http://web.archive.org/web/20000817090556/www.lbjlib.utexas.edu/shwv/articles/hue-port.htm 英語版ウィキペディアの“Massacre at Hue”もご参照ください『フエ大虐殺』はなかった
THE 1968 'HUE MASSACRE'
D. Gareth Porter
"Indochina Chronicle," #33, June 24, 1974
次の文章は、産経新聞の記者によるものです。日本ではこの情報が流布されています。
南ベトナム側市民の間にひそんでいた秘密の工作員数百人は一般市民の一部に真の顔をみられてしまった。だが米軍と南軍の反撃で共産軍はユエから撃退されることとなった。工作員は市内に留まってまた偽装の生活にもどるには、自分たちの顔をみた目撃者を消すことが不可欠となった。だから老若男女を海岸とか山岳地域に連れ出し、大量に殺した。殺害されたユエ地区の市民は総計五千人を超えた。後にユエ近郊の砂浜や谷間から針金でしばられた男女の惨殺死体がおびただしい数、つぎつぎに発見されている。
事件の詳細はわりに早い時期からアメリカの国務省外交官でベトナム研究家のダグラス・パイク(現テキサス工科大学ベトナム・センター所長)らによって立証され、公表されてはいた。だが日本ではほとんど伝えられなかった。
そしてこの記者は、パイクを専門的・中立的で高潔な学者であるかのように持ち上げています。
ダグラス・パイク: 米国学界でも有数のベトナム共産主義勢力の研究家。1958年に国務省入。サイゴン勤務や本省政策企画局勤務を通じてベトナム問題に取り組む。82年からカリフォルニア大学のインドシナ研究所長。96年からはテキサス工科大学教授兼ベトナム研究センター所長。著書に「ベトコン=南ベトナム民族解放戦線の組織技術」「ユエの虐殺」「ベトナム共産主義の歴史」「ベトナム人民軍」など。
いくつかの謎が浮かび上がります。「目撃者を消すことが不可欠となった」というのは、ただのヨタ話ではないのか? ドサクサのあいだに5千人も処刑する暇があったのか、それほどまでに大量の「針金で縛られた惨殺死体」は本当に法医学的に確認されているのか?
英語版ウィキペディアでは、「大虐殺」説に対する反論も紹介されています。この中からもっとも説得力のある論文を紹介します。「日本ではほとんど伝えられなかった」ものです。
小見出しは訳者による
はじめに
1968年の衝撃的なテト攻勢から6年が経った。しかしベトナム戦争の「神話」のひとつ、すなわち「共産主義者によるフエの大虐殺」は、いまだ本質的に解決されないままである。
フエでの事態の「公式」のバージョンは、こうである。
「民族解放戦線と北ベトナムは、故意に組織的に、当局の責任者のみならず、宗教者。知識人、一般市民を殺害した。後に発見された埋葬サイトからは、約3,000の遺体が掘り出された。これは共産主義者が処刑した4,700人以上の犠牲者の一部である」
フエで起こったことについては未だ不明なことがたくさんある。しかし、それにもかかわらず、次のように結論するのには十分な証拠がある。すなわち、南ベトナムと米宣伝機関によってアメリカの民衆に伝えられた「物語」は、真実とは似ても似つかないということである
この物語はサイゴン政府の政治戦作戦の作り出したものであった。そしてアメリカ政府がこれを修飾し物語に仕上げた。そして米国のメディアがこれを無批判に受け入れた。それらの複合した結果であった。
物語の誤りは、「フエの大虐殺」の公式発表を注意深く検討しても、これらと独立した反共情報からの証拠を検討しても、ただちに暴露される。それらは巨大な「血の粛清」の恐怖を生かし続けたいと願う米国メディアの努力を粉砕するに十分である。
いまやそれはひとつの「神話」となっている。それは過去の米国政府の立場を擁護し、いまも米国の民衆の態度に深い影響を与えている。
第10政治戦大隊の役割(the Tenth Political Warfare Battalion)
情報源は軍の情報機関である
フエの公式の物語の誤りを読み解くためには、オリジナルの情報源に戻らなければならない。
ところで、いわゆる「大虐殺」に関するデータを編集し、その情報を公表したサイゴン政府の機関は、社会福祉・難民省ではなかった。保健省でもなかった。それは旧南ベトナム政府軍の第10政治戦大隊だった。
これは重大なことである。政治宣伝のためなら、解放戦線を貶めるためなら、それが真実であるかどうかには関係ない。それがこの特殊な組織の存在理由なのである。そしてその組織の「物語」を68年から69年にかけてアメリカのメディアは流し続けたのである。
見つかった遺体の数も、その死因も、別個の情報源によって確かめられたことは一度もない。それどころか、独立した情報源からの証拠は、第10政治戦大隊のバージョンに挑戦する事実ばかりである。
大虐殺に関する公式のサイゴン報告は1968年4月23日に発表された。そのとき、政治戦大隊は「1000人以上の人々が、共産主義者によってフエで処刑された」と述べている。大隊のレポートは、米国情報サービスによって詳細に繰り返された、しかし、当初、アメリカのメディアはそれを無視していた。
その1週後に、今度はアメリカ調査団が独自のレポートを公表した。それは、本質的に南ベトナム軍報告の繰り返しであった。この報告は、「米国と南ベトナムの権威筋によって」調査が行われたと述べているが、米顧問の役割は実際には副次的なものだったと思われる。
