Memoria y Justicia より
Villa Grimaldi
Center for Detention, Torture and Extermination
はじめに
「ビリャ・グリマルディ」とは、ピノチェト軍事独裁政権の初期に国家情報局(DINA)が保有していた拷問・拘留センターの名前です。最近、このセンターで行われていた残虐行為が明らかにされ、裁判となっています。
これら一連の裁判は、ビリャ・グリマルディ事件として一括されていますが、実際にはビリャ・グリマルディだけではなく、ロンドレス38、ホセ・ドミンゴ・カナス、ベンダ・セクシーなど複数の拷問・拘留センターにかかわるケースを扱っています。
クーデター後にこれらのセンターに収容された人たちは、例外なく拷問を受けました。何人かの人はそのまま行方不明となりました。これらの人たちは失踪者(デサパレシードス、英語でthe Disappeareds)と呼ばれていますが、すべて処刑されたものと思われています。
最初にデサパレシードスの裁判を担当したフアン・グスマン判事は、これらのケースに共通する2つの特徴に気づきました。ひとつはこれらすべての犯罪が、秘密の拘留・拷問センターを舞台に行われたということです。それらはいずれも、1974年から1976年までのあいだに、DINAによって実行されました。
もうひとつの特徴は、多くのデサパレシードスにとって、ビリャ・グリマルディが“生存を目撃された最後の場所”だったということです。(訳者: この表現は、この後何回も出てきます)
ビリャ・グリマルディ入り口の看板
ところで、独裁政府の秘密拘留センターの拘留者のほとんどは、拘留の事実を、公式には決して認められませんでした。「真実と和解委員会」の報告は、軍事独裁の秘密刑務所における拘留のシステムを以下のように述べています:
「これらの施設に拘留された人たちの一部は、投獄され拷問を受けた後、釈放された。しかし他の多くは、そこからさらにどこか他の場所に移動させられた。そして最終的には二、三の例外を除いてことごとく処刑された。処刑されたという事実は、遺体が回収されようと行方不明のままであろうと同じである。
第三のグループの囚人は別の拘留センターへ移動されたが、処刑はされなかった。そこでは拷問は実施されなかったが、彼らは外界から切り離されたままであった。外来者との面接は堅く禁じられた。
あるものはそこから釈放されたが、他のあるものはふたたび秘密の拘留・拷問センターに戻された。若干のものは自由を回復したが、ほかの多くのものは、そのまま行方不明となった」
重要なことは、これらのセンターが対外的には秘密であったとしても、軍事政権そのものにとっては決して秘密でもなんでもなかったことです。最低限にいっても、政府はこれらの機関を財政的に支えていました。少なくとも水道代、電気代と全ての活動経費は政府が支払っていた筈です。
ビリャ・グリマルディの歴史
これまで述べてきたように、秘密の拘留・拷問センターは複数あったのですが、ここでは本論文の目的のために、ビリャ・グリマルディの拘留センターに(別名Cuartel Terranova)に話題を集中したいと思います。
ビリャ・グリマルディはサンチアゴ市郊外、軍のヘリ基地であるTobalaba空港の近くにあります。周辺に人家は少なく、比較的孤立した地帯にありました。
現在は建物はなく、平和記念公園となっている
囚人は、目隠しをされたまま連行されてきました。彼らはビリャ・グリマルディでのすべての拘留期間を通して目隠しをされたままでした。彼らは、ヘリコプターと飛行機の音によって彼ら自身の居場所を定めようとしました。だからすべての囚人にとって、上空を通る飛行機のエンジン音はビリャ・グリマルディの象徴だったのです。
ビリャ・グリマルディの位置は、DINAにとって戦略的に重要でした。ここには首都圏情報部隊(BIM)の作戦本部があった。クーデター決行の日にピノチェトの作戦基地だった遠距離通信連隊は、そこから少し登り道を行ったところです。
