エリア・カザンのやったこと
先日,たまたまテレビでアカデミー賞の授賞式を見ました.マライア・キャリーとホイットニー・ヒューストンのデュエットは圧巻でした.これでいくらの出演料になるんだろうと,他人事ながら気になりました.オスカーを獲得したイタリア人監督のはしゃぎっぷりは,それだけでもまるで映画を見ているようでした.
そして最後にエリア・カザンです.以下はロスアンゼルス・タイムスの報道です.
一連の流れはマーチン・スコセッシ監督とロバート・デニーロがうまく作った.「最後の大君」でカザンと仕事をともにした仲間である.
二人はスコセッシが編集した「カザン名場面集」を紹介した.その最後は「波止場」の意気高いエンディング・ショットだった.カザンのスティル写真の下,二人はさらにカザンを劇的に賞賛し,その登場に向け観衆の拍手を得ようと図った.
89歳の老け込んだ姿の監督が舞台に現れた.カメラは立ち上がって賞賛する何人かの観衆を捕らえた.カール・モールデン,ウォーレン・ビーティ,リン・レッドグレーヴ,ヘレン・ハント,メリル・ストリープ…….座ったまま拍手もしない人々も捕らえた.ニック・ノルティ,エド・ハリス,アミー・マディガンである.スピルバーグは彼らとは別の行動をとった.すなわち拍手はするが,立ち上がりはしなかった.
カザンの挨拶は当り障りのないもので,議論を誘発するようなものではなかった.アカデミーとスコセッシ,デニーロに感謝した後,カザンは言った.「さて,私はそっと脱け出すこともできます」
そのあとちょっとためらって,「何かもっと私に言わせたいことはありますか?」
観衆の多くはそう思った.彼の謝罪を期待した.しかしそれは出るべくもなかった.
ドロシー・チャンドラー・パビリオンの外では反対派がプラカードを掲げ,スローガンを叫んでいた.そのプラカードには「密告者カザン」と書かれていた.
リチャード・ドレイファスの反カザン声明
ニック・ノルティよりもっと明確に批判の論陣を張ったのはリチャード・ドレイファスでした.LAタイムスに書いた評論で,ドレイファスはアカデミーを批判しました.
ドレイファスは言う.「カザンはすでにその映画の仕事において賞賛されてきた.それで十分である」
ドレイファスとその仲間は,カザンにアカデミー賞を与えることに反対している.なぜならカザンは50年代の赤狩りの時代にハリウッドの共産主義者や同調者とみなされた人々を「売った」からである.そして新聞マスコミ紙上で密告を奨励したからである.
ドレイファスは言う.「カザンは賞賛を受けるべき人物ではない.彼は無害だったようにも見えるし,ひょっとすると正しかったように見えるかもしれない.が,本当は彼は間違っていたし,無害でもなかったからである」
ドレイファスは受賞式のあいだ街を出ると述べた.カザンが賞を受けるところを見たくないからだ.
カザンの映画のすばらしさについては誰しもが認めるところです.それだけ見れば,この賞を受賞してもなんの不思議もありません.
しかし一方,いまだ多くのハリウッド映画人にとって52年の思い出は忌まわしいものとして残っています.サガンは52年4月,仲間の映画人8人を「共産主義者」と指名し,その追放に一役を演じました.
Elia Kazan, Who?
カザンは,風変わりな名前の通り,イスタンブール生まれのギリシャ系米国人です.本名はカザンジョグラス(Kazanjoglous).1909年生まれ,今年90才になります.4才の時両親とともに米国に渡りニューヨークに居を構えました.演出家を志し,エール大学で演劇を学び,30年代にニューヨークのグループ・シアターで頭角を現しました.この頃米国共産党に入党しますが,まもなく離党しています.しかしその後も左翼陣営の有力な若手として行動していました.
戦後は47年の「欲望という名の電車」,48年の「セールスマンの死」で演出家としての名声を確立しました.47年には仲間とともにアクターズ・スタディオを創立しています.
