2008年6月

レオニダ・スリタ、コカ栽培とたたかいを語る

この文章はCanadian Dimension Magazine, September/October 2006 Issueに掲載された "Leonida Zurita: Growing Coca in a Fight for Survival in Bolivia"という記事を基にしています。http://canadiandimension.com/articles/2006/09/07/643/

なおスリタさんは党の国際関係担当書記の肩書きで、エボ・モラレス委員長、ガルシア副委員長に次ぐナンバー3の要職にあります。昼飯までおごってもらってしまったので、紹介しないわけには行きません。

 

はじめに ボリビア人とコカ

何世紀もの間、コカはアンデス山脈で薬として使われてきました。飢え、疲労そして、病気を癒すために。多くのボリビア人は、小さい緑の葉を噛んだり、お茶にして毎日それを飲んでいます。ボリビアで生産されるコカの多くは、このように合法的かつ合理的な使用に供されています。

しかし、コカの葉はまた、コカインの中の重要な成分でもあります。

米国政府は国内へのコカイン流入を防ぐための方法として、コカ根絶に力を集中しています。この麻薬戦争はボリビアにおいて暴力、殺人、拷問、傷害をもたらしました。その被害者は、生き延びるためにコカを育てる貧しい農民たちです。

米国政府は直接この戦争に資金を供給しました。しばしば人権侵害を繰り返し、ボリビアの平和にとって障害物の働きをしてきました。ワシントンが対立を煽り立てるために注ぎ込んだ何億ものドルが、アメリカの街頭でコカインの量を減らすことはありませんでした。

従来の使用法に加え、ボリビアではコカの有効成分がコカ・コーラ、咳止めシロップ、ワイン、チューインガム、痩せ薬の一部にも混ぜられています。それは、小さいバッグに入れて国中で売られています。おそらく、コーヒーより一般的でしょう。ボリビアの米国大使館のウェブサイトは、コカを噛むと高山病を軽減することができると教えています。

「私は毎日コカを噛んできました。そして、私は依然として狂っていません!」

コカ農民活動家のレオニダ・スリタさんはそうコメントします。

彼女は、時には母のごとくやさしく、時には火のように激しい社会的運動リーダーです。スリタさんのカリスマ性と精神力の強さは、彼女をこの国で一番のコカ農民組合幹部に仕立て上げました。

「ブドウはブドウです。あなたは長い手間をかけて、ブドウからワインを作らなければなりません。それは、コカもおなじです。コカインはコカではありません。コカからコカインを作ろうとすれば長い、複雑な過程が必要です」

スリタは続けます。

「私たちはコカの世話をする必要があります。まるでそれが子供であるように。そうやって全家族が生き続けることができるのです。コカは、私たちに食物を与えてくれます。それは教育や医療の面倒を見てくれます。ここでは、教育も医療もただではないのです。コカを売ると、私たちは子供たちに学校の教材を買ってやれます。そして彼らは学ぶことが出来ます」

 

レオニダ・スリア・バルガス

スリダさんは1969年4月22日、チャパレで生まれました。彼女が2歳のとき父親が死んでしまいました。母親は一人でスリタさんと5人の子供を育て上げました。

Photo by Dustin Leader.

スリタさんが17歳のとき、政府はコカの代わりになる作物を栽培する計画を提案しました。彼女の母親はこのプロジェクトに参加しました。計画は大失敗でした。家は全財産を失いました。その結果スリダさんは学校を辞めて農場で働かなくてはならなくなりました。

1991年、彼女はコカ農民組合の事務所で料理と掃除の仕事を始めました。そして1994年にはコカ農民組合の書記に任命されました。1995年に彼女はチャパレで最初の女性連盟を結成しました。97年にはチャパレ女性同盟を中核として6つの女性団体が集まり、熱帯地方女性農民同盟共同委員会(COCAMTROP)が生まれました。彼女はいまもこの組織の指導者です。

1998年から、彼女はヨーロッパ・米国に何度も旅行して講演を行ってきました。

彼女の小さな家族は、いまも小さな農場でコカを作り続けています。

記者は、彼女が隣近所の人よりは良い家に住んでいると想像していました。何故なら彼女は有名な政治的人物であり、組織の委員長ではあり、最近では上院議員にも選ばれているからです。

私は、間違っていました。

私たちが一時間のバス旅行の後、現地に到着したとき、それは分かりました。彼女の家が道に沿った家々の一番奥の家であり、そこから先は道路はなく、ジャングルへと続く踏みつけ道しかないことが。

他の家と同じように、彼女の家には電気も水道も、床さえもありませんでした。それは3メートルかける6メートルの広さで、材木が釘を使わずに組み立てられていました。ツルと止め木と小さな楔がかろうじて造作を支えています。壁はありません。屋根は束ねられた木の葉です。

彼女は、家族とともに、他の貧しい何千ものコカ農民と同じように、そこで生きているのです。

それでもスリタは外の世界との関係を保ち続けています。私たちが到着したとき、彼女の夫の車で充電中の携帯電話は、絶えず鳴りつづけました。

まもなく彼女は川での洗濯から帰ってきました。そして携帯電話をチェックしました。彼女がいなかった間に23件もの電話がかかってきていました。

メッセージを聞いた後に、彼女は日なたに米を広げて乾しました。「鶏がこの間、クーガー(山猫)に食われてしまったの」といいます。赤ん坊は土間で走り回り、ぶつかり合っては泣き喚きます。

