たかが金貸し風情が出過ぎたまねをするんじゃないよ
文献紹介 アジア通貨危機とIMF・日本の対応
この文章は、奥田宏司さんの論文を読んだ感想文です。今までまったく知らなかった情報が次々に展開され、驚きの連続でした。これを読んだ方は、ぜひ本文に直接当たってください。論文名は「ワシントン・コンセンサスに対する日本政府の対応─ アジア通貨危機の中で─」というものです。
(A)「アジア金融基金」構想の挫折の背景
97年のアジア金融危機のさなか、日本が「アジア金融基金」構想を提案したことは、よく知られています。そしてIMF/世銀そして米財務省によりその構想がつぶされたことも良く知られています。
「構想」の当事者だった榊原英資氏はすっかり有名人となり、いまやテレビの人気者になっています。しかしその実情や背景についてはあまり知られてこなかったと思います。というより、まったく知らなかったということが今回分かりました。
とくに、「構想」発表の前、10年にわたり、日本政府とIMF/世銀そして米財務省が、ワシントン・コンセンサスの評価について論争を続けて来たこと、日本が一貫して資本の自由化と市場原理主義に対して批判を続けてきたこと、その延長線上に「アジア金融基金」構想があったことは今回はじめて知ったことです。
奥田さんの論文は、この間の経過を「内幕もの」風に描き出していきます。奥田さんが自ら言うとおり、この流れが日本政府の主流であり続けたかどうかは疑問がありますし、「内幕もの」の宿命として、多少、大蔵省を美化する傾向も見受けられます。そのことを割り引いても、この論文には迫力があります。
論文はまず、榊原『為替がわかれば世界がわかる』(文芸春秋,2002 年)から一説を引用し、論文全体の基調とします。
「アメリカ政府,IMF,あるいは世界銀行といったワシントンに本拠をもつグループの基本的な経済政策は,しばしば,ワシントン・コンセンサスと呼ばれています。この合意を要約すれば,適切なマクロ政策と,貿易と資本の自由化ということができます。
東アジア危機でのIMFの処方箋に対する批判の本質的な部分は,実はこのワシントン・コンセンサス,さらには新古典派的経済政策の枠組みをどう考えるかというところにあります。
多くのエコノミストたちがIMFの対応を批判しながらも,かならずしもIMFや国際金融システムの抜本的改革に賛成しないのも,彼らがぎりぎりのところでは,この新古典派的枠組みから出られないところにあります」
(B)世界銀行の金融自由化戦略
論文はついで、世界銀行の「金融自由化政策」がいかなる形成過程をたどったのか、その分析に移っていきます。これは本論に入る前の背景分析で、本筋とは直接の関係はありません。しかし、それはそれとして、ラテンアメリカに主たる関心がある私にとっては興味深いところです。
T.世界銀行の88年報告
世界銀行は、1980 年代後半から途上国に対する「金融自由化推進」政策を本格的にはじめました。ちょうどラテンアメリカで対外債務問題が深刻になってきた時期と一致しています。
88 年に世界銀行が発表した年次報告では次のように述べています。「途上国が開発を進めるうえでは,民間活力を導入し市場経済の利点を利用することが重要である。過去数年間,世銀は,その方向に沿って活動してきた」
そして努力の柱として以下の4点をあげています。
@新規民間投資の奨励: すなわち民間投資に対する規制を撤廃し、短期資金もふくめ、海外からの投資を容易にすること。
A多数国間投資保障機関(MIGA)の設立: 海外の貸し手に対する安全性の保証。借り手の安全性が保障されるわけではない。
BIFCの努力: 債務・株式スワップを民間投資を促進する手段として活用する。債権者はただで投資できることになり、債権はいつでも市場で売買できることになる。
C民間部門の合理化への支援: 公営企業の民営化(結局は外国資本への身売り)や、企業のスクラップ・アンド・ビルドと首切り。
U.世銀の89年「民間部門開発行動プログラム」
世界銀行の「自由化推進」政策は89年度に一挙に進みました。まさにワシントン・コンセンサスが発表された年です。
