・スノーも上海で新聞記者の活動を開始。翌年1月にはゾルゲが上海入り。

6月 上海での労働運動が復活。総工会を受け継ぐ「上海工会連合会」が創設される。

6月 日本政府、米英に追随する形で南京政府を承認。

8月 ソ連が東北部に侵入。張学良軍を撃破する。

ソ連は共産党に「労働者階級の祖国ソ連を守れ」のキャンペーンを強制。これに異議を唱えた陳独秀は党を除名される。

8月 陳独秀、トロツキズムに転向。81名の連名で「我等の意見書」を発表。

8.24 広州で彭湃(政治局員)、楊殷(政治局員候補)など5名の幹部が会議中、スパイの手引で逮捕される。いずれも短時日のうちに処刑される。

9.28 党中央(周恩来と李立三)、井岡山の陳毅を招集し紅四軍工作に対する方針を討議。毛沢東の指導部復帰を認める。

10月 世界大恐慌始まる。

10.26 コミンテルンが指示書簡を送付。「中国は深刻な全国的な危機の時期に入った」とし、①大衆闘争の強化と党の独自性押し出し、②労農運動の展開と党の隊列強化、③政治ゼネストの準備、④反帝運動の主導権獲得、⑤遊撃戦争の強化などを指示する。

11月 ハバロフスク休戦協定。中東鉄道は引き続きソ連の支配下に置かれることとなる。

11月 陳独秀、「明確な公然たる反コミンテルン、反第6回大会、反中央、反党の路線」をとったとして党を除名される。上海でトロツキスト組織「無産者社」を結成。

陳独秀の主張 1.過去の国共合作は完全にコミンテルンの誤謬である。 2.合法的存在による労働者運動に力を集中する。3.サヴェート運動は時期尚早であり、紅軍は土匪行為である。

11月 劉仁静が、トロツキーの亡命先コンスタンチノーブルから中国反対派政綱を携え帰国、公然と党外小組織活動に入る。機関紙の名を取り「我們的話派」と呼ばれる。

その後、劉仁静は「我們的話派」から除名され、「十月社」なる結社を組織するが、そこからも除名される。其の極端な非組織的、無原則的行動に愛想をつかされたとされる。

12月 中東路事件が発生。ソ連軍が満州に侵攻し中東鉄道沿線を占領する。

 

1930年

30年1月

1.09 ソ連で陳独秀問題についてのシンポジウム。瞿秋白が「陳独秀路線」「陳独秀主義」を批判。

1.11 中央政治局、コミンテルンの10月指示を受け左傾路線を採択。第6回大会以来の「大衆獲得」を目指す総路線は放棄される。第二次左傾路線が始まる。

2.17 中国に戻った総書記の向忠発と、常務委員の李立三、周恩来、委員の任弼時らが政治局会議を開催。世界恐慌と国民政府の動揺を,革命情勢の到来と評価。労働者組織の強化を核とする「中心戦術」が採択される。

30年3月

3.02 共産党の影響のもとに魯迅を押し立てた左翼作家連盟が結成される。

3月 汪精衛ら国民党の「改組派」、青年党員を結集し反将運動を起こす。閻錫山、馮玉祥、李宗仁が改組派に合流。

3月 周恩来、コミンテルンとの意見調整のためにモスクワに赴く。帰国は8月末となる。

30年4月

4.03 党中央、各地の紅軍の指揮権を中央軍事委員会に統一すると決定。

4月 トロツキーの具体策提示を受け各派の間に「統一協議委員会」が結成される。トロツキストと陳独秀との折り合いがつかず、流産に終わる。

4月 河北での大規模な内戦「中原大戦」が始まる。国民党同士の内戦となり、蒋介石軍と反蒋で結束した各軍閥が戦った。

蒋介石の権力は強大な軍事力と浙江財閥を基盤とする。浙江とは江蘇・ 浙江省のことだが、実際には上海の両省出身者のグループ。一方で外国の買弁資本、他方で地主・高利貸資本とも一体化する。しかし孫文以来の中国国民党の政治的正統性を受け継いだ側面もあり、薩長による明治維新と類似した性格を持つ。

30年5月

5月 「全国紅軍代表大会」が開催される。軍事力優先の大都市奪取の構想が示される。「遊撃戦争に限定する誤った右傾観念が完全に是正」される。

5月 上海で「全国ソヴィエト区域代表大会」が開催される。江西省から福建省にわたる山岳部に紅軍が組織される。支配区の人口は300万を数えた。

江田論文に「1930年5–8月当時の紅軍兵員数(概数)と所在地、主な活動」が表示されている。第一~第22軍まで編成され、総数は6万にのぼるが、実数はかなり怪しい。
石川によれば、「革命根拠地」(ソヴェート)は15ヶ所、軍勢は合計で6万、銃器3万丁を確保する。ただしその多くが「遊民」(はみ出し者)によって占められていたという。

