エルサルバドルからの報告

 

by J.P.Bone

Copyright (C)1997

Mindfield Publications

 

この文章は下記のマガジンの97年10月号に掲載された三つのレポートを訳したものです.著者には連絡済みです.

  • El Salvador: The Smoldering Fire (J. P. Bone)
  • El Salvador: "I Don't Trust Politicians" (J. P. Bone)
  • Winter In El Salvador (J. P. Bone)
  •  

     

    冷房の利いたサンサルバドル空港のドアを開け,一歩外に出ると,そこはむっとする熱気の別世界.熱帯雨林,活火山,ひらめく稲妻で彩られた国,エルサルバドルでした.

    すべてのものから熱気が立ちあがっています.コーヒー畑,バナナの樹々,マンゴーとココナツ椰子,活火山の山裾から立ちのぼる水蒸気,身の回りのすべてのものからです.

    深く息を吸うと,経験したことのないアロマが空中に漂っています.大気そのものが生きた花束です.熱帯の果物と草花とジャングルの香り.しかし空中にはそれとは別に何かほのかな香りもあります.なんと形容してよいか難しい.最初はなんだか分かりません,そのうちかすかにマリファナと分かるでしょう.

    エルサルバドルにはもう一つの匂いがあります.国中の何処へ誰が行こうと,その匂いから逃れることはできません.それはくすぶった火の匂いです.

     

    はじめに

    私は最近,家族とともに,9日間をエルサルバドルで過ごしました.その9日間,私たちは,サンタアナとサンサルバドルという町に滞在しました.サンサルバドルはこの国の首都,サンタアナは第二の都市です.そこでバリオ(労働者階級の住宅街)に住む親類とおつき合いさせてもらいました.

    私の妻はエルサルバドルの出身です.妻は1977年に,家族と離れ,米国に"不法"入国した経歴を持っています.米国に来た目的は,母親と三人の兄弟に仕送りするためお金を稼ぐことでした.

    サンサルバドル空港では,妻に感動的な再会が待っていました.妻は,家族と長いこと会っていませんでした.三人いる兄弟の内の一人とは,実に20年間も会っていなかったのす.もちろん,たくさんの甥や姪たちとは初めての出会いです.

    彼女が米国に行っているあいだ,その家族は,信じられないほどの困難を経験していました.その経験は,すべてのエルサルバドル国民にとって共通のものでした.この国の内戦です.

    その内戦は1980年に始まりました.そして1992年12月31日まで終わりませんでした.戦争のあいだ,迷彩服とヘルメットの国家警備軍の部隊が,労働者階級地区や田舎や山間部で襲撃をくり返していました.軍隊は自らの敵,人々はフレンテと呼んでいましたが,その「ファラブンド・マルティ民族解放戦線-FMLN」の疑いがかけられた人や,その家族を,片っ端から殺しまくっていたのです.

    内戦の頃は,夜間の外出は禁止されていました.夜,クリケットの応援歌は,しばしば男たちや女たちの絶叫で中断されました.軍隊に捕まった人たちです.彼らは拷問されたり体を切り刻まれたりしているあいだ,そして生きているあいだ,そのような叫びをあげていたのです.それは,決して罰せられることのない「死の軍団」のしわざでした.

    朝になって,子供たちが住宅街の埃っぽい道を学校に向けて歩いていると,しばしば道ばたの死体と遭遇しました.それは昨日の晩,夜の闇の中で悲痛な叫び声をあげていた人たちのものでした.

    しかし5年前和平協定が調印されてからというもの,世の中は変わりました.あの恐ろしい国家警備軍は解散され,全国市民警察に置き換わりました.新しい警察には,FMLNの兵士だった人や,ゲリラと一緒に闘った男たちも大勢ふくまれていました.一部の例外を除けば「死の軍団」も消滅しました.でも,オスカル・ロメロ大司教をはじめ多くの虐殺を組織し,指示した者たちは,いまも自由なまま街にとどまっています.

    交通巡査は,糊の利いた白いシャツに青いズボンと帽子を身に着けて,M−16自動小銃の代わりにピストルで武装しています.いまだ腐敗した警官もいないわけではありませんが,それはどんな国にもあることでしょう.

    いまや国民を恐怖に陥れているのは,警察よりも,ギャングなどの凶悪犯罪者たちでしょう.エルサルバドルの都市部において,ギャングはますます頭の痛い問題になっています.この連中のやりくちはアメリカじこみです.その力を誇示するように建物の壁に落書きするのは,自分たちの組織の名前,それもほとんど英語です.たとえば“18番街ギャング団”という具合です.

    もう夜間外出禁止令は廃止されていますが,ほとんどの人たちは,日の暮れたあと道路に出るような真似はしません.これらの犯罪者たちも恐いが,同じように,元兵士や元ゲリラなど地元育ちの暴力集団も恐いからです.

     

    戦争が終わって何が変わったか?

    たいていのエルサルバドルの人は,「戦争が終結してからは,いろんなことが良くなった」と答えます.人々は仕返しを恐れずに自分の考えを表現できるようになりました.

    例えば今年(97年)3月16日におこなわれた一斉地方選がよい例です.いまや合法的な政党となったフレンテが,全国でビックリするような勝利をおさめました.その中にはエルサルバドル最大の市,サンサルバドルとサンタアナの市長のポストもふくまれています.

    1980年に内戦が始まったとき,フレンテは「国際共産主義が送り込んだ悪魔の使者」と見られていました.17年後のいま,この国で一番人気のある政治家はエクトル・シルバです.若くてハンサムでカリスマ的な魅力も備えたシルバは,元ゲリラの代表としてサンサルバドル市長選挙に立候補し,当選しました.もし今日,大統領選挙が行われれば,米国生まれの医師資格を持つこの人物は,その最も有力な候補だと言われています.

    政治的には巨大な変化を遂げたエルサルバドルですが,変わらないものは,この一世紀というもの何も変わっていません.いまも女たちは,果物や野菜を載せた大きな,重い篭を頭に担ぎ,それに両腕をあて,街の路をゆったりと歩いています.

    埃っぽい住宅街(バリオ)にやってきた女たちは,積み荷を降ろすと,近所の人を相手に商売を始めます.篭のなかはトマト,唐がらし,セロリにパセリ,ホコテ(jocotes),レモン,パパイヤ,緑のマンゴーなどなど一杯です.

    これが田舎に行くと,サンタアナのような都市でもそうですが,男たちの物売りも珍しくありません.男たちは二頭立ての牛車に乗ってやってきます.そしてバリオを練り歩きます.手作りの車にはトウモロコシ,砂糖キビなどの他,薪木,その他の商品が山積みになっています.

     

    オウムが消えた

    もちろん,昔と変わってしまったものもたくさんあります.

    戦争の前は,オウムの大群がかまびすしい鳴き声をあげながら,巨大な,緑の雲となって大空をよぎっていったものでした.今は,彼らは去ってしまいました.この国が戦争中だったころに,近くの国の空に移動していったのでしょう.

    イグアナもいなくなりました.昔はありふれた生き物でしたが,今は滅多に見られません.アルマジロも同じです.捕まえられて外国に売り飛ばされたのでしょうか.それとも,あまりにも多くの貧しい家族の食卓を,つかの間,にぎわせたのでしょうか,誰もその理由を知りません.

    ドルミローナという美しい名の,魔法のように繊細な植物があります.この草は名前の通り,指を触れると眠りに落ち込んでしまうようにうなじを下げます.戦争前は雑草のようにありふれた植物だったドルミローナも,今や見つけるのは難しくなりました.

    森林の消失は,エルサルバドルが直面する重大問題です.降雨量の減少など気候の変化が直接の原因とされています.かつて原生林で覆われていた多くの山や丘は,きれいさっぱりと禿げ上がってしまいました.

    ゲリラの隠れ家となるのを妨げるために,何千エーカーという山林が政府によって戦争中に刈り払われました.残された森も耕作のために徐々に狭まりつつあります.外国企業の支出も影響を与えています.森を切り開いて「経済特別区」が建設され,工場が緑を侵食していきました.かつてエルサルバドル随一の換金作物だった綿も,国土にもたらされた変化によって,だめになってしまいました.

     

    ピピル族の運命

    戦争以来変化したことで,もう一つあげておかなければならないことがあります.それは,この国の先住民ピピル族がいなくなってしまったことです.

    ピピル族は,ピラミッドや大きな市を建設したマヤ民族の後裔です.1980年以前,ソンソナテやパンチマルコという町や村では,町の広場やメインストリートでピピルの人々が伝統的な衣裳を売っていたものでした.ピピルの人たちは鮮やかな色の衣服をまとい,祖先と同じナウァトル語を話していました.

    ピピル族は「1932年の大虐殺」(マタンサ)の際,主な標的にされました.エルサルバドルを支配した多くの独裁者のひとり,マキシミリアノ・エルナンデス・マルティネス将軍は,このとき32,000人の農民を虐殺しました.

    この虐殺は,ある反乱の企てを打ち壊すためにおこなわれました.それは政府の暴政に抗議する農民の抗議の行動でした.その反乱を組織したのは,ファラブンド・マルティというエルサルバドル人の革命家です.フレンテの正式名称,「ファラブンド・マルティ民族解放戦線」は彼の名をとって名づけられています.

    このマタンサとその後の弾圧を潜り抜けて,ピピル族はいままでなんとか生き延びてきました.しかし1980年代,ピピルの人々は自らの出自を隠さなければならなくなりました.

    野蛮な弾圧への恐怖が彼らを支配するようになりました.政府軍の兵士たちは,敵と疑ったものに対しては容赦ありません.ピピルはピピルであるというそれだけで,十分に敵と疑われる理由になりました.多くのピピル人が,苦悩の中でそのことを悟りました.

    彼らは,処刑の危険を冒すよりは,スペイン語を学び,エルサルバドル人と同じ服を着ることを選びましだ.男たちはボタンつきのシャツとスラックス,あるいはジーパンとTシャツ.女たちは在り来たりのブラウスとスカートを身につけるようになりました.伝統に固執したのは,戦争中にゲリラ支配区だったわずかな地方の人たちだけでした.偉大なピピルの残したもので,訪れた観光客や考古学者の目に見えるものと言えば,今はもうピラミッド,廃墟,そして出土品のみとなってしまいました.

