自由か死か ニカラグア

 以前に出版した表記の本をOCRで読み込み,ネット上で公開することにしました.OCRによる誤読も残っているかと思いますが,ご容赦願います.なお,文章の中で「今年」となっているのは,1984年のことです.年齢なども84年当時のものです.もう20年も経ってしまったのですねぇ.

 

第一章 記念式典

第二章 アメリカ侵略の現実

第三章 ニカラグア行きのキッカケ

第四章 『一路』 ニカラグアヘ

第五章 マナグアに降り立つ

第六章 ニカラグアの農地改革

第七章 食物,飲み物,そして歌

第八章 ウィーロック司令官は訴える

第九章 ダビデの歌ニカラグアの心意気

第十章 国立小児病院を訪ねて

第十一章 宗教家の二つの動き

第十二章 ニカラグアの労働運動

第十三章 マナグア点描

第十四章 セレドンとサンディーノの闘い 解放の歴史@

第十五章 サンディニスタの闘い 解放の歴史A

第十六章 ちょっとした観光旅行

第十七章 当面する最重要課題 総選挙

第十九章 国際連帯にもとめられるもの

第二十章 ニカラグアを去る日

第二十一章 キューバとメキシコの落差

年表,人物録,参考文献一覧

あとがき

 

 

 

第一章 記念式典

七月十九目,朝

昨日の雨のあと,少し湿気がとれたようだ.熱帯の空は青紫にギラギラしているが,昨日よりはしのぎやすい.

郊外の宿舎からバスに乗り込んで,集合場所のインタコンチネンタル・ホテルに向う.そろそろ市街かと思うころ,突然車のスピードが落ちる.窓の外からワッと歓声があがる.「何だ,何だ」と窓に身を寄せると,四十人ほどのデモ隊だ.

子供もいれば小母さんもいる.どちらかといえばそういう人の方が多い.町内総出の集まりなのか.先頭にサンディニスタの赤と黒の旗.指揮者がシュブレコールを叫ぶ.子供たちが唱和しながらコブシを振りあげる.日本のように舌をかみそうな長いシュブレコールはない.リズミックで短い叫び.サッカー部が濠端の土手を走りながら,「キタコー,ゴー」「ファイト」とやっている,あれ式である.

窓をあけて,子を振る.連中も手を振ってこたえる.「こういう連帯は,世界中どこでも通じるものだ」と喜んでいたが,何と連中ときたらこちらを指差して「チーノ,チーノ!」とはやす.東洋人は皆,チーノ(中国人)で一括されてしまうようだ.

最初は,そんな風に喜こんでいたが,そのうち,次から次へとデモ隊が出現する.遂には道路を埋めつくしてしまった.バスは何度も立往生する.窓から身を乗りだせば,はるか向こうまで,人また人…

 

街を埋めつくすデモ

ようやくホテルに辿りつき各国の代表団と合流する.こちらもすごい人出だ.ロビーは身動きがとれないほど.結局,各国代表団が大型バスに相乗りということになった.

道路へ出た途端バスは人波に呑まれる.ロ々にシュプレヒコールを叫んでいる.歩みは滞りがちだ.ノロノロと走っては停まるバス.人いきれで冷房が殆んど効かない.吊革につかまった,自分の腕,その毛穴から,見る間に汗が玉となって吹き出す.

最初,かすかに聞こえていたサルサの歌声が,今ではシュプレヒコールの声を圧倒している.会場で流す「革命歌」だ.さすが,こちらでは「晴れた五月」も「世界をつなげ花の輸に」もみなサルサ.デモの人たちも,声をあわせたり,手を打ったり,歩くステップがサルサ風になってくる.四拍子目に腰をブリンとひねる,あの物腰はとても真似できない.

やっと着いたようだ.蒸風呂のバス(ほんとにバス)から解放される.首筋に浜風が,ソヨソヨと心地よい.ヤグラに組みたてられたJBLのスピーカーから,強烈なサルサのリズム.風に乗って今来たばかりの市街の方へ,その音が流れていく.

駐車場を出て二,三分も歩いた頃,行手に海がみえてきた.と思ったら,これはニカラグア第二の大湖,マナグア湖である.向こう岸は全く見えない.そのはるか向こう,太平洋から吹いてくる浜風,そしてはためくサンディニスタの旗とニカラグア国旗.

 

根こそぎ参加

強烈な陽光の下から入った,フォンセカ記念スタジアムの階段は,さすがに暗い.生乾きのコンクリートの地肌から,ボルトの頭が不器用に突き出している.湿ったセメントのにおいがする階段を登りつめると,一気に視界が開ける.

見たこともない人の海だ.国立競技場が二つくらい入りそうな会場(といっても我々の坐るスタンドを除けば,全くの野原だが)にギッシリと人が詰まっている.会場に入って来る大通りも,どの通りも完全に人で埋まってしまった.もうまったく入れるようなスペースはない.かなり高いスタンドから,見はるかしても,どこまで人がいるのか分らない.

集会の動員慣れしている,労組幹部の水野さんが目算を始めた.「一万,二万……」.会場分だけで十五万人は優に越えているようだ.大通りの向こうにはどのくらいいるか見当もつかない.いやはや恐れ入ったものである.顔を見合わせて感動のダメ息だ.

翌日の新聞によれば三十万人が参加したという.非常事態下のため,全国動員ではなくマナグア市近郊のみの参加という.マナグア市が人ロ六十万人,実にマナグア市民の半数がこの会場に結集していることになる.半分「お義理」で来ている人もいるだろうが,文字通り「根こそぎ」と言っていい.

昨日,我々を引見したウィーロック農地改革庁長官は,胸をはって言った.「明日,あなたがたはFSLNへの厚い支持を,見ることができるでしょう」

その通り,我々は見た.

日本で,選挙には何時も痛い目に合わされている.それだけに,「そんなに楽観的に考えていいのかな」と最初は思った.三大紙のひとつ「ラ・プレンサ」は,サンディニスタの民心離反ぶりを書きたてている.日本の新聞もそうだ.たまさかお目にかかるニカラグア関係の記事は,この国で政府側と反政府側が,あたかも拮抗しているかのように書いている.

しかし,現実はウィーロック長官の言う通りであった.サンディニスタは完全に民心を掌握している.

複数政党制を民主主義の原則として,彼らは擁護している.同時に,政治戦で勝利できるという圧倒的な自信を持っている.自信のある人ほど謙虚で寛容な態度をとれるものである.

 

コントラの『功績』

このような国民の団結をもたらした最大の功労者は,実はアメリカではないだろうか,と私は思う.

七九年に解放を成しとげて以来,一〜二年ばかりは,性急な改革による否定的な影響も少しあったようだ.米国政府はしばしのあいだサンディニスタ政権に消極的支持を与えたものの,その後急速にサンディニスタ敵視の立場に移っていく.そのとき,FSLNの若い指導者たちは,きわめて冷静かつ柔軟に対応した.

彼らはカストロやゲバラたち,キューバの先輩の多くの経験を学んでいた.また革命の途上で,それまで分裂していた状況を克服し,より高い立場で統一を実現した経験を持つ.これらの体験が彼らを鍛え,柔軟にし,成熟させたと思う.

何らかの信条や理論,或いは正義と真実を求める情熱だけからでなく,何よりも目前の現実の分析から出発するという教訓が彼らを成長させた.

革命の余韻も冷めやらぬ今,ソモサ残党やエデン・パストラらの「コントラ」(反革命)が国土を侵しはじめた.そのときサンディニスタは,たんなる党派的立場ではなく「民族の大義」を以ってこれらに立向かったのである.

「コントラ」たちは,直接兵力を接して闘いを挑むようなことはしない.そのかわりに,農民たちの生活の場である農協や倉庫を襲う.診療所や学校を襲い,医師や教師を狙い撃ちする.農作業に出かける農民を襲い,無抵抗な一般市民を攻撃の対象とする.

