臨床現場からみた被爆者の健康問題
曉(あかつき)部隊被爆者の健康診断を通じて
この文章は,「原子力と人類」(リベルタ出版)という本に掲載されたものです.この本は1989年夏,札幌で開かれた第15回原子力発電問題全国シンポジウムの報告集です.私はこのシンポジウムで,上記の演題で報告しました.広島の原爆後障害研究会でも,ほぼ同様の内容で報告をおこなっています. |
独自の被爆者健診
北海道では一九六六年以降、被爆者の強い要望に応え、広島原爆病院より石田定先生が出張され、健診にあたっておられた。石田先生にたいする尊敬は、いまでも北海道の被爆者のあいだで語り草になっている。しかしやはり地元に安心してかかれる病院がほしいという希望も強まってきた。
七二年一〇月に被団協は、「勤医協(北海道勤労者医療協会)で被爆者医療法にもとづく健診を実施してほしい」と協力の要請をおこなった。しかし道の指定した被爆者健診機関は市内大手の病院のみで、非指定の勤医協札幌病院では不可能であった。また勤医協自体の力量も、今日とはくらべものにならないほど弱体だった。しかし職員はこの訴えを真剣に受けとめた。こうして七三年初めには勤医協、被団協に原水協も加わり、「被爆者健診をすすめる会」が結成され、医療法とは独自の健診が開始された。
勤医協札幌病院は健診指定機関ではなかったので、実施にあたってはさまざまな苦労があった。しかし被爆者の評判はまたたくまに広がった。他の病院では、「病気ではない」といわれたり、被爆者の心の痛みを受けとめない冷たい対応に、くやし涙をのんだ人たちもたくさんいた。道はその後も勤医協病院への健診機関指定をしぷりつづけたが、被団協を中心に道庁に働きかけを強め,ついに一七五年三月,勤医協札幌病院が正式に健診機関に指定された。
被団協(日本原水爆被害者団体協議会) 全国三七万人といわれる原爆被爆者の自主的組織。原水爆禁止運動の高まりに励まされ、一九五六年八月に結成。
被爆者医療法(原子爆弾被爆者の医療等に関する法律) 一九五七年制定。被爆者にたいし,(1)「被爆者健康手帳」の交付、(2)年二回の健診、(3)一般疾病医療費自己負担分の支給、を定めている。
健診をおこなう医療機関は都道府県が指定することになっており、大病院が指定される一方、健診に熱心な民医連の病院が指定されないという矛盾があった。被団協を中心に各地で民医連を指定機関とするよう運動が広がっている。北海道勤医協(北海道勤労者医療協会) 全日本民主医療機関連合(民医連)の一員。七二年当時、一病院一二診療所。現在は九病院二三診療所。
増える受診者数
その後の健診者の増加には目をみはるものがある。図Tは、五六年に筆者が担当となってからの健診受診者の経年変化を示している。上の線が道全体の受診者で,下の線が勤医協札幌病院の健診受診者である。同病院だけで約三分の一を占めている。登録受診者は二四四名で、全道被爆者の約四割に達する。広大な北海道の地理的特性を考えれば、勤医協札幌病院はまさしく全道の被爆者医療のセンターとなっていると言っても過言ではないだろう。
最近の受診者数の増加は、被団協によるガン健診実現のたたかい,被爆者掘り起こしの努力、とくに八八年春の道内被爆者いっせい調査を通じて深まった被団協、勤医協、原水協の連係強化が理由としてあげられるだろう。職員のボランティア活動で日曜に特別診療体制を組むなど,受診者のためにかかりやすさを追求したことも,受診者増加の理由としてあげられる.またこれまでさまざまな社会的条件のために、被爆者であることを隠していた人たちが、しがらみがなくなったことで新たに被爆者手帳を申請しはじめたこともある。
