2006年12月24日

ネパール毛沢東派をどう見るか

ネパール民主化 その2

 

今年(2006年)の北海道AALA総会に向けて、ネパールの最近の動きを述べたところ、マオイストの評価をめぐって意見をいただきました。

指摘を受けて改めて読み直したところ、マオイストに対する評価がやや楽観的に過ぎるかもしれないと思われ、若干の補足を行うこととしました。またマオイスト内部で起きた分裂については、その後の調べで事実と異なることが判明したため、その旨を書き加えました。

いうまでもなく、私はネパールの歴史や政治に関してはまったくの素人です。ここでは、ただ知りえた範囲内での情報と、私なりの印象論を提供するだけです。

ただし、事態の今後の推移については、私は依然として楽観的に考えております。主要な論拠はインド共産党(マルクス主義)の発表したいくつかの文章ですが、中米諸国やコロンビア(未完ですが)の和平過程を観察してきた私なりの感覚でもあります。

なお、既発表の文章そのものは訂正したりせず、訂正部分はこの補論で明らかにすることとします。

 

(1)和平交渉の過程について

私の文章は今年6月中旬の時点での情報に基づくものですが、その後交渉はさらに進展しています。武装解除や兵士の落ち着き先をめぐり、一見議論がデッドロックに乗り上げているようですが、それは交渉が胸突き八丁に乗りかかっているからであり、ある意味では交渉が実質的に進展していること、双方が真剣に合意に向け取り組んでいることの証とも取れます。

ネパールのような小国、とくにインドと中国にはさまれているという地政学的に複雑な小国では、周囲の大国の思惑が大きな影響を持つことは否定できません。

しかしその点を考えると、今日のネパールの和平交渉をめぐる条件は恵まれているともいえます。まず第一に、最大の干渉者である米国がイラク戦争の泥沼に突っ込んで、影響力を弱めつつあることです。また宗主国ともいえるインドが、国民会議政権にインド共産党も閣外協力するという比較的リベラルな政治状況にあることです。第三に、中国首脳が相次いでインドを訪問するなど、かつてない雪解け状況が生まれていることです。中国自身も2000年に入ってから原則的な外交政策を再構築しつつあります。

そういう意味では、ネパール人自身の自主的な交渉で和解に至る展望がかつてなく広がっているといえるでしょう。当事者もこのような相対的に有利な状況は十分理解していると思います。

交渉が進展していると考えるもうひとつの理由は、双方の当事者が比較的に外国勢力の援助や影響を受けていない点にあります。とくにインドの前政権を担った人民党(BJP)や、その背後にいる米国の影響を受けた勢力が交渉の当事者から排除されていることは、交渉を進める上で重要な条件です。

もちろん、コイララ首相を先頭とする会議派がそれらの勢力から無言の圧力を受けていることはいうまでもありません。たしかに、ことはそれほど単純ではありませんが、米国大使が楽屋裏からあれこれ指示を出し続ける中で行われた中米諸国の停戦交渉に比べれば、はるかにましでしょう。

いずれにしても、今日のネパールにおける情勢の進展を、大国間のパワーゲームの視点からのみ眺めていたのでは、うがった解説にはなっても事態の進展方向を予測することは出来ないと思います。

 