ビリャ・グリマルディは、DINAの拷問センターとして最も長い期間にわたり利用された場所です。クーデターから2ヶ月たった1973年11月、この場所は軍隊によって接収されました。それまでそこは学会などが行われる会議場でした。DINAによって使用された全ての建物は、このように軍による強制接収によって確保されました。
当時の所長はペドロ・エスピノサ・ブラボでした。副所長はマルセロ・モレン・ブリトでした。センターにはカウポリカンとプレンという部隊が配属されていました。それぞれの部隊は20名ないし30名のユニットに分けられていました。
プレン部隊は情報組織の構造を持ち、情報を収集、処理、伝達する機能を受け持っていました。指揮官はラウル・イトゥリアガ・ノイマン陸軍少佐でした。カウポリカン旅団の指揮官は、初めにモレン・ブリト、後でミゲル・クラスノフ・マルチェンコが勤めました。カウポリカン部隊はアルコンTとアルコンUの二つのユニットに分かれ、作戦行動および尋問を担当しました。
DINAがこの建物を管理したのは、1976年末までです。DINAはこの年にワシントンで起きたレテリエル暗殺事件を受けて解散されました。それ以後はDINAの後継組織であるCNIが、ビリャ・グリマルディを引き続き使用しました。この間は拘留・拷問センターではなく管理事務のために用いられたといいます。
1987年に、この場所は、あまり合法的とはいえない経過で、CNIの最後の長官ウーゴ・サラス・ウェンツェル(Wenzel)の家族に渡りました。民主化されたチリ政府は、1993年にこれを接収しました。
1989年、最初の独裁後の民主政権が誕生しました。その数ヶ月前、軍は建物をブルドーザーで壊しサラ地にしました。それはサイトの記憶を消そうとする無駄な試みでした。
ビリャ・グリマルディにおける囚人の実態
クーデター直後は、多くの政治犯がナショナル・スタジアムとチリ・スタジアムに集められました。ビクトル・ハラが虐殺されたのもこのときです。
その後ビリャ・グリマルディがサンチァゴ地域で最大の収容所となりました。総計で約5000人の男女がビリャ・グリマルディに拘束されました。中には2,3日だけという人もいたが、多くは数週間、中には数ヶ月収容されたものもありました。
拷問の行われた跡に埋め込まれたプレート
全ての人たちは、型通りに拷問を受けました。
行方不明者の名簿のうち142人が、ビリャ・グリマルディで生きている状態で目撃されています。そしてそれを最後にして、彼らの足跡は消失しています。
最初の期間、ビリャ・グリマルディ秘密拘留センターの目標はMIRの指導部でした。1974年から1975年までに多くのMIR活動家が逮捕され収容されました。このうち一部は処刑されましたが、大多数は他の拘留センター(例えばトレス・アラモス)へ移動されて、結局釈放されました。
この期間の間に処刑された人たちは、以下の通りです。
ルイス・グアハルド・サモラーノとセルヒオ・トルメン・メンデス: 二人はサイクリストでMIRの中堅メンバーでした。1974年7月20日、彼らの経営する自転車店が襲われ、彼らは捕らえられました。グアハルドの逮捕された後代わってMIRの部隊を率いていたホセ・ラミレス・ロサレスも、1週後の1974年7月27日にサンチアゴ市内で逮捕されました。彼らを逮捕したのはDINAの捜査員オスバルド・ロモとバスクライ・サパタでした。
三人は「ロンドレス38」収容所で、その後ビリャ・グリマルディで目撃されています。そして、そこから彼らは行方不明となっています。
ホルヘ・ムレル・シルヴァ: ムレルはMIRの活動家で、「チリ・フィルム」に属する映画製作者でもありました。1974年11月29日、彼はガールフレンドのカルメン・ブエノと共に逮捕されました。それは彼の最初の映画が封切られた翌日のことでした。二人ともビリャ・グリマルディへ連れて行かれたことは明らかです。ムレルが最後に生存を目撃されたのは、もうひとつの収容所クアトロ・アラモスです。
ハイメ・ロボタム・ブラボ: ロボタムは社会学を学ぶ学生でした。1974年12月31日、彼はクラウディオ・タウビ・パチェコと共にサンチアゴの街頭で逮捕されました。二人とも社会党の党員でした。二人は1975年1月にビリャ・グリマルディで最後に生存を目撃されています。
