24 Jun 2008

 エクアドルとボリビアの旅

 

このほど、長い夏休みをもらってエクアドルとボリビアに行ってきました。アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会が企画した「調査交流の旅」というツアーに参加したのです。私は副団長の責をおおせつかりました。

この旅行はものすごい成果でした。エクアドルとボリビアの両方の国の外務大臣と会見できたのです。ボリビアではあと一歩でエボ・モラレス大統領と会見できるところまで行ったのですが、日程が調節できず、次回のお楽しみとなりました。

 

T なぜ、エクアドルとボリビアなのか

いま、世界中で新自由主義(ネオリベラリズム)に対する怒りが渦巻いています。新自由主義はアメリカが世界を支配するための経済・金融政策の総体と考えられています。「経済の自由化」の旗印の下、弱者を切り捨て、投機的な資本家がますます肥え太る仕組みです。日本で小泉元首相がやった「構造改革」もその一部です。

エクアドルとボリビアは、とりわけ新自由主義に苦しめられてきました。政府が抱える債務の返還をテコに、IMFなどの国際金融機関がさまざまな難問を吹っかけました。端的に言えば悪質なサラ金業者と同じで、借金のかたに石油などの天然資源を奪い、電気や水道などの公共事業をつまみ食いして行ったのです。支援といっても利子をまけてやるだけのことですから、一文もかからないわけです。

こうして国の経済は破壊され、多くの人々が失業し、街頭に投げ出されました。人々は「もうたくさんだ!」、「みんな出て行け!」と叫んで、アメリカに追従する政治家を追い出しました。今ではコロンビアとペルーを除く南米のすべての国が、自主独立の道を歩み始めています。

 

U 平和と自決、民主の国家再建

この中で最も先進を切ったのがベネズエラのチャベス大統領でした。かれは6年前にCIAと結びついた反動勢力の手により、いったんは捕らえられますが、民衆の手により解放され、大統領に復帰しました。

チャベスは石油資源を国有化し、その利益を民衆の下に還元するよう、革命的な方策を採りました。給料が引き上げられ、失業者は大幅に減少し、医療や福祉が前進し、文盲は絶滅されました。経済成長率は10%を越えました。

これに引き続いてエクアドルやボリビアでも革新政権が誕生し、いま民衆の立場に立った経済再建に取り組み始めたところです。いまだに対米従属から抜け切れない日本にとって、これらの国から学ぶべきものは多いはずです。

 

V 高山病に苦しめられた7日間

エクアドルとボリビアに滞在したのは実質的には8日間ですが、とくにラパスにいた4日間は高山病(ソローチェ)に苦しめられました。飛行場があるのが4千米、ラパスの街は少し下りますが、それでも3800米、富士山より高くにあります。着いた翌日には雪が歓迎してくれました。

ライターは点火せず、マッチも強くこすらないと、頭だけがブスブスと煙を上げた後、そのまま消えてしまいます。息切れは当然のこととして覚悟していましたが、むしろ辛いのはめまいと頭痛、それに腹満・下痢などの消化器症状です。腹痛・下痢に使うブチルパンという薬は早々と底をついてしまいました。

頭痛は排気ガスのためでもあります。谷底にあるラパスは風の通りが悪く、空気がよどんでいます。つま先上がりの坂をあえぎながら上るおんぼろ自動車は、空気が薄いせいか不完全燃焼で、蒸気機関車並みの猛烈な黒煙をあげて走ります。その排気ガスがそのまま街を包み込む仕掛けになっています。空気が薄い、空気が汚い、寒いと三拍子そろえば、健康でいられるほうが不思議です。

コカの葉を噛んだりコカ茶を飲んだりすると高山病が治るという話でしたが、団員の誰からも「効いた」という話は聞きません。利尿剤のダイアモックスが特効薬とのことですが、あいにく手に入りませんでした。ひたすらミネラル・ウォーターを飲んで、しのいでいました。とにかく酒が飲めません。お猪口一杯でもうフラフラです。タバコはどういうわけか吸えます。

モラレス大統領の抗議を受け、FIFAがラパスでの国際試合を承認したということですが、私はこの点に関しては断固として反モラレス派です。立っているだけでも苦しいのにサッカーをするなどとは狂気の沙汰です。

 