その勢いをかってハリウッドに移り,映画監督としても有名になりました.48年に最初のオスカーを「紳士協定」で受賞しています.47年,トルーマンが冷戦宣言をおこないました.その後「誰が祖国の破壊を密かに狙う共産党員か?」をあぶりだす赤狩り旋風が吹き荒れます.多くの芸術家が「自分は共産党員でもシンパでもない」と議会での証言を迫られました.一種の踏み絵です.なかでも文化的影響の大きいハリウッド映画の関係者は集中攻撃を浴びました.
その中にカザンの30年代の共産党仲間で,シアターズ・ギルド以来つきあっていた芸術家が十名近くいました.そしてまさにその時,カザンは議会に出頭し「共産党員」の名を明かしたのです.
カザンはこの裏切りの功績を認められ,映画監督の地位を確保しました.そしてアクターズ・スタディオの卒業生マーロン・ブランドを俳優に起用して「波止場」で八つのオスカーを獲得するなど,さらに実績を積み重ねていきます.55年にジェームス・ディーンを起用した「エデンの東」は,不朽の名作と謳われています.その他にも「欲望という名の電車」「草原の輝き」などの映画を次々に送り出していきます.
彼は生涯に22のオスカーを獲得しました.うち二つは監督賞です.ところで,今回彼の受賞した生涯功労賞は,72年にチャプリンが受賞したものと同じです.52年,進歩的な映画人チャプリンは「アカ」のレッテルを貼られ,アメリカから事実上追放されました.それ以来,アメリカへ戻るのを拒否していたチャプリンがふたたび入国を決意したのは,アカデミー生涯功労賞を贈ることによってハリウッドが,過去の経緯を反省したと考えたからです.今ふたたび生涯功労賞の意味が問われていると言えます.
「裏切り」とは何か?
穏やかならない言葉が出てきます.「裏切り」とは何か,なぜ彼は「裏切り者」と言われるのか.その背景について少し触れておきましょう.時代は50年ほどさかのぼります.第二次大戦後,米国はソ連など社会主義諸国を敵視し,冷戦政策を開始しました.米国内では親ソ派や進歩的文化人が「共産主義者」のレッテルを貼られ,ソ連のスパイとして公職から追放されました.日本でもおなじ頃「レッド・パージ」という名の下に共産主義者の追放がおこなわれました.
なかでも有名なのが,下院非米活動委員会(HUAC)による「赤狩り」でした.その絶好の標的として当時絶頂期にあったハリウッド映画界がねらい打ちにされました.ハリウッドの有名人をこてんぱんにやっつけることは,国会議員にとって絶好の売名のチャンスですから,彼らもはりきって審議に臨みました.ウォルド・ディズニー,ゲイリー・クーパー,ロバート・テイラーなど「友好的な証人」が次々と証言にたったあと,いよいよ疑惑の証人調べに入ります.
当時ハリウッドで共産党員と目された人物は11人いました.その一人,ドイツ移民の脚本家ベルトルト・ブレヒトは「自分は共産党員だったことはない」と証言し,そのまま東ドイツに移住していきます.残りの十人が「ハリウッド・テン」と呼ばれ,集中砲火を浴びることになりました.
十人の名前を挙げておきましょう.一人の監督(エドワード・ディミトリク 後に裏切る),9人の脚本家(Alvah Bessie, Herbert Biberman, Lester Cole, Ring Lardner Jr., John Howard Lawson, Albert Maltz, Samuel Ornintz, Adrian Scott and Dalton Trumbo)ハリウッド各社は十人の解雇を発表しました.十人の前には三つの選択がありました.まず「これまで共産主義者だったことはない」と証言すること,他の党員の名を名指しで証言すること(すなわち裏切ること),あるいは一切の証言を拒否することです.彼らが選んだのは最後の道でした.