(2)和平交渉に関してのインド共産党(マルクス主義)の見解

インド共産党とマオイストとの関係
インドには二つの共産党があります。本家のインド共産党(CPI)はソ連の方針に追随し続け、今では影響力を弱めています。これに対しインド共産党(マルクス主義)はコルコタ(旧カルカッタ)を州都とする西ベンガル州、インド半島の先端(西岸)に位置するケララ州、ネパールとも近いヒマラヤ山麓のトリプラ州などで地方政権を掌握し、いまや本家を圧倒する勢いです。以下インド共産党(マルクス主義)をCPIMと表記します。
二つの党は1960年の中国によるチベット侵攻を巡って対立し分裂した経過を持っています。CPIMはインド中が反中国の大合唱となる中で、これに加わらなかったことから、一時は中国派共産党と呼ばれたこともありました。しかし実際には自主独立の立場を貫く党でした。このあたりは日本の共産党と似たところがあります。
60年代後半に毛沢東が国の内外で文化大革命と毛沢東思想を宣伝し始めたころ、CPIMの影響下にある西ベンガルやトリプラでも毛沢東主義者(マオイスト)が登場し、「革命は銃から生まれる」との路線を歩み始めました。そしてCPIMの活動家へのテロを繰り返しました。これがナクサライトと呼ばれる組織です。政党組織としてはインド共産党(マルクス・レーニン主義)を名乗っています。ムンバイのWSFのときは向かいの会場で「世界抵抗フォーラム」を開催していました。
CPIMは農村における封建的地主の支配を粘り強く克服していく戦いを続けながらも、ナクサライトの分裂主義と暴力支配を許しませんでした。多大な犠牲を払いながら、ナクサライトの影響を克服していきました。今日西ベンガルにおけるナクサライトの影響力はほぼ消失していますが、トリプラではいまだテロは根絶されてはいません。それ以外の州では逆に拡大の動きを見せてすらいます。
 

 

A.4月ゼネストの勝利についてのCPIMの論評

CPIMの見解: 国内的にはマオイストとの血みどろの戦いを続けながらも、ネパールの民主化に向けてのCPIMの立場は柔軟かつ明確です。以下に掲載するのは、CPIMの週刊紙「ピープルズ・デモクラシー」の2006年4月30日号に載った「ネパール革命についての論評」です。

2006年4月24日は、ネパールで歴史的な日として記憶に残るだろう。この日ギャネンドラ国王は、大規模な大衆運動に直面して後ずさりした。そして解散された議会の復活を宣言した。

4月6日の「七党連合」によるゼネストの呼びかけ以来19日の間、社会のすべての階層に属している人々がストリートに殺到した。警察と軍隊によって残忍な抑圧が行われたが、ネパールの人々はこれに挑んで、専制支配に対する英雄的な闘いを行った。14人の青年が警察の残忍な発砲とゴム弾攻撃によって犠牲となった。そして5,000人が負傷した。

闘いの後、国王専制に反対する闘いは勝利した。これは「民主主義の共和国」を目指す闘いの最初の勝利である。「七党連合」はコイララを首相として政府をつくることで合意した。新政府は停戦を宣言して、毛沢東派を“テロリスト”として扱うのをやめた。この間の動きに注目してきた毛沢東派は、カトマンズ他の町の封鎖の停止を知らせた、

「七党連合」は毛沢東派との間で「12項目合意」に達した。これは民主主義のための大衆運動の道を開いた。「七党連合」は、議会が直ちに憲法制定会議選挙を行うと宣言した。これは 7つのパーティーと毛沢東派との12ポイント合意の重要な要求である。

毛沢東派は古い議会を復活させるために行動する意思はなかった。その代わりに「七党連合」との政治的な会議、毛沢東派を含む暫定政権、憲法制定会議選挙を要求した。この問題は、復活した議会が最優先の議事日程として制憲議会の創設をあげるとき、解決されるだろう。

「七党連合」の重要な構成団体であるネパール共産党(UML)のマダフ・クマール・ネパール書記長は、毛沢東派を巻き込んだ対話をすすめ、憲法制定会議まで持って行くと語った。

いっぽう米国は、ギャネンドラ国王を支えるためのあらゆる努力を行っている。米国大使は、「七党連合」と毛沢東信奉者との12項目合意を非難した。そして毛沢東派を除く「七党連合」と国王のあいだの相互理解の必要性を繰り返し強調した。

右翼のBJP(前与党)は、長い間“ヒンドゥー王国”の君主制を誉め称えてきた。しかしその王国に革命が起こったことで、君主制に対する大衆の憤激に驚いた。彼らは、「CPIMが政治的プロセスに毛沢東信奉者を連れこもうとしている」と非難した。BJPは、当然のことながら、ネパール人の民主主義の願いと対決し、米国と肩を並べた。彼らは少しもネパールの人々の民主主義の権利を配慮していない。

