グラディス・マリンの死に寄せて

グラディス・マリン 略歴

1941年7月16日、クレプト(Curepto)の農家の生まれ(クレプトはチリ第7区クリコの近郊。中央平原に位置する純農村地帯)。父の死後、教師だった母とともにサンチアゴ南西近郊の町タラガンテに移住。

タラガンテでカトリック青年組織のリーダーとなる。サンチアゴ師範学校に進学。まもなくチリ共産青年同盟員と知り合い、58年に加盟。このとき16歳。

学生運動を続ける中で、全国師範学校学生自治会連合の委員長となる。63年には共産青年同盟の書記長に選出される。バルパライソ=サンチアゴ間100キロのベトナム連帯デモ行進を成功させるなど力を発揮。

65年、チリ共産党から国会選挙に立候補し当選。このとき23歳。その後69年と73年の二回にわたり再選を果たし、73年のクーデターまで国会議員を務める。

70年、アジェンデの率いる人民連合が勝利。マリンは賃金引上げ、物価凍結、失業率の半減、公共雇用の創出、チリ人民の資産としての銅山会社の国有化などを目指して働く。

73年12月、党の指示を受け、オランダ大使館に駆け込み亡命を申請。彼女自身は最後まで国内残留を主張したという。9ヶ月間、大使館内で待機した後、国際世論の圧力の下に亡命を勝ちとる。

76年5月、国内指導部の一員であった夫のホルヘ・ムニョスが捕らえられる。その後、現在まで消息不明。

78年に、スペイン人“イサ”に変装してチリ国内に潜入。国内指導部の一員として、非合法下の共産党組織の再建を目指す。

84年、マリン、コルバラン書記長に次ぐ書記次長に選出される。国内指導部のトップとなる。

93年、共産党の大統領候補として立候補。ピノチェトと引き続くキリ民党政権の新自由主義政策を厳しく批判するが、得票は5%以下にとどまる。

94年のチリ共産党第20回大会で、コルバランに代わり書記長に選出される。同時に党勢後退に歯止めをかけるべく、98年の大統領選挙における共産党の大統領候補となる。

96年9月11日の抗議集会でピノチェトを糾弾する演説。「陰謀と裏切り、大量虐殺により権力を獲得した精神異常者」と非難する。裁判所はピノチェトの訴えを受けマリンを逮捕・拘留。

2003年10月、脳腫瘍が発見され、ストックホルムで腫瘍摘出の手術を受ける。この後、キューバで療養生活を送る。

04年、キューバでの療養を終えチリに戻る。マリンは書記長の職を辞し、議長となる。この間も多くの論文や手紙を書き、記者会見を開き、党幹部と会合を持つなど、チリの政治に積極的に関わり続けた。

しかし次第に症状が悪化。手術創の感染が疑われキューバで再手術を受けるが、新たな腫瘍の再発が発見される。術後、麻痺と失語が出現。

彼女はキューバ滞在中に、自叙伝の第二巻を書き上げた。この著作は母と夫と、「誇り、闘い、楽天主義が“もうひとつの世界”を可能にすると確信するすべての人」に捧げられた。

12月、クリスマスを前にキューバでの治療を断念。チリに戻る。

3月6日午前6時、自宅で息を引き取る。

 

 

With Gladys – We’ll win a thousand times

People's Weekly World Newspaper, 04/21/05

 

サンチァゴ、チリ-

 

私がチリに到着したとき、私の心は重かった。

同志グラディス・マリン-チリ共産党議長-は脳腫瘍でなくなった。3月6日のことだった。彼女は63歳だった。

世界中から共産党・労働者党の代表がやってきた。この革命のヒロインに敬意を払うために。私の党-米国共産党はマリンの葬儀に党を代表して出席するよう私にもとめた。

米国共産党の声明は言う。

「同志グラディスに対するわれらの敬意と愛情は、英雄的チリ共産党、そして労働者階級と人民への思いと分かちがたく結びついている。チリ共産党は人民のために80年以上も闘ってきた。米国共産党員は、つねにチリ人民に対して特別な親近感、責任感、連帯感を感じている。なぜなら米帝国主義者こそが、サルバドール・アジェンデと人民連合政府を倒す上で、犯罪的な役割を演じたからである」

 

勇気あふれる女性

 