こうして三年間で七千五百人*が犠牲となった.「コントラ」は,それまでサンディニスタに距離をおいていた人達をも憤激させた.そして祖国防衛の闘いに結集させた.彼らももともと反ソモサでは一致していた.彼らはコントラとの闘いを通じて真の敵が米国であることを理解した.そして反サンディニスタ勢力への幻想をキッパリと捨て,革命の側に立つようになった.

サンディニスタにとって「国を守る」ことは,農民を守り平和な暮らしを守ることと同じ意味を持つ.数万の正規軍,民兵組織をあわせれば十万人に及ぶ軍隊が,いま国境地帯で反革命テロルと闘っている.その戦士たちの父や母が,兄弟が,国中に散らばっている.人々は息子や兄のロから,ソモサ残党の非道ぶりとFSLNの正義の闘いを聞かされている.

革命前,最大時でも一万そこそこの人員だったFSLN.それが五年の間に安定した国内支配を確立する上での転機は,そこにあったのではないだろうか.そして今日の革命五周年記念集会に三十万人もの参加をもたらしたのだろう.

 

オルテガは訴える

フォンセカ記念スタジアムにアナウンスが響きわたった.場内は一斉にしずまり返る.ファンファーレに続いて,国歌とサンディニスタ賛歌の斉唱だ.すさまじい音の圧力が地響きをたてるように体を包みこむ.

「前座」もなく,いきなりオルテガ政府評議会議長が演壇に立つ.やせて,猫背で,一見したところは余り風采のあがらない男だ.カストロがキューバ国民に一種のスター的人気を集めているのに較べると,ちょっと頼りない印象を抱かせる.

一語一語をゆっくり切って話し始める.やや甲高い声だ.詩の朗読でもするように語尾をのばして,大時代なロぶりである.後で英語のテキストをみても,まるでシェイクスピア劇のセリフのようだ.

例えば出だしはこうだ.

「五年前,われわれは勝利をおさめ悪夢の王国を葬り去った.五年前,鳥の歌が夢と希望の王国の勝利を告げた.五年前,鐘が鳴り渡り,ライフルと機関銃が鳴り響き,自由ニカラグアの誕生といううれしい知らせが伝えられた」

まずはレーガンの「非常事態」をめぐる反共デマ攻撃に対する反撃だ.アメリカの本格的侵攻開始以来の三年間で,ニカラグア国民の犠牲者が七千三百十九人,損害額が二億ドル余りであること明らかにした.そして現在の非常事態について,誰がそうさせているのか,何故そうせざるを得ないのか,小国ニカラグアのせつない立場を諄々と訴えた.

続いて注目される選挙の問題に移った.79年の革命以来国政選挙は一度も行われていない,そのことが「ニカラグアに民主主義はない」とするレーガンの,最大の攻撃ポイントになっていた.オルテガは,たとえ非常事態の中でも選挙はやる,そして選挙活動の自由は最大眼に保証するとのべた.デモと集会の完全な自由,軍事機密を除く検閲の全面解除,旧ソモサ軍政治犯の恩赦が宣言された.

ダニエル・オルテガという人物
オルテガ議長は未だ四十歳,やせて小柄な体からはもっと若くさえ感ずる.弟のウンベルトは国防相,兄弟で枢要ポストを握っているのはキューバと同じである.しかしオルテガ議長にはカストロ首相のようなカリスマ性はない.むしろ意識的にそれを避けている節すらうかがわれる.それは解放直前になって三派が合同するという,お家の事情もあるのだろうが,何よりもあの風采の上がらない小男サンディーノ以来,この国の革命運動に根づいた伝統なのかも知れない.
四十歳とは言え,彼は十五歳のときから革命運動に参加,二十五年の闘争経験を持っている.学生同盟や「ニカラグア愛国青年」を組織,指導.六七年の敗北後は捕えられ獄中につながれていた.しかし七四年の「パーティ襲撃事件」により釈放されて以降,幹部としてさまざまな闘争を指導.フォンセカの虐殺以後は蜂起派のリーダーとしてFSLNの中心幹部となった.革命後は五名からなる再建政府評議会の議長として,指導的役割を果たしている.
これからが彼の真価が問われるときであろう.
キューバのある友人は私にこう語った.「ロシア革命はレーニンによって成功した.キューバ革命はカストロによって成功した.ニカラグアにはそういう指導者がいない.そのことを私は危倶する」
しかし私としては,むしろそういうカリスマを必要としない指導体制が保てるところに,ニカラグアの強さがあるように思える.今後とも是非その点を貫いてもらいたい.

 

カルデナル神父が教育相に

ニカラグアの政治・外交を規定するもう一つの重要問題,教会との関係に話が移った.演説の中でオルテガは,教会の反動的上層部と対決する姿勢をはっきりと打ち出した.オバンド大司教とその一味を「偽善者」とまで言い切った.

カトリック教会幹部に対して,これだけはっきりした姿勢を打ち出したのはなぜか? ひとつには教会幹部の度を越した反革命策動がある.もうひとつは,そしてここが大事なことなのだが,「神を我が手で支えよう」とする革命的キリスト者が,サンディニスタの中軸と言えるほどに分厚く形成されているという事情がある.

「革命は,教会が神の人民によって構成され,人民の声が神の声であることを認めている」と,オルテガは高らかに宣言した.そしてフェルナンド・カルデナル神父を新たに文化相に任命したいと提案した.

「皆さんこの提案に賛成してくれますか」と,オルテガは問いかける.会場を埋めた民衆は歓呼のシュプレヒコールで応える.

 

三十万の参加者が総立ちに

最後はこういう言葉で結ばれる.

サンディーノはこう言った.「もし私が死んでも,いつかきっと,墓場の蟻たちが私に教えてくれるだろう.ニカラグアは自由になったということを」

あなたの蟻達はここにいる.ここにいる人民はあなたの蟻である.“捕らえられたニカラグアの心”であるあなたの墓から,人民はあなたを解き放ったのだ.

 

第二章アメリカ侵略の現実

この章はだいぶ注釈が多くなりますが,ご勘弁を.

カーターからレーガンへ

七月十九日にサンディニスタ革命が起きたときカーターがやったことは,後釜もつけずに独裁者ソモサを見放したことだけだった.そのとき彼はイランと中東に夢中で,新政権の階級的性格を見抜けなかった.そして二期目の就任を阻止しようとするレーガンと共和党陣営との対応に躍起になっていた.アメリカ帝国主義の総帥としてのカーターの無能ぶりは際立っていた.

それは革命をなし終えたばかりのサンディニスタに,貴重な息つぎの時間を与えた.

カーター政権の末期においてはさすがに,サンディニスタを米国の「手強い敵」とする見方がはっきりして来た.当初約束された経済援助は大幅に延期され削減された.しかしなんといっても,本格的なニカラグア攻撃は,八一年一月のレーガン就任に始まる.

レーガンの国際戦略
ケネディの時代から見て一番大きな違いは,
(1)世界中どこでも憲兵であり続けることが出来なくなり,かなりの部分を日本やヨーロッパなどに肩代りさせていることである.そして,中東と中米に兵力を集中させている.
(2)もう一つは,機動性と「結合戦略」である.昨日横須賀にいたと思った空母ミッドウェイが,明日はペルシャ湾,あさってはニカラグア沿岸と,それこそ七つの海をまたにかけて忙がしい限りである.一度はインド洋の真中で,ペルシャ湾に行ったものか,ニカラグアに行ったものか分らず,ウロウロなどという御愛敬もあったとのことである.
(3)もう一つは,マクナマラのエスカレーション戦略の失敗に懲りて,「やるときは一発で決める」やり方をとっていることだ.その典型がグレナダ侵攻である.これはニカラグアにとってはものすごい脅威である.ニカラグアの政府系新聞は「グレナダ型の再現がありうる」と警告する記事をのせた.キューバでも侵攻の再現を最も恐れていた.
総じて言えば「レーガン戦略」はケネディの時代をもう一度復活したい,という願望も含めた路線と言える.もうアメリカには,ケネディの時代のような力は残っていないにもかかわらず.

