2007年夏 立ち上がるラテンアメリカ

エボ・モラレス:先住民の力

by Jubenal Quispe   

http://www.yesmagazine.org/article.asp?ID=1732

 

実に不思議なことに、エボ・モラレスがなぜボリビアで圧倒的な支持を集めているのか、左翼系の評論も含めて、きちっとした説明をしている文章がありません。わたしも現地まで行って、外務大臣と直接会って、日系議員の大物ナカタニさんからも話しを聞いたのですが、やっぱり良く分かりません。そのなかでは、現地の先住民活動家が書いたこの文章が、ナイーブな現地の雰囲気を伝えてくれているようです。ただ、エボはケチュアだとの話もあって、いまいち、良く分かりません。

 

エボ・モラレスの生い立ち

ファン・エボ・モラレス・アイマは、1959年10月26日、オルーロ州南カランガ県オリノカ村で生まれました。その境遇は貧しさと惨めさのただ中にありました。

彼は、母の“ポレラ”(Polleras:先住民女性の伝統的なスカート)の下から、ランプの光を借りて生まれました。母親の下からは7人の子供たちが生まれましたが、生き残ったのは彼をふくめて3人だけです。

これは公共の医療サービスがほとんどない、とても貧しい地域の中の現実です。そこでは、つねに、死が伴侶です。

Courtesy of MAS. Morales family
photo, 1976. 

 

1976年オリノカにて。17歳のモラレス(青色)がポーズをとっています。母親は右から3人目、父親は後列左から二人目です。そのほか、兄弟たちや家族が写っています。(MASの提供)  

 

エボは当時を回想してこう語っています。

「僕が4歳か5歳だったとき、僕の父は僕を連れてアルゼンチンまで行きました。僕の父はサトウキビ労働者で、アルゼンチンまでサトウキビを刈りに行ったのです。でもそこでは仕事がありませんでした。そこで僕たちは4日も5日も歩いたのです。食べ物は焼いたマカロニとお茶だけでした。ほかに何もありませんでした。そのときに、僕は最初の職を得ました。それはアイスキャンデー売りの仕事で、それでいくらかのお金を稼ぎ、家族の手助けをしました」

「僕はガリレアというサトウキビ農園で初めて学校に行きました。そこはアルゼンチンのフフイという町の近くでした。でも僕は生まれ育ったアンデスの山の言葉、アイマラ語しか話せませんでしたから、スペイン語はほとんど分かりません。僕はじっと座って黒板を見つめていました。でも結局は学校に通うのをあきらめてしまいました」

これがエボ・モラレスにとって、いまやボリビア大統領となったエボにとって、人生というものでした。これは彼がこの国の貧しい人たち、差別された人たちに対して示す敏感さを説明する助けとなります。

先住民の子どもたちは、エボの兄弟・姉妹たちがまさにそうだったのですが、貧困のうちに生まれ、一人前になるまでに亡くなっていきます。先住民はそうやって生き続けてきたのです。

数年後、故郷の村に帰ったエボは、リャマを飼い始めました。そして父親とともにリャマを追って旅を始めました。ボリビアの高原地帯(アルティプラノ)から、谷間の地帯へ降りて、農作物と交換するためです。

「僕らはリャマを追って何日も歩きました。僕はハイウエイを下ってゆく大きなバスをいつも思い出します。そのバスはたくさんの人々を乗せていました。バスの乗客はオレンジの皮やバナナの皮を窓から投げ捨てていきました。僕はその皮を拾い集めては食べていました」

エボはあくなき探究心によって指導力を磨いて行きました。その頃の彼を知る人々は、若きモラレスが休むことなくサッカーに興じ、さまざまな農村のチームをトーナメントに組織していたことを思い出します。彼は高校に通うために、レンガ積み、パン焼き、ラッパ吹きなど何でもやって学費を稼いでいました。

Courtesy of MAS. Evo Morales during a soccer game in
1983.
仲間のコカ栽培者とサッカーを楽しむ。1983年、チャパレ県で(MASの提供による)

1980年に入って、エボ・モラレスは体の芯まで凍りつくような高原の生活を放棄せざるを得なくなりました。突然の旱魃がアルティプラノを襲ったのです。彼はチャパレまで下っていきました。そこはコチャバンバ州のなかでも熱帯に属する地帯でした。そこで彼はうだるように暑いコカ畑で働くこととなりました。

彼が労働運動の指導者、あるいは政治的指導者としての生活を始めるようになったのは、まさにこの地域なのです。彼はコカ栽培者の組合、「サンフランシスコ協会」のスポーツ事務局員として活動を開始しました。そして、1996年には六つのコカ栽培者協会を合わせたチャパレ連合の会長に就任しました。

その1年後には国会議員に当選。そして国会議員として世界に向けて宣言したのです。「コカはコカインではない!」

エボはこの「聖なる葉」を、その意味が回復されるまで守り続けました。そしていま、それはボリビア民族の自決と尊厳のシンボルとなりました。

そのときから、彼はアメリカ政府に烙印を押されることになります。エボは当時を回想します。

「1997年はタフな年でした。僕はチャパレのエテラサマ(Eterazama)村にいました。あるときはアメリカ麻薬取締り局(DEA)のヘリコプターが飛んできて、地上の僕らに機銃掃射を加えました。たった数分のあいだに5人の仲間が死んでしまいました」

「それから、2000年のビリャ・トゥナリの人権事務所の本部の例の事件です。そこで僕は銃で撃たれました。しかし弾丸は僕をかすめただけでした」

2002年、アメリカ大使館の圧力の下で、国会はエボを除名しました。エボが人民の「軍事的自衛権」を擁護したからです。国会はそれを民主主義の名の下に行いました。政府が市民を流血の大虐殺へと追い込んでいるさなかにです。(数年の後、憲法裁判所はこの「追放劇」を憲法違反であると断罪しました)

彼は議会を去るにあたってこう声明しました。「いまや私は議会から放り出されようとしている。しかし必ずや、私は戻ってくるだろう」

 

社会運動の組織

Courtesy of MAS. Jail,
1985.

