ブラジル共産党−PCBとPCdoB どこが違うのか?

この文章は、ブラジル共産党(PCB)のホームページから拾ってきたものです。この党そのものは小さなもので、
それほどの影響力を持っているわけではありませんが、これまでの経過上、「元祖共産党」を名乗る資格があるといえばあります。
若者向けのQ&Aという形をとっており、比較的分かりやすくまとめられているので、とりあえずご紹介いたします。文章が所々分かりにくいかもしれません(特に後半)。
それは半分は私の翻訳技術が未熟なためですが、半分は元の英語も相当怪しいところがあるからです。

 

(Note of the PCB National Committee)  Rio de Janeiro, 21 of June of 2001

 

 これは私たちが遭遇する中でも最も多い質問です。とくに若い人たちに関してそうです。この質問はまた、PCdoBに対しても質問されることが多いようです。その党の機関紙「労働者階級」で、同じ見出しの記事を見ることができます。

 この質問は時宜を得たものとなっています。というのも、今、1962年以来分離してきたPCBとPCdoBの指導部が、対話を開始し、お互いの意見を調整し、統一した政治行動を計画し始めたところだからです。

 そこで、私たちは二つの党の意見を公表することに決めました。その内容は、ひとつはブラジル共産主義運動が分裂してしまった経過に関してであり、もうひとつは両者がこれまでに作り上げた合意についての評価です。

 

PCdoBの意見(全文)

 二つのブラジル共産党−ひとつはCommunist Party of Brazil(PCdoB)、そしてBrazilian Communist Party(PCB)は、1962年以来ブラジル国内で共存してきました。

 二つの党の間には政治的にいくつかの違いがあります。私たちPCdoBは1964年から始まった軍事独裁に対して、ゲリラ戦を組織して戦いました。アラグアイ川流域を中心としていたため、アラグアイア・ゲリラと呼んでいます。

 PCBは武装闘争を、軍事独裁に対する反対の形態として正しくないと批判しました。

 二つの党の間にはイデオロギー上の違いもあります。

 私たちPCdoBは、1950年代にニキータ・フルシチョフが権力を握った時代、ソ連の政治のあり方を公然と批判しました。PCBはソ連の政治体制を擁護しました。

 二つの党が並存するにいたった歴史的経過について述べます。

 ブラジル共産党(Communist Party of Brazil)は、1922年3月25日に、共産主義インターナショナルのブラジル支部として設立されました。
(訳者注:共産主義インターナショナルは略称コミンテルンといいます。また第三インターナショナルと呼ばれることもあります。各国の共産党は、最初コミンテルンの支部として結成されました。またすでに作られていた共産主義者のグループが、コミンテルンの承認を受けて共産党となった場合もあります)

 1950年代の末、ルイス・カルロス・プレステスに率いられた指導部の一部が、党の規約を改正し、正式名称をBrazilian Comunist Partyと変更しました。この規約改正により、プロレタリア国際主義の精神と社会主義革命への忠誠から遠ざかってしまったのです。

 これに反発した約100名の共産党員は、1962年2月18日にブラジル共産党(Communist Party of Brazil)を再組織しました。その中心となったのがジョアン・アマゾナス、マウリシオ・グラボイス、ピーター・オーチャードらでした。

 ここで頭文字の話になりますが、創立以来、ブラジル共産党(Communist Party of Brazil)の頭文字はPCBでした。党の正式名称がBrazilian Comunist Partyと変えられたあとも、略称はPCBのままでした。それで、私たちは多数派共産党との違いをはっきりさせるために、PCdoBの頭文字を使い始めたのです。

 1962年当時、PCBは「ビッグパーティー」と言われていました。大多数の党員がPCBの立場に立ったからです。しかしその後、この党は何回かの分裂に見舞われました。離党者の中には、当のプレステスさえふくまれていました。

 この党の最後の分裂においては、人民社会党(PPS)が誕生することになりました。その党はいま議会勢力の一員として、フェルナンド・エンリケ・カルドーゾ政権を支える一翼となるにいたっています。

 PCBに残った数少ない人々は、今も連邦政府とそのネオリベラリズム政策に反対する立場を貫いています。そして最近の国会議員選挙では、PCdoBとの統一を支持する投票を呼びかけています。

 

PCB(わたしたち)の意見

 1922年3月25日にブラジルで共産党が創設されたとき、党の名称はCommunist Party of Brazilでした。そしてその頭文字はPCBでした。ブラジル共産党は創立以来これまで、ほとんど地下での活動を余儀なくされてきましたが、それにもかかわらず、今日まで絶えることなく活動し続けています。