1975年7月11日、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスの近郊で二つの死体が見つかりました。遺体の身元は認識できませんでしたが、そのうちの一人はハイメ・ロボタム名義の身分証明書を身に着けていました。ただしそれは偽造であることが明らかになりました。
その一ヵ月後に、アルゼンチンとブラジルで、雑誌が出所不明の情報をいっせいに報道しました。そこには119人のチリ人のリストが掲載されていました。このリストは一連の暗殺の犠牲者のものであることが明らかになり、「コロンボ作戦」として知られるようになりました。ハイメ・ロボタムの名前もその中にありました。
以下の人は1975年1月に ビリャ・グリマルディで、「生きた状態」で収容されているのが目撃されています。
アグスティン・マルティネス・メサ、パトリシオ・ウルビノ・チャモロ、クラウディオ・コントレーラス・エルナンデス、ミゲル・アンヘル・サンドバル・ロドリゲス、フリオ・フィデル・フロレス・ペレス、ホセ・パトリシオ・デル・カルメン・レオン・ガルベス、ルイス・グレゴリオ・ムニョス・ロドリゲス、ファン・レネ・モリナ・モゴジョネス。
彼らはビリャ・グリマルディへ連れて行かれたあと、そのまま行方不明となりました。全てMIRのメンバーです。
1976年以降、MIRの「清掃」を終えたビリャ・グリマルディの諜報員は、今度は共産党に対してその抑圧装置を集中させるようになりました。共産党に対する抑圧の方法は、それまでのMIRに対するそれとはまったく異なっていました。
1976年以後ビリャ・グリマルディに連れ込まれた人たちは、ほとんどすべて暗殺されました。したがって、証人をほとんど残していません。
1976年5月の初め、地下に潜行していたチリ共産党中央委員会の全メンバーをふくむグループがいっせいに逮捕されました。これはカジェ・コンフェレンシア作戦と呼ばれています。
チリ共産党の記念プレート
このうちビリャ・グリマルディで最後に生存を目撃されている人たちには、以下の人がふくまれています。
マリオ・サモラーノ・ドノソ、レーニン・ディアス・シルバ、マルセロ・コンチャ・バスクナン、セサル・セルダ・クエバス。共産党副書記長のビクトル・ディアス・ロペスはビリャ・グリマルディで最後に目撃されています。
共産党中央委員のひとりマルタ・ウガルテ・ロマンは、1976年8月9日に逮捕されました。数人の証人が、ビリャ・グリマルディで彼女を目撃しています。彼女は拷問の結果なくなりました。彼女の遺体は後にLos Molles村のはずれの海岸で見つかりましたが、その遺体には複数の骨折が発見されました。
1976年7月には、出版・印刷関係の共産党員に弾圧が加えられました。7月の弾圧でビリャ・グリマルディに連行され、その後行方不明となったものに次の人たちがいます。
ギジェルモ・マルティネス・キホン、オスカル・ラモス・ガリード、オスカル・ラモス・ビバンコ、ファン・アウレリオ・ビジャロエル・サラテ。
ヴィセンテ・アテンシオ・コルテスはチリ共産党の中央委員会メンバーで、元国会議員でもありました。彼は1976年8月11日逮捕されて、ビリャ・グリマルディへ連れて行かれたことがあきらかになっています。
元囚人−ビリャ・グリマルディにおける虐待の生き証人
拷問を生き延びた人々は、隠された虐待の事実を語り広めようとしています。彼らは1994年12月10日にパルケ・ポル・ラ・パス(Parque por la Paz)という委員会を創設しました。
(1)ラウル・フローレスの証言: 委員会のメンバーのひとりラウル・フローレスは、1975年12月に拘束され、ビリャ・グリマルディに連行されました。彼は次のように語っています。
ピサグア収容所の事例は、独裁政権が国内に打建てられ、大規模な、広範囲の抑圧という手段を用いた初期のフェーズに一致する。何十万ものひとたちが、恣意的に、無差別に逮捕された。そしてピサグア収容所をはじめ、ナショナル・スタジアム、チリ・スタジアム、チャカブコ捕虜収容所などに拘束された。
