枯葉作戦とは何だったのか

道 AALA 副理事長 鈴木 頌 

 

 この文章は当初、故レ・カオダイ先生(当時ベトナム赤十字総裁)が中央病院で講演していただいた際に、学習資料として作ったものです。いまから6年前、1999年のことでした。無事手術を成功させたドク君が中央病院を訪問するに際し、大幅に増補・改訂しました。あらためて、アメリカ帝国主義と闘うことなしに世界の平和も人々の健康な生活も保障しえないと痛感します。−2005年6月

 

アメリカにとって史上最大の戦争

 ベトナム戦争は、物量の規模からいえば第二次大戦をしのぐ史上最大の戦争でした。

 現在も正確な統計は出ていませんが、およそ300万人近くのベトナム人が死亡、400万人のベトナム人が負傷しました。また5万8千人以上のアメリカ兵が死亡しました。アメリカにとっても大変な戦争でした。アメリカ政府の発表によると、ベトナム戦争に使った費用は3520億ドルであったといいます。延べ650万人の若者が動員され、直接戦争に参加しました。1969年のピーク時には、南ベトナムの地に54万3千4百人のアメリカ兵が駐屯していました。

 ベトナム戦争のあいだに、アメリカは785万トンの爆弾(銃弾は含まない)を落としました。あの第2次世界大戦中にアメリカが各戦場に落とした爆弾の量は205万7244トンだったことを考えると、面積あたりの爆弾はとんでもない量になります。

 アメリカが北ベトナムに落とした爆砲弾は、ベトナムの各施設を破壊しつくしました。小学校から大学までの各学校2923校、病院、産院、診療所1850ヶ所、教会484ヶ所、寺、仏塔465ヶ所が灰燼に帰しました。

 そのなかでも、戦争後も長期にわたり人々を苦しめているのが、枯葉剤による被害です。


枯葉剤の使用法

 アメリカは1961年から、南ベトナムの解放運動を阻止するために、軍事介入を開始しています。それが本格化するのは63年にケネディが暗殺され、ジョンソンが大統領になってからでした。しかし「枯葉作戦」はそれよりずっと前、61年11月には開始されています。

 「枯葉作戦」のそもそもの目的は、第一に解放戦線の隠れ家であるジャングルを絶滅させることです。そして同時に、解放区で作られる農産物を汚染し、食べられなくすることも目的としていました。

 

 散布面積の合計は、170万ヘクタール。南ベトナムのジャングルの20%、マングローブ森の36%に及びました。これは、四国全体の面積にほぼ匹敵します。枯葉剤の散布量は、1ヘクタールあたり平均して27リットルといわれます。

 対象の多くは密林で、水田や耕作地への散布は14%ほどでした。ベトナム戦争の最も激しかった60年代半ばには、解放戦線の補給路とされた「ホーチンミン・ルート」周辺の密林に集中して、大規模な散布作戦が繰り返されました。

 71年に催奇形性の報告が相次ぐ中で作戦が中止されましたが、それまでに投入された薬剤は72,300立方メートル、溶剤以外の有効成分は55,000トンに及びました。


枯葉剤の種類と作用

 散布された枯葉剤は、日本でいう除草剤に近い薬剤で、エージェントと呼ばれましたベトナムでは主にオレンジホワイトブルーの3種類のエージェントが用いられました。オレンジホワイトは、植物の成長や代謝を阻害するものです。

 このうち特に大量に使用されたのがエージェント・オレンジでした。これは2・4−D(ジクロロフェニキシ酸)と2・4・5−T(トリクロロフェノキシ酢酸)の混合物です。ホワイトは、2・4−Dと4−アミノ−3・5・6−トリクロロピコリン酸の混合物です。

 稲を枯らすのにはオレンジやホワイトでは効果が薄いため、ブルーと呼ばれる薬剤が用いられました。ブルーは、カコジル酸を元にしたもので、植物の脱水化をもたらすことによって、枯れさせるといわれます。