サイゴン政府の通信社「ヴェトナム・プレス」によると、報告の元になったデータはフエの国家警察、米顧問、「南ベトナム情報・難民局」職員による聞き取り、そして「第10政治戦大隊の記録」からなっている。その中でもとくに、「第10政治戦大隊の記録」が「処刑」疑惑に関する基本的統計数字を提供している。
報道機関は現場を確認していない
ベトナムの新聞はさらに次のように報道している。
「第10政治戦大隊の“処刑”を調査する関係将校は、犠牲者のほぼ半分が、生きたまま埋められていたと述べた」
(これが事実なら、格好の宣伝材料であるから、報道関係者を歓迎するはずである。しかしそうではなかった)
3月から4月の間に、共産主義者による処刑の犠牲者と見られる遺体が発見された。その間、サイゴン政府は一人のジャーナリストも、埋葬地または遺体を見るのを許さなかった。その時、多くの外国ジャーナリストがフエにいたにもかかわらず。
2月末、地区長官のファン・バン・コア大佐は、300人の政府一般職員の遺体が、町の東南部の共同墓地で見つかったと報告した。大佐はそれが共産主義者によって処刑されたものだったと断定した。しかし、ジャーナリストは決してその墓を見に行くことを許されなかった。
事実、フランス人カメラマンのマーク・リボーは、墓の見学を数回にわたり申請したがそのたびに拒否されたと述べている。最後に申請が認められ、ヘリで墓地まで運ばれたが、パイロットはそこが「治安不安定」であることを理由に着陸することを拒否した。リボーは結局、墓を見ることなく終わった。
まもなく「発見の公式経過表および墓地の一覧地図」が最終的にリリースされた。この時、リボー記者はカオ大佐が指摘した墓地に相当するサイトを、その中に見つけることはできなかった。
3月の下旬、ロンドン・タイムスのスチュワート・ハリスは、大量処刑の物語を追跡するためにフエで取材を続けていた。「公式経過表」によれば、ちょうどフエの王墓の南で約400の遺体が見つけられていた頃である。
アメリカの政治戦(political warfare)将校は、ハリスをある村へ連れていった。しかしそこには集団墓地はなかった。次いでベトナムの政治戦将校が彼をギア・ホイ地区の「墓所」へ連れて行ったが、遺体はずっと以前に再埋葬されていた。結局、彼は埋葬地で見つかったものについて報道するために、ベトナムとアメリカの当局の言葉に依存するしかなかった。
遺体に関する数字は混乱している
さらに、南ベトナム軍の政治戦当局は、実際にどれくらいの遺体が見つかったかについて、矛盾している報告を発表している。たとえばアメリカの公式レポートでは、ギア・ホイ高校で合計22ヶ所の集団埋葬点から、200の遺体を発見したとしている。ひとつの墓につき平均9体の遺体ということになる。このレポートは第10政治戦大隊によって供給された情報に基づいていた。
しかしスチュワート・ハリスが埋葬地へ連れていかれたとき、ベトナムの護衛将校はこう語った。「22の墓の各々には3つから7つの遺体が埋められていた」と。したがって遺体の合計は66から150体のあいだになる。
同じころに、第10政治戦大隊は、ベトナム国内向けにパンフレットを出版した。そこでは「高校には14の墓(22ではなく)が発見された」と書かれている。つまり、護衛将校の発言よりはるかに少ないことになる。
一医師の調査結果は矛盾している (A DOCTOR'S CONTRADICTORY FINDINGS)
サイゴンの数字の捉えどころのなさは、アルジ・ベネマ(Alje Vennema)の証言に照らし合わせるといっそう顕著である。ベネマはクアンガイ病院でカナダの医学チームの一員として働いていた。そしてテト攻勢のあいだ偶然、フエ区立病院にいた。彼は埋葬地について彼独自の調査を行い、その結果を報告している。
ベネマはフエのギア・ホイ高校に14の墓があることに同意する。しかし墓に埋められた遺体は全部あわせても20体だけだと述べている。彼はまた、ギア・ホイ地区での他の2つのサイトで発見された遺体は19体だけだったと言う。ちなみに政府はここから77体が発見されたと主張している。もう一つの埋葬地、フエ南西の王宮墓地の遺体は29体だった。これについても政府は201体と主張している。
したがってベネマによれば、テトの直後に発見された4つの主なサイトの遺体の数はあわせて68体であった。いっぽう公式に主張されているのは477体である。
遺体のほとんどは戦闘の犠牲者だった
彼の報告はもう一つの見解を示している。彼は注意深くも、「これらの遺体のうち、解放戦線処刑の犠牲者だったものは一人もいなかった」とは主張していない。彼はそうは言わずに、こう述べている。「状況は、遺体のほとんどが政治的殺害の犠牲者ではなく、地域での戦闘の犠牲者であることを示している」
また彼は、王宮墓地の埋葬地のケースについて、次のように慎重に述べている。「大部分の遺体は軍服を着用していた。村人は2月21日から26日まで、このあたりで激しい爆撃と砲撃、機銃掃射があったと話した」
ベネマは「遺体のすべてが傷を負っていた」と述べている。それは「多くの犠牲者がそこで生きているまま埋められた」という政府主張と対照的である。
ここまで指摘したように、それが政治戦闘部隊の発信であること、ジャーナリストによる直接の観察と確認が拒絶されたこと、統計の数そのものあやふやさなど、公式のバージョンには疑わしさがつきまとっている。
さらにそれは、当時その場に居合わせた医師の証言と激しく矛盾している。その証言は1968年4月のサイゴン政府による報告の誤り(misrepresentation of the truth)のすべてと対立している。