 

レーガンとニカラグア

レーガンがホンジュラスの国境地帯に一大侵攻基地を作りはじめたのは,八三年に入ってからである.ホンジュラスにおける反革命基地と部隊の創設については,エルサルバドル情勢を抜きに語ることは出来ない.

八〇年十月,ファラブンド・マルチ民族解放戦線(FMLN)が結成され,エルサルバドルの民主主義を目指すたたかいが一本化された.FMLNの指導する全国的な統一闘争により,状況は急速にエルサルバドル政府軍にとって不利となった.

アメリカは,FMLNの急伸の陰にニカラグアがいると見た.そしてニカラグアを叩きつぷすことなしに,エルサルバドルの危機的状況は乗越えられないと判断した.

他にも中南米には多くの火種があった.八二年メキシコを,発火点として激化した金融危機が,あっという問に中南米全体に拡がった.それは結果として軍事独裁政権の崩壊と文民政治の復活という流れをもたらした.いわば「民主化のドミノ」である.

同じ82年には「フォークランド戦争」が勃発した.米国の支援をあてにしたアルゼンチンの軍事独裁に対し,レーガンは最終的にイギリスの立場に立った.軍部は闘いに敗れ,そのまま崩壊を遂げた.代りに急進的な民主主義者の政権が登場した.

フォークランド戦争 アルゼンチン沖合いの島マルビナス諸島は,19世紀以来英国の占領下にあり,フォークランド諸島と呼ばれていた.特にこれといった資源もなく,漁業の中継基地のほかは,細々と牧畜が営まれているだけの島である.
当時アルゼンチンの軍事政権は,人権問題での海外からの批判が強まり,頼みの経済もオイル・ショック後の不況で危機に瀕していた.軍部は,マルビナス奪還という対外冒険路線で国内危機を乗り切ろうとしたが,逆にその敗戦が命取りとなった.

ボリビアでも軍部独裁は崩壊した.グァテマラでは一万人を虐殺し,三万人の国民一原住民が中心一がメキシコに亡命するという,残虐ぶりをふるったリオ・モンド政権が,国内の解放勢力の力をかえって急速に増大させる結果となり,軍内部での政権移動があった.

このような深刻なドミノ(将棋倒し)の始まりについて,レーガンは「危機」突破の鍵がニカラグアにあると見極め,ここを国際政治の焦点に選んだのである.

 

侵略への布陣

八三年二月から米=ホンジュラス合同軍事演習が始まった.「アワスタラT」(現地語で大きなパイン)と名づけられた演習には,ホンジュラス軍を合せ五千五百人が参加した.アワスタラTの終了と同時に,八月からはアワスタラUが始まった.新しい演習には実に一万一千人の将兵が参加している.

演習開始以来,基地造設費のみで一億五千万ドルが投入され,ニカラグアとの国境地帯に海軍と空軍基地が建設された.ホンジュラス国内の米軍司令センターには,千五百名の要員が配置されている.

演習開始と同時に,二つの機動艦隊が,パナマにある米国南方軍総司令部の下に配置された.この艦隊はニュージャージーを旗艦とし,空母四隻を含む超大型のもので,カリブ海と太平洋の両側から,ニカラグアを海上封鎖するようにしめつけている.

ホンジュラス国境には,旧ソモサ残党を中心として一万五千の兵士を送り込んだ.これはCIAが豊富な資金に物を言わせて雇った,殺し屋集団である.彼らは反革命軍(フエルザス・コントラ・レボルシオナリオ)と呼ばれた.さらにコスタリカ国境には,エデン・パストラの手兵二千人が配置された.

パストラは78年の国会宮殿占拠事件の指揮官を務め,一時は革命英雄の一人だった.革命政府の国防次官をつとめたが,意見の衝突からサンディニスタを離れ,やがて革命政府と対決するようになった.
旧ソモサ軍との結託をしぶったパストラは,記者会見の席上,爆弾で片脚をフッとぱされ指導部から放逐された.つい2ヶ月前のことである.

この他コスタリカ国内に,軍事顧問と称する千名の米軍人が配置されている.

一方ニカラグア国内においては,国家再建評議会(革命時から総選挙までの問,国家の運営にあたった)メンバーであったロべロを脱退させ,反政府運動の先頭においた.これに代って新たに評議会のメンバーとなった,元中央銀行総裁アルトゥーロ・クルスも抱き込みに成功した.今,反政府野党,民間企業最高会議(COSEP),教会上層部の三者は国内における反政府運動の中心として,事実上,反革命運動の一翼を担っている.

ロベロ ニカラグア経団連幹部.78年の反ソモサ闘争で,財界も含めた「拡大戦線」を作り議長に就任した.革命政権成立とともに,国家再建評議会のメンバーとなる.80年4月,サンディニスタの議会改革に反対し退陣.その後コスタリカに亡命し反政府活動を展開.

クルス 左派エコノミスト.77年にラミレスのイニシアチブで作られた12人委員会のメンバー.79年に革命政府の中銀総裁に就任.ロベロの退陣に伴ない評議会のメンバーとなる.83年に評議会メンバーが3人に減らされたのを機に,駐米大使に転出.まもなく大使を辞し,反政府の立場に転じる.

こうした中で,八三年十月グレナダ侵攻が起った.レーガンはカリブ海に浮かぶ小島に五千人もの大軍を投入して,六日問で一挙に制圧してしまったのである.

そのこと自体,どうにも弁護できない野蛮な行動であるが,それ以上に,ニカラグアとキューバに対する露骨なおどしである.それはニカラグア侵攻のための予行演習であった.アメリカ帝国主義は「これからもラテン・アメリカを支配し続けるぞ,そのためには直接戦争も辞さないぞ」という「宣言」をしたのである.

グレナダ 小アンチル諸島のいちばん南のほうに位置する島国.正確にはトリニダード・トバコがいちばん南の国となる.種子ヶ島の広さに十一万人の人ロ,軍隊は無しという超ミニ国家.78年に新ジュエル運動という組織が独裁者を追放し,自主独立型の政治を始めた.
親キューバ・親ニカラグアの立場をとったことからレーガンの逆鱗に触れ,指導部の内紛を機に米軍の介入を招いた.

今年八四年一月,キッシンジャーを座長とする超党派の中米問題諮問委員会が「中米援助計画法案」をレーガンに勧告した.この委員会は,同時に「サンタフェ宣言」も発表した.

「宣言」は中米地域を米国にとって死活的意味を持つ地域とし,断固として米国の利益を守り通すべきだと強調した.「法案」では,二年間で中米全体に五億一千万ドルの軍事援助を行うことが勧告されている.とりわけ危機的状態に陥っているエルサルバドルには,四億ドルの軍事援助が必要とされる.その他にも,この五年問に八十億ドルにのぼる経済「援助」が見込まれている.ちなみにニカラグアの国内総生産は年間二十億ドルにすぎない.

 

コントラの総攻撃

二次にわたる演習,サンタフェ計画の策定で進路を見すえたレーガンは,いよいよ本格的攻撃を指示した.今年二月に入り,まず太平洋側のコリント港,カリブ海側のフェルト・カベザスなど,ニカラグアの主要港湾をすべて機雷封鎖した.続いて二,三日の間は,軍基地と石油備蓄基地に連続爆撃をしかけた.

二月末ついに,ホンジュラス国境沿いの反革命軍五千名が一斉に越境し,北部山岳地帯,カリブ海沿いのジャングルになだれ込んだ.また三月に入ると,コスタリカ国境沿いのパストラ反革命軍もカリブ海沿いに侵入した.彼らはサンフアン・デル・ノルテで「臨時革命政府」の樹立を宣言し,そのニュースは世界中に打電された.ただしパストラがこの町を占領したのは,わずか6時間に過ぎない.

