コロンビアにおけるゲリラ闘争の歴史

 

コロンビア民族解放軍(ELN)情報部

この文章は,インターネットでELNのホームページから拾ってきたものです.もう2〜3年前のものですが,ゲリラ闘争の歴史を比較的要領よくまとめてあり,ELNのセクト主義を露骨に打ち出しているわけでもなく,読みやすい文章です.

2000年10月 翻訳

 

 

はじめに

コロンビアにおけるゲリラは左翼の占有物ではない.それは左翼が生まれるよりはるかに昔から,力を持った金持ち階級に対する下層階級の回答だった.

植民地時代から,抵抗と反乱はつねに流血により押し倒されてきた.ガブリエル・ガルシア・マルケスの「百年の孤独」を読んだものなら,19世紀を通じて抑圧の歴史と十指にあまる内戦が,絶え間なく続いてきたことを知っているだろう.

これらの戦争は,公式には,二つの政党=保守党と自由党の抗争として歴史上の出来事とされている.しかし,それらの戦争は社会的不公正の結果発生したのである.そして,二つの政党の指導者たちは,戦争を通じて下層階級の犠牲の上に自らを肥え太らせたのである.

つまり社会対立の表現としての武装闘争こそは,この国のゲリラ組織の源流となっているのである.

 

内戦の時代 (1948-53)

「千日戦争」(1897-1899)の次には弾圧の時代がやってきた.1920年代,組合活動家,原住民の代表が野蛮に弾圧された.1928年には,バナナの多国籍企業ユナイテッド・フルーツ社が,ストライキに参加した労働者数百人を虐殺した.彼らは組合代表として団交の席に臨んだところを射殺されたのである.

1948年,自由党左派の大衆政治家ホルヘ・エリシエルがオリガルキーの指令により殺害された.当時エリシエルは,よりよい生活を望む数百万のコロンビア人のため努力すると公約していた.その事件はいわゆる「ビオレンシア」 (1948-53) へとつながっていった.この内戦はすくなくとも20万人の命を奪った.「ビオレンシア」は例によって自由党と保守党の抗争という形をとったが,事実は地方の農民と地主階級との闘いだった.

「ビオレンシア」はコロンビアの歴史の中で,一つの転換点でもあった.独立派の農民グループは,これらの抗争から離れて権力のテロから自らを守ろうとした.彼らは今日におけるコロンビア・ゲリラ闘争の最初の核となった.

保守党,自由党の指導者は50年代の終わりに協定を結び,国民戦線を作った.国民戦線といっても,両党が4年ごとに交代で大統領と閣僚を務めるというだけの欺瞞的なものである.和平が成立した後も,農民グループの幾つかは武器を捨てようとはしなかった.

自由党と保守党が政権をたらいまわしする間も,下層階級の抵抗は絶え間なく起こった.地方では,権力は自らの力で組織された農民たちの手にあった.彼らはいわゆる「独立共和国」を創設した.

 

ゲリラ闘争の開始

1960年代初め,国民戦線とオリガルキーに対する広範な大衆運動が発展した.それは「人民統一戦線」(FUP)と呼ばれた.この運動を率いていたのは革命的神父,カミロ・トーレスだった.数万の労働者,スラム街の住民,学生や農民が社会的不正義と非民主的な二大政党制に抗議して立ち上がった.

独立共和党と人民統一戦線はオリガルキーの攻撃の的となった.マルケタリア(Marquetalia)の農民共和国は,1964年までに,軍の手により消滅させられた.カミロ・トーレスは死の脅迫を受けて地下に潜まなくてはならなくなった.彼の潜行先は,ELNが活動を開始したばかりの地域だった.

現在につながる二つのゲリラ組織が発足したのは1964年のことだった.直接にはマルケタリアの虐殺に呼応する形で,共産党の影響を受けた二つの農民組織が「コロンビア革命武装勢力」(FARC)と人民軍 (FARC-EP)を創設した.

同じ頃,キューバ革命の影響を受けた別のグループがサンタンデル州の農村を根拠地として活動をはじめた.その組織は民族解放軍 (ELN)と名乗った.ELNはチェ・ゲバラの戦略を規範とし,カミロ・トーレス神父が戦列に加わったことで,広範な共感を勝ちとった.カミロ・トーレス神父は,1966年2月15日,最初の戦闘で命を失った.