これまで明らかになった事実は、少なくとも、こう示唆する。「政治戦大隊は、解放戦線による実際の処刑の数を10倍以上にふくらましたかもしれない」と。
1969年の発掘 (THE 1969 EXHUMATIONS)
フーダ、フースアン、フーミ村の犠牲者たち
テト攻勢の次の年、1969年の間に、さらに多くの遺体がフエ周囲の村で発見された。そこから、サイゴン政府のもう一つの作戦フェーズが政治戦の当局によって開始された。
フエ南東での最初の遺体が見つけ出された。そこでは「共産党犠牲者の埋葬地捜索委員会」が発掘を指揮していた。指揮者は地区長官のチュン(Trung)少佐だった。
発掘が続く間、またも、作業を見ようとする報道関係者は誘われなかった。その代わり、後で、チュン少佐は報道関係者を呼び、話した。「委員会はフーダ村のビン・ルウ部落(Vinh Luu hamlet of Phu Da village)で135の遺体を見つけた。そしてフースアン村(Phu Xuan)でも7つの墓から250の遺体を発見した」
地区長官が報道関係者に告げなかったことがある。それはフエ南東部のこの地域が、1968年の初期に数週間にわたり戦場であったということである。解放戦線は、市内から追いやられた後にさえ村落の多くを確保し続けた。若干の村落は何ヵ月も、彼らの手の中に残った。アメリカの戦闘爆撃機は彼らに対して激しい爆撃を実行した。
1969年3月の遅くに発見される4つのサイトのうちの1つ、報告では22の遺体が見つかった場所は、フーミ(Phu My)村とトゥイバン村の中間であった。
フエの3マイル東に位置するフーミ村は、テト攻勢の間、共産主義者部隊によって占領された村のうちの1つであった。戦闘可能な世代の多くの青年は解放軍に採られた。後に行われた住民とのインタビューによれば、アメリカの飛行機は繰り返して村を爆撃した。そして何百もの家を破壊し、一般人を殺害した。
3つの他の埋葬サイトは3月の遅くから4月前半にかけて発見された。ペンタゴンの経過表によれば、これらからは357の遺体が見つかっている。これらの場所はフースアン村に位置し、フーダ村からも遠くない。
村の遺体は戦闘の犠牲者だった
スースアン村はフエの20キロ東、ここも数週間にわたり、アメリカ空軍の激しい爆撃を含む激戦の場所であった。ある日などはアメリカの空襲で一日だけで約250人の共産主義者兵士が殺されたという。これはフースアンの村長の証言であり、政治戦局自身の新聞「ティエントゥエン」紙に掲載されたものである。
サイゴン政府は、「見つかった遺体は、共産主義者による処刑の犠牲者であった」と断定した。しかしこれはサイゴン政府の当局にさえ説得力がなかった。チャン・ルウイ保健大臣は、1969年4月に埋葬サイトを訪問した後、トア・ティエン地区の副長官に率直に語った。「私の意見では、遺体は、戦いで殺された解放戦線兵士のものでありうる」
政治戦局の新聞は、ただちにこの大臣を懐疑論者だと非難した。
こららの発見された遺体が確かに支持するだろうか。共産主義者に処刑された犠牲者は、実際にはほとんどいなかったかもしれないという疑いを。この点に関して、ほとんど利用しうる情報はない。
一つだけ上げるとすれば、チュン少佐自身のレポートはこう主張している。合計365の遺体のうち、民間人公務員は9人、サイゴン軍兵士は14人のみだったと。
遺体のかなりの数が女性や子供たちであったことはよく知られている。アメリカの将校の一人は犠牲者の大規模な追悼会に出席し、ワシントン・ポスト紙のリポーターの質問に答えた。「何人かは戦闘でやられただけかもしれない」(Some may have just gotten caught up [in the fighting])
解放戦線はフエの近郊の村落を占領した。これに対し米軍や政府軍が爆撃や砲撃によって応え、多くの女性や子供たちを殺した。そのとき解放戦線が犠牲者を埋葬しなかったとしても、それは驚くべきことではない。
ダマイ渓谷の「大虐殺」
1969年9月、遺体の大きなもう一つの発見があった。ダマイ渓谷である。そこはフエの南16キロの密林地帯であった。この発見の経緯はあいまいで矛盾に覆われたままである。見つかった遺体の数さえ、何かのミステリーのようなままである。
公式のペンタゴン報告は、発見された遺体の数がおよそ250であったことを示す。アメリカ情報機関のヴェトナム・スペシャリスト、ダグラス・パイクは、数か月後に「ダマイ渓谷の発見」を大々的にとりあげた。このとき数字は428に増大した。
さらに、サイゴンにより仕立て上げられた1人のベトコン「離反者」は、ダマイの共産主義者大虐殺の疑惑に関して証言している。それは公式バージョンとは非常に異なる、互いに矛盾している話を証言している。
1969下旬、サイゴン政府は「ボルチモア・サンズ」紙のために、インタビューを手配した。「離反者」は証言した。「私の友人でもあった共産主義者地区チーフは言いました。“フー・カムとトゥダンから連れてきた約600人を、親共産主義の山岳民に殺させるために引き渡した”と。そして“理由は革命に対する反逆者であったからだ”と告げました」
しかしこの同一人物は、数日後に「ティエン・トゥエン」の記者とのインタビューでは、同じ地区チーフによってこう告げられたと語っている。「500人の“圧制者”は山へ連れて行かれました。殺されるためではなく、改革されるためにです」
パイクと公式のペンタゴン版の間に、ここで再び、大きな直接の対立が出現する。犠牲者は誰なのか、そして彼らはどこから来たのか?