マリンは、「行方不明者の家族たち」とともに行進した。それは3月8日の国際婦人デーと重なった。

ちょうどそのころ、私は私はここチリの首都に到着した。2、3時間ほど眠ったあと、私と同志たちは国家宮殿名誉殿堂(Salon de Honor del Congreso Nacional)に赴いた。そこにはマリンの遺体が安置されていた。

チリ大統領リカルド・ラゴスは二日の公式の喪を宣言した。そして半旗の掲揚を命令した。それはマリンが人民の中で勝ちとった偉大さの承認であった。彼女はファシズムと飽くことなく闘い、民主主義と社会正義のために闘った。ラゴスは言う。「チリはグラディス・マリンが闘った分だけ良い国になった」

それは、議会で人民の代表として奮闘した一人の女性に対する敬意を表すのにぴったりの表現であった。

マリンが死んだ日、フィデル・カストロはメッセージを発表した。「グラディスの足跡と励ましは我々すべての心の中にある。そして彼女の祖国と全世界の何百万もの人々のこころの中にある。我々すべては彼女の傑出した指導力、楽天主義と闘う勇気をこころから賞賛する」

二日間の服喪のあいだ、チリ国民50万人が長い列を作り、マリンに敬意をささげるために何時間も費やした。労働者や貧困者が家族でやってきて、棺のそばを歩いた。マリンが彼らを擁護する人であったからである。

全ての社会運動の代表が別れを告げにきた。政府高官もやってきた。大統領も国会議長も訪れた。彼らはさまざまな政治的信条の持ち主だった。海外からも多くの指導者が訪れた。みなグラディス・マリンに敬意を払うためである。

そういう哀悼者の一人にイサベル・アジェンデがいた。アジェンデは故アジェンデ大統領の娘であり、彼女自身が下院外交委員会の委員長でもある。「彼女は、勇気あふれる女性であった」と、アジェンデは言った。(同じイサベルという人物がもう一人いる。米国在住の著名な作家である。こちらのアジェンデは故アジェンデ大統領の姪にあたる)

ニュース各紙より (by SS)

6日の朝早くから、マリンの死を知った人々が次々に自宅前に集まり始めた。政府は直ちに2日間の「国民服喪」(national mourning)を決定、インスルサ内相が特別発表した。

リカルド・ラゴス大統領は、「この措置は、彼女が体現してきたものに対する敬意の表明であり、民主主義をもとめて彼女とともにある何万、何十万の人々に対する敬意の表明である」との談話。

朝10時になって遺体はサンチアゴ市南東部の自宅から運び出され、テイジェル書記長とチリ共産党中央執行委員会の先導のもとに旧国会議事堂に安置された。

2日間の服喪のあいだ、百万人(!)の人々が旧議事堂を弔問した。その半数以上は青年たちだった。青年たちのほとんどは、赤旗、チェ・ゲバラ、あるいはグラディス・マリンの肖像を掲げていた。

 

 

涙の川

 

我々は入り口から押し込まれるようにして殿堂に入った。そこにはものすごい数の群衆が隙間なく詰まっていた。私は一度自分を見失ってしまった。多くの国からきた共産党の代表ともはぐれ、マリンの家族や友人や同志たちともはぐれてしまった。

弔問は私たちが最後だった。そこには涙の川が流れている。

それから、我々は社会主義者の聖歌「インターナショナル」をうたい、こぶしを突き上げた。その数分後、葬儀の列が動き始めた。

群衆の数はさらに巨大となった。我々は殿堂の正面口から押し出されるように、サンチャゴの大通りへと出た。

葬列がすすむ先々で、沿道の群衆が押し出してくる。マリンの遺体を運んでいる車に一目会おうとする人々だ。アパ-トのバルコニーと窓からは人々が見つめている。多くの人が手を振って最後の別れを告げている。彼らの目は涙で潤んでいる。

オフィスビルの労働者は、カレンダーをちぎって振りまいた。そして、そのページが地面の上へ舞い落ちた。

米国人にもおなじみのスローガンが叫ばれる。「団結した人民は決して破れない!」(El pueblo unido jamas sera vencido)

これも行進中に叫ばれるもののひとつだ。「正義、真実、恩赦拒否。ピノチェトを裁判に!」

話によると、全部あわせて百万人のチリ人が葬儀の行進に加わった。ほかにも無数の人々がほかの方法で、彼らの敬意と愛を表明した。(メディア各紙の報道では葬儀デモに20万人。沿道で見守った人々が50万人とされる-SS)

