ネパール民主化闘争と共産党 年表
ネパール共産党の創設
1949年9月15日 カルカッタでネパール共産党(マルクス主義)が創設される。インド共産党(マルクス主義)の影響を受け、国王独裁制、封建制、帝国主義と闘う方針を打ち出す。書記長にはシュレスタ(Pushpa Lal Shrestha)が就任。(ネパール共産党_MLのホームページでは49年4月22日と記載されている)
1951年 ネパールで共産党の指導する民主化運動が盛り上がる。Rana体制が崩壊。
1952年1月24日 Raksha Dal の蜂起。共産党が非合法化される。
1952年 党政治局会議、シュレスタ書記長を追放しアディカリ(Manmohan Adhikari)を書記長代行に選出。
1954年 最初の党大会がパタンで非合法下に開催。 アディカリが書記長に選出される。
1956年4月 共産党が合法化される。共産党は「立憲君主制を受け入れ平和的手段で社会主義思想の宣伝を行う」との声明を発表。
1956年 アディカリ、中国共産党大会に出席。そのまま病気療養に入る。その間、ラヤマジ(Keshar Jung Rayamajhi)が書記長代行を勤める。
1957年 カトマンズで第二回党大会が開かれる。共和制を目指す綱領を採択。ラヤマジが書記長に選出される。
王室クーデターと党の分裂
1960年12月 王室のクーデター。共産党のラヤマジ書記長は、「進歩的ステップ」とこれを賞賛。インド共産党の指導者 Ajoy Ghoshはラヤマジに路線を修正し君主制反対の闘いを再開するよう勧告。
1961年初め 全ての政党が禁止される。政府は共産党への弾圧を開始。ラヤマジは君主制への支持を続けたため党内で孤立。
党内矛盾解決のためインドのダルバンガで中央委員会総会が開かれた。議論は三派に分かれ闘わされた。ラヤマジ派は立憲君主制の維持を主張。シェレスタ(初代書記長)派は議会の再開に向けた大衆動員を主張、シン政治局員(Mohan Bikram Singh)は憲法制定議会の創設を主張する。 |
1962年4月 党内反ラヤマジ派がVaranasi(インド)で「第3回党大会」を開催。反王室の姿勢を明確にし、民族民主革命の路線を採択。ラヤマジの除名を決定。書記長にアマチャ(Tulsi Lal Amatya)lを選出する。
ラヤマジ派は中央委員会の多数派を掌握し、「第3回党大会」に対抗する。この結果、党はアマチャ派とラヤマジ派に事実上の分裂。以後最大17派にまで分裂を重ねる。 |
1963年 軍の弾圧が厳しさを増す。アディカリ前書記長とシン政治局員が相次いで逮捕される。
1968年 起死回生を狙うラヤマジ派が総会を招集するが、反対派はこれをボイコット。以後ラヤマジ派は四分五裂し力を失う。残党(NCPマナンダル派)は94年に統一共産党に合流。
1968年 シュレスタとアマチャ、インド共産党(ML)の支援を受けインドのゴラフプールで別党の結成を宣言。インド・ビハール州との国境地帯を中心に独自の党組織の建設に着手する。
1971年5月 共産党アマチャ派、国軍の弾圧を受けジャパ(Jhapa)地方で武装自衛闘争を開始する。
1971年 アディカリとシンが8年の刑期を終え出獄。全共産主義者の結集と単一党の形成を呼びかける。
アマチャ派共産党とシン派共産党の並立
1974年 ビクラム・シン、みずからの同志を集め集会を開催。第4回党大会と呼称する。
1975年12月 アディカリとビクラム・シンらにより党再建のための「中核」が結成される。アマチャ派共産党のうちシュレスタのグループがこれに呼応する。
1975年 ジャパの武装闘争が激しさを増す。ジャパに連帯するフロント組織として「全ネパール共産主義者革命共同委員会」が設立される。アマチャ派若手幹部のフラ・ナト・カナルが指導。
1977年 「4大会」派、指導者のシンを女性問題で解任。Nirmal Lama を新たな指導者に据える。1年後にラマからシュレスタに交代。
1978年 ビクラム・シン、「4大会派」を離れ独自の党NCP(マシャル派)を結成。
1978年12月26日 アマチャ派共産党に全ネパール共産主義者革命共同委員会を加え、ネパール共産党(マルクス・レーニン主義)が創設される。書記長に武装闘争の指導者マイナリ(C. P. Mainali)を選出する。(以後NCP_MLと表記)