     

    ベンセレーモス放送

    戦争中は,独裁政権に反対する広範な人々がFMLN支援にまわりました.マービン・ガレアもその一人です.ガレア氏は,かつてゲリラの地下放送「ラジオ・ベンセレーモス」をプロデュースしていた人です.「シエラ」(山地)で,フレンテの司令部とともに活動していました.

    ベンセレーモス放送は,今ではサンサルバドルで放送を続けています.ベンセレーモス放送もフレンテと同じように,現在は合法的な放送局になっています.でももうFMLNのメガホンではありません.ガレア局長は「自由なジャーナリスト」として,元の同志の一部を批判すらしています.

    サンサルバドルで,私と妻はガレア氏と話す機会を得ました.放送局の訪問は,エルサルバドルで今起きている変化を眼のあたりにする経験でもありました.

    ラジオ・ベンセレーモスのロビーには,当然チェ・ゲバラの写真のような革命的なパネルでも掛かっていると予想していましたが,およそ見当違いでした.そこにあったのはレコードのジャケット.エルビス・プレスリーやビートルズ,そしてサルサのスター達の写真でした.

    ガレア氏がFMLNの一部指導者たちの腐敗を批判するとき,その舌鋒は鋭いものがありましたが,かといって彼がARENAの支持者になったわけでは決してありません.彼自身,一度は国家警備軍と「死の軍団」の標的になった人物です.

    ゲリラとともに山中をさまよった人間が,今は全国に向けて自由に自分の考えを述べることができる.彼にとって,この自由の意味は決して忘れることのできないものです.

     

    「サンタ・エレナの十二使徒」

    まずガレア氏は最近起きた事件から語りはじめました.

    「ロベルト・マチエス・ヒルという人物が逮捕された.こいつはいま国中で一番金持ちで,一番力のある男だ.そういう男がつかまるということは,この国で重大な変動が起きつつあることの証明だと思う.ヒルが逮捕されたのは,預金者の金を少なくとも1億5千万ドル騙し取ったということなんだが,預けたほうも,もともと金融詐欺に荷担していた連中だ」

    この話を聞いていて,否応なしに一つの疑問が思い浮かびました.「そんな大物が捕まるのを許してしまうなんて,支配者たちはどうしてしまったのだろう.かつて一世紀以上にわたりこの国に君臨してきた寡頭制社会(オリガルキア)は,いったいどうなったのだろうか」と.

    マチエス・ヒルが逮捕されたのは,一斉地方選挙を直前にした非常に微妙な時期でした.よりによってそんなときに,富める者が非難されたり,逮捕されたりなどということは,一般的には信じられないことです.まして汚職や腐敗など,この国の支配者にとってはは当たり前の犯罪で….

    ガレア氏はコメントを続けます.

    「ヒル達の逮捕は,階級的力関係の変化の帰結だろうか.必ずしもそうとばかりは言えない.どうも支配者のあいだに,ひとつの裂け目が広がりつつあるのではないか.この事件は,その分裂の現われだろう.“14家族”と呼ばれてきた旧支配体制がいっぽうにあって,それと,あらたに登場しつつあるニューエリートとのあいだに,断層ができかけてきているようだ.僕はそう見ている」

    ところでガレア氏によれば,このニューエリートたちは「14家族」の向こうを張って“サンタ・エレナの12使徒”と呼ばれるそうです.サンタエレナは,サンサルバドル山の手の高級住宅地で.ニューリッチの集まっているところ.12使徒というのは彼らの主だったメンバーが12人いるからということのようです.

    *訳注:ちなみに,キューバにカストロたちが上陸して,ゲリラ活動を始めたときのメンバーも12人とされています.カトリック教徒にとって,12という数字には特別の意味があるようです.

    クリスティアーニ政権の時代,国立銀行が民営化されました.これに伴い,投資家と銀行家のための金融機構があらたに創設されました.どうもこれが腐敗の発端になっているようです.彼らの元には莫大な投資資金が流れ込みました.それで銀行屋さんがひと財産こしらえたというわけです.

    資金の出所は,一つは米国内の亡命者からの送金です.これが数百万ドルにのぼります.

    第二には,戦争中に米政府が与えた公的資金を「個人的に活用」すること,ひらったく言えばネコババです.そしてもう一つ,ガレア氏は「これは推測だが」といいながら,これらの金融機構が,麻薬マネーのローンダリングでも利益を得ていると語っていました.その額は数億ドルにのぼるそうです.

    これらの新しい金融機構が大きくなるにつれて,利率も跳ね上がりました.どのくらいの利率か,聞いたらビックリするでしょう.

    そこいらの経営者が銀行へ行って融資を申し込んだとしましょう.契約が成立して金を借りたら,その利率はなんと25%まで達します.間違ってクレジット・カードなど使おうものなら,たちまち破産してしまいます.これにはなんと60%の利子がつくことになっています.これが米国ならお縄ものです.そのいっぽうで,銀行は預金者に対してはわずか7%の利子しか払わないのです.

    このようなべらぼうな利率がまかり通るのは,この国では株式の持合い制度(interlockingboard)が認められ,一人の銀行家がいくつもの銀行に関与できるためです.もう一つの理由は,銀行業務への外国銀行の参入が認められておらず,悪徳銀行家が独占状態を維持できるためです.

    民営化以来,これまでのわずかの間に,大規模な銀行疑獄がつぎつぎと発覚しています.最初の大規模な疑獄事件はフミ輸出会社を舞台に起こりました.Finsepro/Inseproという銀行が金融操作をしたのです.捜査の手が入ったのは,銀行が破産宣告をしたあとでした.450万ドルの金が消えてしまいました.一生かけてためた金がなくなり,自殺するものも現われました.

    しかしこの事件が重要だったのは,それだけの理由ではありません.銀行の破産で損失を蒙ったものの中には,間違いなくエルサルバドルを代表するような名家も含まれていました.

    捜査が進むにつれ,「14家族」を先頭とする既成の支配層の「12使徒」に対する非難の声が高まってきました.いま,両者のあいだには亀裂が広がっています.そしてこの亀裂がARENAの党内にも反映しているといえるでしょう.

    ともあれ,大多数の働く貧しいものたちにとってFMLN以外に頼るものはいません.FMLNががんばって調査を進め,金持ち連中を刑務所送りにすることは,庶民の細やかな喜びでもあります.労働者階級の住宅街や貧困地区に行ってみれば,その感情は納得できるだろうと思います.

     

    くすぶった火

    この国では未だにちろちろと燃えている火があります.埃っぽい住宅街で女たちが掃き集めた落ち葉の焚き火のように,それはくすぶっています.

    たしかに和平協定は政治的な自由をもたらしました.しかし,それにも拘わらず,労働者と農民たちが生計を立てていくことは,これまで以上に厳しいものがあります.戦争前に比べてさえそうです.エルサルバドルには,人が生きていくのをさまたげる厳しい壁が立ちはだかっています.ある意味で,この国をふたたび戦争に向かわせかねない多くの社会的・経済的要素が,いまだ解決されないまま残っていると言えます.

    エルサルバドルに来たら誰でも驚くことがあります.それは金持ちと貧乏人の落差です.高速道路沿いに立ち並ぶのは竹と段ボールでできた小屋.屋根は波型トタン.その上に,重石代わりに大小の石ころが載せられています.

    中に入ると,石と日干し煉瓦で作った炉に火が燃えています.その上で鍋の豆が煮えています.不恰好なストーブの上には焼き網が乗っかっていて,屑粉で作ったトルティージャが焼かれています.仕事に疲れきった男たちは,高速道路や小道をよろけるように帰って来ます.その背中は,たくさんの薪の束を背負って折れ曲がっています.その薪は,これから食事を作るために必要なのです.

     

    メソーン

    この国では,都市の貧しい人たちは「メソーン」に住んでいます.メソーンは小さな一室のアパートで,サンサルバドル,サンタアナ,そしてほとんどの都市化した町の街路沿いに立ち並んでいます.

    典型的なメソーンには中庭があります.そこには草花やホコテ,オレンジやマンゴーが茂っています.通常,中庭には便所とシャワーがあって,すべての住人の共用となっています.

    サンタアナ滞在中に,ある古びたメソーンを訪れる機会がありました.そこは私の妻が子供の頃住んでいた所でした.メソーンの中庭には,かつて果物の実る樹と草花があったそうですが,今そこは,コンクリートが敷き詰められていました.

    昔と変わらないただ一つのものが掘建て便所です.アメリカ人の中流階級の家庭なら,バーベキュー・セットやプールを作るような場所に,粗末な小屋が立っています.便器は公衆便所で見かける移動トイレのようなつくりですが,しかし遥かにひどいものです.便器の下には深い穴があり,それは下水管を伝って街路に流れていきます.

    便所の横にシャワーがあります.ハーフサイズのスイング・ドアには留金がついていて,最低限のプライバシーは保障されています.中庭の奧には流し場があります.セメント製のダブル・シンクで,一方は蛇口のついた深い水場になっています.水道はいつも使えるとは限らないので,これに溜めておくのです.水場と並んで傾斜のついたシンクがあります.そこで洗濯からなべ・釜の洗浄までこなすのです.

     

    ドニャ・ベルタ

    妻の住んでいたメソーンで,ドニャ・ベルタというお婆ちゃんと話しました.彼女は妻のいた頃からずっと,このメゾーンに住んでいるそうです.いまはもうほとんど目が見えません.乳白色の白内障が彼女のひとみを覆っているからです.シャツもスカートもぼろぼろです.失禁状態なのか,体からアンモニアの匂いを発散しています.

    妻はその壊れそうな体を抱きしめて,「私を覚えている?」と問い掛けました.しかしベルタはほとんどつんぼになっていて,答えないままでした.

    それから私たちは,大声でベルタと話しました.ドニャ・ベルタは「とても重い病気にかかっていて,もう牛乳以外の食べ物は受けつけないの」とこぼしました.

    話しているうちに,ベルタの昔の記憶が正確なことがわかりました.かつてのメソーンの住人すべてを覚えていて,語ってくれました.「みんなアメリカに行ってしまった」と.「小さなロリータもそうだった.もう何年も会っていない」

    妻はベルタに話し掛けました.「私がロリータよ.今,会いに帰ってきたのよ」

    しかしお婆ちゃんは分かりません.