CPI(M)は、「共和制を定めた憲法のもとで多党制の民主主義に参加する」という毛沢東派の決定を歓迎した。それはネパールにおいて真の民主主義的変換を実現するための基礎を用意するだろう。

インド政府は、君主制と複数政党制という古い二本柱概念を追求しようとする間違いを、二度と犯してはならない。それはネパールの人々との関係を疎遠にするだけである。ネパールの人々の抱負と調和した民主主義的変革を支持しなければならない。

 

B.CPIMはネパールの平和実現のためにマオイストの参加が不可欠と考えている

CPIMは決してマオイストの路線を支持しているわけではありません。しかしネパールの平和実現のためには、マオイストの参加が不可欠と考えています。
いま、ネパールの支配権を巡り三つの勢力が拮抗しています。国王・国軍派、会議派と共産党統一派を中心とする政党連合、そして地方農民を基盤とするマオイストです。米国は国王と7党連合を統一し、マオイストを排除しようと計画していました。しかしそれは国王が拒否したことにより不可能となりました。
それがもし出来たとしても、そもそも国王が突っ走る路線の先に未来がないのですから、この連合の先にも未来はありません。とすれば、国王派を排除する以外にないのですが、そのためにはマオイストとの連携、最低でもマオイストの中立化が不可欠です。それが出来なければ7党連合は政治の舞台からはじき出され、さらにひどい内戦と混乱、無政府状態が発生することになります。
しかしこれには高いハードルがあります。マオイストが7党連合による政権継承を受け入れ、これを交渉の正規の当事者と認め、和解に応じるだけではなく、議会制民主主義と複数政党制を認め、武装闘争を放棄し、ネパール再建の動きに積極的に参加するということです。
そのためには、これまでの議会ではなく新たに憲法制定のための議会を召集し、そこで国民合意の下に新たな憲法を制定し、その憲法の下に審議会を創設するという道筋を作ることが決定的だ、とCPIMは考えました。
この道筋を明らかにすることによって、先にあげたいくつかのハードルは克服可能だと判断しました。国王については、これを廃止し共和国体制に移行するか、象徴的な存在として国王を存続するかの問題がありますが、これについては先送り可能だと判断しました。
マオイストの武装解除にあたっては、彼らの安全を確保するためにも、バランスのとれたネパール国軍の人員・装備の縮小が不可欠ですが、そのためには国軍を政府の完全な統制下に置かなければなりません。そのためにも米国をふくめた国際社会の協調が絶対条件となります。
その最低限の前提となるのが憲法に基づく民主主義政治体制の確立です。

イェチュリ(Sitaram Yechury)はCPIMの政治局員で、この間のネパ−ルの動きに、水面下で深く関わっているようです。この人が民政復帰直後の5月7日に、「ピープルズ・デモクラシー」に個人論文を発表しています。題名は「ネパール:人々は歴史を作りつつある」というものです。以下にその全文を紹介します。

 

イェチュリの評論 「ネパール:人々は歴史を作りつつある」

憲法制定会議の創設を!

民主主義の回復の過程で起きた人々の高揚は、まさに巨大なものだった。南アジアは、バングラデシュ解放の日以来このような大きい大衆蜂起を目撃したことがなかった。

ギャネンドラ国王は、自らの地位はそのままに、「7党連合」に暫定政権をつくるようもとめた。しかしその提案は当然にも拒否された。人々の闘いはますます高揚し、自らの手で国の将来と民主主義のあり方を決定しようと欲するようになった。そして「憲法制定会議の創設を!」というスローガンにますます集約されるようになった。

作られるべき憲法の要点は、国王の役割を規定することにある。国民の闘いの圧倒的雰囲気は、明らかに「ネパールを共和制に」というスローガンを支持していた。国王はまったく役割を持たず、あるいは、せいぜい儀式的な役割にとどめられるべきだと考えられるようになった。