30年6月

6.11 中央政治局、大都市奪取の「戦略的総方針」を呼びかける。(出席者は向忠発総書記・李立三・項英・関向応・李維漢・温浴成)

長江流域の大都市で「上海ゼネスト・南京兵士暴動・武漢労働者暴動」を組織し、武漢地区で「先駆的勝利」を収める計画。しかし直後に南京の軍隊内の党組織が摘発され、一角が崩れた。

6月 李立三は、「武漢付近の省区を勝ち取る先駆的勝利」を訴え、湖北に第二軍団(第2,6軍)を編成する。

この時武漢をふくむ湖北省の党組織は再建されたばかりで、党員数は2万数千に留まっていた。一方、紅軍は5個軍、兵員数3万を擁し、農村での組織化のほうが進んでいた。

30年7月

7.13 共産党の臨時政治局会議。①南京の兵士暴動を起点とし、②並行して上海ゼネストの組織、③武漢暴動を爆発させ、中央ソビエト政府を武漢に樹立というタイムテーブルが示される。そして「武漢暴動」のため紅軍に南昌・長沙・武漢・九江・柳州への攻撃を命じる。

7.28 湖南の紅軍第3軍団(第3,4,12軍より編成、軍団長は彭徳懐)が長沙を占領。湖南省ソビエト政府の樹立を宣言する。8月5日に反撃を受け撤退。

7月 コミンテルン執行委員会政治局、李立三の「蜂起路線」を批判。モスクワ駐在の瞿秋白を中国に派遣する。

7.29 前モスクワ中山大学校長のパーベル・ミフ、コミンテルン極東局長として上海に赴任。

30年8月

8.01 朱徳・毛沢東の第4軍は南昌を攻撃するが甚大な被害を出し撤退。毛沢東はこの作戦に消極的で、実際には贛江の対岸から城壁に向けて発砲しただけとされる。

8.05 中央政治局が中央行動委員会主席団を結成。団員は向忠発、李立三、周恩来、瞿秋白、徐錫根、雇順章、袁炳輝。コミンテルン議長団あての報告。

上海・武漢・天津・広州などのストライキ運動が猛烈な発展をとげている、全国には組織された武装農民が500余万、組織された民衆が3000 余万存在し、南京と鎮江、武漢に駐屯する主要部隊は中共の影響下にある。
疑いもなく武装暴動の条件は成熟しつつある。

8.10 江田によれば、「武漢の党員が40 名にまで減っているとの報告が党中央に届く。中央は、長江局宛の指示書簡を作成し、武漢党の“猛烈な組織拡大”を指令」したという。

8 赤色職工国際第五次代表大会(モスクワ)に,総工会代表団(劉少奇団長以下30余人)が参加。コミンテルンとの接触で労働運動に関する指示を受ける。

30年9月

9月 紅軍、長沙攻撃に集中するが確保に失敗。その後湖南軍は江西省吉安攻撃に転進する。都市蜂起の失敗により、都市の党組織は甚大な被害をこうむる。

9.08 中央政治局、武装暴動計画の停止を命じたコミンテルン指示の受け入れを表明。

9.24 共産党の6期3中全会が開かれる。コミンテルンから派遣された瞿秋白が、李立三の「左翼的偏向」を批判し指導権を剥奪。瞿秋白、周恩来(中央軍事部長)、向忠発(総書記)のトロイカ体制となる。政治局員として項英、李立三、関向応、張国燾が指名される。

6期3中全会においては項英が大きな役割を果たしたとされる。項英は江西中央執行委員会副主席,人民委員会副主席として会議に参加。国際路線と李立三路線を調和させた後,老幹部として嬰秋白,李立三と毛沢東,更に後には王明とを繋いだ。コミンテルンにとってはかなり面白くなかっただろう。

9月 北平に「国民政府」が樹立される。主席に閻錫山、政府委員に汪精衛、馮玉祥、李宗仁が就任。

9月 中原大戦が終焉を迎える。張学良(奉天軍)が蒋介石を支持し北平・天津に進出したため北平の国民政府は瓦解する。双方合わせ100万の軍が動員され、死傷者は30万人に上る。

30年11月

11月 上海で共産党政治局会議が開かれる。中央政治局のもとに長江局、ソヴィエト中央局、南方局がおかれ、地方の闘争を指導する。

11.16 コミンテルン書簡、「李立三同志の政治路線」を批判。コミンテルンと対立する「非ボリシェヴィキ・非レーニン主義」と糾弾。同時に李立三の政治局員ポストを維持した瞿秋白の調停主義も批判される。書簡を持参した王明が批判の先頭に立つ。