 通常の散布作戦の場合、エージェント・オレンジを搭載したC123輸送機が、2機編隊で出動します。危険地帯へ出動するときは、F-4ファントムが護衛の任につくこともありました。

 現場の森林上空に達すると、翼面と胴体後部のノズルから薬剤を噴霧します。散布から24時間以内に木々の葉は変色を始めます。そして1ヶ月すこしで落葉します。

 つぎつぎに生まれる新芽を殺すため、除草剤は繰り返し撒かれる必要がありました。またその濃度は通常使用時の10倍に及びました。こうして枯葉剤は、密林のあらゆる植物を殺してゆきました。


ダイオキシンとは何か?(ちょっと難しいぞ)

 ベトナムで使用された三種類の枯葉剤のうち、エージェント・オレンジには、大量のダイオキシンが混入していました。散布量から換算すると総量170kgに達すると見られています。

 

2,3,7,8−ダイオキシン

 

 史上最悪の毒物といわれるダイオキシンは、正式名称を「ポリ塩化ダイベンゾダイオキシン」といいます。化学構造はその名のとおり、二つのベンゼン核(いわゆる亀の甲)が二重酸素結合し、結合部以外の炭素に塩素が結合したものです。

 ダイオキシンはひとつの化学物質ではなく、どの炭素にどのように塩素が結合するかによって性質が異なってきます。理論的には75種の同族が存在し、毒性は千差万別です。

 その中では、「2,3,7,8−ダイオキシン」の毒性が最強です。この他に「コプラナーPCB」と「ジベンゾフラン」も毒性が強く、これら三つは「ダイオキシン類」として同等に扱われています。ダイオキシンの急性毒性はあのサリンの2倍、青酸カリの1000倍といわれています。

 ダイオキシン類は常温で白色の個体です。水には溶けにくく脂肪にはよく溶けます。吸収されたダイオキシンは脂肪組織に蓄積します。半減期は3〜10年といわれ、きわめて代謝を受けにくいとされます。

 1958年にウサギが極微量のダイオキシンで死んだことが、ドイツの学者により最初に報告されました。おなじ頃、米国でもダイオキシンの混入した飼料を与えられたヒヨコ数百万羽が死んでいます。しかしダイオキシンの名を一躍有名にしたのは、ベトナム戦争で用いられた枯葉剤です。

 アメリカ軍が撒いた枯葉剤によって、流産や奇形の発生が多いことが報道されるようになりました。そしてエージェント・オレンジに大量のダイオキシンが混入していることが明らかになりました。このことを通じ、ダイオキシンは史上最悪の毒物として有名になったのです。

 最近ごみの焼却との関係でダイオキシンが話題になっていますが、これはダイオキシン類が1300℃の超高温でしか高速分解しないからです。サリンは、空気中の水蒸気にさらされると無害になりますが、ダイオキシンは湿気にも高温にも強いのです。低温で焼却したごみには、ダイオキシンが濃縮されて含まれてしまうことになります。

 カネミ油症事件(68年)、イタリアのセベソ農薬工場爆発事件(76年)については別に報告があるので、そちらをご参照ください。「ダイオキシンの基礎知識」というページが大変よくまとまっているのでそちらもご参照ください。「母は枯葉剤を浴びた」中村梧郎著は、いま文庫本で気軽に買えますので、ぜひご参照ください。レイチェル・カーソンの「沈黙の春」もついでにどうぞ。


ダイオキシンの人体への影響(かなり難しいぞ)

 カネミ油症事件ではPCBを摂取した人の中から、にきび・体重減少・肝障害・心筋障害・ホルモン異常が現れました。さらに学習能力の低下など中枢神経症状も出現しています。(正確に言うとPCBではなくポリ塩化ジベンゾフランという狭雑物質)

