2 May 1996

Making the Leap from Local Mobilization to National Politics

(先住民運動の国政への飛躍)

Xavier Albo, NACLA Report on the Americas,

 

もう12年も前の、地味な報告を、どうして全文翻訳したのか? 
一言で言って「勢い」です。翻訳するのに1週間もかかってしまいました。ただ、エボ・モラレス政権は、その存在自体がいまだもってミラクルです。ボリビアに行く前は、何気なしに「そういうこともありだよね」と思っていましたが、むしろ帰ってきてからその「常識外れ」ぶりに戸惑うようになりました。報告会でみんなに説明しようと思ってもどうも伝え切れない、ということは、「やっぱり分かってない」のです。
我々の目の前で大皿に盛ったコカの葉を口一杯にほおばりながら、女性の権利について自説を展開する「インディオのおばさん」、それが国家のナンバー3だか4だか、というのはまさに想像を絶する世界です。こちらは「不思議の国のアリス」状態です。
この文章は、ボリビアがいかに「不思議の国」になったのかを跡付ける上で、いろいろヒントを与えてくれます。
まず第一に、先住民運動の高揚は1990年に始まったということ、そして95年の住民参加法の施行とそれにもとづく地方選挙で、政治への参加が加速されたこと。第二には運動の高揚のなかで、先住民運動の主導権が左翼と結びついた高地アイマラ族から、コカ栽培農民を中核とするコチャバンバに移ったこと。第三に、それは高地先住民運動と既成左翼運動の混迷の結果としてもたらされたこと。第四に、その新たな運動はアメリカの干渉、ネオリベラリスムの支配との対決姿勢を鮮明にしたことによって急速に支持を拡大したこと、などが浮かび上がってきます。
それらの傾向が10年後のモラレス政権の誕生へと結びついていったことが、かなりの説得力を持って了解されます。

 

先住民運動の象徴的な始まり

1990年、低地地方の十数の部族の約700人の男女が、サンタクルス県北部トリニダードの町からラパスまで行進を行った。700キロに及ぶこの歴史的な行進は、「領地と尊厳のための行進」と呼ばれた。

35日間の行進のあいだに、彼らはアマゾン熱帯多雨林から雪を頂いたアンデス山脈を乗り越え、首都を目指した。そして先住民の土地での伐採に抗議して、土地に対する法的権利を要求した。

その時、ハイメ・パス・サモラ大統領、閣僚、議会の代表団は彼らのもとに赴いた。行進半ばの、小さい亜熱帯の村Yolosaで、彼らは行進団と会見した。

行進団は政府の申し込みを拒絶した。その内容が不十分だったからである。

彼らは、歩き続けた。

彼らが、アンデス山脈の15,800フィートの尾根を越え、ラパスから25キロのところまで来たとき、行進団は、アイマラ族の兄弟・姉妹によって歓迎された。

風の中でさざ波が立っているように、アイマラの旗「wiphalas」がたなびき、儀式の角笛「pututus」がこだました。二つのグループは、いけにえのリャマとともに、連帯の協定に調印した。

天気は急変し雨と雪、そして輝く陽の光へと移ろった。何人かはこれを吉兆と予言した。

その同じ午後、行進団は大きな群集となってラパスの街に到着した。街に住む数千の人々が通りに並び、彼らを歓迎し声援を送った。

彼らが最終的な目的地、ラパスの中央広場の大聖堂についたとき、行進を率いた年老いた鼓手は、ひざを崩し大地に口付けしたあと、精力を使い果たして倒れこんた。

35日間の行進は、この700万人が住む国で、こうやって世論を奮い起こすことができた。その国では400万人がケチュア族あるいはアイマラ族であり、約20万人が低地に住み30の言語を話す先住民である。

行進団は、700万エーカーをカバーする9つの地域で、土地の権利の法的な承認を得ることにも成功した。

 