王明: 本名は陳紹禹。毛沢東の最後のライバル。武昌大学の出身で25年に共産党に入党。その後モスクワに留学し中国共産党モスクワ支部の指導者となった。30年に帰国しコミンテルンの引きで最高指導者となった。


           王明(陳紹禹)

11.25 中央政治局はこの指令への服従を決議。李立三は政治局から退きモスクワに召喚される。 

30年12月

12.07 江西根拠地で富田(ふでん)事件が発生。土地改革の方針をめぐり紅軍内部での反乱。毛沢東の率いる紅軍第一方面軍総前委が鎮圧。党中央の王明らは反乱部隊を「アンチボリシェビキ団(国民党の別動隊、特務組織)=李立三路線=トロツキズム=陳独秀・トロツキー派」とし、毛沢東の行動を容認。

12月 共産党の満州省委員会、日本人経営の企業に対する破壊活動を許可。

12月 江西省南部の赤色根拠地に対し、3ヶ月にわたる第一次囲剿(いそう)が開始される。動員兵力10万人。江西省主席の魯滌平が総司令となる。

30年 上海など各地の租界に中国側の特区法院(裁判所)が設置される。租界警察から中国側に政治犯の受け渡しが行われるようになり要人が相次いで逮捕・処刑される。

 

1931年

31年1月

1.07 上海で六期四中全会を開催。コミンテルン代表のパベル・ミフが非正規な形で主催する。三中全会の決議と人事決定を破棄。「左傾冒険主義」から「国際路線」への転換を決定。李立三と瞿秋白を中央政治局から解任する。これに代わり「28人のボリシェビキ」(ソ連で教育を受けた若い党員)の登用を押し付ける。

ミフ派のボス王明(25歳)が政治局員となり、事実上の党指導者となる。ほかに向忠発、周恩来、張国燾が政治局員。
党の改組にとりかかり、「右派分子」を取りのぞく。これを担ったのが中央組織部長の康生だと言われている。
羅章龍、何孟雄(
顧孟雄?)ら非主流派分子は、新執行部の李立三コースへの反省が不徹底であり、会議そのものが無効だとし、しかし共同租界の東方飯店で18名が警察に一網打尽にされた。生き残った羅章龍らは「反対組織」の結成に動く。

1.15 江西ソヴィエト区の党指導部が編成される。周恩来(主)、項英(副)、毛沢東、朱徳、任捉時らが指名される。項英(王明派)の着任は遅れる。

周恩来はソヴィエト区への移動をみずから希望したとされる。この時同時に、鄂豫皖根拠地への張国燾政治局員と王明派の沈沢民、陳昌浩の派遣も決まった。

1.17 左連のメンバー36人が逮捕される。その内の24人が処刑される。

1月中旬 紅第1軍と鄂東で組織された紅第15軍とが合併され、1万2500人からなる紅4軍が成立。

軍政を統括する「中央執行委員会主席団」の主席に紅軍作戦を実質的に指導した毛沢東、第一副主席に項英が就く。
項英は同時に中央革命軍事委員会主席に就任し、中央ソ区の政治指導工作の中心となる。
張国燾は第二副主席として湖北、河南、安徽のソヴィエト区を指導。軍事方面においては張国燾は臨時中央の軍事委員会副主席を勤め,ソ区においては中国工農革命紅軍革命軍事委員会(主席朱徳・前出)に直属していた。しかし張国燾は中央書記局から外れており、あくまでも地方ソ区,特に西北工作専門のヘッドであった。 

2月 国民党の元老格で立法院長の胡漢民、蒋介石の方針に反発。蒋介石は胡漢民を逮捕、立法院長の職を剥奪する。

31年3月

3月 第二次囲剿。動員兵力20万人。蒋介石の右腕といわれる何応欽軍政部長が総司令となる。作戦は2ヶ月でいったん終了。

3月 汪精衛が広東に国民政府を樹立。蒋介石に反発する軍閥勢力が連合。

4月 顧順章(中央委員)が検挙され転向。彼の情報漏えいにより要人アジトが権力の知るところとなり、上海の共産党組織は事実上の機能停止に追い込まれる。

党特科機関のキャップ顧順章は、鄂豫皖根拠地に赴く張国壽を護衛するため上海から派遣された。このとき武漢で逮捕された。南京に送られた顧は、向忠発、周恩来、瞿秋白の居所などを白状した。彼はその後、剿共特務隊の隊長となった。

