世界社会フォーラムをどう見るか
WSFのあり方をめぐる議論
一,WSFは何を目指すか
WSFもこれだけの規模になるといろいろな意見が出てきます.逆風も吹いてきます.世界社会フォーラムの隣の会場では,フォーラムの路線を生ぬるいと批判する人々が,「ムンバイ・レジスタンス」(MR2004)という別の国際会議を開いていました.彼らのスローガンは「世界は代替不能だ!」であり,「別の世界ではなく,社会主義の世界を望む」と主張していました.
MR2004の批判に対して,WSF幹部は二つの点で反論しています.彼らは対抗思想の幅広さを拒否し,相変わらずの「一枚岩の団結」を要求しているというのが第一点です.第二に彼らは武装闘争を主要な闘争形態としていると非難します.そしてWSFは暴力と対極の立場にあると主張します.
確かにMR2004の主体となっているインド共産党ML派は,「プロレタリア独裁」路線を墨守している組織です.また,かつて武装ゲリラ「ナクサライト」を結成し,もっぱらテロ活動に明け暮れていた時代もあります.今度の大会でもフィリピン共産党のシソン派を招待するなど,少なからぬ問題を抱えており,とてもWSFと同列に語りうるものではありません.
しかし問題はそこにあるのではなく,彼らによるWSF批判が一定の真実性を持っていることにあります.すなわち,「WSFの路線はイノベーションなのか,レボルーションなのか?」という問いかけです.もちろんそれは,当面する敵が真綿で首を絞めるやり方をとるか,血塗られたマサカリで襲い掛かってくるかによっても違ってきますが…
WSFが二つの相矛盾する路線を内包していることは,何も現地の実行委員会が負わなくてはならない問題ではありません.ましてや,彼らにさまざまなレッテルを貼ることで解決できる問題でもないのです.
日本の場合ははっきりしています.それは @「持続可能な経済社会」を実現するために,企業の社会的責任を追及することであり,A「市場原理」の名の下に,目先の利益追求を再優先するアメリカ型資本主義を拒否することであり,ひとことでいえば「ルールある資本主義社会」を作ることです.
同時に,課題としてはオルタナティブに過ぎないが(社会主義革命ではないという点において),それを達成するためには政権の掌握が必要だということを確認しています.資本家とその政治勢力,そしてその後ろに控えるアメリカ帝国主義は,国民の圧倒的多数の声と,それを代表する革新的政府の統制なしにはいかなる譲歩もしないだろうと,腹をくくっています.
二,WSFの組織原則
WSF憲章は自らを複数性(plural),多様性(diversified),非宗派性(non-confessional),非政府性(non-governmental),非党派性(non-party)という特徴の下に規定しています.このなかで最も重要なのが非党派性の原則です.ノン・パーティーは無党派とも訳せますが,より積極的な内容を含んでおり,非党派と訳すのがふさわしいと思います.非同盟運動(non-alignmemt)を無同盟と言わないのと同じです.
解説では,「あらゆる政治潮流を否定しないが,どの政党であってもWSFの構成団体となることを拒否する」とされています.しかし党員が個人としてWSFに精力的に取り組むことを否定するものではありません.
そして「反帝国際統一戦線を形成するうえで,非党派性は欠くことのできない原則である」と強調しています.
たしかに国内では一つの国民を基盤に多くの政治潮流が存在するわけですから,その時々で政党の組み合わせを軸とする統一戦線の形成は避けて通れない課題です.しかし国際統一戦線においては,まったく異なった民衆を基盤とする諸運動が連帯関係を結ぶことになりますから,特定の政党や政府が入り込むことはかえって混乱を招きかねません.
かつてベトナム戦争のとき,日本の民主勢力はベトナム人民支援のための反帝国際統一戦線を呼びかけました.ソ連や中国がそれぞれ自派共産党の会議を開こうとしたのに対し,政党レベルではなくさまざまな連帯運動の結集こそが重要だと主張しました.この呼びかけはあまり大きな成果を生むことなく終わったのですが,40年近くを経たいま,その正しさが証明されているように思えます.
三,ムンバイ総会の意義
97年,アジアに始まった国際金融危機をきっかけに,グローバリゼーションに対する抗議の声が高まりました.その声は,まずシアトルで開かれたWTO総会に向けられました.抗議の対象はWTOばかりではなく,IMF=世銀,先進国サミットにも向けられるようになりました.そしてグローバリゼーションを展開する上でのシンクタンクとなっていたダボス会議にも向けられました.
しかしスイスの避暑地であるダボスでの「私的」なフォーラムに,大動員をかけて抗議するという行動形態は,あまり適当なものではありません.「ならば」ということで,対抗フォーラムという発想が生まれました.これがブラジルのポルトアレグレで開かれた世界社会フォーラムです.つまり目標も範囲もある程度限られていたフォーラムだったと言えます.