サンフアン・デル・ノルテ ニカラグア湖から出たサンフアン河がカリブ海に注ぐ河口の町.町そのものは住む人もまばらな寒村ではあるが,交通の要衝にあたるため,古くから争いが絶えなかった.19世紀には英国が占領しグレイフィールズと呼ばれたこともある.

北方からの侵入者は,一定の根拠地を作って臨時政府を樹立し,その要請に応えて,米軍・ホンジュラス軍が一体となってナダレこむという作戦をとった.しかしこの作戦は,ニカラグア軍の激しい反撃の前に不成功に終わった.正面切っての正規戦をとることができないまま,千三百名の死傷者を出したコントラ軍は,その後ホンジュラス領内に戻り作戦を再検討することを迫られた.

一方,アメリカによる機雷封鎖は,前年のグレナダ侵略ともあいまって,国際的憤激を呼んだ.日本の貨物船も含め五隻の船舶が被弾損害を受け,フランスからの募金による七十トンの医薬品を積んだ船が,港内で立住生した.

ニカラグアを支援し,アメリカの蛮行を糾弾する国際会議が連続的に持たれた.さらに五月,国際司法裁判所が全十五名の裁判官一致で出した裁定は決定的だった.「米国は…とりわけ機雷封鎖を即刻中止しなければならない」

米国にとっては,まさしく屈辱的な裁定であった.

反革命テロリストは最近,作戦を変えた.「黒い月」作戦と呼ばれるこの作戦は,その名の通り,夜間の待ち伏せ攻撃などを主体としたゲリラ作戦である.最初から卑劣な手ロで,農協や学校,病院などもっぱら民間の組織に対し,誘拐・暗殺など人的損害を与えることを目標にしている.この作戦のため,新たに四千五百名の傭兵がニカラグア国内に潜入しているという.

 

アメリカの実体

日頃,日本からアメリカを見慣れている我々にとって,想像を絶するような苛烈なアメリカの真実がそこにはある.「好きですアメリカ」などという宣伝コピーがあるが,こういう事実を知っていくと,かく言う私も含め,日本人の無知ぶりは相当なものである.

勿論,アメリカの指導者と一般のアメリカ国民とは,分けて考えなければならない.これはオルテガ議長も強調していた所であるが,どうもアメリカ政府に対する見方も甘くなっている観は否めない.

むしろ「アメリカは悪い国,こわい国」と強調しておいた方がはるかに無難な気がする.

 

第三章 略

第四章 略

第五章 ついにニカラグア入り

ニカラグアの自然

ニカラグア入りする前に,簡単にこの国の風土と,これまでの経過について触れておきたい.ニカラグアの国は三角形を逆立ちさせたようである.北の一辺はホンジュラスと国境を接し,残る二辺が太平洋とカリフ海大西洋に面している.南端の角は一部,削られたように面を形成し,コスタリカ・と接している.

ロッキー〜アンデスと連なるアメリカ大陸の脊梁山系は,この国では比較的穏やかな山容をとる.太平洋岸と並行し走る高地が,国土を三つの地帯に分割している.太平洋岸の低地,中央の高原地帯,そしてカリブ海に向かって広がる広大なジャングルである.太平洋岸よりの低地に,この国の主要部分が集中している.

中央高原は北に高く,南に行くにしたがい,マナグア湖,ニカラグア湖と低くなる.この高原は同時に火山地帯でもあり,いくつかの活火山もある.なかでもレオン近郊の富士山に似たモモトンボ火山,首都マナグア近郊のマサヤ火山が有名である.

全土が熱帯に属すが,高原地帯ではモンスーン型の気候である.五月から十月が雨期で,十一月から四月には熱く乾燥する.このため現地では雨期を「冬」と称している.しかし私の実感としては湿度の高い雨季の方が過ごしにくいようだ.

北部高原ではコーヒーが,中部から南部では綿花が主要産物となっている.他に牧畜も広く営まれており,牛肉もこれらと並ぶ主要輸出産品となっている.米の栽培もさかんで,主食となっている.ただし貧乏人には「主食」というほどには口に入らない.


歴史的背景

後に触れるので略
 

ニカラグアが見えた

ビールをスペイン語ではセルベサという.日本で読んだ旅行案内書では,中南米は非常に水が悪く飲めない.ウイルス性肝炎などの汚染源となる危険もあり,免疫の出来てない日本人は,絶対飲まないようにと書いてあった.また汗をかくと空気が乾燥していてすぐ乾く,このため知らぬうちに血液が濃縮し,ために尿も濃縮し,尿管結石が出来やすい.「ゆえに予防と健康のためにも大いにビールを飲むぺし」とはどこにも書いてなかったが,私はそのように読み取った.

ニカラグアで真先におぽえた言葉は「セルベサ,ポルファボル」すなわち「ビール頂戴」であった.これは当然ながら真弓さんから冷たい視線を浴びる結果となった.なおニカラグアのビール「ラ・ビクトリア」は非常にうまい.

そのセルベッサで一眠りしたところを,安田先生に起こされた.「ニカラグアが見えるよ!」

ロスからメキシコ・シティーまでは,行けども行けども,赤茶けた岩山と砂漠の連続であった.「何が太陽の西海岸だ,砂漠の西海岸と書け」と舌打ちしたくなるほど荒涼とした景色が続いた.メキシコ・シティーから飛び立って暫らくの間も,それは変らなかった.それが今,眼下に展開しているのは一面の緑,草原と森の山である.

高度が下がるにつれてマナグアの町が見えて来た.海のほとりの町と思ったらそれは海ではなくてマナグア湖だとのこと.日本ではお目にかかれないバカでかい湖である.

飛行機はやがて草原の中に着陸した.サンディノの名を冠したこの国際空港は,私の知っている空港からすると函館の空港くらいの規模.乗ってきたボーイング727と同じジェットがもう一機.あとはフレンドシップ級のプロペラ機が一機,博物館級のDCく3もあったが,あれは多分動かないだろう.話題のミグ戦闘機は,当然ながら見られなかった.格納庫も見たところ大きなものはなく,こんなところかと一応納得した.

後で真弓さんに聞いた話では,このDC3は未だ現役で,カリブ海岸沿いの町プエルト・カベサスとの連絡に使われているとのことだった.

飛行機が着陸したとたん,機内でいっせいに拍手が起こった.革命ニカラグアへの到着をみずから祝う拍手かと思ったが,無事に着陸できたパイロットに感謝して拍手するのは,中米地域では常識とのこと.あまり聞きたい話ではなかった.

いずれにしても,札幌からの旅行を考えてみると,まったくウンザリするほど長かった.「これであと暫くは飛行機に乗らなくてすむ」

そして,いよいよこれから始まるニカラグアでの生活にワクワクと期待が高まった.
 

またもやゾっとする

タラップがついて,ドアが開き,我々はゾロゾロと降り始めた.外へ出るとさすがに暑い.クラッとする暑さだ.駐日大使で折から帰省していたホルヘさんを始め,多くの人が迎えに出ている.私達は空港ビルのVIPルームヘ一旦おちつくことになった.

二階に上る階段に足を踏み出したそのとき,入ロに自動小銃を持って立っていた兵士がいきなり話しかけてきた.それも余り友好的な態度ではない.だが何を言っているのか分らない.

気がついてみると,私は空港内で迎えの人達を何枚か写真にとって,そのままカメラを首にぶらさげている.どうやら報道管制に違反したようだ.「これは着いたそうそう厄介なことになったな」 暑さだけでない汗が脇の下に凄み出てくる.

代表団を先導してVIPルームに入ったホルヘさんが,まだ来ぬ私を捜しに下りて来てくれた.彼が兵士と二言,三言話したあと,私は解放された.兵士の不服そうな顔を横目に見ながら,傍らをすり抜ける時の緊張感は,ここが戦闘状態にある国なのだということを,嫌というほど頭に叩き込んでくれた.