 

1985年、コチャバンバの監獄で(MASの提供による)

 

エボは国家の尊厳と主権について語りました。それはボリビアの天然資源の継続的収奪に直面したエボのゆるぎない態度の表明であり、社会の、先住民の、地方の、労働者の運動すべてを一つに結びつける意思を示したものでした。

エボの立場はさらに強化されました。専門職階層も彼を支持するようになりました。ネオリベラリズムの経済システムが失敗したことから、これに不満を持つ左翼知識人、経営者層も彼を支持するようになりました。

このようにして多くの社会セクターが連合しました。ワイシャツにネクタイ姿、ポンチョにポレラ姿、ジーンズ姿、先住民にメスティソ、左翼主義者とキリスト教者…、みんなが一つのゴールを目指して連合しました。

それは独立した、尊厳を持った多文化的なボリビアを建設すること、そしてすべての人々が、ともに豊かに暮らすことができるようにすることです。

2002年の総選挙で、エボを大統領候補に押し立てたMAS党(社会主義運動党)は驚異的な得票を獲得し、第二位を獲得しました。

そして2005年、ファン・エボ・モラレス・アイマは、ついにボリビア大統領に選ばれたのです。投票率は84.5%。エボとMASは、その53.7%を獲得しました。

これは、この国の従来の政治組織や泥棒政治家どもに加えられた最も厳しい打撃でした。これからもそうあり続けるでしょう。彼らはアメリカ政府の公然たる支持を受けたにもかかわらず、敗れてしまったのです。

「インディオはこの国の穀潰しだ」、彼らはそう考えてきました。だから先住民が彼らを政治的に征服するなどということは、到底受け入れられるものではありません。

この打撃は、モラレスの勝利が続けば続くほど、いっそう効いてきます。いずれは政治的分野だけでなく、道徳的な分野、知的な分野でも打撃が強まるでしょう。

反対派はマスメディアと同盟しています。そのことで公式の発言機会を独占し、公式の文化を独占しています。それにもかかわらず、モラレスに対する人気をひっくり返すことはできないのです。

それはなぜか? それはモラレスが社会的運動の意思に従って政治を行っているからです。

たとえば経済的な面で言うと、エボ・モラレスの政権は、前任者のすべてに教訓を与えています。2006年、ボリビア経済は記録的な黒字を残して年を終えました。天然ガスと石油産業を国有化したからです。

現在ボリビアは、何億ドルもの追加収益を受けています。それをモラレスは貧しい人たちを援助する行為に提供しています。

ベネズエラとキューバの協力で、エボは文盲と病気に対する「総攻撃」を開始しました。それは彼自身の経験、みずからの無学と不健康という個人的経験によって動機づけられています。

白内障のために視力を失った人々は、視力回復の手術を受けています。ホームレスには家が与えられ始めています。学齢期の子どもを持つ家庭は、政府から直接の援助を受け取るようになりました。

モラレスは、大統領になっても質素な生活様式を変えることはありませんでした。そして自らを規範として、政府役人の給料を50パーセント下げるイニシアティブをとり、行政の一つのスタイルを作り上げました。

 

先住民パワー

Photo by Indymedia Bolivia. 2005 Indigenous
solidarity march in La Paz.
2005年、ラパスに向かう先住民の連帯デモの隊列(Indymedia Boliviaによる)

彼が大統領に選ばれた今、ボリビアの先住民の生活は変わりました。

私たちの認識は一新されました。そして、私たちの土着の文化、異文化間のアイデンティティに対する誇りは、もはや変わることはありません。

それはかけがえのない精神的資産です。エボは自らを規範とすることによって示しました。それらは労働や規律に対する考え方とともに、この国に根付いたのです。

いまや、われらのエボは、たんなる民族の象徴としての位置からもっと先に進みつつあります。彼は南アメリカ地域の、そして世界中にとっての生きた規範になりつつあります。

「エボ・モラレスは共産主義者だ、テロリストだ、そうでなければ麻薬犯罪者だ!」という告発には根拠がありません。そんな言い草はもう気にするようなことではありません。

「北の帝国」は、もうアイマラ先住民を見下ろすことは出来なくなりました。母親のスカートの下から生まれ出たアイマラ人は、いま、こう叫んでいます。

「もう一つのボリビアは可能だ! もう一つの世界は可能だ!」

 

この歴史的変化は、わずか14ヶ月ではまだ不足です。政治的誤りもなかったとは言えません。そしてまだまだ実現しなければならない数多くの夢が残されています。

たとえばボリビア憲法を書き直すこと、土地改革法を適用すること(すでに成立している)、貧困と無知と腐敗に対して闘いを続けること、そしてボリビアの天然資源の収奪システムを覆すこと(持続可能な鉱業政策の適用によって)、その他もろもろです。

これらすべてのことを成し遂げることによって、私たちすべてが豊かに暮らすことができるようになるでしょう。