    ドニャ・ベルタはなおも,毎日の生活がどんなに厳しく,さびしいものか訴えつづけました.私達がベルタにできることは何もありませんでした.できることといえば,ただ50コロンをくれてやることだけでした.これでとにかく,彼女は粉ミルクや薬やいろいろなものを買えるでしょう.

    私たちは,案内されてベルタの部屋に入りました.薄暗い部屋に目が慣れて,そのあまりの赤貧にびっくりしました.実のところ,彼女は何も物を持っていないのです.

    「持っている」といえば,そのように見えるものはありました.彼女が何年も大事にしてきたもの,それは壊れた古テーブル,あちこち修繕した椅子,なべと釜と,プラスチックのボウル,それだけです.

    妻の古い知り合いに別れを告げ,今度はむかし妻の兄弟が住んでいたもう一つのメソーンに向かいました.そこも似たようなものでした.屋根は十分に低く,標準サイズのアメリカ人である私にも容易に手が届いてしまいます.それは小人たちのために作られたアパートのようでした.

    住人の食事はまず例外なく,豆とトルティージャ,揚げバナナと果物,そしてコーヒーです.もっともコーヒーを買うほどの余裕のない家庭も少なくありません.コーヒーこそこの国の最大の輸出商品だというのに.

    まして,働く人々にとって粉ミルクはちょっとした贅沢です.もし粉ミルクが買えたときは,アトール・デ・エローテを作るのがお楽しみです.粉ミルクににトウモロコシの粉と砂糖を混ぜて,シナモンで香りをつけてご馳走の出来上がり.

    粉ミルクは蓋つきの大きなカンで保管されています.ネズミやゴキブリから守るためです.ところで此処のゴキブリと来たら,いままで見たこともないものです.羽根を伸ばせば10センチもあります.アメリカ人はその大きさに驚くのですが,そのゴキブリが空を飛ぶところを見れば腰を抜かすでしょう.

     

    エルサルバドル労働者の働きぶり

    普通の日の普通の労働は,町に住む誰にとってもせわしいものです.仕事に行かないものは,自分で何かを売っています.仕事を終えて家に帰ってきたものすら小商いをやります.売り物は青いズック鞄に入れた飲み水だったり,ピーナッツだったり,切り分けた果物,帽子,おもちゃ,それにエルサルバドル特製料理のププサだったりします.

    高速道路に沿って掘建て小屋が並んでいます.このあたりでは,女たちと子供たちが椰子の実を売り歩いています.一方の端を切り落として,そこからストローで飲めるようにした新鮮なココナツです.

    男たちも道路を行き来して布地を売ったり,パレータを積んだ手押し車を引っ張ったりしています.パレータというのはオレンジやパイナップル,ココナツの入った炭酸水です.

    ペンキを塗りたくったド派手なバスが,町中の狭い道を突進してきました.フロントガラスは垂れ房で飾られ,泥除けにはイエス・キリストと聖母マリアが描かれています.車内では,男の車掌が通路を行ったり来たりして,乗客から運賃を徴収します.客が料金を払うのにもたもたしていると,車掌はでっかな音で笛を吹き,未だ走らないよう運転手に知らせます.

    多くのバスには,後ろの乗降口にたちんぼの男が乗っています.バスが走っている間,男たちは開けっ放しの乗降口から半身をそりだしています.バスが停留所に止まると,彼の仕事が始まります.女たちや子供たちがバスを降りるのを手助けするのが彼らの仕事なのです.

    エルサルバドルにおけるもう一つの交通手段,とくに町々をつなぐハイウエイの主役はホンダのトラックです.トラックの荷台に直接,パイプ棚が溶接されています.走るときは,このに台におよそ20人が乗り,立ったまま棚につかまって「この棚がどのくらい丈夫か」に生命をかけるのです.ホンダが高速道路を走るときは路線バスと競走です.たいてい両方の運転手が熱くなって,抜きつ抜かれつの勝負になります.

    *訳注:ほんとうにホンダでしょうか.私がニカラグアで見たのは大抵トヨタかダツーンでした.向こうの人にトヨタとホンダの違いは分からないかも知れません.

    ハイウエイに沿って,ところどころに竹と椰子の葉でできた小屋が建っています.バス・ストップです.そこでみんなは日差しを避け,雨を避けながら,車が来るのを待っているのです.

     

    エルサルバドルにおける外国企業とマキラドーラ

    ちょっと見ると,エルサル人はみんな働いているように見えますが,実はほとんど失業中なのです.失業率は戦前はもとより,戦時中とくらべてもひどくなっています.

    そんな中でただ一つ,あらたな雇用を生み出しているのが,外国企業です.

    これらの企業は政府と特別契約を結び「フランス区」という工業団地に工場を建てています.なんで「フランス区」と言うかというと,最初に契約を結んで進出してきたのがフランスだからだそうです.

    税金の特別減免,安い賃金に誘われて,米国,フランス,ドイツ,イギリス,日本,中国(台湾?),韓国の企業が進出してきています.それはメキシコの米国との国境地帯におけるマキラドーラと同じようなものです.その材料のほとんどは輸入されたもので,彼らが組み立てた製品はそのまま輸出されます.

    多くの工場は月給制をとっています.給料は絶望的に安く,組み立てラインにはいる労働者は,国で定められた最低の賃金で働かされています.この国の法律で,工場労働者の最低賃金は月1,000コロン(1万円強)と定められています.米国では週給制が一般的ですが,それでいえば週給29ドルに相当します.

    ちなみにコーラ1本が5コロン,スカーフ1枚30コロン,4畳半一間のメソーンが月250コロンというのが,この国の物価の相場です.労働時間はあってないようなもので,現場ではいつも残業を迫られ,しかも超勤手当はもらえないことが多いようです.

    一時期,マキラドーラをめぐる論争がありました.この論争は,FMLNの影響が強い労働組合も巻き込んでおこなわれました.

    議論は,エルサルバドル国内紙にこんな報道がのったことから始まりました.外国企業の一つが「時間外手当を払うよりは」と工場を引き払ってしまったというのです.ARENAは,この記事を取り上げて「FMLNが妨害活動をするから,結局仕事を棒に振ってしまった」と非難しました.

    しかしFMLNは,このような非難にもめげずに,その立場を堅持しました.「法の下に保護されているエルサルバドル市民であるならば,経済特区であろうと,どこであろうと,超過勤務に対して賃金が支払われるのは当然だ」と.

    もう一つのARENAとFMLNの争いの種は,電電公社(ANTEL)の民営化です.エルサルバドルには電話がない地方がいくつもあります.サンサルバドルの市長ですら自宅には電話がないといわれています.

    ARENAは「公社が民営化されれば,量質ともにもっと良い電話網ができるはずだ」と主張しています.しかしFMLNは反対です.

    「確かにANTELはうまくやってきたわけではない.しかしそれはつい最近までARENAが牛耳っていた地方自治体でも同じことではないか.いまANTELを民営化すれば,風で果実が落ちるように,金持ちの懐に納まるだけだ.そのことは銀行の民営化で試され済みのことだ」と主張しています.

    ところでFMLNの民営化反対を主張する裏には,お家の事情もあるといわれています.ANTELの労組はエルサルバドルで最強の組合といわれています.それが民営化されることで大きな打撃を受けることになるからです.

     

    ある経営者との会話

    このようにARENAとFMLNはことごとに対立します.その底には,FMLNと金持ちのあいだに今もなお深く残る,不信と憎悪の念があります.

    金持ちのそのほとんどは,ARENAの支持者だと考えてよいでしょう.

    私はエルサルバドル滞在中に,大きな会社と工場を持っているある経営者と話す機会がありました.場所はサンサルバドルから海岸に出たサンジエゴ,そこに彼のビーチハウスがあります.この経営者の風貌は映画俳優のユル・ブリンナーにそっくりでした.

    このお金持ちは,名前を出さないことを条件に,いろいろな質問に答えてくれました.以下「ユルさん」としておきます.

    話がフレンテのことに及ぶと,ユルさんの目が吊り上ました.ユルさんはいまだにフレンテを信用していないのです.彼は,共産主義者がいまだに社会主義政権をうち立てることに執着していると見ていました.

    そういうユルさんですが,ARENA指導部の産業指導のやり方も許せないようです.彼は政府を厳しく批判しました.

    とりわけ彼が頭に来ていたのは,銀行業務のいいかげんさ,それに商習慣に対する後ろ向きの姿勢でした.「エルサルバドルの銀行にはコンピューターもないし,その他の情報機器もない.銀行の連中は,米国の金融システムとのあいだにインターネットさえつなごうとしないんだ」

    私はユルさんに一つの経験を話しました.それはエルサルバドル最大のクスカトラン銀行で,アメリカン・エキスプレスで現金を引き出そうとしたときのさんざんな出来事でした.話しを聞いているあいだにユルさんの怒りはさらに昂じてきます.

    「こういう問題が観光産業に悪影響を及ぼすんだ.米国に住んでいるエルサル人から家族に仕送りがされているが,その額たるやばく大なものだ.それが結局は腐敗の元になっているんだ.もし銀行が近代化されて,コンピューターが立ち上げられて,他の産業界と肩を並べるようになれば,こういった問題はすぐにでも解決するのだがな」

    私はユルさんに聞いてみました.「この5年間にこの国で起きた変化についてどう思いますか」

    「一番の変化は,戦争が終わって,誰でも自由に自分の考えを口にできるようになったことさ.これは有り難いことだ.だけど経済に関しては別だね.とくにFMLNののろまぶりには頭に来るよ」

    ところで,つけ加えておきますが,FMLNはやっと地方選挙でいくつかの首長を獲得しただけです.国の政治には未だ主要な役割を演じているわけではありません.

     

    サンチアゴのビーチハウス

    このフル・ブリンナーに似た経営者は,サンサルバドルではたらく部下を大勢招待して,彼のビーチハウスで週末を楽しむのが恒例のようです.ソンソナテ県サンヂエゴの別荘は,海まで歩いてちょっとの所です.大きなプールを囲んでたくさんの部屋が並んでいます.地面にはごみ一つなく,よく手入れされた芝生に覆われています.そしてココナツ椰子,バナナの木々,フシアやバラが咲き乱れています.