彼らは憲法修正第五条(思想・信条の自由)により無罪を主張しました.しかしHUACも裁判所もこの訴えを却下しました.彼らは6〜12カ月を獄舎に送ることとなりました.51年,第二の赤狩りが始まりました.いわゆる「マッカーシー旋風」です.あらたに324人が共産主義者の疑いでリストアップされ公表されました.彼らはただちにハリウッドから解雇されました.
彼らの多くはハリウッド・テンに倣い,証言を拒否しました.有名なのがリリアン・ヘルマンのHUACへの返答です.「私は今年のファッションにあわせて私の良心を切りちぢめることは出来ませんし,する気もありません」そのいっぽう,「転向」する人もあいつぎました.後に大統領となるレーガンは,映画俳優ギルドの議長として知り得た情報をFBIに売り渡しました.
このような状況のなかに元共産党員であるエリア・カザンはいました.彼は元の仲間たちの名を明かすことが愛国的行為であると考えた,そうです.そして議会での証言でリリアン・ヘルマン,ダシール・ハメット,クリフォード・オデッツ,パメラ・ミラー,モリス・カルノフスキー,フェオブ・ブランド,トニー・クレーバーらを共産主義者と名指しし,HUACの手に売り渡したのです.
もう一人の裏切り者,惨めなラリー・パークスも次々と有名スターの名を挙げ,自らの忠誠ぶりを示そうとしました.ジェームス・キャグニー,ジョン・ガーフィールド,グレゴリー・ペック,ハンフリー・ボガード,エドワード・G・ロビンソン,ジョー・ブロンバーグ,ハワード・ダ・シルバなどです.ここまで来ると,やり過ぎでしょう.結局彼は救われず,信用もされませんでした.
犠牲者たちのその後
証言を拒否したものには失業と差別、苦難の道が待っていました.旅券を持っているものは国を離れました.ヒューゴ・バトラーはメキシコに渡り,ルイス・ブニュエルと仕事をしました.ジュール・ダッシンはフランスに渡り「日曜はダメよ」でヒットを飛ばしました.
国内残留した脚本家たちは偽名を用い,「フロント」と呼ばれる代理人の名義で作品を発表しました.映画会社は相手の弱みにつけ込んで作品を買いたたいたそうです.56年のアカデミー賞脚本賞は「ブレイブ・ワン」に与えられましたが,受賞者リチャード・リッチは名乗り出ることもできませんでした.なぜならリッチこそ,ハリウッド・テンの代表格ドールトン・トランボだったからです.
精神・身体障害が多くの人を襲いました.クリフォード・オデッツは脚本が書けなくなってしまいました.ジョン・ガーフィールド,エドワード・ブロンバーグの死も「赤狩り」が影響していると言われます.脚本家と違い,俳優は偽名を使うこともできません.性格俳優として名を馳せていたフィリップ・レーブは自ら命を絶ちました.
監督,脚本家,プロデューサーであり,ハリウッドの社会的良心を代表していたハーバート・ビバーマンも職を失いました.彼を最初に売り渡したのはバッド・シュルバーグとディミトリクでした.54年,ビバーマンは他のブラックリスティーとともに映画「地の塩」を制作しています.この実験的な映画は,ニューメキシコの鉱山労働者の恐るべき労働条件を年代記にしたものでした.しかし鉱山労組が資金を提供し,労働者や家族が出演していたにもかかわらず,他の労働組合はビバーマンが制作したというだけで上映を拒否しました.
オスカーを獲得したこともあるリング・ラードナーは,魔女狩りに協力するのを拒否するまでは,将来を嘱望された第一級の脚本家でした.彼は60年代半ばにブラックリストが解除されるまで,偽名「フィリップ・ラッシュ」を使っての活動を余儀なくされました.60年代後半に彼はニューレフトと協力するようになり,70年には「マッシュ」を書きました.