1979年10月 マシャル派が大会を開催。「第5回大会」を称する。若手のキランを書記長に選出するが、これを不満とするシンらは新たにマサル派を結成。マサル派からはさらにバッタライらの「反乱グループ」が分離する。
NCP_MLの路線転換
1982年 NCP_MLが路線を大転換。武装闘争を放棄し、人民民主主義闘争路線をとる。武装闘争に固執するマイナリは書記長の座を追われ、フラ・ナト・カナルに交代。
1989年 NCP_MLの下で統一左翼戦線が組織される。民主政治をもとめる運動の中で、党派を乗り越えた統一が進む。
1991年5月 議会選挙が行われ、統一左翼戦線が躍進。
1991年 NCP_MLとネパール共産党マルクス主義派(ラヤマジ派の生き残り)が合同して統一共産党を結成。
1991年 統一共産党に対抗して、旧シン派の流れをくむマシャル派、4大会派、マサル派、反乱マサル派などがネパール共産党「統一センター」を結成。
「統一センター」はまもなく分裂(当然でしょう)。マシャル派と反乱マサル派が共同しマオイスト党の結成に動く。他の党派は「統一センター」の名称を維持。 |
1993年 統一共産党が党大会を開催する。議長にアディカリ元書記長(旧マルクス主義派)、書記長にマダン・クマール・バンダリ(旧マルクス・レーニン主義派)が就任する。
書記長に選出されたバンダリはまもなく事故死した。後任書記長には同じ旧マルクス・レーニン主義派のマダブ・クマル・ネパールが就任。 |
1994年 総選挙で統一共産党が勝利。アディカリ議長が首相に就任した。新政権は王室と共産党の共存を目指すが野党の不信任により政権は崩壊する。
1995年 ネパール共産党毛沢東主義派が結成される。書記長にプスパ・カマル・ダハルが就任。ダハルはプラチャンダ というゲリラ名で呼ばれていた。公然組織「統一人民戦線ネパール」の議長にはバブラム・バタライが就任。
1998年 統一共産党がインドとの条約をめぐって分裂。旧マイナリ派が「ネパール共産党マルクス・レーニン主義」(第2期)を結成。サハナ・プラダンを党首とし、バムデヴ・ガウタムを書記長とする。
2001年 王室内クーデター。ギャネンドラ国王が即位。
王室の晩餐会の席上で女性関係を叱責された皇太子が逆上し、国王一家をピストルで皆殺しにした後で自らも自殺した、ということで一応の決着を見ています が、だれもそんなことは信じていません。現国王のギャネンドラが反動派軍部と結びついて、前国王派を皆殺しにした可能性が一番強いと思われます。 |
2002年 ネパール左派共産党(マルクス主義派の一分派)が統一共産党に合流。
2002年 第二期マルクス・レーニン主義派の主流が統一共産党に再合流する。残留派はマイナリを書記長に選出し党を維持。
03年 ネパール西部サリヤンの農村地帯で、封建支配層の支援を受けた軍部と毛沢東派の戦闘が始まる。2年間の戦いで毛沢東派は解放区を拡大。
04年後半 毛沢東主義派は中央委員会総会を開き、「戦略的反撃の段階に移行する」ことを決定。平野部にも進出し軍施設などの襲撃を繰り返す。
2005年
2月1日 ギャネンドラ国王はみずから権力を掌握し、国家非常事態宣言を発令。政党活動家や人権活動家に対する一斉弾圧。電話回線はすべて不通となり、徹底した報道規制が始まる。
2.11 ギャネンドラ国王、議会を閉鎖。民主政治を廃止し絶対君主制を再確立しようとする
2月末 統一共産党とネパール会議派を含む5政党が、国王の独裁に反対し共闘体制を組むことで合意。
9月 主要七政党と毛派が、国際機関の監視下で制憲議会選挙を実施すること、その制憲議会で立憲君主制の在り方やその是非を問うなど12項目の協定で合意する。
9月 マオイスト、カトマンズ包囲作戦を開始。
4月革命: 王政の廃止と共和制への移行
2006年4月
4.06 主要7政党が呼びかけた国王退陣を求める全国無期限ゼネスが始まる。最初は独裁に抗議する「市民ゼネスト」で、それ自体で権力打倒を目指すような性格のものではなかった。
4.20 カトマンズ市内で大規模な反政府デモ。治安部隊の鎮圧行動により、少なくとも3人が死亡、50人が負傷する。
4.22 20日を上回る10万人のデモ。カトマンズの王宮のすぐ近くまでに迫る。主要7政党は「25日にカトマンズで100万人規模のデモを行う」と発表。
