ベトナム戦争の歴史

 

 第一部  インドシナ戦争

Ⅰ インドシナ共産党の創立

A ホーチミンの活動とベトナム共産党の創設

ホーチミン(胡志明)は1890年に北ベトナム南部のゲアン省に生まれました。本名はグエン・シン・クンとされていますが、一説ではグエン・タッ・タイン(阮必成)とも言われています。

フエの学校を卒業した後、青雲の志やみがたく、単身サイゴンから外国船に乗り、コックとして糊口を凌ぎました。フランスに渡った後、左翼活動を開始し、フランス共産党創設にも参加参加しています。当時はグエン・アイコク(阮愛国)と名乗っていました。ホーチミン(胡志明)というのは、38年に二度目の中国入りしたときの「名前」です。

ロシア革命の成功後、モスクワに移り、当時結成されたコミンテルンの勤務員としてアジア関連の仕事を始めました。1925年頃からはコミンテルンの命を受け広東に移り、中国共産党と行動を共にするようになります。またシャム(現在のタイ)とのあいだを往復しながら現地潜入を狙う一方、仏領インドシナ諸国の共産主義運動の組織に従事していました。

19世紀の末、ベトナムなどインドシナ三国はフランスの植民地となり、共産党の作られる前から独立の志士たちがさまざまな闘いを続けていました。しかし、独立は労働者の団結と農民との広範な同盟なしには勝ち取れない、ということが急速に理解されるようになり、多くの独立運動家、知識人が共産主義運動に結集するようになりました。

ホーチミンがどれほど関与したかは不明ですが、共産主義の影響を受けた「青年革命会」というグループがベトナム各地に作られていきました。主なものにハノイのトンキン・グループ、王都フエのアンナン・グループがあります。例えば元北ベトナム首相のファン・バンドンは、25年に広州に逃亡した折にホーチミンと出会い、青年革命同志会に加入しています。

トンキンは東京と書きます。三國志の時代揚子江流域は越の国が支配していました。これが覇権争いに敗れて、その一族がベトナムに逃れ、紅河一帯に王国を再建したのがベトナムの始まりといわれます。彼らは自らを南越と称し、紅河デルタの中心に都を立て、ここをトンキン(東京)と呼びました。今のハノイ(河内)にあたります。しかし中国は蛮族が「南越」を称するのは許せないと考え、これを逆にして越南と呼ぶようもとめました。これがベトナム(越南)の由来です。

29年5月にこれらのグループが香港に集まり、第1回全国代表大会を開催しました。しかしその会議は最初から分裂してしまいます。トンキン・グループは、共産党の即時結成を主張し退席しました。そしてコミンテルンの方針に忠実に行動することを唱え、単独で「インドシナ共産党」を設立します。

トンキン・グループの動きは東方局の指示を受けてのものだったようです。10月には東方局幹部会が「インドシナ共産党結成に関して」と題する書簡を作成し、階級対決の見地から革命会の大会決議を公然と批判しました。またベトナムだけに止まらず、フランスの支配を受けているカンボジア・ラオスも含めてインドシナ全体の単一党を作るよう求めました。

このために青年革命会を解散させ、これにベトナム中部を基盤とする民族主義左派の新越革命党を中軸に、統一組織としての「インドシナ共産党」を結成する方向を打ち出しました。

そうなると収まらないのは青年革命会の主流派です。彼らは「インドシナ共産党」とは別にアンナム共産党を名乗りました。ほかにインドシナ共産主義連盟も旗揚げします。

分裂騒ぎの渦中に広東に戻ったホーチミンは、インドシナ共産党、アンナム共産党の代表と会談。ベトナム革命の路線や任務を提起し、旧青年革命会両派の統一に動きました。そして30年の2月に香港の九龍で統一会議を開催。「暫定綱領」を採択するところまでこぎつけました。このときの党名は「ベトナム共産党」とされます。

 

Tran Phu

 

コミンテルン東方局は、「インドシナ共産党」を目指す路線と異なる方針が出されたことを認めようとしませんでした。4月には東方局から派遣されたチャン・フー(陳富)がベトナムに入ります。ホーチミンは香港当局により逮捕された後モスクワに戻り、1940年までベトナムでの活動には参加していません。

コミンテルンの圧力を受けた「ベトナム共産党」は、半年後の10月、香港で第二回中央委員会を開催。「暫定綱領」について、「若干の補足・修正の必要」とし、党名を「インドシナ共産党」と改称し、管轄範囲をインドシナ全域に拡大しました。そしてチャン・フウを書記長に選出します。

チャンフーは追及の手を緩めませんでした。12月にはホーチミンを、「この同志はなんら明確な計画を持たず、コミンテルンの計画にそぐわない多くの誤りを犯した」と批判する文書を配布します。

さらに翌年4月にはコミンテルンに書簡を送り、ホーチミンの路線を「中国における合作時代の右派政策の流れを組むものであり、根本的な問題で共産主義的路線と矛盾する」と批判。「ベトナム共産党」時代に採択された諸文献は一切無効であると宣言します。

「そこまでやるか?」とも思いますが、逆に言うと、それだけ党におけるホーチミンの影響が強かったということでしょう。

このチャンフー路線はまもなく重大な結果をもたらすことになります。党の主流を握ったトンキン・グループの極左的戦術は、フランス当局の大規模な弾圧を招きました。共産党は中央委員全員が逮捕され、組織は壊滅状態に陥りました。チャン・フー書記長自身も逮捕・虐殺されてしまいます。

宗主国フランスの共産党は、インドシナ共産党の極左偏向を厳しく批判しました。コミンテルンは「4月書簡」を批判。「統一会議問題は過去のものである」とし、ホーチミンへの個人攻撃を中止するようもとめます。

後にコミンテルンはホーチミンを党の創設者の一人として認めるようになります。モスクワ版「世界の共産党」には次のように記載されています。

「インドシナ共産党は、いくつかの共産主義団体が合同して、香港大会で組織された。香港大会を指導したのは胡志明と彼の戦友レ・ホンフォンであった。共産党はインドシナ諸民族の広範な解放運動の先頭に立っていた」

私見ですが、1929年頃はコミンテルンの中でスターリン主義の影響が強く現れた時期です。独立運動の延長線上に社会主義を描いていた多くの民族主義者は、右翼分子として厳しい批判にさらされます。闘争の形態も、暴力的挑発活動こそが革命的だと受け取られかねない弱点を持っていました。もう一つは、アジアにおける革命運動の現場指導がコミンテルン本部からシベリアの東方局に移ったことから、集中点が一時的にぶれたことです。ホーチミンはモスクワから直接派遣されており、その後立ち上げられた東方局との交流はありませんでした。東方局にとっては目障りな存在だったろうと思います。

(この項は栗原氏の労作に拠るところが大きい)

B ゲティン・ソヴェト

北ベトナムはトンキンデルタの南から南北に細長い海岸地帯となります。その一番北に位置するのがゲアン省で、その省都がビンです。昔から貧しいけれども教育熱心で、ホーチミンほか多くの人士を輩出していることで知られています。南のハティン省と統合してゲティン省と呼ばれた時期もあるようです。

 

ゲティン地区(ゲアン省+ハティン省)

 

ゲアンは左翼運動の揺籃ともなりました。30年5月、共産党の指導の下、インドシナ史上初のメーデーが行われたのです。鉄道整備工場、マッチ工場の労働者が中心となり、農民も多数参加しました。

最初のメーデーは血塗られたものとなりました。植民地当局は軍隊を動員してデモを鎮圧。デモ参加者7名が射殺されます。これに抗議する行動が全国で巻き起こりました。鉱山や鉄道労働者がストライキに入りました。

この戦いの特徴は、最初から農民運動と結びついていたことです。農民たちは抗税デモを行い役所に押しかけて減税を強訴しました。労働者は農村に入り蜂起の組織と準備を始めます。

4ヶ月の準備を経て、9月初め、農民が一斉に立ち上がりました。まずは2万人が結集し、ビンの役所に米よこせのデモ行進をかけます。フランス植民地当局の対応はメーデーのときと同様、強硬でした。最初は航空機を出動させ、デモ隊に機銃掃射や爆撃をあびせました。さらに陸軍と警察隊をさしむけて非武装の群衆を包囲、攻撃する。これにより217人が死亡、126人が負傷するという大惨事になります。

農民は武装蜂起を決意。ゲアン省とハティン省にまたがる各地で役所を襲い占拠します。彼らは権力機関を解体して「ゲティン・ソヴィエト政権」を樹立、地主の土地・財産を没収し貧農に分配しました。また労働自衛隊を組織し植民地政府と闘います。

植民地政府はゲティンに大部隊を投じてソヴィエト政権の制圧作戦を展開。いっぽうで朝廷や土着官吏、長老、カソリック教徒などを利用して大規模な反共キャンペインを繰り広げました。

これに対する共産党の対応には極左的な誤りがふくまれていました。これらの人々と統一戦線を組むよりも、敵視する傾向がありました。ソヴィエト指導部に対し、階級的粛正や武装自衛組織の強化を指示、また富農を赤色農民組合に加入させないことを原則とするようもとめました。すでに参加している富農を「説得によって自発的に脱会させるよう促す」こともあったようです。

ただし、党機関が「すべての知識分子・地主・長老を根絶せよ」と呼びかけたとの記述は、さすがに眉唾でしょう。

もう一つの極左主義が全国一斉武装蜂起の路線でした。コミンテルンも、「ゲティン・ソヴェト」については評価し、労農同盟の強化を指示しましたが、武装蜂起の準備に対しては否定的見解を示します。

ゲティンの戦いは30年の暮れにはほぼ消滅します。約3千人が逮捕され、うち83人が死刑、546人が無期懲役に処せられました。その後も31年4月までに1千500人が逮捕されています。

しかしこの戦いを通じて共産党は大いに影響力を広げ、民族主義政党に代わりベトナム人民の導きの星となりました。炭鉱などの企業内に「赤色労働組合」を拡大しました。サイゴンを中心とする南部でもストライキなどが高揚します。こうしてインドシナ共産党は成立後わずか1年のあいだに党員1500人、同調者10万を越える組織に成長していきます。

 

Ⅱ 「サイゴン共産党」の時代

A サイゴン時代の流れ

ハノイの党組織の崩壊にともない、サイゴンが党の中心となる時期が約10年間続きます。最初はチャン・バン・ジャウによる緩やかな党活動再建の時期、続いて合法活動が許された数年間の躍進期、そして植民地政府の反動化による激闘の時代と大きく三つに分けることが出来ます。

そして42年のベトミン創立と反ファシズム・民族独立を至上課題とする路線への転換がなされていきます。この転換を支えたのは、ふたたび登場したホーチミンでした。

サイゴンはベトナムにとっては、ある意味で異国のような雰囲気があります。サイゴンから南に広がるメコンデルタの大平原は、かつては未開の地でした。そこには先住民族としてクメール人(カンボジア人と同じ種族)が粗放な農業を営んでいました。ベトナム人が北から進出しこの地を獲得した後、今度はフランス人がやってきました。フランス人は一帯をコーチシナと名づけ、大々的に資本を投下しプランテーション農業を営むようになりました。

サイゴンには土着の文化が育つ前に、フランス式の文明が開花するようになりました。同時にそこには多くの産業が生まれ、大量の労働者が発生しました。また豊かな産物の交易を目指し華僑も進出してきます。サイゴンの隣町チョロン(フランス風に読めばショロン)は人口のほとんどが中国人という特異な町でした。

四つの人種と、地主・企業家、労働者、米作の自・小作農、プランテーション労働者、中国人商人など多彩な組み合わせの中から、サイゴンならではの運動形態が生み出されてきます。

B チャン・バン・ジャウによる共産党再建

32年6月、共産党からモスクワの勤労者大学(クートベ)に派遣されていたチャン・ヴァン・ジャウが、サイゴンで共産党の再建に着手しました。彼はボチボチと出獄してきた活動家とともにサイゴン地方委員会を結成。機関誌「赤旗」や理論誌「共産主義評論」を発行し活発な運動を展開します。

党の周りには、反帝国主義同盟コーチシナ支部や各種互助会(例えば冠婚葬祭、収獲、家屋改築などの互助会)、スポーツ団体、読書会など多彩な組織が造られていきました。

何せサイゴンといえばフランス植民地支配者のお膝元ですから、合法活動を手厚く組織し、非合法活動を地下深く潜り込ませなければなりません。同時に身近な要求を実現し日常活動を重視し、政治的自由を勝ち取る活動を何よりも優先させなければなりません。1年前の大弾圧で組織が根こそぎにされた経験は、なんとしても守らなければならない教訓です。

フランス側も、弾圧一辺倒ではいずれ財政的に持たなくなるとの判断から、一定の融和策を打ち出してきます。フランスの植民地となる前、ベトナムはアンナン(安南)王国でした。その皇太子だったバオ・ダイがパリ留学から帰国してアンナン皇帝に即位します。青年パオダイは、若手官僚のゴ・ジン・ジェムを行政のトップにすえ、人民の福祉の向上や立憲君主制度の樹立、官僚・司法制度の改革を志します。

この頃から、党外の動きも活発になってきました。とりわけ目立ったのがトロツキストの動きでした。当時トロツキーは、社会民主主義者と共産主義者(トロツキストも含めて)に、反ナチス統一戦線を結成すべきだと訴えていました。少なくともこの点では、トロツキーはスターリンよりはるかに先を行っていました。