31年5月

5月 胡漢民派の牙城である広州で反乱発生。これに汪精衛、孫科(孫文の長子)、李宗仁らが合流。「国民政府」の樹立を宣言する。

5月 関東軍の石原莞爾参謀、武力による「満蒙問題」の解決を主張。満州国建設の計画を主導する。

5月 王明と博古(秦邦憲)、洛甫(張聞天)ら「28人のボリシェビキ」が党中央を掌握。右翼偏向との闘争を呼号して武力対決路線を開始する。ボスの王明はモスクワに戻り、博古、洛甫が周恩来とともに党を取り仕切る。この第三次左傾路線は4年間にわたり維持される。

5月 第二次囲剿を耐えたソヴィエト区で組織体制の変更。項英は中央革命軍事委員会副主席に格下げされる。

31年6月

6.15 コミンテルン東方局主任ヌーラン夫妻、上海で逮捕される。

6.23 向忠発、上海で国民政府により逮捕される。翌日銃殺される(51歳)。逮捕前すでに自堕落な生活に溺れていたといわれる。

一説によれば、向忠発は江西ソヴィエト区に配置予定であったが、これを嫌い逃走した揚げ句、国民党当局に逮捕された。転向を表明したが、意に反して殺されたという。


      向忠発 

6月 向忠発の逮捕後、盧福坦、周恩来、張聞天が政治局を形成。共産党の指導する労働運動は壊滅状態に陥る。

7月 第三次囲剿。動員兵力30万人。蒋介石みずからが総司令となる。毛沢東が中国革命軍事委員会の主席と、工農紅軍第一方面軍の総政治委員を兼ね、戦闘を指導。

共産党軍は毛沢東の「深く敵を誘い込む」作戦により、政府軍に打撃を与える。「根拠地」は拡大し湖南省境から江西南部、福建西部が解放された。紅軍の勢力は4万人から30万人に拡大した。

8.04 蔡和森、広州軍政監獄で殺害される。この年の初め、中国に帰国。両広省委員会書記に就任した。6月に香港で逮捕され、広州へ引渡された。

31年9月

9月 共青書記の博古が党トップに座り、張聞天(洛甫)、盧福坦とともに上海で「臨時中央」を組織。周恩来、王稼薔は瑞金、沈沢民と張国燾は湖北のソヴィエトに逃れる。王明はモスクワに逃れ不在となる。湖南の毛沢東は中央の指示を待たず、独自に「正確路線」をとっていた。

博古: 本名は秦邦憲。上海大学学生時代に「五三○惨案」を契機に共産党に接近。博古のペンネームはこの頃から。その後モスクワに留学し王明、張聞天らと行動を共にする。帰国後は31年4月から共青書記となり、党中央政治局にも入る。

9.01 上海の臨時中央、紅軍の勝利を「偉大な成功」とたたえつつ、紅軍にはゲリラ主義を放棄するよう求める。さらに急進的な土地改革を指示。

9.18 柳条湖事件が発生。満州事変勃発。関東軍は「暴戻なる支那軍」を打ち破るため軍事行動を開始。その日のうちに奉天、営口、長春など18都市を占領。朝鮮軍(朝鮮在駐の日本軍)が独断で国境を越え奉天に向かう。

9月 満州軍閥の張学良は全軍に撤退・不抵抗を指示。蒋介石軍は第三次囲剿で軍を割く余裕はなく日本軍の行動を傍観。

9月 中国人民の抗日運動が発生。上海では学生10万人、港湾労働者4万人がストに入る。20万人の抗日救国大会が開催され、対日経済断交を決議する。北平(北京)では20万人の抗日救国大会が持たれ、市民による抗日義勇軍が結成された。「安内攘外」路線に固執する蒋介石への不満が高まる。

「たられば」論だが、共産党が勢力を温存してあれば、この闘争は五・四,五・三〇を上回る大闘争となり、中国革命の様相は変わっていたに違いない。李立三というよりコミンテルンの引き回しが、中国革命に及ぼした悪影響が痛感される。

9月 日本製品ボイコット運動。満州を除く中国全土の日本商品輸入は前年対比1/3、12月には1/5にまで低下、 上海では対日輸入がほとんど途絶、日本商船を利用する中国人の積荷は皆無となった。

9月 第三次囲剿戦、満州事変の勃発により中断される。紅軍はほぼ無傷で残され、影響力を拡大。

31年10月

10月 日本軍、張学良の本拠とする錦州を爆撃。

11月7日 江西省南部の瑞金で、中華ソヴィエト第一次全国代表大会を開催。中華ソビエト共和国憲法大綱を採択。

臨時政府の主席に毛沢東、副主席に項英と張国燾(張国燾は湖北の根拠地 鄂豫皖をしきっていた)、軍事委員会主席に朱徳が就任。ただし共産党の序列では上海の王明、秦邦憲らが指導的地位にあり、政府の軍事委員会は党の軍事委員会(書記は周恩来)の管轄のもとにあった。(瑞金での権力関係については、毛沢東を正義とする後世の修飾が多い)