物騒な国

とにかく基本的には物騒な国なのである.去年の九月にはセスナが一機,このサンディーノ空港を空襲している.そのセスナは対空砲火で撃墜された.落ちた飛行機の中を探してみたら,CIAと委託を結んだ航空会社のフライト・プランがあった.また同じ昨年には,ニカラグアの国営航空会社「エアロニカ」のジェット機に爆弾が仕掛けられた.その話はメキシコ空港で搭乗直前になって聞かされた.これも聞きたい話ではなかった.

VIPルームの正面には,三メートルほどもあるサンディーノの肖像が掲げられている.絵の中でサンディーノは,テンガロンハットをかぶり,小銃を杖がわりにやや首をかしげて立っている.絵で見る限り,どちらかというと余り風采の上がらない人物だ.この民族的英雄に,これから五日間,いやというほどお目にかかることになる.

飛行機から空港ビルまで,ちょっと外を歩いただけなのに,もう汗だくだ.冷房が心地よい.エスプレッソを一杯飲んで,やっと生き返った心地となった.こちらではエスプレッソが多い.エスプレッソといっても日本で飲むような高級コーヒーという感覚はない.それよりは,煮出して少しでも粉から成分を搾り取ろうという魂胆のエキスに思われる.

五百人からの外国代表団を迎えたVIPルームは,かなりの混雑だ.入国手続きが終るまでは随分と待たされた.時間がかかるのは警戒が厳重なためか,それともただのグズなだけなのかが議論となった.大勢はトロいのだということになったが,私は先ほどの経験から前者に手を上げた.しかし今では,やはりただのグズだけなのではないかと思うようになっている.

私たちがそういう議論で暇つぶしをしている間に,団長の尾崎先生はテレビなどの記者団のライトに囲まれて,日本代表団のあいさつを行う.原稿もなしに実にスラスラと(日本語でだが),訪問の目的や連帯の意義などを述べ上げた.さすがタテに年はとってない.

ようやくエスコート役の女性も決まり,サンディーノ像の前で記念撮影して,いよいよマナグア市内へ向けて出発となった.あたりはもう夕もやが包み始めていた.

 

第六章ニカラグアの農地改革

プラネタリウム

マナグアの町を通り過ぎたバスは,やがて坂道を登り始めた.火山湖をとり囲む外輪山なのだそうだ.尾根に上り詰め,尾根なりに山道をしばらく走って,ようやく宿舎に到着した.その頃にはあたりは暗くなっていた.語尾変化も何も分らないから,皆のあとについて「ブエノス」と言いながら,とにかく荷物を部屋に持ちこんだ.

家は白壁の平屋でL字型,広い芝生の前庭があり,天井の高い小粋な作り,旧ソモサ政府の高級官僚の家だったという.このあたり一帯は,そういう住宅があちらに一つこちらに一つという具合,名前もプラネタリウムと,まことに天上の楽園を思わせる.革命前には民衆にとってまさしく,この地域は天上の如く思えたことだろう.

熱帯の国とは思えぬほど夜の冷気は心地よい.しかしそれより先に,長旅の疲れと緊張の連続でグッタリ.狭い飛行機の座席に坐りづめで尾蹄骨がヒリヒリする.

随員のセシリアさんから,明日の予定の説明を受けながらいつの間にかコックリ,コックリ,早々と床に入った.僕と安田先生は奥の角の部屋,安田先生はスーツケースをゴソゴソとかき回していたが,私は一足先に失礼させていただいた.

朝,にわとりのけたたましい鳴き声に目を覚まされた.シーツ一枚では何となく物足りないほどの涼しさである.二度,三度と寝がえりを打ったが,夜はだんだん明けて来て,何となくもう寝ていられなくなった.

枕元のブラインドのすき問を押しひろげて外を覗いた.すぐ目の前を小銃を担いだ草色の軍服が通り過ぎていく.これで一ぺんに眼が覚めた.犬が鳴き,にわとりが時を告げる,のどかな高原の住宅地とは言え,ここはやはり戦地なのだ.通り過ぎた兵士は,見たところもう五十を越えたおじさん(この国ではむしろおじいさんの部類か)であるが,しかし兵士には違いない.

 

朝の散歩

夜がすっかり明けると彼は帰って行った.ホールでタバコをふかしていると,野呂先生と菅原さんが起きて来た.三人で散歩に出る.

菅原さんは,ベットの中で鳥の鳴き声を,一所懸命聞き分けていたらしい.風流な方である.二十種類くらいは居るという.緑の木立ちの中を,石畳の道がゆるゆると登っていく.その道をのんびり歩いていくと,向こうの丘から牛の鳴き声が聞こえて来る.なるほど,路上にも,ところどころ牛の糞が落ちている.見上げれば,照葉樹で一本一本がやけに大きい.上に横にめいっぱい枝葉をはっている.

突然マリアッチの陽気な音楽が聞こえて振りむ<と,ダットサンのトラックに鈴鳴リの人達.ラジオのボリュームを一杯に上げている.これから畑に赴くようだ.

三十メートルおきくらいに,両脇へのびるポーチがあり,その先に我々の宿舎と同じような,白壁,平屋のカサ(邸宅)がある.どちらかといえば,我々の宿舎よりは大きいのが多い.ある一軒には緑色のジープが停まっており,色眼鏡をかけた屈強そうな男が,タバコをふかしながらラジオのニュースを聞いている.おそらくシークレット・サービスなのだろう.するとここに泊まったのは国賓級か.

「アッ泳いでいる!」.もう宿舎の前まで戻ってきて角を曲がろうとしたとき声が上がった.ヒョウタン型をしたプールで男女が泳いでいる.東欧系か,色白の大男達である.野呂先生は「女性はトップレスだった」と言うが,残念ながらよく見えなかった.

宿舎に戻ると早速,菅原さんが,お茶をたてはじめる.ところがお茶を飲もうとしてお湯が沸かせない.住みこみのスチュワードにメイドさんとも英語は全く通じない.ジェスチャーまじりで説明してもダメ.最後にあきらめて,自分達で台所をガチャガチャ.この国には薬罐というものがないのか!

悪戦苦闘の末,めでたく鍋でお湯を沸かして,やっとお茶が飲めることとなった.そのときやっと真弓さんが起き出して来た.皆で大笑い.お湯はアガ・カリエンテという.ヤカンはカルデラというのだそうだ.私が早速水泳パンツを買い求めたのは言うまでもない.
 

インターコンチネンタル・ホテル

ともあれ七月十八日の朝は明けた.日本代表団担当の随員セシリアさんも到着して日程の説明が行われ,ネームプレートが手渡される.名前はショ・スズキとなっているがまあ良いでしょう.

フォルクスワーゲンのマイクロバスに一同乗り込んで,まずは設営本部のあるインターコンチネンタル・ホテルヘと向かった.ファウヴェーの内装は,日本製に較べ大分見劣りがするが,いかにも頑丈そうである.キチキチ乗り込むとかなり手狭で,冷房の効かない車内は相当暑い.運ちゃんは凄いとばしようである.車内で何枚か写真をとったが,帰ってからみたら殆とが手ぷれでダメであった.

ホテルは名前の通り国際級の立派なものであった.マヤのピラミッド風の建物は各階に相当な広さのテラスを提供しており,高い建物のないマナグアでは絶好の眺望を与えてくれるだろう.一階には食堂の他バー,カフェ,それにプールサイドのカフェテラスがあり,白人のおばさんが,脂肪の塊りをビキニから溢れさせ,垂れ下げながら泳いでいた.このホテルは,各国友好代表の貸切りとなっており,我々代表団も当初はここに泊まる予定であった.

ロビーに入ると各国の人達で溢れている.私たちは今日ウィーロック指導部員と会うというので「マジメ」な格好をしているが,外国人は割とラフな服装が多く,肩肘張っていない印象であった.
 