 PCBは決してマルクス・レーニン主義の原則を否定したことはなかったし、社会主義を目指す闘争の意思を否定したこともありません。

 1956年、個人崇拝主義とスターリニズムの批判で始まった共産党内の論争は、一部党員の党からの排除という形で決着しました。党員の大多数はPCBに残りました。そして党の正式名称をBrazilian Communist Partyと変更しましたが、頭文字のPCBはそのまま残しました。

 1962年、党を離れたグループは共産党の古い名称Communist Party of Brazilをふたたび持ち出しました。そしてその頭文字としてPCdoBという略称を採用したのです。

 その後、このグループは、中国革命のモデルをブラジル自らのモデルとして採用しました。1980年代に、このグループはアルバニアにおける社会主義建設のプロセスを自らのモデルとして採用するようになりました。
(訳者注: 当時、共産党や左翼の中には中国の毛沢東路線を支持する潮流がありました。これはフルシチョフの無原則的な平和共存路線を批判するという点では一定の進歩性がありましたが、武力革命唯一論など多くの問題を抱えていました。1970年代末に中国が文化大革命路線を放棄し、アメリカとの友好路線を前面に出すと、毛沢東主義者は四分五裂していきます。その中で社会主義国で唯一反帝反ソを掲げ続けたアルバニアのエンリケ・ホッジャ書記長に従う潮流が生まれました)

 PCBは、その創設の当初から「労働者国家」を擁護してきました。それは、かつてのソ連に代表されるような国々です。これらの国々はあらゆる困難、制限、そして特に最近の指導の誤りにもかかわらず、世界に社会主義の持つ力と可能性を示しました。

 そこには並外れた科学・技術の進歩がありました。それがソ連の社会に根本的な変化をもたらし、ソ連の人々の暮らしにより良い変化をもたらしました。

 旧ソ連は自らを社会主義の手本として示し、抑圧され搾取されている全世界の人々に連帯と援助を与えました。いくつかの国では、解放闘争の決定的勝利に貢献しました。ソ連があったからこそ、第三世界は帝国主義の脅威と侵略に抵抗し、立ち向かうことができたのです。これは、今もなお反駁のしようがない事実です。

 国際運動の分野ではもうひとつの重大な違いがあります。それはキューバでの社会主義の建設をめぐる歴史的評価です。キューバ革命が始まって以来、PCBはキューバ人民とキューバ政府、キューバ共産党を擁護し、連帯してきました。

 1964年、軍事クーデターが起き、ブラジルは軍事政権による独裁政治に移行していきます。PCBは、軍事政権打倒は政治闘争の道を通じてのみ可能であると主張しました。

 粘り強く闘争を展開し、ブラジル社会のあらゆる分野から民主的・進歩的労働者を結集し、絶えずその隊列を強化することで、初めてこの政治闘争は勝利を獲得することができます。
(訳者注: このことは全面的に正しい。ただし死んだシコ・メンデスは、「共産党幹部は、権力との激突が必至となると、その前夜ひそかに姿をくらましてしまう」と述べています。こういう「闘争」をいくら粘り強くやっても突破口は開けないでしょう)

 軍事独裁政権の期間、PCBは政権を打倒する方法としての武装闘争を拒絶しました。その代わりに広範な「民主戦線」の建設という戦略を採用しました。「民主戦線」は恩赦の旗を掲げ、「国家保安法」と検閲制度廃止の旗を掲げました。また直接選挙と民主的自由、制憲議会の召集の旗を掲げました。

 いっぽう、PCdoBは武装闘争の道を採用しました。この道はPCdoBだけでなく、多くの革命組織が採用しました。それら革命組織の大部分はPCBの分派として発生したものです。PCdoBはアラグアイア地方で英雄的なゲリラ部隊を組織しました。それは多くのゲリラ闘争と同じく、軍事独裁によって皆殺しにされて終わりを遂げました。

 歴史は、軍事独裁下における地下活動のあり方について、PCBの方針の正しさを示しています。しかしPCBが武装闘争を否定したからといって、権力の弾圧から被害を受けることなしに済んだわけではありません。軍事政権はPCB党員を逮捕し、拷問し、そして殺害しました。中央委員メンバーの3人に1人は弾圧の犠牲となっています。

 軍政時代最後の犠牲者となった二人は、共産党の活動家でした。一人はウラジミール・ヘルツォーグ(ジャーナリスト)、そしてもう一人はマノエル・フィエル・フィリオ(サンパウロの労働者)です。

 ゴルバチョフによる根本的改革は、ソビエト連邦共産党の路線の誤りによってもたらされました。そしてさらなる迷走をもたらしました。これらは国際的にネオリベラリズムの勝利をもたらしました。そしてPCB内部におけるネオリベラリズムの勝利をもたらしたのです。

 PCB内部では、社会民主主義路線をとる人々と新党路線をとる人々との意見の違いがはっきりしました。マルクス・レーニン主義にもとづくすべての原理的・政治的・思想的概念が論争の対象となりました。そしてどちらがPCBの路線を継続するのかが問われました。