 ダイオキシンの1日あたり摂取許容量は、農薬の100万分の1です。このことはダイオキシン類の毒性が農薬より100万倍強いということを表わしています。

 農薬などの有害物質は、細胞の中の酵素・遺伝子・染色体などに直接作用して、これらの働きを傷害します。その結果、健康が侵されることになります。このようなかたちで健康が害されるには、かなり高濃度の化学物質が必要です。

 ダイオキシンがなぜ微量で生物効果を発揮するかは、「環境ホルモン」説で説明されています。

 ホルモンはホルモン産生臓器から分泌され、血液を流れて標的細胞に到達します。そこで細胞のなかにあるホルモン受容体と結合して細胞核に入り、遺伝子を活性化させます。活性化した遺伝子は蛋白の産生などさまざまな作用を引き起こして、人体機能を調節することになります。ホルモンの役割は情報機能だけですから、その量はミクロどころではなくナノとかピコという微量でも足りるのです。

 「環境ホルモン」説は、ダイオキシンがホルモンに成りすまして、遺伝子を狂わせてしまうというものです。自ら人体を傷害するのでなく、誘導された遺伝子が暴走していくので、極微量のダイオキシンでも重篤な障害を引き起こすことが出来ることができるわけです。

 この節は、ダイオキシンが先天障害などを起こす機序の説明であり、現在主流となっている仮説を提示したものです。都合上すごく単純化しています。
 あくまでも肝心なことは、ベトナムでの疫学調査によって枯葉剤散布と先天奇形などの障害との関係を立証することであり、「ダイオキシン猛毒説」や、「環境ホルモン説」を立証することではありません。

 


ベトナム戦争における枯葉剤被害

 ベトナムでもカネミ油症と同じような障害が出ました。違っているのはそれが空から降り注いだということ、あたりが薄暗くなるほどの大量の薬剤に暴露されたということです。

匂いのする雨
飛行機が低く飛んで、それは雨のように降ってきた。オレンジ色のこともあった、白い液のこともあった。黒い液体も降ってきた。…なんせ逃げる場所がない。体は濡れるにまかせていた。するとめまいがして、目の前がくらくらとして、意識が遠くなり、鼻血がたらたらと出たと思ったら、気を失っていました。水牛や豚が血を吐いて死んでしまった。(轡田「枯葉作戦の傷跡」より)

 しかし急性期障害の恐ろしさもさることながら、最も恐ろしいのは生殖障害や発ガンなどの遅発性障害です。表@に、枯葉剤の撒かれた地区で行われた健康被害調査の結果を示しました。

 この表からは、枯葉剤が散布されたベンチェ省の各地区で、枯葉剤散布前に比べ、流産が2.2〜2.7倍に、奇形は約13倍になっことが分かります。 


  @ベンチェ省の枯葉剤散布地区で行われた先天異常発生調査結果

先 天 異 常

散布前(A)

散布後(B)

B/A

流産 ルンフー村

5.22 %

12.20 %

2.3 倍

    ルンファ村

4.31 %

11.57 %

2.7 倍

    タンディエン村

7.18 %

16.05 %

2.2 倍

奇形児

0.14 %

1.78 %

12.7 倍

出典:綿貫礼子『自然』(1983.4)

 13倍という数は、統計的手法のいかんを問わない説得力を持ちますが、後ろ向き研究であり、対照群の信頼性には疑問が出るかもしれません。

 また枯葉剤被曝以外の要因、とくに飢餓と栄養障害の影響を排除できません。米軍は枯葉剤を撒いたあと、枯れ木にさらにナパーム弾を落とし燃やし尽くしました。枯葉剤に強い草本科の植物に対しては、害虫の卵を散布しました。孵化した害虫はたちまちのうちに稲などを食い尽くしました。それでも残ったところには、米軍兵がヘリでやってきて、農民の目の前で火炎放射器で焼き尽くしたそうです。
 

