タイの政情: タクシン首相をめぐる動き

2006年6月 北海道AALA定期総会での報告より抜粋

タクシンとはどんな人物か

 タクシン首相は二つの顔を持っています。ひとつは内務省の警察幹部出身というこわもての官僚主義者の顔です。そしてもうひとつは新興財閥シナワトラ・グループの創業者で、札びらで顔をたたくような金権主義者の顔です。

 タクシンはまず、その豊富な資金力で政界を再編して、自らの傘下に収めました。農村でその影響力は圧倒的です。タクシンは地方の景気振興など画期的な諸政策を矢継ぎばやに導入し、政権基盤を固めました。タクシンの創設した政党はタイ憲政史上初の単独過半数政権を樹立しました。

 それまで歴代のタイの政権は小党連立内閣でした。それぞれの主義・主張や思惑による離合集散が続き、頻繁な内閣改造が繰り返されていました。貧乏な国ですから、政権にとっては官僚のポストが最大の利権でした。その結果、政権交代のたびに官僚が大幅に移動し、議員が利権をむさぼるなかで政治腐敗が構造化されていました。

 このような腐敗が官僚の無能力を呼び、97年の金融危機に際しては東南アジアの中で最も手ひどい打撃を受けました。国家としての一体性の形成、専門家集団としての官僚機構の育成は支配層全体にとっても差し迫った課題となっていました。

 タクシンは開発計画を自ら掌握し、一手に利権を握ることによって、地方選出議員の利益誘導政治を排除しようとしました。そして中央政府にあっては、専門家官僚集団を創設しテクノクラートによる安定した行政運営をめざしました。

 片手に警察機構、もう一方の手に巨大な財布を握るとなれば、権力の基盤としては磐石です。逆に言えば独裁政権となるべき条件をすべて備えていることになります。

 当然のことながら政権を監視するチェック機能は働かなくなり、独裁的な状況を許す仕組みが出来上がりました。事態を憂慮したプミポン国王は、自らタクシンを呼び、「もっと謙虚になるように」と叱責したそうです。これもまたおかしな仕掛けです。立憲主義の立場から言えば、国王こそがもっと謙虚になるべきでしょうが。

 強権的支配が生み出した最大の困難は、南タイ半島部のイスラーム過激派によるテロです。すでにタクシンの首相就任以来の過去2年間で、狙撃・放火・爆破などのテロが約2,500件発生しました。これらのテロによる死亡者は1,000人を越えています。

 テロ鎮圧のための強引なローラー作戦は、かえって地元一般住民の反感を呼んでいます。国連難民高等弁務官事務所やイスラーム諸国会議機構も、タイ政府の対応について懸念を表明しています。イスラム教徒が多数を占める隣国マレーシアとの関係は、最悪の状態にまで冷え切ってしまいました。

 マハティールに代わるアセアンの新たな盟主を目指したタクシン首相でしたが、この問題を解決しない限りアセアン諸国の支持を受けるのは絶望的でしょう。

 

タクシンの汚職疑惑

 今年に入って、タクシンは資産隠しの疑惑から憲法裁判所の召喚を受けました。さらに、自らの事業に首相として便宜を図ってきたとの疑惑も浮上してきました。タクシン首相は、「私と家族は違法行為を行ったことはない。私は選挙で選ばれた合法的な首相であり、一部勢力の陰謀や圧力に屈して辞任するようなことはしない」と開き直りました。

 タクシンが真っ白な清廉潔白の人士とはとても思えませんが、一連の疑惑騒ぎの裏に反タクシン派の仕掛けが存在するのも間違いなさそうです。そのフィクサーと目されるのがソンディ・リムサンクルという人物です。

 このリムサンクルはタクシン以上に怪しげなところがあります。もともと彼は首相の「旧友」とされ、タクシン同様に高度成長の波に乗ってテレビなどマスコミ業界を一手に握り、“メデイア王”と呼ばれるようになりました。基本的には有産階級の代表であり、決して民衆の見方ではありません。

 タクシンにかかわる疑惑を、好機到来と見たリムサンクルは、メディアを総動員してタクシンの退陣を求めるキャンペーンを開始しました。首都万国では反政府集会が連続して打たれ、若者たちが結集しました。

 お目当ては豪華なお弁当と集会の後の有名歌手のパフォーマンス、というのが実態だったといわれます。しかしテレビでは、市民がまなじりを決して反対闘争に立ち上がるシーンだけが繰り返し放映されました。

 

選挙には勝ったが

 反政府派は、「平和な市民の抗議」が行きわたったところを見澄まして、今度はデモの中に暴力分子を紛れ込ませ、警官隊との激突、街頭での放火など街頭活動を激化させ、「不穏な情勢」を作り出しました。

 追い詰められたタクシンは、国会解散選挙によるみそぎという手段に打って出ました。選挙ですべての有権者に信を問えば必ず勝てると踏んだからです。逆に反政府派は選挙に持ち込まれれば敗北は必至です。これまで積み上げた反タクシンの雰囲気も一気に雲散霧消してしまいます。

 これに対し、反政府派は選挙をボイコットするという捨て身の戦術をとりました。「不法な選挙」には力で勝負するということです。

 野党がいっせいにボイコットする異常な雰囲気の中で、4月2日総選挙が実施されました。しかしこの選挙は必ずしもタクシンの期待に答えるものとはなりませんでした。それは農村での勝利と首都における敗北という二つの相異なる結果を生じ、ますますの混迷をもたらすこととなりました。

 確かに選挙は全体としてタクシン派の大勝に終わりました。農村部ではタクシン与党が農民や低賃金労働者から圧倒的な支持を受けました。しかし他方バンコクでは、反政府派の呼びかけた「白票」が与党候補者の得票数を上回りました。

 ここで再びプミポン国王が登場します。プミボンはタクシンに反政府派との妥協を迫りました。具体的には選挙を無効とし、タクシンの首相退陣を迫るものです。

 国王の提案を受け入れることは、ほとんどタクシンの全面敗北につながるものです。また民主主義のスジ論からも到底受け入れることのできない内容ですが、リアルな力関係の判断からは賢明な選択なのかもしれません。「悔しかったらバンコクで勝ってみろ」ということです。

 この説得を受けたタクシン首相は、4月5日に「対立を緩和するために、次期首相が誕生するまで休養する」と宣言しました。そして「次期国会では首班に指名されても辞退する」意向を表明しました。切歯扼腕振りが手にとるようです。

(タクシンは5月末に首相に復帰しました。復帰の理由を「このまま休養を続けていけば、長期間にわたり首相不在の状況が続くことになる。これは国にとっていけないことだ」と述べています。しかしこれはかなり説得力の薄い議論で、首相就任を辞退した理由と真っ向から矛盾しています)