歴史的な「12項目合意」

大衆の運動が勝利への展望を持ち始めるにつれて、7党連合と毛沢東派の間の歴史的な「12項目合意」が重要性を持ち始めた。そしてこの「合意」に基づく、「共和制へのロードマップ」がますます注目されるようになった。

この「12項目合意」は、昨年9月に取り交わされたもので、以下の柱からなっている。

@国王により解散させられた国民議会を現状回復し、7党連合による暫定政権を立ち上げる。

A再開された国民議会が橋渡しとなり、憲法制定会議選挙を実施するための諸決定を行う。

B暫定政権は毛沢東派を公式に招待し、正式な交渉を開催する手立てをとる。

このロードマップは、インドを含む国際的なコミュニティにも同様に支持されている。

始まったロードマップの旅

暫定政権の成立後、最初は若干のギクシャクがあったものの、ロードマップは再度確認され、すでに暫定政権・7党連合と毛沢東派との交渉は開始されている。毛沢東派は、この了解の履行を容易にするのを助けるために、3ヵ月の一方的停戦を宣言した。

道が敷設された今、旅行は憲法制定会議を選ぶという目的地に着地すべく旅行を始めた。この道の上を旅行するのは初めての体験なのだから、多くの浮き沈みがあるちがいない。暫定政権はその旅行を成就するために慎重に進み、壊れたところがあればそのつど修理しながら、幾多の障害に打ち勝って進んでいかなければならない。

議論が集中するのは、一つには憲法制定会議の選挙のための組織・運営形態をめぐるものであろう。7党連合と毛沢東派は、まずなによりもこの問題に関する合意に達しなければならない。そしてすべての成人に平等な選挙権を与える普通選挙と、公明正大な投票の管理システムを立ち上げなくてはならない。

これと関係のあるもう一つの議論は、毛沢東派の選挙への参加という問題である。これは、選挙の前に毛沢東派を武装解除することが出来るかどうかに決定的に依存している。

それは7党連合と毛沢東派の間の議論だけに限定される単純な問題でない。現に王立ネパール軍(RNA)は、依然として国王の指揮下にまだ残っているからである。

毛沢東派を武装解除するどんなプロセスも、RNAの対応するステップに寸分たがわず合わせなければならない。したがって、問題は7党連合・暫定政権のシビリアンコントロールの下にRNAを移管するという重大な仮定を前提としていることになる。

この過程は、国際社会からなる第三者オブザーバーの導入をふくむことになるだろう。その第三者機関が、これらの活動に公正さ、平等と透明度・確実性をもたらすことになる。

SPAと毛沢東派は、すでに12項目合意の中でそのような準備に同意している。そこでの共通基盤は、国連に仲裁を要請することであった。この決定は緊急に実行に移されなければならない。いささかの遅れも許されない。

交渉成功のためには、経済的困難の解決が必要

同時に、コイララによって率いられる暫定政権は、緊急にネパールの経済を作り直す作業に取り掛からなければならない。この2年間、ネパールは深刻は経済的困難に直面している。

ネパール人民、7党連合と毛沢東派が直面するこれらの作業に集中して取り組むため、国際的なコミュニティ(特にインド)は、力を惜しむことなくネパールを経済援助しなければならない。

旧体制側の策略に警戒心を

このロードマップに対しておよそ考えられる、あらゆる策略がめぐらされるだろう。妨害者は和平と民主化の過程を妨害し、憲法制定会議という目的地に到達させないように狙っている。ネパール人たちはつねにこれらに対して警戒心を維持しなければならない。

忘れてはならない。1951年と1990年の二度にわたって憲法制定会議の創設が宣言されたことを。そして王室はその約束を守らなかったことを。この裏切りが三度繰り返されるのは許すことが出来ない。

若干の背景説明

2005年2月11日、国王が民主主義政治を廃止して以来、ネパール国民にとって試練の日々が続いた。諸政党の対立、さらにマオイストの対立が利用され、国民はそのどちらからも遠ざけられた。