    私たち夫婦が,どうしてここに入れたかというと,妻の甥がこの会社に雇われているからです.この甥は,家族や友人の前では一族の出世頭然として自信満々ですが,ボスの前に出るとたちまちのうちに変容を遂げます.ちょっとしたしぐささえ変わってしまいます.彼の中には,雇い主のために別の態度や表情が用意されているのでしょう.

    ユルさんは権力者にふさわしい,エルサルバドル風の作法を身につけていました.私と話しているあいだ,彼はテーブルの前にすわり,タバコをひっきりなしに吸い続けました.そのあいだユルさんの奥さんは,その側に片時も離れず侍っていました.用事を言いつけるだけなら,召使いもいるのですが,そういうこととは関係ないのです.

    話の途中で,突然ユルさんが立ち上がり腰に手を当てました.その瞬間,甥も立ちあがりました.私には飛び上がったように見えました.そして私たちの方を見て一緒に立つように目配せしました.

    ほとんどの第三世界諸国と同様,エルサルバドルにおいても,労働者や農民は金持ちに対して平身低頭するものだと考えられています.ペコペコしたからといって見返りはないのですが,べつにそういうことを期待しているわけではなくて,そうするのが伝統なのです.

    カースト制にも似たこの身分関係は,スペイン人の征服以来現在まで続いています.旧世界優位の思想の影響は明らかです.実際多くのお金持ちは,自分がスペイン人征服者の直接の後裔であることを誇りにしています.旧世界優位の伝統は人々の顔立ちの中にさえ表れています.ラテンアメリカでは一般的に,金持ちや著名人はヨーロッパ風の面立ちです.

    すべてのエルサルバドル人が階級意識を持っています.男であろうと女であろうと,エルサルバドル人はみな階級意識を持っています.正確にいうと階級というよりは身分意識でしょう.農民と労働者階級は,いうまでもなく,痛切に自分たちの所属する階級と社会的地位を理解しています.

    いっぽう金持ち階級にとってみれば,彼らは軽蔑の対象でしかありません.金持ちは,自分たちが特権的地位にあるものと認識しています.そして,特権階級の人たちが,自分たちとは異なる出自の人々により敬意を払われるべきだと考えています.

    どんな表現にせよ,裕福な人たちが労働者や農民を誉めるなどということは滅多にありません.ユルさんがまさにその典型です.

    私は「エルサルバドルで貧しい人が多いのはどうしてだろうか」と聞いてみました.彼は怒ったようにこう答えました.「なぜって,連中は怠け者で,自分が何をしているのかだって分かっていないからさ」

     

    スラム街の撮影

    ユルさんのような,お金持ちで格式のある人々がいるいっぽうで,この国には,洗うがごとき赤貧に打ちひしがれた人々がいます.その典型が段ボールの家に住む人たちです.

    ある日,私は義理の弟につれられてスラム街に入りました.たまたま私はそこで働いていた二人の男たちを見つけ,写真を撮りたくなりました.義弟に写真をとっても大丈夫かとたずねました.

    私は働いている二人をそのままの姿でとりたかったのですが,義弟は私にシャッターチャンスを与えてくれませんでした.

    義弟は労働者階級の気のいい男でした.彼は男たちのところへ行くと,腕をとって連れてきてしまいました.そして私がうまく写真がとれるように,それなりの場所に二人を並べたのです.

    男たちからの質問はありませんでした.彼らはちゃんとポーズをとってくれました.それだけのことです.男たちは自らの境遇に少しも恥じる様子はありませんでした.

    「彼らは外国人に写真をとられるということで,ちょっと自慢気に感じているのではないか?」私にはそのようにさえ思えました.

    いま考えると,男たちはたんに礼儀正しかっただけなのかも知れません.誰かにものを頼まれたら,それを断るなどとは考えられない人たちだったなのかも知れません.今でもあのときのことを思い出すたびに,義弟が思慮のないふるまいをしたのではないかと気がかりで仕方ありません.

     

    前世が悪いんじゃない

    ラテンアメリカのどこでも,貧しい農民や無名の働く人々は文字通り「求められればひと肌もふた肌も」脱ぎます.生まれてこの方彼らは「汝の隣人を愛せよ!」という格言をモットーとしてきました.例えその相手がアメリカからきた外国人であってもです.

    貧しい人々に向かって語りかければ分かることが,もう一つあります.彼らは与えられた環境を自分の宿命だとは,決して考えていません.自分の貧しさが悪い前世の結果で,それが運命だなどというのは,彼らにとっては信じられないことです.

    エルサルバドルは厳しい階級闘争の歴史を持っています.エルサルバドルの民衆は,過去百年にわたる苦悩の記憶を胸に刻んできました.いつ家族のだれそれが国を離れたか,家族のだれそれが権利を守るために立ちあがり,そして殺されたか,彼を殺した真犯人は誰だったのか,彼らは暗誦することができるのです.

    彼らの金持ちを指弾する気持ちは一貫しています.3月16日の地方議会選挙でFMLNが躍進した理由も,その感情が背景にありました.多くの貧しい人は,FMLNが何か生活を変えてくれるのではないか,と期待しています.もしその希望に応えることができなければ,フレンテの指導部は労働者や貧困者の反感を買うことになるでしょう.

     

    労働者階級にとっての思い出

    労働者の中でも,最も強い階級意識を持っているのは,内戦中に成長した世代です.彼らの金持ちに対する軽蔑感は,少なくとも金持ちが貧乏人に対して持つ軽蔑感と同じくらい強烈なものがあります.

    しかし,老若を問わずほとんどの労働者は,彼らの怒りをダイレクトに表現することはありません.弾圧の年月が「ものをしゃべるときは注意深く」と人々に教えました.新しい政治的自由がもう現実になっているのにもかかわらず,その習慣は続いています.

    そういう彼らが話し始めると,今度はもう止まりません.一通り話し終わるまでに数時間におよぶこともあります.

    彼らの話は例外なく,戦争中の国家警備軍と「死の軍団」の残虐ぶりに関してのものです.金持ちがこの国を支配していること,そして「死の軍団」は金持ちが組織した特殊な軍隊であること,そういうことは,話さなくても,すでにみんなの共通の理解です.

    多くの労働者,農民が語る辛い物語は,もう戦争が終わったいまも,彼らにとって生々しい記憶となっています.彼らは過去に起こったことを決して忘れはしないし,彼らに罪を犯したものを許すこともないでしょう.

     

    アイスクリーム売りの元兵士

    サンタアナ滞在中,政府軍に8年もいた元兵士と知り合いになりました.彼とは1時間も話しました.彼はいまは手押し車でアイスクリームを売り歩く毎日です.埃っぽい道路の辻々で鈴を鳴らして彼は叫びます."パレータス!"

    軍隊に入ったほかの人達と同じように,彼も"生きていくための最良の道"としてその道を選びました.戦争中に,彼はノース・カロライナの訓練基地に短期派遣されたことがあるそうです.そこの基地で,米軍の将校が対ゲリラ戦の訓練を指導しました.

    「そこで受けた訓練の中身を教えてくれないか」と聞くと,彼は肩をすくめました.「要はどうやって共産主義者を殺すかということさ」

    この元兵士は,フレンテに撃たれたところを見せてくれました,傷口が左肩のすぐ下にあります.そしてその銃弾が抜けていった跡が,肩甲骨の上に残っています.

    戦争中に,上官はこう言いました.

    「もしこの闘いにFMLNが勝ったら独裁政権になるだろう.そして政府軍の兵士は全員殺され,多くの市民が処刑されるだろう」と.

    彼もそう信じ込んでいました.現に彼は,その恐怖感が目の前で実証されるのを見たのです.80年代のある日の戦闘でした.その闘いで一つの部隊が全滅し,ゲリラに皆殺しにされたといいます.

    兵士だった頃,アイスクリーム屋はこうも言われていました.

    「戦え,そうすれば土地が与えられる」

    結局彼は何一つ受け取ることはありませんでした.彼が言うには「上官が政府のくれた土地を独り占めにした」のだそうです.

    元兵士は見たところそれほど苦しい生活には思えません.しかし彼は言います.

    「アイスクリーム売りで生計を立てるのはものすごく厳しい.おまけに商売のコミッションを払わなければならないんだから」

    「もし最初からやり直すとしたら,また軍隊に入って闘うかい?」私はこう訪ねました.彼は無表情のまま応えました.「いや,もうたくさんだ」

    アイスクリーム屋は思い出すように続けました.

    「戦争中に,アメリカ人の軍事顧問の一人が『アメリカに連れて行ってやる.そして仕事も探してあげる』と誘ってくれたんだ」

    しかし彼はちゅうちょしました.恐かったのです.

    「ひょっとしたら入国管理事務所に捕まってしまい,強制送還されるのではないだろうか.もしそうなってエルサルバドルに連れ戻されたら,“裏切り者”として暗殺されてしまうのではないか?」

    こうして結局彼はその誘いに乗らなかったのです.

    戦争が終わってから,彼には多くの友だちができました.その中にはFMLNの側で闘ったものも大勢います.彼らとも結構うまくやっているとのことでした.彼は言いました.「両方の側で闘った男たちが,いまはともに厳しい生活に立ち向かっているということさ」

    別れ際に,私は最後の質問をぶつけてみました.「このエルサルバドルで君の支持する政党はあるのかい?」

    彼は微笑んで答えました.

    「ああ,あるよ.民主的な政党さ」

    「民主的な政党って何処のこと?」

    「FMLN!]

    私はアイスクリーム屋からアイスを1本買いました.そして握手しながら「さよなら」を言いました.

    アイスクリーム屋は手押し車を押しながら,住宅街の埃っぽい街路を下っていきました.片手で鈴を鳴らしながら,仕事の帰り家路に向かう人々に叫び始めました."アイスクリームだよ,アイスクリーム!"

     

    "私は政治家を信用しないよ"

    多くの労働者や貧しい人々は,FMLNに強い期待を寄せています.しかし他の人たちはそうではありません.政党や政治に対する根深い不信を持っている人のほうが普通です.政治は腐敗しているのが当たり前というわけです.

