佐藤清利さんは日系ブラジル人。チリ亡命中にアジェンデ政権の幹部としてクーデターを経験した。そして逮捕と虐殺を奇跡的に生き延びた。その講話は、息を呑むほどの迫力だった。
残念ながらテープをとっていなかったので、記憶に頼りながら再現する。文章の責任は筆者にある。

私は三度死を逃れた

チリクーデターと佐藤さんの奇跡


私はサンパウロ大学に入って、まず「解放の神学」の信奉者として活動をスタートさせました。ブラジルに軍事政権ができて、それが抑圧的な態度をとるようになり、学生が抗議運動を強めたとき、私はそれを支持して、みずからも活動に関わるようになりました。
当局の弾圧が私の身におよんだとき、私はチリに脱出して国連のラテンアメリカ経済委員会で仕事をするようになりました。まもなく私は人民連合の活動に飛び込みました。
私は「解放の神学」の信奉者から科学的社会主義の信奉者となり、チリ社会党に入党しました。
そして人民連合政府の顧問となり、1973年9月11日まで、全国各地を政府専用機で飛び回っていました。


9月11日 朝

73年9月

11日、私はサンチアゴにいました。
朝起きたとき、ラジオで「バルパライソで海軍が反乱を起こした」との報道がありました。
クーデターのウワサは以前からあったので、私はただちに予定された集合場所に向かいました。(おそらく午前8時頃と思われる)
私の家はサンチアゴの西側にあり、集合場所は東側なので、車で街の中心部を横切りました。
街の中心を流れるマプーチェ川の橋のたもとで、人が殺されていました。容易ならないことだと思いました。

かねてからの手はずでは、クーデターが起きた場合、市民は武装することになっていました。私は政府の幹部だったので、武器を受け取るために集合場所に向かったのです。
しかし3時間ほど待っても武器は到着しませんでした。そのうち、市内の中心部で爆弾の音がし始めたので、「これ以上待っても無駄だ」と思い、自宅に戻ることにしました。
帰る途中、モネーダの大統領宮殿の裏側を通ったのですが、飛行機が飛んできて爆撃を始めました。それほど大きな飛行機ではありませんでしたが、建物からどす黒い煙が立ち上るのを見て、「もうこれはだめだ」と思いました。

あとで聞きましたが、集合場所で待機していた人々は全員が捕らえられ、殺されたそうです。間一髪でした。
 

午前6時にバルパライソの海軍が反乱を起こし町を制圧.市長とモンテーロ海軍司令官を監禁した。午前7時に空軍部隊がサンチアゴ市内に出動。労働者地域を制圧し活動家を一斉逮捕しはじめた。
午前7時55分にモネダ宮殿のアジェンデ大統領が第一回目の放送。「海軍の一部が反乱を起こした。サンチアゴにおいて軍の異常な動きはない。労働者の皆さんは職場に就き、工場に行き、平静を保ち、注意深く行動してください。そして共和国大統領の呼びかけと指示に従ってください」
午前8時、陸軍が行動開始。ピノチェト派が国防省を占拠。8時20分には国家警察軍のサンチアゴ地区司令官が反乱。
8時30分に「4軍軍事評議会」が大統領の即時辞任を求める声明。「これに従わない場合、陸と空から攻撃される」と警告。
9時20分、アジェンデが最後の演説。自らが犠牲となると宣言。
11時52分、モネダ宮に対し爆撃と砲撃が開始される。佐藤さんが見た黒い煙はこの時のことであろう。

 

私服集団に拉致される

その日の夜、自宅を私服の集団が訪れました。軍でも警察でもなく、いわゆるパラミリタリーだと思います。
彼らは私を車に乗せ目隠ししました。西のほうに向かって走っていったと思います。だんだん街の音が消えて、車の音ばかりになりました。
時間的には、これからアンデスの山の中に入ろうというあたりで、車がとまりました。彼らと誰かが言い合っている声が聞こえました。
おそらく、検問に引っかかったのでしょう。彼らはそこを通過することが出来ず、もと来た道を引き返し始めました。
ふたたび街の音が聞こえてきました。

どこかの建物の前で降ろされ、中に入ったあと、目隠しを外されました。
彼らは地下室に向かう階段を下りるよう命令しました。私は背中に銃口を向けられながら降りていきました。
「殺されるな」と思いました。しかしそのときは殺されませんでした。
地下室に入ると、10人ほどの人が床に座らされていました。
しばらくすると、そのうちの一人が呼び出されて出て行きました。まもなくピストルの発射音がありました。その人は戻ってきませんでした。
次にもう一人が呼び出され、またピストルの音がしました。そうして次々に人々が去っていきました。最後に私が残されました。

 