ラテン・アメリカの農業

ここから私たちは外国代表と合流して精糖プラントの見学に行くことになるのだが,その前にニカラグアの農業事情について若干述べておきたい.

ニカラグアの農業は,他のラテン・アメリカ諸国と同様,ラティフンディウムを基礎としていた.ラティフンディウムというのは大地主制度で,中世の荘園のような制度らしい.

ラテン・アメリカにおける革命の挫折は,土地革命の挫折に多くの原因を負っている.メキシコにおけるサバータの敗北,,グアテマラのアルベンス政権の崩壊.軍事政権下でのペルーのベラスコの試みなど,いずれも土地改革を完遂しえなかった歴史がある.チリにおける土地改革の試みも,内部矛盾により徹底しないまま,CIAとピノチェトのクーデタで終りを告げた.

サパータ メキシコの農民反乱指導者で,今もなおメキシコ最大のヒーロー.1912年から始まったメキシコ革命中,南部に勢力を拡大.先住民の立場に立って土地改革を実行するが,1920年に暗殺される.
アルベンス 1945年にグアテマラ革命に成功.52年から大統領となるが,農地改革の過程で米国のバナナ会社の土地に手をつけたことから,米国に嫌われ,54年にCIAの仕組んだクーデターで追放される.
ベラスコ ペルーの軍人で,69年にクーデターにより実権を握った後,土地改革に着手.75年には追放され,直後に病死.

中南米において農地改革がなぜかくも困難なのか.いくつかの本を下敷きに,私の感想を述べておこう.

かつてこの問題を巡っては,「近代化論」に基いた考え方が支配的であった.即ち,中南米における農業生産は,粗放性と低生産性が基礎にあり,いわば中世的,封建的荘園制の時代を経過している.従って,農村における革命の発展は,もっぱら生産性の向上と,近代化に求められる.産業が拡大し,技術が発展すれば,農村はおのずから近代化されることになる.

この「近代化論」に対抗する形で「従属論」が登場した.従属論者によれば,荘園制がそのままの支配構造を保ちながらプランテーション化し,大土地所有制がまるごとアメリカの支配下におかれる.これが現代の新植民地主義である.従って,土地所有の社会化こそは経済革命の本質であるだけでなく,第一歩でもある.

「従属論」は,中南米でのこれまでの「土地改革」の失敗,キューバでの成功を分ける一つの重要な鍵と思われる.ただし,その国の経済・社会構造の全体的な遅れのなかで,農業の特殊な遅れをとらえなければならないという「近代化論」の主張は,「従属論」にあってはやや軽視される嫌いがある.


農業と多国籍企業

第三に,アメリカ独占資本の収奪のあり方が根本的に変って来ていることである.かつては大土地所有とモノカルチャ的農業生産を通じて新植民地主義が貫徹していた.それが六〇年代以降,多国籍企業の進出を通じて大きく変わった.農村を含む全国民が,商品経済への組み込まれるようになった.現在ではアメリカ資本が国民のすべての生活について支配するようになった.

したがって,たんに大土地所有に対してのみたたかうことで問題が解決する状況ではなくなった.自らの生活のすべての局面で,さまざまな要求を基礎に,多国籍企業やそれと結託した国内の財閥と闘う課題が,全国民に共通なものとなっている.

当初一定の大衆を引きつけて,反政府運動をおこした反ソモサ・ブルジョアジーも,最後まで「民族資本家」的革命性を保つことは出来なかった.それは彼らが多国籍企業支配の網の目に組み込まれている以上,当然のことであろう.農民・労働者は,自らの生存と労働を確保しようとする限り,ソモサのみならず,これらの多国籍企業やこれに追随する国内財閥と闘わざるを得ない.


農地改革の前提

ニカラグアにおける農地改革庁は,キューバの農地改革を念頭においている.キューバでは,ゲバラを先頭とする人民軍が農地改革の実行部隊となり,一気に農地改革を成し遂げた.それが米国との関係悪化の最大の要因となった.非常に重要な課題ではあるが,非常に微妙な課題でもある.革命政府が,FSLNにおける理論家ナンバーワンと言われるウィーロックを担当大臣にあてていることからも,力の入れ方がうかがわれる.

ウィーロックはキューバの経験を学んだ上で,あえて急激な土地改革を避けようとしている.彼は国営あるいは人民農場的な方向をとらず,協同組合方式を基本にすえた.彼はその理由として,キューバとは異なるニカラグア独特の農業の状況をあげている.

ひとつは,大土地所有がキューバほどには徹底されてはいなかったということである.生産力も生産関係も,キューバほどに資本主義的成熟をとげてはいなかった.また,キューバのように砂糖一本のモノカルチャーではなく,コーヒー,綿花の栽培も行われており,南部では牧畜も盛んである.それぞれの作物が独特の歴史と生産関係をもっている.

もうひとつは,ソモサ自身が国土と産業のかなりの割合を所有する巨大財閥兼地主だったということである.彼と彼の一族が所有していた企業は,ニカラグアの製造業の二五パーセント,建設業の七〇パーセント,鉱業の九五パーセント,サービス業の五五パーセントを占める.五十一の牧場,四十六のコーヒー園を含む二万平方キロの土地を所有し,多くの企業を所有していた.

これらのトータルは,国民総生産の実に四一パーセントにのぼる.ソモサ王朝と呼ばれるゆえんである.これを国有化したことで,政府は経済の中枢を握ることになった.とくにソモサ自身が八つの農産加工業,七つの水産加工業,四つの繊維業を持っていたことは,モノカルチャーから出発したキューバと異り,一定の有利な側面といえる.


農民と農業労働者の要求

七〇年代ソモサ末期において,全農業人ロの四〇パーセントが,土地をもたない季節労働者であった.雇用機会はコーヒー,砂糖,綿花の収獲期の四カ月に限られていた.このように,過去百年の問に進行した農地のプランテーション化は,ニカラグアに対外従属の構造を植えつけ,農民にとっては土地からの追い出しだけでなく,雇用機会すら奪い去るものであった.

残りの内,三八パーセントは小農であった.この内三分の二は,商品としての農産物を生産するどころか,自ら食べる物すら不足であり,収獲期には賃労働者として狩り出されていた.

プランテーションで働く農村労働者の階級的性格づけは,理論家のあいだで大議論となっているようだ.要は「農業労働者は労働者なのか?」という問題である.

彼らは小作人ではなく,商品としての農作物を作る,労働者の性格が極めて強い.彼らにとって必要なのは土地の所有一般ではなく,自らの労働能力を最大に発揮できる労働対象としての土地の確保なのである.その意味では,まさしく労働者というほかない.

しかし,これにも但し書きをつけなければならない.確かに農業労働者は労働の現場では,労働者と呼ばれるにふさわしい仕事をしている.しかし,それは1年のうち高々4,5ヶ月のことに過ぎず.後は失業者として飲まず食わずの生活を強いられる.彼らは仕事が無くなれば元の村に帰り,ほとんど「原始的」な先住民の暮らしに戻るのである.

彼らは要求実現のためには命を投げ出すこともいとわないほど戦闘的だが,心情としてはかなり保守的で,反動的ですらある.そして小作農と同じように自営農志向である.近代的労働者からはかなり離れたところに位置していると見なくてはならない.農業労働者の持つ二面性を正確にとらえて行くことは,革命政権にとって不可欠の課題となるだろう.

農地改革の二つの段階

革命後の農地改革は二つの段階に分けられる.

第一段階は「反ソモサ段階」と呼ばれている.この時期は革命直後に始まり,八一年七月二十三日最終的な農地改革法が決定されるまでの間を指す.なお正確には,マナグア解放の前七九年七月十六日に,すでにレオンにおいて小規模な農地解放が実施されており,この日が「農業改革記念日」に指定されている.