タ・チュウ・チャウらの「闘争派」はこれに呼応して、共産党との統一戦線を主張するようになります。

この頃、トロツキストとの統一を阻んでいた主要な原因はスターリンの側にありました。一時は、トロツキストは言うにおよばず、社会党などの「社民」さえも打撃を与える対象としていたくらいです。ところが、幸か不幸か、トンキン・グループを筆頭として主だった党員はことごとく獄中にあり、チャン・ヴァン・ジャウの打ち出した共闘方針が認められてしまったのです。

こうして33年4月、サイゴン市議会選挙を前に、共産党とトロツキスト「闘争派」、無党派活動家との間に選挙協定が結ばれました。選挙綱領として、民主的自由や労働者のための福祉政策がかかげられました。「労働者リスト」の中の八名が両党の推薦候補でした。

この統一はサイゴン市民の圧倒的な支持を受けました。選挙では、「労働者リスト」の一位グエン・ヴァン・タオ(ジャーナリスト・共産党系)と二位チャン・ヴァン・チャ(大学教授・トロツキスト)が当選してしまいます。もちろん当局はただちに当選を無効と宣言しました。

後にこの方針はこっぴどくやっつけられます。「ヴェトナム労働党闘争三十年史」は、「或る同志達は原則を欠ぎ、トロツキストと提携した。彼らはトロッキスーのサボタージュや反革命的性格を見失い、真理と誤謬の区別をつけることができなくなった」と批判しています。トロツキストもトロツキー本人がメキシコで惨殺され、バルセロナで活動家が大量虐殺されてからは、共産党を不倶戴天の敵とするようになります。

ベトナム人のわずかの自由さえ、危険なものとみなしたフランス当局は、ふたたび高圧的な態度に戻ります。バオダイ改革はフランスの干渉により挫折。ゴ・ディン・ディエムは抗議の辞任をおこないます。

C レ・ホン・フォンと党の躍進

35年に入ると、共産党も31年6月の大弾圧の影響を脱し、本格的な党組織を構築するようになります。3月にはマカオでインドシナ共産党の第1回党大会が開催されました。コーチシナ、アンナンの代表に加え、再建されたトンキン地区の代表、ラオスの代表も参加しえいます。

数え方が良く分かりませんが、「ベトナム共産党」はすでに30年2月に香港大会で創立されており、30年末の第1回中央委員会は「インドシナ共産党」の結成を決定していますから、すでに結党以来4年を経過していることになります。実質的には第3回目の全国会議です。しかし、初めて三地区の代表が一堂に会したという点では第一回の名にふさわしい大会でした。

 

Le Hong Phong

 

大会はコミンテルンから派遣されたレ・ホン・フォンによって指導され、レ・ホン・フォンはそのまま党書記長として留まることになりました。彼はコミンテルン執行委員の肩書きを持つ大物でした。30年の「ベトナム共産党」結成時にはホーチミンとともにまとめ役を担っており、ホーチミンとの関係は浅からぬものがありました。大会はホーチミンをコミンテルンにおけるインドシナ共産党代表と指名します。

その後の1年のあいだにインドシナ情勢は激変しました。35年8月にはコミンテルン第7回大会が開かれました。大会はファシズムとの戦争の危機に抗して、人民戦線の結成を呼びかける決議を採択しました。

この路線に従い各国であらたな政治体制が模索され、とりわけフランスで人民戦線が大きく発展していきました。こうして36年の5月にはレオン・ブルム首相が率いる人民戦線政府が成立することになります。

共産党も加わるフランス人民戦線政府は、インドシナ共産党を合法化しました。チュオン・チンを初め、31年以来獄につながれていた幹部1300人がゾクゾクと復活してきました。

共産党は7月に中央委員会を開催。これまでのフランス帝国主義打倒のスローガンを引き下げ、人民戦線運動を推進することを決めました。また国内支配層に対しても、土地改革の実現を踏み絵としてきたこれまでの路線を変え、愛国人士への誠意ある態度をとることになりました。

8月、共産党は人民戦線政府への支持を明らかにするとともに、フランスからの調査委員会に対し民主的要求を請願するための「インドシナ大会」の開催を決定します。

「インドシナ大会」の行動提起は瞬く間にベトナム全土を席巻しました。サイゴンについでフエでも請願活動委員会が組織されます。ここの委員会は素晴らしい勢いで仕事をしました。委員会のメンバーは1千名に達しました。26名からなる暫定指導部が選出され、10の課題別小委員会を設置しました。ほとんど「革命委員会」です。

労働者も相次ぐストライキで運動を支えました。サイゴン兵器廠(1100人)がストライキ。これを皮切りにコーチシナ鉄道(1400人)、トンキン炭鉱(約二万人)が相次いでストに入ります。

翌38年に入ると共産党はさらに政権獲得に向け踏み出します。3月に結成された「インドシナ民主統一戦線」には、共産党参加の諸団体だけではなく、北部インドシナ社会主義者連盟、コーチシナ社会主義者連盟などフランス社会党系の組織も加わります。さらに民主党(37年成立。指導者はサイゴンの著名なヴェトナム人医師グエン・ヴァン・チン)など改良主義民族政党も加わるようになります。

「民主統一戦線」はベトナムにおける政治的力関係をひっくり返す力を持っていました。この年のメーデーで、ハノイの統一戦線は5万人を結集します。当時のハノイの人口を考えれば、これはほとんど根こそぎといっていい数です。

アンナンでは権力獲得に向けさらに現実的な前進が勝ち取られました。フエの地方議会である「人民代表会議」では、民主統一戦線が議会の安定多数を占めるに至ります。フランスが提出した人頭税法案は、民主統一戦線派の反対で廃案に追い込まれました。トンキンでも民主統一戦線が「人民代表会議」のうち15議席を獲得しています。

 

D 反ファシズム民族統一戦線路線への転換

しかしフランスの人民戦線内閣の登場にともなう運動の高揚はほんの一時のものでした。39年9月にドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発すると、本国政府は態度を豹変させます。

ダラディエ政権はインドシナにも総動員令を公布するいっぽう、共産党や植民地の革命勢力を戦争遂行上の障害とみなし弾圧政治を再開しました。インドシナ民主統一戦線による民主改革運動も非合法となり、共産党員やトロツキストの逮捕・投獄が始まりました。

40年6月、パリが陥落すると情勢はより複雑なものとなりました。植民地当局はビシー政権への忠誠を誓い、枢軸国の一翼を担うようになります。もちろんフランス人の中には、ファシズムを嫌い連合国の立場に立って活動する人も出てきます。

さらに問題を複雑にしたのは、日本が枢軸国の一員として、仏領インドシナの後見役に当たるようになったことです。日本は東南アジア進出の跳躍台としてベトナムを最重点目標に位置づけます。

「主要な敵は誰なのか? 誰と戦い、誰と連合すべきなのか?」 これが共産党を先頭とする民主・独立勢力に課せられた最大の課題となりました。人民戦線政府もふくむ旧来のフランス植民地主義全般なのか、ビシー政権の驥尾にふす現在の植民地政府なのか、その背後に控えるナチスなのか、それとも日本帝国主義なのか?

誰と連合すべきかは、理論的にはさらに難問でしたが、実践的にはきわめて簡単でした。共産党と連合しようなどという勢力はどこにもいません。自力で戦いを起こし戦線を広げる中で開拓していくしかありません。こちらの力が一定程度強力になれば、それを利用しようとする勢力も出現するでしょう。そのときにはギブ・アンド・テイクの関係を結びながら、相手を見極めていくしかありません。
肝心なことは、自らを反ファシズム統一戦線の一翼と位置づけて、戦闘の大義を見失わずに戦い続けることです。

39年11月、地下にもぐった共産党はジアディン省ホクモン(現在はホーチミン市の北西部)で中央委員会第六回会議を開きました。この会議は画期的な内容をふくんでいました。これまでの民主統一戦線に代え「インドシナ反帝民族統一戦線」を提起。諸階層、諸民族を網羅することを目指す「活動綱領」を決定します。

「活動綱領」の内容は以下のようなものでした。戦いの目標は、「インドシナ諸民族を日本の侵入の脅威、フランス帝国主義者および現地の封建領主との闘争へと結集する」こととされました。

「反帝・反封建」という従来の基本課題はそのまま残されています。しかし具体的には、ファシズムとの闘いを前面にすえ、フランス帝国主義打倒と土地改革の方針を事実上取り下げるものでした。

たとえば農地改革に関してはこう述べられています。 「すべての革命の問題は、土地問題でさえ、この目的に従う。当面、ブルジョア民主革命は、民族的利益を裏切った地主の土地没収だけにとどめる」

そして、「労働者・農民・兵士によるソヴィエト権力の樹立」という課題は当面迂回され、「インドシナ民主共和国連合」の樹立のために闘うことが宣言されました。

この決定は合法活動時代の経験を総括し、従来型の階級闘争の考えを大きく乗り越えた重要な前進でした。しかし国際情勢はそれをはるかに乗り越えるスピードで変化していったのです。

時代はすでに第二次世界大戦に突入していたのであり、革命勢力はいまや第二次世界大戦という「戦争」を闘わなければならなかったのです。これが戦略の基本であり、蜂起やゼネストは一時的、限定的なものに局限されていたのです。

40年6月のパリ陥落をフランス支配体制の弱体化と見た共産党は、「共和政府の樹立をめざす武装蜂起の準備を進め、その政府を中国抗日戦線やソ同盟、世界革命に結集する」ことを決定、サイゴンとメコンデルタで大規模な反乱を起こしました。しかしそれは2日後にはフランス軍により鎮圧されてしまいます。残党はメコンデルタに散らばって行きました。

 

E 南部蜂起とサイゴン共産党時代の終焉

6月末、日本軍がハノイに進駐を開始しました。日本軍はトンキン湾から四川盆地の重慶政府へとつながる「援蒋ルート」の切断を目指すとともに、仏領インドシナの後見役としてにらみを利かせることになります。

7月、ビシー政権が成立し、その執行役としてドクー提督がインドシナ総督に着任しました。共産党は人民大衆への活発な宣伝活動を進め、フランス帝国主義と日本ファシズムに反対してたちあがるよう呼びかけました。ビンロン、チャビン、パクリュウ、ラクジアなどメコンデルタの各省で大衆デモが展開されます。

この間に共産党は本拠地を北部に移していました。いつ移ったのか、なぜ移ったのかは今のところ定かではありません。私の推論ですが、①地下活動を継続するには、植民地のお膝元で人種・階級構成も複雑なサイゴンより北部のほうがはるかに有利だった。②もともと共産党の発祥の地であり、活動家の層も分厚く形成されていた。③中国国境とつながる回廊は、世界大戦の帰趨に重要な意義を持っており、日本・中国・米国の利害が集約されていた。 などの理由が挙げられると思います。

共産党コーチシナ地方委員会は、各地の党組織に対し反日武装蜂起を指示しました。そして党中央に一斉蜂起の承認を求めます。10月にはハノイ近郊のチュウソンで共産党第七回中央委員会会議がひらかれました。南部委員会から派遣されたファン・ダン・ルウはメコンデルタでの蜂起を強硬に主張します。しかし結局それは「時期尚早」として退けられました。

 

ナムキコイギア

 

「時期尚早」というのは相当ソフトな言い方です。現下の情勢は明らかに、ゲリラ型軍事行動を主体とすべき時期に入っています。いまや巨大かつ凶暴な敵が押し寄せてきています。一斉武装蜂起はピンボケ以外の何ものでもありません。

しかし現場では中央委員会の承認を待つことなく、蜂起の準備が進みました。ジアディン、サイゴン、ミト、カント、パクリュウ、ラクジアなどが立ち上がることになりました。また共産党とは反対の立場から、カオダイ教徒と親日派も武装蜂起をはかります。

カオダイ教とは仏教と民間信仰が習合した新興宗教で、教祖のファン・コンタクは反仏的なベトナム人地主層と結託し、独自の武装勢力を組織し、日本の支援を背景にフランス人追い出しを画策しました。

40年11月23日の払暁、ミト省を中心にコーチシナ8省で一斉蜂起がおきました。これが「南部蜂起」(ナムキコイギア)です。Nam Ky Khoi Nghiaは今ではサイゴン市内の地名として有名です。時を同じくしてゲティンのドルオンでも農民の武装蜂起が発生しています。

反乱の主力は植民地軍のヴェトナム兵士と貧農など約3千人でした。ミトとカオランでは、赤地に五稜の金星の民主戦線旗が翻ります。北部の共産党も、いったん蜂起が起こるやいなや、これを熱烈に支援しました。この旗(金星紅旗)は45年の独立に際し国旗となりました。

ドクー総督は飛行機や大砲まで動員して弾圧にあたりました。植民地軍は住民を村落に押し込めたうえ、空から爆撃するなど、大量虐殺を行ったといいます。蜂起は10日あまりで敗北しました。約6千人が逮捕され、コーチシナの共産党組織は壊滅します。レ・ホンフォン書記長も植民者当局に銃殺されました。

カオダイ教への弾圧はさらに激しく、2万人が捕らえられ、6千人以上が殺害されたと言われます。

残された共産党系の活動家は、メコンデルタ先端のウミンの森にこもり組織を再建することになります。ウミンはアメリカとの戦争のあいだも基地を守り通し、解放戦線の聖地とうたわれるようになります。

 

Ⅲ ベトミンによる独立達成

A ホーチミンの帰還とベトミンの創設

30年のゲティン・ソヴィエト、40年のナムキゴイキアはいずれもロシア革命を規範とするものでした。労・農・兵の結束した蜂起によって、独裁権力を打ち倒そうというものです。しかしその頃中国で強盛となった革命方式は、これらとはまったく異なるものでした。インドシナ共産党は中国の革命路線から大きな影響を受けるようになります。