その核心となったのは、88年報告にあげられた4点の中のC「民間部門の合理化への支援」でした。89 年1月,「民間部門開発行動プログラム」が開始されました。
この計画は「民間部門の合理化への支援」を4つの柱(企業環境の改善,公共部門の改善・民営化、金融部門の改革)に分けました。ここで初めて「金融部門の改革」が登場することになります。
「金融部門の改革」の眼目は、「市場志向の金融システムの発達」を促すことでした。そのために「金融制度の一層の自由化」が掲げられました。これは過去の政策とは明らかに断絶しています。「金融自由化」は世銀本来の政策体系の中で言えばごく一部であったはずです。
話は非常にややこしいのですが、88年世銀報告で強調された、「途上国発展のための4つの処方箋」のひとつである「民活推進」のなかの、さらに4つの柱のうちの一つとして、「金融部門の改革」が位置づけられていることになります。このことだけ見ても、「金融改革」の異常な突出ぶりがわかります。
V.タスク・フォースの勧告(レビー報告)
「民間部門開発行動プログラム」は世銀内の「タスクフォース」に受け継がれました。そして同年中に「レビー報告」としてまとめられ、翌91 年7月には世銀理事会で承認されます。
実はこのとき、世銀内部には「金融部門の改革」に反対する潮流があり、理事会は反対意見を押し切る形で「金融改革」に乗り出したのです。
反対意見は『世界開発報告1989』に集約されています。そこでは次のように書かれています。
「金融部門改革の試みは,いくつかの落し穴がある。とくに不安定なマクロ経済を背景に実施された場合,その不安定をさらに悪化させる可能性がある」
「金融自由化は、国内改革が進み、市場が回復するまで待つべきである。ますマクロ経済を確立し,国内金融部門の自由化を進めなければならない。そのあとに初めて、外国との資本移動を自由化し、国際的な金融市場と結びつけることが可能となる」
まさに、スティグリッツを待つまでもなく当然の議論です。奥田さんも、「明らかに,『世界開発報告1989』の方が「穏健」であり,これまでの世銀の考え方との継続性がみられる」と書いています。
(C)金融自由化への批判
T.日本が主張した異論
奥田さんはここまで書いた上で、「レビー報告に異論を唱えた中心が日本であった」と述べます。ここからがこの論文の中心テーマです。
日本側の論客は白鳥正喜世銀理事と、久保田勇夫大蔵省・国際金融局次長でした。
白鳥氏は、「私は開発における政府の役割をもっと評価すべきではないかと繰り返し主張した。それは日本を含むアジアの発展から得た貴重な経験だ。これに対して世銀主流派は、各国の実情を無視した市場原理主義的なコンディショナリティを押し付けており、それはためにならないと繰り返し警告した」
91年7月、レビー報告が理事会で承認されたあとも、日本は反論をあきらめませんでした。
その年の10月、日本側は「OECF文書」という反論を発表しました。これが初めての系統的な反論となります。
まず、「途上国経済に市場原理を浸透させていく上で,金融セクターは中心的な役割を果たすと期待されている。金融セクターの改革に当たっては、市場原理の重要性を理解することが大事だ」と切り出した上で、
「問題なのは,市場原理を強調しすぎるあまり,金融セクターがもつ多面的な役割が見落とされる危険があることだ」と問題を指摘。
そしてその代表例として、金利の問題を挙げ、「一定の状況の下では、政策金融や優遇金利といった政策誘導が必要になるが、市場金利への一元化を強調しすぎると,これらの意義が見過ごされることになる」と批判しました。
これが「金融自由化」に対する批判です。
次に「OECF文書」は、世銀の姿勢そのものについて3つの疑問を提示します。
(a)途上国における市場原理導入の障壁: 途上国における金融セクターは未発達であり金融機関の能力も不十分であるため,市場原理が本来の機能を十分に発揮できない。
(b)市場原理そのものの限界: 市場原理にはもともと限界があり,取り扱えない問題が数多くある。これらのケースについては政府の政策的介入が不可欠である。
(c)ODAとの関連: ODAそのものが本質的に非市場的なものであるから、それが市場原理を歪める側面があっても、非難するにはあたらない。