七九年七月の時点で,革命政府が手にした土地は一千万エーカーであった.これは国土の三七・五パーセントに相当する.この内五百万エーカーはもともとの国有地であり,残りはかつてソモサ一族の経営していた土地である.

まずウィーロック司令官をトップとする農地改革省(MIDINRA)が創設された.その指導の下に,主として旧ソモサ資産の接収と改変が行われた.それらは巨大コーヒー園や,精糖,精米設備をもつ近代的大経営のため,小農経営や農協方式に引き戻すことは出来ず,そのまま国営企業となった.この段階で土地を持たない農民の根本問題は解決されなかったが,企業経営への農業労働者の参加,雇用機会の増大という面で重要な進歩をもたらした.

同時にこの間,農地改革法制定の準備を着々と進め,併せて農業労働者の組織,貧農の農業協同組合への組織,中小自営農の「全国農民・酪農民組合」への組織が行われた.

農業労働者協会 七万六千人の組合員を擁する.ニカラグア労働者の中心的ナショナルセンターである「全国労働組合調整委員会」のなかで最大の単産となっている.
農業協同組合 農協といっても,日本の農協よりはむしろ集団農場というイメージに近い.
全国農民・酪農民組合(UNAG) こちらがむしろ日本の農協に相当する. 

農地改革法

以上のような準備作業の末,八一年七月農地改革法が公布された.この法律は可耕地の所有権を規定するもので,同時に土地没収の規定をも含んでいる.ここに至って初めて,本格的な土地改革に手がつけられたと言える.この法律により,千七百七十五工ーカーを越す農地については,没収されることとなった(遠隔地においては三千五百エーカー).またそれ以下でも,小作人が実体として耕作しており,土地貸しに過ぎないものについては没収の上,分与されることとなった.

これが農地改革の第二段階である.ウィーロック司令官によれば,「反荘園段階」として規定される.

注意しなければならないのは,この土地没収が具体的には休閑地に限られ,生産を現にあげている土地には適用されていないことである.また,没収された土地もすぐに分与されるのではなく,土地の共同管理,組織が重視された.この時期に分与された土地は七十万六千エーカーに過ぎない.

その間,農協の組織作りが精力的にすすめられた.この農協は農業会社や人民公社ではなく,小農経営を基盤とするものであるが,自主的,集団管理と自発的創意に基いた協業経営である.農地「改革」の結果,あらたに創出された中小農民が,保守に回帰し分散化していくという過去の経験に学び,それを防ぐ保証となることが期待されている.
 

これからの改革

農協は現在二千五百組合が組織されており,六万人の小作人が加入している.ウィーロック司令官によれば,農地改革はすでに第三段階に入っているという.この段階は,第二期における成果を地固めしようとするものであり,農協の組織拡充と,小作人への土地分与を内容としている.五百万エーカーの土地がほぼ分与を終えた.農協に加入していると否とを問わず,四万五千の農民に土地が与えられた.今年末までに農協所有と個人所有の土地は,半々にまで達するとされている.

この計画は,革命政策と混合経済政策への賛同を基礎におき,あせらず平和的,自主的な方法で進められるという.というのも現実には,中・小農が二〇パーセント以上の土地を所有しており,その多くは余り農地改革には興味を持たないからである.現にUNAGの加盟者数も七千人にとどまっている.

バリカーダ紙に載ったある農民の発言は印象的である.

「十五年前,私は五十人の小作人と共に,ある農園主の下で働いていた.それは千五百エーカーに及んでいた.我々は食うのさえやっとだったのに,農園主達からは,ゲリラ同調者だと攻撃され,その農園すら離れざるを得なかった.しかし今や土地は我々のものだ.我々は生命かけてこの土地を守る」

反革命ゲリラがバッコする中で生産を守り,国を守る農民の代表的意見として,我々は厳粛にこの言葉を受けとめなければならない.

 

第七章 食べ物,飲み物,歌,その他

マルガリータのはなし

相変らず暑く,空気にもやがかかっているように不透明な暑さだ.

連絡バスを待つ間,私と野呂先生,菅原さんはホテルの外に出てみた.ホテルは近代的だが,道路をへだてた向こう側は,赤茶けた空地が拡がっているだけだ.ホテルに隣接して軍のキャンプがあるらしく,ゲートの前に兵士が立っている.記念写真をとろうとしたら変な顔をする.私達がホテルをバックに二,三枚写真をとったところで,上級らしい兵士が寄って来て,困った顔で手を横に振る.ホテルの前も撮影禁止のようだ.

今日乗るマイクロバスはトヨタ製の十人乗りで,内装もきれいで冷房もよく効き,さすが日本車と思わせる.

バスが発車して十分も経つと郊外に出る.もう一人の随員マルガリータさんと相席になる.早速FSLNの組織について尋ねたが,よく通じなかったらしく,党組織の代わりに革命防衛隊(CDS)の話をしてくれた.中々流暢な英語で,従って私にはよく分らない.分った所だけ紹介する.

基本的大衆組織として革命防衛隊があるようだ.これはFSLNの「党」組織がまだ末端まで整備されておらず,住民組織レベルでは防衛隊が,「党」本来の機能をも代行しているためと考えされる.

FSLN指導下の大衆組織としては,他に以下のようなものがある.七月十九日記念サンディーノ青年同盟という青年組織や,ルイス・アマンダ・エスピノザ記念婦人協会(アムンレー)という婦人組織,UNAGという農民協同組合の組織,それにサンディニスタ人民軍という民兵組織,そして全国労働者運盟という労働組織である.

革命防衛隊は全国組織で,指導者がドラ・マリア・テレーズ司令官という女性.地方毎に分かれ,さらに各地区委員会まで分化している.各地区委員会は三百人前後の構成員からなり,支部(基礎委員会)に分かれているとのことである.

防衛隊は,初期は文盲克服やワクチン運動など,キャンペーン組織であったが,八三年に食糧配給制になってからは,その末端機関となった.その点では,日本の昔の「町内会」と同じである.

いずれにしても私の貧弱な英語力では,こういう抽象的な会話はもうお手上げである.どっと疲れてしまった.

 

アラカトヤの工場

原野の中に突如,大きな工場が見えて来た.近くによって見ると,建設は未だ全体の半ばにも達していない感じである.この工場がアラカトヤ砂糖生産プロジェクトである.完成のあかつきには中米最大の精糖工場となる予定だそうだ.完成予定である八五年一月には,五千人の労働者と,一万人の収穫作業員により,年間六万トンを生産することになるそうである.これはニカラグアの砂糖生産の二〇パーセントにあたる.

製品は全て輸出用に回され,貴重な外貨獲得の手段となることを期待されている.また農閑期は火力発電用に転用され,さらに酒やアルコールも生産する予定と,中々欲張った工場である.技術導入はキューバ,スペイン,スエーデン,スイスなどから行われているという.国際的な工場である.

未舗装の道だから,十台以上のバスが通ったあとはモウモウたる埃が巻き起こっている.それが太陽の光を乱反射して,とにかく暑い.我々は午後からウィーロック指導部員と会う予定なので,背広にネクタイの「正装」,ひっきりなしに汗を拭いてないと,どんどん眼に流れこんで来る.

工場の見学そのものは別にどうという事なく終った.「ホントに来年の一月までに出来るのかいな」というノンビリした進捗ぶりである.

工場の隣に労働者の集会所がある.FSLNの旗が,サウナ風呂のような熱気の中でダラリと垂れ下がっていた.その裏手には食堂があり,ヘルメット姿の労働者が列を作って順番を待っていた.服装はマチマチであるが,精程そうな顔は,さすが国家的事業として力を入れている工場に働く労働者らしい.

労働者用住宅の,長屋の間を適リ抜けていくと,広いサッカーグラウンドの隣に,アヅマ屋を大きくしたような吹き抜けの建物が見える.そこから民族音楽が聞こえて来る.ここで小休止である.