41年1月、共産党は南部蜂起の失敗を総括します。党はまず、蜂起の条件を厳密に検討しました。そして主体的力量の成熟がまず必要であり、その上で客観的情勢の成熟を待たなければならないことを明らかにします。

とくに直接的武力を敵軍内の愛国的兵士にだけ頼るような戦術はきわめて危険であり、まずもって労農大衆と人民に依拠すべきであり、その中から蜂起を武力的に担えるような部隊を構築していくべきだとします。

そして、主体的力量を強化するためには、まず農村を固め、それから都市へ進出するという道筋を通らなければならない、とします。この後共産党は蜂起路線を保留し、農村・都市での大衆地下組織作りに重点を置くようになります。

このような方針転換が行われたのは、ホーチミンの指導によるものでした。ホーチミンは37年、ソ連から延安に入り中国共産党と行動を共にするようになります(38年説もある)。このときのペンネームはリンだったようです。38年の秋、ホーチミンは華南へ派遣された軍事顧問団とともに中国南部に入りました。

国境近くの桂林まで達したホーチミンは、八路軍弁事所に拠点を構え、インドシナ共産党との連絡をはかります。40年2月、ついに昆明で共産党との連絡に成功。かつての愛弟子ファンバンドン、ボーグェンザップが昆明を訪れホーチミンと会合。インドシナ共産党海外部に加わりました。

ホーチミンの提起した路線は、それまでのインドシナ共産党中央の見解とはかなり異なるものでしたが、南部蜂起の敗北のあと、党全体の方針となっていきます。これが41年1月の「総括」となって反映されました。

いよいよ直接指導の機会がやってきました。ホーチミンはひそかに国境を越え、国境の山岳地帯の洞窟に基地を設営します。

場所はカオバン省(高平省)の山中パクボ村。漢字では「北部」と書きますが、一般名詞ではなく固有名詞です。カオバン省をふくみ国境へとつながる北部山岳地帯は、ベトバク(越北)地方と呼ばれます。日時については諸説あります。基地が作られたのは2月8日となっていますが、1月28日という記載もあります。

ホーチミンを迎えたインドシナ共産党は、パクボで第八回拡大中央委員会を開きました。ホーチミンが自ら議長を務めました。会議は中国共産党の政策を学習し、この方向で闘争方針を再編制しました。そして闘争遂行のための統一戦線組織として「越南独立同盟」の創設を決定しました。この組織は一般には「越盟」(ベトミン)と呼ばれました。

ベトミンの創立宣言では次のように述べられています。

インドシナは仏・日ファシストによる二重抑圧のもとにおかれた。いまや党派的、階級的利益は民族問題に従属されねばならない。さまざまな勢力を仏・日帝国主義反対の闘争に結集するため、「ヴェトナム独立同盟」を組織し、民族解放のスローガンを高くかかげ、武装蜂起の準備を進めよう。

そしてスローガンとして、①仏・日ファシスト打倒と独立の達成。②反ファシズム勢力との同盟。③ベトナム民主共和国の樹立、を掲げました。広範な勢力との共同のため、土地改革は部分的のものに止めることとなりました。

ホーチミンは、「第二次世界大戦の終り間近になれば、フランスと日本による熾烈な覇権争いが始まり、ベトナムに政治的真空状態が一時的に訪れる」と予見し、この真空状態に乗じて、超党派を結集し、政権を取奪するとの見通しを明らかにします。

コミンテルン資料では、ベトミン結成大会が開かれたのも中国領内広西省聊州とされ、日時は3月となっています。たしかに全国の指導者を集めるためには中国国内のほうが容易でしょう。バクボは共産党にとっていは聖地ですが、他の勢力にとってはただの山奥の辺地でしかありません。

B 200万人の餓死

日本は40年5月にドイツがフランスに侵攻すると、同盟関係に従ってフランスと敵対関係に入りました。この頃日本軍はすでに広東を占領し、海南島から南沙諸島(日本軍は新南群島と呼ぶ)までの海岸線を確保していました。そして重慶に対する無差別爆撃を開始しています。

トンキン湾からベトナムを経由して重慶へと至るルートは蒋介石軍にとって生命線となっていました。植民地政庁がビシー政権側に交代すると、日本はただちに「援蒋ルート」の閉鎖を求めました。カトルー総督はこれに応じ、ベトナムと中国を結ぶ鉄道や道路を封鎖します。

国境を監視するため日本軍の監視団が送り込まれました。ハノイに6千人が進駐し、ハイフォンに輸送基地、ジアラムとラオカイ、プーランチュオンの三飛行場を使用することとなります。こうして中国国境地帯は実質的に日本軍の支配するところとなります。

41年7月、太平洋戦争の開始を目前にして、日本軍はビシー政権と共同防衛協定を締結し、ベトナム全土を支配下に置くことになります。すでにシャム王国(39年にタイと改称)が事実上の属国となっており、インドシナ三国にタイを加えた広大な土地が日本軍の支配の下に入りました。

サイゴンに置かれた南方総軍司令部がこの地域を統括します。実働部隊としては、ハノイの第38軍がインドシナをカバーしました。その下にハノイ、サイゴン、フエに師団規模の駐屯部隊が配置されました。

日本軍は、サイゴンを東南アジア各地での戦闘作戦の後方基地と位置づけ、ベトナムに対しては「静謐方針」で臨み、フランスは従来どおりベトナムの行政をとりおこないました。ベトナム人民はフランスと日本の二重支配下に置かれることになります。

こうして国境地帯での小競り合いを除けば、表面的には平穏な日々が続きます。しかしそれはベトナム人民にとっては決して容易な暮らしではありませんでした。フランス植民地主義者に加え、さらに駐留する日本の大軍の糧秣をまかなわなければなりません。

44年11月、ベトナム北部を記録的な暴風が襲いました。米作は壊滅的打撃を与えられました。その後、翌年春にかけてヴェトナム中部以北を厳冬と飢饉が襲います。ベトミンの発表では200万人が餓死したとされます。

「日本軍によるベトナムにおける200万人餓死」については、反論があります。

①200万という数字はベトナムの初代国家主席ホー・チ・ミンが独立宣言に盛り込んだものに過ぎず、その他の明確な根拠を欠いている。②ベトナムはフランスに支配された植民地であり、日本軍は間借り人に過ぎなかった。③米の集散は事実上、華僑の手中にあり、200万人分の米を奪うような徴発は不可能だった。

これに対しては古田元夫らが以下のように反論しています。古田はベトナムとの共同調査を行い、いくつかの村の戸籍に直接当たり、100万人を越える餓死・飢餓にともなう病死者がいたと推計しています。

①基本的要因は米作付けのジュートへの強制切り替え、南部からの米輸送の停滞、それ以前から進行していた農村窮乏化の三つである。②45年初頭段階ですでに米備蓄は250万人分が不足しており、“飢えを分かち合った”としても10万人単位の餓死者、その数倍の飢餓関連死が出ることは自然である。③日本政府の公式見解通り「諸物資の大量徴発」はあった。“200万人分の米を奪う”ような徴発がなくても、崖から突き落とす効果は十分ある。

私から蛇足的コメントを付け加えます。日本近世史上最大の飢饉といわれる天明の飢饉では、50万人が餓死したと推定されている。中国の大躍進運動時代には2千万人、これに戦争が絡めば200万という数は、ありえない数字ではない。1945年には日本軍はたんなる間借り人ではなくなっており、戦況悪化につれ凶暴化していた。華僑に対する日本軍の対応はきわめて過酷であり、各地で大量虐殺も行っている。華僑がこのような形での抵抗を行いえたとは思えない。

フランス植民地当局が反日感情をあおるため、人為的に米不足を作り出したという説もあります。トンキンが米不足でも、メコンデルタが凶作とは限りません。南から米を送ればよいだけのことです。

当時すでにビシー政権は崩壊しており、植民地当局は根無し草になっていました。ひそかに彼らはドゴールと連絡をつけていたとも言われます。当然、本国から日本軍の活動を妨害する程度の指示は出ていたと思われます。

C 「権力の空白」の出現

44年8月、パリが解放されると、ビシー政府の出先機関であったインドシナ政庁は権力の拠り所を失いました。ドゴール政権につこうとしても日本軍がにらみを利かせています。

その日本軍も敗色濃厚な中で、フランスの反攻を抑える手段を失っていきます。そこで日本軍は奇手を思いつきました。インドシナ諸国を全部フランスの手から独立させてしまうのです。これによって、最悪の場合でもフランス人とベトナム人を戦わせることにより、身の安泰が保障できます。うまく行けば目下の忠実な同盟国が出来上がるという寸法です。

45年3月、日本軍は明号作戦を発動しました。フランス植民地政庁を武装解除し、ベトナム全土を制圧します。ついでフエのバオダイ(保大)帝を元首にすえます。

日本軍、カンボジアやラオスにも独立を促しました。これに呼応してシアヌーク国王が「カンボジア」の独立を、ルアンプラバン国王シーサワンウォンが「ラオス」の独立をそれぞれ宣言します。実際は銃剣で脅されてのいやいやながらの「独立」だったようです。

治安維持には日本軍がみずからあたります。しかし数個師団程度でインドシナ全土を統制するのはいかにも力不足です。終戦当時、日本軍総兵力は公称で約9万、うちベトナムに8万人といわれていますが、実際には前線への配備で相当骨抜きになっていただろうと思われます。

政変を事前に察知していた共産党はただちに緊急会議を開催。ホーチミンは日本ファシストの撃退を主要スローガンとした武装蜂起の準備を指示しました。会議は「日仏の衝突とわれわれの行動」と題するアピールを発します。アピールは日仏を「二つの敵」とした情勢から、日本を「主敵」とするに至った情勢の変化を強調しました。そして日本軍に対するベトナム人民の決起を呼びかけました。

情勢は急展開しました。5月初めから各地で反乱が頻発。ベトミンと逃亡フランス兵の抵抗により、日本軍の制圧作戦は挫折してしまいます。この国に絶対的権力を持つ支配者はいなくなりました。

共産党は、6月、「日仏の衝突とわれわれの行動」と題する論説を発表。旧植民地当局ではなく、「日本ファシストに反対する任務を最優先とし、連合軍が上陸しなくても、人民とともに抗戦を続けよう」と訴えます。はっきりと戦後を見通しています。

D ベトナム民主共和国の成立

日本の無条件降伏を間近に控えた8月13日、共産党は全国大会を開きました。会議は緊急課題として総蜂起を決定しました。7月にポツダム会談が行われ、終戦後はベトナムを蒋介石政府とイギリスが分割統治することが決められたとのニュースが飛び込んできたからです。

時間の猶予は進駐軍が到着するまでの1ヶ月足らずしかありません。ここは乾坤一擲、大勝負です。ベトミンの中央本部内に蜂起委員会が組織されました。その日の夜11時、蜂起委員会は軍令1号を出し、蜂起の開始を指示します。

この時点で兵士は800人、銃は90丁に過ぎませんでした。まともに闘えば、とても勝ち目はありません。しかしすでに日本軍は戦意を喪失していました。相手はベトナム人ではありません。その背後にいる連合国です。

8月16日、ベトミンが中心となり国民大会が開催されました。北部、中部、南部の代表合わせて60人が出席し、ホーチミン主席を委員長とする民族解放委員会の設立を決定しました。このとき国旗と国歌も定められました。南部蜂起で反乱軍が掲げた金星紅旗がそのまま国旗として採用されました。

各地でベトミン支持の集会が開かれ、圧倒的な動員力を示します。ハノイでは2万人が結集、当局は一切手で出し出来ない状況に追い込まれました。戦闘自衛隊がハノイ市内の要所を押さえ、蜂起の準備に入ります。農村部では続々と人民権力が樹立されていきます。

19日、ついにハノイ蜂起が決行されました。まず大衆集会に20万人が結集しました。民衆が街頭を埋め尽くす中で、戦闘自衛隊が各政府機関を次々に接収していきます。日本軍は抵抗することなく全権力をベトミンへ委譲します。保安隊や警察もベトミン側の支持に回ります。

これで一気に弾みがつきました。23日にはフエで蜂起が勝利。革命軍事委員会が樹立されました。そしてサイゴンでも民族解放委員会が権力奪取に成功。南部暫定抵抗行政委員会が樹立され、チャン・ヴァン・ザウが議長に就任しました。

25日には、形式的にベトナムの支配者となっていたバオダイ帝が退位の意を表明しました。これを受けてハノイにベトナム民主共和国臨時革命政府が樹立されます。ベトミンの代表がバオダイから王剣と金の玉璽を受け取りました。

9月2日、ハノイのバディン広場で数十万人が参加して建国大会が開かれました。ホーチミン大統領がベトナム民主共和国の独立を宣言、「ベトナム全人民は、この自由と独立の権利を守るため、あらゆる精神的、物質的な力を動員し、生命と財産を捧げることを決意する」と結びます。

宣言にはアメリカの独立宣言から多くが引用された。最初の言葉はこうなっている。「我々は真実を保持する。それはすべての人間が平等に形づくられること、彼らは創造者によって固有の変えがたい権利を付与されていること、その権利とは、彼らの人生において自由と幸福を追求する権利であること。これらは否定できない真実である」 

E ラオス人民共和国の成立

ラオスの独立と共和制の成立についても簡単に触れておきます。明号作戦でシーサワンウォン国王が半ば強制的に「独立」を宣言させられた後、ペサラート首相を中心に独立を目指すラオ・イサラ(自由ラオス)委員会が設立されました。