とっさの大芝居

私は肌の色が違うので特別扱いされたのでしょう。尋問には高級軍人が当たりました。
私はとっさに嘘をつくことを思い浮かびました。これまでついたことのない大嘘です。
「わたしは国連職員だ。経済開発を援助するために派遣されている」
彼は証拠を見せろといいました。私は上着のポケットからECLAのIDカードを出しました。
とたんに彼の態度が変わりました。
「これはとんだ御迷惑をおかけしました。なにぶん混乱しているので間違いを犯したようです。この国にようこそ」
そういって私を解放したのです。まさに混乱しているからこそ、私は一命をとりとめたのです。
ちなみに、この取締官は後にDINA長官として恐れられたコントレーラス将軍でした。

ECLA: 国連の「ラテンアメリカ経済委員会」の略称。スペイン語での略称はCEPALとなります。佐藤さんはチリに来て最初はそこに勤めていました。しかしその後アジェンデの要請でECLAを離れ、政府顧問として働いていました。だからそのIDカードは本当は無効だったのです。
なんとなくそのままとっておいたのが、いざというときに役に立ったのです。

DINA: 国家情報局の略称。ピノチェト直属の陰謀組織で、活動家3千人の大量虐殺を実行し、国外でも元要人の暗殺に関与した。201年7月に最終判決がくだされ、マヌエル・コントレーラス長官は重大殺人の罪で懲役17年の判決を受けた。

 

第二回目のお話

ブラジリア西本願寺の佐藤さんが再び来日された。2週間ほど各地を訪問されて、最後の週末を札幌で過ごされることになった。

やはり、我々の興味はチリ・クーデターのときの体験談。「その後どうやって脱出したのですか?」とか、あのときの証言で、分からなかったことを根掘り葉掘り聞いていると、佐藤さんは突然、「あの話には続きがあるんだ」と言い出した。 「死にかけたのはあれ1回ではない」と佐藤さんは語る。
 

ふたたび死を覚悟する

私が死を覚悟したのは、実は3回ありました。 このあいだお話したのは、その1回目のことです。

あれは11日の夜から、12日の未明にかけてのことでした。その後私は家に戻り、脱出の支度に取り掛かりました。ラジオでは、活動家の多くがサッカー・スタジアムに連行されていると放送していました。

チリ国立競技場: 軍は人民連合の支持者4万人を国立競技場に集めた。米国人チャールズ・ホーマンもここで殺された。ビクトル・ハラが殺されたのは、これとは別のチリスタジアムで、現在はビクトル・ハラ・スタジアムと呼ばれている。

その最中に、警察の家宅捜索があったのです。ドアを開けると、制服の警官がずかずかと入って来ました。11日の連中と違い、警察の手入れですから、家中を捜して、怪しいものがないかどうか探すわけです。

警官の一人が二階に上がっていきました。それを見ていた私は、ハッと気がつきました。二階の書斎の本棚の裏には、チェ・ゲバラの写真が隠してあったのです。 もちろん見つかれば、即スタジアム送りで、その先には死が待ち構えています。

体中から汗が噴き出したのを憶えています。「これで終わりだな」と覚悟を決めました。

 これが2回目に死を覚悟した瞬間です。

やがて、警官が二階から降りてきました。彼は上官に向ってこう報告したのです。「とくに異常ありません」
警官は無表情でしたが、緊張しているのがありありと分かります。「あぁ、この人は人民連合の支持者なんだ」と感じ取りました。

みたび死を覚悟する

その後、私は警察署に連行されました。私は11日にやったのと同じように、国連職員であると申告して釈放を訴えました。結局私は署長の直接尋問を受けることになりました。

この人物は、国連職員というのを信用しているようには見えませんでしたが、面倒も好まない様子でした。 「お前は相当厄介なやつみたいだ。いつまで国内に留まるつもりだ。とっとと出て行け」、と言い捨てると、私を釈放しました。

私には妻と二人の子供がいました。クーデターの前から情勢が不穏になっていたので、ブラジルの母親が来て子供たちをアルゼンチンに連れて行きました。残るのは妻と二人だけです。

それに1960年に買ったおんぼろのフォルクスワーゲン。これはブラジルから脱出するときにも乗っていた車です。

翌日、私は出国カードを発行してもらうために役所に出頭しました。身分証を提示して待っていると、係官に呼ばれました。係官はわたしの顔を見ると、手元の書類と照合しました。そして、「出国カードは発行できない」といいました。

私は、「署長に出て行けといわれたんだ。早く発行してくれ」とせっつきました。係官はわたしの顔を見て、「だめだ。お前の名はリストに上がっている」と首を振ると、その書類を見せました。