4.24 ギャネンドラは屈服。国王の座にはとどまるものの、「国家の主権・行政権を国民に戻し、4年前に解散させた議会を再開する」と声明。下院が復活し、制憲議会選挙の開催が決定される。
4.24 ここまで19日間で、14人が警察の攻撃によって犠牲となった。そして5,000人が負傷した。
4.25 7党連合、国民会議派のコイララを首相として政府をつくることで合意。停戦を宣言して、毛沢東派を“テロリスト”として扱うのをやめる。
4.26 毛沢東派、一方的停戦を宣言。カトマンズ封鎖作戦を停止。首都での政治戦に全力を集中。
5.26 新政権(再開議会)と毛沢東派の和平交渉が始まる。新政権はこれに合わせて収監中の千名以上の毛沢東派メンバー全員を釈放。
6.02 カトマンズで毛沢東派の呼びかけた反政府デモ。全国から20万人を動員。「君主制を廃止し共和制を」のスローガンが叫ばれる。
6.16 新政府とマオイスト、包括的休戦交渉で合意に達する。
国会と毛沢東派支配地域の“人民政府”を解散した上で、1カ月以内に共和制を柱とする暫定憲法と暫定政府を発足させる。この暫定政権には毛沢東派も全面的に参加する。 |
11.21 政府とマオイストが包括的和平協定に調印。1万3千人以上の死者を出した10年間におよぶ内戦が終結。国連がマオイストの武器と兵力を監視下におく。
2007年1月 暫定議会が発足し、マオイストもこれに加わる。
08年2月 南部平原地帯のマデシ人の武装闘争、政府との和解に達する。政治勢力としてマデシ人権フォーラムを結成。
2008年4月10日 制憲議会選挙。マオイストが第一党となるが過半数には達せず。統一共産党はネパール書記長が落選するなど惨敗を喫し第3党に転落するが、国民会議派とマオイストが拮抗する中でキャスティングボートを握る。
4月 ネパール書記長、選挙での敗北の責任を取り辞任。カナルが新書記長に就任。
5月28日 制憲議会が招集される。圧倒的多数により連邦共和制を宣言。ギャネンドラ国王は退位、王政が廃止される。
7.22 マオイスト党中央書記局会議が開かれる。他党との関係をめぐりキラン(モハン・バイディヤ)、バーダルら党内原理派と激論が戦わされる。政府の組織を断念し、野党に留まることを決定。
8月15日 制憲議会での首班指名。統一共産党、マデシ人権フォーラムの支持によりマオイストのプラチャンダ政権が誕生。財務大臣にバブラム・バッタライ、国防大臣にバーダル(ラム・バハドゥール・タパ)などが就任。
8月31日 連立与党となった統一共産党、副首相兼内相のバムデヴ・ガウタムを含む6人が入閣する。
11.16 制憲議会、新憲法制定に向けた作業日程を可決。
12月 マオイスト活動家集団がヒマール・メディア紙を襲撃。プラチャンダ首相は、「毛派のふりをして党に汚名を着せる行為」と非難。
2009年
1.12 マオイストと「ネパール共産党統一センター・マサル派」が合同。
2.11 マオイスト党のマトリカ・プラサド・ヤーダブ政治局員がマサル派との合同に反対し離党。ネパール共産党毛沢東主義派の再建を宣言。
2月16日 統一共産党の第8回党総会が開催される。マオイストとの共闘、議長人事をめぐり激しい闘いが展開される。議長選挙ではマオイストとの連合維持を主張するカナル書記長が、ネパール元書記長の率いる反マオイスト連合を破る。書記長にはイシュワール・ポクレル、副議長にはアショク・ライ、バムデヴ・ガウタム、ビディヤ・デヴィ・バンダリが選出される。
フラ・ナト・カナルはネパール統一共産党の議長であり最高指導者である。 1950年、ネパール南東部の生まれ。 トリブヴァン大学で政治科学の学位を取得している。 18歳でネパール共産党に入党。党の分裂後はML派に属し、12年にわたり地下活動・武装活動に参加している。この間、7年間を刑務所に暮らしている。 主にフロント組織に携わるようになり、全国的な共同戦線を構築した。 82年に古参幹部のマイナリを解任し、ML派の書記長に就任。その後、武装闘争を放棄し大衆運動を通じて政権を獲得する路線に大転換させた。 89年に大衆闘争が高揚すると、党組織の大同団結を呼びかけ、マルクス主義派との合同を成し遂げた。 当初は、古参幹部を立て、組織を下から支える側に回ったが、2009年からはネパールに代わり書記長に就任。最近は空席だった党議長となった。 「民主ネパールへの道筋」をはじめ10冊以上の著書を発表する理論家である。 党内ではマオイストとの共闘も推し進める左派の指導者であり、右派との対立は厳しさを増す可能性がある。 |