その後、日本はついに、政府として公式に「金融自由化」を批判するに至ります。91 年10 月のIMF・世銀年次総会で政府を代表して三重野日銀総裁が演説しました。彼は金融改革における市場メカニズムの重要性に賛同したあと、「政府が市場メカニズムを補完し,市場メカニズムが有効に機能するような環境の整備を図ることも重要」である指摘しました。
批判というにはあまりにも低いトーンですが、日本政府はIMF・世銀が市場メカニズムを強調しすぎることに対して、公式にクレームをつけたといえます。
同じ頃、世銀内部からも「金融自由化」に対する批判が湧き上がってきます。世銀の業務評価局は、「世銀はアジアの経済発展に果たした政府の役割を軽視し,世銀の融資政策に活かすことに失敗した」と非難しました。
日本と世銀借入れ国はこの文書の公表を主張し、世銀の上層部の意向を押し切って発表しています。
U.『東アジアの奇跡』
日本からの度重なる指摘を受けて、世銀はアジアの経済発展の要因を調査・検討するチームを編成しました。その報告は『東アジアの奇跡』という文書にまとめられ、93 年9月のIMF・世銀総会で公表されました。
しかしその内容は期待を裏切るものでした。世銀チーフ・エコノミストであったL.サマーズが書いたといわれる結論は、「東アジア諸国の成功から単純な教訓を引き出したりすることは不可能である」というものです。
その理由は、「介入がいくつかの東アジア諸国の成功の要因であったのは事実としても,だからといって他の地域でも試みられるべきであるということはならない」からです。これはほとんど説明になっていません。問答無用、だめなものはだめ、ということです。
何故だめなのか、それは「東アジア良くやった」論が政府の介入の容認につながり、「必要な市場指向的改革を送らせるための口実として利用される」危険があるからです。サマーズ自身がそういっているのだから間違いありません。それに引き換え、「東アジアの経験の中でも市場指向的側面は,殆ど留保なしに推奨できるものである」と賞賛しています。
そのサマーズがのちに財務省次官補になるのですから、「金融自由化」論の正体はかなり透けて見えようというものです。
大蔵省の久保田は、「世界銀行がわれわれと同様の見地に立つにいたったとは言い難い。その考え方は基本的には,いわゆるマーケット・フレンドリー・アプローチの範囲内にとどまっている」と突き放しました。
(D)アジア金融危機への対応
T.アジア通貨基金構想とその「挫折」
1997年7月、タイ・バーツの危機を皮切りにアジア通貨危機が勃発しました。さっそく,日本はワシントン・コンセンサスへの新たな対応を取り始めます。
8月のタイ支援国会合の直後からAMF構想の具体化に向けて大蔵省内で動きが始まりました。榊原氏によると,9月23,24 日に予定されている香港でのIMF・世銀総会で一気に基金創立へもっていこうとするものでした。
(奥田さんによれば、アジア通貨基金構想についてはテキストそのものが公表されず,関係者の著書,論説や新聞,雑誌等の2次的な資料から考察せざるを得ないとされます)
アジア通貨基金の最大の特徴は参加予定国の顔ぶれです。基本構想によると参加国は,中国,香港,日本,韓国,オーストラリア,インドネシア,マレーシア,シンガポール,タイ,フィリピンのアジア10 か国とされています。アメリカは参加国に含められていません。
もうひとつの特徴は、「基本的にはIMFと協調するが,場合によっては独立して行動できる」とされたことです。IMFと書いてあるのは、事実上アメリカからの独立を意味します。
9月12 日,三塚蔵相がアジア10 カ国・地域に対し日本提案を送付しました。そこでは、10日後の香港でのIMF・世銀総会の際に10 カ国・地域の会議を開催し,提案を協議することとなっていました。日程的にはかなり切羽詰った提案ですが、これも日本側の作戦だったのかもしれません。
米国の反応は極めて厳しいものでした。米国はアジア通貨基金構想を「アメリカン・ヘゲモニー(主導権)に対する挑戦であると受けとめました。