    確かにエルサルバドルの歴史を見てみると,腐敗政治以外に何か他の政治があるとは想えなくなります.小さな店の主は,僕にこう語りました.「誰が何をしようと,あるいはしまいと,どうでも良いことさ.私は政治家を信用しないよ.連中は自分のことしか考えていないんだからね」

    マービン・ガレアは中流階級の出身ですが,内戦中はFMLNに加わりました.そのときゲリラが独裁政権と戦っていたからです.いまガレア氏のFMLNにむけた批判は厳しいものがあります.

    「もとの同志のうちの何人かは,特に国会議員になった連中は,今は肥え太って腹を突き出しているよ」

    彼は言います.「中には魂を売り渡してしまったものもいる.他の連中にも広がるかもしれない.だが,自然なことかもしれないな.一度権力の味を知ってしまったらね」

    「しかし」と彼は付け加えました.「あのとき戦ったFMLNの戦士たちは,間違いなく英雄的だたった.彼らはこの国のために命をささげた.本当に多くの勇敢な男たち,女たちがいた」

    ガレア氏は遠くを見つめる目つきになりました.「弾圧の時代がくる前,僕は憶病者だった.戦争にいくなんて夢にも思わなかった.僕の好きだったのは,ラムを飲みながらビートルズを聞くこと,そして踊ることだった.ひとことで言って,当時の中流階級のわかものの典型だろうね」

    それなのにガレア氏はFMLNに参加し,1981年から1990年までゲリラの中にとどまりつづけたのです.

    「僕が町を離れ,フレンテに加わったとき,体重は180ポンドもあったんだ.しかしゲリラの生活は厳しい.解放への確信だけでそれをしのぐことはできない.個人としての肉体的スタミナが大きくものを言う.フレンテと合流してわずかのあいだに60ポンドがどこかに行ってしまったよ」

     

    戦争中にあった恐怖の日

    ガレア氏はフレンテに加わっていたとき何度も危機を経験しています.1985年のある日のことでした.その頃ベンセレーモス放送と司令部はモラサン県のアランバラという小さな町におかれていました.

    ガレア氏は回想します.

    「ちょうど一つの軍事作戦が終わったところだった.政府軍はその地域から撤退していった.われわれも小休止をとっていたときだった.朝の八時頃だったかな.敵のヘリコプターが上空に現れた.それはいつものことだった.しかし今度のヘリが,これまで見たこともない新型ヘリだとは,その時は誰も気づかなった.

    このヘリを“蜜蜂”と僕らは呼ぶようになった.エンジン音が低いんだ.それは米国がベトナムで使っていた最新型の戦闘ヘリだった.

    このヘリは運動能力が高いだけじゃない.1分間に数千発の弾丸を発射する能力を持つミニ・マシンガンを装備しているんだ.そして前触れもなしに突然現れて,僕らを狙い撃ちするんだ」

    彼は続けました.

    「"蜜蜂"がいなくなったと思ったら今度はいつものヘリがおでましだ.しかも二機だ.これが機関砲をぶっ放して,ロケットを打ち込んだ.それが終わったら,今度は,僕らが"トンボ"と呼んでいた飛行機が突然現れた.こいつが500ポンド爆弾を降らせるんだ.それからまたヘリがやってきた.10機,16機,20機,30機,もっと多かったかな.とにかく恐ろしいなんてものじゃなかった.きっとエルサルバドル空軍の全勢力が,われわれの頭上にいたと思うよ」

    攻撃は朝8時に始まり,午後4時にやっと終わりました.雨が降り始めたのです.この日彼らが用いた作戦は,そのあと戦争のあいだ中,政府軍の作戦計画の基本となりました.

    ガレア氏によれば,それはアメリカ人がベトナムで行ってきた戦術と瓜二つでした.

    「FMLNにとって幸いだったことは,我が防空隊がヘリコプターの着陸を断固阻止したということだ.その結果,政府軍は近くに拠点を確保できなくなってしまった.もし兵器や兵員が下ろされていたら,ゲリラ司令部も,それと一体となったラジオ・ベンセレーモスも一巻の終わりだったろう.FMLNにとっては幸運だったという他ないよ」

    ガレア氏は続けました.

    「放送局は3人の同僚をその日のうちに失った.そのうちの一人は保安部長だった.もう一人はサンチアゴだ.局で一番名の売れたアナウンサーだったよ.

    僕ときたら,まさに阿鼻叫喚の真っ只中にいたのに,僕にだけは何にもなかったんだ.かすり傷一つさえ負わなかった.どうしてなのかな,僕にも分からない」

     

    "我が生涯最高の日"

    その一方,ガレア氏には至福の時もありました.FMLNがこの上なく勇敢だった頃の,英雄的な闘いに立会い,目撃し,感動したときです.「戦うFMLNと勇士たちの行動を,僕は決して忘れないよ」

    「戦争中,一番感激したのはどんなときでしたか?」と私は聞きました.

    ガレア氏はちゅうちょなく答えました.「それは1992年12月31日の夜,これだね」

    その時,FMLNと政府の和平交渉は大詰めを迎えていました.会談はニューヨークの国連本部とメキシコ市内で並行しておこなわれていました.彼はそのときメキシコに亡命していて,もうフレンテの一員ではありませんでしたが,市民団体の代表団の一員として交渉に参加していました.

    「みんなで交渉の内容について議論していたんだ.交渉は結論まであと一歩のところまで来ていた.午前0時まであと数分というとき,そのときになっても,これからどうなって行くのか見当がつかなかった.

    そのときだよ,僕らがあの知らせを聞いたのは….“和平協定が調印された!”ってね」

    「それは僕の生涯で最高に幸せな日だった.私には娘が生まれていた.そのとき生後20日だった.でもまだ見たことはなかった.私の妻はもうその頃サンサルバドルに戻っていたからね.そこへ行けたら死んでもいいと思っていたね.娘に会いに行けると分かって,そしてもう二度と私の肩に銃を担わなくてすむと分かって,こんなに嬉しいことはなかったよ」

     

    戦争が終わってFMLNは変わったのだろうか?

    戦争中に,多くの人々がゲリラを支援しました.もちろん,密かに,命がけの方法を使ってです.ガレア氏は言いました.「支援の広がりときたら,まったく信じられないくらいだったよ.国際的にもすごかった.ノルウエーの司教たちからジミ―・カーターの娘までなんでもござれだったな」

    あのころFMLNの指導員部を形成していた多くの司令官たちが,今は国会議員や政治家になっています.

    ガレア氏は,フレンテはかつて受けていた支援をもはや失ってしまったと見ています.なぜならフレンテは政党となり,戦士たちは政治家となり,そして指導者たちの一部は腐敗してしまったからです.

    「彼らの生活スタイルはもはや私たちの想像の枠を超えている.しかし」とガレア氏は続けます.

    「それにも拘わらずFMLNは,むかしの栄光によって,いまだに多くのエルサルバドル人の支持を得ている.FMLNが支持されている理由はそれだけじゃない.今の与党ARENAが恐ろしいほど腐敗しているからだ」

    「FMLNが勝つということはARENAが負けることだ.実業家の一部さえふくめて,そういう期待はあるだろうね.それはFMLNが何かしてくれるからということではないよ」

    「しかし,いまのFMLNにARENAの悪政をストップする力があるかな?」ガレア氏はこうも言いました.

    「かつてフレンテは地上の楽園の展望を与えた.今はどうだろう.そんなことが可能だなんて誰も考えていないよ.FMLNの提示した改革プランは,社会主義社会主義諸国の崩壊とともに終わったんだ」

    「彼の元の同志が新しい計画を打ち出す可能性はないのですか?」

    「いや,僕の意見では,連中はなんの展望も持ってないよ.ただそんなことはあまり重要ではない.FMLN自体がどうなろうと,それはどうでもいいんだ」

    この元ゲリラ放送のキャスターは,一つの信念を持っているようです.

    人々が望むこと「それはより清潔な政府,もっと有能な政府だ.みんなが願っているのは,強盗の時代を終わらせること,汚職の時代を終わらせること,もっと穏やかな環境を作り上げて,もうちょっとましな賃金で働ける機会を作ってほしいということだ.そうなったら,それだけで十分,みんなハッピーだ」

     

    人々はFMLNに何を期待しているのか?

    ガレア氏の革命的信念に基づく見解は見解として分かりますが,労働者と会話してみると,彼らにはガレア氏とは違った見解があり,期待があることが分かりました.

    労働者にとっては,FMLNはいまだに革命的な組織です.もし議会と政府の支配権を獲得すれば,FMLNはかならず広範な社会的変化をもたらすだろうと信じられています.逆説的ですが,「FMLNは何かするだろう」という信念は,多くの裕福なエルサルバドル人たちも,同じように持っています.それはユルさんの話でも明らかです.

    FMLNそのものが,もともとは統一戦線であり,多くの政治潮流の合体したものです.さまざまな社会的グループ,そして改良主義者から社会民主主義者,聖職者,無政府主義者,共産主義者までの幅広い政治的勢力を含んでいます.

    FMLNの歩むべき前途は複雑で厳しいものがあります.いまや改革が始まったとはいえ,その内容はあまりにも広範です.

    内戦のもう一方の主役,軍隊はいまだに無傷で強力です.たしかに軍も,それなりに改革されました.戦時中に享受したさまざまな特権も剥奪されました.

    でもそれくらい大したことはありません.なにせ戦争中に,軍隊はすべてを支配していたのですから.軍は憲法で定められた「14の国家機能」を事実上すべて自らの手に収めていました.商業,警察,司法もふくめてです.

    今一度ガレア氏の言葉に戻りましょう.

    「今や彼らが責任を持つのは,国家の安全と民族の尊厳を防衛することだけだ.その筈なんだ.確かにその通りだ.

    だけどサンサルバドルだけ見るんじゃなくて,地方を町から町へ移動してみればはっきりしているけれど,迷彩服に身を固めた重装備の兵士集団がどこにでもうろうろしているよ.彼らの後ろには戦車や装甲車や軍用車がぴたっと貼りついている,高速道路をちょっと外れれば,あちこちにそんな連中がたむろしている」

    ここで彼は神経質な笑いを浮かべました.