 

 

 

葬儀の列が平和広場(Plaza la Paz)に入ったとき、マリンのすばらしい肖像画が我々を迎え入れた。巨大なキャンパスに描かれた、美しい彼女の顔が輝くように微笑んでいる。

肖像の横の言葉は、「グラディスとともに、千度勝つ!」(Con Gladys Mil Veces Venceremos)。チリ共産党の党歌「われらは勝つ」(Venceremos)の歌詞にちなんだものだ。

ここが最後のオマアジュの表明の場となった。この後、棺はセメンタリオ・ヘネラル墓地に向かい、そこで埋葬されることになる。(この広場は墓地に隣接している-SS)

キューバ人民権力全国議会(国会)議長、リカード・アラルコンが演壇に近づく。広場は水を打ったように静まり返った。

「苦痛は、深遠であり、悲しみは深い。キューバの女性と男性は、先週の日曜日から打ちひしがれている。我らが最愛の姉妹が、我らのもとを去って行ったと知ってからだ。キューバの人々は、どんな逆境でもくじけないマリンの彼女の勇敢さと粘り強さを賞賛してきた。病気が容赦なく襲っても、またピノチェト独裁政治とその手先の虐殺者が襲っても、彼女は抵抗をやめなかった」

アラルコンは語る。「彼女は、キューバのもっとも誠実な擁護者の一人だった。アメリカの封鎖で包囲された社会主義国家、キューバとの、堅固で私心のない連帯を実践することに、彼女は決してしり込みしなかった」

アラルコンは続ける。「彼女の微笑は、涙から出てくる。それは、太陽である。太陽は、雨と混ざって、光をつくる。その光は、虹の道を示している。それは彩りに満ち溢れた社会主義である。そのなかを、グラディスは生きた。そして彼女は生き続けるだろう」

 

こころと魂と

 

チリ共産党書記長ギジェルモ・テイジェル(Guillermo Teillier)が挨拶に立つ。

「グラディスは、我々のもとを去っていない。我々の親愛なるグラディスは、永遠に我々の所にとどまる。人々の良心と意志のなかに。なぜなら、人々は彼女の闘いのなかに、人々の希望、人々の憧れがまさにはっきりと現れるのを見たからだ。

テイジェルは、この前代未聞の葬儀にこんなにも多くのチリの人々が参加してくれたことを感謝した。人々の数は、あの独裁政権の敗北の日以来、最大のものであり、その多彩さも最も際立っていた。彼はまた「我が党の議長に対するかくも美しい敬意」を贈ってくれた人々に感謝した。

彼は続ける。「親愛なるグラディスよ、そして同志、我々のこれほど多くの友人があなたとともに闘った。今日、3月8日、我々は、あなたに花を贈らなければならない。しかし人々はあなたに花よりもっと多くのものを与えてくれた。それは人々のこころだ」

 

レジスタンスの指導者

 

 

 

 

マリンは、レジスタンスを導いた。それは、1990年にピノチェトのファシスト独裁政権を退陣に追い込んだ。

アウグスト・ピノチェト将軍は、1973年に軍隊を率いて権力をつかんだ。ニクソン政権はピノチェトを直接指導し援助した。とくにヘンリー・キッシンジャーは、憎むべきクーデターの立案者であり設計者であった。

ピノチェトは、サルバドール・アジェンデ大統領と民主主義的に選ばれた人民連合政府を放逐した。そのときアジェンデは、暗殺された。

労働組合員、芸術家、左翼活動家と人権保護活動家は、集められて、拘束されて、殺された。

クーデターは、何千ものチリ人の生命を奪った。民主主義の花をむしりとり、そして恐怖の支配する世界へと導いた。

 最初に、チリの国会議員に選出されたのは1965年。彼女が24歳のときだった。

マリンとチリ共産党は、人民連合の1970年の勝利で重要な役割を演じた。そして以降の政府の運営にも貢献した。

人民連合政府は、深いレベルの民主主義と社会改革を実施した。それらの改革には、もっとも生産性の高い銅山産業の国有化、人々の生活条件の一刻も早い改善をめざす計画がふくまれていた。

 

