2Jul 2008
ネオリベラリズムと新自由主義
セミナー後始末の記
7月4日、北海道AALAの主催で、橋本努先生の講演会を開催しました。私が司会を勤めさせていただいたのですが、まことに不手際で論点を整理できず、混乱させてしまいました。申し訳ございません。当日参加の皆様に(参加されなかった方にも)、少し論点を整理して、分かりやすくしておくのが司会者の責任かと思います。
と言いましても、いまだに整理はついていないので、さらに混乱を招く恐れもあります。また当事者から「そんなことは言ってない」とか、「そういう風には言っていない」とかお叱りを受けるかもしれませんが、私の感想的コメントということでご容赦願います。
A.ネオリベラリズム・新自由主義の定義をめぐって
これについては、私のほうに誤解があったようです。橋本先生の文章では、ネオリベラリズムは福祉国家論にもとづく経済政策の破綻に対応して、新たに提唱された理論となっており、80年代のサッチャー・レーガンの政治、それに中曽根行革などをその典型としています。そして途上国への市場原理主義の押し付けについては、以前からの市場開放路線の延長線上にあり、新保守主義とはいえないとされています。
そこで、80年代後半に出されたワシントン・コンセンサスは、先生の言うネオリベラリズムには当たらないのだな、と思い込んでいました。というのは、ワシントン・コンセンサスは、当時対外債務に苦しんでいたラテンアメリカ諸国の財政再建のための処方箋であり、途上国向けの政策の集大成だからです。
ワシントン・コンセンサス(合意)とは、当時ワシントンに拠点を構えていたIMF・世界銀行、米州開発銀行、アメリカ財務省などのエリート集団が、ラテンアメリカを中心とする途上国への融資に当たって強制した融資条件を10か条にまとめたもの。
先生が、一瞬怪訝な顔をされたのは、ワシントン・コンセンサスの10か条そのものは、その直接的意図がどうであるにせよ、ネオリベラリズムの実体的規定としてはそのまま使えるという考えがあったからではないでしょうか。
ネオリベラリズムと言葉はいろいろなニュアンスをふくんでいて、使う人によって意味合いが変わってきています。なかにはこのように多義的であいまいな言葉は使わない方が良いという人もいるくらいです。
しかし、明らかに新自由主義・リベラリズムと言う言葉には二つの見方がふくまれています。この前後関係を明らかにした文章を探したのですが、和文でも英文でも、探し出すことは出来ませんでした。
したがって、私の推断になるのですが、最初に新自由主義という言葉を使い始めたのはハイエクだろうと思います。74年にノーベル賞を受賞して、それに前後して、日本で「新自由主義とは何か」という本が出版されました。
それがサッチャーの愛読書となり、彼女の「英国病退治」の際に大いに持ち上げられたことから有名になったものです。いくら反共右翼学者の本とはいえ、ノーベル賞までとった人の本ですから、それなりの学問体系はあります。
橋本先生は、基本的にはこの系統を新自由主義・リベラリズムの主流と見ています。それは新古典主義の流れに位置づけられるものであり、正しいと思います。
もう一つは、73年にチリでクーデターが起こり、ピノチェト軍事独裁政権が開放経済政策を採ったときからの用法です。ピノチェトはシカゴ大学の経済学者フリードマンの門下生を大量に採用し、経済運営をゆだねました。彼らは「シカゴ・ボーイズ」と呼ばれ、市場原理主義を基本として民営化、労働市場の柔軟化などを実行しました。
当時のラテンアメリカの活動家は、これを評して「ネオリベラリズム」と呼ぶようになりました。リベラルどころか、ファシストそのものの政権が採用した経済政策ですから、「ネオ」という言葉には、「アンチ」とも言うべき、かなり反語的なニュアンスが込められていると見るべきでしょう。
アメリカで自らをリベラリストと言うのはかなり勇気が要ります。リベラルと言うのは進歩的・反政府的で、相当左翼がかったイメージがあります。日本で「私はアカです」と言うのと似たようなところがあります。ただアメリカ人ですから、ラテンアメリカから見ると「所詮リベラリストでしょう」という風に見られるのでしょうが。
ニュー・リベラリズムではなく、ネオを使ったのはネオ・ファシストを連想させるからかもしれません。ネオ・コンと同じようなニュアンスです。アカデミックな用語というよりは隠語的な響きがあります。「あいつはネオだからな」とささやくような感じです。
私が思うには、ハイエクの場合はきちっと「新自由主義」と日本語に翻訳して使うようにして、ラテンアメリカでの用法はネオリベラリスム、あるいは「ネオリベ」とカタカナで表すようにすれば、もう少し混乱は防げたのではないかと思います。
似たような言葉にナショナリズムという言葉があります。日本語では、民族主義と訳すと肯定的、国家主義と訳すと否定的なニュアンスがあります。