11月 中華ソヴィエト全国代表大会と並行して江西南部根拠地党代表大会が開かれ、「臨時中央」が指導権を掌握。

11.27 中華ソヴィエト共和国の樹立が宣言される。毛沢東を中央執行委員会主席とする臨時中央政府(江西臨時政府)が組織される。瑞金を中心とする中央区(江西省東南部)に福建省西部を加え中央ソヴィエト区と称される。

最盛期の支配下人口1000万人程度の政府であったが、はじめて「人民権力」の創出を実現した点で歴史的であるとされる。

31年12月

12月 蒋介石と汪精衛広東国民政府とのあいだに妥協成立。蒋介石は一時下野する。南京新政権の主席には林森。

12月 江西省の囲剿作戦に動員された国民党26路軍1万7千が寧都で蜂起し、紅軍に参加する。

12月 第一次全国工農代表大会が「中華蘇維埃労働法」を決議。ソヴィエト地区にソフォーズやコルホーズを植え付けようとする「新思考」が背景となる。

12月 瑞金政府の支配地域に、共産党ソビエト区中央局が組織される。周恩来が派遣され書記に就任。任弼時、項英、王稼祥らと書記局を形成する。周恩来が、武漢政府時代の共産党中央軍事部長の肩書を利用して「軍事力」の指揮権を手中にする。

矢吹によれば
 毛沢東の主張は「狭い経験論」 「富農路線」「右傾日和見主義」だとしりぞけられ、王明の極左進攻路線が採択された。ここで第一方面軍総司令、総政治委員のポストを廃止したため、毛沢東は中央ソビエト区紅軍における指導的地位を失った。

 

1932年

1.28 「第一次上海事変」が勃発。上海市郊外の19路軍と日本軍守備隊との間で戦闘状態に入る。日本は空母2隻を中心とする第3艦隊と陸戦隊約7000人を上海に派遣。

上海の日本人僧侶への襲撃事件を口実にして、日本軍陸戦隊が上海付近を軍事占領する。関東軍高級参謀大佐板垣征四郎が上海日本公使館付き武官少佐田中隆吉に依頼して起こした謀略事件とされる。

1月 満州事変を機に広州派が妥協。蒋介石の下野を条件に南京政府に合流。孫科が首班(行政院長)となる。

2.20 日本軍は上海への総攻撃を開始。「肉弾三勇士」などの激戦。これにより満州侵略はカモフラージュされる。

2月 関東軍、ハルピン占領。満州全域を軍事占領下に置く。

3.01 「満州国」が建国を宣言。清朝廃帝溥儀が執政に就任。

3月 臨時中央政治局指令。中央職工部部長に中華全国総工会党団(フラクション)の改組を命じる。『紅旗周報』によれば、赤色工会会員数は僅かに1148人。そのうち上海666人,アモイ72人,ハルビン73人,海員組合319人など.

3月 孫科が退陣。汪精衛が行政院長、蒋介石が軍事委員長の「蒋汪合作体制」が発足する。

3.  丁玲、田漢ら、瞿秋白の立ち会いのもとに共産党に入党。

4.15 瑞金の中華ソビエト共和国臨時政府が対日戦争を宣言。党における抗日政策の優先が確認される。

5.05 上海事変に関して上海停戦協定調印。

7月 第4回目の囲巣作戦が開始される。国民党中央軍60万人が動員され、9ヶ月に及ぶ長期作戦となる。

朱徳が(ソ区)軍事委員主席に就任し、指揮を執る。周恩来,王家薔らが政治指導。鄂豫皖の根拠地が壊滅するが、楽安・宜黄・南豊の三都市を確保しかろうじて撃退に成功。

10.03 江西省寧都で党中央の任弼時、項英を迎えソヴィエト区中央局会議を開催。周恩来、毛沢東、朱徳、王稼祥が参加。

矢吹は「ナゾの寧都会議」と題して、会議の内容を推測している。これによれば、毛沢東は「敵強く、我弱し」と認識し、準備を中心とすべきと主張。周恩来も毛沢東を掩護。任弼時、項英は毛沢東を「待機主義」と断罪した。

