22 Jun 2008

バルトリナ・シサ: スペイン軍と戦った先住民のヒロイン

6月にボリビアを訪問したとき、婦人団体の本部を訪ねました。この先住民女性の団体はバルトリナ・シサという女性の名を冠していました。だいたい女性団体の冠称にはローカルな人物の名前がつけられていて、あまり分からないのが普通です。しかしシサの場合は先住民の大反乱の指導者ということで、かなりはっきりした記録が残されています。

1780年、ボリビアで先住民重数万が決起する大反乱が発生しました。これはペルーで起きたトゥパク・アマルの蜂起と呼応して起こされたものです。日本大使館占拠事件以来、日本ではトゥパク・アマルの名前は有名になりましたが、その規模において、期間において、ボリビアの反乱は凌駕するものがあります。日本でいうとちょうどクナシリ・メナシのアイヌの反乱と同じ時期にあたります。

とりあえず日本ではほとんど情報がないので、紹介しておきます。ネタはウィキペディアと、そこからリンクされたCANO (Consejo Andino de Naciones Originarias)という団体のホームページからの記事です。どちらもちょっと中身が薄いので、女性団体でもらったリーフ(スペイン語)から、分かるところだけつまんで足しています。
この時期のボリビアの戦いの全容については、ボリビア年表の方をご参照ください。成著としては寺田和夫さんの名著がありますが、入手困難かもしれません。

 

「不朽のアイマラ指導者、バルトリナ・シサ司令官」

バルトリナ・シサ(Bartolina Sisa)はアイマラ族の女性で民族抵抗の英雄トゥパク・カタリの妻。異説もあるが、リーフによれば、生まれたのは1750年8月25日のことです。家はシカシカでしたが、生まれはラパスとなっています。

父はJose Sisa、母はJosefa Vargas、いずれもアイマラ族です。両親はラパスとオルーロの間を往復しながら、コカの葉と織物の商いをしていました。

当時コカの葉は先住民の間で一種の貨幣の役割もあったようです。地図を見れば分かるようにシカシカはラパスとオルーロを結ぶちょうど中間の位置にあります。また、チチカカ湖から南に伸びるアルティプラノ高原地帯の中央に位置しています。

ネットサーフィンをしていて面白い記事に当たりました。ラパス在住matatabijonesさんのブログUna tortuga torpe に次のような話が載っています。

ラパスからバスで4時間のオルロに行った帰り道、道路封鎖に遭遇。封鎖のあっち側で同じバス会社のバスが待っているという。1キロほど歩く。
地名は忘れたが、道路封鎖が行われていたのは、Bartolina Sisaというボリビア版ジャンヌダルク的女性が生誕した土地の付近だった。
彼女の生誕から300年以上は経ったか。それでも、その村の風景はその当時と大きく変わっていないようだった。
ありがとう道路封鎖。もし君がいなかったら超特急で通り過ぎていただろう。この村。 (なかなかの詩人ですね。「人生よありがとう」のもじりでしょうか)

 

 閑話休題

折からスペイン人の先住民に対する支配は苛斂誅求を極めていました。彼らは広大な領土を支配し、先住民を土地に縛りつけ従属させていました。しかしシサはその職業上、こうした奴隷的生活からは比較的自由でした。

彼女は官僚、聖職者、軍人のなりをしたスペイン人の野蛮な支配を目の当たりにしました。屈辱を味わい、知恵を身につけました。その敵意は白いヨーロッパ人に奉仕するクリオージョ、メスティソにも向けられていました。

シサは長じて、商い仲間のフリアン・アパサと結婚しました。1770年、二人はペルーに近いサアパキ(Sahapaqui)に居を構えました。交易の範囲はさらに広がり、西はペルーから東はコチャバンバまでおよびました。

フリアン・アパサとシサは、人々を圧迫の鎖から断ち切り、アンデス先住民共同体の最終的な解放のために戦う意義を、ますます深く確信するようになりました。

このときクスコでホセ・ガブリエル・コンドルカンキ(トゥパク・アマル)が決起しました。アルトペルーでは、チャヤンタ(Chayanta)のトマス・カタリ兄弟が反乱を開始しました。フリアン・アパサとシサは、躊躇なくこの闘いに飛び込んでいきました。

アパサとシサは、念入りに計画を立てました。戦いの基本を議論し、戦略と戦術を吟味し、最終目標を統一させました。このことによりペルー、ラパス、オルロ、チャヤンタの戦いを一本化し、15万人以上の人々を結集させることができたのです。

シサはすばらしい扇動家で組織者でした。エルアルトで、ラパスで、チャカルタヤで、キリキリで、カルバリオで、低きはポトポトの谷間から、高きはパンパハシの山まで人々を説いて回りました。彼らの訴えの相手は先住民ばかりではありませんでした。クリオージョやメスティソの有力者にも果敢に説得にあたりました。

こうして1781年3月13日、ラパスの包囲作戦が始まりました。参加者は初め2万人でした。それが数日後には4万になりました。8月には包囲部隊は8万人に達しました。ラパスを見下ろすエルアルトに拠点を構えたフリアン・アパサは、トゥパク・アマルとトマス・カタリから名前をとり、ペルー副王トゥパク・カタリと名乗るようになりました。

アバサは相当の戦略家だったようです。彼は以前からトゥパク・アマルと連絡をとり合っていました。そして蜂起の計画も事前に察知していました。彼はビジネスを利用しながらラパス・オルロ間に蜂起のためのネットワークを組織し、機会を狙っていました。トゥパク・カタリの名も、たんに威を借りるというだけではなく三つの戦線を統一する願いからきています。