高地と低地の議論が生み出した「先住民」の概念

ボリビアでの民族の意識は、1970年代に高地で「カタリスタ・アイマラ運動」を通じて覚醒された。カタリスタの名は、18世紀の抵抗の英雄、トゥパク・カタリにちなんだものである。トゥパク・カタリはラパス周辺で反植民地の反乱を指導した。

しかし、1990年の行進以来、 先住民運動は、はるかに多彩なキャラクタを帯びることとなる。それはボリビアの中の、より小さい先住民グループの多様な要求を受け入れることになった。そして、先住民自身のなかでさえ相互に異なる権利を擁護するようになった。

アンデス山脈とアマゾン低地の先住民とのこのより強い接触は、運動のイデオロギーを研ぎ澄ますことになった。

アンデス山脈の先住民組織は、現在、「領土」が自らのスペースを意味すると認めている。そこでは人々が生きていく空間が形成される。それは単に耕地の一つの仕切りではないの。

つまり低地の先住民グループの「領土」はより広い意味であり、このことはいつも明確である。そして土地闘争の法的意味は、いまやこのことを念頭において初めて良く理解できるのである。

民族のアイデンティティの問題はまた、先住民をさす用語の正当性についての熱い議論を通じても正確になった。「indio」という言葉は、都市に住む先住民の小グループに受け入れられていた。「indigena」という言葉は低地のグループにより多く使われた。他に「pueblo」、あるいは「nacion」(国民)という言う言葉さえ用いられた。

これは、新しい「pueblos originarias」、あるいは「naciones originarias」という概念が生まれてきた経過である。その言葉が広がりはじめ、一般大衆のものになり始めた。

1990年の動員以来、ボリビアでの先住民運動は、かなりの歩幅で歩むようになった。現在ボリビアはアイマラ族副大統領を抱えている。それに加えて、現在の政府は、さらに先住民の権利を拡大する可能性を持つ「民衆参加法」など、多くのイニシアティブの先頭に立っている。

もちろん、現実は最初の見かけより複雑なのが常である。政府のネオリベラリズム政策は、根本的に先住民の利益に優先している。

運動そのものは、政府と協力する方法について多くの見解がある。政治の従来のゲームでどのように成功するべきかについて、まだ学ばなければならないことも多い。

 

何が「先住民思想」の復活を可能にしたか?

ちょうど40年前、ボリビア革命が起きた。政権を握った「民族革命運動」(MNR)は、1953年に農業改革を行った。MNRは民族の垣根を取り払い、近代的で単一のボリビア人として融合することを奨励した。

政府は先住民を「campesinos」と呼び変え、「indio」とか「indigena」の用語の使用を下火にさせた。それは「campesinoizacion」と呼ばれ、主観的意図はともかく、実際には先住民のアイデンティティの否定につながるものであった。

それならなぜ、1990年、大統領と閣僚たちはジャングルに出かけて行って、行進団と話し合わなければならないと感じたのか? 左翼政党は、いつからプロレタリアートのみならず先住民にも関心を抱くようになったのか? 何が政府とボリビア先住民の関係の変換を推進したのか?

ひとつの重要な変化は、階級モデルに基礎を置く伝統的左翼の考え方が、広い意味で崩壊したことにある。

ネオリベラリズム経済政策は、多くの鉱山や工場を解体した。それはかつてのボリビア労働者センター(COB)に組織された強力な労働運動を衰退させ、左翼政党の組織的基盤を弱めた。さらに東ヨーロッパの「共産主義」の崩壊は、社会主義ユートピアの見込みを消し去った。

そして、エスニックな問題は、迅速かつ正確に対応しなければならない。さもなければ、さらにエスカレートする可能性があることが、1991年の行進によって示されたからである。

その結果、一定の左翼政党は民族的要素を彼らの理論に組み込み始めた。それはすでにカタリスタや低地の先住民が時に触れて用いていたものである。投票箱の行方により深い関心を持つ中道派党は、民族問題にいち早く取り組んだ。