軍隊は、抑圧者としての彼らの顔を公然とさらし、その完全な軍編成と臨戦態勢をもって、ピサグアの虐殺と死のキャラバンに参加した。
ビリャ・グリマルディ収容所が活動した時期は、それより後になる。それは次のフェーズ、独裁政権が大衆組織の復活を防ごうとした時期と一致している。その活動の目的は、人民連合を直接担った活動家ではなく、もっと若いリーダーや党員が、あらたに抵抗を再編成しようとするのを防ぐことにあった。
したがってその方針は、「より選択的な抑圧」という性格を持っていた。
では、DINAエージェントはどのように、ビリャ・グリマルディから出て行って行動したのか? 彼らは軍事的にではなく、より政治的に行動した。その行動にあたっては身元を隠し、変名を用いた。
彼らはビリャ・グリマルディの内部においても、より洗練された陰謀的な抑圧方針で臨んだ。それは囚人の隠匿、処刑した人々の遺体の隠蔽をふくんでいる。
(2)ルイス・サンティバニェスの証言: ルイス・サンティバニェスは、2003年までパルケ・ポル・ラ・パス協会の会長を務めました。彼は建築家であり、パルケ・ポル・ラ・パスの建物の設計者のうちの1人でもありました。
残虐行為はピサグアでも行われた。しかし、ビリャ・グリマルディでは残虐行為はひとつのシステムの不可欠な一部となっていた。残虐行為は時たま行われたということでなく、日々のルーチンの行いだった。拷問はその残虐行為のなかのひとつに過ぎない。
ビリャ・グリマルディで行動に加わったのは、軍の将兵ではなく、政府の職員であった。彼らは「米州学校」で正規の拷問訓練を受けてきた、熟練した拷問者であった。
我々は、残虐行為の方法は気まぐれでもなく、激怒や狂気の結果でもないということを知ることになった。それは標準でありルーチンだった。最も印象的だったのは拷問者みずからがそう信じていたということである。彼らは自らの行いはひとつの善行であり、彼らは祖国のためにそれを行うのだと信じていた。
忘却をもたらすために、あるいは自体を直視することを避けるために、安っぽい言い訳がされる。彼らは言う。「誰かは、ちょっと行き過ぎたかも知れない」とか、あるいは「残虐行為は、我々の一部に紛れ込んだ狂人によるおこないであった」などと。
あるものは、「それは人民連合政府によって起こされた社会不安と暴力的雰囲気の結果であった」と責任転嫁する。つまり騒動を巻き起こした人々が悪いということになる。
それらはすべて真実を避けるための安直な弁明だ。真実はそのようなものではない。真実は、ビリャ・グリマルディがちょっとした“行き過ぎ”や一部による“狂気の結果”ではなかったということである。それは、システムであった。
(3)ロドリゴ・デル・ビジャールの証言: ロドリゴ・デル・ビジャールはビリャ・グリマルディで4ヵ月拘束されました。それは1975年1月から始まりました。
ビリャ・グリマルディは、ひとつの実験場所であった。
残虐にも彼らはやり始めた。やつらはよりよく仕事をする方法を学び始めた。拷問が洗練されていたというのは不正確である。拷問は洗練されていなかった。誰かの頭にビニール袋をかぶせることに、どんな意味で“洗練”があるだろうか。
方法はあまりにも単純だった。だから国連の査察官が来たとき、そこで続けられていたことを隠すのは簡単だった。
拷問担当者は自分の身元を隠した。各々の囚人の身元を隠したのと同じように。
主要なことは、そこにおいては囚人がもはや人間ではなかったということである。我々は全てナンバーを与えられた。私はナンバー83であったそして、我々は常にそれらの数によって呼ばれた。決して我々の名前で呼ばれることはなかった。
その意図は、我々から独立した人格を剥ぎ取ることにあった。その狙いは、あなたを簡単に管理できるひとつの物体に変えることにあった。
私は、それが人々をこの世から消去するための方針の一部であったと思う。あなたが数だけの存在であるならば、あなたを消去することは、より簡単であるからである。消去されたのは一人の人格ではない。ひとつのナンバーをつけられた物体なのである。
人間からそのアイデンティティを剥ぎ取ることは、絶滅計画の一部をなしていた。