パイクの「大虐殺」説の矛盾
パイクのバージョンは、彼らは1968年2月5日、フエのフー・カム教区のカトリック教会で捕らえられ、南へ8キロ歩いてきたことになっている。そこで彼らのうちの20人が人民裁判によって執行(execute)された。彼らは地元の共産主義者部隊に引き渡された。そしてフエからさらに6キロ離れた場所に連れて行かれ、殺害(murder)された。
しかし国防省の報告は、「教会からフー・カムにおいて連れて行かれた一般人グループは、80ないし100人である」となっている。パイクの言う400人とは一致しない。
さらに、半官半民の「ベトナム・マガジン」によるバージョンがある。同紙でオリジナルが発表されて、後にサイゴン大使館によってワシントンで再版されたものである。報道はこう主張する。「人民裁判によって執行される20人の人々以外のすべては、フエに戻るのを許された。このとき彼らは警告された。“解放戦線はいつかフエに戻る、だからあなたたちは従順にふるまわなければならない”と」
これらの矛盾は重要である。パイクの議論が成り立つためには、ダマイの人骨が共産主義者による虐殺の犠牲者でなければならない。なぜなら、それは、フエから囚人として連れて行かれたグループだからだ。
実際に証拠がある。フー・カムから共産主義者と一緒に去った大部分は、囚人ではなく任務を強制された人々だった。彼らは担架の運び役だったり、弾薬輸送者だったり、場合によっては解放戦線の兵士そのものだったりした。
AFPがフエの市街戦のさなかに報道したように、多くの青年が(特にフー・カム地域で)銃を担った。あるいは担架の運び役として、山のキャンプの方へ負傷した兵士を輸送するために働いた。
ダマイの遺体も戦闘の犠牲者だった
ダマイに戻ろう。情況証拠は強く示唆する。250の人骨もまた、戦いにおいて殺されたか、あるいは、アメリカのB-52攻撃によって殺されたものだと。
「ベトナム・マガジン」の記事(1968年5月2日~4月30日)はこう記載している。ダマイ渓谷のベトコン基地は「共産主義者が同盟軍との最後の大規模な戦闘をおこなった場所に近接している」
それはアメリカの新聞の読者が決して知らされなかった事実である。
解放戦線は常に運搬基地を設けた。そして戦死者を可能な限り多く戦場から持ち出して、そこに埋めた。戦死者の身に着けているものから戦術上の情報を入手される恐れがあり、それを防ぐためである。
要するに、いろいろな公文書の矛盾や弱点、証拠を確かめることの不足、公式の説明を否定している証拠、その他もろもろが示唆するのは、次のことである。
すなわち、1969年に村々で発見された遺体の圧倒的多数は、実際には解放戦線の処刑の犠牲者というよりは、アメリカ軍の爆撃、地上での戦闘の犠牲者であったということである。
ダグラス・パイク: メディア操作の達人 (DOUGLAS PIKE: MEDIA MANIPULATOR PAR EXCELLENCE )
ダグラス・パイクのやったこと
フエ「大虐殺」は、1969年から1970年にかけて多大な報道メディアのカバーを受け、広範なコメントを受けた。この物語は、その大きな要素を一人の人物に拠っている。その人は、アメリカの情報機関のスポークスマン、ダグラス・パイクであった。
パイクは1969年11月南ベトナムを訪れた。そしてフエについてのレポートを作成した。それは明らかにエルスワース・バンカー大使の差し金によるものであった。
11月の最後の2週の間に、パイクはフエと「血の粛清」(bloodbath)をテーマに物語を作り上げ、直接あるいは間接にいくつかの新聞に吹き込んだ。パイクは、数人のリポーターを相手に、フエの共産主義者による占領の真実について自説を展開した。
同時に、彼は捕らえられた共産主義者の証言をファイルから見つけ出し、翻訳し流布させた。それはフエの占領の間の無実の一般人の大量殺人に関する告白をふくんでいた。
物語は、アメリカのプレスの中でいくつかの記事として取り上げられた。たとえばワシントン・ポストは、押収文書に関するAP通信記事を、次のような見出しで掲載した。「アカがフエでテト中に2900殺害。押収文書で明らかに」(Reds Killed 2900 in Hue during Tet, according to Seized Enemy Document)
クリスチャン・サイエンス・モニターのヘッドラインはもう少し上品だった。「共産主義者、殺害を認める」(Communists Admit Murder) 「共産主義者による68年初めのフエ虐殺は、周到な準備の末だった」
オリジナル文書を読み解く
両方の記事は、その証拠として翻訳文から次のセンテンスを引用した。
「我々は、1,892人の行政要員、39人の警官、790人の圧制者、6人の大尉、2人の中尉、20人の少尉そして、多くの下士官を除去(eliminate)した」
彼らがあたえられた文書の確実性、翻訳の精度を疑ったものは誰もいなかった。
しかしオリジナルのベトナム語文書は、それとはまったく異なった内容を示してる。私がヴェトナムのアメリカ司令部から1972年9月に入手したコピーによると、この匿名の著者は新聞や大衆が思い込んでいたようには語っていない。
ベトナム語のオリジナルでは、上記のセンテンスは、「共産主義者がフエで2,600人以上の一般人を殺害することを承認した」という、アメリカで発表された「翻訳」とは異なっている。
まず第一に、このセンテンスがおかれた文脈は、処罰について論じているのではない。その前後関係はこうなっている。
論点は、トアティエン省(フエを含む)における軍と行政機関、要するに敵権力機構を破壊するために、どのような所策をとるべきかについての総括的議論である。そこで展開されているのは、犯人または「敵」と考えられた人々をどう処罰するのかということではない。
二つ前のパラグラフで、文書は「政治的権力」の確立に言及している。そのための任務は、武装宣伝により敵の兵士に結集を訴えることであった。文章は敵兵が寝返る可能性の根拠として言う。「“自衛軍”はひどくおびえている。解放戦線が攻撃すると、河を越えて逃げ出そうとした。そして21人が溺死した」
別の段落では、フー・バン地区の敵勢力のもろさを特記している。そして交戦場所を特定し、食料と(解放戦線の)旗のための布地60巻を積んだトラック60台を押収したと述べている。
「エリミネート」は意図的な誤訳
そして次のセンテンスである。つまり "We eliminate 1,892 administrative personnel"と公式に翻訳されている部分である。
ベトナム語の“diet”という言葉は、パイクのバージョンでは“eliminate”と翻訳されている。しかし本来それは、軍事用語で"destroy" or "neutralize"というニュアンスに用いられる。パイクが用い、新聞が報道したような"kill" or "liquidate"というニュアンスはない。
訳注:もともとneutralize(中立化、無力化)とかeliminate(除去)を殺人の意味に用いるのは、中米などでのCIA好みの隠語である。