1973年のクーデターのとき、マリンはチリ共産青年同盟のリーダーであり、共産党国会議員の一人だった。

彼女は即座に民主主義の蹂躙に対する抵抗を開始した。彼女は、ラジオ局に急行して、チリの人々に抵抗するよう訴えた。

クーデターの後、彼女はチリ共産党の決定に従い地下にもぐった。数ケ月の地下活動の後、マリンはオランダ大使館に飛び込み亡命者保護を申請した。8ヶ月にわたる世界中からの抗議によって、ピノチェトは、彼女を安全に出国させることを強制させられた。

彼女はチリを去った。そしてチリの民主主義運動への国際的な連帯を作り上げるため活動した。

彼女がチリを離れた後も、国内には二つの共産党指導グループが残された。マリンの夫ホルヘ・ムニョスはそのひとつのグループの指導者だった。彼はレジスタンスを組織するために国内にとどまった。

3年後、これら二つのグループは「消失」した。そのメンバーの姿をふたたび見ることは決してなかった。

1978年、チリ共産党の国内組織の再建が決定された。最初の部隊が派遣された。マリンもそのメンバーの一人だった。マリンはひそかにチリに入り、党を再建し、ついで民衆の抵抗を作り直すため危険な地下活動を続けた。

 

母親であること、革命家であること

 

 

グラディスとホルヘの子供たちが独裁時代にどのように育てられたか、そのお話は個人的犠牲精神の発揮された多くのケースの中でも、とりわけ目立つものである。チリに住む夫妻の友人家族が、2人の息子、ロドリーゴとアルバロを育てた

この友人は、グラディスが亡命しているのではなく、国内に潜伏しているということを知っていたけれども 、彼女は、子供たちに言うことができなかった。互いの安全を確保するためである。秘密にしておくことは、子供たちにも必要である。もしそれを知れば、子供たちは母親のことを心配し、それが誰かに知られるかもしれないからだ。

その一方で、マリンはこの友人と毎日のように会って、息子たちの生活についてたずねた。

1987年、息子たちは最後通告を発した。「母親と直ちに会わせろ、さもなくば二度と会わない」と。その2週間後、アルゼンチンでの再会がアレンジされた。

それは大変な危険を侵した出会いだった。マリンはある文章の中で述べている。「それは美しい遭遇であった。しかし非常に苦痛に満ちたものでもあった」

彼女が地下活動に入ったとき、二人はまだ小さな子供だった。いまや彼らはティーンエイジャーであった。「こんなに何年もたってしまった後、どうしたら本当の母親に戻れるかしら。夢の中だけの母親でなくて」

二人は現在すでに成人となっている。彼らの母のメモリアル集会で、彼らは愛する母親の横顔、そして私心のない革命家の逸話をやさしい表情で語った。

 

打倒、ピノチェト!

 

何度かの危機を間一髪で切り抜け、マリンは、なんとか独裁政権の公安部隊に捕まらずにすんだ。そして同志たちとともに共産党の再建に取りくんだ。再建された地下の共産党は、愛国的な勢力とともにチリ国内で民衆の抵抗を組織しつづけた。

それは長い年月を要する仕事だった。しかしレジスタンスは数を増し戦列を鍛えた。そして1990年に独裁政権を打倒するまでに成長して行くのである。

国民投票が呼びかけられた。それは人々が、「ピノチェトは退かなければならない。開かれた選挙が実施されなければならない」と、決心しようという呼びかけであった。

いまや強力な共産党の参加するレジスタンスは、いつでも政権の座に着く用意ができた。これを恐れたアメリカ政府は、キリスト教民主党との協定を取引した。

彼らはただひとつの最優先課題を設定した。共産党は、どのような交渉過程からも排除されなければならないし、どんな将来の政府においても排除されなければならないということである。

この意図的に編成された政権が、独裁政権のなくなった後にはめ込まれた。今の憲法もそうである。それは二つの多党政治ブロックの共存に基づく選挙システムをもたらした。ひとつは極右のグループであり、もうひとつは中道右派のグループである。

マリンは、死の病に犯されるまで、独裁政治の残した政治のゆがみを、あとかたなく消し去るための闘いを代表し続けた。そして新たな民主主義の世の中を作り上げる人民の努力を代表し続けた。

彼女はジェノサイドの罪でピノチェトを告発した最初の人だった。彼女は、ピノチェトと虐殺者たちをチリの正義と国際的な裁きの前にひざまづかせる、運動の最前線に立ち続けた。