ラオスの独立運動には、東北タイで活動したラーオ・セーリー、南部のラーオ・ペン・ラーオ、タケークの救国戦線などがあり、これらの独立運動を総称し「ラーオ・イサラ」(自由ラオス)と呼んでいます。

第二次大戦が終戦を迎えると、「独立」を維持するかどうかが問われることになりました。国王はいち早くフランスの保護領にとどまると宣言しますが、ベサラートはこれを認めません。

9月に入るとフランス軍が南方から進出。パクセに拠点を構えます。これに対抗すべくベトナムの支援を受けたスファヌボンがサバナケットを制圧。タケクの救国戦線と手を結び南ラオス解放委員会を立ち上げます。

10月10日、シーサワンウォン国王は、フランスとの対決を主張するペサラート首相を解任します。しかし南ラオス解放委員会の支援を受けたペサラートは、逆に国王の廃位を決定。ビエンチャンで「ラオ・イサラ人民代表会議」を開催します。会議は独立と臨時政府樹立を宣言し「人民共和国」に向けた暫定憲法を採択しました

1ヶ月にわたる力比べの末、シーサワンウォン国王は退位を承諾します。ただ文章で書くとこうなりますが、そのバックに民主勢力とか、解放勢力がいるわけではなく、実体としては王室というコップの中の争いに過ぎません。ここまで登場した人物は全員が「殿下」です。いわば「壬申の乱」の世界です。

 

 

Ⅳ フランス植民地主義との戦い

A フランス軍の再進出

ここまでの経過中、フランス人はほとんど姿を見せません。明号作戦の後、フランス軍は武器を没収され、事実上拘留状態に置かれていました。

しかしビシー政府に代わるドゴール政府も、相変わらず植民地支配の復活をもくろんでいました。世界の民主主義の勝利を確認すべきポツダム宣言も、植民地主義についての考えは旧態依然のままでした。フランスのインドシナ植民地全土に対する宗主権回復の要求はそのまま承認されてしまいました。

とはいっても、当時のフランスに旧植民地にふたたび兵を送り、支配を再確立するほどの力はありませんでした。このため、ポツダム会議は当面の措置として、ベトナムの分割占領を決定しました。北緯16度線を境界とし、北側を中国、南側を英国が担当することになったのです。そしてフランスが態勢を立て直し次第、インドシナの統治者としてとしてふたたび君臨することとなりました。

早くも8月23日には、フランス代表セディールがパラシュートで降下しサイゴン入りしました。セディールは南部革命委員会と接触し、フランスはベトナムの独立も統一も認めないと通告します。しかしそのときはまだフランス植民地軍は武装を解除され、事実上の戦争捕虜として拘留されていましたから、彼のメッセージは「宣言」以上のものではありませんでした。

9月に入ると早くもイギリス占領軍が上陸してきます。クレーシー将軍の率いる英印軍部隊は、サイゴンに入城するとただちに革命委員会から武器を押収し始めます。

ついでイギリス軍は日本軍の捕虜収容所に入れられていたフランス軍兵士1400人を解放し、彼らに治安維持活動をゆだねます。もともと彼らはファシストの第五列だったはずですが、日本軍の捕虜となったことで“みそぎ”は済んだと判断されたのでしょう。随分勝手なものです。

21日には英海軍艦艇に乗った最初のフランス軍部隊がサイゴンに上陸しました。英・仏軍のやったことは治安維持どころか謀略・破壊・騒乱活動でした。そもそもサイゴンの治安を維持してきたのは革命委員会が統制してきたからです。その体制を認めてしまえば、革命委員会の支配、ひいてはベトナム人の独立を認めてしまうことになります。

23日、「ベトナム民主共和国」を拒否するフランス兵は、イギリス占領軍の黙認の下に、サイゴン市内でベトミン活動家や市民を殺害するなどの妄動を開始しました。これに合わせて、英占領軍もグルカ兵のほか、旧日本軍まで動員して弾圧に着手しました。これに2万人のサイゴン在留フランス人も合流して市内を制圧します。

とはいえ、これは挑発に過ぎません。統治のオーソリティーは依然革命委員会の側にあります。今の時点では、こちらが武力で対抗しない限り、彼らには活動家を一斉逮捕して根絶やしにする口実はありません。何故なら革命委員会はパリのレジスタンス戦士と同様、反ファシズムの立場でともに戦った関係にあるからです。

ただ、フランス国内やイギリスなど国際的な世論に訴えるには時間が必要です。ベトミンは直接的な武力対決を避け、ゼネストで対抗しました。しかしトロツキスト、仏教徒、新興宗教教徒、一部の共産党グループは自然発生的な蜂起を起こし、市内の労働者街に立てこもります。

さらに悪いことには、秘密結社「ビンスエン」のメンバーが、子どもをふくむ150人のフランス人を虐殺してしまうのです。これは占領軍側に格好の口実を与えました。こうしてベトミンはサイゴン市内での合法活動を事実上封じられてしまうことになります。

ビンスエン: 元々はメコンデルタの旧ビンスエン(平川)省を根城とするギャング集団。ウィキペディアは「20世紀の北半球における最大の組織暴力」と記載している。ビンスエンの一派ル・バン・ビエンはサイゴンに進出し暗黒街を仕切っていた。進駐した日本軍に協力し急成長。フランス軍も後にビンスエンを容認し、手兵として利用した。

ホーチミンは南部の人民に、「我々は奴隷として生きるよりも死を選ぶ」と訴える書簡を送り、抗戦の開始を指示します。そして全国の援助を呼びかけました。

B 臨時政府の対応

トンキンとアンナンでのベトミンの統制力ははるかに強力でした。ハノイには、慮漢将軍率いる15万人の蒋介石軍が、国境から徒歩で進駐してきます。彼らは道中、いたるところで略奪を続けながらやってきました。そしてハノイでも略奪を開始します。

しかし臨時政府はこれを相手にしませんでした。無用な挑発には乗らず、組織の正統性を保持したのです。蒋介石軍の妄動が拡大しなかったのにはもう一つ理由があります。それはベトミンが援蒋ルートの確保に一貫して努力してきたからであり、ハノイに駐在するアメリカ軍事情報部OSS(CIAの前身)チームがそのことを評価していたからです。

OSSはトンキン湾から重慶に至る補給線を重視していました。そして日本軍へのかく乱作戦と墜落米機のパイロット救出のため、ベトミン・ゲリラの役割に大いに期待していました。42年に中国国内でホーチミンが捕らえられたとき、OSSが蒋介石軍と交渉して救出したとも言われています。

ベトミンもアメリカとの関係を極めて重視していました。かつてウィルソン大統領が「民族自決」の原則を打ち出した歴史を持つアメリカは、フランスの植民地主義者に対抗してくれるのではないか、という思いからです。独立宣言にアメリカ独立宣言からの文言が多く取り入れられたのも、OSSからの示唆があったとされています。

共産党は貴重な息継ぎの時間を利用して、何とか政権の生き延びる道を探そうと努力しました。そして全国選挙の実施とその勝利に全精力を傾けました。おりからフランスで共産党も加わる連立政権が成立し、政府の合法的存在に向けて可能性が開けました。

11月、インドシナ共産党中央委員会は、「インドシナ独立のための戦いをより広範な基盤の上で展開するため、党を解散する」と宣言します。そして全ベトナム人党員がベトミンに合流していきます。

ホーチミンは共産党の名前で闘ったのでは多数票が得られないと判断し、共産党を自発的に解党し選挙に臨んだ。党は「インドシナ・マルクス主義研究会」という名称で定期的に会合を開催したが、この事実は党史には記載されていないという。

明けて46年1月、初の国会選挙が実施されました。南北全土での投票率が90%以上、国家主席ホーチミンへの投票率は98%にのぼりました。同時に行われた国民投票で、共和国憲法が承認されます。

勝利したベトミンは、政治的配慮からベトナム革命同盟会やベトナム国民党と協力して連立政権を樹立しました。バオ・ダイも新政府の「最高顧問」に任命されました。これで名実ともに、文句なしの独立国家が完成したことになります。あとは国際的な承認とフランス政府との交渉を残すのみです。

これを見たハノイ駐在のアメリカ領事オサリバンは、次のように本国あてに打電しています。 「アメリカがベトミン政府と理性的な関係を取り結べる可能性は大いにある、少なくともベトミンが共産陣営に完全に帰属するのを防止するだけの影響力をアメリカが行使する余地は十分ある」

C ベトナム統治協定の流産

さすがのフランスもこれには参ったようで、共和国の存在を容認せざるを得ないところまで追い込まれました。パリで独立をめぐる交渉が始まりました。

しかしフランスの本心は、依然としてインドシナ全領土の回復にありました。当面、フランスは南部の分割統治を主張し、全面独立と祖国統一に関していかなる言質も与えないという態度に出ました。最低でもフランス人が多く住み、ゴム園など利権が集中するサイゴンとメコンデルタだけは手元に残そうという戦術です。

今のところ真偽は確認できませんが、フランス共産党の書記長で当時連合政府の副首相を務めていたモーリス・トレーズは、インドシナからのフランス軍の撤退に反対し、「フランス連合の隅々にまで三色旗が翻ることを願ってやまない」と語ったといいます。トレーズにしてこの有様では、他の政治家の態度は推して知るべしです。

難航する交渉に業を煮やしたホーチミンは、自らパリに出向き交渉を担当しました。フランス連合内の独立という妥協が成立し、協定に調印しようとした矢先、「コーチシナ自治共和国」が成立したとの報が飛び込んできます。

サイゴンの高等弁務官が独断で、地元有力者9人とフランス人4人からなるコーチシナ協商委員会を組織、「住民投票が実施されるまでの臨時政府」として勝手に立ち上げてしまったのです。いわば関東軍が満州国をでっち上げたようなものです。

関東軍の暴走とそれを止められない本国政府、より根本的には止めるつもりがない政府に怒りを爆発させ、ホーチミンは交渉を打ち切りパリを後にします。

一方これにより全面制圧へのパスポートを握ったとみた現地当局は、さらに一歩を進めます。8月には「ベトミンのゲリラ活動が盛んになったため住民投票が実施不可能になった」とし、コーチシナ共和国を恒久化してしまいます。

D インドシナ戦争への突入

政府は軍内強硬派のエティエンヌ・バリュイ将軍をインドシナ軍総監として送り込みます。バリュイは武力挑発を一気に本格化させました。10月、フランス軍がハノイへの玄関口ハイフォンに上陸します。彼らはハイフォンに税関事務所を設置し、ベトナム政府の財源をおさえました。「早く戦争を始めましょう」とけしかけているようです。

ベトミン政府がさらに自重すると、今度はトンキン地方の各地に兵を送り込みます。ついに中国国境の町ランソンでベトミンがフランス軍と衝突、双方に死者が出る事態になります。フランス軍はこれをとらえハイフォンを全面制圧下に置こうとします。ベトミンはこれに抵抗し、ハイフォンはたちまち市街戦の様相を呈します。

フランス軍は圧倒的に優勢な火力を持ってベトミン軍を圧倒します。港内に停泊中の巡洋艦スフレン号が市内に向け艦砲射撃、航空機が市街地を爆撃、さらに地上砲火も火を噴きます。砲弾は市外に逃れようとする市民の列にも容赦なく浴びせられました。この砲撃で6千人が殺されました。

6千人という数はバリュ将軍が記者の質問に「犠牲者は最大に見積もって6千人であろう」と応えたことによる。ベトミンは2万人という数を上げている。当時のハイフォン地区委員長だったVu Quoc Uy は、1981年、「犠牲者は500ないし1千人」と述べている。

いよいよ全面戦争必至の状態となりました。ハノイの共和国政府はいっせいにベトバク(越北)地方へと疎開します。ハノイには防衛隊が残るのみとなりました。いっぽうフランス軍は啓太ベトナム全土に10万人の兵力を動員し、共和国の統治機構を粉砕していきます。

12月17日、バリュイ将軍がハイフォン港に上陸します。第一声が、「間抜けどもが戦いたいなら、やって見ろ」だったとのことです。一般に軍人というのは下品なものですが、それにしてもナチスと闘って祖国を解放した自由フランス軍の将軍の言葉とはとても思えません。

バリュイ将軍は40台の戦車を先頭にハノイ進撃作戦を開始しました。これに対しベトミンに組織された民衆3万人が立ち上がりました。ハノイでは2千人が市街戦に参加しフランス軍と対峙します。

ホーチミンは全国民に抗仏戦争への決起を訴えるメッセージを発します。「我々は平和を望み譲歩した。しかし彼らはふたたびわが国を略奪しようと決意している。断じて許さない、我々は絶対に奴隷となることに甘んじない」

ベトミン軍司令官ヴォー・グエン・ザップは、「我々の抵抗は長く苦しく続くだろう。しかし我々には大義があり、必ず勝利するだろう」と訴えます。

市街戦は1週間にわたり続きました。最後の日の深夜、共和国軍はひそかに紅河を徒渉し、仏軍の包囲網を突破。ベトバック山岳地帯へと逃れていきます。

E ベトミンの困難

当初、ベトミンの独立戦略は、ベトナムに生じた「権力の空白」を利用して蜂起を通じて権力を獲得、その後いち早く合法性を獲得して、フランスとの交渉を有利に進めようというものでした。

それには反ファシズムと民主主義を掲げる連合国の勝利、その一員として闘ったという評価が背景にありました。そしてフランス国内の民主化、援蒋ルートの確保を通じて勝ち取った蒋介石政府、アメリカとの一定の信頼関係が有利な国際環境として働くはずでした。