他の要因も先住民思想の復活を誘発するにあたって影響力があった。

1980年代の民主主義の強化は、より広範な運動主体に対し発展の余地を拡大した。

環境運動はグローバルな重要事項として登場した。この運動は、とくに処女地である熱帯雨林地方において、先住民を生来の同盟者としてみることがしばしばあった。国際的な環境保護主義者は、国際投資の前提条件として先住民と環境の利害を念頭に置くよう迫っている。そして多国籍企業や国際投資機関に圧力をかけるために、これらの国の先住民パワーを用いようとしている。

NGOのいくつか、さらに「バチカン2」以降のカトリック教会も、先住民の権利について焦点の一つを当てるようになってきている。

 

先住民組織は発展しつつある

先住民組織は先住民運動のなかで強化されつつある。諸民族の壁を乗り越えた同盟を創り出すことによって。

1992年、35日行進の2年後、「抵抗の500年」が祝われた。それは南北アメリカの大陸規模で、「500年祭」(コロンブスが新大陸を“発見”してから500年の記念祭)の無批判な祝賀への先住民の反応として展開された。

記念の中心目的は、「諸民族会議」の創設であった。それは高地の「農村労働者統一連合」 (CSUTCB)と、低地の「ボリビア先住民連合=東部、アマゾン、チャコ地域」(CIDOB)とのあいだで、一年以上も前から合意されていた。

彼らは、その年を「諸民族会議」の発足の年として記録したかった。それにより、先住民運動をうまく調整することが出来るよう願った。

1992年10月12日に、魅力的なイベントで人々を組織するこの運動の能力は、特にアンデス山脈の都市において、実に印象的なものがあった。先住民は、それぞれの地方コミュニティから中心諸都市へと行進した。それは象徴的な「乗っ取り」行動であった。

中央広場に民族の旗「ウィファラ」(wiphalas)が一面に林立した。それはボリビア国旗のまばらな存在を圧倒した。

 

 

先住民の旗(La Wiphala) no solo es una bandera, es también la representación del calendario luni-solar de las Naciones Originarias Andinas. http://www.katari.org/wiphala/wiphala.htm

 

それは虹の7つの色の格子縞模様で、pluriethnicな、そしてplurinationalな国という考えをたくみに図示している。ウィファラはもはやアイマラ族だけのものではなくなった。それは全ての先住民運動の旗、新しい国家ユートピアのシンボルになった。

見事な光景にもかかわらず、これらの動員の中心的目標はすべて失敗した。低地の先住民グループの代表は、ラパスで主要なイベントに出席していた。それは第一回目の「諸民族会議」へと続くはずだった。

しかしイベントは大失敗に終わった。各々のグループが互いに相手による政治的操作を恐れてしまったからだ。具体的な政治的立場の違いも運動を分裂させた。

CSUTCBの主要なリーダーは、「自由ボリビアのための運動」(MBL)とリンクしていた。それはマルクス主義者と進歩的な人々の組織した政党だったが、後に自らをネオリベラリズム勢力に合流させてしまった。

他の派は、「農民草の根運動」や「共同体枢軸」(現在はパチャクティ枢軸を名乗る)に近かった。それらはマルクス主義政党から分かれた政治集団で、右翼と明確に対決する姿勢を持たなかった。

先住民運動はいかなる有効な協定にも到達しなかった。激しい土砂降りの雨が、事実上集会を終了させ、「諸民族会議」を流産させた。それ以来、会議はたな晒しにされたままとなっている。

1992年の経験は、ボリビアの先住民運動に教えた。大規模な動員が容易に可能であること、そしてそれに比べ、堅固な代議制の組織を作るのは、多くの時間がかかるということを。

その後も先住民運動は、地域での成功した取り組みをいかに共通の教訓とするか、全国レベルで真のインパクトを与えうるような注目されるイベントをどう展開するか、という課題に取り組み続けた。