Aイエンバイ調査の結果

先 天 異 常

A群

B群

A/B

先天性奇形

3.14 %

0.21 %

15.0 倍

流産

14.42 %

9.04 %

1.6 倍

早産

2.01 %

0.61 %

3.3 倍

不妊

2.80 %

1.20 %

2.3 倍

出典:綿貫礼子『自然』(1983.4)

 表Aは、「イエンバイ調査」というかなり説得力のある疫学調査です。これは北ベトナムのイエンバイという人口三万の田園都市における悉皆調査です。地域としてはまったく枯葉剤に関係なく、ただ南での戦闘に参加した元兵士が1500人ほど住んでいるだけです。このうち結婚し子供をもうけた人は約1200人います。その配偶者はいずれも枯葉剤と無関係の女性です。

 この兵士を枯葉剤を浴びたA群786人と浴びなかったB群418人に分け、比較対照しています。

 この表からは、枯葉剤に直接さらされた兵士の子供たちも、明らかに影響を受けていることが分かります。これは、枯葉剤が精子に影響を与えているためでしょう。

 これらの調査を通じて、先天奇形の頻度が異常に高いことに気づきます。これが枯葉剤被害のひとつの特徴かも知れません。胎内死にいたらない程度の胎児異常ということがいえるかも知れません。部位別に見た先天異常は先天性心疾患が約4割、無脳症など頭部疾患が2割を占めるなど、特異的なものはありません。

 アメリカでも、ベトナム帰還兵とその家族に、癌から子供の発育障害にいたるさまざまな疾病が現われました。今日では、その原因が枯葉剤に混入していたダイオキシンであったことが確実視されています。

 70年代後半にはアカゲザルにダイオキシンを投与するいくつかの動物実験が行われ、きわめて高率な生殖障害の出現が確認されています。今日でもこの実験結果に異論はないようです。

 1993年、アメリカ科学アカデミーが、枯葉剤暴露とさまざまな健康障害の関係を調査した報告書を発表しました。これによると、「ダイオキシンへの暴露は軟部組織腫瘍・非ホジキンリンパ腫・ホジキン病の3種類の癌を発症する可能性がある」とされています。劣化ウランの場合と異なり、米国は枯葉剤とそれによる障害との因果関係を公式に認めていることになります。

 


いまも残る枯葉剤汚染

 戦争が終わって30年余りたった今も、枯葉剤による被害はきわめて深刻です。とくに強調しなければならないのは、ベトナム戦争が終わってから生まれた子供たち15万人に、重篤な疾患をもたらし続けていることです。

 故レ・カオダイ先生の報告によれば、ベトナム全土で100万人を超す人たちが、いまなお外形的障害、ガン、神経障害、免疫障害、流産、遺伝疾患などで苦しんでいます。重大なのは、ダイオキシンによると見られる障害がいまもなお、新たに発生しているということです。

 ホーチミン市(旧サイゴン)の市立ツーヅー産婦人科病院は、枯葉剤被害者のセンターとして有名な病院です。ベトちゃん・ドクちゃんが分離手術を受け、いまも暮らしている病院でもあります。多くの日本の方が訪問し、多くの報告を出していますが、どんな方にも丁寧に対応してくれるようです。

 そこのデータを見ると、年間およそ3万件の出産があるようです。一日当たり100人近い分娩数です。そのうち先天障害の比率がおよそ300件、1%に達するといいます。(申し訳ありませんが、直接データに当たっていないので、それぞれの文献をお読みください.日本では妊娠早期に出生前診断が行われ、満期分娩にまで至らないケースもかなりあるため、一概に比較はできません)

 03年、ドイツの Schecter らは、中部ベトナムで人々が毎日食べている食物をサンプリング調査しました。その結果、「いくつかの食品が許容濃度をはるかに越える高濃度のダイオキシン類で汚染されていた」と報告しています。例えば放し飼いのアヒル、ニワトリや川魚などです。これらの結果は、枯葉剤のもたらしたダイオキシンが、いまもなお、環境中に広く残留していることを示しています。