共産主義の軍事コミュニケで“diet”という言葉が使われる場合、それは敵勢力のあいだに生じた戦死、負傷、捕虜などをふくんでいる。たとえば、テト攻勢の終わりに出された解放戦線の第3特別コミュニケでは、「我々は、敵の勢力の一大部分を破壊(destroy)した。当初の集計では、我々は9万人以上の敵を殺し、傷つけ、捕らえた」というところで“diet”を用いている。
ここで “diet”について留意する必要がある。“diet”はいかなる普通のベトナムの用法においても「殺す」ことを意味しない。したがって公式の翻訳で「殺す」とするのは極めて不規則なことである。
さらに、“te”という言葉が「行政要員」(administrative personnel)と訳されている。これは実際に報道関係者に流布している訳語であるが、実施にはもっと広い意味に用いられている。北ベトナムの標準的な辞書では、それは軍・民間人をふくめて「カイライ」という意味である。
文書が特にサイゴン政権の官僚に言及するときは、普通は違った言葉“nguy quyen”を使う。つまりこの言葉は、その前後の文脈からしても、通常の使用法からしても、パイクがメディアを丸め込んだような使い方ととは違っているのである。
パイクの『人民の敵』文書 (PIKE'S 'ENEMIES OF THE PEOPLE' DOCUMENT)
パイクの明らかな嘘
文書の誤った紹介が誤訳(というより曲訳)によってもたらされたのなら、そして文書の中から都合の良い証拠を見つけようとするパイク自身の意図によってもたらされたのなら、話は分かりやすくなる。同じ頃パイクがとったもう一つの行動では、彼自身の意図がさらに露骨になっている。
パイクは何人かのリポーターに一つのリストを与えた。そのリストは15のカテゴリーからなっていた。それを彼は「人民の敵」リストと呼んだ。それは彼に言わせれば、共産主義者が処刑の対象としていたもののリストだった。
そのうち二つのカテゴリーは、カトリックの指導者と地主、そして資本家であった。彼らは「いまだに資本主義を信じる宗教組織の指導者あるいは中核的メンバー」および「搾取階級の一員」であった。
Los Angeles TimesとWashington Daily Newsによれば、文書には共産主義者による「血の粛清」計画がつづられていた。その根拠としてパイク自身のパンフレットを引用した「物語」が語られている。
もう一度言おう。文書は本物だったかもしれないけれども、それを元に作り上げられた物語は明らかに嘘っぱちである。まずともかく、文書は「人民の敵」について一言も語っていない。パイクは文書のオリジナルに「人民の敵」というフレーズが存在すると繰り返して主張したけれども、それは明らかにパイクが挿入したフレーズである。
パイクは二つの異なるリストを継ぎ合わせた
第二に、パイクは、「これら15のカテゴリーの人物は処罰され、消滅(liquidated)させられた」とレポーターに示唆し、後に自らのパンフレット「フエ」にも書いている。しかし実際には、これら文書はそのように言ってもいないし、暗示もしていない。
実際に「捜査のための15のクライテリア」と題する文書で書かれているのは、たんに地方活動家に対する指示であった。その指示は監視すべき対象の種類を記載したものでしかなかった。
解放戦線による抑制のためマークされたこれらの人物は、パイクによって流布されたりストの人物とはまったく異なっている。それは「宗教組織の指導部と中核メンバー」も、「搾取階級のメンバー」もふくんではいなかった。
パイクはそのことをよく承知していたはずである。何故なら、処罰されるべき人々のカテゴリーをふくむ文書は、これとは別にあったからである。それは1967年10月に米国調査団により発表ずみである。
レ・スアン・チュエンの「証言」
もうひとつ、サイゴンとパイクがメディアに情報を吹き込むため用いたのが、「証言」という攻勢手法だった。彼はしばしば、血の粛清を嫌う解放戦線の「離反者」や「元幹部」による証言をとりあげた。
記者会見の前に彼ら離反者を公開するテクニックは、サイゴンの政治戦局が多くの機会に使ったものである。それはある政治的ポイントを説得力を持つ文書によって主張できない場合、それを演出でごまかすためのパフォーマンスであった。
経験を積んだサイゴン在留リポーターの多くは、当局が演出した離反者による声明にはつねに懐疑的だった。しかし本物の共産主義者と会えるということで引き寄せられてしまうジャーナリストも、サイゴンには常にいた。
Le Xuan Chuyenが手配されたときもまさにそうだった。チュエンは、1966年8月に離反するまでヴェトナム人民軍の大佐であったと主張した。彼はワシントン・デイリー・ニュース、ロスアンジェルス・タイムスの記者と会見した。そして「血の粛清」計画について彼の知見を述べた。
チュエンは共産主義者が「血の負債」リストを作成したこと、そこには南ベトナムの約500万人が上げられていたこと、そのうち50万人が処刑される予定であったと語った。
Chuyenの背景については簡潔な注釈がある。これは彼の証言を適切な視野に入れることを助ける。彼に対する最初の尋問「あなたの階級は何ですか?」に対する答えでさえ、この自称「大佐」の政治的日和見主義の顕著な感覚を示している。
尋問が始まる前に、寸時を惜しむかのように彼は進んで証言した。まず彼はチュウとキを「大胆で愛国的で、民族の気概に溢れた」指導者と賞賛した。そしてアメリカとサイゴン政府のために働きたいという意思を自発的に表明した。
チュエンの誠意は大いに評価された。かれは程なくサイゴン政府のチエウ・ホイ・センターの指揮官に指名された。彼が共産主義対抗戦略を検討するこのポストについたということは、ニュースでは決して取り上げられなかった。
もう一人のいわゆる高級共産主義離反者であるチャン・バン・ダク大佐は、そのとき実際に南ベトナム軍政治戦局の総司令部つきの計画アドバイザー( Planning Adviser to the General Directorate of Political Warfare of ARVN)であった。これは到底公平な証人とはいえない。
彼の1969年の声明では、300万人のベトナム人が、「血の負債」リスト上にいたとされている。この声明は長いことロバート・トンプソン卿やパイク自身など米政府関係者にとってより所とされてきた。
彼らに数を与えよ FEED THEM A NUMBER
アメリカの空爆と砲撃が最大の犠牲者をもたらした
パイクの仕事の主な成果は、公式の「推定」として4,756という数を作り出したことにある。これはフエの戦闘のあいだに解放戦線によって殺された民間人の数である。
その数字に到達することは、かなりの妙技であった。
共産主義者による暗殺ではなく、アメリカの空爆と砲撃こそがフエで最大の虐殺を引き起こしたということは、否定できない事実である。パイクは、フエでアメリカの空爆によって殺された何千もの民間人の犠牲者を排除しなければならなかった。