 

カルデナスの副大統領就任

1993年8月に、もう一つのマイルストーンがおかれた。アイマラ族の指導者ビクトル・ウーゴ・カルデナスが副大統領に就任したのである。カルデナスは、「トゥパク・カタリ革命解放戦線」 (MRTKL)の指導者だった。この組織は80年代に多数生まれたカタリスタ運動組織のなかで、実際に生き残った唯一の組織だった。

前にも述べたように、MNRは40年前に先住民のアイデンティティーを否定し、「campesinoizacion」を唱導した党である。その党がゴンサロ・サンチェス・デ・ロサダ大統領候補の伴奏者としてアイマラ族指導者を選んだということだけをとっても、それは時代の雄弁なサインであった。

ボリビアでもっとも古く、もっとも勢力のある政党が、ついに先住民問題の重要性を承認したかと思われた。民族の問題は国家のレベル、有権者のレベルで重要な役割を演じているという事実を。

MNRはカルデナスを選んだ。それは部分的には、成長しつつあるポピュリスト政党との対決が激烈となるのを恐れたからである。それは間違いない。対抗する政党は「祖国の良心」 (CONDEPA)という党で、「何でもやります」と公約し、首都ラパス地区のアイマラ族移住者に人気を博していた。

コンデパのカリスマ指導者「我が友パレンケ」は、彼のラジオ・テレビ番組を通じて草の根の人々にアイマラ語で訴えた。またコンデパは、その下院議員団長レメディオス・ロサが先住民であることを強調した。ロサはチョリータ(都市で暮らす先住民をチョロという。チョリータはその女性形)であり、ポレラ(先住民女性の伝統的スカート)を着た最初の国会議員だった。

MRTKLの展望からみても、副大統領のポストは魅力的なものだった。アイマラ族はこれまでこのような高いポストを手に入れたことはなかった。ましてそれが極めて高い成功の可能性を持っているのだからなおさらである。

カルデナスは立候補に同意した。彼が副大統領のオフィスからすべての先住民運動を強化することが出来ると信じたことは間違いないだろう。

MNRの切符を買ってそれに乗るというカルデナスの決定は、国家とボリビア先住民運動のこれまでの複雑な関係を念頭において考えなければならない。

CSUTCBとCIDOBというボリビアを代表する二つの先住民組織は、政府への態度に関して際立った違いを見せていた。低地のCIDOBは政府との協力を望んでいた。これとは対照的に、高地のCSUTCBの指導部には、伝統的に政府への強い拒否が貫かれてきた。

これらの異なったスタンスは、ボリビアにおける先住民グループの歴史的な違いに根ざしている。低地の先住民は最近政治的ゲームに加わったばかりである。したがってその立場はより実際的である。

他方、CSUTCBは広い意味で左翼に属する組織である。とくに軍事独裁政権の時代にはCOB(鉱山労働者の組織)と連携し闘っていた。

CSUTCBのもう一つの柱はコカ生産者である。コカ生産者はいまやCSUTCBで最も動員力のある部隊であり、急進的な翼である。なぜなら彼らはボリビア政府だけではなくアメリカ政府までを相手に、困難な戦いを続けてきたからである。彼らは、コカイン麻薬密売人を捕らえることについてではなく、コカ栽培を根絶されることに強い懸念を抱いている。

 

カルデナス副大統領の限界と挫折

カルデナスは副大統領としてエスニックな態度を堅持した。そのパフォーマンスは象徴的なジェスチュアで満たされていた。彼の妻Lidia Katariはつねにポレラ姿で通した。そのことによって、おそらく夫以上に重要な役割を果たしたといえる。

カルデナスはこの象徴主義を演ずるために、大統領が不在のとき、大統領代理として勤めた短い瞬間を利用した。あるときはイベントに出席したアイマラ族の老女の手をとり、大統領のいすに座らせた。