しかし事はそのように簡単には進みませんでした。フランスに新たに立ち上げられた連合政府も期待通りには動かず、現地植民地主義者の暴走を、事後承認の形で容認するのみでした。頼りにしていたアメリカは急速に反動化し、共産主義と名のつくものなら一切拒否するようになりました。そして共産主義撲滅のため、フランス植民地主義者を支援するようにさえなります。

ソ連はインドシナ問題についてはほとんど無関心でした。ベトミンも、特定の陣営に帰属せずに中立の姿勢を守ることを強調しました。ソ連などの報道機関が、「ベトナム民主共和国は米帝国主義と戦う世界民主主義戦線の一翼」と報じた時も沈黙を貫いてきました。

フランス共産党はホーチミンを共産主義者とはみなしていませんでした。トレーズの後フランス共産党書記長となったデュクロは、コミンフォルム会議で「ホーチミンは過去20年間、共産主義者であった」と述べています。つまり、ホーチミンをもはや「共産主義者」ではなく、たんなる民族指導者と成り下がったかのように評価しています。

こうしてベトナムは、49年に中国革命が成功するまで自力で対仏抵抗戦争を闘うほかありませんでした。

 

ベトバク地方(ランソンとカオバンを結ぶのが4号道路、
Trung Quan(漢字では宣光)に中枢が置かれていた)  

 

最も苦しい戦いが47年10月から2ヵ月半にわたったベトバクの戦闘でした。ハノイを逃れたベトミン政府は北部の中国との国境地帯、ベトバク(越北)にこもりましたが、フランス軍は1万5千名を投入し残党を殲滅しようと図りました。

「レア作戦」と呼ばれるこの攻勢で、タトケ、ボンラウ、ブニャイ、チュンサ、チョモイ、チョドン(トゥエンクァン、バクカン、ランソン)で遭遇戦が展開されました。ホーチミン自身も穴ぐらに身を潜め、間一髪で助かったことがあるそうです。

結局フランス軍は7千人を越える死傷者を出し撤退しました。ベトミンは遊撃戦と奇襲作戦により、9千人の犠牲者を出しながらも、2ヶ月の戦闘を耐え抜き、4万人の兵力を温存することに成功しました。

戦いを終えた共産党のチュオン・チン書記は、論文「抗戦は必ず勝利する」を発表。強大な敵を相手に戦うには、人民の力を総動員して長期戦に持ち込まなくてはならないと強調。毛沢東の「持久戦論」を下敷きにした「長期人民戦争」の戦略をうちだします。

フランスは48年に全土を制圧し、トンキンやアンナンも含めたベトナム全域を管轄する政府としてベトナム臨時中央政府を発足させました。首班には「コーチシナ共和国」のグエン・バンスワン大統領を据えます。

さらに臨時中央政府の元首としてふたたびバオダイを担ぎ出しサイゴンを首都とする「ベトナム国」を建国、「フランス連合」内で「独立」させました。これにより「コーチシナ共和国」は自然消滅します。そしていまやベトミン政府は実体を持たない不法集団の地位に突き落とされてしまいます。

しかし草の根レベルでは、ベトミンは依然強い統制力を保持していました。とくに中北部ではフランス軍は都市部を中心に点と線を確保するのみで、広範な農村地帯のほとんどはベトミンが実効支配していました。

F 旧日本軍兵士の活躍

これは最近明らかになってきた事実で、井川一久さんが発掘されたものです。詳しくは井川さんの文章を直接読んでいただいたほうが良いのですが、若干紹介させてもらいます。

日本軍のなかには、大東亜共栄圏の思想を文字通り奉じている人もいました。明号作戦は、インドシナのフランスからの独立を訴えていました。これは明らかに謀略的な手口なのですが、終戦と同時にカオダイのような傀儡政権ではなく、真の独立運動を担うベトミンに力を貸そうという人も現れました。

そのなかの代表がフエ駐留第34独立混成旅団の参謀だった井川省少佐です。井川少佐は終戦直後の8月16日、明号作戦で仏印軍から押収した武器をト・ヒューの率いる蜂起委員会に提供しました。彼はベトミン軍幹部のグエン・ソン将軍と親交を結び、クァンガイ省の第5戦区司令部に加わりました。

46年4月、井川はプレーク付近でフランス軍の待ち伏せ攻撃を受け死亡しますが、その遺志を継いだ中原少尉らはクアンガイに軍事学校を設立。高級将校の育成に当たります。元日本軍将兵30名が総数約400名のベトナム人学生を教練しました。

この学校は半年ほどで閉鎖。教官・学生は北部山岳地帯へ移動し兵士として戦いました。「尚武精神」の影響を受けた卒業生は、頭を丸坊主にして勇敢に戦い、「日本人の弟子」と呼ばれていました。フランス軍はその名を耳にしただけで戦闘を避けたそうです。

井川の著作によれば: ホーチミン市西北部のホクモン県アンフードン村の水田には、村の守り神として大切にされている二つの大きな墓碑がある。それらは1946年2月の仏軍来襲に際し、全く戦闘経験のない村のゲリラ集団を逃がすために単独で白兵戦を試みて殺された日本兵2名(うち一人は「ハンチョー(班長)」と自称していたから下士官と思われる)の墓である。

 

V 親社会主義路線への転換と反攻開始

A 中国革命の影響

孤立し困難な戦いを続けていたベトミンに強力な援軍が出現しました。それは中国革命の成功です。すでに48年初め頃から、人民軍の勢いは蒋介石軍を圧倒し始めました。

もともとホーチミンの打ち出した民族独立路線は、国共合作で日本軍と対峙した延安政権の強い影響を受けていましたから、中国の路線を受け入れる下地を十分持っていました。

48年の8月に開かれたインドシナ共産党の第五回中央幹部会議はこの転換を決定付けるものとなりました。会議は国際情勢を分析し、ソ連と「新民主主義諸国」を中心とした「反帝民主陣営」が「反民主帝国主義」よりも強力であると規定します。

そして、「インドシナ諸民族の国は帝国主義に反対する民主陣営の隊列に身を置く」ことが明確にされます。これに対し米国は、「帝国主義陣営の筆頭」とされ、厳しく糾弾されました。

会議は東アジアと東南アジア諸国の共産党間の連携強化を強調。「東アジアの友党間の連絡委員会」の結成を提唱します。言うまでもなく中国共産党との連携を訴えたものです。

もちろんベトミンはもともと統一戦線組織であり、共産党主導型の闘争を快く思わない人々も多数存在します。しかし、アメリカがフランス植民地主義者を支援する形でインドシナ紛争に介入してくるにおよんで、もはや選択の余地はなくなりました。

翌49年1月には第6回中央幹部会議が開かれ、路線転換がさらに具体的になりました。この転換を強力に推進したのは共産党書記のチュオン・チン(長征)でした。

報告の中でチュオン・チンは「中国革命の偉大な成功と、その成功の、我が抗戦にたいする影響によって、われわれは革命の期間を短縮することが可能になった」とのべます。そして革命の段階を撤退・対峙・反攻の三つに分け、総反攻へ移行するための条件を分析していきます。

その結論として次のように訴えます。「われわれは対峙段階を終えつつある。いまや積極的に第三段階=総反攻を準備しなければならない」

まぁ、どうにでも言えるものなので、若干強がりのような気もしますし、あまり中国を持ち上げるのも何かなとも思いますが、展望を失いつつあった同志たちには力強い励ましとなったでしょう。

ところでこの時期、書記長のホーチミンは国連への加盟申請を行ったり(無視された)、西側ジャーナリストと会見したりして、少し違う動きを見せています。ジャーナリストとの会見では、「米ソ戦争が勃発してもベトナムが中立を保つことは可能だ」と語ったり、「フランスとの間で交渉による紛争解決の可能性も残されている」とほのめかしたりしています。

チュオン・チンとの路線が食い違うようにも見えますが、これは国家主席という立場からの発言だったようです。

B アメリカの介入開始

とにかくフランスが金がなくてヒーヒー言っていたことは間違いありません。形だけは5大国の一つとして戦勝国に名を連ねてはいましたが、実際には敗戦国みたいなものです。マーシャル・プランによるアメリカの援助に頼っていた貧乏国にとって、遠く離れたアジアの領土を維持しようというのは身の程知らずです。

軍にも有能な指導者が不足しており、兵士は外人部隊やナチス崩れの雇い兵が主体で、士気の低さ、統制の乱れは目を覆うばかりでした。

そんなフランスにとってアメリカは唯一の頼みの綱でした。当初は植民地主義者の野望から始まった武力干渉でしたが、これを国際共産主義との対決の前線と描き出すことによって、なんとかアメリカの援助を引き出そうと試みました。フランスは、「インドシナで起きていることは、民族独立の戦いではなく、東南アジアを赤化するための侵略である」と主張しました。

アメリカはまんまと乗ってきました。49年の末、中国革命政府の成立を受けた米政府は「アジア政策の目的は共産主義の拡大阻止にある」と宣言。これまでのフランス植民地主義への批判的態度を切り替えます。

これは私の個人的感想ですが、50年初頭、中国革命の成功の後、北朝鮮が南への侵攻の準備を始めました。一方で本土から台湾に逃げ込んだ蒋介石軍は反攻の準備を進めました。中国側も最後の国民党根拠地である台湾を解放して革命を成就させたいという思いがありました。
当初、トルーマンと国務省筋は台湾も南朝鮮もあまり真剣に防衛しようとは思っていなかったようです。日本さえ防衛できれば良いというのが本音だったのではないでしょうか。しかし本国で、議会多数派を握っていた共和党内のダレスを先頭とするタカ派が台頭し、これにマッカーサーも呼応するに及んで、俄然、武力対決路線を前面に押し出すようになります。
しかしベトナムは共産党が独立の主導権を握ったとはいえ、親米を標榜してきた政府であり、フランスとも条件さえ合えばいくらでも妥協の余地はあったわけで、東アジアの問題とは分けて考えるべきだったでしょう。最初のボタンの掛け違えが、15年も続いたベトナム戦争をもたらしてしまったのは残念です。

50年2月、フランスはベトナム・カンボジア・ラオスの独立を承認しました。ただし①領事の任命権、②フランス軍の有事統帥権、③政府主要ポストの任命権、③フランス人への治外法権はフランスの手に残されました。これだけとられたら、あと何が残るのか、まったくの植民地です。

アメリカはこれを待って、バオダイ政権の承認に踏み切りました。フランス政府は米国政府に対し、「バオダイ政権への軍事援助」を要請しました。実体としてはベトナム駐留フランス軍への援助にほかなりません。これを受けたアメリカは空母一隻と駆逐艦2隻をサイゴンに送りました。まずは軍事的プレゼンスの誇示です。

ついで5月からは軍事援助が開始されます。最初は2千万ドルでした。しかし54年のフランス敗戦時には、じつに戦費の8割をまかなうにいたります。

さらに朝鮮戦争が始まった6月末には、軍事使節団と35名からなる軍事顧問団のベトナム派遣が決定されました。南から中国をけん制しようという狙いです。8月にはサイゴンにインドシナ軍事援助顧問団(MAAG)が設置されます。これとともに戦車、飛行機重砲などの兵器がベトナムに流入しはじめます。

 

C ホーチミンの北京・モスクワ訪問

これは最近発表された資料です。そのほとんどが中国側資料で、当時の人々の回想を基礎としており、中国寄りのバイアスがかかっていることを踏まえておくべきでしょう。日時で見ると、記録には大きな二つの流れがあり、二つのあいだには10日ほどの“時差”があります。この際はたいした問題ではないので、無視しておきます。

49年10月1日、中国内戦が終了、中華人民共和国の建国が宣言されます。人民解放民軍はさらに南下を続け、12月初めには主力がベトナム国境に達しました。共産軍に追われた約3万の国民党軍がベトナムに逃げ込み、フランス軍によって武装解除されます。

これを見たインドシナ共産党は、北京に特使を送り援助を要請しました。中国側もこれに応えます。とりあえず国民党から捕獲した武器の一部が譲渡されました。

一気に軍備を強化したベトミン軍は、中央諸機関の集中するベトバック根拠地を守るため、「ベトバック連区」を設定しました。参謀部には駒屋俊夫ら3名の日本人スタッフが入りました。ベトミンの待ち伏せ作戦により、ランソン・カオバン間の国道4号線は寸断され、フランス兵から「喜びなき道路」(Rue sans Joie)と呼ばれるようになります。

インドシナ共産党は軍事的勝利への展望を持つに至りました。そのためには軍備の抜本的強化が必要です。49年末、共産党は第三次全国代表大会を開催し、原価の情勢を分析。「正規軍の欠乏,とくに大型の武器の欠乏,高速の通信手段の欠乏、戦闘幹部の不足」が困難をもたらしているとしました。そして、主力部隊の形成に向け中国への援助を求めることを決定します。

 中国側も大いに乗り気です。とくに華南には未だに多くの国民党軍の残党がうごめいていますから、中国そのものの守りにもなります。中国共産党の劉少奇書記長は、ソ連を訪れスターリンと会談。ベトミン政府を正式に承認し国交を結ぶ意向を明らかにしました。

スターリンはこれに消極的でした。フランスと敵対することになりかねないという懸念があったものと思われます。劉少奇はここで粘って、「将来は中国がベトナムなどの国の革命を援助すべきだ」との言葉を引き出しました。