大量殺害と市街の崩壊は長年にわたる反共産主義の支持者さえ恐怖に陥れた。ロバート・シャプレンはこう書いている。「私が朝鮮戦争の間に、あるいはベトナム戦争の間に、これまで見てきたなかで、これほど恐ろしいものはなかった。破壊そして絶望、それが私がフエで見たものだった」
共産主義者の占領が終わったあと、スクリプス・ハワード新聞のドン・テートは、砲弾によるクレーターについて記述している。「王宮(citadel)の城壁の近くに落ちた砲弾は幅10メートル、深さ6メートルにおよぶクレーターを形成している。墓には5人の遺体が折り重なるように積まれている」
フエの17,134の家屋のうちの9776は、完全に破壊された。そしてもう3,169は「ひどい損害」と公式に分類されている。(つまりほとんどすべてである:訳者)フエをふくむトアティエン省では、ほかに8,000世帯が半壊以上の被害を受けている。
“4756”を生み出したパイクの錬金術
最初、南ベトナム当局は、血の再征服の戦闘において殺された民間人の数を3,776と推定した。(富士山と同じです:訳者)
しかし南ベトナム軍の政治戦スペシャリストが乗り出した頃、この最初の推定は新しい推定944に代えられた。これは3月の「社会福祉・難民局」の省主任報告によるものである。この数字は第10政治戦大隊の小冊子で発表されている。
そしてここにダグラス・パイクが必要としたすべてのものがあった。すなわち、「それら民間人の死者数千を、“共産主義者の大虐殺”の犠牲者に代える」ことである。
死者と行方不明者の「要約」と呼ぶチャートで、パイクは最初から、いろいろな死因から犠牲者の数を推定することを放棄する。その代わりに、彼はサイゴン政府の推定による「フエ戦争のすべての市民犠牲者、合計7,600」を持ち出す。
元の政府推定による民間人の犠牲者は、ここでも地区社会福祉・難民事務所によって供給されたものである。それは「6,700以上」とされている。それはフエの戦争で殺された3,776人の民間人の数から引き出された数字である。7,600ではない。
パイクは社会福祉・難民事務所の7,600という数字を、それ以上には使わない。その代わりに政治戦大隊の944という数字を持ち出す。7,600から944を引いて、さらに戦傷により入院した1,900を引いた4,756という数字をパイクは引き出す。これが共産主義者大虐殺の被害者であるとパイクは主張するのである。この奇妙な算術だと1,945人はカウントされていない。
要するに、全部の統計作業は唯一の目的、「大虐殺による4,756人の犠牲者」という詐欺的な数字に向かっているのである。
パイクは解放戦線の政策を書き直す PIKE REWRITES POLICY FOR THE NLF
パイクは虐殺三期説の証拠を提出しない
パイクの自身の分析の要旨は、彼が「仮説」と呼ぶものである。それはフエ占領のあいだに解放戦線指導部がとった政策に関するものである。
「仮説」の要旨は、次の通りである:
解放戦線政策には三つの異なったフェーズがある。それは占領の異なったフェーズと対応している。最初の数日間、解放戦線は占領をたんに一時的なものと予想していた。そしてその使命は自らの政権を樹立することではなく、サイゴン政府の行政機構を破壊することにあると考えていた。
この期間に、ブラックリストを持った解放戦線幹部は、公務員や軍事将校のみならず宗教界、社会的リーダーも同様に処刑した。
その後第3または第4日目から、共産主義指導部はこの都市を恒久的に保持できるかもしれないと考えるようになった。そこで、彼らは「社会的再建の期間」(パイクの造語)に着手した。そしてイデオロギーや階級背景においてプロレタリアでない人物をすべて抹殺しようと考えるようになった。それは仏教、カトリックの指導者であり、知的リーダーたちであった。
最終的に、2月下旬都市を去るにあたり、彼らは市内に残留させるスパイの身元を知りうるような人物を手当たりしだい殺そうとした。
パイクは漠然と証拠のいろいろな部分に言及する。そしてそれらの証拠が彼の仮説を支持すると主張する。しかし彼はその著作において、それらのいずれも提供していない。
しかし、どのケースにおいても、現在利用できる全ての証拠はパイクの仮説を最初から最後まで否定する。
リストは逮捕と再教育のためのものだった
まず第一に、押収された解放戦線文書は示している。解放戦線は最初から、サイゴン政権を破壊するだけではなく、フエで革命政府を設立する任務を持っていたことを。そして可能な限り長期にわたり、町を維持するつもりだったことを。
実際、共産主義者政権が一般人の大量殺人の責任を追っていることの証拠として、パイクはこの文書を用いている。まさにその文書が、「解放戦線はフエを占領する使命を持っている。それは革命政府が確立しうるほどに長期間にわたる」と指示しているのである。
次に処刑のための「ブラックリスト」に関してである。パイクは「広範囲な下級当局者や政府機関以外の人物までふくむリストが存在した」と主張する。
リストの存在については誰も否定していない。フエの秘密警察長官のレ・ガンを除いては。彼も自身の名前をリストに載せられていた一人である。
1968年に、都市の再占領のすぐ後、レ・ガンは、「ギア・ホイ地区のブラックリストに記載されていた名前は、地区の秘密警察機構の将校のものだけだった」とレン・アクランドに語った。レン・アクランドはテト攻勢の前にフエで活動していた元国際ボランタリーサービスの一員である。
もひとつのリストがあった。それは即決裁判による処刑のためではなく、逮捕と再教育のための対象者リストだった。それは当地で行われる場合もあり、場所を移して行われることもあった。彼らは捕らえられることにはなっていたが、しかし必ずしも処刑されるというわけではない。
「いかなるものも殺してはならない」
このリストは「ムイ・アの攻勢と総蜂起の計画」と呼ばれる文書にある。著者は1971年6月にアメリカ統合広報局からこの文書を入手した。この文書は部内文書としてベトナム、アメリカの比較的少数の当局者に配布されたものである。
文書は言う。「省の長官、副長官、少佐以上のランクの将校、アメリカの情報将校、各当局の責任者に関しては、先手を取る(it things go to our advantage)。当日12時を期して、そのうちの何人かは逮捕される。彼らは速やかに他のものに潜伏を止めるよう説得しなければならない。そして降伏するよう命令しなければならない…そのあと、我々は市街から彼らを連行していかなければならない」
捕虜は、計画にしたがって郊外の刑務所に拘留された。そこで関係書類が作成され、個別のケースに対する決定が行われるまで留置された。
文書は、「これらフエにおける米国あるいはベトナム高級当局者はいかなるものも殺してはならない」(none of these higher U.S. or Vietnamese officials in Hue was to be killed)と強調している。
そして留保条件として、もし最初の数時間で戦闘が不成功に終わったとき、彼らを市街に連行する方法がなかったときを上げている。そしてそのような状況は明らかに起こらなかった。