 この論争は、1992年1月にブルジョアジーの側に立つ人々が現在の人民社会党(PPS)を結成したとき、後戻りのできないところに達しました。そして党は分裂しました。

 党の最高指導部は1980年代以降ずっと、階級間の和解を政策に掲げてきましたが、活動家の大多数はブラジル共産党(その歴史的な頭文字としてのPCB)を守る決意を固めていました。

 その後の選挙に、私たちはブラジル共産党(PCB)の名前で登録を申請しました。それは中央選挙管理委員会で承認されました。PCBはブラジルの州の大多数で再編成されました。そして 1992年以降、三回にわたる全国大会を開催してきています。

 昨年(2000年)、PCBは第12回全国大会を開催しました。そこでは党のマルクス・レーニン主義的特徴がいっそう明確にされました。ひとつは賃労働対資本の矛盾を解決し社会主義を目指す闘いを直接の目標に掲げたことです。これは今後一切、「二段階革命論」という考えと縁を切るということです。

 もうひとつは、民族解放路線の放棄です。この路線は過去において「民族ブルジョアジー」との同盟を必然的なものと考え、資本家との妥協を受け入れてきました。

 この大会で、PCBは「PCdoBとの合併」を決定しませんでした。PCdoBの同志たちは、先にあげた文書もふくめ、しばしば合併を断言したがっているようですが、それは「偽りの統一であり本物の詐欺」です。

 私たちは異なった体質を持っています。歴史と文化の違いもあります。何よりも共産主義者として不可欠ないくつかのテーマに関して、相当な見解の開きがあります。それらは、社会主義建設の経験を以下に分析するかという視点の問題であり、前衛党の特徴づけの問題であり、ブラジル革命の戦略と戦術の問題であります。

 これらのテーマは深く討議されなければなりません。しかも党の指導者だけではなく、すべての共産党活動家によって討議されなければなりません。私たちが熱意を持って取り組まなければならないのは、共産主義者の再統一を呼びかけるための、より広範で複雑なプロセスです。

 この討議の過程においては、たしかにPCBとPCdoBとの間の合意が優先権を与えられるでしょう。それは両者の持つ歴史的象徴性と、両者が担ってきた責任に由来しています。

 しかし討議はそこだけに留まっているべきではありません。ほかにも共産主義者の組織、そして未組織の共産主義者が、わが国には数え切れないほどいます。それらは我々の社会主義建設における危機の過程で発生しました。そして分裂と混乱の中にあっても活動を続けてきたのです。

 私たちPCB指導部がPCdoB指導部との合意形成のために活動してきたのは、この流れに沿った努力です。その努力は、PCdoB以外の共産主義組織や諸個人に対しても向けられています。

 共産主義者の再統一の過程は、たんなる組織統合ではありません。適当な日程表を作って段階を踏めばすむというものでもありません。そんなことをすれば、多数決の論理と強者の論理がまかり通ることになり、統合は失敗に終わるでしょう。(訳者注: この段落は相当の意訳です)

 再統一を成功させる鍵は、討議する双方が互いに相手を尊重することにあります。多様性をみとめる兄弟的な討議にあります。そしてなによりも、行動の統一、大衆運動の展開、資本家階級と対決し社会主義を目指す実践の中にあります。

2005年9月 訳出

 


ブラジル共産党の歴史  訳者による若干の解説

この文章を読んだ古参の活動家は、若干の感慨に打たれると思います。

ブラジル共産党は1922年創立されました。当初はコミンテルンのブラジル支部として発足し、その全面的な指導を受けていましたが、30年ころからは、世界大恐慌後の社会緊張の中で急成長を遂げます。

33年にドイツでナチが政権を握り、各国に影響が広がってくると、コミンテルンは反ファシズム統一戦線の戦術を提起しました。ブラジルでもこれにもとづいて民族解放同盟(ANL)の結成を訴えます。この運動は大きく盛り上がり、一時はバルガス政権を脅かすまで発展しました。

当時、親独的傾向の強かったバルガスは民族解放同盟に大弾圧を加えました。35年11月、民族解放同盟を支持する軍人が各地で武装蜂起しますが、これらの反乱はただちに鎮圧されます。共産党は非合法化され、プレステス議長は逮捕されました。

敗れたとはいえ、短期間に10万人を結集した民族解放同盟の経験は国際的に評価されました。コミンテルンのディミトロフ議長は、ブラジルの教訓を取り入れながら「反ファシズム国際統一戦線」の方針を確立していきました。

第二次大戦直後の2年間はブラジル共産党の最盛期でした。合法化された共産党は、国会選挙で投票数の1割にあたる60万票を獲得し,議席数第4位の有力政党に躍り出ました。首都リオでは4人に一人が共産党に投票しました。

