パラグァッスー 愛と誇りの物語

(カラムルとパラグァッスーの物語は、ちょっと長いので別項としました。うそかまことか知りませんが、間違いなく面白いです)

www.famousamericans.net/brazilianheroineparaguassu より

 

A ディエゴ・アルバレス

 時は1510年、日本で言うと応仁の乱から戦国時代に入ろうかというあたりです。まだポルトガル人が種子島に漂着するまでは少し時間があります。ところはブラジルです。

 当時、ポルトガルはインドにバスコダ・ガマが到着し、さらに東アジアまで足を伸ばそうという勢いでした。さらに西に向けてブラジルにも探検隊を派遣しています。その航海はまさに命がけで、船が難破することも多かったようです。

 船乗りディエゴ・アルバレスの乗った船もそんな運命をたどりました。ブラジルはバイーアの沖合い、船は嵐に見舞われ岩に押し当てられ、沈没してしまいます。生き残ったのはディエゴただ一人でした。浜に打ち上げられたディエゴを助けたのはバイアの先住民トゥピナンバ族でした。

 トゥピナンバの人々の手当てで元気を取り戻したディエゴは、やがて現地の生活に溶け込み頭角を現すようになります。当時ブラジルの海岸線一帯には300万人もの先住民が生活していたといわれています。その生活は原始的で、本格的な農耕社会もなく、したがって支配階級も存在していませんでした。

 ヨーロッパの文明社会の知識があるディエゴは、それだけでもトゥピナンバの人々にとって驚異だったでしょう。彼はカラムル・アッスー(稲妻の作り手)と呼ばれるようになりますが、これは彼がマスケット銃で樹上の鳥を射落としたことから名づけられたといいます。

 モルビザバ・タパリカ酋長は、300戸、1000人を束ねる大酋長でした。ディエゴにほれ込んだタパリカは、自らの娘パラグァッスーをディエゴに娶らせました。村を挙げての結婚式は、さぞやにぎやかなものだったでしょう。こうしてディエゴは若酋長となりました。

B フランス船との出会い

 いのちを助けられ、酋長の娘を娶るという破格の処遇を受けても、ディエゴの望郷の思いは断ちがたいものがあります。一人丘に登っては、沖合いを眺め、海の向こうの故国に思いをはせる日々が何年も続きました。そんな彼の背中をパラグァッスーは心配そうに眺めていました。

 そんなある日、沖合いを通る一隻の船がディエゴの目に映りました。それは「ブラジルの木」を採りに来たフランスの船でした。「ブラジルの木」というのはブラジルに自生する大木で、その木からは、ベルベットを輝くような真紅に染め上げる染料が採れるのです。ブラジルを最初に発見したカブラルというポルトガル人は、この地にベラクルス(まことの十字架)という抹香くさい名前をつけたのですが、まもなくこの木の名前を採ってブラジルと呼ばれるようになりました。そのくらい貴重な木だったのです。

 ポルトガル人ディエゴにとってフランスは故国ではありませんが、自分と同じ「文明国」の船です。これを見たディエゴは思わず合図を送りました。詳しくは分かりませんが、おそらくはのろしを上げたのだろうと思います。思いを込めたその合図は、フランス船に届きました。船は帆をたたみ、錨を降ろし、やがてボートが岸に向かって漕ぎ出されました。

 もうディエゴは無我夢中です。坂を駆け降り、浜を駆け抜けボートに飛び乗りました。「ブラジルの地よさらば」という気分です。

C パラグァッスー、あとを追う

 パラグァッスーは、この一部始終を見ていました。そして岸辺まで走るとそのまま海に飛び込んだのです。彼女はどこまでもボートを追いかけるつもりでした。それが無駄に終わろうと、最悪なら自らの命を投げ捨てようと、彼女は夫の後を追いかけるつもりでした。

