2010年

「純粋理性批判」読書メモ

 初版への序文

理性について

@「理性」(Vernunft)とカントが言うのは、前後の文脈から判断すると、「人類の叡智」ということになるでしょう。しかしこれでは、いささか抹香くさいので、「知識の体系」と置き換えてもよいかもしれません。ただ「知識の体系」というと集合名詞のように誤解するかもしれません。

肝心なことは、カントの言う「理性」は個々人に属すものではないということです。我々が日常的に使うような「あの人は理性的な人だ」とか、「もっと理性的に行動しよう」というのは、「野生的」という言葉と対を成しています。頭脳の働きを重視し、冷静かつ常識的、クールでスマートな行動・思考様式を指しますが、元々の「理性」という言葉はそんなに安っぽいものではないようです。

Aカントの「理性」の使い方は、それまでの哲学一般で使われていた用法ともちょっと違っています。Wikipediaで「理性」の項目を見ると下記のようになっています。

人間存在に本来的に備わるとされる知的能力の一つである。平たく言えば推論(reasoning)能力である。

これはどちらかといえば、我々の日常用語に近いニュアンスです。

古典ギリシア語では論理と理性を表す語はともにロゴスであった。このロゴスという語は、元来は、比や割合という意味を有していた。そこから、ラテン語でも同じ意味を持つ“ratio”がロゴスの訳語とされた。セネカによればこれはキケロによる訳語であるという。フランス語や英語で理性を意味する語(Raison, Reason)もその流れを引き継いだ。

ということなので、日本語だと「理屈」という言葉が近いかもしれません。ただ「理屈」というと、「理屈っぽい」とか「屁理屈をこねる」とかネガティブな用法が多いのですが…

B理性は二段階に分かれる

最初は経験的な事実から導かれる諸原則。しかし人間はここから出発し、経験とは遠くはなれたものに達する。すなわち「純粋理性」である。しかしこの純理論的な諸原則は、その当否を経験によって確認することができない。これらの純理論的諸原則の当否を吟味する学問を形而上学という。

つまり理性は経験的・帰納的理性と先験的・演繹的理性の二段重ねになっているということです。そして先験的・演繹的理性を対象とする学問を形而上学というのです。

C「形而上学」へのカントの思い

「形而上学」へのカントの思いこそが、この「純粋理性批判」を書いた大本にある動機です。要するに理性には、「そういう先験的・演繹的に導かれたものだってあるじゃないか。それが経験によって証明できないからといって、すべてを水に流すというのはおかしいのじゃないか」と言いたいのです。

これはおそらくイギリスの経験論哲学、なかでもヒュームの不可知論に対する批判でしょう。イギリスの批判哲学は中世からの神学の独断的教義に対する反抗でした。「神の教え」を真実として押し付けようとする教会と既成権力に対し、「正しいから信じろというけど、俺は信じないよ。悔しかったら経験的事実に基いて証明してみろよ!」という挑戦です。

D「純粋理性批判」は形而上学の近代版  

カントはドグマの闇から人間を解き放ったイギリス経験論哲学に敬意と共感を示しつつも、「人間の叡智を、経験的事実に導かれた諸原則の枠内に押し込めるのはあまりに貧しい考えではないか?」という思いを抱くようになります。そして形而上学の批判的再検討を試みんとするのです。もし形而上学が復権するとすれば、それは「現代の成熟した判断力」をもって「先験的・演繹的諸原則」と思われる対象を吟味し、そこをパスしたものだけを受け入れるようにすればよいと考えます。

そして「この法廷こそが。純粋理性批判である」と大見得を切ることになります。ここはかっこいいところです。

私たちの時代はそもそも批判の時代であって、すべてのものが批判されるべきなのだ。宗教はその神聖さによって、立法はその権威によって、批判を免れようとする。しかし、自由で開かれた吟味に耐えることのできたものだけが、神聖な尊敬を受けることを、理性はもとめている。

それはよいのですが、そこで吟味の手段として用いられるのは「理性の永遠で不変な法則」ですから、それ自体がドグマのそしりを受ける可能性は十分あります。この堂々巡りがこの本の晦渋さをもたらした最大の理由でしょう。

 

その後しばらくは、うんざりというか辟易するような自画自賛の言葉が並ぶ。がまの油売りの口上と思えばよいのだが、読者の読む気を喪失させるには十分すぎるほどだ。おそらくカントはこの序文を「キャッチコピー」のつもりで書いたのだろうが、悲しいかな、逆効果を生んでいるとしか思えない。

 

E知性(悟性)一般と純粋知性(悟性)

カントは純粋理性を吟味するに当たり、純粋理性を獲得するための足がかりとして純粋知性(悟性)というものを考え出します。これは人間の抽象的思考能力のことですが、その思考能力の真実性が確認できれば、思考能力を駆使して生み出した先験的・演繹的理性の真実性も結果として証明できるという論法です。

言葉の問題として注意しておかなければならないのは、「理性」は事物(体系)であるのに対し、「知性」は力であり認識・了解過程を形成する要素だということです。つまり理性を生み出す過程の真実性を以って、生み出されたものの真実性を証明しようというのが、カントの目論見です。