最初、ネパールで絶対君主制を再び確立しようとする国王の試みは成功したかに見えた。

しかし政党と市民社会による忍耐強い努力は、7党連合と毛沢東派の間の歴史的な「12項目合意」をもたらした。「銃の政治」の考えを放棄して民主主義の潮流に加わろうとする毛沢東派の決定は、まさに歴史的なものである。

それは2005年9月のことだった。この「合意」はネパール人民にショックとなって広がり、彼らを行動に駆り立てた。

同じ月、インド=ネパール連帯委員会の代表団が、7党連合の招待を受けてネパールを訪れた。私は、2005年9月29日に、7党連合の最高指導者であった故ガネシュ・マンシン(Ganesh Mansingh)の家の芝生で、政党指導者や市民運動幹部との会談を行ったときのことを憶えている。

1990年に、民主化運動を開始するという歴史的な決定がされたのは、まさにこの芝生の上であった。それから6ヶ月のあいだに、暫定政権が成立した。それは議会と国王という二つの柱からなるネパール型民主主義の体制確立へとつながっていった。

この機会に、私は「真理が必要なとき、誰も真理をとめることは出来ない」というビクトル・ユゴーの有名な格言を引きながらネパール指導者に話しかけた。さらに私は、マルクスの言葉、「真理がいったん大衆の心をつかんだなら、それは物質的な力となる」を付け加えた。まさに民主主義という真理がネパールの一般大衆の心をつかんだと感じたからだ。

それは6ヵ月後に現実となった。民主主義の真理は巨大な物質的力となって、国王に撤退を強制した。そして今一度、暫定政権が創立されたのである。

ネパールの人々の前途は決して穏やかなものではない。しかし7党連合と毛沢東派の指導者のあいだに信頼関係と解決能力があれば、この挑戦は幾多の障害を克服して成功へと導かれるだろう。

彼らは歴史を作っている。このヒマラヤのヒンズーの王国を民主主義に基づく近代的民主国家に作り変えることによって。

 

C.和平実現と憲法制定会議への道のり

暫定政権の成立から停戦合意成立までの2ヶ月は、傍から見ているとまことにあれよあれよというまでした。とくに印象的だったのはマオイストのきわめて柔軟な対応でした。このあたりの流れを書いたのが、北海道AALAの総会で報告した文章です。
エルサルバドルの停戦合意、グアテマラの停戦合意の経緯が念頭にある私としては、これらの流れは奇異にすら思えるものでした。中米では、米国の陰陽からめての干渉をつねに受けながらの交渉で、最終合意に到達するのは数年がかり、その間には絶望的とも思える戦闘の再開、繰り返される虐殺などもありました。
その裏には相当な根回しがあり、ネパール国内の当事者ばかりではなく周辺諸国も含めた広範な合意が存在していた可能性があります。その合意がどんなものだったのか、合意の取りまとめに動いたフィクサーが誰だったのか、大変興味のあるところです。
そのあたりの事情を示唆しているのが、イェチュリの「ネパールの民主主義への旅立ち」という記事です。「人民民主主義」7月9日号に掲載されたものです。この記事によれば、イエチュリはネパールの諸勢力から招請され、CPIMの代表としてネパールを訪れ、主要な政党、政府と毛沢東派関係者との懇談を持ち、ネパールの情勢に関する認識について協議し、調整に当たったようです。
この記事はイェチュリが直接執筆したのではなく、「人民民主主義」紙の記者がネパールから帰国したイェチュリにインタビューし、それを文章にするという形をとっているため、ちょっと読みにくいものになっています。ここでは記事の内容を、イェチュリの実際に語った言葉に要約して紹介します。

 

イェチュリの評論 「ネパールの民主主義への旅立ち」

@議論のポイント

民主主義に向けたネパールの旅立ちがこの3ヶ月の間に始まるだろう。議論の集中する問題に関して、全ての党が共に解決の方向に向かいつつある。

ネパールを訪問したイェチェリは、国民会議派指導者のコイララ首相、ネパール共産党(UML)のマダフ・ネパール書記長、ネパール共産党(毛沢東派)のプラチャンダ議長、毛沢東派のイデオローグであったバブラム・バタライ(Baburam Bhattarai)などと会見した。また会議派とUML以外の7党同盟の重要な人物とも面談した。それにはコイララ内閣の閣僚もふくまれる。