榊原氏によれば、サマーズ財務副長官は直接電話をよこし、「アメリカが参加していない上に,場合によってはAMFがIMFと独立して行動できる」としたことを激しく非難しました。9月17 日,今度はルービン財務長官から三塚蔵相へ電話があり,「AMF構想には明確に反対である」ことが伝達されました。
9月21 日、アジア10 カ国・地域の蔵相代理会議が開かれました。会議にはサマーズ副長官,フィッシャーIMF副専務理事が乗り込み、オブザーバーとしてにらみを利かせました。榊原氏によると、「ASEAN諸国と韓国は日本のAMF構想に賛成するが,アメリカは強く反対した。香港,オーストラリアは一般論を述べ賛否を表明せず,中国は発言しなかった」とのことです。
AMF構想はこの時点で事実上流産してしまいます。アメリカはこれに代わるものとして、,アメリカを入れた域内のサーベイランスの仕組みを立ち上げました。しかし,アジア通貨危機はタイから秋にインドネシア,韓国へと広がり,香港でも株価の大幅な下落が生じました。何の手立ても打てないまま、AMF構想への反対を言うだけのアメリカやIMFの権威は低下しました。
日本としては、従来からIMF/世銀そして米財務省の路線には反対でしたから、構想がつぶされるのを承知の上で、提案したことも考えられます。一般的に反対するよりは、はるかに鮮明に劇的に「金融自由化」政策の誤りを世に見せつける事ができます。だとすればその狙いはピタリと当てはまったことになります。
U.新宮沢構想とIMF 批判
アジア通貨危機から1年を経た1998 年10 月6日、日本は「新宮沢構想」を発表しました。IMF・世銀年次総会における宮沢大蔵大臣の演説です。
演説は、IMF・世銀への批判から始まりました。宮沢は、まず、「IMF・世銀のあり方を基本に立ち返って問いなおし,国際金融システムを再生させる時を迎えた」と切り出しました。真っ向からの挑戦状です。
その理由として、「短期的あるいは投機的な資本移動」が現在のシステムでは統制できない」とし、これへの対応を図っていく必要性を訴えます。そして具体的内容として、「ヘッジファンドなどの国際的な大規模な機関投資家に対して」、情報提供をせまることを提案します。
そのうえで、「各国の状況を十分に考慮しないままで急速な資本自由化を求め」て来たとして、IMF/世銀そして米財務省を断罪します。
この強い調子での声明は、その2日前に行われたIMF暫定委員会での、日本政府の声明を背景としています。ここではIMFの危機への対応について次のように厳しく批判しています。
まず声明は、「アジア危機の最大の特質は、資本収支の急速な悪化から生じたことである」とし、実体経済とは乖離したものだったことを指摘します。それにもかかわらず、「財政バランスの改善,金融の引き締めという処方箋」のみで対処することは「適切でない場合も少なくない」と述べ、IMF/世銀の実情を無視した対応策に疑問を呈します。
ここから、声明は構造改革問題に踏み込みます。「構造問題への対応については、タイミングや,社会的な影響等への配慮にもっと意を用いるべき」であった、というのが第一点。さらに、「市場経済のあり方にも,各国の歴史や文化,あるいは発展段階を反映して多様なものがありうる」とし、そのことをIMF/世銀は認識すべきだった、と痛撃を与えます。
これは「要するに、あなた方が無知で無頓着だったから、対策が失敗したのだ」ということです。
さらに止めを刺すかのように、「不必要かつ不適切な構造面でのコンディショナリティーを、IMFプログラムに含め、途上国に性急に求めたことが,計画そのものの信頼性を損ねた」と言い放ちます。これは「そもそも、IMFがひと様の国の経済構造なんかに口を挟んじゃいけないよ」ということです。
「たかが金貸し風情が出過ぎたまねをするんじゃないよ」という風にも聞こえます。もちろんその裏には、IMF/世銀の影の支配者である米財務省への当てこすりもあるのでしょうが。
宮沢蔵相は、この批判を踏まえたうえで、300 億ドルにのぼる「新宮沢構想」を打ち上げました。これは「アジア諸国の実体経済の回復のための中長期の資金支援として150 億ドル」を拠出しようというものです。さらに短期の資金需要が生じた場合の備えとして150億ドル,併せて全体で300 億ドルの拠出が提案されました。これが宮沢新構想であり、アジア通貨基金構想のあとを継ぐものです。(以下、宮沢新構想については略)