 ディエゴとボートの船乗りたちは、こちらに泳いでくるパラグァッスーの姿を見つけました。そしてそれがディエゴの妻パラグァッスーだと気づきました。それは息の詰まるほど感動的な行いでした。ディエゴはパラグァッスーに手を差し伸べ、救い上げました。このあと二人は、もう二度と離れ離れになることはありませんでした。

 これにはもうひとつの説話がありまして、パラグァッスーとは別のモエマという女性がカラムルの後を追い海に飛び込み、そのまま溺れ死んでしまったというものです。リオの国立美術館には「モエマの死」という立派な絵が展示されているそうです。

D パリのパラグアッスー

 二人を乗せたフランス船はナントに着きました。二人はパリに呼び寄せられます。呼び寄せたのは時の王妃カトリーヌ・ド・メディシスでした。

 後の栄華に比べれば、当時のパリはまだ鄙びたものですが、そうはいってもヨーロッパの中心であることに違いありません。ましてフィレンツェの名家メディチ家から、アンリ二世の下へ輿入れしたカトリーヌが王妃とあっては、その宮廷が華やかならざろうはずはありません。

 カトリーヌ王妃は二人を接見し、その純愛を賞でました。パラグァッスーは一躍パリの社交界の花形となります。パラグァッスーのえらいところはここからです。彼女はたちまちパリの文明習慣になじみ、キリスト教に帰依しました。王妃は彼女に自らの名カトリーヌを与え、カタリーナ・アルバレスの名を賜りました。

 これら一連の経過からは、すくなくともパラグァッスーがパリの社交界の浮かれトンボになっていないこと、社会の浮き沈みの中で拠るべきところをはっきり見据えていることが見てとれます。その豪胆・冷徹さたるや賞賛に値します。

E バイアに戻ったカラムルとパラグァッスー

 水夫上がりの夫ディエゴには、そのようなふてぶてしさはありません。パリの生活にすっかり参ってしまったディエゴは、バイアでのさんざめく日の光と、ゆったりした時の流れと、眠くなるような波のリズムと、自分を助け、認め、評価してくれたトゥピナンバの人々の素朴な優しさのなかにふたたび身をゆだねたくなりました。

 二人はブラジルに戻って、ふたたびトゥピナンバ族とともに暮らすようになりました。今のバイア州ベリャの町の近くとされています。いまやカラムル・アッスーにもどったディエゴは幸せでした。彼はふたたび部族の尊敬を集めるようになりました。

 カラムルが幸せであったように、パラグァッスーは幸せだったでしょうか? 彼女はカラムルのようにノーテンキではいられなかったと思います。ヨーロッパにおける彼女の体験は衝撃そのものだったはずです。どうしようもない彼我の力関係を、彼女はいやというほど味わったはずです。いずれは滅びへと通じるしかないトゥピナンバ族の運命を、彼女は深い衝撃とともに悟ったでしょう。

F 悪代官コウティーニョ

 ポルトガル人は土地の支配権を要求しました。パラグァッスーとトゥピナンバ族は、大きな抵抗もなくその支配を受け入れました。パラグァッスーには痛いほどその必然性が理解できたのです。カラムルは痛みを感じることなしに、その必然性を理解できました。カラムルが痛みを理解するのはその後のことです。

 ポルトガル王はブラジルを17の領地に分け、それぞれをポルトガル人資産家に与えました。トゥピナンバ族の居住地はペレイラ・コウティーニョの支配地となりました。17人の支配者の中にはあまり悪くない人も、ひどく悪い人もいましたが、コウティーニョは悪いほうの代表でした。

 最初にブラジルの貴重な資源となった「ブラジルの木」は、この頃にはすでに切り尽くされていました。ポルトガル政府はこれに代えてサトウキビの栽培を奨励したのですが、それには元手も人手もかかります。