(原注: このほかビリャ・グリマルディの元囚人による証言、元囚人に関する情報についてはwww.lashistoriasquepodemoscontar.comを参照してください)
ケース報告
ビリャ・グリマルディと関連して80以上の刑事告発が登録されています。これらのうち、45件はデサパレシードスに関するものです。ほかに処刑されたものに関する告発が6件、そして生存している元囚人による告発が47件となっている。13人の検事がこれらのケースを担当しています。
Corporacion Villa Grimaldiのロドリーゴ議長。背後のオブジェは、ゲートから入ったものがさまざまな方向に連れ去られ、失踪していったことを示唆する。
これらの訴訟は、「ビリャ・グリマルディ関連事件」と分類され、ひとつのセットとして扱われています。なぜならサンチアゴ市ペナロレン区にあるビリャ・グリマルディ拘留センターが、彼らの目撃された最後の場所だったからです。デサパレシードスと処刑された囚人は、そこで最後に生きているところを目撃されたからです。
ほかにも「ビリャ・グリマルディ関連事件」のケースを結ぶ二つの共通項があります。
1)この訴訟の原告の大部分は元ミリスタ、つまりMIRの活動家である。
2)被告はすべてDINA諜報員である。そしてその多くはビリャ・グリマルディを根城にして活動していた。
また、これら刑事上の告訴が、すべてアウグスト・ピノチェトを被告に指名していることも共通した特徴です。
原告の大部分がMIRの活動家だという理由は、ビリャ・グリマルディの最初の期間が、MIRが狙い打ちされた期間にあたることで説明されます。また多くの囚人が釈放され、現在も生き残っており、証言が得られやすいことも理由のひとつです。
いっぽう、ビリャ・グリマルディの後半の活動期間、つまり攻撃が主として共産党の指導部に対して向けられた期間は、司法上の確認がはるかに困難です。
この期間、ビリャ・グリマルディに連れてこられた囚人のほとんど全てが殺されてしまいました。残っているのは極めて少ない証人です。このことは、法廷において迫害を証明する上で深刻な障害を示すことになりました。
ネルソン・カウコトの発言: ネルソン・カウコトは、行方不明者の家族に代わって起こされた45以上の訴訟を担当する弁護士です。彼は2002年12月、「記憶と正義」(このページの元となった雑誌)のインタビューに答え、次のように語っています。
「これらの裁判を進行させるための法廷手続きは、あまり系統的とはいえない。
ビリャ・グリマルディから消息を絶った人たちの一部には、“コンドル作戦”にふくまれるケースもある。他に“コロンボ作戦”にふくまれるケースもある。たとえ彼らがビリャ・グリマルディに一時拘留されていたとしても、法手続き上はそちらが優先される。
ある時点で、法廷は全てのケースを体系化することを検討した。しかし、これはまったく不可能であった。
理想的には、訴訟は4つか5つの章立て、例えば「ロンドレス38」関連訴訟、「ホセ・ドミンゴ・カナス」関連訴訟、その他、というように分けた上で、それぞれ一人づつの裁判官の下で整序するべきだったかもしれない。
サンチァゴ上訴裁判所のフアン・グスマン判事は、2001年7月にビリャ・グリマルディ事件の起訴を命じました。これは20人の犠牲者を代表したネルソン・カウコトの嘆願書を基にしています。カウコトの発言は続きます。
誰かがそれを法の下に把握しようとしなければ、いろいろ情報を集めたとしても無意味である。私は、人民連合の活動家の不法な拘束、DINAの拷問・殺害への参加、そしてこれら20人の失踪という三つの事実が、フアン・グスマン判事のこの命令によって証明されたと理解した。
ビリャ・グリマルディ事件は、巨大な裁判である。それは分散した莫大な量の情報の集合体である。それは20年以上のあいだに、何百もの事例で積み上げられている。あなたは、そこにいた全てのエージェント、全ての証人と全ての消え去った人々に関係する報告を目にすることができる。そして、全ての情報が一気にもたらされるとき、“事実”というものに対するあなたの見方は変わるだろう。