    「連中が何をしているかって? そうだな,もう全国市民警察もできたしね.きっと麻薬業者を探しているんだと思うよ.少なくとも,彼らはそう言うだろうね」

    軍隊が高速道路に出張っている理由が何であるにせよ,軍隊がいまだ油断のならない存在であることは確かです.FMLNも含めすべての政党は,政策立案にあたって彼らのことを考慮に入れないわけには行かないでしょう.

     

    ビジャロボスの奇妙な発言

    地方議会選挙のキャンペーンの間,変な出来事がありました.元FMLN司令官のホアキン・ビジャロボスが,FMLNを非難する声明を発表したのです.

    彼の言うところによれば,FMLNは「和平協定で完全武装解除を約束したのに,いまも山中に兵器を秘匿している」というのです.

    ビジャロボスはFMLN最高司令官の一人でした.それだけではありません.多くの見るところ,その中でも最高の影響力を持っていた人物でした.

    FMLNはその訴えを断固として退けました.多くの活動家がビジャロボスを裏切り者と呼びました.選挙の最中にこのような声明を発表し,フレンテにけんかを売るのは,自らを売り渡したからに違いないと考えたからです.

    ガレア氏の個人的な友人でもあったビジャロボス氏は,現在はエルサルバドルを去り,英国のオックスフォード大学で研究生活に入っているそうです.

    武器隠匿の告発が真実かどうかは分かりませんが,それとは関係なく,みんなが「もう一度軍事クーデターがあるのでは」と恐れているのは確かです.だから,FMLNの側に「弾圧に備えなければならない」という気持ちがあっても,おかしくはなさそうです.結局「これがエルサルバドル」なのです.

    1930年代からこのかた,寡頭制(オリガルキア)と軍隊によって支配され続けてきた国,それがエルサルバドルです.労働者や実業家やガレア氏のような人たちのいずれにとっても,新しい制度が確立され改革が実行に移されるまでは,このような危険はたんなる空想ではなく,まさに現実そのものです.

     

    ギャングと麻薬業者

    その他にもこの国の直面する危険な敵がいます.中でも最も危惧されるのが麻薬取り引き業者と犯罪グループや組織の影響です.

    新聞などの報道は多くの犯行現場を報告しています.それによると,大きなコンテナーにいっぱいの麻薬が,闇にまぎれて持ち込まれたり,あるいは飛行機から落下傘で落とされることもあるようです.これらの積み荷は時として官憲に摘発されることもありますが,ほとんどはそのまま流通ルートに入っていきます.

    町と町とをつなぐ長距離バスには,しばしば全国警察や麻薬特捜隊の捜査の手が入ります.バスを使った麻薬輸送と取り引きを監視するためです.

    ある日サンタアナで繁華街を歩いていると,私たちの側を黒装束に身を固め,大きなマシンガンを下げた一人の男が通り過ぎていきました.そのいでたちは米国のSWAT隊員を思い起こさせるものでした.

    その日サンタアナは年に一度のお祭りの最中でした.行列,踊り,そして聖母マリアの聖体.人々は街路に溢れていました.しかしこの異様な風体の男にビックリするような人は誰もいません.

    私はサンタアナに住む家族に聞いてみました.「あの男はなんだい.何をしているの,どうしてあんなにすごい武器を持っているの?」

    彼は言いました.「あれは麻薬取り締まりの特別捜査官だ.多分麻薬の売人を探しているんだろう」

    麻薬カルテルのもたらした危険は,国内のギャングなどの犯罪者たちによる危険とむすびついています.それは今とりわけ,エルサルバドルの全社会にとって深刻な問題になっています.

    脅威は犯罪者の活動だけに限られたわけではありません.そのような犯罪者集団と闘う官憲の側も同じように過激であり,危険です.

    一時期,エルサルバドル名物の「死の軍団」がこの問題の"解決"に名乗りを上げたことがありました.彼らは「死の軍団」にふさわしい解決法,すなわちギャングの暗殺という解決法を編み出しました.

    犯罪が深刻な社会的問題になっている国では何処でも同じ(たとえばブラジル)ですが,このような「処刑」は少なからぬエルサルバドル人に支持されました.これは全国警察,FMLNその他の政党にジレンマを与えました.「犯罪者に対して一番タフなのは誰か?」

    もしギャングを押さえ込むことができなければ,世界で最も悪名高い犯罪的な集団である「死の軍団」と,その背後の極右派が,情況の主導権を握ってしまうことになります.そうなれば彼らは究極の解決策,すなわち戒厳令と一連のファシスト的解決策を打ち出してくるでしょう.

    ギャングと犯罪者たちの危険は,首都においていっそう顕著です.「憲法通り」を歩いてみましょう.そこにはエルサルバドルに対する米国の最新の"貢献"が軒を並べています.マクドナルド,ウェンディーズ,ケンタッキー,ピザハット,シェル石油のスタンド--それはエルサルバドルに「経済的機会と雇用を与える」作戦の成果です.

    第三世界の国におけるこのような会社の存在そのものが,すでに違法行為と言ってよいでしょう.しかし,彼らによるもっと明らかな犯罪的行為があります.これらの新しい北米人のビジネスは,ポンプアクションのショットガンを持ち,弾帯を腰に巻いた男たちによって守られているのです.

     

    スーパーでの買い物

    エルサルバドルにはスーパーというものがほとんどありません.そのかわり,地域や住宅街の角ごとに小商いの店があって、大抵はそこで間に合うからです.このミニ・マーケットでは,おおぜいの物売りが自分の畑で獲れたものを売っています.

    いっぽうスーパーといわれるものはアメリカの資本が入っていて,アメリカのスーパーをモデルに作られています.そして客は100パーセント,専門職とかリッチな人々です.

    僕らはサンタアナでそんな店の一つに入りました.予想した通り,そのスーパーも重武装したガードマンによって守られていました.店に入る前にバッグが空けられました.その後は金属探知器を通過させられました.武器を携帯する人は,買い物の前にカウンターでチェックを受けるよういわれます.

    店内をまわってみた私たちは,値段の高いのに仰天しました.たとえばウィッシュボーンのブルーチーズ・サラダ・ドレッシングは一ビンで100コロン,およそ11.5ドルです.

    全部が全部,べらぼうな値段というわけではありませんが,それにしても高い.ほとんどのエルサルバドル人にとっては(多くの北米人にとっても同じだが),スーパーで買い物をするというのは,メイシー(高級百貨店)でオレンジを買うようなものです.

    私はシリアルを一箱買ってレジに並びました.そのとき、一人の男がクロークのところに来ました.

    彼は一枚のタグを置きました.それを見た係員は,背後のキャビネットの鍵を開けました.そこには何十丁という拳銃が棚に並べられていました.その一つを取り出した受付の男は、タグをもう一度チェックすると、客に手渡しました.

    それは,本屋のカウンターで本の入った包みを計算してもらう時の感じと,似ていなくもありません.客は無造作に拳銃をズボンに突っ込みました.バンドを締めなおした男は両手に食料品の袋をぶら下げて帰り道につきました.

    いまエルサルバドルでは,犯罪が急増しています.それにもかかわらず,米国では極めてありふれたものとなっている,あの凍りつくような恐怖感というものはないように思えます.

    私たちはエルサルバドル滞在9日間のうち8日間を,サンタアナとサンサルバドルの労働者階級が住む住宅街で過ごしました.そこでは誰もがお互いに顔見知りでした.人々は隣人の子供たちを見守っていました.

    日中,家々の扉は開かれっぱなしです.これなら,もし隣人が助けが必要なら,誰でも手助けに入ることができます.ラテンアメリカではどこでも,隣人と友人はしょっちゅう行き来しています.

    日暮れともなれば,人々は家から出てきて道端や遊歩道にたむろします.そうして天気のこと,家族のこと,政治のことについて話を交わします.外がやがて真っ暗になると,みんな家に入り,ドアを堅く閉ざします.この戸は極めて頑丈で,しばしば金属製です.そしてボルトでもって壁に固定されています.

     

    牛乳屋さん

    サンタアナに滞在中,私たちが泊まったのは,町外れの田舎に近い住宅街でした。そこでは毎朝、老人が新鮮な牛乳を届けてくれます。それは郊外の小さな牧場でとれたものでし。これは都会では味わえない贅沢の一つです。

    老人はズック鞄を肩にかけて,自転車に乗ってやってきます.

    鞄の中には牛乳瓶がいっぱいです.脇にはマチェーテ(山刀)を差しています。それは頑丈なこしらえの革の鞘に収まっています。

    決まった場所にくると、老人は自転車を降ります。そしてコーラの瓶に入った牛乳を置くと、代わりに空き瓶を持ち帰ります。奥さんがたは、空き瓶を持って家から出てくると、牛乳の入った瓶を持ち帰ります。そして空き瓶の後ろにお金を置いていきます。そうして新鮮な牛乳は家で待つ子供たちの手に届くのです。

     

    エルサルバドルの"特権的"労働者

    町の中には,ほとんどの労働者には味わえないような「贅沢な」暮らしを楽しんでいる人たちの住宅街があります.

    ここは,米国で働きお金を貯めて,エルサルバドルに帰ってきた人たち,あるいは家族の誰かが米国で働いていて,毎月お金を送ってくる人たちの住む地区です.

    これらの,どちらかといえば「特権的な」労働者の家には,テレビ,ストーブ,冷蔵庫,そして何よりも自前の家があります.とはいっても,これらの家は,北米人の基準からいえば,みすぼらしいとしか言いようがありません.

    天井はトタン屋根がむき出しで,そのまま見えます.部屋は,普通は,台所を入れてもたった3〜4室しかありません.

    家のまん中には,ハーフ・ドアーで辛うじてプライバシーを保たれた部屋があります.その部屋に,小さなクローゼットくらいの広さのトイレがあります.ほとんどの便所には便座がありません.このような家でトイレを使うにはちょっと支障があります.なぜなら,一般的にトイレの位置は,台所や寝室と隣り合っているからです.

    シャワーを使う際は一仕事しなければならない情況が控えています.シャワーの水源は,しばしば台所の蛇口と共用で,そこからトイレのある部屋へゴムホースを走らせてあります.シャワーを使うときは,台所からシャワーのある部屋まで,すべてを水浸しにすることになります.というのもホースの走る間は,カーテンもないしタイルが張ってあるわけでもないからです.

    シャワーからお湯は出ません.水だけです.シャンプーのような浴用品は,たとえ親類が米国にいる家庭にとっても贅沢の極みです.