ただし、カントの「理性」はときどきぶれます。先験的・演繹的に思考する「能力」のことを指す場合もあります。カントが再構築された「形而上学」について語るとき、それは「純粋理性の力で築き上げられた知的財産の体系」として語られます。つまりそこでは、純粋理性は形而上学を形成する過程を作動させる原動力として考えられていることになります。

もうひとつ、カントは知性の力とは何か、その源は何かという点はあえて触れないで置くとしています。人類の叡智としての「理性」を議論するに当たっては認識・了解過程を作動させる力が存在することが必要なのであって、それが何に由来するのかは、個別的なもの(主観)もふくんで別の議論になるからでしょう。

 

 序論(初版)

第一節 超越論的な哲学の理念

まず言葉の意味から入りましょう。

人間の知性 昔は悟性と訳した。カントは「好奇心」という言い方もしている。これは力である。それは「感性によって与えられた感覚的な生の素材に働きかけ」、“経験”という産物を生み出す。これを経験的認識という。

先験的認識 人間の知性は、経験によらない認識も生み出す。ただしこれが経験的認識を普遍化することによって生じる認識なのか、まったく経験的認識とは断絶してアプリオリに沸いて出てくるものなのか?

先験的認識には二つの段階がある。まず経験的認識を組み合わせて抽象的概念を形成する場合、この組み合わせ方、整除の仕方、その形式は経験的認識からは説明つかない。それは経験からではなく思考から生み出されたものである。次にこれらの抽象的概念をさらに組み合わせて、高次の抽象的概念を形成すれば、最後には「経験のうちには対応する対象がまったく存在し得ない概念」が発生してくる。

その際、抽象的思考が扱うのは対象となる事物ではなく、その存在形式・枠組みなのである。逆に言えば、抽象的思考は事物そのものから離れてその存在形式・枠組みのみを対象とすることによって、初めて成立することになる。存在形式とは、現象形態(フェノメナ)のことではなくその表象(シンボル)である。

それを現代風に一言で言えば、「二次信号系」である。ある事物に名前をつけることによってラベリングし、その後は事物に直接触れることなく、名前、あるいは番号・記号を操作することによってはるかに大量の情報を操作できることになる。そして「二次信号系」の操作の仕方を学習・認識する過程が、先験的認識ということになる。

直観と理性 このような先験的認識を積み上げることにより、それは直観となる。以後の定石のようなもので、プロの棋士は定石をまさに「直感」として保持している。カントはこれを「たんなる純粋な概念とほとんど区別できない」としているが、同一だとは言っていない。おそらくカントは直感の集積・統合されたものとして理性を考えているのだろう。(わざと直感と直観を混同していますが、たぶんそれで間違いないと思います)

ここでカントは理性の誤謬の危険性について触れる。

…思索にふける人間の理性にとっては、自分の建造物をできるだけ早く建設してしまって、その後になってからやっと、建造物の土台が適切に構築されているかどうかを調べるという転倒したやり方が、いわばごく普通の“宿命”となっているのである。しかしそのときになると人間というものは、さまざまな言い訳を考えだして、建物の土台は強固だと言い聞かせて自らを慰めたり、後になってから点検を実行するのは危険であると拒んだりするものなのである。

 

第一節の後半は「分析的な判断と総合的判断の違いについて」と題された、非常に小難しい叙述が展開されている。

分析と総合は、ひとつの事物や概念を判断するに当たって、その要素に分解する方法(分析)と、それが含まれるより大きな概念に帰納する方法(総合)である。そして分析に比べると、総合的判断は非常に難しく、誤謬や独断の入り込む余地がある、と主張する。当然のことを難しく述べているが、後での議論の伏線かもしれない。とりあえず留意しておこう。

総合的判断とは要するに「集合論」である。“a ∈ b”を証明する方法をるる書き綴ったのが、このセクションである。“a”も純粋認識であるし、“b”はそれ以上に蒸留された抽象的認識であるから、経験的認識を基にしていてはその当否は判定できない。しかし抽象的であるがゆえに、“a”という表象と“b”という表象をその形式面から操作するならば、“a ∈ b”は数学的に証明できるのである。

とは言いつつ、数学音痴の私には“集合”と聞いただけで鳥肌が立ちます。「デデキントの切断」などという言葉を聞けば、とたんに頭がギロチンで切断されて冷凍・仮死状態です。

総合的判断は情報処理技術で言えば、ファイリング、あるいはインデクシング過程となる。総合される側から見るとえらく話は難しいのだが、総合する側からは分析的判断をすればよいだけなので、話は簡単である。もちろん最初にインデックスを作るのは大変な作業だが、ある程度それが出来上がれば、後はサクサクである。

カントの文章は思いが溢れて、肩をいからせて書いているので、こういう風にさらさらと言ってしまうのも気が引けるのだが、「純粋理性批判」というのは結局、「知識(先験的認識)の取捨選択と整理・統合のためのマニュアル」ということになりそうだ。“kritik”は批判と訳すより判定法と訳したほうがぴったりする。

ここでまた、おどろおどろしい言葉が出てくる。

超越論的な認識 カント自身の説明では「対象そのものの認識ではなく、対象の諸概念を認識しようとする認識」なんだそうですが、よく分かりません。というのはなぜそのような言葉を使わなければならないかが分からないからです。抽象的な思考過程というのなら、先ほどまで「純粋認識」という言葉を使っていて、それですむ話ではないのか?