事実の追究という点から見ると、この裁判に関する事実は非常に詳しく正確に叙述されていると、私は思う。だから、法廷はフアン・グスマン判事の提出した起訴事実の大部分を支持したのだ。
特別裁判官のアレハンドロ・ソロ判事との共同作業により、我々は最終的に法的証明を獲得した。それはかつて証明は不可能と言われていた内容だった。
我々は、失踪者が存在したこと、これらの人々がビリャ・グリマルディへ投獄されていたということ、DINA諜報員が虐殺に参加した事実、それらの諜報員の特定、そして生存証人がいまも実在していることを法的に証明した。集められた情報の全てが、少なくともこの国においてチリ国民が誘拐され、消滅させられたという事実を法的証明することを可能にする。
神の思し召しで、いつの日か、我々は彼らの居場所を発見できるかもしれない。とても難しいことではあるが。
しかし、連れ去られた人々が今どこにいるかを特定できないとしても、被告たちは有罪判決を下されるだろう。なぜなら、消えられた人がビリャ・グリマルディにいたこと、そして、犯罪がそこで行き止まりになっているということを、我々は証明できるからだ。
遺体を見つけることは、将来の作業でなければならない。
ビリャ・グリマルディで拘留されて後、消えてしまった人たちがいることは、以前から知られていました。そして、それらのケースの多くはすでに告発されてきました。
最初に告発したのは「連帯の会堂」の法律対策部でした。1976年からずっとそこで、ネルソン・カウコトは働いてきたのです。カウコトは最初の人身保護令状と最初の告訴を提出しました。しかし当時は独裁政権の下で、司法は力を失っていました。
そのころ、人権分野で働いている弁護士にとって、職業法律家としての実践は、強い個人の信念と先見性を必要としました。人身保護にかかわるあらゆる権利が、事実上否定されていたからです。
カウコトは、このように述べています:
つねに我々は、ひたすら実務的観点を固持しながら働いた。あなたは、尋ねるかも知れない。何が私に、これらの訴訟に取り組み続ける動機を与えたか、と。
それは裁判所の扉を開けておくためだった。そしていつの日か良い機会が来るのを待つためだった。多分、多くの人々は、そのような時は決して来ないと思っただろう。しかし、私は常に信じた。そのときが必ず来ると。
ビリャ・グリマルディ裁判における、これまでのいくつかの決定的瞬間
裁判における、これまでのいくつかの決定的瞬間を振り返ってみましょう。
2001年7月9日
この日、サンチアゴ控訴裁判所のフアン・グスマン判事が、ビリャ・グリマルディ事件の起訴に踏み切りました。彼の前で秘密の拘留・拷問センターに収容されたことのある70人の元囚人が証言しました。それらはフアン・グスマン判事を納得させました。
これらの調査結果は、グスマン判事に誘拐、第一級謀殺と不法な共同犯罪による起訴をうながしました。それらの犯罪は11人の行方不明者と1人の処刑された政治犯に対して犯されたものでした。
デサパレシードスの名が刻まれた碑
起訴状の中で、彼はこう述べています。
.国家情報司令部(DINA)は、いろいろな秘密の刑務所をサンチァゴ市内および近郊に持っていた。それは例えばロンドレス38、ホセ・ドミンゴ・カナス、ベンダ・セクシー、ビリャ・グリマルディ、クアトロ・アラモスなどである。
これらの場所では、誘拐されてきた囚人は違法な物理的な虐待や拷問を受けた。いくつかのケースでは、これらの囚人に対して謀殺行為が犯された。その後、彼らの遺体は消え、現在まで見つかっていない。
この機関(DINA)は公式な政府の情報部であった。したがって、それは国庫にアクセスすることが可能であり、高度に集中化した行動を行うだけの経済資源を有していた。実際問題として、それは法律の枠外で行動する秘密の国家機関であった。
これらの犯罪で告発される7人の被告は、以下の通りです。
マヌエル・コントレーラス・セプルベダ、ミゲル・クラスノフ・マルチェンコ、マルセロ・モレン・ブリト、バスクライ・サパタ・レイエス、オスバルド・ロモ・メナ、コンラド・パチェコ(トレス・アラモス事件に関わった警察軍退役将校)とペドロ・アルファロ(より位の低い警察軍将校)。
