三つの国旗で棺を飾った兵士
ピント・カルバーリョの華麗な生涯
元陸軍士官アポロニオ・ピント・デ・カルバーリョ(Apolonio Pinto de Carvalho)は、2005年9月23日、その華麗な一生を終えた。
彼はその生涯を通じて左翼を貫き、ファシスト独裁政権打倒のために戦い続けた。スペインで、フランスで、そして母国ブラジルで。
カルバーリョは、その三つの国で左翼のヒーローと賞賛された。その葬儀で、彼の棺はブラジル、フランス、スペインの三つの国旗で覆われた。
T ヨーロッパに渡るまで
1912年2月9日、カルバーリョはボリビアとの国境近くコルンバ(Corumba)の町で生まれた。1930年、18歳のとき、リオデジャネイロの陸軍士官学校に入学した。3年後、彼は学校を卒業し砲兵将校として南リオグランデ州の部隊に配属された。
青年将校のあいだでは左翼的な民族主義の思想が支配していた。彼も青年将校の一人として、その思想に感化された。そして反ファシズムを掲げる民族解放同盟(ANL)に加わった。
民族解放同盟は短命であった。1935年に結成され、その年の夏には非合法化された。その数か月後、民族解放同盟の影響の下にあった青年将校グループが独裁者ジェトゥリオ・バルガスに対する反乱を試みたが、失敗に終わった。カルバーリョはこの陰謀には加わっていなかったが、反乱に関係していたとみなされ、参加者とともに投獄された。軍籍は剥奪された。
刑期を務めるあいだ、彼は共産党員に獄中で出会い、深い影響を受けた。そして1937年に刑期を終えると同時に共産党に加わった。
U スペイン内戦とフランス・レジスタンス
ブラジル共産党は、カルバーリョら軍籍を剥奪された陸軍士官をスペインに送った。彼らは共和国軍の国際旅団に加わり、フランコ軍とのあいだの内戦を戦った。内戦中、彼は共和国政府によるトロツキスト、無政府主義者の迫害を目撃し、このようなセクト主義が共和国の敗北の理由であるとの結論に達したという。
1939年、スペイン内戦は共和国側の敗北に終わった。カルバーリョは、何十万人もの避難者と一緒に国境を越え、フランスに入った。しかしそこも安住の地ではなかった。1940年、ナチス・ドイツがフランスを占領すると、カルバーリョも捕らわれた。
カルバーリョはその年の12月、牢からの脱走に成功し、マルセーユに潜入した。そしてブラジル領事館に駆け込むことが出来た。
マルセーユのブラジル領事館で働いているあいだに、カルバーリョは地下に形成されつつあった反ナチスの抵抗運動と連絡をとるようになった。そして1942年、ブラジルがドイツに宣戦布告すると、彼はフランスに踏みとどまり、地下に潜行した。
陸軍士官であり戦闘の経験豊富なカルバーリョは、レジスタンス組織「マキ」団の司令官となり、破壊作戦や救援活動に携わった。レジスタンスにおける彼の地位はますます重要なものとなり、幹部の一人としての役割を担うようになった。
フランス解放のとき、カルバーリョはリヨンに本拠を置き、レジスタンスの戦士2,000人を率いるまでになっていた。
闘いのさなかの1942年、彼はルネ・ランジェリ(Renee Langery)を知った。ルネはフランス共産党員の夫婦にできた若い娘だった。レジスタンスの中では「エディス」(Edith)と呼ばれていた。彼女は連絡将校として活動する中でカルバーリョと知り合った。
ルネはカルバーリョの将来の妻であり、彼の残りの生涯のすべてを、ともに過ごす相手となる。
フランスはカルバーリョに、そのレジスタンスへの寄与を持ってレジョン・ドヌール(Legion d'honneur)勲章を与えた。これに比べると、スペインからの感謝はいくぶん遅くなってから実現した。彼は1990年代にスペインの市民権を与えられた。
V ブラジル共産党員として
第二次世界大戦の後、バルガス独裁が倒れ、ブラジル共産党は十年ぶりに合法化された。1946年、カルバーリョはブラジルに戻った。彼は急速に成長する共産党の機関活動家となった。
しかし平和な時代は2年と持たなかった。共産党はふたたび非合法化され、共産党員は弾圧された。カルバーリョとルネは共産党員をかくまい、海外へと亡命するのを手助けした。
1954年、カルバーリョとルネはソ連にわたった。そして1957年までのあいだ勉学生活を送った。カルバーリョは後にこう語っている。「私はソビエトの共産主義に幻滅を感じた。1956年に開かれた第20回大会の前にすら、そう感じていた」(訳者注: ソ連共産党の第20回大会では、フルシチョフ書記長がスターリンを非難する秘密報告を行なっている)
しかしそれにもかかわらず、カルバーリョは忠実な党員としてとどまった。ゴラール政権の下で共産党の活動が認められるようになると、彼はブラジルに戻り、党の幹部学校で教鞭をとった。
W 都市ゲリラ闘争への参加
しかし、1964年、ジョアン・ゴラール政権がクーデターで倒され、軍部が独裁政治を敷くようになると状況は変わった。すでに50歳を超えたカルバーリョは、カルロス・マリゲーラ(Carlos Marighela)とその仲間たちに加わった。ブラジル共産党に幻滅した党員たちは、革命派共産党(PCBR)を結成し、都市ゲリラ活動に飛び込んでいった。
1969年、カルバーリョは官憲に逮捕された。しかし次の年、別の都市ゲリラ部隊はドイツ大使誘拐作戦を決行し、39人の政治犯との交換をもとめた。カルバーリョは獄を離れアルジェリアへと向かった。彼はそこで9年間を過ごした。
1979年、軍事政権は国外亡命者に対し恩赦を発表した。カルバーリョはただちにブラジルへと戻った。そのときにはすでに、革命派共産党との関係は破棄されていた。
彼は新たな左翼活動家のグループに加わり、そのグループは翌1980年に労働者党(PT)を結成した。彼は共産主義から社会民主主義へと政治的立場を変えていった。
労働者党のルーラ(Luiz Inacio Lula da Silva)が、4度目の挑戦となる2002年の大統領選挙に勝ったとき、新政府はカルバーリョを退役将軍として処遇することを決定した。ルーラがカルバーリョを心から尊敬していたことはよく知られている。彼はカルバーリョをよき指導者、導き役と考えていた。
2005年9月23日、カルバーリョはたたかい続けた生涯を終えた。93歳だった。
その前、1997年に、カルバーリョは回顧録を発表している。それはテレビ・ドキュメンタリーとなり、全国で放映された。回顧録は「我々はいつでも夢を見ることが出来る」(Vale a pena sonhar)と題されている。
カルバーリョの葬儀のとき、ルーラはこう語った。「労働者党にとって、我らの世代にとって、そしてすべてのブラジル人にとって、彼は首尾一貫した、名誉を重んじる、練達の政治家であった」