ところが次の節に入ると、超越論のオンパレードです。

 

第二節 超越論的な哲学の区分 

最初に超越論的な哲学は体系であるが、今は理念にとどまっていると述べられます。そしてこれを構築する際のマニュアルとして「純粋理性批判」が位置づけられています。つまりカントにあっては、再興されるべき「形而上学」と同じ意味で語られているようです。ただ私としては、そんな哲学が存在するのかどうか、はなはだ疑問です。むしろそこに構築されて行くものは自然・社会・人文を含む「科学」(サイエンス)そのものではないかと思えるのですが…。確かに哲学も「科学」といえないこともありませんが…

今日では人間の思考過程というのはかなり自然科学的に明らかになっています。五感を駆使した情報が大脳辺縁系にいったん集中され、外的刺激に対する構えが形成されます。これが駆動力となって新皮質の思考作業が開始されます。抽象的思考過程においては聴覚情報などが視覚情報に統合され記号化・言語化されます。この二次信号系情報が前頭葉で処理され、高次の判断へと結びついて行きます。この過程は超越論的認識過程そのものです。

この説の最後(ということは序論の最後)にカントの思いが素直に語られています。

人間の認識には二つの幹がある。それは感性と知性(悟性)である。これらはおそらく、まだ私たちには知られていないひとつの共通の根から生まれて来たものである。感性によって私たちに対象が与えられ、知性によってこの対象が思考されるのである。認識の対象は、ただ感性の条件のもとで与えられる。だから感性は、その対象が思考されるための「知性」の条件よりも先に考察しなければならない。

 

とりあえずの私の感想

カントは、「理性批判」という方法で形而上学(純粋理性の学)を形成するための足がかりを確立したと自賛していますが、それは幻想でした。

そもそも人類の理性はすべて経験を元に組み立てられているのであって、純粋理性などというものは存在しようがないのです。それはカントが純粋理性と信じたユクリッド幾何学や、ニュートン力学がその絶対性を否定されたことで明らかになりました。

したがって、新たな科学的事実は実験による確認がもとめられるようになりました。ある意味ではヒュームの勝利です。

ただ、「抽象的事実」の吟味の方法としてのカントの理論は生き続けています。それは何よりも、「物がある」、「物のある空間がある」という究極的な「先験的事実」の、ひとつの支えとなるからです。

 

カントは存在論を展開するに当たり、過程を捨象しました。過程は経験的であり、先験的ではないからです。「時間よ止まれ!」と叫んでから分析を開始するわけです。

カントの方法は写真による分析と似ています。たとえばある風景を認識するときに、言葉でさまざまに形容するか、スケッチブックに描くか、写真にとって分析するかどうかです。この中で写真にとるのが「正確」という言葉通りの意味からすれば正確です。

正確度をさらに高めるには、写真に物差しを当てたり、輝度や彩度を数値化して、統計的に割り出された公式に数値を当てはめて、「これは生命体だ」とか「これは95%以上の確率でミサイル基地だ」とか吟味すればよいのです。

過程があるからには物がある。これは自分自身を見つめたデカルトが「考えている」という過程が真実であることを前提に、自分の存在の真実性を結論したのと同じです。

 

もう少しひらったくいうと

「純粋理性」というのは、要するに記号的知識の世界を称しているようです。

ユークリッド幾何学とかニュートン力学の「定理」を中核として、「待てよ、それ以外にも、もう少しこの世界は膨らんでいるのではないかな?」と思いついたのが事の始めのようです。そこでいわゆる「学問の世界」をもう一度吟味しなおして、「これは感覚世界を離れて、十分客観的に真理といえるものだ」というグループを「仕分け」していくのです。

そうすると、いってみればその時々の歴史的条件や環境に左右されない「万古不易」の真理の世界が広がって行くのです。一言で言えば、「学問の世界」からの「科学」の分離でしょう。「科学」というのは自然科学だけではなく、社会科学、人文科学をもふくむ科学です。

そうすると二つの思いが湧き上がってきます。ひとつは「不易」の真理と、感性的・歴史的な条件を負った「相対的な真理」とに分けるとき、何をその判断基準にするのか、ということです。その鑑別法を一度会得すれば、後はサクサクと真理が拾い出されて、真理の世界がどんどん広がって行きます。広がって行けば、今度はどうしてもそれを分類して、インデックスをつけてシステム化したくなります。

カントは体系化の野望を最初から捨てて(ときどき色気を出すが…)、鑑別法の確立にその全精力を注ぐことになります。ひらったく現代風に言ってしまえば、事柄の真偽を鑑別するための「情報処理」の方法論です。