そのリストは「要注意外国人」の一覧表でした。その上から二番目の欄に私の名がしっかり書き込まれていました。

 やがて兵士がやってきて、私を拘束しました。そして留置場に連れて行こうとしました。

これが3回目に死を覚悟した瞬間です。

鉄格子の前まで来たとき、なんと目の前をあの署長が歩いてくるではありませんか。私は思わず叫びました。「署長さん、私に出て行けと言ったのを憶えていますね」

署長は私の顔をしばらく眺めていました。そのあと、部下に向って「出国カードを渡せ」と命じました。そして再び私のほうを向いて「とっとと出て行け」と言いました。

アンデスを越える

 私と妻は、フォルクスワーゲンに積めるだけの物を積んで、サンチアゴを出発しました。あとは車がアンデスを越えられるかどうかです。

ウスパヤタ峠: ベルメホ峠ともいう。南米最高峰アコンカグア(6962メートル)の南麓でアンデスを越える。標高3810メートルで富士山より高い。9月は初春、吹雪けば交通止めになる難所です。
かつてチリの解放者サン・マルティンが3週間かけてこの峠を越えたが、現在はサンチアゴから九十九折を登って7時間ほど。

14 年走り続けたフォルクスワーゲンは健気に峠を越えました。トンネルを抜け、検問所を通過してチリの方向を振り返ったとき、突然ひざが震え始めました。その 震えはどんどんひどくなり、立っていられないほどでした。体中が震え始めました。その瞬間のことは今も、切り取ったように鮮やかに憶えています。

                                    ウスパヤタ峠

峠を越えた私たちは、アルゼンチン領のメンドサという町に着きました。

 当 時、アルゼンチンはペロン大統領の時代で、ここに腰を落ち着けることも考えたのですが、アルゼンチンでも情勢は徐々にきな臭くなっていました。一方、ブラ ジルではガイゼルが大統領になってかなり弾圧が緩和され、おとなしくしている限りは安全らしいという情報が入ってきました。

そこで思い切ってサンパウロに戻ることにしたのです。

 サンパウロで1年余り息を潜めて生活していましたが、それでは暮らしていけません。バイアのサルバドルで役所の非常勤職員の口があるといわれ、そちらに移ることにしました。それが1976年のことです。

それからの話はまた別にあるのですが、一つだけ。

 実はサルバドルでもつかまっているのです。78年に労働者を組織していて摘発されたのです。

このときは本格的に拷問を受けました。まず床の上に跪かされました。つぎに角材を膝の裏におかれ、正座を強要されるのです。

拷問する側にとっては手間もかからず、外傷の後も残らないという近代的な拷問です。これでメンバーの名を吐けということになります。

 今でも膝は痛くて、正座はできません。お坊さんが正座できないんじゃ話しになりませんが、仕方ありません。

 


最後に

私はブラジルに戻った後、秘密活動にも関わり、ブラジル労働党(PT)の創立メンバーのひとりとなりました。

しかし、労働党の活動家の、あまりにも労働者的な活動スタイルと感覚的に“ずれ”を感じるようになり、運動野から離れたのです。そのときの私にとって、仏教は逃避するための口実だったかもしれません。

しかし、1年前にブラジルで開かれた世界社会フォーラムで殿平さんと出会い、日本に来ることができて、いろいろ学びました。その中で、もう一度社会実践に取り組まなくてはならないと教えられました。

仏教は、社会実践から逃れる場ではなく、社会実践と取り組む場なのだと感じるようになりました。

ブラジルに帰ってからもう一度考えを整理して、実践的仏教徒として再出発したいと考えています

 


 

チリ・クーデターについての若干の解説

1.チリの革新の伝統

チリ・クーデターをリアルタイムで知っている人は60歳以上でしょう。

佐藤さんの話はものすごい迫力ですが、知らない人にはちょっとわかりにくいかも知れません。若干解説しておきましょう。

チリは太平洋を挟んで日本の向かい側の国です。日本では地震や津波の関係でおなじみです。

南北に細長い国で、羽を取ったトンボのような形をしています。トンボの胸の部分は砂漠地帯ですが、銅の鉱山があり、産業の中心となっています。尻尾の方は南極に近く寒いところです。その中間が農業地帯となっており、首都サンチアゴなど人口が集中しています。