2001年7月26日
ガブリエラ・ペレス・パレーデス判事が、原告側証人に対し一連の反対尋問を始めました。質問の柱となったのは、1975年から1976年のあいだに囚人であった人のうち、誰がDINA諜報員に直接対面したのか、ということでした。
元囚人たちは、彼らを逮捕した者を特定し、彼らが受けた拷問について証言しました。
元DINA諜報員オスバルド・ロモ・メナは、部分的にせよ、逮捕への参加を認めたただ一人の被告でした。しかし、彼は 囚人を拷問したことについては否定しました。同時にそれがクラスノフ、モレンとサパタの仕事であったことを明らかにしました。
ミゲル・クラスノフはDINA諜報員として働いたこと自体を否定しました。彼はたんなる情報分析者として、デスクワークを勤めただけだったと主張しました。彼はまた、判決を不服として上訴したただ一人の被告でもありました。
2001年9月20日
サンチァゴ控訴裁判所の第5小法廷は、起訴内容を修正し、裁判を誘拐罪の容疑に絞り込みました。そして、ウンベルト・メナントー・アセイトゥの殺害とこれにかかわる不法な共謀については、裁判制限(statutes of limitation)を宣告しました。
これと同時に裁判官は、他の11人の行方不明者人の訴訟に関して、判例尊重(res judicata)を適応しないことを決定しました。これは大赦法が適用された過去における判決を無視するという意思表示です。
2002年7月23日
フアン・グスマン判事は、あらたに23人の失踪者に関して、7人の元DINA諜報員に対する起訴状を提出しました。これら23人のデサパレシードスは、1974年から1975年のあいだに逮捕されて、ビリャ・グリマルディで最後に目撃された人たちです。
2002年10月14日
ビリャ・グリマルディ訴訟は、あまりにも膨大な裁判となりました。その結果、フアン・グスマンのかかわる訴訟を再配分するために、裁判はサンチァゴ控訴裁判所に移されました。そしてアレハンドロ・ソリス・ムニョスが担当判事となりました。
2003年4月15日
アレハンドロ・ソリス判事は、DINA前長官とエージェントに対して有罪判決を下しました。それは独裁のあいだに犯された犯罪に対し、チリの裁判の歴史において最初に下された有罪判決でありました。
この裁判は、MIR指導者ミゲル・アンヘル・サンドバル・ロドリゲスが1974年1月7日に逮捕され、秘密の刑務所ビリャ・グリマルディに収容され、その後行方不明となった事件です。
ソリス判事は、DINA前長官のマヌエル・コントレーラス被告に懲役15年を宣告しました。これはコントレーラスにとって、1995年にオルランド・レテリエルの暗殺で7年の判決を受けて以来の有罪判決となります。
ほかに有罪を宣告された4人の元DINAエージェントは、次の通りでした:
マルセロ・モレン・ブリト ― 誘拐の立案者として懲役15年。
ミゲル・クラスノフ・マルチェンコ ―誘拐の立案者として懲役10年。
フェルナンド・ラウリアーニ・マトゥラナ―誘拐の共犯者として懲役5年。
ヘラルド・ゴドイ・ガルシア ―元警察軍将校。誘拐と失踪の共犯者として懲役10年。
ミゲル・アンヘル・サンドバルの名前は、「コロンボ作戦」と呼ばれる弾圧で行方不明となった119人のリストの中に現れて来ます。
「コロンボ作戦」は、チリのほかアルゼンチンとブラジルの軍事独裁政権が加わった虐殺計画でした。それは、「国外亡命した活動家同士が内紛のすえ殺しあった」という筋書きを立てるための段取りでした。
囚人をアルゼンチンとブラジルに運んで殺せば、チリ政府が直接虐殺したという疑いは回避されます。さらに、国外の亡命先でも内ゲバを繰り返す左翼に批判が集中するという目論見です。
当初、チリの人権活動家は、担当裁判官が軍事独裁政権時代に成立した大赦法を適用して、これらの訴訟を棄却するものと見ていました。しかし、この最初の訴訟が結審となったとき、ソリス判事は大赦法律を適用しないと宣言しました。それ自体もまた、チリの裁判史上でランドマークとなるものとして特筆されます。そして最高裁判所も、このケースでソリスの判決を支持する初めての最終的な判断を下しました。