今度のフォーラムはいくつかの点で,ポルトアレグレを大きく乗り越えました.例えばポルトアレグレのWSFを主催したのは8団体でしたが,ムンバイ・フォーラムの主催団体は200に上ります.政党の参加を排除するとはいうものの,ポルトアレグレの柱となった労組,農民組合はいずれもルーラ(現大統領)率いる労働者党の影響下にありました.
インドでは社会主義勢力の影響が比較的弱く,労働運動もこの20年の間に深刻な落ち込みを続けています.これに対し環境・人権・教育・保健・ジェンダーなどのNGOは,国際的な支援も受けながら強力な活動を続けてきました.ダーリットの反差別運動,ガンジー主義者の活動も活発です.これらの運動が反戦平和と反グローバリズムの旗の下に総結集したことが大きな特徴です.
さらにインドでは,取り上げるべき課題も一挙に拡大しました.グローバリズム反対に加えて,戦争・カースト制度・人種主義・コミューナリズム(宗教的排外主義)への反対という基準がつけ加えられました.まさに「もうひとつの世界」というにふさわしい全面性が与えられたのです.
彼らは政治を排除せず,二つの共産党も受け入れました.共産党はWSFの原則を守りつつ,成功のために最大限の努力を払いました.21世紀にふさわしい新たな形での労働者・農民・市民の統一のあり方が示唆されたとも言えます.
もうひとつ,地味な問題ながら,見逃せない変化があります.それは総会開催費用の財源です.実はポルトアレグレのフォーラムは大企業からも寄付を仰いでいました.特にフォード財団からの寄付は問題になりました.今回フォーラム実行委員会は,フォード財団の支援を拒否しました.
2001年,最初のWSFが持たれたとき,参加者は1万5千人でした.このフォーラムが何年間も続いてこのように発展するとは誰も思っていませんでした.ところが翌年には5万人,2003年には10万人と爆発的に拡大したのです.まさに世界的なフォーラムとして発展したからこそ,この問題はさけて通れない原則的課題となったわけです.
四,世界社会フォーラムの今後
私は去年の6月,イラク戦略戦争後の世界がどうなるかについて考察しました.(見えてきたイラク戦争後の世界 一国支配主義か多極的国際秩序か)
このなかでひとつは中ロ共同声明に強い共感を覚えました.さらにエビアン・サミットでのフランスの発言にも注目しました.そして以下のように述べました.
中国の胡主席は,五項目にわたる「国際政治・経済新秩序」を提唱しています.@すべての国家が平等に国際問題に参加する A文化の多様性の尊重 B平和達成の手段としての武力や強権の排除 C世界経済の均衡発展 D国連の権威の尊重 です.
つまり,アメリカの政策を,国家の自決の否定,文化の多様性の否定,武力干渉の肯定,貧富の差の拡大の肯定,国連の否定の五つにおいてとらえ,これを21世紀における人類史発展のための主要な障害と見ているのです.
ほぼ時を同じくして,シラク大統領はサミットのホスト国として,「責任・連帯・安全保障」の三つのテーマを掲げました.それはブッシュの信奉する「自由・効率・力」に対抗するテーマです.
@責任ある市場経済の諸原則の確認: 株主優先・企業利益重視の米国型経済モデルに対して,労働者や地域への企業の社会的責任を重視した「ルールある資本主義の諸原則」を確認すべきだと唱えました.A環境問題にも配慮した持続可能な経済成長を確保するための,発展途上国との「連帯」: 「健康・食料・水・環境」を基本権として確認し,気候変動に関する京都議定書の実行を迫りました.
B国際テロや大量破壊兵器拡散に対する安全保障: 国際法の適法性の枠内で行動する原則を強調しました.
そして「アメリカは単独主義的な世界ビジョンを持っているが,私は,ヨーロッパも中国もインドも含まれる多面的な世界ビジョンを持っている」と述べました.シラク流の「新しい流れ」像です.
会議中行われたシラクと胡主席の会談は,二つの「多極型国際秩序」構想の対話という点で注目されました.両者は,「多極的で均衡の取れた世界,多国間協力に基づく国際システムを強く支持すること.文化的な多様性を尊重した国際的対話の重要性」で一致したと伝えられていますが,今後どのように展開されるかが期待されます.
ここで示された「多極的国際秩序」での合意,諸国家の平等・公正に重きを置く中国と,合理的・持続的発展に重きを置くフランスとのニュアンスの違い,そして両者が文化的多様性と国際対話を尊重することでの合意という枠組みが,世界社会フォーラムでもそのまま当てはまるようです.
「先進国と途上国の労働者・農民・市民が,世界の経済を牛耳る支配者との闘いで連携する」という試みは,今やっと緒についたばかりです.お互いをもっと知ることからはじめなければなりません.一つ一つの具体的な改良も大事にしながら,貧困と差別のない「もうひとつの世界」を作ろうということでは共通しているのではないのでしょうか.