W エクアドル: 平和と自主の敵となったマンタ基地

旅行団はまずエクアドルの首都キトに入りました。ここもすでに2800米、結構息切れが来ます。エクアドルという国名は「赤道」という意味です。日差しは肌を刺すようにきついが、気候は暑からず、寒からず、朝夕は上着が必要です。

まずはマンタ基地撤去運動のセンターを訪問。日本の平和大会にも参加したルイス・サアベドラさんがセットしてくれました。

太平洋岸に位置するマンタ基地はちょっと経過が複雑です。もともとエクアドルの空軍基地があったのですが、アメリカがコロンビアでの麻薬摘発作戦を強化するにあたり、マンタ基地を借り受け、出撃基地として拡充しました。コロンビアのコカ栽培地への枯葉剤散布作戦は、マンタから飛び立った飛行機が行うようになりました。

いつの間にかマンタ基地は南米のゲリラ活動に対するアメリカの作戦センターになってしまいました。

こうした状況の下で、ことし3月1日にコロンビア・ゲリラへの攻撃作戦が実施されました。エクアドル国内の国境地帯に潜入していたゲリラの幹部ら20人あまりが、マンタ基地から飛び立ったコロンビア軍の特殊部隊により殲滅されたのです。エクアドルは大きな混乱に見舞われています。

結果論として言うならば、エクアドル政府はマンタ基地の米軍使用を容認することによって、この攻撃を認めたことになります。

しかしコレア大統領の率いるエクアドル革新政権は、この作戦を一切知らされていませんでした。知っていれば断固反対したでしょう。なにせコレア大統領はマンタ基地の撤廃を公約に掲げ当選した人です。

これだけでも怒り心頭に達することなのに、さらにコロンビア軍が、「押収された資料から、コレアがゲリラを支援していた証拠を発見した」と発表しました。明らかにコレア大統領の追い落としを狙った発言です。

こうなるとマンタ基地からの米軍撤退は、コレア政権にとってどうしても譲れない課題になります。それはただの反基地闘争ではなく、国家の威信と平和がかかった現実的かつ緊急な課題となっています。

 

X 外務次官の代理で外相が!

私たちは外務次官との会談をお願いしていましたが、多忙のため断られました。まぁ当然のことと思っていましたが、突如、エクアドル外務省から連絡があり、外務大臣との会見が許されたと聞かされました。正直、びっくりしました。「外務次官の代理で外相が!」

翌朝8時、外務省を訪れた私たちは緊張のうちに外務大臣を待ちました。若くて大変お美しい、ちょっと幼顔のマリア・イサベル・サルバドールさんが、ミニスカートでさっそうと現れました。

彼女は3月のゲリラ襲撃事件、その後のコロンビアとアメリカの対応を非難し、「平和こそエクアドル国民のアイデンティティー」と強調しました。そして、マンタ基地撤去を目指す政府の基本方針に変更はないこと、コロンビアに対しては、国際的理解を得ながら毅然と対応していくことを強調しました。

この後すっくと立ち上がった私は、視察団を代表し、「平和と統一はエクアドルの歴史の中で試された、国家存立のキーワード」と述べ、核兵器廃絶・平和憲法擁護を目指す日本との共通性を指摘しました。そして8月の原水爆禁止世界大会への政府代表の参加を要請しました。彼女は「前向きに検討する」と答え、「ここに連絡してください」とご本人の名刺をいただきました。

なにかヘッポコ代議士の帰朝報告みたいで気が引けなくもありませんが、一言くらい自慢させてください。

 

Y ボリビアの外相との会談

キトからペルーを経由して、ラパスに着いたのは深夜のことでした。みんなゼエゼエしながらホテルに入ったのはすでに1時過ぎ、「これから本番だぞ」と覚悟を決めながらベットに倒れこみました。

翌朝、外務省から電話があり、ダビ・チョケワンカ外務大臣との会見が急遽決まりました。あわただしく着替えを済ませ、外務省に着いたのが朝8時。まずは私から団員に、ボリビアの沿革と現在の状況についてブリーフィングを行いました。

もともとスペイン領ペルーの一部だったが、1825年ボリーバルによって解放され、独立したこと。1952年には革命が起きたが、その後軍事政権によって覆され、独裁とクーデターが続いてきたこと。1985年には1年に物価が百倍になる超インフレを経験したが、アメリカと傀儡政権はこれをすべて庶民にしわ寄せしてしまったこと。2000年以降、先住民の怒りが爆発し、ついに、ときの大統領を追い出してしまったこと。