53年,「ローマの休日」がアカデミー最優秀作品賞を獲得しました.この映画の作者ハンターは赤狩りを嫌い海外で活動していた一人です.脚本を書いたのはまたもやドールトン・トランボでした.
ラスター・コールは偽名で作品を発表し続け,66年,最後の作品「野生のエルザ」で初めて名を明かしました.ハードボイルド小説の元祖で「マルタの鷹」の作者として有名なダシール・ハメットも,「デカに民主主義を教えてもらうつもりはない」と証言を拒否して獄に下りました.その後彼が筆を執ることはありませんでした.
ハリウッド・リベラルの再興
60年,オットー・プレミンジャー監督は「エグゾーダス」でブラックリストを無視して,クレジットに脚本家トランボの名を告示しました.おなじ頃,57年のヒット作「クワイ河に架ける橋」の脚本家がマイケル・ウィルソンであることも明らかにされます.ウィルソンはのちに「アラビアのロレンス('62)」の脚本も担当することになります.70年代になると彼らは堂々と本名を名乗り,次々と本格的に活動を再開しました.ラードナーの「マッシュ」を皮切りに,The Molly Maguires (1970), 「ノーマ・レイ」 (1979), 「シルクウッド」 (1983), Matewan (1987) などの左翼的なテーマの映画が製作されました.ローゼンベルグ事件が「ダニエル」で再評価され,アメリカ共産党の創設者ジョン・リードが「レッズ」で賞賛されました.
原子力発電所は「チャイナ・シンドローム」(79)で攻撃され,ベトナム戦争は Go Tell the Spartacus (1978), 「帰郷」 (1978), 「地獄の黙示録」 (1979), 「フルメタル・ジャケット」 (1987)で批判されました.資本主義そのものが「ウォール街」 (1987) で非難され,ラテンアメリカへの干渉が「ミッシング」(82),「アンダーファイアー」(83),「サルバドル」(86),「ラティーノ」(86)で反撃されました.
ブラックリストそのものも The Way We Were (1973)で映画の対象となりました.主演のバーブラ・ストレイザンドがリベラルな脚本作家と結婚する共産主義者を演じました.ウディー・アレンの映画でもこれらが扱われています.あらたなハリウッドの活動家もまた,脅迫と無縁ではありませんでした.ジェーン・フォンダはベトナム戦争に反対したため,復員兵士に狙われることになります.エド・アスナーは俳優協会の理事長で,エルサルバドルの左翼ゲリラに向けた医療援助運動の支持者でした.彼のテレビ番組への出演は右翼の抗議により中止させられました.
バネッサ・レッドグレーブはイギリスのトロツキスト・グループに所属しています.彼女はイスラエルのアラブ侵略に反対しました.その結果シオニストのねらい打ちを受け,いくつかの契約がキャンセルされました.
リベラル派として有名なロバート・レッドフォード,ジャック・レモン,グレゴリー・ペックはキューバの映画祭に出演したことで非難されました.しかしこれらの圧力はブラックリストの時代に比べればものの数ではありません.映画会社は利口になっており,この手の政治的主題については独立プロに映画を制作させるようになっています.
カザンの開き直り
88年にカザンは沈黙を破り,自伝風の著書「ある生涯」を発表しました.彼はそのなかで52年問題についても触れています.
彼は,当時の行動がハリウッドに巣くうスターリン主義者を放逐し,芸術の自由と民主主義を守るところにあったと開き直りました.その証言が彼自身の生涯と他の人たちをいかに傷つけたとしてもです.ところで,これはかなり欺瞞的な合理化です.第一に,当時目の前に突きつけられた「民主主義を守るかどうか」というみずからの選択を抜きにして,遠い国のことを話してもしかたないからです.自らの仲間を裏切り,権力の手に売り渡すような人物に他国の民主主義を云々する資格などあろう筈がありません.