 戦争の加害者である米国政府は、いまだに枯葉剤被害の責任を負おうとしていません。ベトナムでは昨年、「枯葉剤被害者協会」が設立されました。そして、当時枯葉剤を製造したダウケミカル社など七社を相手取って裁判を起こしました。しかし今年3月、ニューヨーク連邦地裁はこの訴えを棄却しました(現在控訴中)。

ダウケミカル社などはすでに20年前、ベトナム帰還兵の枯葉剤被害集団訴訟に対し、総額1億8000万ドルを支払うことで和解しています。ベトナム戦争の枯葉剤被害者に支援を」(http://www.vysa.jp/aovn/)をご参照ください。

 

【付録】ベトナム戦争とは何だったのか

 第二次世界大戦終了直後の1945年8月19日、ベトナムは独立を宣言しました。ハノイ、フエで蜂起が起こり、ベトナム民主共和国が樹立されました。国家主席にはホーチミンが就任しました。

 しかしその1ケ月後、旧支配者フランス軍がふたたび戻ってきて植民地支配を復活しました。1946年9月26日、北部を解放したホーチミンは、ベトナム南部の国民に独立闘争を呼びかけました。この「第一次インドシナ戦争」は長期化し、次第にフランス軍は消耗していきました。

 1954年、有名なディエン・ビエン・フーの戦いでフランス軍は、大敗を喫しました。その後のジュネーブ会議で、ベトナムは北緯17゜線を境に2つの国家に分割されました。南ベトナムでは、アメリカの後押しを受けたゴン・ジン・ジェムが指導者となりました。

 ジェム政権は祖国統一を定めたジュネーブ協定を裏切り、腐敗を強め、反対者へは厳しい弾圧で応えました。ジェム政権への反対運動が激化していくなかで、1960年12月「南ベトナム民族解放戦線」が結成されました。民族解放戦線はアメリカと南ベトナム政府に宣戦布告し、「第二次インドシナ戦争」が始まりました。

 アメリカは本格的な軍事介入に乗り出しました。61年にはゴン・ジン・ジェムを放逐し、軍事政権を樹立。その「要請」に応えて、膨大なアメリカ軍がベトナムへ送リ込まれました。

 強大な軍備を持つアメリカ軍に対し、解放戦線はジャングルでゲリラ戦を挑みました。戦争は泥沼化し、アメリカ軍も多大な損害を被むりました。

 アメリカ軍は、解放戦線の根拠地であるジャングルに、大量の枯れ葉剤を撒きました。北ベトナムへの空爆も始めました。しかし60年代後半になると、次第に解放戦線の優位が明らかになり始めました。アメリカ国内では、多大な人的損害と莫大な戦費から、次第に反戦運動と厭戦気分が高まっていきました。

 ジョンソンに代わり大統領となったニクソンは、北爆を停止し、撤退への道を模索するようになりました。パリで、北ベトナムとアメリカの交渉が行われ、1973年、和平合意が調印されました。これにより即時停戦とアメリカ軍の撤退が決定しました。

 その後もアメリカは、南ベトナムのカイライ政権への大規模な軍事援助を続けました。米軍を肩代わりした南ベトナム軍と解放戦線のあいだに戦闘が続きましたが、南ベトナム軍の敗勢は次第に明らかになりました。

 75年初め、北ベトナム軍と解放戦線は最終総攻撃に転じ、各地で南ベトナム軍を壊滅。次第にサイゴンへ迫りました。こうして4月にはついにサイゴンが陥落し、ベトナム全土が解放されました。第二次世界大戦の終わった日から、実に30年をかけてベトナムは民族独立をかちとったのです。