ただ、もし「新自由主義」をどう変えていくかという問題意識に立つのなら、橋本先生の話では、ワシントン・コンセンサスと市場原理主義がたどった経過について、もっと厳しく批判すべきであったろうと思います。その上に「洗練された新自由主義」の試論が乗っかれば、もう少しユニバーサルな共感を得ることが出来たのではないか、と惜しまれます。
この後に続く文章は「たかが金貸し風情が出過ぎたまねをするんじゃないよ」という題で、別立てにしました。
B.個人主義と新自由主義
新自由主義・リベラリズムには多様な側面がありますが、橋本先生は主としてハイエクにスポットを当てながら、社会哲学として新自由主義を語っています。
社会哲学としてみた新自由主義は、ほぼ個人主義と同じです。ここでは「libertarianism」という言葉を個人主義と訳しましたが、個人の自由意志を最大限尊重する考え方で、たしか社会思想史ではロックの「自由意志論」が試験のヤマだった記憶があります。
封建制や絶対主義王制から脱却し,個人の自由をかちとることは当時大変な変革でした。それはそれでよいのですが、ハイエクは第二次大戦前にナチス・ドイツも社会主義ロシアも全体主義であり、絶対主義王制と同じだと批判し、「個人の自由」の絶対的価値を原理的目標としました。
それもそれでよいのですが、第二次大戦後になると、今度は社会主義体制のみならず、イギリスなど先進資本主義国家も「政府が経済・社会活動に干渉し過ぎる」として批判します。そして市場を優先し福祉を軽視するアメリカこそが最高の国と賞賛するようになります。
ということで、政治的スタンスとしては極右に近くなりますが、哲学的ベースとなる「個人主義」については、一つの見識と言えるのかもしれません。そして市場機能が自由な個人を保障するメカニズムについては、今後検討の必要があるのかもしれません。
橋本先生が、「ハイエクとマルクスを融合して新しい新自由主義の体系を作る」と言われるとき、最大限寄り添って考えれば、徹底した個人主義を基盤にしつつ、社会的観点をも取り入れていくという志向の表現かもしれません。
とすれば、我々の側も抽象的に「個人の自由」を語り、市場機能の一般的必要性を承認するだけのではすみません。リバタリアニズムにアプローチしようとするなら、市場機能の社会的役割についても、経済学的にだけ論じるのではなく、「個人の自由」を究極的に保障している装置として見直さなければならないのかもしれません。
そのことが示唆されれば、講演会の議論はもう少しかみ合うものになったかもしれません。
C.「洗練された新自由主義」
事前学習していて、これが一番もめそうだな、と思っていましたが、案の定でした。
最初にも書いたとおり、我々はふつうネオリベラリズムは悪いものだと思っています。ネオコンでもネオファシストでも、言葉そのものにすでに価値判断が加わっています。だからそれが「洗練」されれば、ますます悪いものになるに違いないと確信しています。
しかし橋本先生は、新自由主義を一つの学説として、価値中性的なものとしてとらえています。そして「市場機能と自由な個人」を中核とする発想が、21世紀の社会を形成していく上で、今でもそれなりの有効性を失っていないと確信しています。
したがって、ワシントン・コンセンサスのような野蛮なネオリベラリズムではなく、もっと洗練された新自由主義が登場すれば、現在の世界経済の持つ矛盾は解消すると考えているのです。
ただそれを論証するために、ネグりの「“帝国”は受け容れなければならない」というテーゼを、「新自由主義は受け容れなければならない」と読み替えて持ち込んでいるので、二重三重にややこしくなります。率直に言わせてもらえば、さすがにこの「義経の八艘跳び」は、思想的節操が問われても仕方ないところです。
私は、議論を整理するために一枚のスライドを用意しました。下段に示すのがそれです。
ラテンアメリカ
世界、日本
1970年代半ば
軍事独裁による自由貿易の導入と巨額の貿易・財政赤字
ブレトン・ウッヅ体制の崩壊とスタグフレーション
⇒マネタリズムからのケインズ主義への批判1970年代後半
資本自由化と高金利による外資の流入(投機的な短期資金)
オイルショックと投機資金の登場
1980年代前半
短期資本の大量流出による対外債務の巨額化とハイパーインフレ
サッチャーリズムとレーガノミックス
1980年代後半
債務をテコとしたIMF/世銀の介入強化
⇒介入策の集大成としてのワシントン・コンセンサス「社会主義」体制の危機と、ネオリベラリスムの定着
1990年代前半
ネオリベラリズム政策の実行と社会矛盾の激化
金融を背景にした米国の優位確立と資本自由化の強制
1990年代後半
世界金融危機の終着駅 テキーラ効果
東アジア経済危機とIMF/世銀支配の破綻
2000年代前半
もうたくさんだ! みんな出て行け!