電話が鳴りました。そして、彼女は電話インタビューに答えました。その間に井戸から汲んだ水で新鮮なレモネードを何杯か作ってくれました。

「どこからの取材ですか?」

「だれかBBCの人よ、ロンドンから」

彼女はさらりと答えました。

翌朝、私たちは、スリタの家の裏の深い森を抜けてコカ畑に出てみました。いつもの小道は水が浸かっていたので、私たちは沼が多い場所を進みました。足元はズブズブ、ツルが行く手をさえぎり、ウンカのような虫の群れが襲います。3,4キロも暗い森の中を進むと、日の光に照らされた一面のコカ畑が姿を現しました。

これが彼らの作物なのです。

ゴルフボール大のコカの塊でほっぺたを膨らませ、背中にポリタンクを背負った後、スリタとその旦那さんは殺虫剤の散布を始めました。二人が言うには、「毎日のコカは、働くための力を与えてくれる」のだそうです。

スリタは一仕事終えて木陰にやってきて、私の隣に座りました。水を一杯飲んで、額の汗をぬぐいました。そして話し始めました。

「わたしは組合の指導者としていろいろなキャンペーンをしてきました。一番の業績は、女性の先頭に立って、組織し、力をつけ、方向を示したことだと思います。そしてとりわけ識字運動を組織したことです。

チャパレの女性のほぼ90パーセントは読み書きを知りません。だから女性にとって最高の学校は組合なのです。そこで、私たちは人々に力を与えました。私たちは法律について学びました。私たちに味方する法律、敵対する法律…

これらの実践のすべては、母なる大地と、コカと私たちの自然資源を守るために、組合組織が重要であると教えてくれました」

彼女は、このジャングルがおかれた現実を熟知しています。

しかし、彼女にはもう一つの生活があります。それは彼女の持つ時間のかなりの割合を占めています。それは絶え間ない旅行であり、組合の集会であり、演説であり、そしてメディアとのインタビューです。

「時々、私は数週間かけて旅をします。そのときはバスの中が私の唯一の住居です。私は、いつかの日にどこかの集会に出なければなりません。その夜はずっとバスに乗って移動です。そして次の日にはどこかの集会に出なければなりません」

このコカ畑にいると、そういう生活はかけ離れているように見えます。しかしなんとか、彼女は両方の現実を二本の足でしっかりと踏まえて生きているようです。

「私は子どもたちのためにコカを作っています。もし私が明日死んだとしても、子どもたちは食べ続けることが出来るでしょう。私たちが栽培しているこの畑のコカのおかげです」

 

エボ・モラレス政権

 

 

 Photo by Dustin Leader.

 

2005年12月18日、エボ・モラレス(先住民でコカ農民にして議員)は、ボリビアの大統領選挙で地すべり的勝利を収めました。

彼は、この国の歴史において選ばれた最初の先住民の大統領です。彼は急進的な国政改革の政策を提示しました。

今年5月1日、彼はボリビアの天然ガス資源の国有化をしました。ボリビアの天然ガスはラテンアメリカで2番目に多いものです。

天然ガスの国有化は、これまで国民の要求の中核となってきました。それは大統領二人の首を飛ばすほどの強い要求でした。

残念ながら5月1日の法令は全面収用にはいたりませんでした。多くの人々は、「この法令は他国主義企業への妥協でしかなく,全面収用にはほど遠いものだ」と批判しました。

しかしMASは大多数のボリビア人から歴史的な高支持率を受け続けています。その威力は7月2日に行われた制憲議会の選挙を通じて強まりました。制憲議会というのはこの国の憲法を書き直すための議会です。

憲法の書き直しは、モラレスの選挙勝利への道を開いた社会運動の、もう一つの大事な要求ポイントでした。

政権の持つさまざまな弱点にもかかわらず、民衆の多数、この国の左翼運動指導者の多くはモラレスに基本的支持を与えています。彼らの多くは政権に加わり、顧問や議員として制憲議会に人材を送っています。

モラレス新政権における女性の役割について、スリタさんはこうコメントしています。

「新政府への女性の参加はそんなに大きくない。しかしそれは変わりつつあります。今日、私たちはモラレスの勝利とともに前進しました。私たちは一晩で物事が変わるようなことを期待することはできません。私たちは一歩づつ前進していくのです」

2005年3月、スリタは米国訪問を計画していました。3週間かけて各地を回り講演することになっていました。それは全米の指導的な大学で行われることになっていました。

しかしアメリカの空港に入ったとき、彼女は知りました。彼女のビザはテロリスト活動との関連のために無効にされていたのです。多くの人々は米政府の動きを、ひとつの政治的脅迫と考えました。

国際政策センター(CIP)はワシントンDCのシンクタンクの一つで、スリタを招聘した団体です。報道によるとCIPはこう述べています。「彼女はボリビア国内におけるさまざまな犯罪に関連していると非難されたが、個別の事例のどれをとっても無実であることが判明した」

「ボリビアでは"テロリスト"という言葉は、その人の政敵に烙印を押すのに、あまりにしばしば用いられる。もし"テロリスト"というレッテル抜きに今回の事態を見るならば、ビザ不支給の決定は政治的な判断にもとづくものと考えざるを得ない」

米国の圧力にもかかわらず、この人権活動家、社会運動指導者スリタは、仲間のコカ農民の立場に立って活動し続けるでしょう。

彼女は憲法の書き直しに向けて準備しています。その作業は8月から始まります。それはボリビア人民が過去に受けてきた多くの誤りを正して行く道となるでしょう。