議論は「12項目合意」のうち4つのポイントに絞られる。強調したいのは、全ての主要人物がこの認識で一致していることだ。4つのポイントのうち、解散された議会の即時再開と暫定政権の編成は、すでに実行されている。残っている2つの点、すなわち毛沢東派との和平交渉と憲法制定会議の創設は、現在進行中である。

A8項目合意の内容

これらの2つのステップを進めるために、コイララ政権と毛沢東派の間で結ばれたのが、最近の「8項目合意」である。毛沢東派は、暴力と金銭の強要を停止し、地方政権から撤退して、武器なしで市民生活に復帰することに同意した。これらは和平への大きなステップであり、現在もなお進行中である。和平協議が完了すれば、ネパールは民主主義への道を自ら決定していくだろうと確信する。

「8項目合意」には、ほかにもいくつかの重要な課題がある。それは暫定政権をどう編成するか、また毛沢東派の参加を認める臨時憲法をどう作成するかという課題である。議会の解散は、憲法制定会議選挙のための選挙区の線引きが確定して後のこととなる。

もうひとつの重大な課題が、移行期における武器管理の方法である。この問題に関していろいろな選択肢が示されている。それはたとえば国連による武器管理であり、二つの軍事組織の合体であり、二つの軍の指揮系統の統合であり、毛沢東派軍の準軍事的な勢力への変換などである。

8項目合意を実施に移す際に、最初は地方における毛沢東派の軍事組織の役割をめぐって、政府側とのあいだにギクシャクがあるかもしれない。プラチャンダは、ローカル・レベルである種の抵抗があるという事実を認めている。しかしこれらは速やかに整理されるだろう。物事は正しい方向に動いていくだろう。

議論の前提として、「合意」への一致した理解がある。それは軍と毛沢東派の双方の武器が、国連委員会に管理を移されなければならないということである。双方は、この方式こそがもっとも容易に国際的理解と承認を獲得する道であることを了解している。逆にこの点が一致しなければ、国際的な批判者(米国のこと)に指弾される機会を与えることになる。

憲法制定会議の形態については、現在いろいろな議論がある。単純に普通選挙をやればよいというものではなく、どうすれば地域、社会・宗教セクターの現状を反映したものになるか、社会の不平等を取り除き、国民の総意を反映したものになるかが問われている。

どちらにしても、国民が自らの将来を決定するに当たっては、それぞれの勢力に意見を述べるチャンスが与えられるべきであろう。

B和平と民主化への逆流

民主政体の中に毛沢東派を包含することに対しては国際的なためらいがあり、和平に反対する人たちはそれを足がかりにしようと待ち構えている。

すでにネパール駐在の米大使はそのような発言を行った。そして国王が引き続きネパールの将来を担うことを認めるようもとめた。この発言はネパール全土で強い非難を呼び起こした。そしてついに米国大使は彼の声明を撤回した。しかし米国は依然、将来の国王の政権復帰への道を閉ざしてはいない。

インドおよびネパールのメディアに呼びかけたい。「合意の成功を喜ばない勢力の動き」に警戒するようにと。彼らは民主主義をもとめる勢力の間での違いや割れ目を誇張し、それを拡大しようと狙っている。しかし事実はその逆の方向に動いている。暫定政権への毛沢東派参加は確かである。現政府と毛沢東派は、ともにその方向に動いている。

ネパールの人々が自ら下した決定なら、それがどんなものであってもインド人には受け入れられるだろう。インド人は何よりも、平和な政府を持つ隣人とともにありたいからだ。だからネパールで可能な限り早く、民主主義運動の強化を望んでいる。

最後にイェチュリは、議論の対象となっているいくつかの主要問題がここ数月のあいだに解決されるだろうという確信を表明した。それは彼がネパールの主要人物との会見を通じて得た感触である。