    ほとんどの勤労者家庭は電化製品を持っていますが,雷が鳴ったりすれば--とくに「冬」には多いのですが--たちまち停電して使いものにならなくなるのが通例です.

     

    エルサルバドルの「冬」

    中米の「冬」は5月から9月まで続きます.北米人から見ると,中米ではそもそも冬という概念がまったく異なっているのですが,それはとりあえず後にしましょう.この季節の名物は,しばしば訪れる夕立です.普通は夕立は,あっという間の出来事ですが,実に壮大なものです. 

    昨日の午後,千メートルの上空に光が走りました.すると突然天が戸口を開きます.雨は海の温度と同じくらいに温かいのですが,雨粒はアメ玉なみの大きさで降ってきます.これだけのものだと,「雨にうたれる」という言葉通り,ビシバシと頭を叩かれるような感じです.

    これが嵐となるともっとすごい,稲妻が天空を切り裂き,すさまじい雷鳴をとどろかせます.仕事を終えて家路を急ぐ人々は,とりあえず避難できるところで雨宿りします.そしてバスが来てくれるか,雨が小降りになるまでじっと待つのです.それにしてもこんなにしょっちゅう夕立があるのに,雨傘を持っている人もレーンコートを持っている人もいないというのが不思議です.

    それから,降り始めたときと同じように夕立は突然終わります.夕立の後の空気はきれいで新鮮です.素晴らしい熱帯植物が一斉に生い茂ります.最もやせた土地でさえも,まるで生き返ったようになります.翌日の朝になると,葉はひとまわり大きくなり,木々は一段と高くなったように見えます.

     

    サンサルバドルの3人の兄弟たち

    サンサルバドルにいる間,私たちは私の妻の三人の兄弟すべてを訪問しました.兄弟の内二人は,戦争前と戦争中に米国に滞在したことがあります.それは厳しい体験だったようです.

    二人ともアメリカで一生懸命働きました.そして国に残した家族に送金していました.一人は入国管理事務所に逮捕された経験があります.ちょうど米国に入って6カ月たったときでした.彼は未登録の労働者として扱われ,強制収容所に60日間拘留された後,国外追放処分を受けました.

    もう一人は,1年後にエルサルバドルに戻りました.彼の場合は,帰国に至る事情は単純でした.これ以上,故郷と家族から離れて暮らしていくことに耐えられなくなったのです.その上に,アメリカでの生活が予想以上に厳しかったこともあります.雇い主の扱い方は酷かったようです.低賃金で生活費は高く,お金を貯めるという目標は達成できそうにもありませんでした.そして入国管理事務所に見つかってしまうのでは,という不安感にいつも付きまとわれていました.このことも彼の神経をすり減らしました.

    しかし他にいろいろ理由があったにせよ,この兄弟が国に帰ったのは,やはり何よりも家族と彼の祖国を失いたくなかったためです.

    妻の一番上の兄,チャカだけは米国に行きませんでした.彼の妻マルタが,わずか35才でガンのために亡くなってしまったからです.あとには彼と三人の娘,二人の息子が残されました.

    もしマルタの病気が早期に見つかっていたら,今も彼女は生きていたでしょう.エルサルバドルでは医療費は無料です.それでも,ガンの最初の症状が出たとき,マルタはぐずぐずと医者にかかるのを遅らせました.5人の子供たちのために手がとられて,彼女には病院に行く時間が作れなかったのです.1980年,内戦が始まってしまったことも災いしました.

    マルタは,ガンの症状が自然と消えてしまうことを期待しました.それは彼女にとってあまりにも危険な賭けでした.マルタが病院へ行ったとき,すでにすべてが遅すぎたのです.

    マルタが死んで以来,チャカは妻を失った痛手から立ち直れないままです.彼女の死から17年もたつというのに,彼女の名前を口にするだけで,彼の目からは涙が溢れ出します.

    私の妻は,チャカとは20年も会っていませんでした.感性が豊か過ぎるこの人,チャカは,妻と私が米国に戻る日がやってきたとき,別れが辛くて妻に会うことができませんでした.

     

    チャカの家庭

    私たちは一晩だけ,チャカの家に泊まりました.チャカの家はサンサルバドルの小さな,セメント壁のアパートでした.三人の娘と二人の息子は今も同居していました.三人の娘はそれぞれが子持ちになっていました.

    その日,外では嵐が吹き荒れていました.アパートのなかは,大人と子供たちでいっぱいでした.家族たちがみな,妻と私と,私たちの子供たちを見にやってきました.

    その夜集まった20人近い人の誰として,私は知りませんでしたが,そんなことはどうでも良かったのです.分かっているのは,ここにいる人たちのすべてが,一つの家族だということです.ファミリーの人たちの私たちに注ぐ愛情は,外で降る雨と同じくらい豊かで強烈でした.

    ラテンアメリカならどこでも,ファミリーという単位は強烈に残存しています.それを打ち壊そうとする外圧もあるが,そんなことで崩壊するような,ヤワなものではありません.

    たしかに街角には乞食もいる.しかし彼らのほとんどは,家族の絆を持たないヤク中かアル中の若者達です.あるいは,一人でいなければならないような理由が一つ,二つはあるような連中ばかりです.

    ラテンアメリカにおいては,もっとも基本的な社会ルールが相互扶助です.その家族の一員が年寄りだろうが,障害者だろうが,病気もちだろうが,悪党であろうが,そんなことは関係ありません.一般的法則として,すべての人間が死ぬまで面倒を見てもらえます.もし家族を捨てた人間がいれば,それには,いずれかにそれなりの理由がある筈です.

     

    最強兵器はテレビ?

    しかし,このような伝統的な家族の価値は,いま激しく侵食されつつあります.その最大の脅威となっているのが,アメリカの支配階級です.それは内戦中に政府軍を支援したのと同じ勢力です.

    いま,かれらは,エルサル人の価値観を根本から変えるための新しい兵器を開発しました.それは地雷やヘリコプターなど,彼らがかつて軍に与えた武器よりも,はるかに強力です.この極めて有効な新兵器とはテレビです.

    エルサルバドル人家族は,ますますテレビに縛り付けらるようになりました.テレビで流されるのは,連続ドラマ,マイアミで録画されたトークショー,そして字幕つきか,スペイン語で吹き替えられたアメリカ映画です.もし米国の番組がないときは,メキシコ製作の番組です.これは一言でいえば,アメリカの番組のスペイン語によるイミテーションです.

    テレビはエルサルバドル人に強い影響を与え始めています.それは北米人が受けている影響と同じです.多くの家族はもはや夕暮れになると会話を交わさなくなりました.どうかすると日中すらそうです.

    テレビが会話を奪ってしまいました.人々はテレビの前にすわり,テレビを見ながら,北米流イデオロギーの「爆撃」を受けているのです.それは,個人主義の度外れた強調と,愚かしい物質主義を賛美する価値観との混合物です.

    彼らは眠りにつけば富と快楽を夢見るようになりました.その夢を夢見ることができるようになるには,映画スターやプロスポーツのヒーローになったつもりになればよいのです.そうしてテレビに出てくるスターのように生活し,行動し,考えることを学ぶだけで,夢の見方を体得できるのです.

    ますます多くのエルサルバドル人が,アメリカのマスメディアの目を通して世界を見るようになっています.それは戦時中に紛争地域に雨あられとまかれた宣伝ビラで時局を判断するのと同じことです.

    多くの若者が死に物狂いで英語を学び,マクドナルドのハンバーガーにかじりついているのも不思議ではありません.若者は,もしコンピュータやCDが買えて,ロックやラップ・ミュージックが聞けて,高価なジョギング・シューズがはけて,自家用車やバイクを持てたらどんなにすばらしいだろうかと考えるようになっています.

    一言でいえば,今やますます多くのエルサルバドル人が,アメリカ式の生活スタイルを学びつつある.ほとんどの北米人はすでにそのことを知っています.北米人はまさに一生をかけて,テレビを通じて,それらを学んだのです.

    彼らはいま,成功のためには何が必要なのかを学んでいます.すなわち成功の条件とは,「自分こそナンバーワンだ」と確信しなければならないこと,そして「個人的な金銭的な成功に勝る栄光なし」という信条を持たなければならないということです.

    しかし,そういう意味で「現代人」であるためには,そして自らの夢を叶えるためには,人は古い理想や時代遅れの価値観を投げ捨てなければなりません.個人的な成功の道に立ちふさがるものは,誰であろうと排除しなければなりません.

    これから夢に向かって「前進」しようとするラテンアメリカの若者にとって,おそらく直面する最大の障害は,家族の紐帯としがらみとなるのかもしれません.

     

    エルサルバドルにおける伝道派教会の動き

    内戦が始まる前からすでに,アメリカ伝道派教会はエルサルバドルに布教団を派遣していました.あらたにエルサルバドルで教団活動を展開するため,教徒を獲得することがその使命でした.

    それまでエルサルバドル人の大多数は,スペイン人の征服このかたずっとカトリックに帰依してきました.しかし,アメリカ伝道派教会の布教活動に接したあと,カトリック教会に幻滅し始めた人も出てきました.それまでも多くの人々が,贈り物や奉仕を強要する堕落した聖職者を苦々しく思っていました.

    戦争が始まる直前には,プロテスタントの動きを加速するもう一つの条件が発生しました.それは「死の恐怖」です.多くのキリスト教徒は,独裁政権が教会とオスカル・ロメロ大司教に加えた脅威に震え上がりました.ロメロ大司教はミサの最中に「死の軍団」に暗殺されました.彼の正義と平和をもとめる激烈な説教が当局を怒らせたのです.

    恐怖心と義憤という感情のあいだの心理的葛藤を,当時の人はみな抱えていました.より霊的な要因が伝道派教会の布教に道を開いたのです.多くの人たちは,戦争の恐怖に打ち勝つ心の強さを求めて,伝道派に加わりました.

    一般にカトリック教会は,聖書を読むことにはあまり重きを置いていません.少なくとも戦争の前には,ミサはラテン語でおこなわれ,貧しい人や農民,労働者階級の人々には,なんのことやら分かりませんでした.祈りはカトリック教徒にとって個人的な霊的経験ではありませんでした.それは基本的には教会によって用意された儀式の道筋をたどることでした.