これをわずか5分、早口でまくし立てると、もはや呼吸困難、頭はクラクラ、チンチン、目の前が真っ白になります。

チョケワンカさんはモラレス大統領と同じ先住民出身、「エボの右腕」といわれているそうです。外相の話は、エクアドルとは異なり、おもに経済問題でした。この国はハイチを除いて中南米で最も貧しい国です。かつては、世界最大の銀生産国として栄華を誇ったこともありますが、そのときも国民の大多数を占める先住民は、現実政治から締め出され、無知と貧困のままに置かれてきました。

この国で先住民の代表であるエボ・モラレスが大統領になって、「国民が主人公」の政治を始めたことには大きな意義があります。新政府は天然ガスを国有化し、その利益を国民のために使おうと動き始めました。

これには旧支配勢力から大きな抵抗があり、目下熾烈な戦いを展開しています。米国はこの矛盾を利用し、なんとか革新政権をつぶそうと、さまざまな画策を行っています。そんな緊張がひしひしと伝わってくるチョケワンカ外相の話でした。

びっくりしたのは、いきなり外相が「エボと会うかい?」と聞いてきたことです。私たちはいっせいに「シー!」(スペイン語でイエスの意味)と応えました。外相は、目の前の携帯電話をとって、話し始めました。そして「明日の昼、短時間なら会えるかもしれない」と言いました。

結局会見は実現しませんでしたが、それだけでも、一生忘れない経験になりました。

 

Z スリタさんとの会談

ラパスでは猛烈な会談ラッシュでした。与党「社会主義運動党」(MAS)の国会議員幹部との会談、これには下院議長も出席してお話を伺いました。それからMASの本部での会談、労働組合センターとの会談、先住民女性会議との会談、そして先住民・農民会議との会談と目白押しです。まるで政府要人並みの扱いです。

最後はみんな、あごが上がってしまいました。ホテルに着くと備えつきの酸素を吸入したり、私のところに薬をもらいに来たりとおおわらわです。普通なら毎晩でも「総括会議?」をやるところですが、みんな早々に自室に飛び込んで、バタンキューです。

そんななかでも印象に残ったのが、MAS国際部長レオニルダ・スリタさんです。この人はMASの中でも別格で、モラレス委員長(大統領)らに次ぐナンバースリーの肩書きを持っています。そして上院議員でもあり、先住民女性会議の議長でもあります。何よりもコカ栽培農民のスポークスマンとして国際的に有名な人物です。(私たちはそんなことなど知らなかったのですが。彼女の経歴は、ちょっと長くなるので、私のホームページを見てください。グーグルで鈴木頌と入れれば出てきます)

先住民の伝統的な衣装を身につけた彼女は、会議にちょっと遅れてどかどかと入ってきました。いすに腰を下ろすなり、ザルにテンコ盛りされたコカの葉に手を伸ばし、いきなりムシャムシャとやり始めたのです。私たちは「噛んだ汁は飲み込んではいけない」と注意されていましたが、彼女はつばを吐く様子も見せません。

こちらは一枚か二枚、恐る恐る口に含んでは顔を見合わせていたところですから、度肝を抜かれました。それを見てにやっと笑った精悍な顔つきに、「あぁ、こういう人たちがいたから政府がひっくり返されたのだ」と納得させられました。

しかし、私たちはコカなどにはあまり関心はなく、むしろ「南米民主化の動きを知り、日本の平和・民主運動とどう連帯していくか」という問題意識で来ています。スリタさんもそんな雰囲気を感じたのか、翌日の再会時には穏やかな表情に変わりました。

 

[ さいごに

今度の旅行は楽しい物見遊山というわけには行きませんでしたが、両国外相と会談するという、まことに貴重な体験をさせていただきました。これから洞爺湖サミットを迎えるにあたり、世界の流れをどう見るか、変革の道はどこにあるのか、深く考えさせられました。

これから両国人民との交流・連帯が開始されていくと思います。その先駆けとなるよう、老骨に鞭打ってがんばりたいと思います。

他に「チチカカ湖あわや遭難の巻」とか、「バス後輪が突如バーストの巻」とか、「ゲバラを熱く語る青年にうっとり、ナニワねえさんの巻」とか、「踊り子さんと踊って腰が抜けるの巻」とか、「ホテルの窓から娘のあられもない姿の巻」とか、「サンタクルスに血溜まりを見たの巻」とか、いろいろあるのですが、それは別の機会に…