受診者が増えたのには喜べない事情もある。これには被爆者運動の歴史的経過について若干の説明が必要だろう。被団協は設立の当初から、原爆被害をもたらした国の責任を明らかにし、国家補償をおこなえという立場から、一貫して「被爆者援護法」の制定を訴えつづけている。この運動にたいする一種の妥協として、六八年に特別措置法が制定された。この法律によると、被爆者で指定した疾患をもつ人には、月々わずかながら健康管理手当という手当が支給される。
この手当は,ほんらい被爆者の生活援護という性格が強いものなのだが、八〇年の基本懇答申後、全国的に審査の厳格化というかたちで打切り攻撃が強まった。多くの病院が複雑な申請手続きを嫌がるようになってきた。その結果、勤医協札幌病院での再申請を希望して来院する被爆者が増えているのが,ひとつの現状である。
特別措置法(原子爆弾被害者に対する特別措置に関する法律) 被爆者であって、いまなお特別の障害にある人にたいし、手当を支給しその福祉を図ることを目的とする。その中心となるのが月額二万七〇〇〇円の健康管理手当である。
対象疾患が懇意的に限定され、三年ごとの更新が求められるなど、多くの不当な制限が設けられている。基本懇(原爆被爆者対策基本問題懇談会) 七九年に厚生大臣の私的諮問機関として設置。八O年、「戦争の犠牲は国民等しく受忍せよ」との答申を出し、援護法の精神を真っ向から否定した。
陸軍暁部隊
被爆者は一号、二号、三号、四号と区別されている。これは被爆者医療法の第二条にもとづく区分で、一号は政令に定められた区域内での直接被爆者、二号は爆発後二週間以内の入市者、三号は一、二号以外の死体処理・救護従事者、四号が胎内被爆者である。
二四四名の当院受診者中、約六割が広島での直接被爆者である。年齢分布をみると六〇歳代の男性が圧倒的に多いのに気づくだろう。これは軍人被爆者の人たちがひとつの集団を形成していることによるものである。軍人被爆者は約一〇〇名おり、全受診者の半分近くを占めている。これらの軍人のほとんどは、陸軍暁部隊に所属していた。
暁部隊は戦闘部隊ではなく、戦地むけの資材の船舶補給部隊だった。全国の軍港に散在し、各軍管区とは別に参謀本部の直接指揮下にあった。広島でも,広島城の第二総軍司令部とは異なる指揮系統にあった。爆心より約四キロ東南の広島市宇品港に同部隊の船舶練習部と司令部があり、教育隊や工兵補充隊などに分かれていた。ほかにも一部が江田島の幸ケ浦や仁保に分散していた。また船舶通信部および通信練習部は、市内中心部に近い比治山に配置されていた。このうち幸ケ浦は、戦争末期になるといわゆる人間魚雷の基地となっていた。したがって、同じ暁部隊でも一号被爆や二号被爆などに分かれている。
このうち通信部を除いた部隊は、原爆によりほぼ消滅した第二総軍に代わり、事実上,広島における唯一の実働部隊となった。爆発直後に宇品港に集結、ただちに舟艇により市内に進出、正午前には活動を開始している。負傷者を安全地帯に集結させたあと、夕刻にはさらに市内中心部に進出、大手町、紙屋町、相生橋付近で遺体処理等にあたった。一週間にわたり野営下に死体の収容と火葬、負傷者の収容、道路、建物の清掃,遺骨の埋葬、警備、食糧配給などの作業にあたったあと、一二日より漸次帰営している。
『広島原爆戦災誌』によれば、二日目ごろから下痢患者が続出し、帰投直後にはほぼ全員が白血球数三〇〇〇以下となり、下痢のほか発熱、点状出血、脱毛等が少なからずみられた。復員後も多くの者に倦怠、白血球減少などがみられたとある。
第二総軍 大本営が総括した軍。指揮官は畑俊六大将。市の中心部で被爆したため、ほぽ全減。
爆発後設置された広島警備司令部は市内を四地区に分け、佐伯中将指揮下の船舶部隊(暁部隊)に運用を一任した。
問診調査のまとめ