47年初めの地方選では、共産党の得票数は百万に達しました.首都区議会では第一党となるにいたりました.もう明日にでも共産党政権が誕生しそうな勢いです。

これに恐れをなした政権は、共産党に弾圧を加え、非合法化しました。折から始まった「冷たい戦争」の下、ブラジルをふくむ中南米の国々ではいっせいに共産党が弾圧され、地下活動を余儀なくされます。

50年代の後半になって、ようやく厳しい弾圧も和らぎ、合法活動への準備を始めようとした矢先、ソ連でスターリン批判が始まりました。このスターリン批判の受け入れをめぐり党内では激しい議論が交わされました。またスターリンに代わりソ連の指導者となったフルシチョフの新路線をめぐっても、これを現代修正主義と批判しアメリカへの無原則的妥協だとする意見が噴出しました。

これにはもうひとつブラジル独特の事情がありました。共産党のプレステス書記長は、もともと青年将校出身で、25年には有名なブラジル版「長征」を指揮した英雄です。今は右と左に袂を分かっていても、民族派としての太いパイプが残されています。いわばインドネシアのスカルノに近い位置を占める人物です。このことは逆に、民族派政権との安易な関係も生みかねない危険をはらんでいます。

60年、当時のゴラール民族派政権の評価をめぐり、批判派は党を除名され、62年に新党を結成しました。これがブラジル共産党(PCdoB)です。PCdoBは次第に中国共産党の理論的影響を受けるようになり、毛沢東思想を信奉することになります。このようにソ連につくか中国につくかで共産党が分裂し、自主独立の路線をとる共産党が育たなかったことは、ブラジルの民主運動にとって不幸なことでした。

64年、ゴラール民族派政権が倒れ、軍事独裁体制が20年にわたり続きます。共産党ばかりではなく民族派もブルジョア民主主義者までも弾圧されます。

あらゆる合法活動が不可能となる中で、国内の残った共産主義者や民主主義者の中からいくつかの武装闘争グループが誕生します。たとえばPCBから分かれた民族解放行動(ALN)や10月8日革命運動(MR8)、PCdoBから分かれた革命的共産党(PCBR)や赤色同盟(Vermelha)などです。

これらの組織は軍事独裁に対しゲリラ闘争を挑みますが、70年から73年にかけて厳しい弾圧の前に、消滅してしまいました。85年の民主化のあと、それぞれの組織は復活しますが、かつての面影はありません。

PCBでは50年にわたり指導者の地位にあったプレステスが、事実上責任を問われる形で退陣。やがて党を離れていきます。残された党は「マルクス・レーニン主義とプロレタリア独裁の放棄、共産党の解党と、極左を除くすべての左翼の連合党結成」を主張するにいたります。

92年1月、PCBは臨時党大会を開催しました。ロベルト・フレイレ委員長が,綱領からマルクス・レーニン主義を削除すること、党旗から槌と鎌を削除すること、党名を社会主義人民党(PPS)にあらためることを提案.この提案が採択されます。

この解党方針に従わない党内少数派は脱党、新たにブラジル共産党(PCB)を再結成しました。彼らは「元祖PCB」を主張していますが、一人の国会議員も持たず勢力は微々たるものです。そのホームページを見てもかなり貧弱です。イデオロギー的にも依然としてソ連なきモスクワ路線派の域を脱しておらず、その将来は明るいとはいえません。

これに対し「本家共産党」を自称するPCdoBは、カトリック教会との共同を通じて軍事政権時代を生き延び、民主化後は学生層にも食い込み、一定の影響力を維持しています。選挙での得票はつねにPCB→PPSを上回っています。

イデオロギー的には中国の変質後、一時アルバニア路線を支持するという漫画的な誤りを犯しましたが、最近では自主独立の立場をとっています。しかしその綱領・規約はやや古めかしいものであり、一定のRenovationが必要なようです。

ところでこの文章でPCBが主張している共産主義者の再統一ですが、これは60年世代のノスタルジーであり、PCB側の取引材料という以外には、ほとんど無意味な提起だと思います。いまや時代はルーラとともに音を立てて流れており、むしろこれから、その評価をめぐって無数の分岐が生まれ、亀裂が広がっていくでしょう。

PCdoBもPPSも、そしてルーラ与党であるPTの内部にもかつての共産主義者がおり、ネオリベラリズムを突っ走るカルドーゾらPSDBの中にも多くの共産主義者の経歴を持つものが含まれています。

むしろ、過去の「正統性」とかを一度チャラにして、ブラジルに真の独立と民主主義をもたらすための戦略と戦術について真剣な議論と実践を積み重ねるべきでしょう。真の「正統性」はそこから生まれてくるのではないでしょうか?