1967年,国際共産主義運動のソ連派と中国派への分裂を受けて,第三のゲリラ組織が生まれた.毛沢東主義者の人民解放軍(FPL)である.この組織は主として国の北の部分に影響を広げた.

 

コロンビアは農民ゲリラだけ?

これら三つのグループは,いずれも地方で活動を展開した.このことはコロンビアの戦いを理解する上で大事な要素である.農村ゲリラの戦略をとったことが,都市での拠点作りを妨げる結果となったのではないかという声が,しばしば聞かれる.武装組織は地方では大きな影響力を発揮し,時には統治することができたのに,都市での闘いにおいてはほとんど何も影響力をもたなかったというのだ.

この批判はある程度あたっている.しかし都市での非合法活動がいかに困難だったかを忘れてはいけない.都市での弾圧は,地方に比べればはるかに厳しい.そのような条件のもとでも,ゲリラたちは都市においてさまざまな行動を成し遂げてきた.

 

1984年の停戦に至るゲリラ活動の展開

1970年代,さらに多くのゲリラ組織が結成された.それらの多くは政治的プログラムにおいても,作戦形態においても,既存の組織とはまったくことにしていた.その中で最も重要なのが「4月19日運動」(M19)である.M19はその華々しい作戦によって,また大都市を舞台とするゲリラであることから,たちまち海外にも名前が知られるようになった.彼らの作戦としては,たとえば1980年,ボゴタのドミニカ大使館占拠が挙げられる.

それぞれの組織における何回もの分裂と内部危機にもかかわらず,1970年代末には,ゲリラは政府にとって容易ならない脅威となった.1977年の大規模なゼネストは,政権に対する人民の不満の宣言であった.トゥルバイ・アヤラ大統領(1978-82) は,これに新たな弾圧の嵐で応えた.「反テロリスト法」が制定された.公安警察は政敵を「行方不明」にし始めた.留置場における拷問は日常茶飯事となった.

しかし予想外にも,抵抗はコロンビア全土に拡大した.その頃,体制との戦いを引っ張っていったのはM19だった.M19は南部で農民軍を組織し結合させた.特にカケタ州での活動は目覚しく,いくつかの重要都市を事実上支配下に置くほどだった.

1982年に登場したベリサリオ・ベタンクールの保守党政権は,ゲリラの力が増大することの危険を認識していた.ニカラグア革命は若々しい力を発揮していた.エルサルバドルでは,ゲリラの戦いが発展し,すでに内戦状態に移行していた.

ベタンクールはコロンビアの革命運動の沈静化に懸命に取り組んだ.彼はきわめてリスクの高いプロジェクトを提起した.ゲリラ兵士を含む政治犯に対する大赦が効力を発し,武装組織との直接対話が提案された.

彼は,実際にゲリラ組織の更なる分裂に成功した.1984年,FARC,M19,EPLは停戦に同意した.しかしELN他二つの組織は政府提案を拒否した.ELNは政府の提案は反対派をおとなしくさせることだけが目的と見ていた.

 

大衆的抗議運動の成長

それは激動の時代だった.80年代半ばに新しい大衆運動が巻き起こった.労働者,キリスト教者,フェミニスト,黒人,先住民,そしてスラム住民が街頭を埋め尽くし占拠したのである.

いくつかの反体制派の合法政党も現れた.社会主義者,共産主義者,FARCのゲリラ達などが「愛国同盟」(UP)を結成した.EPLのシンパたちは人民戦線を結成して地方選挙に出馬した.大衆運動の最急進派は「闘いへ!」という政治運動を創設した.

ベタンクール政権は,二つのゲームを同時に演じた.世界の民衆の前では「対話する政府」の役を演じた.その一方ではパラミリタリーの組織作りを促進した.

1984年,反対派に対する「汚い戦争」が開始された.軍隊,秘密警察,大地主,麻薬カルテルの連合は,数百にのぼるパラミリタリー組織を立ち上げた.パラミリタリーは中米諸国の「死の軍団」とは異なっている.パラミリタリーの目標は,政治的なライバルの暗殺や,ゲリラ同調者の虐殺にとどまらない.彼らの目標は国土を支配することにある.