ホーチミンは中国との国交回復をベトナム解放にとって決定的に重要な条件ととらえ、自ら北京に出向くこととしました。ベトバクを出発したのは12月31日か、50年の1月1日か、そのあたりだろうと言われています。フランスの目を避けながら17日間徒歩で移動し中越国境を越えました。中国側証言によれば、ホーチミンは野良着姿に手ぬぐいのいでたちで姿を現したといいます。

1月24日、ホーチミンは北京に到着しました。劉少奇が主役となって歓迎します。劉少奇は「ベトナム支援は中国人民の尽くすべき国際主義的責任だ」とぶち上げました。

中国の歓迎振りは予想されていましたが、驚くべきはソ連もベトナム民主共和国を正統政権として承認したことです。これはヤルタ会談での「暗黙の合意」を踏み越えた勢力拡大です。

アメリカのアチソン国務長官は、「クレムリンによる、インドシナにおけるホ一・チ・ミンの共産主義運動の承認は驚きである。ソ連がこの運動を認めたということは、ホ一・チ・ミンの目的が『民族主義的』であるという幻想を一掃せしめ、 彼がインドシナ住民の不倶戴天の敵であるという本性を暴露するものである」と激しく反発しました。

スターリンの危惧はあながち外れていたわけではありません。この驚愕と怒りが「共産主義ドミノ論」の源流となっていきます。そして前節のバオダイ政権承認へと結びついていくのです。

ソ連のベトナム民主共和国政府承認は、おそらくは当時モスクワに滞在していた毛沢東と周恩来が相当プッシュしたことによると思われます。「政府」そのものはすでに46年初めに成立していたわけですから、この時点で突然承認するような必然性はありません。中国革命が成功したこと以外に理由は考えられません。

おそらくは毛沢東・周恩来の勧めを受け、ホーチミンはモスクワに旅立ちます。当初スターリンはホーチミンと会うつもりはなかったようです。アチソン声明が出て、それでなくとも「やりすぎかな?」と思っているところに、そのベトナムの指導者と自ら接見したとなれば、アメリカやフランスがどれだけ怒り狂うかは火を見るより明らかです。

一説によれば、ホーチミンは、援助に向けた協議を続けようとの中国側提案を「きっぱりと断り、ソ連に行く意向を頑なに言明した」とされますが、その合理的説明は困難です。

しかし毛沢東のベトナム支援は熱烈なものでした。ホーチミンをモスクワで迎えた毛沢東は、「広西省がベトナムの直接的な後方となる」とまで言い切ります。さらに渋るスターリンとの会見を実現させます。会談には毛沢東自身が同席するという熱の入れようです。

毛沢東は次のように回想しています。

スターリンはホーチミンがどのような人物なのか知らず、「彼がマルクス主義者なのかどうかさえ分かっていない」と告白した。そこで私は、「ホーはマルクス主義者に間違いありません。彼に会われたほうが良いでしょう」とスターリンに勧めた。

スターリンは会談の中で、「国際分業」を強調した。「中国はすでにアジアの革命の中心になっている。中国がベトナムの必要としているものを援助する。中国にないものについては,ソ連の対中援助物資を転用すればよい。その分はソ連が穴埋めをする」

ただし、ベトナムは中国にとってもソ連にとっても朝鮮の裏番組でしかありませんでした。世界の耳目はまさに東の朝鮮、西のドイツに集中していたのであり、ベトナムもインドネシアもフランス、オランダという斜陽国のなかの揉め事というのが大方の受け止めでした。

 

D ベトミン軍の増強

中国は早速具体的援助を開始します。党の中央連絡代表として羅貴波が派遣されました。3月初め、中国代表を迎えたインドシナ共産党中央政治局会議は、広西省に接するベトナム東北部のカオバン一帯を奪取し広西省と連結させる作戦を採用しました。

 

ホーチミンと羅貴波

 

中国共産党中央軍事委員会は、ベトミン軍正規部隊を強化し作戦を指導するために、数百名規模の軍事顧問団の送りました。これと並行して、ベトミン支配区の財政、税制、運輸、公安などを指導する政治顧問団も編成されます。

中国軍から見るとベトミン部隊はかなり問題点が多かったようです。羅貴波は回想録の中で次のように述べています。

ベトナム軍の実情がこれほどまでに惨憤たる有り様だとは夢にも思わなかった。油どころか部隊の全てで食糧にも事欠き、兵士の体力は衰弱していた。衣服はポロポロでほとんどの者は裸足であった。装備となると更にお粗末きわまりなく、しかも銃の規格がまるでバラバラだったので、弾薬の補充にはだいぶ苦労しそうだと予想できた。彼らは大規模な戦争をしたことがなく、陣地攻撃戦の経験に欠けていることであった。規律も弛緩していた。

さらに7月に現地入りした軍事顧問団は次のように酷評を加えています。

①政治工作が軽視され、幹部と兵士の政治意識が低い。 ②統一的規律もなければ、明確な制度もない。組織が不適当なほど肥大し、しかも複雑に入り組んでいる。非戦闘員もやたら多すぎる。 ③部隊の軍事能力もそれほど優秀とはいえない。幹部には正規作戟を組織し指揮する能力が欠落している。 ④部隊の戦闘方法は、あまりに形式にこだわっており、それでいてゲリラ戦の悪習にひどく毒されている。民主的な気風に乏しく、管理教育も不十分で、幹部と兵卒の関係も冷たい。

まさに言いたい放題です。私はかつてキューバ独立戦争のとき、シャフター将軍の率いる米軍がキューバ独立軍に加えた酷評を思い出します。彼らははゲリラのみすぼらしい服装をみて「南洋の土人」と言い放ちました.孤立無援の中でスペイン軍を相手に10年間も対峙し、拮抗してきた歴史が、そこでは無視されています。

いろいろありましたが、とにかく装備は飛躍的に強化されました。部隊も正規の戦闘訓練を受け、士気は高まります。こうして9月末、「レ・ホン・フォン2号作戦」作戦が開始されました。これは中国軍の「辺界戦役」と結合して推進されました。まずカオバンとランソンを結ぶ植民地道路4号線上の戦略拠点ドン・ケが攻撃され、あっけなく陥落しました。

これを皮切りに約3万のベトミン軍が4号線上の要衝をあいついで制圧していきます。フランスは6週間の戦いで兵員6千人と450門の大砲、940丁の機関銃など大量の装備を失い、ラオカイ、タト・ケ、カオバン、 ランソンなどの基地を撤収、国境地帯から全面撤退するに至ります。

こうしてトンキン湾沿岸のモンカイからラオス国境に至る中越国境一帯が、ほぼ完全にベトミンの支配下に収まることとなりました。大勝利です。

それだけではありません。はるか南、メコンデルタのウミンの森でも、海上から武器・弾薬が到着しました。森蔭に潜んでいたゲリラたちは、やがて森全体を支配するようになります。クアンチ・フエ・ダナンに至る中部海岸沿いでも、堅忍不抜の根拠地が形成されるようになります。

E ベトナム労働党の公然化

路線転換にともない、共産党が前面に進出することとなりました。このためインドシナ共産党は第二回党大会を開催しました。この大会は解散大会でもありました。

党はカンボジア、ラオス、ベトナムの共産党に分けられます。そしてベトナム共産党はベトナム労働党、ラオス共産党はラオス人民革命党に、カンボジア共産党はクメール人民革命党に改称して再発足することとなります。同時にベトミン・自由クメール(クメール・イサラク)・パテトラオがインドシナ民族統一戦線を結成し、対仏統一闘争の姿勢を固めます。

ついでベトナム労働党大会が続開されます。ホー・チ・ミンは書記長の地位を離れ、党主席に就任しました。いわばベトナムの精神的指導者となったのです。これに代わりチュオン・チンが書記長に就任しました。中国で毛沢東が主席、劉少奇が書記長と役割を分担したのと同じです。

ところでチュオン・チンというのはペンネームです。漢字で書けば「長征」です。いかにも中国派という感じです。

最後にベトナム労働党の下にベトナム国民連合会(リエンベト)の結成大会が開かれました。ベトミンも自らを解散しリエンベトに参加しました。

なぜこのような回りくどい三段階の手続きを踏んだのか。それは中国革命を土台とした劉少奇の「四つの道」のテーゼを忠実に実行するためです。劉少奇は植民地解放闘争の原則として、①反帝・民族統一戦線の結成、②統一戦線における共産党の指導性の確保、③強大な前衛党の建設、④武装闘争の不可避性を訴えています。

これをベトナムに適応しようとすれば、共産党を前面に押し出し、党をより開かれたものにし、統一戦線の階級的位置づけを明確にし、武装闘争の勝利に向けすべての努力を集中することが、何よりも求められることになるからです。

ただしベトナムは中国と異なり、民主的な選挙で圧倒的多数の国民に選ばれた政府を持っています。それを表わすのがベトミンです。リエンベトはあくまでも公式名称であり、一般的には、その後もベトミンの名が用いられることになります。この文章でもベトミンの名称を引き続き用いることとします。

F 紅河デルタ地帯攻防戦

51年1月、満を持したベトミン軍は、紅河デルタ地帯での総攻撃作戦を開始しました。最初はデルタ地帯北西部のヴィンイェンを4個師団3万人で攻撃します。4日間にわたり激戦が展開されましたが、フランス軍は航空機、機甲部隊を前面に立て反撃しました。ベトミン軍は6千人の死者を出し敗退します。

ついでベトミンは、ハイフォン近郊のマオケ海軍基地を攻撃しますが、ここでも、フランス海軍の銃砲と空襲の前に3千人の死者を出し敗退します。ボ・グエン・ザップ将軍は紅河デルタからの撤退を指示しました。手痛い敗北を喫したベトミン軍は、いったんベトバクにこもり、ゲリラ戦主体の戦闘に戻ります。

数字を見ても分かるとおり、戦闘参加者も戦死者の数も比較にならないくらい大きくなっています。一説によれば、この時期にフランス側も9万人を越える犠牲者を出したといわれます。牧歌的なゲリラ闘争の時代は終わりを告げ、近代戦争の時代に入ったのです。

フランス軍はこの後に強固な防御線を設営、ハノイ・ハイフォン回廊を死守しようとします。さらにベトバクと南部のベトミン・ゲリラの分断を図り、紅河デルタ地帯の南西ホア・ビンに強力な基地を建設しようと動きます。植民地軍司令官のジャン・ド・ラトル将軍はこれを「チューリップ作戦」と名づけました。ホア・ビン近在のベトミン・ゲリラを一網打尽にしようとする狙いです。

 

51年11月、ハノイを出発したフランス軍は植民地道6号線沿いに前進。地方道21号線を越えました。一方、北部機動部隊と第一空挺大隊がチョ・ベン西方に降下しました。ベトミン軍第164地方大隊はチョ・ベンの確保を断念し撤退。山間部でのゲリラ戦に切り替えます。

ついで、パラシュート部隊がホア・ビンに降下、ほとんど抵抗を受けることなくホアビンを制圧します。

しかしベトミンも黙ってはいませんでした。12月に入ると二個師団が紅河デルタ地帯に進出。ホアビン周囲のフランス軍前進基地に次々に攻撃を加えます。

最初は散発的なヒット・エンド・ラン戦法でしたが、11日からはいよいよ本格的な攻撃が始まりました。最初はハノイとホアビンを結ぶ6号線上のアプダチョンに攻撃が加えられますが、実はこれは陽動作戦で、救援に向かうフランス軍を待ち伏せするのが狙いでした。これで一個中隊が全滅しました。

このときド・ラトル将軍が病に倒れます。パリに戻った後、1月には亡くなります。これに代わったリナレス将軍は、体勢を立て直した後、重砲と航空機の援護を受け、6号線の逐次前進・確保を目指します。これを見たヴォー・グエン・ザップは、三個師団を6号線周囲に集中し連絡阻止しようと動きます。力比べの始まりです。

フランス軍は激しい抵抗を排除しながら、21号線との交差点スアンマイを少し越えた所まで前進しますが、ついにそこでストップしました。道路上を重装備で進むフランス軍は、道路わきのベトミン軍にとっては射的の的のようなものでした。

52年1月30日、ベトミン軍はスクシチで総攻撃に出ました。2万人の兵力でドンゴイとホアビン間の道路に猛攻を加えます。ついにホアビンのフランス軍は退却を決定しました。すでに半ばベトミンの手中にある6号道路を、血路を開きながら撤退していきます。

こうしてハノイ・ハイフォン回廊を除く紅河デルタ地帯のほとんどがベトミンの支配下に置かれることになりました。

この年、フランス軍はロレイン作戦と呼ばれるベトバク掃討作戦を展開しますが、ベトミン軍は逆にベトバクを出てホアビン付近のファンシパン山地に主力を移動します。

ここから南、コーチシナまでの一帯はほぼ空白地帯でした。しかも伝統的にフエの「アンナン王国」は独立勢力の強固な地盤となってきたところです。フランス軍は海岸沿いの都市を点で押さえるのがやっとでした。ベトミンはフエ、ダナン、クイニョンなどの都市を、実質的に手中に治めました。ベトミンは「第五戦区」と呼んでいます。そして占領した各地で「土地革命」を実施し、中小農民の強固な支持を勝ちとりました。

さらに一部はパテトラオ部隊とともに北部山岳地帯を越え、ラオス領内に進出しました。のちにパテトラオの根拠地となる国境沿いのサムヌア一帯を確保します。ここから西に進めば、はるかメコン河畔の王都ルアンプラバンにつながるジャール平原を眼下に置くことになります。

 