グラウンドでは,非番の労働者がサッカーに興じていた.さすが中南米は,サッカーが国技かと思ったら,この国で一番盛んなスポーツは野球だとのことである.ニカラグア出身の大リーガーもいるそうだ.ロス・オリンピックにも,野球とボクシングに参加している.こんな所は日本に似ている.
 

ニカラグアの四季

「暑い!」

言うまいと思えど,言わずにはいられない.直射日光がギラギラではなく,ドンヨリとした湿度の高い暑さである.東京のようなアスフアルーの照り返しこそないが,八月の夏の真盛りによくある日本の暑さである.「午後から一雨来そうだ」という暑さである.案の定,夕方からかなりの雨が降って少し涼しくなったのだ.しかし,日光は直射ではないのに猛烈だ.頭に手をやると,髪の毛が燃え立ちそうに熱くなっている.バスを降りて,昼食を摂る公園に歩いて行く十分ほどの間に,これだけ熱くなるのだ.

後で随員の話を聞くと,どうもここでは四季という概念がないらしい.「二カラグアには冬と夏があり,春と秋はない」と彼女は言う.そして「今がまさに冬なのだ」と.

北回帰線よりさらに南,北緯十〜十五度にあるニカラグアの空は,太陽が行きと帰りに年二回,頭の真上を通ることになる.だからこの国の一年は夏至,そして夏,そして夏至,それからまた夏なのだ.

しかし実際の気温は,太陽の運行よりもむしろ雨季と乾季というモンスーン気候により決定される.そしてこの国では,5月から八月くらいまでが雨期にあたる.この間は湿気が多いが,比較的気温は低くしのぎやすい.十二月から三月にかけての乾季こそが,やりきれない「夏」なのだ.

彼女の言葉どおりに受け取れば,私たちは,草木が生気を蘇えらせ,比較的暑さもしのぎやすい良い時季に二カラグア入りしたことになる.しかしその言葉は私にとってあまり慰めになったとはいえない.

私の生理感覚は,この四季に対する「規定」にはとてもついて行けない.要するにジメジメした夏とギンギンの夏が,二回の夏至をはさんで交互にこの国を襲う仕掛けとなっているのだ.


ニカラグアの食事

昼食は公園のガーデン・テラスであった.木陰にしつらえた椅子に坐り,まずはセルベツサ一.脱水症の危険を思えばこれもやむを得ない.

やがて,向こうの母屋に料理が並び始める.ニカラグアではだいたいセルフサービスで,小皿にとり分けて食べるのが習慣となっているようだ.メキシコでは給仕がついたが,変な給仕はいないほうが良い.チップの心配もしなくてすむ.

私は食べ物には余り執着心はないのだが,後学のために,セシリアに料理の中味を聞いておいたので紹介する.

まず,トルティージヤ.これはとうもろこしの粉で作ったせんぺい.サクサクとした歯応えだが,べつに旨くはない.

次にアガカテ.これはアボガドにドレッシングをかけたサラダ.割といけるが,所詮アボガドの味以上のものではない.

ダマール.これはとうもろこしのキントン.味はトルティージャと大同小異だが,こちらの方がまだいい.

プラターノは油で揚げたバナナ.ころもはついてないがバナナの天ぷらという所.バナナ独特の臭みはない.これは日本でもやっていい料理だ.

面白いのがフリホーレという料理,みたところ,こしあんの感じでこれはうまそうだと手をつけたが,「アン」に相違して全く甘くない.何で出来ているのかよく分らないが,何か小豆のような豆なのだろう.

シシャロンはブタの皮のフライ.これはうまい.フリートは鳥のカラアゲ.特にどうということはない.ケンタッキー並みだ.カルネは牛肉のフレーク.カルネ・モリーラは豚肉のフレーク.牛肉は名物だけあってさすがのものである.

とまあ,こんな料理だったが,よく一言えばエキゾチックな田舎料理,毎日食べると言われれば尻込みしたくなる物である.暑さでゲンナリしているところに,ビールで腹がふくれてしまったから,余計いい印象がないのかも知れない.


ニカラグアの歌

という訳で一服していると,向こうからマリアッチの歌声が聞こえて来る.テーブルからテーブルヘと回りながら,ソンブレロの六人組が歌っている.なかなか声量豊かなコーラスである.比較的緩やかなテンポで,ちょっと物悲しげなメロディ.昔日本でもお馴染みのトリオ・ロス・パンチヨス風だ.二本のトランペットがオブリガートでからむ.

次の日,宿舎でテレビを見ていたらこの連中が出ていた.ニカラグアでは名の通った連中なんだろう.

宿舎のメイドさん達は,日中暇になると,ロビーの東芝製テレビに見入っている.この国のテレビ局は,現在は国営になっているはずだが,コマーシャルは流れるし,歌番組や連続メロドラマなど多彩だ.ラジオの方は前線にも流れるため,番組の問に「前線の皆さん頑張一て下さい」などとクレジットが入ったりするが,テレビは余り関係ないと見えて,割と俗っぽい番組が多い.とにかくラジオもテレビも日がな音楽を流している.ほとんどはフリオ・イグレシアスかトリオ・ロス・パンチョスみたいにしか聞こえない.

連中の出ていたテレビ番組というのは,三組くらいのコーラスが交替に各々二曲くらい歌う三十分の番組だった.どれも同じようなマリアッチのバンドが,似たようなメロディの曲を歌っている.公園みたいな所からの実況録画なのだが,ハンディ・カメラに三脚をつけた程度のカメラらしく,画像が悪い.それがどうも二台しかないようで,パンしたりズーミングしたり,いろいろカメラワークをいじっても,どうも田舎っぽくてハッとしない.歌手の方も,スピーカーから流れるレコードに合せてロをパクパクさせているだけだから,声が出ている筈なのに,コードに足をひっかけたりして,締まらない事おびただしい.
 

酒とコーヒー

脱線ついでにニカラグアの酒とコーヒー.まずはセルベッサー.これは国産でビクトリアという.かなり大きな工場のようだ.その資本は接収されておらず,反政府ブルジョアジーの拠点の一つとなっていると聞かされた.

もう一つはラム酒,スペイン語でいうとロンである.砂糖キビを発酵,蒸溜したこのラム酒は中米・カリブが生産地.キャプテン・キッドや宝島など海賊もののストーリーには必ずつきものだが,実際にお目にかかったのは,こちらに来て初めてであった.ニカラグアの銘柄「フロール・デ・カーニャ」は,ブランデーに似た香りと味のうまい酒である.

勿論生一本でやるのがスジだろうが,ウイスキーと同じようにオンザロックにしたり,ハイボールにしたりと,どうにでもなる,女性陣はコーラで割って飲んでいた.このロン・アンド・コークを「自由ハバナ」というのは皮肉である.

コーラといえばコカコーラもあり,これは革命前からのブランチャイズド・ボトラーが,そのまま生産しているとのことであった.キューバでは,ヘミングウェイに真似て,カンパリ・ソーダというのを試したが,ピターがキツくて後味がどうもよろしくない.咳どめのシロップを飲んだようである.

コーヒーは,マラゴジペという銘柄がこの国の名産.現地語で大きい豆という意味だそうである.国の北部山岳地帯を中心に作られており,従って反革命ゲリラの侵攻の影響をモロに受けて,生産は停滞しているようだ.

こちらではコーヒーの入れ方に二通りあって,トロトロのコーヒーをデミタスに受けて飲むエスプレッソと,番茶のようにガブガブ飲むアメリカン・スタイルがある.どちらも中々良いもので,特に薄目のアメリカン・コーヒーを砂糖抜きでガブガブ飲むのは健康にもよさそうである.エスプレッソは飲み終えたあとカップの底にトロリとしたコーヒー粉が残るくらいで,胃の悪い方には余りお勧め出来ない.しかし冷房の効いたラウンジでこれを畷っていると疲労が回復して来るようだ.「アイス・コーヒーはないのか」と聞いたが,これはどうも日本独特の飲み物のようである.