軍人のなかでも、被爆の形態や程度はさまざまである。また救援作業の日程や、作業の内容にもばらつきがみられる。しかしその多くは、市民とくらべて比較的軽微な直接被爆と、濃厚な残留放射能の影響のもとにあると考えられる。そこで今回われわれは、市民被爆者と比較しながら軍人被爆者の特徴を分析した。
まず、爆発直後および救援作業中の状況について調べた。意外なことに多くの軍人被爆者は、みずからも直接、かなりの被爆を受けている。約三分の一の人が火傷や外傷を負っている。その発生率においては、一般市民とのあいだに有意の差はなかった。
またさきに触れたように、多くの人が救援作業中に下痢や脱毛など急性放射線症を疑わせる症状を呈している。このようなエピソードがあったかどうかを調べたところ、やはり約三分の一が該当した。この調査でも、市民と軍人のあいだに有意の差は認めなかった。
残留放射能による被曝には、大きく分けて三つのルートがある。ひとつは大気や地面に残った放射能の照射による被曝である。それに食糧、飲料などのかたちでのいわゆる体内被曝である。広島では「ガスを吸った」という言いかたがよくされる。もうひとつが"死の灰〃である。"黒い雨〃として有名である。今回"黒い雨〃にあたったかどうかを調べたところ、三分の一があたったと答えた。ここでも両群間に有意の差はなかった。
残留放射能 原爆の爆発の瞬間に出る瞬間放射能にたいし、その後につづいて発生する放射能を総称する。ほとんどが"死の灰”のかたちをとる核分裂生成物である。
広島では二次放射能が非常に強かったといわれる.爆心から〇・五キロ以内に,投下四時間以内に入り、二日間滞在した人が受けた放射線量は、一・一キロの地点で直接被爆した人と同じくらいと考えられる。
健康調査のまとめ
被爆者は一般成人とくらべ多くの疾患を抱えている。その理由は単純ではない。被爆者健診は一般健診にくらべるとかなり入念におこなわれている。その結果、なんらかの異常が発見される頻度も高くなる。そのことも関係しているだろう。
一人あたり疾患数を表1に示す。これは臨床的に有意な内科疾患に限ったもので、わずかな検査値の異常や、データの裏づけのないいわゆる"不定愁訴"は含まない。
全被爆者の平均疾患数は一.八であった。これを市民と軍人の二群に分けてみた。市民の平均は一・四、軍人はニニ疾患で、有意の差を認めた。どんな疾患が多いかをみたところ、肝臓病が多いのが注目された。
そのなかにはアルコール性と思われるものや脂肪肝もふくまれ、一つひとつをとりだすとむしろ被爆の影響は否定的な例が多かった。しかしこれを統計としてまとめてみると,被爆者における肝臓の「弱さ」が示唆された。被爆者における肝疾患や肝ガンの多いことは、すでに学会でも確認済みの事実である。
そこで、ここでも同じく市民と軍人を比較したところ、市民一八%にたいし軍人二八%と有意の肝機能異常発生率の差を示した。もちろん軍人はすべて男性ということもあるし、生活上の問題、年齢分布の問題など検討しなければならない点はたくさんあるが、それにしてもこれだけの差が出たのは驚きであった。
ガンの発生率も高い。しかし受診者には健診を受けにくるだけの人が多く、治療は他の医療機関でおこなわれるのがむしろ普通である。またガンの場合、患者に真の病名が告げられないことも多い。したがってガンの発生率をみるのはなかなか困難である。このため、良悪の判定できない腫瘍もふくめ、「治療の対象となった腫瘍」をすぺてあげたうえで分類してみた。
発生頻度でみると軍人と市民のあいだには差はなかった。しかし軍人では胃ガンなど一般的な腫瘍が多いのにたいし、市民では乳ガン、肺ガン、咽頭部腫瘍など腫瘍発生部位の多彩さが印象的であった。
被爆状況との比較検討