最近の地方選挙で、チリ共産党を中心とする左翼勢力は選挙のための統一組織を立ち上げた。この組織はその頭文字をとってPODEMOSと呼ばれる。スペイン語でポデモスというのは「我々は可能だ」という意味である。PODEMOSはおよそ10%の得票を獲得し、躍進した。

ピノチェト以降の政府に関して、マリンはかつてこう言った。「私は、支持できない。まだ空腹の子供たちが私の国の街路にいるかぎりは」

そしてこう主張した。「独裁から受け継がれたネオリベラル・システムの終わりを見届けるまでは」

チリでは今年末に総選挙が行われる予定になっている。PODEMOSは引き続き統一会派を組んで選挙に参加するものと予想される。

一方でチリ共産党は訴えている。かつて軍事独裁政権の前に存在したような比例代表制に選挙制度を戻すようにと。そしてもう一度、人民的な民主主義と社会改革をスタートさせようと呼びかけている。

 

その生において、その死において

 

生涯を通じて、マリン同志は党とともにあった。民主主義、社会正義、世界平和と社会主義を目指す戦いの最前線に立ち続けた。

その死にあたって、彼女の残したものは、チリ人民の民主主義への確信をもう一度よみがえらせた。

こんなにも多くの人々が彼女の死を悼んで参列したことは、チリの自由のための闘い、新植民地主義に対する闘い、独裁制の遺物に対する闘いに未曾有のインパクトを与えすにはおかない。

マリンの遺産は、さらに、国家の解放と社会主義を目指すラテンアメリカ・カリブ海の国々の闘いを鼓舞するだろう。そして、我ら米国の労働者階級と人民の闘いも。

このような闘いと愛の生涯、民主主義と自由への献身は、人民の豊かな遺産である。

マリンは我々みんなと別れた。彼女の損失は莫大である。しかし彼女の遺産も同じように偉大である。

 

我々は、すべてを作る。

 

「我ら労働者、そして貧しい者は世界のマジョリティである。我々は毎日動きを立ち上げる。ドアを開け、機械のスイッチを入れる。我々は植える、そして収穫する。我々は、パンと服を作る。我々は建物や橋や道を建設する。我々は、教室と病院にいる。

人類が地球上で使用するすべてのものは、我々の手の中からこの世に出現する。一言で言えば、我々はすべてを作る。それなのに貧困と疲労を除いて何も、我々は所有していない。

しかし我々は圧倒的な大多数であり、世界を変えることができる。

今やそのときである。我々はとても苦しんできたが、我々の汗と我々の血は少数者を富ませただけだった。我々は闘い、闘い続けなければならない。尊厳を達成するために。そのために我らが命を失おうとも…」

グラディス・マリン 2004年、療養中のハバナにて

 

著者 ファン・ロペス(ncalview@igc.org)は、米国共産党北カリフォルニア地区委員会の議長である。

SSの一言

ラゴス政権が国葬に近い扱いをしたのは、米州機構事務総長選でインスルサ内相が当選を狙っていることと関係しているかもしれません。
しかし肝心なことは、さまざまな政治党派の中で、共産党だけが唯一の「正義の味方、真実の友」だからです。
いまだに軍部に遠慮し、アメリカに遠慮し、ピノチェト憲法にしがみついている人々を、共産党だけがにらみつけているからです。
利権確保と、人権侵害の過去からの保身をはかる軍人たち、煩雑な司法システムを利用して真実糾明の願いを嘲弄し続ける裁判官たち、こういう悪党たちと、共産党だけが真っ向から対決しているからです。
政府と議会は「民主化」されても、独裁体制を支えた国家権力のシステムはそのままです。貧富の差はむしろ拡大しています。
ピノチェトは偽名を含めた七つの銀行口座を海外に持ち、預金額は計160億ドルといわれます。2兆円ですよ! どうしてこんな大泥棒の人非人をかばうのですか。
今こそ正義の裁きと根本的な世直しがもとめられています。すまないが、ロペスさんはちょっとピンボケです。
ピノチェト憲法が廃棄され、司法改革・軍へのシビリアンコントロール確立、基本的人権の保障と独裁政権の徹底的追及を柱とする民主憲法が制定されて、はじめてピノチェト体制が終焉したといえるでしょう。