別のときは、政府宮殿を子どもたちで溢れさせた。ケチュア、アイマラ、グアラニーの子どもたちが、異文化間教育、二ヵ国語教育の実験的なフェーズの修了式に集まったのである。次のフェーズではこの実験は全国に広げられることになっていた。

これらの象徴的な実践の集積は重要ではあるが、長い目で見れば、それらの行動は不毛で苛立ちを募らせるものであった。このまま行っても、国家の政治に対する民族性の刻印が国家の政治を超える可能性はないのである。

根本的な道筋において、カルデナスの副大統領としての活動は、無益の積み重ねであった。

まず第一に、彼は国家の経済政策に対して無力だった。政府はネオリベラリズム・モデルに従い続けた。それは先住民コミュニティに有害だった。国家は先住民セクターの生産能力を向上させようとは試みなかった。政府がボリビアの貧しい階層に行った最大のことは、最低限の社会福祉を提供することだけだった。その政策の下で地方の先住民コミュニティは最悪の状態に突き落とされた。

これは、この政府と向き合うときに最大の、もっとも困難な作業である。なぜなら彼は政府の一部として、先住民の副大統領として向き合わなければならなかったからである。

政治的戦線の上でも、カルデナスは挫折した。彼は統一された効果的な先住民組織を築くために、その地位を利用することができなかった。彼はカリスマ的な存在ではあったが、運動の先端部分からは完全に孤立していた。

カルデナスは周囲に先住民のアドバイザー集団をつくらなかった。だから彼の先住民指導者としての役割は発揮しようもなかった。おそらく、カルデナスはそのことを重視していなかったのかもしれない、あるいは、単にそうすることができなかっただけかもしれない。

 

先住民問題に関するいくつかの前進

しかしカルデナスは、最近の政府イニシアティブに関して多少の評価を与えられなければならないかもしれない。それは先住民にとって若干の改善をもたらす可能性がある。

たとえば、サンチェス・デ・ロサダ政権は、「種族・性・世代間問題に関する全国事務局」を創設した。それは副大統領職の管轄に置かれ、計画立案と立法化に関する権限を与えられた。

またカルデナスは副大統領として国会議長を勤める。これら2本の柱から、カルデナスは間違いなく1994年の憲法修正を実現するために力を発揮した。

憲法修正第一条は、国家の多種族・多文化・多言語な性格を明確に規定している(plurinationalではないが)。先住民のルーツの重要性は、スペインの植民地化いらい初めて憲法において公式に認められた。

国会はまた、1994年7月7日に、都市と農村でより良い基礎教育を保障することを目的とした教育改革法を成立させた。これにより先住民は、二つの改革を受け入れることとなった。

一つはバイリンガルの多文化的な教育であり、もう一つは各級レベルにおける教育顧問委員会の設立である。それは教師に対する統制手段を持ち、さまざまな改善提案を行う機能を持っている。

しかしこれは諸刃の刃でもある。教師は新しいイニシアティブを実施するための主導的な役割を果たすとされるが、彼らこそは政府の劣悪な教育政策に対する最大の抵抗者でもあったからである。

彼らは、部分的には政治的理由から反対した。たとえば、法律の策定に世銀が関与したこと、教員組合内のトロツキスト指導者が強く反対したことなどである。しかしなによりも彼らは雇用の安定を失うことを恐れたのである。

 

人民参加法の評価

一連の法律のなかで最も重要なのが「人民参加法」である。それは施行後の短期間で、先住民が政府へのより大きな参加をもとめるためのドアであることを実証した。そして先住民はドアを開けることが出来たのである。

法律は地方当局にあらたに力と資金を与え、非中央集権化を成し遂げることが出来るようになると主張された。しかし当初、先住民運動の指導部は新しい法律に対して懐疑的だった。草の根レベルでの反応もさまざまだった。

人民参加法は一部のグループに対してはポジティブな反応をもたらした。しかし他のグループは、政府が先住民グループを懐柔し取り込むためのひそかな試みだろうと、冷ややかにとらえた。