(E)むすびに代えて
ここの部分は、奥田さんの文章をそのまま引用しておきます。
アジア通貨危機の)反省に呼応して,日本は具体的な構想を持って主導力を発揮しようと試みた。このことは戦後の日本経済史の中でも特筆すべき出来事であったというべきであろう。
アジア通貨基金(AMF)の設立と、円の国際化という日本の二つの提案は,歴史的に見ればアジアにおける必然的な流れを正しく反映したものであったといえる。
政府内(とくに大蔵省内)において、一貫してワシントン・コンセンサスに対して異を唱え,政策化されてきたわけではない。それぞれの官僚が役職を得たその場において,現実とぶつかりながらアメリカやIMF,世銀と論争し,ワシントン・コンセンサスへの日本のスタンスを形成してきたといえよう。
補論
奥田さんは、「金融自由化」とアジア危機がどう結びついていたかの分析に当たり、当時現場で処理の中心にあった吉冨さんという方の分析を引用しています。ここもそのまま引用しておきます。
「30 年も安定した高度成長を続け,『奇跡』とまで呼ばれた東アジア経済が,なぜ突然,1997 ― 98 年の金融危機に陥ったのだろうか。『奇跡』と『危機』の間を結びつけていたリンク,いわばミッシング・リングはいったい何だったのだろうか。
アジア経済の弱点は,単に縁故主義といった短絡的なものではない。そんな短絡的な理解では,縁故主義がどうやって30 年もの高成長という『奇跡』を生んだのか,説明できないからだ」
2つの基本的視角
1) 「国際金融論とバランスシート論」
第1に,アジア危機の際には,資本収支の変動が経常収支の変動を規定していた。アジア通貨危機は経常収支の悪化が原因ではなく,「資本収支危機」であった。
第2に,しかも,資本収支の主要項目は短期資本であった。
第3に,2つのミスマッチがあった。1つは「満期上のミスマッチ」であり,もう1つは外貨を自国通貨へ転換する「通貨上のミスマッチ」であった。
ここまで吉冨さんの文章を引用したあと、奥田さんは次のようにコメントしています。
これらの指摘はとくに目新しいものではない。むしろ明確にすべきは、外貨建短資の流入出が「金融の自由化」の産物であり,世銀,IMFによる圧力(ワシントン・コンセンサス)とによって実施されていたことである。
もうひとつの基本的視角として、吉冨さんがあげているのが制度的課題です。
2)「新しいリスクと既存の制度とのギャップ」
金融市場を支える制度上のインフラストラクチャーが,金融自由化が生み出す新しいリスクをうまく管理できなかった。新しいリスクを管理するためには,新たな金融上の監督,規制,法整備といった制度が新しく構築されていなければならないだろう。
世界銀行等のエコノミストたちは、「明日にでも世界の最高水準に追いつくことが可能であるかのような政策を提言し、阻害要因を除き新しい制度作りを勧告する前に金融自由化を実施してしまった」
アジアにおいて新たなリスクを醸成した「金融の自由化」は,世界銀行等が外圧としてアジア各国に迫った結果である。
「いったいどこの国の経済が,これだけの国際資本の大規模なスウィングが生む金融上のストレスに耐えるといえるだろうか。日本や米国を含め先進国とて耐えることはできない」
以上の吉冨さんの分析に対して、奥田さんは次のようにコメントしてます。
吉冨氏の論調は新古典派の主張を正面からは批判しない。世銀等の金融自由化政策に触れないで,資本収支危機を発生させ,「新しいリスク」を生み出した「金融自由化」は、そこでは所与とされてしまっている。
「これだけの国際資本の大規模なスウィングが生む金融上のストレスには、日本や米国を含め先進国とて耐えることはできない」という一説は、その後の橋本行革において見事に実証されました。世界第二の大国といわれた日本で、大銀行がバタバタ倒産したことは、記憶に新しいところです。それ以来、日本は長い谷間に入り、今も抜け出せないでいます。
勉強不足ですが、現在進行中のサブプライムローンに発する米国金融危機も、同じことを意味するのではないでしょうか。サマーズはどう反論するのでしょうか。