10.12 寧都会議が終了。周恩来は毛沢東から総政治委員職を継承。紅一方面軍の総政治委員を兼任。周恩来・朱徳軍事体制が確立。

10月 軍事委員会通令。ソ区において毛沢東が総政治委員職を剥奪される。毛沢東は福音医院に幽閉される。(この後一連の現地会議の内容は、すべて胡散臭い)

10月 郡豫院革命根拠地の第四方面軍主力,蒋介石軍の攻撃を受け峡西省南に向かう。

12 中ソ国交回復。これを契機に,中共「党中央」はウラジオストックから上海に戻る。

12月 宋慶齢、魯迅、蔡元培らが中国民権保障同盟を設立。愛国民主抗日活動を積極的に展開、国共合作を支持する姿勢を明らかにする。国民党の特務統治に反対し、政治犯の釈放や言論の自由を求める。

 

1933年

1月 共産党、国内停戦と対日共同抵抗を呼びかける。

1月 張聞天(中央書記局書記・政治局委員)ら上海臨時中央局の主要メンバーが官憲に逐われ瑞金に移る。 「ソ区」中央局を併合し,臨中(総書記・博古)の指導のもとに入る。臨中は毛沢東、鄧小平ら瑞金派幹部を厳しく批判。

一説にコミンテルン派は「都市労働者中心のソ連型革命」を主張、これに対し毛沢東派は、農村に根拠地を作って都市を包囲する路線を主張。統一戦線論においては、コミンテルン派がプロレタリアート独裁路線、毛沢東派はブルジュアジーを含む広汎な民族統一戦線を主張。
とあるが、実際には瑞金政府や紅軍など現場の指揮権をめぐるもう少し生臭い話であったようだ。

1月 第4方面軍主力、陜西省から四川省北部に進入。

2月 張聞天(洛甫)が毛沢東に代わり中央ソ区の人民委員会主席に就任。最高軍事幹部は「周恩来,朱徳体制」が続く。毛沢東には臨時政府主席の地位のみが残される。

2月 日本軍熱河侵攻。蒋介石は第4次囲剿戦の中止を余儀なくされる。

5月 塘沽協定締結。関東軍と国民党政府との間に結ばれる。国民政府は満州国の国境を承認。

5月 博古(秦邦憲)、陳雲が瑞金の江西解放区に合流。組織体制の第一次修正。張聞天の政治的指導力が公然と進捗する。

6月 民権同盟幹部の楊杏仏、蒋介石の私兵集団「力行社」により暗殺される。同盟は活動停止に追い込まれる。

6月 寧都で共産党中央局会議が開かれる(第二次寧都会議)。博古が会議を主催。毛沢東の主張は排斥される。

夏 上海の共産党中央特科(機密・諜報活動)のキャップに王学文(経済学者)が就任。4年間にわたり特科活動の指導に当たる。

9月 組織体制の第二次修正。臨時中央局系の博古が中央執行委員会書記局の代理総書記に就任。中央革命軍事委員会の主席代理(主席は朱徳)を兼務する。

9月 書記局の再編。9人から書記局には博古、リトロフ、周恩来、項英らがふくまれるが、毛沢東,張国燾らソヴィエト建設者はふくまれず。

9月 コミンテルンがリトロフをソヴィエト区に派遣。合流したリトロフと博古,周恩来,朱徳による最高指導体制が取られる。

リトロフは本名はオットー・ブラウン、中国名は李徳。ドイツ人。ソ連紅軍騎兵師団参謀長の経歴があり,中央軍事委員会において決定的発言権を行使した。

9月 毛沢東、中央政治局を外される。中華ソヴィエト中央執行委員会主席にはとどまった。

10月 蒋介石、兵力100万人、空軍200機を動員し第5次共産分子囲剿戦開始。コミテルンから派遣された軍事顧問リトロフ (本名オットー・ブラウン ドイツ人)は正規軍による正面対決路線をとった。紅軍の拠点は次々と陥落、ほとんど壊滅状態となる。

10月 「上海事変」を闘った19路軍を中心に「福建人民政府」成立。反蒋抗日を掲げる。まもなく蒋介石の攻撃を受け崩壊。

11.15 『紅旗週報』、十九路軍を擁護する立場で抗日統一戦線を訴える。周恩来及びソ連留学生派は,19路軍との共闘に反対する毛沢東を「留党観察」の処分に付す。

11月 ソ連とアメリカが国交を樹立。

12月 コミンテルン第13回執行委員会。福建政府(十九路軍)の軍事指揮官の察廷踏を非難。「大衆の国民的反帝国主義的精神を利用して,彼自身とイギリス帝国主義の利益のために動かそうとしている」と批判

 