4月 統一共産党のカナル議長が中国を訪問。「いかなる外部勢力によるネパール国内での反中国活動にも断固反対する」と発言。
5.03 プラチャンダ首相は軍トップのカトワル参謀総長を一方的に解任。
5月4日 統一共産党と友愛党、国軍参謀総長の解任に反発し連立を離脱。ヤーダブ大統領もカトワルの参謀総長続投を支持する。連立内閣の崩壊によりプラチャンダは辞任に追い込まれる。
5月23日 制憲議会において、統一共産党のマダブ・クマル・ネパール元書記長が22党の支持を受け首相に選出される。マオイストなど3党が投票をボイコットしたため無投票での選出となる。
2010年
1月 マオイストを含む主要政党の幹部からなる「枠組み」が構築される。
2月8日 非認証兵士の除隊作業が完了。マオイスト兵士のほとんどが除隊する。5.02 マオイストは憲法の早期制定をもとめる大規模集会を開催し、無期限バンダ(強制ゼネスト)を宣言。
5.08 マオイストのバンダ(街頭示威行動)が多くの批判を受け中止される。
5月28日 制憲議会が期限を迎える。制憲議会の1年間延長とネパール首相の早期退陣が決定される。
6.30 ネパール首相が辞任。このあと半年以上にわたり首相不在の期間が続く。
11.21 マオイストの第6回中央委員会拡大会議。約6000 人の党員が集まる。ダハル議長とバイデャヤ副議長、バッタライ副議長がそれぞれの方針案を提出。
バイデャヤはバッタライ副議長よりダハル議長のほうが危険だと指摘。議長の贅沢を非難し、汚職や密輸に関わっていると糾弾する。 |
2011年
2.03 マオイスト、ネパール退陣を条件に統一共産党への支持を表明。カナル委員長が首相に選出される。
5月28日、ネパールの制憲議会が開催され、主要3政党の合意に基づき、議会がさらに3カ月延長される。
8.28 カナル連立政権が崩壊。バブラム・バッタライ(マオイスト党副書記長)が、統一マデシ人民戦線(UDMF)などの支持を得て新首相に選ばれる。制憲議会の任期が3ヶ月間延長された。
11.01 主要3政党の間で軍の統合問題に関する7項目合意。元マオイスト兵2万名は、国軍編入を希望する者、社会復帰プログラムを希望する者、退職金の支払いによる自主除隊を選ぶ者の3つのグループに分けられる。
11.29 制憲議会の任期が6ヶ月間延長される。
2012年
1月 マオイスト最高幹部の力関係。7人の本部書記のうちダハール派3名、バイデイア派3名、バッタライ派1名で勢力は拮抗。ただしタパ書記長はバイデイア派。
2月8日 非認証兵士(末端ゲリラ)約7500人の除隊作業が完了。28ヶ所のキャンプ中13ヶ所が閉鎖される。3.28 マオイスト派中央委員会の開催。149名の委員のうちバイディア派50名が欠席。
3.31 国軍統合組の人選に不満を持つマオイスト兵士が反乱の動き。
4.10 バッタライ首相(マオイスト党)が「軍統合に関する特別委員会」を招集。全てのマオイスト・キャンプをネパール軍の管理下に置き武装解除。
4.11 マオイスト党のバイディア派は武装解除を降伏行為と非難。抗議行動を開始する。
4月 ダハール議長、党内の集会において12項目協定の役割はPLAの国軍編入により終わった。再び武器をとって戦う事は自殺行為であると述べる。
5月1日 全政党による連合政権への合意を受けてバッタライ内閣は解散。引き続きバッタライ前首相による新しい内閣が誕生した。大臣は主要4党に概ね均等に割り振られる
5月27日 延長を重ねてきた制憲議会が最終的に解散。バッタライ(マオイスト派副議長)による管理内閣が発足。601人の議員は特権を失う。
6.16 マオイストが3日間にわたる全国幹部会議を開催。ダハルはバイディア派との合意なしに何もしないと演説し、バッタライは「党の結束のためにはいつでも首相を辞める用意があると」演説する。
6.19 副議長モハン・バイディア、新党(ネパール統一共産党革命的毛沢東主義)の幹部会議を招集。バイディアが議長、タパとガジュレルが副議長となる。
6月 バイディア派のガジュレル副議長、テライ地方のビジネス・グループと会合。「バイディア派は資本主義に賛成であり、個人の財産所有を支持する」と述べた