つまらないことですが、私は会見相手をあげた中にコイララ、ネパール、プラチャンダと並べてバタライをあげていることに注目しました。バタライは毛沢東派が96年に共産党から分裂し、武装闘争を始めたときの指導者です。彼は2005年の5月にインドを訪れ、CPIM幹部などと会見しました。
そのときの合意は明らかにされていませんが、まもなくバタライは毛沢東派を除名され、プラチャンダが党の全権を握ることになります。除名の理由はバタライがあまりにインドよりであるということのようです。報道によれば、バタライとCPIMのプラカシュ・カラト書記長は1970年代にネール大学でともに学んだことがあるそうです。(バタライが和平交渉に反対して除名されたというのは間違いですので、謹んで訂正いたします)
しかしその後の毛沢東派の動きは、まさにCPIMの提唱した路線に沿って動いています。とすれば、この除名劇はひょっとして半分、出来レースだった可能性もあります。

 

D.政府と毛沢東派による和平協定の締結

日付の異同はわかりませんが、2006年11月に暫定政府と毛沢東派のあいだに和平協定が正式調印されました。谷川昌幸さんのページによると、コイララ首相とプラチャンダ書記長は21日夜、カトマンズで和平協定に正式調印し、10年にわたる内戦に終止符を打った。 毛沢東派幹部のディナナト・シャルマは、「王政が廃止され、国軍が解体された上で、多党制が導入された共和国に移行する」と述べたそうです。

これにあわせ、CPIMは政治局の名前で簡潔な新聞発表を行っています。

@7党連合と毛沢東派との間で到達した「6項目協定」を歓迎する。それは民主主義への移行のための重要な一歩である。また、それは制憲会議の創設のための最終的形態を示している。

Aこの協定を成立せしめた7党連合と毛沢東派指導部の指導力は祝福されるべきである。

B国王と米国に追随する勢力は、民主主義への移行が不可避であること、このプロセスを逸脱させることはネパール人民が許さない、ということを悟らなければならない。

これよりちょっと前、10月ころの様子を、カトマンズの週刊紙ネパーリ・タイムズのクンダ・ディクシット編集長・発行者が伝えています。その要約を、同じく谷川昌幸さんのページから引用させていただきます。

議会は、暴力や流血を伴うことなく、国家構造の最も劇的な変革のひとつを実現させた。237年の歴史を持つ王制からすべての権力を奪った。国王はもはや国軍に対する支配権を持たない。ネパールはもはやヒンズー教の王国ではなく、世俗国家である。

政党は、非暴力の抗議を通じて民主主義を回復した。停戦は4月以来続いており、政府とマオイストの交渉が行われている。国連が武装解除を監視するために招致されている。

次の段階は、政府とマオイストが暫定政府を組むことである。この政府は、新憲法を起草する議会を選ぶための選挙を準備することが任務となる。その選挙は、実質的に王制についての国民投票になる。

ネパールはまだ危機を脱していない。しかし、幸いなことに、紛争は解決困難ではない。双方に現在の和平プロセスを通じて解決するという政治的意思がある。ネパール国軍は、人権侵害の悪名をとどろかせた汚い戦争に身動きが取れなくなってしまった。

プラチャンダと毛沢東派は暫定政府に入る前に武装解除するよう、国際社会から一層の圧力を受けている。アメリカは7月に「マオイストが選挙前に武装解除しないなら、ネパールに対する経済支援を打ち切る」と表明し、危機感が強まった。

しかし彼が兵士に武器を置くことを納得させる時間が必要なことも、みな認めている。

ネパールは、紛争を解決するだけでなく、その原因である社会的不公正も解決できる絶好の機会を迎えている。それには、すべての政党が目先の利益でなく、その先を思い描く必要がある。【IPSコラムニスト・サービス=ベリタ通信】

 

とりあえず終わり。毛沢東派共産党の(悪名高い前歴をふくむ)詳しい紹介や、その背後にいると見られるインドのナクサライト(インド共産党マルクスレーニン主義を名乗る)については、機会があればまた紹介します。