⇒既存政治体制の全面崩壊と反米・自主路線の台頭「もうひとつの世界は可能だ」主義の台頭
2000年代後半
南米共同体と「21世紀型社会主義」への模索
?
この表を説明した上で、2000年代後半、世界と日本に何が起きようとしているのか、という意味で「?」をつけました。ここを集中的に議論しようという狙いです。そしていくつかあるオプションのうちで、「洗練された新自由主義」もその一つであろうという位置づけを考えました。
本当はいくつかあるオプションを列挙した上で、その中で「洗練された新自由主義」はどのあたりに位置づけられるのか、というところまで展開すべきだったかもしれません。とくにベネズエラ、キューバなどで作っているALBAや、最近動き始めた南米共同体などについては少し内容の紹介までしたほうが良かったのかもしれません。
現在原稿を準備中です。出来上がるかどうかは保証の限りではありません。
また、IMFも最近はさまがわりが見られ、フランス社会党の大物ドミニク・ストロスカーンが専務理事に就任して、途上国寄りに軌道修正する動きも見られます。こういった流れや、世界銀行の元副総裁で、市場原理主義を激しく批判するスティグリッツなどが、橋本先生の言う「洗練された新自由主義」の担い手に相当するのかもしれません。
「もう一つの世界」を展望する際、大まかにいって二つの見方があります。トービン税や、橋本先生の提案するような「民主主義スコア化」など、政策上の手立てにより、公正化と弱者救済をはかることを主眼とする発想。もうひとつは、そもそも市場機能を基礎とするのではなく、それを超えたところに「人倫にもとづく」新たな国際経済関係を構築していこうという発想です。
両者は矛盾するものではなく、ある意味でお互いに認め合っています。ラテンアメリカにおけるメルコスールとALBAの関係はその典型です。それらはともに、人類という生命体が21世紀に生き続けていくための、本質的な存在のあり方です。両者が共生し続ける条件が必要なのです。
D ポストモダンから「蟹工船」の時代へ
私たちにとって40歳代前半の世代は未知の世代です。思想的にはフーコーをトップとするポストモダンの世代に当たります。
フーコーらの言う「バイオポリティクス」は、かつて一世を風靡した「市民社会論」の焼き直しです。非マルクスであり、非ヒュ−マニズムであり、乗り越えるべきものとしての福祉国家であり、戦後民主主義であります。ことによれば憲法9条さえも否定すべき対象かもしれません。
レッテルを貼るならば、それは論理実証主義であり、操作主義であり、格闘すべき現実との乖離、鉄壁の「論理」を媒介としたあいまいな情緒、チンケな“知的所有権”の先陣争いをめぐる不毛な知的レースでした。
ネグリは、多少なりともこの世界をよりよいものに変えていこうという志向を持っていますが、20世紀末の圧倒されるような情勢を前に、敗北主義と「シコシコイズム」を打ち出すのみです。この敗北主義が「帝国主義者」に喝采を博し、バカ売れしたのでしょう。
ラテンアメリカ諸国での左翼政権の相次ぐ誕生、アセアンの多国間主義と中国外交の台頭、世界中で1千万人を動員したイラク反戦デモや世界社会フォーラムなど民衆の運動の高揚…。これらの将来に希望を抱かせるさまざまな動きが出始めたのは、この本の出版された後のことです。したがって、すでにネグリの「帝国」は過去のものとなりました。
昨今、「蟹工船」の復活が取りざたされています。私が思うには、それはオールドボルシェビキの復活ではなく、ポスト・ポストモダンの出現でしょう。ラテンアメリカの連中に言わせれば、ネオモダンということになるのかもしれません。
今回の議論はスターリニズムの残滓を払拭すべき我々にとって、無駄なものではありませんでした。ポストモダンの潮流の中の“リベラル”な代表と遭遇したことで、我々は議論を研ぎ澄ます絶好の機会に恵まれました。逆に橋本先生にも、ネグりを越えるネオモダンへの足がかりを提起しえたのではないでしょうか。
この機会を失うことなく、実践に学習に、さらに自己琢磨していきましょう。