 手っ取り早く富を手に入れたかったコウティーニョは、ベリャの農地を横取りしようと思いつきました。彼は偽りの罪をでっちあげると、ベリャにやってきてカラムルを縛り上げ、本陣に連れ去りました。そして無実を訴えるカラムルを牢獄に放り込んでしまいました。

G パラグァッスー、悪代官をやっつける

 「愛する人が無実の罪で捕らえられた」との知らせを聞いたパラグァッスーは、怒り狂いました。彼女はただちに自らの部族に闘いを準備させました。もちろん、ポルトガル人を相手に戦いを挑むのは無謀ともいえます。しかし夫はれっきとしたポルトガル人で、祖国でも名を知られた人物です。彼女はすでに洗礼を済ませた立派なカトリック教徒であり、フランス王妃から授かったカトリーヌという名前があります。

 それに相手のコウティーニョは、ポルトガル人ではあっても悪代官であって、ポルトガル政府ではありません。

 彼女はこの可能性に命を懸けました。

 ベリャの領地を出陣したトゥピナンバの軍勢は数千に膨れ上がりました。腕には弓や槍、髪には勇気の象徴の羽飾りという勇ましいいでたちです。ひそかにフランスから手に入れた火縄銃さえありました。

 コウティーニョはありったけの手勢を総動員してこれを迎え撃ちますが、命を惜しまぬトゥピナンバの猛攻の前に撃滅されてしまいます。コウティーニョもその息子も、あえなく戦死を遂げました。パラグァッスーは、カラムルを牢から救い出すと、ふたたびベリャの町に戻っていきます。

H 二人にお咎めなし

 ポルトガル政府は大変困りました。政府の任命した代官を殺してしまったのですから、統制する側としてはこれは重大な国家に対する反逆行為です。しかも先住民の間に不穏な雰囲気が満ちている今、これを容認すれば他に波及していく危険もあります。

 現地ブラジルの総督ドゥアルテ・ダ・コスタは、頭を抱えました。事情を知れば、まちがいなく非はコウティーニョの側にあります。カラムルとパラグァッスーを罰したときの国際的な影響も無視できません。下手をすれば、自らの名に傷がつきかねません。

 考えをめぐらせたダ・コスタは、結局、「これ以上騒ぎを大きくしないほうが賢明だ」と判断しました。考えるのをやめた、というほうが正確かもしれません。

 ベリャの所領は安堵され、パラグァッスーはその後も、夫や家族とともにずっと生きながらえました。その後もポルトガル総督に協力したカラムルは、1557年10月に亡くなり、イエズス教会に葬られました。三人の息子は、ダ・コスタの後任者であるトメ・ヂ・ソウサ総督によりナイトに叙せられました。

 夫亡きあと25年、パラグァッスーは、ベリャの町に最初の教会を建てました。教会の守護聖人はNossa Senhora da Oraciaでした。今でも彼女の亡き骸はベリャの教会に葬られています。 没年は定かではありません。

 

この話は、18世紀のミナス州出身の詩人Santa Rita Durãoという人の書いた「カラムル」という物語を下敷きにしたもののようですが、こだいぶフィクションが混じっています。たしかなのはカラムルと妻のパラグァッスーがパリを訪れて、カトリーヌ・ド・メディシスから洗礼名を賜ったということですが、これは1547年頃のことです。トゥピナンバ族の反乱がおきて、ポルトガルの現地エージェントだったカラムルらは命からがら逃げ出し、フランスに一時亡命したというのが真相のようです。カトリーヌ・ド・メディシスの生まれたのは1519年ですから、これだと年があいます。本気にさせて、申し訳ありません。

マリンチェの呪いばかりではなく、ラテンアメリカにはこのような説話がたくさんあるようです。 http://www.pucrs.br/famecos/iamcr/textos/brandon.pdf にはSara E. Brandonという人が “Deconstructing the Image of the “Indigenous Woman” in Popular Culture” という文章を書いています。ここでは説話の生まれた背景までさかのぼって説明されています。