1934年

1月 上海で魯迅らとともに文芸戦線運動を続けていた瞿秋白、当局の手を逃れ瑞金に入る。要職にはつかず。

1月 瑞金で共産党第6期5中全会。四中全会の路線を堅持し,李立三路線,羅章龍派(両面派)を糾弾し,紅軍を拡大し,遊撃戦を発展させ,ソヴィエト工作を強化するよう訴える。政治局は博古、張聞天、周恩来、項英で構成。周恩来が党中央書記,軍事部長に選出される。

1.22 中華ソヴィエトの第二回大会。広東暴動六周年を掲げ、武力解放を一層打ち出すとともに、「下層統一戦線」方針を「確定的かつ独自的革命戦略」として打ち出す。

大会での議論は「福建人民政府」の評価に集中。毛沢東は福建代表の資格で参加した張聞天、陳雲を徹底して批判。

国民党政権とソヴィエト政権は先鋭に対立しており,和平と共存は絶対不可能である.福建人民政府は反動統治階級による欺瞞である。福建の党工作員は皆日和見主義者である。

博古は前線の朱徳に代わり、中央革命軍事委員会主席代理に任じられた.周恩来が革命軍事委員会副主席となる

ソ区軍事委員会主席

朱徳

第一方面軍総指令を兼務

ソ区軍事委員会副主席

彭徳懐

第三軍団長を兼務

ソ区軍事委員会政治委員

周恩来

革命軍事委員会副主席(34.1.22より)

総司令部参謀長

葉剣英

革命軍事委員会副主席(34.1.22まで)

政治部長

王家薔

 

政治部副部長

蓑国平

 

4月 囲剿戦が強化される。瑞金の北100キロの広昌で最大の決戦となる。紅軍は多大な犠牲者を出し敗退。中央根拠地の崩壊は時間の問題となる。

5月 宋慶齢ら2000人の著名人が「中国人民対日作戦基本綱領」発表。すべての中国人民が武装蜂起して、日本帝国主義と闘うことを訴える。

6月 上海中央局に大検挙。その後も連続して一斉検挙があり、組織崩壊する。中央特科および中央軍事委員会情報部が唯一生き残り、非公然活動をつなぐパイプとなる。

余談: 38年、王世英、南漢宸など、主に情報系統の党員たちは連名で、毛沢東に江青と結婚しないように求める手紙を、党中央に提出している。彼らが上海時代の江青を知っていたからであろう。これは、後の成り行きを考えれば余計なことであった。

10月 共産党、中央根拠地からの撤退を決定。党中央が瑞金を撤収する。紅軍の基幹部隊である第一方面軍8万人が西方への移動を開始する。

水嶋によれば、瑞金放棄はモスクワからの勧告による。部隊の指揮は博古、ブラウン、周恩来の3人による合議とされ、毛沢東は決定に参加していなかった。

10.18 壊滅寸前の紅軍主力(第一方面軍)が包囲網を突破して瑞金を脱出。その後1年間にわたる1万2000キロの「長征」が開始される。8万6000人が長征に加わり、残り約3万人は陳毅・項英の指導の下山岳地帯のゲリラ戦に入る。

11.10 国府軍が瑞金を占領。

 

1935年

1.15 長征軍が貴州省北部の遵義を占領。

1月 遵義で共産党中央政治局拡大会議が開かれる。王明らのコミンテルン路線が批判され、毛沢東が政治局入りする。

伝説が多すぎるが、結果としては、①毛沢東ら現場の突き上げで張聞天・王稼祥が独自派に転向。②これにより博古とリトロフが指導権を放棄、③中立派の周恩来が指導権を掌握、④周恩来は毛沢東を政治局常務委員に引き上げる。なおこの時点で、博古は2月には総書記職を辞し、張聞天がこれに代わる。この時、王明はモスクワ在留だった。

2月 長征途上の党中央が、遵義会議報告のため潘漢年、陳雲をモスクワに派遣。楊之華が上海で合流し、ウラジオ経由でモスクワに向かう。

2.19 共産党上海中央局書記黄文傑をはじめ、田漢、陽翰笙など36人の共産党員が逮捕される。

2.24 瞿秋白、病気のため長征に同行せず、香港ルートでの脱出を図ったが、政府軍に捕えられる。6月18日に処刑される。

秋白は「転向声明」の中で、自分のような半人前の文人が政治に関わり、あまつさえ党の指導者となったことは、完全なる「歴史的誤会」であったと述べている。

3月 張国燾の第四方面軍は四川省西北部に到達

5月 張国燾、「西北連邦政府」成立宣言を発表し,この政府が革命闘争の中心であるとして,四川省全省と西北地域の赤化を提起した.既存の党指導部の影響力を排除し,独自の新「中華ソヴィエト」の建設を目指す。