第二に,たしかに当時のソ連はスターリンの野蛮な支配下にあり,高名な脚本家メイエルホリドの「自殺」,エイゼンシュタイン監督に対する迫害などがあったのは事実です.しかしそれらが明らかになったのは,それから数年してスターリン批判が開始されて以来のことでした.少なくとも52年の議会証言の時点では,カザンにはそれらの知識は皆無とはいわないにせよ,ほとんどなかったはずです.
例えばアルバート・モルツ,たとえばジュールス・ダッシンは,この本について感想を求められ,破壊された関係や彼の「忠誠」証明により大なり小なり受けた傷についてコメントしました.ドールトン・トランボは考えられる限りもっとも寛容な態度を示しています.「われわれはすべて犠牲者だったのだ」
エリア・カザンの仕事
FICTION AND NON-FICTION:AMERICA AMERICA, 1962
THE ARRANGEMENT, 1967
THE ASSASSINS, 1972
THE UNDERSTUDY, 1974
ACTS OF LOVE, 1978
THE ANATOLIAN, 1983
A LIFE, 1988
AN AMERICAN ODYSSEY, 1989
FILMS:
題名 製作年 脚本・原作 出演 THE PEOPLE OF THE CUMBERLANDS 1937 (also prod., screenplay) IT'S UP TO YOU 1941 A TREE GROWS IN BROOKLYN 1945 based on Brry Smith's novel THE SEA OF GRASS 1947 based on Conrad Richter's novel, Spencer Tracy and Katherine Hepburn BOOMERANG 1947 GENTLEMAN'S AGREEMENT 1947 based on Laura Z. Hobson's novel, screenplay Moss Hart Gregory Peck, Dorothy McGuire, John Garfield, Celeste Holm, Anne Revere PINKY 1949 based on Cid Ricketts Summer's novel Quality, screenplay by Philip Dunne and Dudley Nichols Jeanne Crain, Ethel Barrymore, Ethel Waters, William Lundigan PANIC IN THE STREETS 1950 Jack Palance and Richard Widmark A STREETCAR NAMED DESIRE 1951 written by Tennessee Williams Marlon Brando, Vivien Leigh, Kim Hunter, Karl Malden VIVA ZAPATA!, 1952 written by John Steinbeck, Marlon Brando, Joseph Wiseman, Jean Peters, Anthony Quinn MAN ON A TIGHTROPE 1953 screenplay by Robert Sherwood Fredrick March, Cameron Mitchell, Adolphe Menjou ON THE WATERFRONT 1954 written by Budd Schulberg from his novel Marlon Brando, Eva Marie Saint, Lee J. Cobb, Rod Steiger, Karl Malden EAST OF EDEN 1955 screenpay by Paul Osborn from John Steinbeck's novel Raymond Massey, James Dean, Julia Harris, Jo Van Fleet BABY DOLL, 1956 based on Tennessee William's play Karl Malden, Eli Wallach, Carroll Baker A FACE IN THE CROWD 1957 written by Budd Schulber, from his story Your Arkansas Traveller Andy Griffith, Lee Remick, Walter Matthau, Patricia Neal WILD RIVER 1960 screenplay by Paul Osborn, novels Borden Deal, William Bradford Huie, Montgomery Clift, Lee Remick, Jo Van Fleet SPLENDOR IN THE GRASS 1961 screenplay by William Inge, Natalie Wood, Warren Beatty AMERICA AMERICA 1963 screenplay from own novel Stathis Giallelis, Frank Wolff, Elena Karam, Harry Davis THE ARRANGEMENT 1969 screenplay from own novel Kirk Douglas, Faye Dunaway, Deborah Kerr, Richard Boone THE VISITORS 1972 THE LAST TYCOON 1976 screenplay by Harold Pinter, based on F. Scott Fitzgerald's novel Robert de Niro, Robert Mitchum, Tony Curtis, Jeanne Moreau, Jack Nicholson
Al Filreis さんの "the American 1950s home page" より表を作成しました.