7月15日 バイデイア議長が中国共産党の招待により訪中する。
7月17日 マオイスト派拡大評議会、ダハール議長の提案を承認して閉幕。地方グループがバッタライ副議長の失政を攻撃。机、イス等の投げ合いとなる。
9月5日 アメリカは新大使が着任。マオイスト派をテロリスト・ストから外すと発表
9月 バイデイア派、インドの車のネパール国内での通行を妨害すると発表。ネパール・インド友好条約(1950)の廃棄をもとめる。全政党や各団体からの猛烈な反対にあう。
10月 バイデイア派は、ダハル派幹部が短期間に不正蓄財で大金持ちになったと抗議。マオイスト派の兵士の社会復帰等に費やした金額は15Billionルピーに達する。
11月 バイデイア派、主要な敵はインドの覇権主義者とし、さらにマオイスト党(ダハール派)、コングレス党、共産党、主要なマデシ・グループ、政府官僚、財界のリーダー等を含めて攻撃の対象とする。
2012年12月1日 国勢調査の結果ネパールの人口は2650万人。10年間で約330万人増えた。人口の55%が25歳以下
2013年
13年1月
1月9日 バイデイア派の第1回全体集会がカトマンズで開かれる。バイデイア議長、タパ書記長らが一万人の参加者を前に中国を賛美する演説。
集会には中国大使、北朝鮮大使も出席。
13年2月
2.02 第7回マオイスト(プラチャンダ、バッタライ派)拡大代表者会議が開かれる。
(小倉清子氏は「マオイスト党が21年ぶりの党大会を開催。武装闘争を放棄し、議会政党となることを正式に決議」と記載している)
2.11 第7回マオイスト拡大代表者会議が閉幕。25年間議長を務めたプスパ・カマル・ダハール(プラチャンダ)が再任される。副議長にバプラム・バッタライとシュレスタ、書記長にポガティ。
2.27 最高裁長官が首相就任。
13年3月
3月 暫定管理内閣のバッタライ首相が辞任。キル・ラジ・レグミ最高裁判所長官を首相とする選挙管理内閣がスタート。
3月 食品検査局。通称「ミネラル・ウオーター」のうち三分の一が飲料に適してないと発表。約300社の飲料水の製造会社があるが約半数は無許可。
3月 主要4党による合意が成立。制憲議会選挙を6月21日に行うこととし、選挙管理内閣がその間の政務をとることとなる。主要4党とはマオイスト派(ダカール、バッタライ派)、共産党、コングレス党、UDMF(連合マデシ戦線)のこと。
バイデイア派はこの合意はインドによる謀略だと反発
4月 マオイスト派のダハール議長が、中国・インドをあいついで訪問。
5.30 政党の選挙管理委員会への登録が終了。134の政党が登録するが、バイディア派は登録を拒否。
13年7月
7.01 バイデア派がポカラで中央委員会を開催。選挙をボイコットすることを決定。最強硬派のチャン副議長は、再び武装闘争も辞さないと述べる。
7月 マオイスト内部でバッタライ副議長とダハール議長の主導権争いが激化する。バッタライ副議長は辞任を示唆。
7月 共産党統一派のマダブ・クマール・ネパール議長(元首相)、要職を辞し最高顧問に退く。
8月26日 マオイスト軍を国軍に統合する作業が正式に終了。70人の元マオイストに「中尉」の階級が与えられた。ネパール軍へ統合されたマオイスト兵は1400人にとどまり、残りの約15000人は支給金を受け取って除隊。
8月 ネパール・ルピーがインド・ルピーに連動して急落。インフレに拍車をかける。
13年9月
9月 カタール駐在シャルマ大使、”カタールはオープン・ジェイル”と発言。ネパール政府は大使を召喚。
カタールでは数万人にのぼるネパール人労働者が働いているが、今年の6月から8月までに44人の死者がでている。
13年10月
10.01 バイデイア派が国連に書簡を送り、制憲議会選挙に反対の立場を強調。
10.18 IMFの現地調査団、ネパールのインフレ率が7.5%、経済成長率が4.5%、年間個人所得は721ドルと発表。(実際のインフレ率は30%以上と言われる)
13年11月
11月11日 マオイスト派など33の政党がバンダ(ストライキ)を開始する。当初は投票日までストを続けるとしたが、各方面からの圧力が強く1日のみで中止。
16日夜 インド国境が20日まで完全に閉鎖される。カトマンズは警察、軍隊が要所を警備する。
11月19日 制憲議会選挙。選挙当日の車両の使用が禁止される。