19世紀の末から銅や硝石を中心に産業が発達し、労働者の割合が比較的高くなっています。また教育程度が高く労働運動も盛んで、左翼勢力も強いところです。

2.人民連合政府の誕生

69年の大統領選挙では社会党・共産党・労働組合を中心に「人民連合」が結成され、サルバドール・アジェンデ(医師)が大統領に当選しました。

今でこそ、ラテンアメリカでは左翼政権が当たり前になっていますが、選挙で左翼が政権を獲得するのは第二次大戦後では初めてのことでした。

キューバのカストロ政権を潰そうとしてきたアメリカは、第二のキューバがアメリカ大陸に登場するのを許すことが出来ませんでした。

当時のキッシンジャー国務長官をトップにアジェンデ政権転覆計画が立てられ、さまざまな破壊活動が行われたのですが、いずれも民衆の抵抗により失敗に終わりました。

これらの計画は、今では秘密文書が公開され、かなり細部まで明らかになっています。

人民連合政権は、これらの策動を打ち破りながら、民衆のための政策を推し進めてゆきます。佐藤さんはその計画の策定や実施に関わったのです。

73年に入ると人民連合政権に対する反対活動はますます盛んになります。しかしチリの軍部は立憲主義の立場を堅持しました。

「別に左翼が好きではないが、憲法を守り、合法的に選ばれた政府の支持には従う」というのが軍の基本的立場でした。

そこでアメリカと結びついた軍の右派は、政府を倒す前にまず軍の立憲派を追い出そうとしたのです。

その中心となったのが陸軍司令官のアウグスト・ピノチェトです。彼は忠実な立憲派のふりをしながら、陰に回って右派を組織しました。もちろんアメリカがそれを支援したのです。

3.9月11日・クーデターの開始

アジェンデは、クーデターの危険は予想していたものの、ピノチェトがその中心だとは気づかなかったようです。

しかし大統領宮殿が戦車により包囲され、その指揮官がピノチェトであるとわかった時、アジェンデは死を覚悟したものと思われます。

午後2時ころ、軍は大統領宮殿に突入。アジェンデは自ら手にした銃で自殺しました。

ここまでなら普通の軍事クーデターです。ここからがチリの特別な展開になっていきます。

ピノチェトは左翼の絶滅作戦を展開するのです。そして恐怖政治を敷きすべての権力を自らの手に集中していくのです。そのためのピノチェト直属の機関が国家情報局(DINA)であり、その長がコントレーラスです。

その後の3ヶ月で1200人が殺されました。(以下犠牲者の数は推定であり、確実ではない。アムネスティは4万人が虐殺され,10万人が逮捕,拷問を受けたとしているが、この数字は誇大である)

11日朝からすでに左翼刈りが始まっており、国立サッカー場(7千人)などが臨時収容所となりました。ここでは、火を押しつける,電気ショック,性的暴行,排泄物を食べることの強制,凍った水中へ投げ込ま れ,日光のもとで裸で長時間立ち続けさせるなどの拷問が行われたことが確認されています。

それ以外にも至るところで多くの人が殺されました。

クーデター後数日の間に市長6人,知事4人,市会議員16人,国会議員2人が殺害もしくは行方不明となりました.ほかに人民連合幹部31人,地域組織指導者140人,政府高級幹部30人が殺害されています.こちらは後に「誠実と和解委員会」が報告した数字ですから確実なものです。

殺されたのは左翼政党の活動家ばかりではありません。聖職者の多くも犠牲となりました。アルシナ司祭は病院の事務長を務めていましたが、警察軍に連行されました。後に彼の死体がマポチョ河畔で発見されましたが、体中に拷問の跡があり、背中には10発の弾丸 が撃ち込まれていました.

裁判所の対応がひどいものでした。最高裁長官エンリケ・ウルティア・マンサノがみずから、クーデターを支持するとの声明を発表します.トップがこうですから、裁判所は人身保護令状の発行の訴えをことごとく棄却していきます。

想像もできないことですが、裁判所が大量虐殺を奨励したのです。これで勢いを得たピノチェト派は、本格的に活動家の抹殺作戦を開始しました。

4.大虐殺作戦の始まり

16日には労働者街への一斉摘発が始まりました。下の写真は射殺された労働者に奥さんが取りすがっている場面の隠し撮りです。

この日、ビクトル・ハラもチリ・スタジアムで虐殺されました

南部のオソルノでは右翼の「自警団」により13人が殺されました。警察は活動家を逮捕した後、自警団に引き渡しました。彼らは橋の上まで13人を連れて行って、射殺した後河に投げ込みました。

ロス・アンヘレスでは製紙工場の労組活動家ら19人が軍隊に連行された後行方不明となっています.パイネの農園では労働者18人が連行されました。数年後に無名墓地から射殺された遺体が発見されています。

労働運動の中央指導者200名が逮捕されました。この内16人は殺害されました。軍事政権により逮捕された労働者のうち消息不明のものは2800人に上るとニューズウィークが報道しています。

パブロ・ネルーダはノーベル文学賞を受賞したチリを代表する詩人です。共産党員でもあったネルーダは心臓病で療養中でした。病状が悪化して救急車で搬送中、軍につかまり、死ぬまで放置されました。

チリのカトリック教会の最高指導者であるエンリケ・シルバ大司教の家も襲撃を受けます。

 

この後延々と虐殺の記録は続くのですが、こういう状況の中で佐藤さんが逃れることが出来たのは、まさに奇跡というほかありません。