Ⅵ ディエンビエンフーの勝利とジュネーヴの挫折

A ナバル将軍の新戦略

ベトミンは中国の支援を得て、ベトバクの4号道路沿いの森蔭から進出し、いまや紅河デルタの大半、ゲアンからクアンチ、フエ、ダナン、クイニョンにつながる中部海岸地帯、サイゴン北方のカンボジア国境へとつながる高原地帯、カントから南のメコンデルタ地帯を実効支配するに至りました。さらに国境のチュオンソン山脈を越えてラオス山間部にも影響力を拡大してきました。これが53年初頭の勢力図です。

新たに植民地軍司令官に任命されたアンリ・ユージン・ナバル将軍は、この勢力分布を根本的に変えようと張り切っていました。彼は「2年以内に主導権を奪回する」と宣言。占領地の確保には現地軍54個大隊を当て、強力な機動部隊84個大隊を擁するフランス遠征軍を組織しました。

きわめて攻撃的な布陣ですが、ある意味ではゴールキーパーまで揚げて全員攻撃という切羽詰った戦略ともいえます。

この戦略を可能にしたのは、アメリカの本格的な援助の開始でした。この年の7月、朝鮮戦争が休戦に入ります。第2.5次世界大戦とも言われる規模の戦争に、アメリカも中国も全力を傾注していました。朝鮮戦争の影でひっそりと行われていたベトナム独立戦争は一気に世界の注目の的となったのです。

9月、アメリカはフランスに対し4億ドルの追加軍事援助を行うことを決定しました。これはフランスの全戦費の実に60%にあたります。朝鮮戦争で使われた兵器もどっと持ち込まれます。

ナバル新戦略のターゲットは紅河の上流ライチャウ省ディエン・ビエン・フーでした。漢字では奠辺府と書きます。ハノイ西方450キロ、ラオス国境に近い谷あいの町です。そこはラオス領を経由して中国につながるルート上の要衝となっていました。

ディエンビエンフーに関してはものすごいマニアックなサイトがあります。今のところはただ眺めるのみです。

ディエン・ビエンフーが選ばれたのは、そこに飛行場があったからです。南北10キロ東西6キロの細長い盆地の中央に旧日本軍の飛行場がつくられていました。フランス軍はこれを利用して大空輸作戦で橋頭堡を築こうとしたのです。そしてここにベトナム人民軍主力をおびき出して、正面戦により殲滅しようと考えたのです。

 

B すべての精力がディエンビエンフーへ

53年11月20日、フランス軍外人空挺部隊の一個連隊3千名がディンビエンフーに降下しました。3千個のパラシュートというのはさぞかし壮観だったことでしょう。

 

ディエンビエンフー降下作戦

 

続く1ヶ月のあいだに1200メートル級の滑走路が開かれました。アメリカの提供した100機の双発輸送機が、ピストン輸送により40門以上の大砲、2ヶ所の飛行場、兵員1万6200名を基地に送り込みました。150機の対地攻撃機が周辺を巡回防衛します。山間の一寒村は外人部隊7個大隊、歩兵17個大隊、砲兵3個大隊を擁する一大要塞となりました。

クリスティアン・ド・ラ・クロワ・ド・カストリ大佐が司令官に任命されました。フランス軍というのはおかしな軍隊で、最精鋭となるのは外人部隊で、その多くは第二次大戦中にドイツ軍に加わって戦った連中でした。「戦争にモラルは必要ない、軍隊は道具であり、必要なのは兵士としてのプロフェッショナル意識だけ」と思っていたのかもしれません。

これが乾坤一擲の決戦になることはベトミン側も実感していました。12月6日、ベトナム労働党政治局はデイエンビエンフー作戦の開始を決定しました。ボー・グエン・ザップ将軍に率いられたベトミン軍は主力の約四個師団が周囲の山間部に集結し、砲列を整えました。戦記によれば、ベトミンは重砲をふくむ火力においてフランス軍を圧倒していました。

早くも10日には、ディエンビエンフー北方のフランス軍前進拠点ライチョウを攻撃し、2日間の戦闘後陥落させます。28日にはカストリ司令官の参謀長ギュット中佐が、北部峡谷を視察中に砲火を集中され戦死しました。他にも設営部隊への待ち伏せ攻撃が相次ぎます。

ハノイ=ディエン・ビエン・フーの陸上ルートは、すべてベトミン・ゲリラにより遮断されてしまいました。いまや米軍輸送機による空輸のみが頼りです。

ベトミン軍はインドシナ各地でかく乱戦法を取ります。ラオスではベトミンとパテトラオの連合軍が南方と西方に進出します。南方ではタケクを占領しさらに南部のポロペン高原まで進出します。西方ではジャール平原を越え、ルアンプラバンにまで攻撃を加えます。

ベトナム中部高原では、ベトミンがコントゥムを3週間の攻撃の末占領、さらにプレイク攻撃に回ります。ディエンビエンフーで負けてもお釣りが来るくらいの戦果です。

 

C ディエンビエンフー決戦

54年3月12日、ベトミン軍によるディエンビエンフーへの総攻撃が開始されました。主滑走路に砲撃が加えられた後、モグラのようにベトミン陣地から塹壕が掘り進められました。

翌日には、要塞の東北に位置するベアトリス陣地に105ミリ榴弾砲による砲撃が開始されました。夕方に始まった戦闘は、6時間後に終わりました。大隊規模の守備隊がが崩壊し陣地は崩壊、司令官ゴーシェ中佐は討ち死にします。翌14日にもガブリエラ陣地に夜襲が加えられ、陥落します。

14日の朝になって第1外人空挺大隊の2個中隊、第5ベトナム人空挺大隊が両基地の救援に向かいますが、この作戦はベトミン軍によって厳しくはねつけられます。

それから10日、いよいよ本陣への攻撃が始まりました。第3外人歩兵連隊が守るアンヌ・マリ基地が、ベトミン軍の猛攻を受け、基地の一角となるラレーヌ陣地が大激戦の末に陥落します。

Diên Biên Phú

アンヌ・マリ基地は恐慌に陥りました。ベトナム人兵士の脱走が相次ぎます。タイ族現地兵、アルジェリアやモロッコの植民地兵も戦意を喪失します。ついにフランス軍はアンヌ・マリ基地を放棄して後退していきます。

基地が放棄されたことで、滑走路の北半分は無防備になりました。ベトミンのモグラ部隊は塹壕を掘り進め、その先端が滑走路に達します。飛行場が使用不能となったことにより、ハノイから送られる増援部隊と物資の補給は空からの落下に頼ることになります。

3月30日、ディエンビエンフーの基地群と、司令部のある南方のイサベル基地が切断されます。同じ頃、ディエンビエンフーに物資を運ぶ基地となる紅河デルタのフランス軍航空基地が襲撃され、飛行機78機が使用不能となりました。はやくもフランス軍の敗色は濃厚となりました。

滑走路の南半分を守備する南部陣地への攻撃が激しさを増しました。フランス軍が航空兵力を動員し、空からの大規模攻撃を展開したのに対し、ベトミン軍も周囲の山からの重砲攻撃でフランス軍の前進を阻止します。

フランス軍も増援部隊を派遣し事態の打開を図ります。リーゼンフェルト少佐の率いる第2外人空挺大隊の700名が、南部陣地背後のクロディーヌ陣地に降下しました。さらに第3外人歩兵連隊、第5外人歩兵連隊からの志願者、数百名が夜間に降下します。

4月24日、最後の決戦が始まりました。クロディーヌ基地のフランス軍は滑走路の奪回を目指し総攻撃をかけます。しかしこの攻撃は撃破され、逆に南部陣地が陥落してしまいます。

5月1日、今度はベトミン軍の最終攻勢が始まります。1週間の戦いの末、ディエンビエンフーの基地はすべて陥落しました。フランス軍は壊滅状態に陥ります。5月8日午前、ベトミン軍は残されたイサベル基地の司令部に突入。ド・カストリ司令官が全面降伏して戦闘は終わります。

57日間の戦闘でフランス軍の戦死・行方不明者は2700名、負傷4400名。捕虜は1万人近くに達しました。いっぽうベトミン側も、勝利したとはいえ、フランス軍をはるかに上回る戦死7900名、負傷1万5千名という甚大な損傷をこうむりました。

 

Ⅶ ジュネーヴ会議における挫折

A インドシナをめぐる国際関係の変化

ベトナムの独立を目指す戦いは、もはやベトミン対フランスという枠組みを大きく越えて国際化していました。片やフランス軍の軍備を全面的に支えるアメリカ、一方でベトミンを支える中国が戦いの帰趨に決定的な影響力を持つようになりました。

54年1月、ベルリンで米英仏とソ連による4カ国外相会議が開催されました。第二次大戦終結後、初の首脳会談となる歴史的な会議でした。会議は朝鮮戦争とベトナム戦争の戦後処理について協議を行います。そして朝鮮半島とインドシナ問題を一括して妥結することで合意しました。

朝鮮戦争で全面勝利を果たすことが出来なかったアメリカは、「ベトナムを死守せよ」とフランスにハッパをかけます。3月には原爆の使用をフランスに勧めています。これは暗号名で「はげたか作戦」と呼ばれました。アメリカは地上部隊を投入する代わりに、60機のB-29でベトミン陣地を大量爆撃し、続いて中国とディエンビエンフー現地に原爆3発を落とすことを計画しました。

原爆の実戦使用をアメリカが考えたのは、これが二回目です。1回目は朝鮮戦争のときで、このときはどちらかといえばマッカーサーの暴走でしたが、今度ははるかに現実味を帯びてきます。

統合参謀本部での議論では、ほぼスタッフ全員が計画を支持しました。政府部内でも、ダレス国務長官、ニクソン副大統領、ルイス・ストラウス原子力委員会議長などの元祖「タカ派」は熱烈支持派でした。アイゼンハワー大統領も、フランスとイギリスの同意を条件にこの計画を支持しました。しかし両国はこの計画に同意しませんでした。

そうこうするうちにフランス軍がディエンビエンフーで敗北したため、原爆使用のチャンスは消えてしまいました。しかしその計画は、ベトナム戦争中にも何度か亡霊のように復活します。

ディエンビエンフー決戦真っ只中の4月26日、4カ国外相会議の合意にもとづきスイスのジュネーブにイギリスのイーデン、フランスのマンデス、アメリカのダレス、ソ連のグロムイコ、中国の周恩来、そしてベトナム、ラオス、カンボジア、南北朝鮮の各代表が集まりました。

ディエンビエンフーでの敗色が濃厚になったフランス政府は、もはや戦意を喪失していました。そしてベトナムの独立を認めることも暗黙の前提としてジュネーヴ会談に臨むこととなりました。アメリカはフランスを見限り、単独でもベトナムを支援する意向を明らかにします。アイゼンハワーは、東南アジアにおける共産主義の「ドミノ理論」を展開し、「ベトナム国」を軍事・経済両面で支え続けると決意を強調しました。

疲れていたのはフランスばかりではありません。中国も相当疲れていました。朝鮮戦争に義勇軍として参加した中国軍の死者は100万人に達しました.その中には毛沢東の息子も含まれます。

中国は解放を達成したばかりで、国内改革は手つかずのままです。いくら国際連帯といっても、これ以上いつまで戦争を続けるのだという不満の声が上がってくるでしょう。中国としてはたとえどんな条件でも、自分たちが介入する前よりは良いはずだ。この辺で戦争を止めてくれというのが本音だったのではないでしょうか。

B 大国間の腹の探りあい

ジュネーブ会議では、朝鮮戦争とベトナム戦争の終結が平行して話し合われましたが、朝鮮戦争に関してはほとんどめぼしい進展はありませんでした。したがってジュネーヴ会議は実質上インドシナ戦争の終結のための会議となりました。

交渉でフランスとのあいだを仕切ったのは周恩来でした。周恩来はフランスのマンデス・フランスとサシで会談し、話をつけてからそれをベトナム側に提示します。

周恩来は巧みな外交官ですからフランスから多くの譲歩を引き出すことに成功します。フランスはベトナムの領土内に「2つの政府」があることを初めて承認しました。そして二つの政府を統一するために統一選挙を行うことに合意しました。しかし妥協はそこまででした。フランスは統一選挙の実施には同意したものの、その実施時期は明確にしませんでした。

周恩来も統一選挙の時期については固執しませんでした。フルシチョフも「国土の北半分を確保したことは望み得る最大級の勝利だった」と回想しています。まもなくそれは、南北ベトナム分裂の固定化を意味することになります。

フランスはすでにインドシナ全土からの撤退を決意していましたが、それを強くけん制したのがアメリカでした。アメリカは自らが受け入れられる協定の枠組をフランスに示します。それは「ベトナムの南半分を維持し、できればデルタ地帯に飛び地を確保せよ」というものでした。

南北の境界線が当面の最大の争点となりました。ベトミンは国土の3/4を実効支配していました。フランス軍の支配地域はサイゴン周辺のフランス人所有の農園地帯に過ぎませんでした。旧コーチシナ(メコンデルタ)すら、カント以南はベトミンの支配下にありました。

結局、会談は2年後に統一選挙を行うことで合意しました。フランスはその見返りとして、北緯16度とされていた軍事境界線を北緯17度まで引き上げることに成功しました。このことによってダナンとフエが南に編入されることになりました。

C ベトミンの苦渋の決断

ジュネーヴでの妥結はベトミンにとっては苦渋の決断でした。武力による全土解放も可能な状況が一方ではありましたが、もしその路線を突き進めば、それはアメリカの直接介入をもたらす危険があります。その戦いに勝てる見通しは54年時点ではありませんでした。