包囲は3月から6月まで続き、いったん囲みを解いた後、もう一度今度は8月から10月まで、都合184日におよびました。彼女は包囲作戦の司令官であり、4月にカタリが捕らえられた後は反乱軍の指揮を執りました。(とウィキペディアにはあるが、トゥパク・カタリが4月に捕らえられたという事実はない。ほかにもウィキペディアの記述には不正確な点が多い)

6月29日、ラパスのスペイン人は、「反乱指導者を引き渡せば大赦が与えられる」との情報を流しました。包囲作戦が長引くなか、反乱軍の中に疲れと動揺が広がりました。「もはや包囲をやめ部隊を解散しよう」との声が上がるようになりました。「反乱軍がラパス市内で敗北した」とのうわさも流されるようになります。

7月1日、チュキサカからスペイン軍の援軍が到着しました。これを見たトゥパク・カタリは、いったん包囲を解きます。スペイン軍側にも反乱軍を追撃するほどの余力はなく、一種の休戦状態となりました。

7月2日、“皇后”バルトリナ・シサはエルアルトからパンパジャシ(Pampajasi)に撤退しようとしました。臆病風に吹かれた従者フアン・イノホサ(Hinojosa)は、シサを裏切り捕らえました。そして自らの命と引き換えに、シサをスペイン人守備隊長イグナシオ・フローレス大佐に手渡してしまいます。シサは人質としてラパスに留置されることになりました。

(このあとしばらく彼女へのオマアジュが続くが、かったるいので省略)

8月、今度はトゥパク・カタリ側に強力な援軍が現れました。クスコから落ち延びてきたトゥパク・アマルの弟アンドレスの軍勢です。

ふたたび反乱軍は包囲戦を開始しました。この包囲は64日間続きました。その間にスペイン軍は2万3千の軍勢のうち1万人を失ったと言われます。その中にはスペイン人だけではなくクリオージョ、メスティソ、それにスペイン人についた先住民もふくまれていました。これに対して反乱軍側にはほとんど人的被害はなかったとされています。

アンドレスは、ラパスに氾濫を起こさせる計画を立てました。エルアルトからラパスに向かって下るチョケヤプ川にダムを建造し、そこに水を貯めて一気にラパスの町を押し流そうというものです。さすがにインカ帝国の末裔は考えることが違います。

しかし水が貯まるには少し時間が足りなかったようです。10月、リマとブエノスアイレスからきたスペイン軍はラパスの包囲網を打ち破ることに成功しました。ここにさしもの大反乱も終焉を迎えることになりました。

レセギン将軍の率いるスペイン軍が到着。10月17日、エルアルトの反乱軍本拠地はあえなく陥落します。トゥパク・カタリはチチカカ湖方面に逃げ捲土重来を帰しますが、かつての盟友トマス・インカ・リペは裏切り、チンチャヤ(Chinchaya)のスペイン軍に彼を引き渡してしまいました。

1781年11月13日、トゥパク・カタリは死刑を宣告されました。処刑の場所は先住民の村ラス・ペーニャス(現地名はQ'arq'a Marka)の広場と定められました。彼の体は手足を馬に縛り付けられ、四つ裂きにされました。彼は最期にこう語ったといいます。

「彼らは私ひとりを殺すだろう。しかし明日、私は百万人となって戻ってくるだろう!」

 

1782年9月5日の夜明け、圧制者は英雄的なアイマラ人戦士バルトリナ・シサに対して判決を下しました。古文書には次のように記載されています。

暴れ者トゥパク・カタリの妻バルトリナ・シサへ。

通常の拷問による体罰を受けること。その後獄舎から広場まで、馬の尾に結んでひきずりだすこと。紐を首と手足にかけ、木の板を腕にはめること。広報官は彼女が絞首刑に処せられるむね宣言すること。彼女は死を遂げるまでそのまま吊るされる。

死亡後、彼女の首は、罪状を書いたさらし台に打ち付けられ、クルスパタ(Cruzpata)、アルト・デ・サンペドロ、パンパハシ(Pampaxasi)で民衆教育に供せられる。これらの場所は彼女が生前に集会を開き民衆を扇動したところである。

首はさらにシカシカ(Sicasica)郡のアヨアヨ(Ayohayo)村、サパアギ(Sapahagui)村を巡回した後、命令に従い焼却すること。灰は適当と思われる場所で散布すること。

くそリアリズムですね! このあと、刑罰がいかに残虐なものであったかがルル述べられているが、ゴシック趣味にはあまり興味ないので省略。

 

追加

ラパス在住matatabijonesさんのブログからもう一ついただきます。

ボリビアの母の日は、5月27日。

由来は、約200年前に遡る。1809年その当時、ボリビア各地でスペイン王国からの独立運動が起こり(ボリビアが独立したのは1825年)、コチャバンバも運動のあおりを受け、地元の男はみんな兵隊に駆り出されたが、惨敗。父親、夫、兄弟、息子を一度に失ってしまったコチャバンバ市の女性たちは、コチャバンバをスペイン軍の侵入から防ぐため、San Sebastiánという丘に登り、戦ったそうだ。銃など持たない彼女らは、石や棒を持って。そこで数百人もの女性たちが惨殺されたという。その日が1812年5月27日だったので、勇敢に戦って死んでいった女たちへの敬意を表して、20世紀に入ってからボリビアでは5月27日が母の日に制定された。

こういう「母の日」は初めて知りました。半端なコメントは出来ませんね。