    伝道派教会のやりかたは,そうではありません.スペイン語で説教し,聖書に学ぶことを重視し,キリストとの"個人的な関係”を何よりも大事にしました.満ち溢れる恐怖に喚起されて,多くの人たちが「自ら救いへ接近せよ」という伝道派の教義に惹きつけられるようになりました.

    伝道派教会の指導者たちはまた,カトリック聖職者に比べはるかに信仰に対して厳格でした.彼らは"不道徳な生活スタイル"と称するものに対して声高に非難しました.

    伝道派の提示した“キリスト教徒としてのあり方”という視点に,多くの人々が惹きつけられました.とくに,カトリック聖職者の偽善的な態度に不満を持っていた人たちには,熱狂的に受け入れられました.伝道派は,信仰に関して妥協することなく,少なくとも表面的には,バイブルの教えに厳格に従うことを要求したからです.

     

    米国伝道派教会の「隠された使命」

    中米にやってきた伝道派の布教団は,実は,彼ら自身の「隠された使命」に基づいて活動していたのです.そのすべてではないにしても,幹部のほとんどはそうです.その使命は,信仰や救済とはほとんど関係のないことでした.彼らを"十字軍"に駆り立てたのは,主要には経済的,政治的な動機でした.

    米国内には宗教団体の装いをこらした右翼グループが沢山あります.伝道派教会の人々は,そういった人達に援助されて,中米に進出しました.

    彼らは教会や神父ではなく,聖書そのものの教えに従うことの重要性を説きました.キリストとの"個人的な関係"を深めることを強調する一方,教会の神父の唱える説教などに耳を傾けないよう仕向けました.そして“良きキリスト教徒”として非政治的な立場を貫くよう求めました.あのときの,中米戦争と野蛮な弾圧という状況の下で考えると,この教えは次のように翻訳されるでしょう.

    「穏やかに,独裁政権に無言の支持を与えなさい」と.

     

    「カエサルのものはカエサルに」

    エルサルバドル人で伝道派教会に属しているのは,圧倒的に労働者階級と農民層です.伝道派に改宗する前,彼らの多くは社会的変化をもとめ,ゲリラに共感していました.しかし伝道派教会の指導者が「カエサルのものはカエサルに」という教えに忠実であることを求めたとき,それは変わりました.

    指導者が説くには,「カエサルのものはカエサルに」という言葉は,「政治のことは政治家にゆだねなさい」ということです.つまり,イエス・キリストが「人間はみずからの政府を支持するべき」と求めているという意味なのだそうです.それは "神を否定する共産主義者"に政府を乗っ取られないようにするためでもあります.

    伝道派の指導者は,金持ちといっしょになってこの言葉をくり返しました,そうやって百回も教えられれば,信者がどちらを選ぶかは明白です.

    ここまでは上手く行ったのですが,根が不純ですから,いつかはボロが出ます.それが,アメリカから来た指導者にかかわる一連の不祥事です.

    かつてエルサルバドルにおいて,敬愛を一身に集めた伝道派の牧師ジェリー・フォルウェルは,いまや神の恩寵を失いました.彼が売春婦とエッチなおこないをしたことが暴露されたためです.もう一人のプロテスタント教会のスーパースターは,教会の基金の使い込みがばれて,信頼を失いました.彼はさらに,その他の犯罪にも主役としてかかわっていたことが明らかになっています.

    このように金銭上の疑惑とセックス・スキャンダルがあいつぎました.それは世界に張り巡らせた伝道派の帝国を揺り動かしました.伝道派教会のエルサルバドル人は,これらの事件を通じて,アメリカ人指導者の正直さと誠実さに対して疑惑の念を抱くようになりました.

    教会幹部はもっと深刻に「北からの兄弟」に対する信頼を失いました.彼らは伝道派の信徒を集めて,米国の本部とは独立した彼ら自身の教会を建設し始めました.多くの地方で住宅街や村々に新しい教会が創設されました.もはやそれはアメリカ人たちとはほとんどなんの関係もありません.

     

    戦争があった頃

    内戦のあいだ,伝道派教会に属するほとんどの労働者・農民は,政府を支持しませんでした.しかし,だからといってFMLNを支援したわけでもありません.

    その属する教会や宗派によって若干の違いはあったものの,彼らのほとんどは非政治的な立場を厳密に守りました.キリスト教徒たるべきもの,政治ごときにこだわってはならないというのが,彼らの信念だったからです.

    しかし内戦のあいだに彼らの信念を揺るがす何かが起きました.それはアメリカ人「伝道者」の直接の影響下にあった人々が,もはやそこに留まっていられないほどの変化だったといえます.

     

    エル・モソテの虐殺

    1981年12月,政府軍の一部隊がモラサン県北部の小さな村エル・モソテに侵入しました.部隊の名はアトラカール旅団.それは米国の軍事顧問によって最初に訓練された精鋭部隊です.

    彼らはこの町で千名に近い人間を虐殺しました.その事件は戦争が終わるまでほとんど人々に知られることはありませんでした.ほとんどのエルサルバドル人は,戦争が終わって初めて,そこで何が起こったのかを知ることになりました.最終的に真実が確認されたとき,エルサルバドル国民は衝撃に打ちひしがれる他なかったのです.

    「エル・モソテの虐殺」は政府軍や国家警備隊にとって初めての虐殺でもなければ最後の虐殺でもありません.しかし彼らの行った虐殺の中でもとびっきり残虐であることは間違いありません.

    犠牲者のほとんどは女たち,子供たち,そして年老いた人達でした.それは村人がスンプル川を渡ってホンジュラスへ逃げ込もうとしたときでした.重砲と武装ヘリで支援され,捜敵・せん滅の使命を帯びた部隊が,突如現れ,村人を次々に虐殺していきました.

    * 訳注:リオ・スンプルの話は,エル・モソテの少し前,チャラテナンゴ県で起きた別の虐殺事件を混同していると思われる.

    レイモンド・ボナーの著書「弱みと偽り:エルサルバドルと米国の政策」はコパン・ディオセセアンド(Copan Dioceseand)の長老会牧師が提出した報告書を,次のように引用しています.

    「女たちはとどめの一発を打ち込まれる前に暴行され,陵辱された.幼児は空中に投げ上げられた.そしてクレー射撃の標的のように弾丸を打ち込まれた.」

    すでに内戦中から虐殺のうわさがエルサルバドルでは絶えませんでした.しかし和平協定に伴って創設された真相究明委員会が,本当に虐殺があったという事実を確認するまでは,なお時間を要しました.

    ぞっとするような事件の一部始終が,真相究明委員会の調査で明らかになりました.軍隊は,女たちや子供たちを屠殺したあと,さらに村人の家に火をつけました.犠牲者たちは,死んでいようと未だ生きていようと関係なしに焼かれました.何本もの煙が立ちのぼり,あたりは体が焼ける匂いがたちこめました.そんな中で兵士たちは狂ったような笑いを浮かべ冗談をかわしていたといいます.

     

    エル・モソテにおける伝道派教徒

    虐殺事件の前,FMLNはすでに軍隊のエル・モソテ掃討計画を察知していました.ちょうどその頃,エルサルバドル軍の将校が寝返って,ゲリラに参加してきました.彼は軍の秘密無線のコード番号を教えました.そのことで敵の動きが手に取るように分かるようになったのです.

    ゲリラはあるメッセージを傍受しました.それはエル・モソテが捜敵・破壊作戦の標的となったという知らせでした.軍隊はエル・モソテの村人がゲリラを支援していると判断したのでした.

    その頃まだFMLNは村を守りきるほどの戦力は持ち合わせていませんでした.フレンテの連絡員は,この作戦を知ると密かにエル・モソテに急行しました.そして村人に触れ回りました.「ただちに家を引き払って逃げるんだ!」

    ほとんどの村人,とくに男たちは勧告に従いました.多くの人々が家族を連れて避難しました.しかし残った人たちもたくさんいました.問題は男たち,とくに若い男であって,女たちと子供たちそれに年老いた住民は,政府軍の処刑対象にはならないだろうと踏んだからです.しかしこの見通しは悲劇的な過ちでした.

    残った人たちの中には多くの伝道派教会に属する人々がいました.彼らは戦時中も中立の立場をしっかりと守っていたから,政府軍に傷つけられることはないだろうと信じていたのです.しかし政府軍は伝道派教徒であろうと容赦はしませんでした.そうして彼らも他の者たちとともに虐殺されたのであす.

    伝道派教会のエルサルバドル人は,何年も経ってからこの「血の池地獄」を知りました.それは文字どおり「地獄の黙示録」でした.政府軍部隊が彼らの兄弟姉妹を集団虐殺しました.そのほとんどは女たち,子供たちでした.

    この啓示を受けた多くの信徒は,何年ものあいだ目の前の現実を無視し,心の奥底に埋めてきた深い感情を,あらためて呼び起こしました.裕福な人々に搾取され,軽蔑され,無視され続けたこれまでの長い生活,それを信仰によって紛らわせてきた長い期間のあとに,深い恨みと怒りの感情がふたたび噴出してきました.今では多くの伝道派教会の人々がFMLNを支持するようになっています.

     

    伝道派教会のアメリカ人たち

    今でも大勢の伝道派教会のアメリカ人グループが,エルサルバドルを目指してやってきます,彼らはエルサルバドル人の魂を救おうとしているのです.サンサルバドル空港に行けば,彼らの姿はすぐ見分けることができます.

    "主,汝を愛す!"のロゴ入りTシャツを着た,一目で中流階級とわかる白人の青年が,賛美歌を歌い,祈りをささげているのを見ることができます.まるでサッカーゲームに熱中する若者を見ているようです.

    しかし一般的に言えば,伝道派の影響は今では限られたものになっています.彼らが影響を与えられる相手は,やけっぱちの人達か,無理やり贈り物を受け取らされた人達だけです.

    エル・モソテの虐殺はすべての国民にとって一つの転換点でした.伝道派教会の人たちは,そのほとんどが今でも信仰をつづけてはいます,しかし彼らの政治を見つめる目には,1981年のクリスマスイブ,モラサン県の小さな町で1千の罪なき人々に対して行われた殺人事件が,いまでも強烈に焼き付けられているのです.