今回の調査で健診受診者には、(1)疾病頻度が高いこと、(2)肝疾患が多いこと,(3)疾病頻度、肝疾患頻度ともに軍人被爆者の方が多いことがわかった。このためとくに肝疾患頻度に的をしぼって、被爆時の状況と比較検討してみた。
まず爆心からの距離と、肝疾患の頻度にどのような関係があるかを検討した。一キロ以内では全員に、ニキロ以内では約半数に肝機能異常を認めた。さらに軍人、市民の両群に分けて検討したが、特徴的な傾向は認められなかった。
問診の不備のため、また被爆時の状況から考えて、爆風、熱線などによる外傷と,その後の避難や作業中の外傷を区別するのは困難であった。また急性放射線障害を精神的ストレスによる精神身体症状と区別するのも困難であった。そこで両者を「傷病体験」として一括して、被爆の程度を示す間接的指標と考えることとした。
表2に、爆発時のケガや急性症状などの傷病体験と肝機能異常の発生の関係を示す。軍人では傷病ありの群で四七%の発生率にたいし、傷病なしの群では二一%で、二倍以上の差があった。一方市民では傷病の有無にかかわらず発生率は二五%で、まったく差を認めなかった。
つまり、より濃厚に放射線被曝を受けたと思われる群でも、軍人ではより高い肝機能異常の増加率を示す一方、市民では増加を認めないということになる。この結果は、軍人と市民とで被爆の形態が異なっていた可能性を示唆している。
市民の多くは、被爆直後できるだけすみやかに爆心から遠ざかっている。縁者などの探索にはいるのは、翌日以後のことが多い。それにたいし、軍人の多くは被爆直後爆心に進出し、そこに駐屯している。現時点では余りに仮定が多過ぎ、相当大胆な言いかたになるが、残留放射能が肝機能にたいしなんらかの影響をおよぽしているのかも知れない。
黒い雨 原爆の爆発によって生じた放射性物質は、チリに付着し空中をただよう。これらが徐々に落ちてくる(フォールアウト)のが"死の灰"である。
一方、爆発によって生じた熱気は、上空で冷やされ雨となる。この雨には大量の"死の灰。が含まれている。これが"黒い雨。である。
広島では、爆発により巨大な積乱雲が発生、一時間後から約二蒔閻にわたって西部一帯に豪雨があったとされる。
八七年、増田善信氏は当時の原資料をもとに独自の聞き取り調査などを重ねた結果、黒い雨の範囲が従来考えられていたよリはるかに広範で、四〇キロにもおよぷことを発表した。
これによると、雨がなかったと考えられた爆心から南東の仁保、海田地区にも、爆発後三〇分ほどでわずかながら雨が降ったことが明らかとなった。
(「赤旗」八七年五且二四日号)
結論はチュルノブイリが…
残留放射能の評価については、現在もなお評価が分かれるところである。各種の調査によれば、直後の入市でも被爆量は最大二〇程度という結果が出されている。これは胃の透視検査三,四回分にしかあたらない。八九年六月に広島で開催された原爆後障害研究会でも、筆者の発表にたいし、広島大学原医研の鎌田教授がさかんにそのことを強調されていた。
しかし、脱毛や下痢などの症状が精神的ショックや疲労で説明できるとしても、白血球減少など他覚的所見はどうなるのだろうか? 従来の研究ではこれを確認不十分ということで捨てているようである。原爆後障害研究会での座長まとめでは,「そのあたりの議論は、いずれチェルノブイリが結論を出してくれるだろう」と述べられていた。
現在も被団協の努力により、新たに被爆者手帳の交付を受ける人が増えつつある。一〇〇名以上の軍人被爆者を追跡していくのは、世界と未来にたいする重要な責任である。今後、さらに検討を深めたい。
本稿を執筆するにあたって、元暁部隊の被爆者である酒城無核氏ほか被団協役員の方々から多くの貴重な塾言をいただいた。また原稿の校閲を、広島市福島生協病院の斎藤糺院長にお願いした。二人のご厚意に厚く感謝する。
(北海道勤医協札幌病院 鈴木 頌)