表面的には、民衆参加法は注目すべきいくらかの革新を含む。それはたとえば、アンデス共同体に広く存在するアイリュス(ayllus)、グアラニー族共同体のテンタス(tentas)など、多彩な伝統的組織や農民共同体を対象としている。それらは都市の市議会(cabildos)や組合などと同様に、ボリビア民主主義の主体的な構成員として位置づけられる。

民衆参加法はこれらの伝統的の組織に法的な地位を与え、地方自治体の諸施策を執行する際に、それをモニターする役割を委託した。草の根の先住民・農民組織は、長いあいだこのような権力を獲得するために闘ってきた。

しかし執行過程への関与は自動的に実現するものではなかった。とくにアンデスのある地域では、政府の本当の意図を疑う諸組織の慎重さにより、参加は進まなかった。

法律が承認された一年後に、コミュニティ組織のうち10,500団体が政府登録を済ませた。これは国民の半分をカバーするに過ぎない。そして監視委員会を結成したのは、308の地方行政組織のうち140に過ぎなかった。

人々が参加に抵抗を示したのは、「地方組織」 (OTB) という政府登録の仕組みに原因がある。

多くの草の根の組織は、伝統組織が承認されるために「地方組織」 (OTB) の法的適用団体となることを迫られていた。それは組織にとって大きな恐れであった。

この新しい名前の適用、そしてモニター委員会の設置は多くの疑念を呼び起こした。政府の真の狙いは伝統組織を流動化させ、それらを政府の御用組織に作り変えようとすることにあるのではないかと。

そのような疑いをかけられるような出来事が30年前にあった。同じMNRが労働組合に対して同じようなマヌーバーを行ったのである。

CSUTCB&COBの最高指導者の一人 Juan de la Cruz Wilcaは言う。「以前、彼らは我々を“アイマラ族”から“農民”へと変えたがった。まずもって民族である我々を、組合員へと変えたがった。それはいま彼らが我々を“地方組織”に変えたがっている。それは同じではないか?」

「我々は、すでにみずからの法規を持っている。我々はOTBになる必要はない。彼らに、我々を、今あるがままに認めさせよう」

協調へのためらいには、いくつかの根拠がある。

多くの場所で、地方当局はモニター委員会を統制しようと動いた。そして息のかかった党員を集め、自らのOTBさえ立ち上げたのである。これはもちろん法律の表向きの意図に反したものである。既存の従来の組織がモニター委員会に入ることは認められていなかった。

 

人民参加法の改正

1995年、民衆参加法の事務局は、これらの誤解を取り除くためにOTBの名称登録を廃棄することに決めた。その結果、伝統組織の当初の不信は、徐々に消えつつある。

新しい規則の中心となる改革は、300以上の地方自治体の創設であった。それらの3/4は農村人口が主体を占め、先住民が多数を占める。全体として国家収益の20パーセントは、これらの地方自治体に向けられる。この元手に加えて、政府は地方の計画の執行のために追加基金を与えることができる。

これまでボリビアで、真の地方自治体とよべるのは主要都市のみであった。農村地帯の大多数は事実上は無行政の地であった。現在、国家の領土は1メートル四方といえども、いずれかの行政区に属している。そしてそこに住むすべての人々は、彼らの代表を選び監視する権利と責任を負っている。

最初の実際的な問題は、これらの新しい地方の司法権が、古い地域割りによって境界を定められたということにある。それはしばしば、地域の先住民グループの自然な分布を考慮に入れないまま決定された。

例えば私の住むJesus de Machagaでは2万人のアイマラ族がいるが、彼らは自治体を形成していない。その代わりに、彼らは約50マイル離れた遠いViachaの市に属している。それは、ほとんどラパスの首都圏の衛星都市である。