「統一選挙」はけっして約束されたものではありません。もしそれが実現できなかった場合は南の人々を見捨てることにつながりかねません。

ベトミンは当初北緯13度に南北境界線を引くことを主張していましたが、「統一選挙」と引きかえに17度まで引き上げられました。統一選挙を半年以内に実施するよう求めていたのが、2年先まで引き伸ばされました。

ベトミンはラオスとカンボジアの解放勢力の参加を要求していましたが、これははねつけられました。カンボジアでは解放勢力の存在すら否定されました。

7月初め、周恩来とホー・チ・ミンの会談が開かれました。周恩来は「暫定的な分割を受諾し,二年後の統一自由選挙を待つ」よう提案しました。当時の中国の影響力を考えれば、これは事実上の最後通告です。

これを受けたベトナム労働党は第6回中央委員会で休戦協定の受け入れを決議します。ホーチミンは以下のように語りました。

休戦協定は分断をもたらすものではなく,祖国を統一するための一時的な措置である。今は、アメリカがインドシナの戦争に介入することを回避し、平和を勝ち取ることが大切だ。平和のための戦いが長く複雑な過程であることを理解しない左翼的偏向に屈すれば、われわれはわが人民から浮き上がり、世界の人民からも孤立し、結局失敗するであろう。

D アメリカの裏切り

7月21日、ジュネーブでの交渉に参加した諸国がインドシナ休戦協定(通称ジュネーブ協定)に調印し、「最終宣言」を採択しました。内容は次のようなものです。

① フランス軍とベトミン軍の停戦と相互撤退。② 北緯17度を停戦実施のための暫定的軍事境界線とする。居住地選択のため、300日間の南北往来の自由が認められる。③ 2年後に全土での普通総選挙の実施し南北を統一。

ベトナム人は、協定には大いなる不満を抱えながらも、2年後の統一選挙を目指してふたたび運動に取り組み始めました。

その矢先、アメリカが爆弾声明を発表したのです。アイゼンハワーは協定調印に当たり、「米国はジュネーブ会議の決定に参加もしていないし、拘束されてもいない」と言明しました。そして協定の実施を保証した最終宣言に署名することを拒否して,単独の宣言を出し,ベトナムでの統一選挙の実施に反対の意向を明らかにしました。後にアイクは、「選挙が実施されていたなら、おそらく国民の8割はホー・チ・ミンに投票したであろう」と回想しています。

さらに8月には「極東政策の再検討」と題するメモを国家安全保障会議に提出します。そこでは、「ジュネーブ協定は東南アジアを失うことになりかねない、共産主義の大前進を完成させた災厄である」とし、南ベトナムへの直接進出の結論を出しました。こうして完全撤退したフランスに代わり、アメリカが南ベトナムを全面支配することになったのです。

南にはバオダイ帝の「ベトナム国」が残ることになったのですが、これはフランス植民地主義者の支配の道具でした。もともとアメリカはフランス人植民地主義者を好きではありませんでしたから、この政府をそのまま用いる気にはならなかったろうと思います。そしてアメリカの進出の大義である「反共産主義」をもっと徹底して打ち出す政府を必要としたのです。

 

 第二部  ベトナム戦争開戦前史

 

Ⅰ ゴ・ジン・ジェム傀儡政権の成立

A ゴ・ジン・ジェムの登場

アメリカの直接支配の尖兵となったのが、当時53歳のゴ・ジン・ジェムでした。ゴ・ジン・ジェム(呉廷琰)は、戦前バオダイ帝の下で内相を務めましたが、仏植民地統治当局と対立して辞任した経歴を持っています。45年にはベトミンからの協力要請も拒否し、アメリカに渡りました。敬虔なカトリック信者としてニュージャージー州のレイクウッド神学校で研究生活を送るいっぽう、どういうルートかは分かりませんが、ダレス国務長官ら共和党右派と親交を深めるようになります。

54年6月末、ジェムがサイゴンに入り、首相に就任ました。形としてはバオダイの要請を受けたものでしたが、実際にはアメリカの押し付けでした。そして後見人としてCIAのランズデールがつき、腕力に物を言わせて強引に支配基盤の確立を図ります。ジエムのでっち上げた政党の名前は「人民労働革命党」だそうです。笑っちゃいますね。

ジェムはフエ出身で、もともと南部に地盤はありませんでした。さらに、親仏勢力の強いサイゴンでは、アメリカの回し者として反感を持たれていました。兄弟・親族を除けば周囲のすべてが非友好的勢力だったわけです。

10月、親仏派のグエン・バン・ヒン参謀総長らがバオダイ政権に圧力をかけ、ジェム首相の退陣を求めました。これを見た米政権は、フランスを経由せずジェムに直接援助を提供することとし、ヒン将軍をフランス亡命に追い込みます。

さらにアメリカはフランスとの交渉で、南ベトナム軍に「自主権」を与えることで合意しました。これによりアメリカ軍自らが直接ベトナム国軍の訓練を引受けることとなりました。ラドフォード米統幕議長は1955年分として3億ドルの援助を約束します。

ディエムは北から逃れたカトリック教徒を支持基盤としてとりこみ影響力を伸ばしていきました。ディエムの呼びかけに応え、北ベトナム在住のカトリック教徒70万人が南に移住し、反共政権の人的基盤となったといわれます。

いっぽうで、人口の多数を占める仏教徒やカオダイ教などの新興宗教勢力は、政権中枢から系統的に排除されていきました。時には激しい弾圧が加えられました。これは後々まで、南ベトナム政権の混乱の原因となりました。

B ゴ・ジン・ジェムによるベトミン弾圧

もうひとつは狂信的な反共主義を掲げることで、ベトミンはもとより、政権に少しでも批判的な分子に「共産主義者」の烙印を押して弾圧し、政敵の打倒を図ることです。同時にそれはアメリカから援助を引き出すためのもっとも有効な手段でもありました。

ジュネーヴ協定調印の直後、早くもジェムはベトミン狩りを開始しました。吉澤南氏の「ベトナム戦争」によれば、8月2日トアティエン省キムドイで17人死亡、67人負傷。10日ゴコン省で8人死亡、200人負傷。同日クワンナム省ディエンバン県で3人死亡、11人負傷。9月4日クワンナム省トゥドックで39人死亡、37人負傷、55人投獄、拷問。9月7日フーエン省トウイアン県で80人死亡、46人負傷、数百人逮捕、拷問。13日ベンチェ省モカイで、数百人死傷、数百人逮捕…と延々と続きます。

年末にはクワンチ省で、ベトミンの夫や子息を持つ妻や母に対し「離婚週間」、「親子縁切り週間」などのキャンペーンを開始しました。どうもこの男、最初から狂っていたようです。

この攻撃はまだ序の口でした。翌55年5月に入るとジェムは本格的な第一次反共作戦を開始します。労働党幹部、党員、旧抗仏戦士(ベトミン)だけでなく、北ベトナムに集結した身内を持つ家族、旧抗仏戦士と何らかの関係を持つ人も弾圧の対象となりました。

7月には民衆の弾圧を目的とする10/59法が制定されました。凄まじい弾圧が始まりました。たとえばクアンガイ省では、500人定員の監獄に常時5千人が詰め込まれていたといわれます。

こうして50万人以上が捕らえられ、およそ7万人が殺害されたました。ジュネーブ協定時点で5万人を数えた南の労働党組織は、幹部の北への移動とジェム政権の弾圧で5千人にまで減少してしまいました。

C ゴ・ジン・ジェム独裁政権の成立

ジェムとランズデールの政権への欲望は止まるところを知りません。2月には米軍が南ベトナム政府軍の直接訓練を開始しました。最新式の武器で装備された軍は、これまで抑えることの出来なかったギャング団や新興宗教の保持する私設軍へも攻撃をかけます。まずは東南アジア最大といわれた組織犯罪グループ「ビンスエン団」を壊滅します。

ビンスエン団はフランス植民地勢力の庇護の下に、サイゴン・ショロン地区の警察権を握っていました。カジノ・売春宿・アヘン巣を運営し、構成員は4千人といわれます。サイゴン市内での戦闘は1ヶ月にわたりました。首領のビエン将軍は、古式ゆかしくギロチンで斬首されました。

ついで、ホアハオ教徒(Hoa Hao・和好)の武装隊が個別撃破されていきました。ホアハオ教徒の抵抗は頑強で、メコン・デルタを中心に最盛時は兵力2万5千を数えるほどでした。残党の多くは、その後解放戦線へ参加したといわれます。

10月にはグエン・ビン・キエム大佐の率いる「自由カオダイ」が決起しました。カオダイ教(Cao Dai・高台)は儒教、道教、仏教、キリスト教、イスラム教の五つの宗教の教えを土台とするというハチャメチャな新興宗教で、サイゴン北西のタイニン省に基盤を置いていました。弾圧を逃れたベトミン兵士幹部もこの戦いに加わったといわれます。

さすがのバオダイ帝も腹に据えかねたのか、ディエムを「ベトナム人の血を売っている」と非難するに至ります。アメリカはもはやバオダイ帝は邪魔者と見て、追放の準備に取り掛かりました。

まもなくバオダイは退位し、フランスへと旅立ちます。6月にはジェムが暫定元首となり、統一選挙の拒否と南単独選挙の実施を宣言します。これにより統一選挙の実施は不可能となりました。

なお「大統領選挙」に関しては面白いエピソードがあります。ジェムを押し立てたランズデールは「公正な国民投票」を要求し、「私はあなたが99.99%の支持で勝利したというニュースなど見たくない」と警告しました。

ランズデールの回想録によれば、投票の結果は98%にとどまったとのことです。 

こうして10月末、「ベトナム共和国」が成立しました。ゴ・ディン・ジェムが初代大統領に就任。ジェムの弟であるゴディンニュが内相として人民弾圧を指揮することになりました。アイゼンハワーは正式な政府の樹立を待って、ゴ・ディン・ジェム政権への本格的な援助を強化していきます。

 

Ⅱ 南での武力抵抗の再開

A ベトナム労働党を中心とする戦線の再編

ここのところはちょっと話が複雑なので、年表も見ながら読んでください。50年にインドシナ共産党が解散しました。これまでの単一共産党はベトナム、ラオス、カンボジアの三つの党に分かれましたが、ベトナム共産党はこのときに労働党と改称しました。

45年の総選挙前に、インドシナ共産党は解散したことになっていましたから、変だといえば変なのですが、率直に言えば「偽装解散」でしかなかったことになります。

それまでは表向きは、ベトミンが共産党員もふくむ一つの政党になっていましたが、これをすっきりさせて、ベトナム労働党の指導的役割の下に「リエンベト」が統一戦線組織として形成され、ベトミンもその一員となることになった訳です。これも変だといえば変なのですが、そういうものだとしてください。

さらにリエンベトは一般にはそのままベトミンと称されていましたから、なおややこしい。これを南北分裂という新たな状況にあわせてさらに再構築するのですから、よほどの好き者でないと「いいかげんにせぇ!」と怒鳴りたくなるところです。

肝心なことは、南北分断後も党は一つだったということです。あとでいろいろ出てくる解放戦線も、臨時革命政府も、うんと単純に割り切って言えば、すべてベトナム労働党の一元的指導の下にあったということです。

54年7月の労働党第6回中央委員会は、平和の実現、統一・独立・民主の達成を第一課題に掲げました。「まずは平和だ、統一も独立もその後だ」という本音がストレートに表現されたものです。

ついでとにもかくにも獲得した北部でまず国家を建設することが重点に掲げられました。そして2年後の選挙に向けて南部での武力闘争の停止を指示。平和的活動を強化することが定められました。これも当然といえば当然ですが、南部の人々の苦虫を噛み潰したような顔が目に浮かびます。

きっと「2年後の統一選挙」を訴えた人も、それに賛同した南部の人もそのようなスローガンなど信じてはいなかったでしょう。信じてはいないが「平和の実現→北部の建設→南部の解放」という三段階方式を受け入れざるを得なかったし、信じるほかはないというのが本音だったのではないでしょうか。

B 南ベトナムは労働党南部委員会が管轄

ややこしいついでにもうひとつ。ジュネーヴ協定の時点で、ベトミンは国土の3/4を支配していました。フランス軍が支配していたのはサイゴンを中心とするコーチシナ、中部海岸沿いの諸都市、ハノイ=ハイフォン回廊に過ぎませんでした。

これに対しベトミンは、南ベトナム地域ではゲアンからクアンチを経てフエにつながる第4戦区、その南ダナンからファン・ティエトまでの第4戦区で事実上の支配権を掌握していました。これに対してサイゴン周辺の第6戦区では勢力は弱く、ゲリラ戦を展開していたに過ぎませんでした。

しかしこれからの戦略目標は、統一選挙という平和的手段による南ベトナムの解放に変わりました。サイゴンを初めとする大都市での大衆的政治活動は決定的なものとなります。

第6回中央委員会の決定を南ベトナム各地に徹底するため、幹部が派遣されるました。コーチシナを中心とする南部はレ・ズアンとレ・ドクトが、中部(第五戦区)はグエン・ズイチンが担当となりました。

10月にメコンデルタのカマウで労働党南部委員会が創立されました。レ・ドクトが書記、レ・ズアン、グエン・チ・タイン、ファン・フンらが指導部を形成します。すでにジェム首相によるベトミン弾圧は始まっており、活動は極秘のうちに開始されました。南部党委員会の下に西部地区、中部地区、東部地区、サイゴン・ショロン地区の4地区委員会が設けられました。

ジュネーヴ協定ではフランス軍とベトミン軍の停戦と相互撤退が定められました。そして居住地選択のため、300日間の南北往来の自由が認められました。