中国批判を遠慮する必要はない。

過ぐる大戦において、日本は中国に大変申し訳無いことをした。(実際には義和団の乱とか日露戦争まで踏み込まなければならないが)

しかし、文化大革命の時には日本共産党はいわれのない攻撃を受けて、砂間一郎さんや紺野純一さんが紅衛兵の暴行を受けて大怪我を負った。

やった方は覚えていなくても、やられた方はしっかり覚えている。

その後の干渉に対してもキッチリと反撃した。毛沢東思想を大本から批判し、その立場を貫いたのは共産党だけだった。他の政党は中国に行けば毛沢東を支持し、日本に帰ってくれば非難するという鵺みたいなことばかりしていた。

だから関係が修復したとしても言うべきことは言う。正しければ支持するが、正しくなければ批判する。

正しくないことの最たるものが南シナ海での行動だ。

たしかに中華人民共和国は建国の当初から南シナ海の島々に対する領有権を主張していた。だからといって他国に認められていたわけでもないし、それを押し切って占有する姿勢を示したこともない。

ところが1970年に当時の南ベトナム政権が海底油田を発見してから俄然態度が変わってくる。

最初はベトナムに対して西沙諸島の領有権を主張することから始まった。それは79年の中越戦争の海上版として展開された。

82年に国連で海洋法条約が締結され、沿岸国に大幅な海洋資源の権利が認められると、一気に中国の武力進出は強まった。

88年には、スプラトリー諸島のジョンソン礁(赤瓜礁)でベトナム軍と衝突。ベトナム兵士100人を機銃掃射で撃ち殺した。

そして92年には一方的に領海法を制定し、軍に「領海侵犯者を実力で退去させる権限」を与えたのである。

当時、この領海法はさほど注目されなかった。ベトナム以外の国には、「宣言」にとどまるものと見られたからである。しかし、95年にフィリピンが領有権を主張するミスチーフ礁(美済礁)を占領すると、領海法がたんなる宣言ではなかったことが明らかになる。

東南アジア諸国は、この中国の行動を南シナ海の利権をめぐる「先陣争い」の表現と見た。ベトナム、フィリピンにマレーシアも加わって、岩礁の奪い合いが始まった。

しかし中国はそんなに甘くはなかった。中国の目指したのは「分取り」ではなく「総取り」だった。しかもそのために武力の行使も辞さないことを明らかにした。

01年に中国は「南沙諸島の主権が中国にあるのは疑いようのない事実だ。南沙諸島でのいかなる活動も、中国領土への侵犯行為であり違法である」との声明を発した。

これは東南アジア諸国に共通の脅威をもたらした。ASEANはこれまでの「占拠」を容認した上で、これ以上の奪取戦はやめること、他国への威嚇行為をやめること、共通の「行動基準」を定めることを求めた。

こうして02年に「南シナ海行動宣言」が合意されたのである。これは中国も受け入れざるを得なかった。当時のASEAN諸国との力関係がひとまずの合意をもたらしたのである。