今日,パラミリタリーは十指を越える地域で毎日の生活を支配している.とくにマグダレーナ・メディオ州(国土のほぼ中央)のプエルト・ボヤカ地区,コルドバ州(大西洋岸)の農村地帯などは,あたかも右翼の「独立共和国」の様相を呈している.

「汚い戦争」こそは政府の戦略

1985年,まだ停戦が有効だった年に,M19とEPLの政治指導者が数人殺害された.パラミリタリーは愛国同盟の大統領候補だったハイメ・ペドロ・レアルを射殺した.同時に,軍隊は協定を破り,ゲリラの基地を襲った.紛争地域では労組活動家,農民活動家が無差別に殺害された.

結局,愛国同盟は1984年以降に幹部・活動家2千名を殺された.すべてひっくるめて約3万の殺人事件がパラミリタリーの仕業といわれている.犠牲者は政治的な敵対者にとどまらない.ホモ,売春婦,犯罪者,浮浪児などさまざまである.

次第に明らかになってきたのは,パラミリタリーによる重要な虐殺事件の多くは,軍隊の直接の指示によるものだということである.人権グループによる調査だけではなく,コロンビア司法当局さえも,ヘスス・ヒル・コロラド将軍(1994年まで陸軍司令官)とファルーク・ジャニネ・ディアス将軍(元師団長,その後ワシントンの米州防衛問題学校教官)を告発している.

最悪なのは,「汚い戦争」の責任者が完全な自由を享受し,罪を免れていることである.海外からの圧力がなければ,現在司法当局によって行われている,この上ない生ぬるい捜査さえも行われなかったろう.これまで人権侵害と戦争犯罪の罪を問われた将軍はただ一人,ヘスス・ヒル・コロラド将軍のみである.彼は1994年,メタ州ビリャ・ベセンシオでFARCによって暗殺(処刑)された.

こういうと野蛮に聞こえるかもしれない.しかしこれが事実なのである.もしゲリラがやらなければ,将軍たちは彼らの罪に対する罰を恐れなくなってしまうだろう.

 

1987年:ゲリラ連合「シモン・ボリーバル」の創設

「汚い戦争」と軍隊による襲撃は,ついに「和平プロセス」に終わりをもたらした.M19とEPLは1年にわたる停戦後,ふたたび軍事作戦に取りかかった.この国を民主化するためのいかなる誠意ある態度にも,彼らは対面できなかったからである.

1985年,「全国ゲリラ連合」(National Guerilla Coordination)が創設された.主要部隊はM19,EPL,ELNの三つだった.当時まだFARCは平和的闘争の可能性を捨てていなかった.1987年,FARCが武装闘争に復帰し,連合に加わった.連合はゲリラ連合「シモン・ボリーバル」(GCSB)」と名を改めた.

1980年代に社会問題の多くが解決できなかった結果,武装闘争は全土に拡大された.ELNは80年代初めに四つの戦線を持っていたが,1990年にはそれが30を超えるまでになった.同様のことがFARCにも言える.もっともFARCは,80年代とはまったく異なる,攻勢的な戦略で闘っていることに注意しなければならない.

いまやゲリラは国土のいたる地域で,無視し得ない勢力となっている.

 

M19の武装解除と無力化

1980年代後半,大衆運動は「汚い戦争」の結果退潮した.そして社会主義諸国の崩壊がそれに拍車をかけた.ゲリラ運動はその量的成長にもかかわらず,一つの危機を迎えた.とくにM19は,80年代後半の5年間,著しく弱体化した.主要な指導者の大多数が逮捕され,あるいは殺された.その結果彼らは政府との交渉を求めた.

1991年,M19は武装解除し,政党に姿を変えた.「M19民主同盟」(EME)である.最初に参加した選挙で彼らの得票は10%強に達した.それがM19の持っている軍事的力の反映ではないことははっきりしている.しかし選挙結果が与えた政治的影響は大きかった.それはコロンビアのゲリラ勢力に一つの危機をもたらした.

EMEは国際的な知名度が極めて高く,大都市に多くの協調者を持っている.しかし彼らの主張には一つの大きなフィクションがあったが明らかになってきた.「武装解除は社会的正義をもたらすことができる」というフィクションである.

今ならこう言える.M19の和平プロセスはオリガルキーによる一大でっち上げ劇であると.カルロス・ピサロ・レオン・ゴメスは当時,M19の最も重要な指導者だった.後に彼はM19の大統領候補となるが,合法生活に復帰してまもなく暗殺されてしまう.政府が彼の人気を恐れたためである.