 
【付録コロンビアにおける枯葉

 アメリカは数年前から、南米コロンビアでも除草剤を大量散布しています。これはコカイン畑を絶滅させるための作戦とされていますが、実際にはコカインも一般作物も関係なく、高い空から、あたり一面にばら撒いているというのが実情です。低いところを飛ぶとゲリラに撃ち落されるからだそうです。

 ベトナムで枯葉剤が問題になったのは、エージェント・オレンジに不純物としてふくまれていたダイオキシンによるものです。コロンビアではこれとは違う「グリホサート」(商品名ラウンドアップ)という薬剤が用いられているので、ダイオキシンによる汚染の心配はありません。しかし現実にはさまざまな健康被害が報告されています。

 「ラウンドアップ」を製造しているのはモンサントという会社です。この会社は遺伝子組み換え大豆も製造しています。遺伝子組み換え大豆は「ラウンドアップ」に耐えられる能力を持つように遺伝子を操作されています。

 この大豆を植えた畑にどっぷりと「ラウンドアップ」を振り撒けば、大豆以外には草木一本成長しないことになります。それは「沈黙の春」を髣髴とさせるおぞましい光景です。モンサント社は行きかえり往復で大もうけし、消費者は「ラウンドアップ」漬けの大豆を食わされることになります。

 
【付録3】ドク君の社会活動をどう見るか

 4月30日の中日新聞に次のようなコラムが掲載されました。

 良く練られた文章だと思います。そして読む人になにか考えさせる中身を持った文章です。

 筆者は繰り返し問いかけています。 彼は「戦争の負の象徴」としての役割を引き受ける必要があるのだろうか? 

 重い問いかけであり、どう答えるべきか、悩むところです。 私の答えは「ある」と思います。もちろん彼にその「義務」はありませんが…

 私たちにとっては、ぜひとも「役割」を引き受けてもらいたいのです。それは私たちが戦争に反対し、戦争犯罪に反対し、核兵器に反対し、枯葉剤に反対し、劣化ウラン弾に反対し、そのために声を上げようととしているからです。

 その際だいじなポイントが二つあります。

 ひとつはかつての「ドクちゃん」、いまのグエン・ドクさんが「戦争の負の象徴」なのか、それだけなのか? ということです。たしかにツーヅー病院の標本室にホルマリン漬けになった人々、写真に映された「ベトちゃん・ドクちゃん」の姿は、「戦争の持つ悪意」そのものです。

 しかし私たちの目の前にいるグエン・ドクさんは、アメリカの「ジェノサイド」という邪悪な意志を跳ね返し、多くの試練を自らの生命力によって乗り越え、多くの人々の善意によって生かされ、今を生きているひとつの生命です。確かにドクさんは「戦争の負の象徴」ではあるが、善き人々による平和な未来を示唆する「正の象徴」でもあると私は思います。

 ドクさんが生き生きと今を生きること自体が、自然と人類の生命力を確信させ、人々の善意の力を確信させ、ベトナムの山野に豊かな緑がよみがえる日、戦争も貧困もない「もうひとつの世界」が実現する日を確信させてくれるのです。

 もうひとつのポイント。ドクさんの生は厳しいものです。部分的には、もうひとつの生によってあがなわれた生でもあります。その厳しい生を生きるため、成人に達したドクさんは、その生の意味を問わずにはいられないでしょう。

 ドクさんが平和の実現のために自らの役割を担おうとすることは、ドクさんが「ひとりの人間」として生きようとする決意とおなじものです。だからこうして向かい合うだけで、そのことがとてもうれしく感じられるのです。

 広島・長崎に原爆を落とし、ベトナムに枯葉剤を降り注ぎ、イラクに劣化ウランをばら撒いたアメリカは、いまもなお世界中で、人々に対する攻撃の手を緩めようとはしていません。そのアメリカのジェノサイド攻撃を受けながら、これまでを生き抜いてきたドクさんは、人々の平和への決意のひとつの「象徴」なのではないでしょうか。