さらに文書は、より低い位の当局者を逮捕または懲罰から免除している。「敵のために働いているそれら普通の公務員に関しては、彼らが暮らしのため働いているに過ぎない場合、そして革命に反対しない場合、速やかに彼らを教育して、今後は革命のために奉仕し続ける責任を与えるべきである」
個人の第3のカテゴリーもあった。高級当局者でも普通の公務員でもなかった人々である。この中には、いずれかの時点において政府の準軍事的な装置に活発に関係していた人々が含まれる。
これらの人々に対しては、処遇は記載されていないが、証拠が示しているのは、彼らは解放戦線が町の支配を続ける限り、処刑されるのではなく「再教育」されることになっていた。占領の最初の日、彼らは地方委員会へ報告するよう命じられた。しかしその後家に戻ることを許された。
処刑はあったが組織的なものではなかった
これは、処刑が占領の最初の期間の間に、フエになかったことを意味するものではない。
レン・アクランドとワシントンポスト紙の通信員ドン・オーバードルファーは個別のケースについて記録している。このケースにおいては、解放戦線から隠れてあれこれの抵抗を続けていたことが明らかにされている。
しかしこれらの厳しい処置は、多くの場合、解放戦線による決定よりむしろ現場の兵士、幹部による個々の行動を反映するものである。例えば逮捕に際して抵抗し兵士が撃たれた場合などである。それはダグラス・パイクが主張するような公式の立場でもなく政治的姿勢でもなく、「大衆的懲罰」(mass retribution)とはまったく別のものだった。
アクランドはフエの住民にインタビューを行っている。これによれば処刑の数は比較的少ないものだったとされる。
聖職者、知識人は自ら執行する CLERGY AND INTELLECTUALS EXECUTING THEMSELVES
知識人たちは革命執行部に参加した
「社会的再建」の期間があった、とパイクは主張する。その期間は宗教界の人物や知識人の「浄化」(purge)によって特徴づけられている。しかしそれは解放戦線のかかげる政治的戦略の論理によって否定されるだけではなく、証拠書類によっても同様に否定される。
パイクがその著書「戦争・平和そしてベトコン」(1969年)で自ら指摘しているように、占領中に作られたフエの革命政府は、1966年のキ政権に対する闘争運動の多くの指導者たちからなっていた。そこには彼が「解放戦線が系統的に除去(eliminate)した」と主張する仏教徒や知識人指導者ももちろんふくまれていた。
革命政府を構成する人々は、仏教界のヒエラルキーや教養あるエリートに復讐を試みるプロレタリアの革命家ではなかった。それどころかフエにおけるエリートを代表するグループであり、まさにパイク好みの人々だった。
彼らはそれまで活発にチュウ=キ政権に反対し、アメリカの軍事占領に抗議してきた。解放戦線がフエで可能な限り最も幅広い統一解放戦線を形成するという政治戦略を打ち出したとき、その基礎を形成したのはまさにこれらの階層だった。
フエ革命委員会の顔ぶれ
フエで革命委員会の委員長は、レ・バン・ハオ、フエ大学の教授で著名な民族学者であった。彼は以前から闘争運動の機関誌「ベトナム、ベトナム」の編集に当たっていた。委員長代理はティク・ドン・ハウ、ベトナム中部における仏教の上級僧侶であった。
1966年のフエ闘争運動から革命委員会に復帰したその他のメンバーには、コクホク高校の前教師ホアン・フー・ゴクトンがいた。彼は委員会の事務局長に就任した。グエン・ダクスアンは1966年にフエの闘争運動からダナンに送られ、「学生特別攻撃隊」を組織するために活動した。そしてトン・タト・ドンキはフエ大学の教授である。
これら1966年の仏教抗議運動のベテランのほかに、フエの教育機関から他にも著名な人物が加わった。たとえばグエン・ディンチ夫人は由緒あるドンカーン女学校の前校長であった。彼女は1968年の末に結成された「同盟」グループで副議長を務めた。グエン・ドゥ高校の教師トン・タト・ドゥオン・ティエンはギア・ホイ地区で作戦を指示した。
そして、フエ教養のあるエリートから、他にも多くのものが革命政権に加わり責任ある立場を引き受けた。
「攻勢の計画」はまた、「解放戦線のフエにおける政治的戦略が仏教聖職者に依拠し、一般人の支持に依拠すべき」ことを確認している。特に宗教団体と関係しているセクションで、文書には次のように述べられている。「我々は仏教徒信者、僧侶、尼僧との団結を勝ちとらなければならない。そのためにあらゆる手段を講じなければならない」
カトリック反動派を孤立させる
フエのカトリックに関する共産主義者文書、目撃者証言からの証拠は、解放戦線の政策がカトリック教会には向けられなかったことを示している。
押収された「攻勢の計画」は、「フー・カム地区においてカソリック教会を利用する反動派を孤立させる」と言及している。ベトナムの共産主義者用語では、「孤立させる」というのはコミュニティー管理の分野において個人の影響を切り離すための行動をさす。
このことは押さえておかなければならない。アメリカの政治戦スペシャリストは、往々にして「孤立させる」という言葉を「処刑」と同義に用いることがある。しかし、それは必ずしも処刑を意味するというわけではない。投獄という措置さえふくまない。
文書は指示する。「敵を隠す」行為が発見された場合のみ、その聖職者は何らかの形の処罰の対象となると。そして、個別の処置は、その人が過去に革命に反対した程度によって定められることになっていた。
ギア・ホイ地区は解放戦線が26日間にわたり支配したところである。そこのカトリックの神父は、「彼の教区の住民は誰ひとり解放戦線によって傷つけられたものはいない」と、レン・アクランドに語っている。
グイ神父とウルバイン神父のケース
サイゴン政権によって特定されたカトリック系の犠牲者がただ二人だけいる。解放戦線に殺害されたとされる二人は、フランスのベネディクト教団派に属するグイ神父とウルバイン神父である。それはティエン・アン修道院からの情報にもとづいて報告されている。
しかしその報告では、解放戦線部隊は数日間にわたり修道院を占拠したが、その間グイ神父とウルバイン神父は健在であった。そして占拠のあいだ彼らをふくめどの聖職者も傷つけられていない。
AFPの報道によれば、二人は2月25日、アメリカの激しい爆撃から逃れるため修道院を離れた。その2日後に解放戦線はフエを撤退している。彼らの遺体が発見された場所について、ベネマ医師は村人の報せを語る。「そのとき米軍が激しい爆撃を行っていた。二人の聖職者はそれで殺されたのだ」と。
さらに、公式のサイゴン政府報告は、別の大きな矛盾によって再び損なわれる。
政治戦大隊パンフレットはこう主張している。
「ウルバイン神父もグイ神父も、逮捕され、チュニックを脱ぐことを強制された。それからドン・カーン墓地に連れて行かれた。そこで彼らは殺され、埋められた」
しかし同じパンフレットで、ウルバイン神父の遺体を発見した別の聖職者の証言が引用されている。なんと彼は、チュニックにつけられた洗濯番号で遺体を確認したと言っているのだ!