貧困者の生活条件を改善するような抜本的社会改革は何一つなされなかった.M19が合法化された後も,人権状況は何ら変わらなかった.今までと同じように,「汚い戦争」は反対派に対する全国共通の政策である.

しかし1990年,M19の戦略は,依然確信に満ちたものだった.二つの小さなゲリラ組織が自ら武装解除した.EPLは二つの派に分裂した.ゲリラ組織の間には恐ろしい腐食症状が現れ始めた.武装解除したEPLの一部は大西洋岸のウラバでパラミリタリーのために働き始めた.他の戦士は犯罪者となった.

事態の悪化の原因は,ゲリラ指導部が武装解除に代わる真の代替案を提示できなかったことにある.そこには権威主義的な組織構造と政治的訓練の欠除,そして無展望という致命的な欠陥があった.少なくとも今日,はっきりしていることは,諸組織が自己批判的に経過を総括し,教訓としなければならないということである.

 

正義なくして平和なし

これらの問題すべてをひっくるめてGCSBの中心は,依然として軍事的活動を続けている.中心を構成するのはFARC,ELN,そしてEPLの少数派である.もちろんGCSBは政府との対話を否定していない.

1991年,GCSBは政府と数多くの交渉を重ねた.しかしこれらの交渉は1993年,ガビリア政府によって一方的に打ち切られた.M19との「和平プロセス」に反対したGCSBは,武装闘争は暴力の原因ではなく結果に過ぎないと主張している.すなわち,「暴力の源泉は社会的な不正義と大衆運動に対するオリガルキーのテロにあり,その限りにおいて武装グループの行動は適法的な抵抗形態である」とするものである.

このような条件のもとではゲリラの武装解除は意味をなさない.この国を平和へと導く唯一の道は,根本的な民主化,弾圧の禁止,「汚い戦争」の責任者の処罰,そして国民の多数を占める貧困者の立場に立った社会・経済政策の実施以外にない.

ボゴタ国立大学の政治学教授エドゥアルド・ピサロは,最近の研究の中でこう言っている.「軍とゲリラとの戦闘で犠牲になった人数はごく少数である.大半の死者は「汚い戦争」の犠牲者である.彼らの名目は「社会的排除」であり,犯罪の抑止である.しかし犯罪というのは,結局は貧困の結果でしかない」

 

それでも,ゲリラは力を増してきた

今日,コロンビアのゲリラはかつてなく強力である.なぜなら権力の弾圧がかつてなく厳しいからである.今日,コロンビアでは合法的な政治活動の機会は皆無に近い.労組活動家,キリスト者,学生,スラムの住民…もし彼らが政府に反対するような活動をはじめれば,そのすべてが死の脅迫の対象者となる.悲しいが,これが事実なのだ.コロンビアで政治的反対者となれば,彼にとっていちばん安全な場所は熱帯雨林の中だ.すなわちゲリラの根拠地である.

GCSBの各組織は状況の打開に向けて準備をつんでいる.政府情報によれば,ゲリラは全国約1,000の自治体のうち500個所で活動している.ゲリラは都市にも接近しつつある.ボゴタ,カリ,メデジンの近郊にもゲリラの基地が作られている.ボゴタでは貧困者地域にゲリラの民兵組織が作られ,FARCは彼らの支援を受けて作戦を展開している.

地方では,ゲリラが官庁の代わりを務めている.ゲリラは税金を管理し,町村長の業務に統制を加えている.それまでは政府に忘れ去られたような辺鄙な地方でのみ,このような体制が作りあげられてきた.しかし今は違う.

さまざまな困難にもかかわらず,ゲリラは効果的かつ誠実に行政実務をこなしている.腐敗はより少なく,貧困者のための社会投資はより多い.その実績はコロンビアの支配階級以上のものといってよい.

全国的な反乱は,それ自体が新たな権力を生み出しつつある.それは政府に取って代わるものであり,政府が望んでいる「流血の平和」を防ぐための軍事力である.武装行動は誰にも否定できない適法的な手段である.そしてそれは成長しつづけている.なぜなら,まさに武装抵抗こそが,貧しい大多数の国民に日々加えられる暴力を,一日も早く終わらせたいという希望に根ざしているからである.