政府は、自治体(municipality)の下に「区」(submayoralties)を作ることで、この矛盾を解決しようとした。このうち六つは先住民区とされ、伝統的な権威が「区長」の役についた。

しかしこれでは問題は解決しない。それぞれの自治体の司法機能が地域の社会文化的、経済的実情にもっとフィットしないとだめだろう。この新たな自治体がどのように機能していくのか、評価にはもう少し時間がかかりそうである。

 

1995年12月の地方選挙

新しい法律にもとづく最初の選挙が行われた。これは新機構が先住民に、少なくとも地方権力に接近する機会となるか否かを占うものであった。先住民候補の数の重要な増加は、多くの女性候補を含め、全国的に明らかだった。しかし実際に当選した人は少なかった。

この結果は、部分的には政治的参加についての意識、政治的ゲームの技術が一晩では得られないという事実の結果でもある。しかし主な限界は構造上のものであり、それは、歴史的な事情に根ざしている。

まず第一に、登録・投票プロセスの困難は、多くの人に投票を投ずることを思いとどまらせてきた。

居住地と投票所の距離は遠く、行政の官僚的な対応もあって、地方の棄権率は登録選挙人の4〜6割にのぼった。全国平均では35%にとどまる。1992年の国勢調査によれば、50%以上のボリビアの女性は、選挙人登録さえしなかった。

第二の困難はより政治的な風土によるものである。

3年前、議会がボリビアの憲法を修正することを決めたとき、彼らは憲法規制にさわらないことに同意した。その規制とは、全ての候補が公認の政党の推薦を必要とするというものである。それは既存政党がその特権を放棄したくないために残されたものである。

その結果、若干の場所では、政治的イニシアティブが既存政党の手の中に残った。そして党の地方組織によって事前に選ばれた候補は、彼のチケットのために反対党との交渉を受け入れなければならなかった。

この必要条件のため、我々は各々の候補ではなく、彼の属する「党」が何票・何議席をとったかを知るのみである。

ほとんど、誰も知っていない。選挙委員会さえ知らない。当選者のどれくらいが本当に党員であるか、地方で推薦され、法的資格を得るために何らかの政党と取引しただけなのか。そのうち何人が先住民であるのか。

 

コチャバンバでの先住民勝利の教訓

新しい先住民参加の最も顕著な例は、コチャバンバ県でコカ栽培を営むケチュア族農民によって創設された「諸民族の尊厳のための会議」(ASP)だった。

選挙管理委員会はASPの承認を拒否した。そこでASPは選挙に参加するために統一左翼党の名義を借り、その傘下に入らざるを得なくなった。

グループは、コチャバンバでの40の自治体のうち16に勝った。他の5つの自治体でも二位に入った。

グループはまた、MBLとしても知られている。それは現在、政府と連立を組んでいる。ケチュア族は多くの柔軟性を示した。国の南部でケチュア族候補が立候補するときは、MBLのチケットで動くのを認めた。その結果、MBLはチュキサカ県で25の市長選挙のうちの15に勝った。

12月選挙の前に、私はPopular Populationのカルロス・ウーゴ・モリナ全国書記に尋ねた。新しい法律によってどんな変化が必要になるだろうかと。

彼は二点を指摘した。一つは地方の選挙での党提携を要求しないこと。もう一つは先住民の行政機構の創設を助けることだ。

私は質問した。議員は、これらを受け入れるだろうか?

法律が変わろうと変わるまいと、ボリビアの先住民はいまや新しい自分たちのルールを持ち始めた。それは、よかれあしかれ、政治のスタジアムを様変わりさせつつある。

彼らが成功する最高の見込みはローカル・レベルにある。彼らが地方政府の支配を握ることは不可能ではない。

しかしそれが起きたとしても、そしてそれが将来さらに発展したとしても、ボリビアの先住民は、動員力の誇示というレベルを越えるためにいっそうの努力が必要である。

彼らは、政治のゲーム難しい術に熟達する必要がある。