「社会浄化」はマフィアからの連想?
ダグラス・パイクの解放戦線の計画に対する把握は、大量の処刑を通してベトナムの社会を浄化するというものである。これはきわめて奇怪で、解放戦線の政策とまったく照合しない。それは我々には、彼が記載されていると主張する動機よりも、パイク自身の動機を伝えるものである。
同じように、彼は示唆する。解放戦線はフエで地下活動を続けてきた戦士の身元を知る人間は誰でも除去しようとしたと。これはパイクがマフィアの作戦に関して持っている概念を下敷きにしているように見える。それは、解放戦線を含む地下組織というものがどう行動するかについての一般的理解とはほど遠いものである。
解放戦線が撤退するとき、明らかに、身元が知られた幹部は町に残ることは出来なかった。しかし解放戦線がフエの町を占領しているあいださえ身元を明らかにしなかった活動家もいた。彼らは疑いなくそのまま町に残留した。パイクは、明らかに調査する努力をしなかった。実際、共産主義者が占領したときからずっと後になって分かったことだが。
処刑の事実は間違いなくあった
1968年、フエの南ベトナム当局者はレン・アクランドに語った。解放戦線に殺された人たちはサイゴン政府と米軍の圧力に直面して彼らが撤退の準備を始めたときにやられた、と。それは当局者と反共主義政党の指導者であり、彼らは最初の段階で再教育対象者としてリストに掲げられていた人々だった。
その時、解放戦線はこれらの人々を彼らに反対するままに置くか、解放戦線がこの町を支配しているあいだに除去してしまうかの選択を迫られた。
間違いなくその事実はあった。以前、再教育のために作成されたリストの一部は、占領の後期に処刑リストとなった。しかしその数はサイゴン政府とダグラス・パイクが主張するよりはるかに少なかったように思われる。
再教育のためにマークされたほかのものは、その目的のため町から連れ出され、山に連れて行かれた。これらの囚人が組織的に殺害されたという容疑は、いかなる証拠によっても、いかなる論理によっても支持されない。
したがって、パイクの「仮説」は真剣な考慮に値しないと判断されなければならない。
それは悪意を持って作られた推論であり、利用できる文書という証拠を取り扱う上での注意の欠如を示している。さらにそれは革命的な戦略と戦術というものに無知であることの証明である。パイクはみずからエクスパートと称しているが。
しかしそれでも、パイクのパンフレットは政治戦の成功と考えられなければならない。フエでのイベントの彼による解釈は、依然としてジャーナリストや公的な人物のあいだで主流の考えとしていまも生き残っているからである。
結論 CONCLUSION
歴史家が解放戦線のフエ占領問題を扱う際、問題となるのは処刑がそこで行われたか否かではない。それが無分別な見境のない行いであったのか、それとも社会の全階層の「浄化」を行うために前もって準備された計画の結果だったのかということである。
サイゴンと米国政府の政治戦スペシャリストは後者だったと主張している。
同様に重要なのは、戦闘のあいだに数千人のフエ市民の死をもたらしたのが、解放戦線によるものか、米軍の爆撃・砲撃によるものなのかという問題である。
利用できる証拠…それは解放戦線からのソースではなく、アメリカやサイゴンの公式文書、そして独立したオブザーバーのものに限られるのだが…は示している。解放戦線に同調しないと考えられた人が無差別に虐殺されたというオフィシャル・ストーリーがまったくの作り話であることを。
フエの町の内外で発見された遺体の数が疑問の対象であるだけではなく、より重要なことには、その死因が戦闘そのものから解放戦線の処刑へとシフトしているように見えることが疑問を呼び起こす。
そして、どちらの政府によってまとまられた「処刑疑惑」に関しても、そのもっとも詳細で「権威のある」集計も、検証の上で立ち上げられたものではない。
サイゴンと米国の宣伝屋による歪曲と誤報のテクニックを理解すること、それがフエを襲った悲劇とはかけ離れた政治戦争の作戦であることを理解すること、このことは米軍がなおベトナムで戦争を続けている今日、ますます重要になっている。
それはベトナム革命とアメリカの力による抑圧政策に関して、真実と向き合ううえで、問題の核心となっている。
フエにおけるテト攻勢を巡っては、偽りのスクリーンが、それを取り囲むかのように立ちはだかっている。それは米政府にとって、そして闘争の真の性格を真摯に追求しようとしない米国民衆のかなりの部分にとって、もう一つの防衛メカニズムに他ならない。
D. GARETH PORTER: コーネル大学東アジア国際関係プロジェクト研究員、 インドシナ資源センターのスタッフ・メンバー