春 中央特科が壊滅したあと上海での役割を代行していたソ連赤軍情報部の組織も摘発される。アグネス・スメドレー、ルイ・アレイなどコミンテルン中国班のメンバーと劉鼎が密かに連絡を取りあう。

劉鼎: 20年代初めの勤工倹学運動に参加、ドイツで学ぶ。現地で入党後ソ連に行き、モスクワの中山大学で学ぶ。帰国後、特科で活動したがソビエト区に入り、その崩壊後、密かに上海に戻る。

6月 毛沢東の第一方面軍(中央紅軍)と張国燾の第4方面軍が合流。このとき中央軍は1万に減少、一方第4方面軍は8万の兵を擁していたという。

8.01 中国共産党と中国ソビエト政府が、「抗日救国のために全同胞に告げる書」(八・一宣言)を発表。「すべてのものが内戦を停止 し、全ての国力を集中して抗日救国の神聖なる事業に奮闘すべきである」とし、全中国を統一した国防政府と抗日連軍を組織するよう訴える。

この宣言は長征軍のあずかり知らないもので、コミンテルン第7回大会を受けてコミンテルン執行委員の陳紹禹が作成したものである。

8.19 長征軍内で指導権が移動。毛沢東が周恩来に代わり軍事上の最高指導者となる。毛沢東は張聞天と組んで,周恩来を総政治委員から更迭するよう図ったとされる。

張聞天は(西征が)四川省に入った後,上海に帰ろうとしたが、結局軍に留まり、陳雲を上海に派遣した。

9月 張国焘らの第4方面軍、北上を拒んで西康にとどまる。軍長朱徳は張国焘を促し、翌年に中央軍と合流を果たす。

10月 長征軍(第一方面軍)、呉起鎮(陝西省)に到着。8万6000人で出発した長征軍は8000人に減少するが、第二方面軍、第四方面軍と合流し4万人に達する。

12月9日 北平(北京)の学生5000人が「日本帝国主義打倒」「華北自治反対」を叫んでデモ行進。宋哲元の軍隊がこれを弾圧する。

12月16日 さらに1万人がデモ行進。軍隊・警察と衝突。

 

1936年

9.20 魯迅、茅盾、郭沫若、林語堂、包天笑、周痩鵑など21人が連名で「文芸界の団結と言論の自由のための宣言」を発表。抗日救国に向けて文芸界の統一戦線の成立を促す。

10.19 魯迅が自宅で死去。数万人が告別に訪れる。「民族魂」と書かれた錦の旗で覆われた棺が沿道を埋めた市民に見送られる。

12.07 中央革命軍事委員会が改組。毛沢東,朱徳、周恩来,張国燾,彭徳懐,任弼時,賀龍らがそのメンバーであった.

12.12 西安事件が発生。第二次国共合作へとつながっていく。

1937年

7.07 盧溝橋事件が発生。日本軍の華中侵攻作戦が開始される。蒋介石は各地のソビエト区への攻撃を最終的に停止。延安の共産党は周恩来を団長とする代表団を南京に派遣する。

第二次国共合作の下で、南京に共産党中央代表部がおかれる。共産党軍からなる新四軍を統率下に置く。

11月 王明、康生らが帰国し南京に入る。国民政府のもとで政治局の主導権奪回を図る。

12.07 南京が日本軍により制圧される。共産党中央代表部は国民政府とともに武漢に移動。

12月 王明ら政治局は武漢に共産党長江局を設置する。中央政治局会議を開催。周恩来の共産党中央代表部と合体し、書記を陳紹禹、副書記を周恩来とした。政治局員は張聞天、毛沢東、陳紹禹(王明)、陳雲、康生で構成される。

1938年

3月 王明、周恩来、博古らの長江局幹部が延安に赴き中央政治局会議を開催。コミンテルンの親蒋介石路線に従うよう要求する。

王明はコミンテルンの支持を背景に、「蔣介石を評価し,国民党の統一指導にゆだねるべき」と主張。毛沢東派は「蔣介石は右翼頑迷派であり,抗日の主力とはなりえない。共産党の指導権を保持すべき」と主張。

4月 張国燾、いったん共産党に復帰するが、結局国民党に転向する。共産党は張国燾を除名。

10月 共産党、6期6中全会を開催。蒋介石軍の崩壊に伴い毛沢東の軍事路線が大勢を占めるようになる。王明の影響力は消失する。政治局員は毛沢東、張聞天、陳雲、康生、陳紹禹、任弼時。

38年 王明に代わって任弼時がコミンテルン中国代表になる。王明は権力奪還を図り、43年にソ連行きを計画したがコミンテルンの解散により目的を果たせずに終わった。